真下家所蔵文書

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高崎藩士山本家に伝わった武田氏・山本氏関係文書であるが、「市河家文書」以来となる「山本菅助」関係文書が含まれる点で注目され、本稿でも真下家に伝わる古文書群のうち、武田氏・山本氏関係文書について翻刻する。

原本は「信玄公 御証文」の題箋が添えられ年代順に成巻されており、本稿でも装幀順に翻刻している。

底本は海老沼真治「群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」『山梨県立博物館研究紀要第三号』(2009)。同書のほかに写真版が掲載。『山梨県史』『戦国遺文武田氏編』には未収録。

山本家関係文書[編集]

武田信玄判物[編集]

  • 法量は縦30.3センチメートル、横46.5センチメートル。折紙。
  • 年代は天文17年(1548年)
  • 内容は武田家臣山本菅助に対して信濃国伊那郡における働きを賞し恩賞を与えたもの。
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(晴信花押)
今度於伊奈郡
忠信無比類次第候
因茲黒駒関銭
之内百貫文可
出置者也仍如件

天文拾七 戊申
  卯月吉日

   山本菅介との

武田信玄書状[編集]

  •  法量は縦29.7センチメートル、横45.5センチメートル。折紙。
  •  年代は不明だが、文中に登場する「小山田」は小山田信有(越中守)、小山田虎満(備中守)が想定され、前者とすれば天文20年、後者とすれば永禄年間に推定される。
  •  筆跡から信玄自筆である可能性が高いと考えられている。
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朔日極楽寺差越候砌
具申越候仍揺巳
下之儀審調談可然候
次小山田種物相煩既
極難義候彼人之事
当州宿老と云縦
雖如何之隙入候以三日之
御留罷越候腫物之
様躰可見届候殊更
彼是用所候間必々
可罷越候也謹言

卯月廿日 晴信(花押)

        山本菅助との

武田家朱印状[編集]

  •  法量は縦30.3センチメートル、横46.5センチメートル。折紙。
  •  年代は永禄11年6月7日。内容は不足する武具の調達を指示した軍役定書。朱印は外径6.1センチメートル、内径5.6センチメートル。
  •  宛所の「山本菅助」は二代目にあたる人物である可能性が考えられている。

(龍朱印)定

一、小物具足二両
一、小物甲手蓋
 喉輪四人之分
 不足之所急渡
 令支度来出陣之
 砌可持参此外可
 為如日記物也

戊辰
 六月七日

    山本菅助殿

武田家朱印状[編集]

  • 法量は縦31.5センチメートル、横41.4センチメートル。竪紙。
  • 龍朱印は外径6.1センチメートル、内径5.5センチメートル。
  • 年代は同文の軍役定書が存在することから天正4年に推定される。

(龍朱印)定 軍役之次第

一、鉄砲 可有上手歩兵之放手一挺
玉薬三百放宛可支度
   一挺
一、持鎚 実共ニ二間之中たるへし    一本
一、長柄 実共ニ三間木柄歟打柄歟
実五寸朱志て有へし
   弐本
一、小幡    弐本

    巳上道具数五
右何茂愚息・甲・手蓋・喉輪・指者有へし
如此調武具可勤軍役者也仍如件

       五月十二日

         山本十左衛門尉殿

結城秀康書状[編集]

  • 法量は縦34.4センチメートル、横46.5センチメートル(奥ウハ書は縦34.4センチメートル、横4.3センチメートル。竪紙。
  • 年代未詳(江戸初期)、内容は訪問に対する礼状。
  • 黒印は外径3.9センチメートル、内径3.5センチメートル。
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(奥ウハ書)「ー  山本平一殿  秀康」

  尚々煩故印判を以申候以上
先日者御帰残多存候不任
心中付而何へも右之通候随而此
式候へ共羽織壱進之候誠書
中之験迄候猶使者可申候恐々
謹言

六月拾六日  秀康(黒印)

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