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甲州黒駒勝蔵評判くどき

提供:Wikisource

新版甲州黒駒勝蔵評判くどき(上)

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白サアヱヽ黒いわ世のぜん悪と、あまたおかたのゆいならしにて、
世にもまれなる出世のかゝみ、ところいつくとたすねてみれば、国ハ
甲州八代郡、沼津海道見坂のふもと、城を目下に黒駒村に、今だよし
ある百姓なるか、なにもふそくのなき身であれど、しやばのたとへの
さんとうらくに、まよいこんだる此ひとすじに、ばくちとせいでその
日をおくる。おとに其のなは勝蔵とゆふて、我身たいぢと子分をとりて、
昼夜かきらすはくちのとせい、今ハおかみのけんしふゆへに、すまい
なれたるこきやふにすめづ、いずくなりともすみかわならぬ。めぐり
/\てみのじへはいり、ぎふに名高き弥太郎どのへ、足をとゝめてし
ばしのあいだ、あまた子分も休足いたす。生こきやふとさてことかわり、
金のゆふずもてきがたければ、せひにおよばず子分のものハ、ねじり
おしかりかずかさなれば、かみのおみゝとかくなるゆへに、せひにお
よばず弥たろうどのも、甲斐の客人みな/\様も、あまりおかみのげん
ぢゆふゆへに、とおさからしてしばしのあいだ、またもおたづねくた
さるよふに、のべることばにみな一同も、いとまごへしてたちいでま
する。ヤンレイ

新版甲州くろかつひよふばんくとき(下)

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子分サアヱヽ大せいみなひきつれて、みのをたちいで三河の国江、こヽ
に名高きくも風とのへ、たどる人数ハ七十五人、時のいちれいみなあ
いすめバ、さあさあかれとくも風殿も、ゆへば一同其おことはに、さ
らバごめんとわらしをとりて、酒や肴でいちさのさわき、みのや甲州
の咄シもなかし、そこでくも風もうすることハ、かいの兄弟きでんモ
わしも、ばくちとせいの身分であれば、ねらうすくちへならべたまとと、
どきよふさためて京とへのほり、たとへ京との下役であろと、けじに
つくなら身のたいけいと、そふしや/\と勝蔵とのも、あまた子分を
ひきつれまして、京のみやことへたと/\のほる。とこをあてどゝなき
身であれば、宿すまいでしはしのあいだ、時もときかや、よいおり
おふせつけられ、勝蔵とのハ、めよふがしこくとよろこびいさみ、あ
て三百人の武兵頭でことけんしふに、おかごわきやらせんこのともて、
ながい道中東海道を、日々のちふうれんさて花やかに、花の東へお下
りなさる、ここんまれなる出世鏡。ヤンレイ

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。