瑠璃王の瑠璃玉

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第二話 瑠璃王の瑠璃玉



「ウィスキー・ソーダ二杯!」

「日本酒一本」

「マカロニ・オウ・グラタンを頼むよ」

「俺はエビフライだ」

 午後十時――初夏の空のドンヨリと曇つた夜の――カフエ・オーリアンはその二十に余る卓子と十に近いコンパートメントに、一つの空席さえ見出されない混雑だつた。

 註文󠄁を怒鳴る客、註文󠄁の出来上つたのを知らせる為に、女給を呼ぶ帳場の一種異様な叫声、放談哄笑する声、それらの喧騷に輪をかける為に、自動ピアノの叱り飛ばすような響、濛々と立籠た煙草の煙、その間を三十幾人の白いエプロンを艶めかしくかけた女給が、或いは註文󠄁を訊く為に、或いは註文󠄁の品を運ぶ為に、或いは同時に二組以上の馴染客に秋波を送る為に、奔命に疲れ果てゝいた。

 百数十人の客達はいずれも云い合したように、口忙しく何事かを喋つていた。彼等は鳥渡でも沈黙が続けば、忽ち悪魔に取憑かれるのを恐れでもするように、狂気のように見えた。彼等はそうした強迫観念から脱する為に、無闇に酒を呷つているのだつた。だから表面的には彼等は皆な上機嫌で幸福だつたが、内実は溜息を隠す為の作り騒ぎとも見えるのだつた。

 一隅では会社員らしい四五人が、各自飲みさしのビールのコップを控えながら、大声に喋つていた。

「最初はテンさ、次からフアイブなんだよ」

「女学生なんかが来ると云うじやないか」

「うん、袴なんか穿いて来るがね。と称するだけで、怪しいものだわ」

「Tなんかゞ遊ぶとは思わなかつたね」

「フ丶ン、あんなのが反つて危いのだよ」

 その隣りの席ではモダーン型の青年の群がひどく噪いでいた。

「おい、あいつは鳥渡好いだろう」

「今帳場の方から出て来たのかい。鼻が高過ぎらあ」

「どつかM夫人に似ているだろう」

「それで好いと云うのかい。笑わせらあ」

「ほんとだ、そんなにM夫人の抱擁が忘れられないのかい。俺なんざ、あんな女給は御免だよ。あんな着物の趣味は真平だ」

「生意気云うな。向うから御免だつて云わあ。君なぞは相手にされる代物じやない」

「馬鹿云え。あんな女、こつちに気があれば、ものにするのに三時間とかゝるものか」

「背負つてやがら、こいつ

 こうした喚く、罵る、笑う、そうして飲酒と邪淫の他に何者もない騒擾のうちに中程の大きな柱の蔭にウィスキーグラスを前にして、ポツンとしていた一人の男は、何に聞耳を立てたか、急にぬつと顔を上げた。彼は中年の背の低い男で、ダブの汚れた上衣を着て、垢じみた、ねじくれたネクタイを無造作に結び、どの点から見ても、カフ・オーリアンの客らしくなかつた。今彼の擡げた顔を見ると普通の人に一廻り大きい上に赤黒く醜く、巨大な曲つた鼻が、中にのさばつて、全体としてひどくグロテスクで、日本人離れがしていて、画に描いた西洋の妖婆が脱け出て来たかと思われた。彼は手した不恰好なミシクリ―・ケインをいじくりながら、ギロギロ眼を動かして、隣りの卓子の会話を盗み聴き始めたのだつた。

 隣りの卓子には学生服を着た青年の一団が座を占めていた。

「そうかい、君ん所のもとうとうやられたのかい」

「うい、随分気をつけていたんだが、とうとうやられたよ。親父はひどく残念がつていたつけ」

「そいつは惜しい事をしたね。矢張短銃でかい」

「うん、一発でやられたらしいよ」

「それで何かい、首輪を持つて行つたかい」

「いゝや、首輪は持つて行かなかつた」

「ふん、そうすると、首輪を持つて行く時と、行かない時とあるんだね」

「そうらしいね。Sの所では首を切つて持つて行かれたんだからね。ひどいよ」

「あれには流石のSも驚いたらしいよ。いかに犬でも。首なしの屍体が転がつていたんじや耐らないつて気味悪そうに話していたからね」

「だが、一体そう方々のブルドックを殺して歩いて、どうする積りだろう」

「分らないね。始めは窃盗に這入る為だろうとか、犬一匹に何万円も出すブルジョアに対する反感だろうとか云われたが、此頃のようにブルドックとさえ見れば、手当り次第に殺すようになつては、気狂としか思えないね」

「前世で猿だつたんだろう、そいつは」

「だつて、猿ならブルドックに限らない、どんな犬でも殺しそうなものだ」

「所が、ブルドックに嚙み殺されたんだつてね。アハヽヽヽヽ」

「アハヽヽ」

 一同が笑い崩れたので、隣りで聞耳を立てゝいた怪しい男も、釣り込まれたか、二ヤリと薄気味悪い笑を洩らした。

「面白そうな話だが、一体どう云う事なんだい」

 一行の中には予備知識のないものがあると見えて、笑声の稍下火になるのを待つて尋ね出したものがあつた。

「知らないのかい、有名な話だが」

「うん、時々新聞で見て薄々は知つているんだけれども」

「話してやろうか」自分の家のブルドックを殺されたと云う男が、ブルドックを飼つていたゞけに、事件には最初から興味を持つていたと見えて、得意そうに語り出した。

「三月許り前だね。富豪のN家のブルドックが何者かに銃殺されたんだ。之がまあ最初なんだね。N家のブルドックと云うのは、何でも最近にイギリスから数万円で買つたので、当時新聞にも書き立てられたから、先刻話の出たように、反感を持つた奴が殺したのだろうと云う想像だつた。中には窃盗に這入る予備行為だと云う説もあつたがね。

 所がそれから二三日して、今度はK家のブルドックが殺されたのだ。矢張前の時のように短銃で打ママ殺したのだつた。このブルドックと云うのが矢張、最近イギリスから或る商会が輪入したもので、価はN家のよりは幾分安かつたらしいが、堂々たるものだつた。これで愈々反感説が裏書された訳で、高価なブルドックを飼つていた家は、非常に恐慌を来たしたのだつた。

 で、そう云う家では十分注意した訳だつたが、Y家が三回目の災難を蒙つたのだ。尤もこの時は相当警戒をしていたので、番人が犬の唸り声を聞きつけて、馳せつける間に銃声が起つた位で、チラと曲者の姿を見たのだつたが、何分夜中の出来事なので、とうとう見失つて終つた。この時はどう云うものか、首輪が紛失していた。この犬も欠張りイギリスから輸入されたものだつたから、其筋では計画的の犯罪と睨んで、犯人の厳探を始めた。

 所が一向に見込みが立たないうちに、あちらでもこちらでも、バタブルドックがやられるようになつた。先刻も話した通り君、Sの所では首を切つて持つて行つた。犯罪がだん深刻になつた訳だね。で、こうなると、犯人は一人であるかどうか疑わしい。それに始めのうちは主に富豪の家の輸入犬を覘つたのが、終いには日本で生まれたものまで殺し出し、果ては余り上等でない雑種までやつつけるようになつた。現にS君の所のは日本で生まれたのだし、僕の所のは雑種なんだ。こうなると、もう目的も何もない、気狂の所業だね。ざつとこう云う訳だよ」

「不思議な事件だね」熱心に耳を傾けていた相手の男は感嘆しながら、

「で、何かい、殺す一方で盗みはしないのかい」

「ブルドックを盗むと云う事がむずかしい為か、殺す一方なんだ」

「この頃は少し下火になつたが」一人が口を挾んだ。

「一時盛んにブルドックを探ねる広告が出たじやないか。莫大な懸賞つきで」

「あゝ、そう」事件の説明をしていた男はうなずいた。

「然し、あれはN家のブルドックの殺される以前の話で、この事件には関係はないだろうと思う」

「それはどう云う話なんだね」聞ママ手の一人は促した。

「あれも可也奇怪な事件だつた」語ママ手は古い記憶をよび起すように瞑目しながら、

「確か高野修吉と云つたと思う、鳥渡した成金で、雑司ケ谷に住んでいたのだが、もう四ヵ月余り前になるかしら、N家のブルドックの殺される鳥渡以前だつたからね、夜十時頃家へ帰る途で、何者かに殺されたのだ」

「あゝ、あの事件か」聞ママ手はうなずいた。

「その殺される時に、彼はブルドックを繫いで連れていたんだよ。所が、頼み甲斐のない犬だね、主人の屍骸を見捨てゝ、行方不明になつて終つたんだ」

「犯人が盗んだのだろうか」

「そうらしい。警察でもそう云う見込だつた。所が、それから二三日して、ブルドックを尋ねると云う広告が、一万円の懸賞つきで各新聞に一斉に出た。姓名在社になつていたが確かに高野家の犬の事らしい、犬そのものも数万円の価値があるらしいし、犬を尋ね当てれば、殺人犯人の有力な手懸りになるかも知れないのだから、誰も高野家の遺族が出したのだろうと想像して、一万円と云う金高は鳥渡耳目を聳てさしたが其後盛んに新聞に出たけれども、誰も怪しむものはなかつた。所が物好きな記者がいてね、能々高野家へ訪ねて行つたが、驚いた事には同家では一向そんな広告は出した覚えはないと云うのだ」

「じや、誰が出したのだろう」

「警察でも不思議がつて、早速調べたが、とうとう分らず終いだつた」

「じや、高野家の犬と別物だつたんだろうか」

「然しね、特徴から首輪の事まで、高野家の犬そつくりなんだ」

「変だなあ」

「全く変だよ。広告は何でも、終いには屍体でも好いとなつたと思う」

「それじや、N家のブルドックを殺した奴は、身代りにしてその広告主に持ち込む積りだつたのじやないか」

「だって屍休は置いて行つたのだからね」

「首を持つて行つたのがあるじやないか」

「身代りの偽首か。まさかね、アハハハハ」

「然し、高野家のブルドックもそんなに高価なものだから、いずれ輪入犬だろうが、して見ると、後の事件に関係がないとは云えないね」

「うん、関係があるかも知れないね」

「止せ」仲間の一人が腹立しそうに怒鳴つた。

「ブルドックの話なんか止めろ。俺達はカフェ・オーリアンにいるんだぜ。そんな話はどこでも出来るじやないか。不経済な奴だな。見ろ、そんな話を始めるから、女給が一人も寄りつきやしない」

「同感々々、花ちやんを呼べ」

「おい、ふうちやん、ビールだ」

 忽ち賛成者が出来て、ブルドックの話はそのまま、一同は思い出したように、注ぎ置きのビールをガブ飲み出した。

 カフエの中は依然として喧々嚣々を極め、自動ピアノの耳を聾する響きは轟き渡つていたが、もう潮時は過ぎたと見えて、ボツ帰る客もあり、チラチラと開いた卓子があつた。受持の女給は、喰い散らした皿や、飲みかけの酒、転がつた洋盃、山のように積つた吸殼で燻つている灰皿で、手のつけようもない狼籍を極めた汚い卓子を、驚くべき熱ママ練と敏捷さでさつさと片附けていた。

 青年達の会話に聞耳を立てゝいた妖婆のような男は、いつの間にか一人の美しい女給を引きつけて話をしていた。

「いつも繁昌ママだね」

「えゝ、お蔭さまで」

 女給はあまり馴染でないと見えて、ひどく改まつて返辞ママをした。相手の男の異様な顔つきとだらしのない服装に対して、彼女は迷惑と軽蔑との交󠄁錯した眼つきを報いていた。

「きくちやんはどうしたい。見えないようだが」彼は彼女の眼つきなどは一向平気で、ニヤ薄気味悪く笑いママがら訊いた。

「きくちやん? そんなひといないわ」

「いるよ、君の次に美しい人だよ」

「まあ」彼女は大袈裟な表情をしたが、

「きくちやんなんていないわ。今日いないひと誰だろう。ああとくちやんじやない」

「とくちやんと云つたのかな」彼は鳥渡首をかしげながら、

「兎に角、ホラ、この向うの隅に茫然としている、色の白い貴公子然とした若い人がいるだろう。時々溜息をついて、悲しそうな顔つきをしているね。あの人の多分恋人だろうと思うがね」

「そうよ」彼女はチラと青年の方を見て、

「あの方とても、とくちやんに御熱心なの。あなたどうして知つてるの」

「なに、誰でも目当の女がいないと、あゝ云う風にぼんやりしているものだ。所でとくちやんは今日お休みかい」

「自分で休んでるのよ。一週間ばかり」

「病気かい」

「そうだろうと思うの」

「で、あの貴公子は一週間あゝやつて無駄にお通いかい」

「そうなの、あの方とても内気でね。とくちやんを思つている事は、ありと分つてるんだけれども、ちつとも口に出さないの。あゝやつて毎日一人で来ては茫然しているのよ。とくちやんも罪だわ」彼女は些か妬けているらしかつた。

「所で、今帳場の所に歩いて行つた背の高いハイカラな紳士だね。この暑いのに御丁寧に革の手袋なんか嵌めている人さ。あれはお馴染かい」

「あゝ、あの人、とてもハイカラだわね。いゝえ、そうお馴染じやないの。此頃よ」

「あの人のお目当は誰だい」

「知らないわ」

「君かい」

「冗談でしよう。殊によつたら、とくちやんよ」

「とくちやんは凄いんだね」

「えゝ、あの人つたら初心なような顔をしていて、中々大したもんよ」彼女はこのカフエでは美貌の方に属するので、とくちやんに対して対抗意識が非常に強いようだつた。

「とくちやんはね」彼女はいつの間にか警戒を解いて、喋り出すのだつた。

「どうもあの人を知つてるらしいの。私は知らなかつたけれども、他の人の話では、この前あの人が来た時に、ハッと顔色を変えて、奥へ逃げ込んだのですつて」

「ふん、それから二度目にはどうしたい」

「嫌な訊き方をするのね、こちらは」彼女は鳥渡顔をしかめながら、

「それつきり、とくちやんはあの人と顔を合さないでしようよ。休んじやつたから」

「いろいろの他人の事を聞いちやつたね。他人の事じや一向始まらん」彼はいかにも詰らなそうに云つたが、直ぐ次の言葉をつけ足した。

「そろ帰るとしよう。君、会計を頼むよ」

「あら、もうお帰り」

 彼女は顔の筋一つ動かさず、事務的に答えながら、助かつたと云う風に、忽ち腰を振り大股に帳場の方に行つた。

 小男は何と思つたか、ヒョッコリ立揚ママつて、指揮杖󠄀を抱えながら、隣りの卓子にツカと近寄つて、先刻自家の犬を殺されとママ云つて、ブルドック事件を説明した男の顔を覗き込むようにしながら、

「失礼ですが、先刻のお話のお宅のブルドックの首環ですね。あれは金具で疣々がついていましたかそれとも革ばかりで飾りのないものですか」

 だしぬけに話しかけた異様な男の顔を、吃驚したように暫く眺めていた青年は、漸くの事で返辞ママをした。

「首環は革ばかりです。疣のような飾りはついていませんでした」

「どうも有難う。ブルドック事件は実に奇妙ですな。あなたは大分お委しいようですが、未だ研究が足りませんよ。何故首環が盗まれるか、又󠄂盗まれないか、ね、そこですよ。よく考えて見るんですね」

 彼はそう云うと、呆気に取られている青年に一瞥も与えないで、さつさと自席に帰つて、恰度女給の持つて来た勘定書に、そゝ くさと支󠄂振ママいをした。



 大通りはすつかり寝静ママつていた。喑澹とした空の下に、雨気を含んだねつとりとした風が、暑苦しく蠢いていた。

 午後十一時過ぎ、カフエ・オーリアンの扉󠄁から、相次いで吐き出された四人の男があつた。

 一番始めに出て来たのは、例の悄󠄂然とした貴公子然たる青年だつた。次に出て来たのは例の背の高いハイカラ紳士で、彼はそつと青年の後について行った。三番目は指揮杖󠄀をブラ提げた背の低い醜い男だつた。彼も二人の後を追つて行くらしい。四番目に出て来たのは眉深に被つた鳥打帽子の下から、凄い眼をギロ光らせている怪しい男だつた。彼は注意しながら、三人の後を追つて行くのだが、目標は二番目の瀟洒たる紳士にあるらしい。

 この異様な四人の行列は間隔を凡そ四五間づつ置いて、七八分の間続いた。と、先頭の青年は或る横町に曲つた。続いて歩いていた紳士は何と思つたか、急に足を早めた。で、当然彼は青年に追いついたのである。

「おい、君」彼は馴々しく青年を呼びかけた。青年は急いで振返つたが、見知らない人だつたので、彼の眼には明かママに驚駭󠄂の表情が現われた。

「君は」紳士は口早に続けた。

「オーリアンにいたね。あそこは好い所だね。僕はとても気に入つているのだ。それに今晚は馬鹿に愉快なんだ。おい君、どこかで飲もうじやないか」

 青年は迷惑そうな顔をしていたが、相手は立派な紳士だつたし、泥酔と云う程ではなく微酔機嫌で馴々しく話しかけているので――こんな事はあり勝ちだから――漸く決心したように答えた。

「好いですね、お供しましよう」

「来給え、モンブランという家だよ。落着いて旨い酒を飲ませるし、綺麗な女給がいるよ。恐らくとくちやん以上だぜ」

「えつ」最後の一句にドキンとしたように青年は顔を上げた。

「ハッハッハ、何でもないのさ。さあ行こう」

 紳士は四辺に響くような大声で笑うと、青年の腕をしつかり抱えて、さつさと歩き出した。

 カフエ――と云うよりはバアだが――モンブランはオーリアンとは正反対に非常に静かだつた。広さも高々五六坪で、コンパートメントが二つと、卓子が三つ程あつて、椅子は贋いものながら厚い切地で張つてあつた。照明も間接で、部屋全体が朧な光線で照らされていた。紳士と青年が中に這入つた時には、他に誰も客はいなかつた。

「ジンカクテーママルを二つ」

 紳士は入口を背にしてポンと腰を下すと、足を組み合せながら、傍に来た女給に註文󠄁した。そうして、前に腰を下した青年に云つた。

「どうだい、好い気分だろう」

「好いですね」青年は余り気乗りのしないように答えた。

「君は何と云うんですか、僕は野波つて云うんだが」

「ぼ、僕は」青年は少し狼狽えながら、

「こ、駒田と云います」

「駒田君の健康を祝そう」

 彼は女給の運んで来たグラスを、手袋を嵌めたまゝ受取つて、眼の高さまで持上げた。青年も同じようにグラスを、眼の所に持つて行つて、互に鳥渡目礼した後に、同じようにグッと飲み干した。

「所で君、僕達は友人になつたのだが」彼はこゝで鳥渡口を切って、女給に二杯目を持つて来るように、目配せをしながら、又󠄂向き直つて、

「駒田君、君はオーリアンのとく子にひどく執心だと云うじやないか」

「――」青年の蒼白い顔は微かに赤味を増した。

「そう恥かママしがらんでも好いさ。大いに話して呉れ給え。所で、君、一体どの位の程度に進んでいるのだい」

「何にもありやしません」青年は恨めしそうに野波と名乗る男の顔を見上げながら云つた。

「何もないつて」野波は意外と云う風に、

「隠しちやいけないぜ。君は大分あそこへ通つているじやないか」

「先週初めてあそこへ行つたんですよ。そしたら彼女がいたんです。余りよく似ているものですから」

「誰に似てるつて」

「私の恋人にです。国にいるんです。恋人だつて片思いなんです。私の方で思つているきりなんです」

「君の国はどこなの?」

「遠いんです。ずつと離れているんです。私は或る用向きで東京へ出て来たんです。むずかしい用なんですけれども、進んで引受けたのです。一つは彼女から遠のく為です」

「ふうん」野波は眉をひそめて、青年の不思議な様子をジロ見ながら、

「で、とく子がその君の恋人そつくりだと云うんだね」

「えゝ、そうなんです」靑年は極り悪そうに、

「私は夢中て通い出したのです。所が、三日目に彼女は見えなくなりました。それから一週間私は毎夜無駄にあそこへ行きます。彼女は少しも姿を見せないのです」

「アッハッハッ、随分辛抱強いね、君は」野波は笑い出した。

「どうして君はあの女の家を訪ねて行かないのだね」

「そんな事は私にはとても出来ません、とても恥かママしくつて駄目です。第一彼女に愛想を尽かされて終います」

「それは君余り臆病と云うものだ」野波は真面目な顔に戾つて、

「君のその美貌と燃えるような青春を以つてして、何者も恐れ憚る所はないじやないか。毎晩々々あんな喧騒な場所でたつた一人で悄然として、来もしない女を待つ必要がどこにある。それも人妻とか良家の処女とか云うなら格別、高が女給じやないか」

「私は良家の処女と女給とを区別したくはありません。それに私には彼女は良家の処女としか思えません」

「あの女が良家の処女だつて」野波は危く吹き出そうとしたが、あわてゝ踏み堪えて、

「そうかも知れないさ。然し、そうであつた所が、君は遠慮する事はいらない。彼女の家を探し出して訪問するさ」

「そんな事をして好いでしようか」

「好いも悪いもないじやないか。君の愛する女なら、どん訪問して交際を求めるのが当前じやないか。君はその権利があるのだぜ。それは君のような青年の特権じやないか。君は未だ君自身の力を知らないのだ。勇気を出し給え。君は君の欲するあらゆる女に、唇を要求して見給え。君はきつと君自身の力に驚くよ。先ず手初めにとく子の所へ行つて見給え」

「私はそんな不道徳な事は出来ません」

「不道徳?」野波はあきれたと云う風に、

「そう、道徳と云う言葉が昔あつたね。それを君は真面目に考えるのかい。道徳と云うものはね、老人が青春を嫉妬する余り、青年の自由を束縛する為に拵えたものだよ。王侯、貴族、富豪、そんな者共は何を欲していると思う。彼等はみんな青春が欲しいのだ、彼等はみんな、飽く事のない慾望に加うるに、永久の青春を望んで、煩悶してるんだよ。ね、君よく考えて見給え。君のその輝かしい青春を、無駄にして終おうと云うのかい」

 酔つた勢か、それとも何か企む所があつてか、野波は雄弁に熱心に駒田を説くのだつた。駒田は黙して答えなかつたが、野波の言葉に動かされたと見えて、彼の顔は次第に希望に輝いて来るのだつた。

 と、不意に野波の肩を叩いた者があつた。

「いや、ヘンリー・オットン卿中々の名論卓説でござるな」

 野波は驚きの余り飛上りながら振返ると、小柄な妖異な相をした男がニヤ笑いながら立つていた。彼は三人目にオーリアンを出た男だつた。

「や、君は、オーリアンにいた――」

「いかにも、たつた今までオーリアンに居りまして、閣下をお慕い申してな、又こゝまでついて来ましたのじや」

「一体、き、君は誰だ」

「手ママ太と云いましてな商売は弁護士でござるが、実は」彼はおどけた云い方を少しも変えずに、

「それは世を忍ぶ仮りの看板、金になる事なら何でもいたしますで。只今オットン卿の仰せの通り、いやはや、道徳などと云う事は笑うべきものでござるな。その点では、竜太知己ママを得てこんな嬉しい事はありませんて、願くば握手の光栄を得たいものですて」

 彼は一息にこう喋りながら、茫としている野波の手袋を嵌めた右手をぎゆつと握つた。小男にも似合わない彼の怪力に、野波は思わず顔をしかめた。

「い、痛い」彼は口の中で呻いたが、やがて、腹立しそうに云つた。

「可笑しな物の云い方は止して呉れ給え。そうして一体僕をオットン卿などと呼ぶのはどう云う訳だ」

「ハヽヽヽ、いや失礼」竜太はニヤリと笑つて、

「こちらにそれ、ドリヤン・グレイ殿がお出でござるからな、閣下をへンリイ・オットン卿とお呼びしたのじや。オットン卿は遊蕩児を仕立てるに妙を得た方でござるでな」

「で一体」野波は忌々しそうに、

「僕にどう云う用があるのですか」

「少し御注意を申したい事がござつてな。ハヽヽヽヽ、大した事でない。第一に犬に嚙みつかれた時には、狂犬病の予防注射をなされぬと危険じやと申す事じや」

「何ツ!」野波は顔の色を変えた。

「ハヽヽヽ、何でもない詰らぬ事じや。所で二番目に御注意をいたしたいのは、最早首環を狙らママわれても無駄でござろうと云う事じや」

「え、え」野波はよろめいた。

「第三に、これは一番大切な注意じやが、閣下の後には、鳥打帽子を眉深に被つた怪しい男が尾行して居りますぞ。多分刑事と申す者じやと存ずるが、御注意が肝心でござるぞ」

「――」野波は得意気に駒田を説いていた時とは打つて変り、竜ママ太の舌先に飜弄されて、顔を蒼白にしたまゝ、最早言葉は出なかつた。

「ドリヤン・グレイ殿」竜太は呆気に取られている青年を呼びかけた。

「かような所に永ママ居は無用じや。拙者と一緒にお出なされ」



 眉目秀麗の青年駒田は茫然として夢を見るような気持で、フラと手竜太と名乗る怪人物の後について、カフエ・モンブランを出た。

 空は愈々険悪になつていた。夜中十二時に近いのだろう、街上には人影もなかつた。

「あゝ云う男と一緒にいない方が好い」竜太は駒田に囁いた。

「あいつは君を唆かして、とく子とか云う女給の所へ、君をやろうとしているのだよ」

「然し、そ、それは――」駒田は口籠りながら、云い争おうとした。

「いや、それに違いないのだ」竜太は押えつけるように、

「あいつはその女を慥かに知つているのだ。殊によると情婦かも知れない」

「えつ」青年は顔色を変えながら、

「そ、そんな事は――」

「ハヽヽヽヽ、では君の名誉と彼女の良心の為に、僕の情婦説は取消すとしよう。だが、二人は知つた仲であると云う事は断じて疑いはないよ。多分彼はとく子に盗んだ宝石でも預けてあるのだろうと思う」

「えつ」

「所で君は」竜太は驚いている青年を尻目に見ながら、

「先刻カフエ・オーリアンでブルドックの話をしていたのを聞いていたかい」

「いゝえ」

「それがね、彼奴――野波とか云ったね、無論偽名だろうが、確かに関係があるんだ」

「宝石にですか」駒田は急に眼を輝やかしながら、熱心に訊いた。

「うん」竜太は青年の態度の変化に格別気を留めないで、

「問題は殺された高野修吉なんだ。彼については僕は久しい以前から研究していたが、信ずべき報告によると、彼は殺される少し以前、素晴らしい青い宝石を手に入れたらしいのだ」

「えつ、青い宝石!」青年はさつと顔色を変えて、険しい眼をして竜太に詰め寄つた。

「うん」竜太はうなずいたが、青年の顔をじつと見ながら、

「君はその事を知つているのかい」

「いえ」僕ママはあわてゝ首を振つた。

「そうだろう。この事は余り知つている人はない筈だから」竜太はうなずいたが、彼は鋭い眼で駒田の様子をじつと覘いながら、

「所で、その宝石は余程値打のものと見えて、高野の手から奪おうとするものがあり、彼も宝石の隠場所には困つたらしい」

「ど、どこへ隠したのですか」青年は再び詰め寄るようにして訊いた。

「君はこの話に大分興味を持つたようだね」竜太はニヤリと笑いながら、

「僕の宅まで来給え、委しく話すから、こゝは往来で都合が悪い」



 手竜太の家は池袋にあった。彼は駒田青年と共にタキママシーを飛ばしたが、家についた頃にはもう一時を過ぎていた。駒田は人気のないガランとして奇妙な建物の中に引入れられようとした時には、思わず後退りをした。家のどこかの隅から、異様な野獣のような叫声が、折々物凄く洩れ聞えるのだつた。

 漸く居間らしい所に相対して腰を下すと、駒田は直ぐに口を切つた。

「青い宝石の話をして下さい」

「よろしい」竜太は大きな鼻を蠢めママかしながら、

「先刻も云つた通り、高野はどこからか青い宝石を手に入れた。所が、それを奪い取ろうと覘うものがあるので、どことも知れず隠して終つたのだ。その隠場所に就いては無論僕は知らなかつたのだが、後に彼が惨殺された時に、彼の連れていたブルドックが行方不明になり、而も遺族でもないものが、巨額の懸賞金を以て、捜索の広告を出した事、後には死体でも好いと云い出した所から、漸く察する事が出来たのだ」

「あつ、それでは宝石はブルドックのどこかに隠してあったのですか」青年は叫んだ。

「その通りだ」竜太は大きくうなづいた。

「飼犬のブルドックのどこかに宝石を隠して置くなんて、素晴らしい考えだね。ブルドックは無暗に出歩くものではない。他人では鳥渡手をつけかねるし、第一そんな隠場所を気付く人間は容易にありやしない。一時的の隠し場所としては絶好じやないか」

「どう云う方法で隠したんでしようか」

「それも推察に難くないね、後に起つたブルドック射殺事件に或は関係のない事かも知れんが、仮に関係ありとするとだね、射殺の目的の一部は首環にあつたのだ。而も犯人は飾りのない普通の首環には手を触れなかつた所を見ると、当りがつくじやないか」

「あつ、それでは宝石は首環の飾りの金属性の疣の中に隠してあつたんですね」

「そう考えられない事はないね。そこでだ。今度は首環の中に宝石が隠してあつたものとして、今までに起いた事件を説明して見るんだ。高野を殺した犯人は首環に宝石を隠してあつた事実を知つていたとする。そこで彼は高野が犬を連れて散歩に出たのを見すまし、先ず高野を射殺し、ついで犬も射殺そうとしたが、ブルドックはいきなり彼の短銃を持った手に喰いついて、犯人のひるむ暇に逃走した、とこう考えるんだ。

 で、その後に起つたブルドック射殺事件だが、之は前にも云う通り全然別の事件かも知れぬ。犯人が別だと云う場合から考えて見よう。犯人が別だとすると何故彼は首環を覘つたかと云う事を第一に考えねばならない。彼は明らかに首環そのものを覘つてはいない。現に彼は十分余裕のある場合は首環を調ベて見ただけに止つて、急迫した時に限つて首環を持つて逃げている。だから彼はやはり首環に隠された何者かを探つているのだ。で、犬が多く輸入犬であつた事からして、首環の中に宝石を隠して密輸入を企てた者が、手違いから犬を首環のまゝ売られて終つて、仕方なく片端から探ね歩く、こう考えられない事はない。探偵小説によくある筋だ。もつと空想を逞しゆうすると、或いは宝石がブルドックの歯の中に隠してあつたかも知れぬ。と云うのはたゞ一度だけれど首を切つて持つて行つたからね、之は容易に首環が拔けなかつたからかも知れないが、そう云う突飛な事があるかも知れない。

 けれども、以上の二つの推測はブルドック射殺事件が高野殺害事件と関係なく起つた場合であつて両者が同一犯人によつてなされたとすると、解決は容易になつて来る。

 即ち高野のブルドックは多分短銃で傷を受けていたのだろう。それでなければ彼は犯人を嚙み伏せる事が出来たろうじやないか。で、傷を受けた犬は其後少しも現われない所から見て、どこかで斃れたと見るのが至当だ。犬の斃れている所へ通りかゝつた浮浪人のような種類の男が、首環を盗んで売飛すと云つたような事は、頗るあり得べき事だ。その首環はいずれ見事な高価なものであつたろうから、転々と売られた事であろう。高野を殺した犯人が非常手段でそ の首環の行方を探すのは当然じやないか」

「じや、宝石は未だ首環の中に隠されたまゝ、どこかの古道具屋か、それとも犬の首にかゝつているのですね」青年は顔色を変えて唸るように云つた。

「首環は確かに君の云う通りだと思う」

「え?」青年は眼を瞠って竜太の顔を見上げた。

「首環は確かに君の云う通りだが」竜太は前の言葉を繰り返えママしながら、

「宝石はどうだか分らない」

「えつ、それはどう云う事ですか」

「宝石はもう首環の中にないかも知れぬ。誰かゞ取り出したかも知れぬ」

「えつ、え、それは誰ですか」

「そいつは僕にも確乎分らない。首輪の中に宝石が隠されていたと云う事実さえ、今日漸く判然と気がついたのだからね。だが、僕には一つの推定がある」

「ど、どう云う推定ですか」

「それは高野が何故夜遅くブルドックを連れて外出したかと云う事から出発する」

「――」駒田は腑に落ちないと云う顔をした。

「そうだろう、ね」竜太は納得させる様に、

「ブルドックには大切な宝石が隠されている。その犬を連れて何も夜外出する必要はないだろう。第一夜遅く散歩と云うのも可笑しい。彼は必ず何か必要があつて、ブルドックを連れて行つたのだよ」

「護身用でしょうか」

「いゝや、そんな事ではあるまい。僕の想像では彼は宝石が必要だつたんだ」

「えつ、では誰かに譲る為に――」

「いゝや、隠す為だ。つまり彼は一時彼の隠場所にブルドックの首環を選んだが、余り安全とも思われないし、それに最近に何人かに感づかれた事に気がついたので、もつと安全な場所に隠す為に、夜遅く犬を連れて出かけたのだ」

「そうでしようか」

「そうだと思う。そして前後の事情から察するに、彼が殺されたのは帰り途であつて、出て行く時ではない。だから彼の殺された時には、もう宝石は首環から出されて、安全な場所に隠された後なんだ」

「じや」青年は眼を丸くした。

「宝石はどこかに安全に隠されているんですね。高野を殺した犯人は何も隠されていない首環を一生懸命に探しているんですね」

「うん」竜太は大きくうなずいた。

「あゝ」青年は安心とも気懸りともつかぬような溜息をして呟いた。

「一体どこへ隠されたのだろう」

「その隠場所については」竜太はニヤリとして、

「僕には少し心当りがあるのだ」

「えつ、それはどこですか」青年の眼は輝いた。

「高野の家はこゝから遠くない雑司ヶ谷にあるのだが、彼の家の近所には、広い草原や、小さい丘、雑木林などが可成ある。彼が犬を連れて散歩と称して出たと云う所から見ると、電車に乗つたりするような遠くへは行くまいと思う。先ず今云つたような人気のない所へ、土を掘つて埋めたのだよ。極く原始的な隠し方だね」

「それじや」青年はガッカリしたように、

「分らないのも同様です。そんな漠とした事では手のつけようがありませんもの」

「所が、そうでもない」

「えつ、それでは何か見当がついているのですか」

「うむ、鳥渡来給え」

 竜太は青年の問には答えないで、のつそりと立上つた。青年はおずとその後に従つた。

 竜太は青年を裏口の方に連れて行つた。そこは鳥渡した空地になつていたが、真喑な中で、う、う、うと低い声で物凄く唸りながらゴソ蠢いているものがあつた。それは居間の方で時折聞いた薄気味の悪い声だつたので、駒田はギクリとして立止りながら、すかして見ると、犢程の野獣が太い柱に鎖で繋がれて、口網を被せられて、いきり立つているのだつた。

「な、何ですかツ!」青年は恐ろしさの余り、思わず声高く叫んだ。

「しツ、静かに」竜太は青年を制しながら、

「なに、ゲロネンダルと云ってね、羊の番犬の一種だよ。ハヽヽヽ、狼と犬の合の子でね、云わば山犬さ、可成獰猛だが、無喑に人に危害を加えないから安心し給え」

 駒田は稍安心しながら傍に寄つた。

「大きい犬ですね、どう云う目的で飼つて置くんですか」

「探偵の目的さ。こいつは探偵犬として最良の犬なんだ。曰本で、この犬を持つているのは、まあ僕一人だと思うね。この犬を使つて、宝石の隠場所を探し出そうと思うんだ」

「えつ、この犬で」

「うん、多少訓練して置いたから、きつと成功するだろうと思うんだ。来給え」

 竜太は鎖の一端を持つた。探偵犬はきつと耳を立てゝ、短い舌をチラさせながら、主人を引摺るように、せかと前へ前へと進んで行つた。

 午前二時はとうに済んでいた。宵のうちから危く持ち堪えていた空から、ポツリと雨が落ちて来た。蒸し暑い妙に澱んだような空気が二人の身体を押包んだ。懐中電燈の光で照された野道には草が蓬々と生えていた。

 探偵犬はやがて非常な勢いで、とある雑木林に飛び込んだが、注意深くそこいら中を嗅ぎ廻つた。ものゝ五分間も嗅ぎ廻つていた犬は一本の木の根本をグル廻り出したが、やがて前足で土を搔き出した。

「しめたぞ」

 竜太は犬を傍の木に繁ぐと、用意したショベルで犬の搔いた後を掘り始めた。駒田は不安そうな顔をして、懐中電燈で掘られて行く穴を照らしていた。

 やがて、カチンとショベルの先に堅いものが当つた。竜太はひどく勢いづいて、急いで堀り起したが、それは小さな鉄の函だつた。

 彼はそれを取上げて、土を払う暇もなく、メリとショべルの尖でこじ開けた。中から青い楕円形の断面の卵の少し小さい位の薄べたい石が一つ出て来た。

「何だ」竜太は落胆したように云つた。

「之はたゞの翡翠じやないか」

 と、この時に突然、駒田は脱兎のように竜太に飛ついて、あつと云う間に竜太の手にした翡翠を奪つて、逃げ去ろうとした。が、油断のない竜太にむずと手首を捕まえられて、忽ち彼の怪力に組伏せられて終つた。

「巫山戯るなツ」竜太は一喝した。

「貴様のような色の生白い奴に、鼻毛を拔かれて耐るものか。さあ云え。どうしてこんな只の楕円形の緑の石にそんな値打があるのだ。人殺しをしてまで盗もうと云う奴のあるのはどう云う訳だ。貴様は確かにこの石について、委しい事を知つているに違いない。俺が高野の青い石の話をすると、急に乗気になつたから、何でも青い石の事を知つてる者に違いないと思つて、わざと一伍一什を話して、こうして現場まで連れて来たんだ。さあ、早くこの石にどうして値打があるか云えツ」

「わ、悪うございました。盗んで逃げようとしたのは確かに悪うございました。訳をすつかり申します。ですからどうぞ、その石を私に売つて下さい」

 青年は組敷かれながら、一生懸命に嘆願するのだつた。

「よし、話の次第では売つてもやろう。兎に角、こゝは場所が悪い。宅まで来い」



「私は駒田などと名乗つて居りますが」青年は再び竜太の家の居間に帰ると、改つて話し出した。

「実は朝鮮の人間なのです」

「ふん」

 妖婆のような顔を頰杖で支󠄂えながら聞いていた竜太は意外と云う風にギロリと眼を動かしたが、巨大な鼻に皺を寄せて、後を促した。青年は直ぐ後を続けた。

「私は子供の時から曰本で育ち、御覧の通り言葉も自由自在です。私はこちらの学校を出ました。三年前に郷里に帰りましたが、其時に計ずも郷里始つて以来の大事件が起りました。

 私の郷里は朝鮮の北の方で、二千年の昔高麗王の都した附近の或る淋しい村です。片田舍ではありますが、土地が肥え住民も質朴で、昔から能く富み栄えて居りました。

 村の恰度中程に氏神さまがありまして、村民の崇拝は一通りではありませんでした。その氏神さまに一対の石の狛犬がありまして、その眼には緑色の美しい翡翠が嵌められて居りましたが、一夜何者とも知れず、二つの狛犬の両眼を抉り拔いて盗んで行きました。

 翌朝それを発見した時に、村中は大騒ぎになりました。と申しますのは、前に氏神さまが村中の崇拝を受けている事を申上げましたが、実は氏神さまそのものよりは、この狛犬が崇拝されていたのでした。氏神さまは高麗国二代目の名君で瑠璃王と云つて、恰度西歴の紀元前後の人ですが、この方の建てられたもので、狛犬の眼は当時王室の珍宝だつたのを、特に用いられたものだと云い伝えられ、瑠璃王の名から取つて、瑠璃玉と云い、この王の威徳によつて、村民が安穏に送れると云う事が、確く信ぜられているのでした。

 迷信だと云われゝばそれ切りですが、そこは日本とは遙かに文󠄁化の程度の異つママた朝鮮ですし永い間村中が兵燹にもかゝらず、割合に富み栄えて来たものですから、狛犬に対する信仰は非常なものだつたのも無理はないのです。全く瑠璃玉が二つ盗まれた事が報告された時には、村中色を失つたのでした。

 重ママだつた者は早速会議を開きまして、いかなる犠牲を払つても、取り返えママさねばならぬと決議しました。盗んだ者は、村民は無論の事、近村の者は皆この狛犬の威徳に恐れていますから手を触れる者さえない有様ですので、日本人に相違なく、日本に持つて行かれるに違いないと云うので、捜索には第一に私が派遣される事になり、私は進んでこの至難な仕事を引受けました。云い遅れましたが、私は朝鮮では貴族出なんです。後には私の妹と他に一人の男が援助の為にこちらに送られました。私達三人は二年間、苦心して瑠璃玉の行方を探ねて、少しも効果を挙げる事が出来ませんでしたが、今夜掘り出されたものこそ、正しくその一つなのです」

「ふん」長い物語を聞き終つた竜太は、流石に少し赤銅色の顔に興奮の跡を見せながら、

「で、君は、いや君の村はいくらで玉を買うのかね」

「一つ五万円出して好い事になつています。二つ揃えば十五万円まで出しても好いので、その金は電報一つでいつもママ取り寄せられます」

「どうして新聞に広告して懸賞にして探さなかつたのだね」

「神意を憚つている村の古老達は新聞を利用する事を、絶対に許さなかつたのです」

「宜しい、では取敢ず之を君に五万円で売ろう」竜太は無雑作に云つた。

「後の一つも遠からず買つて貰う事にしよう」

「え、え、在場所が分つているのですか」青年は驚いて訊いた。

「いや、分つてはいないが、あの野波と云う奴と、とく子と云う女が手懸りだ。ちよつ、こんな事と知つたら、野波の奴逃がしてやるのだつた」

「えつ、あの人は何か悪い事をしたんですか」

「刑事が尾行している事は教えてやつたが、多分もう遅かつたろう。彼奴は高野殺害犯人として、もう捕つたろうと思うのだ」

「えつ」

「あいつも案外馬鹿だよ。手袋を嵌めて傷を隠したり、カフエ・オーリアンで、ブルドック事件の話に聞耳を立てたりして、刑事につけられている事を一向知らないのだ。それだから十五万円の儲けをフイにして終うんだ。アハヽヽヽヽヽ」

 竜太は己れの鼻を呑み込もうとするように、巨大な口を開けて哄笑した。

 朝鮮青年は呆然として、彼の顔を見守つていた。

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