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 (小亞細亞横斷旅行談)八〇(80)

今は只だ現場の有様の一斑と所在地とを御紹介する位のことで、なほ之れに關する寫眞が二三十枚ありますから、御覧を願ひます、

それで此のフリジアの古墳地を去つて今度はキュタヤと云ふ所に参りました、こゝは海抜三千百三十尺、人口は二萬三千です、是は昔カラマン領になつた時にカラマンの首府になつた所で其の時分に出來た城壁が今遺つて居ります、この城の中にカレーバラ、ジヤーミと云ふ木造の小建築がありますが、これは千三百七十五年の建立です、又メヂヂエ、メドレッセは千三百四年の建立です、ウールー、ジヤーミは希臘建築の遺物を集めて作つたものです、その外にキュタヤで見るべきものは、絨氈製造です、それから彩瓦も造つて居ります、それで絨氈は土耳其の特産物でありますが特に之をキュタヤで製造して居るので、是は古代模様を其の儘使つて居れば宜いのに愸じに新しい模様を拵るので却つて評別を落して居りますが、併し仕事は熟練したもので巧であります、價は上等品一米四方に付き十圓、普通品五圓位でありました、それから彩瓦は昔のやうに趣味のある物は今日は出來なくなりました、

キュタヤから西南凡そ七十粁参りました所にチヨーヂルヒツサルと云ふ所があります此所は即ち古のアイザニと云ふ所で此所には羅馬のハドリアン皇帝の修繕をしたと云ふジユピターの寺院の廢趾があります、建築はイオニア式ですそれから希臘時代の劇場及びヒッポドロムの廢趾があります、年代は西暦紀元二百年頃と云ふこと[1]でありますから羅馬時代でありますが、スタイルは希臘のスタイルであります。總じて小亜細亜に行はれたクラシック式は、多少歐州本土に於けるものと異

  1. 底本では「こと」の合略仮名