Page:Doitsu nikki(diary in Germany).pdf/19

提供:Wikisource
このページは検証済みです

その敢えてせざる所以の者は二あり。曰余は近ろ一顯微鏡を購求す。器械の精良なる、以て人に誇示す可し。然れども其價も亦廉ならず。約五百麻 (百二十五圓) を費せり。亦贅澤なる遊を爲すことを欲せず。曰獨乙大十二軍圑 (薩索尼軍圑) の秋季演習は今二十七日に始り、九月中旬に終る。余曾て伯林に赴き、公使に請ふにこれに參與することを以てす。其成否は未だ詳ならずと雖、漫りに遠遊すべきにあらず。夜榊及フオオゲル氏、ルチウス氏と俱に全視畫舘 Panorama 及キツチングヘルビヒ Kitzing und Helbig の酒店に至る。

二十四日。夜榊等と俱に米飯を炊ぎ食す。

二十五日。榊伯林に還る。ホフマン師及ウユルツレルと試驗室に相見る。ウユルツレルは此日午後避暑の遊より歸れるなり。夜佐方と德停客舘 Hôtel zu Stadt Dresden に至る。隣席に一獨逸人あり。自ら云ふ。余はベンシユ Johannes Baensch-Drugulin と稱す。印刷を以て業と爲す。近ごろ一藥店の爲に支那文もて記したる票文を刻したりと。余の曰く。何の藥ぞ。曰く。珊䔍尼なり。余笑いて曰く。是れ余の譯する所なり。ベンシユ曰く。然らば君は支那人か。曰く。否余は日本の軍醫なり。而して支那文を能くす。日本の語は支那の語と毫も相類する所なし。日本人は唯ゞ支那の文字を借るのみ。現時羅馬字會といふもの起こる。又文字を西歐に借らんとす。日本人は未だ必ずしも支那文を能くせず。藥賈の余に邂逅せしは偶然のみと。

二十六日。夜、薩索尼國兵部鄕王の允可を經て予に演習に參與することを命ず。乃ち行李を理め、出發の準備を爲す。

二十七日。晴、午前十一時廿五分德停々車塲 Dresdner Bahnhof に至り來責を發す。是より先き二十六日午後五時兵部省の書至る。出發時期の翌日午前六時なるを見る。行李を聯隊に輸送するに暇あらず。故に十一時廿五分滊車に上りてマツヘルン Machern に赴き、大隊と會することゝしたり。十二時マツヘルンに着す。獨逸の村落は今まで見たることなき故、いと珍らかなる心地せり。ウユルツレルの兵僕停車塲に迎ふ。乃ち僕をして行李を荷はしめ、宿舍 Quartier に至る。我宿舍はパウル、スネツトゲル Paul Snetger の城居なり。破石門より苑に入る。