市河家文書

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釧路市河家文書[編集]

  • 北海道釧路市の子孫家に伝来した91点で、2009年(平成21年)に山梨県立博物館が収蔵。
  • 底本は西川広平「山梨県立博物館所蔵「市河家文書」について」『山梨県立博物館研究紀要 第4集』2010年
  • 内容は数点の中世文書のほか近世期の文書で、中世文書では市河家文書以外で群馬県安中市の真下家文書のみに伝来する「山本菅助」の名が記された文書が注目されている。

征東将軍宮令旨[編集]

  • 切紙で寸法は縦10.4センチメートル、横16.6センチメートル。巻子装。
  • 南朝の征東将軍宗良親王が正平13年(1365年)に中野左馬之助に対し、越後国頚城郡冨田保を恩賞として与えた令旨。


越後国頚城郡
冨川保為御恩可
全知行者
征東将軍宮令旨如此悉之以状
 正平廿年二月五日 侍従(花押)
中野左馬之助館

足利義満御判御教書[編集]

  • 縦紙で寸法は縦22.0センチメートル、横29.4センチメートル。巻子装。
  • 室町幕府将軍の足利義満が応永10年(1403年)に市河刑部大輔入道に対し、合戦の功績を賞した感状。


(付箋)   六おんにんの
       御はん 京都公方也
       (花押)

去月廿四日合戦一族若党等
被疵云々忠節之至尢神妙
向後弥可抽戦功之状如件

 応永十年八月十八日

市河刑部大輔入道殿

武田晴信(信玄)書状[編集]

Wikipedia
ウィキペディア山本勘助のページがあります。
  • 縦紙で寸法は縦28.0センチメートル、横40.8センチメートル。巻子装。
  • 内容は弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いに際した長尾景虎野沢之湯出陣に対して、武田方の援軍出兵を市河藤若に対して報告した書状。この際に使者として「山本菅助」が派遣されており、「山本菅助」の名は市河家文書以外では群馬県安中市の真下家所蔵文書のみに確認される。

注進状披見仍景虎至于野沢湯進陣
其地へ可取懸模様又雖入武略候無同意剰
備堅固故長尾無功而飯山へ引退候哉誠心地
能候何ニ今度其方擬頼母敷迄候就中野沢
在陣候砌中野筋後詰之義預飛脚候き則倉
賀野へ越上原与三左衛門尉又当手之事も塩田
在城之足軽為始原与左衛門尉五百余人真田江
指遣候処既退散之上不及是非候全不可有
無首尾候向後者兼存其旨塩田之在城衆ニ
申付候間従湯本注進次第ニ当地へ不及申
届可出陣之赴今日飯富兵部少輔所へ成下知候
条可有御心易候猶可有山本菅助口上候恐々
謹言
  六月廿三日  晴信(花押)
 市河藤若殿

上杉景勝書状[編集]

兼日如申定候飯山野地無相違
被相渡候事誠忠信感悦不浅候
乍此上各以稼其国弥任存分候様
肝煎任置候然者春日弾正忠今
般可抽忠信之由被申越候旁任
指図ニ朱印差越候雖無申迄候
一功有之様ニ催促可被申候猶
以面可申候恐々今言
    六月廿日  景勝(花押)
       市川治部少輔殿
       河野因幡守殿
       大瀧土佐守殿
       須田右衛門尉太夫殿

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