牛肉と馬鈴薯

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本文[編集]

明治倶楽部(くらぶ)とて芝区桜田本郷町のお堀辺(ほりばた)に西洋作(づくり)の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある。しかし持主が代って、今では明治倶楽部其者はなくなって了った。
この倶楽部が未(ま)だ繁盛して居た頃のことである。或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火(あかり)が点いて居て、時々(おりおり)高く笑う声が外面(そと)に漏れて居た。元来(いったい)この倶楽部は夜分人の集って居ることは少ないので、ストーブの煙は平常(いつ)も昼間ばかり立ちのぼって居るのである。
然るに八時は先刻(さっき)打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車(くるま)が六台玄関の横に並んで居たが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深(まぶか)に被(かぶ)ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。
内から戸が開くと、
「竹村君は来てお出(いで)ですかね」と低い声の沈重(おちつ)いた調子で訊(たず)ねた。
「ハア、お出(いで)で御座います、貴様(あなた)は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。
「これを」と出した名刺には五号活字で岡本誠夫(せいふ)としてあるばかり、何の肩書もない。受付は其を受取り急いで二階に上って去(い)ったが間もなく降りて来て、
「どうぞ此方(こちら)へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉(ストーブ)を熾(さかん)に燃(た)いて居たので、ムッとする程温(あった)かい。煖炉の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄って居る。傍(かたわら)の卓子(テーブル)んはウイスキーの壜が上(の)って居てこっぷの飲み干したるもあり、注(つ)いだままのもあり、人々は可(い)い加減に酒が廻って居たのである。
岡本の姿を見るや竹内は起(た)って、元気よく
「まあ之(こ)れへ掛け給え」と一の椅子をすすめた。
岡本は容易に坐に就(つ)かない。見廻すと其中の五人は兼(かね)て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可(よ)い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと気がつき
「ウン貴様(あなた)は未だ此方(このかた)を御存知ないだろう、紹介しましょう、此方は上村君(かみむらさん)と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、此方は僕の極く旧い朋友(ともだち)で岡本君……」
と未だ言い了(おわ)らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で、
「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見して居りますので……今後御懇意に……」
岡本は唯(た)だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。そして椅子に倚(よ)った。
「サア其先を……」と綿貫(わたぬき)という背の低い、真黒の頰髭を生(はや)して居る紳士が言った。
「そうだ!上村君、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪(あたまのけ)の薄い、痩方(やせがた)の紳士が促した。
「イヤ岡本君が見えたから急に行(や)りたくなったハヽヽヽ」と炭鉱会社の紳士は少し羞(は)にかんだような笑方(わらいかた)をした。
「何ですか」
岡本は竹内に問うた。
「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を放すことになってね、まア聞いて居給え名論卓論、滾々(こんこん)と尽きずだから」
「ナニ最早(もう)大概吐き尽したんですよ。貴様(あなた)は我々俗物党と違がって真物(ほんもの)なんだから、幸(さいわい)貴様のを聞きましょう、ね諸君!」
と上村は逃げかけた。
「いけないいけない、先ず君の説を終え給え!」
「是非承(うけたま)わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。
「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之(つまり)、理想と実際は一致しない、到底一致しない……・」
「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。
「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」
「ただそれ丈けですか」と岡本は第二の杯を手にして唸(うな)るように言った。
「だってねェ、理想は喰べられませんものを!」と言った上村の顔は鬼のようであった。
「ハヽヽヽヽビフテキじゃあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。
「否(いや)ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」
「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけて居た真紅(まっか)な顔をして居る松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。
「ハッヽヽヽ」と一坐が噴飯(ふき)だした。
「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起になって、
「例えて見ればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばっかし喰って居なきゃアならない。ことによると馬鈴薯(いも)も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯と何(どっ)ちが可(い)い?」
「牛肉が可いねエ」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。
「然しビフテキに馬鈴薯は附属物(つきもの)だよ」と頰髯(ほおひげ)の紳士が得意らしく言った。
「そうですとも!理想は則(すなわ)ち実際の附属物なんだ!馬鈴薯も全(まる)きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」
と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。
「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃア」と岡本は平気で訊ねた。
「其の馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷(ひど)い目に遇(あ)ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕は斯(こ)う見えても同志社の旧(ふる)い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」
「君が?」とさも不審そうな顔色(かおつき)で井山がしょぼしょぼ眼(まなこ)を見張った。
「何も不思議は無いサ、其頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳(いくつ)かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚(ほ)れて居たもんで、清教徒(ピュリタン)を以て任じて居たのだから堪(たま)らない!」
「大変な清教徒(ピュリタン)だ!」と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸(ちょっと)腮(あご)で止めて、ウイスキーを嘗(な)めながら
「断然この汚れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」
と言った時、岡本は凝然(じっ)と上村の顔を見た。
「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。処が又先方は甘(うま)いことを話して聞かすんです。やれ自然(ネーチュール)が何(ど)うだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない!僕は全然(すっかり)まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此(どんな)ふうな想像を描いて居たもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆(あずき)を撒(ま)く、……」
「その百姓が見たかったねエハッハッヽヽヽヽ」と竹内は笑いだした。
「イヤ実地行(や)ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処(そこ)へ行くから……、其内にだんだんと田園が出来て来る、重(おも)に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」
「ソラ馬鈴薯が出た!」と松木は又た口を入れた、
「其処で田園の中央(まんなか)に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風に出来て居る、新英洲(ニューイングランド)殖民時代そのままという風に出来て居る、屋根が斯う急勾配になって物々しい煙突が横の方に一ツ、窓を幾個(いくつ)附けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ……」
「そして真個(ほんと)に其家が出来たのかね」と井山は又しょぼしょぼ眼を見張った。
「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王子(じゃくおうじ)へ散歩に往って帰る時だった!」
「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。
「それから北の方へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川が此防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨(あひる)や鵞鳥(がちょう)が其紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。此川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かって居る。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」
「ちょっとお話の途中ですが、貴様(あなた)の其の『冬』という音(おん)にかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊ねた。
上村は驚ろいた顔色をして
「貴様(あなた)は如何(どう)して其を御存知です、これは面白い!有繁(さすが)貴様(あなた)は馬鈴薯党だ!冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だか其の冬則(すなわ)ち自由というような気がしましてねエ!それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来ると何うしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱(つらら)が下って居ないと噓のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬ちうよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴いても『冬になると……」斯(こ)ういわれると、身体(からだ)が斯うぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです。冬になると雪が全然(すっかり)家を埋(う)めて了う、そして夜は窓硝子(ガラス)から赤い火影(ほかげ)がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと墜(お)ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛(めうし)がモーッと唸る!」
「君は詩人だ!」と叫けんで床を靴で蹴(け)ったものがある。これは近藤といって岡本が此部屋に入って来て後も一言も発しないで、唯だウイスキーと首引(くびっぴき)をして居た背の高い、一癖あるべき面構(つらがまえ)をした男である。
「ねエ岡本君!」と言い足した。岡本はただ、黙言(だまっ)て首肯(うなず)いたばかりであった。
「詩人!そうサ、僕は此頃は詩人さ、『山々霞み入合(いりあい)の』ていうグレーのチャルチャートの翻訳を愛読して自分で作って見たものだアね、今日の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」
「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地(のりち)になって言った。
「ナーニ僕だって二ツ三ツ作(やっ)たものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。
「綿貫君、君はどうだね?」
「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気のない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、如何(どう)だろう僕は余程俗骨が発達してると見える!」と綿貫は頭を撫(なで)て見た。
「イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作(やっ)たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ!ハッハッヽヽヽ」
「ハッハッヽヽヽ」と一動が噴飯(ふきだ)して了った。
「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッヽヽヽ奇談々々!」と綿貫が叫んだ。
「そうか、諸君も作(やっ)たのか、驚ろいた、其昔は皆な馬鈴薯党なんだね」と上村は大(おおい)に面目を施こしたという顔色(かおつき)。
「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村を促がした。
「そうだ、先をやり給え!」と近藤は殆ど命令するように言った。
「宜(よろ)しい!それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴして居たが、断然と北海道へ行った其時の心持といったら無いね、何だか斯う馬鹿野郎!というような心持がしてねエ、上野の停車場(ステーション)で汽車に乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾(つばき)を吐きかけたもんだ、そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実(ほんと)に!」
「一寸(ちょっと)君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……其の如何(どう)いうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目に訊ねた。
「唯だ東京の奴等を言ったのサ、名利(みょうり)に汲々(きゅうきゅう)として居る其醜態(ざま)は何だ!馬鹿野郎!乃公(おれ)を見ろ!という心持サ」と上村も亦真面目で註解を加えた。
「それから道行(みちゆき)は抜にして、兎も角無事に北海道は札幌に着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂(いわゆ)る額に汗するのはこれからだというんで直(ただち)に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にして居る友人、今は矢張僕と同じ会社へ出て居るがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っているだろう梶原信太郎のことサ……」
「ウン梶原君が!?彼(あれ)が矢張馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。
「そうサ、今じゃア鬼のような顔(つら)をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。処が先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒(しんぼう)して居たろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止(よ)そうという動議を提出した、其議論は何も自(みず)から斯んな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧(むし)ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕は其時大に反対した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味(りき)んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君も最少(もすこ)しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞(すてぜりふ)を履いて直ぐ去(い)って了った。取残された僕は力味(りき)んでは見たものの内々心細かった、それでっも小作人の一人二人を相手に其後、三月ばかり辛棒したねエ。豪(えら)いだろう!」
「馬鹿なんサ!」と近藤が叱るように言った。
「馬鹿?馬鹿たア酷だ!今から見れば大馬鹿サ、然し其時は全く豪(えら)かったよ」
「矢張馬鹿サ、初めから君なんかの柄(がら)にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食(く)おうなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」
「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にもない』ということは次第に悟って来たんだ。難有(ありがた)いことには僕に馬鈴薯の品質(がら)が無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにして居た『冬』という例の奴漸次(だんだん)近づいて来た、其露払(つゆはら)いが秋、第一秋からして思ったより感心しなかったのサ、森(しん)とした林の上をパラパラと時雨(しぐれ)て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価(いくら)と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処は木の皮を壁に代用した掘立小屋」
「それは貴様(あなた)覚悟の前だったでしょう!」と岡本が口を入れた。
「其処ですよ、理想よりか実際の可(い)いほうが可いというのは。覚悟はして居たものの矢張り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」
上村は言って杯で一寸と口を湿(うるお)して
「僕は痩せようとは思って居なかった!」
「ハッハッヽヽヽヽ」と一同(みんな)笑いだした。
「そこで僕はつくづく考えた。成程梶原の言った通りだ、馬鹿げきって居る、止そうッというんで止しちまったが、あれで彼(あ)の冬を過ごしたら僕は死んで居たね」
「其処で如何いうんです、貴様(あなた)の目下のお説は?」と岡本は嘲(あざけ)るような、真面目な風で言った。
「だから馬鈴薯には懲々(こりごり)しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味(うま)いものが食えて、斯うやって諸君と煖炉(ストーブ)にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う。腹が減(すい)たら牛肉を喰う……」
「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ。其奴(そいつ)が馬鹿なんだ」と綿貫は大に敦圉(いき)まいた。
「僕は違うねエ!」と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。凄い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら
「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない!上村君なんか最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をびくびくさして牛の焦(こげ)る臭を嗅いで行(ある)く、其醜体(ざま)ったらない!」
「オイオイ、他人(ひと)の悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村が切り込んだ。
「堕落?堕落たア高い処から低い処に落ちたことだろう、僕は幸にして最初から高い処に居ないから其様(そんな)外見(みっとも)ないことはしないんだ!君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、嗜)す)きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓えたのだ、僕なんかは嗜(す)きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」
「一向要領を得ない!」と上村が叫けんだ。近藤は直(ただち)に何ごをか言い出さんと身構(みがまえ)をした時、給仕(きゅうじ)の一人がつかつかと近藤の傍に来て其耳に附いて何ごとをか囁(ささや)いた。すると
「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言って呉れ!」と怒鳴った。
「何だ?」と坐中の一人が驚いて聞いた。
「ナニ、車夫の野郎、又た博奕(ばくち)に敗けたから少し貸して呉れろと言うんだ。……・要領を得ないたア何だ!大(おおい)に要領を得て居るじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のはぎゅうにくが最初から嗜(す)きなんだ、主義でもヘチマでもない!」
「大に賛成ですなア」と静に沈重(おちつ)いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」と近藤はにやりと笑って岡本の顔を見た。
「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」と岡本は其冴(さ)え冴(ざ)えした眼光を座上に放った。
「其説を承たまわろう、是非願いたい!」と近藤は其四角な腮(あご)を突き出した。
「君は何方(どちら)なんです、牛(ぎゅう)と薯(いも)、エ、薯(いも)でしょう?」と上村は知った顔(がお)に岡本の説を誘(いざの)うた。
「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜(す)きとも決って居ないんです。勿論例の主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯(いも)とかいう嗜好(しこう)にも従うことが出来ません」
「それじゃア何だろう?」と井山が其尤もらしいしょぼしょぼ眼(まなこ)をぱちつかした。
「何でもないんです、比喩(ひゆ)は廃(よ)して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充(みた)して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為(し)ないのではないので、実をいうと何方(どちら)でも可(い)いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯(た)った一つ、不思議な願を持っているから其ために何方(どちら)とも得決めないで居ます」
「何だね、其の不思議な願と言うのは?」と近藤は礼の圧(お)しつけるような言振りで問うた。
「一口には言えない」
「まさか猿の丸焼で一杯飲みたいという洒落(しゃれ)でもなかろう?」
「まず其様(そん)なことです。……実は僕或少女(むすめ)に懸想(けそう)したことがあります」と岡本は真面目で語り出した。
「愉快々々、談愈々(いよいよ)佳境に入って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉(ストーブ)の方へ引寄せた。
「少し談(はなし)が突然(だしぬけ)ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すのには此辺から初めましょう。其少女(むすめ)はなかなかの美人でした」
「ヨウ!ヨウ!」と松木は躍上(おどりあが)らんばかりに喜んだ。
「「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排(あんばい)は西洋婦人のように肉附が佳(よ)くって而もなだらかで、眼は少し眠(ね)むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでいるという気味がある此眼に愛嬌を含めて凝然(じつ)と睇視(みつめ)られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。処で僕は容易にやられて了ったのです。最初其女を見た時は別にそうも思って居なかったが、一度が二度、三度目位から変に引きつけられるような気がして、妙に其女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋(ラブ)したとは思いませんでしたねえ。
「或日僕が其女の家へ行きますと、両親は不在で唯だ女中と其少女(むすめ)と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女(むすめ)は身体(からだ)の具合が少し悪いと言って鬱(ふさ)いで、奥の間に独(ひとり)、つくねんと座って居ましたが、低い声で唱歌をやって居るのを僕は縁辺(えんがわ)に腰をかけたまま聴いて居ました。
『お栄さん僕はそんな声を聞かされると何だか哀れっぽくなって堪(たま)りません』と思わず口に出しますと
『小妹(わたくし)は何故こんな世の中に生きて居るのか解らないのよ』と少女(むすめ)がさもさも頼(たより)なさそうに言いました。僕にはこれが大哲学者の厭世論(えんせいろん)にも優(まさ)って真実らしく聞えたが、その先は詳(く)わしく言わないでも了解(わか)りましょう。
「二人は忽(たちま)ち恋の奴隷(やっこ)となって了ったのです。僕は其時初めて恋の楽しさと哀(かな)しさとを知りました。二月ばかりというものは全(まる)で夢のように過ぎましたが、其中の出来事の一二(ひとつふたつ)お安価(やすく)ない幕を談(はな)すと先ず斯(こん)なこともありましたっケ
「或日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えて居ましたが夜の十時頃漸く散会になり僕はホテルから芝山内(しばさんない)の少女(むすめ)の宅まで、月が佳(よ)いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行(や)って来ると、途々(みちみち)母は口を極(きわ)めて洋行夫婦を褒(ほ)め頻(しきり)に羨(うらや)ましそうなことを言って居ましたが、其言葉の中には自分の娘の余り出世間的傾向を有して居るのを残念がる意味があって、斯(かか)る傾向を有するも要するに其交際する友に由(よ)ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいて居た娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対する果敢(はか)ない反抗であったのです。
「それから山内(さんない)の森の中へ来ると、月が木間(このま)から蒼然たる光を洩(もら)して一段の趣を加えて居たが、母は我々より五歩(いつあし)ばかり先を歩るいて居ました。夜は更(ふ)けて人の通行(ゆきき)も稀(まれ)になって居たから四辺(あたり)は極めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響して居たが、先刻(さっき)の母の言葉が胸に応(こた)えて居るので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って歩るいて居ました。
「森影暗く月の光を遮(さえぎ)った所へ来たと思うと少女(むすめ)は卒然(いきなり)僕に抱きつかんばかりに寄添って
『貴様(あなた)母の言葉を気にして小妹(わたくし)を見捨(みすて)ては不可(いけ)ませんよ』と囁(ささや)き、其手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頰にべたり熱いものが触(ふ)れて一種、花にも優(まさ)る香が鼻先を掠(かす)めました。突然明(あかる)い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んで居て、其顔色は物凄いほど蒼白(あおじろ)かったが、一(ひとつ)は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞(つか)えて恰度、鉛の塊が胸を圧(お)しつけるように感じました。
「其夜、門口まで送り、母なる人が一寸(ちょっと)と上って茶を飲めと勧(すす)めたを辞し自宅へと帰路に就きましたが、或難(むずかし)い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉(ことごと)く了解(わか)りでもするといったような心持がして、決して比喩じゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない、そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰(よ)つてぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時(しばら)く凝然(じっ)と品川の沖の空を眺めて居ました。
『若(も)しか彼女(あのおんな)は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電(いなずま)のように僕の心中最も暗き底に閃(ひらめ)いたと思うと僕は思わず躍り上がりました。そして其所らを夢中で往(ゆ)きつ返(もど)りつ地を見つめたまま歩るいて『決して其(そん)なことはない』『断じてない』と、魔を叱(しっ)するかのように言って見たが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視(みつめ)て居ると、蒼白い少女(むすめ)の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしても其顔色がこの世のものでないことを示して居る。
「遂に僕は心を静めて今夜十分に眠る方が可(よ)い、全く自分の迷だと決心して円山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上る時は少(すこし)も気がつかなかったが路傍(みちばた)にある木の枝から人がぶら下って居たことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水(ひやみず)をかけられたように感じて、其所に突立って了いました。
「それでも勇気を鼓して近づいて見ると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨(すて)てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切を夢中で紅葉館の方から山内へ下りると突当(つきあたり)にある彼(あ)の交番まで駈けつけて其由を告げました……」
「其女が君の恋して居た少女であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言った。
「それでは全(まる)で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、兎(と)も角(かく)僕は其夜殆(ほとん)ど眠りませんでした。
「然(し)かし能(よ)くしたもので、其翌日少女の顔を見ると平常(ふだん)に変って居ない、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「成程これはお安価(やす)くないぞ」と綿貫が床を蹴(け)って言った。
「まア黙って聴き玉え、それから」と松木は至極真面目になった。
「其先(さき)を僕が言おうか、斯うでしょう、最後(おしまい)に其少女(むすめ)が欠伸(あくび)一つして、それで神聖なる恋が最後(おしまい)になった、そうでしょう?」と近藤も何故か真面目で言った。
「ハッハッヽヽヽヽ」二三人が噴飯(ふきだ)して了った。
「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。
「君でも恋なんていうことを知って居るのかね」これは井山の柄にない言草。
「岡本君の談話(はなし)の途中だが僕の恋を話そうか?一分間で言える、僕と或少女(むすめ)と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸(あくび)一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の恋でもこれが大切(おおぎり)だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結合(くっつ)いて居る。然し其は女が欠伸を嚙殺して其日を送って居るに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」
「そうかも知れません、然し僕のは幸いに其欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい
「僕も其頃、上村君のお話と同様、北海道熱の烈しいのに罹(かか)って居ました。実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思って居ます。それで僕も色々と想像を描いて居たので、それを恋人と語るのが何よりの楽(たのしみ)でした、矢張り上村君の亜米利加(アメリカ)風の家は僕も大判の洋紙を鉛筆で図取までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火(あかり)を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」
「だって僕は相手が無かったのですもの」と上村が情けなさそうに言ったので、どっと皆が笑った。
「君が馬鈴薯党を変節したのも、一は其故(せい)だろう」と綿貫が言った。
「イヤ其れは噓言(うそ)だ、上村君に若し相手があったら北海道の土を踏(ふ)まぬ先に変節して居ただろうと思う、女という奴が到底馬鈴薯主義を実行し得るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、恰度(ちょうど)僕のようなんだ。女は芋が嗜好(す)きなんていうのは嘘サ!」
と近藤が怒鳴るように言った、其最後の一句で又た皆がどっと笑った。
「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々(ようよう)静まった。
「二人は将来の生活地を北海道と決めて居まして、相談も漸く熟したので僕は一先(ひとまず)故郷(くに)に帰り、親族に托してあった山林田畑を悉く売り飛ばし、其資金で新開墾地を北海道に作ろうと十日間位の積(つもり)で国に帰ったのが、親族の故障やら代価不折合やらで二十日もかかりました。
すると或日少女(むすめ)の母から電報が来ました。驚いて取る物も取あえず帰京して見ると、少女は最早(もう)死んで居ました」
「死んで?」と松木は叫んだ。
「そうです、それで僕の総ての希望が悉く水の泡となって了いました」と岡本の言葉の未だ終らぬうちに近藤は左の如く言った、それが全(まる)で演説口調、
「イヤおうも面白い恋愛(ラブ)談(だん)を聴かされ我等一同感謝のに堪えません。さりながらです、僕は岡本君の為めに其恋人の死を祝します、祝すというのは不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧(むし)ろ喜びます、却(かえっ)て喜びます、若しも其少女にして死ななんだならばです、其の結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」
とまでは頗(すこぶ)る真面目であったが、自分でも少し可笑(おか)しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味(えみ)を含ませて、
「何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に数種ある、其中尤も悲むべう憎む可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦(う)みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子(にょし)の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」
と少し真面目な口調に戻り、
「即ち女子は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然し其は恋に渇して居るより生ずる変態たるに過ぎない、幸にして其恋を得る、其後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽(たのしみ)という字の全意義は斯(かか)る女子の境遇に於て尽されて居るだろう。然し忽ち倦(うん)で了う、則ち恋に倦でしまう、女子の恋に倦(うん)だ奴ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐れむべきものである、処が男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、斯る場合に恋に出遇う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心に捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。斯る場合に在(あ)っては恋則ち男子の生命である」
と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう、どうです僕の説は穿(うが)って居るでしょう」
「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。
「ハッヽヽヽ要領を得ない?実は僕も余り要領を得て居ないのだ、ただ今のように言って見たいので、どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯だ一つの不思議なる願を持って居るということは、死んだ少女(むすめ)に遇(あ)いたいというんでしょう」
「否(ノー)!」と一声叫んで岡本は椅子を起(た)った。彼は最早(もう)余程酔って居た。
「否(ノー)と先ず一語を下して置きます。諸君にして若し僕の不思議なる願というのを聴いて呉れるなら談(はな)しましょう」
「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆(みんな)は唯だ黙って岡本の顔を見て居たが、松木と竹内は真面目で、綿貫と井山は笑味(えみ)を含んで。
「それでは否(ノー)の一語を今一度叫けんで置きます。
「成程僕は近藤君のお察(さっし)の通り恋愛に依(よっ)て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女(むすめ)の死は僕に取(と)っての大打撃、殆ど総(すべ)ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、若し例の反魂香(はんごうこう)とかいう価物(しろもの)があるなら僕は二三百斤買い入れたい。どうか少女を今一度僕の手に返したい、僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでしょう。幾度其名を呼んで大空を仰いだでしょう。実に彼(あの)少女の今一度此世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大(おおい)なる願、深い願、熱心なる願を以(もっ)て居ます。この願さへ叶(かな)えば少女は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にして居るけれど、其心持は同じです。僕は此願が叶わん位なら今から百年生きて居ても何の益(えき)も立(た)たない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「全世界の人悉く此願を有(も)って居ないでも宜しい、僕独り此の願を追います、僕が此願を追うが為めに其為めに強盗罪を犯すに至(いた)っても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関(かま)いません、若し鬼ありて僕に保証するに、爾(なんじ)の妻を与えよ我これを姦(かん)せん爾の子は我これを喰(くら)わん然らば我は爾の願を叶わしめんと言わば僕は雀躍(こおどり)して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「こいつは面白い、早く其願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫が其髯を力任せに引いて叫けんだ。
「今に申します。諸君は今日のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う。そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤(ほうたいこう)見たような人間をつきまぜて一(ひとつ)鋼鉄のような政府を形(つくり)、思切った政治をやって見たいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以(もっ)て居ます、併し僕の不思議なる願いはこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督(クリスト)や釈迦(しゃか)や孔子のような人になりたい、真実(ほんと)にそうなりたい。併(しか)し若(も)し僕の此不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活!と言ったばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴(いただ)いて居るのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪らなくなる!然しです、僕の一念ひとたび彼(か)の願に触れると、斯(こ)んなことは何でもなくなる。若しも僕の願さえ叶うなら紅塵三千丈の都会に車夫となって居てもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明(せんめい)し、そして安心立命の地を其上に置こうと悶(もだ)いて居る、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足(はだし)というほどの大科学者になりたい、若しくは大宗教家になりたい。併し僕の願というのはこれでもない。若し僕の願が叶わないで以て、大学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔(つら)に『偽(いつわり)』の一字を烙印します」
「何だね、早く言い玉え其願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚(びっくり)しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
「岡本は静に
「喫驚したいというのが僕の願なんです」
「何だ!馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語(おとしばなし)か!」
人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言(だまっ)て岡本の説明を待って居るらしい。
「ういう句があります、
Awake, poor trobbled sleeper: shake off thy torpid night – mare dream.
即ち奥の願とは夢魔を振い落したいことです!」
「何のことだか解らない!」と綿貫は呟(つぶ)やくように言った。
「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙に驚きたいという願です!」
「愈々以て謎のようだ!」と今度は井山が其顔をつるりと撫でた。
「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
「イクラでも君勝手に驚けば可いじゃアないか、何でもないことだ!」と綿貫は嘲(あざけ)るように言った。
「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時(かたとき)たりとも安(やすん)ずる能(あた)わざるほどに此宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」
「成程こいつは益々解りにくいぞ」と松木は呟やいて岡本の顔を穴があくほど凝視(みつめ)て居る。
「寧ろ此使用(つか)い古るした葡萄(ぶどう)のような眼球(めのたま)を剜(えぐ)り出したいのが僕の願です!」と岡本は思わず卓を打った。
「愉快々々!」と近藤は思わず声を揚げた。
「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆(きも)は喰いたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前(まのあたり)に視て死そのものの秘義に驚いた其心こそ僕の欲する処であります。
「勝手に驚けと言われました綿貫君(さん)は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
「僕の恋人は死にました。此世から消えて失(なく)なりました。僕は全然恋の奴隷(やっこ)であったから彼(かの)少女(むすめ)に死なれて僕の心は掻乱(かきみだ)されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡(なく)なったが為の悲痛である。死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人を支配するものはない、其恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
「曰(いわ)く習慣(カストム)の力です。
Our birth is but asleep and forgetting.
この句の通りです。僕等は生れて此天地に来る、無我無心の小児(こども)の時から種々な事に出遇う。毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、是(ここ)に於てか此不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。科学でも候(そうろ)うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立って居るかの態度を以て此宇宙を取扱う。
Full soon thy soul shall have her earthly freight,
And custom lie upon thee with a weight,
Heavy as frost, and deep alomost as life!
この通りです、この通りです!
「即ち僕の願は如何(どう)にかして此霜を叩(はた)き落さんことであります。如何にかして此古び果てた習慣(カストム)の圧力から脱がれて、驚異の念を以て此宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、将(は)た厭世の徒となって此生命を詛(のろお)うが、決して頓着しない!
「結果は頓着しません、原因を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。
「ヤレ月の光が美だとか花の夕が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々(とうとう)たる詩人の文学は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見ては居ない、まぼろしを見て居るのです、習慣の眼が作る処のまぼろしを見て居るに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、其本尊は知らぬこと其末代の末流に至っては悉くそうです。
「僕の知人に斯う言った人があります。吾とは何ぞや《What am I?》なんちょう馬鹿な問を発して自から苦しむものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでないと、斯う言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうと其通りです、然し此問は必ずしも其答を求むるが為めに発した問ではない。実に此天地に於ける此我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫びである。此問其物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのは其心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、如何にかして此問を心から発したいのであります。処ろがなかなか此問は口から出ても心からは出ません。
「我何処(いずく)より来り、我何処(いずく)にか往く、よく言う言葉であるが、矢張り此問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だから其以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もう止しましょう!無益(だめ)です、無益です、いくら言っても無益です。……アア疲労(くたびれ)た!しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方(どちら)へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりして居るのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
「死んだ夢を見ました。芯で暗い道を独りでとぼとぼ辿(たど)って行きながら思わず『マサカ死のうとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました、
「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれた子に死なれたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死のうとはわなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッヽヽヽハッヽヽヽ」
「人を驚かして貰えばしゃっくりが止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好んで喫驚(びっくり)したいというのも物数奇(ものずき)だねハヽヽヽヽ」と綿貫は其太い腹をかかえた。
「イヤ僕も喫驚したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハヽヽヽ」
「唯だ言うだけのことか、ヒヽヽヽ」
「そうか!唯だお願い申して見る位なんですねハッヽヽヽ」
「矢張り道楽でさアハッハッヽヽッ」と岡本は一所(いっしょ)に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可(べ)からざる苦痛の色を見て取った。

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