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り。自由の旗を樹てゝヴァヂーニア州に闖入し、奴隸を集めて大膽なる運動を試みたるジヨン・ブラオンは死刑に處せられたり。大凡此等の事、一としてリンコンの宣言を證せざるものなく、半自由と半奴隸とは兩立せず、奴隸か自由か、二者其の一に歸着すべきは當然の運命なりき。ジヨン・ブラオンの刑に就くや揚言して曰く、奴隸の制度は唯鮮血を以て一拭すべきのみと。されど奴隸制度の全滅の爲に數百万の武夫、劍光砲聲の間に相見ゆる四ケ年なるべきは、ジヨン・ブ
ラオンも、ジヨン・ブラオンの處刑者も、共に夢想だもすること能はざりき。當時の軍歌に曰く、
『ジヨン・ブラオンが屍は