Page:那珂通世遺書.pdf/455

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 列傳卷十一、​塔本​​タブン​、​伊吾盧​​イウル​人、​伊吾盧​​イウル​は、​合木兒​​カムル​卽今の​哈密​​ハミ​の古名にして、​委兀惕​​ウイウト​の地なり。「父​宋五設託陀​​スングシエトド​。​訛陀​​トド​者︀、其國主所賜號、猶華言國老也」とあり。その國主は、卽​委兀惕​​ウイウト​の君なり。​塔本​​タブン​は、太祖︀の時、興平行省の都︀元帥。太宗二年詔して中山平定平原を益して行省に隸せり。


2。​哈剌亦哈赤北魯​​ハライハチベル​。

 列傳卷十一、​哈剌亦哈赤北魯​​ハライハチベル​、​畏兀​​ウイウ​人也。この傳に​八兒出阿兒忒亦都︀護​​バルチユアルテイドク​とあるは、卽列傳卷九の​巴而朮阿而忒的斤亦都︀護​​バルチユアルテチキンイドク​、西遼主​鞠兒可汗​​グルカガン​とあるは、秘吏の​合喇乞塔惕​​カラキタト​の​古兒罕​​グルカン​なり。​八兒出阿兒忒​​バルチエアルテ​の父の名​月仙帖木兒​​ユセンテムル​は、この傳にのみ見ゆ。​哈剌亦哈赤北魯​​ハライハチベル​の子​月朶失野訥​​ユドシエヌ​は、太祖︀の時、都︀督にて獨山城の​達魯花赤​​ダルハチ​を兼ね、その子​乞赤宋忽兒​​キチスンクル​は、太宗の時、爵を襲ぎ、​荅剌罕​​ダラカン​の號を賜はれり。


3。​塔塔統阿​​タタトンガ​。

 列傳卷十一、​塔塔統阿​​タタトンガ​、​畏兀​​ウイウ​人也。​乃蠻​​ナイマン​の​大敭可汗​​タヤンカガン​(​塔陽罕​​タヤンカン​)に尊用せられ、國亡びて後太祖︀に事へたることは、序論の初に云へり。太宗の時內府の玉璽金帛を司り、その妻​吾和利​​ウコリ​氏は、皇子​哈剌察兒​​ハラチヤル​の乳母となれり。


4。​岳璘帖穆爾​​ヨリンテムル​。

 列傳卷十一、​岳璘帖穆爾​​ヨリンテムル​、​回鶻​​フイフ​人、​畏兀​​ウイウ​國相​暾欲谷​​トンヨクコク​之裔也。其兄​仳理伽普華​​ビリガブカ​、年十六、襲國相​荅剌罕​​ダラハン​。歐陽玄の高昌​偰​​セ​氏家傳に曰く「​偰​​セ​氏、其先世曰​暾欲谷​​トンヨクコク​、本​突︀厥​​トツケツ​部。​突︀厥​​トツケツ​亡、其地入於​回紇​​フイフ​、​暾欲谷​​トンヨクコク​之子孫、世爲其國相。嘗從其主、居​偰輦​​セレン​河、因以​偰​​セ​爲氏。數世至​克直普爾​​ケチブル​、襲本國相​荅剌罕​​ダラハン​、錫號阿大都︀督。遼主授以太師大丞相、總管內外藏事。國人稱之曰​藏赤立​​ツアンチリ​。死、子​岳弼​​ヨビ​襲。​岳弼​​ヨビ​七子、曰​達林​​ダリン​、曰​亞思弼​​アスビ​、云云、曰​多和思​​ドコス​」。​亞思弼​​アスビ​の長子​仳埋伽帖穆爾​​ビリガテムル​は、卽傳の​仳理伽普華​​ビリガブカ​なり。​畏兀​​ウイウ​の​亦都︀護​​イドク​、西遼の監使を殺︀して蒙古に降れるは、​仳理伽普華​​ビリガブカ​の計に從へるなり。​岳璘帖穆爾​​ヨリンテムル​は、太祖︀の時、河南等處軍民の都︀​達魯花赤​​ダルハチ​、太宗の時、大斷事官。その子​合剌普華​​カラブカ​の事は、忠義傳(列傳卷八十)にあり。


5。​撒吉思​​サギス​。

 列傳卷二十一、​撒吉思​​サギス​、​回鶻​​フイフ​人、其國阿大都︀督​多和思​​ドコス​之次子也。卽​阿思弼​​アスビ​の孫にして、​岳璘帖穆爾​​ヨリンテムル​の從弟なり。太祖︀の弟​斡眞​​オヂン​(​斡赤斤​​オチギン​)の​必闍赤​​ビジエチ​〈[#「必闍赤」は底本では「闍」の印刷が薄くて読めない。他ルビ「ビジエチ」に倣い修正]〉となり、​斡赤斤​​オチギン​薨じたるとき、​火魯和孫​​ホルコスン​(​豁兒豁孫​​ゴルゴスン​)と共に適孫​塔察兒​​タチヤル​を擁立したることは、前の​豁兒豁孫​​ゴルゴスン​の條に引けり。世祖︀の時、山東行省の大都︀督にて益都︀の​達魯花赤​​ダルハチ​を兼ねき。​撒吉思​​サギス​の孫​荅里麻​​ダリマ​は、別に(列傳卷三十一に)傳あり、「高昌人、大父​撒吉斯​​サギス​」と云へり。高昌は、​委兀​​ウイウ​の地の古名なり。


6。​孟速思​​メンスス​。

 列傳卷十一、​孟速思​​メンスス​、​畏兀​​ウイウ​人、世居​別失八里​​ベシバリ​、古北庭都︀護之地。​別失八里​​ベシバリ​は、​委兀惕​​ウイウト​の都︀​必失巴里克​​ビシバリク​にして、唐の北庭都︀護府の地なり。​孟速思​​メンスス​年十五にして本國の書に通じたるを太祖︀聞きて、召し見てに大に悦び「此兒目中有火、他日可大用」と曰へりとあるは、蒙古の韻語なる「目に火あり、面に光あり」を半だけ譯したるなり。世祖︀の時、斷事官。


7。​布魯海︀牙​​ブルハイヤ​。

 列傳卷十二、​布魯海︀牙​​ブルハイヤ​、​畏吾​​ウイウ​人也。太宗三年、燕南諸︀路の廉訪使兼斷事官、世祖︀の時、順德等路の宣慰使。廉使を命ぜられたる日に子希憲生れしかば、​布魯海︀牙​​ブルハイヤ​喜びて「吾聞、古以官爲姓。天其以廉爲吾宗之姓乎」と云ひ、子孫皆廉氏となれり。廉希憲は別に傳あり(列傳卷十三)。