琉球國中山世鑑/卷五

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琉球國中山世鑑巻五

嘉靖六年丁亥尚清御即位

尚清ハ尚真第五ノ王子也弘治十年丁巳ニ御誕生字ハ真仁堯樽正徳二年丁卯御歳十壹ニシテ中城王子ト成給三十歳ニシテ御践祚アリ尚真薨御成給ヘシ時郡臣中城王子ヲ御位ニ即奉ントソ議定シケル中城王子宣ケルハ今世子浦添王子雖為亡人其罪虛名也是國人ノ所知也而ルニ吾兄ヲ超テ位ヲ践ン事天理之所不容也尔等不聞ヤ衛ノ蒯聵ハ子トシテ父出公ヲ拒キ齊ノ子糾ハ弟トシテ兄桓公ヲ背テ卒ニ天下ニ悪名ヲ流セリ是皆天理ヲ失者也不如浦添王子ヲ向奉位ヲ進ンニハト理ヲ責テソ辞シ給ケル郡臣モ皆理ニヲレテ此由ラ浦添ヘ奉達シケルニ若王宣ケルニ吾レ少ノ年昔ヨリカゝル夷中ノ栖居ナレハ污俗ニ染事年久如何テカ今野民トシテ父祖ノ跡ヲ續テ禮樂ヲ行ハンヤ且傳云亡人無以為寶仁親以為寶ト今中城王子位ヲ吾ニ讓リ給事嘆ノ中ノ憾タルヘシ又聞泰伯仲雍ハ知父之志而泯其跡伯夷叔齊ハ重父之命而遠去是皆古ノ聖人也ト云ヘリ今吾カ逃竄ルゝ事伯雍夷齊ニ不如シテ世間ノ人知ラルル事ヨ此小國ナル故也ロ惜カリケル事共也若復我者アラハ必ス夷齊カ行ヲ可學トテ固ク辞シ給ケル間此上ハカ不及トテ中城王子即位シ給

御即位ノ翌月正月十六日天神アフキヨノカミヲリサセ給テ御名ヲハ 天継アンチヲスユ末續ノ王ニセイトソ付奉給

嘉靖十三年甲午ノ夏大明世宗皇帝遣正使給事中陳侃副使行人高澄勅封琉球國中山王世子尚清為中山王其詔勅左記

奉 天承運 皇帝詔曰朕恭雍 天命爲天下君凢推行乎庶政必斟酌 夫古禮其於錫爵之典未嘗以海内外而有間焉爾琉球國遠在海濱久被聲教故國王尚真夙紹顕封已踰四紀茲聞薨逝屬國請封世子尚清徳惟克類衆心所歸宜承國統朕篤念懷柔之義用嘉敬順之誠特遣正使吏部左給事中陳侃副使行人司行人高澄齎詔徃封爾為琉球國中山王仍賜以皮弁冠服等物王宜慎乃初服益篤忠勤有光前烈凢國中耆俊臣僚其同寅翼贊協力匡扶尚殫事上之心恪盡臣藩之節保守海邦永底寧謐用弘我同仁之化共享大平之休故茲詔示俾咸知悉

皇帝

嘉靖十壹年八月 日

之寶

皇帝勅諭琉球國故中山王尚真世子尚清惟爾世守海邦継膺王爵敬順 天道世事 皇明爾父尚真自襲封以来恭勤匪懈此者薨逝良用悼傷爾以冢嗣國人歸心理宜承襲茲特遣正使吏部左給事中陳侃副使行人司行人高澄齎詔封爾宜祗承君命克紹先業修職承化保境安土以稱朕柔遠之意欽哉故諭

頒賜

國王

紗帽一頂展角全

金廂犀束帶一條

常服羅一套

大紅織金离背麒麟國領一件

青褡𧞤一件

緑貼裏一件

皮弁冠服一副

七旒皂皺紗皮弁冠一頂旒珠全 事件全

玉圭一枝袋全

五章絹地紗皮弁服一套

大紅素皮弁服一件

素白中單一件

纁色素蔽膝一件玉鈎全

纁色粧花錦綬一件金鈎玉玎璫全

紅白素大帶一條

大紅素紵絲舄一雙襪全

丹礬紅平羅銷金夾包袱四條

紵絲二疋

黒緑花一疋

深青素一疋

羅二疋

黒緑一疋

青素一疋

白氁布一疋

紵絲二疋

黒緑花一疋

深青素一疋

羅二疋

黒緑一疋

青素一疋

白氁絲布十疋

廣運

嘉慶十壹年八月十七日

之寶

於崇元寺行祭禮是始其祭文左記

維嘉靖十二年歳次壬辰 月朔日 皇帝遣正使吏科左給事中陳侃副使行人司行人高澄 諭祭琉球國中山王尚眞曰惟王嗣守海邦四十餘載敬 天事上誠恪不渝宜永壽年為朕藩屏胡為遘疾遽爾告終訃音來聞良用悼惜遣官 諭祭特示殊恩霊其有知尚克歆服

祭品

牛一隻

猪一口

羊一羫

饅頭五分

粉湯五分

蜂糖糕一盤

象眼糕一盤

高頂茶食一盤

響糖五箇

酥餅酥食各四箇

纏碗五箇

降眞香一炷

燭一對重一斤

焚祝紙一百張

酒三瓶

同九月十二日敕使ノ寶船囬朝ノ纜ヲ觧ク護送ノ通事ハ林盛其執照左ニ記

琉球國中山王尚清為護送 天使囬朝事今特差遣通事林盛駕使封王寶船前徃福建地方除外恐無文憑官司盤阻不便今給黄字貳拾一號半印勘合執照付都通事林盛収執前云如遇經過關津把隘去處及沿海巡哨官軍驗實即便放行毋得畱難因而遲悞不便所有執照至出給者

今開

賀使

天使寶船 都通事壹員 林盛 從人伍名

嘉靖十三年八月十一日

天使囬朝為護送事 右執照付都通事林盛准 此

琉球録嘉靖甲午使事紀曰

嘉靖丙戌冬琉球國中山王尚眞薨越戊子世子尚清表 請襲封下禮部議禮部恐其以奚齊奪申生也又恐其以牛易馬也令琉球長史司覆覈其實戒毋誑越辛卯長史蔡瀚等覈諸輿民勳戚同然一辞僉曰尚清乃先王眞之冢嗣立為世子有年矣具文申部宗伯韙之越壬辰春禮部 請差遣徃封給事中為正行人為嗣侃與澄適承乏焉 命下之日時夏五望也六月各 賜一品服一襲侃以麒麟澄以白澤俱大紅紅織金羅為表絹為裏緑羅褡青羅褶子裏亦用絹帶帶以玉則自備又各賜家人口粮四名八月侃等始装戒行越癸巳五月侃至三山澄亦以六月至閩三司諸君承禮部咨文已将過海事宜會裁已定七月二日定■〈舟偏に㥯〉修船十壹月琉球國進貢船至余等憂閩人不諳嘉來得詢其詳翌日又報琉球國船至乃世子遣長史蔡廷美來迓則又喜其不必詢諸貢者而有為之前驅者矣長史進見道世子遣問外又道世子亦慮閩人不善操舟遣看針通事一員率夷稍善駕舟者三十人代為之役則又喜其不必藉諸前驅而有同舟共濟者矣越甲午三月舟始畢工四月十八日舟先発於南臺二十六日予等啓行三司諸君送至南臺酒三行予等起謝曰曩時海國之役必数年始克竣事聞之舟不易成也今未及朞月而有航海之期誰之功也敢不再拜諸君皆歌烝民之詩以贈亦再拜遂別是晚宿于舟中翌日至長樂長史舟亦隨行五月朔余等至广石大舟亦始至二日祭海登舟守廵諸君設宴為䬻是日遂別諸君憢然登舟連日風逆五日始発舟不越数舎而止海角尚浅至八日出海口方一望汪洋矣風順而微波濤亦不洶湧舟不動而移與夷人舟相為先後出艙觀之四顧廓然茫無山際惟天光與水光相接耳雲物變幻無窮日月出没可駭誠一奇觀也九日隠隠見一小山乃小琉球也十日南風甚迅舟行如飛然順流而下亦不甚動過平嘉山釣魚嶼過黄毛嶼過赤嶼目不暇接一晝夜兼三日之程夷舟帆小不能相及相失在後十一日夕見古米山乃屬琉球者夷人鼓舞喜達於家夜行徹曉風轉而東進寸退尺失其故處又竟一日始至其山十三日風又轉而北逆不可行欲泊於山麓險石亂伏於下謹避之長年執舵甚堅與風為敵遂上下於此山之側相持至十四日夕舟剌々有聲若有分崩之勢大桅原非一木以五小木攢之束以鐵環孤高衝風搖撼不可當環断其一衆恐其遂折也驚駭呌囂亟以釘鉗之声少息原舟用釘不足艌麻不密板聯不固罅縫皆開以数十人轆轤引水不能止是時惟長年数人色不少動但云風不足懼速求罅縫而塞之可保無虞於是有倡議者曰風逆則蕩順則安曷回以從順有一人執舵而云海以山為路守此尚可以生失此恐無以救俱衆股慄啼號不止姑從衆以紓其懼旋轉之後舟果不蕩執燭尋罅皆塞之水不能入衆心遂定十六日旦當見古米山至期杳無所見執舵者曰今将何歸余等亦憂之忽遠見一山巔微露若有小山伏於其旁詢之夷人乃曰此葉壁山也亦本國所屬若更從而東即日本矣申刻果至其地泊焉十八日世子遣法司官一員具牛羊酒米瓜菜之物為従者犒通事致詞曰 天使遠臨世子不勝忻踴聞風伯為從者驚世子益不自安欲躬自遠迓國事不能自離謹遣小臣具菜菓将問安之敬余等愛其詞雅受之時余之舟已過王所之東欲得西風爲順夏月誠不易得世子復遣夷衆四千人駕小舟四十艘欲以大纜引余之舟通事乃曰海中變出不測豈宜久淹従者世子不遑寝食謹遣衆役挽舟以行敢告船分左右各維一纜迤邐而行若常山蛇勢亦一奇觀也一晝夜亦行百餘里十九日風逆甚不可以人力勝遂泊於移山之粤法司官率夷衆環舟而宿未嘗敢離左右泊至五日余衆苦之在舟日久鬱陰成疾求登岸以避之而不可得二十四日世子復遣長史来曰世子聞至移山刻期拱候六日不詹中心孔棘恐為従者憂謹遣小臣奉慰余等謝之二十五日方達泊舟之所名曰那覇港計广石登舟至此幾一月矣越既望行祭王礼七月二日封王九月十二日登舟而回泊舟之港出海僅一里中有九曲夾㟁皆石惟滅風而復可行坐守六日王日使人侍于其側至十八日風少息挽舟而出亦斜倚于㟁衆恐其傷於石大敬幸前月親督修艌不為所傷復止二十日始克開洋夷舟同行二十一日颶風陡作舟蕩不息桅舵俱折二十三日黑雲蔽天風又將作卜筊易舵二十六日風大作相與口神風若少緩舟行如飛徹曉已見閩之山矣二十八日至定海所十月初二日入城痛定思痛不覺傷感凢接士大夫叙其所以無不為之慶幸陳侃記

嘉靖十四年乙未ノ春大明ヘ封王謝恩ノ使者有リ其執照左ニ記

琉球國中山王尚清為謝 恩等事今特遣王舅毛實同長史蔡瀚等齎 捧 表文一通坐駕星字號船及護送小船共貳隻装載金靶鞘腰刀貳把銀靶鞘腰刀貳把紅漆螺鈿鞘鍍金銅結束衮刀貳拾把紦紅漆螺鈿鞘鍍金銅結束腰刀貳拾把紅漆鞘鍍金銅結束腰刀四十把黒漆鞘銅結束腰刀八十把鍍金銅結束線穿鐵甲壹領鍍金銅線穿手套壹付線穿鐵護腿一付貼金鐵護腿壹付頭盔壹頂金箔彩畫屏風壹對両面泥金扇貳佰把泥金水墨畫扇貳佰把貼片金水墨畫扇壹佰伍十把貼金穿馬鐵甲二付貼金馬鐵面二箇象牙伍佰觔束香貳佰觔檀香二佰觔赴 京謝 恩所據今差去人員別無文憑誠恐所在官司盤阻不便王府除外給黄字二十號半印勘合執照付通事梁梓林喬等収執前去如遇經過關津把隘去處及沿海廵哨官軍驗實即便放行毋得畱難因而遲悞不便所有執照須至出給者

今開 赴 京

王舅壹員 毛實 人伴壹拾名

長史壹員 蔡瀚 人伴壹拾名

使者臺員 沈布理 人伴伍名

都通事臺員 梁梓 人伴叁名

存畱在船使者壹員賈滿度 從人貳名

官船火長直庫貳名紅芝 志羅勃是

消水共柒拾五名

坐駕護送小船使者壹員銭林 從人二名

坐駕護送小船通事壹員林喬 從人二名

消水共陸拾肆名

嘉靖拾肆年貳月初捌日 右執照付通事梁梓林喬等准 此

為謝 恩等事

嘉靖十五年丙申正月七日立元子中城王子為世子若王

嘉靖十六年丁酉正月癸卯大明皇三子御誕生是為穆宗皇帝此秋琉球國中山王尚清遣正議大夫陳賦同長史蔡廷美使者叁員高志邁治剌 壽達路 通事貳員 林喬梁顕等為進貢慶賀等事

嘉靖十四年ノ比ヨリ北夷大嶋謀叛ノ由聞得ケル間王大ニ逆鱗有テ先時尚徳ノ佳例ニ任セ征伐セントテ自ラ三軍ノ大将トシテ五十餘艘ノ大船ヲ浮テ同十六年丁酉二月十三日御渡海ノ纜ヲソ觧給同日申刻運天湊ニ御着岸爰ニテ渡海ノ順風ヲ作リ同十六日運天ヲ御出船同十八日五十余ノ艘船無恙大嶋名勢ノ津ニソ着セ給逆徒等一戦ニモ不及皆頸ヲ延降テ参ラソ致シケル去程ニ上一人ヨリ下士卒ニ至マテ今度ノ軍ハ手コハカラント思居タル處ニ以ノ外ニ相遠シテ一戦ニモ不及事是則君ノ聖徳ニ感テノ事ナル昔舜舞于階庭苗國ノ格義也ト群臣萬歳ノ壽ヲソ奏シケルサテ嶋ノ仕置等御定有テ聽テ還御アルヘカリシ二三月初ノ比ヨリ君御異例ノ心地御坐ケレハ典藥ノ頭キノ藥キハノ藥スゝメ御祈ノ僧共肝膽ヲ碎テ禱レトモ無験日ニ増御病重ナハリ已ニ危ク見ヘサセ給ケル間上下萬民アハテサハキ仰天スル事無限爰ニ三司官國頭申シケルハ私ニ聞金藤文ハ周武王克商二年王有疾周公以王室未安殷民未服根本易搖故謂命三王欲以身代武王之死其翌日王疾瘳ト云ヘリ今我君夷邦ヲ静ンカ為ニ千山萬水ヲ淩キ遙臨幸ニテアルニ不幸ニシテ萬ニ一ツヲモ薨御シ玉ハハ逆徒等却テ戈ヲ倒ニセン事無疑是則大乱ノ基タルヘシ臣レシテ君ノ死ニ代ルハ常ノ義也トテ大ニ沐浴シテ上天神ニ告シ下海神ニ禱リ懇誠ヲ尽シ王ノ死ニ代ン事ヲ請ケレハ其感應天ニヤコタヘケン其翌日ヨリ王ノ御疾日ニ増减アツテ三月末ノ比ニハ平愈シ玉ヘケル間群臣喜悦ノ眉ヲソ開ケル去程ニ四月中旬彼津ヲ御出船同十二日無恙那覇港ニ御帰朝シ給コソ目出度ケレ其日ヨリ國頭心地例ナラスシテ七月二十六日卒ニ死玉フソ哀ナリ去程ニ君大ニ哭泣シ給ヘテ宣ケレハ生我者父母成我者國頭也今ノ死ハ是天命ニ非ス我カ死ニ代レリトテ謚ヲ一翁寧公ト賜リ忝モ君臨幸成玉ヘテ形ノ如ク葬禮ヲ取営寶口二ソ葬シメ玉フ三年ノ喪終彼墓ニ僧ヲ遣シ後覧ノ為ニトテ石碑ヲ立其記曰

寶口一翁寧公墓之碑文

惟以 一翁寧公者禮儀以兮君臣忠信以為經緯治二代之朝其政稱當時之賢明故國王如任文武之周公兩漢之鄧禹平常愛吾數輩厚如子弟其幼則教以洒掃應對進退節其長則勧以禮樂射御書数之文生我者父母成我者公乎其思無計也公逝矣已届三囬以纖埃欲報山岳何以為之不憑覚皇乎修薦亡之溟福越請梵侶誦經咒次創造石浮圖一尊為令上品生成佛果也加之有一轉語云層々落々三摩耶形這裡證入諦聽云云

于旹嘉靖十捌秋己亥七月吉日

前圓覺興龍雲謹撰

其ヨリシテ英世公位傳リ今ノ國頭王子瑞翁金忠ハ六世ノ後胤也カクノ如ラ代々名子賢孫出来スル偏ニ一翁寧公ノ懿徳ヨリ流出スルモノ也サレハ積善家有餘慶ト云其此謂之乎

嘉靖十八年己亥大明皇帝冊立元子為皇太子去程ニ同ニ二十年辛丑ノ春琉球國中山王尚清遣王舅殷魯同正議大夫蔡瀚使者金松通事林喬為進貢慶賀等事其執照左ニ記ス

琉球國中山王尚清為進 貢慶 賀等事今特遣王舅殷魯同正議大夫蔡瀚等齎捧 表箋文各壹通坐駕本國小船壹隻装載馬四疋硫黄一萬觔并金靶腰刀二把銀靶腰刀二把鍍金銅結束紅漆靶鞘衮刀一十六把鍍金銅結束紅漆鞘沙魚皮靶腰刀一拾把象牙二佰觔赴 京 進賀 御前又金結束黒漆鞘沙魚皮靶腰刀二把鍍金銅結束紅漆靶鞘衮刀一十二把鍍金銅結束紅漆鞘沙魚皮靶腰刀一十把両面泥金扇一佰把一面泥金扇壹佰把進 賀 正位東宮所據今差去人員別無文憑誠恐所在官司盤阻不便王府除外給黄字肆拾壹號半印勘合執照付存畱在船通事蔡廷會等収執前去如遇經過關津把隘去處及沿海廵哨官軍驗實即便放行毋得畱難因而遲悞不便所有執照須至出給者 今開赴 京

王舅壹員 殷達魯 人伴拾名

正議大夫壹員 蔡瀚 人伴拾名

使者壹員 金柗 人伴伍名

都通事壹員 林喬 人伴叁名

存畱在船使者貳員 馬加泥 宋能

人伴肆名

存畱在船通事壹員 蔡廷會 人伴貳名

官船火長直庫貳名 田祥 戴剌

稍水共壹佰壹拾七名

嘉靖貳拾年正月拾貳日

為進 貢慶 賀等事

右執照付正議大夫蔡瀚及通事蔡廷會等准此

嘉靖二十二年癸卯二月二十日ヨリ冕嶽ノ路石普請始リ同六月二十二日其功畢ル其記曰

かたのはなに立申さ

首里天の御みるおがみ申みちつくりまつうへ申ひのもん

大琉球國中山王尚清はそんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいをつぎめしよわちへ

天より王の御名賜ば天つぎにせとさづけめしよわちへ御いはい事かぎりなし王がなしはひまれながらむかしいまの事をさとりめしよわちへ天下をおさめしよわゐ事むかしもろこしのていわう尭舜の御代にさたりしかれば御たかべめしよわるわりありだいりよりひがしにあたりてべんのおたけといふこれは

きこゑ大きみがみほとけの御あそびめしよわゐところあめふゐときはどろつちふかさあるけに 國王の御み事にみちをつくりまつをうへれとの 御み事をおがみくにのあんじべあすたべ大やくもいたさとぬしべげらいあくかべこゝろ一つにあわせちからきそへいしをはめまつをうへればみちはきよらかにまつはすゝし一すぢのみちに千両の金を人々みおほけにあひ申さ嘉靖二十二年みづのとのう六月二十四日ひのとのとりのへにきこゑ大きみきみのおれめしよわちへ天つぎ王にせのあんじおそいがなしみ御みつかひめしよわちへあままあわしめしよわちへ御ほにりめしよはちやことおもひぐわべくにのあんぢべあすたべ大やくもいた里主部げらへあくかべそろてみはいおがみ申さおゑ人わか人めどもわらんべにいたゐまでよるもひるも御たかべし申さねがひ事かなひよろこびたのしむ事かぎりなし

大明嘉靖二十二年みづのとのう八月吉旦

世あすたべ三人 大さとの大やくもいまふとかね
さすゝの大やくもいいゐたるかね
みや平の大やくもいまいくさかね
ふきやう一人 花城の大やくもいまいら

同石碑後面記

冕嶽修路碑文

大琉球國中山王尚清自從 舜天降来二十一代之王孫天賜聖號為天下諸自然神聖通達古今睿智聡敏視徳惟明生知法式一一似華勛風雨晦明無不順從并包畜養無異細鹿億載萬年有冨無貧大丈志期適當今辰天長地久呼萬歳三矣爰有峨々高峯冠千諸峯號 冕嶽其嶺茂樹叢生其枝葉婆娑然類翠鳳張俄是乃神仙來賁降遊之霊地也然則上自 國王大臣公卿大夫下至道俗尊卑男女貴賤如泰山北斗瞻之仰之晨夕粛詣瀝丹精致敬信或献花或焼香曰福曰寿曰官曰禄靡願而不咸莫感而不彰矣其嶽麓有高低屈長路卑則路背把圻而跋前疐後衆人徃還不輕利馬牛馳難擧蹄雨則泥濘深厚而躋天跼地老幼來復不自由燕雀語如突人也由是 國王敕教公卿大夫大臣百官庶人等甃小石脩路植稚松蔭凉各々欽奉敕宣勠力同心穿鑿地破裂石分得林栽培松無朝無暮忙經始之豁開一路擲下千金路無凹凸無狹小垣平也松鳴凉風玉琴卓秀也人々徃還嬉戯遊樂無極也其文曰

邦幾千里 聖躬萬歳 甃石修路

記太平地 植松蔭凉 仰漢武帝

達天大願 比海弘誓 琢詞斯石

継慶末裔

大明嘉靖二十二年龍集癸卯八月仲浣大吉

日建立

日本南禪琉球国圓覺精舍釈楹溪老衲全叢謹 撰

嘉靖二十二年癸卯十月八日世子若王中城王子尚禎行年二十一シテ薨シ玉マ其後世子不定

嘉靖二十三年甲辰六月廿日世纉ノ石墻普請被仰出閏廿五日ヨリ始リ

嘉靖廿四年乙巳八月十九日天神キミテスリ出現有テ尚清王ノ御即位ノ壽ヲソシ給ヘケル其壽祝ノラモロ左ニ記ス

一 きこゑ大きみぎや すゑゑらびやりおれわちへ あんぢおそいしゆ きみぎやせぢもちよれ

とよむせだかほが ませねがておれわちへ

いけなきみそろゑて なりきよがみあとゑて

としやとせなるぎやめ おぼつだけおきつめ

ゑかやとせなるぎやめ かぐらだけおきつめ

あんじおそいがおとと きみてづりまどうさ

わらにせがこと みものあすびまどうさ

大さきたそそへて もりやへあたあとへて

きみいきよいあのめ ぬしつれいあのめ

つかひてゝよしられ おこととてよしられ

あかくちやがよいつき おぼつだけとよで

あんぢおそいがおこと 大きみにしなて (あぢ)

嘉靖二十四年八月十九日

つちのとのとりのへのとらの時に

きこゑ大きみのみ御まへよりもゝかほうまとの時に給ひしかぐらとよでのふし

一 きこゑ大きみぎや とよむせだかこが さしぶおれわおちへ

おぼつゑかとりよわちへ だしまきらなおちへ

かぐらゑかとりよわちへ だきよりきらなおちへ

あんしおそいがおまと わらにせがおこと

大きみはのだてゝ きみはのだそゝ

あきとあわちへおがま みきやうあわちへてづら

あかくちやがよいつき せらちへんにとよで

けらへ大ごろた あんぢおそいによしられ

きみもほまて ぬしもほ〻て

嘉靖二十五年丙午七月廿八日世纉石墻普請功畢ル其記左ニ記ス

すゑつぎ御門の南のひのめん

首里の王天つぎわうにせのあんじおそいがなし天のみおみ事にすゑつぎの御ちやう御いしかきつみ申す時のひももん

首里天つぎのあんぢおそいがなし天のみ御事御ぐすくの御いしがき きよらさちよさあれども 御くすくのこしめを はいおもをのひとへにありよるけに

首里の御世の御さうぜめしよわちへ御いしれきつませそゝみ御み事おがみゆてくにのあんじべ三はんの親かたべたをとむしべけらへあくがべまくより上下又おくとより上宮古八重山のおゑか人大小の人々そろを御いしがきつみ申せ御いしがきのねたとのふかさは二尋あつさは五尋たけは十尋なげは弍百世尋につみみちへて御くらともにげらへ申す

嘉靖二十五年ひのへむまの年八月一日みづのとのとりのへにきこゑ大きみききみのおれめしよわちへまらはらいの時に御みせゝ御たぼひめしよわちへ首里森はたま森げらへてくもこたけ世つぎたけおりあけわちへつみあけわちへ世のこしあをあおりやたけおりあげわちへつみげわちべすゑつぎのもものいちやぢやげらへわちへ御いわひめしよわちへ御おもろ御たぼひめしよわちや事おもひぐわべくにのあんじべ大やくもいたさとぬしべげらいあくかべこくより上下おくと上り上みやまやへまのおゑか人しまともにみはいおかみ申すまた九月三日ひのとのみのへにまるやの大ぬしきみぎみの御のぼりめしよわちへ

首里天つぎのあんぢおそいがなしみおみつかひめしよわちへ御ゆわひめしよわちへ御おもろ御たぼいめしよわちやことそろてみはいおがみ申す又ちやうらうそうたちそるて御いこがきの御くやうの御ゆはひ申すまの御いしがきつみ申すあいだは日このみおぼけは数しらず月こにおゑかおがみ申すみはいは

首里天つぎのあんぢおそいがなし天のともゝととひやくさとみはいおがみ申す

嘉靖二十五年ひのへむま十二月三十日にしるし申す

世あすたべ三人 かきはの大やくもいしほたるかね
かうちの大やくもいたるかね
くにかみの大やくもいしほたるかね
奉行三人 ぢやなの里主さぶろ
はな城里主すさかい
まぶに里主まさぶろ

添継御門北之碑文

新築石墻記

大琉球國中山府首里邑 今上國王尚清自從大祖舜天降来二十一世之王孫也洪惟 聖朝大統八紘撫育天下列祖継志丕承鴻業祖述唐虞三代之道以致雍熈至治之化威光同柔風之偃樹林恩渥如時雨之潤大地偉哉盛哉

大明嘉靖二十三祀甲辰擇紘林鐘二十日丁亥於大吉辰 國王綸旨蒙大臣官長也夫首里禁城之石墻西北自徃古二重築以銀山鉄壁堅牢也東南石墻一重築以高聳遠曲浅薄也石墻一重築以新欲加添之思慮鏤之肝肺刻之心腹年久于茲奈之何然則自天子之元子衆子至公卿大夫之元子適子與百姓凡民瑣瑣碌々不勞遠近不説寒暑無盡無夜于晨于夕簪星戴月梳風浴雨異躰同心擧世倡之勉旃寵嵸䊹鬱之山穿之朦朧幽暗之洞鑿之則磐石碌石恣点頭涌出也然則肩之有擔者率之有曳者攸積集硆々石彷彿山岳也数員之石匠雕斵之切磋之或規之矩之無寸陰之怠慢其鉞斧之者響恰侶金春玉應也築之甃之其高五丈其厚二丈長二百三十尋也其石垣形勢譬如衆星之共北辰也自甲辰歳林鐘浣經之営之漸々積功至丙午歳盛夏上浣全脩圜成矣伏以 聖主恩賜金銀穀財帛衣食茶果酒肴不撰尊貴長幼不捨卑賎老弱平均施與之各々衆等不勝戰慄之至頎首百拝仰祝 聖壽之無疆以祈國家之有道克慕仁政永娛壮観宣哉

大明嘉靖二十五年祀龍泉丙午仲秋八月大吉日立之 三司 賀那把大臣塩太郎加称河内大臣何毎太郎國頭大臣塩太郎加称奉行奢那主司思五郎花城主司麻左介麻勃尼主司麻三郎

扶桑南禪球陽圓覺檀溪老衲全叢謹記之

嘉靖二十六年丁未八月四日ヨリ大美御殿普請始リ同廿七年戊申十二月十二日造営ノ功畢ル此大美御殿ト申スハ古ヨリ雖無之尚清王睿慮ヲ被廻宣ケルハ我朝ハ神國ニテ天神海神出現ノ時ハ禁裏ニテ遊記ナレバ禁裏是潔戒スヘキノ地ナリ法程ニ禁裏ニテ王子王女誕生ナトモ穢污ニヤ成リヌラン依テ今新ニ殿ヲ作ヲ産所トハ定ナリ是亦敬神ノ一ナリ我後世ニ至テ夫人女子宮女等共菩提寺ニ来ランモ難カルヘシ只御殿ニテ三年ノ喪或ハ春秋ノ祭ヲ吊ヘシ我孫子継世ノ程ハ此法不可變是我本意也ト遺詔ヲノコシ給ヘケル間其後相續此礼今ニ有リ後ノ君臣慎終〻〻

嘉靖二十八年己酉十月十三日

一 きこゑきみがなしさしぶおれかわて志よりもりおれわちへまさいきよもいしよ君ぬさをちよわれ

とよむきみがなしむつきおれなおちへまたまもりおれはちへなさいきよもいしよ君ふさをちよわれ

なさいきよもいあんぢおそいみまぶてすおれたれ

あがかいぬであんぢおそいかひなでゝすおれたれ

てゐかははのだてゝすへとめておれわちへ

てゐしのはのだてゝませとめておれわちへ

なさいきよもいあぢおそいしよりもりちよわちへ大きみにしなわ

一 きこゑきみななしいけななりかわて志よりもりおれわちへなさいきよもいにしまがいのちみおやせ

とよむきみがなしなりきよおれかわてまだまもりおれわちへ

さしふいつゝころにすゑとめておれわちへ

むつきてころにみまぶてすおれたれ

なさいきよもいあぢおそいおよりとておれわちへ

あかかいなであぢおそいみまぶてすおれたれ

てゐかわがうざし志ゆこのきらにおれわちへ

きみてつりのもゝかほうことの時にきみがなしの御まへより給す

嘉靖二十八年十月十三日つちのとのとりのへのうまのときに

嘉靖三十年辛亥三月五日海神かゝリ新出現同年十月二日ヨリ弥良坐森城石普請始リ同三十二年癸丑四月二十八日其功終其記曰

ゑらさもりにたち申ひのもん

琉球國中山王尚清天つぎわうにせあんぢおそいがなしのみ御み事くにのやうしとまりのかくごのためにやらさもりのほかにぐすくつませてゝおがでくにのあんぢへ三ばんの里主部げらへあくかべかみしも地はなれそろてがらめちへぐすくつみつけてゝみおやしちやれば嘉靖三十二年みづのとのうし五月四日つちのとのとりのへにきこゑ大君きみのおれめしよわちへまうはらいめしよわちやゐみせゝるにやらざもりむへざもりいしらごはましらごはおりあげわちへつみあげわちへみしまよねんおくのよねん世そふもり國のまてやぬらへわちへこのみよわちへだしきやくぎついさしよわちへあさかがねとゞめわちへまうはつてみよはらててゝいのりめしよわちやるけにともゝすゑせいくさよせらやいてゝと

わうがなしもみはいおがみめしよゐかみしものあんじげすそろて千夢のみはいおがでありまたちやうらうはうすたそうてぢかためのちよばひしめさしよわるおきな八の天ぎやしたは

きこゑ大きみの御せぢのみまぶりめしよわるけにむかしからいくさかぢよくのきちやることはなきやものやれとも御世の御さうぜ國のやうじのためにいきやてゝいよことのあら時やみばん の御真人一ばんのせいやしよりの御佛の御まぶり一はんのせいやなはのばん一はんのせい又はゑはらしまおをい大ざとちへねんさしきしもしましりぎやめのせいやかきのはなちやらざ もりぐすくによりそろてみおやだいりおがむやに御さだめめしよわちやゐみ御み事はしま世のてやちきやらねいしまいしのやにいつぎやめしいぎよくまじくるうまじ

大明嘉靖三十三年六月大吉日

世あすたべ三人 ぐすくまの大やくもひまいくさ
うちまの大やくもひまとく
こちひらの大やくもひまうし
奉行一人 かつれんの大やくもひまふと

ゑらざもりくすくのかくご又ねたてひがわのみづのかくごは三人おろくの大やくもいぎまの大やくもひかなぐすくの大やくもひいつぎやめむちよくかたくかくごするべし

嘉靖三十四年乙卯六月二十五日 尚清王在位二十九年壽五十九ニシテ薨御成給第二王子嗣立給是為中山王尚元

琉球國中山世鑑巻五 終


此書素無有扣恐或有白蟻之害或有朽爛之事遂失徃昔之由来矣特此由稟明上司新脩為扣焉

大清嘉慶二十一年丙子仲冬

御系圖中取 文氏玉代親雲上孝宜
白氏羽地里之子親雲上朝矩
豊氏翁長里之子親雲上元英
同奉行 馬氏内間親方良倉
向氏大山按司朝恒
尚氏美里王子朝規