鹿兒島縣史 第二巻/第一編 薩摩藩の體制/第一章 藩の領域及び人口
第一編 薩摩藩の體制
第一章 藩の領域及び人口
藩の領域は、代々将軍の領知高判物による所領安堵の形式を經て定められてゐる。 薩摩藩に對する徳川幕府最初の判物は、元和三年九月五日下附のそれである。 此の年正月、郷村高辻郡付の帳を差出すべき旨の加判安藤直次・本多正純の奉書あり、仍て、藩より差出した郷村高辻帳に基いて、此の判物が作られたのである。即ち、島津家久に宛て、薩摩・大隅及び日向諸縣郡中の百六十四村、合計高六十萬五千六百七石餘を領知すべしとあり、其の各國別内譯は、薩摩三十一萬四千八百五石餘・大隅十七萬八百三十三石餘・日向諸縣郡十一萬九千九百六十七石餘であつた[1]。 是より先き、二代将軍徳川秀忠襲職に當り、慶長十年九月、幕府は諸大名領・寺社領の石高を査檢し、島津氏からも繪圖及び田帳を差出したが、時に、島津氏に對する判物はなく、之は、前田・伊達兩氏も同様で、此等諸家が猶ほ徳川氏より特に對等の如き取扱を受けた故であらうといふ[2]。 三代将軍家光襲職の際下附された寛永十一年八月四日の判物には、薩隅日の高六十萬五千石餘とし、始めて別に琉球高十二萬三千七百石を加へてゐる。尤も、琉球領知を許されたのは、慶長十四年琉球役以降である。 此の判物は京都に於いて受けた者で、家久旅中を以て、高辻帳もなく、員數のみ書付け差出したので、高三千石が洩れて居り、同年冬、落地の書付を江戸に於いて差出したが、之は披露されなかつたといふ。 また高辻帳は、翌十二年正月に、差出した。 其の後、寛文四年六月三日付を始め、代々の判物に於いても、領知高は寛永の判物と同額である。 寛永の判物には「目録在別紙」とあるが、領知目録は存しなかつたといふ[3]。 但し、正保三年十一月十五日付の薩摩大隅日州諸縣郡琉球知行方目録によれば、惣高七十二萬九千五百七十六石、國別にして、薩摩三十一萬五千五石・大隅十七萬八百三十三石及び日向諸縣郡の内十二萬二十四石、此の計六十萬五千八百六十三石、外に琉球十二萬三千七百十石である[4]。
之と別に、正保三年十二月十二日の知行目録があり、また寛文四年四月五日の領知目録を始め、數次の同一形式の領知目録が判物に附屬してゐる。 此等は何れも郡別の記載あり、只前者に村數の記載なく、後者には之と領知文言を有するの差異があり、且つ此等夫々郡名の文字等多少の相違點を除き、内容は大體同一である。 此等の示す郡別の村數・石高は左の如くである[5](但し、郡名の文字は寛文の領知目録により、其の内貞享元年の領知目録に於いて改めたものあり、括弧により傍注する如くである)。
村數 | 石高 | ||
薩摩 | 五二 | 三八、四〇一 | |
薩摩郡 | 三三 | 四二、七一九 | |
鹿兒島郡 | 二七 | 三〇、三三九 | |
日置郡 | 四八 | 五一、六四八 | |
阿多郡 | 二〇 | 二三、五七〇 | |
河邉郡 | 三五 | 三五、〇四五 | |
甑島郡 | 二 | 二、七九一 | |
頴娃郡 | 七 | 一五、九三九 | |
揖宿郡 | 七 | 一六、八五七 | |
給黎郡 | 六 | 一〇、四六四[6] | |
谿山郡 | 六 | 一五、〇四七 | |
出水郡 | 七 | 二〇、七三五 | |
高城郡 | 八 | 八、四四五 | |
大隅 | 菱刈郡 | 一三 | 九、九八四 |
桑原郡 | 三二 | 二一、八二四 | |
三九 | 二六、六四三 | ||
囎唹郡 | 六三 | 四三、八八四 | |
肝屬郡 | 三八 | 四二、〇一五 | |
大隅郡 | 三二 | 二〇、一九二 | |
熊毛郡 | 九 | 五、二〇五 | |
馭謨郡 | 四 | 一、〇八〇 | |
日向 | 諸縣郡 | 一六四 | 一二〇、〇二四 |
以上合計 | 六〇五、八六三 | ||
琉球十五島 | 一二三、七〇〇 |
以上によつて知られるが如く、薩藩の領域は薩摩・大隅兩國及び日向國諸縣郡、外に琉球十五島である。 此の内、薩摩・大隅兩國、日向國諸縣郡の内後に大隅國囎唹郡に編入された部分及び琉球の内或は小琉球と稱し、當時藩の直轄藏入であつた謂はゆる道之島即ち後に大隅國大島郡に編入された諸島が現在の鹿兒島縣に属し、諸縣郡の爾餘の部分は宮崎縣に、琉球の内本琉球、大琉球或は單に琉球と稱し、當時の琉球中山王領の部分は沖繩縣に屬してゐる。
薩藩の人口に就いては、主として宗門手札改の結果によつて知る事が出來る。 初めて宗門手札の制度を布いたのは寛永十二年で、其の後同十六年以降數年を隔てゝ前後恐らくは二十數回の手札改を行つてゐる。 手札改の際は、一門・獨禮の格式及び家老・若年寄・大目附等は家族まで之を免除され、また著座門主等も之を免除される規定で、其の合計は、貞享元年に百二十餘人、明和九年・寛政十二年・文政九年には凡七十餘人であるが、次に示す人口總計には算入されてゐる。 但し、慶賀・穢多・行脚等の數は別の統計となつて居り、之は算入されてゐない。即ち、之を除いて、初生以上の人口は左の如くである[7]
年次 | 薩隅日 | 道之島 | 琉球 | 總計 |
貞享元年 | 三五五、三八七 | - | (不確實)一二九、九九五 | 五五七、〇八三 |
寶永三年 | 四六一、九六一 | 四九、四七二 | 一五五、一〇八 | 六六、六五四一 |
元文二年 | - | - | - | 八一七、六三五 |
延享二年 | - | - | - | 八四三、八〇八 |
寶暦三年 | - | - | - | 八七二、〇八三 |
同十一年 | - | - | - | 八七九、五三九 |
明和九年 | - | - | - | 八八三、九六九 |
天明六、七年 | - | - | - | 八四二、四〇六 |
寛政十二年 | 六二三、六六一 | 七四、五九三 | 一五五、六三七 | 八五三、五九一 |
文政九年 | 六四六、九二五 | 七七、六六七 | 一四〇、五四九 | 八六、五一四一 |
注釈
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