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鹿兒島縣史 第二巻/序説

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序説

 關ヶ原役後島津氏と徳川氏との間に和解交渉は進捗し、慶長七年四月、徳川家康は島津氏の所領薩摩・大隅及び日向諸縣郡の安堵を與へ、次いで、島津忠恒が上洛して家康に見えるに及び、兩者の和解は全く成つた。 同時に、島津氏は徳川氏の統制に服する事となり、翌八年二月、家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府は名實共に完成し、島津氏領國は其の制御の下に一の藩として新らたに出發すべき事になつた。 此の前後に於いて、事實上、島津氏領國内部の秩序に根本的變革を見ず、其の政治組織・社會組織等は從前の継續であつた。從つて、島津氏内部の秩序に關しては、藩成立の劃期とすべきものではないが、通常、徳川幕府直隷の萬石以上諸侯の領國を藩と稱するので、之に従つて、今、島津氏が徳川氏の統制に服し、また形式的に徳川幕府成立の時を以て藩政時代の始點 となすべきである。

 此の藩は、徳川幕府末期に至り、漸く幕府の統制を脱し、やがて朝廷を奉じて討幕の勢力に轉じ、王政復古後、朝廷の直隷となり、明治二年、藩籍を奉還して明治四年の廢藩置縣に及んだ。仍て、藩政時代の終末は、厳密に云えば、廢藩置縣に置くべきであるが、藩がよく幕府の統制に服したのは、凡そ藩主島津齋興代までゞあるから、其の後は特に幕末維新時代として之を分つを適當とする。

 要するに、此の藩政時代は、島津氏が徳川幕府の統制に服しつゝも、其の傳統を守り、更らに、新時代に則して獨自の發展を遂げ、しかも、幕末維新の際、一藩を擧げて大義の下に活躍するに至つた素地を作つた時代である。

 次に、藩の名稱は、或は藩主の苗字から島津藩とし、或は藩主居城の地から鹿兒島藩又は麑藩とし、或は領域中の代表的一國の名をとつて薩摩藩又は薩藩と呼ばれた。たゞ幕府時代には、多く薩摩藩の稱を見るが、藩籍奉還後は専ら鹿兒島藩と稱した。


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