Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/228

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約四十八年の譯である。當時日本內地では之が傳播後五六十年も經過して居るので あるから、各地に大分擴がつて居るに相違ない。「海槎日記中」に「日本陸地諸島間 多有之」など述べてあるのも、當に然るべき譯である。併し正德以來彼我使節の徃 來も頻繁であつたのであるから、寳曆年間まで約五十年間、朝鮮使節が此の藷に氣 が附かなかつたといふ事も有り得べからざる事である。公々然の輸入は無かつたに しても、寳曆以前にも多少之が朝鮮に傳つて來たものであらうと思はれる。

六 對馬に於ける朝鮮語學

對馬に於て古くより朝鮮語が如何に研究せられたかを研究することは頗る興味ある 問題である。抑も我が國に於て外國語に關して古く通譯の職を特置したかどうか不 明であるが、崇神紀に「異俗重譯來」などあるを見ると、何等か此等に關する機關 が存したことを推知するに足るのである。而して其の頃から譯語をさなる役人を置かれ たらしく、天智天皇二年には諸將軍等譯語三輪君根呂等と共に二萬七千人を率ゐて 新羅を打つたこと(日本
書紀
)があり、淳仁天皇五年には美濃武藏二國の少年各二十名を選