翳 (二)

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  翳 ㈡


  妻


このごろの便り遠のく妻のこと梨の芽立に想ひてゐたり


こゝろにはいくたりの人汚しつつたもつ不犯ふぼんはおのれにくめり


人ごみに遠ざかりゆく襟あしの繊きがなにか眼には沁みつつ


隕石ほしの群ながるる白日ひるのしづけさに雷針の金高くまどろむ


かはたれはクロバ畑にもん白蝶しろが降らす微粉に咽せて醒めたり


毒蝶は薊の蜜を吸ひつくしかげらふ昏き森に消えたり


玻璃ごしに盗汗ねあせの肌を嗅ぎ寄るはおのれ光れる冥府よみの盲魚か


無花果のまばら枝すでに萌えそめて空のうるみにそりの明るさ


やや強き風に耐へゐる海岸うみぎしの染井吉野の昼のかがやき


  療養所


廻転まはり椅子いす片よせられてひやひやと石ゆかひろき午すぎの外科室


蔦わか葉陽に透く朝はまどぎわの試視力表もほの青みたり


ニツケルの吸入筒にうつりつつ内衣の人はすそかへしゆく


ひやびやと霧をふふみて明けそむる蘇鉄に遠き発動ポンポン船のおと


いつしかにミシンのひびきやみにけりたち藤の花黄なる曇り日



  協奏曲など


はすかひにのきの花合歓ねむうつしつつ化粧鏡はれのこりたり


昏れのこる化粧鏡の合歓の花そよぎに遠きちまたのどよみ


鍵盤にはしるをよびは青みつつ芭蕉わか葉に夕明あかりひさしき


旋盤にけづられてゆく砲身はイルクツクあたりのうみを匂はす


    メンデルスゾーン作、ホ短調ヴアイオリン協奏曲を聴く


白日ひるの空しなひつつ飛ぶ投槍の秀にはひそむか聴神経節


貪婪たんらんを絃の妖婦バンプは肉ぶとにはてしない夜の似顔絵を描く


鍵盤にはしるをよびは青みつつ芭蕉わか葉に夕明あかりひさしき


旋盤にけづられてゆく砲身はイルクツクあたりのうみを匂はす


    メンデルスゾーン作、ホ短調ヴアイオリン協奏曲を聴く


白日ひるの空しなひつつ飛ぶ投槍の秀にはひそむか聴神経節


貪婪たんらんを絃の妖婦バンプは肉ぶとにはてしない夜の似顔絵を描く



  解剖室


指針はり(さき)に脳の重さの顫ふとき黄金きんの羽蟲は息絶えにけり


吉丁たま蟲の羽根に砒石をきながら喪はれゆくひかりににえ


童貞女黄泉よみの磧になげくとも泰山木のはなはしづかに


黒い眼鏡の奥に見てゆく森の路片眼見せたは魔法つかひか


脳髄の空地に針をたてながら仙人掌は今日もはびこる


しづしづと霧が占めくる巷には朝をくして鳴かぬ玄鳥つばくら


ひたすらに病む眼いたはるひとときの想にのこる爪のいろなど


 白い猫


たたかひは砂漠のかなた黄槿は立秋の丘に年輪をきざむ


ハンガリアよりの放送は終る簷端にはかさをめぐらす東洋の月


太陽にさからひきたるラヂオのこゑ大地の片白日ひるなりと告ぐ


浅よひの卓にとびくる白い蛾は翁に見えて殺しかねたり


岩かげに脚をひたせば鰭のあかい小魚はすぐに友だちになる



 海鳥


ぞらのひかりにすさむ愛欲かなしみみさごのたはれ羽毛を散らしつつ

はるかなる女体をつて雨の日の地平をわたる海鳥のむれ


爛れ眼のカンナの凝視にたへかねて黄金蟲は真黒く日輪に躍りこむ


手にのこるけだものの香のけうとさは真紅にかはる海を想へり


夕まけて黄金きんの入江にしづみゆく海月の肌にのこる俗情


秋ふかきもののはるけさ雲に死ぬ海月の笠の碧きをも見つ


誰からも愛されたくない悲心の夜無花果に照る月をさげすむ


木犀の銀の音いろにさりげなき羞らひのに触れじとはする


そんなことちつともないと言ふかほに半透明な心臓がのぞく


 木霊


いつせいに木霊こだまがあげるときのこゑだけのこしておれは消え去る


隠花属太古の瘴気をたくはへて谿谷はもう秋を見すてる


蘚苔も夜の猫族も威をふるふ退化の窗は北を指したり


秋さむし悲情の壁に凭れつつ肚裏の谺に聴く神もなく


アダムスらうみのみなみに老いゆくか青きがままに落つる無花果


肋骨を透明にする蟲がゐて夜ごとにひらく夢の


ほろびゆく瞳にしみて秋萩のひかりはにがしをみな子は愛し


あるときは十指の爪を抜きはてて既往のそらに星の座を繰る


跫音のなかにすたれるねがひなれば今日の背にたつ鳥影も見ず


よるべなく季節にかへるあこがれか風速計に氷点を読む


 夜⑴


三面のかがみにともす白き手の繰るともあらぬ地獄まんだら


更くる夜の化粧はさむし灯の底に己が肉む鬼ともならず


隕ちてくる星のなげきか栗鼠の尾かこの夜の訛り聴くものもなく


霧の夜はペーブメントに滲みだす男餓鬼女餓鬼のあなうらのこゑ


辻々のしき石にしみた吐息などがぼやけて青いあかときとなる


霧の降る巷となれば窓のない煙突ばかりが伸びあがるなり


赤い眼に太古の夢をつてゐるボイラーなどになりたいこのよる


    ×


焼けあとの煙突などに受胎する小鳥であれと天日に翔ぶ

月の夜を光る茸だともすれば尾で立ちあがる蛇だその


天心に泛ぶ白露に草の香にころがれころがれ聖母マリアくわんのん


 夜⑵


水銀柱窗にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる


しつくひは透明になりわが息に月も花瓶も触れてくだけぬ


ふと黒きけだものの爪反るを見ぬ裸像にともすある夜のわが手


また一つ灯らぬ窗が世に殖えて犬も子どももひたと啼きやむ


童心は寝ものがたりにをののきぬ月の暈には雨の星一つ


更くる夜のアルバムの瞳はことごとくわれの凝視をはじきて凋む


    ×

木ずゑには白磁の叡智ながれたりみ冬八旬地はきしみつつ


盲点に墜ちてはつもる揚羽の蝶日ごとにわれを狂人きちがひにする


石の間にうろこの匂ひ青みきてどくだみ草もよみがへるなり


日にみだすコリーの毛並口笛は窗にかげろひヒヤシンスは黄に


ガラス窗たかくかげろひ三月の酸ゆき果実このみは天に盈ちくる


 春冷


ひとしきり野をかけめぐる錆びた手は日の窗かけの陰に絞られ


海にくれば小鯛もあをしわが肉の刺ことごとくぬけさるあした


海鳥はいまだ遊ばず朝潟にねむる小蛸は人にとられぬ


横這蟹よこばひあをさの陰に逃げながらまぎれもあらぬ朝のまがごと


卓のしたにへんな鱗がさまよへば剝いても剝いても夏は青く


いとにぬけばみんな硝子になつてゐるそんな歌しかわたしは知らない


今はもう笛も吹かない掌を黄なる菌に埋めてねむる


後退しさりゆく家並よ橋よ太陽がのぼらぬ朝を人はおもはず


器には昨日のごとくいひを盛るならひに老いて繰る夢もなく


ひたすらに待ちてかぼそき日もありぬほぐせば青き花芽ながらに


 病閑


猫のごとあさく眠りて朝々の足音ばかりり好みする


おのがの皺など見ねばひたすらに鳥の鳴く音に雲を恋ひつつ


ひとしきり入日をわすれ声をわすれ鴉ふたつの春のあらそひ


空はもうかすんでゐるのにこの朝の海へ落ちこむ沢山な蝶


春のぬめいちやうに眼をひらきわれも絵具もはじかれてゐる


干潟には鐘が鳴るなり捕られても浅蜊は浅蜊脊中を合はす


野茨のみだれに影をくづしては夏を呼びつつ青空を踏む


ともすれば春になじまぬ今日このごろ空に鳴きつつ菜の花も見ず


 音楽


昨日こそ四方が失せたと目をさまし空には無頼の花びらばかり


つぎつぎに覘く指尖ほそくなりあげくは夢に紛れてやみぬ


この上は槍を投げ込め太陽も鴉も消える真昼間の穴


軽戦車重戦車など遠ざかり花びらをふ小犬と私


行きちがふ甲板デツキに灯もす人ふたり間の波間に僕は沈んだ


なめくぢの縞はつぶさに見えながらびもならない朝の疳癪


 新緑


暮れゆけば若葉の奥にふくみ鳴きいつそ鴉にならむと思へり


北に向く窓あまつさへ雨を呼びあの日この日の指紋を剝がせり


ゆく春のあぎとにしみる夜のしめり溲瓶の声に命ををしむ


手ばなしにはしらせてゐる機関手の片眼わらひをおれもわらつた


己がかほふと見わすれし物おそれ紫陽花の花の黄なるをにくむ


襲ひ来る青鱶鮫󠄀の双の目を匁もてつらぬくま昼まのわらひ


まざまざと白い葉並を軋ませてもろこし畠に夏は砕ける

   伊エ紛争

アイーダの歌ものがたりはるかにて沙漠の国は亡ぶ時に知らる


 水無月


窓による日ごとの影のうつろひのきはまるはてに翅をひらく


かの島の罌粟の実青くふる雨か往き交ふ船のけうとき無言しじま


空のをち根雪のごとくのこされて木草に凝る胚も思はず


短夜のしじま険しく山梔の酸ゆき毒にも染みかねにつつ


立雲のなかに砕けるわらひ声蟹も小蛸も憑れて走る


蟬は鳥を夜は蟬を追ひ森のなかに我が影ばかりうろつきまはる


青蛙なきてやみたる日のさかり仙人掌の痛きに触りゐる


わが弾丸たまは空にはやれど青羊歯の茂みに落つる声々もなく


 水無月


窓による日ごとの影のうつろひのきはまるはてに翅をひらく


かの島の罌粟の実青くふる雨か往き交ふ船のけうとき無言しじま


空のをち根雪のごとくのこされて木草に凝る胚も思はず


短夜のしじま険しく山梔の酸ゆき毒にも染みかねにつつ


立雲のなかに砕けるわらひ声蟹も小蛸も憑れて走る


蟬は鳥を夜は蟬を追ひ森のなかに我が影ばかりうろつきまはる


青蛙なきてやみたる日のさかり仙人掌の痛きに触りゐる


わが弾丸たまは空にはやれど青羊歯の茂みに落つる声々もなく


 七月


水上みなかみに仔魚孵りて村々の樹立に清き雨灑ぐなり


隅もなき真昼の照りにひたむかふこの図太さは大地なりけり


真昼にはパナマあたりに跨つて白い森林を大陸に見む


隣人が我をうとむは年久し今は命をみづからが悪む


窓のない白牙の市街が現はれて海に半日君臨してゐる


活栓に堰きとめられし水勢のあてどもあらぬ我が忿いかりなり


   二・二六事件

叛乱罪死刑宣告十五名日出づる国の今朝のニュースだ


死をもつて行ふものを易々と功利の輩があげつらひする


 秋涼


里ちかく生れいでては法師蟬月の無常に魘されもする


ことごとく髪ふり乱す島に来てかたみに白き名残をくだく


夢に見るもののかたちのせつなさは古き仏のにもさやりぬ


けだものら已にけはひて青草の宵のいきれにわが血はにごる


甘藍は鉛のごとく葉をたれぬ暮れてひさしき土のほてりに


あかつきの干潟の砂はなめらかに不意にするどい狂気の懼れ


天地の虔󠄀しむなかをまぐはひつつ日月は黄金きんの谺に響けり (日蝕)


襲ひ来る翳あはただし天地にいやはての日の莫しと言はなくに


 秋日記


あかつきの風が投げこむ花の束いつか季節はぴしぴし清らか


梧桐の昼は旺んな陽のにほひあらぬ肢体がゆらゆらと撓む


いつしかに狙ひ撃つ気になつてゐるそのするどさをはつと見返へる


ぬぐへども潔まらぬ掌のまのあたり日輪はまた赤く溺れる


脱走の夜ごとの夢はおづおづととほ団欒まどゐの灯を嗅ぎまはる


あきらめか何かわからぬ褪せた血が凩よりも暗く流れる


 光陰


墜ちてゆく穴はずんずん深くなりいつか小さいそらが見えだす


草の葉にかたむくそらを手にうけて冬を眠りの土に入りゆく


 光陰


墜ちてゆく穴はずんずん深くなりいつか小さいそらが見えだす


草の葉にかたむくそらを手にうけて冬を眠りの土に入りゆく

まのあたり狙ひに息をつめたるがたまらなく何か喚きたくなる


いちめんの壁の厚きに囲まれて今日のきのふの歌うたひ居り


雲の脊に青いランプをひともしてうつろな街がまた呼んでゐる


夜の星のその一つには触れかねて樹に寝る鳥の命おびやかす


ぬくもりの失せた掌を月に拍つ午前零時の時計台の上で


 裏街


まつすぐに露路の正面へ日が落ちる光に行けば足音たかし


石塀のなかほどにある裏木戸の小さき見れば人の憎めぬ


街なかのとよみ一瞬鳴り歇んで太陽の噓が空にひろがる


曇り日の土のしめりに湧いてくるしんじつのなかに蟲が芽を喰ふ

遠く来て遊びすごした童心の悔を蹈みつつあてどもあらぬ


硝子戸はぴしんと閉まりつかの間をひろがり消えるむなしさに澄む


夜もすがら青い臓腑をひき殺す情け容赦に泣き叫びつつ


 天秤


頭蓋骨剝いでしまへばわが脳の襞はうつくしく畳まれてゐむ


あるときは神も悪魔も光らせしこの眼の球と手にのせて看よ


わがために南無阿弥陀仏と言ひし夜も人は眠るかその夜のごとく


たましひの寒がるよるだ眠つたらそのまま地獄に堕ちてしまふよる


暗がりの天井にひろがる赤き花はらら燃えあがり燃えくづれ失せぬ


家の棟もさかさまになる夜の底に寝返りすれば骨きしむなり

跫音をぬすむおとなひ夜もすがら簷をめぐりて我をうかがふ


わが窓にともし灯ばかり遺る朝をけだものどもはもう知つてゐる


 軌跡


残された私ばかりがここにゐてほんとの私はどこにも見えぬ


このやうに空の明るい今日がある苑に花無き季節のはてに


大空のくろくかがやくなかに来て近づくものをなべて忘れぬ


ヒヤシンス香にたつ宵は有るかなきまなこのいたみにやがてまどろむ


寄りあひてものを啖へる人間の皆いちやうにしあはせらしき


風の夜はけだものどもに吠えられてさきの世に見たわれを訪ふ


さざめきは鍵穴へれ覆面の大気遮二無二にわれを押し出す

鳥は啼け兵はたたかへ女は産めわれは天日てんじつのたかきを悪む


 春泥


青空に目かくしされた星があり昼の日なかを安堵はならぬ


人の世は夜あけの靄に消えゆきて囀りのこゑ花にきらめく


いつかもう人間ならぬ我になり花におぼろな影踏み歩く


根こそげの庭にひさしき夕あかりつひに命が惜まれてならぬ


夕暮れてさくら舞ひちる蔵のあひかしこにもわが悔はのこれり


この空にいかな太陽のかがやけばわがにひらく花花あらむ


血みどろの泥に歯を剝く死のわらひ蟲けらを見れば蟲けらの世も


 春の三角標


日もすがら沫を飛ばす風のなか我はうろこの深きを剝ぎぬ


とある夜のうすき眼の色幾世経てまのあたりなる花をたばか


称名は月のよごれにかへりゆきある世の夢を身ごもりに死ぬ


命がけのたはむれごとも世の涯の空を翔つてもてはやされよ


星の座をかなたこなたに置きならベこの夜のはての夢おしはかる


この夕べつかさはまちに斬られたり蠑螺の腹の赤きたはむれ


円かなる瞳の奥に今の世の人身御供といふがひそめり


眼じろげば一つのこれるたんぼママぽの胚子とび去りながき日暮れぬ


この夜の壁も灯しも風の音もただしらじらと我をあざむく (子の訃に)


  若き木魂


なにごとのけはひ乱るるわか葉の森脱けいづるとき日はぬか


野を罩めてわか葉の涯も見えわかずあるが儘なる身に帰り来ぬ


とある夜をわたる日輪あたふたとけだものどもは腹を曝しつ


あかつきのどよみを越えて還りゆく夢は昨日の路に盲ひぬ


人の世のこゑ還りくるわがぬかにみだれて花の眸は白し


白花に置きのこされた夢がありまのあたりなるわが葉に逸る


 化石


籬にはつゆの白花かわきつつまたがらくたな今日の日射しきぬ


白頭のわれならなくにあけ暮れをいまは童の花摘みあそぶ


野のはてに白き雲湧くたまゆらは幾世のかみの夢にかありけむ


罌粟の実のつぶらに青む野の上にひとりいぶかる昼の月かげ


深みゆく青葉の簷のあけくれに西洋の楽あるはゆかしく


花びらの白く散りしき牡丹の木ひとむらのこる夕日のながさ


さかさまに大地流るる頭の上とにもかくにも星が光れり


ある夢のをちにひろがる空のあをその明るきがあやしからぬか


    ×


夕づけば七堂伽藍灯りつつさくらひと山目をあけてねむる


 盛夏


そこらあたりなほ消えやらぬ夜のいろにざらつく壁をゆすぶりゆすぶる

かみそりのうすきにふるるときのまを何の葉づれの思ひを去らぬ


暮れのこる黄色い壁にへだてられ薔薇も空気もよごれてしまひぬ


昨日の薔薇を喰つてゐたこいつがこいつがと夜の黄金蟲こがねを灯に投げつける


 颱風


襲ひくる白雨のつぶてに打たれつつ生身素肌は神を凌げり


炎天に埃もたたぬ鋪装路のまつすぐなのがまた忌々し


鳴く蟬の声ををかして踏入れば籬にくづるるわが影ありき


薔薇が咲き日がさしそれが見えてゐるこんなことさへただごとなのか


今日の日を黄色い壁にかこまれて疑ひだせば瞬きもならぬ


殼をぬぐ蟬の目色がかなしいとそんなところをうろついてゐた

眼も鼻もくされはてたるわが今日をしみつきて鳴くはなにの蟲ぞも


夜をこめてひらくおもひは夕顔の莟ほつるる音もあらなくに


おほきな蜘蛛が小さい蜘蛛に嚙みついたおれはどろんと赤い日を見た


おしなべて帰命を急ぐもののこゑ月夜の風も矢玉の殻も


青空にたぶらかさるる野面にはみしらぬ国の花咲きみだれぬ


 錆


ほろびゆく官能のはてに見ひらくはいつの夜あけに青かりし


はなひれば星も花弁もけし飛んで午夜をしづかに頭蓋のきしむ


骨うすき秋草の扇子とりもてば女ならざる不覚さ思ふ


 青果


いただきの我をちいさくうづめつつ空のおもみのおしさがり来ぬ


明日をさしそのあけをさして揺れやまぬ指針の逸りをむさぼり飽かず


白珠の盞ひとつうつつなる酔はうつくし夜の夢もなく


 白描


つぶらなる朱のひとつうつつなれ瞬く間をも消えゆかむとす


毒蜂もみだりに蟄すなき天地を人と生れてそらおそろしき


研ぎあげて青むやいばの刄ざはりのしきりに冴ゆる空は見にけり


たち還る朝の険しく黙しつつくまなき霽れにさすあけもなし


昼も夜も空の深きをかけめぐる鴉の一羽眼よりはなれず


  譚


涯もなき青海原に身ひとつのぬくもりをて浮きしづみすも


あを空に砕け散る日をぬすみ見てまつさかさまに娑婆に眼の醒む


けむり立つ芥焼場あくたやきばの日暮れ空あけにただれて夜の闇を呼ぶ


夕まけて青むおそれを灯しつつ毒よりもにがく酔ひ痴れにけり


ひとしきり青む夜空にたはけてはおのれに似せし神を棲ましむ


寄りあひて鳴りをひそむるまなざしにまみれつつまた今日を恥多し




 夜


脱け落ちて白桃の実の動かざるをうちまもりゐしある夜の思ひ


いちめんの壁の厚きにかこまれて醒むれば我の石よりも白き


  現


うつらうつら日の午をうたふ鳩時計醒めては花の散りまがひつつ


丹のはしらぬるびて諸天ねむりたまひ鼠一匹うつつに走る


近づけばすなはち消ゆるのおくに空をいただく花苑はあり


きりぎしのこぼれはやまず声あげてわらふ日もなき幾年なりけむ


更くる夜の大気真白き石となり石いよよ白くしてわれを死なしむ


天井も壁も日輪も透きとほりいちめんの闇に星のきらめく


神のみぎ悪魔のひだりなまなかに昼も夜も視る眼をもてあます


 奈落


春まひるすでに受胎のことはてて帰命をいそぐ花むらの影

ことさらに胸をはだけて市をゆきあらくれたりしはこの我ならず


くすり草野にはびこれど男らはきんをぬかるる歎かひをせり


れんが塀高くめぐらす街角に声あり逃げよ逃げよといざなふ


真中に盲点のある目をもてばまひるの空に日輪も消ゆ


しろがねの鍼とがらせて眼のたまにさぐりあてたる痛覚をなぶる


砲身に火蠅なしつつみだれ散る夷狄人ならずむかしも今も



 年輪


ひとしきりをん雷あがる午さがりこの空の青が我をただらす


のぼりきて見放る沖のかくれ岩神々の敵意ここに泡だつ


傷つける老樹の肌を滲みいでし脂はしたたる乾けるが上に


 年輪


ひとしきりをん雷あがる午さがりこの空の青が我をただらす


のぼりきて見放る沖のかくれ岩神々の敵意ここに泡だつ


傷つける老樹の肌を滲みいでし脂はしたたる乾けるが上に


 白き餌


息の孔潰えむとするこの夜をことさらに冴ゆる星のそこらく

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。