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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/44

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稱せしよし、名のドウと云るは蠻語露の事なるよし、後に文字を塡めて道有と認しとぞ、今の官醫栗崎君なるや、又別家の栗崎なるや詳なる事は知らざるなり、吉田流、楢林流など云るは、阿蘭陀通詞にて、彼方法を學び一門戶を開きしなり、

○桂川家の事は、今の代より五世の祖甫筑先生と申せしは、文廟未だ藩邸におはせし時、召出されし御外科なり、其師家は平戶侯の醫師にて、嵐山甫安と申たるよしなり、此甫安は、其侯より出島在館の阿蘭陀外科に御託し置れて、親しく學ばせ給ひしとなり、此御家は、平戶へ入津以來彼國の事は、譯品有て御親しみ御自由なる事のよし、又其時代は今日の如くにもなかりしにや、甫筑君其頃幼若にて門人となり、醫に附添て出島へ時々參られしが、專ら嵐山の流法を傳へ給ひしとなり、阿蘭陀の外科は、ダンネル、アルマンスといふ人ときけり、桂川もとは大和の國の人にて、森島氏なりしが、嵐山の流を汲むといふ意にて、家苗を桂川と改め給ふとなり、今の桂川君の御祖父甫三と申せしは、翁若かりし時常に交厚かりし御人なりし故、此事語り給へるを聞置き侍りぬ、これを世に桂川流と稱しぬる事なり、

また古來カスパル流といふ外科有り、これは寬永二十年、南部山田浦へ漂流ありし阿蘭船の人數の內、江戶へ召呼れたる中、カスパル某といふ外科あり、三四年留置れ、其療法を學せられし者もありしが、追々長崎へ御送りのよし、江戶幷に長崎にても、正保の頃此カスパルより傳來の療方ありしを、詳なる事を知ずとも、後にカスパル流と唱ふる事と申す事にや、又別にカスパル姓の外科渡來の事もありしか、此他長崎にて吉雄流など云へるは、其後渡來の蘭人より傳へ得たる療方も有て、吉雄流とも申せり、其諸家の傳書といふ者共を見るに、みな膏藥の法のみにて委しき事なし、斯の如き類にて備らざる事のみなれども、其事業は漢土の外科には大に勝り、又本邦の古へより傳りたる外治には、大に勝れりといふべき歟、其中に翁が見たる楢林家の金瘡の書と云ふものあり、其中に人身中にセイメンといへるものあり、これは生命にあづかる大切のものなりと記せり、今を以て見れば、是れセーニユーにして、神經と義譯せしものと思はる、わづかな