眼の動く人形

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第一話 眼の動く人形



 空模様が怪しかつたのと、四月の初めにも似合わない薄寒い風が吹いていたのとで十一時には未だ少し間があろうと云う時だつたが、もう人通りはすつかり杜絶えていた。別壮ママ風の大きな家の立竝んでいる所で、平生から物淋しい道だつたが、今夜はそれが一層薄暗いように思われて、変に追駈けられるような気持になりながら、簑島は二三日前に新調したばかりの春外套スプリングコートの襟を立てゝ、足早に我家の方に急いだ。今日は不意に起つた社用の為に、無断でこんなに遅くなつて終つたので、只一人留守居をしている彼の若い妻が、心配しながら待ち佗びているに相違ない事が、彼の足を一層早めさせたのだつた。

 ここは、郊外と云つても市街に直ぐ続いた便利な所だつたが、電車の停留場の附近の日当りの好い高台だけは、すつかりブルジョア階級の人達に占領されていた。その為にこの辺一带は淋しい所になり、且つ蓑島のような俸給生活者は、こゝを通りぬけて、一段低いゴミした小さな家の立竝んでいる所に、追いやられねばならなかつた。簑島はこゝに移つた初め通勤の度に、この宏壮な家の竝んだ一劃を通ると、何となく不愉快な圧迫を受けて、時には態と廻り道をしたりしたのだつたが、いつの間にか馴れて終つて、何とも思わなくなつた許りか、通り過ぎる道の両側に住んでいる知名の人の名を覚えて、反つてそう云う人達が住んでいる事を、誇らしげに他の人に語つたりするようになつていた。

 さて、蓑島は馴れた道とて、暗闇の中をマゴつきもせず、愛妻が待ち佗びていると云う気懸りと、今夜に限つて襟元が、冷く何者かに憑かれるような無気味な感じがするので、一心に足を急がしていたのだつたが、変に道程が遠く感ぜられて、中々この淋しい一角が通り抜けられないのだつた。

「ちよつ、どうしたと云うのだ。こんなに急いでいるのに、いつまでもこの道が続いているのは可笑しいぞ」

 とこう彼が思わず呟いた時、不意に前方にパンと云う銃声のようなものが響いたので、彼は飛上る程ぎよつとした。

「あゝ驚いた。自動車がパンクしたのかしら」

 怪しい音は一度きりで止んだので、蓑島は漸く気を静めて、一旦止めかけた足を又󠄂元通りに早めながら、真直ぐ進んで行つた。

 と、行手の道の真中に黒いものが横たわつていた。

「あつ」

 蓑島は忽ち足を止めて、同時に腫を返えママそうとしたが、然し、流石に逃げ出しもならず、恐々前の方をすかし見た。黒いものはどうやら人が倒れているらしかつた。

「酔漢かしら」

 酔漢が往来の真中に倒れている事はよくある事だし、それにヒク動いているようだつたので、彼はいくらか安心しながら、ソロと近づいて行つた。

 と、不意に倒れていた男が、呻くとも呟くともつかず、異様な上ずつた声で切々に喘ぐように云つた。

「人形――眼の動く人形――」

 そうして、手足を苦しげに二三回動かしたかと思うと、ガックリと頭をうな垂れて、じつと動かなくなつて終つた。

 様子が何となく只の酔漢とは思えなかつたので、近寄りながらも、油断なく倒れた男の四辺に注意していた蓑島は、つつ伏した男の胸の辺から、変にドス黒いものが流れ出しているのを見逃さなかつた。

 血! 血! 血!

「わあ――」

 蓑島は無我夢中で野獣のような叫声を上げながら、二三間飛退つた。

「おい、どうしたんだい」

 いつの間にどこから現われたのか、蓑島は小柄のガッシリした男の手にしつかり支󠄂えられた。

 蓑島は思いがけない所へ、不意に見知らぬ男が現われたので、二重の恐怖に顫えて、水の切れた魚のように、パク口を動かしながら、容易に言葉が出なかつた。

「ひ、人殺しです」

 漸くの事で之だけの事を云うと、蓑島はブル顫える指先で、前の方を指さした。

「なに、人殺し?」相手は鳥渡驚いたようだつたが、直ぐうなずきながら、

「そうか、じや矢張今のは短銃の音だつたんだな」

「そ、そうです」蓑島は夢中で返辞ママをした。

「まあ、そう顫えないで、一緒に来給え」

 小男は蓑島の腕を摑んで、グイと引いた。それはその小男が出すと思えない程強い力だつたので、蓑島は顔をしかめながら、ヨロと前に出た。

「もう駄目だな」

 小男は懐中電燈で死体を照らした。斃れていたのは五十前後の肥満した紳士風の男だつた。

「君は犯人を見たかい」

 小男はクルリと簑島の方を向いて、鋭い声でこう訊いた。

「いゝえ」

 蓑島には不意に現われたこの男が、一体何者なのか少しも見当がつかなかつた。この淋しい一劃を拔けて、簑島が住んでいる奥の方へ行く人逹は、夜になると能く懐中電燈を持つたり、時に提燈を提げたりしていたので、この男が懐中電燈を用意していた事は、深く怪しむべき事ではなかつたが、一向このあたりで見かけない人間だつたし、それに口の利き方の横柄な事から見ても、或いは刑事ではないかと思われるのだつた。

「では、逃げた後だつたんだね」

「えゝ」

「機敏な奴だな」

 そう云つて彼は懷中電燈で死体の附近を照らしていたが、やがて電燈の丸い白い輪はピタリと一ヵ所に停止した。そこには鈍く光つた小形の自動拳銃が転がつていた。

「ふむ。兇器を捨てゝ行つたな」小男は一向興味のないように呟いた。

 蓑島はいくらか落着いて来たので、漸くこの小男を観察する事が出来た。

 彼の身長は簑島自身が五尺四寸あるのから目測して、せい五尺一寸止りと思われた。洋服を着ていたが、ネクタイは垢に汚れて捻けており、上衣はダブで襟はひどくよじれていた。彼の顔はひどく大きかつた。普通の人よりは確かに一廻り大きく見えた。普通の人よりも小さい身体に普通よりも大きい顔がついている事は、何となくグロテスクなものであるが、更に一層彼をグロテスクにしたのは、顔色が磨きをかけた赤銅のように赤黒くキラ光つている上に、殆ど顔全体を占領しているかと思われる程、巨大なそうして尖の曲つた所調鷲鼻と云う形の鼻が、ギロリとした眼の下に超然として降起している事だつた。その全体の姿は西洋の童話に出て来る妖婆を想い出させるのだつた。

「君、行こうや」

 彼は退屈したと云う風に、茫然としている簑島を促がママした。

「えゝッ、これを拋つとくんですか」簑島は吃驚した。

「あゝ、格別面白い事はなさそうだからね」

 実際彼には映画を見た後ほどの感激もなさそうだつた。

「殺すには殺すだけの理由があつたろうし、殺されるには殺されるだけの理由があつたんだろうから、俺達の関係した事じやないよ。こうして置けば警官がちやんと始末をして、必要があれば、犯人を見つけて呉れるよ」

「でも」簑島はもじしながら、

「この人は手当をすれば、生き返らないでしようか」

「駄目だ。到底駄目だよ」

「然し、たつた今、恰度私がこゝへ来た時に、この人は譫言のように口を利いていました」

「ふうん」小男は気乗りがしないように、

「どんな事を云つていたね」

「確か『人形――眼の動く人形』と云つていました」

「えツ!」今迄の平然たる態度に引替え、小男は簑島の言葉に仰天するように驚いたが、すぐ元の冷静な態度に戾つた。

「それは君本当かい」

「本当ですとも」蓑島はきつぱり答えた。

 と、小男は蓑島の答えを半ば聞流して、死体の方に飛んで行つた。

 あッ、と思ううちに彼はもう死体を抱き起していた。それから彼は上衣や胴衣のポケットを探つた。それから、死体の顔をじつと見つめたり、傷口を調べたり、忙しく、然し微細な点に渡つて、眼と手を働らママかした。

 やがて、一通り観察がすむと、死体をそつと先の位置に寝かして、彼は先刻一瞥しただけだつた短銃を注意深く取上げた。そしてそれをポケットにそつと滑り込ました。それから尚漸くジロと鋭く死体のは周囲を睨み廻したが、不意に蓑島の方に向き直つた。

「君、行こう」

「えゝツ」余り唐突な言葉に蓑島は面喰いママながら、

「どこへ行くんですか」

「黙つてついて来給え」小男は命令するように云つた。

「然し――」簑島はしよんぼり家で待つているであろう所の彼の愛妻を思い出した。

「細君が待つてるとでも云うのかい」小男は簑島の心の底を見拔いたように二ヤリとしながら、

「まあついて来給え。満後悔するような事はなかろう、一晩位細君を心配さすのも好いじやないか」

 この魔法使いの妖婆を思わせるような男の薄気味の悪い言葉のうちには、何となく否めない親しみと、振り切る事の出来ない魅力が籠つていた。蓑島の弱気と人並の好奇心は、渋々彼に従うべく余儀なくしたのだつた。

「どこへ行くのですか」彼は再びこう訊いた。

「ついて来給え」

 妖婆のような男は死休には最早一瞥も呉れず、さつさと停留所の方に歩き出した。



「さあ、上り給え」

 手ママ太はあつけに取られている蓑島に事もなげに云つた。

 手ママ太と云うのは蓑島を誘つた怪しい小男の名だが、彼は停留所の近くに来ると、折柄走つて来たタキママシイを止めて蓑島を招き入れて、どこともなく急がした。その自動車の中で、蓑島は彼の名を聞いたのだつた。

 蓑島は手と名乗る男の奇怪な振舞いと、気味の悪い容貌とに少なからず危惧の念を抱いていたけれども、彼の持つている一種の魅惑的な威力に打ち克つ事が出来ず、渋々彼と行動を共にしない訳に行かなかつた。やがて自動車はとある大きな家の前に止つたが、それが手の家と思いきや、彼は玄関の呼鈴を鳴らして、おずと出て来た取次の女中に横柄な態度で、

「主人は留守だろう」

 と云つた。そして女中が怪訝な顔をしながら、

「はい」

 と答える睱もなく、ツカと玄関に踏み込んで、さて、蓑島に向つて、

「さあ、上り給え」と云つたのである。

 簑島は彼の乱暴さにあきれたが、それよりも驚いたのは女中である。

「あの、どなた様でございますか。只今奥さまもお留守なんですけれども」

「奥さんは店の方だろう」彼は平気だつた。

「いゝえ、伊豆の方に行つてらつしやいます」

「そうか。店の者は誰もいないかい」

「はい、私と婆やだけです」

「それは好都合だ。鳥渡調べたい事があるのだから、主人の居間に通して呉れ」

 そう云つて、彼はもう女中などは尻目にもかけず、勝手を知つた家のように、ドン奥に這入つて行くのだつた。

 簑島も何の事だか分らぬなりに度胸を極ママめて、彼の後に従つた。女中は警察官とでも感違いをしたのか、強いて止めようとはせず、只茫然としていた。

「え――と、ここが居間だな」

 部屋は日本室だつたが、絨氈を敷いて椅子机を置いた西洋式の調度のある所へ、彼はツカと這入つて、ジロジロと四辺を眺めたが、隅の方に置いてあつた大型の金庳の前に猶予なく近づいた。

「ふう。大分旧式のものだな」

 彼は金庫を暫くためつすがめつ見ていたが、こう呟いて金庫の傍に寄つて、カチと音をさせたかと思うと、もう金庫の重い扉󠄁がギイと開いたのだつた。

「あっ」余りの事に、簑島が思わず叫声を上げる暇もなく、彼は金庫の中から大部の帳簿を二三冊抱え出して、椅子の上にドッカと腰を下して、バラと急がしく頁を繰り出した。

 少し遅れて不安そうについて来た女中は、この有様を一目見ると、あつけにとられて棒立になつた。然し、手は平気だつた。

「え――と、成程、之だな」

 彼は大きくうなずくと、簑島をママ呼びかけた。

「おい、君、さつきここの主人の斃れていたのは、何と云う家の前だつたかね」

「え、え、ここの主人が」蓑島は吃驚した。

「そうだよ。こゝの主人の柏木金之助が斃れていた所さ」

「あの、旦那様がどうかなすつたのですか」女中は小耳に挾んだ容易ならぬ言葉に顔色を変えながら訊いた。

「殺されたんだよ」手は不様に大きい鼻に皺を寄せて、卑しい笑いを見せながら云い放つた。

「えツ」女中は大声に叫んだ。

「柏木金之助はね、自分のピストルでね、一発でやられたんだよ」

「えツ、それは本当ですか」

「本当とも」

「それは大変です、直ぐ奥さまに知らせねばなりません。警察の方にも来て頂かなくてはなりません」女中は狂気のように叫んだ。

「そうあわてなくてもいいよ」彼は平気だ。

「奥さんに知らせた所で生き返るものではなし、警察には別に態々知らさなくても、今頃はもう死体を発見しているかも知れん。尤もあの死体が柏木金之助だと云う事は鳥渡分るまい。僕が名刺入れを取り上げて来たからね。まあ静かにしてい給え。僕は決して為にならん事はしないから」

 手は女中の騒ぎ立てるのを制して、簑島の方に、妖婆のようないやらしい顔を向けて、物凄い目をギロリと光らせた。

「何と云う家の前だつたかね」

 簑島はあの辺の家の名は殆ど暗記していたので、喉の所まで出て来ているのだが、どうしたのか鳥渡急に云えないのだつた。

「え――と、石、いし何とか云つたつけなあ」

「白石新一郎だろう」彼は教えるように云つた。

「あつ、そうです。白石です。確かに新一郎と云いました」

「そうだろう」彼は満足気にうなずいて、

「之ですつかり分つたよ。おい、君」

 彼は女中をママ呼びかけた。

「はい」

「君は長くこの家にいるのかい」

「はい、三年ほど居ります」

「そうか、それでは一年ばかり前に、この家で、しかもこの室だと思うが、若い美しい夫人が死んだのを知つているだろう」

「はい、存じて居ります」女中は、手の顔を驚いたように見詰めながら、

「菅原精一さまの奥さまでたみ子様と仰有る方でした」

「そうだ。菅原代議士の夫人で、有名な貞淑な美しい女だつたね。あれは確か自殺とも他殺とも病死とも判明しなかつたようだつたね」

「はい、あれは夜の八時過でございましたかしら、たみ子さまがこゝへ訪ねて来られまして、旦那さまと話をしていらつしやいましたが、急に気分がお悪くなりまして私が呼ばれて参つた時にはもうバッタリと斃れてお居でになりました。直ぐお医者を呼びましたが、もう駄目でございました。警察の方でもいろお調べになりましたが、何かの中毒のようではあるが、他殺とも自殺とも分らないと云う事でした」

 当時を回想するように、女中は恐ろしげに云つた。

「君が駈けつけた時に夫人はもう何も云わなかつたかね」

「はい、一言二言譫言のような事を仰有いました」

「どんな事?」

「はい」女中は云おうか云うまいかと暫く躊躇していたが、

「あの、確か当時新聞にも出ましたと存じますが、たみ子さまは夢中で『人形――眼の動く人形――』と仰有つていました」

「えゝツ」

 今までじつと二人の奇怪な問答を聞いていた蓑島は、この時に飛び上る程驚いた。

「有難う」手はニヤリと薄気味悪く笑つて、女中に礼を述べながら、

「お蔭ですつかり分つた。この上は犯人を捕まえる許りだ。この帳簿は元の通り金庫に蔵つておくよ。明日あたり殊ママによると、察ママの者が訪ねて来るかも知れぬ。その時は成可く我々の来た寧は黙つていて貰いたい。然し、君が云いたければ云つても関わぬよ」

は之だけの事を悠り云うと、小さい身体をムックリ起して、帳簿を元の金庫に収め、四辺をグルッと一度見廻した後に、

「どうもお邪魔したね。では、君帰ろう」

 手は蓑島を促して悠然と外に出た。

「十二時少し過ぎたね」

 彼は時計を門燈にすかして、呟くように云つたが、

「所で、蓑島君、君に一つ頼みたい事があるのだが、一緒に僕の家まで来て呉れないか」

 そう云つて彼は簑島の返事を聞くまでもなく、さつさと歩き出した。



 翌朝、蓑島は可成り遅く眼を覚ましたが、後頭部がズキと痛んで、容易に床の中から出られなかった。余儀なく彼は 一日会社を休む事にした。

 昨夜は奇怪な事件につき当つて、奇怪な手と云う人物に夢中で引摺り廻されたが、最後に彼は手の家と云うのに、無理やりに連れ込まれた。彼の家は蓑島とは別方面の矢張り繁華な郊外の一角にあつて木造の西洋館で、中は人気のないようにガランとしていた。そこの一室で暫く待たされた時には、蓑島は安逹ケ原の魔女の棲家に連れ込まれたような気がしたものだつた。

 やがて姿を現わした手は片手に原稿のようなものを持つていたが、

「君、すまないが之を一つ書直して呉れないか」

 と云つて、その原稿を差出したので、簑島はおず読んで見たが、思わずあつと顔色を変えた。それは警視庁宛の密告状で、大体の意味は次のようだつた。

  今夜十一時頃郊外S停留場附近高台の白石新一郎邸前で殺人がありました。殺されたのは

  有名な宝石商の柏木金之助です。犯人は短銃で一発の許に彼を射殺して、逸早く逃走しまし

  たが、多分彼は強窃盗の前科のあるもので柏木を射殺する前に白石邸へ忍び込んだのではな

  いかと推定されます。白石邸から出て来る所を、柏木に見咎められて、止むを得ず射殺した

  のではありますまいか。兎に角、私は犯人の姿を認める事は出来ませんでしたが、幸に犯人

  の指紋を取る事が出来ましたから、同封して送ります。無論貴庁の台帳に乗つている事と思

  いますから、それによつて容易に犯人を決定する事が出来ましよう。

「こ、これはどう云う事ですか」

 読み終つた簑島は叫んだ。そうすると、手はニヤリと笑いながら、

「何でもない。犯人を警視庁に教えるのさ。指紋は短銃についていたので、今写真に撮つて置いたから、今晚中には現象が出来る。そうしたらそのフィルムを封入して送るのさ。僕の筆蹟では少し都合の悪い事があるので、君に頼むのだが、君は真逆その憎むべき殺人犯人を庇護して、密告するのに躊躇するような事はあるまいね」

 簑島はその時に二言三言云い争つたが、結局密告状を書く事を余儀なくせられたのだつた。密告状が出来上ると、彼は二コしながら、尖つた醜い鼻を、蓑島の頰にすり寄せた。

「君、菅原代議士と云うのはとても喰えない悪漢だぜ。富豪や貴族の弱点を押えてはね、凄い脅迫をやつてウンと金を拵えている奴なんだ。彼の悪行の為に彼の夫人は不思議な死に方をしたのだ。今度は奴を少し苛めてやる事が出来そうだ。そうした暁には君にだつて、只は骨を折らしはしないよ」

 悪魔の囁きに似たものを耳許から吹き込まれた時に、簑島は只訳もなくブル顫えた。代議士の菅原精一と云う男が、好くない人間で、警察からも絶えず注意されながらも、少しも尻尾を摑まれない強かな者であると云う噂󠄀さは満聞いていないでもなかつた。然し、その菅原の上を行こうと云う怪人物にはどう答えて好いのか、只子供のように縮み上る他はなかつた。

 一体宝石商の柏木氏と菅原代議士との間にはどういう関係があるのか。犯人が白石邸に忍び込んだと云う事が、どうして手に推察出来たのか。犯人が強窃盗の前科者だとはどうして分つたのか。又󠄂「眼の動く人形」と云う言葉は何を意味するのか。何もかも分つたような顔をしている手は何者か。蓑島は恐ろしくてならなかつた。彼は早々に彼に許しを乞うて自動車に送られて帰宅した。もう二時に近かつた。

 床の中で昨夜の奇怪な出来事を一通り思い浮べた蓑島は、今のように不安に顫えながら枕許の新聞を取り上げて、いつも一面の広告から悠り読むのを、もどかしいと許りに社会面を開けた。と、大きな活字で、

   Pケ岡の怪死体

 と云う見出しが眼についた。

 大急ぎで読んで見ると、今暁Pケ岡の白石氏邸前に短銃で胸を射抜かれた紳士風の男の死体が発見せられた。所持品を調べて見たが名刺その他手掛りになるようなものがないので、いずくの者とも判明しない。尚本事件と関係があるかどうか分らぬが、同夜,白石邸には窃盗が忍入つた形跡があつた。然し何一つ紛失したものがないので、同邸でも不思議に思つている。同邸内の門番小屋にいた某は十一時頃銃声らしいものを聞いたと云つている云々と書かれていた。

 蓑島はそつと顔を上げた。そうして庭越しに遥か向うに聳えているPケ岡を見上げて、ホッと溜息をついた。

 彼は漸くの事で起上つたが、新聞記事に気がついたかつかぬか、兎に角、妻は何となく異様な眼を光らして自分を見ているように思えて仕方がなかつた。然し、彼は彼女に昨夜の奇々怪々な事件を説明するだけの勇気もなかつた。

 其の日の夕刊には又󠄂々蓑島の心を痛めるような記事が出ていた。

 それはPケ岡の死体は有名な宝石商の柏木金之助だつた事、解剖の結果銃殺せられたものに相違ない事、意外な方面から密告があつて、犯人はやがて捕まるだろうと云う事、それから白石方では盗難品は少しもないと云う事だつたが、取調べの結果同家主人が柏木から買入れた時価四万円と云う真珠の頸飾が紛失していた事が判明した。右の窃盗犯人は頸飾を盗み出して、同家を出ようとする時に、偶々来合せた柏木が、彼を見咎めたので、兇行に及んだのかも知れないと云う事などが仰々しく掲載されていた。が、最も蓑島の心を痛めたものは僅々数行であつたけれども、昨夜遅く柏木の留守宅に怪しい二人の人物が乗込んで、同家の女中と二三問答して悠々と引上げたので、警視庁では目下厳探中と云う記事だつた。

 蓑島は食事も碌に喉に通らず、その日一日を鬱々として送つたのだつた。

 その翌日は幸に休日だつたので、簑島は頭が痛いと称して、――実際に痛かつたのだが―― 矢張朝遅くまで床の中にいた。そうして恐々枕許の新聞を開いて見ると、忽ち眼を打つたの は、

 宝石商殺しの犯人捕わる。

 と云う大きな活字だつた。

 蓑島は惹き入れられるように読み耽つたが、それは先晩来の出来事に輪をかけた様な奇怪事だつた。


 宝石商殺しの犯人は其筋の手に入つた指紋によつて、人相姓名判明し、厳探中だつたが、 昨夕かねて手配中の友人の所に立寄つたのを捕縛する事が出来た。彼は亀津文󠄁六と云う強窃盗前科三犯の強か者で、訊問を受けると、神妙に罪状を告白した。然し、彼の意外な白状には係官は些か驚かされたのだつた。

 彼の申立てる所は次のようだつた。

 私が宝石商の柏木金之助を殺したのに相違ありません。実は私は三四日前の晩に、柏木の家に窃盗の目的で忍び込んだのです。所が柏木と云う男は油断のない男で、いつの間にやら私の忍び込んだのを嗅ぎつけ、あべこべに私を短銃で脅かしました。そうして云いますには、

「俺の云う事を聞けばよし、さもなければ即座に告発するぞ」と脅かすのです。

 私は場合が場合ですから、仕方がありません。

「どんな事でもいたしますから、どうぞお許し下さい」と涙を流さんばかりに申しますと、

「宜しい、それでは白石新一郎の所へ忍び込め」と云うのです。

「えッ、あっしにその白石とか云う家に忍び込んで、何か盗めと云うのですか」あつけに取られた私がこう云いますと、

「いゝや、何にも盗らなくても好いのだ。一度忍び込んで、そのまゝ出て来れば好いのだ。兎に角、盗人が這入つたと云う形跡だけを残して来れば好いのだ」とこう云うのです。

 私には何が何やら訳が分りませんでしたけれども、兎に角その通りにしなくては、警察へ突出されるのですから、止むなく云いなりになる事にしました。で、その翌々晩でした。私は白石家の勝手をよく柏木から聞いていたので、首尾よく見咎められないで忍び込む事が出来ました。で、何か忍び込む形跡を残して置けと云う事でしたから、応接室の隅の棚に燻つていた人形を一つ、何気なくヒョイと懐中に入れて、そのまゝ帰ろうと思いましたが、余り旨く行つたものですから、つい慾が出ました。何しろ窃盗を商売にしているのですから、あれ位の大きな家に易々と這入りながら、金目のものを何も取らずに出るなんて、馬鹿々々しいと云う気がしたのです。それで約束とは違いましたけれども、金庫の中の真珠の頸飾りを一つ頂戴しました。

 それだけの仕事をして、十一時頃でしたか、外へ出ると、監視の意味だつたのか、思いがけなく柏木が門の傍に立つていたのに会いました。

「旨くやつたかい」と聞きますので、

「へい、旨く行きました。這入つた証拠にこんなものを貰つて来ましたよ」とそう云つて、頸飾りの方は無論隠して、例の人形をヒョイと彼の前に差出したのです。

 そうすると、彼の顔色がさつと変りました。私は全く以つてあゝ瞬間に人の相が変るものだと云う事は知りませんでした。実に物凄い形相でした。そうして一言も口を利かないで、突然私に飛かママかろうとしました。私は不意だつたので驚きましたが、はゝあ、この人形は何か大切なものだなと気がつきましたので、

「旦那何をなさるのです」と云いますと、

「その人形を寄越せ」と喘ぐように云つたかと思うと、忽ち短銃を取り出そうとしたのです。

 私は思わず嚇としました。前々晩短銃ではひどい目に遭つています。そうして私にこんな詰らない事をさせて置きながら、偶然私の盗んだ人形を奪う為に、又󠄂々短銃で脅かそうとするのですから、私も非常に立腹しました。で、逆に柏木に飛つママいて、短銃を奪つて、一発の許に彼を射ち殺しました。そうして一目散に逃げ出しました。

 所で、みなさん、お聞き下さい。私は呪われたのです。全くアノ人形の為に呪われました。

 隠家へ帰つて、先ず頸飾りをいつもの場所に納めて、さて、つく盗んで来た人形を見ますと、実にぞつとするような奇怪な姿をしているのです。

 高々七八寸の背で、黒ずんだ灰色の気味の悪い膚をしている金属製の裸人形ですが、その顔の相は悪魔そつくりなのです。眼は円くギラ光り、鼻は平たく膨れ、口は大きく彎曲しています。実に二た目とは見られない怪異な相です。それに私には今大罪を犯して来た弱味がありますから、その人形は恰度私の犯罪を知り拔いて咎めでもするように私を睨むように思えるのです。私はその人形がだんだん恐ろしくなり、じつと見ているに堪えませんでした。で、そつと眼を外そうと思つた途端に、人形の眼がギロリと動きました。

「あッ」と思わず声を上げましたが、一生懸命に勇気を出して、おのれと思いながら、人形をじつと睨みつけますと、ギロリと又󠄂眼が動くのです。

「畜生!」私はそう呶嗚つて、恰度湯を沸す為に火のつけてあつた瓦斯七輪に人形を叩き込みました。

 見ているうちにメラと溶けるだろうと、嘲けるように人形を見ましたが、奴は平気なものです。見る半身は赤くなりながら、相変らず、いや前よりも盛んに眼をギロ動かしているのです。

 私はもう耐らなくなりました。瓦斯の火を消すと、そのまゝ外へ飛出しました。それから一度も家に帰りません。今日友達の所へ寄つたのは、実は後の事を頼んで自首して出るつもりでした。

 私も生れママつきの強盗で、恐ろしい目にも度々会つた事はありますが、あの人形みたいな忌々しいものに出会つた事はありません。

 語り終つた彼はさも恐ろしいと云う表情をしたのだつた。

 係官は彼の言葉に従つて、早速彼の隠家を訪ねたが、真珠の頸飾りは発見する事が出来たが、問題の眼の動く人形はどこにも認める事が出来なかつた。一同は非常に不審に思いながら、引上げる他はなかつたのだつた。


 読み終つた蓑島は茫然とした。眼の動く人形の奇怪な物語りは、彼を極度に感銘させずには置かなかつた。然し、一方では兎に角殺人犯人が捕縛されたので、彼が蒙るであろう所の嫌疑も、之で消滅した訳なので、彼はホッと安心しながら、ノソノソと床の中から這出した。

 と、表に訪う声がして思いもかけず手から迎えの自動車が来たのだ。

「眼の動く人形の神祕相解け申候につき」と云う数行の文󠄁句が、蓑島の心を強く刺戟して、不安そうな顔をしている妻を尻目にかけて、いとも勇敢に手の招きに応ぜざるを得なかつたのだつた。



「ハヽヽヽヽヽ、今日は面白いものが見られるぜ」

 自動車が途中で止ると、ぬつと這入つて来たのは、例の怪異な相をした小男の手だつた。

「眼の動く人形と云うのはどう云う事なのですか」簑島は幾分心易く聞いた。

「まあ、暫く辛抱し給え。直ぐ分るから」

 自動車はやがて宏壮な建物の前に止つた。それは思いがけなく代議士の菅原精一の家だつた。

 二人は直ぐに、贅沢の限りを尽した広々とした応接室に通された。

 やがて腮髯を長く延ばして傲然とした中年紳士が、葉巻シガーを片手に悠然と現われて、卑しむように二人を見下しながら、

「何か用かね」と云つた。

「余り好い用じやないよ」手は揶揄うような口調で、

「ちよつと許り無心に来たのさ」

「怪しからん」菅原はむつとしたように、

「無心なら無心らしく云うが好い。その口の利き方は何だ」

「ウフヽヽヽ」手は薄気味悪い笑を洩らしながら、

「無心にだつて頭を下げて貰うのと、威張つて貰うのとあらあな。俺のは頭を下げるような生優しいのじやないのだ。おい、菅原、俺は之が買つて貰いたいのだ」

 そう云うと共に手はトンと力強く卓子に何か叩きつけた。見ると、それはいつの間に取り出したか、一つの金属製の人形だつた。

「あツ、それは」菅原はサッと顔の色を変えた。

 人形は例の亀津が白石の所から盗み出したものに相違なかつた。顔は確かに彼の語つたように一目見てもぞつとする程妖異な相で、膚は蛞蝓のように蒼白く光つていた。そして、何よりも怪奇に恐ろしく見えたのは、そのギロと動く両眼だつた。

「どうだ、驚いたろう」手はせゝら笑いながら、

「このギロ動く眼は、恰度天秤の皿のように、眼の玉と同じ重さのもので平衡を取つて、尖つた針のようなもので中心が支󠄂えてあるのだ。だからこう云う風にギロ動くのだ。そうしてその眼の玉とバランスしている代物は何んママだと思う。飛切り上等のダイヤモンドなんだぜ」

「う、う」菅原は口惜しそうに唸つた。

「ハヽヽヽ、飛切上等の大粒のダイヤモンド二つ、之は君の亡くなつた細君のものなのだぜ」

は又󠄂も毒舌を弄し始めた。

「細君はそれ宝石商の柏木に頼んで、こう云う機関からくりを造つたのだ。それを君が欲しさに細君を苛め拔いて、とうとう殺して終つたんだ」

「う、う」菅原は又󠄂口惜しそうに唸つた。

「だが、君の欲しがつたのはこの人形の眼の奧についていたダイヤモンドではない、実は腹の中に這入つている一枚の紙なんだ」

「わあ――」

 何か訳の分らぬ叫声を発して、菅原代議士は手に飛かかろうとした。が、手は忽ち体をかわして、菅原をねじ伏せて終つた。小男ではあつたが、彼の腕カは蓑島も経験した通り、普通以上だつた。

「ハヽヽヽ、そう易々と之を渡してなるものか。この人形の腹の中の紙片には、貴様の数々の罪状の退引ならぬ証拠が書きつけてあるのだ。貴様の貞淑な細君は度々貴様の悪事を諫めたのだ。然し、貴様が一向聞かないものだから、彼女は貴様の罪状を書き連ねた紙片をこの人形の腹の中に隠して、それで貴様を威しながら改心させようとしたのだ。彼女が人形の眼の奥に高価なダィヤモンドを仕掛けたのは、こうして置けば彼女がこの怪異な人形を大切にしても全く宝石の為だと思われて、腹の中の紙片の事は容易に気づかれない為だ、貴様はこの人形が欲しい許りに、細君を亡きものにしようと思つて、少しずつ毒薬を嚥ましたのだ。彼女はその為にとうとう柏木の家で不思議な死に方をしたのた。けれどもお気の毒な事には人形はいつの間にか盗まれて、行方が知れなくなつたのだ。どうだ。俺の云う事に間違いがあるか」

 得意気に語り終ると、手はぱつと菅原を突き放した。

「うぬ、うぬ」菅原は拳を固めて息巻いた。

「さあ、之れだけ云つて聞かせれば大抵分つたろう。いざこざを云わないで、十万円の小切手を書け。皮切りにしては安いものだ。これからだつてそう度々無心には来ないよ」

 菅原代議士は地団太を踏んで口惜しがつたが、結局弱味のあるものは致し方がない。彼は渋々十万円の小切手を書かざるを得なかつたのだつた。

「之が現金になるまでに変な事をすると、人形の腹がものを云うぞ」

 こう云う捨台詞を残して、苦り切つている菅原を尻目にかけながら、手は悠々と引き上げて行くのだつた。蓑島は無論茫然としながら彼の後に従つた。



「どうだい、世の中には面白い金儲けの方法があるだろう」

 手は彼の居間の大きな肱突椅子にチョコナンと坐りながら、大きな鼻をうごめかした。

「ですが、一体あなたはどうして今度の事件を解決したのですか」簑島は恐る訊いた。

「柏木の斃れている所に行つたのは偶然さ。そこで、君から彼が死ぬ間際に『眼の動く人形』と云つた事を聞いて、之はてつきり宝石商の柏木か、代議士の菅原に関係のある事と睨んだのさ。と云うのは一年ばかり前に柏木の所で菅原夫人が矢張り『眼の動く人形』と云つて斃れた事があつたからね。そこで死体を探つて見ると、名刺入があつて、即ち柏木自身だと云う事が判つた。で、何か旨い汁を吸う迄は警察に騒がれたくないと思つて、名刺入れも指紋のついた短銃も失敬したのだ。

 所で柏木の所へ行つて、金庫の帳簿を調べて見ると、彼の得意先に売つたものゝうちで変な印がついているものがある。ふと思いついたのはこの柏木と云う奴が、いかさま師で、偽物を方々に売りつけたのではないかと云う事だ。だん調べて見ると、白石新一郎に売つた真珠の頸飾りにも変な印がついている。彼の斃れていたのが白石の家の前だし、白石と云うのは有名な実業家で、近々自宅で夜会を開くと云う噂さママを聞いている。で、つまり、柏木が白石に偽物を売つたが、それが暴露しそうで困つた。で、誰かを唆かして盗みに這入らした。所が偶然に白石の所に例の人形があつて、それを盗んで来たので、格闘になつて射殺されたのではないか。と云う推論が生れて来たのさ。とすると、柏木を殺した奴は窃盗の前科者で彼に頸飾りを盗むべく頼まれた奴に相違ない。人形はいずれ転々して、白石の手に這入つたのだろう。彼もホンの物好きで買つて、やがて忘れて終つたと見える。現に盗人の這入つた形跡がありながら、人形の紛失には一向気がつかなかつたので判る。

 で、この上は人形を探すだけだ。それには犯人を捕えるに限る。で、例の密告状を書いたのだ。そうして、彼が捕つて警察で調べられている間に、そつと家に行つて人形を盗んで来た。真珠の頸飾りの在所も分つてはいたが、誰があんなものを盗るものか。真赤な偽物じやないか。柏木だつて盗ませる気はなかつたのだ。只盗人をー人忍び込まして置いて、後でそいつがすり替えたと云う事にする積りだつたのさ。人形を手に入れてから、一生懸命にひねくり廻して、柏木や、菅原夫人があれほどに執着して欲しがつた理由を考えて見たよ。で、結局さつき菅原の所で云つたような結論に達したのさ。菅原も度胸のない奴だ。俺がポンと人形を卓子の上に出した時に、さつと顔色を変えさえしなければ、俺の推理はあゝスラスラと出なかつたのだ。奴は自分で白状したようなものだ」

 ギロリと眼を動かして、グロテスクな大きな顔に得意の色を浮べながら、説き立てゝいた手は、何と思つたか、この時に彼の容貌よりはもう一層怪異な例の人形を取り出して、暫らママく眺めていたが、両手で入形の頭と足を押えると、勢よく机の角に中程をぶつつけた。人形の首はポキリと取れた。

「あつ」蓑島は驚いて叫んだ。

「どうだい」手は然し平気で取れた首の空胴を示した。首の中ではピカリと美事な大粒のダイヤモンドが光つていた。

 彼は無雑作に首の中に指を突込んで、ゴソしていたが、やがてポロリと二つの宝石が机の上に落ちた。

「所でだ、君、この胴体の中を覗いて見給え」彼は首の取れた胴を簑島に渡しながら、

「多分焼けて炭化したポママの紙切が這入つているだろう。何しろ、この人形は例の亀津が恐ろしさの余り、瓦斯焜炉の中へ投げ込んだのだからね。人形はクロームで出来ているから、容易に熔けやしない。だけどもね腹の中に這入つているのは紙だから耐らない、焦げて終うさ。ね、そうだろう」

 簑島は驚いて胴を振つて見た。中からは手の云つた通り、黒焦げになったポロの紙片が出て来た。

「じや、あの、菅原は――」

 簑島はいろの感情が込み上げて来て、鳥度口が利けなかつた。

「アハヽヽヽ、アハヽヽヽ」小柄な悪魔は喉仏まで見えるように大きな口を開いて腹を抱えて笑い出した。地獄の笑いとはこんなものであろうと、簑島にはそれが呪いの声であるかのように、ぞつとせずには聞かれなかつた。

「アハヽヽヽ、菅原の奴は灰になつた証文󠄁を十万円で買つたのだぜ。アハヽヽヽ」

 彼の笑いは容易に止まなかつた。が、やがて笑いを止めると、彼は卓子の上の二つのダイヤモンドを比べて見ていたが、

「こつちの方が少し小さくて、性質も少し劣るようだが、まあ之で我慢して呉れ、分前だ」

 簑島は掌の上に置かれた大粒のダイヤモンドをどう処置して好いやら分らず、身体をブル顫わしていた。

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