開いていた窓

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開いていた窓


食卓の殺人


 確か三月の初め頃だと思ったが、ひどく寒い朝だった。前の晩に徹夜で仕事をして、暁方ようやく床にはいった私は、ねいりばなともいうべき十時頃に金子に起された。金子は引受けていた法律上の難事件が、やっと昨日片づいたので、ホッとした気持になって、私の所へ油を売りに来たのである。

「大当りじゃないか。帝国座の『食卓の殺人』は大へんな評判だぜ」

『食卓の殺人』というのは、私が書き下した探偵劇で、事実金子のいう通り、非常に好評で毎日満員を続けていた。

「有難う。お蔭でね」

「君にしちゃ、皮肉なものを書いたね」

「そうかね、そう皮肉のつもりじゃないんだけれども――」

「いや、相当皮肉だよ。愛人に嫌疑が掛かりそうなので主人公が必死にかばって、何とかして逃れさせようとする。ところが、たまたま主人公が塩皿に砂糖が這入っていたという、誰も気のつかなかった発見をした事が、愛人の罪を決定したんだからね」

「そういえばそうだが――」

 こう私が答えた時に、思いがけなく渡辺が這入って来た。渡辺は私達二人共に親しい間柄で、ある研究所に勤めている理学士である。

「やア、金子君が来ていたか」渡辺は勢いよくいって、次に私に、「たかがさ君、忙しいかね」

「今朝暁方までかかって、書き上げた所だよ。グッスリ寝ている所を金子に起さママれたんで――君はどうしたんだ研究所は?」

「今日は休みを貰ったんだ。すると、高笠君は暇だね、金子君は?」

「僕も昨日やっと事件が片づいてね、ホッとしたので、ここへ来てね、気の毒だとは思ったが寝ている所を起したという訳さ」

「それは好都合だ。どうだ、君達浦和までつき合わないか」

「浦和?」私は思わず聞き返した。

「うん、或る婦人に相談を受けてね――」

「相変らず、君は」金子がニヤリと笑いながらいった。「婦人奉仕をやっているんだね」

 渡辺はすぐれた科学的頭脳を持っていて研究方面でも素晴らしい仕事をしていたが、こうした学者にありちな偏屈といったような所は全然なく、常識に富んでいて、性質は温厚で親切で、その上に男らしい立派な容貌を持っていた。従って婦人に持てはやされる事は非常なもので、どんな婦人でもすぐ彼が好きになった。しかし、渡辺はくまで真面目で、まだ一度も悪い噂さママを立てられた事がない。野心があるなしに係らず、彼の周囲にはいろいろの女が集って、何かと相談をかけるが、彼はそれを面倒がらずに、親切に応じてやるのだ。金子は渡辺を評して、いつでも「婦人奉仕家」といっている。

「主人が永らく病気でね」渡辺は金子に皮肉られても案外平気で、「土地を処分したいとかいってるのさ。実は高笠君を誘って行くといってあるんだよ。小説家の高笠君の他に、もう一人法律家の金子君に来て貰えばこんな心強い事はないよ」

 電車に揺られている間に、渡辺の話した所によると、女の名は佐山みな子といって、今年三十二三位、一度不幸な結婚をして、現在の良人の佐山秀造とは二度目の結婚で、そのために年も二十近く違う。みな子は先夫と別れる時に貰った手切金を旨く利殖して、その金で三四年前に浦和の在に安い地面をかなり多く買込んで、そこに一寸した洋館を立てて、良人と二人きりで住んでいるのだ。

「先夫と別れてから暫くは派出看護婦をして自活していたという女だけに、中々しっかりしてはいるがね、最初の結婚に失敗しながら、二度目の結婚も失敗なんだよ。可愛想な女さ」

 渡辺の語り続けた所によると、現在の良人の秀造は先妻を亡くしてから間もなく病気になって、そこへみな子が看護婦として派出されて、やがて結婚という事になったのだが、みな子は秀造が国許には相当な資産があるといった言葉を信じた上の事だったが、結婚して見ると、不動産はあるにはあっても、みんな抵当に這入っていて、利子もろくに払ってないという始末で、要するにだまされたという結果になったのだ。

「もう結婚して五年になるそうだが、最初秀造が親戚達の財産を残らず食い潰してしまうような怠け者で、しかも今は一文なしの人間だと知った時にはすぐさま別れようかと思ったが、一度ならず二度までこんな事になるのは、前世の因縁だとあきらめて、辛抱する気になったんだそうだ。で、結婚したからには看護婦も出来ないし、さりとて夫婦揃って遊んでいる訳にも行かないので、前にいった通り、先夫に貰った手切金を利殖して、いくらかまとまっていた金で、将来発展する見込みで、安い地所を買えるだけ買ってね、そこへ家を立て、花を造ったり、畑をこしらえたりして、土地の値上りを待っていたという訳で」

「成功した訳だね」私はいった。「あの辺の土地はここ二三年来、素晴らしい値上りだというじゃないか」

「その点ではまアママ成功さね」渡辺はうなずいたが、すぐに、「ところが亭主の方がいけないんだ。病気――といっても頭の病気でね。最初は神経衰弱という診断だったが、この頃ではもう本物になったらしいんだ。ひどく疑ぐり深くなって、一寸した事でも打つ蹴る、そりアママひどい乱暴をするんだそうだ。夜は殆ど眠られなくて、昼間はウトウトしているという。そのために、細君の方は夜も昼もオチオチ寝る暇もないという訳で――」

「なるほど気の毒だね」金子がいった。「つまり結婚してからは細君の方がずっと養っていたという訳じゃないか。それに打ったり蹴られたりして、未だ辛抱して介抱し続けているというのは――」

「そうなんだ。僕は最初みな子さんの友達からこの話を聞いた時には全く同情したよ。その後二三度みな子さんとも会い、浦和の家へも一度訪ねたが、亭主というのはまアママ昔なら狐つきという所だね。げっそり痩せて眼ばかりギョロギョロ光らせて、いう事がまるでトンチンカンさ。その時は前の晩に発作が起ったといってみな子さんはなまきずを拵えていたよ」

「しかし」僕はいった。「今更離婚も出来まいしねえ」

「そこなんだよ」渡辺はうなずいて、「離婚は出来ないけれども、とても一緒に住むに堪えんというのだ。それで、とにかく亭主を入院させて治るものなら治してやりたいのだが、それにつけても金がいるし、そんな金は土地を処分しなければ、到底出来ないというのでね――」

 私はみな子という人にすっかり同情した。世には不幸な結婚で泣いている女の人は少くママないが、最初から騙されて結婚し、その男を五年の間も養って、貞節につかえているうちに、男の頭が狂ってひどい虐待をされるとは、何と不幸な人であろう。しかもそうなっても未だ見棄てないで、世話して行こうというのだから、誠に見上げたものである。

 浦和の駅に降りたのは、もう三時近かったが、電車から出て私達は余りにも寒いのに驚嘆した。電車にはヒーターがあって、温まっていたので、外へ出て始めて気がついたのである。

「まるで冬だね」渡辺が外套の襟を立てながらいった。

「冬以上だ」

 と私がいうと、金子は、

「今日こんな郊外へ来たのは、失敗だったよ」

「まアママ、辛抱してくれ給え」渡辺が弁解するようにいった。

 自動車で二十分ばかり走って、私達は見るから田舎めいた所に降り立った。所々に小高い丘があり、丘と丘の間には田や畑が拡がって、そこここにまばらな林が立っている。その間にわらぶきの百姓家がポツンポツンと、二三軒見えるというような風景だった。

 そこからはもう自動車は這入らないので、私達は小径をダラダラと丘の下に降り、それからその裾を廻って、一町ばかり歩いた。

「大変な田舎だね」

 金子がそういった時に、前面の林の間から、およそこの辺の風景とは不似合な、赤い屋根の洋館が一つ、ポツンと見えた。

「そこに見える家だよ」

 渡辺はそういって、私達の先頭になって、林の中に這入ったが、不意に立止って、首を傾けた。

「変だよ」

「何が」私は訊いた。

「見給え。この寒さに、あの通り洋館の窓が開け放しになっている」

 なるほど、そういわれて見ると、洋館の窓の中の一つが、これ以上開かないというほど、思い切り大きく開けてある。

「締めるのを忘れているんだろう」金子がいった。

「そうかも知れない。しかし――」

 渡辺は未だに落ちないような顔をして、考え込むような恰好で歩き出した。渡辺と一緒に歩いていると彼はきっと何かしら私などの気のつかない事を見つける。そうした事が、後に何かの役に立つ事もあり、全然何の役に立たない事もあるが、とにかく科学者の観察の鋭さという事については私は毎度ながら頭を下げているのである。

 やがて私達は洋館の前についた。

 渡辺が案内を乞おうとすると、まるで待ち合していたように、中からドアが開いた。

 私はハッと思った。むろん、そこに立っているのは、佐山みな子に相違ないけれども、私は看護婦をしたり、手切金を利殖して土地を買うような女だから、近眼鏡でもかけてツンと澄した女か、それともあぶらぎって、人をジロジロ見廻すような女かと想像していたのだったが、今玄関に現われたのは、 白いというよりは蒼ざめた顔色が陰気には見えるが、二重瞼の鼻筋の通った感じのいい洋装美人であった。


枯れ枝


 みな子は渡辺を見て、愛想よくニッコリと笑ったがすぐ私達の方にさぐるような眼を投げかけた。

「こちらが高笠君で」渡辺は急いで紹介した。「こちらが弁護士の金子君です。私の親友で、丁度高笠君と一緒にいたものですから――」

「よくいらして下さいました」みな子は始ママめて私達に笑顔を見せながら、「さアママ、どうぞ」

 私達は玄関のすぐ傍の小さい応接室に通された。

 みな子はいいくそうに、

「アノ、只今主人は客間の方で寝ておりますので、お茶も差し上げませんで、大へん失礼でございますけれども、今のうちに地所の方をご覧下さいませんでしょうか。起きますと、うるそうございますので――」

「承知しました」渡辺が気軽く答えた。「すぐ拝見しましょう。明るいうちに拝見して置く方がいいですよ。ねえ、諸君」

「うん」

 金子が渋々答えた。全くこの寒空に、折角部屋に這入ったと思った途端、又外へ引張り出されるのは有難くない事に違いない。

 地所は思ったより遙かに広かった。こんな片田舎だから、今こそ電車の開通で多少便利になったとはいえ、三四年以前には殆ど只同様の値だったに違いないからこれだけの広さが買えたのだろう。温室があり、畑があり、果樹園があり、小高い丘を上ると、その向うは大きな林になっていた。

「これアママどうも大したものだ」外套の襟を懸命に立てながら金子が驚嘆するようにいった。

 林を一廻りして、そろそろ帰り路についた時に、渡辺が不意にみな子にいった。

「奥さん、あなたはキャンプをなすった事がありますねえ」

「え」みな子は思いがけない質問に眼を丸くしたが、すぐにうなずいて、「ええ、未だ一人でいる時分、お友達と山へ行って、キャンプをした事があります。でもどうしてそんな――」

「なに、さつきから見ていますとね、奥さんはそこらに落ちている枯枝を無意識に、盛んに拾ってらっしゃる。お拾いになる枯枝を見ると、よく乾いていて、燃すのに手頃の小枝ばかりです。キャンプの御経験でもなければ、そんなものはお拾いにならないだろうと思いましてね」

「まアママ、渡辺さんに会ってはかないませんわ。人の気のつかないような事ばかり見てらっしゃるんですもの」

「そこが科学者のあさましさですよ」

 金子が例の如く憎まれ口を利いた。

 すると、みな子は急に真顔になって、金子を睨みつけるようにして、

「まアママ、おひどい。浅間しさだなんて。そこが科学者のお偉い所じゃありませんの」

「いや、どうも、ハハハハハハハ」

 みな子の剣幕が余り激しかったので、金子はいい加減に笑いに紛らしてしまった。

 暫く行くと、みな子が急に立止った。

「まアママ、私、すっかり忘れてしまって」

「何をですか」渡辺が訊いた。

「お隣りとの境の事ですの。ぢさかいに石が立っている筈なんですけれど、よく分らなくて。先刻見て頂こうと思いながら、つい忘れてしまいましたの」

「地境って?」

「この林の向うですわ」

「じゃ訳ありません。引返して見て上げましょう」

「でも、お気の毒ですわ」

「なに、何でもありませんよ。ねえ、諸君」

「うん」金子が又渋々うなずいた。

「じゃ、申訳ありませんけれども、一寸引返して見て頂きたいんですけれども」

「いいですよ」

 渡辺はもうきびすを返して、もと来た路へ戻ろうとした。私と金子も渡辺について引返そうとした。ところが、みな子は立止ったままで、

「ではお願いしますわ。私、一足お先に家に帰って、お茶の用意をいたしますから――」

ついでに火をうんと起して貰いたいな」金子が無遠慮にいった。「何しろ、寒くてやりきれませんからな、奥さん」

「はいはい、承知いたしました。本当にこんな寒い日に、御面倒を願いまして」

「奥さん」渡辺は笑いながら「この男のいう事を気にしないで下さい。おい、金子、余計な事をいわないで行こう」

 私達三人は元来た道へ引返した。みな子は暫く立って見送っていたが、すぐに足を早めて家の方に急いで行った。

「この土地を処分するといっても、中々大へんだね」歩きながら私はいった。

「買手はあるというんだけれどもね」渡辺が答えた。

 林を抜けて、地境の所へ来ると、境の石杭は訳なく見つかった。

「なアママーんだ」金子がいった。「こんなにはッママきりしているじゃないか」

「そこが女なんだね」渡辺がいいわけするようにいった。「はっきりした上にもはっきりしないと、気になるんだね」

 私達は暫くその辺を歩き廻って、境の石杭を四五本発見した。

「心配する事はない。これなら大丈夫だ。何しろ寒くてやりきれない。行こうじゃないか」

 金子に促されて、私と渡辺は家の方に足を向けた。私達は始ママめての道なので、正直に最初来た通りの道を戻って来たが、後で考えると、それは大分廻り路だった。真直ぐに突切って行くと、余程近かったらしい。

 みな子は台所でせっせと支度をしていた。

 客間らしいあたりの煙突から盛んに煙が上っていた。

「しめたぞ」金子は大きな声でいった。「暖かい火に当れるぞ」

 みな子は台所から私達の姿を認めると、すぐ濡れた手を拭き拭き飛出して来た。

「もう主人もそろそろ起きるだろうと存じます。どうぞ、こちらへ」

 と、先に立って、私達を案内しながら、客間のドアを開けたが、忽ち、アッと叫んで棒立ちになってしまった。

 この時の部屋の中の恐ろしい有様は、今だに忘れる事は出来ない。暖炉に近い窓際に長椅子があって、その上に髪の毛の薄い瘦せた五十恰好の男がつっ伏していたが、なんと、その背中に白い柄の短刀が、グサリと突立っていて、そこから泉のように流れ出した血が、床一面に流れて、所々に不気味な血溜りを作っているのだ!

「し、しっかりして」

 渡辺はよろよろと倒れかかったみな子を、抱きかかえながら、懸命に叫んでいた。みな子の顔はまるで紙のように血の気がなく、恐怖に充ちた眼はかっと見開いたままだった。

ものとりだな」

 金子は口の中でこう呟いた。

 専門家ならぬ素人の私にも物奪りの所為という事は分った。部屋の中がひどく引搔き廻してあった。きっと紛失した品があるに相違ない。

「医者と、それから警察と」

 渡辺はみな子を抱えながら叫んだ。

 私はすぐ邸の外へ飛出したが、幸いな事には、くわかついで自転車に乗った土地の青年が通りかかった。私は大急ぎで呼留めた。

「ひ、人殺しだッ。警察と医者を頼むッ」

 青年は仰天しながら私のいう事を聞いていたが、すぐ、「承知しましたッ」といって、自転車を飛ばした。

 そんな事で、浦和市から医師と司法主任以下の警官が案外早く駆けつけて来た。

 取調べの結果、被害者の秀造は、腕につけていたきんがわ時計と、懐中にあった筈のがまぐちとをられていた。その上に客間に飾ってあった置時計と、宝石をちりばめた巻煙草入れがなくなっていた。

 玄関の戸は中から締りがしてあったし、台所はみな子が帰るまで、外から締りがしてあったので、その方面からは這入る事は出来ないが、窓は全然締りがしてなかったので、どの部屋からでも窓を押し開けて這入る事が出来るのだった。

「兇行時間は少くとも二時間以上です」綿密に検屍した医師はいった、「死後硬直が始まりかかっていますし、血液の凝固の状態からいっても、その位は経っています。この部屋は随分暖かいですから、これ位の温度では血液の凝固は少し遅くなります。これが室外だと一時間位で、これ位の凝固があるかも知れませんが、まアママこの部屋では二時間以上と推定すべきです」

 屍体を発見してから、医師が来るまでに一時間ほど経っているから、秀造は私達が屍体を発見した時から更に一時間ほど以前に殺された事になり、丁度、私達がみな子に案内されて、広い地所をあちこちと歩き廻っていた間になる。

 一時の失神からようやく恢復したみな子は、未だ血の気のない土のような顔で、秀造の屍体に縋りつかんばかりにして、泣き喚いた。

「すみません、すみません、ゆ、許して下さい。ひ、一人で置かなければよかったのだ。一人ぽっちにして私が外を歩き廻っていたからいけなかったんです。すみません。すみません。ゆ、許して下さいッ」


火を焚いたのは?


 渡辺と私と金子は交る交るにみな子をなだめ慰めた。

「なにもあなたのせいというんじゃない。全く災難なんだから――」

「奥さん、お察ししますけれども、泣いた所で取返しがつかないんですから――」

「ね、そうしていちゃ肝腎の捜査に邪魔になりますから、落着いて、落着いて、まアママ、こっちへお出なさい」

 私達はいろいろにいったけれども、みな子はすっかり取乱してしまって、屍体にすがりついて容易に離れようとしないのだった。

 日はとっぷりと暮れた。未だ判事も検事も出張して来なかったが、刑事は真暗な闇の中を、懐中電燈を照らしながら、何とかして手係りを見つけようと、這い廻っていた。

 兇器の柄から指紋が得られるかと期待されたが、それは期待外れで、被害者の指紋以外に何にも現われなかった。兇器に使われた短刀は被害者のもので、みな子が居間の机のひきだしに隠して置いたのを秀造がいつの間にか持出したものらしく、それが加害者に悪用されたのだ。加害者を見つけて秀造がいきなり短刀を抜いて切りつけようとしたのを、力の強い加害者に揉ぎ取られて、長椅子の上に押えつけられて、背中から一さしやられたものらしい。秀造の姿勢が自然の姿勢でなく力委せに背中から押えつけられたらしく、腹ンママ這いになりながら、踠いた形跡があった。短刀の柄に加害者の指紋のないのは、加害者が手袋を嵌めていたか、手拭でも捲きつけてあったためであろう。

 私達三人は帰るにも帰れなくなった。判検事が出張して来て、証人としての取調べが済むまで、じっと待っていなければならないのだ。

 私と渡辺とは例の玄関の傍の小さい部屋に這入って僅かばかりの火の這入った火鉢に、手をかざしながら、寒さにふるえていた。

「金子はどうしたんだろう」渡辺がふと思い出したようにいった。金子は先刻からどこへ行ったのか、ずっと姿を現わさないのだ。

「客間の方にいるんだろう。あそこは暖炉があって暖かいから――」私はいった。

「いくら暖かくても、屍体のある上に、警官が多勢いるからね」

「金子は弁護士の職業柄、刑事事件に度々携わっているからね。屍体なんかも案外平気だし、それに警官なんていって見りゃ仲間見たいなもので、僕達と違って気持が楽なんだよ」

「ひどい目に会わして済まなかったなアママ

「なに、まんざら僕の仕事に関係のない事もないから、かえっていい経験になるよ」

「そういってくれればいいが、何しろ迷惑をかけたよ」

「迷惑といえば君だって同じ事じゃないか。時に」私は話題を変えようと思って、「犯人の心当りはどうだ。君の得意の科学的頭脳で解決出来んかね」

「物奪りではね」渡辺はいつになく沈んだ調子でいった。「これが恨みの犯行だとか、復簪だとかいうのなら、又推理のしようもあるが、流しの物奪りじゃ、摑み所がないさ。いずれ、警察がルンペン狩でもして、犯人を見つけてくれるよ」

 そういっている所へ、金子がひょっこり這入って来た。金子の顔には一種異様な表情が浮んでいた。私はすぐにハハア何かあったなと思った。

 金子はいていた椅子に腰を下したが、すぐ話しかけようとしないで、煙草入から煙草を一本つまみ出して火をつけた。

「何か手係りがあったかい」私は辛抱がしきれなくてとうとう口を切った。

「うん」金子はチラリと渡辺を見ながら、重々しくうなずいた。

「どういう事だい」

「手係りというのは、つまり渡辺君の発見した事なんだが――」

 渡辺はチラリと金子を見たが、すぐ傍に眼をやった。

「え、渡辺君が発見した?」

「うん、そら、窓の開いていた事さ。それからみな子さんが小さい枯枝を拾った事――」

「そ、それがどうしたというんだ」私は思わず、膝を乗り出した。

「あの窓の開け放しになっていた部屋というのが、兇行のあった部屋なんだよ」

「じゃ、窓から這入ったんだね、犯人は」

 私は勢い込んで訊いたが、金子はそれには答えないで、

「君はあの部屋がひどく暖かかったのを覚えているかい」

「うん」といったが、すぐ気がついて、「なるほど、変だね、窓の開け放しになった部屋があんなに暖かかったとは」

「つまり急いで暖炉をきつけたんだよ」

「急いで? 誰が?」

「石炭や薪ではそう急に燃えつかんだろう。だから、燃え易い、枯れた上によく乾いた小枝をウンとしたのさ」

「誰が燃したんだ」私は思わず声を強めた。

「まあ聞き給え」反対に金子は落着いて、

「暖炉の傍に、一寸気のつかないような揚げ蓋があってね、その中に枯枝が一杯詰っていたらしい形跡があるんだ。底の方に未だいくらか小枝が残っていたし、暖炉の燃え残りからも、確かに小枝らしい事が立証されるのだ。むろん、その枯枝はみな子さんが、幾日もかかって拾い集めていたのだ。だから、先刻みな子さんが無意識に枯枝を拾い上げたのは、必ずしもキャンプの習慣ではなかったのだ。毎日のように拾い集めていたので、すっかり癖がついてしまったんだよ」

「なるほど、そうだったのか。しかし、集めたのはみな子さんとして、燃したのは――」

「温度の低い所と、温度の高い所では、死後硬直の起る時間や、血液の凝固する時間が大へん違うそうだ。気候でいって見れば、冬と夏では大部違う――」

「そ、それで」

「つまり暖かママいと死後硬直も血液の凝固も徐々に起る。例えていえば、零度に近い気温では一時間で起るが、華氏の八十度近くもある気温では二時間かかるといったような訳さ」

私は少し分って来たような気がした。

「そうか、じゃ――」

「医師は、兇行時間をさかのぼって二時間以上と推定したね」金子は私がいおうとするのを遮って、「それは医師は最初からあの部屋が華氏の八十度近い温度だったとして断定したのだ。もしあの部屋が初め零度近くだったとして、その時に兇行が行われ、それから大急ぎで枯枝を焚いて、温度を急騰さしたのだとすると――」

「ううむ」私は唸った。「そうなると、推定時間が狂って来る」

「そうなんだ。最初から華氏八十度の気温なら、あの状態では死後二時間という事になるけれど、もし零度に近い気温で殺害されたとすると、死後一時間或いはそれより以内という風に短縮されるのだ」

「――」私は一寸言葉が出なかった。

「みな子さんは、僕達に地境の石杭を見てくれといって、自分一人だけ先へ帰ったね。僕達は地境まで引返して、それからあちこちと石杭を調べ、それから元来た路を廻り路して家に帰ったね。それに要した時間はたっぷり三十分はかかっている。ところが、あそこから近路をして、駆け出せば、家まで優に五分で行けるのだ。その十五分の間に驚いて眠りから覚めた秀造を、窓の開け放しになっている客間へ引摺って行き、長椅子に押しつけて、ー刺に刺し殺し、開いていた窓を締め、それから暖炉の中にかねて貯えてあった枯枝を突込んで、火をつけ、ドンドン燃やし、台所へ行って、素知らぬ顔をしている――」

「じゃ、秀造は別の部屋で寝ていたんだね」

「そうなんだ。まさか今日の寒さでは、火の気のない、窓の開け放しの部屋では、いかに精神異常者でも寝ていられんからね。客間に寝ているといったのは噓なんだ。もうみな子さんはすっかり白状したよ。なくなったという時計も蟇口もその他のものも、みんな二階の寝室から出て来たよ。みな子さんは一時そこへ隠して置いて、そっと処分する心算だったのだ」

 ああ、何という恐ろしい企みであろう。気温を変えて、死後硬直や血液凝固の有様を変えて兇行の推定時間を誤らして、アリバイを作って逃れようとしたとは、看護婦をしていたというから、いつの間にかそんな智ママ識を得たのであろう。

「し、しかし」私はどもり吃りいった。「動機は、あ、あんなに貞淑で、五年の間も忍従に忍従を重ねていた女が――」

「恋なんだよ。恋されている男は何も知らないんだ。片思いだね。その男を恋するまではたとい精神病者であれ、どんな虐待を受けようが、良人を殺そうなどという気は微塵も起さなかったそうだ。その男を思うようになってから、つい恐ろしい気を起したのだそうだ。因果だねえ。考え方によっては可愛想な女さ。僕は義俠的に弁護を引受けようと思っているよ」

「その相手の男というのは、どういう男なんだい」

「絶対にいわないんだ。感心な女さね。その男に迷惑がかかってはならないと思っているんだね」

 この時に、今まで黙って聞いていた渡辺が悲痛な調子でいった。

「詰らない努力をしたものだ。死後硬直の問題など、それほど断定的のものではないから、苦心してアリバイにしようとしても、結局は無駄なんだよ。いつかはきっと発見するのだ。しかし」ここで渡辺は声を落して「死後の時間の判定を誤らして、アリバイにしようと思ったのなら、僕を呼んだのがいけないのだ。もっとすベての現象に対して、無関心なものを呼べばよかったのだ」

「そうだ」金子は力強くうなずいた。「全くそうだ。君でなかったら、窓の開いていた事にも、彼女が枯れた小枝を拾う事にも気がつかなかっただろう。しかしね、渡辺君、彼女は何とかして君に傍に来て貰いたかったのだよ」

 私は私の書いた『食卓の殺人』を思い出した。渡辺は無論彼自身が思われていようなどとは考えていなかったであろうが、ひそかに彼を恋い慕っている女を、知らず知らずのうちに絞首台に送るような証拠を指摘したのだ。殺人が発見された後は、渡辺は恐らく金子の話を待つまでもなく、みな子がやった事を見抜いていたのだろう。彼はしかしそれを摘発しなかった。みな子の哀れな立場を思って、知らないような顔をしていたのに相違ない。

 渡辺の心の中はきっと苦しいのだ。

 みな子のトリックを見破った金子さえ、得々するどころか、むしろ元気がないほどだ。

 やがて、渡辺はうな垂れながらいった。

「同情した事がかえって仇になったのだ」

「仕方がないよ」金子は気の毒そうにいった。

「人は自分の知らなかった事について、一々責任を取れないからね」

 自動車の警笛の音が遠くで微かに聞えた。判検事の一行がついたのであろう。

(初出誌不明)

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  1. 『甲賀三郎探偵小説選III』 論創社〈論創ミステリ叢書〉、2017年ISBN 9784846015695

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。