硝子戸の中

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ガラスどうちから外を見渡すと、しもよけをしたばしょうだの、赤いった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入ってない。書斎にいる私の眼界はきわめて単調でそうしてまた極めて狭いのである。

その上私は去年の暮からかぜを引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかりすわっているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。

しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入ってる。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったりたりする。私は興味にちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。

私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類のもんじが、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかとけねんしている。私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼をそそいでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字をならべて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当にしげきし得るしんらつな記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、きのう起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。

私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達のけいべつおかして書くのである。

去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むともけんとうがつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。きたるべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だとこぼしている。年中行事で云えば、春のすもうが近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家やすもうきょうけて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆のつごうと、紙面のへんしゅうの都合とできまるのだから、はっきりした見当は今つきかねる。

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電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事をいて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真をもらいたいのだが、いつりに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。

私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさんせるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私はことわろうとしたのである。

雑誌の男は、うどしの正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。それで私はこう云った。――

「あなたの雑誌へ出すためにる写真は笑わなくってはいけないのでしょう」

「いえそんな事はありません」と相手はすぐ答えた。あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。

「当り前の顔で構いませんなら載せていただいてもよろしゅうございます」

「いえそれで結構でございますから、どうぞ」

私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。

なかいちにちおいて打ち合せをした時間に、電話をかけた男が、きれいな洋服を着て写真機をたずさえて私の書斎にはいって来た。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚って貰った。一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒いにわさきしもの上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよくとおらないので、機械をえつけてからマグネシアをした。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」と云った。私はその時突然かすかなこっけいを感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これで好いでしょう」と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭のこだちの前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じようなていねいな調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉をかえした。私は前よりもなお笑う気になれなかった。

それから四日ばかりつと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。その時私はあてはずれた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。私にはそれがどうしても手を入れて笑っているようにこしらえたものとしか見えなかったからである。

私は念のためうちへ来る四五人のものにその写真を出して見せた。彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定をくだした。

私は生れてからこんにちまでに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。そのいつわりが今この写真師のためにふくしゅうを受けたのかも知れない。

彼は気味のよくない苦笑をらしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。

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私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。

その時彼はまだちばなれのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼をふろしきに包んで電車にせてうちまで連れて来てくれた。私はその彼を裏の物置のすみに寝かした。寒くないようにわらを敷いて、できるだけ居心地の好いねどここしらえてやったあと、私は物置の戸をめた。すると彼はよいくちから泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたったひとり寝るのが淋しかったのだろう、あくあさまでまんじりともしない様子であった。

この不安は次の晩もつづいた。そのつぎの晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事がよるになると必ず気にかかった。

私の小供は彼を珍らしがって、がなすきがなおもちゃにした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向って犬に名をけてくれとせがみ出した。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達のほうゆうに与えた。

それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイとギリシャと戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達のかたきを取ったのである。アキリスがいかって希臘がたからおどり出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスのほこさきを避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってそのあとを追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーをやりで突き殺した。それから彼のしがいを自分のチャリオットしばりつけてまたトロイの城壁を三度り廻した。……

私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである。何にも知らないはずのうちの小供も、始めは変な名だなあと云っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、うれしそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡なヤソきょうしんじゃの名前と一様に、ごうクラシカルな響を私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅のものからもとほど珍重されないようになった。

ヘクトーは多くの犬がたいていかかるジステンパーという病気のために一時入院した事がある。その時は子供がよくみまいに行った。私も見舞に行った。私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、なつかしい眼を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼のそばへ持って行って、右の手で彼の頭をでてやった。彼はその返礼に私の顔をところきらわずめようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、始めて医者のすすめる小量の牛乳をんだ。それまで首をかしげていた医者も、この分ならあるいはなおるかも知れないと云った。ヘクトーははたして癒った。そうしてうちへ帰って来て、元気に飛び廻った。

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日ならずして、彼は二三の友達をこしらえた。そのうちで最も親しかったのはすぐ前の医者の宅にいる彼と同年輩ぐらいのいたずらものであった。これはキリストきょうとふさわしいジョンという名前を持っていたが、その性質はいたんしゃのヘクトーよりもはるかに劣っていたようである。むやみに人にみつくくせがあるので、しまいにはとうとうころされてしまった。

彼はこの悪友を自分の庭に引き入れて勝手なろうぜきを働らいて私を困らせた。彼らはしきりに樹の根を掘って用もないのに大きな穴をけて喜んだ。きれいな草花の上にわざとねころんで、花も茎もようしゃなく散らしたり、倒したりした。

ジョンが殺されてから、ぶりょうな彼はよあそび昼遊びを覚えるようになった。散歩などに出かける時、私はよく交番のそばひなたぼっこをしている彼を見る事があった。それでも宅にさえいれば、よくうさん臭いものにえついて見せた。そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所辺から来るとおばかりになるかくべえじしの子であった。この子はいつでも「こんちは御祝い」と云って入って来る。そうしてうちの者から、パンの皮と一銭銅貨を貰わないうちは帰らない事に一人できめていた。だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。かえってヘクトーの方が、吠えながらしっぽまたの間にはさんで物置の方へ退却するのが例になっていた。要するにヘクトーは弱虫であった。そうして操行からいうと、ほとんどのらいぬえらぶところのないほどに堕落していた。それでも彼らに共通なひとなつっこい愛情はいつまでも失わずにいた。時々顔を見合せると、彼はかならず尾をって私に飛びついて来た。あるいは彼の背を遠慮なく私のからだりつけた。私は彼の泥足のために、衣服やがいとうよごした事が何度あるか分らない。

去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりのあいだついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。やまいがようやくおこたって、とこの外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間のえんに立って彼の姿をよいやみうちに認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかしいけがきの根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私のなさけに応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白いかたまりのまま垣根にこびりついてるだけであった。私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、かすかなあいしゅうを感ぜずにはいられなかった。

まだ秋の始めなので、どこのの雨戸もめられずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。私の立っていた茶の間の縁には、うちのものが二三人いた。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーの事をまるで念頭に置いていないように思われた。

私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてあるふとんの上に横になった。病後の私は季節に不相当なくろはちじょうえりのかかっためいせんのどてらを着ていた。私はそれを脱ぐのが面倒だから、そのままあおむけに寝て、手を胸の上で組み合せたなり黙っててんじょうを見つめていた。

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あくるあさ書斎の縁に立って、はつあきの庭のおもてを見渡した時、私は偶然また彼の白い姿をこけの上に認めた。私はゆうべの失望をかえすのがいやさに、わざと彼の名を呼ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。彼はたちきねがたえつけた石のちょうずばちの中に首を突き込んで、そこにたまっているあまみずをぴちゃぴちゃ飲んでいた。

この手水鉢はいつ誰が持って来たとも知れず、裏庭のすみころがっていたのを、引越した当時植木屋に命じて今の位置に移させたろっかくがたのもので、その頃はこけが一面にえて、側面に刻みつけたもんじも全く読めないようになっていた。しかし私には移す前一度はっきりとそれを読んだ記憶があった。そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常のにおいただよっていた。

ヘクトーは元気なさそうにしっぽを垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れるよだれを見た。

「どうかしてやらないといけない。病気だから」と云って、私は看護婦をかえりみた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。

私は次の日もとくさの中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再びうちへ帰って来なかった。

「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」

うちのものはこう云って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。とどけしょを出す時、種類という下へあいのこと書いたり、色という字の下へあかまだらと書いたこっけいかすかに胸に浮んだ。

彼がいなくなって約一週間もったと思う頃、一二丁へだたったある人の家から下女が使に来た。その人の庭にある池の中に犬のしがいが浮いているから引き上げてくびわを改ためて見ると、私の家の名前がりつけてあったので、知らせに来たというのである。下女は「こちらでめておきましょうか」と尋ねた。私はすぐくるまやをやって彼を引き取らせた。

私は下女をわざわざ寄こしてくれたうちがどこにあるか知らなかった。ただ私の小供の時分から覚えている古い寺のそばだろうとばかり考えていた。それはやまがそこうの墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古いえのきが一本立っているのが、私の書斎の北の縁からあまたの屋根を越してよく見えた。

車夫はむしろの中にヘクトーの死骸をくるんで帰って来た。私はわざとそれに近づかなかった。しらきの小さい墓標を買ってさして、それへ「秋風の聞えぬ土にめてやりぬ」という一句を書いた。私はそれをうちのものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓からひがしきたに当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、ガラスどのうちから、しもに荒された裏庭をのぞくと、二つともよく見える。もう薄黒くちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだなまなましく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。

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私はその女に前後四五回会った。

始めてたずねられた時私はるすであった。取次のものが紹介状を持って来るように注意したら、彼女は別にそんなものを貰う所がないといって帰って行ったそうである。

それから一日ほどって、女は手紙でじかに私の都合を聞き合せに来た。その手紙の封筒から、私は女がつい眼と鼻の間に住んでいる事を知った。私はすぐ返事を書いて面会日を指定してやった。

女は約束の時間をたがえず来た。かしわもんのついたはでな色のちりめんの羽織を着ているのが、一番先に私の眼に映った。女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。それで話は多くそちらの方面へばかり延びて行った。しかし自分の著作についてしょけんの人からさんじばかり受けているのは、ありがたいようではなはだこそばゆいものである。実をいうと私はへきえきした。

一週間おいて女は再び来た。そうして私のさくぶつをまためてくれた。けれども私の心はむしろそういう話題を避けたがっていた。三度目に来た時、女は何かに感激したものと見えて、たもとからハンケチを出して、しきりに涙をぬぐった。そうして私に自分のこれまで経過して来た悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。しかしその話を聴かない私には何という返事も与えられなかった。私は女に向って、よし書くにしたところで迷惑を感ずる人が出て来はしないかといて見た。女は存外はっきりした口調で、じつみょうさえ出さなければ構わないと答えた。それで私はとにかく彼女の経歴をくために、とくに時間をこしらえた。

するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れて来て、例の話はこの次に延ばして貰いたいと云った。私にはもとより彼女の違約を責める気はなかった。二人を相手に世間話をして別れた。

彼女が最後に私の書斎にすわったのはその次の日の晩であった。彼女は自分の前に置かれたきりてあぶりの灰を、しんちゅうひばしで突ッつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙っている私にこう云った。

「この間はこうふんして私の事を書いていただきたいように申し上げましたが、それはめに致します。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」

私はそれに対してこう答えた。

「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたいことがらが出て来てもけっして書くきづかいはありませんから御安心なさい」

私が充分な保証を女に与えたので、女はそれではと云って、彼女の七八年前からの経歴を話し始めた。私はもくねんとして女の顔を見守っていた。しかし女は多く眼を伏せてひばちの中ばかり眺めていた。そうしてきれいな指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。

時々に落ちないところが出てくると、私は女に向って短かい質問をかけた。女はたんかんにまた私のなっとくできるように答をした。しかしたいていは自分一人で口をいていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。

やがて女の頬はほてって赤くなった。おしろいをつけていないせいか、その熱った頬の色が著るしく私の眼に着いた。うつむきになっているので、たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意をく種になった。

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女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわめたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――

「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」

私は返答に窮した。

「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」

私はどちらにでも書けると答えて、あんに女のけしきをうかがった。女はもっと判然したあいさつを私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――

「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていてさしつかえないでしょう。しかし美くしいものやけだかいものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

「先生はどちらをおえらびになりますか」

私はまたちゅうちょした。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。

「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのがこわくってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂のぬけがらのように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」

私は女が今広いせかいの中にたった一人立って、いっすんも身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。

私は服薬の時間を計るため、客の前もはばからず常にたもとどけいざぶとんわきに置くくせをもっていた。

「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女はいやな顔もせずに立ち上った。私はまた「夜がけたから送って行って上げましょう」と云って、女と共にくつぬぎに下りた。

その時美くしい月が静かなを残るくまなく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびくげたの音はまるで聞こえなかった。私はふところでをしたまま帽子もかぶらずに、女のあといて行った。曲り角の所で女はちょっとえしゃくして、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。

次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」とまじめに尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、またうちの方へ引き返したのである。

むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれがたっとい文芸上のさくぶつを読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。

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不愉快にちた人生をとぼとぼたどりつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。

「死は生よりもたっとい」

こういう言葉が近頃では絶えず私の胸をおうらいするようになった。

しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私のふぼ、私のそふぼ、私のそうそふぼ、それから順次にさかのぼって、百年、二百年、ないし千年万年の間にじゅんちされた習慣を、私一代でげだつする事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。

だから私のひとに与えるじょごんはどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類のいちにんとして他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。

「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」

こうした言葉は、どんなになさけなく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠におもむこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫をらしている。こんなごうもんに近いしょさが、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字にしゅうちゃくしているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。

その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸をきずつけられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人のおもてを輝やかしていた。

彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥にめていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめるてきずそのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。

私は彼女に向って、すべてをいやす「時」の流れに従ってくだれと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいにげて行くだろうと嘆いた。

公平な「時」は大事なたからものを彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。はげしい生の歓喜を夢のようにぼかしてしまうと同時に、今の歓喜に伴なうなまなましい苦痛もける手段をおこたらないのである。

私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女のきずぐちからしたたる血潮を「時」にぬぐわしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。

かくして常に生よりも死をたっといと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快にちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、ぼんような自然主義者としてしょうこ立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。

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私が高等学校にいた頃、比較的親しくつきあった友達の中にOという人がいた。その時分からあまり多くのほうゆうを持たなかった私には、自然Oとゆききしげくするような傾向があった。私はたいてい一週に一度くらいの割で彼をたずねた。ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさずまさごちょうに下宿している彼を誘って、おおかわの水泳場まで行った。

Oは東北の人だから、口のかたに私などと違ったどんでゆったりした調子があった。そうしてその調子がいかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼のおこったり激したりする顔を見る事ができずにしまった。私はそれだけでも充分彼を敬愛にあたいするちょうしゃとして認めていた。

彼の性質がおうようであるごとく、彼の頭脳も私よりははるかに大きかった。彼は常に当時の私には、考えの及ばないような問題を一人で考えていた。彼は最初から理科へ入る目的をもっていながら、好んで哲学の書物などをひもといた。私はある時彼からスペンサーの第一原理という本を借りた事をいまだに忘れずにいる。

空の澄み切ったあきびよりなどには、よく二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へへいごしに差し出たの枝から、黄色に染まったさい葉が、風もないのに、はらはらと散るけしきをよく見た。それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだ事があった。ただ秋の色のくうに動くのを美くしいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密のふちょうとして怪しい響を耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はそのあとから平生のゆったりした調子でひとりごとのように説明した時も、私には一口のあいさつもできなかった。

彼は貧生であった。おおがんのんそばに間借をしてじすいしていた頃には、よくからざけを焼いてびしい食卓に私を着かせた。ある時はもちがしの代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った。

大学を卒業すると間もなく彼は地方の中学に赴任した。私は彼のためにそれを残念に思った。しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかも知れない。彼自身は無論平気であった。それから何年かののちに、たしか三年の契約で、支那のある学校の教師に雇われて行ったが、任期がちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。それも秋田から横手にうつされて、今ではかばふとの校長をしているのである。

去年上京したついでに久しぶりで私をたずねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。するとろうかづたいへやの入口まで来た彼は、ざぶとんの上にきちんとすわっている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」と云った。

その時むこうの言葉が終るか終らないうちに「うん」という返事がいつか私の口をすべって出てしまった。どうして私のわるくちを自分で肯定するようなこのあいさつが、それほど自然に、それほどぞうさなく、それほどこだわらずに、するすると私ののどすべり越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。

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向い合って座を占めたOと私とは、何より先に互の顔を見返して、そこにまだむかしのままのおもかげが、なつかしい夢の記念のように残っているのを認めた。しかしそれはあたかも古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれていると同じ事で、薄暗く一面にかすんでいた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再びもとの姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでの間にはさまっている過去という不思議なものをかえりみない訳に行かなかった。

Oは昔しりんごのように赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適したほどふっくりしたりんかくに包まれた顔をもっていた。今見てもやはり赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとはどこか違っている。

私は彼に私のくちひげげを見せた。彼はまた私のために自分の頭をでて見せた。私のは白くなって、彼のは薄くげかかっているのである。

「人間もかばふとまで行けば、もう行く先はなかろうな」と私がからかうと、彼は「まあそんなものだ」と答えて、私のまだ見た事のない樺太の話をいろいろして聞かせた。しかし私は今それをみんな忘れてしまった。夏は大変好い所だという事を覚えているだけである。

私は幾年ぶりかで、彼といっしょに表へ出た。彼はフロックの上へ、とんびのようながいとうをぶわぶわに着ていた。そうして電車の中でつりかわにぶら下りながら、かくしからハンケチに包んだものを出して私に見せた。私は「なんだ」といた。彼は「くりまんじゅうだ」と答えた。栗饅頭はさっき彼が私のうちにいた時に出した菓子であった。彼がいつの間に、それを手帛に包んだろうかと考えた時、私はちょっと驚かされた。

「あの栗饅頭を取って来たのか」

「そうかも知れない」

彼は私の驚いた様子を馬鹿にするような調子でこう云ったなり、そのハンケチの包をまたかくしに収めてしまった。

我々はその晩帝劇へ行った。私の手に入れた二枚の切符に北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて、南側へ廻ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」と私に注意した。私はちょっと立ち留まって考えた上、「なるほど方角はかばふとの方がたしかなようだ」と云いながら、また指定された入口の方へ引き返した。

彼は始めから帝劇を知っていると云っていた。しかしばんさんを済ましたあとで、自分の席へ帰ろうとするとき、誰でもやる通り、二階と一階のドアーを間違えて、私から笑われた。

折々隠袋からきんぶちめがねを出して、手に持ったすりものを読んで見る彼は、その眼鏡をはずさずに遠い舞台を平気で眺めていた。

「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」

「なにチャブドーだ」

私にはこのチャブドーという意味が全く解らなかった。彼はそれを大差なしという支那語だと云って説明してくれた。

その夜の帰りに電車の中で私と別れたぎり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北のはずれに行ってしまった。

私は彼をおもい出すたびに、たつじんという彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷にざされた北のはてに、まだ中学校長をしているのだなと思う。

十一[編集]

ある奥さんがある女の人を私に紹介した。

「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」

私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。いままで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいのかさになる大部のものも交っていた。それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務をはたしたものと心得て満足していた。ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せてもらいたいと頼んだりするのが常であった。中にはひとに読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだんいやになって来た。

もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなからちのあかない場合もないとは限らなかった。

私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。約束の女が私の座敷へ来て、ざぶとんの上に坐ったのはそれから間もなくであった。びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、ガラスどごしに眺めながら、私は女にこんな話をした。――

「これは社交ではありません。御互にていさいの好い事ばかり云い合っていては、いつまでったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければだめですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚してもよろしいのです。だから私が何か云ったら、腹に答えべき或物を持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥をきはしまいか、または失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗りつぶした所ばかり示すくふうをするならば、私がいくらあなたに利益を与えようとあせっても、私の射る矢はことごとくあだやになってしまうだけです。

「これは私のあなたに対する注文ですが、その代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。ありのままをさらすよりほかに、あなたを教えるみちはないのです。だから私の考えのどこかにすきがあって、その隙をもしあなたから見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果におちいるのです。教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。教える人もおのれをあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れてかんぱし合うのです。

「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。その代りあなたの方でもに落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の主意を了解している以上、私はけっして怒るはずはありませんから。

「要するにこれはただ現状維持を目的として、うわすべりな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」

女は解ったと云って帰って行った。

十二[編集]

私にたんざくを書けの、詩を書けのと云って来る人がある。そうしてその短冊やらぬめやらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、まずい字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。

私はすべての人間を、毎日毎日恥をくために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字をひとに送ってやるくらいのしょさは、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんなまねのしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらのてすうさえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。

そのうちで一番私を不愉快にしたのはばんしゅうさごしにいる岩崎という人であった。この人は数年前よくはがきで私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、そのつど向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。そののちの事であるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へほうしておいたら、下女がそうじをする時、つい書物と書物の間へはさみ込んで、まずていよくしまいくした姿にしてしまった。

この小包と前後して、名古屋から茶の缶がわたくしあてで届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山のを返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰ったおぼえのない私は、ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「おおかた気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。

それから二三カ月った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中にすわっているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、のあたり見て驚ろいた。さっそく封をいて中をしらべたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまたびっくりした。

包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという文句が書いてあった。私はいよいよ驚ろいた。

しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とははるけ離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私はていねいな手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。

十三[編集]

私はこれでいちだんらくついたものと思って、例のさごしの男の事を、それぎり念頭に置かなかった。するとその男がまた短冊を封じてこした。そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。私はそのうち書こうと云ってやった。しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。けれどもしつこいこの男の方ではけっしてそのままに済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。その催促は一週に一遍か、二週に一遍の割できっと来た。それが必ずはがきに限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓失敬申し候えども」とあるにきまっていた。私はその人の端書を見るのがだんだん不愉快になって来た。

同時に向うの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改たまった。私は返す事はたやすいが、そのてかずが面倒だから、東京まで取りに来れば返してやると云ってやりたくなった。けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格にかかわるような気がしてあえてし切れなかった。返事を受け取らない先方はなおの事催促をした。茶を返さないならそれでも好いから、金一円をその代価として送って寄こせというのである。私の感情はこの男に対してしだいにすさんで来た。しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊はくしてしまった、以来端書を寄こす事はいっさい無用であると書いてやった。そうして心のうちで、非常ににがにがしい気分を経験した。こんな非紳士的なあいさつをしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えるとなさけなかったからである。

しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊はくしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申しそうらえどもという文句が規則通り繰り返されていた。

その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。

しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使うきわめて安いねずみいろのものであったが、彼はわざとそれに切手をらないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずにとうかんしていた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。

ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、よごれたとか云って、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」という依頼状がななようか頃に届いた。

私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。

十四[編集]

ついこの間むかし私のうちへ泥棒の入った時の話を比較的くわしく聞いた。

姉がまだ二人ともかたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉のはやったやかましい頃なのである。

ある夜一番目の姉が、よなかこように起きたあと、手を洗うために、くぐりどを開けると、狭い中庭のすみに、壁をしつけるようないきおいで立っている梅の古木のねがたが、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜戸をめてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。

私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらいあざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時えんがわに立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。

広い額、浅黒い皮膚、小さいけれどもはっきりしたりんかくを具えている鼻、ひとなみより大きいふたえまぶちの眼、それからおさわという優しい名、――私はただこれらをそうごうして、その場合における姉の姿を想像するだけである。

しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかというけねんが起った。それで彼女は思い切ってまたきりどを開けて外をのぞこうとするとたんに、一本の光るぬきみが、やみの中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあといた。そのひまに、覆面をした、がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。泥棒のにんずはたしか八人とか聞いた。

彼らは、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金をせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かどこくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父はふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。

その事があって以来、私の家では柱をくみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、またくろそうぞくを着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれがきりくみにしてある柱かまるで分らなくなっていた。

泥棒が出て行く時、「このうちは大変しまりの好いうちだ」と云ってめたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。

私はこの話をさいから聞いた。妻はまたそれを私の兄からちゃうけばなしに聞いたのである。

十五[編集]

私が去年の十一月学習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包を後から届けてくれた。立派なみずひきがかかっているので、それをはずして中を改めると、五円札が二枚入っていた。私はその金を平生から気の毒に思っていた、或懇意な芸術家に贈ろうかしらと思って、あんに彼の来るのを待ち受けていた。ところがその芸術家がまだ見えない先に、何か寄附の必要ができてきたりして、つい二枚とも消費してしまった。

一口でいうと、この金は私にとってけっして無用なものではなかったのである。世間の通り相場で、立派に私のために消費されたというよりほかに仕方がないのである。けれどもそれをひとにやろうとまで思った私の主観から見れば、そんなにありがたみの附着していない金には相違なかったのである。打ち明けた私の心持をいうと、こうした御礼を受けるより受けない時の方がよほどさっぱりしていた。

くろやなぎかいしゅう君がちょぎゅうかいの講演の事で見えた時、私は話のついでとして一通りその理由を述べた。

「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向うでも好意だけで私にむくいたらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初から御礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」

その時K君はなっとくできないといったような顔をした。そうしてこう答えた。

「しかしどうでしょう。その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくって、あなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。そう見る訳には行かないのですか」

「品物ならはっきりそう解釈もできるのですが、不幸にも御礼が普通営業的のばいばいに使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」

「どっちとも取れるなら、このさい善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか」

私はもっともだとも思った。しかしまたこう答えた。

「私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから、無論富裕とは云えません。しかしどうかこうか、それだけでこんにちを過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事にかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、何よりもたっとい報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。――その貴重な余地をふしょくさせられたような心持になります」

K君はまだ私の云う事をうけがわない様子であった。私も強情であった。

「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円の御礼を持って行くでしょうか、あるいは失礼だからと云って、ただあいさつだけにとどめておくでしょうか。私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが」

「さあ」といっただけでK君は判然した返事を与えなかった。私にはまだ云う事が少し残っていた。

おのぼれかは知りませんが、私の頭は三井岩崎にくらべるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています」

「そうですとも」とK君はうなずいた。

「もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば、私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常なうるおいを与えるなら、またほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが、現に私はそれをひとにやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響をこうむらないのだから」

「よく考えて見ましょう」といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。

十六[編集]

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪をって貰った事がある。

平生は白いかなきんの幕で、ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。

亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐあいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻って、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむかし寺町の郵便局のそばに店を持って、今と同じように、散髪をとせいとしていた事が解った。

「高田のだんななどにもだいぶ御世話になりました」

その高田というのは私のいとこなのだから、私も驚いた。

「へえ高田を知ってるのかい」

「知ってるどころじゃございません。しじゅうとくとく、ってひいきにして下すったもんです」

彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろていねいな方であった。

「高田も死んだよ」と私がいうと、彼はびっくりした調子で「へッ」と声をげた。

「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろおなくなりになりました」

「なに、ついこないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」

彼はそれからこの死んだいとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、ついきのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

「あのそらきゅうゆうていの横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉をぎ足した。

「うん、あの二階のあるうちだろう」

「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、ほうぼうさまから御祝い物なんかあって、大変ごさかんでしたがね。それからあとでしたっけか、ぎょうがんじじないへ御引越なすったのは」

この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」

「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」

私はさかなまちを通るたびに、その寺内へ入るたびやの角の細いこうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数をかんじょうして見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。

「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」

「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。あずまやってね。ちょうどそら高田の旦那のまんむこうでしたろう、東家のごじんとうのぶら下がっていたのは」

十七[編集]

私はその東家をよく覚えていた。いとこうちのついむこうなので、両方のものがではいりのたびに、顔を合わせさえすればあいさつをし合うぐらいのあいだがらであったから。

その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大のほうとうもので、よく宅のかけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。彼が何で従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらくうちを追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。

こういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋のたけごうしの窓から、「こんちは」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度はごあいきょうに遊びに来る。といった風の調子であった。

私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変なはにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙ってすみの方にひっこんでばかりいた。それでも私は何かのひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何かおごらなければならないので、私は人の買ったすしや菓子をだいぶ食った。

一週間ほどってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私はこくらはかまいて四角張っていたが、懐中には一銭のこづかいさえ無かった。

「僕はぜにがないからいやだ」

「好いわ、わたしが持ってるから」

この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、きれいじゅばんそででしきりに薄赤くなったふたえまぶちこすっていた。

その私は「おさくが好い御客に引かされた」といううわさを、いとこうちで聞いた。従兄の家では、この女の事をさきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会もないだろうと考えた。

ところがそれからだいぶ経って、私が例のたつじんといっしょに、芝のさんないかんこうばへ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿にえて、彼女はもうひんの好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女のそばについていた。……

私は床屋の亭主の口から出たあずまやという芸者屋の名前の奥にひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。

「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。

「知ってるどころか、ありゃ私のめいでさあ」

「そうかい」

私は驚ろいた。

「それで、今どこにいるのかね」

「御作はくなりましたよ、旦那」

私はまた驚ろいた。

「いつ」

「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」

「へええ」

「しかもウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」

私は帰ってガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

十八[編集]

私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分のまわりがきちんと片づかないで困りますが、どうしたらよろしいものでしょう」と聞いた。

この女はある親戚のうちきぐうしているので、そこがてぜまな上に、子供などがうるさいのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。

「どこかさっぱりしたうちを探して下宿でもしたら好いでしょう」

「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」

私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。

「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」

「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」

「どんなものと云って、まっすぐな直線なのです」

私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう云った。

「物には何でも中心がございましょう」

「それは眼で見る事ができ、ものさしで計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」

女は出せるとも出せないとも云わずに、庭の方を見たり、ひざの上で両手をったりしていた。

「あなたの直線というのはたとえじゃありませんか。もし比喩なら、まると云っても四角と云っても、つまり同じ事になるのでしょう」

「そうかも知れませんが、形や色がしじゅう変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」

「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」

こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。

「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたのとしや教育や学問で、そうきちんと片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来てもだめです。坊さんの所へでもいらっしゃい」

すると女が私の顔を見た。

「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上にととのっていらっしゃるように思いました」

「そんなはずがありません」

「でも私にはそう見えました。内臓の位置までがととのっていらっしゃるとしか考えられませんでした」

「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなにしじゅう病気などはしません」

「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。

「それはあなたが私より偉いしょうこです」と私も答えた。

女はふとんすべり下りた。そうして、「どうぞおからだごたいせつに」と云って帰って行った。

十九[編集]

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、しゅびきうちか朱引外か分らないへんぴすみの方にあったに違ないのである。

それでもくらづくりうちが狭い町内に三四軒はあったろう。坂をあがると、右側に見えるおうみやでんべえというやくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広いこくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、ますざけを飲んで行ったという履歴のあるいえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘のおきたさんのながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日のひるすぎなどに、私はよくうっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんのおさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、たたずんでいた事がある。そのおかげで私はとうとう「旅のころもすずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。

このほかには棒屋が一軒あった。それからかじやも一軒あった。少しはちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、つきあいからいうと、まるでそかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいのあいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師のていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事もひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのがれんだのというふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうがなすとう茄子のかごが、それらのふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

どんないなかへ行ってもありがちなとうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだなわのれんがかかっていてかどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったようにきれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先にせいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深いたけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩のおつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋からこがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。

二十[編集]

この豆腐屋の隣によせが一軒あったのを、私はゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末にひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。

その席亭のあるじというのは、町内のとびがしらで、時々めくらじまの腹掛に赤いすじの入ったしるしばんてんを着て、突っかけぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまたおふじさんという娘があって、その人のきりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それがくちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。

この養子が来る時分には、もうよせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母からこづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どのけんとうから歩いて来るにしても、みちぶしんができて、いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうしおいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになってはなしかのやる講釈師のまねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のないちゃばたけとか、たけやぶとかまたは長いたんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいていかぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでもやらいの坂をあがって酒井様のみやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でもいんしんとして、大空が曇ったようにしじゅう薄暗かった。

あの土手の上にふたかかえみかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、そのすきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、ひよりげたなどをいて出ようものなら、きっとひどい目にあうにきまっていた。あすこのしもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。

そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高いはしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さないちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。なわのれんの隙間からあたたかそうなにしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かな」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

二十一[編集]

私の家に関する私の記憶は、そうじてこういう風にひなびている。そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。だから今生き残っている兄から、ついこないだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんなはでな暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。

その頃の芝居小屋はみんなさるわかちょうにあった。電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんなよなかに起きてしたくをした。途中がぶっそうだというので、用心のため、下男がきっとともをして行ったそうである。

彼らはつくどを下りて、柿の木横町からあげばへ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期にちた心をもって、のろのろほうへいこうしょうの前から御茶の水を通り越して柳橋までがれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。

大川へ出た船は、流をさかのぼってあずまばしを通り抜けて、いまどゆうめいろうそばに着けたものだという。姉達はそこからあがって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ずたかどまに限られていた。これは彼らのなりなり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。

幕の間には役者にいている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこのちりめんの模様のある着物の上にはかまいた男のあといて、たのすけとかとっしょうとかいうひいきの役者の部屋へ行って、せんすなどをいて貰って帰ってくる。これが彼らのみえだったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。

帰りにはもと来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。ぶようじんだからと云って、下男がまたちょうちんけてむかえに行く。うちへ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だからよなかから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……

こんなはなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。

もっとも私の家もさむらいぶんではなかった。はでつきあいをしなければならないなぬしという町人であった。私の知っている父は、はげあたまじいさんであったが、若い時分には、いっちゅうぶしを習ったり、なじみの女にちりめんつみやぐをしてやったりしたのだそうである。青山にでんちがあって、そこから上って来る米だけでも、うちのものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米をく音をしじゅう聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、げんか玄関ととなえていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、つくぼうや、そでがらみさつまたや、また古ぼけたばじょう提灯などが、並んでけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

二十二[編集]

この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。そうしてとこについてから床を上げるまでに、ほぼひとつきひかずつぶしてしまう。

私の病気と云えば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病み始めより回復期に向った時の方が、余計せこけてふらふらする。一カ月以上かかるのもおもにこの衰弱がたたるからのように思われる。

私のたちいが自由になると、くろわくのついたすりものが、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、シルクハットなどをかぶって、葬式の供に立つ、くるまってさいじょうけつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりもとしが若くって、平生からその健康を誇っていた人もまじっている。

私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。

私としてこういう黙想にふけるのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分のいちや、からだや、才能や――すべておのれというもののおり所を忘れがちな人間のいちにんとして、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。どきょうの間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私というけいがいを、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。

或人が私に告げて、「ひとの死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々たおれるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話をかされた時に、こんな問答をした覚えもある。

「ああしてしじゅう落ちたり死んだりしたら、後から乗るものはこわいだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」

「ところがそうでないと見えます」

「なぜ」

「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」

私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。

不思議な事に私の寝ている間には、くろわくの通知がほとんど来ない。去年の秋にも病気がなおったあとで、三四人の葬儀に列したのである。その三四人の中に社の佐藤君もはいっていた。私は佐藤君がある宴会の席で、社から貰ったぎんぱいを持って来て、私に酒をすすめてくれた事を思い出した。その時彼の踊った変な踊もまだ覚えている。この元気なくっきょうな人のとむらいに行った私は、彼が死んで私が生残っているのを、別段の不思議とも思わずにいる時の方が多い。しかし折々考えると、自分の生きている方が不自然のような心持にもなる。そうして運命がわざと私をぐろうするのではないかしらと疑いたくなる。

二十三[編集]

今私の住んでいる近所にきくいちょうという町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々ひょうろうして帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にかねごろの方まで延びていた。

私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響を私に与えてくれない。しかし書斎にひとり坐って、ほおづえを突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私のれんそうが、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらくていかいし始める事がある。

この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父がこしらえたものに相違ないのである。

私の家のじょうもんいげたに菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものからおすわったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父はなぬしがなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もいたかも知れないが、それをほこりにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、いやな心持はくに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。

父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。

私がわせだに帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今のすまいに移る前、うちを探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階のふるがわらが少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。

早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表からのぞくと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私はねごろちゃばたけたけやぶひとめ眺めたかった。しかしそのこんせきはどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私のけんとうは、当っているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。

私はぼうぜんとしてちょりつした。なぜ私の家だけが過去のざんがいのごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれがくずれてしまえば好いのにと思った。

「時」は力であった。去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家はきれいに取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらなかこいをして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんどきけいじのようになっていたが、どこかみおぼえのあるような心持を私に起させた。むかし「影しんし松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

二十四[編集]

「そんな所にって、よくこんにちまで無事にすんだものですね」

「まあどうかこうか無事にやって来ました」

私達の使った無事という言葉は、なんにょの間に起る恋のはらんがないという意味で、云わば情事の反対をしたようなものであるが、私のついきゅうしんは簡単なこの一句の答で満足できなかった。

「よく人が云いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好な男でも、菓子がいやになるって、おひがんおはぎなどをこしらえているところをうちで見ていても分るじゃありませんか、拵えるものは、ただ御萩をおじゅうに詰めるだけで、もうげんなりした顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」

「そういう訳でもないようです。とにかくはたち少し過ぎまでは平気でいたのですから」

その人はある意味において好男子であった。

「たといあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたってさそわれがちになるのが当り前でしょう」

「今からふり返って見ると、なるほどこういう意味でああいう事をしたのだとか、あんな事を云ったのだとか、いろいろ思い当る事がないでもありません」

「じゃ全く気がつかずにいたのですね」

「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手にきつけられる事ができなかったのです」

私はそれが話の終りかと思った。二人の前には正月のぜんえてあった。客は少しも酒を飲まないし、私もほとんどさかずきに手を触れなかったから、けんしゅうというものは全くなかった。

「それだけで今日まで経過して来られたのですか」と私は吸物をすすりながら念のためにいて見た。すると客は突然こんな話を私にして聞かせた。

「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論しろうとではないのでした。しかしその女はもういないのです。首をくくって死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、だんなが二人あって、双方が意地ずくで、身受の金をげにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなとぎりぜめにもしたらしいのです。……」

「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」

「当時の私はでっちの少し毛のえたようなもので、とてもどうもできないのです」

「しかしそのげいしゃはあなたのために死んだのじゃありませんか」

「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」

「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」

「あるいはそうかも知れません」

「あなたはねざめが悪かありませんか」

「どうも好くないのです」

元日にった私の座敷は、二日になってさびしいくらい静かであった。私はその淋しい春の松の内に、こういうあわれな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。客はまじめな正直な人だったから、それを話すにも、ほとんどつやっぽい言葉を使わなかった。

二十五[編集]

私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。

或日私はきりどおしの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あったぎゅうやそばに、よせの看板がいつでもかかっていた。

雨の降る日だったので、私は無論かさをさしていた。それがてつおなんどはちけんの深張で、上からってくるしずくが、じねんぼくを伝わって、私の手をらし始めた。人通りの少ないこのこうじは、すべての泥を雨で洗い流したように、あしだの歯にかかきたないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見ればびしかった。しじゅう通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼をくものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心をふしょくするような不愉快なかたまりが常にあった。私はいんうつな顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。

ひかげちょうよせの前まで来た私は、突然一台のほろぐるまに出合った。私と俥の間には何のへだたりもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。

私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿にみとれていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、ていねいえしゃくを私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうそのあいさつとともに、相手が、おおつかくすおさんであった事に、始めて気がついた。

次に会ったのはそれからいくかめだったろうか、くすおさんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。

「実はどこの美くしいかたかと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」

その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔をあからめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。

それからずっとって、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へたずねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私はさいけんかをしていた。私はいやな顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。

その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へあやまりに出かけた。

「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまたにがにがしい顔を見せるのも失礼だと思って、わざとひっこんでいたのです」

これに対する楠緒さんのあいさつも、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。

楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使ってさしつかえないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよかんの中」というたむけの句を楠緒さんのためにんだ。それを俳句の好きなある男がうれしがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

二十六[編集]

ますさんがどうしてそんなにおちぶれたものか私には解らない。何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄さんも、うちつぶして私の所へころがり込んでいそうろうになっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。小供の時分本町のいわしやへ奉公に行っていた時、浜の西洋人がかわいがって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどとしじゅう話していた。

二人とも私の母方のいとこに当る男だったから、その縁故で、益さんはおととに会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥までせんべいの袋などをてみやげに持って、よく訪ねて来た。

益さんはその時何でも芝のはずれか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しののんきな生活を営んでいたらしいので、うちへ来るとよく泊まって行った。たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などとおどかしたものである。

当時二番目と三番目の兄は、まだなんこうへ通っていた。南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわちこんにちの大学へはいそしょくになっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関にきりの机を並べて、あしたしたよみをする。下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、それからそれを机の上へ伏せて、口の内で今読んだ通りをあんしょうするのである。

その下読が済むと、だんだん益さんが必要になって来る。庄さんもいつの間にかそこへ顔を出す。一番目の兄も、きげんの好い時は、わざわざ奥から玄関まででばって来る。そうしてみんないっしょになって、益さんにからかい始める。

「益さん、西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだろう」

「そりゃ商売だからいやだって仕方がありません、持って行きますよ」

「益さんは英語ができるのかね」

「英語ができるくらいならこんなまねをしちゃいません」

「しかし郵便ッとか何とか大きな声を出さなくっちゃならないだろう」

「そりゃ日本語で間に合いますよ。異人だって、近頃は日本語が解りますもの」

「へええ、むこうでも何とか云うのかね」

「云いますとも。ペロリの奥さんなんか、あなたよろしいありがとうと、ちゃんと日本語であいさつをするくらいです」

みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。それからまた「益さん何て云うんだって、その奥さんは」と何遍も一つ事をいては、いつまでも笑いの種にしようとたくらんでかかる。益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「あなたよろしい」をやめにしてしまう。すると今度は「じゃ益さん、のなかいっぽんすぎをやって御覧よ」と誰かが云い出す。

「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」

「まあ好いから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」

益さんはそれでもにやにやして応じない。私はとうとう益さんの野中の一本杉というものをかずにしまった。今考えると、それは何でも講釈かにんじょうばなしの一節じゃないかしらと思う。

私の成人する頃には益さんももううちへ来なくなった。おおかた死んだのだろう。生きていれば何かたよりのあるはずである。しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。

二十七[編集]

私は芝居というものに余り親しみがない。ことに旧劇は解らない。これは古来からその方面で発達して来た演芸上の約束を知らないので、舞台の上にかいてんされる特別の世界に、同化する能力が私に欠けているためだとも思う。しかしそればかりではない。私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いている事である。それが私に、ちゅうごしと云ったような落ちつけない心持を引き起させるのも恐らく理の当然なのだろう。

しかし舞台の上に子供などが出て来て、かんの高い声で、あわれっぽい事などを云う時には、いかな私でも知らず知らず眼に涙がにじみ出る。そうしてすぐ、ああだまされたなと後悔する。なぜあんなに安っぽい涙をこぼしたのだろうと思う。

「どう考えても騙されて泣くのはいやだ」と私はある人に告げた。芝居好のその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙をひかにしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」と注意した。

私はその説に不服だったので、いろいろの方面からむこうを納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画の方にすべって行った。その男はこの間参考品として美術協会に出たじゃくちゅうぎょぶつを大変にうれしがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいううわさであった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。

「いったい君にを論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼をばとうした。するとこのいちごんもとになって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんで云うと、すべての芸術は同じみなもとからいて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他はおのずから解し得られるりくつだというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。

「じゃ小説を作れば、自然柔道もうまくなるかい」と私がじょうだん半分に云った。

「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。

芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、さべつかんって始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。

こういうのがその時の私のろんしであった。そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈をくだしてやる余地はいくらでもあったのである。

しかしその時座にいたいちにんが、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得た事は云わなかった。言葉づかいさえ少しへべれけであった。初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。

「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいに云い出した。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。

「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。

これは今年の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時のけんかについては一口も云わない。

二十八[編集]

ある人が私のうちの猫を見て、「これは何代目の猫ですか」といた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、そのじつ三代目になっていた。

初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代目のしょうがいは、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。私は誰がそれをどこから貰って来たかよく知らない。しかし手のひらに載せれば載せられるような小さいかっこうをして、彼がそこいらじゅうい廻っていた当時を、私はまだ記憶している。この可憐な動物は、ある朝家のものが床をげる時、誤って上から踏み殺してしまった。ぐうという声がしたので、ふとんの下にもぐんでいる彼をすぐ引き出して、相当のてあてをしたが、もう間に合わなかった。彼はそれからいちんちふつかしてついに死んでしまった。そのあとへ来たのがすなわち真黒な今の猫である。

私はこの黒猫をかわいがってもにくがってもいない。猫の方でもうちじゅうのそのそ歩き廻るだけで、別に私のそばへ寄りつこうという好意を現わした事がない。

ある時彼は台所のとだなへ這入って、なべの中へ落ちた。その鍋の中にはごまの油がいっぱいあったので、彼のからだはコスメチックでも塗りつけたように光り始めた。彼はその光る身体で私の原稿紙の上に寝たものだから、油がずっと下までとおって私をずいぶんな目にわせた。

去年私の病気をする少し前に、彼は突然皮膚病にかかった。顔から額へかけて、毛がだんだん抜けて来る。それをしきりに爪でくものだから、かさぶたがぼろぼろ落ちて、あとあかはだかになる。私はある日食事中この見苦しい様子を眺めていやな顔をした。

「ああ瘡葢をこぼして、もし小供にでも伝染するといけないから、病院へ連れて行って早く療治をしてやるがいい」

私はうちのものにこういったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから全治しまいとも思った。むかし私の知っている西洋人が、ある伯爵から好い犬を貰ってかわいがっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされ出したので、気の毒だからと云って、医者に頼んで殺して貰った事を、私はよく覚えていたのである。

「クロロフォームか何かで殺してやった方が、かえって苦痛がなくって仕合せだろう」

私はさんよたび同じ言葉をかえして見たが、猫がまだ私の思う通りにならないうちに、自分の方が病気でどっと寝てしまった。その間私はついに彼を見る機会をもたなかった。自分の苦痛が直接自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。

十月にって、私はようやく起きた。そうして例のごとく黒い彼を見た。すると不思議な事に、彼の醜い赤裸の皮膚にもとのような黒い毛がえかかっていた。

「おやなおるのかしら」

私は退屈な病後の眼を絶えず彼の上に注いでいた。すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。

私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かのいんねんがあるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか私にはまるで解らない。

二十九[編集]

私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。私を生んだ時、母はこんなとしをして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。

単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買をとせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。

私はその道具屋のがらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。

私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。

浅草から牛込へうつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らをおじいさん、おばあさんと呼んでごうも怪しまなかった。むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。

私は普通のすえのようにけっして両親からかわいがられなかった。これは私の性質がすなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろかこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。

馬鹿な私は、本当の両親をじじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。

私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼をましたが、あたりまっくらなので、誰がそこにうずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私にみみこすりをするようにこういうのである。――

「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたのおとっさんとおっかさんなのですよ。さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」

私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

三十[編集]

私がこうして書斎にすわっていると、来る人の多くが「もう御病気はすっかりおなおりですか」と尋ねてくれる。私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答にちゅうちょした。そうしてそのきょくいつでも同じ言葉をかえすようになった。それは「ええまあどうかこうか生きています」という変なあいさつことならなかった。

どうかこうか生きている。――私はこの一句を久しい間使用した。しかし使用するごとに、何だかふおんとうな心持がするので、自分でも実はやめられるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を云い現わすべき適当な言葉は、にどうしても見つからなかった。

ある日T君が来たから、この話をして、なおったとも云えず、癒らないとも云えず、何と答えて好いか分らないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。

「そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょう」

この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、「どうかこうか生きています」というあいさつをやめて、「病気はまだ継続中です」と改ためた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱をひきあいに出した。

「私はちょうどドイツれんごうぐんと戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、ざんごううちはいって、病気とにらめっくらをしているからです。私のからだは乱世です。いつどんなへんが起らないとも限りません」

或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。或人は黙っていた。また或人は気の毒らしい顔をした。

客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、じょうだんだと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念にられて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでもひそんでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時もはや彼らに向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果におちいった時、何と自分を解釈して見る気だろう。しょせん我々は自分で夢のに製造した爆裂弾を、思い思いにいだきながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。ただどんなものをいているのか、ひとも知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。

私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえってうらやましく思っている。

三十一[編集]

私がまだ小学校に行っていた時分に、いちゃんという仲の好い友達があった。喜いちゃんは当時なかちょうの叔父さんのうちにいたので、そうみちのりの近くない私の所からは、毎日会いに行く事が出来にくかった。私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向うから来るにきまっていた。そうしてその来る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんのもとであった。

喜いちゃんにはちちははがないようだったが、小供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。おそらくいて見た事もなかったろう。したがって喜いちゃんがなぜ松さんの所へ来るのか、その訳さえも知らずにいた。これはずっと後で聞いた話であるが、この喜いちゃんのおとっさんというのは、むかし銀座の役人か何かをしていた時、にせがねを造ったとかいうけんぎを受けて、じゅうろうしたまま死んでしまったのだという。それであとに取り残された細君が、喜いちゃんをせんぷの家へ置いたなり、松さんの所へ再縁したのだから、喜いちゃんが時々うみの母に会いに来るのは当り前の話であった。

何にも知らない私は、この事情を聞いた時ですら、別段変な感じも起さなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけまわって遊ぶ頃に、彼の境遇などを考えた事はただの一度もなかった。

喜いちゃんも私も漢学が好きだったので、解りもしないくせに、よく文章の議論などをして面白がった。彼はどこから聴いてくるのか、調べてくるのか、よくむずかしい漢籍の名前などをげて、私を驚ろかす事が多かった。

彼はある日私の部屋同様になっている玄関に上り込んで、ふところから二冊つづきの書物を出して見せた。それはたしかに写本であった。しかも漢文でつづってあったように思う。私は喜いちゃんから、その書物を受け取って、無意味にそこここをくりかえして見ていた。実は何が何だか私にはさっぱり解らなかったのである。しかし喜いちゃんは、それを知ってるかなどと露骨な事をいうたちではなかった。

「これはおおたなんぼの自筆なんだがね。僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」

私は太田南畝という人を知らなかった。

「太田南畝っていったい何だい」

しょくさんじんの事さ。有名な蜀山人さ」

無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。

「いくらなら売るのかい」といて見た。

「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」

私は考えた。そうして何しろねぎって見るのが上策だと思いついた。

「二十五銭なら買っても好い」

「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」

喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。私には無論その書物が解らないのだから、それほどうれしくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。私はその夜なんぽしゆうげん――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。

三十二[編集]

あくるひになると、喜いちゃんがまたぶらりとやって来た。

「君きのう買って貰った本の事だがね」

喜いちゃんはそれだけ云って、私の顔を見ながらぐずぐずしている。私は机の上に載せてあった書物に眼を注いだ。

「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」

「実はあすこのうちおやじに知れたものだから、阿爺が大変怒ってね。どうか返して貰って来てくれって僕に頼むんだよ。僕も一遍君に渡したもんだからいやだったけれども仕方がないからまた来たのさ」

「本を取りにかい」

「取りにって訳でもないけれども、もし君の方でさしつかえがないなら、返してやってくれないか。何しろ二十五銭じゃ安過ぎるっていうんだから」

この最後のいちごんで、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんやりひそんでいた不快、――不善の行為から起る不快――をはっきり自覚し始めた。そうして一方ではずるい私をいかると共に、一方では二十五銭で売った先方を怒った。どうしてこの二つの怒りを同時にやわらげたものだろう。私はにがい顔をしてしばらく黙っていた。

私のこの心理状態は、今の私が小供の時の自分を回顧して解剖するのだから、比較的めいりょうに描き出されるようなものの、その場合の私にはほとんど解らなかった。私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚し得なかったのだから、相手の喜いちゃんには無論それ以上わかるはずがなかった。かっこの中でいうべき事かも知れないが、としを取ったこんにちでも、私にはよくこんな現象が起ってくる。それでよくひとから誤解される。

喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭では本当に安過ぎるんだとさ」と云った。

私はいきなり机の上に載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に突き出した。

「じゃ返そう」

「どうも失敬した。何しろやすこうの持ってるものでないんだから仕方がない。おやじうちに昔からあったやつを、そっと売ってこづかいにしようって云うんだからね」

私はぷりぷりして何とも答えなかった。喜いちゃんはふところから二十五銭出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を触れようともしなかった。

「その金なら取らないよ」

「なぜ」

「なぜでも取らない」

「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな」

私はたまらなくなった。

「本は僕のものだよ。いったん買った以上は僕のものにきまってるじゃないか」

「そりゃそうに違いない。違いないがむこううちでも困ってるんだから」

「だから返すと云ってるじゃないか。だけど僕は金を取る訳がないんだ」

「そんな解らない事を云わずに、まあ取っておきたまいな」

「僕はやるんだよ。僕の本だけども、欲しければやろうというんだよ。やるんだから本だけ持ってったら好いじゃないか」

「そうかそんなら、そうしよう」

喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。そうして私は何の意味なしに二十五銭の小遣を取られてしまったのである。

三十三[編集]

世の中に住む人間のいちにんとして、私は全く孤立して生存する訳に行かない。自然ひとと交渉の必要がどこからか起ってくる。時候のあいさつ、用談、それからもっとったかけあい――これらから脱却する事は、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。

私は何でもひとのいう事をに受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託してかえりみないとすると、時々飛んでもない人からだまされる事があるだろう。その結果かげで馬鹿にされたり、ひやかされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。

それでは他はみならしのうそつきばかりと思って、始めから相手の言葉に耳もさず、心もかたむけず、或時はその裏面にひそんでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それでかしこい人だと自分を批評し、またそこに安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上恐るべき過失を犯す覚悟を、しょてから仮定して、かからなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。

もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種のくもんが起る。私は悪い人を信じたくない。それからまたい人を少しでもきずつけたくない。そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。

この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の大いなる疑問は常にそこにわだかまっている。

私のひがみを別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたというにがい記憶をもっている。同時に、先方の云う事やる事を、わざと平たく取らずに、あんにその人の品性に恥をかしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。

ひとに対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、あいまいな言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、まれには相手に彼相当な待遇を与えたりしている。

しかし今までの経験というものは、広いようで、そのじつはなはだ狭い。ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮をめぐらさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。

それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、きわめてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それをたしかめる機会をもたない事が多い。そこにまた私の疑いがしじゅうもやのようにかかって、私の心を苦しめている。

もし世の中にぜんちぜんのうの神があるならば、私はその神の前にひざまずいて、私にごうはつうたがいさしはさむ余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこのくもんからげだつせしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、れいろうとうてつな正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私は馬鹿で人にだまされるか、あるいは疑い深くて人をれる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快にちている。もしそれがしょうがいつづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。

三十四[編集]

私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね」というから、「ああやった」と答えると、その男が「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれた。

それまで自分の云った事について、その方面のけねんをまるでもっていなかった私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。

「君はどうしてそんな事を知ってるの」

この疑問に対する彼の説明は簡単であった。親戚だか知人だか知らないが、何しろ彼に関係のある或うちの青年が、その学校に通っていて、当日私の講演を聴いた結果を、何だか解らないという言葉で彼に告げたのである。

「いったいどんな事を講演なすったのですか」

私は席上で、彼のためにまたその講演のこうがいかえした。

「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないかしら」

「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」

私にはだんこたるこの返事がいかにも不思議に聞こえた。しかしそれよりもなお強く私の胸を打ったのは、せばよかったという後悔の念であった。自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断ったのである。だからそれを最後に引き受けた時の私の腹には、どうかしてそこに集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。その希望が、「どうせ解りゃしません」という簡単な彼のいちごんで、みごとにふんさいされてしまって見ると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。

これはもう一二年前の古い話であるが去年の秋またある学校で、どうしても講演をやらなければ義理が悪い事になって、ついにそこへ行った時、私はふと私を後悔させた前年を思い出した。それに私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を下りるまぎわにこう云った。――

「多分誤解はないつもりですが、もし私の今御話したうちに、はっきりしないところがあるなら、どうぞ私宅まで来て下さい。できるだけあなたがたにごなっとくの行くように説明して上げるつもりですから」

私のこの言葉が、どんな風に反響をもたらすだろうかという予期は、当時の私にはほとんど無かったように思う。しかしそれから四五日って、三人の青年が私の書斎にはいって来たのは事実である。そのうちの二人は電話で私の都合を聞き合せた。一人はていねいな手紙を書いて、面会の時間をこしらえてくれと注文して来た。

私はこころよくそれらの青年に接した。そうして彼らの来意をたしかめた。一人の方は私の予想通り、私の講演についての筋道の質問であったが、残る二人の方は、案外にも彼らの友人がその家庭に対してるべき方針についての疑義を私にこうとした。したがってこれは私の講演を、どう実社会に応用して好いかという彼らの目前にせまった問題を持って来たのである。

私はこれら三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明したつもりである。それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。しかしそれだけにしたところで私には満足なのである。「あなたの講演は解らなかったそうです」と云われた時よりもはるかに満足なのである。

〔この稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の学生から四五通の手紙を受取った。その人々はみんな私の講演を聴いたものばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれたのである。だからその手紙はみな好意にちていた。なぜ一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を附加して、私の不明を謝し、あわせて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思うむねを公けにするのである。〕

三十五[編集]

私は小供の時分よく日本橋のせとものちょうにあるいせもとというよせへ講釈を聴きに行った。今の三越のむこうがわにいつでも昼席の看板がかかっていて、そのかどを曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。

この席は夜になると、いろものだけしかかけないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだ事がなかったけれども、席数からいうと一番多くかよった所のように思われる。当時私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。しかしいくら地理の便が好かったからと云って、どうしてあんなに講釈を聴きに行く時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。

これも今からふり返って遠い過去を眺めるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起させるようにできていた。こうざみぎわきにはちょうばごうしのようなしきりを二方に立て廻して、その中にじょうれんの席が設けてあった。それから高座のうしろえんがわで、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木がななめにいげたの上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余分の地面を取り込んでいた。その庭を東に受けて離れ座敷のような建物も見えた。

帳場格子のうちにいる連中は、時間が余って使い切れない有福な人達なのだから、みんな相応ななりをして、時々のんきそうにたもとからけぬきなどを出して根気よく鼻毛を抜いていた。そんなのどかな日には、庭の梅のうぐいすが来てくような気持もした。

なかいりになると、菓子を箱入のまま茶を売る男が客の間へ配って歩くのがこの席の習慣になっていた。箱は浅い長方形のもので、まず誰でも欲しいと思う人の手の届く所に一つと云った風に都合よく置かれるのである。菓子の数は一箱に十ぐらいの割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、後からその代価を箱の中に入れるのが無言の規約になっていた。私はその頃この習慣を珍らしいもののように興がって眺めていたが、今となって見ると、こうしたおうようのんきな気分は、どこのひとよせばへ行っても、もう味わう事ができまいと思うと、それがまた何となくなつかしい。

私はそんなおっとりとものさびた空気の中で、古めかしい講釈というものをいろいろの人から聴いたのである。その中には、すととこのんのんずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。これはたなべなんりゅうと云って、もとはどこかの下足番であったとかいう話である。そのすととこのんのんずいずいははなはだ有名なものであったが、その意味を理解するものは一人もなかった。彼はただそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用いていたらしいのである。

この南竜はとっくの昔に死んでしまった。そのほかのものもたいていは死んでしまった。そのの様子をまるで知らない私には、その時分私を喜こばせてくれた人のうちで生きているものがはたして何人あるのだか全く分らなかった。

ところがいつか美音会の忘年会のあった時、その番組を見たら、吉原のたいこもちの茶番だの何だのがならべて書いてあるうちに、私はたった一人の当時の旧友を見出した。私は新富座へ行って、その人を見た。またその声を聞いた。そうして彼の顔ものども昔とちっとも変っていないのに驚ろいた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代りに、退歩もしていなかった。廿世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想にふけっていた。

彼というのはばきんの事で、昔いせもとで南竜の中入前をつとめていた頃には、きんりょうと呼ばれた若手だったのである。

三十六[編集]

私の長兄はまだ大学とならない前のかいせいこうにいたのだが、肺をわずらって中途で退学してしまった。私とはだいぶとしが違うので、兄弟としての親しみよりも、おとな対小供としての関係の方が、深く私の頭にんでいる。ことにおこられた時はそうした感じが強く私をしげきしたように思う。

兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。しかし顔だちから云っても、表情から見ても、どこかにけわしいそうを具えていて、むやみに近寄れないと云った風のせまった心持をひとに与えた。

兄の在学中には、まだ地方から出て来たこうしんせいなどのいる頃だったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。兄は或上級生にふみをつけられたと云って、私に話した事がある。その上級生というのは、兄などよりもずっととしうえの男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてそのふみをどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困ったと云っていた。

学校を出た頃の彼は、非常に四角四面で、しじゅう堅苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気をおく様子が見えた。その上病気のせいでもあろうが、常にいんきくさい顔をして、うちにばかりひっこんでいた。

それがいつとなくけて来て、ひとがらおのずと柔らかになったと思うと、彼はよくこわたりとうざんの着物にかくおびなどをめて、夕方から宅を外にし始めた。時々はむらさきいろきっこうがたを一面にったかめせいうちわなどが茶の間にほうされるようになった。それだけならまだ好いが、彼はながひばちの前へすわったまま、しきりにこわいろつかい出した。しかし宅のものは別段それにとんじゃくする様子も見えなかった。私は無論平気であった。こわいろと同時にとうはちけんも始まった。しかしこのほうは相手がるので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。相手はおもに三番目の兄が勤めていたようである。私はまじめな顔をして、ただ傍観しているに過ぎなかった。

この兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。すると葬式も済み、たいやも済んで、まずひとかたづきというところへ一人の女が尋ねて来た。三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事をいた。

「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」

兄は病気のため、しょうがい妻帯しなかった。

「いいえしまいまで独身で暮らしていました」

「それを聞いてやっと安心しました。わたくしのようなものは、どうせだんながなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」

兄の遺骨のめられた寺の名をおすわって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。

私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めしおばあさんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様にしわが寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、かのおんなが今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえってつらい悲しい事かも知れない。

三十七[編集]

私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料をのこして行ってくれなかった。

母の名はちえといった。私は今でもこの千枝という言葉をなつかしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。

母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくらたどって行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。

私の知っている母は、常に大きなめがねをかけてしごとをしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、たまの大きさがさしわたし二寸以上もあったように思われる。母はそれをかけたまま、すこしあごえりもとへ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていたいっけんふすまおもす。古びたはりまぜうちに、しょうじじだいむじょうじんそく云々と書いたいしずりなどもあざやかに眼に浮んで来る。

夏になると母はしじゅうこんむじかたびらを着て、幅の狭いくろじゅすの帯をめていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏のなりで頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつてえんばなへ出て、兄とを打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせたずがらとして、私の胸に収めてあるゆいいつかたみなのだが、そこでも彼女はやはり同じかたびらを着て、同じ帯をめて坐っているのである。

私はついぞ母の里へれて行かれたおぼえがないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めてきたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやりかすんで見えるよりほかに仕方がないのだが、母がおおばんまちで生れたという話だけはたしかに聞いていた。うちは質屋であったらしい。蔵がいくとまえとかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。おおかたその頃にはもうつぶれてしまったのだろう。

母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話もおぼろげに覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよくわきまえない今の私には、ただあわかおりを残して消えたこうのようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。

しかしそう云えば、私はにしきえいた御殿女中の羽織っているようなはでな総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。もみうらを付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸のぬいまじっていた。これは恐らく当時のかいどりとかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。

それのみか私はこの美くしい裲襠がそのこがいまきに仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。

三十八[編集]

私が大学でおすわったある西洋人が日本を去る時、私は何かせんべつを贈ろうと思って、宅の蔵からたかまきえふさの付いた美しいふばこを取り出して来た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆をって見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母のおもかげこまやかに宿しているように思われてならない。母はしょうがい父から着物をこしらえて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいなしたくをして来たものだろうか。私の心に映るあのこんむじかたびらも、幅の狭いくろじゅすの帯も、やはり嫁に来た時からすでにたんすの中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずからいて見たい。

いたずらで強情な私は、けっして世間のすえのように母から甘く取扱かわれなかった。それでもうちじゅうで一番私をかわいがってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶のうちには、いつでもこもっている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のあるゆかしい婦人に違なかった。そうして父よりもかしこそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけにはいけいの念をいだいていた。

おっかさんは何にも云わないけれども、どこかにこわいところがある」

私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかにひっぱりだしてくる事が今でもできる。しかしそれは水にけて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したようなきわどい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。とぎれ途切れに残っている彼女のおもかげをいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとてもほうふつする訳に行かない。そのとぎれ途切に残っている昔さえ、なかば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとはつかめない。

或時私は二階へあがって、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまでっても留らなかったり、あるいはあおむきに眺めているてんじょうがだんだん上から下りて来て、私の胸をおさえつけたり、または眼をいて普段と変らない周囲を現に見ているのに、からだだけが睡魔のとりことなって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。

私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何につかったのか、その辺もめいりょうでないけれども、小供の私にはとてもつぐなう訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声をげて下にいる母を呼んだのである。

二階のはしごだんは、母の大眼鏡と離す事のできない、しょうじじだいむじょうじんそく云々と書いたいしずりはりまぜにしてあるふすまの、すぐうしろについているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。おっかさんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変うれしかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。

私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私にいしゃの言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母のなりは、いつも私の眼に映る通り、やはりこんむじかたびらに幅の狭いくろじゅすの帯だったのである。

三十九[編集]

今日は日曜なので、小供が学校へ行かないから、下女も気を許したものと見えて、いつもより遅く起きたようである。それでも私の床を離れたのは七時十五分過であった。顔を洗ってから、例の通りトーストと牛乳と半熟のたまごを食べて、かわやのぼろうとすると、あいにくこいとりが来ているので、私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片づけものをしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持よさそうに煖を取っている様子が私の注意をいた。

「そんなにたきびに当ると顔が真黒になるよ」と云ったら、末の子が、「いやあーだ」と答えた。私は石垣の上から遠くに見えるやねがわらけつくしたしもれて、朝日にきらつく色を眺めたあと、またうちの中へ引き返した。

親類の子が来てそうじをしている書斎の整頓するのを待って、私は机をえんがわに持ち出した。そこで日当りの好いらんかんに身をたせたり、ほおづえを突いて考えたり、またしばらくはじっと動かずにただ魂を自由に遊ばせておいてみたりした。

軽い風が時々はちうえきゅうからんの長い葉を動かしにきた。庭木の中でうぐいすが折々下手なさえずりを聴かせた。毎日ガラスどの中にすわっていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春はいつしか私の心をとうようし始めたのである。

私のめいそうはいつまで坐っていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、あれにしようか、これにしようかと迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだというのんきな考も起ってきた。しばらくそこでたたずんでいるうちに、今度は今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した。なぜあんなものを書いたのだろうという矛盾が私をちょうろうし始めた。ありがたい事に私の神経は静まっていた。この嘲弄の上に乗ってふわふわと高いめいそうの領分にのぼって行くのが自分には大変な愉快になった。自分の馬鹿な性質を、雲の上からみおろして笑いたくなった私は、自分で自分をけいべつする気分に揺られながら、ようらんの中でねむる小供に過ぎなかった。

私は今までひとの事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとのけねんがあった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。うそいて世間をあざむくほどのげんきがないにしても、もっといやしい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。聖オーガスチンのざんげ、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくらたどって行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある。まして私の書いたものは懺悔ではない。私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上にまたがって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感をいだきつつ、やはり微笑しているのである。

まだうぐいすが庭で時々鳴く。春風が折々思い出したようにきゅうからんの葉をうごかしに来る。猫がどこかでいたまれたこめかみを日にさらして、あたたかそうに眠っている。さっきまで庭でゴムふうせんげて騒いでいた小供達は、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私はガラスどを開け放って、静かな春の光に包まれながら、うっとりとこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっとひじを曲げて、このえんがわに一眠り眠るつもりである。

(二月十四日)


この作品は1927年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。