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相沢事件第1審判決文

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判決

宮城県仙台市東六番町一番地

士族戸主

台湾歩兵第一連隊 (原所属)

予備役陸軍歩兵中佐従五位勲四等 相沢三郎

明治二十二年九月九日生

右の者に対する用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に付、当軍法会議は検察官陸軍法務官島田しまだ朋三郎ともさぶろう干与審理 を遂げ、判決すること左の如し。


主文

被告人を死刑に処す。

押収に係る軍刀一振 (証第一号) は之を没収す。


理由

被告人は明治三十六年九月仙台陸軍地方幼年学校に入校し、逐次陸軍中央幼年学校、陸軍十官学校の課程を終え、同四十三年十二月陸軍歩兵少尉に任ぜられ、爾来各地に勤務し累進して、昭和八年八月陸軍歩兵中佐に進級と同時に歩兵第四十一連隊付に、越えて同十年八月一日台湾歩兵第一連隊付に補せられ未だ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰付けられ、ついで同年十月十一日予備役仰付けられたるが、かねてより尊皇の念厚きものなる所昭和四、五年頃より我国内外の情勢に関心を有し、当時の情態を以て思想混乱し政治経済教育外交等万般の制度機構いずれも悪弊甚しく皇国の前途憂慮すべきものありとし、之が革正刷新所謂昭和維新の要ありと為し、爾後同志として大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一等と相識るに及び益々其の信念を強め、同八年頃より昭和維新の達成には先ず皇軍が国体原理に透徹し挙軍一体愈々いよいよ皇運をよくし奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず陸軍の情勢は之に背戻するものありとし、其の革正を断行せざるべからずと思惟するに至りたるが、

同九年三月当時陸軍少将永田鉄山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説等に依り同局長を以て其の職務上の地位を利用し名を軍の統制にり昭和維新の運動を阻止するものと看做みなりたる折柄、同年十一月当時陸軍歩兵大尉村中孝次及び陸軍一等主計磯部浅一等が叛乱陰謀の嫌疑に因り軍法会議に於て取調を受け、次で同十年四月停職処分に付せらるるに及び、同志の言説及其の頃入手せる所謂怪文書の記事等に依り、右は永田局長等が同志将校等を陥害せんとする奸策に他ならずと為し深く之を憤慨し、更に同年七月十六日任地福山市に於て教育総監真崎〔甚三郎〕大将更迭の新聞記事を見るや、平素崇拝敬慕せる同大将が教育総監の地位を去るに至りたるは是亦永田局長の策動に基くものと推断し、総監更迭の事情其の他陸軍の情勢を確めんと欲し、同月十八日上京し翌十九日に至り一応永田局長に面会して辞職勧告を試むることとし、同日午後三時過頃陸軍省軍務局長室に於て同局長に面接し、近時陸軍大臣の処置誤れるもの多く軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辞職せられたき旨を求めたるが其の辞職の意なきを察知し、

くて同夜東京市渋谷区千駄ヶ谷における前記西田税方に宿泊し、同人及大蔵栄一等より教育総監更迭の経緯を聞き、且つ同月二十一日福山市に立帰りたる後入手したる前記村中孝次送付の教育総監更迭事情要点と題する文書及作成者発送者不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する所謂怪文書の記事を閲読するに及び、教育総監真崎大将の更迭を以て永田局長等の策動に依り同大将の意思に反し敢行せられたるものにして本質に於ても亦手続上においても統帥権干犯なりとし痛く之を憤激するに至りたる処、たまたま同年八月一日台湾歩兵第一連隊付に転補せられ、翌二日前記村中孝次、磯部浅一両人の作成に係る粛軍に関する意見書と題する文書を入手閲読し、一途に永田局長を以て元老、重臣、財閥、新官僚等とよしみを通じ昭和維新の気運を弾圧阻止し皇軍を蠧毒とどくするものなりと思惟し、此の儘台湾に赴任するに忍び難く此の際自己の執るべき途は永田局長をたおすの一あるのみと信じ、遂に同局長を殺害せんことを決意するに至り、同月十日福山市を出発し翌十一日東京に到著したるも尚永田局長の更迭等情勢の変化に一縷の望を嘱し、同夜前記西田税方に投宿し同人及来合せたる大蔵栄一と会談したる末、自己の期待するが如き情勢の変化なきことを知り、ここに愈々永田局長殺害の最後の決意を固め、

翌十二日朝西田方を立出たちいで同日午前九時三十分頃陸軍省に到り同省整備局長室に立寄り、かつて自己が士官学校に在勤当時同校生徒隊長たりし同局長山岡[重厚]中将に面会し、対談中給仕を遣わして永田局長の在室を確めたる上、同九時四十五分頃同省軍務局長室に到り直にび居たる白己所有の軍刀 (証第一号) を抜き、同室中央の事務用机を隔て来訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫にいみひでおと相対し居たる永田局長の左側身辺に急遽無言の儘肉薄したるところ、同局長が之に気付き新見大佐の傍に避けたるより同局長の背部に第一刀を加え同部に斬付け、次で同局長が隣室に通ずる扉迄遁れたるを追躡ついじょうし其の背部を軍刀にて突刺し、更に同局長が応接用円机の側に到り倒るるや其の頭部に斬付け、因て同局長の背部に長さ九、五糎深さ一糎及長さ六糎深さ十三糎、左顳部さしょうぶに長さ十四、五糎深さ四、五糎の切創ほか数箇の創傷を負わしめ、右刀創に因る脱血に因り同局長を同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ以て殺害の目的を達し、

尚前記の如く永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、前示新見大佐が之を阻止せんとし被告人の腰部に抱き付かんとしたるより、右第一刀を以て永田局長の背部を斬ると同時に新見大佐の上官たることを認識せずして同大佐の左上膊部に斬付け因て同部に長さ約十五糎幅約四糎深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり。

証拠を按ずるに判示事実は

一 被告人の当公廷に於ける判示被告人の経歴より愈々陸軍省軍務局長永田鉄山殺害の最後の決意を固むるに至る迄の事実に付、判示同趣旨の供述、

一 被告人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分は予てより永田少将が軍務局長たる事は陸軍を毒するものと信じたる為七月十九日辞職を勧告したるが之に応ずる色なく、次で同月下旬粛軍に関する意見書を取上げ村中、磯部を免官せしむる話等を聞き益々永田局長が陸軍を攪乱するものと認め彼を斥ける為には殺害せねばならぬかと思い居たる矢先、八月一日台湾へ転任の事を知り赴任の上は容易に上京の機会を得難く赴任前に決行しなければならぬと考え、同局長殺害の為特に軍刀を佩び八月十日福山を出発し十一日品川駅著同夜西田税方に赴き一泊したり、西田方へ行けば何か変った話があるかも知れぬ故万一血を見ずに納まれば之に越したことはないと思い一屢ママの望みを期待して西田の家へ行きたるに大蔵[栄一]大尉が来合せ、西田や大蔵の話に依り此の現時の憂うべき大勢を覆す様な計画はやつて居らぬから此の現状は継続すると考え、之は如何しても血をぬらさねば納まらぬと思い益々決行の決意が強固になりたり、

翌日西田方を出て陸軍省に行き山岡整備局長に転任の挨拶を為し夫れより其の部屋を出て永田局長の部屋に行きたり、其の際の服装は軍服に軍刀を吊り永田局長の部屋に這入はいりたる処同局長は机の前に腰掛け確か其の机の前に二人居て相対し話をして居たと思う、自分が這入って行くと永田局長は二人の客の処へ遁れ三人が一緒になったと思う其の時自分は永田局長を目蒐めがけて一太刀を浴せると扉の処へ行かれ、私は其の扉の処で右手で軍刀の柄を握り左手で刃の処を握り永田局長の背中を突刺したるに応接卓子テーブルの傍へ走り倒れたれば、其の跡を追い同局長の頭を目蒐け一太刀浴せ、夫れより其の部屋を出たる旨の記載、

一 被告人に対する予審第七回訊問調書中同人の供述として、自分は軍閥重臣閥の大逆不逞と題する文書、教育総監更迭の事情と題する文書及八月二日小川[三郎]大尉から受取りたる粛軍に関する意見書を読み、永田局長が国体原理に基き皇軍を指導統制し皇基を恢弘かいこう即国家革新昭和維新に進まんと志す真崎教育総監及我々同志の者を排斥せんと画策したる事を認めたり、即右文書に記載し在る十一月事件又は教育総監更迭問題等其の他の事実は明に永田局長が重臣財閥官僚と款を通じ、自己の政治的野望を遂ぐる為に或は無根の事実を陰謀偽作し或は大臣をして統帥権干犯を敢て為さしむる様画策したる事を一層明瞭に知り、其の為に自分の永田局長殺害の決意に大なる刺激を与えたり、尚自分は右文書の内容に付永田局長が画策したと云う真否に付特に自ら調査研究したる事なき旨の記載、

一 被告人に対する予審第十一回訊問調書中同人の供述として、村中の作成したる教育総監更迭事情要点と題する文書や出所不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する文書中に、真崎教育総監の更迭は統帥権干犯なりと書き在るを見て自分も同感したるが其の外に深き根拠なし、尚右文言に書き在る如く永田局長が総監罷免を大臣に進言したる事は事実ならんと推測したるものにして、之と云う確証は持ち居らざる旨の記載、

一 証人西田税に対する予審第一回訊問調書中同人の供述として、昭和十年八月十一日夜相沢三郎は自分方へ訪ね来り宿泊し翌朝食事を共にしたる後出発されたるが、前夜相沢が来訪後大蔵大尉が自分方へ訪ね来りたる旨の記載、

一 同証人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分は相沢より東京の情勢如何と尋ねられた様に思う、之に対し自分は其の後変化なしと云う様な意味を簡単に答えたと思う旨の記載、

一 同証人に対する予審第三回訊問調書中同人の供述として、相沢中佐を知ってより相当の年月を経其の間会いたる回数も相当多き為何時如何なる話を為したるや一々記憶せざれども、永き間に自分の永田に対する認識即永田は我々の国家改造の理想実現を阻害する一人なりと云う事を断片的に話したかと思う、七月中旬頃に相沢中佐は自分方へ参り一泊したることあり、其の夜大蔵が来る様に記憶す、当夜教育総監更迭のありたる直後なりしを以て其れに付ての話も出た様にも思う、尚相沢中佐より永田局長を訪ね行つたとか云う事を聞きたる旨の記載、

一 被告人の当公廷に於ける八月十一日夜西田税方に於て愈々永田局長殺害の最後の決心を致し、翌十二日午前九時過頃西田方を立出で同九時半頃陸軍省に参り不図ふと自分が士官学校に在勤当時生徒隊長たりし整備局長山岡中将に面会する考を起し、同局長室に到り山岡中将に挨拶を申し述べ対談中給仕に命じて永田局長の在否を確めたるに、局長室に居ると云う返事を申し参りたれば午前九時四十五分頃軍務局長室に到り、扉の開いて居る入口より室内に這入りたるところ永田局長は入口の方に面して中央の事務用机の前に腰を掛け居り、其の机を隔て来訪中の軍人が確か二名腰掛け居ったと思う、或は一名であったかも知れぬ、室内に這入ると直に自分所有の軍刀を抜き、無言の儘、急いで永田局長の左側に迫り、之に気付きたる同局長が右方に避け、来訪中の軍人の所に遁れ、其の軍人と一緒になりたる際、同局長の背部に第一刀を加え斬付けたるに同局長は隣室に通ずる扉の処に遁れ、自分は其の扉の処で同局長の背後より突刺し、其の時刀は局長の背後より前の方に突抜け其の切先きが扉に刺さりたる如き気がしたり、次で刀を引抜きたるに同局長は円机の側に走り行き倒れたれば此の時こそ一刀両断と云う積りにて頭部に一刀を加えたり、

自分が永田局長を斬る際同所に居合せたる来客の軍人は東京憲兵隊長新見大佐にして自分の為に負傷したることを後に知りたるが当時同大佐なることを知らず、自分は先きに述べたる如く永田局長が来訪中の軍人の所に遁れ其の軍人と一緒になったとき同局長の背部に一刀を加え斬付けたるものなれば、其の一刀に依り永田局長を斬り次で其の来客の軍人新見大佐の左腕を斬ったものと認むる旨の供述、

一 被告人に対する予審第六回訊問調書中同人の供述として、自分は局長室に這入て行きたる当時は永田局長を一刀両断の下に殺害し得るものと思い居り彼の様に同同長を追詰める様な場面を生ずるとは思い居らざりし為、他の人に危害を加える事になると云う事は当時思わざりしが、今より考うると若し自分の目的を邪魔する者あれば当然その者を斬っても目的を達する事に努めたと思う故、当時同室の一軍人が自分を抑止した事が事実なれば自分は其の邪魔を除く為に斬払ったものと思う、八月十二日麴町憲兵分隊に於て分隊長より新見大佐が負傷し居ると云う事を聞き自分が斬ったものと思いたる皆の記載、

一 証人新見英夫に対する予審第一回訊問調書中同人の供述として、自分は昭和十年八月十二日永田軍務局長に報告の為陸軍省に到り同局長室に行きたるは午前九時過頃と思う、自分は報告準備等を為し居りたる際歩兵の襟章を付けたる軍服の一軍人が抜刀を大上段に構え局長と腰掛の処にて向い合い、局長は確か手を挙げ防ぐ形を為し居るを見、其の犯人を取押えんと机の左側迄行きたるとき局長は自分の方に危難を避け来り、犯人も局長の後より迫り来りたれば自分は犯人の腰部に抱き付き局長を背後より斬らんとするを抑止したるに振払われて倒れ、更に起上つて犯人を追わんとしたるも其の際左手を切られ居ることを知り追跡出来ざりき、尚自分は犯人より振払われるや犯人が局長を軍事課長室に通ずるドアの処に追詰めたるを見たるが、其の後の状況に付ては記憶なき旨の記載、

一 同証人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分が起上らんとする際左腕に痛みを感じ犯人に斬られたることを知りたり、犯人の相沢三郎なることを知りたるは負傷の翌日なりしと思う旨の記載、

一 証人出月三郎に対する予審訊問調書中同人の供述として、自分は昭和十年八月十二日東京憲兵隊長新見英夫大佐の左腕の負傷を診察したるが、きずの状況より見て腕の上部より下部に向け鋭利なる刃物で斬付けたものと思う、非常に鋭利に斬れ居る故他傷と判定す、尚用器は非常に鋭利なる物例えば日本刀の如きものと判断す、新見大佐が抜刀を持って居た加害者の左背後より同人の腰部に抱付いた際加害者より振払われ、左様な際に受傷したとすれば創の状況と相照し最も適合すると思う旨の記載、

一 昭和十年八月十二日付陸軍一等軍医正竹内釼の作成に係る死体検案書中判示永田鉄山の創傷の部位程度に照応する記載、

一 同日付同軍医正の作成に係る死亡診断書中永田鉄山は昭和十年八月十二日午前十一時三十分陸軍省軍務局長室に於て刀創に因る脱血に依り死亡したる旨の記載、

一 同日付陸軍一等軍医出月三郎の作成に係る診断書中判示新見英夫の創傷の部位程度に照応する記載、

一 押収に係る軍刀一振 (証第一号) の存在

を総合考覈こうかくして之を認定す。

依て判示事実は其の証明ありたるものとす。

法律に照すに、被告人の判示所為しよい中永田少将に対し兵器を用いて暴行を為したる点は陸軍刑法第六十二条第二号に、同人を殺したる点は刑法第百九十九条に、新見大佐の上官たることを認識せずして同人の身体を傷害したる点は同法第二百四条に各該当する処、右用兵器上官暴行殺人及傷害は一箇の行為にして数箇の罪名に触るるものなるを以て、同法第五十四条第一項前段第十条に依り其の最も重き殺人罪の刑に従い其の所定刑中死刑を選択して処断すべく、押収に係る軍刀一振 (証第一号) は本件犯行に供したる物にして被告人以外の者に属せざるを以て、同法第十九条第一項第二号、第二項に依り之を没収すべきものとす。

よつて主文の如く判決す。

昭和十一年五月七日

〔第一師団軍法会議〕

裁判長 判士 陸軍少将 内藤 正一

裁判官  陸軍法務官 杉原 瑝太郎

裁判官 判士 陸軍歩兵大佐 木村 民蔵

〃〔裁判官判士陸軍〕 輜重兵大佐 立石 益太

〃〔裁判官判士陸軍〕 歩兵中佐 若松 平治

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