『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
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- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:218】甲陽軍鑑品第四十八 巻第十八目録
一功力小宮山、両人訴への事 一山県同心、広瀬、みしな、辻弥兵衛、武辺公事の事 一信州更級出家公事の事 一甲府浄土宗の僧公事の事 一信州岩村田法花宗の僧公事の事 一甲府法花の僧公事の事
【 NDLJP:219】【全集ニハ此巻ニ○布施与三兵衛同牛之助虎之助兄弟三人諏訪弥左衛門大将ヨリ武者奉行大切ノ心持並喧嘩仕置ノ事○武具穿鑿ノ事ノ二ケ条ヲ加ヘタリ文長クレハ略シヌ】
甲陽軍鑑品第四十八 巻第十八功刀小宮山両人訴之事
甲州武田は新羅三郎公より法性院機山信玄迄二十七代なれば、そのつぎ来る、大将衆四十年、三十年、二十年あるひは十年、十五年にてかわり給ふも、御座あれば多少とりあわせ、二十年つゝに、つもり候ても五百四五十年計り、甲斐国へ乱入なき故、神社、仏閣、町地下、其外非人までも、余国よりは少々富貴なり猿馬牛の皮はぐ乞食が騎鞍馬にのり、下人をつれ、れんじやくかうし玉屋といふ【連雀小路】、酒屋にて、代物を出して、酒をのむとき、おりふし向山同心、功力小路左太夫と申侍、又足軽大将の三枝善右衛門寄子、小宮山八左衛門と申、信玄公御持弓の者と、両人の侍、なにぞ用ありてこそ、これも右の酒屋へまいる、用所おはりてさかづき出て、暫くさしつさゝれつ盃をめぐらす処に、彼皮剥も侍衆の中へまじり、酒すぎて後、座を立つ時刻に、功力左太夫仲間が、今の皮はぎを見しりて、両人の侍衆へ此者は是皮はぎなりとつぐる、八左衛門左太夫大ひに腹をたて、宿の玉屋権右衛門に取かゝる、権右衛門は件の皮はぎにかゝる、然れ共、小宮山八左衛門、功力左太夫両人ながら、武道の心ばせよき者共にて八左衛門は上州みか尻合戦に、鑓わきをよく射て、信玄公の御証文一ツ下さるゝ、左太夫も猶以て二ツまで武辺場数の御証文を信玄公より給はりたる者共なる故、理を持つても町人などを事あらけなくおどす事聊か是れなし、乍㆑併皮はぎこつじき侍の雑富貴なるに任せ如㆑此候はゞ貴賤上下のわかりもなく、さながら侍の作法何も悉皆いらざる事なりとて、小宮山八左衛門、功力左太夫両人書付をもつて奉行衆へ申す、則ち御蔵の前にて侍衆訴へ町人の申分非人の者の云ふ事、公事のさたありて武藤三河守、桜井安芸守、今福浄開此三奉行の中にても、今福浄閑は物毎のよき功者なれば此公事をさたいたさるゝ、先侍衆道理至極に候、又町人も代物かぎりに酒商売の事なり、殊更御分国富貴の故、彼非人までもよろしきなりを仕り候は、是もつて万事逆になく、順義の御仕置ゆへこと〴〵く安堵して誠につたなき、非人まで侍のごとく騎鞍馬にのる、さあれば町人の、みそこなふたるも道理なり、扨非人が代物かぎりならば、謙に及ばぬといたらぬ心より存ずる事、大非義の仕形なり、乍㆑去今迄改めて非人のもやう、定まりなければ、いかに乞食なり共、罪科にはなりがたし子細はをしへずして殺すを逆と云ふ時は、功カ左太夫殿、小宮山八左衛門殿此三人の奉行の真似に免じて、こらへさせ給へ、扨又町人には、いかに商売代物かぎりなりとも、歴々の侍ひだちに非人を見そこなふたる科おとしに、両人の侍業に巻物一ツづゝ持て、玉屋権右衛門礼に参るべし、さなくば籠舎申付んと定むる殊に又彼非人の命ちは、三奉行が詫言を以て、両人の侍業助け給ふ程に有がたく存じて、おのれが家の皮艸履をしたゝめ功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿へ御礼に参り此已後皮剥の道服袖広帷にも、牛と馬と両方に、中には艸履を付て、かならずきてありくべし、さなくばよき仕合にて己等、はた物にあがらん、さては釜にていらるゝと心得候へと申定めらるゝに付、それより後は皮はぎ何とよき馬にのりても、右のごとくきたる道服帷のかたにて、しるゝ様に甲州、信濃、上野までも定めあるは、今福浄閑工夫の故なり
山県同心、広瀬、みしな、辻弥兵衛武辺公事の事
天正元年三月上旬に、信玄公御病気、一段平愈なさるゝ子細は板垣法印、くすりを進上いたし其上四花の灸をし給ひ、御快気目出とふまし〳〵て同三月十五日には、織田信長居城国の内、東美濃へ発向有べきとの旨其陣触甚だし、諸人大小上下共に、悉く此度の陣には一入忠功を励まし御感に預からんとよろこぶ事限りなし、ここに甲州東郡に、のろ【野呂村】と云ふ在所に辻弥兵衛と申て、其年二十九歳になる侍ひ山県三郎兵衛が同心なり、此若者父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の場数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道、ちひが【ちひがハ日意ノ誤ナラン】好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において米倉一党辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無㆑之類親広き中に米倉一党に丹後守、辻一党に六郎兵衛、是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、さるほどにかの六郎兵衛、永禄四年辛酉に、信州わりが獄の城を信玄公乗取給ふ時彼六郎兵衛其年四十五歳にて、原美濃守、加藤駿河守一所にて無類の働きを仕り討死をいたすが、信玄公殊の外惜み給ふて六郎兵衛が二十五貫の知行を子共三人に分けて下さるゝ、十二貫は一男、八貫次男、五貫三男、扨て二ツになる男は父が内々出家と申置候とて妙音寺と申法花坊主に契約也、扨又六郎兵衛が一男は此弥兵衛なり是を親のごとくに外様近習に罷成申べしと信玄公仰出さるゝ、弥兵衛申すはそれがし当年十七歳御旗本に罷有、何の手柄も無しては親祖父の名をも汚し申すの間、御先手に罷有似あはしき流矢をもひろい高名をも重ね冥加ありて自然命ながらへ【 NDLJP:220】候はゞ其時は近習に罷成候共、先づ今度は先衆に罷成度と、飯富兵部少輔をもつて目安をあぐるに付、山県三郎兵衛が同心になされ則ち其年九月十日に、川中島合戦の時右の辻弥兵衛よき者をうつて、手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時山県三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時日の内に三度せりあひに三度ながら辻弥兵衛、首尾を合する山県下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆、小菅五郎兵衛鑓下の高名は長坂宮内左衛門、早川弥三左衛門、辻弥兵衛、二度目のせりあひに鑓合するは広瀬郷左衛門、みしな内膳【此末ニ内膳ヲ肥前トス一本ニハ此処モ肥前トセリ】、西巻監物鑓下の高名、辻弥兵衛、和田賀助、渡辺三左衛門右三人目の三左衛門是は山県被官なり、又三度のせりあひに鑓は上野豊後、早川弥三左衛門、辻弥兵衛鑓下の高名猪子才蔵、広瀬郷左衛門、曲淵庄左衛門、此庄左衛門は前両度のせりあひに両度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて、三度めに鑓下の高名也、次の日は山県、松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮、神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを尾州牢人猪子才蔵と、辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちてふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸なら破るは悉皆は件の才蔵弥兵衛が大剛強のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば結句老功の才尽よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、又其十日の間に伊豆いたつまにおいて、北条家のはが伯耆、笠原両侍大将と、信玄家の侍大将山県一手にて合戦の時、頸四百三十甲州方へ討取り、北条家の家老こと〳〵く敗軍なり其節辻弥兵衛和田加介、鑓をあはする鑓下の高名川手豊左衛門、長坂宮内左衛門其八日目に信玄公伊豆韮山へとりつめあたりの在郷放火の時韮山の城のおさへに、山県三郎兵衛罷有城より備へを出してせりあひ有、此節山県あまりにきほひかゝつて、おしこむゆへ引取事なりかぬる、敵出てくひとむる時、三河牢人に河原村伝兵衛白き四方にふねの字をくろくかきて差物にして、かへして鑓を合せ敵をおつららし、のくほどに、六度迄鑓を合する彼伝兵衛がふるまひは、信玄家にてもあまた有間敷とて信玄公のたまふは賞功不㆑踰㆑時とありとて則ち伝兵衛をめしいだされ御さかづきを給はり御腰物をくだされて後当座のほうびとして、基石金を信玄公の自身両の手に御すくひなされ三拯、彼川原村伝兵衛に下さるゝ、高天神小笠原与八郎内の林平六と申武士、遠州つだいじと云ふ所にて日の内に六度の鑓を合すると、此川原村と近代には甚だ以てのはたらきなり、其節辻弥兵衛鑓下の高名してひざの口をのぶかに射られ其矢をぬかずしてとりたるくびを持てきたり、大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内に、もどりたると有儀にて辻弥兵衛、山県三郎兵衛しかりて場をおひたつる、其後又味方が原合戦に、山県手にて一番鑓、はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の場数なり、但し信玄公御証文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば帰陣有て、来春甲府にて下さるべしとて、御感状出でざる間翌年三月の公事なる故によつて、御証文三ツならでなし扨又此公事の意趣は、山県三郎兵衛同心小菅五郎兵衛には、山県三郎兵衛従弟といひかた〳〵もつての儀なれば駿河はじめて出張の時六年先にざいをゆるし給ふ、それは辰の年なりさありて此度広瀬、みしな、両人にも小菅なみに、ざいをゆるし下さるゝは六年後酉年なり、辻弥兵衛是れを聞て目安をかき、広瀬、みしな両人をあひてにて、武辺公事を仕る奉行は真田喜兵衛、曽根内匠、三枝勘解由左衛門、今井新左衛門四人なり、御主殿に於て、広瀬郷左衛門みしな肥前両人一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀬みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども武辺公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛、永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ケ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳武辺の御証文とても二三の儀なり、我等両人の事、みしなは十八広瀬は十六歳にて平沢合戦から仕はじめ、当年まで三十一年の間に、みしな鑓を八度あはせ頸数は十六の内に、さいはいを手にかけたる武士の頸を七ツ取候て、既に御証文十五戴だき候、広瀬は三十一年の間に鑓を六度合候てしるし五十九取申候中にさいはいを手にかけたる頸を十一取候て御証文十七戴だきもち申す、我等両人うち申候者共、信州にては村上殿、諏訪頼氏ふかしの小笠原殿、上野上杉衆、北条家もちしの御敵の中に、はた奉行或ひは足軽大将一備への内にて五六人の名有者斗りうつて、さいはいをそへて御実検を得奉る、就㆑中我等十七歳みしな十九歳の時かるいざわ合戦の刻、板垣信形下にて別して走り迴りの者をえらび赤椀にて種々のさかなをとゝのへ振舞を仕る、頸二つ取者には二膳、三には三膳すわり又手にあわざる衆には、黒椀にて精進の振舞を、板垣仕られ候時も我等とみしなとやりを仕、追崩して【 NDLJP:221】後みしなは、諸岡隼人をうち申す拙者は、藤田丹後と申者をうち候て、みしなと我等と鬮取にいたし左右の一の上座に罷有候儀、淵底御屋形様御存知候其場へのり申者は、今三郎兵衛に御預候者の内も曲淵庄左衛門、三膳すはり、上野豊後二膳すはり申候、ことに広瀬は信濃の川上入道を御成敗の時も、川上をはじめて上下四人を、一人にてうち候左様の大場をもふまざる辻弥兵衛が一ツ二ツのひろいくびにて我等共にさいはい御免のさまたげは蟷螂が斧とやらんは、いまだ愚かに候と申上る四人の奉行衆も、舌をふるひ、是非に及ばざるなり、辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の場数はいんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし父の辻六郎兵衛と申者各も少しは御存知あらん、六郎鳥衛も式辺窮数の御殿文十七送戴き候て、外様近留の内に人をこせ共終に人にこされず度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り殊に十三年以前に信州わりが岳にて当家にかくれなき覚の名人なれば、近国他国まで名高き原美濃殿に立合則ち其場にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、かた〳〵の我等罷出ざる以前の武辺はそれがし父の六郎兵衛、ほそ心操をもつて次あひに仕候、左候はゞ十三年以降は、若く候へども各よりちと我等仕りかさみ申候其上、広瀬殿、頸沢山に御取候よし、それは尤も大剛の人なりさりながら我等の五ツ取候、しるしもざいこそ手にかけず共、かねまつ黒に付て匂ひ芬々ととめたる頸にて候へば、かた〴〵の討たる者にはます共おとり申まじ、さいはい手にかけたる人よりも、結句ましの者にても候べしと申せばそこにてみしな申は、さいはいを手にかくるより、上の兵は有まじといへば、辻弥兵衛申は、さあらばかた〴〵の三十一年こうさをつむ事は諸傍輩におとりたる儀を、何とて日来山県三郎兵衛同心被官の内に広瀬みしな両人を、こしたる覚への者有間敷と、いんげんを申つるぞ、さいはいは今年今月こそ免され申せといへばみしな申はそれは又我等広瀬度々手柄をあらはしたる故なりと申す、辻弥兵衛申すは手柄も人にこされたるは、深き儀にては有まじといへばみしな申すは広瀬我等こしたる人はあまり覚へずといふ辻弥兵衛申すは旁はさすがのうでぬきをさする衆が、武辺の儀に、首尾不㆑合なりといへばみしな申すは、なにか口の違たる事ありやといへば辻弥兵衛申すは、さいはいを手にかくる人より、上の武士有間敷といひながら、今年さいをゆるされ申候て、其以前三十年の間人にすぐれたると云ふは、さて首尾不合にてはなきかと申て、辻弥兵衛大きに笑へば、みしな一口もあかず猶弥兵衛申は、御奉行衆きこしめせむかしのなぞらへを軍にはなされよ、義経の出頭人武蔵坊弁慶は、堀川夜討の時、棒にていくら人を討殺すとある此下にては頸の一ツ二ツばかりはさたも有間敷事なれ共、伊勢の三郎義盛が頸二ツ取たるを唯樊噲もかくやらんとほめ給ふ、しかも義経なれば、無案内のほめ様にても有まじき時は、かた〳〵頸数多くとも、此弥兵衛がすくなく共、おとると有は僻事也、といへば、広瀬みしな両人は、弥兵衛をのれが口には取あふまじと申て、物いはず、公事は辻弥兵衛申勝、さて信玄公、馬場美濃、山県、内藤、高坂各をめしつれられしのびて、此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず、御感あつて機の逸物なる者かな才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ、道理かな、父は辻六郎兵衛母小幡山城とて、我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり明日に広瀬、みしな、小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身小身ともに、日を追てかやうの武土共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有其上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座の、ごま【護摩】あり、扨又其後右四人の者を御つかひにて、辻弥兵衛申分、一段きこへ候とて則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、さありて広瀬みしなにさいはいをゆるさねば、山県大ぞなへにて、人数まはりかぬる、まはりかぬれば自らほさきもよはきやうになる、よはければ合戦せりあひにをくれをとるぞ、をくれをとれば三郎兵衛が負といはず信玄がまけと云、我ためにて有ほどに広瀬みしながさいはいに、辻弥兵衛遺恨は相やめてくれ候へ、其方などにもさいはいゆるしてもよからんずれ共、当時新羅三郎公より武田家の作法にて、侍大将せぬ者に四十をこさねばさいはいゆるさゞる軍法なれば、かた〳〵もつて信玄に免じて物いひすべからず、さて弥兵衛が二番目の弟甚内にも五貫の御加恩、是は一条殿の衆なり、三番目辻弥惣にも五貫の御加恩、是は又土屋右衛門尉衆なり、辻弥兵衛が威光をもつて、弟の甚内弥惣までに増知行これ有、但し甚内兄の弥兵衛に結句ましのおぼへ有さて又みしな広瀬をば、御旗屋へ召よせられ、しかも本のさいはいゆるし下さるゝ、あさからぬ冥加のおぼへ者也と、ほめざる人はなかりける右の辻六郎兵衛武辺二十八度の場数にて御証文十七給はるとあるは首尾不㆑合のやうなれども惣別武辺十度の場数には証文下さるゝほどなるは二度、相おほくして【 NDLJP:222】三度ならでなき物なれども、此辻弥兵衛がはたらきは十度の内九度は非だちのいらざるつよみなり、さるほどに辻弥兵衛差物はあかねのふきぬき、和田加介は白き練のふきぬきにて、山県同心の内にて若手には辻弥兵衛、和田加介両人なり、又長坂宮内左衛門、今福求介是両人も若手の武士なり、信玄公広瀬郷左衛門、みしな肥前、こすげ五郎兵衛此時代の物をば、山県三郎兵衛家中によらず、御分国の諸家中にて老功のおほへある者には、十双倍馳走まします仔細は老功の者は信虎公への奉行半分、信玄公御代に半分、わけ〳〵なるが右三人時代の者は、みな信玄公へばかりの忠節忠功の故、念比し給ふ、味各別なりかやうに有て大将の御徳おほしさりながら又前代の者をも、少も愚成様子は無㆓御座㆒者なり、前代の忠功と我取立の忠功とは、取立は先づ心安く、其上我時代の大将をば下々の侍も一入威光つよく申者なり大小上下共に、武士はことば一ツにても其勝負まつたく又あやうきこともあり、下として上をはからふ事なしとは申せども、下々より大将をたつとみ奉れば、勝利をうる事うたがひなし、さるに付信玄公女坂にて人夫の八木をとりこぼしておきたるをもつて、諸人の大将を尊く存ずる儀をかんがへしろしめさるゝ事、落米是も大将の秘事なり口伝に有
信州更級出家公事の事
天文二十三年甲寅五月三日の公事、信州更級に真光寺と申律宗の寺に、円蔵院と云ふ住持、両人の弟子を持兄弟子を善万坊と云て一文不知の坊主なり、弟弟子は琳切と云て、是は又師匠円蔵院か跡をつがせんと兼て約束故、学問に出す、しかも律宗の事なれば、大和国奈良にて学問仕故、八年あまり音信なし其跡にて円蔵院遠行なりかの院、老耄故か、無智の弟子なれども、善万坊其時四十七八なれば、尤年よはひよしとて其寺をゆづるとある手形をやる、弟弟子は其比二十五六歳なれども久敷便宜なければ、死たるも知らずとある事にて、兼々約束のちがふたるも少は道理なり、さる間第々子の琳切、大方我宗の学問仕よせ更級へ帰り兄弟子の善万坊と公事を申せども、下にてすまざる仔細は、弟子兄善万坊申儀、既に円蔵院末期に及び、我等に跡識譲とある手形給はるとて証人を僧俗ともに出す、其上師匠遠行の後、寺退転の所を、建立仕つるうへは、いかに我等無智の僧なりとも、此寺の儀はそれがしまゝに仕べし、琳切にぜん〳〵約束なりといふ共、前判を破る、後判とあれば、かた〴〵もつて此寺は、此僧が寺なりと、無智の善万坊か申分是なり、扨又琳切申は師匠死去の後、寺退転の建立は尤なれとも此琳切が近所に罷在其方に跡を取おかせよき時分に寺をとらんと申さば、何と連々帥匠の約束にても寺とらんとは申にくき儀なれ共、大和国へ参候へば、何をも存ぜず候其上此琳切が遠国へ参るも、遊山にてはなし一宗の立派をも少は存て、出家道をたて此寺になをらんと思ふは、人間まよひの塵埃なり学問の真似をも仕るはほんかうじやうにゐる事、存命の間は、いかに出家にても各㆑如此又前判を破る後判とある、是は尤の事なれど、我等遠国へ参り十ケ年に及び便宜なき故、死したると帥匠も思ひ給へばこそ、其方へ手形を渡され候へ我等いきて有儀を知給はゞ円蔵院をいかで其方へゆづり給ふへき、それは我等死したると思ひての事なりいくよりも申如く我等学問の儀仕候て師匠の死に目にあはぬ内の儀、一ツも役にたち申まじきと云ふ儀にて、甲府へまいりめやすをあげ、御蔵のまへにて、弟子あに善万坊、弟子おとうと琳切両僧の公事有そのとき甲府の四奉行は、今井伊勢守、武藤三河守、桜井安芸守、今福浄閑さばきなり四奉行一二三四の図とりにて、今福浄閑一くじなるゆへ浄閑申さるゝは、おとうと弟子琳切が理なれば、此寺は弟でしの寺に仕候へ無智の僧いやと申さば、寺を引出し縦へば還俗なりともくるしからず候とさばく、二の鬮は桜井安芸守なれば、桜井申さるゝいかに無智の僧成とも出家をさやうにあらくあてがふは、慈悲結縁かくるなりとさばく、三鬮は武藤三河守取候へば三河申さるゝは弟子おとうと学問するも、此寺約束故なり、学問にゆきて師匠死に目にあはずして今此寺約束なりとも、その約束はたてまじと申すもことはりなれと、弟子兄の師匠、末期の約束をたてんと存候、殊に寺建立の事、是も理なれば我等は双方に何も道理ありと存ずとて、善悪の分別もなきさばき也さて四番目は、今井伊勢守さばきに、弟子兄の寺建立の儀僧俗ともにわが居所を似あはしく取つくろひ候事、珍しからぬ事に候へば、建立は我首のぬれぬ為にてこゝへは出あはぬ儀なり、然れば円蔵院末期の手形を、善万坊取たるよしそれなくは又是ほど公事にはならぬなり尤末期の手形にては琳切方へ前々の約束も破るへし、其手形とかとうと弟子の学問いたすと次相に仕れば、学問相承の事は杳〳〵うへならん、仔細はむかしを伝聞に、大国の朱買臣は錦をきて故郷に帰る、今の円学は錦にまさる、墨染の衣を着すると有儀衣は無学の僧もきるといへとも錦にまさると云ふ事は学問をさして申也、世間に物の色は多けれ共、墨は一入貴き色也、墨にて文字【 NDLJP:223】をかけば其手跡によりて殊更帝王将軍御手にも取給ふそ、其貴き墨の色にて心をそめたるを以て学問相承と名付て人の貴む所なり、善万坊耳に入やうに、此伊勢守が理を申聞候は、縦へば檜木にて木履を一足造りて、人にやれば足にはきていかようなる所をもありくぞ、又其木のきれにて仏を作りて人にあたふれば押板の上へあげ香花をもつて拝するぞ、其ごとくにいかにして兄弟子成共無学の僧をば師匠が馬をひかせて、さて弟子弟なり共学問の有をは、師匠も執する者なり其方善万坊は四五ケ年も此寺に住して、はや六十に及に付ては、隠居して三十にならぬ琳切に跡をゆつり候へ琳切も弟子兄無智の儈なりとも、兄弟子の事なれば、老たるをうやまひ、師匠の形見とも、存せられ、寺中の家財を三ケ一分て善万坊へあたへ寺のはしに置て念比尤もなり、念比なくは、学問のしるしは有まじ、扨又善万坊無学の意地にて、弟子をとゝのへ、琳切にまけたると口惜く我をたて悪をはたらき必ず琳切に毒をかひなどあるにおいては、勿体なき事ならんと定むると、今井伊勢守さばきにて、信玄公御耳によろしく思召なり、此さたありて其翌日に板坂法印へ振舞として、馬場美濃、山県、内藤、高坂、小山田、其外足軽大将四五人大身小身ともに中老より下の衆若功者たちばかり、よばれて参らるゝ、侍大将の中に内藤修理殿、足軽大将の中に横田十郎兵衛、此両人寄合たる座敷にては、種々の物まねをし或ひは理究つめをいふて、中々物のなりも聞へぬほどいつもおどけごと申人達なり、然れば内藤殿申さるゝは横田に右の公事四奉行のさばき、それ〳〵を批判してみよとあれば、横田十郎兵衛、文武二道にて、智恵才覚にあまり、賢こき弁説きゝ、ことに物云ふ侍なる故則ち申す、提婆が悪も、観音の慈悲、槃特が愚痴も文珠の智恵とさたいたさん子細は今福浄閑のあらきさばきは提婆、桜井殿双方無事にと有は、観音、武藤三河両方理なりと、分別わからぬは、繋特今井伊勢守こと〳〵く理非を分らるゝは文珠、さてこそ提婆が悪も観音の慈悲槃特が愚痴も文珠の智恵とあり、善も悪も鈍も利根もきわめて成仏のごとく、此二人の僧、中よきさばぎ如㆑此なりと、横田十郎兵衛批判すれば各咄とわらひて座を立なり
右此時節は馬場美濃守、民部、山県は、飯富源四郎、横田は彦十郎の時なれど、筆に任せて如㆑此、山県は永禄八年に、兄飯富兵部を、信玄公御成敗ありてより、源四郎を山県三郎兵衛になされ候なり、是は生替の若傍輩のうわさ申さるゝに名をかへざる時の心ばせを飯富源四郎といへば、山県三郎兵衛事にてなきと思はすまじきとて如㆑此、珍重々々
甲府浄土宗の僧公事之事
或る年俗と坊主の公事上る、其元を糺して申せば、甲府に三日市場、八日市場とて、日市の立町あり両町の内三日市場に塩屋弾左衛門と云ふ町人候て、浄土宗の尊体寺と云ふわき坊主、法順と申出家に右の弾左衛門金子をかり、年月をへて、彼借金沢山になる、使をやれども弾左衛門少しもなす事なし、法順殊の外ちからの強きあら僧なれば、自身三日市場へゆき弾左衛門が所へ押こみとるべき物なきとて、其の時十九歳になる下女を、法順取て候へは、惣別甲州国習ひにて、地下も町人も質をとらるゝ儀を一向の不覚に存ずる事、むかしより作法此通りに候へば、弾左衛門か隣りの町人共寄合て、彼法順何と申有共女をとゞめん儀、やすきといへども、彼僧大きなる徒法師にて、たゞはとめらるまじ、とめねば打擲いたさずしては、かなふまじ、さありて出家をたゝき候はゞ何と理をもちても、大慈悲心の、御屋形信玄公の国法に、坊主に杖をあつること、大かたのせんさくにても、ましますまじと、少分なる商人共さへ遠慮して下女を法順にとられける、かくありて右の女を二年の間寺に置、其内に女、父もなきおのこを一人もつ、町人共の事なれば、彼出家をにくみ悪名を申事、たゞよのつねならぬ批判なり、縦へ訴人にてこれなくとも、此出家の様子、何とやらんあしければ、侍衆の中にても、法順が悪名を、わらわぬ人はさのみなし、さて又右の弾左衛門、下女とらるゝ四年目に、弾左衛門夫婦ながらあひはつる、しかも此者むすめ一人ありて、別に子とてもゝたず、扨むすめの男は八日市とて、やがて其つゞきたる町にゐる者にて、しうとの弾左衛門が、家屋敷諸道具ども、むこにくれて死する、むこは八日市魚屋の甚九郎と云ふ商人なり、此甚九郎法順所へ、右の女を返せと云ふて使をやり、となりの者を頼み佗言しても法順女をかへさゞる故、目安をしたゝめ、奉行所へ申て、公事になりて、跡先の算用をきはむれば、出家金子の方に一度取たると申て女をかへさず、弾左衛門いきたる内、女とられて後も、少しつゝは年々に返弁いたすは此女を取かへさんといふ事証人いくたりもありといへども、以上に法順女をもどさねば科におとして、彼僧を糺明より外は別になし、さありて仏体をまなぶ出家を、楚忽に糺明いたす事、何と無智の僧にても、下々にてならざるやうに、信玄公常々の御仕置なれば、奉行則屋形へ申上らるゝ故、御前さば【 NDLJP:224】きに罷成、諸人の批判に彼の出家子を持て、其上少つゝも物をば取り【一本ニ物をば取ヲ利息取をばトアリ】、下女をば返さず、奉行の扱もきかず旁々以つての事なれば、みごりの為にあぶらるべしと申人多く五十人の内に、一二人は信玄公の御さばき、手の外なる儀多しと存する人もある、扨信玄公双方の目安をよませ聞召、則ち仰出さるゝ此僧、は一段心強き、たてきりたる清僧なるべし、子細は、某が前にいで出家の身として、女の公事を上る事、道理非はいかんもあれ、先心にあやまりは有まし、其上坊主が俗の所へ押入女を質に取りてかへるほどならバ、彼代物借たる町人、まへ年坊主をあなどり、借物をば、きつかはずして、出家に腹をたゝする俗人が下女をとられてから、年々少しづゝも返弁するに、坊主の久敷借たる物を取きらずは、返すまじきと申内に物かりたる町人死したらば、無智の僧の心に、年月あなづられたる、幸に女をとらんと思ふ程の、道理有まじ、又寺に女をめし置とあるは、よの宗旨は何共あれ、浄土宗は不㆑苦、子細は浄土三部経に、五百侍女発阿耨多羅三藐三菩提心願生彼国と観経第十六観にあり、侍女と云ふは侍ひ女の事也、侍女が五百人ゆかば此僧が取てをくほとの下女は、千人も有べし、それをしらずして坊主の所に女の居ると云ふて誹はぶせんさくなるさたなり、そも暫く物に心を付てみよ、世間に舞や謡と云ふも、人間の善悪をたゞして意見にかきて置たるを、それ〳〵に道々の名人が節をつけ、様子をまなぶを、今謡能などゝ申て人がおもしろがるなり、さて人に面白がらせて、遊山のやうに取成しても、一切の人間に智恵をつけんがためぞかし、さて当麻の謡ひに、中将姫の念仏三昧の所へ、阿弥陀仏の影向せらるゝなどゝ作り置も、出家に悪名をいひかけて、疑ふまじき事に不審をたて、慈悲結縁の心を破らすまじきとの儀也縦へ公事の理非は如何もあれ、十方旦那を頼む坊主に、かさつを申かくるは、勿体なし何れの道にもぶせんさくなる儀は武士の大に嫌ふ儀也、此公事此出家の理也とて、尊体寺法順思ふさま〳〵公事に勝謂れは彼町人出家を侮り理もなき公事を仕候間、科銭の上に三十日籠舎と仰付らるゝ其後彼法順に信玄公意見を云んとて、御諚なさるゝは心清きことは尤もなれども、重てケ様の公事は必ず無用たるべし古人も云ひ置能学㆓下恵㆒不㆑師㆓其跡㆒〈[#師の返り点「二」は底本では「不」の返り点「レ」の後]〉と聞、是は以来の為なりと有て物をば出家の申次第、蔵より出し女人は奉行へ渡すべしとさばき給ふは諸人の批判に違て各別なる故書記す其後女に奉行衆の被官共委しく尋てあれば此女の持たる子は、本寺の毛沙弥が忍びてもたせたる子也、是以て信玄公の御積り浅からず、大慈大悲の名大将と在家も出家も是を感ずるは手の外の儀成故紙面にあらはし置候心得給へ、長坂長閑老、跡部大炊助殿以上
信州岩村田法花宗の僧公事の事
信濃国岩村田に、いかにも少分成百姓あり、此者男は浄土宗女房は法花宗にて男は女を我宗になさんと云ふ、女は男を法花になり給へと申、何もかたづかず、後は此儀に付て、夫婦の中悪く成然れは男、父母の為めに一月に両度づゝ、浄土の出家を申請れば、女房かほさがをなす、女母の為に法花坊主を呼参らすれば男殊の外腹立る、夏の比にてこそありつらめ男馬の艸を苅に暁罷出、折節女房母の日に当る、出家も其日をは必ず存じ、いつも参る、此坊主も温天にて、日を厭ひ早朝に罷越衣をぬきて垣に懸せゝなぎの傍に立寄小便の用所をたし、井のもとにて手水を遣ひ衣を取てきんとする、女房は御坊の早御越とて、いそぎ起てかみを取あげ、未だ手水をつかわず、窓よりそとをのぞきながら、御僧様早々ましますと詞をかくる所へ、男もどりあたる、此僧あわてゝ衣のひほを結ぶ、男大きにいかり、惣別にくしと存るに、如㆑此のもやう共、更に聞へぬ事なりと様々口説を申かけ、おさへて坊主を縛りひとつの宗旨の僧達、近郷よりあまたきて、重ねての為なりとて、目安書て所のしゆご【守護】へあぐれば、乍㆓仮初㆒出家の儀は、私しさばきならずして、代官衆の人をそへ甲府の四奉行へあぐる、奉行聞給ひ、出家の非におとさんとすれば何にても証拠なし、百姓無理と申さんには、様子あやうし、是程少分成義に、鉄火或はみたけの鐘と申にもあらず、色々ひはんせらるれ共、奉行四人の分別に不㆑叶して無㆑拠上へ披露いたさるゝ、信玄聞召即時に被㆓仰出㆒縄かゝりたる出家、よの宗旨ならば種々せんさくも有べきが、日蓮宗においては、先誤りなり仔細は法花経にも五の巻に、入里乞食将一比丘若無比丘一心念仏と、是をくんに読時はさとに入乞食せんとならば、まさに一人のびくをつれよ、もしびくなくは、ひとつ心に仏をねんぜよと有時は、何として僧を一人やとひてゆかぬぞ、げに又やとはるゝ坊主に事をかくならば、其身一人行共、数珠を取て、いかにも殊勝成体にてこそ、法花宗共申べき、衣をぬぎ人の不審立様に、猥りに仕り出家のいぎをみだす事、法花経の宗旨には法に背きたる道理なり、さりながらいやしくも仏体をまぬる出家に、証拠もなき事にそこつになはをかくる事、私しにては勿体なし、扨また彼百姓狼籍なりとて頸を切なば、相手出家成ゆ【 NDLJP:225】へ其慈悲かくる間、此百姓百日籠舎成、彼野人の女房は此男にそわんも離別も、女人次第、夫は申下に及ばず又此出家、いかにも片方に住、無学の僧にても、得経に背くは、曲事たり、され共右百姓の申儀証拠なければ是罪科にも成がたし、経文相違の事計也、経文相違の出家を、其儘をかばいかゞなり、経に背かざる様に心ざし、他国へまいり、出家を立べし、我分国をはらへとて、青沼介兵衛、市川宮内ノ助、両人に被㆓仰付㆒その遠国をたゞし、能登国へぞ遣られける
甲府法花宗の僧公事の事
甲州府中穴山少路に新立寺と申、日蓮宗の寺あり是に脇寺十四五有、此十四五の中に、林生坊、昌沈坊と云ふ坊主、女房を持、是を近所の町人、ぬきな加兵衛、玉越杢左衛門【一本ニ玉越松左衛門トアリ】、両人にてよくとちの女房迯ぐることならぬ様に隣の坊主に手形をさせ、扨訴人岩間大蔵左衛門方へ告る又此大蔵左衛門訴人と成、謂は、数度の臆病を仕る故也、信玄公慈悲深き大将にてましますにより、彼大蔵左衛門家に久敷者の筋なれば、親の跡二百貫の知行を被㆑下候間、何とも手柄をいたすやうにと思召、御陣の在時は馬具足など被㆑下此度似合敷心ばせを仕れと被㆑仰ければいさぎよく請おひ申ても、勝負の時は、頓てはづす、しかも又遠く迯る事度々においてあり、比興の度に、籠へ入事、七度也、七度めに信玄公家老の衆を召、仰出されけるは、岩間大蔵左衛門、種々おどしすかし取立候へ共何共ならず、生れつきたる未練者也、雖㆑然ふだいの者を飢殺すもいかゞなり、似あはしき役を仰付らるべしとて、御分国の大身小身の侍或は僧俗一切の人の事、悪き儀、訴人申役を、此岩間大蔵左衛門に仰付らるゝ故右林生坊、昌沈坊と申新立寺の法花坊主、女房持候と有儀を岩間大蔵左衛門悦び、二人の町人同道致し奉行所へ訴へ申、則四奉行穴山少路、新立寺院主の御坊へ書状を付、林生坊、昌沈坊二人の僧を御蔵前へ召寄、扨大蔵左衛門と、ぬき名加兵衛、玉越杢左衛門、二人よび引合せて、対决さた有て、法華坊主両人ながら負て申様我々計りにて御座なしとて、法花寺の中をかぞへ立いづれの、寺にも五人六人候と申、我寺の内よりも、十人計り訴人して清僧は二三人ならでなし新立寺にて脇坊十五間の間にさへ、十二人あれば、甲州中には、在郷へかけては二百人も科におとすこと今の林生坊昌沈坊公事にてなり、扨また諸人の批判には、さいげんなき法花坊機にあがらん、又はあぶられんとのさた也、奉行衆も此以前、岩村田法華坊主、何にても証拠なきさへ以て御分国をはらはるゝ、まして是は大方の御成敗にては有間敷、いそぎ改め出し、日記に付、言上申べしとて、書立を以て申上る、信玄公聞召被㆓仰出㆒は此坊主共皆日蓮宗か、法華修行の僧ならバ不㆑苦仔細は則ち法華経に、貴賤上下持戒毀戒威儀具足正見利根鈍根等雨法雨と有、此経は貴きも賤きも高も低も戒を持も戒を破るも、けさをかくるも及、かけざるも直成も邪成も利根成も等しき法の雨を降すとあり、法の雨とは仏に成事也、さあれば出家も俗も仏に成所別事なくば不㆑苦殊に法華の坊主は我得経をかさにきての事也、密懐にてなくは日蓮宗、女房持儀不㆑苦、免してもたせよとの御事也、但し清僧ならば又何かあらん清僧へ対しての仕付は尤も有べしさなくば、清僧、落僧の隔て有まじ清僧落僧の隔には、今の書立、落堕僧達、妻帯役と申物を致せとて安間と云ふ侍を、さいたい役の代官に被㆓成置㆒、其己後女房たいする法華坊主は、皆安間三左衛門方へ、年に一度づゝ年貢を出す也、信玄公大ぢ大ひの大将にて出家を殺すことを不㆑被㆑成しかも其坊主の読経にて色々に引替、さばき給ふ事、文武二道の名大将とよその国にても感ずるなり
天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正書之
【全集ニ右ハ晴信公従㆓十八歳㆒五十三日ノ四月十二日迄公事沙汰人之存ニ違タル落着十二ケ条外ニ御穿鑿後学ニ可㆑成義ト思フテ三ケ条合テ十五通為㆓上下㆒巻トアリ】