「十七条憲法」の版間の差分

提供:Wikisource
削除された内容 追加された内容
60.105.244.220 (トーク) による版 188158 を取り消し
タグ: 取り消し
タグ: 置換 差し戻し済み
22行目: 22行目:
一に曰はく、和を以て{{ruby|貴|たつと}}しと為し、{{ruby|忤|さから}}ふこと無きを宗と為す。人皆{{ruby|党|たむら}}有りて、亦達者少し。是を以て或は君父に{{ruby|順|したが}}はずして、{{ruby|乍|たちま}}ち隣里に{{ruby|違|たが}}ふ。然れども上{{ruby|和|やはら}}ぎ下{{ruby|睦|むつ}}びて、事を{{ruby|論|あげつら}}ふに{{ruby|諧|ととの}}へば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらむ。
一に曰はく、和を以て{{ruby|貴|たつと}}しと為し、{{ruby|忤|さから}}ふこと無きを宗と為す。人皆{{ruby|党|たむら}}有りて、亦達者少し。是を以て或は君父に{{ruby|順|したが}}はずして、{{ruby|乍|たちま}}ち隣里に{{ruby|違|たが}}ふ。然れども上{{ruby|和|やはら}}ぎ下{{ruby|睦|むつ}}びて、事を{{ruby|論|あげつら}}ふに{{ruby|諧|ととの}}へば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらむ。


二に曰はく、{{ruby|篤|あつ}}く{{ruby|三宝|さんぼう}}を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち{{ruby|四生|ししやう}}(胎生、卵生、湿生、化生の称、凡べての生物をいふ也)の{{ruby|終帰|しうき}}、万国の{{ruby|極宗|きょくそう}}なり。{{ruby|何|いづれ}}の世、{{ruby|何|いづれ}}の人か{{ruby|是|こ}}の{{ruby|法|のり}}を貴ばざる。人{{ruby|尤|はなは}}だ悪しきもの{{ruby|鮮|すくな}}し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰せずんば、何を以てか{{ruby|枉|まが}}れるを直さむ。
二に曰はく、{{ruby|篤|あつ}}く{{ruby|三宝|さんぼう}}を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち{{ruby|四生|ししやう}}(胎生、卵生、湿生、化生の称、凡べての生物をいふ也)の{{ruby|終帰|しうき}}、万国の{{ruby|極宗|きょくそう}}なり。{{ruby|何|いづれ}}の世、{{ruby|何|いづれ}}の人か{{ruby|是|こ}}の{{ruby|法|のり}}を貴ばざる。人{{ruby|尤|はなは}}だ悪しきもの{{ruby|鮮|すくな}}し。能く教ふるをもて従
三に曰はく、{{ruby|詔|みことのり}}を{{ruby|承|う}}けては必ず謹め。君をば{{ruby|天|あめ}}とす。{{ruby|臣|やつこら}}をば{{ruby|地|つち}}とす。天{{ruby|覆|おほ}}ひ地載す。四時{{ruby|順|よ}}り行き、{{ruby|方気|ほうき}}{{ruby|通|かよ}}ふを得。地天を{{ruby|覆|くつがへ}}さんと欲するときは、則ち{{ruby|壊|やぶれ}}を致さむのみ。是を以て君{{ruby|言|のたま}}ふときは臣{{ruby|承|うけたまは}}る。上

三に曰はく、{{ruby|詔|みことのり}}を{{ruby|承|う}}けては必ず謹め。君をば{{ruby|天|あめ}}とす。{{ruby|臣|やつこら}}をば{{ruby|地|つち}}とす。天{{ruby|覆|おほ}}ひ地載す。四時{{ruby|順|よ}}り行き、{{ruby|方気|ほうき}}{{ruby|通|かよ}}ふを得。地天を{{ruby|覆|くつがへ}}さんと欲するときは、則ち{{ruby|壊|やぶれ}}を致さむのみ。是を以て君{{ruby|言|のたま}}ふときは臣{{ruby|承|うけたまは}}る。上行へば下{{ruby|靡|なび}}く。故に詔を承けては必ず慎め。謹まざれば自らに敗れむ。

四に曰はく、{{ruby|群卿|まちぎみたち}}{{ruby|百寮|つかさづかさ}}、礼を以て本と{{ruby|為|せ}}よ。其れ民を治むる本は、要は礼に在り。上礼無きときは下{{ruby|斉|ととのほ}}らず。下礼無きときは以て必ず罪有り。是を以て君臣礼有るときは、位の{{ruby|次|つぎて}}乱れず。百姓礼有るときは、{{ruby|国家|あめのした}}自ら治まる。

五に曰はく、{{ruby|饗|あぢはひのむさぼり}}を絶ち、欲を棄て、明に{{ruby|訴訟|うつたへ}}を弁へよ。其れ百姓の{{ruby|訟|うつたへ}}は一日に千事あり。一日すら尚{{ruby|爾|しか}}り。況んや歳を{{ruby|累|かさ}}ぬるをや。須らく訟を治むべき者、利を得て常と為し、{{ruby|賄|まひなひ}}を見て{{ruby|讞|ことわり}}を{{ruby|聴|ゆる}}さば、{{ruby|便|すなは}}ち{{ruby|財|たから}}有るものの訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏しき{{ruby|者|ひと}}の訟は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民、則ち{{ruby|所由|よるところ}}を知らず。臣道亦{{ruby|焉|ここ}}に於て{{ruby|闕|か}}けむ。

六に曰はく、悪を{{ruby|懲|こら}}し善を勧むるは、古の{{ruby|良|よ}}き{{ruby|典|のり}}なり。是を以て人の善を{{ruby|慝|かく}}すこと無く、悪を見ては必ず{{ruby|匡|ただ}}せ。若し{{ruby|諂|へつら}}ひ{{ruby|詐|いつは}}る者は、則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つ鋒剣たり。亦{{ruby|侫媚者|かたましくこぶるもの}}は、上に{{ruby|対|むか}}ひては則ち好みて下の過を説き、下に逢ては則ち上の{{ruby|失|あやまち}}を{{ruby|誹謗|そし}}る。其れ{{ruby|如此|これら}}の人は、皆君に{{ruby|忠|いさをしきこと}}{{ruby|无|な}}く民に{{ruby|仁|めぐみ}}無し。是れ大きなる乱の本なり。

七に曰はく、人各{{ruby|任掌|よさしつかさど}}ること有り。宜しく{{ruby|濫|みだ}}れざるべし。其れ賢哲官に{{ruby|任|よさ}}すときは、{{ruby|頌音|ほむるこゑ}}則ち起り、奸者官を{{ruby|有|たも}}つときは、禍乱則ち繁し。世に生れながら知ること少けれども、{{ruby|尅|よ}}く{{ruby|念|おも}}ひて聖を{{ruby|作|な}}せ。事大小と無く、人を得て必ず治む。時急緩と無く、賢に遇ひて{{ruby|自|おのづか}}ら{{ruby|寛|ゆたか}}なり。此に因て国家永久、{{ruby|社稷|しやしよく}}危きこと無し。{{ruby|故|か}}れ古の聖王、官の為に以て人を求む、人の為に官を求めたまはず。

八に曰はく、群卿百寮、早く{{ruby|朝|まゐ}}り{{ruby|晏|おそ}}く{{ruby|退|まか}}でよ。公事{{ruby|監|いとま}}{{ruby|靡|な}}く、{{ruby|終日|ひねもす}}にも尽し難し。是を以て遅く{{ruby|朝|まゐ}}れば急に{{ruby|逮|およ}}ばず。早く{{ruby|退|まか}}れば必ず事{{ruby|尽|つく}}さず。

九に曰はく、信は是れ義の本なり。事{{ruby|毎|ごと}}に信有れ。若し善悪成敗、要は信に在り。君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。

十に曰はく、{{ruby|忿|いかり}}を{{ruby|絶|た}}ち{{ruby|瞋|いかり}}を棄て、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼{{ruby|是|ぜ}}なれば吾は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ{{ruby|凡夫|ぼんぶ}}のみ。是非の理、誰か能く定む可き。相共に賢愚、{{ruby|鐶|みみがね}}の端{{ruby|无|な}}きが如し。是を以て彼の人は{{ruby|瞋|いか}}ると雖も、{{ruby|還|かへつ}}て我が{{ruby|失|あやまち}}を恐る。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同く{{ruby|挙|おこな}}へ。

十一に曰はく、功過を{{ruby|明察|あきらか}}にして、賞罰必ず当てよ。{{ruby|日者|このごろ}}、賞功に在らず、罰{{ruby|罰|つみ}}に在らず。事を執れる群卿、宜しく賞罰を明にすべし。

十二に曰はく、{{ruby|国司|みこともち}}{{ruby|国造|くにのみやつこ}}、百姓に{{ruby|歛|をさめと}}ること勿れ、国に{{ruby|二君|ふたりのきみ}}{{ruby|非|な}}く、民に{{ruby|両主|ふたりのぬし}}無し、{{ruby|率土|そつと}}の兆民、{{ruby|王|きみ}}を以て{{ruby|主|しゆ}}と為す。{{ruby|所任官司|よさせるつかさみこともち}}は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て{{ruby|公|おほやけ}}と{{ruby|与|とも}}に百姓に{{ruby|賦斂|をさめと}}らむ。

十三に曰はく、{{ruby|諸|もろもろ}}の{{ruby|任官者|よさせるつかさびと}}、同じく{{ruby|職掌|つかさごと}}を知れ。或は{{ruby|病|やまひ}}し或は{{ruby|使|つかひ}}して、事に{{ruby|闕|おこた}}ることあり。然れども知るを得ての日には、{{ruby|和|あまな}}ふこと{{ruby|曾|さき}}より{{ruby|識|し}}るが如くせよ。其れ{{ruby|与|あづか}}り{{ruby|聞|き}}くに非ざるを以て、{{ruby|公務|まつりごと}}を{{ruby|防|さまた}}ぐること勿れ。

十四に曰はく、群卿百寮、{{ruby|嫉|そね}}み{{ruby|妬|ねた}}むこと有る{{ruby|無|なか}}れ。我既に人を嫉めば、人亦我を嫉む。{{ruby|嫉妬|しつと}}の患、其の極りを知らず。{{ruby|所以|ゆゑ}}に智己れに{{ruby|勝|まさ}}れば、則ち悦ばず。才己れに{{ruby|優|まさ}}れば、則ち{{ruby|嫉妬|ねた}}む。是を以て{{ruby|五百|いほとせ}}にして乃ち{{ruby|賢|さかしびと}}に遇はしむれども、{{ruby|千載|ちとせ}}にして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば、何を以てか国を治めむ。

十五に曰はく、私を背いて公に向くは、是れ臣の道なり。凡そ{{ruby|夫人|ひとびと}}私有れば必ず{{ruby|恨|うらみ}}有り、{{ruby|憾|うらみ}}有れば必ず{{ruby|同|ととのほ}}らず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。{{ruby|憾|うらみ}}起れば則ち{{ruby|制|ことわり}}に違ひ{{ruby|法|のり}}を{{ruby|害|やぶ}}る。故に初の{{ruby|章|くだり}}に云へり、上下{{ruby|和諧|あまなひととのほ}}れと。其れ亦{{ruby|是|こ}}の{{ruby|情|こころ}}なる{{ruby|歟|かな}}。

十六に曰はく、民を使ふに時を以てするは{{ruby|古|いにしへ}}の{{ruby|良典|よきのり}}なり。{{ruby|故|か}}れ冬の月には{{ruby|間|いとま}}有り、以て民を使ふ可し。春{{ruby|従|よ}}り秋に至つては、{{ruby|農桑|たつくりこがひ}}の{{ruby|節|とき}}なり、民を使ふ可らず。其れ{{ruby|農|たつく}}らずば何を以てか食はむ。{{ruby|桑|こが}}ひせずば何をか{{ruby|服|き}}む。

十七に曰はく、夫れ事は独り{{ruby|断|さだ}}む可らず。必ず{{ruby|衆|もろもろ}}と{{ruby|与|とも}}に宜しく{{ruby|論|あげつら}}ふべし。少事は是れ軽し、必ずしも{{ruby|衆|もろもろ}}とす可らず。唯大事を{{ruby|論|あげつら}}はんに{{ruby|逮|およ}}びては、若し{{ruby|失|あやまち}}有らんことを疑ふ。故に衆と{{ruby|与|とも}}に相{{ruby|弁|わきま}}ふるときは、{{ruby|辞|こと}}則ち理を得。

<!-- 著作権存続中のためコメントアウト
== 口語訳 ==
第一に、なかよくすることが、なにより大切である。さからはないのが{{ruby|肝心|かんじん}}である。{{ruby|人|ひと}}はみんな{{ruby|仲間|なかま}}をくみたがるが、胸のひろいものが少ない。で、なかには君に背き、親にさからひ、隣近所の嫌はれものになつてしまふものなどもある。けれども、上のものと下のものとが、仲よくしあつて、むつびあつて、よく相談しあへば、物の道理、仕事のすぢみちがよくたつて、何でも成就しないことはない。

第二に、よくよく三つの寶をたつとばねばならぬ。三つの寶といふのは、佛と法と&#64049;とである。この三つのものは、一切の生物の心の最後のよりどころであり、すべての國國の政治の大切な根本である。いつの時代でも、いかなる人でも、此のをしへを大切にしないものはない。凡そ人間といふものは、非常な惡人といふものは無いものである。敎へみちびいてゆきさへすれば、必ず善くなるものである。それにつけても、三寶にたよらなければならない。三寶によらなければ、まがつた心をなほす{{ruby|方|みち}}がない。

第三に、天皇の御命令があつたら、必ずかしこまらねばならぬ。君は天である。臣は地である。天は凡てのものを覆ひつつみ、地は一切のものを載せて持つてをり、それによつて{{ruby|春夏|はるなつ}}秋冬も工合よく行はれ、四方の氣も通じあふのである。{{ruby|若|も}}しも地が、下にゐるのがいやだといつて、天をつつまうとするなら、此の世界はただちにつぶれてしまふ。であるから、君が仰せられた{{ruby|言|こと}}をば、臣はつつしんで承はり、これに從はねばならぬ。{{ruby|上|かみ}}にたつものが實地に行へば、{{ruby|下|しも}}のものはすぐとなびき從ふものである。この通りであるから、詔を承つたら、必ずかしこまつておうけしなさい。さうしなければ自然、自分で自分をほろぼすことになる。

第四に、いろいろの官吏、公吏、役人たち、禮を、行ひの土臺にしなさい。人民を治めてゆく{{ruby|大本|おほもと}}は、第一は禮である。上の役人が禮を守らなければ、下のものはうまく治まらない。又、下のものが禮を守らなければ、屹度、罰せられることになる。處で、官公吏役人たちに禮があり、人民たちに禮があれば、上下の秩序、位地、次第が、きちんとして亂れることはなく、從つて、國家は自然に治まるのである。

第五に、役人たちは、慾深く、物をほしがる心をやめて、ねがひのすぢを、うまく、まちがひなくさばかねばならぬ。人民のうつたへ、爭ひは、一日の中には千もある。一日でもさうである。いはんや一年なり二年なりしたら、大した數になるであらう。つまり、訟のないやうにせねばならぬ。此の頃のさばきをする役人たちは、自分のもうけになるやうにするのがあたりまへだと思つて、賄賂おくりものの多い少いによつて、さばきをつける。けしからぬことである。するといふと、金、財産のある家の訟へごとは、石を水の中に投げ込む樣に、いつも、まちがひなく通る。金のないものの訴へは、水を石に投げる樣に、大抵はねかへされ、取りあはれない。こんな風であるから、貧しい人、財産の無い人たちは、何處へも、どの樣にも願出るみちがない。こんなことでは、役人としても、臣たるつとめを、缺くことになる。

第六に、「惡いことを&#64064;らしめ、善いことをはげます、」これは昔から、人を治めてゆくものの、善いきまり、手本である。そこで、人人は、他人のした善い事、ほまれをかくしてはならぬ。惡いことは、なほしておやりなさい。上役には、ていさいよく氣に入る樣にし、うはべをかざり、ごまかすことは、國家をほろぼすため{{ruby|利|よ}}い道具であり、人民を&#63856;すための{{ruby|刃物|はもの}}である。また、{{ruby|口先|くちさき}}だけでうまく御機嫌を取り、上役に取り入らうとする人は、きつと、上役に對しては{{ruby|下|した}}のものの惡いことを話し、下のものに對しては、上役のよろしくないことを、そしりかげぐちをきく。此の樣な人は、君には忠義をつくさず、人民にはなさけをかけぬものである。こんなふまじめなことは、國家に大亂をおこす本である。

第七に、人にはそれぞれ、つとめ役目がある。むやみに人の仕事に、手出し、口出しをしてはいかん。それにつけても才智のすぐれた、よく物の道理をわきまへた人が、役についてをれば、よく治まつて、{{ruby|頌音|ほめうた}}がうたはれる。道理にはづれ、こころのまがつた人が、役についてゐると、世の&#64082;、世の亂れが甚しくなる。一體、此の世には、生れつきかしこいといふものは少い。よくよく考へ考へ、工夫してするから、立派な聖人、すぐれた人にもなれるのである。すべて、大事でも小事でもよい人があればうまく出來る。どんないそがしい時でも、すぐれた人があれば、ゆつたりとのびのびと治まつてゆく。此の樣によい人があると、國家は永久にさかえ、あぶないといふ樣なことは無くなる。であるから、昔から、すぐれた王樣は、役があるから、それをつとめる人をさがすので、人にやりたいために、役をおくといふことはしない。

第八に、官吏公吏つとめにんたち、御役所へは早く出よ。むやみに早くさがつてはいかん。世の中の政治上の務め、{{ruby|公|おほやけ}}の仕事は、十分しつかりやり、粗末には出來ないのである。一日中やつてもやりをはることはない。それを、おそく出て來れば急な用にまにあはず、早くさがれば仕事はなげやりになる。

第九に、まこと、まじめで、うそいつはりを言はぬことは、人の道を守つてゆく根本である。何事をするにも眞心で、しんせつにおやりなさい。善くなり、成功するもとは、第一に、この眞心である。官吏、公吏が、お互にまじめに眞心をつくしあつたら、何でも出來る。まじめに事をする考がなかつたら、萬事は破滅である。

第十に、ぷりぷりするな、腹をたてるな、恐ろしい顏をするな。人がさからつたからとて、腹をたてるものでない。人人には、それぞれ心持がある。その心持はそれぞれ、自分のがんばりになつてゐる。{{ruby|先方|むかふ}}がよしと思へば、こちらでは惡いと思ふ。こちらが善いと思へば、先方では惡いと思ふ。{{ruby|此方|こちら}}はすぐれてゐるともきまつてゐないだらう、先方はきつと愚だともきまつてゐなからう。むかふもこちらも、お互に、凡夫である。善いとか惡いとか、さう、ざうさなくきめられるものではない。お互に賢だ愚だといひあつても、つまりは環に{{ruby|端|はし}}が無い樣なものである、とりとめ樣もない。であるから、先方の人がおこつたからとて、此方が、つりこまれて一&#32214;に怒つてはいかん。しくじらぬ用心が大切である。たとひ、自分だけで善いと思つてゐることがあつても、大勢の人たちにまじつては、强ひてさからはぬ樣になさい、一&#32214;におやりなさい。

第十一に、下役のものに手柄があつたか、しくじりがあつたかを、よくよく見拔いて、賞も罰も、必ずまちがひない樣にしなさい。此の頃、往往、御褒美が功のないところへ與へられたり、罰が罪のない人に加へられたりすることがある。政治にたづさはる人たち、上役の人たちは、よく氣をつけて、賞罰を、はつきりと、まちがはぬやうにしなさい。

第十二に、地方地方の官吏公吏たちは、人民から、勝手に租税を取りたててはならぬ。一國に二人の君は無く、人民には二人の主君は無いはずである。此の國中の人民には、天皇御一人が御主人である。役人たちはみな、天皇の臣下である。それが何の理由で、天皇と同じ樣に、人民から、勝手に税を取るのであるか、いかぬ、いかぬ。

第十三に、役人たるものは、それぞれの同役のつとめ役柄を、よく知りあはねばならぬ。多くの役人の中には、病氣で缺&#64052;するものもあらうし、役所の御用で出張するものもあらう。その塲合には、その仕事に、滯りのないやうにする。不在であるとわかつたら、仲よく一致共同して、その仕事をしてやる。私は知らなかつた。私には關係がないといつて、公務の邪魔になる樣なほつたらかしをしてはならぬ。

第十四に、すべての役人たち、そねみ、ねたみの心をもつてはならぬ。自分が人をねたみにくめば、人もまた自分をねたみにくむ。ねたみ、うらやみ、にくむといふことの、わざはひは、はてがわからぬ。恐ろしいものである。ところが、大抵の人は、智慧が自分よりすぐれてゐるものにあふと、結構だとは思はないで、之をにくむ。才、はたらきが、自分よりまさつてゐるものをそねみねたんで、陷れようとする。であるから、五百年もたつて、賢い人に、或はあふことが出來るかもしれんが、千年たつても、一人のえらいすぐれた聖人は出て來ない。嫉妬の心から、聖人賢人を世に出すまいとするからである。しかし、それではいかん。すぐれたものがなければ、國は治らぬ。

第十五に、自分の{{ruby|私情|わたくしごころ}}をすてて、公のためにつくすのが臣の道である。自分の事ばかり考へるから、すぐと恨み怒ることになる。恨んだり怒つたりすれば、きつと人人と共同一致することが出來ぬ。共同一致が出來ぬから、つまり、私心が公のことを妨げることになる。又、恨んだり怒つたりすれば、國家の法律制度をもこはすことになり、取締られることにもなる。であるから、第一条に、上下のもの仲をよくするのが大切だといつたのである。

第十六に、人民を使ふのには、時節を見なければならぬ。冬になるとひまがあるから、その時は使つてもよい。春から秋にかけては、農耕、養蠶の大切な時節であるから、使ふわけにはいかぬ。農耕しなければ食べ物がない。かひこをかはなければ、きるものがない。

第十七に、一體、政治上の事柄は、獨りできめてしまつてはいかぬ。多勢の役人たちと相談してやるがよい。小さな事は、まあ相談には及ぶまいが、大事件と思はれることは、やり損ひがあるといかんから、みんなと相談してきめてゆくのである。多勢で相談すれば、道理にかなつたもつともなところが出て來る。

== 口語訳(新字新仮名遣) ==
第一に、なかよくすることが、なにより大切である。さからわないのが{{ruby|肝心|かんじん}}である。{{ruby|人|ひと}}はみんな{{ruby|仲間|なかま}}をくみたがるが、胸のひろいものが少ない。で、なかには君に背き、親にさからい、隣近所の嫌われものになってしまうものなどもある。けれども、上のものと下のものとが、仲よくしあって、むつびあって、よく相談しあえば、物の道理、仕事のすじみちがよくたって、何でも成就しないことはない。

第二に、よくよく三つの宝をたっとばねばならぬ。三つの宝というのは、仏と法と僧とである。この三つのものは、一切の生物の心の最後のよりどころであり、すべての国々の政治の大切な根本である。いつの時代でも、いかなる人でも、{{ruby|此|こ}}のおしえを大切にしないものはない。{{ruby|凡|およ}}そ人間というものは、非常な悪人というものは無いものである<ref group="注釈">「非常な悪人というものは無い」 - 原文・読み下しでは「{{ruby|鮮|すくな}}し」であって、無いとは断定していない。</ref>。教えみちびいてゆきさえすれば、必ず{{ruby|善|よ}}くなるものである。それにつけても、三宝にたよらなければならない。三宝によらなければ、まがった心をなおす{{ruby|方|みち}}がない。

第三に、天皇の御命令があったら、必ずかしこまらねばならぬ。君は天である。臣は地である。天は{{ruby|凡|すべ}}てのものを覆いつつみ、地は一切のものを載せて持っており、それによって{{ruby|春夏|はるなつ}}秋冬も{{ruby|工合|ぐあい}}よく行われ、四方の気も通じあうのである。{{ruby|若|も}}しも地が、下にいるのがいやだといって、天をつつもうとするなら、{{ruby|此|こ}}の世界はただちにつぶれてしまう。であるから、君が{{ruby|仰|おお}}せられた{{ruby|言|こと}}をば、臣はつつしんで承り、これに従わねばならぬ。{{ruby|上|かみ}}にたつものが実地に行えば、{{ruby|下|しも}}のものはすぐとなびき従うものである。この通りであるから、{{ruby|詔|みことのり}}を承ったら、必ずかしこまっておうけしなさい。そうしなければ自然、自分で自分をほろぼすことになる。

第四に、いろいろの官吏、公吏、役人たち、礼を、行いの土台にしなさい。人民を治めてゆく{{ruby|大本|おおもと}}は、第一は礼である。上の役人が礼を守らなければ、下のものはうまく治まらない。又、下のものが礼を守らなければ、{{ruby|屹度|きっと}}、罰せられることになる。{{ruby|処|ところ}}で、官公吏役人たちに礼があり、人民たちに礼があれば、上下の秩序、位地、次第が、きちんとして乱れることはなく、従って、国家は自然に治まるのである。

第五に、役人たちは、{{ruby|慾|よく}}深く、物をほしがる心をやめて、ねがいのすじを、うまく、まちがいなくさばかねばならぬ。人民のうったえ、争いは、一日の中には千もある。一日でもそうである。いわんや一年なり二年なりしたら、大した数になるであろう。つまり、訟のないようにせねばならぬ。{{ruby|此|こ}}の頃のさばきをする役人たちは、自分のもうけになるようにするのがあたりまえだと思って、賄賂おくりものの多い少ないによって、さばきをつける。けしからぬことである。するというと、金、財産のある家の{{ruby|訟|うった}}えごとは、石を水の中に投げ込む様に、いつも、まちがいなく通る。金のないものの訴えは、水を石に投げる様に、大抵はねかえされ、取りあわれない。こんな風であるから、貧しい人、財産の無い人たちは、{{ruby|何処|どこ}}へも、どの様にも願い出るみちがない。こんなことでは、役人としても、臣たるつとめを、欠くことになる。

第六に、「悪いことを懲らしめ、{{ruby|善|よ}}いことをはげます、」これは昔から、人を治めてゆくものの、{{ruby|善|よ}}いきまり、手本である。そこで、人々は、他人のした{{ruby|善|よ}}い事、ほまれをかくしてはならぬ。悪いことは、なおしておやりなさい。上役には、ていさいよく気に入る様にし、うわべをかざり、ごまかすことは、国家をほろぼすため{{ruby|利|よ}}い道具であり、人民を殺すための{{ruby|刃物|はもの}}である。また、{{ruby|口先|くちさき}}だけでうまく御機嫌を取り、上役に取り入ろうとする人は、きっと、上役に対しては{{ruby|下|した}}のものの悪いことを話し、下のものに対しては、上役のよろしくないことを、そしりかげぐちをきく。{{ruby|此|こ}}の様な人は、君には忠義をつくさず、人民にはなさけをかけぬものである。こんなふまじめなことは、国家に大乱をおこす{{ruby|本|もと}}である。

第七に、人にはそれぞれ、つとめ役目がある。むやみに人の仕事に、手出し、口出しをしてはいかん。それにつけても才智のすぐれた、よく物の道理をわきまえた人が、役についておれば、よく治まって、{{ruby|頌音|ほめうた}}がうたわれる。道理にはずれ、こころのまがった人が、役についていると、世の{{ruby|禍|わざわい}}、世の乱れが甚しくなる。一体、{{ruby|此|こ}}の世には、生れつきかしこいというものは少ない。よくよく考え考え、工夫してするから、立派な聖人、すぐれた人にもなれるのである。すべて、大事でも小事でもよい人があればうまく出来る。どんないそがしい時でも、すぐれた人があれば、ゆったりとのびのびと治まってゆく。{{ruby|此|こ}}の様によい人があると、国家は永久にさかえ、あぶないという様なことは無くなる。であるから、昔から、すぐれた王様は、役があるから、それをつとめる人をさがすので、人にやりたいために、役をおくということはしない。

第八に、官吏公吏つとめにんたち、御役所へは早く出よ。むやみに早くさがってはいかん。世の中の政治上の務め、{{ruby|公|おおやけ}}の仕事は、十分しっかりやり、粗末には出来ないのである。一日中やってもやりおわることはない。それを、おそく出て来れば急な用にまにあわず、早くさがれば仕事はなげやりになる。

第九に、まこと、まじめで、うそいつわりを言わぬことは、人の道を守ってゆく根本である。何事をするにも真心で、しんせつにおやりなさい。{{ruby|善|よ}}くなり、成功するもとは、第一に、この真心である。官吏、公吏が、お互いにまじめに真心をつくしあったら、何でも出来る。まじめに事をする考えがなかったら、万事は破滅である。

第十に、ぷりぷりするな、腹をたてるな、恐ろしい顏をするな。人がさからったからとて、腹をたてるものでない。人々には、それぞれ心持ちがある。その心持ちはそれぞれ、自分のがんばりになっている。{{ruby|先方|むこう}}がよしと思えば、こちらでは悪いと思う。こちらが{{ruby|善|よ}}いと思えば、{{ruby|先方|むこう}}では悪いと思う。{{ruby|此方|こちら}}はすぐれているともきまっていないだろう、{{ruby|先方|むこう}}はきっと愚だともきまっていなかろう。むこうもこちらも、お互いに、{{ruby|凡夫|ぼんぷ}}<ref group="訳注">訳註:凡人の意。</ref>である。{{ruby|善|よ}}いとか悪いとか、そう、ぞうさなくきめられるものではない。お互いに賢だ愚だといいあっても、つまりは{{ruby|環|わ}}に{{ruby|端|はし}}が無い様なものである、とりとめ様もない。であるから、{{ruby|先方|むこう}}の人がおこったからとて、{{ruby|此方|こちら}}が、つりこまれて一緒に怒ってはいかん。しくじらぬ用心が大切である。たとい、自分だけで{{ruby|善|よ}}いと思っていることがあっても、大勢の人たちにまじっては、{{ruby|強|し}}いてさからわぬ様になさい、一緒におやりなさい。

第十一に、下役のものに手柄があったか、しくじりがあったかを、よくよく見抜いて、賞も罰も、必ずまちがいない様にしなさい。{{ruby|此|こ}}の頃、往々、御褒美が功のないところへ与えられたり、罰が罪のない人に加えられたりすることがある。政治にたずさわる人たち、上役の人たちは、よく気をつけて、賞罰を、はっきりと、まちがわぬようにしなさい。

第十二に、地方地方の官吏公吏たちは、人民から、勝手に租税を取りたててはならぬ。一国に二人の君は無く、人民には二人の主君は無いはずである。{{ruby|此|こ}}の国中の人民には、天皇御一人が御主人である。役人たちはみな、天皇の臣下である。それが何の理由で、天皇と同じ様に、人民から、勝手に税を取るのであるか、いかぬ、いかぬ。

第十三に、役人たるものは、それぞれの同役のつとめ役柄を、よく知りあわねばならぬ。多くの役人の中には、病気で欠勤するものもあろうし、役所の御用で出張するものもあろう。その場合には、その仕事に、滞りのないようにする。不在であるとわかったら、仲よく一致共同して、その仕事をしてやる。私は知らなかった。私には関係がないといって、公務の邪魔になる様なほったらかしをしてはならぬ。

第十四に、すべての役人たち、そねみ、ねたみの心をもってはならぬ。自分が人をねたみにくめば、人もまた自分をねたみにくむ。ねたみ、うらやみ、にくむということの、わざわいは、はてがわからぬ。恐ろしいものである。ところが、大抵の人は、{{ruby|智慧|ちえ}}が自分よりすぐれているものにあうと、結構だとは思わないで、{{ruby|之|これ}}をにくむ。才、はたらきが、自分よりまさっているものをそねみねたんで、陥れようとする。であるから、五百年もたって、賢い人に、{{ruby|ある|或}}いはあうことが出来るかもしれんが、千年たっても、一人のえらいすぐれた聖人は出て来ない。嫉妬の心から、聖人賢人を世に出すまいとするからである。しかし、それではいかん。すぐれたものがなければ、国は治らぬ。

第十五に、自分の{{ruby|私情|わたくしごころ}}をすてて、公のためにつくすのが臣の道である。自分の事ばかり考えるから、すぐと恨み怒ることになる。恨んだり怒ったりすれば、きっと人々と共同一致することが出来ぬ。共同一致が出来ぬから、つまり、私心が公のことを妨げることになる。又、恨んだり怒ったりすれば、国家の法律制度をもこわすことになり、取り締まられることにもなる。であるから、第一条に、上下のもの仲をよくするのが大切だといったのである。

第十六に、人民を使うのには、時節を見なければならぬ。冬になるとひまがあるから、その時は使ってもよい。春から秋にかけては、農耕、養蚕の大切な時節であるから、使うわけにはいかぬ。農耕しなければ食べ物がない。かいこをかわなければ、きるものがない。

第十七に、一体、政治上の事柄は、独りできめてしまってはいかぬ。多勢の役人たちと相談してやるがよい。小さな事は、まあ相談には及ぶまいが、大事件と思われることは、やり損いがあるといかんから、みんなと相談してきめてゆくのである。多勢で相談すれば、道理にかなったもっともなところが出て来る。

== 註 ==
=== 原注 ===
<references group="訳注"/>

=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注釈" />
-->

{{DEFAULTSORT:しゆうしちしようけんほう}}
[[Category:飛鳥時代の法令]]
[[Category:大日本帝国憲法制定以前の法令‎]]
[[Category:日本書紀]]
[[Category:仏教]]
[[Category:日本の宗教]]
[[Category:群書類従]]
[[Category:古代 (日本)]]
[[Category:飛鳥時代]]

[[en:Seventeen-article constitution]]
[[pl:Konstytucja Siedemnastu Artykułów]]
[[zh:十七條憲法]]
{{Translation license
|original={{PD-old}}
|translation={{PD-old-auto-1923|deathyear=1931}}
}}
[[Category:日本文学電子図書館からインポートしたテキスト]]

2023年10月14日 (土) 03:15時点における版


原文

十七箇條憲法

聖德太子


一曰。以和爲貴。无忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

二曰。篤敬三寶。三寶者〈佛法僧也。〉則四生之終歸。萬國之極宗。何世誰〈一作何〉人非是法。人鮮尤惡。能敎從之。其不三寶。何以直枉。

三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行。萬氣得通。地欲天。則致壞耳。是以君言臣承。上行下效。故承詔必愼。不謹自敗。

四曰。群卿百僚。以禮爲本。其治民之本。要在〈一作乎〉。上不禮而下非齊。下无禮以必有罪。是〈一有以字君臣有禮。位次不亂。百姓有禮。國家自治。

五曰。絕饗棄欲。明辨訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尙爾。況乎累歲。湏訟者。得利爲常。見賄廳讞。便有〈一有者字之訟。如石投水。乏者之訴。似水投石。是以貧民。則不所由。臣道亦於焉闕。

六曰。懲惡勸善。古之良典。是以无人善。見惡必匡。其諂詐者則爲國家之利器。爲人民之鋒刃。亦佞媚者。對上則好說下過。逢下則誹‐謗上失。其如此人。皆无於君。无於民。是大亂之本也。

七曰。人各有任掌。宜濫。其賢哲任官。頌音則起。姦者在官。禍亂則繁。世少生知。尅〈一作克〉念作聖。事无大小。得人必治。時无急緩。遇賢自寬。因此國家永久。社禝勿危。故古聖王。爲官以求人。爲人不官。

八曰。群卿百僚。早朝晏退。公事靡譼。終日難盡。是以遲朝不于急。早退必事不盡。

九曰。信是義本。每事有信。其善惡成敗。要在于信。群〈一作君〉臣共〈一有信何事不成群臣字信。万事悉敗。

十曰。絕忿棄瞋。不人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。誰〈一作詎〉能可定。相共賢愚。如環无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。從衆同擧。

十一曰。明‐察功過。賞罰必當。日者賞不功。罰不罪。執事群卿。宜賞罰

十二曰。國司國造。勿百姓。國靡二君。民无兩主。率土兆民。以王爲主。所任官司。皆是王家〈一无家字臣。何敢與公賦‐歛百姓

十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其以非與聞。勿妨公務。

十四曰。群〈一作臣〉卿百僚。无嫉妬。我既嫉人。人亦嫉我。嫉妬之患。不其極。所以智勝於己則不悅。才優於己則嫉妬。是以五百歲之後。乃今遇賢。千載以難一聖。其不賢聖。何以治國。

十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡〈一有夫字人有私必有恨。有恨必非固。〈一作同〉〈一作同〉則以私妨公。恨起則違制害法。故初章云。上和下睦。〈一作上下和睦其亦是情歟。

十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不使民其不農何食。不桑何服。

十七曰。大事不獨斷。必與衆宜論。小事是輕。不必與衆。唯逮大事。若疑有失。故與衆相辮。辭則得理矣。〈一无矣字


右十七箇條憲法以屋代弘賢藏本及日本書紀太子傳曆拾芥抄所載挍合各有異同今從是者爲定本

一に曰はく、和を以てたつとしと為し、さからふこと無きを宗と為す。人皆たむら有りて、亦達者少し。是を以て或は君父にしたがはずして、たちまち隣里にたがふ。然れども上やはらぎ下むつびて、事をあげつらふにととのへば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらむ。

二に曰はく、あつ三宝さんぼうを敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生ししやう(胎生、卵生、湿生、化生の称、凡べての生物をいふ也)の終帰しうき、万国の極宗きょくそうなり。いづれの世、いづれの人かのりを貴ばざる。人はなはだ悪しきものすくなし。能く教ふるをもて従 三に曰はく、みことのりけては必ず謹め。君をばあめとす。やつこらをばつちとす。天おほひ地載す。四時り行き、方気ほうきかよふを得。地天をくつがへさんと欲するときは、則ちやぶれを致さむのみ。是を以て君のたまふときは臣うけたまはる。上