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鹿兒島縣史 第一巻/序

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本縣は畏くも天孫御降臨の聖地にして、神代の靈蹤炳として萬世に輝き、特に地の利を得、古來我が國の南門を扼して海外交通の要衝に當る。 夙に武勇を以て天下に聞え、隆替ありと雖も、或は進んで博多の海に虜寇を討ち、或は征西大将軍宮を奉じて邊陲の地に大いに氣を吐く。 而かも島津氏この地に民を牧して數百年、歴世名主相繼ぎ、泰平等しく三州に遍く、地方文化の見るべきもの殊に多し。 加之、嘉永安政以降、擧げて時代の先驅を成し、進んで維新回天の鴻業を扶翼し奉る。 偉材人傑雲の如し、實に古今の壮觀たり。 明治四年置縣以來、縣勢益進展し、教化教育の振興と、殖産興業の發達等、一に我が縣民先人の恩寶に非ざるなし。 こゝに縣史編纂の業を企て、以て先賢の遺業を温ね、将来の發展に資する所あらんとす。

 縣史編纂のことたるや縣民多年の要望にして、本縣教育會々長侯爵大久保利武氏また屢進言するところあり。 仍て本縣は大久保侯爵と胥謀り、東京帝國大學名譽教授文學博士黒板勝美氏に請ひ、囑するに縣史編纂の計畫を以てし、大久保侯爵を顧問に、黒板博士を監修に推し、縣會の熱心なる協賛を得て、編纂の事に着手せり。 爾來四星霜今やその第一巻公刊の朞に達せり。

然而、容易ならざるこの修史の業が所期の如くに進捗せるは、一に顧問扞に監修の力に頼ると雖も、歴代長官の指示經營宜しきを得たると、官公衙、社寺及び島津兩公爵家始め大方の諸家、また襲藏の文書秘籍の閲覽を許されしとにありと謂ふべし。

 今第一巻の上梓に際して、併せて茲に大方の好意に對し深甚なる感謝の意を表す。

昭和十四年三月

鹿兒島縣知事  藏  重  久

余は昭和九年の秋、大久保侯爵から鹿兒島縣史編纂の話を承り、次いで時の知事市村慶三氏から相談を享けて縣史編纂の計畫を囑せられたのであるが、地方史と言ふものは、多くの例から見て、或は地誌に止まり、或は單に沿革史と言ふ程度になり易いものである。 國史の大本を離れず、その土地に則して環境と人文との關係を明確に把握して一貫した叙述をなすことは容易でない。 まして史料の蒐集按配等の關係からも年限を期して完成することには更に困難を伴ふものである。 鹿兒島縣は我が國史全體の上から見ても、更に地方史的に取り扱つても、寔に他の地方に比して特異な上に、また最も研究を要するちほうである。 仍て大久保侯爵に諮つて、自ら監修を御引受けし、編纂主任に丸山二郎君を推し、大田亮、阿部眞琴、水上一久の三君を委員とし、更に大谷幸雄君を加へ、また資料蒐集等の爲めに大久保利謙君外若干名を臨時委員に依頼して編纂に著手したのである。

 その後漸く進捗し、茲に第一巻を公刊するに至つた事は余の最も悦びとする所である。 また終始その指示と鞭韃とを與へられたる縣當局に對し、更に資料の蒐集等に就いて常に多大の好意と便宜とを寄せられたる大方に對して、一言御禮の辭を陳ぶる次第である。

昭和十四年三月

監  修  黒 板 勝 美


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