コンテンツにスキップ

癩院受胎

提供:Wikisource

癩院受胎

 老人のことがあつてからのち数日は、成瀬利夫は自分のあしの麻痺がひどく気にかかつてならなかつた。もつとも彼は、病気のこととなると病的なほど神経をたかぶらせる癖があつたのであるが、たとへば、朝など起きぬけに廊下へ踏み出した蹠になんの感じも伝はつて来ないのを意識すると、ただそれだけのことでその日一日どうにも動きのとれない悒鬱いふうつに襲はれてしまふのである。熱つぽくなつた素足を廊下に出したとたんに、すうつと感ぜられる冷気の爽快さといふものは、ほんのとるに足りぬことのやうに思はれるが、しかしそれを失つてしまつた今の彼には、決してとるに足りぬことではなかつたのである。かうした一見ささいな知覚上の快感が無数に重なり合つて、限りなく豊かな人間の感覚生活が築き上げられてゐるといふことを、かねてから信じてゐた彼は、かうした小さなことにも、すぐ癩者の救はれがたさが思はれ、自分もまた、凡ての癩者がさうであるやうに、ひとつひとつ人間らしい生活がうちこはされ、奪はれて行くのだと、強く考へさせられるのであつた。

 老人のことといふのは、つい先達つての出来事で、それは成瀬と同室の老人の蹠に、三寸はたつぷりある釘が突きささつたのである。老人はもう六十を二つばかり超えてゐたが、それでもなかなか元気のよいぢいさんで、作業も土方に出てゐるほどであつた。土方といつても病人のことであるから、勿論さう激しい労働をする訳ではなく、たいていは道路修理とか、病院を取り巻いてゐる垣根のつくろひとか、さういつた風なものである。もつとも、その日は、どこかの財団からこの病院に寄附された古家屋が着いたので、その古材についてゐる釘を朝から抜いてゐたのださうである。

 ところが、その日の夕方、仕事を終へて帰つて来た老人が、どうしたのか玄関先にかがみ込んだまま何かしきりにうんうん唸つては、何時ものやうに部屋へ上つて来ないのだ。何時もならすぐ部屋へ這入つて、やれやれ、と呟いて火鉢の前に腰をおろし、うまさうに一服つけるところである。作業を持つてゐない成瀬は、例のやうにみんなが帰つて来る頃なので、膳箱を出したり冷えたおかずを火に掛けたりしてゐたが、余り長い間唸声が続くので、どうしたのかと出て見ると、老人は額にべつとりと汗をにじませながら、一心に地下足袋を脱がうとしてゐるのであつた。不思議に思ひ、

「どうしたの。」

 と声を掛けてみたが、どうやら老人は、さつきから懸命に努力してゐるのに脱げないので腹を立ててゐるらしく返事もせず下を向いたまま首をひねつて、

「をかしい。どうもをかしい。」

 と呟いては、また腰を丸めて足袋を引つぱるのであつた。片方は既に脱いでゐ、横に置いてゐる。

「足袋が脱げない? そんな馬鹿なことつてあるかしら。」

「をかしい、どうもをかしい。わしは、さつきから力を入れて引つぱつとるのに、どうしても脱げて来ない。どうしたこつちやらう。指が曲つとるんで手が不自由ぢやが、何時でも間違ひなくすぐ脱げとる。それに、今日は、どうしたこつたか。」

「どれ、どれ。」

 成瀬もやはりをかしいと思つたので、そこへかがみ、脱がせてやらうとその片足を持ち上げたとたんに、さつと貌から血の気が退いた。足袋の裏からぶつすり突きささつた釘が、骨の間を縫つて甲の上まで貫いてゐるからである。

「冗談ぢやないね、釘がささつてゐるよ。」

 仰天させまいと思つたので、何気ない調子でさう言つたが、しかしさすがに背筋に冷たいものの走るのを覚えた。

 老人はかなり重傷の結節癩で、不幸にも眼ををかされてゐて、もう薄明りの視力では自分の足にささつてゐる釘の頭に気がつかなかつたのである。もつともでも満足であれば脱がうとしてゐるうちに判りもしたのであらうが、その掌も、火鉢の中に突込まれてじゆんじゆん焼かれてゐても、気がつかないでゐられるといふ有様なのである。恐らくは釘のささつたまま、老人は歩きまはつたり仕事をしたりしてゐたのであらう。黒い布で見かけは水にでも濡れてゐるやうな足袋も、触つて見るとべつとりとてのひらが赤くなつた。

 成瀬は急いで抜いてやろうとしたが、指で引いたくらゐではなかなか抜けるものではなかつた。所謂「肉が巻いた」のだらう。仕方なく釘抜を持ち出して、折よく帰つて来た同室の者に老人の足をしつかり摑まへさせ、力を入れて引き抜いたのであつた。どつと溢れ出た血を見て、老人は初めて蒼くなり、忽ち発熱してその夜はひと晚ぢゆう唸り続けて、翌日の夕方、重病室へかつぎ込まれた。

 かうしたことは、勿論この病院の中にあつてはさほどに珍しい出来ごとではないし、成瀬も、これ以上のひどいことを幾度も見て来たのであつたが、しかし自分のあしが麻痺してしまつてから間もない頃だつたためか、このことは深く印象づけられ、自分の運命を眼の前に突き出されたかのやうに激しく打たれたのであつた。

 彼の足は、入院以前から左は膝小僧から下ずつと枯れたやうになつてゐたのであるが、右足にまで及んで来たのは入院後のことに相違なかつた。しかし何時頃からさうなつたのか、彼自身にも覚えはなく、初めて気づいたのは老人のことがあるちよつと前、陰鬱な梅雨が降り始めた日であつた。

 もうひるさがりであつたであらうか、彼は誰もゐない部屋の中に一人立つて、窓の外に降りしきる雨足を眺めてゐた。頭の中には入院以来二年近くの月日に眺め聴き触れて来た隔離生活の破片が、秩序もなく混がらがつて思ひ出され、どんよりと沈んだ悪臭と共にぐるぐると廻るのであつた。また入院前半年ばかりの社会生活に味つた暗い気持や、発病当時の重苦しい日々などが浮び上つて、いまここにかうして生き長らへてゐる自分の姿が、なんともいへぬ不可思議なものにすら思はれるのであつた。そしてこの病院の中で、はや齢すらも二を重ねてゐることを思ふと、なにか信ずることの出来ないことにぶつかつたやうな気持にならされた。それは無限に長い時間であると同時に、また瞬時に過ぎ去つたイメーヂの重なりのやうにも思へるのである。

 一体、自分はこの中で何時まで暮すつもりなのであらう、これは今までにも何度も頭を襲つた疑問であるが、彼はそのたびにただ暗い気持を味ひ、悒愁いふしうに心が包まれて、答へを出すことが出来なかつた。死ぬまでこの中で暮さねばならないのだ、と否応なく思はせられるまでは、やはり彼は自分の軽症さに縋りつきたかつたのである。なあに五六ケ月もみつちり治療をやつてごらんなさい、きつと退院出来ますよと慰めてくれた事務員の言葉を信じて入院した彼には、その五六ケ月が瞬く間に過ぎ、二年に近い現在に及んでも、まだこの中で生涯を埋める心の用意は築かれなかつた。築くに恐しい思ひであつたのだ。

 雨が小降りになると、彼は北口の窓を開いて外を眺めた。幾重にもかさなり合つた雲が襞襀ひだを作つて低く流れ、濃灰色に覆はれた空全体がうごいてでもゐるかのやうである。遠くに柊の垣が望まれ、その向うに果てしなくうち続いた雑木林が薄白く煙つて、静かな風の流れと共に徐々に北へうつつて行くやうに感ぜられる。薄墨の日本絵を見るやうなさびと愁ひを、成瀬は感じながら、ふと雨の多い自分の故郷に遊ぶ思ひになつたのである。早くから田舎を捨てて東京生活を続けて来た彼には、めつたに故郷の風物など思ひ出すことはなかつたのであるが、この日はどうしたのかふつと少年時代の楽しさなどが次々と心の中に蘇るのだつた。

 窓の外はすぐ植込になつてをり、厚く葉を繁らせた楓や、さつき、檜、もくれん、遠くからでもはつきりと葉脈の白く見える鈴懸などが、雨に打たれてぷつぷつ呟くやうな音を立ててゐた。地面にはうつすらと苔がはんで、木々の葉末から滴たる雫がぽつんぽつんと花のやうに散つてゐた。枝々をつたつて落ちて来る雨は、太い幹にあつまつて地面に流れ、小さな水流をつくつて低まつた地点へなだれていつた。海に近い四国の寒村に育つた彼は、まだ七つか八つの少年の頃から、荒々しい海の呻きと、蕭条せうでうと林の中に降る細雨の美しさとを、同時に強い印象として記憶の底に沈ませてゐた。兎のやうに、小さな、まるまるとした体で、パンツもつけずに駆け廻つたのもその頃のことである。頭から雨をかぶり、はだしになつて水溜りや浜辺を走り廻るのが、ただもう無性に痛快であつたのだ。

 雨にしめり、生々と青みを増して来た苔や、ふつくらとやはらかみを浮せて来た地面を見ると、彼は跣のまま外へ出て見たのであつた。重苦しく濁つた暗い気持につつまれてゐた彼が、ひとつ吐け口を見つけたかのやうであつたが、とたんにさつと蒼白なものが面を走り、棒立ちになつて地上に竦んだ。がやがて彼は、注意深く地面を幾度も踏んでみたり、苔の上に足を上げ、すうつと辷らせてみたりした。しかしもはや彼のあしには何の感じも伝つては来なかつたのである。彼自身にも気づかぬ速度で、病菌は徐々に肉体を蝕み、営々と執拗な進行を続けつつあつたのである。泣いても喚いても、何の反響もない、懸命に治療に心掛けようが掛けまいが、彼等は素知らぬ貌で自らの腐蝕作業を黙々と続けてゐたのである。入院後二年の今になつて、彼は初めて癩の怖しさを、自分のものとして識つたのであつた。徐々に迫つて来る真黒いものが、もう眼の先までも押し寄せて来たのを感じて、反抗するやうに胸を張り、ぐつと立直らうとするのだつたが、しかし彼は激しい昏迷を覚えて茫然と立竦んでしまふのだつた。


 足許の窓をあけると、右手には局へ通ずる長い廊下が見え、前方には一号病室と二号病室のある大きな病棟が立ちはだかつてをり、窓下からその病棟までの間は、四角く区切られた中庭になつてゐる。熱が幾分さがると、老人は寝台の上に坐つて硝子越しに中庭を眺めながら、ぼんやりとした貌つきで一日を過すことが多かつた。生れてからこの方、手足を動かせて働くよりほかは何ひとつとして知らなかつた老人には、朝も夜も寝台の上にゐなければならないとなると、もうどうしていいのか見当もつかないのであらう。庭には靭󠄁しなやかな葉の間からぽつちりと蕾を覗かせ始めたグラヂオラスやダリヤなどが梅雨に濡れながら植ゑられてゐ、小さな築山の下に造られた池には、金魚が赤いひれをいらいらさせながら浮び上つたり沈んだりしてゐた。附添夫たちは時々庭に下りて、金魚をすくつたり花を折つたりして病人の枕許に置いてやるのだつた。淫雨は何時やむともなく降り続けて、病人たちはみな憂鬱さうに押し黙つて日を過した。

 入室後四五日は、高い熱に唸され続けて飯も食はず、老人はすつかり力を失つてしまつたが、熱が下るとまた少しづつ元気を取り戻して来た。しかし一時にどつと老い込んで、舎にゐた頃のやうな気力はなくなり、煙草の味も悪くなつたといふのであつた。蹠の疵は化膿し、手術を受けたので重たいばかりの繃帯が巻いてあつた。それでも成瀬が、

「どう? 工合はいいかい。」

 と見舞つてやると、人のいい微笑を結節で脹れ上つた面にただよはせて、

「うん。ありがたう。」

 と子供のやうに頭を下げた。

 成瀬は、夕方になつてみんなが作業から帰つて来ると、老人を見舞ひに病室まで出かけるのが日課の一つになつてゐたのである。親族はもとより子供にまでも捨てられてしまつて何処からも仕送りがある訳ではなく、そのためこの年になつてまで作業賃を稼がねばならなかつた老人を見ると、さすがに成瀬は憫れを覚えて、入室後はずつと世話してやらうと思つてゐたのだつた。

「わしは湿性ぢやからのう、義足にはならんが、麻痺れとるんで疵がなかなかには癒らん。」

 そして寝台の端に取りつけられたけんどんの中から、かのこなど取り出して、食へと言ふのだつた。老人の言ふやうに、麻痺部に出来た疵は非常に癒りが悪く、乾性の患者などはかうした疵や、小さな火傷がもとで足を一本切断せねばならないやうな破目におちいることも、決して珍しくはなかつたのである。

 老人は松葉杖をつきながら便所へ通はねばならなかつたので、それが面倒であるのだらう、寝台から下りることはめつたになかつた。

「退屈だらうね、一日寝台の上ばかりゐるんでは。」

 小柄な体の老人が、胴を丸くして坐つてゐる姿は、今までに受けて来た数々の苦労に押しひしがれ、いためつけられて、反抗する気力もなく不幸な運命の前にただうなれてゐるやうに見え、それが成瀬の心を暗く圧へるのだつた。

「業な病ぢやのう。」

 と、老人は小さな充血した眼をしよぼつかせながら、細い声で言つた。答へやうもなく成瀬は黙つたままあたりを見廻すのだつた。

「あきらめたよ。成瀬さん、わしはもう何もかもあきらめたわい。」

 そして老人は苦しげな息を吐き出して横はるのであつた。働いてゐる時には、仕事にとりまぎれて忘れてゐた病気のことが、一日中寝台の上で暮すやうになつたため、どつと心に襲つて来たのであらう。

 成瀬は、眠られない幾夜を過した。床に就くと、老人の姿や、老人と並んで寝台に横はつてゐる病人たちの姿が、幻のやうに眼前に浮び上つて、入院した時に感じたやうな恐怖が襲つて来るのだつた。結局、自分もああなつて行く運命を背負つてゐるのか、そして生き抜く道は、老人の言つた通り、あきらめてしまふより他にないのか、何のなす所もなくこの病院に生涯を埋め、ただ生に執着する本能の前に屈伏して、浅ましい廃残の姿を生き永らへて行く、それだけが自分に残された道なのであらうか——成瀬はこんこんと寝返りながら、自分の体内に流れてゐる若々しい血が、吐け口もなく奔騰し渦巻くのを感じて、大声で叫びたい苛立ちを覚えるのであつた。そして彼はやり場のない肉体の呻きを聴き、圧迫され、締めつけられた自分の、青年、を感ずるのである。

 あきらめる、これが成瀬にはたまらなかつた。そこには若葉のやうに新鮮な感受性もなければ、奔流を抗して上る魚のやうな意欲もなかつた。否むしろそれらのものを殺し抑圧して灰汁あくの中に身を沈めねばならなかつた。成瀬は、腐敗してゆく自分の肉体を直かに感ずるのであつた。

 さうしたある夕方、入院以来親しく交はつてゐる船木兵衛が老人と同室に入室したのであつた。船木は成瀬と同県の由緒ある家に生れたが、大学の法科を中途で発病し、二三年の間実家に隠れて治療を続けてゐるうちに、続いて妹のかや子が発病したので、彼女を連れてこの病院をおとなふたのであつた。かういふ旧家にあり勝ちなことであるが、兵衛と茅子は兄妹とは言ひながら十歳に余る年齢の違ひがあつた。兵衛は成瀬より八つ上で既に三十を一つ超えてゐたが、茅子はまだ二十一であつた。兵衛は発病後もう十年に近く、症状もかなりの重態で、眼は片方を奪はれ、残つた片方も殆ど薄明りであつたが、茅子は兄に比べて病齢が若い上に、女であるため、病気の進行が遅く、両方の眉毛が薄くなつてゐたが、それでもさほどに醜いといふほどではなかつた。もう一ケ年も前のことであるが、ある日兵衛は成瀬に向つて、妹を指しながら、

「僕とこいつとが船木家の最後の生き残りですよ。兄妹二人切りなんです。俺とこいつとが死ねば船木家はもうお終ひになる。旧家の血なんて、弱つてゐるし、それに濁つてゐる。どんな病気でも伝染し易いに違ひないんだ。そんな血は滅んでしまつた方がよい。しかしやつぱり寂しいですね。」

 成瀬は寂しげに曇つてゐる兄妹の貌を見較べながら、滅び去らねばならぬ運命的な血の呻きを感じ取つたのであつた。

 その日、もう五時過ぎであつたであらうか、成瀬は何時ものやうに老人を見舞ひ、帰らうと振り返つた時入口の硝子戸があいて、顔面いつぱいに繃帯を巻いた兵衛が這入つて来たのである。彼は非常に瘦せてゐたが、背は人並よりも高く、成瀬はすぐに兵衛だな、と解つたので、挨拶を交さうと一歩ふみ出したが、続いてどやどやと五六名の男女が這入つて来たので立停つた。成瀬は一目で兵衛が入室するのだと知つた。顔に繃帯を巻いてゐるところを見ると、顔面神経痛か急性結節であらう。五六名の人たちは、それぞれ蒲団や毛布や、茶碗、歯磨、石鹼など日用品を入れためざる等を抱へて、老人の向ひ側の空寝台をぐるりと取り巻いた。茅子を除いてみな病気の重い人ばかりで、或る者は指が全部脱落した乾性であり、或る者は高度の浸潤に貌も手足もどす黒く脹れ上つた湿性であつた。やがて寝台の上に蒲団が敷かれ、こまごました日用品がけんどんの中に蔵はれると、兵衛は、

「すみませんでした、御苦労さんでした。」

 と礼を述べるのであつたが、顔面が痛むのであらう、ねぢれるやうな声であつた。かや子もまた兄に代つて礼を述べ、幾度も頭を下げてから兄に向ひ、 「枕の工合、ちやうどいいかしら。この寝台曲つてゐるのね、右の方が低いでせう。」

 などと言つて、凹凸のひどい寝台にちよつと貌を曇らせると、低まつたところへは蒲団の下から座蒲団や着物を畳んだのなどを差し込んでやり、とんとんと軽く叩いてたひらかにしてやるのだつた。その度に兄は、うん、よしよしと領き、多くを語らなかつた。

「舎の方は何か忘れものありませんか。あつたら言つて下さい。すぐ持つて来る。」

 と言ひ残して人々が帰つてしまふと、茅子もまた、

「用ありませんかしら、わたし今日ちよつと忙しいの。」

「さうか。帰つていい。ええと、ちよつと待つてくれ、茅、お前明日の晚でいいからちよつと僕の所へ来てくれるやうに久留米に言つてくれないか。」

「久留米さんに?」

「ああ。」

 茅子は何かひどくためらふ風に首を動かせ、兄を見ながら、

「どんなお話なさるの?」

 とおづおづ訊いた。兄は急に強く、

「どんな話でもいい。是非さう伝へてくれ。」

「はい。」

 茅子の声はどうしたのか、泣くやうな細い弱々しげなものに変つてゐた。そして話が途切れると、茅子は、しばらくその想ひに耽つてゐる様子であつたが、やがて兵衛の左右の寝台に横はつてゐる病人たちに、よろしくお願ひ致しますと言つて成瀬の方に視線を向けた。老人にも挨拶をして置かうかどうかに迷ふ風であつたが、成瀬がゐるのに気がつくと、ちよつと驚いたやうであつた。が、すぐ頰に薄つすらと微笑を浮ばせて、落着いた調子で言つた。

「まあ、しばらくでございましたわ。お体、いかがですの。」

 成瀬はさつきから兵衛に言葉を掛けようと思ひつつ、茅子との話の邪魔になつてはと、ためらつてゐたのである。

「ええ、お蔭様で、どうにか元気です。兄さん、どうなさつたのですか。」

「顔面――ですの。」

 この瞬間、二十三の成瀬は、はつと異様なものを感じて胸がときめいた。

 さういふことに対して彼の神経が特に鋭くなつてゐたのであらうが、彼はこの間髪に、茅子の肉体的な成熟、になつたのではないかといふ奇妙な不安がひらめいたのである。成瀬は、茅子と話し合つたことはほんの二三度しかなかつたのであるが、その二三度に受けた印象のむすめむすめしたものが、失はれた訳ではなかつたが、彼は、その娘らしい彼女の肢体や言葉の中に今までなかつた不思議な魅力が潜んでゐるのに強く心を動かされたのである。

 間もなく、茅子が帰つてしまふと、成瀬は兵衛の枕許に寄り、見舞つた。かなり痛むらしく、彼は言葉を途切らし途切らし、苦しげで、成瀬はあまり長いことゐるのが悪いやうに思はれたのですぐ別れて帰つた。

「顔面だけだとまだいいが、眼をやられるともうお終ひです。しかしどうやら眼の方へも来るらしい。覚悟はしてゐます。」

 と言つた兵衛の言葉が、成瀬の頭から離れがたかつた。

 この病院に収容されると、誰でも最初の一週間を重病室に入れられ、そこで病歴が調べられたり、余病の有無を検査されたりした後、普通の病舎に移り住むのであつた。もつとも今では収容病室といふのが新しく建てられたので、入院直ちに重病室に入れられるといふことはなくなつたのであるが、成瀬が来た当時はそれも出来てゐなかつたのである。成瀬が兵衛と初めて親しくロを利き合ふやうになつたのは、その重病室に入れられて五日目、真夜中のことであつた。

 まだ入院したばかりの彼には、三度の食事も満足にを通らず、終日悪夢を見続けてでもゐるかのやうな状態であつた。夜は激しい不眠に悩まされて、夢とも幻覚とも思はれる奇怪な患者たちの形相が浮び上つて、襲つて来る睡魔と幻影の中でどろどろと自分の肉体が融かされて行くかのやうに思はれるのである。その夜も彼は十二時を過ぎる頃になつてとろとろと浅い眠りに落ちたが、熟睡する間もなく覚まされてしまつた。

 ばたばたと慌しく廊下を駈け出す足音や、切迫した声などが入り乱れて耳に入り、どうしたのであらうと彼は寝台の上に坐つた。見ると、彼からはずつと離れてゐる向う端の寝台に七八人もが塊つて、何事か緊張した声でひそひそと言ひ合つてゐるのである。と、さつき廊下を駆け出した男の後を追つてまた一人があわを食つたやうに横飛びに走り出し、間もなく遠く医局のあたりで、

「早くせんと息が切れるぞ!」

 とどなつてゐる声が、薄暗い空間を響かせて聴えて来るのであつた。成瀬は何ごとが起つたのか判らなかつたが、異常な雰囲気にうたれて急いでそこへ行つて見た。人々の背後から伸び上つて覗くと、もう五十近いであらうと思はれる男が、腐つた果物のやうになつた顔面を仰向け、頸を溢られた鶏のやうに、ひくひくと全身を瘦攣させながら手足をばたばたともがいてゐるのであつた。どす黒くなつた額には血管がみみずのやうにふくれ上り、ククックククと咽喉のどを鳴らせてのた打つてゐるのだ。眼は宙にひつつり、掌を固く握りしめて、文字通りに今にも息が切れようとしてゐるのである。

 間もなく附添夫ががらがらと手押車を挽き込んで来ると、叩き込むやうに病人を車に載せて手術室へ駈け出して行つた。

医者たうちよくさんは出て来たか!」

 と叫びながら三四人が追つて行つた。残つた人々は室の中央に置かれた大きな角火鉢を取り囲んで、ほつとしたやうに煙草を吸ひ出した。その中に船木兵衛がゐたのである。異常な光景に興奮した成瀬は、兵衛のゐることに気づかなかつたが、兵衛は既に知つてゐるらしく、視線が合ふと彼は成瀬に微笑んで見せるのであつた。親しく言葉を交したことは勿論なかつたが、それでもそれまでに二三度出合つたこともあり、兵衛は既に成瀬が同県人であることを知つてゐたのであらう、その度に好意のこもつた微笑を、成瀬は受けてゐたのである。後になつて成瀬は知つたが、手術室に運ばれた男と兵衛は病舎の方では同室に起居してゐたのである。咽喉がつまつて呼吸困難におちいるほどであるから勿論重症であり、手術が遅れて死ぬことも珍しくはなかつたので、兵衛は当直の附添夫を助けて、補助看護に来てゐたのであつた。

 兵衛は近寄つて来ると、寝台の前にぶら下つてゐる体温表をちよつと眺め、坐つてゐる成瀬に、

「工合はどうですか。」

 と無造作に訊いた。成瀬は興奮がさめ切らず胸はまだ激しくゆらいでゐたが、兵衛は顔色ひとつ変へなかつた。

「喉頭癩なのでせうか。」

 と、舌のねばるのを覚えながら訊くと、兵衛は、もう吸口のあたりまで短く煙つて来た紙巻を、じゆつと思ひ切り吸つてから、もくもくと煙を鼻穴から噴き出しながら捨てると草履の下に踏みつけて言つた。

「さう。」

 兵衛の貌は、腫脹や潰裂はなかつたが、それでもかなり激しいそれらの痕が残つてゐて、色はどす赤く猩々せうでうを連想させるものがあつた。茶色つぽく濁つた眼には赤く血を孕んだ血管が縦横に走つてゐた。

 手術室に運ばれた男は、やがて穴をあけた咽喉に、金具を白く光らせながら帰つて来た、やはり車の上に横はつて、ぐつたりと死人のやうであつた。それでも呼吸が楽になつたのにはほつとしてゐるらしく、笛のやうにひゆつひゆつと金具を鳴らせながらせはしなく息を吐くのであつた。人々が手をとり足をとつて静かに寝台につかせると、男はちよつと手をあげて金具に触つてみようとするらしかつたが、それはみなにとめられた。

「ああしてのどを切つても、運の悪いのは二三日で死んでしまふんですよ。五年も十年も生きてゐる人もありますがね。」

 と兵衛が言つた。本能とはいへ、あんなになつてまでまだ命をのばしたいのかと、成瀬は生に執着する人間の性質が呪はしく思はれるのだつた。

「ノドキリ三年つて言ふから、まあ三年はそれで命を拾つた訳さ。」

 そのとき誰かが言つた。

「馬鹿言へ、あれで十年は生きるつもりさ。」

 と、それに答へて別の一人が笑ひながら言ふのだつた。成瀬はいきなりどん底に投げ込まれた思ひで言葉も出ず、顔面がこはばるのを覚えて、その方を眺めるのさへも何かはばかるものを感じるのであつた。兵衛は成瀬の気持を察したらしく、急に好意に充ちたまなざしを向けながら、

「驚いたでせうねえ。僕もここへ来た当時は、実に生きた心地もしなかつた。」

 そして明日遊びに来なさいと言つて、自分の舎名と部屋を教へた。兵衛が帰ると成瀬は気疲れにぐつたりして急いで蒲団の中へもぐり込むと、この印象は黒い核のやうに自分の頭の中に何時までも取れないに違ひないと、どこか心の遠くで思ひながら、とろとろと浅い眠りに落ちたのである。

 翌朝、眼を覚ますと彼はすぐ昨夜のことを思ひ出し、ふと、あれは悪夢の中の出来ごとではなかつたのか、などと疑つたりしながら兵衛の部屋を訪ねたのであつた。兵衛は快く迎へ、茶など奨めるのだつたが、成瀬はなんとなく落着いた気持になれなかつた。初めて這入つた部屋のためもあらうが、それよりも彼は、まだ病院全体の雰囲気に馴染むことが出来ず、無意識的に反撥し嫌悪してゐるのであつた。兵衛は、病気の状態を訊いたり、発病後何年になるかなどと訊ね、更にこの病気の性質や医療などを成瀬に説明するのだつた。

「退院される人も随分あるやうに聴きましたが、全治するのでせうか。」

 と訊くと、兵衛は、

「退院する者はあるが――。」

 と言葉尻を曇らせてゐたが、

「結局あなたにも終ひには解つてしまふのだから、ほんとのこと言つときますが、全治、といふ訳には行かないのでね。ここの言葉で言へば、一時、病気が落着くんですよ。まあ、結核と同じやうなもので。」

「再発するんですね。」

「さう。こいつの再発と来ると、全く確実なんです。乾性――つまり神経型にはごく稀に再発しないでゐるのもあるが、まあ千人に一人でせう。湿性――つまり結節型はもう間違ひなく再発するらしい。僕は医者ぢやないから断定は出来ませんが。」

 そのうち話は当然昨夜の出来ごとに及び、

「僕なんだかまだあの光景が眼の先で行はれてゐるやうな気がしてなりません。悪夢か幻覚のやうに思へるのです。」

 と成瀬が言ふと、

「さうでせう。あればかりでなく、この病院全体が幻覚のやうな気がする、来たばかりの頃は。あなたの気持はよく判りますよ。しかしあの男なんか稀に見る幸福者なんですよ。たいていの者は盲目になつてからやられるんですが、あれは急激に咽喉のどに来たから――。」

「恐しい病気ですね。」

 兵衛はしかし、この新患者くさい言葉にも別段苦笑せず、

「さう、恐しい病気ですよ。たしかに恐しい病気だ。」

 そして彼は両眼を閉ぢ、何ごとか深く考へてゐる様子であつたが、強く、

「肉体を持つてゐる限りここでは生きられません。断じて肉体は捨てなきあならないんです。さうでなければ、ここでは自殺するより他にないんですよ。」

 と力を籠めて言ふのであつた。成瀬は、しかしこの言葉をぴんと受け取ることの出来ない新患者であつた。が、さういふ兵衛の内部に潜んでゐる苦悩は感じとれ、

「さうでせうねえ。」

 と間の抜けた返答をするばかしであつたのである。

「癩者の闘ひは、あなたの言ふ、恐しい病気の実感から始まるのです。あなたは昨夜の光景と、あのとき誰かの言つた言葉を聴いたでせう。あんなになつても、もう十年は生きるつもり、なんですからね。あの男は発病後二十年近くになるが、あれがつまり癩者の本当の言葉なんです。生命の声ですよ。」

 次の日、成瀬は今の病舎に移つたのであるが、それから二三ケ月の間は、舎の生活にも慣れることが出来なかつたし、話相手とてもなかつたので、一週間に一度は兵衛を訪ねた。

「僕の眼は、ちやうど消えかかつた自転車の電池のやうなものです。あと二年くらゐてば良い方ですよ。」

 と言つて、豪快にははははと笑ひ、

「あなたはまだ気がついてゐないでせうが、これで僕の眼は、片方はもう殆ど見えないんですよ。非常に深い霧の中にゐるやうな工合ですね。」

 さう言はれて見て成瀬は初めて兵衛が失明を前にしてゐることを知つたのだつた。そして注意して見るとその悪いといふ方の眼は、なんとなく、意識を失つた者の眼に似て生気がなく、良い方の眼と較べて見ると成瀬にもはつきり判るのであつた。よく見える方の眼が、むしろ充血は激しかつたが、しかし悪い方と較べて、白い部分と黒い部分がはつきりと分たれてゐたが、悪い方は、きようまくが瞳孔に向つて流れ込んだやうに、眼球全体が白つぽくただれてゐたのである。

「治療法はないのですか。」

 と訊くと、

「有るが、無いのも同然ですね。手術なんかやりますが、一時見えるやうになつて、また日が経つと間違ひなく見えなくなる。それに手術したために余計早く見えなくなつた、なんてのが随分あつてね。医者の説では、癩患者は、見えるのが不可思議な現象で、見えないのが普通だ、つてことですよ。もつとも、これは僕の親しい医者の冗談ですが、しかし真実ですよ。」

「…………。」

「僕等の行手には、眼帯、松葉杖、義足、杖、そんなものが並べてあるんですよ。それをひとつひとつ拾つてゴールインするんですね。無論、焼場へですよ。はははは。」

 成瀬は言葉も出なかつた。

「覚悟するより他ありません。生き抜く道はその上にあるでせう。肉体を捨てることです。どんな廃残の肉体の中にも、美しい精神は育つんですからね。」

「肉体を捨て切ることが、人間に出来るでせうか。」

 人間として最も完全な形態は、たくましい肉体と美しい精神が融合したものではあるまいか。そして人間は本質的にたくましい肉体と美しい精神を同時に欲望する。その一つを捨てるといふことが、果して人間に可能であらうか――。

「出来ます!」

 と兵衛は強い声で言つた。しかしその強さが、彼自身の内部に盛り上つて来る不安と絶望に向けられてゐ、それを叱責する言葉であつたやうに成瀬には思はれた。そしてこの思ひはその後ずつと成瀬にある不安なものを植ゑつけたのだつた。

 雨はびしよびしよと降り続いてゐた。外へ出ると六月も半ば過ぎてゐるのに、四月の夜のやうな肌ざむさであつた。成瀬は、盲人のために敷かれた石だたみの道を、こつこつと下駄で踏みながら、今会つたかや子の姿やら兵衛の繃帯に包まれた貌などを思ひ描いた。

「僕の眼はあと二年てばいい方ですよ。」と言つた言葉に思ひ当り、やはりあれは間違ひではなかつた、顔面神経痛にやられての入室だといふが、今にきつと眼もやられるに違ひない。さう思ふと、成瀬は、まるで自分の眼が見えなくなつてゆくかのやうな不安を覚え、心が滅入つた。兵衛はああなつても尚強烈な精神を失はず生きて行くであらうが、自分が今あの場合に置かれたとすればどうだらう。成瀬は、さつと頭に閃いた「狂ふ」といふ言葉の破片にそつと寒気を覚え、それ以上考へ続けることが出来なかつた。

 ざざ、ざざと雨は傘に注ぎ、道は暗かつた。あちこちに点々とつけられてゐる常夜燈が、濃緑色の木々の間に明滅して、細雨の中に射し込んだ光りの穂先が闇の中に吸はれてゐた。

 温室の横まで来ると、成瀬は何気なくその方に眼をやつたが、はつとして立停つた。降りそそぐ雨足に濡れ、内部の水蒸気にぼうつとにじんだ中に、大きく咲いてゐる花陰に茅子の姿をみとめたのである。彼は急いでのび上り、注意して見ると、無論それは錯覚であつた。

 舎に着くと、もう九時を過ぎてゐた。二人は既に深い眠りに入つて、くらげのやうにただれた唇を開き苦しげな呼吸をしてゐたが、あとの三人は夜食のうどんをうでてゐるところである。成瀬はなんとなく心が滅入つてならなかつたので、すぐ蒲団を敷いて横になつた。うどんが出来ると、三人は部屋の隅に塊つて、

「うめいなあ。」

「うめえ、うめえ。」

 と言つては、びちやびちやと食ふのであつた。

「成瀬さんどうですかい、一杯。」

「夜食は病気に悪いつて言ふが、一杯ぐらゐ大丈夫だぜ。」

 成瀬はさつきから茅子の姿が眼先にちらついて、返事をするのもひどく面倒に思はれるのだつた。あの時兵衛の口から出た久留米といふ男は、恐らく茅子の何かであらう。が成瀬は、茅子に男がついてゐようがゐまいが、それはどちらでもいいことだと思つた。勿論茅子に対してどうしようといふ気持は、成瀬にはなかつた。が、さつき病室で会つた時の彼女の殆ど動物的とも思はれる魅力が蘇つて来ると、自分の内部にあるけもの染みたものが、今にも猛然と起き上らうとするかのやうに思はれるのだつた。兄妹といへ、勿論ここでは離れて住んでゐるので、兵衛にはよく会つても茅子とはめつたに会ふこともなかつた。それでも今までに彼女と口を利いたことも二三度あつたのである。しかし今夜のやうな感じは受けたことがなかつたのに思ひ当ると、いつの間にか激しい変りやうをしたものだと、成瀬は女の変化に驚くのだつた。が、また自己に振り返つて見ると、茅子をあんな風に感じたのも、茅子の成熟ではなく実は自分の心の中に巣喰つてゐるものがさう思はせたのではあるまいかとも考へられたが、しかし彼はやはり茅子は変つたと思ふ心をどうしようもないのであつた。

 久留米については、成瀬は全然知らぬといふこともなかつた。親しく口を利いたことはないが、道を歩いてゐる時に見かけたこともあり、また病院に芝居や映画など、催しもののある時にも見たことがあつた。つい先達つても、院内の茶摘みが行はれた時、すぐ隣合つて葉を取つたりしたのである。

 背は低く、顔全体に圧しつけられたやうな憂鬱さがみなぎつてゐたが、病気は軽く、外見にはちよつと病人とは思へないくらゐであつた。眼は幾分兵衛に似て、細く小さく、笑ふとかへつて泣いてゐるやうに見えるのであつた。しかしそれが対手あいてに向つてじいつと釘づけされると、異様な、蛇のやうな執拗さをもつて何もかも見透してしまふやうな光りを放出するのだつた。成瀬は一見するなり、これはただ者ではないと思つた。

 彼は成瀬が入院してから一ヶ年ほどたつた頃入院した。かなり激しい性情であるらしく、入院後五六ヶ月ほど過ぎた頃、自分に宛てられた手紙が二日も遅れて手に這入つたのはどういふ訳かと、事務所へどなり込んだりした。勿論これはちよつとした事務員の手違ひから起つたことで、ことが荒立ちもせずすんだが、彼はその二三日は夜も眠られぬと言つて、危く逃走しようとしたりしたほどであつた。これを聴いた時成瀬は、単純な奴だと軽蔑する気持になつたが、なんとなく好奇心も湧いたのであつた。彼は、この病院の機関紙である『槭樹の下』などにも時々エッセエ風の文章を書いたが、それには久留米六郎と署名してあつた。

 成瀬は雨だれを聴きながら幾度も寝返りをうち、兵衛とかや子の会話を思ひ出すと、では明日の晚は是非兵衛を見舞つて久留米にも会ひたいものだと思つた。さうすれば久留米と茅子の間柄も自づと判るに違ひない――。彼はもう無意識のうちに、茅子と久留米との関係をはつきり摑みたくなつてゐる自分に気づくと、嫌なものを味ひ、不快であつたが、しかしこれは茅子を欲しいと思ふためでは決してない、とはつきり言へると思ふのであつた。


 成瀬はふと足を停めると、病室の窓をちよつと見上げ、それから築山の下に咲き始めてゐるグラヂオラスの方に眼を向けて、よし悪い気持がないにせよ、さういふ下心があつて兵衛を見舞ふ自分が不快で、入口の扉を開くのが躊躇されるのだつた。雨はやんでゐたが、今にも降り出しさうに雲が低く、夕暮の迫つたあたりは薄暗かつた。しかし自分にさういふ気持もないのに躊躇するのは尚をかしいことだと思はれたので、何気ない調子で扉をあけ、瞬間ぶんと嗅つて来る膿臭に鼻孔をちぢめながら、兵衛の方に先づ眼をやると、やはり久留米は来てゐて、横はつた兵衛の寝台を挟んで茅子と向ひ合つてゐた。這入らうかどうしようかとまた逡巡する心を圧へて老人の方を見ると、老人はもう成瀬の来訪に気づいてゐて、視線をこちらに向けてゐるのだつた。

「お前さまの来るのを待つとつたよ。」

 体温表を見るとまた上つてゐて、三十七度の赤線を突き抜けて九度五分を指してゐるのだつた。

「どうしたの、また上げてゐるぢやないか。」

「すまんがのう、注射を頼んで来てくれんかの。」

 兵衛ら三人は何か小さな声で話し合つてゐた。成瀬は無意識のうちにもその方へ耳が澄み返つて行くのをどうしやうもなかつた。茅子は始終黙つて、兄と久留米とを交る交る見ては、哀願するやうな眼つきをし、今にも泣き出しさうに頰の筋肉を顫はせたりするのが、痛いほど成瀬の眼に食ひ入つて来るのであつた。兵衛は顔面一ぱいの繃帯の下から小さな声で話の内容も掴めなかつたが、久留米はときどき激情的に声が大きくなり、断片的にはその意味も察せられるのであつた。そして久留米と茅子とが恋愛以上の関係にあることも察せられ、憎しみ、といふほどのものでないにしろ、久留米に対して一種の嫌悪と反感とを覚えるのを、成瀬は致方もなかつたのである。

「あなた、そんな……。」

 久留米の激しい言葉に対しておづおづと言つた茅子の言葉が、注射を頼みに医局の方へ足を向けた成瀬の耳にびんと響き入つて、彼は思はず足の浮くのを覚えたのであつた。

 医局から帰つて来ると、もう三人の話は終つたらしく、菓子をつまみながらお茶を飲んでゐた。

「成瀬君、お茶いかがですか。」

 と兵衛が声をかけたので、

「どうですか今日は、工合。」

 奇妙に言葉をまごつかせながら成瀬は、三人の間に割り込んだ。

「ありがたうございます。とても今日は楽なんですの。」

 と、兵衛に代つて茅子が答へ、けんどんの上の湯呑にお茶をさして奨めるのであつた。久留米も成瀬も既にお互の名前を聞き知つてゐるのでちよつと頭を下げ合つて、成瀬は湯吞を口にもつていつた。三人共、今まで話し合つてゐたことがまだ頭にひつかかつてゐると見え、成瀬もまた成瀬で三人から除外されてゐるやうな場違ひを意識して話ははずみやうもなく、初めのうちはお互に言葉も途切れ勝ちであつた。兵衛がこの病院の政治的なことに就いて二三話したが、それもすぐ沈黙の中に墜ち込んでしまひ、あとは文学のことなどここの現実からはかけ離れたことが話され、誰もこの世界から眼を遠ざけ、それに触れたくないやうであつた。久留米はどうしたのかひどく不機嫌さうに黙り込んで、兵衛が何か言つてもぶつきら棒な返事を短く千切つたやうに答へるだけで、成瀬はなんとなく取りつく島もない思ひになつた。自づと反感に似たものも募つて来て、成瀬は、ではお大事にして下さいと別れの言葉を思ひ浮べた時、ふとさつき医局で見たことを思ひ出して、何の気もなく、

「ここの看護婦にもシェストフを読んだりしてゐるのもゐるんですね。僕、意外な気がしましたよ。」

「ああ、あれですか。」

 と兵衛は知つてゐるらしく、

「久留米が貸したんですよ。『悲劇の哲学』つてのでせう?」

 と続けて言ふと、久留米が不機嫌さうに言つた。

「あいつら、もの好きさ。」

「さうでもないだらう。しかし僕は思つてるんだが、あいつあ地獄の使者だよ。」

「ふん。」

 久留米は軽蔑したやうに傲然と鼻を鳴らせた。兵衛は久留米を指しながら成瀬に向ひ、

「ところが、久留米は悲劇の哲学以前でぺしやんこになつてるんですよ。悲劇を哲学して、悲劇を食つて生き抜くことなんか、この男からは凡そ遠いんですね。悲劇に圧倒されてしまつて呼吸困難におちいつてゐるんですからね、不幸な男ですよ。」

 久留米は急に小さな眼をきらりと光らせると、

「ありや壮健の書いたものだ。」

 と嚙みつくやうに言つた。

「それで、君は、癩患者だつてのか。」

「シェストフの体は腐らないんだよ。死ぬまで生きてゐられるんだ、あいつあ。俺達は死ぬ前に既に息を引取つてるんだ。体が腐るんだからな。」

「精神が腐るか?」

「精神が腐らなかつたつて体は腐るんだ。体の腐らん奴が書いたものなんかこの病院なかで通用するもんか。俺だつて体が腐らなけりやもつと物凄い論理をひねり出して見せる。体の腐らん奴はどんな理論でもひつ放しが出来るんだ。都合が悪けりや転向すりやいいんぢやないか。俺はもつと切迫してゐるんだ。思想か思想自体の内部でどんなに苦しんだつて、たかが知れてらあ。」

「しかし壮健さんだつてみな一度は死ぬんだぜ。」

「当り前さ。だから言つてるぢやないか、奴等は死ぬまで生きてゐられるんだつて!」

「社会人としてか。」

「勿論、そしてそれだけぢやないんだ。つまり人間が人間の形態、人間の形式上で生きられるんだ。俺達は死ぬまでに、既に人間を廃めなきやならんのだ。」

 久留米はもう汗を額にじつとりとにじませ、声は荒々しく高まつて来たが、兵衛は繃帯の下から眼を細めて微笑しながら、

「精神を信用しない人だな。」

「ふん美しい精神、立派な精神。結構なことさ。しかし美しくなけりやならんといふことはないんだ。立派でなくちやならんとは誰も定めはしなかつたんだ。どだい立派なんてものが怪しいものだ。そんなもので嘘でなかつたことが今までにあるもんか。みな虚偽だ、ごまかしだ。要するにそんなものは、自殺する気力のない貧弱な奴等が、死ねないことの弁解に口にするところの代物だ。俺はさういふものはお断りだ。」

「とにかく、十年癩病の飯を食つて見ることだよ。十号――狂病棟――へ行つてごらん、六十一年癩病生活をして今年七十二になる男が生きてゐる。十年癩の飯を食ふと、その男の前でひとりでに頭が下るやうになるんだ。君はまだ人間の生命つてものを一度も見たことがないのだよ。生命どころか、君は人間つてものすら見たことがないんだ。君が見てゐるのは、そこらにうじやうじやとひつかかつてゐる人間の着物ばかりなんだね。ブルジョワの娘は汚い着物を着ると息がつまつちまふが、それと同じさ。自殺なんて身の程知らずの生意気野郎がする、なんて言ふが、思ひ上りだよ。君の考へなんか、海の上に浮んだあぶくみたいなものさ。一度でも足許の海を見てみろ。いいか、海は真暗なんだよ。深いんだよ。そこは闇なんだよ。判るのか、俺のいふことが。自分といふものが、その上に一輪咲いた花だと思つてみろ。それでもまだ死にたいのか。」

 久留米は急に意地悪さうな皮肉を貌に漂はせながら、

「僕は生憎とリアリストでね。君ほどには神秘家でないのさ。」

 兵衛は繃帯の間から指をつつこんで鼻の横をぽりぽりと播きながら、

「成瀬君、この男は近いうちに自殺するつもりらしいんですが、あんたはどう思ひます。」

「さあ、僕はまだ死について突きつめて考へて見たことがないので、あれですけれど、死なうと思つてもなかなか死ねないやうな気がします。そのうちだんだん死にぶつかつて行くやうな気がしますけれど……今のところでは、死なうと思ふと急に生命が大切なものになつて来さうですし、生きようとするとまた急に死にたくなつて来るやうな気がしてなりません。でも根本は誰だつて生きたいのですし、死にたいと思ふのもほんとの心は生きたいためだと思ひます。でも、死ねれば死んだ方がいいやうにも思ひます。僕には判りません。」

 と成瀬は自分の気持を率直に述べた。かや子は始終不安さうに久留米の方に視線をやり、時にはぴつたりと彼の貌に視線を釘づけにしてじつとみつめてゐるのであつた。

 時がたち、話が切れると、成瀬は、

「お暇の折には遊びにいらして下さい。」

 と久留米に向つて言つて外へ出た。何か大切なものを切り落した時のやうな空虚な、そしてなんとなく落着けない気が残つてゐた。

 降り続いた梅雨があけると、間もなく甍も融けて流れるかと思はれるやうな酷烈な夏が巡つて来てゐた。海からも山からも遠く隔絶したこの一郭の人々は、厚ぼつたく巻きつけた繃帯の中に埋もつて、秋を待ち焦れて喘ぐのであつた。骨身にしみ透るやうな蟬の音が終日頭上で続き、烈日を浴びた緑葉の輝きは、薄れかかつた病人たちの眼にしみ入つて痛ませた。この頃になると、膿汁の溜つた疵口や、疵を覆つたガーゼや繃帯の間に、数知れぬ蛆が湧くことも決して珍しくはなかつた。膿汁を吸つて育つたこの幼虫は丸々と白く太つて、もさもさと重なり合つてうごめいた。光線の工合によつては透きとほるやうな無気味な碧さでかがよひ、時にはちりばめた宝石のやうにすらも見えるのである。

「やあきれいだなあ。」

 繃帯を解かせてやりながら附添夫が、思はず感歎の声をもらすこともあつた。しかしさすがに気色が悪いのであらう、あわててガーゼの中につつみ取つて捨てると、慣れ切つた看護婦たちも頰をしかめて、暑苦しいマスクの中に不快な思ひを隠すのであつた。これが自分の生きる世界なのかと、成瀬はしみじみ自分の周囲がかへりみられ、後頭部に痺れるやうな鈍痛を覚えた。

 さうしたある日の午後、珍しくれの良いトマトが売店に這入つたので老人に食はせてやらうと病室へ買つて行つたのだつたが、そこで彼は初めて茅子が孕んでゐることを知つたのであつた。

 老人の疵は、その後どうにか良い結果が続いて、盂蘭盆が終る頃には退室も出来るといふところまで運んでゐた。

「ほう、こりやよう熟れとる。うむ、うまさうぢやのう。」

 輪切りにされたのを老人はつまみながら、子供のやうに嬉しがり、たらたらと顎に垂れるつゆを拭ふのであつた。

「どう、足りなけりやもつと買つて来るよ。」

 成瀬もやはり満足なものを覚えて、さういふ冗談口の一つもきいたのであつた。

「舎へ帰つたら退院祝いをやるべいよ。だけどのう、わしはもう土方はやめにしたよ。わしの足は板ではないからの。釘がささつてはかなはん、かなはん。腐つとる足でも生きとるからのう。」

「さうださうだ。」

「どうせこんなやまひになつたからにや、ちつとは楽をしべい。どうせ近いうちに死ぬ体ぢや。しかしのう、お前さんを見ると気の毒でのう、まだ若い体で。まあそのうちに良い女でも見つけるのさ。」

 そして老人はちらりと向ひ側の兵衛の方を窺ひ、急に小さな声で言つたのである。

「茅子さんはこれぢやよ。」

 老人は両手で腹の脹らんだ恰好を示した。

「え?」

 と成瀬は思はず問ひかへしたが、さうか、さうだつたのか、と、これといふ理由もないながら、何か思ひ当つたやうな気持になつたが、茅子の姿が思ひ浮んで来ると激しい怒りが湧いて来た。馬鹿! と彼は自分の頭の中の映像に向つて投げつけたのであつた。

「誰に聴いたの?」

 老人の言葉を妙に否定したくなつてさう訊くと、

「そりや、成瀬さん、わかるよ。朝晚茅さんはあにさんのところへ来るからのう。自然ひとりでにわかるもんぢやよ。相手はお前さんも知つとるだらう。」

 勿論久留米だ、と成瀬は思ひ、苛立つものを覚えてその日はすぐそれで舎へ帰つた。

 平静な気持になると、彼は、その時の怒りを思ひ出して自分ながら不快になつた。茅子が孕まうが孕むまいが、問題でないではないか。よし彼女が自分の前に胸を展げて身を投げかけて来たとしても、恐らく自分は拒否してしまふに違ひないではないか。癩だ癩だ、これが俺をどつちへも行かせないのだ。自分の欲しいものは茅子では決してない、ただ女が欲しかつたのだ。女の肉体だけを俺は欲望してゐたのだ。しかし癩だ、これが俺の欲望を圧しつけ、圧迫して、俺はただ女の映像を描いてそれに向つて苦しむだけなのだ。久留米のやうに欲望に向つて率直に飛び込んで行けないのが自分なのだ。

 しかし、そののちの成瀬は、心の中に虚ろな空洞が出来、ともすれば滅入り込み勝ちな憂鬱な日が多くなつたのはどうしやうもなかつた。

 久留米は、兵衛のところで初めて会つて以来、二三度成瀬の部屋へも遊びに来たことがあり、また成瀬も彼の部屋を訊ねたりした。そして彼の、殆ど傲岸とも思はれる言葉使ひや態度も、実は彼自身の心の真実に向つて率直に実行して行く、またさうせねばゐられない彼の純一な性質のためであつて、成瀬はそこに少年のやうな純情をすら見たのであつた。久留米は成瀬と同い年の二十三である。

「僕はどんなに精神が勝利しても、この肉体の敗北がたまらないんです。病室へ行けば誰でもすぐに気がつくが、真実美しい精神に生きてゐるといふあのクリスト者ですら、僕にはなんとしても毛の抜けた猿にしか見えないんです。船木君だつてやつぱりさうです。どんなに立派な精神を有つてゐたつて、他人から見れば山猿か芋虫にしか見えないんです。僕はこいつがたまらんのです。」

 また、

「立派な精神や美しい精神といふやつは、鮎を釣るあの釣針と同じものです。毛は生えてゐます、立派な餌にも見える。しかし甘味もなけりや滋養もありやしません。単に、咽喉のどに引つかかるだけです。僕は美しい上品なものよりも、下劣な、下等な肉体的欲望で十分なんです。そいつが欲しいんです。」

 などと彼は成瀬に語つたのであつた。

「それに敗れれば自殺するよりないとおつしやるんですか。」

 と成瀬が訊くと、

「さうです。僕は癩病患者なんです。必然それに敗れます。」

「でも自殺なさるためには、生き抜く以上に強烈な精神が必要なのではないでせうか。」

「それです。それです。僕を苦しめるやつは! 僕は、気が狂ふかも知れません。」

 生きることも出来ない、しかし死ぬことも出来ない、この生と死の中間に挟まれて身動きも出来なくなつたとすれば、確かにもう狂ふより他にないであらう。成瀬は暗然と久留米の貌を見ながら思ふのであつた。自分もまた久留米と同じやうなところへ向つて墜ち込みつつあるのではないか、いやこれは自分や久留米ばかりでなく、凡ての癩者がぶつかるところである、船木兵衛もこれにぶつかつたことがあるであらう、そしてこれにぶつかつた時、自殺する者はするのだ、兵衛のやうに生き抜く者は生きるのだ、自己の生活を、自己の存在をはつきりと認識して生き抜くのだ、そして第三流の者のみが、どつちへも行けずただ生の本能に引きずられて何の自覚もなくずるずると墓穴へ引つぱつて行かれるのだ、勿論それは生きたとは言へない、それならこの自分は、一体どうしたらいいのか、俺の足は麻痺したのだ。

 彼は久留米の苦しみがはつきりと判るやうに思はれ、その苦しみに対して、真向から斬りかかつて行く姿に、羨望と敬意とを覚えたのであつた。しかし茅子が孕んでゐることを知つてからは、久留米の姿が浮んで来る度に、憎しみに似た嫌悪を覚えてならなかつた。がその嫌悪を意識すると、成瀬は、嫌悪してゐる自分自身が腹立たしくなつて、誰に向つてとも定らない言葉を呟くのであつた。

「久留米だつてそのために苦しみが増してゐるのだ。俺は、これでいいのだ、これでいいのだ。」

 だがさう呟く下から、不安と絶望とが重なり合つて盛り上り、やり場のない苛立たしさに眼先が真暗になるのであつた。もし成瀬が兵衛のやうに三十を超えた男であつたならば、或はかうした暗い気持も味はずにすんだであらう。彼は自分の若さが呪はしく思はれ、病毒に濁らされた青春の血の狂ひを意識するのである。


 ぼさぼさと繁つた青葉の黝ずんだ重なりを透かして、踊場の光りが射しこんでゐた。高く組み建てられた櫓が見え、その上で手を振り足を振つて太鼓を叩き笛を吹く囃子方の姿が、木立の向うに手に取るやうにはつきりと見える。踊子たちの姿は見えなかつたが、囃子の声は遠く離れた二人の耳へも、鯨波ときのやうに聞えて来、どよめく潮のやうに遠く消えかかつてはまた盛り返して来るのであつた。もう十二時を廻つてゐるであらう時刻であつたが、灰色の一色に塗り潰された病院生活に倦怠し切つた患者たちは、夜の明けるのも忘れて踊り狂ふのが例年のことになつてゐたのである。

 さつきから林の中をあてもなく歩き続けてゐた二人は、やうやく疲れを覚え、

「踊場でお茶でも飲みませうか。」

 と成瀬が誘ふと、さうしようと言つて久留米もその方へ足を向けた。

 まだ宵のうちに成瀬は久留米を訪ねて、それから二人はずつと歩き続けてゐたのである。その間二度ばかり踊りを見物してゐるうちに別れ別れになつたが、どつちから近寄るともなく出合つては散歩の足をのばしてゐたのであつた。病院全体が踊り気分になつてゐて、部屋は雑然としてをり、二時三時まで眠ることなどたうてい出来なかつた。

 踊場は松や檜、栗などの林に囲まれた広場で、婦人舎からは病気の軽い者が三組に分れて、十四日から十六日までの間を、交る交るお茶や結飯の接待をするのであつた。葦簾張よしずばりにされたその接待所で二人は茶を飲むと、踊りの輪へ近寄つて眺めた。

 坊主頭や、義足や、指の脱落したのなどが大きな輪になつてゐるのであるが、二百人に余る踊子が揃ふと、櫓から射し出る電燈の光りを浴びて、黝々くろぐろとした大地に咲き出した巨きな花を見るやうであつた。櫓を中心にしてぐるぐると巡り、ところどころがふくらんだりつぼまつたりして、風にゆらいでゐる花弁のやうにも見えるのである。その輪を取り巻いて体の不自由な人々が幾百人となく見物してゐるのであるが、勿論どれもこれも奇怪な形相をした患者ばかりで、よくもこれだけ癩病人が集まつたものだと成瀬は思はずしてぐるりとあたりを見廻すのであつた。義足をぎちぎちと鳴らせながら輪の近くへ寄らうと人々の間を割け入つて来るのや、松葉杖をしつかり地面についてそれで体を支へてゐるのや、癩者独得の靴のやうな恰好をした下駄をはきそれを紐でつるしてゐるのや、成瀬はこの盆踊りを初めて見た時の印象、なんとも言へぬ奇怪な土人部落の踊りを思ひ出した。とりわけ成瀬を驚かせたのは、彼のすぐ横に一団をなしてゐる盲人たちであつた。彼等は兵士が剣を前に出して並んでゐるやうに、みな一本づつ竹杖を前にして、時々どつと喚声をあげたり、

「踊りを変へろ! 何時まで同じものをやつてやがるんだ。」

 などと囃子方に向つてどなつたりするのであつた。勿論彼等は踊りを聴きに来てゐるのであらう。ばかりでなく、朝から晚まで不自由舎の一室でごろごろと死を待つばかりの生活に倦み切つてゐる彼等は、無意識のうちにも、人々の声を聴き、うかれた気分を味ひ、大勢の人なかに身を置きたいのであらう。社会から拒否されてまだ日の浅い成瀬が、夢の中にも社会生活を思ふやうに、自分らより更に狭小な世界に墜ち込んだ彼等が、人々の発する雑音や雑沓の中に身を置きたいと思ふのは決して無理なこととは思はれなかつた。成瀬はかうしたなかにしみじみと人間のあはれさを見せられたのであつた。

「ちえ。なんて幸福な奴等だらう。」

 さつきからじつと眺めてゐた久留米が、不意にさう吐き出した。

「酒も飲まないで、よく素面でこんなにうかれてゐられるものだ。」

 と続けて言ふと、帰らう、と言つて成瀬の肩を突いた。成瀬はもつと見物したかつたのであるが、うんと頷いて従つた。が、二三歩足を動かせた久留米が、どうしたのかまたぴつたりと立停つて輪の方に一心に眼を注ぎ出したのである。かや子が輪の中にゐるのかな、と瞬間思つた成瀬は、外した視線をまたその方に向けた。するとすぐ眼の先に少女舎の小さな児たちの一並びが廻つて来てゐたのである。

「きれいだ。実に子供はきれいだ。」

 と久留米は呟いて一心に眺めるのであつた。癩児とは言ふが、みな病気の軽い児ばかりであつた。一般に男の子は病気の進行が急激であるが、女の子は殆ど治癒状態であるのが多く、健康な児の中にも見られまいと思はれるやうな愛くるしい子供がゐたのである。この男にもこんな一面があつたのかと、成瀬は思はず久留米の貌を眺めた。

「花々の中に泳いでゐる蝶みたいだなあ。」

 とまた独言ちる久留米を、成瀬は我知らず噴き出しさうになつたが、彼の真面目な貌つきを見ると、

「さうですね。」

 と相槌を打たずにゐられなかつた。彼はそれほど真剣に子供たちに見惚れてゐたのである。

「踊らう。」

 彼はいきなり、成瀬の存在も忘れたやうに輪の中に飛び込んでいつた。彼の踊振りは誠に下手で、全身が石像のやうに強張こわばり、ただ手足だけがぴんぴんとはねるのであつた。なんて幸福な奴等だらうと軽蔑したその口の下で、すぐもう踊り出した久留米を見、その下手くそな踊振りを見ると、成瀬はをかしさがこらへ切れなかつたが、しかし何か痛ましいものを見る思ひでもあつた。

 やがて、三巡りばかり廻つて来ると、

「疲れた。」

 と言つて成瀬の横に帰つて来た。そして接待所へ這入ると、汗を拭いてお茶を三四杯たて続けに飲み、二人は踊場を離れた。温室の横の芝生に来ると、久留米はその上に寝転んで大きな息を吐いた。踊場のどよめきが遠くに聴え、しんとした芝生には冷たく露が下りてゐた。

「踊つたつてどうしたつて、僕等の苦しい現実は忘れることが出来ないですね。」

 妙にしんみりした調子で久留米は言ふのであつた。

「さうですねえ、どんなにこの現実から逃れようとしても、生きてゐる限りつきまとつて来ますねえ。」

 と成瀬は答へながら、今までに感じたことのない、久留米に対する親しさが心の中に湧き、彼の苦痛が痛いほど感ぜられるのであつた。そして、今までの友人の尠かつた孤独な日々が思ひ出されると、かうして久留米と親しくなつて行くことが、なんとなく豊かなものに思はれるのだつた。成瀬も並んでそこに腹這ひ、

「露が降りてますね。」

 病気に悪い、といふことがぴんと頭に来たが、

「気持がいい。」

 と言つて胸をはだける久留米を見ると、やはり彼はもつと話し合ひたい思ひが強まつて来て、

「いいですね。」

 しつとりと濡れた草ぐさが肌に触れ、首を上げると乳白色に煙つた銀河が見えた。

「僕等は、どんな場合でも病気が忘れられんのですね。露が体に触れると、快感を覚える先に熱瘤――急性結節――にやられはせんかと、それが先づ頭に来ちまふ。さつきだつて子供と並んで踊つて見たが、踊り出すとすぐ、この児のおしりには赤斑紋があると思つてしまふんです。さういふことを考へると、情なくなつちまひますよ。」

 久留米もやはり成瀬と同じやうに病気のことを考へてゐたのである。

「僕等は、慣れるといふことが出来ないのですね。勿論、かうして平気でこの病気の中にゐられるといふことは、つまり大分慣れたことなのでせうが、でも慣れ切るといふことはたうてい出来さうもありませんね。」

「僕はその慣れるといふやつが大嫌ひです。」

「勿論、僕も慣れたくはありませんが……。」

「結局慣らされてしまふ。これを考へると僕は恐しくなるんです。癩患者が、こんな苛酷な運命に虐げられながら、しかも自殺出来んのは、病気が徐々にそろそろとやつて来るからです。そのうちに慣れちまふんです。たとへば病気の宣告を受けるとする。成程その時は大地が揺ぐやうに吃驚する。しかし三時間か四時間を経つて、或は首を溢らうとして木の下に立つて、はてな? と思つちまつて、癩病だと宣告はされたが、しかし体のどこにも痛みはないし、また苦しくもない。そこで、まあそんなに急がなくても何時でも死ねる、今死なねばならんことはない、と思つちまふんですね。さう思つたが最後、もう何時まで経つたつて死ねるもんぢやない。足が二本共トタンの筒つぽに変つたつて、手が猫の足みたいになつたつて、眼がはじくり返つたつて死ねやしない。ただ死ぬまで悶え続けるだけです。だから僕は、生き抜く、なんて力んでゐる奴等が滑稽なんです。生き抜くこと程たやすいことはありませんからね。生き抜くつてのは、つまり死ねないつてことぢやないですか。」

「でも、たとへば船木さんのやうにしつかり自己を把握して生きてゐる人と、ただ生の本能に引きずられてゐる人とは、僕別なことのやうに思ひますが――。意識がこの場合問題なんだと思ひます。」

「意識がね。ふん。僕はあいつを見ると、もつたいぶつた自惚れを感じさせられちやふんです。だつて、あの男を見るとまるで猿ですからね。よしんば、あいつが、どんなに勝れた思想を掴んでゐるか知らんが、ところが思想つてやつはこんな場合たいていが、如何に巧妙に、如何に綺麗にごまかすかつてことに向つて集中してゐるんですね。僕はどだい、自分の生に対して絶えず理窟ばかりつけてつじつまを合はさうと努力してゐる奴が大嫌ひなんです。」

「でも……。」

 と成瀬は半ば口を開きかけたが、しかし、もうこれ以上どんなこと言つたところで意味無いであらう、もうここに至れば個性の問題とでも言はうか、なんとも動かしやうはないと思つて、ロを噤んだ。よいとよういとまいた、やんちきどつこいなあと囃す声が遠くどよめいて来ると、久留米は、

「八木節か。何時までやるつもりなんだらう、やつら。」

 と呟いて黙ると、それから長い間沈黙を続けて考へ込んだ。恐らくは自殺の思ひが頭の中に渦巻いてゐるのであらう。また囃子の声が聴えて来ると、成瀬はふとかや子のことを思ひ出して、彼女は踊りも出来ずどこか林の中にでも佇んで、やがて人目にもつくやうになるであらう腹を抱えて涙を流してゐるのではあるまいかと不安になつて来て、

「茅子さん今日はどうしてゐられるですか。」

 と訊いて見た。

「ああヴエガは綺麗だなあ。」

 別段皮肉でもなく久留米は独言して、またちよつと考へ込み、急に激しい口調で、

「僕は盆が終ると死ぬことにしてゐるんです。」

「え?」

 と訊きかへしたが、しかし成瀬はもう言葉も出なかつた。勿論生きてくれなどとは言へやう筈もなく、黙つて相手の貌を見るばかりであつた。

「僕は、肉体を求めて肉体に敗れたんです。肉体の前に敗北してしまつたんです。」

「でも、かや子さんのことでせうけれど、なんとでも解決の方法はあると思ひますが。」

「ふん。」

 癖なのであらうが、彼は語るに足りぬといつたやうに鼻を鳴らせたが、

「解決? どんな解決があるんです。自分のこの腐りかかつた体を生かすために、堕胎しろつて言ふんですか。それとも未感染児童の保育所に送れと言ふんですか。あんたは、これで解決がついたと思ふのですか。船木君もさういふことを言つてくれる。僕は彼を感謝と同時に軽蔑してゐる。一たん出来てしまつたことがそんなことで解決されてたまるもんですか。そんなのはごまかしです。虚偽です。時間を以前にひき戻すことが可能でない限りどんな解決も嘘です。出来てしまつたことは仕方がないから最良の方法をもつて解決する、これくらゐ体のいい虚偽はまたとありやしない。僕が今、ここで、あんたをいきなり殺したとしても出来てしまつたことなら仕方がないつて言ふのと同じですからね。」

「だけど、それでは死ぬことによつて解決されますか。」

「出来ません。そんなこと僕だつて解つてます。僕の欲しいのは解決ぢやないんです。僕の言ふことが君には判らんのですか。僕はそのことに対して解決など少しも求めてはゐません。僕が言ひたいのは、ただ解決といふものが凡て虚偽である、といふことです。彼女のことなんか単に一例です。」

「一例?」

「さうです。一例です。僕が死を求める理由のうちの単なる一分子です。つまり、生きることそれ自体、癩になつてですよ、癩になつて生きることそれ自体虚偽だつていふのです。だから自殺を求めるんです。」

 そして彼はいきなり、

癩病かつたいがいやなんです。」

 と投げつけて黙つた。見上げると、空全体が深く洞窟のやうに見え出して、成瀬はその中に引込まれて行くやうな不安を覚えた。

 盆が終れば退室も出来る、退室祝をやるべいと言つて、子供のやうにそのことばかりを楽しみにしてゐた老人の身にも、また意外な災難が降りかかつて来た。盆も今日一日で終るといふ十六日の夕方、もう始まりかけた踊りの太鼓を遠くに聴きながら老人を見舞ひに出かけた成瀬は、老人の貌に今まで見かけなかつた紅斑を発見したのである。急性結節かなと彼は怪しみながら、

「どうしたの、ほら、変なのが出来てゐるよ。熱ないかね。」

「うん。なんやら体が熱つぽいが、夏ぢやからのう。」

「熱瘤が出てゐるよ。医者に診て貰つた方がいい。」

 しかし老人はもうその日のうちから四十度を上下する高熱に苦しめられ始めたのであつた。急性結節と思つたのは勿論誤りで、疵から何時の間にか忍び込んだ丹毒菌が猛威をふるひ始めてゐたのである。癩の患者は疵が多い上に皮膚などの抵抗力が弱まつてゐるため、この病院では丹毒患者の絶えるといふことは年中なかつたのである。

 空から照りつける太陽熱と、自分の体内から盛り上つて来る高熱とに、老人は殆ど虫の息になつて、

「なんちふこつたか、なんちふこつたか。」

 と呟き続けるのであつた。勿論その翌日、まだ朝も早いうちに、この隔離病院の内に更に隔離された丹毒病室へ転室させられた。それ以来は見舞ひも禁ぜられて、成瀬は老人を案じつつ会ふことも出来なくなつた。退室する頃には、恐らくはくりくり坊主に禿げ上つた老人になつてゐることであらう。

 盂蘭盆が終ると、暑さはますますきびしくなつて病室には老人が増していつた。衰弱し切つた体を、手も足も顔面も繃帯につつんで横はつたきり幾年も過して来た彼等は、息づまるやうな膿臭を発散しながら日にち死と生の間を往来するのであつた。

 久留米六郎はその後どうしてゐるのであらうか、自殺したといふ報せも聴かないまま、日は過ぎていつた。恐らくは生と死の間に挟まれて悶え苦しんでゐることであらう。酷しい暑さにあてられて、成瀬はあれ以来ずつと久留米を訪ねても見なかつたのである。そして七月ももうあと二日で終らうとする日の午後、彼の部屋を久振りで訪ねて見たのだつたが、折悪しく留守であつた。仕方なく彼はそのまま自分の舎へ帰らうときびすを返したのであつたが、話相手になるやうな者もゐない舎へ帰つたところでどうしやうもないと思ひ、林の方へ足を向けたのであつた。太陽はもう落ちかかつて、最後の一瞬のあの強烈な光線を投げかけてゐた。

 小一時間も林の中をあちこちと歩いたであらうか、ふくらはぎに疲れを覚え始めたのでそろそろと帰りかけた時、彼はふと栗の木の下に立つてゐるかや子を見つけたのであつた。太陽は落ちてしまひ、西空の真赤に輝きわたる光芒が、木々の葉に映つて照り返してゐる中に立つて、彼女は動かうともしないのである。成瀬のところからは、それでも四五十間の距離があつた。彼女は石像のやうに、じつと光りを浴びて立つてゐたが、やがて歩き出し、木々の葉を見えがくれに五六間進んだが、どう思つてかまた引つかへし栗の下から去らうとはしないのであつた。成瀬は異様なものをでも見る思ひで視線を離さずに見まもつてゐたが、やがて彼女がかしらを上げて栗の梢を見上げるのを見ると、さつと不吉な予感が心をはしるのを覚え、思はず一歩ふみ出した。しかし彼女は間もなく力なげに項低うなだれると、遠くで見る成瀬にも、泣いてゐることがはつきり判つた。彼女は身をもだえてゐるのである。両手で腹部を抱きかかへるやうにして、激しい戯欷すすりなきを続けるのである。深い悩みにうちくだかれてゐるのであらう。成瀬はけもののやうに飛びかかつて行きたい衝動を覚えたが、やがて彼女は泣顔を拭きながら葉と葉の間にかくれていつた。成瀬はなにかなまめかしいものを見せられた思ひで、彼女が去つてからも、そのあとにきらきらと照り映えてゆらいでゐる青葉を眺め続けたのであつた。


 八月も下旬に入り、空の青さが濃く深まつて来ると、雑木林の上を赤蜻蛉あかとんぼが群がつて飛び、夜になればかまびすしいばかりに虫の音が草原を満たして、もうそこまで近寄つて来た秋が感ぜられる。しかし生涯病みおもつて行くばかりで癒えることのない病を背負つたこの人々には、秋が来ればまた秋の悩みが始まり、所詮死に到るまでは解き放たれるといふことはなかつた。さうして船木兵衛の神経痛にも変化が現はれ、頰から顎へかけての痛みがどうにか治つたと思はれるやうになつてから、忌はしくも以前に彼自身の言つた予言は適中して、激烈な眼球神経痛が始まつたのであつた。

「皮肉なものですよ。悪い方の眼がやられるといいのですが、反対です。」

 さう言つて見舞ひに行つた成瀬の方に貌を向けるのであつたが、成瀬はただ痛ましい思ひで見まもるばかりであつた。

 幾重にも折りたたまれたガーゼで眼を覆ひ、その上からぐるぐると繃帯を巻いて、茅子は兄の眼に罨法あんぱふをしてやるのであつた。そして痛みの停つたといふ顔面の繃帯が取り除かれて見ると、顎諸共に口はぐいつと歪んでゐるのであつた。

「口が曲つて、盲目になつて、それからが長いのですよ。」

 老人といひ、兵衛といひ、自分の身近な人々がかうして一段一段と痛み重つて行くさまを見ると、成瀬は、やがて自分もさうなつて行くであらうことを運命的な約束のやうに動かし難いものとして感じるのであつた。そしてまたこれらは事実動かし難いものであつた。あしの麻痺はさることながら、折々は覗いて見る鏡に映つて来る自分の眼も、入院したばかりの頃のやうにはつきり澄み切つてはゐなかつた。何時とはなしに濁つてゐ、白かるべき鞏膜きようまくがどんよりと曇つて薄ぐろく、注意して見ると細い血管が縦横に浮き上つて、朝起きたばかりの時などは赤く充血してゐることも珍しくなかつた。

「どんなに肉体が腐つても、然し精神は決して腐りはしないんです。腐つて行く肉体の前に、僕の精神は常に勝ち続けて来たんですよ。この眼は、勿論間もなく見えなくなるでせう。然し、僕は僕自身の血を信じてゐるんです。病毒がどんなに僕の血の中に混つても、それは常に血の外部に遊離してゐます。僕の血は決して化学変化を起さないんです。」

 しかしかうした兵衛の信念にも、現実は荒々しい力をもつてのしかかつて行くのである。かうした信念が危く崩れようとする瞬間が、兵衛にも決してない訳ではなかつた。

 眼球神経痛の痛みがどれほどに堪へ難いものであるか、成瀬には勿論判らなかつたが、しかしそれが決してなまやさしいものでないことはそれを病む人々を見るだけでも察せられた。また痛みがさして急激でない場合でもじりじりと毎日毎日痛みが続き、運が悪ければ二ケ月も三ケ月も続くのである。さうすると体はすつかり瘦せ衰へ、定つて肺結核、肋膜炎等の余病を併発して病苦は二重に加はるのである。幸ひ兵衛には余病がなかつたが、眼の痛みは烈しかつた。一晩のうちに麻酔の注射を三本も四本もうつことがあつた。それでも効かないで翌朝まで一睡も出来ないといふことが多かつたのである。世話をしてゐるかや子も附添夫も、手の下しやうもなく、ただ苦しむさまを眺めてゐるだけであつた。さうした日は何時もの兵衛がもつてゐる、どことなく寛大な大まかな風丰ふうぼうは失はれて、不機嫌になり、何時か久留米が言つたやうに、傷ついた猿を連想させられるのであつた。

 さうした或る夜のことであつた。例のやうに兵衛を見舞ふべくその病室の下まで来た成瀬は、眼を泣きはらして出て来る茅子にばつたり会つた。彼女はこの頃すつかり痩せ細つて、暑さにあてられたためもあるのであらうが、心内の悶えをかくし切れないやうに色まで蒼ざめて力がなかつた。彼女は成瀬に会ふと、誰に会つてもするやうに本能的に袂をもつて腹部をかくすと、黙つたまま頭を下げた。彼女の腹もこのごろではどうやら人目にもつくやうになり始めてゐたのである。かうした世界で腹の大きくなることが噂に上るやうになれば身を切るよりもつらいことに相違なかつた。

 彼女は兵衛に叱られて来たところであつた。成瀬は兵衛を見舞ふのをやめて、彼女と二人でそのあたりを散歩したのであつたが、彼女の語るところによれば、兵衛は今夜はどうしたのか彼女にあたり散らし、

「お前のやうな奴は死んでしまへ。」

 と言つて、

「お前は肉身の兄がこんなに苦しんでゐるのに判らないのか。俺がお前をどんなに愛してゐるか、そのお前を失つて俺はどうして生きて行けるのだ。お前は兄が、独りぽつちになることを平気でゐられるのか。」

 と、彼もまた泣き出さんばかりで言ふのであつた。

「わたし、わたし、どんなにしたらいいのか、判らない。」

 と成瀬の貌を見上げて言ふのである。

「わたしが、どんなに兄さんのこと思つてゐるか、兄さんはちつとも判つて下さらない。」

「さうぢやありません。兄さんは誰よりもあなたの気持をよく知つてゐられるんです。しかし神経痛がひどいからでよ。」

 こんな常識的な慰めがなんにならう、と思ひながらも、成瀬はやはり言つたのだつた。彼はふと先日、夕陽を浴びながら栗の木を見上げた彼女を思ひ出して、久留米の方へ動くことも、兄の方へ動くことも出来ず、せつぱつまつてあの木の下に歩んだのであらう彼女の気持が、並大抵のものでないのを察した。

 翌日成瀬は兵衛を訪ね、

「昨夜、茅子さんに会ひましたが……。」

 と、それとなく言つて見たのだつた。すると兵衛は、

「僕は、妹を愛してゐるんです。しかし僕は決して、僕のために彼女が、彼女の意志を曲げなければならないとすれば、彼女は捨ててもいいと思つてゐます。僕にはどうしても久留米が憎めないのです。久留米と一緒に死にたければ死んでもいい、僕は僕としてなんとかやつて行くつもりなんですが、常にさう思つてゐるんですが、しかし昨日は、実際たまらなかつたんですよ。眼の手術を受けようかどうしようかと朝から考へ込んでゐたんですが、僕の眼はもう完全に失明してしまつてゐるんです。一昨々日に来た猛烈な痛みでね、すつかり見えなくなつてしまつてゐるんです。残つてゐるのは悪い方の眼一つです。それが失明してゐるのにもかかはらずまだ痛んでならないんです。そしてこのまま置いとけば残つた方にも悪いつて医者が言ふのです。それでは思ひ切つて、痛む眼玉を抜き取つて義眼にでもしたらその方が結果も良いといふので、それを考へ続けてゐたのです。さういふところで妹の大きな腹を見たものですから、すつかりしやくに障つてしまつたのです。そして、やがては完全に盲目になる自分を考へたりして、たまらなかつたんです。今の僕から、彼女を失ふのは実際大きな打撃ですからね。彼女を失つてしまふと、僕は自分の行先が真暗になるやうに思はれるんです。妹がゐようが誰がゐようが、僕等の行先が明るくなる訳では勿論ない。どんなことがあらうと僕等の行先は暗い、それは判つてゐるのです。十分意識してゐるのです。それでゐながら、なんとなく命の綱が切れるやうに感じられるんです。しかし、今日はもう平気です。」

 成瀬は兵衛の貌を眺めながら、今まで少しも気づかなかつたうちに、何時の間にか憔悴が目立つてゐ、言葉さへも弱々しく力がなくなつたのに気づいて、

「茅子さんのことは事務所へでも相談すればなんとか良い方法があると思ひますが。」

 と言はずにはゐられなかつた。が、久留米の言葉がちらりと頭をかすめると、その場限りのことを言つてしまつた自分が不快になり、心の中で貌をあかくして窓外に視線を逃がした。

「それについても考へてゐるんですが、なにしろまだ、本人二人の気持が定らないのでどうしやうもないんです。久留米が強く生きてくれたらと思ふのですが、あんな個性的な強さを有つた男ですから、なかなか思ふやうに行かないんです。なにしろいのちを粗末にする男でね。」

「それで、手術はいつなさるんですか。」

「考へ中なんですが、やるくらゐなら早い方がいいと思つてゐます。」


 たまらなくなつてどこかへ行かうと立上つたとたんに、くらくらと目眩がして、危くたふれさうになる体を、静かに再び畳の上に坐つた。激しい不安と絶望感が全身をつつんで、後頭部が鉛になつたやうに重く、身の置き所もないやうなじりじりとした気持が襲ひかかつて来た。何もかもが無意味に思はれ、何もかもが腹立たしかつた。どこかへ行かうと再び立上つたが、歩き出すことがむつと嫌悪され、また坐つて見たが、坐るとまたしても立上らねばゐられない苛立たしさを覚えた。ゐても立つてもゐられないのである。進退きはまつたやうにそのあたりをごろごろと転げ廻つて見たかつた。心は深い憂愁の中に落ち込んで、泣けるものなら思ひ切つて泣いて見たいくらゐであつた。

 太陽が雑木林の向うに落ちて、真赤にけた雲の色が徐々に衰へ、地上に闇がいつか広がり始めると、成瀬はかうした憂鬱症にも似た暗い気持に襲はれるやうになつた。この病院へ来て以来触れて来た数々の恐しい経験が、頭の中に堆積し、鬱積して、それが彼の精神をかき乱すのであらう、神経は異常な敏感さに冴え返つて、畳の上を這つて来る蟻が奇怪な怪物のやうに見えたり、天井裏ででもこつりと音がすると、ぞつと寒気を覚えるほどの恐怖が体ぢゆうを走つた。そして骨身にしみいるやうな孤独を犇々と覚えるのであつた。眼を閉ぢると定つて茅子の姿が浮き上り、大きくなり始めた彼女の腹部と、その中に丸まつて眠つてゐる嬰児の姿が、碧い水中を視くやうにはつきりと幻想されるのであつた。

 寝苦しい夜が続き、眠ると定つて不快な夢に悩まされるやうになつた。分析するまでもなく、はつきりと自分でも判るやうな性夢や碧く底の見える川の中に、きらきらと輝く小石を枕して死んでゐる嬰児などが現はれ、眼を覚すとねつとりとした膏汗をかいてゐるのであつた。鉛の液を注ぎ込まれたやうに頭が重く、唾液はねばねばとして不快なことこの上もなかつた。

 その夜もやはり夢を見、眼を覚すとまだ十二時近い時刻であつた。胸あたりから両股のあたりまで汗が流れ、彼は仄暗い部屋の中に起き上つて拭つたのであつたが、もう古びた蚊帳の中はむつと暑く、癩者独得の体臭と口臭とが澱んでゐて息もつまりさうに思はれるのである。蚊帳を出て勝手元に行き、柄杓に掬つて飲んだ水もなまぬくい舌触りで嘔吐を催すやうに不快であつた。泥のやうに不澄明な頭のまままた蚊帳の中に這入つて見たが、今飲んだ水がはや汗となつて流れ始め、彼は思ひ切つて屋外へ出たのであつた。

 散弾を撒き散らしたやうに星が輝き、ペガサス、カシオペイア、白鳥などの星座もはつきりと暗黒の底から浮び上つて、屋外はさすがに涼しかつた。木々の葉を鳴らせながら吹いて来る風に胸を広げて、林の中などを歩きまはつた。垣根の横に出ると、幾度も外を覗いて見たり、ふとドストイエフスキーの『死の家』を思ひ出して、もしここが監獄であつたとすれば、この柊の幹を一本一本数へて刑期の経つのを待つ者もあるに違ひないと思つたりした。

 納骨堂の下まで来ると、彼はそこの芝生に腰をおろし、闇の中にぼんやりと浮んでゐるこの丸屋根の下に、もう千幾百名の癩者の白骨が沈められてゐるのだと思ひ、やがて自分もそれ等の白骨の中にまじり合つて無の世界に入ることであらうと思ふのであつた。どうせ一度は必ず死ぬ、どうもがいても所詮あと十五年か二十年のいのちではないか、間違ひなく必ず死ぬのだと思へば、もがき苦しむ必要もあるまい、もし何万年でも生きてゐなければならぬのなら、自殺する必要もあらうけれども、しかしほんの短い時間の後には死ぬのだ、救ひといふものはどこにでもある、自分にとつてはもはや死といふこの間違ひのない自然法則が救ひとなつたのだ。さう思つて彼は愉快さうに独りで笑つて立上つた。と、彼自身でも判断の出来ぬ心の状態が突如として襲つて来て、ふらふらと堂の横に生えてゐる桜の根方に歩んで上を眺めた。なんといふ首を縊るに適当な枝の多いことか、右へも左へも、たくましく靭󠄁しなやかな枝が張り、青葉が黒々とゆらいでゐるのだ。殆ど無意識的に彼は腕を上げて桜の幹をぱちりと叩いた。奇怪な衝動がすうつと消えて行くのを意識しながら、幹を強く押して見たが、太い樹はびくともしなかつた。

「馬鹿!」

 その時堂の前からさういふ叫声が突然あがつて、入り乱れた足音が聴えた。はつと成瀬は緊張して気を配ると、足音がばつたりやみ、

「俺が、俺が今まで死ねないこの気持が、お前には判らんのか、お前への愛情だ。それが俺を狂はせるんだ。」

 と興奮した声が続いた。久留米だな、と成瀬は思はず一歩を踏み出して耳を澄ませた。しかし、それきりあたりは静まつてしまひ、人の気配も感ぜられない静寂が帰つて来た。成瀬は忍び足で堂前に出て見たが、もうそこには誰もゐなかつた。彼は急にぞうつとするやうな鬼気を覚えて急ぎ足でそこを去つた。

 同室の一人が息を切らしながら駆け帰つて来て、久留米の縊死を報せてくれたのは、それから三日ばかり経た、まだ明け切らぬ朝まだきであつた。たうとう死んだか、と成瀬は誰もが思ふやうなことを考へながら、深い朝霧につつまれた松林の中へ走つた。

 納骨堂からちよつと離れた桜の木で、屍体はまだそのままにぶら下つたままであつた。細い綱がじつくりと食ひ込み、長い頭髪を垂して久留米は下を向いてゐた。足先は地上にすれすれになつて、背のびでもしてゐるやうな恰好である。白みわたつて来る光線を受けて、露に濡れた頭髪が光つてゐた。

 かや子は来てゐなかつたが、兵衛は痛む眼を押へながら出て来てゐた。やがて署から役人が出張し、検屍が終ると、屍体は担架に載せられて解剖室の方へ運ばれた。自殺者は解剖にふさないのがこの病院のしきたりであつたが、それでも一先づ解剖室の中にある安置室に移された。

 やがて人々がみな引きあげてしまふと、成瀬と兵衛は黙々と安置室を出た。するとそこに茅子が立つてゐたのである。彼女は入口の戸にぴつたりと寄りそつて、真蒼な貌をしてゐた。屍体を思ひ切つて見るだけの勇気が彼女にはなかつたのであらう。

 三人は並んで歩き出した。しかし誰も一言も口をきかなかつた。兵衛は薄明りになつてゐる片眼を見開き見開き歩いたが、それでも時々石につまづいてよろけた。十五六分もさうして黙々と歩き続けたであらうか、何時の間にか柊の垣根の下まで来てゐた。三人は思ひ合はせたやうにくるりと背後を振り返つた。と、茅子がたまりかねたやうに激しく獻欷すすりなき始めた。腹の嬰児を抱くやうにして身もだえ、

「この児が、この児が……。」

 と後が続かなかつた。間もなく躍り出て来るであらう太陽が、空高く光りの穂先を放ち始めてゐた。彼女の泣声が途切れると、兵衛は、じつと妹の眼に激しいまなざしを向けてゐたが、

「生め!」

 と小さな、しかし腹の底から盛り上げるやうな太い声で言つた。

「生め、生め。」

 そして兵衛は緊張した貌を和げ、

「新しい生命が一匹この地上に飛び出すんぢやないか、生んでいいとも。そして、その児に船木の姓をやるんだよ。いいか。」

「でも……。」

「でも、なんだ、病気か。伝染らんうちに家に引き取つて貰へ、判つたな。俺は今日は眼の手術をする日だ。義眼とは有難いものだ。どら、行かう。」

 兵衛は足を早めた。しかし成瀬は、兵衛の眼に、苦痛とも絶望とも見える翳が、強烈な意志と戦つて明滅するのを見て取つた。久留米が何時か言つたやうに、この解決はやつぱり虚偽なのか、久留米の死貌が蘇つて来ると、底知れぬ暗黒が心をかすめ、足を早めて兵衛を追ひかけたが、もう間近まで迫つて来た危機を鋭く意識すると、

「船木さん。」

 と思はず声を出して呼んだ。

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. 高山文彦『火花 北条民雄の生涯』飛鳥新社、1999年、392頁。ISBN 4-87031-373-1

この著作物は、1937年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。