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興津弥五右衛門の遺書

 某(それがし)儀明日年来の宿望(しゅくもう)相達し候(そろ)て、妙解院殿(みょうげいんでん)(松向寺殿)御墓前において首尾(しゅび)よく切腹いたし候(そろ)事(こと)と相成り候。しかれば子孫のため事の顛末(てんまつ)書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。

 某(それがし)祖父(そふ)は興津右兵衛景通(おきつうひょうえかげみち)と申(もうし)候(そろ)。永正(えいしょう)十一(十七)年駿河国(するがのくに)興津(おきつ)に生れ、今川治部大輔(いまがわじぶたいふ)殿に仕え、同国清見(きよみ)が関(せき)に住居いたし候。永禄(えいろく)三年五月二十日今川殿陣亡(じんぼう)遊ばされ候(そろ)時、景通(かげみち)も御供(おとも)いたし候。年齢四十一歳に候。法名(ほうみょう)は千山宗及居士(せんざんそうきゅうこじ)と申候。

 父才八(さいはち)は永禄元年出生候(そろ)て、三歳にして怙(ちち)を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五右衛門景一(やごえもんかげかず)と名告(なの)り、母の族なる播磨国(はりまのくに)の人佐野官十郎(さのかんじゅうろう)方に寄居いたしおり候。さてその縁故をもって赤松左兵衛督(あかまつさひょうえのかみ)殿に仕え、天正(てんしょう)九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿阿波国(あわのくに)を併(あわ)せ領せられ候に及びて、景一(かげかず)は三百石を加増せられ、阿波郡代(あわぐんだい)となり、同国渭津(いのつ)に住居いたし、慶長(けいちょう)の初まで勤続いたし候(そろ)。慶長五年七月赤松殿石田三成(いしだかずしげ)に荷担(かたん)いたされ、丹波国(たんばのくに)なる小野木縫殿介(おのぎぬいのすけ)とともに丹後国(たんごのくに)田辺城(たなべのしろ)を攻められ候。当時田辺城には松向寺(しょうこうじ)殿三斎忠興公(さんさいただおきこう)御立籠(おんたてこも)り遊ばされおり候(そろ)ところ、神君上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、跡(あと)には泰勝院殿幽斎藤孝(たいしょういんでんゆうさいふじたか)公御留守遊ばされ候。景一は京都赤松殿邸(やしき)にありし時、烏丸光広(からすまるみつひろ)卿と相識(そうしき)に相成りおり候(そろ)。これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子(ちゃくし)光賢(みつかた)卿に松向寺殿の御息女万姫君(まんひめぎみ)を妻(めあわ)せ居られ候(そろ)故(ゆえ)に候。さて景一光広卿を介(かい)して御当家御父子とも御心安く相成りおり候。田辺攻(たなべぜめ)の時、関東に御出(おんいで)遊ばされ候三斎公は、景一が外戚(がいせき)の従弟たる森三右衛門を使に田辺へ差立てられ候。森は田辺に着(ちゃく)いたし、景一に面会して御旨(おんむね)を伝え、景一はまた赤松家の物頭(ものがしら)井門亀右衛門(いかどかめえもん)と謀(はか)り、田辺城の妙庵丸櫓(みょうあんまるやぐら)へ矢文(やぶみ)を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣(や)り候。森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。この歳(とし)赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国(ぶぜんのくに)へ参り、慶長六年御当家に召抱(めしかか)えられ候(そろ)。元和(げんな)五年御当代光尚(みつひさ)公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君(ろくまるぎみ)と申候。景一は六丸君御附(おつき)と相成り候。元和(げんな)七年三斎公御致仕(ちし)遊ばされ候時、景一も剃髪(ていはつ)いたし、宗也(そうや)と名告(なの)り候。寛永(かんえい)九年十二月九日御先代妙解院殿忠利公(みょうげいんでんただとしこう)肥後(ひご)へ御入国遊ばされ候時、景一も御供(おんとも)いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去遊ばされ、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年(きょうねん)八十四歳に候。

 兄九郎兵衛一友(かずとも)は景一が嫡子にして、父につきて豊前(ぶぜん)へ参り、慶長十七年三斎公に召しいだされ、御次勤(おんつぎづとめ)仰(おおせ)つけられ、後病気により外様勤(とざまづとめ)と相成り候。妙解院殿の御代(おんだい)に至り、寛永十四年冬島原攻(しまばらぜめ)の御供いたし、翌十五年二月二十七日兼田弥一右衛門(かねたやいちえもん)とともに、御当家攻口(せめくち)の一番乗と名告り、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義心英立居士(ぎしんえいりゅうこじ)と申(もうし)候(そろ)。

 某(それがし)は文禄(ぶんろく)四(三)年景一が二男に生れ、幼名才助と申候。七歳の時父につきて豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召しいだされ候。元和七年三斎公致仕遊ばされ候時、父も剃髪いたし候(そうら)えば、某二十八歳にて弥五右衛門景吉(やごえもんかげよし)と名告り、三斎公の御供いたし候て、豊前国興津に参り候。

 寛永元年五月安南船(あんなんせん)長崎に到着候時、三斎公は御薙髪(ごていはつ)遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事(おんちゃじ)に御用(おんもち)いなされ候珍らしき品買い求め候様仰(おおせ)含められ、相役(あいやく)横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸なる事には異なる伽羅(きゃら)の大木渡来いたしおり候。然(しか)るところその伽羅に本木(もとき)と末木(うらき)との二つありて、はるばる仙台より差下(さしくだ)され候伊達権中納言(だてごんちゅうなごん)殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け互にせり合い、次第に値段をつけ上(あ)げ候。

 その時横田申(もうし)候(そろ)は、たとい主命なりとも、香木(こうぼく)は無用の翫物(がんぶつ)に有之(これあり)、過分の大金を擲(なげう)ち候(そろ)事(こと)は不可然(しかるべからず)、所詮(しょせん)本木を伊達家に譲り、末木を買求めたき由(よし)申候。某(それがし)申候は、某は左様には存じ申さず、主君の申つけられ候は、珍らしき品を買い求め参れとの事なるに、このたび渡来候(そろ)品の中にて、第一の珍物はかの伽羅に有之、その木に本末あれば、本木の方が尤物(ゆうぶつ)中の尤物たること勿論(もちろん)なり、それを手に入れてこそ主命を果すに当るべけれ、伊達家(だてけ)の伊達を増長致(いた)させ、本木を譲り候(そろ)ては、細川家の流(ながれ)を涜(けが)す事と相成り申すべくと申候(そろ)。横田嘲笑(あざわら)いて、それは力瘤(ちからこぶ)の入れどころが相違せり、一国一城を取るか遣(や)るかと申す場合ならば、飽(あ)くまで伊達家に楯(たて)をつくがよろしからん、高が四畳半の炉(ろ)にくべらるる木の切れならずや、それに大金を棄(す)てんこと存じも寄らず、主君御自身にてせり合われ候(そうら)わば、臣下として諫(いさ)め止(とど)め申すべき儀(ぎ)なり、たとい主君がしいて本木を手に入れたく思召(おぼしめ)されんとも、それを遂げさせ申す事、阿諛便佞(あゆべんねい)の所為(しょい)なるべしと申候(そろ)。当時三十一歳の某(それがし)、この詞(ことば)を聞きて立腹致し候えども、なお忍んで申候は、それはいかにも賢人らしき申条(もうしじょう)なり、さりながら某はただ主命と申(もうす)物(もの)が大切なるにて、主君あの城を落せと仰(おお)せられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍らしき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖(もと)り候事は格別、その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候。横田いよいよ嘲笑(あざわら)いて、お手前とてもその通り道に悖(もと)りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具などならば、大金に代(か)うとも惜しからじ、香木に不相応なる価(あたい)をいださんとせらるるは若輩(じゃくはい)の心得ちがいなりと申候。某申候は、武具と香木との相違は某若輩ながら心得居る、泰勝院殿(たいしょういんでん)の御代(おんだい)に、蒲生(がもう)殿申され候(そろ)は、細川家には結構なる御道具あまた有之(これある)由(よし)なれば拝見に罷出(まかりい)ずべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候(そろ)に、泰勝院殿は甲冑(かっちゅう)刀剣弓(ゆみ)鎗(やり)の類を陳(つら)ねて御見せなされ、蒲生殿意外に思(おぼ)されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致したく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先きには道具と仰(おお)せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば、それも少々持合せ候とて、はじめて御取(おんと)り出(いだ)しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心掛深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能(たんのう)に渡らせらるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀(さいし)も総(すべ)て虚礼なるべし、我等(われら)この度(たび)仰を受けたるは茶事に御用に立つべき珍らしき品を求むる外(ほか)他事なし、これが主命なれば、身命に懸(か)けても果さでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候(そろ)は、その道の御心得なき故(ゆえ)、一徹に左様思わるるならんと申候。横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者(ぶへんもの)なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差(わきざし)を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避(よ)け、刀は違棚(ちがいだな)の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、ただ一打に横田を討ち果たし候。

 かくて某は即時に伽羅(きゃら)の本木を買い取り、仲津(なかつ)へ持ち帰り候。伊達家の役人は是非(ぜひ)なく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申候は、主命大切と心得候ためとは申ながら、御役(おんやく)に立つべき侍(さむらい)一人討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹仰附(おおせつ)けられたくと申候。三斎公聞召(きこしめ)され、某に仰せられ候はその方が申条一々もっとも至極(しごく)せり、たとい香木は貴(とうと)からずとも、この方(ほう)が求め参れと申しつけたる珍品(ちんぴん)に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以(もっ)て物を視(み)候(そうら)わば、世の中に尊(とうと)き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候伽羅は早速焚(た)き試み候に、希代(きたい)の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公(ほととぎす)いつも初音(はつね)の心地(ここち)こそすれ」と申す古歌に本(もと)づき、銘を初音とつけたり、かほどの品を求め帰り候事天晴(あっぱれ)なり、ただし討(う)たれ候(そろ)横田清兵衛が子孫遺恨(いこん)を含(ふく)みいては相成らずと仰せられ候。かくて直ちに清兵衛が嫡子を召され、御前において盃(さかずき)を申付けられ、某は彼者(かのもの)と互に意趣を存ずまじき旨(むね)誓言(せいごん)いたし候。しかるに横田家の者どもとかく異志を存する由相聞え、ついに筑前国(ちくぜんのくに)へ罷越(まかりこ)し候(そろ)。某へは三斎公御名忠興(ただおき)の興(おき)の字を賜(たま)わり、沖津を興津と相改め候(そろ)様(よう)御沙汰(ごさた)有之候。

 これより二年目、寛永三年九月六日(むいか)主上(しゅじょう)二条の御城(おんしろ)へ行幸遊ばされ妙解院殿へかの名香を御所望有之(これあり)すなわちこれを献(けん)ぜらるる、主上叡感(えいかん)有りて「たぐひありと誰(たれ)かはいはむ末(すゑ)匀(にほ)ふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と名附(なづ)けさせ給(たもう)由(よし)承り候。某が買い求め候香木、畏(かしこ)くも至尊の御賞美を被(こうむ)り、御当家の誉(ほまれ)と相成り候事、存じ寄らざる儀(ぎ)と存じ、落涙候事に候。

 その後某は御先代妙解院殿よりも出格の御引立を蒙(こうむ)り、寛永九年御国替(おんくにがえ)の砌(みぎり)には、三斎公の御居城八代(やつしろ)に相詰(あいつ)め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ召具(めしぐ)せられ候(そろ)。しかるところ寛永一四年島原征伐の事有之(これあり)候。某をば妙解院殿御弟君中務少輔殿立孝公(なかつかさしょうゆうどのたつたかこう)の御旗本(おんはたもと)に加えられ御幟(おんのぼり)を御預けなされ候。十五年二月廿二日御当家御攻口(おんせめくち)にて、御幟を一番に入れ候時、銃丸左の股(もも)に中(あた)り、ようよう引き取り候。その時某四十五歳に候。手創(てきず)平癒(へいゆ)候て後、某は十六年に江戸詰(えどづめ)仰つけられ候(そろ)。

 寛永十八年妙解院殿存じ寄らざる御病気にて、御父上に先立(さきだち)、御卒去遊ばされ、当代肥後守殿光尚(ひごのかみどのみつひさ)公の御代(みよ)と相成り候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保(しょうほう)二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより先(さ)き寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城(わかばやしじょう)において御薨去(ごこうきょ)なされ候(そろ)。かの末木の香は「世の中の憂きを身に積む柴舟(しばふね)やたかぬ先よりこがれ行(ゆく)らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。

 某(それがし)つらつら先考御当家に奉仕(つかえたてまつり)候(そろ)てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引立を蒙(こうむ)りしは言うも更(さら)なり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造(さいぞう)の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。

 先年妙解院殿御卒去の砌(みぎり)には、十九人の者ども殉死(じゅんし)いたし、また一昨年松向寺殿御卒去の砌にも、簑田平七正元(みのたへいしちまさもと)、小野伝兵衛友次(おのでんべえともつぐ)、久野与右衛門宗直(くのよえもんむねなお)、宝泉院勝延行者(ほうせんいんしょうえんぎょうじゃ)の四人直ちに殉死いたし候。簑田は曾祖父(そうそふ)和泉(いずみ)と申す者相良遠江守(さがらとおとうみのかみ)殿の家老にて、主とともに陣亡し、祖父若狭(わかさ)、父牛之助流浪(るろう)せしに、平七は三斎公に五百石にて召し出(いだ)されしものに候。平七は二十三歳にて切腹し、小姓(こしょう)磯部長五郎介錯(かいしゃく)いたし候。小野は丹後国にて祖父今安太郎左衛門(いまやすたろざえもん)の代(だい)に召し出されしものなるが、父田中甚左衛門(じんざえもん)御旨(おんむね)に忤(さか)い、江戸御邸より逐電(ちくてん)したる時、御近習(ごきんじゅ)を勤めいたる伝兵衛に、父を尋ね出して参れ、もし尋ね出さずして帰り候わば、父の代りに処刑いたすべしと仰(おお)せられ、伝兵衛諸国を遍歴せしに廻り合わざる趣にて罷(まか)り帰り候。三斎公その時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと仰せられ候て、助命遊ばされ候。伝兵衛はこの恩義を思候(そろ)て、切腹いたし候。介錯(かいしゃく)は磯田(いそだ)十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺御籠城(ごろうじょう)の時功ありて、新知(しんち)百五十石賜(たま)わり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹(じんがいふき)の山伏(やまぶし)にて、筒井順慶(つついじゅんけい)の弟石井備後守吉村(いしいびんごのかみよしむら)が子に候(そろ)。介錯は入魂(じっこん)の山伏の由に候。

 某(それがし)はこれ等(ら)の事を見聞(みきき)候(そろ)につけ、いかにも羨(うらや)ましく技癢(ぎよう)に堪(た)えず候(そうら)えども、江戸詰御留守居の御用残りおり、他人には始末相成りがたく、空(むな)しく月日の立つに任せ候。然(しか)るところ松向寺殿御遺骸(ごいがい)は八代なる泰勝院にて荼毗(だび)せられしに、御遺言(ごゆいごん)により、去年正月十一日泰勝院専誉御遺骨(ごゆいこつ)を京都へ護送いたし候。御供には長岡河内景則(ながおかかわちかげのり)、加来作左衛門家次(かくさくざえもんいえつぐ)、山田三右衛門、佐方源左衛門秀信(さかたげんざえもんひでのぶ)、吉田兼庵(よしだけんあん)相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺(むらさきのだいとくじ)中高桐院(こうとういん)に御納骨いたし候。御生前において同寺清巌和尚(せいがんおしょう)に御約束有之(これあり)候趣に候。

 さて今年御用相片づき候えば、御当代に宿望言上いたし候(そろ)に、已(や)みがたき某が志を御聞届け遊ばされ候(そろ)〈[#ルビの「そろ」は底本では「それ」]〉。十月二十九日朝御暇乞(おんいとまごい)に参り、御振舞(おんふるまい)に預り、御手(おんて)ずから御茶を下され、引出物(ひきでもの)として九曜の紋(もん)赤裏の小袖二襲(ふたかさね)を賜(たま)わり候。退出候後、林外記(はやしげき)殿、藤崎作左衛門殿を御使として遣(つかわ)され後々の事心配致(いた)すまじき旨(むね)仰(おお)せられ、御歌を下され、又京都へ参らば、万事古橋小左衛門と相談して執り行えと懇(ねんごろ)に仰せられ候。その外堀田加賀守(ほったかがのかみ)殿、稲葉能登守(いなばのとのかみ)殿も御歌(おんうた)を下され候。十一月二日江戸出立の時は、御当代の御使として田中左兵衛殿品川まで見送られ候。

 当地に着(ちゃく)候(そろ)てよりは、当家の主人たる弟又次郎の世話に相成り候。ついては某相果て候後、短刀を記念(かたみ)に遣(つかわ)し候。

 餞別(せんべつ)として詩歌(しいか)を贈られ候(そろ)人々は烏丸大納言資慶(からすまるだいなごんすけよし)卿、裏松宰相資清(うらまつさいしょうすけきよ)卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並(なら)びに南都興福寺の長老達に候。

 明日切腹候場所は、古橋殿取計(とりはからい)にて、船岡山(ふなおかやま)の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁筵(わらむしろ)三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆(おお)い有之(これあり)候(そろ)由(よし)に候。いかにも晴がましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非なく候(そろ)。立会(たちあい)は御当代の御名代(ごみょうだい)谷内蔵之允(たにくらのすけ)殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も臨場(りんじょう)せられ候。倅(せがれ)才右衛門も参るべく候。介錯はかねて乃美市郎兵衛勝嘉(のみいちろべえかつよし)殿に頼みおき候。

 某法名(ほうみょう)は孤峰不白(こほうふはく)と自選いたし候(そろ)。身不肖(ふしょう)ながら見苦しき最期も致すまじく存じおり候。

 この遺書は倅才右衛門宛(あて)にいたしおき候えば、子々孫々相伝(あいつた)え、某が志を継ぎ、御当家に奉対(たいしたてまつり)、忠誠を擢(ぬきん)ずべく候。

  正保(しょうほう)四年丁亥(ていがい)十二月朔日(さくじつ)

興津弥五右衛門景吉華押(かおう)

    興津才右衛門殿


 正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院(こうとういん)の墓に詣(もう)でて、船岡山(ふなおかやま)の麓(ふもと)に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後(うしろ)に立っている乃美(のみ)市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢(しろむく)の上から腹を三文字に切った。乃美は項(うなじ)を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛(のどぶえ)を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。

 仮屋の周囲には京都の老若男女が堵(と)の如(ごと)くに集って見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井に揚げおきつやごゑを掛けて追腹(おひばら)を切る」と云うのがあった。


 興津家の系図は大略左の通りである。


<img class="illustration" width="487" height="497" src="fig45209_01.png" alt="興津家の系図">


 弥五右衛門景吉(かげよし)の嫡子(ちゃくし)才右衛門一貞(かずさだ)は知行二百石を給(たま)わって、鉄砲三十挺頭(ちょうがしら)まで勤めたが、宝永元年に病死した。右兵衛景通(うひょうえかげみち)から四代目である。五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文(げんぶん)四年に病死した。六世弥忠太は番方(ばんかた)を勤め、宝暦(ほうれき)六年に致仕(ちし)した。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。八世九郎兵衛は養子で、番方を勤め、文化元年に病死した。九世栄喜(えいき)は養子で、番方を勤め、文政九年に病死した。十世弥忠太は栄喜の嫡子で、後才右衛門と改名し、番方を勤め、万延(まんえん)元年に病死した。十一世弥五右衛門は才右衛門の二男で、後宗也(そうや)と改名し、犬追物(いぬおうもの)が上手(じょうず)であった。明治三年に番士にせられていた。

 弥五右衛門景吉の父景一(かげかず)〈[#ルビの「かげかず」は底本では「かげかす」]〉には男子が六人あって、長男が九郎兵衛一友(かずとも)で、二男が景吉であった。三男半三郎は後作太夫景行(かげゆき)と名告(なの)っていたが、慶安五年に病死した。その子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告った。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国(いせのくに)亀山(かめやま)に往(い)って、本多下総守俊次(ほんだしもうさのかみとしつぐ)に仕えた。次いで坂下(さかのした)、関、亀山三箇所の奉行(ぶぎょう)にせられた。寛政(永)十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利(えっちゅうのかみつなとし)と黒田右衛門佐光之(うえもんのすけみつゆき)とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門〈[#「四郎右衛門」は底本では「四郎兵衛」]〉が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買い締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利は土山水口の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、後に江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召(め)し抱(かか)えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持(にんふち)二十石を給わって、中小姓(ちゅうこしょう)組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子登(のぼる)は越中守宣紀(のぶのり)に任用せられ、役料共七百石を給わって、越中守宗孝(むねたか)の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。登の子四郎右衛門〈[#「四郎右衛門」は底本では「四郎兵衛」]〉は物奉行(ものぶぎょう)を〈[#「物奉行(ものぶぎょう)を」は底本では「物奉作(ものぶぎょう)を」]〉勤めているうちに、寛延三年に旨に忤(さか)って知行宅地を没収せられた。その子宇平太(うへいた)は始め越中守重賢(しげかた)の給仕を勤め、後に中務大輔治年(なかつかさたいふはるとし)の近習(きんじゅ)になって、擬作高(ぎさくだか)百五十石を給わった。次いで物頭列(ものがしられつ)にせられて紀姫(つなひめ)附になった。文化二年に致仕した。宇平太の嫡子順次は軍学、射術に長じていたが、文化五年に病死した。順次の養子熊喜(くまき)は実は山野勘左衛門の三男で、合力米(ごうりきまい)二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列(ものがしられつ)にせられた。明治三年に鞠獄大属(きくごくだいぞく)になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷(きずつ)けて行歩(ぎょうほ)不自由になった。宗春(むねはる)と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国(はりまのくに)の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。

この作品は1931年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。