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Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/231

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が權大丞として對馬に來るや、對馬に於ける朝鮮語學の必要を感じ、今の嚴原町光 淸寺のある所に語學所なるものを設立し、從來の通事を敎師として每日朝鮮語を學 習せしめた。而して其の生徒たる多くは通事の子弟で、恰も世襲の如く、其の數十 餘に達した。然るに明治六年從來の世襲的學生の外に士族の子弟十五人許り入學を 許可することになつた。當時通事には大通事・五人通事・通事といふ階級があつて、 大通事は士分として帶刀を許され、相當の威力をも示して居たが、五人通事及び通 事は身分低く世人からも齒せられなかつた。然るに今回士族の子弟が入學を希望す るに至つたので、世人は奇異の感に打たれ、又從來の學生も自己の特權を侵害する ものとして不平を申し出た。併しながら大勢は最早や動かすことが出來ぬ。兩方と も不滿足ながら一緒に勉强することになつた。扨て敎科書も別に無いので「交隣須知」とか 「隣語大方」の如きものを各自に筆寫して勉强したものださうである。然るに 其の後半年にして嚴原の語學所は廢せられ、二十四五人の在學生中、士族出身の者だ けが留學生として釜山に派遣せらるゝに至つた。釜山に於ける語學所は明治十三年