コンテンツにスキップ

Page:Arai hakuseki zenshu 4.djvu/810

提供:Wikisource
このページは校正済みです

其兵を發し相たすけて、或は陸に戰ひ、或は水に戰ひて、其戰やまず、すでにして、六年の前、ゼルマアニヤの君死し、〈本朝寶永元年甲申〉五年の前、ポルトガルの君も死す、〈これイスパニヤの與國なり、〉兩軍水陸の兵、戰ひ死するもの、すでに十八萬人に餘れり、又ポローニヤの君死してブランデブルコ、リトアニヤ、ゼルマアニヤ(〈漢譯、肥良的亞、禮勿泥亞〉)の三國、其國をあらそひ、ポローニヤの兵、戰死するもの七千人、ゼルマアニヤの兵もまた戰死するもの二千人に及びき、〈此戰の事は、其說詳ならずリトアニヤもまたいまだつまびらかならず、〉またムスコービヤ、サクソーニヤ、相くみして、スウエイチヤと戰ひ、ムスコービヤ、またトルカと戰ふ、凡十年の間、諸國ことくみだれて、此方の人、其生をやすくせず、我こゝに來らむとする始、〈これ本朝寶永四年丁亥の事、〉、フランスヤより船にうかび、カナアリヤにゆかむとするにアンゲルア、ヲヽランデヤ等の兵馬廿萬、其戰艦百八十隻、チビリタイラにみちて、ゆく事を得ず、ゼルマアニヤ人に說きて、わづかにまぬかれて、こゝを過ぬといふ、〈カナアリアは、海島の名、エウロパの海西にありて、フランスヤに屬す、チビリタイラは、ポルトガル、トルカの海門にあり、〉

〈前說は、これ庚辰より丁亥に至る、凡十年の間の事也、それより後の事はヲヽランド人の說を、こゝにしるしぬ、〉

己丑年四月、〈本朝寶永六年なり〉ヲヽランド人、フランスヤ、イスパニヤ等人と戰ひ、一萬餘人を斬て、フランスヤの地、レイセル、バルゲ、タウルネキの三城を取る、ヲヽランド人戰死するものも一萬餘におよべり、庚寅年〈本朝寶永七年なり〉四月、ヲヽランド人、イスパニヤ人と戰ひ、五千人餘を斬て、三千人を虜にす、六月、ヲヽランド人、フランスヤに攻入りて、一萬三千人を斬り、四千餘人を虜掠す、ヲヽランド人も戰死するもの一萬千人餘、つゐにそのドーワイ、ベトーネ、センタマン、モンス、四城を降しつ、辛卯年〈本朝正德元年也、〉七月、ヲヽランド人フランスヤに攻入りて、其國都パレイスを去る事四十里、ブシヨムの地を取り、つゐにゼルマアニヤ人と共に、イスパニヤ人と戰ふ、此年八月、トルカ、タルターリヤの兵、ムスコービヤと戰ひて、さきにそのために侵し奪れしトルカの地を復す、又此年秋、スウエイデと、デイヌマルカとの戰起れり、これは、さきに、兩國地を爭ひて、デイヌマルカ(漢譯第那瑪爾加)の戰利なく、こゝかしこの地をうしなふ、ヲヽランド人、デイヌマルカを援來りて、つゐに兩國に說てたいらがしむ、此年、デイヌマルカそのうしなひし地を復すべきため