Page:那珂通世遺書.pdf/483

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帝國を得たり。彼等なくば、一度も重要なる勝利を得ざりけん。​塔兒塔兒​​タルタル​の始の王​成吉思汗​​チンギスカン​は、天の命を受けて世界を鞭韃せんが爲に進みし時に、彼等の君長七十二人を手下に用ひたりき」といへり。卜咧惕旋乃迭兒曰く「​成吉思汗​​チンギスカン​の下に​阿闌​​アラン​の働きたるを云へるは、誤なり。阿闌の國は、斡歌台の世に始めて征服せられき」。又曰く「元史に記せる​阿闌​​アラン​人の名の或るもの(​克哩思惕​​クリスト​敎徒に限れる名)に由りて、彼等の​克哩思惕​​クリスト​敎徒なることは推し料らる。この推定は、​馬速的​​マスヂ​・​阿不勒弗荅嚕​​アブルフエダル​・​卜嚕克​​ブルク​・​馬兒科保囉​​マルコポーロ​の證明にて確めらる。


10。​也里可溫​​エリケウン​卽​克哩思惕​​クリスト​敎徒。

 列傳卷八十四孝友一郭全の傳に附して、「​馬押忽​​マヤフ​、​也里可溫​​エリケウン​氏、素貧。事繼母張氏、庶母呂氏、克盡子職とあり。その外諸︀傳に​也里可溫​​エリケウン​の人見えず。氏族表に曰く「​也里可溫​​エリケウン​氏、不知所自出。案祕書志、有失​列門​​レムン​、大德十一年祕書監。​雅古​​ヤグ​、字正卿、泰定元年著︀作佐郞。​囊加台​​ノンガタイ​、字元道、後至元三年祕書省奏差。皆不得其世系。又有馬世德、字元臣、官淮南廉訪僉事、見靑陽集」と云へり。

 ​也里可溫​​エリケウン​は、​克哩思惕​​クリスト​敎徒を蒙古人の呼びたる名にして、西亞細亞の書史には、​阿兒喀溫​​アルカウン​とも​阿兒開溫​​アルカイウン​ともあり。大佐​裕勒​​ユール​(​馬兒科保羅​​マルコポーロ​一、二八〇注に)曰く「​蒙果勒​​モンゴル​時代の史に、東方の​克哩思惕​​クリスト​敎徒又はその僧︀侶を指して、​阿兒開溫​​アルカイウン​なる詞屢見ゆ。聖​馬兒庭​​マルチン​の引ける​思帖返斡兒珀里安​​ステフエンオルペリアン​の​阿兒篾尼亞​​アルメニア​史に、​阿兒開溫​​アルカイウン​又​阿兒喀溫​​アルカウン​なる詞は、この意味にて用ひらる。​多遜​​ドーソン​の據れる​塔哩黑只杭庫沙亦​​タリクヂハンクシヤイ​(世界征服史)の著︀者︀(​主吠尼​​チユヹニ​)は、​克哩思惕​​クリスト​敎徒を​蒙果勒​​モンゴル​人は​阿兒喀溫​​アルカウン​と呼びたりと云へり。​呼剌庫​​フラク​の​巴固荅惕​​バグダト​を攻むる時に、法官長老醫師​阿兒喀溫​​アルカウン​どもに書に贈︀りて、平和に働くものを免︀さんことを約束せりとあり。又その侵掠の時には、僅の阿兒喀溫と外國人との外は、免︀れたる家一つもあらざりきとあり。​喇失都︀丁​​ラシドツヂン​は、​北京​​ペキン​(大都︀)の執政大臣の事を記して、平章卽次位の相四人は、​塔只克​​タヂク​(​珀兒沙​​ペルシヤ​人)、漢︀人、​委古兒​​ウイグル​、​阿兒喀溫​​アルカウン​の四種より取られきと云へり。​撒巴丁阿兒喀溫​​サバヂンアルカウン​は、一二八八年(至元二十五年)に​珀兒沙​​ペルシヤ​の​阿兒昆汗​​アルグンカン​より​囉馬​​ローマ​敎主に遣したる公使の一人の名なりき。​微思迭婁​​ヸスデルー​は、支那の文書より奇異なる文を引きて、「世祖︀の至元二十六年、大吏十九員の一局を設けて、十字架、​馬兒哈​​マルハ​、​昔里克判​​シリクバン​、​也里可溫​​エリカエン​の宗敎の事務を監督せしめき。この局は、仁宗の延祐︀二年に位置を高められ、その時にる監督の下に​也里可溫​​エリカエン​の宗敎を管する小さき役所十二ありき」と云へり。​也里可溫​​エリカエン​は、漢︀字に寫せる​阿兒開溫​​アルカイウン​なること明かなり。而して​馬兒哈​​マルハ​は​阿兒篾尼亞​​アルメニア​派を、​昔里克判​​シリクバン​は​失哩亞​​シリア​卽​札科卜​​ヂヤコブ​派を、​也里可溫​​エリカエン​は​捏思脫兒​​ネストル​派を、指せるならんと試に推定せん」と云へり。​微思迭婁​​ヸスデルー​の引けるは、何書なるか、考へ得ず。​也里可溫​​エリカエン​は、初は​捏思脫兒​​ネストル​派を指せる名なれども、元史に據れば、一般に​克哩思惕​​クリスト​敎徒を指せるにて、​捏思脫兒​​ネストル​派のみに限られざるが如し。

 世祖︀紀中統三年三月「括​木速蠻​​ムスマン​​畏吾兒​​ウイウル​​也里可溫​​エリケウン​​荅失蠻​​タシマン​等戶丁爲兵」。​木速蠻​​ムスマン​は、​木速兒蠻​​ムスルマン​、卽​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒なり。​荅失蠻​​ダシマン​も、​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒にして、​別克塔施​​ベクタシユ​派とも云ひ、​珀兒沙​​ペルシヤ​の人​別克塔施​​ベクタシユ​の唱へたる一派なり。四年十二月「敕、​也里可溫​​エリケウン​​荅失蠻​​ダシマン​僧︀道、種田入租、貿易輸稅」。至元元年正月「命儒釋道​也里可溫​​エリケウン​​達失蠻​​タシマン​等戶、舊免︀租稅、今竝徵之」。十三年六月「勅、西京僧︀道​也里可溫​​エリケウン​​荅失蠻​​ダシマン​等、有室家者︀、與民一體輸賦」。十九年四月「勅、​也里可溫​​エリケウン​、依僧︀例給糧」。九月「招討使楊庭堅、招撫海︀外南番、皆遣使來貢。寓​俱藍​​ダーラン​國​也里可溫​​エリケウン​主​兀咱兒撇里馬​​ウヅアルべリマ​、亦遺使奉表、進七寶項牌一、藥物二瓶。又管領​木速蠻馬合馬​​ムスマンマハマ​、亦遺使奉表、同日赴闕」。列傳卷九十七(元史末卷)​馬八兒​​マーバル​等國の傳には、廣東招討司の​達魯花赤​​ダルハチ​楊庭壁、​俱藍​​ダーラン​國に至れる時「​也里可溫​​エリケウン​​兀咱兒撒里馬​​ウツアルサリマ​〈[#「撒」は底本では「撇」。「撇」ではルビと直後の文脈に合わない。元史卷210に倣い修正]〉、及​木速蠻​​ムスマン​主​馬合麻​​マハマ​等、亦在其國、聞詔使至、皆相率來吿、願納歲幣、遣使入覲」とあり。紀の楊庭堅は、壁を堅と誤れり。​撇里馬​​ベリマ​​撒里馬​​セリマ​は、孰か是なるを知らず。又紀その年十月「勅、河西僧︀道也里可溫、有妻室者︀、同民納稅」。二十九年七月「​也里嵬里沙沙​​エリウイリシヤシヤ​、嘗簽僧︀道儒​也里可溫荅赤蠻​​エリケウンダチマン​爲軍、詔令止隷軍籍」。​赤​​チ​は、​失​​シ​