『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
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- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:78】甲陽軍鑑品第廿三信州平沢大門到下等合戦之事
【全集ニハ信州平沢合戦付村上武田軍批判の事トアリ】
天文十一年初三月九日に信州の大将衆勝利を失ひおくれをとりたる事皆々弓矢功者の大将衆也と雖も油断故如㆑此晴信公其年廿二歳にてまします何と精発なり共十が六七も家老任なるへく候さ候へは信虎以来弓矢丹練仕たる宿老分別致さんずるは信濃は十二郡の大将衆みな言合て赴かば甲州四郡の人数三ケ一にてわかみこ口にらさき口二口へ分る事、とても仕まじたゞ国中へ入たて候て合戦仕ん殊更堀普請などと申ならはし候はゞ晴信公籠城致されんと、積り其批判迄にて甲州へ目付を一人指こさず一両日人馬を休め其後二口へわかりて働申べきと油断して有所へ晴信しかけ給ふにより味方案に相違して備立るもならずあわてゝ戦ふ計りにて手賦りみだり故信州衆尽く殿をとりたり、さるほとに村上方の家老侍大将共評議して云、今度は敵の大将晴信わかげと申少人数といひ旁以て油断強敵といふことを忘れ味方よりはり番をも一人出さず殊更前の日もひる過に雨ふり次の日も夜半より少つゞ雨ふり候て敵来るべきと存ぜずして夜をあかす所に不慮に暁とりかけらるゝ就中其の日に限り霧あつくおり両陣場のきは迄敵来といへ共夢々しらす日出、霧あがりて敵に時をあげられ驚き噪馬物具をかたむるといへども上下共にしたゝめもせでましてそなへの手配もならず味方の軍兵尽つかれて終に敗軍する此儘働無㆑之して有に付ては晴信若大将と申勝に乗て当方へ働き春は早苗をちらし夏は麦作をふり或はうへ田をこね秋は毛作をふりに罷出候はゝ後は地下も侍共に困窮にを【 NDLJP:79】よび候に付ては村上殿御為悪く候間やがてうち出甲州方へ働き武田殿領分をやき払ひ模様によりて海尻海野口を堅て指置るゝ山田備中、小宮山両大時を攻て城を開さするか、又は腹きらするか二ツに一ツなされよと各々村上殿へ申す但先義清の御馬を出さるゝ事は遠慮遊ばして可㆑然候其子細は去三月九日に味方敗軍仕り当方の御人数は雑兵共に三百に少余りうたれて候へばさのみ義清公御負と申程の儀にても無㆑之甲州にも甘利備前飯富兵部先月九日の合戦に手負たりとさたあれば此事必定にをゐては武田殿にて箕手微子如㆑此に手負申さば甲州の国中へ働く共深き防は有まじく候其様子を見はからひ御一左右を申べく候其時は村上殿御馬を出され先海尻の小山田小宮山をせめ給ひ候様にと談合終て都合六頭弐千五百の着到をもつて後の三月十一日にかづらお【葛尾乃城】の城をたちて甲州方へ働あり小山田備中、をさへを能置てわかみこ迄働仕りやがて引返し甲信の堺平沢に陣を取、扨又甲州において晴信公此儀を聞召て政道かしこき大将にてまします故敵方の心をさとり宜は先月九日の合戦に我家にて先を仕る甘利備前飯富兵部手負たるを聞、働たると、つもりたり此時出向ふて勝負いたさずんば武田晴信は家老次第と敵にこなたの備をつもられ我等がほこさき、まがりたるやうによはきと敵にみへられたらんには【見へられハ見られノ誤ナルへシ】定て十が九は小山田備中小宮山丹後両人をせめころし候らはん、さ候ては晴信にらざき合戦を始め数度仕る後々の勝利迄無に仕て弓矢を取て不覚をかき武田の家に瑕をつくる事、廿七代目我等存分のふがいなき故そのかみ廿六代の大将衆迄瑕を付けまいらするなり今度におひては旗本許りにて無二無三に一戦をとげ勝利を得ずんば其場を一寸さらず自身ふえ搔き切り甲府へ帰るまじくと既に御旗楯なしも照覧あれと御誓文にて後の三月十九日【一本ニハ後乃三月十日トアリ】、夜の四ツ時分に注進を聞き給ひ鎧を着し八幡宮へ社参ありて祈誓あそばし其夜半に打立ち給ふ、扨て板垣信形日向大和、諸角豊後三人の中にも日向大和鬮取りにあたりさきがけなり然れば晴信公御母方の伯父穴山殿三病を御煩ひにて筋骨をいたみ給ふ故先月の合戦より御留守居なされ候へ共今夜におひては是非御先懸をとありて出なさるゝ晴信公仰せらるゝは留守居なくして不㆑叶事なればそなたは心易き人といひ病中と申し扨我等討死におひては当年五歳になる太郎をもり立給ふべしと仰せらるれば穴山伊豆守申され候は尤もそれはさることなれ共留守居には甘利備前飯富兵部手負申して候へ共さのみ深手にてもなく候へば此両人しかも人数たくさんに罷有り其上郡内の小山田方へも我等只今飛脚をさしこし候跡に思召しおかるゝ事は少しもこれ有間敷候就㆑中某煩ひなれば行きがけの駄賃とやらん下劣の申すは是なり若き屋形様の身に替申すべしとて金打をはり誓文をなされ無二に先懸けをあそばす、いそぎ給へと卅里うつて、わかみこにて夜あくる則ち人馬のつかれをなをしそなへくばりあり穴山殿一のさき、二板垣、三旗本、左諸角豊後、右日向大和、後そなへ典厩そのゝちわかみこを廿日卯の半に打立て一時の内に十八里の道をはやめうつて平沢へ己の刻の少前におしつけ二千あまりの敵を悉く追ちらし雑兵共に三百十九討取則其日午の刻に勝時を執行ひ給ふ此一戦はさき衆二手御旗本と三手にてなされ候わき後ぞなへ衆は働かざる軍法のさだめ故そなへを乱さずはや其時分より少づゝ軍法の能心持あり天文十一年壬寅後三月廿日辰の半に一戦始り午の刻に終る平沢合戦は是なり穴山衆手負おほし是は晴信公廿二歳の御時也
右天文十一年王寅後三月廿日に信州更級葛尾の村上義清被官共を甲信の堺平沢において悉く晴信公追ちらし給ふ其夜は平沢に逗留なさるゝ次廿一日にも滞留と仰られしかば廿一日の、みの刻に甲州郡内の小山田左兵衛平沢へ参り候様子は甘利備前飯富兵部両家中の同心共を三ツにわけ一ツを召つれ一ツをば甲府の御留守におき又一ツをばかつ沼入道殿に指そへ諏訪口への加勢に指越小山田手前の人数百五十騎と合せめしつるゝ所なり是は甘利備前守飯富兵部初の三月せざはにての合戦の時手負申され候により後の三月平沢への御供にて無㆑之平沢への御立の十九日には殊更御急ぎ故手負申されたる両侍大将のさた晴信公仰出されず候それにより甘利殿飯富殿屋形様御立の跡にて両人分別して我家中の人数三つにわけ郡内の小山田を待て右の通なり扨又廿一日には穴山典厩板垣を始まいらせ家老衆書立てをもつて諫め申上る先月当月に両度の合戦に両度なから御理運にあそばし候間如㆑此の竸にさく、ちいさがた【佐久、小県共ニ地名】敵の持分を焼き払ひ給へかし左候はば信虎公の御代に御被官に罷成たる信濃侍大将ども今度大形帰参いたし候らはん五年以前に信虎公追出なさるゝ時あやうく存じ面【 NDLJP:80】々居城へ引籠り此比は村上殿へなりては又しか〳〵と村上殿をもあがめぬ侍共を皆御したへ前代のごとく召寄せらるゝ御分別肝要に候と各申上げらるゝ屋形様廿二歳にてましませど老功の大将より分別工夫政道賢く御座あれば廿二日には早々御帰陣有るべきと仰出さる又みな〳〵宿老衆申さるゝは是から海尻迄たゞ十八里にて候あれへ御馬を寄せられ境目の仕置きなされ其後御帰陣あれと申せ共何と有る御念やらん各申す儀取上げ給はずことに郡内の小山田左兵衛走り付きて廿一日には結句一戦の時より人数多勢なれ共晴信公御機嫌あしくして廿二日には早々御馬入同廿三日に甲府へ着き給ひ直に八幡へ社参あそばし其日より境目の仕置きあり事穏便に御機嫌よからずして上下共にしみこほりたる体なれば甲州一国の人々上下僧俗町人百姓迄も批判に両月両度の御一戦に勝給へば屋形様御機嫌目出度候て謡乱舞御能など見物も有るべきと諸人のつもりの外一段穏便なり扨て又敵方にての批判は此方の領分焼き払ひ小城の一ツも二ツも攻めおとされんと思ひつるに五年巳来度々信濃侍衆甲州武田晴信に負けて殿を取る晴信若大将なれは威ひかゝつてかさつなる働き有るべきと存の外左様なきこと不思儀なりと申取沙汰もあり又一方にては晴信若大将にて軍するすべもしられましきと油断いたしてこそ負たればにて候へ引出し平地の防戦にをいてはひと手とらすまじ大将もせめて卅四五をこさねばおそろしき事はなく候以来能見候へ村上義清には晴信負られんとの批判もあり又かたはらにては鬼神の様なる父信虎を押出し其後信州衆に度々勝しかも若気の様にもなく勝ては甲の緒をしむる様にせらるゝは如何様只人の体にはみへず候其上晴信父の信虎にあふては信州平賀殿滅亡村上殿も数度の塩をつけられ給ふ其塩付たる父信虎の老功を謀とはいひながらなにの造作もなくするがへ押出し即時に国をふみしづめ家老一人もかしらをあげさせず能く手に付五年己来いくどの合戦にも勝ておくふかくしめて働かるゝ【若手の弓矢ハ弓取ノ誤ナルベシ】晴信は明日の事はいかにもあれ今日迄は日本国に若手の弓矢と覚へ候諸国をつたへ聞に関東伊豆相摸両国の守北条氏康と武田晴信とは近年の名大将衆なれは当手の働を見合、【全集ニハ此処ニ尾河落城の事ト標目アリ】来年は降参申子共をも晴信の御下へ参らすべきなと分別して申老功の人々も有以上武田晴信公天文十一年四月、五月、両月人数を休め六月四日に七千五百人数を将て信州諏訪郡へうち出敵地悉く放火せしめ高島諏訪左馬助にしほつけ門ぎは迄おしつめ放火し其次の日はよりしけ居舘の小城へおしよせねごや迄焼候へ共城を出て戦はさる子細は諏訪殿運の末にてやらん頼茂うしろ手の打越に六月六日の夜より疔と云ふはれ物出来て存命不定に痛まるゝに付て大将なければ戦ふことならず城持つ事様々なりさあるに付尾河の城を板垣信形人数を以て攻めくづし上下二百余りのくび帳にて勝ち時を執行ひ尾河の城をばはきすて七月中に要害を拵へ板垣に預け八月朔日に帰陣なり
天文十一年八月九月両月休息ありて諸侍以下をやすめ又十月晴信公御出陣あり【仝大門峠合戦付諏訪明神告夢乃事トアリ】殊更甘利備前飯富兵部手疵も平愈にて御供申さるゝ諏訪郡の城へは逸見殿南部殿かつ沼殿栗原殿日向大和守五頭を入れ替へ板垣信形も御供申さるゝ然れば信虎公の御時成敗なされ或は改易に仰付けられたる侍衆の知行あらため又信虎公御たくはへの金代物を取り出し当屋形晴信公御代になりて五年巳来度々の合戦せり合に抜出て走り廻りたる足軽衆の御証文をとりて持たるかち侍共を諸手より撰出し手がらの上下をさたありて少しづゝの所帯を下され馬にのせて三百騎また甲州在郷において新衆をつけて千二百人そろへ代物金を似あはしく下され馬乗は廿騎卅騎かち物も五十三十ばかり諸手へ加へ八千余りの着到にて天文十一年十月七日に甲府を打立ち甲信の堺くずくぼ【葛窪】に三日逗留まし〳〵てそれよりゆかはへ御馬よせられゆかは【湯川】に二日の御逗留にて十二日に大門へ働きあり大門に三日の御逗留にて十五日に長くぼ【長窪】を焼き長くぼに一日御逗留有りて十七日に大門峠をこしてこなたに陣とり給ふかくて又七日の御逗留にて廿五日には海尻へ御馬をよせらるゝとの定めありこやおとし【小屋落】乱取いたし、かつだ【苅田】
を仕、下々いさむこと限なしさる程にかせ侍衆下々の者共十九廿日に乱とりし逗留の間今から四日なれば乱取する日は三日ならではなし明日よりはちととをくゆかんとて、あさ出て晩にもとる不思儀なり廿日の夜一の先に甘利殿、二の先板垣殿、三の先飯富殿右三人の侍大将のかたへ諏訪の明神より使に山伏を越て今度晴信爰元に逗留中に乱取無用と夢に見て三人ながら我等家中を乱取法度廿一日の朝より申し付けらるゝ此儀によつて各さたには一人ならず三人迄一夢を見らるゝ事よのつねの【 NDLJP:81】儀に有る間敷く候とて廿二日の朝より諸勢ともに乱取に出ず功の入たる分別者の申すは虚夢実夢とて夢にこそあたる事あれ大唐にても夢あたりたる証拠も有り日本は一入夢を用いたり殊更神国にてこれあるに諏訪明神の御告の夢は屋形様の御ためよしと批判する、無分別の後さきふまへぬ人々は老若上下ともに物のはかなきは夢とこそ申せ譫言なりと云ふ者ばかりあまたありかくありて廿三日の朝大門到下へ人数みゆると申しもあへず此方より物見を出しみれば村上小笠原両旗にて出る佐久ちいさがたの侍大将村上に随ふも随かはざるも悉く組みて其勢一万三千ばかりにていきほひかゝつてしかも三の軍迄持ちて仕かゝる甘利備前へ旗本より加勢の足軽大将横田備中子息彦十郎板垣へ旗本より加勢足軽大将は多田三八子息飯冨へは安満其外組み合せ旗本にて原美濃守、小幡山城守、市川采女、子息三九郎、原与左衛門、与九郎、右五頭足軽大将其日、はたもとにて、はしりめぐりあり就㆑中武者奉行加藤駿河守十月廿三日己の刻に信州衆よりかゝりての合戦なり都合三度の合戦四度目はたもとにてわきへまはりてかゝり給ふ旗本原加賀守前備へなるが御旗本めての方よりまはりてかゝり敵をくづす事旗本と原加賀守、二備を以て伐くづし軍己の時に始まり午の刻に終る己の時の半ばより雨降りみかたの方より風吹き軍おさまると同時に雨風も止む信州衆を討ち取たる其数雑兵共に千七百二十一の頸帳を以て同日未の刻に勝時執り行なさるゝ味方にも手負死人惣手に雑兵三百許あり天文十一壬寅年十月二十三日晴信公二十二歳の御時なり、大門到下合戦と申は是なり其年中に是共に三度の大合戦に三度ながら晴信公勝給ふ誠に諏訪明神の御恵かと敵の国にも風聞と聞ゆる又其比岩村田にお宿のかみと申女、でしの女を四五人持て歌をうたふておどる、扨も花の村上や錦の直垂はかまにて鐙を着してきたり共、かひを好むはお大事よと、うたひまはるは始め村上殿甲州を望み申され候事天文七年戊戌晴信公父信虎公を駿河へ追出しまいらせし時の事を後晴信公度々勝給ふにより如㆑此うたふ也
去程に晴信公天文十一年寅の十月二十三日に信州大門到下において軍に勝ち海尻迄御馬をよせられさかひめの仕置なさるゝ信州衆強敵の故おくれたる色もなく味方申人もなし
【相木降参の事】よその国には合戦に負をくれを取たる方の城二ツも三ツも必おつると聞及び候へ共信濃の国は余国にかはり勝たるきほひを以て敵の小城へも取つむれば始め負たる口惜きに爰にて仕り返さんと存知城を持ちかため味方のごづめを待ちてあひさゝゆる扨ごづめの人は親子兄弟叔父甥従弟はとこ遠類知音ちかづきをうたれいきる人は又敵におしつけをみせ旁以て口惜きに是非とも一度仕り返し味方のうたれたるごとくに敵を討ち或は追いくづし敵のをしつけをみずんば武士弓矢を取るかひはなしと穿鑿する国なるにより競ひ過ぎたる働きありては跡々の勝利を無になさるゝと有る儀にて勝ちて後は猶以て大事にあそばし候は信濃の国がらにてつよき故なり但し佐久の郡、あひ木殿三年以前より内通故其年寅の霜月末に御馬入候へは十二月十日に甲府へ出仕にて次の年正月舎弟を甲府へ人質に進上申さるゝ以上