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門人伝説 (一遍上人語録)

門人もんじん傳說でんせつ


しやうにん或時あるとき、しめしてはく、しやうだうじやうもん分別ふんべつすべきものなり。しやうだうもん煩惱ぼんなうそくだいしやうそくはんだんず。われこの法門ほふもんひとにをしへつべけれども、たうこんにおいてはかなふべからず。いかにも煩惱ぼんなう本執ほんしふたちかへりて[1]ひとそんずべきゆゑなり。じやうもん身心しんじんはうして、三界さんがい六道ろくだうなかまうするところひとつもなくしてわうじやうぐわんずるなり。此界このかいなか一物いちもつえうあるべからず。このをここにおきながら、しやうをはなるることにはあらず。

またいはく三心さんじんといふはみやうがうなり[2]。このゆゑしん信樂しんげうよくしやうこくしようみやうがうしやくせり。ゆゑ稱名しようみやうするほかまつた三心さんじんはなきものなり。

またいはくじやうしんりきしふこころ彌陀みだするを眞實しんじつしんたいとす[3]其故そのゆゑ貪瞋とんじんじやかんひやくたんしやくするはしゆじやう意地いぢをきらひすつるなり。三毒さんどく三業さんごふなかには意地いぢそく煩惱ぼんなうなり。深心じんしんとは、自身現是罪惡じしんはげんにこれざいあく生死凡夫しやうじのぼんぶしやくして、煩惱ぼんなうそくほんぐわんみやうがうするを深心じんしんたいとす。しかればじやうしん深心じんしんしんしゆじやう身心しんじんのふたつをすてて、りきみやうがうする姿すがたなり。向心かうしんとは、りきしふとき[4]諸善しよぜんみやうがうしよ諸善しよぜんいちがふ[5]するとき、のうしよ一體いつたいなつて、南無阿彌陀なむあみだぶつとあらはるるなり、このうへはかみ三心さんじんそく即廢そくはい[6]して獨一どくいち南無阿彌陀なむあみだぶつなり。しかれば三心さんじんとは身心しんじん念佛ねんぶつまをすよりほかべつさいなし。その身心しんじんてたる姿すがた南無阿彌陀なむあみだぶつこれなり。

またつねながけんしやうばう[7]しようしていはく三心さんじん所廢しよはい法門ほふもんはよくたてられたり。さればわうじやうとげられたり。

またいはくじやうしん眞實しんじつといふこと、くわん三品さんぼん[8]いはく、「ものむにことさまによりて、くん讀事よむことあり。くんよまざることあり」と。といふはしんなり。じやうといふはじつなりとしやくしたまひたる、ゆゑじやうをばくんにかへりてよむべからず。ただみやうがう眞實しんじつなり。これすなはち彌陀みだ眞實しんじつといふなり。わがぶんこころよりおこす眞實心しんじつしんあらず。ぼんじやうをもてそくりやうするほふ眞實しんじつなし。所以ゆえんはいかんとなれば、能緣のうえんこころまうなるゆへに眞實しんじつなり。ただ所緣しよえんみやうがうばかりを眞實しんじつとす。ゆゑみやうがう不可思議ふかしぎどくともとき、また眞實しんじつともとくなり。しゆきやう首題しゆだい大樂だいらく〈大日〉金剛こんがう〈阿閦〉くう〈寶生〉眞實しんじつ〈彌陀〉三昧耶さまや〈不空成就〉きやうといふ。もとより眞實しんじつといふは彌陀みだみななり。さればじやうしん眞實心しんじつしんといふは、りき眞實しんじつするこころなり。

またいはく深心じんしんしやくしんげん罪惡ざいあくしやうぼんくわうごふ已來常没いらいじやうもつ流轉るてん無有むう出離しゆつりえんといふこと、ひとおもへらく、このため種種しゆ財寶ざいはうをもとめはしり、さいとうたいしたるをこれぼんのくせなり。かかることをえすてねばこそ罪惡ざいあくしやうぼんものようにもたたぬぞとしやくせられたりと。このしからず。わるきもののしゆつようにもたたねばこそこのをばすつべけれ。さればしやくにはほとけすてしめたまふをばすて、さらしめたまふをばされとへり。わろしとはしりながら、いよいよあらはしてこころやすくはぐくみたてんとて、財寶ざいはうさいをもとめて、酒肉しゆにくしんをもてやしなふことは、ゑせものとりたる甲斐かひなし。わろきものをばすみやかにすつるにはしかず。

またいはくしんげん罪惡ざいあくしやうぼん[9]ない無有むう出離しゆつりえんしんじて、りきするとき種種しゆしやうはとどまるなり。いづれのをしへにもこのくらゐりてしやうだつするなり。いまみやうがう能所のうじよ一體いつたいほふなり。

またいはくじやうたつるはごんしやうじ、ぐわんわうじやうこころをすすめんがためなり。ごんをすすむることは、所詮しよせん稱名しようみやうのためなり。しかれば深心じんしんしやくには使にんごんといふなり。じやうのめでたき有樣ありさまをきくにけて、ぐわんわうじやうこころおこるべきなり。このこころがおこりぬれば、かならずみやうがうしようせらるるなり。さればぐわんわうじやうのこころはみやうがうするまでの初發しよほつのこころなり。わがこころ六識ろくしき分別ふんべつ妄心まうじんなるゆゑかの修因しゆいんあら[10]みやうがうくらゐすなはちわうじやうなり。ゆゑりきわうじやうといふ。うちまかせてひとごとにわがよくねがひ、こころざしがせつなれば、わうじやうすべしとおもへり。

またいはく深心じんしんしやくほとけてしめたまふものをばすなはちてよといへる。ほとけといふは彌陀みだなり。てよといふはりきしふなり。ほとけぎやうぜしめたまふものをばすなはちぎやうぜよといへる。ぎやうとはみやうがうなり。ほとけさらしめたまふところをばすなはちされといへる。ところとは穢土ゑどなり。ずゐじゆんぶつぐわんといへる。ぶつぐわんとは彌陀みだぶつぐわんなり。

またいはく念念ねんしやしやといふは、南無阿彌陀なむあみだぶつほふ一體いつたい[11]のうなり。或人あるひとにはつくといひ、あるひほふつくともいふ。いづれも偏見へんけんなり。ほふみやうがうのうしりぬれば、つくれどもたがはず。ほふつくれどもたがはず。そのゆへはほふ不二ふにみやうがうなれば、南無阿彌陀なむあみだぶつほかのうもなくまたしよもなきゆゑなり。

またいはくじやう六品ろつぽん諸善しよぜん[12]りきしよじやう善體ぜんたいをとき、三品さんぼん煩惱ぼんなう賊害ぞくがいのすがたをとくなり。そのじつぎやうふく[13]ものじやう三品さんぼんととき、戒福かいふく[14]ものをば中三品ちうさんぼんととき、ふく[15]ものをば三品さんぼんとくべし。そのゆへは一明いちみやう三福さんぷく以爲いゐ正因しやういん二明にみやうほん以爲いゐ正行しやうぎやうしやくして、ぼんともに正行しやうぎやうぜんあるべきなり。向心かうしん諸善しよぜんみやうがうしよ諸善しよぜんと、しゆじやうりきとき諸善しよぜんいちになるときをいふなり。

またいはく隨緣ずゐえん雜善ざふぜんなんしやうといへる隨緣ずゐえん[16]といふは、こころほかきやうををいてしゆぎやうするなり。よそのきやうにたづさはりてこころをやしなふ。ゆゑきやうめつすればじやうじゆせず。これすなはちりきしふぜんなり。これを隨緣ずゐえん雜善ざふぜんといふ。

またいはくといふは煩惱ぼんなうなり。しよぎやうほふしふ各別かくべつするゆゑに、いかにもしふあらばしゆぎやうじやうずべからず。一代いちだい敎法けうぼふこれなり。隨緣ずゐえんびやうじやかくはうといふも、これりきぜんなり。

またいはくいまりき不思議ふしぎみやうがう受用じゆゆう[17]なり。受用じゆゆうといふは、みづみづをのみ[18]やくがごとく、まつまつたけたけ[19]其體そのたいをのれなりにしやうなきをいふなり。しかるしゆじやうしふ一念いちねんにまよひしより已來このかたすでじやうもつぼんたり。ここ彌陀みだほんぐわんりきみやうがうしぬれば、しやうなき本分ほんぶんにかへるなり。これをりき飜迷ほんめい還本げんぼんといふなり。みやうがうするほかわれとわが本分ほんぶんほんかへることあるべからず。

またいはくのうといふは南無なむなり。十方じつぱうしゆじやうなり。これすなはちみやうぢよく中夭ちうえうみやうなり。しかるじやうぢうめつりやうじゆしぬれば、しふめいじやうをけづりて、のうしよ一體いつたい[20]にして、しやうもとなるすがたをろく南無阿彌陀なむあみだぶつじやうじゆせり。かくのごとくりやうするを三心さんじん智慧ちゑ[21]といふなり。その智慧ちゑといふは、所詮しよせんりきしふじやうりやうすてうしなふなり。

またいはく我體わがたい南無阿彌陀なむあみだぶつ獨一どくいつなるを一心いつしんらんといふなり。されば念念ねん稱名しようみやう念佛ねんぶつ念佛ねんぶつまをすなり。しかるをもわれよくこころわれよく念佛ねんぶつまをしわうじやうせんとおもふは、りきしふがうしなへざるなり。おそらくはかくのごときひとわうじやうすべからず。ねんねん作意さい不作意ふさいそうじてわがぶんにいろはず。ただ一念いちねんほとけなる一向いつかう專念せんねんといふなり。

またいはくもとより已來このかた自己じこ本分ほんぶんてんするにあらず、ただ妄執まうしふてんするなり。本分ほんぶんといふは諸佛しよぶつしようみやうがうなり。妄執まうしふ所因しよいんもなく實體じつたいもなし。ほんしやうなり。

またいはくひとおもへらく、りきりき分別ふんべつしてわがたいもたせて、はれりきにすがりてわうじやうすべしと。云云

このしからず。りきりき初門しよもんことなり。自他じたくらゐ打捨うちすてただ一念いちねんほとけになるをりきとはいふなり。くま權現ごんげん[22]しんしんをいはず。ざいざいろんぜず。南無阿彌陀なむあみだぶつわうじやうするぞとげんたまひしときより、ほふりやうして、りきしふ打捨うちすてたりと。これはつねおほせなり。

またいはくりきぜん七慢しちまん[23]まん[24]をはなれざるなり。ゆゑ憍慢けうまんへいだいなんしんほふといひ、三業さんごふぎやう憍慢けうまんともしやくするなり。無我むがにん南無阿彌陀なむあみだぶつしぬれば、あぐべきひともなくくだるべきもなし。このだうだいきやう[25]には住空ぢうくうさうぐわん三昧ざんまいといひ、あるひ通達つうだつしよほつしやう一切いつさいくう無我むがせんじやうぶつひつぢやうによせつともときたまへり。

またいはく極樂ごくらくはこれくう無我むがじやうなるがゆゑに。善導ぜんだうくわしやうひつきやう逍遥せうえう有無うむへり。わうじやうにんとくには皆受かいじゆねん虛無こむしんごくたいといへり。さればみやうがうしやうわうしやくびやくいろにもあらず。ちやうたん方圓はうゑんかたちにもあらず、にもあらずにもあらず、五味ごみ[26]をもはなれたるゆゑに。くちにとなふれどもいかなるほふともおぼへず。すべていかなるものともおもはかるべきほふにあらず。これを無疑むぎりよといひ、十方じつぱう諸佛しよぶつはこれを不可思議ふかしぎとはさんじたまへり。ただこゑにまかせてとなふれば、ぐうしやうをはなるるごん道斷だうだんほふなり。

またいはくりきときしふ憍慢けうまんこころおこるなり。そのゆへはわがよくこころわがよくぎやうじてしやうはなるべしとおもふゆゑに、智慧ちゑもすすみぎやうもすすめば、われほどのしやわれほどぎやうじやはあるまじとおもひて、をあげひとをくだすなり。りき稱名しようみやうしぬれば、憍慢けうまんなし卑下ひげなし、其故そのゆゑ身心しんじんはうして、無我むがにんほふしぬれば、自他彼此じたひしにんなし。でんじんあま入道にふだう愚癡無智ぐちむちまでもびやうどうわうじやうするほふなれば、りきぎやうといふなり。般舟讃はんじゆさんに、三業さんごふ起行きぎやう憍慢けうまんといふはりきぎやうなり。單發たんぽつじやう提心だいしんしん念念ねんしやう安樂あんらくといふは三心さんじんをすすむるなり。りきぎやう憍慢けうまんおほければ、三心さんじんをおこせとすすむるなり。



またいはくちうびやくだう南無阿彌陀なむあみだぶつなり。すゐくわ二河にがわれこころなり。二河にがにをかされぬはみやうがうなり[27]

またいはく阿彌陀あみだきやう一心いつしんらんといふはみやうがういつなり。もしみやうがうほかにこころをもとめなば、しんらんといふべし、一心いつしんとはいふべからず。さればしようさんじやうきやうには慈悲じひゆう[28]りやうしんらんととけり。がおこす妄分まうぶん一心いつしんにはあらず。

またいはく安心あんじんといふは南無なむなり。ぎやうといふは阿彌陀あみださんなり。ごふといふはほとけなり。ほふ一體いつたい南無阿彌陀なむあみだぶつりぬれば、三心さんじん[29]しゆ[30]ねん[31]みなもてみやうがうなり。

またいはくけつぢやうわうじやうしんたらずとてひとごとになげくはいはれなきことなり。ぼんのこころにはけつぢやうなし。けつぢやうみやうがうなり。しかればけつぢやうわうじやうしんたらずとも、くちにまかせてしようせばわうじやうすべし。是故このゆゑわうじやうこころによらず。みやうがうによりてわうじやうするなり。けつぢやうしんをたててわうじやうすべしといはば、なほ心品しんぼんにかへるなり。わがこころをうちすてて一向いつかうみやうがうによりてわうじやうすとこころれば、をのづからまたけつぢやうしんはおこるなり。

またいはくけつぢやうといふはみやうがうなり。わがわがこころはぢやうなり。じやうせんかたちなれば念念ねんしやうめつす。しん妄心まうしんなればまうなり。たのむべからず。

またいはく〈飾萬津別時結願の仰なり。〉みやうがうしんずるもしんぜざるも、となふればりき不思議ふしぎちからにてわうじやうす。りきしふこころをもてかくもてあつかふべからず。極樂ごくらく無我むがなるがゆゑに、しふをもてはわうじやうせず。みやうがうをもてわうじやうすべきなり。

またいはく萬法まんぼふ[32]よりしやう[33]煩惱ぼんなうよりしやうず。

またいはくみやうがうこころをいるるとも、こころにみやうがうをいるべからず。

またいはくしやうといふは妄念まうねんなり。妄執まうしふ煩惱ぼんなう實體じつたいなし。しかるにこの妄執まうしふ煩惱ぼんなうこころもととして、善惡ぜんあく分別ふんべつする念想ねんさうをもて、しやうはなれんとすることいはれなし。ねんすなはしゆつのさはりなり。ゆゑねんそくしやうしやくせり。しやうはなるるといふはねんをはなるるなり。こころはもとのこころながら、しやうはなるるといふことまたくなきものなり。

またいはくかん徑山けいざんといふ山寺やまでらあり。ぜんてらなり。ふもと卒都婆そとばめいねん是病ぜびやうぞくやく云云由良ゆらしんばうこの頌文じゆもんをもてほふたりと。云云

またいはくみやうがう念佛ねんぶつといふこと意地いぢねん[34]よん念佛ねんぶつといふにはあらず。ただみやうがうなり。ものまつたけぞといふがごとし。をのれなりのなり。

またいはくねんしやういち[35]といふことねんしやうなり。ねんしようとをこんじていつといふにはあらず。もとよりねんしやう一體いつたいなり。ねんしやう一體いつたいといふはすなはちみやうがうなり。

またいはく念佛ねんぶつ三昧ざんまいといふこと三昧さんまいといふは見佛けんぶつなり。じやうには、ぢやう[36]現身げんしん見佛けんぶつさん[37]臨終りんじう見佛けんぶつするゆゑ三昧さんまいづくと。云云このしからず。この見佛けんぶつはみな觀佛くわんぶつ三昧ざんまいぶんなり。いま念佛ねんぶつ三昧ざんまいといふは、無始むしほんじやうぢうめつ佛體ぶつたいなれば、みやうがうすなはちこれ眞實しんじつ見佛けんぶつ眞實しんじつ三昧さんまいなり[38]ゆゑ念佛ねんぶつ王三昧わうざんまいといふなり。

またいはく稱名しようみやうほか見佛けんぶつ[39]もとむべからず。みやうがうすなはち眞實しんじつ見佛けんぶつなり。肉眼にくげんをもてるところのほとけ眞佛しんぶつにあらず。もしわれたうげんほとけなりとしるべし。ただゆめにみるにはじつなることあるべし。ゆめ六識ろくしきばうじて分別ふんべつくらゐにみるゆゑなり。このゆへにしやくにはぢやうといへり。

またいはく順魔じゆんま[40]逆魔ぎやくま[41]のふたつあり。ぎやうじやこころじゆんじてとなるあり。ぎやうじやらんとなりてとなるあり。ふたつのなかには順魔じゆんまがなをだいなり。さいとうこれなり。

またいはく攝取せつしゆしや四字よじ三緣さんえんしやくするなり。せふ親緣しんえん[42]あり。しゆ近緣ごんえん[43]あり。しやぞうじやうえん[44]あるなり。

またいはく如來によらい禁戒きんかいをやぶれるあまほふぎやうずゐをし、をくるしむるは、またくこれさんにあらず[45]。ただごふとく因果いんぐわのことはりをしるばかりなり。眞實しんじつさんみやうがうりきさんなり。ゆゑ念念ねん稱名しようみやうじやう懺悔さんげしやくせり。りきしふこころをもてさんたつべからず。

またいはくりき稱名しようみやうぎやうじやは、このはしばらく穢土ゑどありといへども、こころはすでにわうじやうとげじやうにあり。此旨このむね面面めんにふかくしんぜらるべしと。云云

またいはく慈悲じひ三種さんじゆあり。いはくせうちうだいなり。だいといふは法身ほつしん慈悲じひなり。いまべつぐわんじやうじゆ彌陀みだ法身ほつしんだいひつさげてしゆじやうしたまふ。ゆゑ眞實しんじつにしてむなしからざるなり。これをきやうには佛心者ぶつしんしやだい慈悲じひ以無いむえんせつしよしゆじやうととけり。

またいはくわうじやうといふことわうなり。じやうなり。理智りち契當けいたうするをわうじやうといふなり。

またいはく唯信ゆゐしん罪福ざいふくのものはほとけ五智ごちうたがひてみづからがじやうをもてわうじやうぐわんずるゆゑに。わうじやうはしながら花合くわがふさはりあり。六識ろくしきぼんじやうをもてたとひどくしゆくわんねんこらすとも、能緣のうえんこころまうなれば、所緣しよえんじやうまた實體じつたいなし。極樂ごくらく無我むが眞實しんじつなれば、りきしふぜんをもてはまたくしやうずべからず。ただぐわん一行いちぎやうをもてわうじやうべし。しかればぼんげうをもてはしやうずべからず。ひつみやう爲期ゐご稱名しようみやうほか種種しゆげうをもとむるは、眞實しんじつ佛法ぶつぽふをしらざるゆゑわうじやうすべからず。

またいはくしん寂靜じやくじやうなるをほとけといふ。げうをおこすはほとけといふべからず。げう妄執まうしふなりと。云云このふうじやうつねおほせなり。



またいはく念佛ねんぶつ三品さんぼんあり。じやうこんさいたいいへながら、ぢやくせずしてわうじやうす。中根ちうこんさいをすつるといへども、住處ぢうしよじきとをたいして、ぢやくせずしてわうじやうす。こんばんしやしてわうじやうす。われこんのものなれば、一切いつさいてばさだめ臨終りんじうしよぢやくしてわうじやうをしそんすべきなりとおもゆゑにかくのごとくぎやうずるなり。よくよくこころりやうすべし。ここにあるひととういはく、『大經だいきやう三輩さんばいじやうはいしやよくととけり。いまおんにはさうせり如何いかん。』こたへてのたまはく、『一切いつさい佛法ぶつぽふ心品しんぼん沙汰さたす。さうをいはず。心品しんぼんしやよく[46]してぢやくなることじやうはいとけり。』

またいはく法照ほつせうぜんいはく、『ねんそくねんしやうそくしやう。』と。さればみやうがうすなはちみやうがうなし。龍樹りうじうさつしゆ說法せつぽふみやうといへり。みやうとはこれみやうがうなり。またみやうがうじゆがうなり。ゆゑ阿彌陀あみださんりやうじゆといふなり。此壽このじゆりやう常住じやうぢうじゆにしてしやうめつなり。すなはち一切いつさいしゆじやうじゆみやうなり。ゆゑ彌陀みだ法界身ほつかいしんといふなり[47]

またいはくりやうじゅとは、一切いつさいしゆじやうじゆしやうめつにしてじやうぢうなるをりやうじゆといふなり。これすなはち所讃しよさんほふなり。西方さいはうりやうじゆぶつありといふは能讃のうさんほとけなり。諸佛しよぶつ同道どうだうほとけなるがゆゑなり。

またいはくみなひと南無阿彌陀なむあみだぶつをこころえてわうじやうすべきやうにおもへり。はなはだいはれなきことなり。六識ろくしきぼんじやうをもてりやうすべきほふにはあらず。ただ領解りやうげすといふは領解りやうげすべきほふにはあらずとこころるなり。ゆゑ善導ぜんだう三賢さんげん十聖じつしやう[48]ぶつそくしよしやくしたまへり。

またいはく十方じつぱうさん諸佛しよぶつ不可思議ふかしぎどく讃歎さんだんし、また大經だいきやうには諸佛しよぶつ光明くわうみやうしよ能及のふきふときたまへり。光明くわうみやうさうなり。しかれば諸佛しよぶつげんおよばざるところなり。いかにいはんやぼんまう妄識まうしきをもて思量しりやうすべけんや。ただあほいしん稱名しようみやうするよりほかげう智慧ちゑもとむべからず。

またいはく南無なむとは十方じつぱうしゆじやうなり。阿彌陀あみだとはほふなり。ほとけとは能覺のうがくひとなり。ろくをしばらくほふかくとのさんかいして、つひには三重さんぢう一體いつたいとなるなり。しかればみやうがうほかのうしゆじやうもなく、しよほふもなく、能覺のうがくひともなきなり。これすなはちりきりきぜつ[49]ほふぜつする[50]ところ南無阿彌陀なむあみだぶつといへり。たきぎやくにたきぎつくればめつするがごとく、じやうつきぬればほふまたそくするなり。しかれば金剛こんがう寶戒ほうかいしやういふもんには、南無阿彌陀なむあみだぶつなかにはもなくほふもなしといへり。いかにもほふをたててめいををかば、びやうやくたいほふにして眞實しんじつごく法體ほつたいにあらず。めいほふぜつりきりきのうせたるを不可思議ふかしぎみやうがうともいふなり。

またいはく南無なむかく阿彌陀あみだぶつ本覺ほんがくほふなり。しかればほん不二ふに南無阿彌陀なむあみだぶつなり。

またいはく一念いちねん十念じふねんほんぐわんにあらず。善導ぜんだうしやくばかりにてはなほこころられず。文殊もんじゆ法照ほつせうさづけたまひしは、きやう一念いちねん十念じふねんもんありといへども、一念いちねん十念じふねんことばもなく、ただ念佛ねんぶつわうじやうあほぐべしと。云云念佛ねんぶつといふは南無阿彌陀なむあみだぶつなり。もとよりみやうがうそくわうじやうなり。みやうがうところには一念いちねん十念じふねんといふかずはなきなり。

またいはくわうじやうはじめ一念いちねんなり。はじめ一念いちねんといふもなほつきていふなり。南無阿彌陀なむあみだぶつはもとよりわうじやうなり。わうじやうといふはしやうなり。此法このほふところをしばらく一念いちねんといふなり。さん裁斷さいだんみやうがうにふしぬれば無始むしじうわうじやうなり。臨終りんじう平生へいぜい分別ふんべつするも、妄分まうぶんつきだんずる法門ほふもんなり。南無阿彌陀なむあみだぶつには臨終りんじふもなく平生へいぜいもなし。さんじやうごうほふなり。いづいきいるいきをまたざるゆゑに、當體たうたい一念いちねん臨終りんじうとさだむるなり。しかれば念念ねん臨終りんじふなり。念念ねんわうじやうなり。ゆゑしん念念ねんしやう安樂あんらくしやくせり。おほよそ佛法ぶつぽふ當體たうたい一念いちねんほかにはだんぜざるなり。さんすなはち一念いちねんなり。

またいはく有後うごしん無浮むふしんといふことあり。當體たうたい一念いちねんほかしよなきを無後むごしんといふ[51]所詮しよせん待心たいしん[52]なるをうしなふべきなり。この風情ふうじやう日日にち夜夜ややおほせなりき。

またいはく念佛三昧ねんぶつざんまいしき無形むぎやう不可ふかとくほふなり。のうなし。みやうがう能成のうじやうほふなり。萬法まんぼふ所成しよじやうほふなり。ゆゑほふもすなはち三賢さんげんじふ萬行まんぎやう智慧ちゑ熏成くんじやうすとしやくせり。彌陀みだ色相しきさう[53]莊嚴しやうごんのかざりみなもて萬善まんぜん圓滿ゑんまんかたちなり。依正えしやうはう[54]萬法まんぼふかたちなり。來迎らいかう佛體ぶつたい萬善まんぜん圓滿ゑんまんほとけなり。わうじやうするまた萬善まんぜんなり。萬善まんぜんほか十方じつぱう衆生しゆじやうなし。いち無移むいやくどう[55]とは、念佛三昧ねんぶつざんまいすなはち彌陀みだなり。彼此ひし往來わうらいなし。らい無去むこ不可思議ふかしぎ不可ふかとくほふなり。いかにも來迎らいかう姿すがた萬善まんぜんほふなり。諸行しよぎやう往生わうじやういふじつなり、諸行しよぎやうほかなし。往生わうじやうこそすれ、諸行しよぎやう本願ほんぐわんといふこそ、無下むげほふさいをしらずしていふことにてあれ。

またいはく行者ぎやうじやまつによりてほとけ來迎らいかうしたまふとおもへり[56]。たとひまちえたらんとも、三界さんがいなかことなるべし。稱名しようみやうくらゐすなはちまことの來迎らいがうなり。稱名しようみやうそく來迎らいかうしりぬれば、決定けつぢやう來迎らいかうあるべきなれば、かへつまたるるなり。およそ名號みやうがうほかはみなげんほふなるべし。

またいはく一切いつさいほふ[57]眞實しんじつなるべし。其故そのゆゑ名號みやうがうしよ萬法まんぼふしりぬれば、みな眞實しんじつどくなり[58]。これもどく當體たうたい眞實しんじつなるにもあらず。名號みやうがうじやうずれば眞實しんじつになるなり[59]どくといふは出離しゆつり要道えうだうにあらず福業ふくごふなり。ゆゑ觀經くわんぎやうには萬法まんぼふをつかねて三福さんぷくごふとけり。正因しやういん正行しやうぎやう[60]といふとき名號みやうがういちするなり。

またいはく大經だいきやう住空ぢうくうさう無願むぐわん三昧ざんまいとけり。これすなはち名號みやうがうなり。われさうねん觀法くわんぼふもならず。しやうねん[61]のさとりもならず。ていばくぼんなれども、身心しんじん放下はうげしてただ本願ほんぐわんをたのみて一向いつかう稱名しようみやうすれば、これすなはちしやうねん觀法くわんぼふなり。さうねんさとりなり。これを觀經くわんぎやうには廓然くわくねんだい得無生忍とくむしやうにんとけり。およそ名號みやうがうしぬれば、どくとしてそくなし。これ無上むじやうどくととき、これをりきぎやうといふなり。



またいはくざいといひどくといふこと、ぼんせんのものまたく分別ふんべつすべからず。くうしやくいはく、『しや逆罪ぎやくざいへんじて成佛じやうぶつ直道ぢきだうとなり、しや勤行ごんぎやうはあやまればさん因業いんごふとなる。』と云云。しかればしやどくとおもへども、しやまへにはつみなり。しやつみとおもへど、しやまへにはどくなり。微微みみ細細さいさいなり。われ愚痴ぐちのいかでか分別ふんべつすべきや。なにいはん善惡ぜんあくだうはともに出離しゆつり要道えうだうにあらず。ただつみをつくればぢうをうけ、どくつくれば善所ぜんしよしやうずるゆゑに、あく修善しゆぜんををしゆるばかりなり。しかれば善導ぜんだう罪福ざいふくせうをとはずとしやくしたまへり。所詮しよせんつみどく沙汰さたをせず、なまざかしき智慧ちゑて、身命しんみやうをおしまず。ひとへ稱名しようみやうするよりほか沙汰さたあるべからず。

またいはく善惡ぜんあくだうほんなり。顚倒てんだう虛假こけほふなり。名號みやうがう善惡ぜんあく二機にきせつする眞實しんじつほふなり。

またいはくしん生死しやうじみちしんはんしろなり。生死しやうじをはなるるといふもこころをはなるるをいふなり。しかれば淨土じやうどをばしん領納りやうのふねんともいひ、しやく思量しりやう一念功いちねんこうともしやくし、あるひ無有むう分別心ふんべつしんともいふなり。分別ふんべつ念想ねんさうおこりしより生死しやうじなり。さればこころ第一だいいちあだなり。ひとばくしてえんところいたらしむと。云云

またいはく佛法ぶつぽふ修行しゆぎやうするに近對ごんたいをんたいといふことあり。近對ごんたいといふは、臨終りんじう正念しやうねんにして、妄念まうねんをひるがへし一心いつしんらんなるをいへり。をんたいといふは、道心者だうしんしやはかねて惡緣あくえんひとつもなくすつるなり。臨終りんじうにはじめてすつることはかなはず、平生へいぜいほふ臨終りんじうかならずげんするなり。ゆゑ善導ぜんだうは『忽爾たちまち無常むじやう來逼らいひつすれば、精神せいしん錯亂さくらんしてはじめて驚忙きやうまうす。ばんいへしやうぜばみなしやして、專心せんしん發願ほつぐわんして西方さいはうむかへ。』としやくせり。

またいはくをいとふといふは、らくとも厭捨えんしやするなり。らくなかには、はやすくすつれども、らくはえすてぬなり。らくをすつるをえんたいとす。その所以ゆゑらくほかはなきなり。しかれば、善導ぜんだうは、らくふといへどしかだいなり。必畢ひつきやうじて一念いちねん眞實しんじつらくることし、としやくせり。あるひは、そうじてすす此人天このにんでんらくいとふことを、としやくせり。さればらくほかはなきゆゑに、らくをいとふをえんといふなり。

またいはく三界さんがい有爲うゐ無常むじやうきやうなるがゆゑに、一切いつさい不定ふぢやうなり。げんなり。此界このかいなか常住じやうぢうならんとおもひ、こころやすからんとおもはんは、たとへば漫漫まんたるなみのうへに、ふねをゆるかつてをかむとおもへるがごとし。

またいはく一念いちねん彌陀みだぶつ卽滅そくめつ無量むりやう罪現受ざいげんじゆ無比むひらく後生ごしやう淸淨土しやうじやうどといふこと無比むひらくひとけんらくなりとおもへるはしからず。これとんらくなり。其故そのゆゑ決定けつぢやう往生わうじやうなりぬれば、三界さんがい六道ろくだうなかにはうらやましきこともなく、とんすべきこともなく、生生しやう世世せせてん生死しやうじあひだみなうけてすぎきたれり。しかれば一切いつさい無著むぢやくなるを無比むひらくといふなり。けんらくはみななれば、いかでかぶつこころにして無比むひらくとはふべきや。

またいはくしんきやうおきつみをやめぜんしゆするめんにては、たとひごふをふるとも生死しやうじをばはなるべからず。いづれのけうにも能所のうじよぜつするくらゐいり生死しやうじだつするなり。いま名號みやうがう能所體のうじよたいほふなり。

またいはくうまれながらしてしづか來迎らいかうまつべしと。云云ばんにいろはず一切いつさいしやしてどく獨一どくいちなるをするとはいふなり。しやうぜしもひとりなり。するもひとりなり。さればひとともぢうするもひとりなり。そひはつべきひとなきゆゑなり。またわがなくして念佛ねんぶつまをすするにてあるなり。わがはからひをもて往生わうじやううたがふは、そうじてあたらぬことなり。

またいはく念佛ねんぶつ下地げぢをつくることなかれ。そうじてぎやうずる風情ふじやう往生わうじやうせず。ただ南無阿彌陀なむあみだぶつ往生わうじやうするなり。

またいはく聞名もんみやうよくわうじやうといふこと。ひとのよ念佛ねんぶつするをきけば、わがこころ南無阿彌陀なむあみだぶつとうかぶを聞名もんみやうといふなり。しかれば名號みやうがう名號みやうがうきくなり[62]名號みやうがうほかきくべきやうのあるにあらず。

またいはくわれみづから念佛ねんぶつすれども南無阿彌陀なむあみだぶつならぬことあり。我體わがたいねんもととして念佛ねんぶつするは、これ妄念まうねん念佛ねんぶつとおもへばなり。またくち名號みやうがうをとなふれども、こころ本念ほんねんあれば、いかにも本念ほんねんこそ臨終りんじうにはあらはるれ、念佛ねんぶつしつするなり。しかればこころ妄念まうねんをおこすべからず。さればとて一向いつかうねんなかれといふにはあらず。

またいはくじう西方さいはう過十萬億くわじふまんおくぶつといふことじつ十萬億じふまんおくすうすぐるにはあらず。衆生しゆじやう妄執まうしふのへだてをさすなり。善導ぜんだうしやくに、竹膜ちくまくへだつるに、すなはこれせんゆとおもへり、といへり。ただ妄執まうしふやくして過十萬億くわじふまんおくいふじつにはすうすぐことなし。ゆゑきやうには阿彌陀あみだぶつ去此こしをんとけり。衆生しゆじやうこころをさらずといふなり。およそ大乘だいじよう佛法ぶつぽふこころほかべつほふなし。ただし聖道しやうだう萬法まんぼふ一心いつしんとならひ、淨土じやうど萬法まんぼふ南無阿彌陀なむあみだぶつじやうずるなり。萬法まんぼふ無始むしほん心德しんとくなり。しかるにしふ妄法まうぼふにおほはれて其體そのたいあらはれがたし。いま一切いつさい衆生しゆじやう心德しんとく願力ぐわんりきをもて南無阿彌陀なむあみだぶつじやうずるとき衆生しゆじやう心德しんとくひらくるなり。さればすなはこころ本分ほんぶんなり。これ去此こしをんともいひ、まく西方さいはう遠唯須をんゆゐしゆ十念心じふねんしんともいふなり。

またいはく、まよひも一念いちねんなり。さとりも一念いちねんなり。法性ほつしやうみやこをまよひいでしも一心いつしん妄心まうじんなれば、まよひをほんずもまた一念いちねんなり。しかれば一念いちねん往生わうじやうせずば無量むりやうねんにも往生わうじやうすべからず。ゆゑ一聲いつしやう稱念しようねん罪皆除ざいかいぢよともいひ、一念いちねん稱得しようとく彌陀みだがう至彼しひ還同法性身げんどうほつしやうしんともしやくするなり。ただ南無阿彌陀なむあみだぶつがすなはち生死しやうじはなれたるものを、これをとなへながら往生わうじやうせばやとおもひたるは、めしをくひ、ひだるさやむるくすりやあるとおもへるがごとしと。これつねことばなり。



またいはく、およそ一念いちねん無上むじやう名號みやうがうにあひぬるうへは、明日みやうにちまでもいきえうなく、すなはちとくなんこそ本意ほいなれ。しかるにしやかいいきて、念佛ねんぶつをばおほくまをさん。ことにはなしとおもゆゑに、ねん念佛者ねんぶつしや臨終りんじうをしそんずるなり。佛法ぶつぽふには身命しんみやうすてずして證利しようり[63]ことなし。佛法ぶつぽふにはあたひなし。身命しんみやうすつるがこれあたひなり。これ歸命きみやういふなり。

またいはく食住じきぢうさん三惡道さんあくだうなり。衣裳いしやうを求めざるは畜生道ちくしやうだうごふなり。食物じきもつをむさぼりもとむるは餓鬼がきだうごふなり。住所ぢうしよをかまふるは獄道ごくだうごふなり。しかれば三惡道さんあくだうをはなるべきなり。

またいはくしんといふはまかすとよむなり。にまかするゆゑひとことばかけり。われすなはちほふにまかすべきなり。しかれば食住じきぢうさんをわれともとむことなかれ。天運てんうんにまかすべきなり。くう上人しやうにんいはく、『三業さんごふ[64]天運てんうんまかせ、四儀しぎ[65]だいゆづる。』と。云云これすなはちりきしたるいろなり。たんぜんいはく、『わづらはしくてんずることなかれ、ただ天然てんねんまかせよ。』といへり。

またいはく本來ほんらい一物いちもつなれば、しよにおいてじつもつのおもひをなすべからず。一切いつさいしやすべしと。云云。これつねおほせなり。

またいはく臨終りんじう念佛ねんぶつことみなひと死苦しく病苦びやうくせめられて、臨終りんじう念佛ねんぶつせでやあらむずらむとおもへるは、これいはれなきことなり。念佛ねんぶつをわがまをしがほに、かねて臨終りんじううたがふなり。すで念佛ねんぶつまをすほとけ念力ねんりきなり。臨終りんじう正念しやうねんなるもほとけ祐力ゆうりきなり。往生わうじやうにおいては一切いつさいのうみなもて佛力ぶつりき法力ほふりきなり。ただいま念佛ねんぶつほか臨終りんじう念佛ねんぶつなし。臨終りんじうそく平生へいぜいとなり。前念ぜんねん平生へいぜいとなり、ねん臨終りんじうとるなり。ゆゑ恆願ごうぐわん一切いつさい臨終りんじういふなり。只今ただいま念佛ねんぶつまをされぬもの臨終りんじうにはえまをさぬなり。とほ臨終りんじう沙汰さたをせずしてつね念佛ねんぶつまをすべきなり。

またいはく名號みやうがうにはりやうせらるとも、名號みやうがうりやうすべからず。およそ萬法まんぼふ一心いつしんなりといへども、みづからその體性たいしやうをあらはさず。わがをもてわがことず。またしやうありといへどもそのそのをやくことをえざるがごとし。かがみをよすればわがをもてわがる。これかがみのちからなり。かがみといふは衆生しゆじやうほん大圓だいゑんきやうかがみ諸佛しよぶつしよう名號みやうがうなり、しかれば名號みやうがうかがみをもて本來ほんらい面目めんもくるべし。ゆゑ觀經くわんぎやうには如執によしふ明鏡みやうきやうけん面像めんざうけり。またべつをもてをやけばすなはちやけぬ。いま木中もくちう別體べつたいにはあらず。しかれば萬法まんぼふゆたかならず因緣いんえんがふしてじやうずるなり。その佛性ぶつしやうありといへども、われと煩惱ぼんなうたきぎ燒滅せうめつすることなし。名號みやうがう智火ちひのちからをもて燒滅せうめつすべきなり。淨土じやうどもんはなれてせつするといふ名目みやうもくあり。これをこころえあはすべきなり。

またいはく名號みやうがう諸佛しよぶつしようほふなり。さればしやくには諸佛しよぶつかく彌陀みだとなるといへり。

またいはくほつ名號みやうがう一體いつたいなり。ほつ色法しきほふ名號みやうがう心法しんぼふなり。色心しきしん不二ふになれば、ほつすなはち名號みやうがうなり。ゆゑ觀經くわんぎやうにはもし念佛者ねんぶつしや人中にんちうふん陀利華だりけととく。ふん陀利華だりけとはれんなり。さてほつをばさつ達摩たまふん陀利だりきやうといへりと。云云

またいはく或人あるひととういはく、『諸行しよぎやう往生わうじやうすべきやいなや、またほつ名號みやうがうといづれかすぐれてさふらふ。』と。云云上人しやうにんこたへいはく、『諸行しよぎやう往生わうじやうせばせよ、せずはせず。また名號みやうがうほつにをとらばをとれまさらばまされ。なまざかしからでものいろひを停止ちやうじして、一向いつかう念佛ねんぶつまをすものを善導ぜんだう人中にんちう上上じやうにんほめたまへり。ほつ出世しゆつせ本懷ほんくわい[66]といふも經文きやうもんなり。またしや五濁ごぢよくあく出世しゆつせ成道じやうだうするはこの難信なんしんほふとかむがためなりといふも經文きやうもんなり、したがつやくあらば、いづれもみな勝法しようぼふなり。本懷ほんくわいなり、やくなければいづれも劣法れつぽふなり、ほとけほんにあらず。餘經よきやうしうがあればこそこのたづね出來いできたれ。三寶滅盡さんぼうめつじん[67]のときはいづれのけうとか對論たいろんすべき。念佛ねんぶつほかにはものもしらぬ、法滅ほふめつ百歲ひやくさいになりて一向いつかう念佛ねんぶつすべし。これ道心だうしんじんなり。』

また或人あるひと淨土じやうどもん流流るる異義いぎ尋申たづねまをして、いづれにか付候つけさふらふべきと。云云上人しやうにんこたへていはく、『異義いぎのまちまちなることしふまへことなり。南無阿彌陀なむあみだぶつ名號みやうがうにはなし。もしによりて往生わうじやうすることならばもつともこのたづねあるべし。往生わうじやうはまたくによらず名號みやうがうによるなり。ほつすすむ名號みやうがうしんじたるは往生わうじやうせじとこころにはおもふとも、念佛ねんぶつだにまをさば往生わうじやうすべし。いかなるゑせくちにいふとも、こころにおもふとも、名號みやうがうによらずこころによらざるほふなれば、しようすればかならず往生わうじやうするぞとしんじたるなり。たとへばものにつけんに、こころにはなやきそ[68]とおもひ、くちになやきそといふとも、このことばにもよらず念力ねんりきにもよらず。ただ火者くわしやをのれなりのとくとしてものをやくなり。みづものをぬらすもおなじことなり。さのごとく名號みやうがうもをのれなりと往生わうじやうどくをもちたれば、にもよらずこころにもよらずことばにもよらずとなふれば往生わうじやうするを、りき不思議ふしぎぎやうしんずるなり。』



またいはくくまほん彌陀みだなり。和光わくわう同塵どうぢんして念佛ねんぶつをすすめたまはんがためかみげんじたまふなり。ゆゑ證誠しようじやう殿でんづけたり。これ念佛ねんぶつ證誠しようじやうしたまふゆゑなり。阿彌陀あみだきやう西方さいはう無量壽むりやうじゆぶつましますといふは、のう證誠しようじやう彌陀みだなり。

またいはく我法門わがほふもんくま權現ごんげんさうでんなり。年來ねんらい淨土じやうど法門ほふもんじふねんまでがくせしに[69]、すべてげうをならひうしなはず。しかるをくま參籠さんろうときげんにいはく、心品しんぼんのさはくりあるべからず。このこころはよきときもあしきときまよひなるゆゑに、出離しゆつりえうとはならず。南無阿彌陀なむあみだぶつ往生わうじやうするなりと。云云われ此時このときよりりきげうをば捨果すてはてたり。これよりして善導ぜんだうおんしやくるに、一文いちもんいつほふのう[70]ならずと云事いふことなし。げんのはじめ先勸せんくわん大衆だいしゆ發願ほつぐわん三寶さんぽう[71]といへるは南無阿彌陀なむあみだぶつなり。これよりをはりにいたるまで、文文もん句句くくみな名號みやうがうなり。

またいはく一代いちだい聖敎しやうげう所詮しよせんはただ名號みやうがうなり。其故そのゆゑ天臺てんだいには諸敎しよけう所讃しよさんざい彌陀みだいひ善導ぜんだう是故ぜこ諸經しよきやうちうくわうさん念佛ねんぶつのうしやくし、觀經くわんぎやうには持是語ぢぜごしやそく是持ぜぢ無量壽むりやうじゆぶつみやうなんぞく[72]し、阿彌陀あみだきやうには難信なんしんほふしやほつぞくし、大經だいきやうには一念いちねん無上むじやうどくろくぞくせり。三經さんきやうならびに一代いちだい所詮しよせんただ念佛ねんぶつにあり。聖敎しやうげうといふはこの念佛ねんぶつをしへたるなり。かくのごとくしりなば、ばんをすてて念佛ねんぶつまをすべきところに、あるひ學問がくもんにいとまをいれて念佛ねんぶつせず。あるひ聖敎しやうげうをばしふして稱名しようみやうせざると。いたづらにざいをかぞふるがごとし。金千きんせんりやうまいらするといふ券契けんけいをばもちながら、かねをばとらざるがごとしとつねおほせなりき。

またいはくよのくにぶつ阿彌陀あみだぶつといふあまありき。ならひもせぬ法門ほふもんねんにいひしなり。つねごんにいはく、しつてしらざれとて愚痴ぐちなれと。これ淨土じやうど法門ほふもんにかなへり。

またいはくぶつ今現在こんげんざい成佛じやうぶつたう本誓ほんぜい重願ぢうぐわん不虛ふこといへる。重願ぢうぐわんといふは、かさねたるぐわんとよむなり。おもきとはよむべからず。ぶつ今現在こんげんざい成佛じやうぶつたう本誓ほんぜいといふは十八じふはちぐわんなり。重願ぢうぐわん不虛ふこといふはかさねたる念佛ねんぶつ往生わうじやうぐわんなり。一一いち願言ぐわんごんしやくするもこのなり。

またいはくゆめうつつとをゆめたり。〈弘安十一年正月二十一日夜の御夢なり。〉種種しゆへん遊行ゆぎやうするぞとおもひたるとゆめみしにてありけり。さめればすこしもこの道場だうぢやうをばはたらかず。どうなるは本分ほんぶんなりとおもひたれば、これもまたゆめなりけり。此事このことゆめうつつともゆめなり。たうひとさとりありと匉訇ひやうごんはこのぶんなり。まさしく生死しやうじゆめさめざればこのさとりゆめなるべし。じつ生死しやうじゆめをさまさんずることは、ただ南無阿彌陀なむあみだぶつなり。

またいはく提心論だいしんろんにいはく、『いかだうてがんたつすれば、ほふすでし。』極樂ごくらくはう立相りつさう[73]ぶんほふ應捨おうしやぶんなるべし。

またいはく三業さんごふ起行きぎやうみな念佛ねんぶつといふこと禮拜らいはいねんとうたいをおさへて、すなはち念佛ねんぶつといふにはあらず、念珠ねんじゆをとればくち稱名しようみやうせざれども、こころにかならず南無阿彌陀なむあみだぶつととのふ。禮拜らいはいすればこころかなら名號みやうがうおもいでらる。きやうをよみほとけ觀想くわんさうすれば名號みやうがうかならずあらはるるなり。これ三業さんごふそく念佛ねんぶつともいふ。讀誦どくじゆとうしゆ正行しやうぎやう[74]といふもよくこれ分別ふんべつすべし。

またいはく、『あるひふく[75]ならべてさわりのぞくとをしゆ』といふは眞言しんごんなり。『あるひ禪念ぜんねん[76]して思量しりやうせよとをしゆ』といふは宗門しうもんなり。靜遍じやうへんぞく選擇せんぢやくにかくのごとくあてたり。『念佛ねんぶつして西方さいはうくにすぐるはし』といふは、諸敎しよけう念佛ねんぶつはすぐれたりといふなり。りき不思議ふしぎゆゑなり。

またいはくたへまん陀羅だら[77]げんいはくごろこうこうにあらず、とくとくにあらず。云云善惡ぜんあく諸法しよほふこれをもてこころべきなり。當體たうたい南無阿彌陀なむあみだぶつほかぜん沙汰さたあるべからず。

またいはく聖衆しやうじゆ莊嚴しやうごんそく現在げんざいしゆきふ十方じつぱう法界ほふかいどうしやうしやといふこと名號みやうがう酬因しういん[78]どくやくするとき十界じつかい差別しやべつ[79]なく、しや衆生しゆじやうまでも極樂ごくらく正報しやうはうにつらなるなり。妄分まうぶんやくするときじやう各別かくべつなり。生佛しやうぶつ差別しやべつするなり。

またいはく少分せうぶんみづ土器どきれたらばすなはちかはくべし。ごういりくはえたらばいちぶんしてひることあるべからず。のごとくみやうぢよく中夭ちうえう無常みじやういのち不生ふしやうめつ無量壽むりやうじゆにふしぬれば、生死しやうじあることなし。にんしやくにいはく、『はな五淨ごじやうによすればかぜにもしぼまず。みづれい[80]すればひでりにもかるることなし』と。云云

またいはく名號みやうがうほかにはそうじてもてわがのうなし。みな誑惑わうわくしんずるなり。念佛ねんぶつほかごんをばみなたはごととおもふべし。これつねおほせなり。

またいはくだい念佛ねんぶつ[81]といふことは、名號みやうがう法界ほふかい酬因しういんどく[82]なれば、ほふはなれてゆくべきかたもなし。これを法界身ほつかいしん彌陀みだともとき、これ十方じつぱう諸佛國しよぶつこくじんほふわうともしやくするなり。

またあるひととうていはく、『上人しやうにん臨終りんじうのち御跡おんあとをばいかやうに御定おんさださふらふや。』上人しやうにんこたへていはく、『ほつのあとはあととす。あとをとどむるとはいかなることぞわれしらず。けんひとのあととはこれ財寶ざいほう所領しよりやうなり。著相ぢやくさうをもてあととす、ゆゑにとがとなる。ほつ財寶ざいほう所領しよりやうなし、著心ぢやくしんをはなる。いまほつあととは一切いつさい衆生しゆじやう念佛ねんぶつするところこれなり。南無阿彌陀なむあみだぶつ。』

また上人しやうにんくう上人しやうにん吾先達わがせんだつなりとて、かの御詞おんことばこころにそめて、くちずさびたまひき。くう御詞おんことばいはく、『こころ所緣しよえんければくるるにしたがつてみ、所住しよぢうければあくるにしたがつてる。忍辱にんにくあつくして杖木ぢやうもく瓦石ぐわしやくいためず、慈悲じひしつふかくして、罵詈めりばうきかず。くちしんじて三昧さんまいちう道場だうぢやうなり。こゑしたがつて見佛けんぶつ息精そくしやうそく念珠ねんじゆたり。夜夜よなほとけ來迎らいがうち、朝朝あさな最後さいごちかづくとよろこぶ。三業さんごふ天運てんうんまかせて、四儀しぎだいゆづる。またいはくもとしゆりやうして身心しんじんつかる。くうぜんしゆしてまうおほし。どく境界きやうかいきにかず。稱名しようみやうばんなげうつにかず。間居かんきよいんひんたのしみし、禪觀ぜんくわん幽室ゆうしつじやうともとなす。とうきん淨服じやうぶくにしてもとやすさら盜賊たうぞくおそれし。上人しやうにんこれほふによりて、身命しんみやうさんて、居住きよぢう風雲ふううんにまかせ、えんしたがひてしゆりやうしたまふといへども、こころ諸緣しよえんをん[83]一塵いちぢんをもたくはへず。絹帛けんばくるゐをふれず。金銀きんぎん取事とることなく、酒肉しゆにくしんをたちて、十重じふぢう戒珠かいしゆ[84]をみがきたまへりと。云云



また上人しやうにん筑前ちくぜんのくににてある武士ぶしのやかたにいらせたまひければ、酒宴しゆえん最中さいちうにてはべりけるに、しゆ裝束しやうぞくことにひきつくろひ、あらひくちすすぎておりむかひ、念佛ねんぶつけてまたいふこともなかりければ、上人しやうにんたちさりたまふに、ぞくいふやうは、『此僧このそう日本一につぽんいち誑惑わうわくものや。なんぞたふとしきぞ。』といひければ、客人きやくじんありけるが[85]、『さてはなにとして、念佛ねんぶつをば受給うけたまふぞ。』とまをせば、念佛ねんぶつには誑惑わうわくなきゆゑなりとぞいひける。上人しやうにんいはく、『おほくのひとひたりしかども、これぞまことに念佛ねんぶつしんじたるものとおぼへてにんみなひとしんじてほふしんずることなきに、此俗このぞくほふ不依ふえにんのことはりをしりてはん禁戒きんかいあひかなへり。めづらしきことなり』とて、色色いろほめたまひき。

また上人しやうにん鎌倉かまくらにいりたまふとき[86]ゆゑありて武士ぶしかたくせいしていれたてまつらず。ことさらにばうをなしはべりければ、上人しやうにんいはく、『ほつすべてえうなし。ただひと念佛ねんぶつをすすむるばかりなり。なんぢいつまでかながらへてかくのごとく佛法ぶつぽふばうすべき、罪業ざいごふにひかれてめいにおもむかんときは、念佛ねんぶつにこそたすけられたてまつるべきに』と。武士ぶし返答へんたふもせずして上人しやうにん二杖ふたつゑまでうちたてまつるに、上人しやうにんはいためるしきもなく、『念佛ねんぶつ勸進くわんじんわれいのちとす。しかるをかくのごとくいましめられば、いづれのところへかゆくべき。ここにて臨終りんじうすべしとへり』と。云云

また或人あるひとうんたちはなりけるをうたがひをなしてとひたてまつりければ、上人しやうにんこたへていはく、『はなことはなにとへ、うんことうんにとへ、一遍いつぺんはしらず』と。

またしう甚目じんもくにてしちにち行法ぎやうほふしゆしたまひけるに、やうちからつきてそうなげきあひければ、上人しやうにんいはく、『こころざしあらば幾日いくにちなりともとどまるべし。衆生しゆじやう信心しんじんよりかんずればそのこころざしうくるばかりなり。されば佛法ぶつぽふあぢ愛樂あいげうして禪三昧ぜんざんまいじきとすといへり。もしのためにじきこととせば、またく衆生しゆじやう利益りやくもんにあらず。しばらくざいにたちむかふと。これ隨類ずゐるゐ應同おうどうなり。努努ゆめなげきたまふことなかれ。われなぬ滿みたすべし』と。

また上人しやうにんせいさつしんにておはしますよし唐橋法印たうけうほふいんれい持參もちまゐられければ、上人しやうにんいはく、『念佛ねんぶつよりせんにてあれ。せいならずばしんずまじきか』といましめたまふ。

また往生わうじやうとし五月ごぐわつころ上人しやうにんいはく、『えんすでにうすくなり、人人ひと敎誡けうかいをもちひず。生涯しやうがいいくばくならず。死期しごちかきにあり』と。云云

また往生わうじやう前月ぜんげつとほあさ阿彌陀あみだきやうみて、しよ書籍しよせきとうづからやきてたまひて、『一代いちだい聖敎しやうげうみなつきて、南無阿彌陀なむあみだぶつになりはてぬ』とおほせられける。

また往生わうじやうまへぜん遺誡ゆゐかい法門ほふもんをしるさせたまひて、かさねしめしていはく、『わが往生わうじやうののち海底かいていなぐるものるべし。安心あんじんさだまりなばなにとあらんともさうあるべからずといへども、しふつきずしてはしかるべからざることなり。受難うけがた佛道ぶつどうをむなしくすてことあさましきことなり』と。云云

また往生わうじやうのまへ、人人ひとさい法門ほふもんうけたまはらんとまをしければ、『三業さんごふほか念佛ねんぶつどうずといへども、ただことばばかりにて義理ぎりをも意得こころえず。一念いちねん發心ほつしんもせぬひとどものためとて、他阿彌陀たあみだぶつ南無阿彌陀なむあみだぶつはうれしきか』とのたまひければ、他阿彌陀たあみだぶつ落淚らくるゐしたまふと。云云

また往生わうじやうのまへ、〈正應二年八月九日より十日にいたる。〉うんのたちはべるよしをけいたてまつりければ、上人しやうにんいはく、『さては今明こんみやう臨終りんじうにあらざるべし。終焉しうえんときはかやうのことはいささかもあるまじきことなり』と。上人しやうにんつねおほせにも、ものもおこらぬものは、天魔心てんまこころにてへんこころをうつして、まこと佛法ぶつぽふをばしんぜぬなり。なにせんなし。ただ南無阿彌陀なむあみだぶつなりとしめしたまひぬ。

また上人しやうにんいはく、『わがもん弟子でしにおきては、葬禮さうれいしきをととのふべからず。けものにほどこすべし。ただしざいもの結緣けちえんのこころざしをいたさんをばいろふにおよばず』

また或人あるひとかねて上人しやうにん臨終りんじうことをうかがひたてまつりければ、上人しやうにんいはく、『よき武士ぶし道者だうじやとはする御事おんことをあたりにしらせぬことぞ。わがをはらんをばひとのしるまじきぞ』とのたまひしに、はたして臨終りんじうその御詞おことばにたがふことなかりき。



一遍上人いつぺんしやうにんろく卷下まきのげ 


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  ろく


上人しやうにんわかかりしとき、御夢おんゆめたまひけるとなん、

をわたりそめてたかのそらのくもたゆるはもとのこころなりけり

くま權現ごんげんよりゆめさづけたまひし神詠しんえい

ましへ行道ゆくみちにないりそくるしきにもとちかひのあとをたつねて

大隅おほすみしやう八幡宮はちまんぐうより直授じきじゆ神詠しんえい

こと南無なむあみたぶつととなふれはなもあみたぶつうまれこそすれ

淡路國あはぢのくにしつきといふところに、きた天神てんじん勸請くわんじやうたてまつやしろありけるに、上人しやうにんをいれたてまつらざり。さればたちまち社檀しやだんよりあらはしたまひける神詠しんえい

にいつることもまれなる月影つきかげにかかりやすらんみねのうきくも


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〔投稿者注:テンプレートの制限により文字サイズを一部統一出来ませんでした。〕
  1. 【煩惱の本執に立かへり】煩惱即菩提ぞと聞て罪をば造り、生死即涅槃ぞと言へども命を惜むなり。これ即ち煩惱に立還る所以なり。
  2. 【三心といふは名號なり】三心は能信の安心。念佛は所信の起行。三心はただ是念佛を信ずる心なれば、念佛を離て此心發ることなし。此心詞にあらはるる時に南無阿彌陀佛と唱ふるなり。故に三心と念佛とは相即して離れざるものなり。
  3. 【自力我執云云】我等凡夫の自力我執の心は貪瞋邪僞にして眞實の心に非ず、故に我が不眞實の心を捨て彌陀の眞實に歸命するを眞實心の體とするなり。
  4. 【自力我執の時】未だ他力名號に歸せざる時なり。
  5. 【一味和合等】自他の萬善と彌陀の萬德とは同一性なるが故に回向の義を感ず。
  6. 【即施即廢】未だ自力我執を捨ざる者の爲に即ちこれを施說し、既に他力の名號に歸する者の爲に即ちこれを廢捨すべし。
  7. 【長門顯性房】西山上人の弟子。
  8. 【菅三品】菅原三位文時なり。式部大輔に任ず。天元四年九月八日卒す。
  9. 【自身現是云云】生死に流轉することは我執の一念に由るなり。然るに今自力我執を放下して他力の名號に歸入し、能歸所起機法一體すれば頓に種種の生死は止息するなり。
  10. 【我心は云云】我が願往生の心は六識(眼、耳、鼻、舌、意)分別の妄心なれば報土の因にあらず。
  11. 【機法一體】衆生の機と阿彌陀佛の法と一體にして離れざること。以て他力の救濟を表す。
  12. 【上六品の諸善】觀無量壽經の上三品には行福を說き、中上品と中中品には戒福を說き、中下品には世福を說く。
  13. 【行福】發心讀經して人をも勘化する大乘の行なり。
  14. 【戒福】小乘、大乘の戒律威儀を云ふ。
  15. 【世福】世俗に於ける忠孝仁義の道德のこと。
  16. 【隨緣】緣に隨ひて事を起すこと。
  17. 【自受用】功德利益を自ら受用すること。受得したる法樂を自ら味ふこと。
  18. 【水が水をのみ】唯佛與佛の境界は聲聞菩薩の所知に非ざるに譬ふるなり。
  19. 【松は松竹は竹】法法本來無生無滅なる是れ即ち自受用の智慧なり。
  20. 【能歸所歸一體】機法一體生佛一如の事なり。
  21. 【三心の智慧】身心を放下して一向に南無阿彌陀佛に成たるを云ふなり。
  22. 【熊野權現】上人三十七歲、健治元年乙亥十二月十五日曉更の御示現なり。
  23. 【七慢】一慢、二過慢、三慢過慢、四我慢、五增上慢、六卑慢、七邪慢。
  24. 【九慢】一我勝慢類、二我等慢類、三我劣慢類、四有勝我慢類、七有劣我慢類ママ、七無勝我慢類、八無等我慢類、九無劣我慢類。七慢九慢共に他人に對して心を高貢ならしむる精神作用。
  25. 【大經】無量壽經のこと。
  26. 【五味】乳味、酪味、生酥味、熟酥味、醍醐味。天臺宗にて佛一代の敎說たる五時敎に配當し以てその內容を比較するに云ふ。
  27. 【中路の白道云云】善導の觀經疏の二河白道の譬喩なり。衆生の貪愛を水に譬へ瞋憎を火に譬ふ。中路の白道の四五寸とは衆生貪瞋煩惱中能生淸淨願往生心なり。即ち淸淨なる願往生の心に喩ふるなり。
  28. 【加祐】加は益なり。祐は助なり。
  29. 【三心】至誠心、深心、廻向發願心。
  30. 【四修】修行すること。恭敬修、無餘修、長時修、無間修。
  31. 【五念】五念門、天親の淨土論に出づ。阿彌陀佛を念じて淨土に往生する行因を五門に開きたるもの。禮拜門、讃歎門、作願門、觀察門、廻向門。
  32. 【萬法】諸善を指すなり。
  33. 【無より生じ】無我より生ずるなり。
  34. 【意地の念を呼て】念佛といへばとて意業に佛を思ふと云ふには非ず。南無阿彌陀佛と唱ふるを、念佛と名くるなり。
  35. 【念聲是一】選擇集に十念と云ふは釋して十聲と云ふなりと。卽ち念は唱ふるなり。
  36. 【定機】定心の機根、想を凝らして定善を修し得る人をいふ。
  37. 【散機】心ちりうごきて定善を修する能はざる人。
  38. 【名號卽これ云云】吉水大師曰はく、至極大乘の意は、體の外に名なく名の外に體なし、萬善の名體は名號の六字に卽し、恆沙の功德は口稱の一行に備はるとあり。
  39. 【見佛】佛身をみること。自己の佛性をさとること。
  40. 【順魔】妻子珍寶等なり。
  41. 【逆魔】病患災難等なり。
  42. 【攝に親緣】彼此の三業互相に攝入するなり。
  43. 【取に近緣】現に目前に在つて握手交接し給ふを云ふ。
  44. 【增上緣】色心萬法に通じ一法の結果に對して總て皆增上の用あるを云ふ。
  45. 【尼法師云云】懺悔するは滅罪の爲なり。然るに行水をし身を苦しむるは因果の理を信ずるのみにて、全く滅罪の義あるべからず。故にこれ懺悔に非ずと云へるなり。
  46. 【心品の捨家棄欲】在家の出家なり。
  47. 【彌陀を法界云々】法界の衆生を佛の壽命と爲し給へる佛身なれば法界の身と云ふなり。
  48. 【三賢十聖】三賢は十信、十行、十廻向。十聖は歡喜地なり。
  49. 【自力他力を絕し】自他の差別を泯絕して絕對の他力に歸するなり。
  50. 【機法を絕す】機法の差別を泯絕して機法一體に成るなり。
  51. 【當體の一念云々】天臺にて介爾の一念に三千を具足すと談ずるも、華嚴にて心佛及衆生是三無差別と談ずるも、皆當體の一念の上を論ずるなり。
  52. 【待心】所期の心なり。
  53. 【彌陀の色相】如來の色相、光明のこと。
  54. 【依正二報】依報は極樂の山河、大地衣服、飮食等のこと。正報は極樂の主たる佛身なり。
  55. 【一座無移亦不動】一座とは色相莊嚴の佛なり。無移亦不動とは卽ち彌陀眞實智慧無爲法身にして彼此往來なし。
  56. 【行者の待に云々】行者の風情を以て待によりて佛の來迎し給ふと思は僻事あり。
  57. 【一切の法】觀經所說の三福の業を指すなり。
  58. 【其故は名號云々】念佛廻向する時自力所修の萬善と名號所具の萬善と一味和して名號所具の萬善となりぬれば皆眞實の功德となるなり。
  59. 【名號が成ず云々】三福功德の常體は眞實の功德には非れども名號に成ぜられて眞實の功德となれるなり。
  60. 【正因正行】三福九品の諸行も念佛囘向すれば、念佛に成ぜられて名號と一味と成りて往生極樂の正因正行といはるるなり。
  61. 【自性無念】自性淸淨にして本來無念なるを云ふ。
  62. 【名號が名號を云々】機法一體になりぬれば能聞の機も南無阿彌陀佛、所聞の法も南無阿彌陀佛なれば名號が名號を聞くなり。
  63. 【證利】證驗利益のこと。
  64. 【三業】身、口、意のこと。
  65. 【四儀】行、住、坐、臥のこと。
  66. 【法華を出世の本懷】法華經方便品に、諸佛世尊は唯一大事因緣を以ての故に世に出現すと。一大事因緣とは諸法實相の一理法性を指すなり。
  67. 【三寶滅盡】禮讃に、萬年に三寶滅し此經住すること百年、爾の時一念を聞かば皆彼に生ずることを得と云ふ文に依れり。三寶とは佛寶、法寶、僧寶なり。
  68. 【なやきそ】燒く勿れの意。
  69. 【年來淨土云々】上人十四歲建長四年より弘長三年までの十二年間筑紫大宰府聖達上人に從つて淨敎を稟學し給へり。
  70. 【法の功能】念佛の名義功德なり。
  71. 【先勸大衆云云】發願歸は南無なり、三寶は阿彌陀の名義功德なり。
  72. 【附屬】流通附屬の意。
  73. 【指方立相】娑婆世界より西方を指して極樂の境相を立つ。
  74. 【五種正行】淨土の正行を五種に分類したるもの、讀誦、觀察、禮拜、稱名、讃歎供養なり。
  75. 【福慧】布施、持戒、忍辱、精進、靜慮、智慧にして、前の五を福、後の一を慧としたるなり。
  76. 【禪念】六度の中の禪定(靜慮)智慧を指すなり。
  77. 【當麻曼陀羅】和州當麻寺にて中將法如の感得し給ひし極樂淨土曼陀羅なり。
  78. 【名號酬因】稱名往生の因願に酬ひたる報佛の功德に約するなり。
  79. 【十界差別】淨穢不二、生佛一如なり。
  80. 【靈河】水に龍あるを靈河と云ふなり。
  81. 【大地の念佛】名號は卽ち法界身にして、十方衆生の所依となること、譬へば大地の山河草木等の所依となるが如し。
  82. 【法界酬因の功德】名號は法界を攝取する因に酬いたる法界身の名體不離の功德なり。
  83. 【心に諸緣を遠離し】諸の妄緣妄境を離るるなり。
  84. 【十重の戒珠】十重禁戒のこと。殺、盜、婬、妄、酤酒、說過讃、毀慳瞋、謗三寶戒。
  85. 【客人の有けるが】其座に在りし客人がの意。
  86. 【上人鎌倉に到る】弘安五年三月朔日なり。

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