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日本者少。云々」
「貴國(品川誓泰寺の僧の言にして朝鮮を指す)之語則馬島之人多能通曉、用是國無置員講習之規矣」。
とあり、金指南同行の洪禹載の記した「東槎錄」中には對馬に於ける日本通事の姓名 を十七八名も擧げて居る。以て對馬に於ける朝鮮語學が如何に旺盛を極めたかの一 班を知ることが出來よう。同島古老の談によれば壬辰の役には嚴原町からばかりで も、六十餘人の通譯を出したといふ事である。
其の後享保年間に至り、對馬では始めて大通詞なる職を設け、江口金七・加瀨傳五
郞を以て之に任じ(集
書)、朝鮮語通譯の任に當らしめた。爾後德川の末期まで著しい變
遷が無かつたやうであるが、最後に明治初年の頃に於ける對馬の朝鮮語研究の有樣
を述べ本篇を結ばうと思ふ。
明治維新に際し、宗重政外務大丞に任ぜられたが、明治三年に至り朝鮮との外交は 宗氏の手を離れ、外務省が直接交渉をする事になつた。明治五年森山茂・廣津弘信