焼失せる蒙満文蔵経

 
オープンアクセスNDLJP:149 焼失せる蒙満蔵経

一、金字蒙文蔵経  匡廓竪五寸二分横一尺九寸

二、紅字満文蔵経  匡廓竪五寸三分横一尺九寸六分

オープンアクセスNDLJP:151 
 
焼失せる蒙満文蔵経
 
 
二蔵経の発見及び其の将来
 

 去年九月一日の震災に東京帝国大学図書館に保管せられたる蒙文満文二蔵経の焼失せることは、学界の莫大なる損失として痛惜せらるゝ所なるが、此二蔵の東京大学に帰せしことに就きては、恐らく余の如く深き関係を有する者あるまじければ、今更死児の齢を数ふるに類するわざながら、余の二蔵経に於ける関係と、併せて二蔵経の来歴とを記述し、以て永く記念となさんとす。顧みれば今より二十二年前、明治三十五年の事なりき。露国の満洲経営は、東亜の形勢を聳動して、我邦上下並に危懼の念に駆られ、早晩当さに戦乱の免がるべからざるを予想せしむる者ありしを以て、当時新聞記者たりし余は、一たび露国経営の実況を視察せんとし、是歳十月を以て、先づ旅順、大連〈露人の所謂ダルニー〉より​ハルビン​​哈爾賓​に至り、帰途奉天に過り、営口より北京に赴きたり。発するに先ち、高楠文学博士は余に注意するに嘗て欧洲学者にオープンアクセスNDLJP:152 聞く所を以てすれば、清朝にて訳出せる満洲文蔵経は奉天に蔵せらるゝとの事なれば、旅行中、機会の許すあらば、宜しく其の所在の捜査をなされたしとの旨を以てせられたり。故に余は奉天に滞在せる数日間、此事に就きて探聞せる結果、黄寺の喇嘛数人に導かれて、同寺内外に蔵せる各種の写本、板本の蔵経を見ることを得たり。当時余の自書せる日記に拠れば、

十月二十三日、曇天、川久保鉄三、清水安次郎二氏ト昭陵ニ謁シ、御花園長寧寺ニ清太宗文皇帝ノ弓矢ヲ観、更ニ黄寺ヲ訪ヒ、関帝廟ニ詣リ、一喇嘛ト話シ、明日満蒙二蔵ヲ観ルコトヲ約ス。帰途白大喇嘛ニ逢ヒ、又後楼ノ蒙蔵ヲ観ルコトヲ約ス。二十四日午前、王者馨〈当時奉天府学教授タリ〉父子、安倍道明氏ト共ニ来訪ス、前田鶴之助氏モ亦来ル。既ニシテ川久保清水二氏ト黄寺後楼ニ白大喇嘛ヲ訪ヒ、其ノ楼上ニ至リ更ニ導カレテ別処ニ至リ、蒙字蔵経ヲ見ル。後楼ヲ辞シテ関帝廟ニ至リ、得大喇麻ニ会シ、昨日約セシ一喇嘛ニ導カレテ、黄寺ノ経蔵ニ蒙文蔵経及ビ満文蔵経ヲ観テ帰ル。

こゝに記せる白大喇嘛に導かれて至りし別処とは、後にて考ふれば、太平寺にて、蔵経は百八帙の板本なりき。又一喇嘛に導かれて観し黄寺の蒙文蔵経も同じく板本なりしが、その満文蔵経なりとて示されしは、即ち金字の蒙蔵にして、後に東京大学に帰せし者なりき。当時余は十分に蒙満二文の区別を知る程の智識なかりしを以て、一喇嘛の言を信じ、〈恐らくかの喇嘛もかく信じたるにて故らに余を欺きしにあらざるべし〉之を高楠上田二博士に報じたりしが、此の誤れる報告は反つて後年、蒙満二蔵を将来すべき因縁とはなりしなり。

 尤も余が始めて清朝にて満文に訳出せし蔵経あることを知りしは、此時の高楠博士の注意にのみ由るにはあらずして、更に数年前、明治三十二年頃、礼親王嘯亭雑録を読みし時に在り。当時余は其事を大阪朝日新聞に記せしことありたれば、同新聞の北京特派員たりし上野靺鞨氏は、余が記述により、北京白王城午門の五鳳楼中に其の経板を捜索せしも、之を発見するに至らざりしことを余に語られしことあり。余は此事を高楠博士に語りたれば、博士はその異聞を更に余に告げられたりしなり。

 明治三十七年、遂に日露間の開戦を見るに至りしが、我軍の成功顕著にして、三十八年三月には、已に奉天の露軍を掃蕩し、我が総司令部をこゝに設けらるゝに至れオープンアクセスNDLJP:153 り。余は此頃より已に奉天に於ける学術的調査の必要を主唱し、之を朝日紙上に論述したりしが、是月三十一日、東京に赴き、外務省の嘱託として、奉天事情調査の為め、満洲に赴くことゝなり、法学士大里武八郎氏〈今の台湾覆審法院部長〉を伴ひ、七月四日宇品を発し、大連、旅順、営口を経て、同月二十九日奉天に着し、児玉大将、福島少将の照料により、総司令部衛兵宿舎に滞留して十一月に至り、頗る精細に奉天内外の学術的調査に従事することを得たり。其の黄寺の蔵経に関しては、福島将軍七月三十日に於て親しく余を伴ひ、黄寺掌印​ダラマジユルブヂヤムシユ​​達喇嘛什爾布札木束​に紹介し、十分に調査の便宜を与へくれたりしが、盖し此時宮内大臣田中光顕伯は高楠博士の進言により、総司令部に委嘱するに蒙満蔵経の将来を以てせる者の如く、福島将軍は余が学術的調査の目的を以て、最も早く奉天に入りしを幸とし、余をして先づ此の調査に任せしめし者なりしも、余が外務の嘱託なるを以て、其の実情を打明けずして、先づ之に従事せしむるやう取計らひしなり。余は黄寺に隣接せる総司令部衛兵宿舎の潔浄なる一室を貸与へられ、八月四日より十三日に至る十日間に黄寺其他の諸蔵経を見畢り、左の解題一通を作り、福島将軍に交付したり。此際余の不審に感ぜしことは、是月五日、家信あり、中に余が大阪出発後到着せる田中宮内大臣発、七月十四日付、奉天満文蔵経の調査を依頼したき旨の電報を封入しありたれば、翌六日福島将軍に之を示して、返電を如何に取計ふべきやを詢りたるに、将軍は色甚だ懌ばずして、打捨て置くべしと答へられしことなり。盖し将軍は田中宮内大臣よりの委嘱は専ら総司令部の名を以て之を処置し、他人に其の事を分任するを欲せず、而して余には総司令部の下受負を為さしめたる者の如くなりき。余は明治三十五年に黄寺其他の諸蔵経を一見して後、蒙満文に関する智識の必要を感じたれば、其後北京にて二文に関する典藉字書等を捜購して独習を為し此時は略ぼ其の文法を了解するに至れるを以て、此次の調査は前回の如く誤謬に陥いるの憂なき自信を有したりしなり。

 
 

金字蒙古文蔵経写本包袱夾板付        一部百余凾

実勝寺(即チ黄寺)東仏殿内東方西面セル架間並ニ南方北面セル架間ノ東隅一部ニ収儲ス伝説ニハ内蒙古​チヤハル​​察哈児​​リンダンハン​​林丹汗​ノ母、伝国璽及ビ​マハガラ​​嗎哈噶喇​仏ト共ニオープンアクセスNDLJP:154 送リ来ル所ト称スレドモ実勝寺碑並ニ東華録ニハ仏経将来ノ事ヲ載セズ盛京通志等ノ書ニハ此ノ伝説ヲ取レドモ多少ノ錯謬アルガ如シ但シ金字経ガ明代ノ製作ニ係リ蒙古ヨリ将来セリトノ説ハ疑フベカラザルニ似タリ原ト一百八凾及ビ目録アリシモノナルガ如キモ光緒二十六年〈我が明治三十三年〉土匪寺中ニ侵入シテ其ノ黄緞ノ包袱ヲ切掠シ去リシ際多少ノ錯乱ヲ来シ今ニ整理セラレズ其ノ製作精巧ナル夾板モ頗ル散乱シ居レリ宜シク注意シテ佚去ヲ防グベシ要スルニ此ノ金字経ハ清朝ニテ蒙文経出板以前ノ写本ニ係リ又丁寧ニ校訂ヲ経タル跡アレバ蒙文経中ニテ最モ貴重スベキ者タリ

〈満漢蒙番〉四体合壁大蔵全兕 刻本        五部

 毎部目録一套八巻、同文韵統一套八巻、本文八套八十巻

乾隆三十八年全部刻成リ、第一套第一巻ノ首ニ乾隆二十三年御製序文及ビ三十八年訓旨ヲ載セテ其ノ始末ヲ明カニセリ五部ノ内一部ハ同文韵統ヲ欠キ目録二通アリ本文又破損アリ他ノ四部ハ大抵完全ニシテ特ニ三部ハ最モ善シ此書モ非常ニ散乱シ居リシヲ此次繙閱ノ際一応整理シテ黄寺東仏殿ノ東方西面セル架間ノ中部上方ニ左図ノ如ク収儘シ置ケリ(闕略ス)

蒙古文蔵経紅印本包袱ナシ夾板モ全カラズ         一部百余凾

何年ノ刻ニ係ルヲ知ラズ多少ノ錯乱アルガ如キモ大ナル欠損ナカルベシ現ニ黄寺東仏殿南北二方ノ架問ニ収備ス其ノ目録ハ西仏殿西方東面セル架間ニ混入セシヲ今改メテ東仏殿内ニ帰セリ満蒙二目録ハ完全セルモ西番目録ハ脱落多ク目録ニヨリテ考フレバ内容ハ西蔵経ト尽ク一致セザル者ノ如シ此ト同本ハ別ニ太平寺ニモ存在シテ此ノ分ハ完全セリ

西番文蔵経紅印本包袱夾板アリ         一部百六凾現ニ蔵シテ黄寺西仏殿ニアリ康熙二十三年刻成ニカヽリ之ヲ宮内省御蔵東京帝国大学保管ノ本ニ比較スルニ其乙類本ト甚ダ相類セルガ如ク其内数国ヲ検スルニ紙数モ略ボ同一ニシテ其マヽ差違アルハ宮内省本ノ方欠損アルニヨルガ若シ要スルニ西蔵文経トシテハ比較的完全ナルモノト謂フベシ但シ其ノ甘珠爾ニ止マリテ丹珠爾ナキハ両本同一ナリ目録ハ包袱夾板ヲ失ヒ架間北方ノ下隅ニ存在シ満漢蒙番四文ヨリ成レリ

オープンアクセスNDLJP:155 西番文首楞厳経紅印本包袱ナシ紙製夾板アリ        二部

御製序ヲ附セリ乾隆二十八年ノ訳成ニ係ル現ニ蔵シテ黄寺西仏殿西方架間ノ北方下隅ニアリ此ハ原ト西番文蔵経中ニ存セザリシヲ乾隆中章嘉国師等ニ命ジテ新タニ漢文ヨリ翻訳セシメタル者ナルヲ以テ蔵経トハ別行セリ

  以上黄寺所蔵

蒙古文蔵経紅印本包袱夾板俱ニ全シ         一部百八凾

外ニ目録一凾アリ現ニ黄寺西隣太平寺中ニ蔵ス黄寺所蔵印本蒙文経ト同一ニシテ此本ノ方最モ完全シ其架間ノ排置ノ如キモ整然トシテ紛レズ夾板ニ光緒九年協領某敬立ノ文字アリ近年ノ寄附本ニシテ帝室官府ノ関係ナキ者ノ如シ

  以上太平寺

西番文蔵経紅印本         一部百七凾

現ニ蔵シテ御花園長寧寺本殿ニ在リ黄寺所蔵番文経ト同一ナルガ如シ同寺ニ別ニ写本黒紙白字番文経ノ零本数十国ヲ蔵セリ

  以上長寧寺

満洲文蔵経紅印本         残欠本

原ト北塔法輪寺ノ所蔵ニカヽル今春ノ兵乱ニ散乱シテ非常ニ残欠セリ其ノ残本ハ現ニ奉天軍政署中ニ蔵セリ奉天各寺中北塔ハ主トシテ満洲人ノ​ラマ​​喇嘛​ヲ養成ノ目的ニ使用セラレシヲ以テ満文蔵経モ単ニ此一寺ニ存セシガ残欠ニ帰セシハ甚タ痛恨ニ堪ヘザルモ其ノ一部分ナリトモ保存スルヲ得タルハ至幸ナリ但ダ今後ノ保存ニ注意セラレンコトヲ冀フノミ

満文蔵経ハ乾隆三十七八年ヨリ十七八年ヲ経テ翻訳印刻ヲ完成セシ者ニシテ其ノ内容ハ西蔵蒙古両経ト全ク同ジカラズ例ヘバ阿含部ノ若キハ西蔵経ニ存セザルヲ此本ニハ漢訳蔵経ヨリ訳出セルガ如キ是ナリ此ノ残欠本ハ其目録ノ存佚知ルベカラザルモ阿含部其他ノ存在ニヨリテ乾隆御訳本タルコト明白ナルヲ得タルナリ

 此の調査中黄寺金字蔵経の蒙文なることを発見せしは、余が手記によれば、蓋し八月五日の事なりしと覚ゆ。此時は予期せし満文蔵経にあらざりしことを知りオープンアクセスNDLJP:156 しが為に痛く失望したりしが、其後十日に至り、北塔にて満文蔵経の残片を発見せし際は、悲喜交々至り。中情言ふべからざる者ありき。当時の手記に云く、

十日大里氏上野大尉九一ト同ジク黄寺掌印​ダラマ​​達喇嘛​ヲ訪ヒ御花園、北塔ニ赴クコトヲ告グ​ダラマ​​達喇嘛​其ノ乗用ノ馬車ヲ貸シ且ツ一侍僧ヲシテ郷導タラシム先ヅ御花園ニ至ル寺中ノ​ラマ​​喇嘛​尚ホ余ガ面ヲ記シテ三年前太宗御用ノ弓矢ヲ度リシコトヲ語ル本殿及ビ西仏殿ヲ開キ本殿所蔵ノ経ヲ観、復タ太宗御用弓矢、嘉慶御筆ノ題詩ヲ写真ス畢リテ北塔ニ赴ク殿堂残破甚シ本願寺ノ龍江義信、渡辺哲乗二氏来リ会シ其ノ仏像ヲ写真ス満文ノ蔵経零残破砕シテ狼藉地ニ満ツ之ガ為、一歎ス其ノ稍完全ナル者ハ軍政署ニ運ビ去ルト云フ云云

十三日井深通訳彦三郎ヲ訪ヒ内村邦蔵中島比多吉大原信三通訳ヲ見、北塔ヨリ運ビ来リシ満文蔵経ヲ観ル云云

 かく満文蔵経の発見は、北塔観覧の際、偶然の出来事によれり。北塔は奉天大戦の際、露軍の宿営たりしかば、兵士は皆満文蔵経を屋内に散布して、寝牀と為し、或は其上にて焚火を為しなどしたる為め乱雑収拾すべからざるに至りたるが、我軍の入奉の後、其の大部分を収めて軍政署内に保存せしとの事なり。余は北塔に赴きし際、其の取残されし経片を諦視して始めて満文蔵経なりしに心づき、数日の後、軍政署に収儲せるを見て稍安心したれども、軍政署にても其の希観の珍藉たるを知らず、偶々観覧者あれば一二葉づゝを乞ひて齎らし帰るの例となり居りしと聞き、余は福島将軍、並に軍政官小山少佐秋作氏に告げて、爾後一紙をも散せざらしめたり。

 既にして八月廿八日、東京帝国大学の市村教授瓚次郎伊藤教授忠太の二氏数人の大学院学生と共に奉天に来着し、更に開原地方の視察を為して、九月六日、再び奉天に来り、之より余等と其の調査を共にせられしが、市村教授は亦田中宮内大臣より蒙満文蔵経の調査を委嘱せられたりとて、翌七日、余と共に福島将軍を訪へる際、其の手続を求めたるに、将軍は蔵経の調査は已に内藤氏に於て之を結了し、其の結果は宮内大臣に報告せられたれば、重ねて之を為すの要なかるべしとて応ぜざりしかば、市村氏は頗る困惑の体なりき。因て余は已に黄寺の​ダラマ​​達喇嘛​と親密になれるを以て、市村氏を之に介して、観覧の允諾を得せしめ、市村氏は之によりて報告書を製して、宮内大臣に送付せし者の如くなりき。これ市村氏も此の蔵経に関係を有オープンアクセスNDLJP:157 せらるゝことゝなりたる由来なりとす。

 余は十一月五日より、旧興京、永陵地方の史蹟探検旅行を為し、十七日奉天に帰着せしが、此の間に於て満洲軍総司令部は已に引揚に着手しつゝありき。黄寺にて聞ける所にては、軍政署の中島通訳来りて、福島将軍の命を以て金字蔵経を借り去りたり、恐らくは返期なかるべしとの事なりき。然るに軍政署は翌三十九年八月、余が三たび奉天を訪へる際迄、尚存置せられたれば、残欠の満文蔵経も署中に収儲せられたるが、間もなく軍政署も撤せられ、満文蔵経は東京の参謀本部に送られたるが、此時嚮の金字蒙文蔵経は、已に宮内省に帰して、更に東京帝国大学に保管を命ぜられたる後なりしを以て、参謀本部は満文経をも并せて東京大学に送致したりといふ。是れ実に二蔵経が東京大学に帰せし始末なりとす。

(大正十三年三月芸文第十五年第三号)


 
金字蒙文蔵経の来由
 
 次には金字蒙蔵が奉天黄寺に蔵せられし緑由につきて、余が見聞の及ぶ限りの資料を提供せんとす。実は此の金字蔵経が製作されし時代、其の縁由ともに明確なる記録は一も存在せず。但だ此の蒙蔵が蒙古より将来せられし年時を記せし者には、先づ盛京通志あり。盛京通志は余が知る所三板あれども、此事に関する記事は乾隆元年板も、欽定盛京通志も殆ど同文なり、今其の旧きに従ひ、乾隆元年板に拠れば、祠祀門実勝寺の項に

又有​マハガラ​​嗎哈噶喇​楼。天聡九年。元裔​チヤハル​​察哈児​​リンダンハン​​林丹汗​之母。以白駝載​マハガラ​​嗎哈噶喇​仏金像、並金字​ラマ​​喇嘛​経、伝国璽至此。駝臥不起。遂建此楼。有碑文足拠。

 欽定本にはこの有碑文足拠の一句なし。実勝寺は黄寺の本名にして、具には蓮華浄土実勝寺といふ。寺中の碑文は満蒙蔵漢の四文にして、毎両文一碑を為し、二碑あり。今其の漢文拓本により其文を左に掲ぐ。〈余は四文の拓本を全蔵せり〉

蓮華浄土実勝寺碑記

夫幽谷無私。有至斯響。洪鐘虚受。無来不応。而况於法身円対。規矩冥立。一音称物。宮商潜運。故如来利見迦維。託生王室。憑五衍之軾。拯溺逝川。開八正之門。大庇交喪。于是玄関幽鍵。感而遂通。遥源濬波。酌而不竭。オープンアクセスNDLJP:158 既而方広東被。教肄南移。周魯二荘。同昭夜景之鑒。漢晋両明。並勒丹青之餙。自茲遺文間出。列刹相望。其来盖亦遠矣。至大元世祖時。有​ラマ​​喇嘛​​パスパ​​怕斯八​。用千金鋳護法​マハハラ​​嘛哈哈喇​。奉祀于五台山。後請移於沙漠。又有​ラマシヤルバフトト​​喇嘛夏児把忽禿兎​。復移於大元裔挿漢児​リンダンハン​​霊丹汗​国祀之。我寛温仁聖皇帝征破其国。人民威帰。時有​ラマメルゲン​​喇嘛黙児根​。随載而来。上聞之。乃命衆​ラマ​​喇嘛​往迎以礼。接至盛京西郊。因曰。有護法。不可無大聖。猶之乎有大聖不可無護法也。乃命該部。卜地建寺。於城西三里許得之。遂構大殿五楹。塑西方三大聖。左右列阿難、迦葉、無量寿、蓮華生八大菩薩、十八羅漢。天棚絵四怛的喇仏城。又有宝塔二座。供仏的曼拿羅。用黄金百両。嵌東珠。内有須弥山七宝八物。又有金壺一把。用黄金二百両。金鍾廿一。銀器倶全。東西廊各三楹。東蔵如来一百八龕脱生画像。并諸品経巻。西供嘛哈哈喇。前天王殿三楹。外山門三楹。至於僧寮、禅室、厨舎、鐘鼓、音楽之類。悉為之備。営于崇徳元年丙子歳孟秋至崇徳三年戊寅歳告成。名曰蓮華浄土実勝寺。殿宇弘麗。塑像巍峩。層軒延袤。永奉神居。豈惟寒暑調。雨鳴若。受一時之福利。盖世弥積而功宣。身逾遠而名劭。行将垂示於無窮矣。

大清崇徳三年歳次戊寅孟秋吉旦

指使塑画畢力兎朗蘇 塑匠尼康喇嘛 雕刻木匠毛団 泥水匠崔果保

総管昭耐 画匠板盛 成墨木匠田養乾 石匠劉成

国史院大学士剛林撰 学士羅繍錦訳

弘文院大学士希福訳蒙 古文古式道木蔵訳西域文

 この碑は清太宗実録にも全文を採録したれども文字に頗る異同あり、盖し実録の編者は頗る潤色を加へたるものゝ如し。

 碑文中に挿漢児の霊丹汗といへるは、即ち盛京通志にいへる​チヤハル​​察哈児​​リンダンハン​​林丹汗​なり。碑文に拠れば元の世祖の時、​パスパラマ​​怕斯八喇嘛​即ち元史の​パスパ​​八思巴​なり​マハガラ​​嗎哈噶喇​仏像を鋳造して五台山に奉祀し、後に請て沙漠に移せしが、​シヤルバフトト​​夏児把忽禿兎​といふものありて、之を元の裔たる​チヤハル​​察哈児​​リンダンハン​​林丹汗​の国に移したり。太宗〈寛温仁聖皇帝とは太宗生存中の儀号なり〉​チヤハル​​察哈児​を征服せし時、​ラマメルゲン​​喇嘛黙児根​、此仏を随載して来れるよしにて、盛京通志の如く仏経を載せ来りしことを言はざれども東廊に諸品経巻を蔵せることは之を明記し、是れ余が解題中オープンアクセスNDLJP:159 東仏殿に蔵せりとあるに合するのみならず、文学士石浜純太郎君が甞て東京大学図書館にて、かの金字経を繙閱せる際、其の跋語中に屢々​リンダンハン​​林丹汗​の時に書写せることを記せるを見たりといへば、盛京通志の説が決して根拠なき者にあらざることを知るべし。尤も碑文にはたゞ諸品経とのみあつて、其の何文たるをも明かにせざるも、此時は黄寺に蔵せる西番文、蒙古文の二蔵経の未だ刊刻せられざる以前の事なれば、単に諸品経といへるのみにて、之を金字蒙文経と断ずること、必ずしも不当とは為さやる次第なり。

 但此の盛京通志の記事は、単に寺伝によりしのみにて、文献を考徴せざりしが如く、事実に於て頗る誤謬あり。盖し清太宗の​チヤハル​​察哈児​を討ちしは天聡八年に在り、​チヤハル​​察哈児​​リンダンハン​​林丹汗​力敵せずして西の方​タングト​​湯古忒​に奔らんとし、​シラエイグル​​西喇衛古爾​部落地方に至り、痘を病みて殂せしかば、其部下等は離散し、或ものは​チヤハルハン​​察哈児汗​の妻子等を送り来りて帰服せしは、太宗実録に詳録せる所なるが、其歳十二月​メルゲンラマ​​墨爾根喇嘛​〈即ち碑文中の黙見根〉が天運已に満洲に帰せるを見て、​マハガラ​​嘛哈噶喇​金身を載せ至りしこと、并に其の金身の来歴は実録の記する所、全く碑文と一致すれば、​チヤハル​​察哈児​太后等が斎らし来れりとするは、盛京通志の謬伝なるべし。〈此時太宗の命を奉じて​メルゲン​​墨爾根​を迎へしは、実録に畢礼克図嚢蘇とあり、即ち碑文中の畢力兎朗蘇なること疑なし。〉此の金身像を得て、黄寺を建つることは、​チヤハル​​察哈児​征服の記念事業として重要視せられし者なるべく、実録の天聡九年七月癸酉の条に

遣董得貴。率八家人。売書二通往朝鮮。其一書曰。予旧居興京城。有寺頽圮。今復修理。又蒙古大元世祖忽必烈時。伯斯八喇嘛以千金鋳仏一尊。西夏国沙爾巴庫図克図喇嘛。携之帰于元太祖成吉思後裔察哈爾林丹汗。今​チヤハル​​察哈爾​帰滅。闔属来附。此仏已至敵邦。復有諸宝粧成仏像。亦已携至。今虔造寺宇供養。需用顔料。非子自奉。亦不在互市之例者。想尊釈教。王所稔知也。所有応用顔料。希一一発給。幸勿稽誤。

とあり。沙爾巴庫図克図は即ち実勝寺碑の夏児把忽禿兎の対音にして、此書によりて其の西夏僧たることを知るを得。此書に対する朝鮮王の答書は予が写せる盛京崇謨閣旧檔中、朝鮮国王来書簿に見えたり、即ち天聡九年九月分の条に

初九日董得貴資到朝鮮国王答書、

金国汗。貴差至平壌。伝致国書。承貴国修建仏寺。又得大元仏尊。此天以オープンアクセスNDLJP:160 慈悲之教福貴国之人也。所要彩画。別録以呈。其中大緑石青弐種。求諸市上而不得。茲未送副。幸惟恕亮。

又一顔色単

真粉参拾觔 水桃黄拾觔 松脂陸觔 白蠟拾觔 錦脂伍百片 青花弐拾伍觔 三緑拾肆觔 石紫黄拾伍觔 金箔伍拾櫃毎櫃壱百張 鍮鉱拾觔

 伝国璽の送到に関しては太宗実録の記事甚だ詳密にして、天聡九年八月庚辰の条に察哈爾を征せる多爾袞、岳託、薩哈廉、豪格​チベイレ​​四貝勒​が軍中より奏せる疏中に、

先是四貝勒出征察哈爾国。獲歴代伝国玉璽。伝自元朝諸帝至順帝。為明洪武帝所敗。遂棄都城。携璽逃至沙漠。後崩于応昌府。重遂失。越二百余年。有牧羊于山岡下者。見一山羊三日不食草。但以蹄掘地。牧者発之。遂得此璽。既而又帰于大元後裔博碩克図汗。後為察哈爾林丹汗所侵。国破。復帰于林丹汗。亦元裔也。四貝勒聞重在蘇泰太后福金所。遂索之。既得。視其文。乃漢篆制誥之宝四字。以二交龍為紐。実至宝也。四貝勒喜甚。曰皇上洪福。故獲天賜。遂収其宝。

とあり。又九月癸丑の条に太宗が凱旋せる​チベイレ​​四貝勒​​ヤンシム​​陽石木​河に迎へ、御営の南岡築く所の壇上に至り黄案を設け、香を焚き螺を吹き、天を拝して三跪九叩頭礼を行ひ畢りて御座に還りたれば、四貝勒は案を設け種を鋪き、得る所の玉璽を其上に置き、正黄旗固山額真那木泰、鉱白旗固山額真吏部承政図爾格をして案を挙げて前進せしめ、四貝勒は衆を率ゐて遥かに跪きて以て御幄前に献じ、太宗は之を受け、親しく玉璽を持して、衆を率ゐて復た天を拝し、三跪九叩頭礼を行ひ、礼畢りて位に復り、左右に伝諭して、此玉璽は乃ち歴代帝王用ゐる所の宝也といへることを記したれば、仏像、金字経と同じく察哈爾より来れるも、其の事情は各々異なること知るべく、盛京通志の記載は必ずしも正確ならざるが如し。

 
満文蔵経の来由
 
 支那にて西蔵文蔵経の開版せられしは、何時に在りや、正確には知り難きも、北清事変の後、北京黄寺所蔵の西蔵文蔵経が我邦に将来せられ、東京帝国大学、及び真宗大学に帰せし頃、帝国東洋学会々報〈明治三十五年八月〉に其の簡略なる解題を載せたることあオープンアクセスNDLJP:161 り。〈或は高楠文学博士の筆に成りたるならん〉其文中に東京大学に存する白紙紅字の板本は万暦年間の開板に係り、真宗大学蔵の蔵経は経部(カンジユル)は康熙二十二、三年続続(タンジユル)は雍正二年の開板に係ることを記されたり。余が奉天にて観たる諸蔵経中、西蔵文のものは、康熙二十三年八月二十三日の御製序及び同月十六日の請序疏等ありて、疏中に「重刊番蔵名経」の文あれば、康熙二十三年の刻経が重刊にして、其の以前に初刊あること明らかに帝国東洋学会々報の説と暗合するを覚ゆ。且つ此の重刊の際には、西蔵文の外に蒙文をも併せ刻したる者ならん。

 満文蔵経の繙訳刊行に関しては、礼親王嘯亭雑録に簡略なる記事ありて其の始末を知るべし。即ち其の続録巻之一に清字経館と題し、

乾隆壬辰上以大蔵仏経有天竺番字漢文蒙古諸繙訳。然其禅悟深邃。故漢経中咒偈。惟代以翻切。並未訳得其秘指。清文句意明暢。反可得其三昧。故設清字経館於西華門内。命章嘉国師。経理其事。達天蓮筏諸僧人助之。考取満謄録纂修若干員。繙訳経巻。先後凡十余年。大蔵告蔵。然後四体経字始備焉。初貯経板於館中。後改為実録館。乃移其板於五風楼中存貯焉。

 この記事によれば満文蔵経の繙訳は乾隆三十七年に著手せられたるが如く見ゆるも、王先謙の東華続録によれば、清字経館開設の上諭は乾隆三十八年二月甲戌 〈十五日〉に発せられたり。此日四体合璧大蔵全咒の板本完成して、之を京城及び直省各寺院に頒賜するの諭あり、更に清字経館開設に関する上諭を発せり、曰く、

諭大蔵漢字経国。刊行巳久。而蒙古字経亦倶繙訳付鐫。惟清字経文尚未辦定。揆之闡教同文之義。実為闕略。因特開清字経館。簡派皇子大臣。於満洲蒙古人員内。択其通暁繙訳者。将蔵経所有蒙古字漢字両種悉心校覈。按部繙作清文。並命章嘉国師董其事。毎得一巻。即令審正進呈。候朕裁定。今拠章嘉国師奏称。唐古特甘珠爾経一百八部。倶係仏経。其丹珠爾経内有額訥特珂克得道大喇嘛等所伝経二百二十五部。至漢字甘珠爾経。則西方喇嘛及中国僧人所撰。全行列入。今擬将大般若、大宝積、大集、華厳、大般涅槃、中阿合等経、及大乗律。全部繙訳。其五大部支派等経八種、並小乗律。皆西土聖賢撰集。但内多重複。似応删繁就簡。若大乗論、小乗論、共三千六百七十六巻。乃後代祖師在此土撰述。本非仏旨。無庸繙訳等語。所奏甚合体要。自応照オープンアクセスNDLJP:162 擬弁理。粤自白馬駄経。梵文始伝震旦。其閒名流筆授。展転相承。雖文字語言未必即与竺乾悉協。然於仏説宗旨。要不失西来大義。逮撰集目録者。以経律論区為三蔵。於是大乗小乗。哀集滋繁。且於仏経外。兼取羅漢菩薩所著賛明経義者。以次類編入部。在西土諸仏弟子。尚係親承指授。或堪羽翼宗風。泊乎唐宋以降緇徒。支分派別。一二能通内典者。輒将論疏語録之類。覬得続入大蔵。自詡為伝鐙不墜。甚至拉入塔銘誌伝。僅取鋪張本師宗系。乖隔支離。与大慈氏正法眼蔵。去之愈遠。殊不思此等皆非仏説真言。刊入続蔵内。已為過分。豈可漫無区別。如章嘉国師所云。実釈門之公論也。昔我皇考曽命朕。於刊刻全蔵時。将続蔵中所載叢雑者。量為删訂。嗣朕即位後。又合大臣等復加校覈。撤去開元釈教録略出、弁偽録、永楽序讃文等部。其銭謙益所著楞厳蒙鈔一種。亦拠奏請毀撤。所有経板書篇。均経一体芟汰。期於澂闡宗門。茲清字経館正当発凢起例之始。如不立定規条。致禅和唾余剽窃。亦得因縁貝夾。清乱経凾。転乖敷揚内典之指。可将章嘉国師奏定条例清単。交館詳断辦理。並伝諭京城及直隷各寺院。除見在刊定蔵経。毋庸再為删削外。嗣後凡別種語録著述。止許自行存留。僅有無識僧徒。妄思哀輯彙録。詭称続蔵名目。観欲竄清正典者。倶一槩永行禁止。庶幾梵文厳浄。可以討真源而明正見。但此事関係。専在釈教。毋庸内閣特頒諭旨。著交与該管僧道処。行知各処僧綱司。令其通筋僧衆人等。永遠遵行。

 是れ其繙訳事業の凡例ともいふべき者にして、満文蔵経は此の方針によりて訳編されたるなり。又高宗純皇帝御製文三集〈乾隆帝在位中の御製集〉巻九に清文繙訳全蔵経序を載せて曰く

為事在人。成事在天。天而不佑。事何能成。人而不為。天何従佑。然而為事。又在循理。為不循理之事。天弗佑也。子所挙之大事多矣。皆頼昊乾黙佑以底有成。則予之所以感既奉行之忱。固不能以言語形容。而方寸自審。不知其当何如也。武功之事。向屢言之。若訂四庫全書。及以国語訳漢全蔵経二事。背挙於癸已年六旬之後。既而悔之。恐難観其成。越十余載而全書成。茲未逮二十載。而所訳漢全蔵経又畢蔵。夫耳順古希。已為人生所艱致。而况八旬哉。茲六旬後所剏為之典。逮八旬而得観国語大蔵之全成。非吴乾オープンアクセスNDLJP:163 嘉庇。其孰能与於斯。而予之所以増惕欽承者。更不知其当何如矣。至於以国語訳大蔵。恐人以為惑於禍福之説。則不可不明示其義。夫以禍福趨避教人。非仏之第一義諦也。第一義諦仏且本無。而况於禍福乎。但衆生不可以第一義訓之。故以因縁禍福引之。由漸入深而已。然予之意仍並不在此。蓋梵経一訳而為番。再訳而為漢。三訳而為蒙古。我皇清主中国百余年。彼三方久属臣僕。而独闕国語之大蔵。可乎。以漢訳国語。俾中外胥習国語。既不解仏之第一義諦。而皆知尊君親上。去悪従善。不亦可乎。是則朕以国語訳大蔵之本意。在此不在彼也。茲以耄耋観蔵事。実為大幸。非溺於求福之説。然亦即蒙天福佑。如願臻成。所為益深長満悚惕做戒而已耳。是為序。

 此序によれば、満文訳経の始は実に東華録の所記と同じく、乾隆三十八年に在り、嘯亭雑録の説は未だ確ならざるに似たり。又其の訳する所の底本も、漢訳蔵経に拠りたる者にして、西蔵文より訳出せるにあらざるが如きも、既に蒙文を校覈し、章嘉国師に其事を董せしめたれば、全く蔵文を参考せざることはあらざるべし。其の完成の歳月は又此序文が衛蔵通志巻首に編録されたる者に乾隆五十五年二月初一日とあるによりて明瞭なり。〈御製集には歳月を載せず〉但だ乾隆帝が梵経一訳而為番。再訳而為漢、三訳而為蒙古といへるは事実に違へるも、今之を弁ずるの要なし。

 章嘉国師が清朝の崇敬を受けたる由来、其の伝記、満文蔵経以外の訳業、及び之を助けたる蓮筏の事歴に至りては、猶述ぶべき者なきにあらず。更に他日を俟て、此稿を続ぐべし。又満文大蔵経の目録は衛蔵通志巻十六に出でたれば、之を康熙板の番蔵目録等に参照せば、其の内容の概略をも知り得べきも、皆之を績稿の日に譲らんとす。

  附記

近頃在北京松浦嘉三郎君の来信、並びに中外日報の記する所によれば、真言宗の加地哲定君は北京午門の城壁中に於て、蒙文満文の蔵経板を発見せられたりとて、松浦君は其の一部分の紅印様本を送られたり、是れ実に喜ぶべき報道といふべし。実は余は上野靺鞨君が午門に於て経板を発見せざりしことを聞きし後、之を北京嵩祝寺、即ち章嘉国師の住せる寺中に物色せしも、庚子の変、徳兵に占領せられし後、寺中の経典も全く佚し去れりとの事にて要領を得ず。嵩祝寺の一喇嘛は或は海淀の功徳寺に之あらんも知れずオープンアクセスNDLJP:164 と語りしにより、之を尋ねたるも、海淀には功徳寺なる者あらざりき。故に経板並に足本満文蔵経の存在に就きては殆ど絶望に帰したりしに、若し加地君の発見によりて、此の闕典を補ふことを得ば、学界教界に裨益すること甚だ大なるべし。君が衛蔵通志に収めたる目録によりて満文蔵経の足否を精検し、又番蔵目録によりて蒙文蔵経を検せられんことを望むこと切なり。

(大正十三年六月芸文第十五年第六号)

  附記の二

 
章嘉国師の訳業及び蓮筏が事
 
乾隆間、清の高宗純皇帝の御製に成りし喇嘛説に、

我朝惟康熙年間。祗封一章嘉国師。相襲至今。

とあり。其の原註に、

我朝雖興黄教。而並無加崇帝師封号者。惟康熙四十五年勅封章嘉呼図克図為灌頂国師。示寂後。雍正十二年仍照前襲号為国師。

あり。之によれば康熙より乾隆に至る年間に、章嘉国師は初代、二代を経たるなり。其の北京皇城三眼井の東、嵩祝寺胡同の嵩祝寺に住持せしことは、宸垣識略、及び京師坊巷志等に見えたり。其の初代をば灌頂普恵広慈大国師といひ、其の解悟の透達なりしことは、雍正十一年九月、世宗憲皇帝の御製にかゝる御製語録後序に見え、帝は之を当時の高僧、迦陵音、性音、千仏音等に比して、非常の差あることをいひ、真の再来人、大善知識なりと激称し、朕が証明の恩師たりといへり。但だ雍正帝の仏法に於けるは、真実参究を旨として、乾隆帝の如く、此を以て太平を文飾するの具と為すにあらざりしが故に、訳業等に着手するに至らざりしなり。〈康熙の時、四体心経を繙訳せし者、雍正の時に至りて印行せしことは之あり。〉

第二代の章嘉国師は灌頂普善広慈大国師といひ、其の事歴は粗ぼ礼親王嘯亭雑録に出づ、云く、

国家寵幸黄僧。並非崇奉其教以祈福祥也。紙以蒙古諸部。敬信黄教已久。故以神道設教。藉仗其徒。使其誠心帰附。以障藩籬。正王制所謂易其政不易其俗之道也。然亦有聡慧之士。生其間者。如章嘉国師者。西寧人。俗姓張。少聡悟。熟悉仏教経巻。純皇帝最優待之。性直鯁。上嘗以法司案巻。令師判決。師合掌曰。此国之大政。皇上当与大臣討論。非方外之人所敢預也。又寺与某相国鄰。師悪其為人。卒不与之往来。其尤オープンアクセスNDLJP:165 著者為折服哲敦番僧叛謀之事。故詳載之。乾隆乙亥[1]。阿逆[2]之謀既露。誠勇公命喀爾喀親王額林沁。伴之入覲。額中途泄其謀。故縦阿去。上震怒。賜額自縊。故事元太祖裔。従無正法者。諸部蠢動曰。成吉斯汗後。従無正法之理。因推其兄哲敦国師為主。勢多区測。師時扈従木蘭。上以其事告之。師曰。皇上勿慮。老僧請折簡以消逆謀。因夜作札。備言国家撫綏外藩。恩為至厚。今額自作不軌。故上不得巳。施之於法。乃視蒙古与内臣無異之故。非以此尽疑外藩有異心也。如云元裔即不宜誅。若宗室犯法。又若之何。况吾儕方外之人。久已棄骨肉於膜外。安可妄動嗔相。預人家国事也。遣其徒白姓者。日馳数百里。旬日始達其境。哲敦已整師。刻日起事。聞白至。厳兵以待。坐胡床上。命白匍匐而入。白故善游説。備陳其事顛末。哲敦已折服。更読師札。乃善諭白帰。其謀乃解。夫蒙古素称強盛。歴代以全力禦之。尚不能克。師乃以片紙立遇其奸。亦可嘉也。師守戒甚厳。晩年病目。能以手捫経典。尽識其字。人争異之。亦彼中篤行之士也。或言師有奇術。因造諸怪誕不経之事以帰之。則非余所敢知也。

是れ其行事の大なる者なるが、其の訳業に至りては、一生の成せる所甚だ多し。今試みに其年次に従て之を挙ぐれば、

  一、造像量度経の釐定

造像量度経は蒙古烏朱穆秦部落の原任公たる​ゴンブチヤブ​​工布査布​の訳出せる所なるが、工布査布は康熙帝に育はれて儀賔〈親王郡王の婿にして、額駙に次ぐ者〉と為り、西蔵語に通ずるにより、雍正帝特に帝都に留めて西番学の総理とし、兼ねて翻訳の事を管せしめたる者にして、舎利弗所伝と称する蔵文の原本より翻せり。章嘉国師は之に乾隆七年仏初転法輪日に製せる序文を附し、工某が訳述して予に考訂を嘱したれば、細閱数次にして、一切を規校し、詳かに釐定を加へたりとあり。但し此だけにては、其の如何なる点に釐定を加へしかは明らかならざるも、此経の続補九章の中に、七徒霊略、八装蔵略の二章ありて、

 右二条。乃章佳国師語録中節取者也。

とあれば、其の釐定の単に校正等に止らざりしを知るべし。此序には其の署名を勅封灌頂普善広慈大国師章佳胡図突書于勅建嵩祝禅林とせり。其次は


  二、欽定同文韻統の纂修

にして、此書は印度伝来の字母を本とし、更に西蔵字母、支那訳音を比較研究したる者なるが、乾隆十五年庚午冬十二月の高宗純皇帝の御製序によれば、

オープンアクセスNDLJP:166 

和碩荘親王当皇祖時。面承音韻闡微之要旨。精貫字母。博渉明弁。爰命率同儒臣。咨之灌頂普善広慈国師章嘉胡土克図。考西番本音。溯其淵源。別其同異。為之列以図譜。系以図説。弁陰陽清濁於希微杏渺之間。各得其元音之所在。至変而莫能清。至蹟而不可乱。既正貝葉流伝之訛謬。即研窮字母形声之学者。亦可探婆羅門書之姿奥。而破拘墟之曲見。

といひ、荘親王允禄が乾隆十四年正月初三日の奏疏中にも、唐古特学司業福亮等が編纂にあづかり、荘親王と章嘉胡土克図とが西番の字韻に照し、陰陽を分別し、逐一校定したる旨を記したれば、此書の纂修には国師が大に力を致せしこと明らかなり。

  三、首楞厳経の蔵訳

乾隆帝は西蔵蔵経に欠けて、独り支那にのみ存せる首楞厳経を、漢文より蔵文に訳せんことを企てたるが、此の企図は蓋し章嘉国師が帝の意を迎へて之を慫悪せし結果なるべし。乾隆二十八年十月の御製楞厳経序に、

三蔵十二部。皆出自天竺。流通震旦。其自西達東。為中途承接者。則実烏斯蔵。天竺即所謂厄訥特克。鳥斯蔵即所謂図伯特也。故今所訳之漢経。蔵地無不有。而独無楞厳、其故以蔵地有所謂浪達爾罕者[3]。毀滅仏教。焚瘻経典時。是経已散失不全。其後雖高僧輩補直編葺。以無正本。莫敢妄増。独補敦祖師曽授記是経当於後五百年。仍自中国訳至蔵地。此語乃章嘉呼図克図所誦梵典。炳炳可拠。朕於幾政之暇。毎愛以国語繙訳経書。如易書詩及四子書。無不蔵事。因思皇祖時曽以四体繙訳心経。皇考時会鋟而行之。是楞厳亦可従其義例也。諮之章嘉呼図克図国師。則如上所陳。且曰。心経本蔵地所有。而楞厳則蔵地所無。若得由漢而訳清。由清而訳蒙古。由蒙古而訳図伯特。則適合補敦祖師所授記也。雖無似也。而実不敢不勉焉。因命荘親王董其事。集章嘉国師及傅鼐諸人。悉心編校。逐巻進呈。朕必親加詳閱更正。有疑則質之章嘉国師。蓋始事則乾隆壬申。而訳成於癸未。荘親王等請叙而行之。云云

とあり。所謂補敦の予言なる者も、国師の誦する所に出でしのみなれば、其の由来も推して知るべし。此の訳業は乾隆十七年より二十八年まで十三年を費し、而して之に任じたるは、同文韵統と同じく、荘親王と国師との主として監修せる所なれば、盖し同文韵統の継続事業とも看ることを得べし。

  四、四体合壁大蔵全呪の編纂

オープンアクセスNDLJP:167 次で起りし編訳は、即ち此書なり。之に就ては乾隆三十八年二月の上諭あり、云く、

大蔵経中呪語。乃諸仏秘密心印。非可以文義強求。是以概不繙訳。惟是呪中字様。当時訳経者。僅依中華字母。約略対音。与竺乾梵韻不啻毫。童千里之謬。甚至同一漢字。亦彼此参差。即如納摩。本音上為諾牙切。下為模倭切。而旧呪或作曩謨。或作奈無。且借用南無者尤多。皆不能合於正。其他牽附平離。類皆類此者。難以縷数。嘗命荘親王。選択通習梵音之人。将全蔵諸呪詳加訂訳。就正於章嘉国師。凡一字一句。悉以西番本音為準。参之蒙古字以諧其声。証之国書以正其韻。兼用漢字。期各通暁。編為四体合璧大蔵全呪。使唄唱流伝。脣歯喉舌之間。無爽銖黍。而於呪語原文。一無増省。且按全蔵諸経巻帙。編次字様。並為標注。以備稽查。書既成。序而寿之剖闘。刊為八凾茲装漬蔵工。著交該処。査明京城及直省寺院。向曽頒過蔵経者。倶各給発一部。俾緇流人衆展巻研求。了然於印度正音本来如是。不致為五方声韵所清。庶大慈氏微妙真言。闡揚弗失。不可謂非震旦沙門之幸。若僧徒等。因伝習已久。持誦難以遠調。憚於改易字音者。亦聴其便。将此伝令各僧衆等知之。

此の上諭には其事を何年に始めしやを言はざるも、訳業に関係せる荘親王允禄は、巳に乾隆三十二年二月に於て逝去したれば、其以前に事を肇めしことは疑なく、御製序文ある乾隆二十三年に始まりしやも知れず。或は楞厳の蔵訳中、若くは其終りし後、間もなく企てられたるべし。かくて此の大蔵全呪の訂訳完成の上諭下ると同日に清字経館開設の上諭〈巳に本篇に出す〉併発せられ、更に十七年を費して、其の大訳業を遂げたるにて、章嘉国師は同文韻統の編纂が始まりし乾隆十三四年以来、五十五年に至るまで、四十余年間、此の訳業と終始したりしなり。

蓮筏が事歴は亦嘯亭雑録に見ゆ、云く、

万寿寺僧人蓮筏長洲人。為寺中住持十数年。貌清耀。蕭然白髪。為出世状。頗解禅理。与章嘉国師談論経典。毎至竟日。国師深服其博。蓮公背謂人曰。章嘉経典雖諳熟。然未解阿羅漢道。尚下乗学也。其詩清新。饒有別趣。与韓旭亭[4]、法祭酒唱和[5]。頗有虎渓三笑之風。丁巳春余至寺[6]。師為欵茶。年已七十余。尚軽健如故。未久謝世。聞其円寂数日前。至鄭邸[7]。盤旋竟日。曰七宝池辺已促吾行。不復参謁王矣。此石琴主人親告余者。亦彼教中善知識也。

  附註

オープンアクセスNDLJP:168 
  1. 乾隆乙亥は其の二十年なり。
  2. 阿逆とは準喝爾の輝特台吉阿睦爾撒納をいふ。
  3. 蒙古源流巻二に朗達爾瑪汗が大衆三蔵以下、下乗以上の三乗及び四項の僧人を珍滅し、禅教を残毀し、拉隆巴勒多爾済に殺されしことを載せたり、こゝにいへる浪達爾罕とは其事をいへるなり。
  4. 韓旭亭名は景升、年四十にして儒冠を棄つ嘉慶二十一年年八十二にして没す。刑部尚書韓対の父なり。
  5. 法祭酒名は式善、時帆、又梧門と号す、蒙古八旗の人にして、乾隆庚子の進士、詩を善くし、官国子祭酒に至る。
  6. 丁巳は嘉慶二年なり。
  7. 鄭邸は鄭親王烏爾恭阿り。

(昭和四年三月記)

 
 

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