野呂榮太郎氏

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本文[編集]

私が學んだ北海道のある都市の某中學といふのは、名をいへばわかるが、非常に有名である。東京の人などは、北海道の代表的な中學であるかに思つてゐる。理由はスポーツに强く、ことに野球ではほとんど每年全國大會に出て來て、その都度、新聞に名がのるからである。しかし、この中學は、他のもう一つの理由でも――學問の出來のわるい學生が、ここほど多くあつまつてゐるところはおそらく珍しからう、といふ點でも亦非常に有名だつた。これは地方の私立中學の持つ一つの運命だらう。廰立中學の入試にすべつたものの溜り場になるからである。が、いいところ、特色といふものもなくはなかつた。放埓なほどに自由で、繪とか文學とか音樂とかいふものは、他の中學には見られぬほどに盛であつた。のびのびと才能をのばしうる環境であるともいへたが、なにぶん、はじめから素質において劣るので、ものになつたといふものもあまりないやうである。しかし、それらのなかにまじつて、一學年にほんの一人か二人優秀がママ學生があり、それらは全部が貧しく、また年が普通の學生に比して長じてゐた。この中學のありがたさは、貧しい好學の少年に試驗を課して、中途編入を許すところにあつたのである。何も優秀であつたわけではないが、私も亦さういふ貧しい少年の一人で、小學卒業後いろいろな目にあつたのち、その中學の四年に入れてもらつた。
出來のわるい生徒をとらへていら立つ敎師が、みないひ合したやうに、この人を見よ、とばかり名をあげて模範例とする一人の卒業生の名があつて、それがくりかへされるので、私の記憶にもとまるやうになつた。その人は私の入學の前年の卒業生で、この中學ではたぐひ稀な秀才だといふことだつた。隻脚でかぼそいおとなしい少年だつたといふその人の風貌が想像されるのであつた。その人は卒業後三田の經濟へ行つたといふので、田舍の中學生の頭にある三田學生の感じは、病弱でやさしい秀才靑年に何か似つかはしいもののやうに思へたのである。帝大でもない、早稻田でもない、その人にはやはり三田だといふやうな氣持が、私にあつた。――しかし卒業後、私はいつか彼のことも忘れてしまつた。
私はふたたびいろいろな職業につかねばならなかつた。しかし學問への志をすてたわけではなっく、苦しいなかから貯金なぞして何年かのちを期してゐた。その頃私は思想的にはすでに社繪主義靑年であつたが、ある日友だちの大學生のところへ行つてゐると、歸省中の京都大學生が遊びに來た。彼ははでに語り中央での進步的學生の空氣をあたりにバラまいて行つたが、歸りしなに二三の印刷物をおいて行つた。當時漸く活發に動きはじめた學生の團體の刷り物であつた。私はそれを見そのなかに忘れてゐたさきの人の名をふたたび見たのである。彼はその團體では指導者の一人として動いているらしかつた。私の頭のなかにあつた彼の想像的イメージは消え、異る彼があらはれ、私は未だ見ぬ彼への靑年らしい思慕の情はおさへがたいものになつた。私はその翌年の春にはどこかの大學に入ることを豫定してゐたので、出來れば彼のゐる三田へ行きたいとねがつた。しかしいづれは、變則な大學入學しか許されぬ私には三田は適當でなく、私は翌年、一九二五年の春に、仙臺へ來て東北帝國大學に籍をおいた。私はすぐに勉强の仲間を求め、そこで私の先輩である彼が、遠く仙臺の學生にまで畏敬されてゐることを知つた。――彼といふのは「日本資本主義發達史」の著者、野呂榮太郎氏である。
私が野呂氏にはじめて逢つたのは、その年の秋であつた。
無產政黨創立の準備機關であつた、政治硏究會の全國大會が、東京にあり、私はその大會に出席するために東京へ行つたのである。私はかねて知り合の東大生の某君につれられて、東京のあちこちの無產者團體を尋ね、いろいろな人に逢つた。その時、內幸町のビルの產業勞働調査所の事務所で私は野呂氏に逢つた。彼はその年の春、三田を卒業し、產勞ではT・I氏を中心とする、日本資本主義の現段階の調査の仕事にあたつてゐた。T・I氏批判は後年の彼の仕事の重要な部分を占めてゐるが、當時二人は机をならべておなじ調査に從つてゐた。彼は私のことはかねて友人から聞いて知つてゐたらしく、立つと、窓のところへ私を連れて行つて、二人は立ちながらしばらく話した。私の想像してゐたところとは餘りかはらぬ人柄で、纖細な感じの底に嚴しい、冷たく澄んだものがあつて、初對面の人がよくするやうには笑はなかつた。すぐに遠慮なく親しめるやうな人柄ではなかつた。私よりは少し背の高い彼の顏を仰いだ私はなんとなくまぶしかつた。仙臺の方の學生の話をしたといふほか何を話したか全然記憶にない。
政治硏究會の大會では、私は野呂氏と一緖に書記席に坐つた。彼は書記長で、いろいろな委員との間を忙しく往來し、また立つて祝辭や祝電を朗讀したりした。私は組合の誰かから借りた勞働服を著込み、のぼせながら記錄をとり、大山郁夫の閉會の挨拶の大要を書き終つたときはホツとしたが、閉會後、野路氏は、私達書記二三名の記錄に目を通し、私にこれを適當に整理しまとめることを命じた。この時の記錄は、あとで、私がまとめたとほり機關紙にのつたので、非常に嬉しかつたことをおぼえてゐる。遲くまでかかつて、仕事が終ると「今夜は僕のところへ來て泊り給へ」と彼はいひ、私たちは暗い芝公園の通りへ出た。電車の乘り、また降りる時、私は彼のひきずるやうな足の運びを見て、忘れてゐた彼の隻脚を思ひだした。宿は三田の學校の近くであつたといふのほか、おぼえてはゐない。私たちはその夜遲くまでいろいろ話したが、話の內容を記してゐる餘裕はない。彼は詳細懇篤に私たちの學問硏究の方法について敎へてくれた。當時は帝國主義論の硏究がさかんで、私はヒルフアデイングのフイナンツ・カピタルのなかの疑問について彼に匡したりした。當時彼は勞働學校で講義をしてゐたので、その經驗を語り、勞働者のすぐれた理論的能力を心からの喜びをもつて語つた。私は今日に到達するまでの自分の精神的浪費を悔み訴へたが、彼は「無駄ではない」と繰返し言つた。それをいふ頃は私達の間にはもう少しの隔てもなく、明け方はじめて寢についたが、向うむきに寢る彼の、義足を取りはづすかすかなもの音を興奮した心に私は寂しく聞いた。
私がこの人に逢つて話したのは、あとにもさきにもこの時一度きりだつた。
間もなく彼は學聯事件に關係し、私は地方の農村に行き、二八年の三月十五日に逢つた。一九三二年に私が自由になつて歸つて來た時、彼は鵠沼に病軀を養ひながら、今日では歷史的なものとなつた學問敵業蹟を次々に積み重ねつつあつた。私は私の留守中に彼が書いたものの多くに眼を通した鵠沼の私の先輩が、私のことを彼に話し、彼は私に一度逢ひたいといつてゐるとの事だつたが、私は訪ねなかつた。私は自分を恥ぢてゐたのである。その時のままの姿で彼に逢ふことは恥ぢられたのである。
もう一度彼と語りうる機會を私は持たうと思へば持てたのだつた。偶然、私は彼を見たのだ。おなじ年の秋頃であつたらう。私は用事があつて岩波書店の出版部へ行つた。私はこつちで逢ふ人を待つてゐた。向うの廊下を後向きに黑のトンビの人が行くのが見えたが、奧から出て來た、私も顏見知りの資本主義發達史講座の執筆者の一人が、やあ、野呂君、といつて話しだした。私は眼を据ゑてその人の橫顏を見、そのひどいやつれに胸がつぶでた。用事をすまし外へ出てから私はしばらくそこに立ち盡してゐたが、やはりそのまま歸つてしまつた。
翌年、彼は鵠沼を去り、同年の暮あたり、消息が知れると間もなく死んでしまつた。その死の前後については詳しくは知らない。一九三四年二月二十九日といふ命日だけを、私は忘れることなく記憶してゐる。ただ一度逢つたきりの人間が、永く親炙した人間に增して大きな人間的影響を與へるといふことは我々の生涯にはあることであらう。私にとつて野呂榮太郎氏はさういふ人である。過去の自分の生活のなかに忘れがたい影をおとしていつた人々のなかでも、私はこの人について思ふことが多いのである。

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