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起りしを、國初以來甚だ嚴禁なし給へりと見えたり、これ世に知る處なり、其邪敎の事は知らざる事なれば論なし、但し其頃の船に乘來りし醫者の傳來を受たる外科の流法は、世に殘るも有り、これ世に南蠻流とは云ふなり、其前後より阿蘭陀船に御免有て、肥前平戶へ船を寄せぬ、異船御禁止にありし頃も、此國は其黨類には非る次第ありて、引續き渡來を許させ給へり、夫より三十三ヶ年目にて、長崎出島の南蠻人逐ひ拂はれて、其跡へ居を移せしよし、夫よりは年々長崎の津に船を來す事とはなりぬ、これは寬永十八年の事なるよし、其後其船に隨從し來れる醫師に、亦彼の外治の療法の傳へし者も多しとなり、これを阿蘭陀流外科とは稱するなり、是れ固より橫文字の書籍を讀て習ひ覺し事にも非ず、只其手術を見習ひ、其藥方を聞書留たる迄なり、尤もこなたになき所の藥品多ければ、代藥がちにてぞ病者を取扱ひし事と知らる、

○其頃西流と云ふ外科の一家出來たり、此家は其初南蠻船の通詞西吉兵衞と云る者にて、彼國の醫術を傳へ人に施せしが、其船の入津禁止せられて後、また阿蘭陀通詞となり、其國の醫術も傳り、此南蠻阿蘭陀兩流を相兼しとて、其兩流と唱へしを、世には西流と呼しよし、其頃は至て珍しき事にて有ければ、專ら行はれ、其名も高かりしゆゑにや、後には官醫に召し出され、改名して玄甫先生と申せしよし、其男宗春と申されしは、多病にて早世し給ひ家絕えしとなり、是れ我祖甫仙翁の師家なり、其後召出されし、今の玄哲君の祖父玄哲先生は、玄甫先生の姪の續なりとなり、右の玄甫先生初て西洋醫流を唱へられしより、公儀にも御用ひ遊ばされし事にて、阿蘭陀醫事御用に立し始なり、

○また栗崎流といへるは、南蠻人の種子なりと、これは南蠻邪宗の徒嚴禁となり、其船の渡海も御制禁となりたれども、以前は平戶長崎の地に彼人々雜居し、妻を持ち子も有りしが、後々これをも吟味有て、蠻人の種子の分は、殘らず此地を放流せられしが、其中栗崎氏にて名はドウと云ふものは、彼地に成長しても、其宗には入らず、其國の醫事を學びしが、邪宗に入らざる譯を以て歸朝を免され召歸され、長崎へ歸りし後、其術を以て大に行れ、至て上手なりしが、栗崎流と