Page:那珂通世遺書.pdf/471

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(今の​多倫諾爾​​ドロンノール​)の邊にて、​折連​​ヂエレン​川よりさほど遠からざる所にあるべし。​泰不花​​タイブハ​の傳に「世居​白野​​ベヤ​山」とある​白野​​ベヤ​は、​玉你​​ユル​を略きたるならん。然らばこの移住は、​欽察​​キムチヤ​の祖︀先の事に非ずして、​土土哈​​トトハ​の父祖︀の蒙古に歸してより、武平上都︀の閒にて移住したるを、かくは誤り書けるならん。元史列傳にも、これに似たる誤りあり。列傳卷十に「​抄兒​​チヤウル​、​別速​​ベス​氏、世居汴梁陽武縣、從太祖︀、收附諸︀國、有功、」卷二十に「​完者︀拔都︀​​オンヂエイバード​、​欽察​​キムチヤ​氏、其先彰德人」「​怯烈​​ケレイ​、西域人、世居太原、云云」と云へるが如き、その類︀なり。​土土哈​​トトハ​の傳は、​曲年​​キユネン​を蒙古人の如く​曲出​​クチユ​と誤り、「後遷」以下の十三字を「自​曲出​​クチユ​、徙居西北​玉里伯里​​ユリベリ​山、因以爲氏」と改めて、​土土哈​​トトハ​を​玉里伯里​​ユリベリ​氏となせり。されども​土土哈​​トトハ​は、​欽察​​キムチヤ​と云ふより外に、姓なきものと見えて、​土土哈​​トトハ​の孫​燕鐵木兒​​エンテムル​の傳にも​燕鐵木兒​​エンテムル​の女なる順帝の​荅納失里​​ダナシリ​皇后の傳にも​欽察​​キムチヤ​氏とのみあり、元統二年立后の册文にも「咨爾皇后​欽察​​キムチヤ​氏」とあれば、​玉里伯里​​ユリベリ​氏の說、信ずべからず。

 然れども​燕鐵木兒​​エンテムル​の傳に「立​燕鐵木兒​​エンテムル​女​伯牙吾​​バヤウ​氏爲皇后」、​篾兒乞惕​​メルキト​の​伯顏​​バヤン​の傳にも皇后​伯牙吾​​バヤウ​氏、順帝紀立后の所にも幽廢の所にも、​伯牙吾​​バヤウ​氏とありて、后妃傳と異なり。先祖︀代代​欽察​​キムチヤ​氏にて、一女のみ他の姓を稱する理なければ、​欽察​​キムチヤ​氏は、蓋​玉你伯牙​​ユルベヤ​山卽​白野​​ベヤ​山に徙りてより、山の名の​伯牙​​ベヤ​卽​伯牙​​バヤ​を取りて​伯牙吾​​バヤウ​氏となれるなり。傳の「因以爲氏」は、「因以​伯牙吾​​バヤウ​爲氏」と云はざれば、意通ぜず。元の時​伯牙吾​​バヤウ​氏三宗あり。第一は蒙古の​巴牙兀惕​​バヤウト​氏、實錄第九頁に見えたる​馬阿里黑伯牙兀歹​​マアリクバヤウダイ​の子孫、輟耕錄蒙古七十二種の​伯要歹​​バヤウダイ​にして后妃表成宗の后に「​卜魯罕​​ブルハン​皇后​伯岳吾​​バヤウ​氏、勳臣​普化​​ブハ​之孫駙馬​脫里忽思​​トリフス​(后妃傳に​脫里思​​トリス​)之女」とあるは、蒙古の​巴牙兀惕​​バヤウト​なり。​普化​​ブハ​は、卽​不合​​ブカ​にして、蒙古人に多くある名なり。功臣の第八十一なる​不合​​ブカ​駙馬(實錄三二五)​拙赤​​ヂユチ​の北征に嚮導したる​不合​​ブカ​(實錄三九八)を、前に​木合黎​​ムカリ​の弟なる​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​不合​​ブカ​なりと注したれども、この勳臣​普化​​ブハ​なるかも知れず。

 第二の​伯牙吾​​バヤウ​氏は、​喇失惕​​ラシツト​の史に見えたる​康里​​カングリ​の​巴牙兀惕​​バヤウト​にて、​也速䚟兒​​エスダイル​〈[#ルビの「エスダイル」は底本では「スダイル」。他の「也速䚟兒」のルビに倣い修正]〉の傳の​伯牙兀​​バヤウ​、​斡羅思​​オロス​の傳の​伯要​​バヤウ​なり。第三の​伯牙吾​​バヤウ​氏は、卽​欽察​​キムチヤ​の​土土哈​​トトハ​の一族なり。列傳卷二十一に「​和尙​​ホシヤン​、​玉耳別里伯牙吾台​​ユルベリバヤウタイ​氏。祖︀​哈剌察兒​​ハラチヤル​、率所部歸太祖︀。父​忽都︀思​​クドス​、膂力過人。歲壬辰、從睿宗、破金大將​合達​​カダ​軍于鈞州三峯山、以功賜號​拔都︀魯​​バードル​」とあり。​玉耳別里​​ユルベリ​も、​里​​リ​は​野​​ヤ​の誤りにて、卽碑の​玉黎北里​​ユリベリ​、兵志の​玉你伯牙​​ユルベヤ​なれば、その​玉你伯牙​​ユルベヤ​に住みて、山の名を取りて姓としたる故に、​玉你伯牙​​ユルベヤ​の​伯牙吾台​​バヤウタイ​と稱したるなり。列傳卷三十に「​泰不花​​タイブハ​、字兼善、​伯牙吾台​​バヤウタイ​氏、世居​白野​​ベヤ​山。父​塔不台​​タブタイ​、入直宿衞、云云」とあるも、​白野​​ベヤ​山卽​巴牙​​バヤ​に居たるが故に​巴牙吾台​​バヤウタイ​と稱したるなり。この二家は、​土土哈​​トトハ​の家と同族なるが如くも聞ゆれども、二傳ともに​欽察​​キムチヤ​人と云はず、又​哈剌察兒​​ハラチヤル​​忽都︀思​​クドス​​泰不花​​タイブハ​​塔不台​​タブタイ​など云ふ名は、いづれも蒙古語にして、又傳の事蹟にも色目らしき所見えざれば、蒙古なるか​欽察​​キムチヤ​なるか定め難し。然るに氏族表​欽察​​キムチヤ​の部に「徙居西北​玉里伯里​​ユリベリ​山」の下に「因所居​伯牙吾​​バヤウ​山爲氏、號其國曰​欽察​​キムチヤ​」と云ひて、​玉里伯里​​ユリベリ​山卽​玉耳別里​​ユルベリ​と​伯牙吾​​バヤウ​山卽​白野​​ベヤ​とを別の山とし、二つともに​欽察​​キムチヤ​の山とし、又​和尙​​ホシヤン​も​泰不花​​タイブハ​も​欽察​​キムチヤ​人と定め、成宗の​卜魯罕​​ブルハン​皇后までも​欽察​​キムチヤ​人とし、蒙古に​巴牙兀惕​​バヤウト​氏あることを云はざるは、大に誤れり。

 碑の「土風」以下十字の代りに、傳は「其國去中國三萬餘里。夏夜極短、日暫沒卽出」と書けり。碑の續きに「​曲年​​キユネン​生​唆末納​​ソモナ​、​唆末納​​ソモナ​生​亦訥思​​イヌス​。太祖︀皇帝征​蔑乞思火都︀​​メキスホト​、​火都︀​​ホト​奔​亦訥思​​イヌス​。遺使諭取之、不從」とあり「太祖︀」以下を傳は「太祖︀征​蔑里乞​​メリキ​、其主​火都︀​​ホト​奔​欽察​​キムチヤ​、​亦納思​​イナス​納之。太祖︀遣使諭之曰「汝奚匿吾負箭之糜。亟以相還。不然禍︀且及汝」。​亦納思​​イナス​答曰「逃鸇之雀、叢薄猶能生之。吾顧不如草木耶」。太祖︀乃命將討之」と改め補へり。​蔑里乞​​メリキ​の​火都︀​​ホト​は、卽祕史の​篾兒乞惕​​メルキト​の​忽禿​​クト​なり。​忽禿​​クト​は、祕史に據れば、​埀​​チユイ​〈[#「埀」はママ。実録や底本の他箇所では異体字「垂」が使われている]〉河にて​速別額台​​スベエタイ​に追ひ窮められ、​喇失惕​​ラシツト​に據れば、​乞魄察克​​キプチヤク​に奔らんとして蒙古の軍に捕へ殺︀されたりと云へば、​欽察​​キムチヤ​に奔れり