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隼人石と十二支神象とに就きて

 
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「隼人石と十二神象とに就きて」に出でたる

  唐宋儼墓誌蓋 方一尺六寸

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  唐張希古墓誌 方二尺二寸八分厚三寸五分

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隼人石と十二支神象とに就きて
 
 元明天皇の山陵に存して居る獣首人身の石刻は、従来隼人石などゝ唱へて、今年の正月には戌の年といふ所から、雑誌の表紙画などにもなつたが、是は実は隼人の形ではない、北の字が獣の頭の上に在るから、子の方向を表はしたる者で十二支の神象の残りであらう。それは新羅の金庾信の墓及び掛陵に存する十二支の神象とよく類似して居るので、益々明らかになるといふことは今西龍君から承はつたこともあり、又本誌の上にて柴田常恵君の説をも読んで、大に尤もに存じた次第である。高麗の太祖の顕陵にある石刻十二神象は、明治三十九年八月に予も一見して写真をも取り、当時拙劣な絶句なども作つた。

統一肇基功絶倫。裔孫猶自奉蘩蘋。満山松檟護幽宅。刻石依稀十二神。

ところで此種の神象が日本にも朝鮮にも、存して居る以上は、支那にもあるだらうといふことは誰しも考へ及ぶことであるが、果して昨年即ち宣統元年の清暦五月発行の国粋学報に載つてある友人羅叔言氏の俑盧日札の中に、左の如き二節を見オープンアクセスNDLJP:236 出した。

劉燕庭先生海東金石苑。載新羅角干墓及掛陵十二神画象。並絵十二神。獣首人身。手執兵器。蓋十二時生肖也。二碑均無年月。以角干墓故定為唐時所_造。予案墓中刻十二時生肖。不但新羅為_然。実唐代風気如此。予曩得唐名州司兵姚君夫人隴西李氏墓誌〈大和五年〉其蓋中央刻大唐故夫四篆字。四周亦刻人身獣首者十二輩。与海東金石苑所載之角干掛陵両刻正同。知新羅蓋做唐俗也。唐高延福墓誌之旁。亦刻十二生肖。但非人身[1]

雷詢墓誌蓋之四周。画十二辰。題曰夜半子。鶏鳴丑。平旦寅。日出卯。食時辰。禺中巳。正南午。日朕未。晡時申。日入酉。黄昏戌。人定亥。云云。劉明徳墓誌蓋之四周亦然。雷誌刻於天宝五載。劉誌刻於長慶二年。蓋唐代習用之也。

とある。その内高延福の墓誌は友人蔣伯斧の蔵石で、予も屢々其拓本を得たが、四周の十二時生肖を併せ拓したものが無いから、今年十月、北京で蔣氏に面会した時、新拓の事を依頼した。蔣氏は石は現に淮安の寓居に置てあるから、後日拓本を作らして送るが、其外にも手許に右と同種の者が三通あるとて

一、雷詢墓誌(即ち羅氏の挙げたるもの)

二、宋儼墓誌(建中四年四月)

三、崔載墓誌(元和十四年十一月)

を示され、且つ其中、宋儼墓誌の拓本は、割愛して贈られた、この墓誌は本文と蓋と二石になつて居つて、十二神象は蓋の四周にあるが、其の形状殆ど全く高麗の顕陵神象と同一である。別に添へた写真板が即ちそれである。雷詢、崔載の二墓誌の拓本も写真だけは取つて置いたが此度は省いた。雷詢墓誌は羅氏も記してある如く、十二支の形をそのまゝ画いたので、人身になつて居ない。崔載の墓誌は十二人の衣冠した人が、手に十二支を一つ宛抱持して居る形にしてある。高延福のも姚君夫人李氏のも、いづれ蒐集するつもりであるが、元明陵の石刻象も、新羅の神象も大体に於て同じ者なることは、以上の比較で分明になつたと言てもよい。即ち此種の神象は、日本にも、朝鮮にも、支那にも共通の者で、一日の十二時の時刻の神象を表し、時としては神象を人身にもなし、或は人が持つて居る形にもなし、又は十二支オープンアクセスNDLJP:237 そのまゝの形にもして居る。支那にある者では、十二支の形をそのまゝに画いた方が、いくらか古い式で、人身になつたり。人が持つて居つたりする式の方が新しいやうになるが、これは巳に発見された五六箇位では、新古の式の標準と定める訳には行かぬ。尤も支那の墓誌では、高延福墓誌の開元十二年が最も古いとしても新羅、日本のよりは遥かに後になつて居るが、十二支を石に刻する風習が、日本、新羅の方から、唐へ伝はつたとも思はれない。矢張唐の方が根本で、其風が東漸したのであらう。

 更に一つの不審は、日本朝鮮のは、いづれも陵墓の外面に在る(顕陵のは、陵の腰を巻た石に刻してあつた)のに、支那のは、皆墓誌だけに残つてあることである。尤も日本、朝鮮には古い墓誌があまり多く出ないし、支那では古陵墓の形状が、そのまゝ保存されて居る物が少ないから、此も現存の材料だけで、日本、朝鮮には墓誌の神象が無く、支那には陵墓刻石のものが無いと断言されぬ。恐らく支那には陵墓の刻石もあつたもので、今存して居る者が無いだけの事であらう。墓誌に十二神象を刻する事は、或は支那に止まつて、日本などには、其風が波及しなかつたものかと思はれる。勿論これは十分の材料がないから臆説に過ぎぬけれども、こゝに発表して置いて更に学者の精攷を俟つのである。(明治四十三年十二月十四日夜)

(明治四十四年二月一日歴史地理第十七巻第二号)


  附註

  1. 蔣伯斧が贈る所の墓誌を親しく検せるに、十二支生肖ある者は、天宝十五載景申四月雁門の田頴が書せし張希古墓誌にして、高延福墓誌にあらず。蓋し蔣氏は高張二唐誌を並び蔵して誇りとし、毎〻其の拓本を以て友人に贈りしを以て、羅叔言も其の拓本を獲、偶爾誤りて筆記に高誌と記せしなるべし。高誌の旁にも数種の獣形を割せるも、十二生肖にはあらず。

  附記

近年に至り、余は又唐の開元二年十二月、賀知章が撰せる戴令言の墓誌拓本を獲たるが、此石の四周にも、張誌と同様の十二生肖を刻せるを見たり。

(昭和四年五月記)

 
 

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