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走れメロス

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メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。今日未明、メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里離れたこのシラクスの町にやって来た。メロスには父も、母もない。女房もない。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村のある律儀な一牧人を、近々花婿として迎えることになっていた。結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣装やら祝宴のごちそうやらを買いに、はるばる町にやって来たのだ。まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの町で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訊ねていくのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、町の様子をあやしく思った。ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、町の暗いのはあたりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、町全体が、やけにさびしい。のんきなメロスも、だんだん不安になってきた。道であった若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年前にこの町に来たときは、夜でも皆歌を歌って、町はにぎやかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に会い、今度はもっと語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺の体を揺すぶって質問を重ねた。老爺は、辺りをはばかる低声で、わずか答えた。 「王様は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「悪心を抱いているというのですが、だれもそんな、悪心をもってはおりませぬ。」  「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、初めは王様の妹婿様を。それから、御自身のお世継ぎを。それから、妹様を。それから、妹様のお子様を。それから、皇后様を。それから、賢臣のアレキス様を。」 「驚いた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずることができぬというのです。このごろは、臣下の心をもお疑いになり、少しく派手な暮らしをしている者には、人質一人ずつ差し出すことを命じております。御命令を拒めば、十字架にかけられて殺されます。今日は、六人殺されました。」 聞いて、メロスは激怒した。「あきれた王だ。生かしておけぬ。」

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メロスは単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入っていった。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出てきたので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは王の前に引き出された。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問い詰めた。その王の顔は蒼白で、眉間のしわは刻み込まれたように深かった。 「町を暴君の手から救うのだ。」とメロスは、悪びれずに答えた。 「おまえがか?」王は、憫笑した。「しかたのないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心がわからぬ。」 「言うな!」とメロスは、いきりたって反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。」 「疑うのが正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲の魂さ。信じてはならぬ。」暴君は落ち着いてつぶやき、ほっとため息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」 「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。」今度はメロスが嘲笑した。 「罪のない人を殺して、何が平和だ。」 「黙れ。」王は、さっと顔を上げて報いた。「口では、どんな清らかなことでも言える。わしには、人のはらわたの奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、今にはりつけになってから、泣いてわびたって聞かぬぞ。」 「ああ、王はりこうだ。うぬぼれているがよい。わたしは、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命ごいなど決してしない。ただ、━━」と言いかけて、メロスは足元に視線を落とし、瞬時ためらい、「ただ、わたしに情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、わたしは村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます。」 「ばかな。」と暴君は、しゃがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰ってくると言うのか。」 「そうです。帰ってくるのです。」メロスは必死で言い張った。「わたしは約束を守ります。わたしを三日間だけ許してください。妹がわたしの帰りを待っているのだ。そんなにわたしを信じられないならば、よろしい、この町にセリヌンティウスという石工がいます。わたしの無二の友人だ。あれを人質としてここに置いていこう。わたしが逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を絞め殺してください。頼む。そうしてください。」 それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっとほくそ笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰ってこないに決まっている。このうそつきにだまされたふりして、放してやるのもおもしろい。そうして身代わりの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代わりの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とか言うやつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。

「願いを聞いた。その身代わりを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰ってこい。遅れたら、その身代わりを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れてくるがいい。おまえの罪は、永遠に許してやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。命が大事だったら、遅れてこい。おまえの心は、わかっているぞ。」 メロスは悔しく、じだんだ踏んだ。物も言いたくなくなった。

竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、よき友とよき 友は、二年ぶりで相会うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスはなわ打たれた。メロスはすぐに出発した。初夏、満点の星である。

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メロスはその夜、一睡もせず十里の道を急ぎに急いで、村へ到着したのは明くる日の午前、日はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていた。メロスの十六の妹も、今日は兄の代わりに羊群の番をしていた。よろめいて歩いてくる兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

「なんでもない。」メロスは無理に笑おうと努めた。「町に用事を残してきた。またすぐ町に行かなければならぬ。明日、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」 妹はほおを赤らめた。

「うれしいか。きれいな衣装も買ってきた。さあ、これから行って、村の人たちに知らせてこい。結婚式は明日だと。」 メロスは、また、よろよろと歩きだし、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れふし、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

目が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらにはまだなんの支度もできていない、ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことはできぬ、どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押して頼んだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論を続けて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説ふせた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降りだし、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引き立て、せまい家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌を歌い、手を打った。メロスも満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。このよい人たちと生涯暮らしていきたいと願ったが、今は、自分の体で、自分のものではない。ままならぬことである。メロスは、我が身にむち打ち、ついに出発を決意した。明日の日没までには、まだ十分の時がある。ちょっとひと眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。そのころには、雨も小降りになっていよう。少しでも長くこの家にぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、 「おめでとう。わたしは疲れてしまったから、ちょっと御免こうむって眠りたい。目が覚めたら、すぐに町に出かける。大切な用事があるのだ。わたしがいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決してさびしいことはない。おまえの兄のいちばん嫌いなものは、人を疑うことと、それから、うそをつくことだ。おまえも、それは知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りをもっていろ。」 花嫁は、夢見心地でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、 「支度のないのはお互いさまさ。わたしの家にも、宝といっては妹と羊だけだ。ほかには何もない。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

花婿はもみ手して、照れていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋に潜り込んで、死んだように深く眠った。

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目が覚めたのは、明くる日の薄明のころである。メロスは跳ね起き、南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日はぜひとも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上がってやる。メロスは、ゆうゆうと身支度を始めた。雨も、幾分小降りになっている様子である。身支度はできた。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。

わたしは、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の奸佞邪知を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、わたしは殺される。若いときから名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ち止まりそうになった。えい、えいと大声上げて、自身をしかりながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いたころには雨もやみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなってきた。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっとよい夫婦になるだろう。わたしには、今、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、ともちまえののんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌いだした。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達したころ、降ってわいた災難、メロスの足は、はたと止まった。見よ、前方の川を。さくじつの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流とうとうと下流に集まり、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、こっぱみじんに橋げたを跳ね飛ばしていた。彼は茫然と立ちすくんだ。あちこちと眺め回し、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず波にさらわれて影なく、渡し守の姿も見えない。流れはいよいよふくれ上がり、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を上げて哀願した。「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎていきます。太陽もすでに真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことができなかったら、あのよい友達が、わたしのために死ぬのです。」

濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく踊り狂う。波は波をのみ、巻き、あおりたて、そうして、時は刻一刻と消えていく。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るよりほかにない。ああ、神々も照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、今こそ発揮してみせる。メロスはざぶんと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのたうち荒れ狂う波を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕に込めて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきとかき分けかき分け、獅子奮迅の人の子の姿には神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹にすがりつくことができたのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえどもむだにはできない。日はすでに西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠を登り、登りきってほっとしたとき、突然、目の前に一隊の山賊が踊り出た。

「待て。」 「何をするのだ。わたしは日の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ち物全部置いていけ。」 「わたしには、命のほかには何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」 「その、命が欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここでわたしを待ち伏せしていたのだな。」 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り上げた。メロスはひょいと体を折り曲げ、飛鳥のごとく身近の一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、「気の毒だが、正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駆け降りたが、さすがに疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともにかっと照ってきて、メロスは幾度となくめまいを感じ、これではならぬと気を取り直しては、よろよろ二、三歩歩いて、ついに、がくりとひざを折った。立ち上がることができぬのだ。天を仰いで、悔し泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も打ち倒し、韋駄天、ここまで突破してきたメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れきって動けなくなるとは情けない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、希代の不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞと自分をしかってみるのだが、全身なえて、もはや芋虫ほどにも全身かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いなふてくされた根性が、心のすみに巣くった。わたしは、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんもなかった。神も照覧、わたしは精いっぱいに努めてきたのだ。動けなくなるまで走ってきたのだ。わたしは不信の徒ではない。ああ、できることならわたしの胸をたち割って、真紅の心臓をお目にかけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれどもわたしは、この大事なときに、精も根も尽きたのだ。わたしは、よくよく不幸な男だ。わたしは、きっと笑われる。わたしの一家も笑われる。わたしは友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、わたしの定まった運命なのかもしれない。セリヌンティウスよ、許してくれ。君は、いつでもわたしを信じた。わたしも君を欺かなかった。わたしたちは、本当によい友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかった。今だって、君はわたしを無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくもわたしを信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世でいちばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、わたしは走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんもなかった。信じてくれ!わたしは」急ぎに急いでここまで来のだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駆け降りてきたのだ。わたしだからできたのだよ。ああ、このうえ、わたしに望みたもうな。ほうっておいてくれ。どうでもいいのだ。わたしは負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。王はわたしに、ちょっと遅れてこい、と耳打ちした。遅れたら,身代わりを殺して、わたしを助けてくれると約束した。わたしは王の卑劣を憎んだ。けれども、今になった見るとわたしは王の言うままになっている。わたしは遅れていくだろう。王は、独り合点してわたしを笑い、そうしてこともなくわたしを放免するだろう。そうなったら、わたしは、死ぬよりつらい。わたしは永遠に裏切り者だ。地上で最も不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、わたしも死ぬぞ。君といっしょに死なせてくれ。君だけはわたしを信じてくれるにちがいない。いや、それもわたしの、独りよがりか?ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。村にはわたしの家がある。羊もいる。妹夫婦は、まさかわたしを村から追い出すようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみればくだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかもばかばかしい。わたしは醜い裏切り者だ。どうとも勝手にするがよい。やんぬるかな。━━ 四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

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ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息をのんで耳を澄ました。すぐ足元で、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂け目からこんこんと、何か小さくささやきながら清水がわき出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一口飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復とともに、わずかながら希望が生まれた。義務逐行の希望である。我が身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を木々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。わたしを待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。わたしは信じられている。わたしの命なぞは問題ではない。死んでおわびなどと、気のいいことは言っておられぬ。私は信頼に報いなければならぬ。今はただその一事だ。走れ! メロス。

わたしは信頼されている。わたしは信頼されている。先刻の、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!わたしは正義の士として死ぬことができるぞ。ああ、日が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。わたしは生まれたときから正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

道行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席の真っただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬をけとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も速く走った。一団の旅人とさっとすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「今ごろは、あの男も、はりつけにかかっているよ。」ああ、その男、その男のためにわたしは、今こんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。風体なんかはどうでもいい。メロスは、今は、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向こうに小さく、シラクスの町の塔楼が見える。塔楼は、夕日を受けてきらきら光っている。

「ああ、メロス様。」うめくような声が、風とともに聞こえた。 「だれだ。」メロスは走りながら尋ねた。 「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様のでしでございます。」その若い石工も、メロスのあとについて走りながら叫んだ。「もう、だめでございます。むだでございます。走るのはやめてください。もう、あの方をお助けになることはできません。」 「いや、まだ日は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ日は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕日ばかりを見つめていた。走るよりほかはない。 「やめてください。走るのはやめてください。今は御自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様がさんざんあの方をからかっても、メロスは来ますとだけ答え、強い信念を持ち続けている様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。わたしは、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついてこい!フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」 言うにや及ぶ。まだ日は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は空っぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて走った。日はゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとしたとき、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。

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「待て。 その人を殺してはならぬ。メロスが帰ってきた。約束のとおり、今、帰ってきた。」と、大声で刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、のどがつぶれてしゃがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、一人として彼の到着に気がつかない。すでに、はりつけの柱が高々と立てられ、なわを打たれたセリヌンティウスは徐々につり上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆をかき分けかき分け、 「わたしだ、刑吏! 殺されるのは、わたしだ。メロスだ。彼を人質にしたわたしは、ここにいる!」と、かすれた声で精いっぱいに叫びながら、ついにはりつけ台に上がり、つり上げられてゆく友の両足にかじりついた。群衆はどよめいた。あっぱれ。許せ、と口々にわめいた。セリヌンティウスのなわは、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは涙を浮かべていった。「わたしを殴れ。力いっぱいにほおを殴れ。わたしは、途中で一度、悪い夢を見た。君がもしわたしを殴ってくれなかったら、わたしは君と抱擁する資格さえないのだ。殴れ。」 セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場いっぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右ほおを殴った。殴ってから優しくほほ笑み、

「メロス、わたしを殴れ。同じくらい音高くわたしのほおを殴れ。わたしはこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて初めて君を疑った。君がわたしを殴ってくれなければ、わたしは君と抱擁できない。」 メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスのほおを殴った。

「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。 群衆の中からも、歔欷の声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人のさまをまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。

「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」 どっと群衆の間に、歓声が起こった。

「万歳、王様万歳。」 一人の少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。


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