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趣味の遺伝


 陽気のせいで神も気違きちがいになる。「人をほふりてえたる犬を救え」と雲のうちより叫ぶ声が、さかしまに日本海をうごかして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっとこたえて百里に余る一大屠場とじょう朔北さくほくに開いた。すると渺々びょうびょうたる平原の尽くる下より、眼にあまる獒狗ごうくむれが、なまぐさき風を横にり縦に裂いて、四つ足の銃丸を一度に打ち出したように飛んで来た。狂える神が小躍こおどりして「血をすすれ」と云うを合図に、ぺらぺらと吐くほのおの舌は暗き大地を照らして咽喉のどを越す血潮のき返る音が聞えた。今度は黒雲のはじを踏み鳴らして「肉をくらえ」と神がさけぶと「肉を食え! 肉を食え!」と犬共も一度にえ立てる。やがてめりめりと腕を食い切る、深い口をあけて耳の根まで胴にかぶりつく。一つのすねくわえて左右から引き合う。ようやくの事肉は大半平げたと思うと、また羃々べきべきたる雲をつらぬいて恐しい神の声がした。「肉の後には骨をしゃぶれ」と云う。すわこそ骨だ。犬の歯は肉よりも骨をむに適している。狂う神の作った犬には狂った道具がそなわっている。今日の振舞を予期して工夫してくれた歯じゃ。鳴らせ鳴らせときばを鳴らして骨にかかる。ある者はくじいてずいを吸い、ある者は砕いて地にまみる。歯の立たぬ者は横にこいてきばぐ。

 こわい事だと例の通り空想にふけりながらいつしか新橋へ来た。見ると停車場前の広場はいっぱいの人で凱旋門がいせんもんを通して二間ばかりの路を開いたまま、左右には割り込む事も出来ないほど行列している。何だろう?

 行列の中にはあや絹帽シルクハット阿弥陀あみだかぶって、耳の御蔭で目隠しの難をめているのもある。仙台平せんだいひらを窮屈そうに穿いて七子ななこの紋付を人の着物のようにいじろじろながめているのもある。フロック・コートは承知したがズックの白い運動靴をはいて同じく白の手袋をちょっと見たまえと云わぬばかりに振り廻しているのは奇観だ。そうして二十人に一本ずつくらいの割合で手頃な旗を押し立てている。大抵はむらさきに字を白く染め抜いたものだが、中には白地に黒々と達筆をふるったのも見える。この旗さえ見たらこの群集の意味も大概たいがい分るだろうと思って一番近いのを注意して読むと木村六之助君の凱旋がいせんを祝す連雀町れんじゃくちょう有志者とあった。ははあ歓迎だと始めて気がついて見ると、先刻さっきの異装紳士も何となく立派に見えるような気がする。のみならず戦争を狂神のせいのように考えたり、軍人を犬に食われに戦地へ行くように想像したのが急に気の毒になって来た。実は待ち合す人があって停車場まで行くのであるが、停車場へ達するには是非共この群集を左右に見て誰も通らない真中をただ一人歩かなくってはならん。よもやこの人々が余の詩想を洞見どうけんしはしまいが、たださえ人の注視をわれ一人に集めて往来をって行くのはきまりがるいのに、犬に喰い残された者の家族と聞いたら定めしおこる事であろうと思うと、一層調子が狂うところを何でもない顔をして、急ぎ足に停車場の石段の上までぎつけたのは少し苦しかった。

 場内へ這入って見るとここも歓迎の諸君で容易に思う所へ行けぬ。ようやくの事一等の待合へ来て見ると約束をした人はだ来ておらぬらしい。暖炉の横に赤い帽子を被った士官が何かしきりに話しながら折々佩剣はいけんをがちゃつかせている。そのそば絹帽シルクハットが二つ並んで、その一つには葉巻のけむりが輪になってたなびいている。向うの隅に白襟しろえりの細君がひんのよい五十恰好かっこうの婦人と、きの人には聞えぬほどな低い声で何事か耳語ささやいている。ところへ唐桟とうざんの羽織を着て鳥打帽を斜めにいただいた男が来て、入場券は貰えません改札場の中はもういっぱいですと注進する。大方おおかた出入でいりの者であろう。室の中央に備え付けたテーブルの周囲には草臥くたびれの連中が寄ってたかって新聞や雑誌をひねくっている。真面目に読んでるものはきわめて少ないのだから、ひねくっていると云うのが適当だろう。

 約束をした人はなかなかん。少々退屈になったから、少し外へ出て見ようかと室の戸口をまたぐ途端に、背広せびろを着たひげのある男がれ違いながら「もうじきです二時四十五分ですから」と云った。時計を見ると二時三十分だ、もう十五分すれば凱旋がいせんの将士が見られる。こんな機会は容易にない、ついでだからと云っては失礼かも知れんが実際余のように図書館以外の空気をあまり吸った事のない人間はわざわざ歓迎のために新橋までくる折もあるまい、ちょうどさいわいだ見て行こうと了見りょうけんを定めた。

 室を出て見ると場内もまた往来のように行列を作って、中にはわざわざ見物に来た西洋人も交っている。西洋人ですらくるくらいなら帝国臣民たる吾輩わがはいは無論歓迎しなくてはならん、万歳の一つくらいは義務にも申して行こうとようやくの事で行列の中へ割り込んだ。

「あなたも御親戚を御迎いに御出おいでになったので……」

「ええ。どうも気がくものですから、つい昼飯を食わずに来て、……もう二時間半ばかり待ちます」と腹は減ってもなかなか元気である。ところへ三十前後の婦人が来て

「凱旋の兵士はみんな、ここを通りましょうか」と心配そうに聞く。大切の人を見はぐっては一大事ですと云わぬばかりの決心を示している。腹の減った男はすぐ引き受けて

「ええ、みんな通るんです、一人残らず通るんだから、二時間でも三時間でもここにさえ立っていれば間違いっこありません」と答えたのはなかなか自信家と見える。しかし昼飯も食わずに待っていろとまでは云わなかった。

 汽車のふえの音を形容して喘息ぜんそくみのくじらのようだと云った仏蘭西フランスの小説家があるが、なるほどうまい言葉だと思う間もなく、長蛇のごとく蜿蜒のたくって来た列車は、五百人余の健児を一度にプラットフォームの上に吐き出した。

「ついたようですぜ」と一人がくびのばすと

「なあに、ここに立ってさえいれば大丈夫」と腹の減った男は泰然としてどうずる景色けしきもない。この男から云うと着いても着かなくても大丈夫なのだろう。それにしても腹の減った割には落ちついたものである。

 やがて一二丁向うのプラットフォームの上で万歳! と云う声が聞える。その声が波動のように順送りに近づいてくる。例の男が「なあに、まだ大丈……」とけた尻尾しっぽうずめて余の左右に並んだ同勢は一度に万―歳! と叫んだ。その声の切れるか切れぬうちに一人の将軍が挙手の礼を施しながら余の前を通り過ぎた。色のけた、胡麻塩髯ごましおひげ小作こづくりな人である。左右の人は将軍のあとを見送りながらまた万歳をとなえる。余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日こんにちに至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられたおぼえは毛頭ない。また万歳を唱えてはるいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声たいせいを発しようとすると、いけない。小石で気管をふさがれたようでどうしても万歳が咽喉笛のどぶえへこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。――しかし今日は出してやろうと先刻さっきから決心していた。実は早くその機がくればよいがと待ち構えたくらいである。隣りの先生じゃないが、なあに大丈夫と安心していたのである。喘息病みの鯨がえた当時からそら来たなとまで覚悟をしていたくらいだから周囲のものがワーと云うや否や尻馬しりうまについてすぐやろうと実は舌の根まで出しかけたのである。出しかけた途端に将軍が通った。将軍の日にけた色が見えた。将軍のひげ胡麻塩ごましおなのが見えた。その瞬間に出しかけた万歳がぴたりと中止してしまった。なぜ?

 なぜか分るものか。なにゆえとかこのゆえとか云うのは事件が過ぎてから冷静な頭脳に復したとき当時を回想して始めて分解し得た智識に過ぎん。なにゆえが分るくらいなら始めから用心をして万歳の逆戻りを防いだはずである。予期出来ん咄嗟とっさの働きに分別が出るものなら人間の歴史は無事なものである。余の万歳は余の支配権以外に超然としてまったと云わねばならぬ。万歳がとまると共に胸のうちに名状しがたい波動が込み上げて来て、両眼から二雫ふたしずくばかり涙が落ちた。

 将軍は生れ落ちてから色の黒い男かも知れぬ。しかし遼東りょうとうの風に吹かれ、奉天の雨に打たれ、沙河しゃかの日にり付けられれば大抵なものは黒くなる。地体じたい黒いものはなお黒くなる。ひげもその通りである。出征してから白銀しろがねの筋は幾本もえたであろう。今日始めて見る我らの眼には、昔の将軍と今の将軍を比較する材料がない。しかし指を折って日夜にまちびた夫人令嬢が見たならば定めし驚くだろう。いくさは人を殺すかさなくば人を老いしむるものである。将軍はすこぶるせていた。これも苦労のためかも知れん。して見ると将軍の身体中からだじゅうで出征ぜんと変らぬのは身のたけくらいなものであろう。余のごときは黄巻青帙こうかんせいちつあいだ起臥きがして書斎以外にいかなる出来事が起るか知らんでも済む天下の逸民いつみんである。平生戦争の事は新聞で読まんでもない、またその状況は詩的に想像せんでもない。しかし想像はどこまでも想像で新聞は横から見ても縦から見ても紙片しへんに過ぎぬ。だからいくら戦争が続いても戦争らしい感じがしない。その気楽な人間がふと停車場にまぎれ込んで第一に眼に映じたのが日に焦けた顔としもに染った髯である。戦争はまのあたりに見えぬけれど戦争の結果――たしかに結果の一片いっぺん、しかも活動する結果の一片が眸底ぼうていかすめて去った時は、この一片に誘われて満洲の大野たいやおおう大戦争の光景がありありと脳裏のうり描出びょうしゅつせられた。

 しかもこの戦争の影とも見るべき一片の周囲をめぐる者は万歳と云う歓呼の声である。この声がすなわち満洲のに起った咄喊とっかんの反響である。万歳の意義は字のごとく読んで万歳に過ぎんが咄喊となるとだいぶおもむきが違う。咄喊はワーと云うだけで万歳のように意味も何もない。しかしその意味のないところに大変な深いじょうこもっている。人間の音声には黄色いのも濁ったのも澄んだのも太いのも色々あって、その言語調子もまた分類の出来んくらい区々まちまちであるが一日二十四時間のうち二十三時間五十五分までは皆意味のある言葉を使っている。着衣の件、喫飯きっぱんの件、談判の件、懸引かけひきの件、挨拶あいさつの件、雑話の件、すべて件と名のつくものは皆口から出る。しまいには件がなければ口から出るものは無いとまで思う。そこへもって来て、件のないのに意味の分らぬ音声を出すのは尋常ではない。出しても用の足りぬ声を使うのは経済主義から云うても功利主義から云っても割に合わぬにきまっている。その割に合わぬ声を不作法に他人様の御聞おききに入れて何らの理由もないのに罪もない鼓膜こまくに迷惑をけるのはよくせきの事でなければならぬ。咄喊とっかんはこのよくせきせんじ詰めて、煮詰めて、缶詰かんづめにした声である。死ぬか生きるか娑婆しゃばか地獄かと云うきわどい針線はりがねの上に立ってぶるいをするとき自然と横膈膜おうかくまくの底からき上がる至誠の声である。助けてくれと云ううちに誠はあろう、殺すぞと叫ぶうちにも誠はない事もあるまい。しかし意味の通ずるだけそれだけ誠の度は少ない。意味の通ずる言葉を使うだけの余裕分別のあるうちは一心不乱の至境に達したとは申されぬ。咄喊にはこんな人間的な分子は交っておらん。ワーと云うのである。このワーには厭味いやみもなければ思慮もない。理もなければ非もない。いつわりもなければ懸引かけひきもない。徹頭徹尾ワーである。結晶した精神が一度に破裂して上下四囲の空気を震盪しんとうさしてワーと鳴る。万歳助けてくれ殺すぞのとそんなけちな意味を有してはおらぬ。ワーその物がただちに精神である。霊である。人間である。誠である。しかして人界崇高の感は耳を傾けてこの誠を聴き得たる時に始めて享受し得ると思う。耳を傾けて数十人、数百人、数千数万人の誠を一度に聴き得たる時にこの崇高の感は始めて無上絶大の玄境げんきょうに入る。――余が将軍を見て流した涼しい涙はこの玄境の反応だろう。

 将軍のあとに続いてオリーヴ色の新式の軍服を着けた士官が二三人通る。これは出迎と見えてその表情が将軍とはだいぶ違う。きょは気を移すと云う孟子もうしの語は小供の時分から聞いていたが戦争から帰った者と内地に暮らした人とはかほどに顔つきが変って見えるかと思うと一層感慨が深い。どうかもう一遍将軍の顔が見たいものだと延び上ったが駄目だ。ただ場外にむらがる数万の市民が有らん限りのときを作って停車場の硝子窓ガラスまどれるほどに響くのみである。余の左右前後の人々はようやくに列を乱して入口の方へなだれかかる。見たいのは余と同感と見える。余も黒い波に押されて一二間石段の方へ流れたが、それぎり先へは進めぬ。こんな時には余の性分しょうぶんとしていつでも損をする。寄席よせがはねて木戸を出る時、待ち合せて電車に乗る時、人込みに切符を買う時、何でも多人数競争の折には大抵最後に取り残される、この場合にも先例にれず首尾よく人後じんごに落ちた。しかも普通の落ち方ではない。はるかこなたの人後じんごだから心細い。葬式の赤飯に手を出しそくなった時なら何とも思わないが、帝国の運命を決する活動力の断片を見損みそこなうのは残念である。どうにかして見てやりたい。広場を包む万歳の声はこの時四方から大濤おおなみの岸にくずれるような勢で余の鼓膜こまくに響き渡った。もうたまらない。どうしても見なければならん。

 ふと思いついた事がある。去年の春麻布あざぶのさる町を通行したら高い練塀ねりべいのある広い屋敷の内で何か多人数打ち寄って遊んででもいるのか面白そうに笑う声が聞えた。余はこの時どう云う腹工合かちょっとこの邸内をのぞいて見たくなった。全く腹工合のせいに相違ない。腹工合でなければ、そんな馬鹿気た了見の起るわけがない。源因はとにかく、見たいものは見たいので源因のいかんにって変化出没する訳には行かぬ。しかし今云う通り高い土塀の向う側で笑っているのだから壁に穴のあいておらぬ限りはとうてい思い通り志望を満足する事は何人なんびと手際てぎわでも出来かねる。とうてい見る事がかなわないと四囲の状況から宣告を下されるとなお見てやりたくなる。な話だが余は一目でも邸内を見なければ誓ってこの町を去らずと決心した。しかし案内もわずに人の屋敷内に這入り込むのは盗賊の仕業しわざだ。と云って案内を乞うて這入るのはなおいやだ。この邸内の者共の御世話にならず、しかもわが人格をきずつけず正々堂々と見なくては心持ちがわるい。そうするには高い山から見下みおろすか、風船の上からながめるよりほかに名案もない。しかし双方共当座の間に合うような手軽なものとは云えぬ。よし、その儀ならこっちにも覚悟がある。高等学校時代で練習した高飛の術を応用して、飛び上がった時にちょっと見てやろう。これは妙策だ、幸い人通りもなし、あったところが自分で自分が飛び上るに文句をつけられる因縁いんねんはない。やるべしと云うので、突然双脚に精一杯の力を込めて飛び上がった。すると熟練の結果は恐ろしい者で、かの土塀の上へ首が――首どころではない肩までが思うように出た。この機をはずすととうてい目的は達せられぬと、ちらつく両眼を無理にえて、ここぞと思うあたりを瞥見べっけんすると女が四人でテニスをしていた。余が飛び上がるのを相図に四人が申し合せたようにホホホとかんの高い声で笑った。おやと思ううちにどたりと元のごとく地面の上に立った。

 これは誰が聞いても滑稽こっけいである。冒険の主人公たる当人ですらあまり馬鹿気ているので今日こんにちまで何人なんびとにも話さなかったくらいみずから滑稽と心得ている。しかし滑稽とか真面目まじめとか云うのは相手と場合によって変化する事で、高飛びその物が滑稽とは理由のない言草いいぐさである。女がテニスをしているところへこっちが飛び上がったから滑稽にもなるが、ロメオがジュリエットを見るために飛び上ったって滑稽にはならない。ロメオくらいなところではだ滑稽を脱せぬと云うなら余はなお一歩を進める。この凱旋がいせんの将軍、英名嚇々かくかくたる偉人を拝見するために飛び上がるのは滑稽ではあるまい。それでも滑稽か知らん? 滑稽だって構うものか。見たいものは、誰が何と云っても見たいのだ。飛び上がろう、それがいい、飛び上がるにしくなしだと、とうとうまた先例によって一蹴いっしゅうを試むる事に決着した。ず帽子をとって小脇にい込む。この前は経験が足りなかったので足が引力作用で地面へ引き着けられた勢に、買いたての中折帽なかおれぼう挨拶あいさつもなく宙返りをして、一間ばかりむこうころがった。それをから車を引いて通り掛った車夫が拾って笑いながらえへへと差し出した事を記憶している。こんどはその手はわぬ。これなら大丈夫と帽子をしかと抑えながら爪先で敷石をはじく心持で暗に姿勢を整える。人後に落ちた仕合せには邪魔になるほど近くに人もおらぬ。しばし衰えた、歓声は盛り返すうしおの岩に砕けたようにあたり一面にき上がる。ここだと思い切って、両足が胴のなかに飛び込みはしまいかと疑うほど脚力をふるってね上った。

 ほろを開いたランドウが横向に凱旋門がいせんもんを通り抜けようとする中に――いた――いた。例の黒い顔がき返る声に囲まれて過去の紀念のごとくはなやかなる群衆の中に点じ出されていた。将軍を迎えた儀仗兵ぎじょうへいの馬が万歳の声に驚ろいて前足を高くあげて人込の中にそれようとするのが見えた。将軍の馬車の上に紫の旗が一流れさっとなびくのが見えた。新橋へ曲る角の三階の宿屋の窓から藤鼠ふじねずみの着物をきた女が白いハンケチを振るのが見えた。

 見えたと思うより早く余が足はまた停車場のゆかの上に着いた。すべてが一瞬間の作用である。ぱっと射る稲妻のくまで明るく物を照らしたあとが常よりは暗く見えるように余は茫然ぼうぜんとして地に下りた。

 将軍の去ったあとは群衆もおのずから乱れて今までのように静粛ではない。列を作った同勢の一角いっかくくずれると、堅い黒山が一度に動き出して濃い所がだんだん薄くなる。気早きばやな連中はもう引き揚げると見える。ところへ将軍と共に汽車を下りた兵士が三々五々隊を組んで場内から出てくる。服地の色はめて、ゲートルの代りには黄な羅紗らしゃを畳んでぐるぐるとすねへ巻きつけている。いずれもあらん限りのひげやして、出来るだけ色を黒くしている。これらも戦争の片破かたわれである。大和魂やまとだましいかためた製作品である。実業家もらぬ、新聞屋も入らぬ、芸妓げいしゃも入らぬ、余のごとき書物とにらめくらをしているものは無論入らぬ。ただこの髯茫々ぼうぼうとして、むさくるしき事乞食こつじきを去る遠からざる紀念物のみはなくてかなわぬ。彼らは日本の精神を代表するのみならず、広く人類一般の精神を代表している。人類の精神は算盤そろばんはじけず、三味線に乗らず、三ページにも書けず、百科全書中にも見当らぬ。ただこの兵士らの色の黒い、みすぼらしいところに髣髴ほうふつとして揺曳ようえいしている。出山しゅっせん釈迦しゃかはコスメチックを塗ってはおらん。金の指輪も穿めておらん。芥溜ごみだめから拾い上げた雑巾ぞうきんをつぎ合せたようなもの一枚を羽織っているばかりじゃ。それすら全身をおおうには足らん。胸のあたりは北風の吹き抜けで、肋骨ろっこつの枚数は自由に読めるくらいだ。この釈迦がたっとければこの兵士もたっといと云わねばならぬ。むか元寇げんこうえき時宗ときむね仏光国師ぶっこうこくしえっした時、国師は何と云うた。ふるって驀地ばくちに進めとえたのみである。このむさくろしき兵士らは仏光国師の熱喝ねっかつきっした訳でもなかろうが驀地に進むと云う禅機ぜんきにおいて時宗と古今ここんそのいつにしている。彼らは驀地に進み了して曠如こうじょ吾家わがやに帰り来りたる英霊漢である。天上を行き天下てんげを行き、行き尽してやまざるてい気魄きはくが吾人の尊敬にあたいせざる以上は八荒はっこううちに尊敬すべきものは微塵みじんほどもない。黒い顔! 中には日本に籍があるのかと怪まれるくらい黒いのがいる。――刈り込まざる髯! 棕櫚箒しゅろぼうききぬたで打ったような髯――この気魄きはく這裏しゃり磅礴ほうはくとしてわだかまり沆瀁こうようとしてみなぎっている。

 兵士の一隊が出てくるたびに公衆は万歳をとなえてやる。彼らのあるものは例の黒い顔にえみたたえてうれに通り過ぎる。あるものは傍目わきめもふらずのそのそと行く。歓迎とはいかなる者ぞと不審気に見える顔もたまには見える。またある者は自己の歓迎旗の下に立って揚々ようようおくれて出る同輩をながめている。あるいは石段をくだるやいなむかえのものにようせられて、あまりの不意撃ふいうちに挨拶さえも忘れて誰彼の容赦なく握手の礼を施こしている。出征中に満洲で覚えたのであろう。

 その中に――これがはからずもこの話をかく動機になったのであるが――年の頃二十八九の軍曹が一人いた。顔は他の先生方とことなるところなく黒い、ひげも延びるだけ延ばしておそらくは去年から持ち越したものと思われるが目鼻立ちはほかの連中とは比較にならぬほど立派である。のみならず亡友こうさんと兄弟と見違えるまでよく似ている。実はこの男がただ一人石段を下りて出た時ははっと思ってけ寄ろうとしたくらいであった。しかし浩さんは下士官ではない。志願兵から出身した歩兵中尉である。しかも故歩兵中尉で今では白山の御寺に一年厄介やっかいになっている。だからいくら浩さんだと思いたくっても思えるはずがない。ただ人情は妙なものでこの軍曹が浩さんの代りに旅順で戦死して、浩さんがこの軍曹の代りに無事でかえって来たらさぞ結構であろう。御母おっかさんも定めし喜ばれるであろうと、露見ろけんする気づかいがないものだから勝手な事を考えながらながめていた。軍曹も何か物足らぬと見えてしきりにあたりを見廻している。ほかのもののように足早に新橋の方へ立ち去る景色けしきもない。何をがしているのだろう、もしや東京のものでなくて様子が分らんのなら教えてりたいと思ってなお目を放さずに打ち守っていると、どこをどうくぐり抜けたものやら、六十ばかりの婆さんが飛んで出て、いきなり軍曹のそでにぶら下がった。軍曹は中肉ではあるがせいは普通よりたしかに二寸は高い。これに反して婆さんは人並はずれてたけが低い上に年のせいで腰が少々曲っているから、抱き着いたとも寄り添うたとも形容は出来ぬ。もし余が脳中にある和漢の字句を傾けて、そのうちからこのありさまを叙するに最も適当なることばを探したなら必ずぶら下がるが当選するにきまっている。この時軍曹は紛失物が見当ったと云う風で上から婆さんを見下みおろす。婆さんはやっと迷児まいごを見つけたと云うていで下から軍曹を見上げる。やがて軍曹はあるき出す。婆さんもあるき出す。やはりぶらさがったままである。近辺きんぺんに立つ見物人は万歳万歳と両人ふたりはやしたてる。婆さんは万歳などにはごうも耳を借す景色はない。ぶら下がったぎり軍曹の顔を下から見上げたまま吾が子に引きられて行く。冷飯草履ひやめしぞうりびょうを打った兵隊靴が入り乱れ、もつれ合って、うねりくねって新橋の方へとおざかって行く。余は浩さんの事を思い出して悵然ちょうぜん草履ぞうりと靴の影を見送った。


          二


 こうさん! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそうだ。遼東りょうとう大野たいやを吹きめぐって、黒い日を海に吹き落そうとする野分のわきの中に、松樹山しょうじゅざんの突撃は予定のごとく行われた。時は午後一時である。掩護えんごのために味方の打ち出した大砲が敵塁の左突角ひだりとっかくあたって五丈ほどの砂煙すなけむりをき上げたのを相図に、散兵壕さんぺいごうから飛び出した兵士の数は幾百か知らぬ。ありの穴を蹴返けかえしたごとくに散り散りに乱れて前面の傾斜をじ登る。見渡す山腹は敵の敷いた鉄条網で足をるる余地もない。ところを梯子はしごにな土嚢どのう背負しょって区々まちまちに通り抜ける。工兵の切り開いた二間に足らぬ路は、先を争う者のために奪われて、あとより詰めかくる人の勢に波を打つ。こちらからながめるとただ一筋の黒い河が山を裂いて流れるように見える。その黒い中に敵の弾丸は容赦なく落ちかかって、すべてが消え失せたと思うくらいい煙が立ちあがる。いかる野分は横さまに煙りを千切ちぎってはるかの空にさらって行く。あとには依然として黒い者が簇然そうぜんうごめいている。この蠢めいているもののうちに浩さんがいる。

 火桶ひおけを中に浩さんと話をするときには浩さんは大きな男である。色の浅黒いひげの濃い立派な男である。浩さんが口を開いて興に乗った話をするときは、相手の頭の中には浩さんのほか何もない。今日きょうの事も忘れ明日あすの事も忘れれている自分の事も忘れて浩さんだけになってしまう。浩さんはかように偉大な男である。どこへ出しても浩さんなら大丈夫、人の目に着くにきまっていると思っていた。だから蠢めいているなどと云う下等な動詞は浩さんに対して用いたくない。ないが仕方がない。現に蠢めいている。くわの先にくずされた蟻群ぎぐんの一匹のごとく蠢めいている。ひしゃくの水をくらった蜘蛛くもの子のごとく蠢めいている。いかなる人間もこうなると駄目だ。大いなる山、大いなる空、千里をけ抜ける野分、八方を包む煙り、鋳鉄しゅてつ咽喉のんどからえて飛ぶたま――これらの前にはいかなる偉人も偉人として認められぬ。俵に詰めた大豆だいずの一粒のごとく無意味に見える。嗚呼ああ浩さん! 一体どこで何をしているのだ? 早く平生の浩さんになって一番露助ろすけを驚かしたらよかろう。

 黒くむらがる者はたまを浴びるたびにぱっと消える。消えたかと思うと吹き散る煙の中に動いている。消えたり動いたりしているうちに、へびへいをわたるように頭から尾まで波を打ってしかも全体が全体としてだんだん上へ上へと登って行く、もう敵塁だ。浩さん真先に乗り込まなければいけない。煙の絶間から見ると黒い頭の上に旗らしいものがなびいている。風の強いためか、押し返されるせいか、真直ぐに立ったと思うと寝る。落ちたのかと驚ろくとまた高くあがる。するとまたななめにたおれかかる。浩さんだ、浩さんだ。浩さんに相違ない。多人数たにんず集まってみに揉んで騒いでいる中にもし一人でも人の目につくものがあれば浩さんに違ない。自分の妻は天下の美人である。この天下の美人が晴れの席へ出て隣りの奥様とえらぶところなくいっこう目立たぬのは不平な者だ。おのれの子が己れの家庭にのさばっている間は天にも地にも懸替かけがえのない若旦那である。この若旦那が制服を着けて学校へ出ると、向うの小間物屋のせがれと席をならべて、しかもその間に少しも懸隔のないように見えるのはちょっと物足らぬ感じがするだろう。余の浩さんにおけるもその通り。浩さんはどこへ出しても平生の浩さんらしくなければ気が済まん。擂鉢すりばちの中にき廻される里芋さといものごとく紛然雑然とゴロゴロしていてはどうしても浩さんらしくない。だから、何でも構わん、旗を振ろうが、剣をかざそうが、とにかくこの混乱のうちに少しなりとも人の注意をくに足るはたらきをするものを浩さんにしたい。したい段ではない。必ず浩さんにきまっている。どう間違ったって浩さんが碌々ろくろくとして頭角をあらわさないなどと云う不見識な事は予期出来んのである。――それだからあの旗持は浩さんだ。

 黒いかたまりが敵塁の下まで来たから、もう塁壁をのぼるだろうと思ううち、たちまち長いへびの頭はぽつりと二三寸切れてなくなった。これは不思議だ。たまくらってたおれたとも見えない。狙撃そげきを避けるため地に寝たとも見えない。どうしたのだろう。すると頭の切れた蛇がまた二三寸ぷつりと消えてなくなった。これは妙だとながめていると、順繰じゅんぐりに下から押しあがる同勢が同じ所へ来るやいなやたちまちなくなる。しかもとりでの壁には誰一人としてとりついたものがない。塹壕ざんごうだ。敵塁と我兵の間にはこの邪魔物があって、この邪魔物を越さぬ間は一人も敵にちかづく事は出来んのである。彼らはえいえいと鉄条網を切り開いた急坂きゅうはんを登りつめた揚句あげく、このほりはたまで来て一も二もなくこの深いみぞの中に飛び込んだのである。になっている梯子はしごは壁に懸けるため、背負しょっている土嚢どのうは壕をうずめるためと見えた。壕はどのくらいうまったか分らないが、先の方から順々に飛び込んではなくなり、飛び込んではなくなってとうとう浩さんの番に来た。いよいよ浩さんだ。しっかりしなくてはいけない。

 高く差し上げた旗が横になびいて寸断寸断ずたずたに散るかと思うほど強く風を受けたのち旗竿はたざおが急に傾いて折れたなと疑う途端とたんに浩さんの影はたちまち見えなくなった。いよいよ飛び込んだ! 折から二竜山にりゅうざんの方面より打ち出した大砲が五六発、大空に鳴る烈風をつんざいて一度に山腹にあたって山の根を吹き切るばかりとどろき渡る。ほとばしる砂煙すなけむりさびしき初冬はつふゆの日蔭をめつくして、見渡す限りに有りとある物を封じおわる。浩さんはどうなったか分らない。気が気でない。あの煙の吹いている底だと見当をつけて一心に見守る。夕立を遠くから望むように密におおい重なる濃き者は、はげしき風の捲返まきかえしてすくい去ろうとあせる中に依然としてり固って動かぬ。約二分間は眼をいくらこすっても盲目めくら同然どうする事も出来ない。しかしこの煙りが晴れたら――もしこの煙りが散り尽したら、きっと見えるに違ない。浩さんの旗が壕の向側むこうがわに日を射返して耀かがやき渡って見えるに違ない。いな向側を登りつくしてあの高く見えるひめがきの上に翩々へんぺんひるがえっているに違ない。ほかの人ならとにかく浩さんだから、そのくらいの事は必ずあるにきまっている。早く煙が晴れればいい。なぜ晴れんだろう。

 めた。敵塁の右のはじの突角の所が朧気おぼろげに見え出した。中央の厚く築き上げた石壁せきへきも見え出した。しかし人影はない。はてな、もうあすこらに旗が動いているはずだが、どうしたのだろう。それでは壁の下の土手の中頃にいるに相違ない。煙はぬぐうがごとく一掃ひとはきに上から下まで漸次ぜんじに晴れ渡る。浩さんはどこにも見えない。これはいけない。田螺たにしのようにうごめいていたほかの連中もどこにも出現せぬ様子だ。いよいよいけない。もう出るか知らん、五秒過ぎた。まだか知らん、十秒立った。五秒は十秒と変じ、十秒は二十、三十と重なっても誰一人いちにん塹壕ざんごうから向うへあがる者はない。ないはずである。塹壕に飛び込んだ者はむこうへ渡すために飛び込んだのではない。死ぬために飛び込んだのである。彼らの足が壕底ごうていに着くやいな穹窖きゅうこうよりねらいを定めて打ち出す機関砲は、つえを引いて竹垣の側面を走らす時の音がしてまたたに彼らを射殺した。殺されたものが這い上がれるはずがない。石を置いた沢庵たくあんのごとく積み重なって、人の眼に触れぬ坑内によこたわる者に、むこうへ上がれと望むのは、望むものの無理である。横わる者だって上がりたいだろう、上りたければこそ飛び込んだのである。いくら上がりたくても、手足がかなくては上がれぬ。眼がくらんでは上がれぬ。胴に穴がいては上がれぬ。血が通わなくなっても、脳味噌がつぶれても、肩が飛んでも身体からだが棒のように鯱張しゃちこばっても上がる事は出来ん。二竜山にりゅうざんから打出した砲煙が散じ尽した時に上がれぬばかりではない。寒い日が旅順の海に落ちて、寒いしもが旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して二十の砲砦ほうさいがことごとく日本の手に帰しても上る事は出来ん。日露の講和が成就じょうじゅして乃木将軍がめでたく凱旋がいせんしても上がる事は出来ん。百年三万六千日乾坤けんこんひっさげて迎に来ても上がる事はついにできぬ。これがこの塹壕に飛び込んだものの運命である。しかしてまた浩さんの運命である。蠢々しゅんしゅんとして御玉杓子おたまじゃくしのごとく動いていたものは突然とこの底のないあなのうちに落ちて、浮世の表面からやみうちに消えてしまった。旗を振ろうが振るまいが、人の目につこうがつくまいがこうなって見ると変りはない。浩さんがしきりに旗を振ったところはよかったが、ほりの底では、ほかの兵士と同じように冷たくなって死んでいたそうだ。

 ステッセルはくだった。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。しかし浩さんはまだ坑から上って来ない。はからず新橋へ行って色の黒い将軍を見、色の黒い軍曹を見、の低い軍曹の御母おっかさんを見て涙まで流して愉快に感じた。同時に浩さんはなぜ壕から上がってんのだろうと思った。浩さんにも御母さんがある。この軍曹のそれのように背は低くない、また冷飯草履ひやめしぞうり穿いた事はあるまいが、もし浩さんが無事に戦地から帰ってきて御母さんが新橋へ出迎えに来られたとすれば、やはりあの婆さんのようにぶら下がるかも知れない。浩さんもプラットフォームの上で物足らぬ顔をして御母さんの群集の中から出てくるのを待つだろう。それを思うと可哀そうなのは坑を出て来ない浩さんよりも、浮世の風にあたっている御母おっかさんだ。塹壕ざんごうに飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。娑婆しゃばの天気は晴であろうとも曇であろうとも頓着とんじゃくはなかろう。しかし取り残された御母さんはそうは行かぬ。そら雨が降る、めて浩さんの事を思い出す。そら晴れた、表へ出て浩さんの友達にう。歓迎で国旗を出す、あれが生きていたらと愚痴ぐちっぽくなる。洗湯せんとうで年頃の娘が湯をんでくれる、あんな嫁がいたらと昔をしのぶ。これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。しかし親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪ひょうたんの中から折れたと同じようなものでしめくくりがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一こういちが帰って来たらばと、しわだらけの指を日夜にちやに折り尽してぶら下がる日を待ちがれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。白髪しらがは増したかも知れぬが将軍は歓呼かんこうち帰来きらいした。色は黒くなっても軍曹は得意にプラットフォームの上に飛び下りた。白髪になろうと日に焼けようと帰りさえすればぶら下がるにつかえはない。右の腕を繃帯ほうたいで釣るして左の足が義足と変化しても帰りさえすれば構わん。構わんと云うのに浩さんは依然としてあなから上がって来ない。これでも上がって来ないなら御母さんの方からあとを追いかけて坑の中へ飛び込むより仕方がない。

 幸い今日はひまだから浩さんのうちへ行って、久し振りに御母さんを慰めてやろう? 慰めに行くのはいいがあすこへ行くと、行くたびに泣かれるので困る。せんだってなどは一時間半ばかり泣き続けに泣かれて、しまいには大抵な挨拶あいさつはし尽して、おおいに応対に窮したくらいだ。その時御母さんはせめて気立ての優しい嫁でもおりましたら、こんな時には力になりますのにとしきりに嫁々と繰り返して大に余を困らせた。それも一段落告げたからもうかろうと御免ごめんこうむりかけると、あなたに是非見て頂くものがあると云うから、何ですと聴いたら浩一の日記ですと云う。なるほど亡友の日記は面白かろう。元来日記と云うものはその日その日の出来事を書きるすのみならず、また時々刻々じじこっこくの心ゆきを遠慮なく吐き出すものだから、いかに親友の手帳でも断りなしに目を通す訳には行かぬが、御母さんが承諾する――いな先方から依頼する以上は無論興味のある仕事に相違ない。だから御母さんに読んでくれと云われたときは大に乗気になってそれは是非見せてちょうだいとまで云おうと思ったが、この上また日記で泣かれるような事があっては大変だ。とうてい余の手際てぎわでは切り抜ける訳には行かぬ。ことに時刻を限ってある人と面会の約束をした刻限もせまっているから、これは追って改めて上がって緩々ゆるゆる拝見を致す事に願いましょうと逃げ出したくらいである。以上の理由で訪問はちと辟易へきえきていである。もっとも日記は読みたくない事もない。泣かれるのも少しならいやとは云わない。元々木や石で出来上ったと云う訳ではないから人の不幸に対して一滴の同情くらいはゆうに表し得る男であるがいかんせん性来しょうらい余り口の製造に念がっておらんので応対に窮する。御母さんがまああなた聞いて下さいましとすすり上げてくると、何と受けていいか分らない。それを無理矢理に体裁ていさいつくろって半間はんまに調子を合せようとするとせっかくの慰藉いしゃ的好意が水泡と変化するのみならず、時には思いも寄らぬ結果を呈出して熱湯とまで沸騰ふっとうする事がある。これでは慰めに行ったのか怒らせに行ったのか先方でも了解に苦しむだろう。行きさえしなければ薬も盛らん代りに毒も進めぬ訳だから危険はない。訪問はいずれその内として、まず今日は見合せよう。

 訪問は見合せる事にしたが、昨日きのうの新橋事件を思い出すと、どうも浩さんの事が気に掛ってならない。何らかの手段で親友をとむらってやらねばならん。悼亡とうぼうの句などは出来るがらでない。文才があれば平生の交際をそのまま記述して雑誌にでも投書するがこの筆ではそれも駄目と。何かないかな? うむあるある寺参りだ。浩さんは松樹山しょうじゅざん塹壕ざんごうからまだあがって来ないがその紀念の遺髪ははるかの海を渡って駒込の寂光院じゃっこういんに埋葬された。ここへ行って御参りをしてきようと西片町にしかたまち吾家わがやを出る。

 冬のきである。小春こはると云えば名前を聞いてさえ熟柿じゅくしのようないい心持になる。ことに今年ことしはいつになく暖かなので袷羽織あわせばおり綿入わたいれ一枚のちさえ軽々かろがろとした快い感じを添える。先のななめに減ったつえを振り廻しながら寂光院と大師流だいしりゅうに古い紺青こんじょうで彫りつけた額をながめて門を這入はいると、精舎しょうじゃは格別なもので門内は蕭条しょうじょうとして一塵のあとめぬほど掃除が行き届いている。これはうれしい。はだの細かな赤土が泥濘ぬかりもせず干乾ひからびもせず、ねっとりとして日の色を含んだ景色けしきほどありがたいものはない。西片町は学者町か知らないがな家は無論の事、落ちついた土の色さえ見られないくらい近頃は住宅が多くなった。学者がそれだけえたのか、あるいは学者がそれだけ不風流なのか、まだ研究して見ないから分らないが、こうやって広々とした境内けいだいへ来ると、平生は学者町で満足を表していた眼にも何となく坊主の生活がうらやましくなる。門の左右には周囲二尺ほどな赤松が泰然として控えている。大方おおかた百年くらい前からかくのごとく控えているのだろう。鷹揚おうようなところが頼母たのもしい。神無月かんなづきの松の落葉とか昔はとなえたものだそうだが葉をふるった景色けしきは少しも見えない。ただわだかまった根が奇麗な土の中からこぶだらけの骨を一二寸あらわしているばかりだ。老僧か、小坊主か納所なっしょかあるいは門番が凝性こりしょう大方おおかた日に三度くらいくのだろう。松を左右に見て半町ほど行くとつき当りが本堂で、その右が庫裏くりである。本堂の正面にも金泥きんでいがくかかって、鳥のふんか、紙をんでたたきつけたのか点々と筆者の神聖をがしている。八寸角の欅柱けやきばしらには、のたくった草書のれんが読めるなら読んで見ろとすましてかかっている。なるほど読めない。読めないところをもって見るとよほど名家の書いたものに違いない。ことによると王羲之おうぎしかも知れない。えらそうで読めない字を見ると余は必ず王羲之にしたくなる。王羲之にしないと古い妙な感じが起らない。本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏ばけいちょうがある。ただしばけの字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈かいわいで寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何がけたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱みかかえもあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉をふるって、から坊主になって、野分のわきのなかにうなっているのだが、今年ことしは全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金こがねの雲が、おだやかな日光を浴びて、ところどころ鼈甲べっこうのように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲のかたまりが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日にそむいて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色けしきもなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳ようえいして遊んでいるように思われる。閑静である。――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重かちょうならしめぬくらい、いなその一点の動く事それみずからが定寂じょうじゃくの姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思はんしせしむるに足るほどになびいたなら――その時が一番閑寂かんじゃくの感を与える者だ。銀杏いちょうの葉の一陣の風なきに散る風情ふぜいは正にこれである。限りもない葉があしたゆうべいとわず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧じそうもここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除のはんを避けたものか、またはうずたかき落葉を興ある者とながめて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。

 しばらく化銀杏ばけいちょうの下に立って、上を見たり下を見たりたたずんでいたが、ようやくの事幹のもとを離れていよいよ墓地の中へ這入はいり込んだ。この寺は由緒ゆいしょのある寺だそうでところどころに大きな蓮台れんだいの上にえつけられた石塔が見える。右手のかたさくを控えたのには梅花院殿ばいかいんでん瘠鶴大居士せきかくだいこじとあるから大方おおかた大名か旗本の墓だろう。中には至極しごく簡略で尺たらずのもある。慈雲童子と楷書かいしょで彫ってある。小供だから小さいわけだ。このほか石塔も沢山ある、戒名も飽きるほど彫りつけてあるが、申し合わせたように古いのばかりである。近頃になって人間が死ななくなった訳でもあるまい、やはり従前のごとく相応の亡者もうじゃは、年々御客様となって、あのげかかった額の下をくぐるに違ない。しかし彼らがひとたび化銀杏の下を通り越すやいなや急にぼとけとなってしまう。何も銀杏のせいと云う訳でもなかろうが、大方の檀家だんかは寺僧の懇請で、余り広くない墓地の空所くうしょせばめずに、先祖代々の墓の中に新仏しんぼとけを祭り込むからであろう。浩さんも祭り込まれた一人ひとりである。

 浩さんの墓は古いと云う点においてこの古い卵塔婆らんとうば内でだいぶ幅のく方である。墓はいつ頃出来たものかしかとは知らぬが、何でも浩さんの御父おとっさんが這入り、御爺おじいさんも這入り、そのまた御爺さんも這入ったとあるからけっして新らしい墓とは申されない。古い代りには形勝けいしょうの地を占めている。隣り寺を境に一段高くなった土手の上に三坪ほどな平地へいちがあって石段を二つ踏んであたりの真中にあるのが、御爺さんも御父さんも浩さんも同居して眠っている河上家代々之墓である。きわめてわかりやすい。化銀杏を通り越して一筋道を北へ二十間歩けばよい。余は馴れた所だから例のごとく例のみちをたどって半分ほど来て、ふと何の気なしに眼をあげて自分のまいるべき墓の方を見た。

 見ると! もう来ている。誰だか分らないがうしむきになってしきりに合掌している様子だ。はてな。誰だろう。誰だか分りようはないが、遠くから見ても男でないだけは分る。恰好かっこうから云ってもたしかに女だ。女なら御母おっかさんか知らん。余は無頓着むとんじゃくの性質で女の服装などはいっこう不案内だが、御母さんは大抵黒繻子くろじゅすの帯をしめている。ところがこの女の帯は――後から見ると最も人の注意をく、女の背中いっぱいに広がっている帯は決して黒っぽいものでもない。光彩陸離こうさいりくりたるやたらに奇麗きれいなものだ。若い女だ! と余は覚えず口の中で叫んだ。こうなると余は少々ばつがわるい。進むべきものか退しりぞくべきものかちょっと留って考えて見た。女はそれとも知らないから、しゃがんだまま熱心に河上家代々の墓を礼拝している。どうも近寄りにくい。さればと云って逃げるほど悪事を働いたおぼえはない。どうしようと迷っていると女はすっくら立ち上がった。後ろは隣りの寺の孟宗藪もうそうやぶで寒いほど緑りの色が茂っている。そのしたたるばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日影で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。眼の大きな頬のしまったえりの長い女である。右の手をぶらりと垂れて、指の先でハンケチのはじをつかんでいる。そのハンケチの雪のように白いのが、暗い竹の中にあざやかに見える。顔とハンケチの清く染め抜かれたほかは、あっと思った瞬間に余の眼には何物も映らなかった。

 余がこのとしになるまでに見た女の数はおびただしいものである。往来の中、電車の上、公園の内、音楽会、劇場、縁日、随分見たと云ってよろしい。しかしこの時ほど驚ろいた事はない。この時ほど美しいと思った事はない。余は浩さんの事も忘れ、墓詣はかまいりに来た事も忘れ、きまりがるいと云う事さえ忘れて白い顔と白いハンケチばかりながめていた。今までは人が後ろにいようとは夢にも知らなかった女も、帰ろうとして歩き出す途端に、茫然ぼうぜんとしてたたずんでいる余の姿が眼にったものと見えて、石段の上にちょっと立ち留まった。下から眺めた余の眼と上から見下みおろす女の視線が五間をへだてて互に行き当った時、女はすぐ下を向いた。するとくまで白い頬に裏から朱をいて流したような濃い色がむらむらと煮染にじみ出した。見るうちにそれが顔一面に広がって耳の付根まで真赤に見えた。これは気の毒な事をした。化銀杏ばけいちょうの方へ逆戻りをしよう。いやそうすればかえって忍び足にあとでもつけて来たように思われる。と云って茫然と見とれていてはなお失礼だ。死地に活を求むと云う兵法もあると云う話しだからこれは勢よく前進するにしくはない。墓場へ墓詣りをしに来たのだから別に不思議はあるまい。ただ躊躇ちゅうちょするから怪しまれるのだ。と決心して例のステッキを取り直して、つかつかと女の方にあるき出した。すると女も俯向うつむいたまま歩を移して石段の下で逃げるように余のそでそばりぬける。ヘリオトロープらしいかおりがぷんとする。香が高いので、小春日に照りつけられた袷羽織あわせばおり背中せなかからしみ込んだような気がした。女が通り過ぎたあとは、やっと安心して何だか我に帰った風に落ちついたので、元来何者だろうとまた振り向いて見る。すると運悪くまた眼と眼が行き合った。こんどは余は石段の上に立ってステッキを突いている。女は化銀杏ばけいちょうの下で、行きかけたたいななめにねじってこっちを見上げている。銀杏は風なきになおひらひらと女の髪の上、そでの上、帯の上へ舞いさがる。時刻は一時か一時半頃である。ちょうど去年の冬浩さんが大風の中を旗を持って散兵壕から飛び出した時である。空はぎ上げたつるぎけつらねたごとく澄んでいる。秋の空の冬に変る間際まぎわほど高く見える事はない。うすものに似た雲の、かすかに飛ぶ影もひとみうちには落ちぬ。羽根があって飛び登ればどこまでも飛び登れるに相違ない。しかしどこまで昇っても昇り尽せはしまいと思われるのがこの空である。無限と云う感じはこんな空を望んだ時に最もよく起る。この無限に遠く、無限にはるかに、無限に静かな空を会釈えしゃくもなく裂いて、化銀杏が黄金こがねの雲をらしている。その隣には寂光院の屋根瓦やねがわらが同じくこの蒼穹そうきゅうの一部を横にかくして、何十万枚重なったものか黒々とうろこのごとく、暖かき日影を射返している。――古き空、古き銀杏、古き伽藍がらんと古き墳墓が寂寞じゃくまくとして存在する間に、美くしい若い女が立っている。非常な対照である。竹藪をうしろに背負しょって立った時はただ顔の白いのとハンケチの白いのばかり目に着いたが、今度はすらりと着こなしたきぬの色と、その衣を真中から輪にった帯の色がいちじるしく目立つ。縞柄しまがらだの品物などは余のような無風流漢には残念ながら記述出来んが、色合だけはたしかにはなやかな者だ。こんな物寂ものさびた境内けいだいに一分たりともいるべき性質のものでない。いるとすればどこからか戸迷とまどいをしてまぎれ込んで来たに相違ない。三越陳列場の断片を切り抜いて落柿舎らくししゃ物干竿ものほしざおへかけたようなものだ。対照の極とはこれであろう。――女は化銀杏の下から斜めに振り返って余がまいる墓のありかを確かめて行きたいと云う風に見えたが、生憎あいにく余の方でも女に不審があるので石段の上からながめ返したから、思い切って本堂の方へ曲った。銀杏はひらひらと降って、黒い地を隠す。

 余は女の後姿を見送って不思議な対照だと考えた。むかし住吉のやしろで芸者を見た事がある。その時は時雨しぐれの中に立ち尽す島田姿が常よりはあでやかに余がひとみを照らした。箱根の大地獄で二八余にはちあまりの西洋人にった事がある。その折は十丈も煮えあがる湯煙りのすさまじき光景が、しばらくはやわらいで安慰の念を余が頭に与えた。すべての対照は大抵この二つの結果よりほかには何も生ぜぬ者である。在来の鋭どき感じをけずって鈍くするか、または新たに視界に現わるる物象を平時よりは明瞭めいりょう脳裏のうりに印し去るか、これが普通吾人の予期する対照である。ところが今た対象はごうもそんな感じを引き起さなかった。相除そうじょの対照でもなければ相乗そうじょうの対照でもない。古い、さびしい、消極的な心の状態が減じた景色けしきはさらにない、と云ってこの美くしい綺羅きらを飾った女の容姿が、音楽会や、園遊会でうよりはきわ目立って見えたと云う訳でもない。余が寂光院じゃっこういんの門をくぐって得た情緒じょうしょは、浮世を歩む年齢が逆行して父母未生ふもみしょう以前にさかのぼったと思うくらい、古い、物寂ものさびた、憐れの多い、捕えるほどしかとした痕迹こんせきもなきまで、淡く消極的な情緒である。この情緒はやぶうしろにすっくりと立った女の上に、余の眼がそそがれた時にごうも矛盾の感を与えなかったのみならず、落葉の中に振り返る姿を眺めた瞬間において、かえって一層の深きを加えた。古伽藍ふるがらんげた額、化銀杏ばけいちょうと動かぬ松、錯落さくらくならぶ石塔――死したる人の名をきざむ死したる石塔と、花のような佳人とが融和して一団の気と流れて円熟無礙むげの一種の感動を余の神経に伝えたのである。

 こんな無理を聞かせられる読者は定めて承知すまい。これは文士の嘘言きょげんだと笑う者さえあろう。しかし事実はうそでも事実である。文士だろうが不文士だろうが書いた事は書いた通り懸価かけねのないところをかいたのである。もし文士がわるければことわって置く。余は文士ではない、西片町にしかたまちに住む学者だ。もし疑うならこの問題をとって学者的に説明してやろう。読者は沙翁さおうの悲劇マクベスを知っているだろう。マクベス夫婦が共謀して主君のダンカンを寝室の中で殺す。殺してしまうやいなや門の戸を続けざまたたくものがある。すると門番が敲くは敲くはと云いながら出て来て酔漢のくだくようなたわいもない事を呂律ろれつの廻らぬ調子で述べ立てる。これが対照だ。対照も対照も一通りの対照ではない。人殺しのわき都々逸どどいつを歌うくらいの対照だ。ところが妙な事はこの滑稽こっけいはさんだために今までの凄愴せいそうたる光景が多少やわらげられて、ここに至って一段とくつろぎがついた感じもなければ、また滑稽が事件の排列の具合から平生より一倍のおかしみを与えると云う訳でもない。それでは何らの功果こうかもないかと云うと大変ある。劇全体を通じての物凄ものすごさ、おそろしさはこの一段の諧謔かいぎゃくのために白熱度に引き上げらるるのである。なお拡大して云えばこの場合においては諧謔その物が畏怖いふである。恐懼きょうくである、悚然しょうぜんとしてあわはだえに吹く要素になる。その訳を云えばずこうだ。

 吾人が事物に対する観察点が従来の経験で支配せらるるのはげんを待たずして明瞭な事実である。経験の勢力は度数と、単独な場合に受けた感動の量にって高下増減するのも争われぬ事実であろう。絹布団きぬぶとんに生れ落ちて御意ぎょいだ仰せだと持ち上げられる経験がたびかさなると人間は余に頭を下げるために生れたのじゃなと御意ぎょい遊ばすようになる。金で酒を買い、金でめかけを買い、金で邸宅、朋友ほうゆう従五位じゅごいまで買った連中れんじゅうは金さえあれば何でも出来るさと金庫を横目ににらんでたかくくった鼻先を虚空こくうはるかにえす。一度の経験でも御多分ごたぶんにはれん。箔屋町はくやちょうの大火事に身代しんだいつぶした旦那は板橋の一つ半でもあおくなるかも知れない。濃尾のうびの震災にかわらの中から掘り出されたぼとけはドンが鳴っても念仏をとなえるだろう。正直な者が生涯しょうがいに一ぺん万引を働いてもうたがいを掛ける知人もないし、冗談じょうだんを商売にする男が十年に半日真面目まじめな事件をかつぎ込んでも誰も相手にするものはない。つまるところ吾々の観察点と云うものは従来の惰性で解決せられるのである。吾々の生活は千差万別であるから、吾々の惰性も商売により職業により、年齢により、気質により、両性によりておのおの異なるであろう。がその通り。劇を見るときにも小説を読むときにも全篇を通じた調子があって、この調子が読者、観客の心に反応するとやはり一種の惰性になる。もしこの惰性を構成する分子が猛烈であればあるほど、惰性その物もろうとして動かすべからず抜くべからざる傾向を生ずるにきまっている。マクベスは妖婆ようば、毒婦、兇漢きょうかんの行為動作を刻意こくいに描写した悲劇である。読んで冒頭より門番の滑稽こっけいに至って冥々めいめいの際読者の心に生ずる唯一の惰性はと云う一字に帰着してしまう。過去がすでにである、未来もまた怖なるべしとの予期は、自然とおのれを放射して次に出現すべきいかなる出来事をもこのに関連して解釈しようと試みるのは当然の事と云わねばならぬ。船に酔ったものがおかあがったあとまでも大地を動くものと思い、臆病に生れついたすずめ案山子かがしを例のじいさんかと疑うごとく、マクベスを読む者もまたの一字をどこまでも引張って、を冠すべからざるへんにまで持って行こうとつとむるは怪しむに足らぬ。何事をもせんとあせる矢先に現わるる門番の狂言は、普通の狂言諧謔かいぎゃくとは受け取れまい。

 世間には諷語ふうごと云うがある。諷語は皆表裏ひょうり二面の意義を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫ひっぷ渾名あだなに使うのは誰も心得ていよう。この筆法で行くと人に謙遜けんそんするのはますます人をにした待遇法で、他を称揚するのはさかんに他を罵倒ばとうした事になる。表面の意味が強ければ強いほど、裏側の含蓄もようやく深くなる。御辞儀おじぎ一つで人を愚弄ぐろうするよりは、履物はきものそろえて人を揶揄やゆする方が深刻ではないか。この心理を一歩開拓して考えて見る。吾々が使用する大抵の命題は反対の意味に解釈が出来る事となろう。さあどっちの意味にしたものだろうと云うときに例の惰性が出て苦もなく判断してくれる。滑稽の解釈においてもその通りと思う。滑稽の裏には真面目まじめがくっついている。大笑たいしょうの奥には熱涙がひそんでいる。雑談じょうだんの底には啾々しゅうしゅうたる鬼哭きこくが聞える。とすればと云う惰性を養成した眼をもって門番の諧謔を読む者は、その諧謔を正面から解釈したものであろうか、裏側から観察したものであろうか。裏面から観察するとすれば酔漢の妄語もうごのうちに身の毛もよだつほどの畏懼いくの念はあるはずだ。元来諷語ふうご正語せいごよりも皮肉なるだけ正語よりも深刻で猛烈なものである。虫さえいとう美人の根性こんじょう透見とうけんして、毒蛇の化身けしんすなわちこれ天女てんにょなりと判断し得たる刹那せつなに、その罪悪は同程度の他の罪悪よりも一層おそるべき感じを引き起す。全く人間の諷語であるからだ。白昼の化物ばけものの方が定石じょうせきの幽霊よりも或る場合には恐ろしい。諷語であるからだ。廃寺に一夜いちやをあかした時、庭前の一本杉の下でカッポレをおどるものがあったらこのカッポレは非常に物凄ものすごかろう。これも一種の諷語ふうごであるからだ。マクベスの門番は山寺のカッポレと全然同格である。マクベスの門番が解けたら寂光院じゃっこういんの美人も解けるはずだ。

 百花の王をもって許す牡丹ぼたんさえくずれるときは、富貴の色もただ好事家こうずかの憐れを買うに足らぬほどもろいものだ。美人薄命と云うことわざもあるくらいだからこの女の寿命も容易に保険はつけられない。しかし妙齢の娘は概して活気にちている。前途の希望に照らされて、見るからに陽気な心持のするものだ。のみならず友染ゆうぜんとか、繻珍しゅちんとか、ぱっとした色気のものに包まっているから、横から見ても縦から見ても派出はでである立派である、春景色はるげしきである。その一人が――最も美くしきその一人が寂光院の墓場の中に立った。浮かない、古臭い、沈静な四顧の景物の中に立った。するとその愛らしき眼、そのはなやかなそで忽然こつぜんと本来の面目を変じて蕭条しょうじょうたる周囲に流れ込んで、境内寂寞けいだいじゃくまくの感を一層深からしめた。天下に墓ほど落ついたものはない。しかしこの女が墓の前に延び上がった時は墓よりも落ちついていた。銀杏いちょう黄葉こうようさみしい。ましてけるとあるからなおさみしい。しかしこの女が化銀杏ばけいちょうの下に横顔を向けてたたずんだときは、銀杏の精が幹から抜け出したと思われるくらい淋しかった。上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこの女が、なぜかくのごとく四辺の光景と映帯えいたいして索寞さくばくの観を添えるのか。これも諷語ふうごだからだ。マクベスの門番がおそろしければ寂光院のこの女も淋しくなくてはならん。

 御墓を見ると花筒に菊がさしてある。垣根に咲く豆菊の色は白いものばかりである。これも今の女のせいに相違ない。うちから折って来たものか、途中で買って来たものか分らん。もしや名刺でもくくりつけてはないかと葉裏までのぞいて見たが何もない。全体何物だろう。余は高等学校時代から浩さんとは親しい付き合いの一人であった。うちへはよく泊りに行って浩さんの親類は大抵知っている。しかし指を折ってあれこれと順々に勘定して見ても、こんな女は思い出せない。すると他人か知らん。浩さんは人好きのする性質で、交際もだいぶ広かったが、女に朋友がある事はついに聞いた事がない。もっとも交際をしたからと云って、必らず余に告げるとは限っておらん。が浩さんはそんな事を隠すような性質ではないし、よしほかの人に隠したからと云って余に隠す事はないはずだ。こう云うとおかしいが余は河上家の内情は相続人たる浩さんに劣らんくらいくわしく知っている。そうしてそれは皆浩さんが余に話したのである。だから女との交際だって、もし実際あったとすればとくに余に告げるに相違ない。告げぬところをもって見ると知らぬ女だ。しかし知らぬ女が花までげて浩さんの墓参りにくる訳がない。これは怪しい。少し変だが追懸おいかけて名前だけでも聞いてようか、それも妙だ。いっその事黙ってあとを付けて行く先を見届けようか、それではまるで探偵だ。そんな下等な事はしたくない。どうしたらかろうと墓の前で考えた。浩さんは去年の十一月塹壕ざんごうに飛び込んだぎり、今日きょうまで上がって来ない。河上家代々の墓をつえたたいても、手でり動かしても浩さんはやはり塹壕の底にているだろう。こんな美人が、こんな美しい花をげて御詣おまいりに来るのも知らずに寝ているだろう。だから浩さんはあの女の素性すじょうも名前も聞く必要もあるまい。浩さんが聞く必要もないものを余が探究する必要はなおさらない。いやこれはいかぬ。こう云う論理ではあの女の身元を調べてはならんと云う事になる。しかしそれは間違っている。なぜ? なぜは追って考えてから説明するとして、ただ今の場合是非共聞きたださなくてはならん。何でもでも聞かないと気が済まん。いきなり石段を一股ひとまたに飛び下りて化銀杏ばけいちょうの落葉を蹴散けちらして寂光院の門を出てず左の方を見た。いない。右を向いた。右にも見えない。足早に四つ角まで来て目の届く限り東西南北を見渡した。やはり見えない。とうとう取り逃がした。仕方がない、御母おっかさんに逢って話をしてよう、ことによったら容子ようすが分るかも知れない。


          三


 六畳の座敷は南向みなみむきで、拭き込んだ椽側えんがわはじ神代杉じんだいすぎ手拭懸てぬぐいかけが置いてある。軒下のきしたから丸い手水桶ちょうずおけを鉄のくさりで釣るしたのは洒落しゃれているが、その下に一叢ひとむら木賊とくさをあしらった所が一段のおもむきを添える。四つ目垣の向うは二三十坪の茶畠ちゃばたけでその間に梅の木が三四本見える。垣にうた竹の先に洗濯した白足袋しろたびが裏返しにしてあってその隣りには如露じょろさかさまにかぶせてある。その根元に豆菊がかたまって咲いて累々るいるい白玉はくぎょくつづっているのを見て「奇麗ですな」と御母さんに話しかけた。

「今年はあったかだもんですからよく持ちます。あれもあなた、浩一の大好きな菊で……」

「へえ、白いのが好きでしたかな」

「白い、小さい豆のようなのが一番面白いと申して自分で根を貰って来て、わざわざ植えたので御座います」

「なるほどそんな事がありましたな」と云ったが、内心は少々気味が悪かった。寂光院じゃっこういんの花筒にはさんであるのは正にこの種のこの色の菊である。

御叔母おばさん近頃は御寺参りをなさいますか」

「いえ、せんだってじゅうから風邪かぜの気味で五六日伏せっておりましたものですから、ついつい仏へ無沙汰を致しまして。――うちにおっても忘れるはないのですけれども――年をとりますと、御湯に行くのも退儀たいぎになりましてね」

「時々は少し表をあるく方が薬ですよ。近頃はいい時候ですから……」

「御親切にありがとう存じます。親戚のものなども心配して色々云ってくれますが、どうもあなた何分なにぶん元気がないものですから、それにこんな婆さんを態々わざわざ連れてあるいてくれるものもありませず」

 こうなると余はいつでも言句に窮する。どう云って切り抜けていいか見当がつかない。仕方がないから「はああ」と長く引っ張ったが、御母おっかさんは少々不平の気味である。さあしまったと思ったが別に片附けようもないから、梅の木をあちらこちら飛び歩るいている四十雀しじゅうからながめていた。御母さんも話の腰を折られて無言である。

「御親類の若い御嬢さんでもあると、こんな時には御相手にいいですがね」と云いながら不調法ぶちょうほうなる余にしては天晴あっぱれな出来だと自分で感心して見せた。

生憎あいにくそんな娘もおりませず。それに人の子にはやはり遠慮勝ちで……せがれに嫁でも貰って置いたら、こんな時にはさぞ心丈夫だろうと思います。ほんに残念な事をしました」

 そらよめが出た。くるたびによめが出ない事はない。年頃の息子むすこに嫁を持たせたいと云うのは親のじょうとしてさもあるべき事だが、死んだ子に娶を迎えて置かなかったのをも残念がるのは少々平仄ひょうそくが合わない。人情はこんなものか知らん。まだ年寄になって見ないから分らないがどうも一般の常識から云うと少し間違っているようだ。それは一人でわびしく暮らすより気に入った嫁の世話になる方が誰だってたよりが多かろう。しかし嫁の身になっても見るがいい。結婚して半年はんとしも立たないうちにおっとは出征する。ようやく戦争が済んだと思うと、いつのにか戦死している。二十はたちを越すか越さないのに、しゅうとと二人暮しで一生を終る。こんな残酷な事があるものか。御母さんの云うところは老人の立場から云えば無理もないうったえだが、しかし随分我儘わがままな願だ。年寄はこれだからいかぬと、内心はすこぶる不平であったが、滅多めったな抗議を申し込むとまた気色きしょくるくさせる危険がある。せっかく慰めに来ていつも失策をやるのは余り器量のない話だ。まあまあだまっているにくはなしと覚悟をきめて、かえって反対の方角へとかじをとった。余は正直に生れた男である。しかし社会に存在してうらまれずに世の中を渡ろうとすると、どうもうそがつきたくなる。正直と社会生活が両立するに至れば嘘は直ちにやめるつもりでいる。

「実際残念な事をしましたね。全体浩さんはなぜ嫁をもらわなかったんですか」

「いえ、あなた色々探しておりますうちに、旅順へ参るようになったもので御座んすから」

「それじゃ当人も貰うつもりでいたんでしょう」

「それは……」と云ったが、それぎり黙っている。少々様子が変だ。あるいは寂光院事件の手懸てがかりが潜伏していそうだ。白状して云うと、余はその時浩さんの事も、御母さんの事も考えていなかった。ただあの不思議な女の素性すじょうと浩さんとの関係が知りたいので頭の中はいっぱいになっている。この日における余は平生のような同情的動物ではない。全く冷静な好奇獣こうきじゅうとも称すべき代物しろものに化していた。人間もその日その日で色々になる。悪人になった翌日は善男に変じ、小人の昼ののちに君子の夜がくる。あの男の性格はなどと手にとったように吹聴ふいちょうする先生があるがあれは利口の馬鹿と云うものでその日その日の自己を研究する能力さえないから、こんな傍若無人ぼうじゃくぶじん囈語げいごを吐いてひとりで恐悦きょうえつがるのである。探偵ほど劣等な家業はまたとあるまいと自分にも思い、人にも宣言してはばからなかった自分が、純然たる探偵的態度をもって事物に対するに至ったのは、すこぶるあきれ返った現象である。ちょっと言いよどんだ御母おっかさんは、思い切った口調で

「その事について浩一は何かあなたに御話をした事は御座いませんか」

「嫁の事ですか」

「ええ、誰か自分の好いたものがあるような事を」

「いいえ」と答えたが、実はこの問こそ、こっちから御母さんに向って聞いて見なければならん問題であった。

御叔母おばさんには何か話しましたろう」

「いいえ」

 望の綱はこれぎり切れた。仕方がないからまた眼を庭の方へ転ずると、四十雀しじゅうからはすでにどこかへ飛び去って、例の白菊の色が、水気みずけを含んだ黒土に映じて見事に見える。その時ふと思い出したのは先日の日記の事である。御母さんも知らず、余も知らぬ、あの女の事があるいは書いてあるかも知れぬ。よしあからさまに記してなくても一応目を通したら何か手懸てがかりがあろう。御母さんは女の事だから理解出来んかも知れんが、余が見ればこうだろうくらいの見当はつくわけだ。これは催促さいそくして日記を見るにくはない。

「あの先日御話しの日記ですね。あの中に何かかいてはありませんか」

「ええ、あれを見ないうちは何とも思わなかったのですが、つい見たものですから……」と御母さんは急に涙声になる。また泣かした。これだから困る。困りはしたものの、何か書いてある事はたしかだ。こうなっては泣こうが泣くまいがそんな事は構っておられん。

「日記に何か書いてありますか? それは是非拝見しましょう」と勢よく云ったのは今から考えて赤面の次第である。御母さんはって奥へ這入はいる。

 やがてふすまをあけてポッケット入れの手帳を持って出てくる。表紙は茶のかわでちょっと見ると紙入のような体裁である。朝夕うちがくしに入れたものと見えて茶色の所が黒ずんで、手垢てあかでぴかぴか光っている。無言のまま日記を受取って中をようとすると表の戸がからからといて、頼みますと云う声がする。生憎あいにく来客だ。御母さんは手真似てまねで早く隠せと云うから、余は手帳を内懐うちぶところに入れて「宅へ帰ってもいいですか」と聞いた。御母さんは玄関の方を見ながら「どうぞ」と答える。やがて下女が何とかさまがらっしゃいましたと注進にくる。何とかさまに用はない。日記さえあれば大丈夫早く帰って読まなくってはならない。それではと挨拶をして久堅町ひさかたまち往来おうらいへ出る。

 伝通院でんずういんの裏を抜けて表町の坂をりながら路々考えた。どうしても小説だ。ただ小説に近いだけ何だか不自然である。しかしこれから事件の真相をきわめて、全体の成行が明瞭めいりょうになりさえすればこの不自然もおのずと消滅する訳だ。とにかく面白い。是非探索――探索と云うと何だか不愉快だ――探究として置こう。是非探究して見なければならん。それにしても昨日きのうあの女のあとを付けなかったのは残念だ。もし向後こうごあの女に逢う事が出来ないとするとこの事件は判然はんぜんと分りそうにもない。らぬ遠慮をして流星光底りゅうせいこうていじゃないが逃がしたのは惜しい事だ。元来品位を重んじ過ぎたり、あまり高尚にすると、てこんな事になるものだ。人間はどこかに泥棒的分子がないと成功はしない。紳士も結構には相違ないが、紳士の体面をきずつけざる範囲内において泥棒根性を発揮せんとせっかくの紳士が紳士として通用しなくなる。泥棒気のない純粋の紳士は大抵行き倒れになるそうだ。よしこれからはもう少し下品になってやろう。とくだらぬ事を考えながら柳町の橋の上まで来ると、水道橋の方から一りょうの人力車が勇ましく白山はくさんの方へけ抜ける。車が自分の前を通り過ぎる時間は何秒と云うわずかのあいだであるから、余が冥想めいそうの眼をふとあげて車の上を見た時は、乗っている客はすでに眼界から消えかかっていた。がその人の顔は? ああ寂光院だと気が着いた頃はもう五六間先へ行っている。ここだ下品になるのはここだ。何でも構わんから追い懸けろと、下駄の歯をそちらに向けたが、徒歩で車のあとを追い懸けるのは余り下品すぎる。気狂きちがいでなくってはそんな馬鹿な事をするものはない。車、車、車はおらんかなと四方を見廻したが生憎あいにく一輌もおらん。そのうちに寂光院は姿も見えないくらいはるかあなたに馳け抜ける。もう駄目だ。気狂と思われるまで下品にならなければ世の中は成功せんものかなと惘然ぼうぜんとして西片町へ帰って来た。

 とりあえず、書斎に立てこもって懐中から例の手帳を出したが、何分夕景ゆうけいではっきりせん。実は途上でもあちこちと拾い読みに読んで来たのだが、鉛筆でなぐりがきに書いたものだから明るい所でも容易に分らない。ランプをける。下女が御飯はと云って来たから、めしはあとで食うと追い返す。さて一ページから順々に見て行くと皆陣中の出来事のみである。しかも倥偬こうそうの際に分陰ふんいんぬすんで記しつけたものと見えて大概の事は一句二句で弁じている。「風、坑道内にて食事。握り飯二個。泥まぶれ」と云うのがある。「夜来風邪ふうじゃの気味、発熱。診察を受けず、例のごとく勤務」と云うのがある。「テント外の歩哨ほしょう散弾にあたる。テントにたおれかかる。血痕けっこんを印す」「五時大突撃。中隊全滅、不成功に終る。残念※〈[#感嘆符三つ、231-5]〉」残念の下に!が三本引いてある。無論記憶を助けるための手控てびかえであるから、ごうも文章らしいところはない。字句を修飾したり、彫琢ちょうたくしたりした痕跡は薬にしたくも見当らぬ。しかしそれが非常に面白い。ただありのままをありのままに写しているところがおおいに気に入った。ことに俗人の使用する壮士的口吻がないのが嬉しい。怒気天をくだの、暴慢なる露人だの、醜虜しゅうりょたんを寒からしむだの、すべてえらそうで安っぽい辞句はどこにも使ってない。文体ははなはだ気に入った、さすがに浩さんだと感心したが、肝心かんじんの寂光院事件はまだ出て来ない。だんだん読んで行くうちに四行ばかり書いて上から棒を引いて消した所が出て来た。こんな所が怪しいものだ。これを読みこなさなければ気が済まん。手帳をランプのホヤに押しつけてかして見る。二行目の棒の下からある字が三分の二ばかりみ出している。の字らしい。それから骨を折ってようよう郵便局の三字だけ片づけた。郵便局の上の字は大※〈[#「郷-即のへん」、232-1]〉だけ見えている。これは何だろうと三分ほどランプと相談をしてやっと分った。本郷郵便局である。ここまではようやくぎつけたがそのほかは裏から見てもさかさまに見てもどうしても読めない。とうとう断念する。それから二三頁進むと突然一大発見に遭遇した。「二三日にさんち一睡もせんので勤務中坑内仮寝かしん。郵便局で逢った女の夢を見る」

 余は覚えずどきりとした。「ただ二三分の間、顔を見たばかりの女を、ほどて夢に見るのは不思議である」この句から急に言文一致になっている。「よほど衰弱している証拠であろう、しかし衰弱せんでもあの女の夢なら見るかも知れん。旅順へ来てからこれで三度見た」

 余は日記をぴしゃりとたたいてこれだ! と叫んだ。御母おっかさんが嫁々と口癖のように云うのは無理はない。これを読んでいるからだ。それを知らずに我儘わがままだの残酷だのと心中で評したのは、こっちがるいのだ。なるほどこんな女がいるなら、親の身として一日でも添わしてやりたいだろう。御母さんが嫁がいたらいたらと云うのを今まで誤解して全く自分の淋しいのをまぎらすためとばかり解釈していたのは余の眼識の足らなかったところだ。あれは自分の我儘で云う言葉ではない。可愛い息子を戦死する前に、半月でも思い通りにさせてやりたかったと云うなぞなのだ。なるほど男は呑気のんきなものだ。しかし知らん事なら仕方がない。それはずよしとして元来寂光院じゃっこういんがこの女なのか、あるいはあれは全く別物で、浩さんの郵便局で逢ったと云うのはほかの女なのか、これが疑問である。この疑問はまだ断定出来ない。これだけの材料でそう早く結論に高飛びはやりかねる。やりかねるが少しは想像をれる余地もなくては、すべての判断はやれるものではない。浩さんが郵便局であの女に逢ったとする。郵便局へ遊びに行く訳はないから、切手を買うか、為替かわせを出すか取るかしたに相違ない。浩さんが切手を手紙へる時にそばにいたあの女が、どう云う拍子ひょうしかで差出人の宿所姓名を見ないとは限らない。あの女が浩さんの宿所姓名をその時に覚え込んだとして、これに小説的分子を五ばかり加味すれば寂光院事件は全く起らんとも云えぬ。女の方はそれでかいせたとして浩さんの方が不思議だ。どうしてちょっと逢ったものをそう何度も夢に見るかしらん。どうも今少したしかな土台が欲しいがとなお読んで行くと、こんな事が書いてある。「近世の軍略において、攻城は至難なるものの一として数えらる。我が攻囲軍の死傷多きは怪しむに足らず。この二三ヶ月間に余が知れる将校の城下にたおれたる者は枚挙まいきょいとまあらず。死は早晩余を襲い来らん。余は日夜に両軍の砲撃を聞きて、今か今かと順番の至るを待つ」なるほど死を決していたものと見える。十一月二十五日の条にはこうある。「余の運命もいよいよ明日にせまった」今度は言文一致である。「軍人がいくさで死ぬのは当然の事である。死ぬのは名誉である。ある点から云えば生きて本国に帰るのは死ぬべきところを死にそくなったようなものだ」戦死の当日の所を見ると「今日限りの命だ。二竜山をくずす大砲の声がしきりに響く。死んだらあの音も聞えぬだろう。耳は聞えなくなっても、誰か来て墓参りをしてくれるだろう。そうして白い小さい菊でもあげてくれるだろう。寂光院は閑静な所だ」とある。その次に「強い風だ。いよいよこれから死にに行く。たまあたってたおれるまで旗を振って進むつもりだ。御母おっかさんは、寒いだろう」日記はここで、ぶつりと切れている。切れているはずだ。

 余はぞっとして日記を閉じたが、いよいよあの女の事が気にかかってたまらない。あの車は白山の方へ向いてけて行ったから、何でも白山方面のものに相違ない。白山方面とすれば本郷の郵便局へ来んとも限らん。しかし白山だって広い。名前も分らんものをたずねて歩いたって、そう急に知れる訳がない。とにかく今夜の間に合うような簡略な問題ではない。仕方がないから晩食ばんめしを済ましてその晩はそれぎり寝る事にした。実は書物を読んでも何が書いてあるか茫々ぼうぼうとして海に対するような感があるから、やむをえず床へ這入はいったのだが、さて夜具の中でも思う通りにはならんもので、終夜安眠が出来なかった。

 翌日学校へ出て平常の通り講義はしたが、例の事件が気になっていつものように授業に身がらない。控所へ来ても他の職員と話しをする気にならん。学校の退けるのを待ちかねて、その足で寂光院へ来て見たが、女の姿は見えない。昨日きのうの菊が鮮やかに竹藪たけやぶの緑に映じて雪の団子だんごのように見えるばかりだ。それから白山から原町、林町のへんをぐるぐる廻って歩いたがやはり何らの手懸てがかりもない。その晩は疲労のため寝る事だけはよく寝た。しかし朝になって授業が面白く出来ないのは昨日と変る事はなかった。三日目に教員の一人をつらまえて君白山方面に美人がいるかなと尋ねて見たら、うむ沢山いる、あっちへ引越したまえと云った。帰りがけに学生の一人に追いついて君は白山の方にいるかと聞いたら、いいえ森川町ですと答えた。こんな馬鹿な騒ぎ方をしていたって始まる訳のものではない。やはり平生のごとく落ちついて、るりと探究するにくなしと決心を定めた。それでその晩は煩悶はんもん焦慮もせず、例の通り静かに書斎に入って、せんだってじゅうからの取調物を引き続いてやる事にした。

 近頃余の調べている事項は遺伝と云う大問題である。元来余は医者でもない、生物学者でもない。だから遺伝と云う問題に関して専門上の智識は無論有しておらぬ。有しておらぬところが余の好奇心を挑撥ちょうはつする訳で、近頃ふとした事からこの問題に関してその起原発達の歴史やら最近の学説やらを一通り承知したいと云う希望を起して、それからこの研究を始めたのである。遺伝と一口に云うとすこぶる単純なようであるがだんだん調べて見ると複雑な問題で、これだけ研究していても充分生涯しょうがいの仕事はある。メンデリズムだの、ワイスマンの理論だの、ヘッケルの議論だの、その弟子のヘルトウィッヒの研究だの、スペンサーの進化心理説だのと色々の人が色々の事を云うている。そこで今夜は例のごとく書斎のうちで近頃出版になった英吉利イギリスのリードと云う人の著述を読むつもりで、二三枚だけは何気なくはぐってしまった。するとどう云う拍子ひょうしか、かの日記の中の事柄が、書物を読ませまいと頭の中へ割り込んでくる。そうはさせぬとまた一枚ほどけると、今度は寂光院が襲って来る。ようやくそれを追払って五六枚無難に通過したかと思うと、御母おっかさんの切り下げの被布ひふ姿がページの上にあらわれる。読むつもりで決心してかかった仕事だから読めん事はない。読めん事はないがページとページの間に狂言が這入はいる。それでも構わずどしどし進んで行くと、この狂言と本文の間が次第次第に接近して来る。しまいにはどこからが狂言でどこまでが本文か分らないようにぼうっとして来た。この夢のようなありさまで五六分続けたと思ううち、たちまち頭の中に電流を通じた感じがしてはっと我に帰った。「そうだ、この問題は遺伝で解ける問題だ。遺伝で解けばきっと解ける」とは同時に吾口を突いて飛び出した言語である。今まではただ不思議である小説的である。何となく落ちつかない、何か疑惑を晴らす工夫はあるまいか、それには当人を捕えて聞きただすよりほかに方法はあるまいとのみ速断して、その結果は朋友に冷かされたり、屑屋くずや流に駒込近傍を徘徊はいかいしたのである。しかしこんな問題は当人の支配権以外に立つ問題だから、よし当人を尋ねあてて事実を明らかにしたところで不思議は解けるものでない。当人から聞き得る事実その物が不思議である以上は余の疑惑は落ちつきようがない。昔はこんな現象を因果いんがとなえていた。因果はあきらめる者、泣く子と地頭には勝たれぬ者と相場がきまっていた。なるほど因果と言い放てば因果で済むかも知れない。しかし二十世紀の文明はこのいんきわめなければ承知しない。しかもこんな芝居的夢幻的現象の因を極めるのは遺伝によるよりほかにしようはなかろうと思う。本来ならあの女をつらまえて日記中の女と同人か別物かをあきらかにした上で遺伝の研究を初めるのが順当であるが、本人の居所さえたしかならぬただいまでは、この順序を逆にして、彼らの血統から吟味して、下から上へさかのぼる代りに、昔から今にりさげて来るよりほかに道はあるまい。いずれにしても同じ結果に帰着する訳だから構わない。

 そんならどうして両人の血統を調べたものだろう。女の方は何者だか分らないから、ず男の方から調べてかかる。浩さんは東京で生れたから東京っ子である。聞くところによれば浩さんの御父おとっさんも江戸で生れて江戸で死んだそうだ。するとこれも江戸っ子である。御爺おじいさんも御爺さんの御父おとっさんも江戸っ子である。すると浩さんの一家は代々東京で暮らしたようであるがその実町人でもなければ幕臣でもない。聞くところによると浩さんの家は紀州の藩士であったが江戸詰で代々こちらで暮らしたのだそうだ。紀州の家来と云う事だけ分ればそれで充分手懸てがかりはある。紀州の藩士は何百人あるか知らないが現今東京に出ている者はそんなに沢山あるはずがない。ことにあの女のように立派な服装をしている身分なら藩主の家へ出入りをするにきまっている。藩主の家に出入するとすればその姓名はすぐに分る。これが余の仮定である。もしあの女が浩さんと同藩でないとするとこの事件は当分らちがあかない。ほうって置いて自然天然寂光院に往来で邂逅かいこうするのを待つよりほかに仕方がない。しかし余の仮定があたるとすると、あとは大抵余の考え通りに発展して来るに相違ない。余の考によると何でも浩さんの先祖と、あの女の先祖の間に何事かあって、その因果でこんな現象を生じたに違いない。これが第二の仮定である。こうこしらえてくるとだんだん面白くなってくる。単に自分の好奇心を満足させるばかりではない。目下研究の学問に対してもっとも興味ある材料を給与する貢献こうけん的事業になる。こう態度が変化すると、精神が急に爽快そうかいになる。今までは犬だか、探偵だかよほど下等なものに零落したような感じで、それがため脳中不愉快の度をだいぶ高めていたが、この仮定から出立すれば正々堂々たる者だ。学問上の研究の領分に属すべき事柄である。少しもましい事はないと思い返した。どんな事でも思い返すと相当のジャスチフィケーションはある者だ。悪るかったと気がついたら黙坐して思い返すに限る。

 あくる日学校で和歌山県出の同僚某に向って、君の国に老人で藩の歴史に詳しい人はいないかと尋ねたら、この同僚首をひねってあるさと云う。ってその人物をうけたまわると、もとは家老かろうだったが今では家令かれいと改名して依然として生きていると何だか妙な事を答える。家令ならなお都合がいい、平常ふだん藩邸に出入しゅつにゅうする人物の姓名職業は無論承知しているに違ない。

「その老人は色々昔の事を記憶しているだろうな」

「うん何でも知っている。維新の時なぞはだいぶ働いたそうだ。やりの名人でね」

 槍などは下手へたでも構わん。むかし藩中に起った異聞奇譚いぶんきだんを、老耄ろうもうせずに覚えていてくれればいいのである。だまって聞いていると話が横道へそれそうだ。

「まだ家令をつとめているくらいなら記憶はたしかだろうな」

「たしか過ぎて困るね。屋敷のものがみんな弱っている。もう八十近いのだが、人間も随分丈夫に製造する事が出来るもんだね。当人に聞くと全く槍術そうじゅつの御蔭だと云ってる。それで毎朝起きるが早いか槍をしごくんだ……」

「槍はいいが、その老人に紹介して貰えまいか」

「いつでもして上げる」と云うとそばに聞いていた同僚が、君は白山の美人をがしたり、記憶のいい爺さんを探したり、随分多忙だねと笑った。こっちはそれどころではない。この老人に逢いさえすれば、自分の鑑定があたるかはずれるか大抵の見当がつく。一刻も早く面会しなければならん。同僚から手紙で先方の都合を聞き合せてもらう事にする。

 二三日にさんちは何の音沙汰おとさたもなく過ぎたが、御面会をするから明日みょうにち三時頃来て貰いたいと云う返事がようやくの事来たよと同僚が告げてくれた時はおおいうれしかった。その晩は勝手次第に色々と事件の発展を予想して見て、ず七分までは思い通りの事実が暗中から白日のもとに引き出されるだろうと考えた。そう考えるにつけて、余のこの事件に対する行動が――行動と云わんよりむしろ思いつきが、なかなか巧みである、無学なものならとうていこんな点に考えの及ぶ気遣きづかいはない、学問のあるものでも才気のない人にはこのような働きのある応用が出来る訳がないと、寝ながら大得意であった。ダーウィンが進化論を公けにした時も、ハミルトンがクォーターニオンを発明した時も大方おおかたこんなものだろうとひとりでいい加減にきめて見る。自宅うちの渋柿は八百屋やおやから買った林檎りんごよりうまいものだ。

 翌日あくるひは学校がひるぎりだから例刻を待ちかねて麻布あざぶまで車代二十五銭を奮発して老人に逢って見る。老人の名前はわざと云わない。見るからに頑丈がんじょうな爺さんだ。白いひげを細長く垂れて、黒紋付に八王子平はちおうじひらで控えている。「やあ、あなたが、何の御友達で」と同僚の名を云う。まるで小供扱だ。これから大発明をして学界に貢献しようと云う余に対してはやや横柄おうへいである。今から考えて見ると先方が横柄なのではない、こっちの気位きぐらいが高過ぎたから普通の応接ぶりが横柄に見えたのかも知れない。

 それから二三件世間なみの応答を済まして、いよいよ本題に入った。

「妙な事を伺いますが、もと御藩ごはんに河上と云うのが御座いましたろう」余は学問はするが応対の辞にはなれておらん。藩というのが普通だが先方の事だから尊敬して御藩ごはんと云って見た。こんな場合に何と云うものかいまだに分らない。老人はちょっと笑ったようだ。

「河上――河上と云うのはあります。河上才三と云うて留守居をつとめておった。その子が貢五郎と云うてやはり江戸詰で――せんだって旅順で戦死した浩一の親じゃて。――あなた浩一の御つき合いか。それはそれは。いや気の毒な事で――母はまだあるはずじゃが……」と一人で弁ずる

 河上一家いっけの事を聞くつもりなら、わざわざ麻布あざぶくんだりまで出張する必要はない。河上を持ち出したのは河上対某との関係が知りたいからである。しかしこの某なるものの姓名が分らんから話しの切り出しようがない。

「その河上について何か面白い御話はないでしょうか」

 老人は妙な顔をして余を見詰めていたが、やがて重苦しく口を切った。

「河上? 河上にも今御話しする通り何人もある。どの河上の事を御尋ねか」

「どの河上でも構わんです」

「面白い事と云うて、どんな事を?」

「どんな事でも構いません。ちと材料が欲しいので」

「材料? 何になさる」厄介やっかいな爺さんだ。

「ちと取調べたい事がありまして」

「なある。貢五郎と云うのはだいぶ慷慨家こうがいかで、維新の時などはだいぶばれたものだ――或る時あなた長い刀をげてわしの所へ議論に来て、……」

「いえ、そう云う方面でなく。もう少し家庭内に起った事柄で、面白いと今でも人が記憶しているような事件はないでしょうか」老人は黙然もくねんと考えている。

「貢五郎という人の親はどんな性質でしたろう」

「才三かな。これはまた至って優しい、――あなたの知っておらるる浩一に生き写しじゃ、よく似ている」

「似ていますか?」と余は思わず大きな声を出した。

「ああ、実によく似ている。それでその頃は維新にはもある事で、世の中もおだやかであったのみならず、役が御留守居だから、だいぶ金を使って風流ふうりゅうをやったそうだ」

「その人の事について何か艶聞えんぶんが――艶聞と云うと妙ですが――ないでしょうか」

「いや才三については憐れな話がある。その頃家中に小野田帯刀おのだたてわきと云うて、二百石取りのさむらいがいて、ちょうど河上と向い合って屋敷を持っておった。この帯刀に一人の娘があって、それがまた藩中第一の美人であったがな、あなた」

「なるほど」うまいだんだん手懸てがかりが出来る。

「それで両家は向う同志だから、朝夕あさゆう往来をする。往来をするうちにその娘が才三に懸想けそうをする。何でも才三方へ嫁に行かねば死んでしまうと騒いだのだて――いや女と云うものは始末に行かぬもので――是非行かして下されと泣くじゃ」

「ふん、それで思う通りに行きましたか」成蹟せいせきは良好だ。

「で帯刀から人をもって才三の親に懸合かけあうと、才三も実は大変貰いたかったのだからそのむねを返事する。結婚の日取りまできめるくらいに事がはかどったて」

「結構な事で」と申したがこれで結婚をしてくれては少々困ると内心ではひやひやして聞いている。

「そこまでは結構だったが、――飛んだ故障が出来たじゃ」

「へええ」そう来なくってはと思う。

「その頃国家老くにがろうにやはり才三くらいな年恰好としかっこうなせがれが有って、このせがれがまた帯刀の娘に恋慕れんぼして、是非貰いたいと聞き合せて見るともう才三方へ約束が出来たあとだ。いかに家老の勢でもこればかりはどうもならん。ところがこのせがれが幼少の頃から殿様の御相手をして成長したもので、非常に御上おかみの御気に入りでの、あなた。――どこをどう運動したものか殿様の御意ぎょいでそのほうの娘をあれにつかわせと云う御意が帯刀にりたのだて」

「気の毒ですな」と云ったが自分の見込が着々あたるので実に愉快でたまらん。これで見ると朋友の死ぬような凶事でも、自分の予言が的中するのは嬉しいかも知れない。着物を重ねないと風邪かぜを引くぞと忠告をした時に、忠告をされた当人が吾が言を用いないでしかもぴんぴんしていると心持ちがるい。どうか風邪が引かしてやりたくなる。人間はかようにわがままなものだから、余一人を責めてはいかん。

「実に気の毒な事だて、御上の仰せだから内約があるの何のと申し上げても仕方がない。それで帯刀が娘に因果いんがを含めて、とうとう河上方を破談にしたな。両家が従来の通り向う合せでは、何かにつけて妙でないと云うので、帯刀は国詰になる、河上は江戸に残ると云うはからいをわしのおやじがやったのじゃ。河上が江戸で金を使ったのも全くそんなこんなで残念を晴らすためだろう。それでこの事がな、今だから御話しするようなものの、当時はぱっとすると両家の面目にかかわると云うので、内々にして置いたから、割合に人が知らずにいる」

「その美人の顔は覚えて御出おいでですか」と余に取ってはすこぶる重大な質問をかけて見た。

「覚えているとも、わしもその頃は若かったからな。若い者には美人が一番よく眼につくようだて」としわだらけの顔を皺ばかりにしてからからと笑った。

「どんな顔ですか」

「どんなと云うて別に形容しようもない。しかし血統と云うは争われんもので、今の小野田の妹がよく似ている。――御存知はないかな、やはり大学出だが――工学博士の小野田を」

白山はくさんの方にいるでしょう」ともう大丈夫と思ったから言い放って、老人の気色けしきを伺うと

「やはり御承知か、原町にいる。あの娘もまだ嫁に行かんようだが。――御屋敷の御姫様おひいさまの御相手に時々来ます」

 占めた占めたこれだけ聞けば充分だ。一から十まで余が鑑定の通りだ。こんな愉快な事はない。寂光院はこの小野田の令嬢に違ない。自分ながらかくまで機敏な才子とは今まで思わなかった。余が平生主張する趣味の遺伝と云う理論を証拠立てるに完全な例が出て来た。ロメオがジュリエットを一目見る、そうしてこの女に相違ないと先祖の経験を数十年ののちに認識する。エレーンがランスロットに始めて逢う、この男だぞと思い詰める、やはり父母未生ふもみしょう以前に受けた記憶と情緒じょうしょが、長い時間をへだてて脳中に再現する。二十世紀の人間は散文的である。ちょっと見てすぐれるような男女を捕えて軽薄と云う、小説だと云う、そんな馬鹿があるものかと云う。馬鹿でも何でも事実は曲げる訳には行かぬ、かさにする訳にもならん。不思議な現象にわぬ前ならとにかく、うたのちにも、そんな事があるものかと冷淡に看過するのは、看過するものの方が馬鹿だ。かように学問的に研究的に調べて見れば、ある程度までは二十世紀を満足せしむるに足るくらいの説明はつくのである。とここまでは調子づいて考えて来たが、ふと思いついて見ると少し困る事がある。この老人の話しによると、この男は小野田の令嬢も知っている、浩さんの戦死した事も覚えている。するとこの両人は同藩の縁故でこの屋敷へ平生出入しゅつにゅうして互に顔くらいは見合っているかも知れん。ことによると話をした事があるかも分らん。そうすると余の標榜ひょうぼうする趣味の遺伝と云う新説もその論拠が少々薄弱になる。これは両人がただ一度本郷の郵便局で出合った事にして置かんと不都合だ。浩さんは徳川家へ出入する話をついにした事がないから大丈夫だろう、ことに日記にああ書いてあるから間違はないはずだ。しかし念のため不用心だから尋ねて置こうと心を定めた。

「さっき浩一の名前をおっしゃったようですが、浩一は存生中ぞんじょうちゅう御屋敷へよく上がりましたか」

「いいえ、ただ名前だけ聞いているばかりで、――おやじは先刻せんこく御話をした通り、わしと終夜激論をしたくらいな間柄じゃが、せがれは五六歳のときに見たぎりで――実は貢五郎が早く死んだものだから、屋敷へ出入でいりする機会もそれぎり絶えてしもうて、――そのとんうた事がありません」

 そうだろう、そう来なくっては辻褄つじつまが合わん。第一余の理論の証明に関係してくる。ずこれなら安心。御蔭様でと挨拶あいさつをして帰りかけると、老人はこんな妙な客は生れて始めてだとでも思ったものか、余を送り出して玄関に立ったまま、余が門を出て振り返るまで見送っていた。

 これからの話は端折はしょって簡略に述べる。余は前にも断わった通り文士ではない。文士ならこれからがおおいに腕前を見せるところだが、余は学問読書を専一にする身分だから、こんな小説めいた事を長々しくかいているひまがない。新橋で軍隊の歓迎を見て、その感慨から浩さんの事を追想して、それから寂光院の不思議な現象に逢ってその現象が学問上から考えて相当の説明がつくと云う道行きが読者の心に合点がてん出来ればこの一篇の主意は済んだのである。実は書き出す時は、あまりの嬉しさに勢い込んで出来るだけ精密に叙述して来たが、慣れぬ事とて余計な叙述をしたり、不用な感想を挿入そうにゅうしたり、読み返して見ると自分でもおかしいと思うくらいくわしい。その代りここまで書いて来たらもういやになった。今までの筆法でこれから先を描写するとまた五六十枚もかかねばならん。追々学期試験も近づくし、それに例の遺伝説を研究しなくてはならんから、そんな筆を舞わす時日は無論ない。のみならず、元来が寂光院じゃっこういん事件の説明がこの篇の骨子だから、ようやくの事ここまで筆が運んで来て、もういいと安心したら、急にがっかりして書き続ける元気がなくなった。

 老人と面会をしたのちには事件の順序として小野田と云う工学博士に逢わなければならん。これは困難な事でもない。例の同僚からの紹介を持って行ったら快よく談話をしてくれた。二三度訪問するうちに、何かの機会で博士の妹に逢わせてもらった。妹は余の推量にたがわず例の寂光院であった。妹に逢った時顔でも赤らめるかと思ったら存外淡泊たんぱくごうも平生とことなる様子のなかったのはいささか妙な感じがした。ここまではすらすら事が運んで来たが、ただ一つ困難なのは、どうして浩さんの事を言い出したものか、その方法である。無論デリケートな問題であるから滅多めったに聞けるものではない。と云って聞かなければ何だか物足らない。余一人から云えばすでに学問上の好奇心を満足せしめたる今日こんにち、これ以上立ち入ってくだらぬ詮議せんぎをする必要を認めておらん。けれども御母おっかさんは女だけに底まで知りたいのである。日本は西洋と違って男女の交際が発達しておらんから、独身の余と未婚のこの妹と対座して話す機会はとてもない。よし有ったとしたところで、むやみに切り出せばいたずらに処女を赤面させるか、あるいは知りませぬとねつけられるまでの事である。と云って兄のいる前ではなおさら言いにくい。言いにくいと申すより言うをあえてすべからざる事かも知れない。墓参り事件を博士が知っているならばだけれど、もし知らんとすれば、余は好んで人の秘事を暴露ばくろする不作法を働いた事になる。こうなるといくら遺伝学を振り廻してもらちはあかん。みずから才子だと飛び廻って得意がった余もここに至っておおいに進退に窮した。とどのつまり事情を逐一ちくいち打ち明けて御母さんに相談した。ところが女はなかなか智慧ちえがある。

 御母さんのおおせには「近頃一人の息子を旅順でくして朝、夕さみしがって暮らしている女がいる。慰めてやろうと思っても男ではうまく行かんから、おひまな時に御嬢さんを時々遊びにやって上げて下さいとあなたから博士に頼んで見て頂きたい」とある。早速博士方へまかり出て鸚鵡おうむ口吻こうふんろうしてむねを伝えると博士は一も二もなく承諾してくれた。これが元で御母おっかさんと御嬢さんとは時々会見をする。会見をするたびに仲がよくなる。いっしょに散歩をする、御饌ごぜんをたべる、まるで御嫁さんのようになった。とうとう御母さんが浩さんの日記を出して見せた。その時に御嬢さんが何と云ったかと思ったら、それだから私は御寺参おてらまいりをしておりましたと答えたそうだ。なぜ白菊を御墓へ手向たむけたのかと問い返したら、白菊が一番好きだからと云う挨拶であった。

 余は色の黒い将軍を見た。婆さんがぶら下がる軍曹を見た。ワーと云う歓迎の声を聞いた。そうして涙を流した。浩さんは塹壕ざんごうへ飛び込んだきりあがって来ない。誰も浩さんをむかえに出たものはない。天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。余はこの両人のむつまじきさまを目撃するたびに、将軍を見た時よりも、軍曹を見た時よりも、清き涼しき涙を流す。博士は何も知らぬらしい。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。