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一等なり。之れを裨將に授く、裨將は乃はち諸校の陸をべ聚めて陣圖をつくる、此れ一等なり。大將此の三等の敎を察し、是に於て大に閱し制度を𥡴考し奇正を分別し衆に誓つて罰を行ふ。陛下高きに臨んで之れを觀よ、施すとして可ならざるなし。」

 太宗曰く「伍法數家あり、孰れか要となす。」靖曰く「臣春秋左氏傳を按ずるに曰く、徧を先にし、伍を後にすと、又司馬法に曰く、五人を伍となすと、尉繚子うつれうしに束伍の令あり、漢制に尺籍伍符あり、後世符籍紙を以て之れをつくる、是に於てその制を失せり。臣其の法を酌み、五人より變じて二十五人となし、二十五人より變じて七十五人となす。此れ則ち步卒七十二人甲士三人の制なり。車をき騎を用ふれば則ち二十五人は、八馬に當る、此れ則ち五兵五當の制なり。是れ則ち諸家の兵法、唯だ伍法を要となす。小に之れを列ぬれば五人、大に之れを列ぬれば二十五人、まじへて之れを列ぬれば七十五人、又三つの其の數を伍參するときは三百七十五人を得。三百人を正となし、六十人を奇となす。此れ則ち百五十人分つて二正となす、而して三十人分つて二奇となす、蓋し左右等し。穣苴が所謂五人を伍となし、十伍を隊となす、今に至るまで之れに因る、此れ其の要なし。」

 太宗曰く「朕李勣と兵を論ずるに、多く卿が說と同じ。但だ勣は出處を究めざるのみ。卿が制