草枕
一[編集]
を登りながら、こう考えた。
に働けば が立つ。 に させば流される。意地を せば だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが
じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと った時、詩が生れて、 が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒
りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、
て、 の の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が る。あらゆる芸術の士は人の世を にし、人の心を豊かにするが に とい。住みにくき世から、住みにくき
いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、 である。あるは音楽と彫刻である。こまかに えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も く。着想を紙に落さぬとも なきも、かく を観じ得るの点において、かく を するの点において、かく に し得るの点において、またこの の を し得るの点において、 の を するの点において、―― の子よりも、 の君よりも、あらゆる俗界の よりも幸福である。世に住むこと二十年にして、住むに
ある世と知った。二十五年にして明暗は のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の はこう思うている。――喜びの深きとき いよいよ深く、 みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。 づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが えれば る も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を えている。 には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば き らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……の がここまで漂流して来た時に、余の は突然 りのわるい の を踏み くなった。 を保つために、すわやと前に飛び出した が、 じの め せをすると共に、余の腰は具合よく 三尺ほどな岩の上に りた。肩にかけた絵の具箱が の下から り出しただけで、幸いと の事もなかった。
立ち上がる時に向うを見ると、
から左の方にバケツを伏せたような峰が えている。杉か か分からないが から きまでことごとく い中に、山桜が薄赤くだんだらに いて、 ぎ が と見えぬくらい が濃い。少し手前に が一つ、 をぬきんでて に る。 げた側面は巨人の で り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に めている。 に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ している。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路はすこぶる だ。土をならすだけならさほど
も るまいが、土の中には大きな石がある。土は らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。 した土の上に と って、吾らのために道を譲る はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。 のない所でさえ るきよくはない。左右が高くって、中心が んで、まるで一間 を三角に って、その頂点が を いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を ると云う方が適当だ。 より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと りへかかる。たちまち足の下で
の声がし出した。谷を したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと しく、 なく鳴いている。 の空気が一面に に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた は、流れて雲に って、 うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の に残るのかも知れない。を鋭どく廻って、 なら に落つるところを、 どく右へ切れて、横に すと、 の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、 る が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。猫は鼠を
る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の の さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ
して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、
えを見ては、 しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、 みの歌に、悲しさの、極みの 、 るとぞ知れ」なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う
には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく の などと云う字がある。詩人だから万斛で なら一 で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、 の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。しばらくは路が
で、右は 、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々 を踏みつける。 のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに している。 なものだ。また考えをつづける。詩人に
はつきものかも知れないが、あの を聞く心持になれば の もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が れて、 いものが食べられぬくらいの事だろう。しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一
の として 、一 の詩として読むからである。 であり詩である以上は を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて けする も起らぬ。ただこの景色が――腹の しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も わぬのだろう。自然の力はここにおいて とい。吾人の性情を瞬刻に して として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその
に当れば利害の に き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には しかねる。これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は
て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。それすら、普通の芝居や小説では人情を
かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。 は利慾が らぬと云う点に するかも知れぬが、交らぬだけにその他の は常よりは余計に活動するだろう。それが だ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを
して、 した。 き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる の純粋なるものもこの を する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、 の にあるものだけで用を じている。いくら詩的になっても地面の上を けてあるいて、 の勘定を忘れるひまがない。シェレーが を聞いて嘆息したのも無理はない。うれしい事に東洋の
はそこを したのがある。 、 。ただそれぎりの に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が いてる訳でもなければ、 に親友が奉職している次第でもない。超然と に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。 、 、 、 。ただ二十字のうちに に を している。この乾坤の は「 」や「 」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ
な を べてこの に るものはないようだ。余は より詩人を職業にしておらんから、 や の を今の世に して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ 絵の具箱と を いで春の をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの でも の天地に したいからの 。一つの だ。もちろん人間の
だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く には行かぬ。淵明だって が を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで の中に を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、 えた は へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が ってはおらん。こんな所でも人間に う。じんじん りの りや、赤い の さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を んだり吐いたりしても、人の いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、 の宿は の だ。ただ、物は
でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた に、あの の を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、 の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。 でも、 でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは 三 七分で見せるわざだ。我らが能から けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき な をするからである。しばらくこの
に起る出来事と、旅中に う人間を能の と能役者の に見立てたらどうだろう。まるで人情を てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは ぎつけたいものだ。 や とは の違ったものに相違ないし、また や菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を てみたい。 と云う男は へ馬が するのをさえ な事と見立てて にした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、 さんも さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を ぐって、心理作用に立ち入ったり、 の てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば し ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの には容易に飛び込めない訳だから、つまりは の前へ立って、画中の人物が画面の をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。 三尺も てていれば落ちついて見られる。あぶな なしに見られる。 を えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと する事が出来る。ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ
れ っていたと思ったが、いつのまにか、 れ して、 はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が かでほとんど霧を くくらいだから、 たりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の と見える。深く める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。路は
広くなって、かつ だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、 がふうとあらわれた。「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ
れたね」まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は
のように雨につつまれて、またふうと消えた。のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は ごとに風に かれる までが目に る。羽織はとくに濡れ して肌着に み込んだ水が、 の で く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた く。
たる の世界を、 の が めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも まれる。 なる れを忘れ して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を つ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、 の人にもあらず。依然として の一 に過ぎぬ。雲煙飛動の も眼に らぬ。 の情けも心に浮ばぬ。 として り を行く の、いかに美しきかはなおさらに せぬ。初めは帽を傾けて た。 にはただ足の のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は の を かして より に る。非人情がちと強過ぎたようだ。
二[編集]
「おい」と声を掛けたが返事がない。
から奥を くと けた が立て切ってある。向う側は見えない。五六足の が しそうに から されて、 にふらりふらりと揺れる。下に の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と が散らばっている。
「おい」とまた声をかける。土間の
に片寄せてある の上に、ふくれていた が、驚ろいて眼をさます。ククク、クククと騒ぎ出す。敷居の外に が、今しがたの雨に濡れて、半分ほど色が変ってる上に、真黒な がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。幸い下は きつけてある。返事がないから、無断でずっと
って、 の上へ腰を した。 は きをして から飛び下りる。今度は畳の上へあがった。 がしめてなければ奥まで けぬける気かも知れない。雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。まるで余を狐か のように考えているらしい。床几の上には ほどな が閑静に控えて、中にはとぐろを いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、すこぶる に っている。雨はしだいに収まる。しばらくすると、奥の方から足音がして、
けた障子がさらりと く。なかから一人の婆さんが出る。どうせ誰か出るだろうとは思っていた。
に火は燃えている。菓子箱の上に銭が散らばっている。線香は に燻っている。どうせ出るにはきまっている。しかし自分の を け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。二三年前
の舞台で を見た事がある。その時これはうつくしい だと思った。 を いだ爺さんが りを五六歩来て、そろりと になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおおだいぶお
れなさった。今火を いて かして上げましょ」「そこをもう少し
しつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと
で を追い げる。ここここと け出した夫婦は、 の畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ を れた。「まあ一つ」と婆さんはいつの
にか り抜き盆の上に茶碗をのせて出す。茶の色の黒く げている底に、 がきの梅の花が三輪 に焼き付けられている。「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた
ねじと を持ってくる。 はどこぞに着いておらぬかと めて見たが、それは箱のなかに取り残されていた。婆さんは
しの上から、 をかけて、 の前へうずくまる。余は から写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しをしかける。「閑静でいいね」
「へえ、御覧の通りの
で」「
は鳴くかね」「ええ毎日のように鳴きます。
は夏も鳴きます」「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく
は―― の雨でどこぞへ逃げました」折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が
と風を起して一尺あまり吹き出す。「さあ、
あたり。さぞ御寒かろ」と云う。 を見ると青い煙りが、突き当って れながらに、 かな をまだ にからんでいる。「ああ、
い心持ちだ、 で生き返った」「いい具合に雨も晴れました。そら
が見え出しました」として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた の は、未練もなく晴れ尽して、 の指さす に と、あら りの柱のごとく えるのが天狗岩だそうだ。
余はまず天狗巌を
めて、次に婆さんを眺めて、三度目には に両方を べた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は の と、 のかいた のみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは いものだと感じた。 のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。 の を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの は定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、 やかに、あたたかに見える。 にも、 にも、あるは桜にもあしらって し ない道具である。余は天狗岩よりは、腰をのして、手を して、遠く向うを している、袖無し姿の婆さんを、春の の景物として なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという に、婆さんの姿勢は崩れた。に写生帖を、火にあてて かしながら、
「御婆さん、丈夫そうだね」と
ねた。「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、
もうみます、 の も きます」この御婆さんに
を かして見たくなった。しかしそんな注文も出来ぬから、「ここから
までは一里 らずだったね」と別な事を聞いて見る。「はい、二十八丁と申します。
は に しで……」「込み合わなければ、少し
しようかと思うが、まあ気が向けばさ」「いえ、戦争が始まりましてから、
と参るものは御座いません。まるで締め切り同様で御座います」「妙な事だね。それじゃ
めてくれないかも知れんね」「いえ、御頼みになればいつでも
めます」「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、
さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は始めてで」
「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
会話はちょっと
れる。帳面をあけて の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が え出した。この声がおのずと、 をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの に、春風や
が耳に馬の鈴と書いて見た。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて
な が、春に けた の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても にかいた声だ。の 越ゆるや春の雨
と、今度は
に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。「また誰ぞ来ました」と婆さんが
ば り のように云う。ただ
の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前 うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を り、思われては山を登ったのだろう。路 と の春を いて、花を えば足を着くるに地なき に、婆さんは の昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、 の に至ったのだろう。唄や も染めで暮るる春
と次のページへ
めたが、これでは自分の感じを云い せない、もう少し のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。何でも白髪という字を入れて、幾代の節と云う句を入れて、馬子唄という題も入れて、春の も加えて、それを十七字に めたいと工夫しているうちに、「はい、今日は」と実物の馬子が店先に
って大きな声をかける。「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、
を通ったら、娘に の を一枚もらってきておくれなさい」「はい、貰ってきよ。一枚か。――
さんは い所へ片づいて仕合せだ。な、 さん」「ありがたい事に
には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」「仕合せとも、御前。あの
の嬢さまと比べて御覧」「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を
でる。き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、 りの を、さらさらと げ落ちる。馬は驚ろいて、長い を に振る。
「コーラッ」と
りつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の を破る。御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ
に散らついている。 の に、 で、馬に乗って……」「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、
さん」「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に
が出来ました」余はまた写生帖をあける。この景色は
にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には
も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの が と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を 取り す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から に立ち いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、 と胸の底に残って、 で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を く の何となく妙な気になる。「それじゃ、まあ御免」と源さんが
する。「帰りにまた
り。あいにくの降りで りは難義だろ」「はい、少し骨が折れよ」と源さんは
出す。源さんの馬も歩行出す。じゃらんじゃらん。「あれは
の男かい」「はい、那古井の源兵衛で御座んす」
「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、
を越したのかい」「志保田の嬢様が城下へ
のときに、嬢様を に乗せて、源兵衛が を いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」鏡に
うときのみ、わが頭の白きを つものは幸の部に属する人である。指を折って始めて、五年の流光に、転輪の き を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ に近づける方だろう。余はこう答えた。「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。
へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」「はあ、今では里にいるのかい。やはり
の を着て、高島田に っていればいいが」「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外
である。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。婆さんが云う。「嬢様と
の とはよく似ております」「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「
しこの村に長良の乙女と云う、美くしい の娘が御座りましたそうな」「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に
して、あなた」「なるほど」
「ささだ男に
こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い ったが、どちらへも靡きかねて、とうとうあきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を
んで、 へ身を投げて てました」余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな
な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。「これから五丁東へ
ると、 に が御座んす。ついでに の の墓を見て御行きなされ」余は心のうちに是非見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が
りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て での頃 いなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な
もありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」「めでたく、
へ身を投げんでも済んだ訳だね」「ところが――
でも器量望みで いなさったのだから、随分大事にはなさったかも知れませぬが、もともと いられて御出なさったのだから、どうも がわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。もとは の優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」これからさきを聞くと、せっかくの
が れる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て を帰せ帰せと するような気がする。 りの険を して、やっとの で、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり されては、 と家を出た がない。世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の いが から んで、 で が重くなる。「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚
の上へかちりと投げ出して立ち上がる。「
の五輪塔から右へ りなさると、六丁ほどの近道になります。 はわるいが、御若い方にはその がよろしかろ。――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ」
三[編集]
は妙な気持ちがした。
宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の
庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。 し来た時とはまるで見当が違う。 を済まして、湯に って、 へ帰って茶を飲んでいると、 が来て を べよかと う。不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、
の給仕も、 への案内も、床を敷く面倒も、ことごとくこの小女一人で弁じている。それで口は にきかぬ。と云うて、 みてもおらぬ。赤い帯を なく結んで、古風な をつけて、廊下のような、 のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も りて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、
使っている部屋で我慢してくれと云った。床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、次第に下の方へ かった時に、あとがひっそりとして、人の がしないのが気になった。生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し
を から向うへ突き抜けて、 から まで浜伝いに た事がある。その時ある晩、ある所へ た。ある所と云うよりほかに言いようがない。今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。第一宿屋へとまったのかが問題である。 の高い大きな家に女がたった二人いた。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い をいくつも通り越して一番奥の、 へ案内をした。三段登って廊下から部屋へ ろうとすると、 の下に きかけていた の が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を でたので、すでにひやりとした。 はすでに ちかかっている。来年は が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。その晩は例の竹が、枕元で
ついて、寝られない。 をあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の かなるに、眼を しらせると、垣も もあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。草山の向うはすぐ でどどんどどんと大きな が人の世を しに来る。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な のうちに しながら、まるで にでもありそうな事だと考えた。その
旅もいろいろしたが、こんな気持になった事は、今夜この那古井へ宿るまではかつて無かった。に寝ながら、偶然目を けて見ると に、 りの をとった がかかっている。 は寝ながらも と明らかに読まれる。 という もたしかに見える。余は書においては のない男だが、平生から、 の の を愛している。 も も もそれぞれに面白味はあるが、 の字が一番 でしかも である。今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。
横を向く。
にかかっている の鶴の図が目につく。これは だけに、部屋に った時、すでに と認めた。若冲の図は大抵 な彩色ものが多いが、この鶴は世間に なしの がきで、一本足ですらりと立った上に、 の胴がふわっと かっている様子は、はなはだ を得て、 の は、長い のさきまで っている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。すやすやと寝入る。夢に。
の が振袖を着て、 に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い を持って、 を けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、 も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
そこで眼が
めた。 の下から汗が出ている。妙に な夢を見たものだと思った。昔し の と云う人は、悟道の 、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。文芸を にするものは今少しうつくしい夢を見なければ が かない。こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか に月がさして、木の枝が二三本 めに影をひたしている。 えるほどの春の だ。気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに
れ込んだのかと耳を てる。たしかに誰かうたっている。細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の に の脈をかすかに たせつつある。不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。――その聞えぬはずのものが、よく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと の の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。初めのうちは
に近く聞えた声が、しだいしだいに細く いて行く。突然とやむものには、突然の感はあるが、 れはうすい。ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。これと云う句切りもなく に りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた を縮め、 を いて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なんとする のごとく、消えんとしては、消えんとする のごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の みをことごとく めたる調べがある。今までは
の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。細くなればなるほど、耳だけになっても、あとを って飛んで行きたい気がする。もうどう ても に えはあるまいと思う の前、余はたまらなくなって、われ知らず をすり抜けると共にさらりと を けた。 に自分の から下が めに月の光りを浴びる。 の上にも木の影が揺れながら落ちた。障子をあけた時にはそんな事には気がつかなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。花ならば
かと思わるる幹を に、よそよそしくも月の光りを忍んで たる がいた。あれかと思う意識さえ、 とは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み いて右へ切れた。わがいる部屋つづきの の が、すらりと動く、 の高い女姿を、すぐに ってしまう。の 一枚で、障子へつらまったまま、しばらく としていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。ともかくもと抜け出でた布団の穴に、再び して考え出した。 り のしたから、 を出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもや ではあるまい。化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。あるいは の御嬢さんかも知れない。しかし りの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと だ。何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。 しからん。
いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。 い事も、 れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の るところやら、 のこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの るるところやらを、単に客観的に に思い浮べるから文学美術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、 から いて して、愉快を ぼるものがある。 はこれを評して だと云う、気違だと云う。しかし自から不幸の輪廓を いて んでその に するのは、自から の山水を して の に歓喜すると、その芸術的の を得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは をする 、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に して、したり顔である。これはあえて ら くの、人を わるのと云う ではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、 を して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
この
に にあれ、人事にあれ、 の して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の を見、 の を知る。俗にこれを けて と云う。その実は美化でも何でもない。 たる は、 として昔から現象世界に実在している。ただ 眼に って するが故に、 の として ちがたきが故に、 のわれに る事、 なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、 が幽霊を くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、
れが見ても、 に聞かしても に詩趣を帯びている。―― の温泉、―― の 、―― の 、―― の姿――どれもこれも芸術家の である。この好題目が にありながら、余は らざる てをして、余計な ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に の筋が立って、願ってもない風流を、気味の るさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って する資格はつかぬ。昔し の画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を にして、山賊の に り込んだと聞いた事がある。 と画帖を にして家を でたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。こんな時にどうすれば詩的な
に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に えつけて、その感じから一歩 いて に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番 なのは でも でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、 に った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の りであるから軽便だと云って する必要はない。軽便であればあるほど になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや やうれしくなる。涙を十七字に めた時には、苦しみの涙は自分から して、おれは泣く事の出来る男だと云う しさだけの自分になる。これが
から余の主張である。今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。出来たら書きつけないと になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。「
の露をふるふや ひ」と に書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。次に「花の影、女の影の かな」とやったが、これは季が なっている。しかし何でも構わない、気が落ちついて になればいい。それから「 、女に けて 」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。この調子なら大丈夫と
になって出るだけの句をみなかき付ける。春の星を落して
のかざしかな春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
春や
歌つかまつる御姿の精が出てくる月夜かな
うた折々月下の春ををちこちす
思ひ切つて更け行く春の独りかな
などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。
と云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。熟睡のうちには も我を認め得ぬ。 の際には あって を忘るるものはなかろう。ただ両域の間に のごとき幻境が わる。 めたりと云うには余り にて、眠ると評せんには少しく を す。 の二界を に盛りて、 の をもって、ひたすらに き ぜたるがごとき状態を云うのである。自然の色を夢の までぼかして、ありのままの宇宙を一段、 の国へ押し流す。睡魔の をかりて、ありとある実相の角度を かにすると共に、かく らげられたる に、われからと かに き脈を通わせる。地を う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが の、わが を離れんとして離るるに忍びざる である。抜け でんとして い、逡巡いては抜け出でんとし、 ては魂と云う個体を、もぎどうに ちかねて、 たる が散るともなしに四肢五体に して、 たり たる心持ちである。
余が
の にかく していると、入口の がすうと いた。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただ よく めている。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。余が じている の に の女が りもなく り込んで来たのである。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに る。 の波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。閉ずる のなかから見る世の中だから とは解らぬが、色の白い、髪の濃い、 の長い女である。近頃はやる、ぼかした写真を にすかすような気がする。まぼろしは
の前でとまる。戸棚があく。白い腕が をすべって のなかにほのめいた。戸棚がまたしまる。畳の波がおのずから幻影を渡し返す。入口の唐紙がひとりでに たる。余が眠りはしだいに やかになる。人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。いつまで人と馬の
に寝ていたかわれは知らぬ。耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は から隅まで明るい。うららかな が丸窓の を黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うものの む余地はなさそうだ。神秘は へ帰って、 の の へ渡ったのだろう。のまま、 へ下りて、五分ばかり偶然と のなかで顔を浮かしていた。洗う気にも、出る気にもならない。第一 はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
を くさえ だから、いい加減にして、 れたまま って、風呂場の戸を内から けると、また驚かされた。
「御早う。
はよく寝られましたか」戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ
の だから、さそくの返事も出る さえないうちに、「さ、
しなさい」と
ろへ廻って、ふわりと余の へ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、 に女は二三歩 いた。昔から小説家は必ず主人公の
を極力描写することに相場がきまってる。古今東西の言語で、 の に使用せられたるものを列挙したならば、 とその量を争うかも知れぬ。この すべき多量の形容詞中から、余と三歩の りに立つ、 を めに って、 に余が と を よげに めている女を、もっとも適当に すべき用語を拾い来ったなら、どれほどの数になるか知れない。しかし生れて三十余年の に至るまで だかつて、かかる表情を見た事がない。美術家の評によると、 の彫刻の理想は、 の二字に するそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、 か か、見わけのつかぬところに が と存するから の を の に伝うるのであろう。世上幾多の尊厳と威儀とはこの たる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった には、 の を なく示して、 の に戻る訳には行かぬ。この に と名のつくものは必ず卑しい。 の も、 の も全くこの動の一字で失敗している。動か静か。これがわれら の運命を支配する大問題である。古来美人の形容も大抵この二大 のいずれにか打ち込む事が出来べきはずだ。ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで
である。眼は のすきさえ見出すべく動いている。顔は の で、豊かに落ちつきを見せているに引き えて、 は しくも、こせついて、いわゆる の を帯びている。のみならず は両方から って、中間に数滴の を点じたるごとく、ぴくぴく ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。 にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆 あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。元来は
であるべき の一角に が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に くと悟って、 めて の姿にもどろうとしたのを、 を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた は、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出来る。それだから
の に、何となく人に りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に み深い がほのめいている。才に任せ、気を えば百人の男子を物の数とも思わぬ の下から しい けが吾知らず いて出る。どうしても表情に一致がない。 りと が一軒の に をしながらも同居している だ。この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。 な女に違ない。「ありがとう」と繰り返しながら、ちょっと
した。「ほほほほ御部屋は
がしてあります。 って御覧なさい。いずれ ほど」と云うや
や、ひらりと、腰をひねって、廊下を に けて行った。頭は に っている。白い がたぼの下から見える。帯の は だけだろう。
四[編集]
ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど
に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな が見える。上から の が半分 れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい の間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に の と、 の一巻が並んでる。 のうつつは事実かも知れないと思った。なく の上へ坐ると、 の机の上に例の写生帖が、鉛筆を んだまま、大事そうにあけてある。夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「
の露をふるふや 」の下にだれだか「海棠の露をふるふや 」とかいたものがある。鉛筆だから、書体はしかと らんが、女にしては ぎる、男にしては か過ぎる。おやとまた する。次を見ると「花の影、女の影の かな」の下に「花の影女の影を ねけり」とつけてある。「 女に化けて 」の下には「 女に化けて朧月」とある。 をしたつもりか、 した気か、風流の わりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、余は思わず首を けた。ほどと云ったから、今に の時にでも出て来るかも知れない。出て来たら様子が少しは解るだろう。ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。よく寝たものだ。これでは だけで間に合せる方が胃のためによかろう。
右側の
をあけて、 の はどの かなと眺める。 と鑑定したのははたして、海棠であるが、思ったよりも庭は狭い。五六枚の を一面の が埋めて、 で踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。左は山つづきの に赤松が めに岩の間から庭の上へさし出している。海棠の ろにはちょっとした茂みがあって、奥は が十丈の りを春の日に している。右手は の で ぎられて、見えぬけれども、地勢から察すると、だらだら りに風呂場の方へ落ちているに相違ない。山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの
となり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた と起き上って、周囲六里の となる。これが の地勢である。温泉場は岡の を出来るだけ へさしかけて、 の景色を半分庭へ囲い込んだ であるから、前面は二階でも、後ろは になる。 から足をぶらさげれば、すぐと は に着く。道理こそ昨夕は をむやみに ったり、 ったり、 な の と思ったはずだ。今度は左り側の窓をあける。自然と
む二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影を している。 の が岩の角を どる、向うに とも見える があって、外は浜から、岡へ上る か時々人声が聞える。往来の向うはだらだらと がりに を植えて、谷の まる所にまた大きな竹藪が、白く光る。竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から が五六段手にとるように見える。 御寺だろう。入口の
をあけて へ出ると、 が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を てて、表二階の がある。わが住む部屋も、欄干に ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。 は の下にあるのだから、 と云う点から云えば、余は三層楼上に する訳になる。家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、
台所は知らず、客間と名がつきそうなのは 立て切ってある。客は、余をのぞくのほかほとんど なのだろう。 た部屋は昼も をあけず、あけた以上は夜も てぬらしい。これでは表の戸締りさえ、するかしないか解らん。非人情の旅にはもって来いと云う な場所だ。時計は十二時近くなったが
を食わせる景色はさらにない。ようやく空腹を覚えて来たが、 と云う詩中にあると思うと、一とかたげぐらい倹約しても はない。 をかくのも面倒だ、俳句は作らんでもすでに に入っているから、作るだけ だ。読もうと思って に りつけて来た二三冊の書籍もほどく気にならん。こうやって、 たる に をあぶって、 に花の影と共に寝ころんでいるのが、天下の である。考えれば に ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から もしたくない。畳から根の生えた植物のようにじっとして二週間ばかり暮して見たい。やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か
ってくる。近づくのを聞いていると、二人らしい。それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は にも云わず、元の方へ引き返す。 があいたから、今朝の人と思ったら、やはり の である。何だか物足らぬ。「遅くなりました」と
を える。 の言訳も何にも言わぬ。 に青いものをあしらって、 の をとれば の中に、紅白に染め抜かれた、 を沈ませてある。ああ好い色だと思って、椀の中を めていた。「
いか」と下女が聞く。「いいや、今に食う」と云ったが実際食うのは惜しい気がした。ターナーがある
の席で、皿に るサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だと の人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の は、 でも、口取でも、 でも に出来る。 を前へ置いて、 も着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった は充分ある。「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら、質問をかけた。
「へえ」
「ありゃ何だい」
「若い奥様でござんす」
「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年
くなりました」「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「御客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
「
を きます」これは意外であった。面白いからまた
「それから」と聞いて見た。
「御寺へ行きます」と
が云う。これはまた意外である。御寺と三味線は妙だ。
「御寺
りをするのかい」「いいえ、
の所へ行きます」「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃ何をしに行くのだい」
「
の所へ行きます」なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。この句から察すると何でも
らしい。戸棚に があったのは、全くあの女の所持品だろう。「この部屋は普段誰か
っている所かね」「普段は奥様がおります」
「それじゃ、
、わたしが来る時までここにいたのだね」「へえ」
「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
会話はこれで切れる。飯はようやく
る。膳を引くとき、小女郎が入口の を たら、中庭の みを てて、向う二階の に しが を突いて、開化した のように下を見詰めていた。今朝に引き えて、はなはだ静かな姿である。 いて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、 にかほどな変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの より良きはなしと云ったそうだが、なるほど人 んぞ さんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。 と る の下から、 が二羽寄りつ離れつ舞い上がる。 にわが部屋の はあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の に転じた。視線は毒矢のごとく を いて、 もなく余が に落ちる。はっと思う間に、小女郎が、またはたと襖を立て切った。あとは な春となる。余はまたごろりと寝ころんだ。たちまち心に浮んだのは、
Sadder than is the moon's lost light,
Lost ere the kindling of dawn,
To travellers journeying on,
The shutting of thy fair face from my sight.
と云う句であった。もし余があの
しに して、身を いても逢わんと思う矢先に、今のような の別れを、 るまでに、嬉しとも、 しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。その上にMight I look on thee in death,
With bliss I would yield my breath.
と云う二句さえ、付け加えたかも知れぬ。幸い、普通ありふれた、恋とか愛とか云う
はすでに通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。しかし今の に起った出来事の詩趣はゆたかにこの五六行にあらわれている。余と銀杏返しの にこんな ない はないとしても、二人の今の関係を、この詩の に て見るのは面白い。あるいはこの詩の意味をわれらの身の上に引きつけて解釈しても愉快だ。二人の間には、ある の細い糸で、この詩にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、 りつけられている。因果もこのくらい糸が細いと にはならぬ。その上、ただの糸ではない。空を横切る の糸、 に く の糸、 にかがやく の糸。切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは れてうつくしい。万一この糸が見る間に太くなって のようにかたくなったら? そんな危険はない。余は画工である。先はただの女とは違う。突然襖があいた。
りを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って の を盆に乗せたまま んでいる。「また寝ていらっしゃるか、
は御迷惑で御座んしたろう。 も御邪魔をして、ほほほほ」と笑う。 した も、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。ただこちらが を越されたのみである。「今朝はありがとう」とまた礼を云った。考えると、
の礼をこれで三 云った。しかも、三返ながら、ただ難有うと云う三字である。女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも
に云う。余は全くだと考えたから、ひとまず になって、両手で を え、しばし畳の上へ の柱を立てる。「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
「ありがとう」またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な
が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が だ。別段食いたくはないが、あの が らかに、 に、しかも に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた げ方は、 と の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと かだが、少し重苦しい。ジェリは、 宝石のように見えるが、ぶるぶる えて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、 の沙汰である。「うん、なかなか
だ」「今しがた、源兵衛が買って帰りました。これならあなたに召し上がられるでしょう」
源兵衛は昨夕
へ ったと見える。余は別段の返事もせず羊羹を見ていた。どこで誰れが買って来ても構う事はない。ただ美くしければ、美くしいと思うだけで充分満足である。「この青磁の形は大変いい。色も美事だ。ほとんど羊羹に対して
がない」女はふふんと笑った。
に どりの波が かに れた。余の言葉を と解したのだろう。なるほど洒落とすれば、 される はたしかにある。 の足りない男が無理に洒落れた時には、よくこんな事を云うものだ。「これは支那ですか」
「何ですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
「どうも支那らしい」と皿を上げて底を
めて見た。「そんなものが、御好きなら、見せましょうか」
「ええ、見せて下さい」
「父が
が大好きですから、だいぶいろいろなものがあります。父にそう云って、いつか御茶でも上げましょう」茶と聞いて少し
した。世間に ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に りをして、 めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。あんな な規則のうちに雅味があるなら、 の のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に 以後の規則を みにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。「御茶って、あの流儀のある茶ですかな」
「いいえ、流儀も何もありゃしません。
なら飲まなくってもいい御茶です」「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」
「ほほほほ。父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから……」
「
めなくっちゃあ、いけませんか」「年寄りだから、褒めてやれば、嬉しがりますよ」
「へえ、少しなら褒めて置きましょう」
「負けて、たくさん御褒めなさい」
「はははは、時にあなたの言葉は
じゃない」「人間は田舎なんですか」
「人間は田舎の方がいいのです」
「それじゃ
が きます」「しかし東京にいた事がありましょう」
「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。
の国が になったって、 の国へ しちゃ、 にもなりません」「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は
め寄せる。「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、
にはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、「さあ、この中へ
りなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の へ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと を うと、「まあ、
な世界だこと、 ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで ね」と云って けた。余は「わはははは」と笑う。
に近く、 きかけた が、中途で声を して、遠き へ枝移りをやる。 はわざと対話をやめて、しばらく耳を てたが、いったん鳴き ねた は容易に けぬ。「
は山で源兵衛に いでしたろう」「ええ」
「
の の を見ていらしったか」「ええ」
「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。何のためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「婆さんが教えましたか。あれはもと私のうちへ奉公したもので、私がまだ嫁に……」と云いかけて、これはと
の顔を見たから、余は知らぬ をしていた。「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も
くうちに、とうとう何もかも してしまいました」「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は
れな歌ですね」「憐れでしょうか。私ならあんな歌は
みませんね。第一、 へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、
にするばかりですわ」「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
ほーう、ほけきょうと忘れかけた
が、いつ を盛り返してか、時ならぬ を不意に張った。一度立て直すと、あとは自然に出ると見える。身を まにして、ふくらむ の底を わして、小さき口の張り裂くるばかりに、ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうーと、つづけ
に ずる。「あれが本当の歌です」と女が余に教えた。
五[編集]
「失礼ですが
は、やっぱり東京ですか」「東京と見えるかい」
「見えるかいって、
見りゃあ、―― 言葉でわかりまさあ」「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも
じゃねえようだ。 の だね。山の手は かね。え? それじゃ、 ? でなければ か でしょう」「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう
えて、 も江戸っ子だからね」「
で だと思ったよ」「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな
へ流れ込んで来たのだい」「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから
の親方かね」「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は
でさあ。なあに猫の 見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、 な橋だがね」「おい、もう少し、
を けてくれないか、痛くって、いけない」「痛うがすかい。
ゃ でね、どうも、こうやって、 をかけて、一本一本 の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに の職人なあ、 るんじゃねえ、 でるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」「我慢は
から、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。
、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、
の上から、 っ な赤い石鹸を取り ろして、水のなかにちょっと したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあまりない。しかもそれを らした水は、 に んだ、溜め置きかと考えると、余りぞっとしない。すでに
である以上は、御客の権利として、余は鏡に向わなければならん。しかし余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。鏡と云う道具は らに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。もしこの性質が わらない鏡を けて、これに向えと いるならば、強いるものは な写真師と同じく、向うものの器量を故意に損害したと云わなければならぬ。虚栄心を くのは修養上一種の方便かも知れぬが、何も れの真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを するには及ぶまい。今余が して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。 くと を前から見たように に し され、少しこごむと の のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する は一人でいろいろな を しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を めている。 から されるとき、罵詈それ自身は別に を感ぜぬが、その の面前に しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。その上この親方がただの親方ではない。そとから
いたときは、 をかいて、 で、おもちゃの 国旗の上へ、しきりに を吹きつけて、さも に見えたが、 って、わが首の所置を托する段になって驚ろいた。 を る間は首の所有権は全く親方の手にあるのか、はた幾分かは余の上にも存するのか、一人で疑がい出したくらい、 なく取り扱われる。余の首が肩の上に けにされているにしてもこれでは永く持たない。彼は
を うに当って、 も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。 み の所ではぞきりと動脈が鳴った。 のあたりに がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な
いがする。時々は な を余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ 、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って でも き切られては事だ。「
なんぞを、つけて、 るなあ、腕が なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ り出すと、石鹸は親方の命令に いて地面の上へ がり落ちた。「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「
前来たばかりさ」「へえ、どこにいるんですい」
「
に ってるよ」「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな
たろうと思ってた。実あ、 もあの隠居さんを て来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年 が死んじまって、今じゃ道具ばかり くってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな だろうって話さ」「
な御嬢さんがいるじゃないか」「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の
だが、あれで りですぜ」「そうかい」
「そうかいどころの
じゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が れて が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が るいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、 しがつかねえ になりまさあ」「そうかな」
「
り でさあ。本家の たあ、仲がわるしさ」「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍
をつけてくれないか。また痛くなって来た」「よく痛くなる
だね。髭が ぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非 を当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く
する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ った。 でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」「どうして」
「旦那あの娘は
はいいようだが、本当はき しですぜ」「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな
だって云ってるんでさあ」「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、
に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、
でも んで なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」「頭はよそう」
「
だけ落して置くかね」親方は
の った十本の爪を、遠慮なく、余が の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の を巨人の が疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に にふくれ上った上、余勢が を通して、骨から まで を感じたくらい しく、親方は余の頭を掻き廻わした。「どうです、好い心持でしょう」
「非常な
だ」「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに
うがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ あ、やに がなまけやがって――まあ一ぷく がんなさい。一人で志保田にいちゃ、退屈でしょう。ちと話しに なせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ、話しが合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、 のねえ女だから困っちまわあ」「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「
ねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が せちまって……」「その坊主たあ、どの坊主だい」
「
の がさ……」「
にも にも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」「そうか、
だから、いけねえ。 った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが さん、レコに参っちまって、とうとう をつけたんだ。――おや待てよ。 たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に えねえ。すると――こうっと――何だか、 きさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと さん、驚ろいちまってからに……」「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、
らしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。
をもらってさ」「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で
さんと御経を上げてると、 あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても だね」「どうかしたのかい」
「そんなに
いなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、 さんの っ へかじりついたんでさあ」「へええ」
「
ったなあ、泰安さ。 に文をつけて、飛んだ恥を かせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって
えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、
が気が違ってるんだから、 して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、 にからかったり かすると、大変な目に逢いますよ」「ちっと気をつけるかね。ははははは」
い から、塩気のある がふわりふわりと来て、親方の を たそうに る。身を にしてその下をくぐり抜ける の姿が、ひらりと、鏡の に落ちて行く。向うの では六十ばかりの爺さんが、軒下に まりながら、だまって貝をむいている。かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い が のなかに隠れる。 はきらりと光りを放って、二尺あまりの を へ横切る。丘のごとくに かく、積み上げられた、貝殻は か、 か、 か。 れた、幾分は の底に落ちて、浮世の表から、 らい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の を考うる暇さえなく、ただ しき殻を の上へ り出す。 れの には うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に かと見える。
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、
として の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、 き を与えつつあるかと怪しまれる。その間から、 を かして、気長にのたくらせたように見えるのが海の色だ。この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で
の風光と するほどの影響を余の頭脳に与えたならば、余は両者の間に立ってすこぶる は、太平の を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。こう考えると、この親方もなかなか
にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと を えて の話をしていた。ところへ を って小さな坊主頭が「御免、一つ
って貰おうか」と
って来る。白木綿の着物に同じ の帯をしめて、上から のように い を羽織って、すこぶる気楽に見える小坊主であった。「
さん。どうだい、こないだあ道草あ、食って、 さんに られたろう」「いんにゃ、
められた」「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「
で頭に が出来てらあ。そんな不作法な頭あ、 るなあ骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、 ね直して来ねえ」「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは頭は
だが、口だけは達者なもんだ」「腕は鈍いが、酒だけ強いのは
だろ」「
め、腕が鈍いって……」「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。
もない」「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
「
坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、 がねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか ってえ事を云いますぜ――おっと、もう少し を寝かして――寝かすんだてえのに、――言う事を かなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ
じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その
発憤して、 の へ行って、 じゃ。今に になられよう。結構な事よ」「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。
なんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの はやっぱり さんの所へ行くかい」「
と云う女は聞いた事がない」「通じねえ、
だ。行くのか、行かねえのか」「
は来んが、志保田の娘さんなら来る」「いくら、和尚さんの
でもあればかりゃ、 るめえ。全く の旦那が ってるんだ」「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう
めておられる」「石段をあがると、何でも
だから わねえ。和尚さんが、何て云ったって、 は だろう。――さあ れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」「いやもう少し遊んで行って
められよう」「勝手にしろ、口の
らねえ だ」「
この 」「何だと?」
青い頭はすでに
をくぐって、 に吹かれている。
六[編集]
夕暮の机に向う。障子も
も け つ。宿の人は多くもあらぬ上に、家は割合に広い。余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく う を、 の廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の にはならぬ。今日は 静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ に、われを残して、立ち いたかと思われる。立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。 の国か、雲の国かであろう。あるいは雲と水が自然に近づいて、 をとるさえ き海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き に い来て、 ては帆みずからが、いずこに れを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ――そんな かな所へ立ち退いたと思われる。それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの が、今頃は目に見えぬ となって、広い天地の間に、 の力を るとも、 の を めぬようになったのであろう。あるいは に化して、 の花の を鳴き尽したる 、夕暮深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。または永き日を、かつ永くする のつとめを果したる後、 に る甘き露を吸い ねて、 の下に、伏せられながら、世を ばしく眠っているかも知れぬ。とにかく静かなものだ。しき家を、空しく抜ける の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。 むものへの でもない。 から りて、自から去る、公平なる宇宙の である。 に を えたる余の心も、わが住む部屋のごとく しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。
踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの
も る。 くは天と知る故に、 の に う も出来る。人と わねば が立たぬと浮世が催促するから、 の は免かれぬ。東西のある に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は である。目に見る富は土である。握る名と奪える とは、 かしき が甘く すと見せて、針を て去る蜜のごときものであろう。いわゆる は物に するより起るが に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と なるものあって、 くまでこの 世界の精華を んで、 の清きを知る。 を し、露を み、 を し、 を して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は たる大地を めても し得ぬ。 に を して、 に の を る。いたずらにこの境遇を するのは、 て の の して、好んで高く するがためではない。ただ の を述べて、縁ある を くのみである。 に云えば詩境と云い、画界と云うも皆 の道である。 に指を折り尽して、 に するの といえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の に れて、 を忘れし、 の を び起す事が出来よう。出来ぬと云わば のない男である。されど
に し、 に するのみが詩人の感興とは云わぬ。ある時は の花に化し、あるときは の に化し、あるはウォーヅウォースのごとく、一団の水仙に化して、心を の に せしむる事もあろうが、 とも知れぬ の風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは ぞとも に意識せぬ場合がある。ある人は天地の に触るると云うだろう。ある人は の を に聴くと云うだろう。またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に して、 のちまたに すると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。わが、 の机に りてぽかんとした の状態は にこれである。余は
かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ と動いている。いて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、 に練り上げて、それを の に いて、 の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ に から み込んで、心が知覚せぬうちに されてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか であるから、 も刺激がない。刺激がないから、 として名状しがたい がある。風に まれて の なる波を起す、軽薄で騒々しい とは違う。目に見えぬ の底を、大陸から大陸まで動いている たる の有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの が る。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが しき力の しはせぬかとの を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に え難しと云う意味で、弱きに過ぎる を含んではおらぬ。 とか とか云う詩人の語はもっともこの を切実に言い せたものだろう。
この
を にして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に して、 の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の は終ったものと考えられている。もしこの上に を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの を添えて、画布の上に として させる。ある特別の感興を、 が捕えたる の に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が に筆端に しっておらねば、画を製作したとは云わぬ。 れはしかじかの事を、しかじかに 、しかじかに感じたり、その も感じ方も、 の に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。この二種の製作家に
深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。されど今、わが描かんとする題目は、さほどに なものではない。あらん限りの感覚を して、これを心外に物色したところで、方円の形、 の色は無論、濃淡の陰、 の を見出しかねる。わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に わる、一定の景物でないから、これが だと指を げて明らかに人に示す に行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう―― この心持ちをいかなる具体を りて、人の するように せしめ得るかが問題である。普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに
なる対象を ばなければならん。しかるにこの対象は容易に出て来ない。出て来ても容易に らない。纏っても自然界に存するものとは で を にする場合がある。したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。 いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の した刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命を しがたきムードに与うれば大成功と心得ている。古来からこの難事業に全然の を収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの に指を染め得たるものを ぐれば、 の竹である。 門下の山水である。下って の である。 の人物である。 の画家に至っては、多く眼を 世界に せて、 の に傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に の を伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。惜しい事に
、蕪村らの めて した一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。 をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした を尋ね当てるため、六十余州を して、 ても めても、忘れる がなかったある日、十字街頭にふと して、 の ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと られても はない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、 わない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が のなかへ落ち込むまで、 したが、とても物にならん。鉛筆を置いて考えた。こんな
な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に
られて生まれた自然の声であろう。 は くべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている
もとうてい物になりそうにない。余が嬉しいと感ずる の状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、 に展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が り、二が消えて三が生まるるがために しいのではない。初から として に する きで嬉しいのである。すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を する必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。ただいかなる を詩中に持ち来って、この として なき有様を写すかが問題で、すでにこれを え得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に する出来事の助けを らずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を たしさえすれば、言語をもって き得るものと思う。議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、
にしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。しばらくは、筆の先の がった所を、どうにか運動させたいばかりで、 も運動させる に行かなかった。急に の名を失念して、 まで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこで めると、 なった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。を練るとき、最初のうちは、さらさらして、 に がないものだ。そこを すると、ようやく が出て、 き ぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
りのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。蠨蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り
かったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない を、次には って見たい。あれか、これかと思い った末とうとう、独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬邈白雲郷。
と出来た。もう
最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた った神境を写したものとすると、 として物足りない。ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、 を引いて、 け った幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。
のすらりとした女が、音もせず、向う二階の を として て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六 の中庭を隔てて、重き空気のなかに と見えつ、隠れつする。
女はもとより口も聞かぬ。
も らぬ。 に引く の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに いている。腰から下にぱっと色づく、 は何を染め抜いたものか、遠くて からぬ。ただ と模様のつながる中が、おのずから されて、夜と昼との境のごとき である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な
をして、この不思議な をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。 く春の を訴うる ならば何が にかくは なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは を飾れる。暮れんとする春の色の、
として、しばらくは の戸口をまぼろしに どる中に、眼も むるほどの は か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ たる夕べのなかにつつまれて、 のあなた、 のかしこへ一分ごとに消えて去る。 めき渡る春の星の、 近くに、紫深き空の底に いる である。の の態度で、 と の に しているのだろう。女のつけた振袖に、 たる模様の尽きて、是非もなき に流れ込むあたりに、おのが身の をほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、
のままで、この世の を引き取るときに、枕元に を るわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、 のない本人はもとより、 に見ている親しい人も殺すが慈悲と らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の があろう。眠りながら に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を すと同様である。どうせ殺すものなら、とても れぬ と得心もさせ、断念もして、念仏を えたい。死ぬべき条件が わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、 と をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。 りの眠りから、いつの とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった の綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、 かに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや や、何だか口が けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる に、女はまた通る。こちらに う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、 も気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、 から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、 と封じ る。
七[編集]
寒い。
を下げて、 へ る。三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は
で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、 ほどな を える。 とは云うもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、 り がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も もない。病気にも くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。ただ る度に考え出すのは、 の と云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。すぽりと
かると、乳のあたりまで る。湯はどこから いて出るか知らぬが、常でも の を奇麗に越している。春の石は くひまなく れて、あたたかに、踏む足の、心は やかに嬉しい。降る雨は、夜の目を めて、ひそかに春を おすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て められた湯気は、 から天井を なく めて、 さえあれば、 の細きを わず れ でんとする である。秋の霧は冷やかに、たなびく
は に、 く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。様々の れはあるが、春の の の曇りばかりは、 するものの肌を、 らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を 破れば、何の苦もなく、下界の人と、 れを見出すように、浅きものではない。一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、 かき の に め去る。酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、 の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。余は
のふちに の頭を えて、 き る湯のなかの き を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ わして見た。ふわり、ふわりと がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば なものだ。 の を けて、 の をはずす。どうともせよと、 のなかで、 と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、 の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、 は である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か になってしまう。 な はもとより、全幅の精神をうち わすが、全然 のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を て、一つ風流な をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。湯のなかに浮いたまま、今度は
の を作って見る。雨が降ったら
れるだろう。が りたら たかろ。
土のしたでは暗かろう。
浮かば波の上、
沈まば波の底、
春の水なら苦はなかろ。
と口のうちで小声に
しつつ と浮いていると、どこかで く三味線の が聞える。美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた しがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の の中で、 まで春の に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。遠いから何を って、何を弾いているか無論わからない。そこに何だか がある。 の落ちついているところから察すると、 の さんの にでも聴かれそうな かとも思う。小供の時分、門前に
と云う酒屋があって、そこに さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の のようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、 深き地を いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、 り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに を るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を めて、この草の を いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。御倉さんはもう赤い
の時代さえ通り越して、だいぶんと じみた顔を、帳場へ してるだろう。 とは がいいか知らん。 は年々帰って来て、 を んだ を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の とはどうしても想像から切り離せない。三本の松はいまだに
い で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、 し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。 さんの旅の衣は鈴懸のと云う、 ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。の が思わぬパノラマを余の に展開するにつけ、余は しい過去の のあたりに立って、二十年の昔に住む、 なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと いた。
誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に
ぐ。 の の最も入口から、 たりたるに頭を乗せているから、 に る段々は、 二丈を隔てて めに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を る の音のみが聞える。三味線はいつの にかやんでいた。やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を
すものは、ただ一つの小さき り のみであるから、この隔りでは澄切った空気を えてさえ、 と はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、 かなる雨に えられて、 を失いたる の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は
のごとく かと見えて、足音を にこれを すれば、動かぬと評しても ない。が輪廓は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、 視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に る事を った。注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は
なく、余が前に、早くもあらわれた。 ぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一 ごとに含んで、 の暖かに見える奥に、 わす黒髪を雲とながして、あらん限りの を、すらりと した女の姿を見た時は、礼儀の、 の、 のと云う感じはことごとく、わが を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。古代
の彫刻はいざ知らず、 の画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに な肉の美を、極端まで描がき尽そうとする が、ありありと見えるので、どことなく に しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ 、吾知らず、答えを得るに して に至ったのだろう。肉を えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を めておらぬ。 を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、 くまでも を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。 で事足るべきを、 にも、 にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその を うるを とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと せるとき、うつくしきものはかえってその を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの はこれがためである。と無邪気とは余裕を示す。余裕は において、詩において、もしくは文章において、 の条件である。 の一大 は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、 として随処に たらしむるにある。裸体画はその好例であろう。都会に と云うものがある。色を売りて、人に びるを商売にしている。彼らは に対する時、わが容姿のいかに相手の に映ずるかを するのほか、何らの表情をも し得ぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる わざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと めている。
今余が面前に
と現われたる姿には、一塵もこの の眼に ぎるものを帯びておらぬ。常の人の える を脱ぎ捨てたる と云えばすでに に する。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる の姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。室を
むる湯煙は、埋めつくしたる から、絶えず き上がる。春の の を半透明に し拡げて、部屋一面の の世界が かに揺れるなかに、 と、黒きかとも思わるるほどの髪を して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その を見よ。を く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る を ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に く。 に受くる のこのたびは、立て直して、長きうねりの につく頃、 たき足が、すべての を、二枚の に安々と始末する。世の中にこれほど した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の
のなかに として、 の美を しくもほのめかしているに過ぎぬ。 を の に点じて、 なる調子とを えている。六々三十六 を丁寧に描きたる の、 に落つるが事実ならば、 の肉を に眺めぬうちに神往の はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、 の を逃れた の が、 の に取り囲まれて、しばらく する姿と めた。輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの
が、あわれ、俗界に堕落するよと思う に、緑の髪は、波を切る の尾のごとくに風を起して、 と いた。 く煙りを いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に へ く。余はがぶりと湯を んだまま の中に つ。驚いた波が、胸へあたる。 を越す の音がさあさあと鳴る。
八[編集]
御茶の
になる。 は僧一人、 の で名は と云うそうだ。 一人、二十四五の若い男である。老人の部屋は、余が
の廊下を右へ突き当って、左へ折れた き りにある。 さは六畳もあろう。大きな の机を真中に えてあるから、思ったより狭苦しい。それへと云う席を見ると、 の代りに が敷いてある。無論支那製だろう。真中を六角に って、妙な家と、妙な柳が織り出してある。 は鉄色に近い で、 に の模様を飾った茶の を染め抜いてある。支那ではこれを座敷に用いたものか疑わしいが、こうやって布団に代用して見るとすこぶる面白い。 の とか、ペルシャの とか号するものが、ちょっと が抜けているところに価値があるごとく、この花毯もこせつかないところに がある。花毯ばかりではない、すべて支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに、ぼおっとするところが とい。日本は りの態度で美術品を作る。西洋は大きくて かくて、そうしてどこまでも がとれない。まずこう考えながら席に着く。若い男は余とならんで、花毯の を占領した。和尚は虎の皮の上へ坐った。虎の皮の尻尾が余の
の傍を通り越して、頭は老人の の下に敷かれている。老人は頭の毛をことごとく抜いて、頬と へ移植したように、白い をむしゃむしゃと やして、 へ せた茶碗を丁寧に机の上へならべる。「
は久し振りで、うちへ御客が見えたから、御茶を上げようと思って、……」と坊さんの方を向くと、「いや、
をありがとう。わしも、だいぶ をしたから、今日ぐらい来て見ようかと思っとったところじゃ」と云う。この僧は六十近い、丸顔の、 を に したような を有している。老人とは からの と見える。「この
が御客さんかな」老人は
ながら、 の から、緑を含む の を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い りがかすかに鼻を う気分がした。「こんな
に では しかろ」と はすぐ余に話しかけた。「はああ」となんともかとも要領を得ぬ返事をする。
しいと云えば、 りである。淋しからずと云えば、長い説明が入る。「なんの、和尚さん。このかたは
を書かれるために来られたのじゃから、 がしいくらいじゃ」「おお
か、それは結構だ。やはり かな」「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。
「いや、例の西洋画じゃ」と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。
「ははあ、洋画か。すると、あの
さんのやられるようなものかな。あれは、わしこの間始めて見たが、随分奇麗にかけたのう」「いえ、詰らんものです」と若い男がこの時ようやく口を開いた。
「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」と老人が若い男に聞く。言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。
「なあに、見ていただいたんじゃないですが、
が で写生しているところを和尚さんに見つかったのです」「ふん、そうか――さあ御茶が
げたから、一杯」と老人は茶碗を の前に置く。茶の量は三四滴に過ぎぬが、茶碗はすこぶる大きい。 の地へ、 げた と、薄い で、絵だか、模様だか、鬼の面の模様になりかかったところか、ちょっと見当のつかないものが、べたに いてある。「
です」と老人が簡単に説明した。「これは面白い」と余も簡単に
めた。「杢兵衛はどうも
が多くて、――その を見て御覧なさい。 があるから」と云う。取り上げて、
の方へ向けて見る。障子には植木鉢の の影が暖かそうに写っている。首を げて、 き込むと、 の字が小さく見える。銘は観賞の上において、さのみ大切のものとは思わないが、 はよほどこれが気にかかるそうだ。茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く く、 に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して って見るのは の である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。 へぽたりと せて、清いものが四方へ散れば へ るべき液はほとんどない。ただ たる が食道から胃のなかへ み渡るのみである。歯を用いるは しい。水はあまりに軽い。 に至っては かなる事、 の を脱して、 を疲らすほどの さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。老人はいつの間にやら、
の菓子皿を出した。大きな を、かくまで薄く、かくまで規則正しく、 りぬいた の は驚ろくべきものと思う。すかして見ると春の日影は一面に し込んで、射し込んだまま、 がれ ずる を失ったような感じである。中には何も盛らぬがいい。「御客さんが、
を められたから、今日はちとばかり見せようと思うて、出して置きました」「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも
じゃ。時にあなた、西洋画では などはかけんものかな。かけるなら一つ頼みたいがな」かいてくれなら、かかぬ事もないが、この
の気に るか入らぬかわからない。せっかく骨を折って、西洋画は駄目だなどと云われては、骨の がない。「襖には向かないでしょう」
「向かんかな。そうさな、この
の久一さんの のようじゃ、少し 過ぎるかも知れん」「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、
かしがって する。「その何とか云う池はどこにあるんですか」と余は若い男に念のため尋ねて置く。
「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、
な所です。――なあに学校にいる時分、習ったから、退屈まぎれに、やって見ただけです」「観海寺と云うと……」
「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を
に しての――まあ 中にちょっと来て御覧。なに、ここからはつい五六丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじゃろうが」「いつか御邪魔に
ってもいいですか」「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は
さんが見えんようだが――どうかされたかな、隠居さん」「どこぞへ出ましたかな、
、御前の方へ行きはせんかな」「いいや、見えません」
「また
り散歩かな、ハハハハ。御那美さんはなかなか足が強い。この 法用で まで行ったら、 の所で――どうも、善く似とると思ったら、御那美さんよ。尻を って、 を いて、 さん、何をぐずぐず、どこへ行きなさると、いきなり、驚ろかされたて、ハハハハ。御前はそんな で どこへ、行ったのぞいと聴くと、今 みに行った戻りじゃ、和尚さん少しやろうかと云うて、いきなりわしの へ だらけの芹を押し込んで、ハハハハハ」「どうも、……」と老人は
いをしたが、急に立って「実はこれを御覧に入れるつもりで」と話をまた道具の方へそらした。老人が
の書架から、 しく取り した の古い袋は、何だか重そうなものである。「和尚さん、あなたには、御目に
けた事があったかな」「なんじゃ、一体」
「
よ」「へえ、どんな硯かい」
「
の愛蔵したと云う……」「いいえ、そりゃまだ見ん」
「
の替え がついて……」「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、
の四角な石が、ちらりと を見せる。「いい
じゃのう。 かい」「端渓で
が つある」「九つ?」と和尚
に感じた様子である。「これが春水の替え蓋」と老人は
で張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で が書いてある。「なるほど。春水はようかく。ようかくが、
は の方が じゃて」「やはり杏坪の方がいいかな」
「
が一番まずいようだ。どうも で があって、いっこう面白うない」「ハハハハ。
さんは、山陽が いだから、今日は山陽の を懸け えて置いた」「ほんに」と和尚さんは
ろを振り向く。 は を鏡のようにふき込んで、 を吹いた には、 を二尺の高さに、 けてある。 は底光りのある に、 の を めた の である。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、 が せて、 が沈んで、 なところが り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。 の に、白い の が って、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、 全体の は落ちつき過ぎてむしろ陰気である。「
かな」と が、首を向けたまま云う。「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方が
かにいい。 頃の学者の字はまずくても、どこぞに がある」「
をして日本の ならしめば、われはすなわち漢人の なるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」「わしは知らん。そう
るほどの字でもないて、ワハハハハ」「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。
は本も読まず、 もせんから、のう」「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に
の字を、少し した事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその を一つ御見せ」と和尚が催促する。とうとう
の袋を取り ける。一座の視線はことごとく の上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまず と云ってよろしい。 には、 のかたに きをかけた松の皮をそのまま用いて、上には で、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる
があろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を
げて、「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。
が広島におった時に庭に生えていた松の皮を いで山陽が手ずから製したのですよ」なるほど
は俗な男だと思ったから、「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの
のかたなどをぴかぴか ぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って けた。「ワハハハハ。そうよ、この
はあまり安っぽいようだな」と はたちまち余に賛成した。若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の
に蓋を払いのけた。下からいよいよ が をあらわす。もしこの硯について人の眼を
つべき特異の点があるとすれば、その表面にあらわれたる の である。 に ほどな丸い肉が、 とすれすれの高さに り残されて、これを の に どる。中央から四方に向って、八本の足が して走ると見れば、先には を えている。残る一個は背の真中に、 な をしたたらしたごとく んで見える。背と足と縁を残して余る部分はほとんど一寸余の深さに掘り下げてある。墨を える所は、よもやこの の底ではあるまい。たとい一合の水を注ぐともこの深さを たすには足らぬ。思うに の から、一滴の水を にて、 の背に落したるを、 き墨に り去るのだろう。それでなければ、名は硯でも、その実は純然たる の装飾品に過ぎぬ。老人は
の出そうな口をして云う。「この
と、この を見て下さい」なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く
を帯びたる肌の上に、はっと、 けたなら、 ちに って、 の雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。眼の色と云わんより、眼と地の わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど の かれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の の奥に、 を、 いて見えるほどの深さに め込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど はあるまい。しかもその九個が整然と同距離に されて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の をもって許さざるを得ない。「なるほど結構です。
て心持がいいばかりじゃありません。こうして っても愉快です」と云いながら、余は隣りの若い男に硯を渡した。「
に、そんなものが解るかい」と老人が笑いながら聞いて見る。久一君は、 の気味で、「分りゃしません」と打ち
ったように云い放ったが、わからん硯を、自分の前へ置いて、 めていては、もったいないと気がついたものか、また取り上げて、余に返した。余はもう一 丁寧に で廻わした 、とうとうこれを しく に返却した。禅師はとくと の上で見済ました末、それでは き足らぬと考えたと見えて、 の着物の を容赦なく の背へこすりつけて、 の出た所をしきりに している。「隠居さん、どうもこの色が実に
いな。使うた事があるかの」「いいや、
には使いとう、ないから、まだ買うたなりじゃ」「そうじゃろ。こないなのは
でも珍らしかろうな、隠居さん」「
」「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」
「へへへへ。
を見つけないうちに、死んでしまいそうです」「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」
「
うちに立ちます」「隠居さん。吉田まで送って御やり」
「普段なら、年は取っとるし、まあ
すところじゃが、ことによると、もう えんかも、知れんから、送ってやろうと思うております」「
さんは送ってくれんでもいいです」若い男はこの老人の
と見える。なるほどどこか似ている。「なあに、送って貰うがいい。
で行けば訳はない。なあ隠居さん」「はい、
では難義だが、廻り路でも船なら……」若い男は今度は別に辞退もしない。ただ黙っている。
「支那の方へおいでですか」と余はちょっと聞いて見た。
「ええ」
ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから
えた。 を見ると、 の影が少し位置を変えている。「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」
老人は当人に代って、満洲の
に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に げた。この夢のような詩のような春の里に、 くは鳥、落つるは花、 くは のみと思い めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、 の のみ住み古るしたる孤村にまで る。 の を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から る時が来るかも知れない。この青年の腰に る長き の先から煙りとなって吹くかも知れない。しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。その鼓動のうちには、百里の平野を く高き が今すでに響いているかも知れぬ。運命は としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。
九[編集]
「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、
に りつけた、書物の一冊を いて読んでいた。「
りなさい。ちっとも構いません」女は遠慮する
もなく、つかつかと這入る。くすんだ の中から、 のいい の色が、あざやかに、 き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう
けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な
だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と
しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。「好きだか、
だか自分にも解らないんじゃないですか」「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の
を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の は少しも動かない。「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。
に」放した はまたそれかかる。すこしも油断がならん。「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、
れたの、 れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから
なんぞになれるんですね」「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ
しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」「すると
な惚れ方をするのが画工なんですね」「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、
を引くように、ぱっと けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。
だって話にしちゃ一文の もなくなるじゃありませんか」「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
これも
だろうと思ったから、余は女の に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。 く女ももとより非人情で聴いている。「
けの風が女から吹く。声から、眼から、 から吹く。男に けられて に行く女は、夕暮のヴェニスを むるためか、扶くる男はわが に の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」「よござんすとも。御都合次第で、
しなすっても構いません」「女は男とならんで
に る。二人の りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」「ドージとは何です」
「何だって構やしません。
しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと
になってしまうです」「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも
がない」「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く
の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。 の空のなかに き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く えたる が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に の苦しみを与う。男と女は暗き湾の に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに ぐ海は を がず。男は女の手を る。鳴りやまぬ を握った である。……」「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし
なら少々略しましょうか」「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく
ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」「読みにくければ、
しなさい」「ええ、いい加減にやりましょう。――この
と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、 を重ねてこそと云う」「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める
なんです。――真夜中の に帆綱を枕にして わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を と りたる瞬時が のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、 いられたる結婚の より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を ずる。――」「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ
である。 われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
と音がして山の がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす に、机の上の に けた、 がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、 を して余の机に りかかる。 の がすれすれに動く。キキーと どい をして一羽の が の中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを
せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の が余の にさわった。「非人情ですよ」と女はたちまち
を正しながら と云う。「無論」と
に余は答えた。岩の
みに えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと く いている。地盤の響きに、 の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、 けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を していた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を っているところが非常に面白い。「こいつは愉快だ。
で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなた、だって
な方じゃありますまい。 の なんか……」と言いかけると、「何か
をちょうだい」と女は急に えるように云った。「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
「
をなさった の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」余は何と答えてよいやらちょっと
が出なかった。女はすかさず、「そんな忘れっぽい人に、いくら
をつくしても駄目ですわねえ」と けるごとく、 むがごとく、また から切りつけるがごとく二の矢をついだ。だんだん がわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか を見出しにくい。「じゃ
の風呂場も、全く御親切からなんですね」と どいところでようやく立て直す。女は黙っている。
「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の
もなかった。女は何喰わぬ顔で の額を めている。やがて、「
」と口のうちで静かに読み
って、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、「何ですって」
と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。
「その坊主にさっき
いましたよ」と地震に れた池の水のように円満な動き方をして見せる。「
の和尚ですか。 ってるでしょう」「西洋画で
をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分 のわからない事を云いますね」「それだから、あんなに肥れるんでしょう」
「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「
でしょう」「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが
な人ですね」「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは
しの ですが、今度戦地へ行くので、 に来たのです」「ここに
って、いるんですか」「いいえ、兄の
におります」「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「御茶より
の方が なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。 が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」「あなたはどこへいらしったんです。
が聞いていましたぜ、また 散歩かって」「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「
にかくに好い所ですか」「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は
投げるかも知れません」余りに女としては思い切った
だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、
みてにこりと笑った。 たる事 。
十[編集]
鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は
に れて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の には が多い。ある所は、左右から い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な ちで、ところどころに岩が自然のまま に わっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に ねている。池をめぐりては
が多い。何百本あるか がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、 え出でた さえある。 の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。日本の菫は眠っている感じである。「
の奇想のように」、と形容した の句はとうていあてはまるまい。こう思う に余の足はとまった。足がとまれば、 になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の を と間違えて、 の親分たる に高い月俸を払う所である。余は草を
に太平の尻をそろりと した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると も もない代りには、人に って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。 や を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として 帝王の権威を し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の を に樹立している。天下の を いで、いたずらにタイモンの りを招くよりは、 を九 を百 に えて、 りその に する方が遥かに得策である。余は公平と云い と云う。さほど なものならば、日に千人の を して、 の草花を彼らの に うがよかろう。何だか
が に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。 から を出して、 をシュッと る。 はあったが火は見えない。 のさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。 は短かい草のなかで、しばらく のような細い煙りを吐いて、すぐ した。席をずらせてだんだん まで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を せば い水につくかも知れぬと云う で、とまる。水を いて見る。眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い
が、 して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の なら く事を知っている。 の草ならば う波の けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を えて、朝な夕なに、 らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、 の を の先に めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。
になると思ったから、眼の先へ、一つ り込んでやる。ぶくぶくと が二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、 ほどの長い髪が、 に揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。 。今度は思い切って、懸命に
へなげる。ぽかんと かに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう げる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。二間余りを
がりに登る。頭の上には大きな がかぶさって、 が急に寒くなる。向う岸の暗い所に が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、 で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は を、奥へ二三間 いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に として、かたまっている。その花が! 一日 しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を られた、 は何だか くなる。あれほど人を す花はない。余は を見るたびにいつでも の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、 たる毒を血管に吹く。 かれたと った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を すほどの やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。 として れる の には、ただ憐れな感じがする。冷やかに なる の には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし を帯びた調子である。この調子を底に持って、 はどこまでも派出に っている。しかも人に ぶる もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ 見たが最後! 見た人は彼女の魔力から 、 るる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。 られたる の血が、 ずから人の眼を いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。
れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、 のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。 落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ に、落ちた椿のために、 もれて、元の に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、 のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を
んで、ぼんやり考え込む。 の さんが に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は にのる一枚の のように揺れる。あの顔を にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが でかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを ち わしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。 ほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも しくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、 ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り える訳に行かない。あれに{{Ruby|嫉妒では不安の感が多過ぎる。 はどうだろう。憎悪は げし過ぎる。 ? 怒では全然調和を破る。 ? 恨でも とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある のうちで、 れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある の衝動で、この情があの女の にひらめいた瞬時に、わが は するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする と、勝とう、勝とうと る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。がさりがさりと足音がする。
の図案は三 二で れた。見ると、 を着た男が、 へ を せて、 のなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。「よい御天気で」と
をとって する。腰を める に、三尺帯に した の がぴかりと光った。四十 の しい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように しい。「
も画を きなさるか」余の絵の具箱は けてあった。「ああ。この池でも
こうと思って来て見たが、 しい所だね。誰も通らない」「はあい。まことに山の中で……旦那あ、
で られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」「え? うん
はあの時の さんだね」「はあい。こうやって
を切っては へ持って出ます」と源兵衛は荷を して、その上へ腰をかける。 を出す。古いものだ。紙だか だか分らない。余は を してやる。「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。
に一 、ことによると くらいになります」「四日に一
でも御免だ」「アハハハハ。馬が
ですから四日目くらいにして置きます」「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、
の嬢様が、身を投げた時分からありますよ」「志保田って、あの
のかい」「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、
の が来て……」「梵論字と云うと
の事かい」「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の
へ しているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を めて―― と申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は
にはならんと云うて。とうとう追い出しました」「その〈[#ルビの「こもそう」は底本では「こむそう」]〉をかい」
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに
しからん事でござんす」「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、
が出来ます」「へええ」
「全く
りでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が します」「ハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの
がやはり少し変でな」「うちにいるのかい」
「いいえ、去年
くなりました」「ふん」と余は煙草の
から細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は を にして去る。をかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、 かかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも をとって行こう。 、向側の景色は、あれなりで まっている。あすこでも し にちょっと こう。
一丈余りの
い岩が、 に池の底から突き出して、 き水の折れ曲る に、 と構える右側には、例の が の上から まで、 の なく している。上には ほどの大きな松が、 にからまれた幹を、 めに って、半分以上水の へ乗り出している。鏡を にした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。に を えて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと まるるくらい、 やかに水底まで写っている。松に至っては空に ゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい りがつかない。 の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう をしたものだろうと、一心に池の を見詰める。
奇体なもので、影だけ
めていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の を、影の先から、水際の まで眺めて、継目から次第に水の上に出る。 の から、 の模様を してだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の が今 の きに達したるとき、余は に まれた のごとく、はたりと を取り落した。りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を どる中に、 として織り出されたる女の顔は、―― に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、 に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余が視線は、
き女の顔の にぐさと けにされたぎり動かない。女もしなやかなる を せるだけ伸して、高い の上に一指も動かさずに立っている。この !余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は
を めて、 かに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。また驚かされた。
十一[編集]
の に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら 一二三と云う句を得た。余は別に に逢う用事もない。逢うて雑話をする気もない。偶然と宿を でて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、ついこの の下に出た。しばらく と云う石を でて立っていたが、急にうれしくなって、登り出したのである。
トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の
に うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも で る。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。したがって責任は著者にはないそうだ。余が散歩もまたこの流儀を んだ、無責任の散歩である。ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。スターンは自分の責任を れると同時にこれを在天の神に した。引き受けてくれる神を持たぬ余はついにこれを の中に てた。石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登って
むとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。 として、吾影を見る。 に られて三段に切れているのは妙だ。妙だからまた登る。仰いで天を望む。寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに きをする。句になると思って、また登る。かくして、余はとうとう、上まで登り詰めた。石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる
なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか の であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、 な を着た、頭の の開いた坊主が出て来た。余は る、坊主は る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ なさると問うた。余はただ を拝見にと答えて、同時に足を めたら、坊主は ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり だから、余は少しく を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、ついに姿を杉の木の間に隠した。その かつて一度も振り返った事はない。なるほど禅僧は面白い。きびきびしているなと、のっそり山門を って、見ると、広い も本堂も、がらんとして、人影はまるでない。余はその時に心からうれしく感じた。世の中にこんな な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が した。 を心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の が気に入ったのである。世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな
で っている。元来何しに世の中へ を しているんだか、 しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の に をつけて、人のひる の をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、 ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は 勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は し えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興
れば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当 の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは の方針である。一二三の句を得て、 を登りつくしたる時、 にひかる春の海が帯のごとくに見えた。山門を入る。 は める気にならなくなった。即座にやめにする方針を立てる。
石を
んで に通ずる一筋道の右側は、岡つつじの で、垣の は墓場であろう。左は本堂だ。 が高い所で、 かに光る。数万の に、数万の月が落ちたようだと る。どこやらで鳩の声がしきりにする。 の下にでも住んでいるらしい。気のせいか、 のあたりに白いものが、点々見える。 かも知れぬ。れ落ちの所に、妙な影が一列に並んでいる。木とも見えぬ、草では無論ない。感じから云うと のかいた、 の が、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。本堂の から端まで、一列に行儀よく並んで っている。その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。 にそそのかされて、 も も、 も打ちすてて、 い せるや否やこの へ踊りに来たのだろう。
近寄って見ると大きな
である。高さは七八尺もあろう、 ほどな青い を、 のように しひしゃげて、 の方を下に、上へ上へと ぎ せたように見える。あの杓子がいくつ がったら、おしまいになるのか分らない。今夜のうちにも を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。杓子と杓子の連続がいかにも である。こんな な はたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなるこれ と問われて、 の と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、 の と えるであろう。、 と云う人の記行文を読んで、いまだに している句がある。「時に九月天高く露清く、山 しく、月 かに、仰いで を れば 、たまたま人の上にあるがごとし、 の 数十 、相 して声 やまず。 の として の の のごとし。二三子 み、 動いて るを得ず。 皆去る」とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。この も時と場合によれば、余の を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。 に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。
を行き尽くして左へ折れると へ出る。庫裏の前に大きな がある。ほとんど と もあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があればなお見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに いている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。花さえ かである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまで がって、どこまで咲いているか分らぬ。それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が と望まれる。花の色は無論純白ではない。いたずらに白いのは寒過ぎる。 らに白いのは、ことさらに人の眼を奪う みが見える。木蓮の色はそれではない。極度の白きをわざと けて、あたたかみのある に、 しくも らを している。余は の上に立って、このおとなしい花が とどこまでも に る を見上げて、しばらく としていた。眼に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。
木蓮の花ばかりなる空を
ると云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
庫裏に入る。庫裏は明け放してある。
はおらぬ国と見える。 はもとより えぬ。「御免」
と
れる。 として返事がない。「頼む」
と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。
「頼みまああす」と大きな声を出す。
「おおおおおおお」と遥かの
で答えたものがある。人の家を うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。やがて足音が廊下へ響くと、 の影が、 の向側にさした。小坊主がひょこりとあらわれる。 であった。「
さんはおいでかい」「おられる。何しにござった」
「温泉にいる
が来たと、 でおくれ」「画工さんか。それじゃ
り」「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう
えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを って、半紙を四つ切りにした上へ、何か めてある。「そおら。読めたろ。
を見よ、と書いてあるが」「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
和尚の
は廊下を の に って、本堂の横手にある。 を しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、「あのう、
から、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の である。余はちょっとおかしくなった。「そうか、これへ」
余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に
を切って、 が鳴る。和尚は向側に をしていた。「さあこれへ」と
をはずして、書物を へおしやる。「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「
を上げんか」「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、
の向うは、すぐ と見えて、眼の下に の海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。 がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に けるつもりだろう。「これはいい景色。
さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「
見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」「ハハハハ。もっともあなたは
だから、わしとは少し違うて」「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほどそれもそうじゃろ。わしも
の ぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この は先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」なるほど達磨の画が小さい
に掛っている。しかし画としてはすこぶるまずいものだ。ただ がない。 を おうと めているところが一つもない。無邪気な画だ。この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。「無邪気な画ですね」
「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。
さえあらわれておれば……」「上手で俗気があるのより、いいです」
「ははははまあ、そうでも、
めて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」「画工の博士はありませんよ」
「あ、そうか。この間、何でも博士に一人
うた」「へええ」
「博士と云うとえらいものじゃろな」
「ええ。えらいんでしょう」
「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」
「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」
「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」
「どこで御逢いです、東京ですか」
「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」
「つまらんものですよ。やかましくって」
「そうかな。
日に え、 月に ぐと云うから、わしのような は、かえって困るかも知れんてのう」「困りゃしませんがね。つまらんですよ」
「そうかな」
の口から煙が に出る。 は から茶器を取り出して、茶を いでくれる。
「番茶を一つ
り。志保田の隠居さんのような い茶じゃない」「いえ結構です」
「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり
をかくためかの」「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」
「はあ、それじゃ遊び半分かの」
「そうですね。そう云っても
いでしょう。 の をされるのが、いやですからね」さすがの禅僧も、この語だけは
しかねたと見える。「屁の勘定た何かな」
「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」
「どうして」
「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、
の穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」「はあ、やはり衛生の方かな」
「衛生じゃありません。
の方です」「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」
「そうですね、
には りませんね」「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の
になった事がない」「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。
ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に
をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの
っている、志保田の御那美さんも、嫁に って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような のわかった女になったじゃて」「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか
の どい女で――わしの所へ修業に来ていた と云う も、あの女のために、ふとした事から を せんならん に して――今によい になるようじゃ」静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに
うるがごとく、応えざるがごとく、 のうちに かなる、 きを放つ。 は明滅す。「あの松の影を御覧」
「
ですな」「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
茶碗に余った渋茶を飲み干して、
を上に、 へ伏せて、立ち上る。「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が
だぞよ」送られて、
を出ると、鳩がくううくううと鳴く。「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
月はいよいよ明るい。しんしんとして、
は の を に たる の に、和尚ははたと を つ。声は に死して一羽の鳩も下りぬ。「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、
の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。
十二[編集]
は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は と云う名のほとんど すべからざる の を掛けて、ようできたなどと得意である。彼は に博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも くものと思っている。それにも わらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない のように行き抜けである。何にも しておらん。 に動き去り、 に し去って、 の の腹部に する がない。もし彼の に一点の趣味を し得たならば、彼は く所に同化して、 の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に の数を される間は、とうてい画家にはなれない。 に向う事は出来る。 を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする のなかに五尺の を めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの に入れば美の天下はわが有に帰する。 を染めず、 を塗らざるも、われは第一流の大画工である。 において、ミケルアンゼロに及ばず、 みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と を ゅうして、 も るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の もかかない。絵の具箱は に、 いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
をすまして、一本の をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は を離れて高く っている。 をあけて、 ろの山を めたら、 い が非常にすき通って、例になく やかに見えた。
余は常に空気と、物象と、彩色の関係を
でもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの 一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、 ずから制限されるのもまた である。英国人のかいた に明るいものは一つもない。明るい画が なのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の をかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に っている、 または の光景のみを んでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい 出来上っている。個人の
はどうする事も出来ん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、 もまた日本固有の空気と色を出さなければならん。いくら の絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の だとは云われない。やはり のあたり自然に接して、朝な夕なに を研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ を担いで飛び出さなければならん。色は に移る。一たび機を すれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。余が今見上げた山の には、 にこの辺で見る事の出来ないほどな い色が ちている。せっかく来て、あれを すのは惜しいものだ。ちょっと写してきよう。をあけて、 へ出ると、向う二階の に身を たして、那美さんが立っている。 を のなかへ めて、横顔だけしか見えぬ。余が をしようと思う に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。 くは か、 れ れ胸のあたりを、するりと走るや や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九 五 の がある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから を いた気で宿を出る。
門を出て、左へ切れると、すぐ
つづきの、 りになる。 が で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、 が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、 でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、 の上で妙な の をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに の音がする。何だと聞いたら、 が をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。あの女を役者にしたら、立派な
が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、 芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。 に芝居をしている。あんなのを とでも云うのだろう。あの女の で の修業がだいぶ出来た。あの女の
を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に って、余とあの女の間に した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の から、あの女を いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。こんな
をもつ余を、誤解してはならん。社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも きである。善は行い難い、徳は こしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは に取っても苦痛である。その苦痛を すためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに んでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この のうちに る快感の別号に過ぎん。この きを解し得て、始めて の所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、すべての困苦に打ち勝って、胸中の一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛 の心を って、人道のために、 に らるるを面白く思う。もし人情なる き立脚地に立って、芸術の定義を下し得るとすれば、芸術は、われら教育ある士人の に んで、 を け に き、 を け にくみし、 を け を かねば、どうしても えられぬと云う一念の結晶して、 として を射返すものである。芝居気があると人の行為を笑う事がある。うつくしき趣味を
かんがために、不必要なる犠牲をあえてするの人情に遠きを うのである。自然にうつくしき性格を発揮するの機会を待たずして、無理矢理に自己の趣味観を うの を笑うのである。真に の消息を解し得たるものの嗤うはその意を得ている。趣味の何物たるをも心得ぬ の、わが しき心根に比較して を しむに至っては許しがたい。昔し の を して、五十丈の を直下して に いた青年がある。余の るところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものは に壮烈である、ただその死を がすの動機に至っては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして の を嗤い得べき。彼らは壮烈の最後を ぐるの情趣を い得ざるが に、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に
するも、東西両隣りの よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、 なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの
に人情界に帰る必要はない。あってはせっかくの旅が無駄になる。人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にあまる、うつくしい のみを眺めて暮さなければならぬ。余 らも社会の一員をもって任じてはおらぬ。純粋なる専門画家として、 れさえ、 たる利害の を絶って、 に に往来している。いわんや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作といえどもただそのままの姿と見るよりほかに致し方がない。三丁ほど
ると、向うに白壁の が見える。 のなかの だなと思う。道は間もなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い をした娘が ってくる。腰巻がしだいに尽きて、下から茶色の が出る。脛が ったら、 になって、その藁草履がだんだん動いて来る。頭の上に山桜が落ちかかる。背中には光る海を ている。を登り切ると、山の の な所へ出た。北側は りを む春の峰で、今朝 から仰いだあたりかも知れない。南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁ほど広がって、末は れた となる。崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を いで を見れば、眼に入るものは言わずも知れた である。
は幾筋もあるが、合うては別れ、別れては合うから、どれが本筋とも認められぬ。どれも路である代りに、どれも路でない。草のなかに、黒赤い地が、見えたり隠れたりして、どの筋につながるか のつかぬところに変化があって面白い。
どこへ腰を
えたものかと、草のなかを と する。 から見たときは になると思った景色も、いざとなると存外 まらない。色もしだいに変ってくる。草原をのそつくうちに、いつしか く気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも った所がわが である。 み込んだ春の日が、深く草の根に って、どっかと尻を すと、眼に入らぬ を み したような心持ちがする。海は足の下に光る。遮ぎる雲の
さえ持たぬ春の日影は、 ねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで み渡ったと思わるるほど暖かに見える。色は の を平らに流したる所々に、しろかねの を畳んで やかに動いている。春の日は限り無き が を照らして、天が下は限りなき水を えたる間には、白き帆が小指の ほどに見えるのみである。しかもその帆は全く動かない。 の が遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。そのほかは 世界を めて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。ごろりと
る。帽子が をすべって、やけに となる。所々の草を一二尺 いて、 の小株が茂っている。余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。 は面白い花である。枝は で、かつて った事がない。そんなら かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、 に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、 だか白だか要領を得ぬ花が と咲く。 かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、 かにして ったものであろう。世間には を守ると云う人がある。この人が に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。小供のうち花の咲いた、葉のついた
を切って、面白く を作って、 をこしらえた事がある。それへ二銭五厘の を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、 するのを机へ せて楽んだ。その日は の ばかり気にして寝た。あくる日、眼が めるや や、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は え葉は枯れて、白い穂だけが元のごとく光っている。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は の念に えなかった。今思うとその時分の方がよほど である。るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。また詩興が浮ぶ。
寝ながら考える。一句を得るごとに写生帖に
して行く。しばらくして出来上ったようだ。始めから読み直して見る。出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停笻而矚目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛霏。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹緲忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。
ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を
て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の が聞えた。こいつは驚いた。りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、 の間から、一人の男があらわれた。
茶の
れを っている。中折れの形は れて、 く の下から眼が見える。眼の はわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。 の の尻を って、 に下駄がけの で ちは、何だか鑑定がつかない。 の だけで判断するとまさに の価値はある。男は
を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの に住んでいるとも考えられない。男は時々立ち る。首を傾ける。または四方を見廻わす。大に考え込むようにもある。人を待ち合せる風にも取られる。何だかわからない。余はこの
な男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また にしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に された。二人は
で互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん まって、原の真中で一点の き間に まれてしまう。二人は春の山を に、春の海を前に、ぴたりと向き合った。男は無論例の
である。相手は? 相手は女である。 さんである。余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや
に んでおりはせぬかと思ったら、さすが の余もただ、ひやりとした。男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く
は見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を れた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。山では
が く。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は と、垂れた首を挙げて、 ば を らしかける。尋常の ではない。女は と体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは らしい。男は として、行きかかる。女は ばかり、男の踵を うて進む。女は ばきである。男の ったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の は帯の間へ落ちた。あぶない!するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、
のような包み物である。差し出した白い手の下から、長い がふらふらと に揺れる。片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い
に、紫の包。これだけの姿勢で充分 にはなろう。紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の
のこなし具合で、うまい につながれている。 とはこの の有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度で、男は えに引かれた様子だ。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の は紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。二人の姿勢がかくのごとく
な調和を っていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。のずんぐりした、色黒の、 づらと、くっきり った に、 の長い、 の、 姿。ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、 の さえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく り身に控えたる 。はげた茶の帽子に、 の り ちと、 さえ燃やすべき の通った の色に、 のひかる奥から、ちらりと見せた の、なまめかしさ。すべてが である。
男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ
みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。二人は左右へ分かれる。双方に
がないから、もう画としては、 である。 の入口で男は一度振り返った。女は をも見ぬ。すらすらと、こちらへ てくる。やがて余の まで来て、「先生、先生」
と
掛けた。これはしたり、いつ かったろう。「何です」
と余は
の上へ顔を出す。帽子は草原へ落ちた。「何をそんな所でしていらっしゃる」
「詩を作って
ていました」「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」
「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」
「実のところはたくさん拝見しました」
「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」
余は
として木瓜の中から出て行く。「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃごいっしょに参りましょうか」
「ええ」
余は再び唯々として、木瓜の中に
いて、帽子を り、絵の道具を めて、那美さんといっしょにあるき出す。「画を御描きになったの」
「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」
「なにつまってるんです」
「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ
いたって、描かなくったって、つまるところは じ事でさあ」「そりゃ
なの、ホホホホ随分 ですねえ」「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た
がないじゃありませんか」「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても
かしくも何とも思いません」「思わんでもいいでしょう」
「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」
「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」
「ホホホ
くあたりました。あなたは いの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」「へえ、どこから来たのです」
「
から来ました」「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「何でも満洲へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、
かなる笑の影が消えかかりつつある。意味は せぬ。「あれは、わたくしの亭主です」
を うに あらず、女は突然として 浴びせかけた。余は全く を った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで け出そうとは考えていなかった。
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。
「ええ、少々驚ろいた」
「今の亭主じゃありません、
された亭主です」「なるほど、それで……」
「それぎりです」
「そうですか。――あの
に立派な白壁の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の なんですか」「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」
「用でもあるんですか」
「ええちっと頼まれものがあります」
「いっしょに行きましょう」
の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、 が三四本あって、 の下はすぐ蜜柑畠である。
女はすぐ、
へ腰をかけて、云う。「いい景色だ。御覧なさい」
「なるほど、いいですな」
障子のうちは、静かに人の
もせぬ。女は のう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を して平気でいる。余は不思議に思った。元来何の用があるのかしら。しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。
に る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、 し されて やいている。やがて、裏の の方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く。「おやもう。
ですね。用事を忘れていた。―― さん、久一さん」女は
び になって、立て切った を、からりと ける。内は しき十畳敷に、 の が空しく春の を飾っている。「久一さん」
の方でようやく返事がする。足音が の でとまって、からりと、 くが早いか、 の が畳の上へ がり出す。
「そら
さんの だよ」帯の間に、いつ手が
ったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの へ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一 ばかり光った。
十三[編集]
で久一さんを吉田の まで見送る。舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論 に過ぎん。
御招伴でも呼ばれれば行く。何の意味だか分らなくても行く。非人情の旅に思慮は入らぬ。舟は
に をつけたように、底が たい。老人を中に、余と那美さんが 、久一さんと、兄さんが、 に座をとった。源兵衛は荷物と共に り離れている。「久一さん、
さは好きか嫌いかい」と那美さんが聞く。「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」と戦争を知らぬ久一さんが云う。
「いくら苦しくっても、国家のためだから」と老人が云う。
「短刀なんぞ貰うと、ちょっと戦争に出て見たくなりゃしないか」と女がまた妙な事を聞く。久一さんは、
「そうさね」
と
く う。老人は を げて笑う。兄さんは知らぬ顔をしている。「そんな平気な事で、
さが出来るかい」と女は、 構わず、白い顔を久一さんの前へ突き出す。久一さんと、兄さんがちょっと眼を見合せた。「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの
とも見えない。「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ
がわるい」「そんな乱暴な事を――まあまあ、めでたく
をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ える」老人の言葉の尾を長く
と、尻が細くなって、末は涙の糸になる。ただ男だけにそこまではだまを出さない。久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
いで、一人の男がしきりに を見詰めている。一行の舟が、ゆるく を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の も る余地がない。一行の舟は静かに の前を通り越す。を通る人の数は、一 に何百か知らぬ。もし に立って、行く人の心に まる を一々に聞き得たならば、 は しくて生きづらかろう。ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから 日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは である。 り見ると、安心して を見詰めている。おおかた が済むまで見詰める気だろう。
はあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。 に って、水の上を って、どこまで行くか、春が尽きて、人が騒いで、 ち合せをしたがるところまで行かねばやまぬ。 き一点の血を に したるこの青年は、余ら一行を なく引いて行く。運命の はこの青年を遠き、暗き、 き北の国まで引くが に、ある日、ある月、ある年の に、この青年と みつけられたる らは、その因果の尽くるところまでこの青年に引かれて行かねばならぬ。因果の尽くるとき、彼と吾らの間にふっと音がして、彼一人は なしに運命の まで り寄せらるる。残る吾らも なしに残らねばならぬ。頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。
舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には
でも生えておりそうな。 の上には柳が多く見える。まばらに、低い家がその間から を出し。 けた窓を出し。時によると白い を出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。柳と柳の間に
と光るのは らしい。とんかたんと を織る音が聞える。とんかたんの から女の が、はああい、いようう――と水の上まで響く。何を唄うのやらいっこう分らぬ。「先生、わたくしの
をかいて下さいな」と那美さんが注文する。久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。老人はいつか居眠りをはじめた。「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、
春風にそら
け の銘は何と書いて見せる。女は笑いながら、
「こんな
がきでは、いけません。もっと私の の出るように、丁寧にかいて下さい」「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ
にならない」「
です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」
「足りないたって、持って生れた顔だから仕方がありませんわ」
「持って生れた顔はいろいろになるものです」
「自分の勝手にですか」
「ええ」
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」
「あなたが女だから、そんな馬鹿を云うのですよ」
「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」
「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」
女は黙って
をむく。 はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、 のげんげんで っている。 やかな の が、いつの雨に流されてか、半分 けた花の海は のなかに しなく広がって、見上げる には たる一 が から かに春の雲を吐いている。「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を
から外へ出して、夢のような春の山を す。「
はあの辺ですか」「あの
の濃い下の、紫に見える所がありましょう」「あの日影の所ですか」
「日影ですかしら。
げてるんでしょう」「なあに
んでるんですよ。禿げていりゃ、もっと茶に見えます」「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、
りはもう少し左りになりますね」「七曲りは、向うへ、ずっと
れます。あの山のまた一つ先きの山ですよ」「なるほどそうだった。しかし見当から云うと、あのうすい雲が
ってるあたりでしょう」「ええ、方角はあの
です」居眠をしていた老人は、
から、 を落して、ほいと眼をさます。「まだ着かんかな」
を前へ出して、右の を ろへ張って、左り手を真直に して、ううんと をするついでに、弓を く真似をして見せる。女はホホホと笑う。
「どうもこれが癖で、……」
「弓が
と見えますね」と余も笑いながら尋ねる。「若いうちは七分五厘まで引きました。
しは存外今でもたしかです」と左の肩を いて見せる。 では戦争談が である。舟はようやく町らしいなかへ
る。腰障子に と書いた居酒屋が見える。 な が見える。材木の置場が見える。人力車の音さえ時々聞える。 がちちと腹を返して飛ぶ。 ががあがあ鳴く。一行は舟を捨てて に向う。いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて
と通る。 け はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に の に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。 何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の である。 むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に みついて している。文明は個人に自由を与えて のごとく からしめたる後、これを の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を めて、 んでいると同様な平和である。 の鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。第二の はこの時に起るのであろう。個人の革命は今すでに に起りつつある。北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態についてつぶさにその例証を に与えた。余は汽車の猛烈に、 なく、すべての人を貨物同様に心得て走る を見るたびに、客車のうちに じ められたる個人と、個人の個性に の注意をだに払わざるこの とを比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を かれるくらい充満している。おさき に する汽車はあぶない標本の一つである。前の茶店に腰を下ろして、 を めながら汽車論を考えた。これは写生帖へかく訳にも行かず、人に話す必要もないから、だまって、餅を食いながら茶を飲む。
向うの
には二人かけている。等しく きで、一人は 、一人は の の に をあてて、継布のあたった所を手で抑えている。「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが
るくなりゃ、切ってしまえば済むから」この
は胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の いも知らぬ。現代文明の をも めぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿を き取った。じゃらんじゃらんと
が鳴る。 はすでに買うてある。「さあ、行きましょ」と那美さんが立つ。
「どうれ」と老人も立つ。一行は
って を通り抜けて、プラットフォームへ出る。 がしきりに鳴る。と音がして、白く光る鉄路の上を、文明の が て来る。文明の長蛇は口から黒い煙を吐く。
「いよいよ御別かれか」と老人が云う。
「それでは
よう」と久一さんが頭を下げる。「死んで
で」と那美さんが再び云う。「荷物は来たかい」と兄さんが聞く。
蛇は
の前でとまる。横腹の戸がいくつもあく。人が出たり、 ったりする。久一さんは乗った。老人も兄さんも、那美さんも、余もそとに立っている。車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では
の いの中で、人が働いている。そうして赤いものに って、むやみに ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、 の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり っているだけで、因果はもう切れかかっている。車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を
てながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに った。老人は思わず へ寄る。青年は窓から首を出す。「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、
のない の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、 の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。茶色のはげた中折帽の下から、
だらけな野武士が り に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を せた。 はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「 れ」が一面に浮いている。「それだ! それだ! それが出れば
になりますよ」と余は那美さんの肩を きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの の際に したのである。