続王亥

 
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続王亥
 
 
、緒言
 

 余は芸文第七年第七号に於て、「王亥」一篇を草し、王静安の説に本つきて、夏殷人の命名、並びに其の古伝説等に関する考証を試みたるが、本年春、静安が上海より京都に至りし際、之を示して、再び其の意見を徴せしに、未だ幾くならずして静安は更に精細なる考証をものし、「殷虚卜辞中所見先公先王考」と題し、羅叔言並びに余に寄せ来れり。其文頗る長くして、尽く之を載すること能はざれども、其大意を節録して、之を本誌上に紹介するは、古史の研究に有益なるべきを信じ、仍ほ之に関する鄙見ある者は、併せて之を附記し、以て叔言静安に質し、更に其精深なる研鑚を求めんとす。

 
、夋
 
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 静安が新研究の一は「爰」に関する者なり。卜辞中に貞燎子変等の語あるを以て、史記の五帝本紀の索隠に、皇甫謐が帝王世紀を引きて帝誉名参とあり、又初学記九に同じく帝王世紀を引て、帝誉生而神異、自言其名曰交とあり、山海経に帝俊の事を十二箇条も出せるを参稽して、是れ即ち般の始祖たる帝誉の名なるべしといへり。但だ山海経に出せる帝俊に関しては、其注家郭璞は其中帝俊生后稷といへる一条のみ俊は誉とすべしといひたれども、余の各条は皆帝俊を以て帝舜の仮借ならんといへるに対し、静安は大荒経中に自から帝舜あれば、同一人の名を或時は俊とし、或時は舜とすべき筈なしとし、大荒西経に帝俊生后稷といへるは、世本・戴記帝繋中に后稷を帝誉の子とするに合し、大荒東経に帝俊生中容といひ、大荒南経に帝俊生季釐といひ、海内経に帝俊有子八人といへるは、左伝に載せたる高辛氏の才子八人ありといひ、八人中に仲熊、季狸あるに合し、大荒南経に帝俊妻娥皇といひ、義和者帝俊之妻といひ、太荒西経に帝俊妻常義といふは帝王世紀に帝誉次妃娵訾氏女曰常儀。生帝摯といへるに合し、義和、娥皇は、皆常義の語の転じたるなりとせり。余が考ふる所にては古伝説に於ては帝畧と帝舜とが一なりしにあらずやとの疑あり。尭と顳項との間にも、書の呂刑によれば、劃然たる区別なきが如くなれば、高陽即ち尭、高辛即ち舜にして又参、若くは俊なりしにあらざるか。尭は高の義なること、白虎通、風俗通等に見えたれば、高陽と同義たりしと見るべからざるにあらず、而して夋も亦俊、峻等の字を形くり、高き義なきにあらず。又舜の妻は尭の二女にして、長妃を娥皇といふことは列女伝、帝王世紀にも出でたれば、山海経の帝俊を帝舜とする郭璞の註も、強ち棄つべきにあらず。又礼記祭法に殷人稀誉而郊冥。祖契而宗湯。とあるは国語魯語に商人稀舜而祖契。郊冥而宗湯とあると同一の根拠に出でたるべければ、国語の舜字を以て単に誉の誤ならんと断じ去りし章注は、伝聞異辞多き古伝説を解釈する正当の方法といふべからずして、寧ろ誉と舜との一致を見す者とすべきに似たり。

 
、相土
 
 静安の研究の二は相土に関することなり。史記の般本紀によれば契の子は昭明、昭明の子は相土にして、其名は既に詩の商顔にも見え、左伝及び世本帝繋篇にもオープンアクセスNDLJP:197 出でたり。殷虚卜辞中の「土」とあるは即ち相土なるべく、荀子解蔽篇に乗杜とあるも、亦相土なりといへり。
 
、季
 
 静安は卜辞人名中に季といふものあるは、即ち冥なりといへり。楚辞天問に該秉季徳とあり、又恒秉季徳とあり、王逸の旧註にては該乗を包持の義とし、之を湯の事を言へるものとしたれども、柳宗元の天対にては、左伝にいふ所の少睥氏の四叔中、該といへる者あるを以て、此の該に推し当て、洪興祖の補註にては、下文に有扈の事あるを以て、夏啓の事をいへる者ならんとし、朱子に至りては、更に該字は啓字の誤ならんといひ、陳本礼も之に従へり。恒秉季徳の句に就きては王逸、朱子皆湯の事に繋けたるも、独り陳本礼は恒を以て該の訛なりとし、之を王玄の事に繋げたるは、卓見なるも、上甲微を以て冥の子とせるは顕然たる誤謬なり。静安は別に王恒一代を殷王の中に発見し、該を以て王亥とし、二人共に季即ち冥の子なりとし、従来の諸説を一掃せり。
 
、王亥
 
 静安は般虚書契後編に、王亥に関する卜辞七事あることを指摘し、且つ其祭に三百牛の牲を用ゐ、祭礼の最隆たれば、殷の先王先公たること疑なきを証明し、且つ殷人の名、日を以てするは上甲微に始まり、辰を以てすることは王亥に始まるより、施いて更に日辰を以てせざる者も、亦多く時を以て之を表することを論じ、即ち昭明、昌若、冥等皆朝暮明晦の意を含み、王恒の名も亦象を月弦に取るといへり。
 
、王恒
 
 卜辞に王亥の外に、又王恒あることを発見せるは、静安が精細なる研究の効果にして、静安は鉄雲蔵亀第一百九十九葉及び書契後編巻上第九葉、後編巻下第七葉、前編巻七第十一葉に載せられあることを言へり。随て天間の昏微循跡。有秋不寧。とあるは、即ち上甲微を指し、有秋は即ち有易なることを論断せり。是れ楚辞の旧注に曽て道ひ及ぼさヾりし所なり。静安は
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古狄易同音。故二字互相通仮。説文是部。過古文逖。書牧誓逃矣西土之人。爾雅郭注引作過矣西土之人。詩大雅用過蛮方之過。与書多士離迷爾土之逖。及詩魯頌狄彼東南。畢狄鐘畢秋不襲之狄同義。史記殷本紀之簡秋。索隠曰。旧本作易。漢書古今人表作簡過。白虎通礼楽篇狄者易也。是古狄易一字。有狄乃有易。上甲微循跡而有易不寧。是殺王亥者亦有易。非有扈。故曰扈当作易字之誤也。有易之国。殆在易水左右。〈内藤博士説〉盖商之祖先。自冥治河。王亥遷殷。(註略)已由商邱越大河而北。故游牧於有易高燥之地。服牛之事即肇於此。有易之人。乃殺王亥。取服牛。所謂胡終弊于有扈。牧夫牛羊者也。其云有扈牧豎。云何而逢。撃牀先出。其命何従者。似記王亥被禍之事。其云恒乗季徳。焉得夫朴牛者。恒蓋該弟。与該同乗父之徳。復得該所失服牛也。所云昏微循跡。有狄不寧者。謂有易既殺王亥。而其子微能帥父祖之迹。故有易為之不寧。繁鳥萃棘以下。其事不詳見子載籍。今已無従索解。然非如王逸章句所引解居父事則可決也[1]

といひ、其考証詳確を極めたり。余が之に就て考ふる所は、殷の祖先として簡秋の地位如何に在り。静安が引用せる如く、簡狄は旧本簡易に作れりといへば、周の姜嫄が姜水を以て名を得る如く、簡易は亦有易の地を以て名を得たる者なるべし。従来の説にては冥が治河に勤め、王亥は嗣で有易に遷りたれば、相土より曹囲〈史記の世系に従ふ〉までは、商邱の地に在りしとして、昭明以前は果して何の地に国せしか。史記の注家は契が華山の陽の商に封ぜられたるを説けども、契にして果して商と称する地に国したりとせば寧ろ始めより商邱に居りしとする方妥当なり。但だ簡易を殷の祖先とせば、殷の発祥地は寧ろ有易地方即ち易水附近にして、華陽にも商邱にもあらざるが如し、是れ古史の研究上注意すべき事なり。

 
、上甲
 
 上甲微は湯以前に在りて、殷室を復興せる者として、殷人は特に之に報祭せる程なるに、其名にして殷虚書契中に見えざれば、般虚遺物の価直にも関し又伝説的古史の信用にも関することなり。果然静安も叔言も期せずして、其名を卜辞中に発見したり。貞卜文字を尽く此の誌上に示すことは困難なるを以て、発見の径路をオープンアクセスNDLJP:199 詳細に説明すること能はざれども、其の発見が古史研究上大に関係ある者なることを茲に宣言するに止むべし。
 
、報丁、報丙、報乙
 
 
、主壬、主癸
 
 
、大乙
 
 
十一、唐
 
 
十二、羊甲
 
 以上各項の考証中、静安は唐の或は湯ならんことを疑へり。其の証として博古図載する所斉侯鎛鐘銘に競競成唐。有厳在帝所。専受天命云々とあるを引けり。又卜辞の羊甲は即ち陽甲なることを論説せり。
 
十三、祖某、父某、兄某
 
 静安は又史に出でたる帝王の名にして、卜辞に見えざる者、並に卜辞に見ゆる父甲兄乙等の人名にして、史に無き所の者あることを挙示し、卜辞に之有りて、史に無き所は、皆諸帝の異名、及び諸帝の兄弟の未だ立たずして殂せる者なることを論断し、之によりて左の如き結論を為せり。

、商の継統法は弟に及ぼすを主とし、子にて継ぐは其の補助たり。弟なければ、已むを得ず、子に伝ふるなり。湯より紂に至る二十九帝中、弟を以て兄に継ぐ者凡そ十四帝。〈又は十五帝〉其の子に伝ふる者も亦多くは弟の子に伝へて、兄の子に伝ふるは罕なり。周代の如く嫡庶長幼を以て貴賤の制を為すことは、商には之なし。故に兄弟の中、未だ立たずして死する者あれば之を祀ること、已に立てる者と同じ。周初には猶ほ之と同制なりしことは、逸周書克殷解に王烈祖、太王、太伯、王季虞公、文王、邑考とあり。太伯と虞公と伯邑考とを、太王、王季、文王と並び祀りしにて、其の周公未だ礼を制せざる以前、般礼に従へるを知るべし。

オープンアクセスNDLJP:200 、卜辞は諸先王本名の外に於て、或は帝某と称し或は祖某と称し、或は文某と称し、或は兄某と称す。羅参事曰く、有商一代帝王の甲を以て名くる者六、乙を以て名くる者五、丁を以て名くる者六、庚辛を以て名くる者各四、壬を以て名くる者二、惟だ丙及び戊己を以て名くる者各一、其の大甲小甲、大乙、小乙、大丁、中丁と称する者は、殆ど後来之を加へて以て別を示せるならん。然るに嗣位の君に在りては、径ちに其父を称して父甲とし、其兄を兄乙として、当時已に自ら了然たらん。故に疑ふらくは父某、兄某と称する者は即ち大乙凝以下の諸帝ならん。此説是なり。且つ独り父某、兄某のみならずして、其帝といひ祖と云ふ者も、亦諸帝の通称ならん。

以上の結論は啻に卜辞を研究するに必要なるのみならずして、古史を読むに須知の事たり。たとへば今文尚書無逸の祖甲といへるは、即ち大甲にして、古文尚書及び史記に所謂祖甲武子丁にあらざるが如し。其の祖といふ者は、亦大父以上の通称にして、父某といふ者は亦父と諸父との通称なることも亦注意すべしといへり。 余は更に之によりて、一種の奇なる事態に注意せしめらるゝに至れり。即ち祖、父兄等の親族に関係ある文字が、其の起原皆祭祀に関係あることなり。祖字は説文によれば、始廟也といひ、其の原形はにして、恐らく殷代の明堂重屋四阿の象形に出でたるならん。父字はにして手に火を執る形、即ち主祭者を示せるなり。説文に从又挙杖とし、家長率教者と釈せるは、恐らくは晩出の義によりし者にて、原義にあらじ。又兄は口と人の跪く貌とを以て合成し、即ち祝の旁にして、説文に祝を釈して祭主賛詞者といへる義なるべし。説文の長と釈せるは、亦晩出の義なり。蓋し古代にありては家の祖たる者は廟に祀られ、家の長たる者は祭を主とり、而して兄弟中の長者は主祭者を賛けて祝詞を唱ふる者たりしが故に、族称の主要なる者は皆義を此に取りしなるべし。

(大正六年八月芸文第八年第八号)

余は大正五年七月発行の芸文(第七年第七号)に於て「王亥」一篇を載せ、殷虚書契に関する考説を挙げ、更に大正六年八月発行の芸文(第八年第八号)に「続王亥」と題する一篇の半を掲載し、王静安が殷虚書契に関する有益なる研究を紹介するとオープンアクセスNDLJP:201 共に、鄙見の一端をも附記して、支那古史を研究する人々の参考に供せんとしたるが、この「続王亥」は校正者の疏漏の結果、殆ど読み下し難きまでの訛誤を来したる為め、余をして続稿を作るの勇気を全く失はしめ、未完のまゝにて棄て置くこと三年余を経過するに至れり。然れども此事は常に余が念頭に往来して稿を終へざりし不快は、之を除き去ることを得ざりしを以て、今こゝに隔世の感ある前稿に継続して、苟くも之を完了せんと思ひ立ちぬ。尤も起稿の際に於ける興味の多半は巳に失はれ去りて、到底囘復すべくもあらず、且つ王氏の研究は、其後学術叢編並びに叢編の改編書たる広倉学官叢書に発表せられたれば、其の紹介に関する部分は之を省略するを便とすべきを思ひ、成るべく簡短に完結すべき方銭を取ることゝとせり。読者が前稿に比較して、竹を以つて木に続くが如き状あることを咎めらるゝも、亦辞する能はざる所なり。

 
十四、余考
 
 王氏が余考中に、商は虞夏の時に於て已に王と称せることを論じ、夏商は皆唐虞以来の古国にして、其の大小強弱、本と甚だ懸殊せず、所謂天下を有つといふ者も亦たゞ其名諸矦の上に居るのみにして、数世の後、即ち春秋戦国の成周と異なるなし、而して商の先は相土の時より、已に大に土字を啓き、相土は本と商邱に居り、而して其の東都は乃ち東岳の下に在り、商頭に云ふ所、相土烈烈、海外有截とは自ら実録に係る、王亥が殷に遷るに及び、其地又河の南北に跨る、湯が韋願を伐ち、昆吾を滅し、桀を南巣に放つは、祖宗の業を成せるに過ぎず、王跡の興るは、固より此に始らずといへるは、古史の解釈上、尤も卓抜なる者にして、周代に於ける、徐の偃王並びに荆楚、呉越が始んど開国の始めより已に王と称せしが如き状勢は、夏商の上世に於ても、全く同一なる者あり、儒者が固執せる正統論が、案外上世に於て薄弱なりしことを見るべし。王氏は唐虞を以て、猶ほ朝代として看らるゝ如くなるも、余が「王亥」に於て論ぜる如く、夏商並びに其の開祖に溯れば、洪水伝説に逢着するを以て、其の以前の朝代は之を確認し難く、たゞ普通に考へらるゝ夏の末年頃に於て、此の二国が他の群小国中に在りて、特に大有力なるを致し、中にも夏は爾雅釈話に従へば、大君の義なる夏后氏と称し、地名を以て国号とせず、即ち神話時代より相続して共主たりし者が、漸次勢を失ひて、商に滅ばさるゝに至りし者ならん。商は王亥、上甲微以来、北は有易即ち今の易州附近より、南は河南までを併せて、即ち大行山脈の東麓を竪に長く領したるが如く、夏人は王氏は河済間に都したりと考へらるゝ如くなるが、主として今の山東方面に占拠したる者なるべく少康の伝説に関係ある斟郡、斟灌及び其の敵国たる寒、過、戈の如きも、皆山東若くは河南の東部に存せるは以て之を証オープンアクセスNDLJP:202 するに足り、且つ虞舜の事は大部分、神話に属するも、其の系統を引ける虞思は少康と婚姻を結べりとの説ある者なるが、孟子は舜が諸馮に生れ、負夏に遷し、鳴条に死せるを以て、之を東夷の人といへば、虞夏の伝説も、事実も、主として山東に於て開展したることは、之を想像し得べし。当時黄河の下流は広大なる区域に於て、沮洳沼沢を形成したるべく、禹貫に所謂逆河は河海の交界にして、九河の間も殆ど人民の居住に適せざるべきを以て、臨旧附近より以西易州附近までは、河水の汎濫に縦せたる地域なるべければ其の東南に国せる虞夏、并びに其の西南に国せる商が、洪水伝説を以て始まるは怪しむに足らず。商人は其の初祖たる契が玄鳥堕卵の伝説を有するを以て、其の後人たる冥の洪水伝説は夏禹の伝説を襲ひし如き観あるも、実は玄鳥説は周の后稷の巨跡を履む説、并びに徐の偃王の卵生説と同じく、夫余東明説の更に古き一種に属し、西周時代に生じたる者なるべく、其以前には夏人と同じく単に洪水説を有したるならん。玄鳥説の主人公たる契が洪水説の主人公たる冥よりも上代に置かれたるは、反て其の晩出の説たることを証する者と謂ふべし。

 王氏は又般人兄弟に貴賤の別なきを論じ、周の文王が伯邑考の子を立てずして武王を立て、武王崩じて、周公政を摂せるも亦殷制を用ゐたり、子を立つるの法は蓋し周公政を成王に反せるより始まるといへり。然るに其後に至りても矦国にては、尚少子相続の例あること、魯の懿公が武公の少子を以て周の宣王に立てられ、隠公が弟桓公に譲りし等に於て之を見るべく、其の相続せざる者も、三桓中、季孫の家最も昌んなりしは、単に季友の功徳によるのみにはあらざるべし。

 王氏が殷人に女姓の制なしといへるは、其の論ずる所過簡なるも、実に重要なる見解なり。周の時、女は皆姓を称す太姜、太任、太姒より已に然り、而して卜辞は先妣に於て、皆妣甲、妣乙と称し、未だ甞て姓を称せず然らば則ち女姓の制も亦周初に起りしならん。礼記大伝に曰く、繋之以姓而弗別、綴之以食而弗殊、雖百世而昏姻不通者、周道然也とあるは、此れ其証なりといへり。此論は姓氏起原の研究に於て、其の紛糾せる問題の解決を助くべき者なり。姓の起原に関して、従来大体に於て二様の見解あるが如し。即ち一は土地を以て主とする者にして、他は母系を以て主とする者なり。書の禹貢に

オープンアクセスNDLJP:203   錫土姓

の語あり、偽孔伝には之を解して

  天子建徳。因生以賜姓。謂有徳之人生此地。以此地名賜之姓以顕之。

といへり。此の伝文は疏にいへるが如く左伝隠公八年の文を引きて之を釈したる者にして、左伝には

天子建徳。因生以賜姓。胙之土而命之氏。諸侯以字為諡。因以為族。官有世功則有官族。邑亦如之。

とあり。尭典の疏にも亦百姓を解して

百官謂之百姓者。隠八年。左伝云。天子建徳。因生以賜姓。謂建立有徳。以為公卿。因其所生之地而賜之以為其姓。令其収斂族親。自為宗主。明王者任賢不任親。故以百姓言之。

といへり。左伝の杜注には其例として、舜が潙汭に生れたれば、其の後裔たる陳は嫣姓となりしことを挙げたり。是れ主として地名より姓の起源を解釈せんとする説の典拠とする所なり。其の母系を主とするは、国語の晋語に出でたる司空季子の言を典拠とするが如し。其文に曰く

同姓為兄弟。黄帝之子二十五人。其同姓者二人而已。唯青陽与夷鼓皆為己姓。(中略)其同生而異姓者。四母之子。別為十二姓。凡黄帝之子二十五宗。其得姓者十四人。為十二姓。姫酉祁已膝蔵任苟僖姑儂依是也。唯青陽与蒼林氏。同於黄帝。故皆為姫姓。同徳之難也如是。昔少典取於有蟜氏。生黄帝炎帝。黄帝以姫水成。炎帝以姜水成。成而異徳。故黄帝為姫。炎帝為姜。二帝用師以相済也。異徳之故也。異姓則異徳。異徳則異類。異類雖近。男女相及。以生民也。同姓則同徳。同徳則同心。同心則同志。同志雖遠。男女不相及。長頸敬也。黷則生怨。怨乱毓災。災毓滅姓。是故娶妻遊其同姓。畏乱災也。故異徳合姓。同徳合義。(下略)

我邦の中井履軒は此文により、姓は母の字より起るとの説を創めたり。其説奇警なるも、更に典拠なし。説文には又感生帝の説を以て之に参し、

  古之神聖人。母感天而生子。故称天子。因生以為姓。

といへり。之に就きて聖人有父無父の説を生じ、益々紛糾を極むることなるが、要オープンアクセスNDLJP:204 するに其の因生以為姓の文は、左伝に拠りたること明らかなれば、神聖人の母が居りし地に因りて姓と為すの意なることは疑なし。近時に及び劉師培は氏族源始論を著はし、古代帝王、大抵皆母に従つて姓を得るの説を為し、亢倉子の

  几達氏之有天下也。天下之人。惟知有母。不知有父。

といひ、及び白虎通の

  古之時。未有三綱六紀。民人但知其母。不知其父。

といへるを引きて、古代所謂同姓不婚とは、乃ち母族の姓を指して言ひ父族の姓を指すに非ず、夏殷以降女統より易へて男統と為り、而して所謂同姓不婚なる者、始めて父族を指して言ふことゝなり、古帝の漬倫に近きを以て、乃ち父なくして生ずるの説に託せりと論ぜり。但だ劉氏の説は古代に於て母族の姓を重んじたることを断じたれども、母族の姓の由て来る所を究めざれば、姓の起源に関しては別に旧説に比して進む所ありしにあらず。且つ左伝の土を主としたる説も、説文の母を主としたる説も、商の子姓たる如きは、いづれも之を解するに適切なりと謂ふべからず。若し王氏の説の如く殷代には女姓の制なかりしとすれば、始めて之を解すべき端緒を得るに庶幾かるべし。

 王氏の説と相参拠すべき古書の資料は、左伝の昭公八年に見えたる陳の胡公が姓を得たる由来の説なり。是れ史趙の言として記されたる者にして、

自幕至于瞽瞍。無違命。舜重之以明徳。寞徳於遂。遂世守之。及胡公不淫。故周賜之姓。

とあり。舜の裔孫たる旧族さへも、周始めて之に姓を賜へりとすれば、其余の諸姓が周以前に存在せし理由は、甚だ薄弱と為るべし。商の子姓たる如きは其の一統の王者たりし時、其の子弟の最も親しき者を子と称せしこと、猶ほ我が上代に於て、皇子、親王をミコと訓じ、以て最親最貴の皇族に名けたるがごとく、微子箕子、王子比干の如き、皆当時最尊の称たりしなるべく、天子は則ち姓なきことも、我が皇室の如くなりし者、一旦革命と為るや、乃ち其の王族最尊の称を取て子姓と為せしならん。殊に周は夏商と殊なり、同姓の諸矦を封建して、従来土着の右族をば多く之が附庸若くは小矦伯の国とし、僅かに前代帝王の後のみを優遇し、一種の殖民政策を行ひ、且つ此等異姓の大国とは務めて婚姻を結び、音語に所謂異徳合姓の方鍼を取りたオープンアクセスNDLJP:205 れば、之が為に姓別を分明にする必要を生じ、こゝに始めて女姓の制を生じたるならん。王氏が殷虚書契中、女姓を称する者なしとの発見は、此の問題を解決するに就て、甚だ重要なりとする所以なり。

(大正十年二月芸文第十二編第二号)


 
十五、附考
 
 王静安は其後殷虚卜辞中所見先公先王続考及び殷周制度論等をも学術叢編に出し、其中にも亦有益なる文字あれども、今は煩を恐れて之に道ひ及ぼさず。但だ静安が此等の考論は総て亀版文の研究を本としたれば、静安の他の論文中、文字の学に関する者を読みて余が亀版文に関する持論と相発明する所ある者に就て、少しく記す所あらんとす。

 亀版即ち卜法に就て、古書の載する所は、洪範及び周礼より旧なるは無し。洪範は卜兆に関して、雨霽、蒙、囲、克〈今文には雨、済、涕、霧、克とす〉の五種を挙ぐるに過ぎざれども、周礼には

大卜掌三兆之濃。一曰玉兆。二曰瓦兆。三曰原兆。其経兆之体。皆百有二十。其頭皆千有二百。

とあり。兆とは鄭玄の註に、亀を灼きて火に発し、其の形占すべき者にして、其の象、玉瓦原の畳罅に似たりといひ、杜子春の説を引きて、玉兆は帝顓頊の兆、瓦兆は帝尭の兆、原兆〈原とは田なりと鄭玄は釈せり〉は有周の兆なりといへるが、夏殷の卜法に就て兆の名を挙げざるを見れば、杜説の確拠なきことを知るべし。周礼の本文は此の三兆各々経兆百二十、頭千二百ありとせるを以て、鄭玄は毎体十頭づゝある者と推定し、体に五色あり、又之を重ぬるに墨圻を以てす、其の五色は即ち洪範に所謂雨、済、圜蠡、尅なりとせり。故に賈疏は百二十兆を五色に分ちて、各色二十四兆ありと解釈せり。意ふに周礼の原文には始めより五色の説なければ周礼の三兆は猶ほ洪範の五兆の如く、是れ各々卜法に関する異伝なるべく、両伝を会通せるは注疏家の為せる所にして、洪範の五兆は孔頴達の疏に、卜筮之事。体用難明。故先儒各以意説。未知孰得其本。今之用亀。其兆横者為土。立者為木。斜向径者為金。背径者為火。因兆而紐曲者為水。不知与此者同異如何といへるが其真相ならん。周礼は卜師の条に又亀の四兆なる者をも載せたり。是亦兆法の異伝なるべきも、注疏は之を占兆オープンアクセスNDLJP:206 之書と釈して以て其矛盾を避けたり。但だ周礼の説によりて特に知ることを得る所は、経兆に皆頌あることにして、鄭注には、頌謂繇也とあり、即ち兆を占すべき繇辞の別に存せしことなり。古繇辞の書は已に久しく絶えて、今見ることを得ざるも、蓋し易の象辞、及辞の如き者なりしならんことは、其の往々古書中に存せる佚文によりて之を推することを得。〈古繇辞佚文を輯めたる者に竹柏山房十五種の古書拾遺の如きあり、この繇辞中には卜法に用ゐられし者ならずして、旅法に関する者をも収めたり、読者の簡別を要す。〉其辞の構成は押韻して諷誦に便せる者の如し。こゝに注意を要するは、此の繇辞と亀版文との区別なり。亀版文は詩の定之方中伝にいふ所の建邦能命亀とある亀に命ずるの辞即ち貞問の辞を刻せるにて、此の貞問に対して経兆を生じ、各の経兆を判断すべき頌が即ち繇辞にして、其の初め繇辞は皆卜官の暗誦せし所の者ならん。

 今日に遺存せる文字にして、殷代まで溯ることを得べき確実なる者は、亀版文と彜器との二種に過ぎず刻石は周代に至りて始めて之あり。然るに是れ特に今日に遺存せる者のみ然りと為し、殷代の当時には此他に文字を用ゐたることありしやといふに、前に引ける定之方中伝によれば、所謂九能なる者は建邦能命亀。田能施命。作器能銘。使能造命。升高能賦。師旅能誓。山川能説。喪紀能誅。祭祀能語にして、亀版文と彜器の銘との外は、皆言詞にして記録にあらず。命亀も最初には言詞を用ゐたる者ならんも、殷虚の亀版は已に貞問に文字を用ゐたり。要するに古代に於て言詞の用多くして、文字の用少かりしことは疑なく、言詞が方冊と併用せられたりとするも、後世の如く記録を主とせざりしは明らかなり。されば殷代に於ける記録は亀版文と葬器の銘との二種に止まりしとするも、強ち不可なりとせざるべく、此の二者中、彜器の用は、亦亀版より少かりしことは、当時金属の貴重にして獲難かりしと、鋳造の容易ならざりしとより之を推断するを得べし。故に殷代に於ける文字の用は、主として先づ亀版によりて盛になりしなるべく、羅叔言の考ふる所によれば現存の亀版文には既に少数ながら卜辞以外、記事の文をも存するが如し。〈殷虚古番物図録附説第三葉に出づ〉此の如く推考し来れば、亀版文が単に貞問の辞に止らずして、更に繇辞をも記録するに至ることなしと云ふべからず而して更に又繇辞の記録が、亀版以外、方冊の如き者をも利用するに至らずといふべからず。

 余はかゝる意見を有せるが故に、王静安が文字に関する論文中、史籀篇疏証、及びオープンアクセスNDLJP:207 漢代古文考を読むに及びて、少しく発明する所あるを覚えたり。従来の伝ふる所にては周の宣王の大史籀が著はせる十五篇は籀文にして、之より以前に行はれしを古文といへるを、静安は別に新説を立て古文は戦国の時まで猶行はれ、当時秦は宗周の文字を承けて、箱文を用ゐたれども、六国にては猶古文を用ゐたり。漢代に世に出でたる孔子壁中の書の如きは、此の六国にて行はれし古文なり籀文は周より秦に伝はりて、遂に変じて小篆と為り、古文は斉魯等山東の諸国に行はれし者にして、其の時代は併行せりと為し、〈宗周の猶文より小篆を出せりとの説は、叔言之を発し、而して静安之を水けたるなり。〉而して史籀を以て人名に非ずとし、史籀篇とは史籀の作れる書といふ意にあらずとせる考証は、最も卓論と謂ふべし。静安は以為へらく、漢書芸文志に史籀を以て周の宣王の大史と為せしより、〈この説は劉向父子に本づくならんといへり〉許慎の説文叙も之に従ひ、二千年来、世に異論なかりしも、顧ふに独り疑はしと思ふは、説文に籀読也〈方言には抽読也とあり〉とあり、又読籀書也〈毛詩郡風伝に読抽也とあり〉 とあれば、古へには籀読二字は同声同義なり、又古へは書を読むは皆史の事にして、周礼春官大史の職に大祭祀。戒及宿之日。与群執事読礼書而協事。大喪。遣之日。読誄。とあり、小史の職に大祭祀。読礼法。史以書叙昭穆之爼簋。卿大夫之喪賜諡読誅。とあり、内史の職に凡命諸侯及孤卿大夫。則策命之。〈策命とは策書を読むを謂ふ〉凡四方之事書。内史読之とあり、又儀礼の聘礼には夕幣。史読書展幣とあり、士喪礼には主人之史読贈。公史読遣とあり[2]、されば古の書は皆史之を読むことなり。逸周書の世俘解に乃俾史佚繇書于天号とあり、嘗麦解に作策許諾。乃北向繇書于両橙之間とあり、繇は即ち籀字なることは、左伝の卜繇は説文に引て卜籀に作れるにて、左氏の古文には繇を本と籍に作れることを知るべく、周書の繇書も亦籀書に作れるなるべし。籀書即ち読書は史の専職たるが故に、昔人字書を作る者、其の首句に大史籀書といひ、以て下文の其書なることを示せしなるべく、後の人因て句中の史籀二字を取て、篇名とせしならん。〈古の字書は皆首の二字を以て篇名とすること急就篇などの如く、倉韻爰歴等の書も然らざるはなかるべしと〉大史籀書とは猶ほ大史の読む書と言はんがごとし。漢代の人これを審にせずして、乃ち史籀を以て此書を著はすの人にして、大史の官に在り、宣王の世に当れりとおもへるは怪しむに足らずと。

 尤も静安の此の説は、段玉裁の説に本づく所あるが如し。許慎の説文叙に尉律学僮十七以上。始試諷籀書九千字。乃得為吏とあり、此文を唐の張懐瓘の書断よオープンアクセスNDLJP:208 り、近世の孫星衍の説文序に至るまで皆籍書九千字を諷すと解したりしを、段氏は諷、籀書並びに動詞として、史記の紬石室金匱之書とある紬も籀と同義なりとし諷とは周礼注に倍文曰諷とあるにより、能く尉律の文を背誦することにして、籀書とは能く尉律の義を取て、推演発揮して繕写すること九千字の多きに至ることなりとし、諷は今の小試〈秀才の試験〉の経書を黙読するが如く、籀書とは今の挙人以上の時文を試験するが如しといへり。段氏は籀字に注して、周の宣王の時の大史以て名と為し、因て以て著す所の大篆に名けて箱文と曰ふといへば、静安の如く大史籀書を大史読書と解せるにあらざるも、而かも其の諷籀連文の解釈は静安をして更に之を拡めて、大史籀書とは大史の読む書といへる意なることを発明せしめたるが如し。但だ大史の読む書は、如何の種類の者なりしかに就ては、静安は羅叔言の説を引て、倉頡、爰歴、凡将、急就等の篇の如く、当世の用字を取て章句を編纂し、以て誦習に便せる者とし、倉頡篇は三千五百字、楊雄の訓纂は五千三百四十字に過ぎざるに、前に出でし史籀篇が九千字の多数あるべからずとし、其の文体は爾雅説文の如くならずして、倉頡篇の如くなるべく、倉頡篇は許氏の説文叙、郭璞の爾雅注に引く所によるに、皆四字を句とせり又近時敦煌より出せる木簡によるも四字を句とし、二句を一韻とせり、倉頡篇の文字は之を史籀篇より取れりといへば、其の文体も之に做へるなるべしといへるが其の字書を編纂するに至るまでの由来に就きては、未だ説く所あらず。按ずるに段氏の説文注の読字の下に、読と籀、抽、紬と通ずることを証し、抽繹其義蘊。至於無窮。是之謂読。故に筮之辞曰籀。謂抽易義而為之也といひ、籀字の下に亦借繇字為之。春秋伝卜筮繇辞。今皆作繇。許則作籀。服虔曰繇抽也、抽出吉凶也といひ、又説文叙に注して、凡古卜策抽繹卦爻本義而為辞者。因以籀名之。今左伝作繇。許称則作卜籀といへり。余が前に推論せる如く、貞問の用より発達し来れる亀版文が、漸やく経兆の頭、即ち繇の記録にも及ぶべき者とせんには、始め諷誦せられたる繇辞が、後に至りて編纂して字書の体と為さるゝに至らんことも、必ずしも有り得べからざるにあらず。其の卜官の職たる間に已に編纂せられたるか、或は史官の発達せる後、大史によりて始めて編纂せられたるかは、之を知るに由なしとするも、其所謂大史籀書たるに至る前に、先づ卜兆の繇の既に諷誦すべき言辞として、整理されたる者ありしは疑ふ可らざるに似たり。漢代に存せオープンアクセスNDLJP:209 し史籀篇は四字一句二句一韻ならんといへるが、漢の文帝が代王より迎へ立てられんとせる時、卜兆に大横を得たりといへる占の辞は、四字一句にして、毎句押韻し、必ずしも史籀篇と一致せりとは見えざれども、左伝の荘公二十二年に懿氏が陳敬仲に妻せんとせし時の占は、四字句にして、二句一韻なり、僖公四年の晋の献公が驪姫を夫人とせんとせし時の卜繇は、毎句押韻にして、四字句ならず、晋語の献公が驪戎を伐たんとせし時の卜兆は、四字句にして毎句押韻なり。卜兆の繇は史籀篇より古樸なるべきこと自然の勢なるも、其の字句は漸やく雅整に趨きしなるべく、若し周礼の千二百頌の説にして多少信ずべき者ありとせば、其の四五千字ありしことを推算し得べし。前にも言へる如く、殷代に於て亀版文中に已に卜辞ならざる記事を見るに至りし程なれば、周代に於て大史が読む所の書は已に其内容の卜繇に遠ざかりつゝありしことを推想し得べきも、而かも先づ諷誦されたる卜繇が、亀版文によりて記録せられ、更に整理し、変化されて、遂に史籀篇と為るに至りしと論断することは、無稽とすべきに非ず。籀字が竹に従へるより考ふれば其の繇辞が簡冊に書されしより生ぜしことも推し得べし。

 されば史籀篇は字書の起原なりと断ずるを得べきも、固より文字の起原にあらず、文字の用は先づ亀に命ずる貞問の辞を刻するより起り、而して当時繇辞は猶ほ諷箱されたる者にして恐らく易の象、交の辞に類し、貞問は時に応じ用に随つて変するも、諷籀されたる繇辞は一定の者が判断の用として、到る処に応用されしならん、かく一定の辞が応用さるゝことは、即ち字書として整理さるべき縁由を為すに至りしなり。

 余は又これによりて更に推論して書契が殷代に始まれるに非ずやと思ふ。周礼の卜法に関せる官職に董氏なる者あり、掌共燋契以待卜事といへり。此の契字に二義あり、杜子春は以て契亀之鑿を謂ふと為し、鄭玄は所用灼亀なりとす。即ち杜は燋を以て爇して亀を灼く所の木とし契を亀に契刻するの鑿なりとしたるも、鄭は契を燻すと解して、契柱を以て火を大きくして吹くと為せり、近時孫話譲は杜説は鄭玄の允なるに如かずとせり。要するに契は亀を灼くことにして、卜法の主なる事なるが、殷人が其の祖に名くるに、此の契の字を以てせるは注意すべきことなり。周の祖を后稷とせるは周人が農を重ずるを以てなり、皐陶の名は咎繇にもオープンアクセスNDLJP:210 作り、士即ち刑を司る者の祖とせられたり、又陶唐の若き、有虞の若き、皆其の氏族の重ぜし業が陶冶、山沢に関せしことを見はせり。殷人が卜法に必要なる契を以て其祖に名づけしは、其の重ずる所の此に在ることを知るべく、而して契の遂に書契の義たるに至りしは、又卜法に契を用ゐしに由るべければ、殷人が契を以て、其の氏族を代表せしは、即ち書契の般代より始まれりと信ぜられし故なること知るべし。歳を紀するに周人は禾に従ふ年字を以てし、殷人は祀字を以てするも般人の鬼を尚ぶ習俗による者にして、祭祀と関聯して最も重大なる卜法の要たる契を祖として祭るは、猶ほ我が卜部氏が波々迦木を以て亀又は鹿骨を焼きて卜するより、波々迦木を神とし祭ると同意なるべし。但し般代の製と鑑定せらるゝ彝器には、祭祀に関する重屋、〈御即ち明堂なり〉犠牲の形を刻せる者もあれども、尚ほ他に史字、矢形、戈形等武事に関せる者、又虎、咒、鹿、田の各字の如く狩猟に関する者もありて、貞問、卜繇が文字の全部といふべきに非ざれば、史籀篇には卜繇以外の文字も加はりたるべきも、其の大宗は卜繇なりしといふことを妨げず、随て文字の起原を亀版に求むるは不可なしとするのみ。

  附記

卜繇の体制が易の上下経に似たるべきは、已に之を言へり。易は筮の書にして、筮は初め巫の用ひし所なり。易に数理を応用されしは、其の初制にあらずして、初制は今日の関帝聖籤などの如く、竹を以て製せられし図の類なりしならん。其法の発達は卜法に後れたるが如く、貞悔の二字は洪範にも出でたるが、悔の原字は斜にして、貞と同じく卜に従へり。但だ二字ともに易に於ては、卜法の原義を変じたる者の如し。又象交の辞中には、卜繇中より借り来りし者も少からざるが如し。史籀篇が卜繇より発達して字書と為りしより考ふれば、易も筮法の字書と為るべき筈なりしも、当時史籍篇の如き字書が同時に已に発達せるを以て、易は遂に字書の体を成すに至らずして止みしならん。大篆小篆の篆字が象交の象に従へるを見れば、易が字書たらんとせる事情を彷彿すべきに似たり。是れ易を研究する者の注意すべき所なり。

(大正十年四月芸文第十二編第四号)

  附註

  1. 王静安の「股虚卜辞中所見先公先王考」は当時送り来りし初稿のまゝ抄録したる者なるを以て、学術叢編、并に観オープンアクセスNDLJP:211 堂集林の載する所と字句の異同あるを免かれず。
  2. これ既夕礼の文なり、静安の原文を製用せしを以て、未だ改訂に及ばず。

(昭和三年十二月記)

  附記

王亥、続王亥両篇中に論及せし諸問題は、其後の研究により、意に満たざる処少からざるも、嗣で出すべき支那古代史に於て、更に改訂すべきを以て、今多く道ひ及ばさず。

(同年同月肥)

 
 

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