源氏物語 (國文大觀)/上

提供:Wikisource

源氏物語


桐壷

いづれのおほん時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやんごとなききはにはあらぬが優れて時めきたまふ有りけり。始より我はと思ひあがりたまへるおほん方々、めざましきものにおとしめ猜みたまふ。同じ程、其より下﨟󠄀の更衣たちはまして安からず。朝夕の宮仕につけても人の心を動かし怨を負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき物心ぼそげに里がちなるを、いよいよ飽かず哀なるものに覺ほして人の謗をも得憚らせたまはず世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。上達部うへ人などもあいなく目をそばめつゝ、いとまばゆき人の御おぼえなり。もろこしにもかゝる事のおこりにこそ世も亂れ惡しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう人のもてなやみぐさになりて楊貴妃のためしも引き出でつべうなり行くにいとはしたなきこと多かれど、辱き御心ばへの類なきを賴にて交らひたまふ。父の大納言はなくなりて、母北の方なむいにしへの人の由あるにて、親うち具しさしあたりて世のおぼえ華やかなるおほん方々にも劣らず何事の儀式をももてなしたまひけれど、とりたてゝはかばかしき御後見しなければ事とある時は猶より所なく心細げなり。さきの世にもおほん契や深かりけむ、世になく淸らなる玉のをのこ皇子さへ生れたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ參らせて御覽ずるに珍らかなるちごのおほんかたちなり。一のみこは右大臣の女御のおほん腹にてよせ重く疑なきまうけの君と世にもてかしづき聞ゆれどこのおほん匂ひには並び給ふべくもあらざりければ大方のやんごとなき御おもひにてこの君をば私物におぼほしかしづきたまふこと限なし。始よりおしなべての上宮仕したまふべききはにはあらざりき。おぼえやんごとなくしやうずめかしけれどわりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊の折々何事にも故ある事の節々にはまづ參う上らせたまふ。ある時には大殿籠りすぐしてやがてさぶらせたまふなど、あながちにおまへ去らずもてなさせたまひし程に、おのづから輕き方にも見えしを、この皇子生れたまひて後はいと心殊に思ほしおきてたれば、坊にも善うせずはこの皇子の居たまふべきなめりと、一のみこの女御は覺し疑へり。人より先に參りたまひてやんごとなき御思ひなべて思ひ聞えさせたまひける。畏き御蔭をば賴み聞えながら、おとしめ疵を求め給ふ人は多く我が身はかよわく、ものはかなき有樣にてなかなかなる物思をぞしたまふ。御局は桐壷なり。數多のおほん方々を過ぎさせたまひつゝ隙なき御まへわたりに人の御心を盡したまふも、實にことわりと見えたり。參う上りたまふにも、あまり打ち頻る折々は內階、渡殿、此處彼處の道に怪しきわざをしつゝ、御送り迎への人のきぬの裾堪へ難うまさなきことどもあり。又ある時はえさらぬめだうの戶をさしこめ此方彼方心を合せてはしたなめ煩はせ給ふ時も多かり。事にふれて數知らず苦しきことのみ增ればいと痛う思ひわびたるをいとゞ哀と御覽じて、後凉殿にもとよりさぶらひ給ふ更衣の曹子をほかに移させたまひて、うへ局にたまはす。その怨ましてやらむ方なし。このみこ三つになりたまふ年おほん袴着のこと一の宮の奉りしに劣らず、くらづかさをさめ殿の物を盡していみじうせさせ給ふ。それにつけても世のそしりのみ多かれど、このみこのおよすげもて坐する御かたち、心ばへありがたく珍しきまで見え給ふを得猜みあへたまはず。ものゝ心知りたまふ人は、かゝる人も世に出でおはするものなりけりと淺ましきまで目を驚かしたまふ。その年の夏みやすどころはかなき心地に煩ひて、まかでなむとしたまふを、暇更に許させたまはず。年ごろ常のあつしさになりたまへれば御目馴れて「猶暫し試みよ」とのみのたまはするに日々に重り給ひてたゞ五六日の程にいと弱うなれば母君なくなく奏してまかでさせ奉りたまふ。かゝる折にも、あるまじき耻もこそと心づかひして、みこをば留め奉りて忍びてぞ出で給ふ。限あれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覽じだに送らぬおぼつかなさをいふ方なく悲しと覺さる。いと匂ひやかに美くしげなる人の痛う面瘦せていと哀とものを思ひしみながらことに出でゝも聞えやらずあるかなきかに消え入りつゝものしたまふを御覽ずるに、きし方行く末おぼしめされず萬の事をなくなく契りのたまはすれど、おほんいらへもえ聞えたまはずまみなどもいとたゆげにていとゞなよなよと我かの氣色にて臥したれば、いかさまにかとおぼしめし惑はる。てぐるまの宣旨などのたまはせても又入らせ給ひては更にゆるさせたまはず、「限あらむ道にも後れ先だゝじと契らせたまひけるを、さりとも打ち捨てゝはえ行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見奉りて、

 「かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり。いと斯思う給へましかば」と息も絕えつゝ聞えまほしげなることはありげなれどいと苦しげにたゆげなれば、かくながらともかくもならむを御覽じはてむとおぼしめすに、今日始むべきいのりどもさるべき人々うけ給はれる「今宵より」と聞え急がせば、わりなくおもほしながらまかでさせたまひつ。御胸のみつとふたがりてつゆまどろまれず明しかねさせたまふ。御使の行きかふ程もなきに猶いぶせさを限なくのたまはせつるを「夜中うち過ぐる程になむ絕え果て給ひぬる」とて泣き騷げば、御使もいとあへなくて歸り參りぬ。聞しめすおほん心惑ひ、何事も覺しめしわかれず籠り坐します。みこはかくてもいと御覽ぜまほしけれど、かゝる程にさぶらひたまふれいなき事なれば、まかで給ひなむとす。何事のあらむとも思ほしたらず、さぶらふ人々の泣き惑ひうへもおほん淚の隙なく流れおはしますを怪しと見奉りたまへるを、よろしきことだにかゝる別の悲しからぬはなきわざなるを、まして哀にいふがひなし。限あればれいの作法にをさめ奉るを母北の方「同じけぶりにものぼりなむ」と泣きこがれたまひて御送の女房の車に慕ひ乘り給ひて愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに坐しつきたる心地いかばかりかはありけむ。「空しき御からをみるみる尙おはするものと思ふがいとかひなけれは、灰になり給はむを見奉りて、今は亡き人とひたぶるに思ひなりなむ」とさかしうのたまひつれど、車より落ちぬべう惑ひたまへば、「さは思ひつかし」と人々もて煩ひ聞ゆ。內より御使あり、三位の位贈りたまふよし勅使來てその宣命讀むなむ悲しき事なりける。女御とだにいはせずなりぬるが飽かず口惜しうおぼさるれば今ひときざみの位をだにと贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人々多かり。もの思ひ知りたまふは、さまかたちなどのめでたかりしこと心ばせのなだらかにめやすく憎み難かりしことなど今ぞおぼし出づる。さま惡しきおほんもてなし故こそすげなう猜みたまひしか、人がらの哀になさけありし御心をうへの女房なども戀ひ忍びあへり。なくてぞとは、かゝる折にやと見えたり。はかなく日頃過ぎて後のわざなどにも細かにとぶらはせたまふ。程經るまゝにせむ方なう悲しう覺さるゝにおほん方々の御とのゐなども絕えてしたまはずたゞ淚にひぢて明し暮させたまへば、見奉る人さへ露けき秋なり。「なきあとまで人の胸あくまじかりける人の御覺えかな」とぞ弘徽殿などには尙ゆるしなうのたまひける。一の宮を見奉らせたまふにも若宮のおほん戀しさのみおもほし出でつゝ、親しき女房御めのとなどを遣しつゝ有樣を聞しめす。

野分だちて俄にはだ寒き夕暮の程、常よりも覺し出づる事多くてゆげひの命婦といふを遣す。夕づく夜のをかしき程に出し立てさせたまうて、やがて詠めおはします。かうやうの折は御遊などせさせたまひしに、こゝろ異なるものゝ音を搔き鳴らし、はかなく聞え出づる言の葉も人よりは異なりしけはひかたちの、面影につとそひておぼさるゝも、やみのうつゝには尙劣りけり。命婦彼處にまかで着きて門ひき入るゝよりけはひ哀なり。やもめずみなれど、人一人のおほんかしづきにとかく繕ひ立てゝ、めやすき程にてすぐしたまへるを、闇にくれてふし沈みたまへる程に草も高くなり野分にいとゞ荒れたる心地して月かげばかりぞ八重葎にも障らずさし入りたる。南おもてにおろして、母君もとみにえものものたまはず。「今までとまり侍るがいと憂きを、かゝる御使の蓬生のつゆ分け入りたまふにつけても耻しうなむ」とて實にえ堪ふまじく泣い給ふ。「參りてはいとゞ心苦しう心ぎもゝ盡くるやうになむと內侍のすけの奏し給ひしを、もの思ひたまへ知らぬ心地にも實にこそいと忍び難う侍りけれ」とてやゝためらひて御事傳へ聞ゆ。「暫しは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ靜まるにしもさむべき方なく堪へ難きはいかにすべきわざにかとも問ひ合すべき人だになきを、忍びては參り給ひなむや、若宮のいとおぼつかなく露けき中にすぐしたまふも心苦しう覺さるゝを、疾く參り給へなど、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつゝ、かつは人も心弱く見奉るらむと覺しつゝまぬにしもあらぬ御氣色の心苦しさに、承はりも果てぬやうにてなむまかで侍りぬる」とて御文奉る。「目も見え侍らぬに、かく畏き仰事を光にてなむ」とて見たまふ。「程經ばすこし打ち紛るゝこともやと待ちすぐす月日に添へていと忍び難きはわりなきわざになむ。いはけなき人も如何にと思ひやりつゝ、諸共にはぐゝまぬおぼつかなさを今は猶昔の形見になずらへてものしたまへ」など、こまやかに書かせたまへり。

 「宮城野の露ふきむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」とあれど、え見たまひはてず。「命長さのいとつらう思うたまへしらるゝに松の思はむことだにはづかしう思ひたまへ侍れば、百敷に行きかひ侍らむ事はましていと憚多くなむ。畏き仰事を度々承りながらみづからはえなむ思ひたまへたつまじき。若宮はいかにおもほししるにか、參り給はむ事をのみなむおぼし急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉り侍るなど、うちうちに思ひたまへるさまを奏したまへ。ゆゝしき身に侍れば、かくて坐しますもいまいましう辱く」などのたまふ。宮は大殿籠りにけり。「見奉りて委しく御有樣も奏し侍らまほしきを、待ちおはしますらむを、夜更け侍りぬべし」とて急ぐ。「暮れ惑ふ心の闇も堪へ難きかたはしをだにはるくばかりに聞えまほしう侍るをわたくしにも心のどかにまかでたまへ。年ごろ嬉しくおもだゝしきついでにのみ立ち寄りたまひしものを、かゝるおほんせうそこにて見奉る、かへすがへすつれなき命にも侍るかな。生れし時より思ふ心ありし人にて、故大納言いまはとなるまで、たゞこの人の宮仕のほい必遂げさせ奉れ、我なくなりぬとて口惜しう思ひくづほるなと、返す返す諫め置かれ侍りしかば、はかばかしう後見思ふ人なき交らひはなかなかなるべき事と思うたまへながら、たゞかの遺言を違へじとばかりに出したて侍りしを、身に餘るまでの御志の萬に辱きに、人げなき耻をかくしつゝ交らひ給ふめりつるを、人のそねみ深く積り安からぬ事多くなり添ひ侍るに、橫さまなるやうにて終にかくなり侍りぬれば、却りてはつらくなむ畏き御志を思う給へられ侍る。これもわりなき心の闇になむ」といひもやらずむせかへりたまふ程に夜も更けぬ。「うへも然なむ、我が御心ながらあながちに人目驚くばかりおぼされしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契になむ、世にいさゝかも人の心をまげたる事はあらじと思ふを、たゞこの人ゆゑにて、あまたさるまじき人の恨を負ひしはてはてはかううち捨てられて、心治めむ方なきに、いとゞ人わろくかたくなになりはつるもさきの世ゆかしうなむと、うち返しつゝおほんしほたれがちにのみおはします」と語りてつきせず、なくなく夜いたう更けぬれば「今宵すぐさず御かへり奏せむ」と急ぎ參る。月は入方の空淸う澄み渡れるに、風いと凉しく吹きて叢の蟲の聲々催しがほなるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

 「鈴蟲のこゑのかぎりをつくしても長き夜あかずふる淚かな」。えも乘りやらず。

 「いとゞしく蟲の音しげき淺茅生に露おきそふる雲の上人。かごとも聞えつべくなむ」といはせ給ふ。をかしき御贈物などあるべき折にもあらねば、たゞかの御形見にとてかゝるやうもやと殘しおきたまへりける御さうぞくひとくだり、みくしあげの調度めく物添へたまふ。若き人々、悲しき事は更にもいはず、うちわたりを朝夕にならひていとさうざうしく、うへの御有樣など思ひ出て聞ゆれば、疾く參りたまはむことをそゝのかし聞ゆれど、かくいまいましき身の添ひ奉らむもいと人ぎゝ憂かるべし。又見奉らでしばしもあらむは、いと後めたう思ひ聞え給ひて、すがすがともえ參らせ奉りたまはぬなりけり。命婦は、まだ大殿籠らせ給はざりけるを、哀に見奉る。御前の壷前栽のいとおもしろき盛なるを御覽ずるやうにて、忍びやかに心にくき限の女房四五人さぶらはせ給ひておほん物語せさせたまふなりけり。この頃あけくれ御覽ずる長恨歌の御繪、亭子の院の書かせたまひて、伊勢、貫之によませたまへるやまと言の葉をも、もろこしのうたをも、たゞ其のすぢをぞまくらごとにせさせたまふ。いとこまやかに有樣を問はせたまふ。哀なりつること忍びやかに奏す。御返り御覽ずれば、「いとも畏きは置き所も侍らず。かゝる仰事につけてもかきくらすみだり心地になむ。

  荒き風ふせぎしかげの枯れしより小萩がうへぞ靜心なき」などやうに亂りがはしきを、心治めざりける程と御覽じゆるすべし。いとかうしも見えじとおぼししづむれど、更にえ忍びあへさせたまはず。御覽じ始めし年月のことさへ書き集め萬におぼし續けられて、時のまもおぼつかなかりしを、かくても月日は經にけりと淺ましうおぼしめさる。「故大納言の遺言過たず宮仕のほい深くものしたりし喜はかひあるさまにとこそ思ひ渡りつれ。いふがひなしや」とうちのたまはせていと哀におぼしやる。「かくてもおのづから若宮など生ひ出でたまはゞ、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」などのたまはす。かの贈物御覽ぜさす。なき人のすみか尋ね出でたりけむしるしのかんざしならましかばとおもほすもいとかひなし。

 「尋ねゆくまぼろしもがなつてにも魂のありかをそこと知るべく」。繪に書ける楊貴妃のかたちは、いみじき繪師といへども筆かぎりありければいとにほひなし。大液の芙蓉、未央の柳もげにかよひたりしかたちを唐めいたるよそひはうるはしうこそありけめ。懷かしうらうたげなりしをおぼし出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。朝夕のことぐさに、羽根をならべ枝を交さむと契らせ給ひしに、かなはざりける命のほどぞ盡せずうらめしき。風の音蟲のねにつけてものゝみ悲しうおぼさるゝに、弘徽殿には久しううへの御局にも參う上り給はず、月のおもしろきに、夜更くるまで遊をぞし給ふなる。いとすさまじうものしと聞しめす。この頃の御氣色を見奉る上人女房などは、傍痛しと聞きけり。いと押し立ちかどかどしき所物し給ふおほん方にて、ことにもあらずおぼし消ちてもてなし給ふなるべし。月も入りぬ。

 「雲の上も淚にくるゝ秋の月いかですむらむ淺茅生の宿」。おぼしやりつゝ燈火を挑け盡して起き坐します。右近のつかさのとのゐまうじの聲聞ゆるは丑になりぬるなるべし。人目をおぼしてよるのおとゞに入らせ給ひても、まどろませ給ふ事かたし。あしたに起きさせ給ふとても、明くるも知らでとおぼし出づるにも猶朝まつりごとは怠らせ給ひぬべかめり。物なども聞しめさず、あさかれひのけしきばかり觸れさせ給ひて大床子のおものなどはいと遙に覺しめしたれば、陪膳にさぶらふかぎりは心苦しき御氣色を見奉り嘆く。すべて近くさぶらふかぎりは男女「いとわりなきわざかな」と言ひ合せつゝ歎く。「さるべき契こそはおはしましけめ。そこらの人のそしりうらみをも憚らせ給はずこのおほん事にふれたることをばだうりをも失はせ給ひ今はたかく世の中の事をもおぼしすてたるやうになり行くはいとたいだいしき業なり」とひとのみかどの例まで引き出でつゝさゞめき歎きけり。

月日經て若宮參り給ひぬ。いとゞこの世のものならず淸らにおよすげ給へれば、いとゞゆゝしうおぼしたり。明くる年のはる坊定まり給ふにも、いとひきこさまほしう覺せど、御後見すべき人もなく又世のうけひくまじき事なれば、なかなか危くおぼし憚りて色にも出させ給はずなりぬるを、「さばかりおぼしたれど限こそありけれ」と世の人も聞え女御も御心おちゐ給ひぬ。かの御おば北の方慰むかたなくおぼし沈みて「おはすらむ所にだに尋ね行かむ」と願ひ給ひししるしにや終に亡せ給ひぬれば、又これを悲びおぼすこと限なし。皇子六つになり給ふ年なればこの度はおぼし知りて戀ひ泣き給ふ。年ごろ馴れ睦び聞え給へるを見奉り置くかなしびをなむかへすがへすのたまひける。今はうちにのみさぶらひ給ふ。七つになり給へばふみはじめなどせさせ給ひて世にしらず聰う賢くおはすればあまりに恐しきまで御覽ず。「今は誰も誰もえ憎み給はじ。母君なくてだにらうたうし給へ」とて弘徽殿などにも渡らせ給ふ御供にはやがてみすの內に入れ奉り給ふ。いみじきものゝふ、あたかたきなりとも見てはうち笑まれぬべきさまのし給へれば、えさし放ち給はず。をんな御子たちふたどころこの御腹におはしませどなずらひ給ふべきだにぞなかりける。おほん方々もかくれ給はず今よりなまめかしう耻しげにおはすればいとをかしううち解けぬあそびぐさに誰も誰も思ひ聞え給へり。わざとの御學問はさるものにて、琴笛のねにも雲居を響かし、すべて言ひ續けばことごとしううたてぞなりぬべき人のおほんさまなりける。そのころ高麗うどの參れるか中にかしこき相人ありけるを聞しめして、宮の內に召さむ事は宇多の帝のおほん誡あれば、いみじう忍びてこの皇子を鴻臚館に遣したり。御後見だちて仕う奉る右大辨の子のやうに思はせて率て奉る。相人驚きてあまたゝび傾ぶきあやしぶ。「國の親となりて帝王のかみなき位にのぼるべき相おはします人のそなたにて見れば亂れ憂ふる事やあらむ。おほやけのかためとなりて天の下を輔くる方にて見れば又その相違ふべし」といふ。辨もいとざえかしこき博士にて、云ひ交したる事どもなむいと典ありける。文など作り交して、今日明日歸り去りなむとするに、かくありがたき人にたいめんしたるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、皇子もいと哀なる句を作り給へるを限なうめで奉りて、いみじき贈物どもを捧げ奉る。おほやけよりも多くもの賜はす。おのづから事廣ごりて、漏させ給はねど、春宮のおほぢおとゞなど、いかなる事にかとおぼし疑ひてなむありける。帝畏き御心に、やまとさうをおほせておぼしよりにけるすぢなれば、今までこの君をみこにもなさせ給はざりけるを、相人は誠に畏かりけりと覺しあはせて、無品親王の外戚のよせなきにてはたゞよはさじ、我が御世もいと定めなきを、たゞびとにておほやけの御後見をするなむゆくさきも賴もしげなる事と覺し定めて、いよいよ道々のざえをならはせ給ふ。きは殊に賢くてたゞ人にはいとあたらしけれど、みことなり給ひなば世のうたがひ負ひ給ひぬべく物し給へば、すくえうのかしこき道の人に考へさせ給ふにも同じさまに申せば、源氏になし奉るべくおぼしおきてたり。年月に添へてみやすどころのおほんことをおぼし忘るゝ折なし。慰むやとさるべき人々を參らせ給へど、なずらひにおぼさるゝだにいと難き世かなと、うとましうのみ萬におぼしなりぬるに、先帝の四の宮の、おほんかたち優れ給へる、聞え高くおはします。はゝきさき世になくかしづき聞え給ふを、うへにさぶらふないしのすけは先帝の御時の人にてかの宮にも親しう參り馴れたりければ、「いはけなくおはしましゝ時より見奉り今もほの見奉りて、失せ給ひにしみやすどころの、おほんかたちに似給へる人を三代の宮仕に傳はりぬるにえ見たてまつりつけぬに、きさいの宮の姬宮こそいとよう覺えて生ひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御かたち人になむ」と奏しけるに誠にやと御心とまりてねんごろに聞えさせ給ひけり。母きさき、あなおそろしや、春宮の女御のいとさがなくて桐壺の更衣のあらはにはかなくもてなされし例もゆゆしうと覺しつゝみて、すがすがしうもおぼしたゝざりける程に、きさきも亡せ給ひぬ。心細きさまにておはしますに「唯我がをんな御子たちと同じつらに思ひ聞えむ」といとねんごろに聞えさせ給ふ。さぶらふ人々御うしろ見たち、御せうとの兵部卿のみこなど、かく心ぼそくておはしまさむよりはうちずみせさせ給ひて御心も慰むべく覺しなりて參らせ奉り給へり。藤壺と聞ゆ。實におほんかたちありさま怪しきまでぞ覺え給へる。これは人の御きはまさりて思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞え給はねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは人も免し聞えざりしに御心ざしのあやにくなりしぞかし。おぼし紛るゝとはなけれどおのづから御心うつろひてこよなくおぼし慰むやうなるも哀なるわざなりけり。源氏の君はおほんあたり去り給はぬを、まして繁く渡らせ給ふおほん方はえはぢあへ給はず。いづれのおほん方もわれ人に劣らむと覺いたるやはある。とりどりにいろめでたけれどうちおとなび給へるにいと若う美くしげにて切に隱れ給へどおのづから漏り見奉る。母みやす所はかげだに覺え給はぬを「いとよう似給へり」とないしのすけの聞えけるを若き御心地にいと哀と思ひ聞え給ひて、常に參らまほしうなづさひ見奉らばやとおぼえ給ふ。うへも限なきおほん思ひどちにて「なうとみ給ひそ。怪しくよそへ聞えつべき心地なむする。なめしと覺さでらうたうし給へ。つらつきまみなどはいとよう似たりしゆゑ通ひて見え給ふも似げなからずなむ」など聞え吿げ給へればをさなごゝちにもはかなき花紅葉につけても志を見え奉りこよなう心よせ聞え給へれば、弘徽殿の女御、又この宮とも御中そばそばしきゆゑうちそへて素よりのにくさも立ち出でゝ物しとおぼしたり。世に類なしと見奉り給ひ名高うおはする宮のおほんかたちにも猶にほはしさは譬へむ方なく美くしげなるを、世の人「ひかるきみ」と聞ゆ。藤壺ならび給ひて御おぼえもとりどりなれば「かゞやく日の宮」と聞ゆ。この君のおほん童姿いとかへまうく覺せど十二にて御元服し給ふ。ゐたちおぼしいとなみて限ある事に事を添へさせ給ふ。ひとゝせの春宮の御元服南殿にてありし儀式のよそほしかりし御ひゞきにおとさせ給はず、所々の饗などくらづかさ穀倉院などおほやけごとに仕う奉れる、おそろかなる事もぞと取りわき仰事ありて淸らを盡して仕うまつれり。おはします殿のひんがしの廂東向にいし立てゝくわんざの御座、ひきいれのおとゞの御座こぜんにあり。申の時にぞ源氏參り給ふ。みづらゆひ給へるつらつき顏のにほひさまかへ給はむこと惜しげなり。大藏卿くら人仕うまつる。いと淸らなる御ぐしをそぐ程心苦しげなるを、うへはみやす所の見ましかばとおぼし出づるに堪へ難きを心强く念じかへさせ給ふ。かうぶりし給ひてみやす所にまかで給ひて御ぞ奉りかへておりて拜し奉り給ふさまに皆人淚落し給ふ。帝はたましてえ忍びあへ給はず。覺し紛るゝ折もありつるを昔の事とりかへし悲しくおぼさる。いとかうきびはなる程はあげおとりやと疑はしくおぼされつるを、淺ましう美くしげさ添ひ給へり。引入のおとゞのみこ腹に唯一人かしづき給ふ御むすめ、春宮よりも御けしきあるを覺し煩ふ事ありけるはこの君に奉らむの御心なりけり。內にも御けしき給はらせ給ひければ「さちばこの折の御後見無かめるを副臥にも」と催させ給ひければ、さ覺したり。さぶらひにまかで給ひて、人々おほみきなどまゐるほどみこたちの御座の末に源氏着き給へり。おとゞけしきばみ聞え給ふ事あれど、物のつゝましき程にてともかくもあへしらひ聞え給はず。おまへより內侍の宣旨うけ給はり傳へておとゞ參り給ふべきめしあれば、參り給ふ。御祿の物、うへの命婦取りてたまふ。白きおほうちきに御ぞひとくだり、例の事なり。御盃のついでに

 「いときなき初元結に長き世をちぎる心は結びこめつや」。御心ばへありて驚かせ給ふ。

 「結びつる心も深きもとゆひにこき紫の色じあせずは」と奏して、長はしよりおりて舞踏したまふ。ひだりのつかさの御馬、くら人所の鷹すゑて賜はり給ふ。御階のもとにみこたち上達部つらねて祿どもしなじなに賜はり給ふ。その日のおまへの折櫃物こものなど右大辨なむ承りて仕うまつらせける。屯食、祿の辛櫃どもなど所せきまで春宮のおほん元服の折にも數まされり。なかなか限もなくいかめしうなむ。その夜おとゞの御里に源氏の君まかでさせ給ふ。作法世に珍しきまでもてかしづき聞え給へり。いときびはにておはしたるを、ゆゝしう美くしと思ひ聞え給へり。をんな君は少し過ぐし給へるほどにいと若うおはすれば、似げなく耻かしと覺いたり。このおとゞの御おぼえいとやんごとなきに、母宮內のひとつきさい腹になむおはしければいづ方につけても物あざやかなるに、この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮のおほんおほぢにて終に世の中をしり給ふべき右の大臣のおほん勢は物にもあらずおされ給へり。御子どもあまた腹々に物し給ふ。宮のおほん腹はくらう人少將にていと若うをかしきを、右の大臣の御中はいとよからねどえ見過ぐし給はでかしづき給ふ。四の君にあはせ奉り劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。源氏の君はうへの常に召しまつはせば心安く里住もえし給はず、心の中には唯藤壺のおほん有樣をたぐひなしと思ひ聞えて、さやうならむ人をこそ見め、似るものなくもおはしけるかな、おほひ殿の君いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず覺え給ひて幼きほどの御ひとへ心にかゝりていと苦しきまでぞおはしける。おとなになり給ひて後はありしやうにみすの內にも入れ給はず、御遊の折々琴笛の音に聞き通ひほのかなる御聲をなぐさめにてうちずみのみ好ましう覺え給ふ。五六日さぶらひ給ひておほい殿に二三日などたえだえにまかで給へど、只今はをさなき御程に罪なくおぼしていとなみかしづき聞え給ふ。おほん方々の人々世の中におしなべたらぬをえりとゝのへすぐりてさぶらはせ給ふ。御心につくべき御遊をし、おふなおふな覺しいたづく。うちにはもとの淑景舍を御曹子にて、母みやす所のおほん方々の人々まかで散らずさぶらばせ給ふ。里の殿はすりしきたくみづかさに宣旨下りて、になう改め造らせ給ふ。もとの木だち山のたゝずまひ面白き所なるを、池の心廣くしなしてめでたく造りのゝしる。かゝる所に思ふやうならむ人をすゑて住まばやとのみ歎かしうおぼしわたる。光君といふ名は、こまうどのめで聞えてつけ奉りけるとぞ言ひ傳へたるとなむ。


箒木

光源氏名のみことごとしう言ひ消たれ給ふとがめ多かなるにいとゞかゝるすきごとどもを末の世にも聞き傳へて輕びたる名をや流さむと忍び給ひけるかくろへごとをさへ語り傳へけむ人の物言ひさがなさよ。さるはいと痛く世を憚りまめだち給ひけるほどになよびかにをかしき事はなくて、交野の少將には笑はれ給ひけむかし。まだ中將などにものし給ひし時はうちにのみさぶらひようし給ひておほい殿にはたえだえまかで給ふを、「しのぶのみだれや」と疑ひ聞ゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけのすきずきしさなどはこのましからぬ御本性にて、稀にはあながちに引きたがへ心づくしなることを御心におぼしとゞむるくせなむ、あやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。なが雨晴間なきころ、うちの御物忌さしつゞきていとゞ長居さぶらひ給ふをおほとのにはおぼつかなく恨めしく覺したれど、萬の御よそひ何くれと珍らしきさまに調じ出で給ひつゝ御むすこの君だち唯この御とのゐ所の宮仕を勤め給ふ。宮腹の中將は中に親しく馴れ聞え給ひて遊たはぶれをも人よりは心やすくなれなれしくふるまひたり。右の大臣のいたはりかしづき給ふすみかはこの君もいとものうくしてすきがましきあだ人なり。里にても我がかたのしつらひまばゆくして君のいでいりし給ふにうちつれ聞え給ひつゝよるひる學問をも遊をも諸共にしてをさをさ立ち後れず、いづくにてもまつはれ聞え給ふほどに、おのづからかしこまりをもおかず、心の中に思ふことをも隱しあへずなむむつれ聞え給ひける。

つれつれと降りくらしてしめやかなる宵の雨に殿上にもをさをさ人ずくなに御とのゐ所も例よりはのどやかなる心地するに、おほとなぶら近くてふみどもなど見給ふついでに近き御厨子なるいろいろの紙なるふみどもをひき出でゝ、中將わりなくゆかしがれば、「さりぬべき少しは見せむ。かたはなるべきもこそ」とゆるし給はねば、「そのうちとけて傍痛しと覺されむこそゆかしけれ。押しなべたる大かたのは數ならねどほどほどにつけてかきかはしつゝも見侍りなむ。おのがじゝうらめしき折々待顏ならむ夕暮などのこそ見所はあらめ」と怨ずれば、やんごとなく切に隱し給ふべきなどは、かやうにおほぞうなる御厨子などにうち置きちらし給ふべくもあらず深くとり隱し給ふべかめればこれは二のまちの心やすきなるべし。かたはしづゝ見るに、「かくさまざまなるものどもこそ侍りけれ」とて、心あてに「それかかれか」など問ふ中に言ひ當つるもあり、もてはなれたる事をも思ひよせて疑ふもをかしと覺せど、詞ずくなにてとかく紛はしつゝとり隱し給ひつ。「そこにこそ多く集へ給ふらめ。少し見ばや。さてなむこの廚子も心よく開くべき」とのたまへば、「御覽じ所あらむこそ難く侍らめ」など聞え給ふ序に「女のこれはしもと難つくまじきは難くもあるかなと、やうやうなむ見給へ知る。唯うはべばかりのなさけに手走り書き、折節のいらへ心得てうちしなどばかりは隨分によろしきも多かりと見給ふれど、そも誠にその方を取り出でむ選に必漏るまじきはいと難しや。我が心得たる事ばかりをおのかじゝ心をやりて人をばおとしめなど、傍痛き事多かり。親など立ち添ひてもてあがめておひさき籠れる窓の內なる程は唯かたかどを聞き傅へて心を動す事もあめり。かたちをかしくうちおほどき若やかにて紛るゝ事なき程、はかなきすさびをも人まねに心を入るゝ事もあるにおのづから一つゆゑづけてし出づる事もあり。見る人後れたる方をば言ひ隱しさてありぬべき方をば繕ひて、まねび出すにそれしかあらじとそらにいかゞは推し量り思ひくたさむ。誠かと見もて行くに見劣りせぬやうはなくなむあるべき」とうめきたる氣色も耻しげなれば、いとなべてはあらねど我も覺し合することやあらむ、うちほゝゑみて、「そのかたかどもなき人はあらむや」とのたまへば、「いとさばかりならむあたりには誰かはすかされ寄り侍らむ。取る方なく口惜しききはと優なりと覺ゆばかり優れたるとは數等しくこそ侍らめ。人のしな高く生れぬれば、人にもてかしづかれて隱るゝこと多くじねんにそのけはひこよなかるべし。中の品になむ人の心々己がじゝの立てたる趣も見えて分かるべき事かたがた多かるべき。下のきざみといふきはになれば、殊に耳たゝずかし」とていと隈なげなる氣色なるもゆかしくて、「その品々やいかに。いづれを三つの品におきてか分くべき。もとのしなたかく生れながら身は沈み位短くて人げなき、又直人の上達部などまでなりのぼりたる我はがほにて家の內を飾り人に劣らじと思へる、そのけぢめをばいかゞ別くべき」と問ひ給ふ程に、左の馬のかみ、藤式部の丞御物忌に籠らむとて參れり。世のすきものにて物よく言ひ通れるを、中將待ちとりてこの品々辨へ定め爭ふ。いと聞き憎き事多かり。「なりのぼれとも素よりさるべきすぢならぬは世の人の思へる事も、さはいへど猶異なり。又もとはやんごとなきすぢなれど、世にふるたつぎすくなく時世うつろひておほえ衰へぬれば、心はこゝろとして事足らず、わろびたる事ども出で來るわざなめれば、とりどりにことわりて中の品にぞ置くべき。受領と言ひて人の國の事にかゝづらひいとなみて品定まりたる中にも又きざみきざみありて中の品のけしうはあらぬえり出でつべき頃ほひなり。なまなまの上達部よりも、非參議の四位どもの世のおぼえ口惜しからずもとの根ざし賤しからぬが安らかに身をもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。家の內に足らぬ事などはた無かめるまゝに、省かずまばゆきまでもてかしづけるむすめなどのおとしめ難く生ひ出づるも數多あるべし。宮仕に出で立ちて、思ひかけぬさいはいとり出づる例ども多かりかし」などいへば、「すべて賑はゝしきによるべきななり」とて笑ひ給ふを、「こと人の言はむやうに心得ず仰せらる」とて中將にくむ。「もとのしな時世のおぼえうちあひ、やんごとなきあたりの內々のもてなしけはひ後れたちむは更にもいはず、何をしてかく生ひ出でけむといふがひなく覺ゆべし。うちあひて優れたらむもことわり、これこそはさるべき事とおぼえて珍かなる事とも心も驚くまじ。なにがしが及ぶべき程ならねば、かみがかみはうち置き侍りぬ。さて世にありと人に知られずさびしくあばれたらむ葎の門に思の外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ限なく珍しくは覺えめ。いかではたかゝりけむと思ふより違へる事なむ、怪しく心とまるわざなべき。父の年老い物むつかしげにふとりすぎ、せうとの顏にくげに思ひやりことなる事なき閨の內に、いといたく思ひあがり、はかなくし出でたる事わざも故なからず見えたらむ、かたかどにてもいかゞ思の外にをかしからざらむ。優れて疵なき方のえらびにこそ及ばざらめ。さるかたにて捨て難き物をば」とて式部を見やれば、「我が妹うとゞものよろしき聞えあるを思ひてのたまふにや」とや心得らむ、ものも言はず。いでやかみの品と思ふだに難げなる世をと君はおぼすべし。白き御ぞどものなよゝかなるに直衣ばかりをしどけなく着なし給ひて紐などもうち捨てゝ添ひ臥し給へる御火影いとゞめでたく、女にて見奉らまほし。この御爲にはかみが上を選り出でゝも猶飽くまじく見え給ふ。さまざまの人のうへどもを語り合せつゝ、「大方の世につけて見るには咎なきも、我が物とうち賴むべきを撰ばむに、多かる中にもえなむ思ひ定むまじかりける。をのこのおほやけに仕う奉りはかばかしき世のかためなるべきも誠のうつはものとなるべきを、取り出さむにはかたかるべしかし。されど畏しとても一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば、かみはしもに肋けられ下は上に靡きて事廣きにゆつらふらむ、せばき家のうちのあるじとすべき人一人を思ひめぐらすに、たらはで惡しかるべき大事どもなむかたがたおほかる。とあればかゝりあふさきるさにてなのめにさてもありぬべき人の少きを、すきずきしき心のすさびにて人の有樣をあまた見合せむの好みならねど、偏に思ひ定むべきよるべとすばかりに、同じくば我がちからいりをし直しひき繕ふべき所なく、心にかなふやうもやと撰りそめつる人の定まり難きなるべし。必ずしも我が思ふにかなはねど、見そめつる契ばかりを捨て難く思ひとまる人は物まめやかなりと見え、さてたもたるゝ女の爲も心にくゝ推し量らるゝなり。されど何か世の有樣を見給へ集むるまゝに、心に及ばずいとゆかしき事もなしや。君たちの上なき御えらびには、ましていかばかりの人かはたぐひ給はむ。所せく思ひ給へぬだにかたちきたなげなく若やかなる程の己がじゝは塵も附かじと身をもてなし、文を書けどおほどかにことえりをし墨つきほのかに心もとなく思はせつゝ、又さやかにも見てしがなとすべなく待たせ、わづかなる聲聞くばかり言ひよれど、息の下にひき入れことずくななるがいとよくもて隱すなりけり。なよびかに女しと見ればあまりなさけにひき籠められて、とりなせばあだめく。これを初の難とすべし。事が中になのめなるまじき人の後見の方は物のあはれ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに、又まめまめしきすぢを立てゝ、耳はさみがちにびさうなき家とうじの偏にうちとけたる後見ばかりをして朝夕のいでいりにつけても公私の人のたゝずまひ善き惡しき事の目にも耳にもとまる有樣を疎き人にわざとうちまねばむやは。近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに、語りも合せばやとうちも笑まれ淚もさしぐみ、もしはあやなきおほやけばらだゝしく心ひとつに思ひあまる事などおほかるを、何にかは聞かせむと思へばうち背かれて人知れぬ思ひいで笑もせられ、哀ともうちひとりごたるゝに、何事ぞなどあはつかにさしあふぎ居たらむはいかゞは口惜しからぬ。唯ひたぶるに子めきて柔かならむ人を、とかく引き繕ひてはなどか見ざらむ。心もとなくとも直し所ある心地すべし。實にさし向ひて見む程は、さてもらうたき方に罪免し見るべきを、立ち離れてはさるべき事をも言ひやり折節にし出でむわざのあだごとにもまめごとにも我が心と思ひ得る事なく深きいたりなからむはいと口惜しくたのもしげなき咎や猶苦しからむ。常は少しそばそばしく、心づきなき人の、折節につけていでばえするやうもありかし」など、隈なき物言ひも定めかねていたくうち歎く。「今は唯しなにもよらじ。かたちをば更にもいはじ。いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくば唯偏に物まめやかに靜なる心のおもむきならむよるべをぞ遂のたのみ所には思ひ置くべかりける。あまりの故由心ばへうち添へたらむをばよろこびに思ひ、少し後れたる方あらむをもあながちに求め加へじ。後安くのどけき所だに强くはうはべのなさけはおのづからもてつけべきわざをや。艷に物耻して恨みいふべき事をも見知らぬさまに忍びて、上はつれなく操作りて、心一つに思ひ餘る時は言はむ方なくすごき言の葉哀なる歌を詠み置き、忍ばるべきかたみを留めて深き山里世はなれたる海づらなどにははひ隱れぬかし。童に侍りし時女房などの物語讀みしを聞きて、いと哀に悲しく心深き事かなと淚をさへなむ落し侍りし。今思ふにはいとかるがるしく事さらびたることなり。志深からむ男をおきて見る目の前につらき事ありとも人の心を見知らぬやうに逃げ隱れて人を惑はし心をも見むとする程に、長き世の物思ひになる、いとあぢきなき事なり。心深しやなど譽めたてられて、あはれ進みぬればやがて尼になりぬかし。思ひ立つ程はいと心澄めるやうにて世にかへりみすべくも思へらず。いであな悲し、かくはたおぼしなりにけるよなどやうにあひ知れる人來訪らひ、ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男聞きつけて淚おとせば、使ふ人古御達など、君の御心は哀なりけるものをあたら御身をなどいふに、みづから額髮をかき探りて、あへなく心ぼそければうちひそみぬかし。忍ぶれど淚こぼれそめぬれば折々ごとにえ念じえず悔しき事も多かめるに、佛もなかなか心ぎたなしと見給ひつべし。獨にしめるほどよりも、なまうかびにてはかへりて惡しき道にも漂ひぬべくぞ覺ゆる。絕えぬ宿世淺からで尼にもなさで尋ねとりたらむも、やがてその思ひいでうらめしきふしあらざらむや。惡しくも善くもあひそひて、とあらむ折もかゝらむきざみをも見過ぐしたらむ中こそ契深くあはれならめ。我も人も後めたき心おかれじやは。又なのめにうつろふ方あらむ人を恨みて氣色ばみ背かむ、はたをこがましかりなむ。心は移ろふ方ありとも見そめし志いとほしく思はゞ、さる方のよすがに思ひてもありぬるべきに、さやうならむたじろきに絕えぬべきわざなり。すべて萬の事なだらかに、怨ずべき事をば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをもにくからずかすめなさば、それにつきて哀も增りぬべし。多くは我が心も見る人から治まりもすべし。あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも心安くらうたきやうなれどおのづから輕き方にぞ覺え侍るかし。繫がぬ船の浮きたる例も實にあやなし。さは侍らぬか」といへば中將うなづく。「さしあたりてをかしとも哀とも心にいらむ人の、たのもしげなき疑あらむこそ大事なるべけれ。我が心あやまちなくて見すぐさば、さし直してもなどか見ざらむと覺えたれど、それさしもあらじ。ともかくも違ふべきふしあらむを長閑やかに見忍ばむより外にます事あるまじかりけり」といひて、我が妹の姬君はこの定にかなひ給へりとおもへば、君のうちねぶりて詞まぜ給はぬをさうざうしく心やましと思ふ。馬のかみ物さだめの博士になりてひゞらぎ居たり。中將はこのことわり聞きはてむと心に入れてあへしらひ居給へり。「萬の事によそへておぼせ。木の道のたくみの萬の物を心に任せて作り出すも、臨時のもてあそび物のその物と跡も定まらぬはそばつきざれば見たるも質にかうもしつべかりけりと、時につけつゝさまをかへて今めかしきに目うつりてをかしきもあり。大事として、誠に麗はしき人の調度のかざりとする、定まれるやうあるものを難なくし出づる事なむ猶誠の物の上手はさまことに見えわかれ侍る。又繪所に上手多かれど墨がきに選ばれて次々に更に劣り勝るけぢめふとしも見えわかれず。かゝれど人の見及ばぬ蓬萊の山、荒海のいかれるいをのすがた、唐國の烈しき獸のかたち、目に見えぬ鬼の顏などのおどろおどろしく作りたる物は、心に任せて一きは人の目を驚かしてじちには似ざらめどさてありぬべし。よのつねの山のたゝずまひ、水のながれ、目に近き人の家居有樣、實にと見え懷かしくやはらびたるかたなどを靜にかきまぜて、すくよかならぬ山の氣色木深く世離れてたゝみなし、け近き籬の內をば、その心しらひおきてなどをなむ上手はいと勢殊に、わるものは及ばぬ所多かめり。手を書きたるにも深き事はなくて此處彼處の點ながに走りがき、そこはかとなく氣色ばめるはうち見るにかどかどしくけしきだちたれど、猶誠のすぢをこまやかに書き得たるはうはべの筆消えて見ゆれど今一度とり並べて見れば猶じちになんよりける。はかなき事だにかくこそ侍れ。まして人の心の時に當りて氣色ばめらむ、見る目のなさけをばえ賴むまじく思ひ給へ侍る。その始の事、すきずきしくとも申し侍らむ」とて近く居寄れば、君も目さまし給ふ。中將いみじく信じてつら杖をつきて對ひ居給へり。法の師の世のことわり說き聞かせむ所の心地するもかつはをかしけれど、かゝるついではおのおのむつごともえ忍びとゞめずなむありける。「はやうまだいと下臈に侍りし時哀と思ふ人侍りき。聞えさせつるやうにかたちなどいとまほにも侍らざりしかば、若き程のすきごゝちにはこの人をとまりにとも思ひ留め侍らず、よるべとは思ひながらさうざうしくてとかく紛れありき侍りしを、物怨じをなむいたくし侍りしかば、心づきなういとかゝらでおいらかならましかばと思ひつゝ、あまりいとゆるしなく疑ひ待りしもうるさくて、かく數ならぬ身を見も放たでなどかくしも思ふらむと、心苦しき折々も侍りて、じねんに心治めらるゝやうになむ侍りし。この女のあるやう、素より思ひ至らざりける事にもいかでこの人の爲にはとなき手をいだし、後れたるすぢの心をも猶口惜しくは見えじと思ひ勵みつゝ、とにかくにつけて物まめやかに後み露にても心に違ふ事はなくもがなと思へりし程に、進める方と思ひしかどとかくに靡き來てなよびゆき、見にくきかたちをもこの人に見や疎まれむとわりなく思ひつくろひ、疎き人に見えばおもてぶせにや思はむと憚り耻ぢて、みさをにもてつけて見馴るゝまゝに心もけしうはあらず侍りしかど、唯この憎き方一つなむ心をさめず侍りし。そのかみ思ひ侍りしやう、かうあながちに從ひおぢたる人なめり、いかで懲るばかりのわざしておどしてこの方も少しよろしくもなりさがなさもやめむと思ひて、誠にうしなども思ひて絕えぬべき氣色ならば、かばかり我に隨ふ心ならば思ひ懲りなむと思ひ給へて、殊更になさけなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、かくおぞましくばいみじき契深くとも絕えて又見じ、かぎりと思はゞかくわりなき物疑ひはせよ、行くさき長く見えむと思はゞつらき事ありとも念じてなのめに思ひなりてかゝる心だに失せなば、いと哀となむ思ふべき、人なみなみにもなり少しおとなびむに添へて又並ぶ人なくなむあるべきなど、賢く敎へたつるかなと思ひ給へて、我れたけくいひそし侍るに、少しうち笑ひて、萬にみだてなく物げなき程をみすぐして人數なる世もやと待つ方はいと長閑に思ひなされて心やましくもあらず、つらき心を忍びて思ひなほらむ折を見つけむと年月を重ねむあいなだのみはいと苦しくなむあるべければ、かたみに背きぬべききざみになむあると、妬げにいふ時に腹だゝしくなりて憎げなる事どもを言ひ勵し侍るに、女もえ治めぬすぢにておよびひとつを引き寄せてくひて侍りしを、おどろおどろしくかこちて、かゝる疵さへつきぬればいよいろ交らひをすべきにもあらず、辱しめ給ふめる官位いとゞしく何につけてかは人めかむ、世を背きぬべき身なめりなどいひおどして、さらば今日こそはかぎりなめれとこのおよびを屈めてまかでぬ。

  手を折りてあひ見しことを數ふればこれひとつやは君がうきふし、え怨みじなど言ひ侍ればさすがにうち泣きて、

  うきふしを心ひとつに數へきてこや君が手をわかるべきをりなど言ひしろひはべりしかど、誠には變るべき事とも思ひ給へずながら、日比經るまでせうそこも遣さず、あくがれ罷りありくに、臨時の祭の調樂に夜更けていみじうみぞれ降る夜、これかれ罷りあかるゝ所にて思ひめぐらせば、猶家路と思はむ方は又なかりけり。うちわたりの旅寢もすさまじかるべく、氣色ばめるあたりはそゞろ寒くやと思う給へられしかば、いかゞ思へると氣色も見がてら、雲をうち拂ひつゝまかでゝ、なま人わろく爪くはるれどさりともこよひ日比のうらみは解けなむと思う給へしに、火ほのかに壁に背け、なえたるきぬどものあつこえたるおほいなるこにうちかけて引き上ぐべき物のかたびらなどうち上げて、今宵ばかりやと待ちけるさまなり。さればよと心おごりするにさうじみはなし。さるべき女房どもばかりとまりて、親の家にこの夜ざりなむ渡りぬると答へ侍り。艷なる歌も詠まず氣色ばめるせうそこもせでいとひたやごもりになさけなかりしかば、あへなき心地して、さがなくゆるしなかりしも我を疎みねと思ふ方の心やありけむと、さしも見給へざりし事なれど心やましきまゝに思ひ侍りしに、着るべき物常よりも心留めたる色あひし、さまいとあらまほしくて、さすがに我が見捨てゝむ後をさへなむ思ひやり後見たりし。さりとも絕えて思ひ放つやうはあらじと思ひ給へてとかく言ひ侍りしを、背きもせず尋ね惑はさむとも隱れ忍びず、輝かしからずいらへつゝ、唯ありし心ながらはえなむ見すぐまじき、改めて長閑に思ひならばなむあひ見るべきなど言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思ひ給へしかば、暫しこらさむの心にてしか改めむともいはず、いたくつなびきて見せしあひだに、いといたく思ひ歎きてはかなくなり侍りにしかば戲ぶれ憎くなむ覺え侍りし。偏にうち賴めたらむ方は、さばかりにてありぬべくなむ思ひ給へ出でらるゝ。はかなきあだごとをも誠の大事をも、言ひ合せたるにかひなからず、たつた姬といはむにもつきなからず、七夕の手にも劣るまじく、その方も具してうるさくなむ侍りし」とて、いと哀と思ひ出でたり。中將「そのたなばたの裁ち縫ふ方をのどめて長き契りにぞあえまし。實にそのたつた姬の錦には、又しくものあらじ。はかなき花紅葉といふも折節の色あひつきなくはかばかしからぬは露のはえなく消えぬるわざなり。さるによりかたき世ぞとは定め兼ねたるぞや」と、いひはやし給ふ。「さて又同じ頃罷り通ひし所は、人も立ちまさり心ばせ誠に故ありと見えぬべく、うち讀み走りかき、搔い彈く爪音手つき口つき皆たどたどしからず見聞き渡り侍りき。見るめも事もなく侍りしかば、このさがなものをうちとけたる方にて時々かくろへ見侍りし程は、いとこよなく心とまり侍りき。この人うせて後いかゞはせむ。哀ながらも過ぎぬるはかひなくてしばしば罷り馴るゝまゝに、少しまばゆく、艷に好ましき事は目につかぬ所あるに、うち賴むべくは見えずかれがれにのみ見せ侍る程に、忍びて心かはせる人ぞありけらし。かみな月のころほひ月おもしろかりし夜うちよりまかで侍るに、あるうへびと來會ひてこの車にあひ乘りて侍れば、大納言の家に罷りとまらむとするに、この人のいふやう、今宵人まつらむやとなむ怪しく心苦しきとて、この女の家はたよきぬ道なりければ、荒れたるくづれより池の水かげ見えて月だにやどれるすみかを過ぎむもさすがにており侍りぬかし。素よりさる心をかはせるにやありけむ、この男いたくすゞろぎて門近きらうのすのこだつものに尻かけて、とばかり月を見る。菊いと面白く移ろひ渡りて、風にきほへる紅葉のみだれなど哀と實に見えたり。懷なりける笛取り出でゝ吹きならし、かげもよしなどつゞしりうたふ程に、よく鳴る和琴をしらべとゝのへたりけるをうるはしく搔き合せたりし程、けしうはあらずかし。りちのしらべは女の物柔かに搔きならしてすの內より聞えたるも今めきたる物の聲なれば、淸く澄める月にをりつきなからず、男痛くめでゝすのもとに步み來て、にはの紅葉こそふみわけたる跡もなけれなどねたまず。菊を折りて

  琴のねも月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける、わろかめりなどいひて、今一聲聞きはやすべき人のある時に手なのごひ給ひそなど、いたくあざれかゝれば、女いたう聲つくろひて

  木がらしに吹きあはすめる笛のねをひきとゞむべき言のはぞなきと、なまめきかはすににくゝなるをも知らで又箏の琴を盤しき調に調べて今めかしくかい彈きたるつまおとかどなきにはあらねど、まばゆき心地なむし侍りし。唯時々うち語らふ宮仕人などの飽くまでざればみ過ぎたるは、さても見る限はをかしうもありぬべし。時々にてもさる所にて忘れぬよすがと思う給へむには、賴もしげなくさしすぐいたりと心おかれて、その夜の事にことづけてこそ罷りたえにしか。この二つの事を思う給へ合するに、若き時の心にだに猶さやうにもて出でたる事はいと怪しく賴もしげなく覺え侍りき。今より後は、ましてさのみなむ思う給へらるべき。御心のまゝに、をらば落ちぬべき萩の露、ひろはゞ消えなむと見ゆる玉ざゝの上のあられなどの艷にあえかなるすきずきしさのみこそをかしくおぼさるらめ。今さりとも、七年あまりが程におぼし知り侍りなむ。なにがしが賤しき諫にて、すきたわめらむ女には心おかせ給へ。あやまちして見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」と誡む。中將例のうなづく。君少しかたゑみて、「さる事とは覺すべかめり。何方につけても人わろくはしたなかりける御物語かな」とてうち笑みおはさうず。中將「なにがしはしれ者の物語をせむ」とて、「いと忍びて見そめたりし人のさても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思う給へざりしかど、馴れ行くまゝに哀とおぼえしかば、たえだえ忘れぬものに思ひ給へしを、さばかりになればうち賴めるけしきも見えき。賴むにつけては、怨めしと思ふ事もあらむと心ながら覺ゆる折々も侍りしを、見知らぬやうにて久しきとだえをもかうたまさかなる人とも思ひたらず、唯朝夕にもてつけたらむ有樣に見えて心苦しかりしかば、賴め渡る事などもありきかし。親もなくいと心細げにて、さらばこの人こそはと事に觸れて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて久しく罷らざりし頃、この見給ふるわたりよりなさけなくうたてある事をなむさるたよりありてかすめいはせたりける。後にこそ聞き侍りしか、さる憂き事やあらむとも知らず、心には忘れずながらせうそこなどもせで久しく侍りしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、をさなき者などもありしに思ひ煩ひて瞿麥の花を拆りておこせたりし」とて淚ぐみたり。「さてその文の詞は」と問ひ給へば、「いさや、異なる事もなかりきや。

  山がつのかきほ荒るとも折々に哀はかけよなでしこの露、思ひ出でしまゝに罷りたりしかば、例のうらもなきものからいと物思ひがほにて荒れたる家の露繁きをながめて、蟲の音にきほへる氣色、昔物語めきておぼえ侍りし。

  咲きまじる花はいづれとわかねども猶とこなつにしくものぞなき、やまとなでしこをばさし置きてまづちりをだになど親の心をとる。

  うちはらふ袖も露けきとこなつにあらし咲きそふ秋も來にけりとはかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。淚を漏し落してもいと耻かしくつゝましげに紛はし隱してつらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば心安くて又とだえ置き侍りしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。まだ世にあらばはかなき世にぞさすらふらむ。哀れと思ひし程に、煩はしげに思ひまどはす氣色見えましかばかくもあこがらさゞらまし。こよなきとだえ置かず、さるものにしなして長く見るやうも侍りなまし。かの瞿麥のらうたく侍りしかばいかで尋ねむと思ひ給ふるを、今にえこそ聞きつけ侍らね。これこそのたまひつるはかなき例なめれ。つれなくてつらしと思ひけるも知らであはれ絕えざりしもやくなき片思なりけり。今やうやう忘れ行くきはに、かれはたえしも思ひ離れず折々人やりならぬ胸こがるゝ夕もあらむと覺え侍る。これなむえ保つまじく賴もしげなき方なりける。さればかのさがなものも思ひいである方に忘れ難けれど、さし當りて見むには煩はしく、ようせずはあきたき事もありなむや。琴の音すゝめりけむかどかどしさも好きたる罪重かるべし。この心もとなきも疑ひ添ふべければいづれと遂に思ひ定めずなりぬるこそ世の中や。唯かくぞとりどりにくらべ苦しかるべき。このさまざまのよき限を採り具し、難ずべきくさはひまぜぬ人はいづこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば法けづきくすしからむこそ又わびしかりぬべけれ」とて皆笑ひ給ひぬ。「式部が所にぞ氣色ある事はあらむ。少しづゝ語り申せ」と責めらる。「しもがしもの中には、なでふ事か聞しめし所侍らむ」といへど、頭の君、「まめやかに遲し」と責め給へば、何事を取り申さむとおもひめぐらすに、「まだ文章のしやうに侍りし時、賢き女のためしをなむ見給へし。かのうまのかみの申し給へるやうにおほやけ事をも言ひ合せ私ざまの世にすまふべき心おきてを思ひ煩らさむ方もいたり深くざえのきはなまなまの博士耻しくすべてくちあかすべくなむ侍らざりし。それはある博士の許に學問などし侍るとて罷り通ひし程に、あるじのむすめども多かりと聞き給へてはかなき序にいひよりて侍りしを、親聞きつけて盃もて出でゝ、我が二つの道謠ふを聞けとなむ聞えごち侍りしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りてさすがにかゝづらひ侍りし程に、いと哀に思ひ後み寢覺のかたらひにも、身の才つきおほやけに仕うまつるべき道々しき事を敎へていと淸げにせうそこ文にもかんなといふものを書きまぜずむべむべしく言ひまはし侍るに、おのづからえ罷り絕えでその者を師としてなむわづかなる腰折文作る事など習ひ侍りしかば今にその恩は忘れ侍らねど、懷しきさいしとうち賴まむに無才の人なまわろならむふるまひなど見えむに耻しくなむ見え侍りし。まいて君だちの御爲にはさしもはかばかしくしたゝかなる御後見は、何にかせさせ給はむ。はかなし口惜しとかつ見つゝも唯我が心につき宿世のひく方侍るめればをのこしもなむ仔細なきものは侍るめる」と申せば殘をいはせむとて「さてさてをかしかりける女かな」とすかい給ふを、心はえながら鼻のわたりをごめきて語りなす。「さていと久しく罷らざりしに物のたよりに立ち寄りて侍れば、常のうちとけ居たる方には侍らで心やましき物越にてなむ逢ひて侍りし。ふすぶるにやとをこがましくも又よきふしなりとも思ひ給ふるに、このさかし人はた輕々しき物怨じすべきにもあらず。世のだうりを思ひとりて恨みざりけり。聲もはやりかにていふやう、月比ふ病重きにたへかねて極ねちの草藥をぶくしていとくさきによりなむえたいめん給はらぬ、まのあたりならずともさるべからむ雜事等はうけ給はらむといと哀にむべむべしく言ひ侍り。いらへに何とかは言はれ侍らむ、唯うけ給はりぬとて立ち出で侍るに、さうざうしくや覺えけむ、この香失せなむ時に立ちより給へと高やかにいふを聞きすぐさむもいとほし。暫し立ち休らふべきにはた侍らねば、實にそのにほひさへ華やかに立ち添へるもすべなくて、にげめをつかひて

  さゝがにのふるまひしるき夕暮にひるますぐせといふがあやなさ、いかなることつけぞやと、いひも果てず走り出で侍りぬるに、追ひて

  逢ふことの夜をし隔てぬ中ならば、ひる間もなにかまばゆからまし、さすがに口疾くなどは侍りき」としづしづと申せば、君だちあさましと思ひて「そらごと」とて笑ひ給ふ。「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向ひ居たらめ。むくつけき事」とつまはじきをして「言はむ方なし」と式部をあばめにくみて、「少しよろしからむ事を申せ」と責め給へど、「これより珍しき事は候ひなむや」とてをりぬ。「すべて男も女もわるものは僅に知れる方の事を殘なく見せ盡さむと思へるこそいとほしけれ。三史五經の道々しき方を、明かに曉りあかさむこそ愛敬なからめ。などかは女といはむからに、世にある事の公私につけてむげに知らず至らずしもあらむ。わざと習ひまなばねども少しもかどあらむ人の耳にも目にもとまる事じねんに多かるべし。さるまゝにはまんなを走り書きて、さるまじきどちのをんなぶみに半過ぎて書きすくめたる、あなうたてこの人のたをやかならましかばと見ゆかし。心地にはさしも思はざらめど、おのづからこはこはしき聲に讀みなされなどしつゝ殊さらびたり。これは上臈の中にも多かることぞかし。歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれをかしきふる事をも始よりとりこみつゝ、すさまじき折々よみかけたるこそ物しきことなれ。返しせねばなさけなし。えせざらむ人ははしたなからむ。さるべき節會など五月のせちに急ぎ參るあした何のあやめも思ひしづめられぬにえならぬ根をひきかけ、九日の宴にまづ難き詩の心を思ひめぐらし、暇なき折に菊の露をかこちよせなどやうのつきなきいとなみに合せ、さならでもおのづから實に後に思へばをかしくも哀にもあべかりけることの、その折につきなく目にもとまらぬなどを推し量らずよみ出でたる、なかなか心後れて見ゆ。萬の事に、などかはさてもと覺ゆる折から、時々思ひわかぬばかりの心にては、よしばみなさけたゝざらむなむめやすかるべき。すべて心に知れらむ事をも知らず顏にもてなし、言はまほしからむ事をも一つ二つのふしはすぐすべくなむあべかりける」などいふにも、君は人ひとりの御有樣を心の中に思ひ續け給ふ。これは足らず又さし過ぎたる事なく物し給ひけるかなと、ありがたきにもいとゞ胸ふたがる。何方によりはつともなくてはてはては怪しき事どもになりて明し給ひつ。

辛うじて今日は日の景色も直れり。かくのみ籠り侍らひ給ふもおほ殿の御心いとほしければまかで給へり。大方の氣色人のけはひもけざやかにけだかく亂れたる所交らず、猶これこそはかの人々の棄て難く取り出でしまめ人には賴まれぬべけれとおぼすものから、あまり麗はしき御有樣の解け難く耻しげにのみ思ひしづまり給へるを、さうざうしくて中納言の君中務などやうのおしなべたらぬわかうどどもにたはぶれ事などのたまひつゝ、暑さに亂れ給へる御有樣を見るかひありと思ひ聞えたり。おとゞも渡り給ひて、うち解け給へれば御几帳隔てゝ坐しまして御物語聞え給ふを、暑きにとにがみ給へば人々わらふ。「あなかま」とて脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまひなりや、暗くなるほどに「今宵中神うちよりはふたがりて侍りけり」と聞ゆ。「さかし、例も忌み給ふ方なりけり。二條院にも同じすぢにていづくにか違へむ。いと惱ましきに」とて大殿籠れり。「いと惡しきことなり」とこれかれ聞ゆ。「紀の守にて親しく仕うまつる人の、中河のわたりなる家なむ、この頃水せき入れて凉しきかげに侍る」と聞ゆ。「いとよかなり、なやましきに。牛ながら牽き入れつべからむ所を」とのたまふ。忍び忍びの御方違所はあまたありぬべけれど久しく程經て渡り給へるに方ふたげてひき違へ外ざまへと覺さむはいとほしきなるべし。紀の守に仰言給へばうけ給はりながらしぞきて「伊豫の守の朝臣の家に愼む事侍りて女房なむ罷りうつれる頃にてせばき所に侍ればなめげなることや侍らむ」としたに歎くを聞き給ひて「その人近からむなむうれしかるべき。女遠き旅寢は物恐しき心ちすべきを唯その几帳のうしろに」とのたまへば、「實によろしきおまし所にも」とて人走らせやる。いと忍びて殊更にことごとしからぬ所をと急ぎ出で給へばおとゞにも聞え給はず、御供にもむつましき限しておはしましぬ。守俄にと侘ぶれど人も聞き入れず。寢殿のひんがしおもてはらひあけさせて假初の御しつらひしたり。水の心ばへなどさる方にをかしくしなしたり。田舍家だつ柴垣して前栽など心留めて植ゑたり。風凉しくてそこはかとなき蟲の聲々聞え螢繁く飛びまがひてをかしき程なり。人々寢殿より出でたる泉にのぞき居て酒飯む。あるじも肴もとむとこゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに詠め給ひて、かの中の品に取り出でゝいひしこのなみならむかしと覺し出づ。思ひあがれる氣色に聞きおき給へるむすめなれば、ゆかしくて耳とゞめ給へるに、この西おもてにぞ人のけはひする。きぬの音なひはらはらとして若き聲どもにくからず。さすがにしのびてわらひなどするけはひことさらびたり。格子をあげたりけれど、かみ、心なしとむつがりておろしつれば、火ともしたるすき影さうじの紙より漏りたるに、やをら寄り給ひて、見ゆやとおぼせどひましなければしばし聞き給ふに、この近きもやに集ひ居たるなるべし、うちさゝめき言ふ事どもを聞き給へば、我が御うへなるべし「いといたうまめだちてまだきにやんごとなきよすが定まり給へるこそさうざうしかめれ。されどさるべき隈にはよくこそかくれありき給ふなれ」などいふにもおぼす事のみ心にかゝり給へればまづ胸潰れて、かやうのついでにも人の言ひ漏さむを聞きつけたらむ時など覺え給ふ。異なる事なければきゝさし給ひつ。式部卿の宮の姬君に、朝顏奉り給ひし歌などを、少し頰ゆがめて語るも聞ゆ。くつろぎがましく歌ずんじがちにもあるかな。猶見劣りはしなむかしとおぼす。守出できて、とうろかけそへ火あかくかゝげなどして御くだものばかり參れり。「とばりちやうもいかに。そはさる方の心もなくてはめざましきあるじならむ」とのたまへば「何よけむとも得うけ給はらず」と畏まりて侍ふ。端つ方のおましに、假なるやうにて大殿ごもれば人々もしづまりぬ。あるじの子どもをかしげにてあり。童なる殿上のほどに御覽じ馴れたるもあり。伊豫の介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて十二三ばかりなるもあり。「いづれかいづれ」など問ひ給ふに「これは故衞門のかみの末の子にていと悲しくし侍りけるををさなき程に後れ侍りて姉なる人のよすがにかくて侍るなり。ざえなどもつき侍りぬべくけしうは侍らぬを殿上なども思う給へかけながらすがすがしうはえ交らひ侍らざめる」と申す。「あはれのことや。この姉君やまうとの後の親さなむ侍る」と申すに、「似げなき親をもまうけたりけるかな。うへにも聞しめしおきて、宮仕に出し立てむともらし奏せしを、いかになりにけむといつぞやのたまはせし、世こそ定めなきものなれ」などいとおよすげのたまふ。「不意にかくて物し侍るなり。世の中といふものさのみこそ今も昔も定まりたる事侍らね。中についても女の宿世はうかびたるなむ哀に侍る」など聞えさす。「伊豫の介はかしづくや君と思ふらむな」。「いかゞは私のしうとこそは思ひて侍るめるを、すきずきしき事となにがしより始めてうけひき侍らずなむ」と申す。「さりともまうとたちのつきづきしく今めきたらむにおろしたてむやは。かの介はいとよしありて氣色ばめるをや」など物語し給ひつゝ、「何方にぞ」、「皆しもやにおろし侍りぬるをえや罷りおりあへざらむ」と聞ゆ。醉ひ進みて皆人々簀子に臥しつゝしづまりぬ。君は解けても寢られ給はず、いたづらふしとおぼさるゝに、御目覺めて、この北のさうじのあなたに人のけはひするを、此方やかくいふ人の隱れたる方ならむ、哀れやと御心留めて、やをら起きて立ち聞き給へば、ありつる子の聲にて、「ものうけ給はる。いづくにおはしますぞ」とかれたる聲のをかしきにていへば、「こゝにぞ臥したる。まらうどは寢給ひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されどけどほかりけり」といふ。寢たりける聲のしどけなきいと能く似通ひたればいもうとゝ聞き給ひつ。「廂にぞ大殿籠りぬる。音に聞きつる御有樣を見奉りつる、實にこそめでたかりけれ」とみそかにいふ。「晝ならましかばのぞきて見奉りてまし」とねぶたげにいひて顏ひき入れつるこゑす。ねたう、心留めても問ひ聞けかしとあぢきなうおぼす。「まろは端に寢侍らむ。あなくらし」とて火かゝげなどすべし。をんな君は、唯このさうじ口すぢかひたる程にぞ臥したるべき。「中將の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して物恐し」といふなれば長押のしもに人々臥していらへすなり。「しもに湯におりて只今參らむと侍り」といふ。皆靜まりぬるけはひなればかけがねを試に引きあけ給へればあなたよりはさゝざりけり。几帳をさうじぐちに立てゝ火はほのぐらきに見給へば、唐櫃だつ物どもを置きたれば、亂りがはしき中を分け入り給ひてけはひしつる處に入り給へれば、唯一人いとさゝやかにて臥したり。なま煩はしけれど上なるきぬを押しやるまで覓めつる人と思へり。「中將めしつればなむ、人知れぬ思ひのしるしある心地して」とのたまふを、ともかくも思ひわかれす、物におそはるゝ心地して「や」とおびゆれど、顏にきぬのさはりておとにも立てず、「うちつけに深からぬ心の程と見給ふらむ、ことわりなれど、年比思ひわたる心のうちも聞え知らせむとてなむかゝる折を待ち出でたるも、更に淺くはあらじと思ひなし給へ」といとやはらかにのたまひて鬼神も荒立つまじき御けはひなれば、はしたなく「此處に人」ともえのゝしらず、心ちはたわびしく、あるまじき事と思へば、「あさましく、人たがへにこそ侍るめれ」といふも息のしたなり。消え惑へるけしきいと心苦しくらうたげなればをかしと見給ひて、「違ふべくもあらぬ心のしるべを思はずにもおぼめい給ふかな。すきがましきさまにはよに見え奉らじ。思ふ事少し聞ゆべきぞ」とていとちひさやかなれば搔き抱きてさうじのもとに出で給ふにぞ、覓めつる中將だつ人きあひたる。「やゝ」とのたまふに怪しくて探り寄りたるにぞ、いみじくにほひ滿ちて顏にもくゆりかゝる心地するに思ひよりぬ。あさましう、こは如何なる事ぞと思ひ惑はるれど聞えむかたなし。並々の人ならばこそ荒らかにも引きかなぐらめ。それだに人のあまたしらむはいかゞあらむ。心もさわぎて慕ひ來たれどどうもなくて奧なるおましに入り給ひぬ。さうじをひきたてゝ「曉に御迎にものせよ」とのたまへば、女はこの人の思ふらむ事さへ死ぬばかりわりなきに流るゝまで汗になりていとなやましげなるいとほしけれど、例のいづくよりとうで給ふ言の葉にかあらむ、あはれしらるばかりなさけなさけしくのたまひ盡すべかめれど、猶いとあさましきに、「現とも覺えずこそ。數ならぬ身ながらも覺しくだしける御心の程もいかゞ淺くは思ひ給へざらむ。いとかやうなるきははきはとこそ侍るなれ」とてかく押したち給へるを、深くなさけなく憂しと思ひ入りたるさまも、實にいとほしく心耻しきけはひなれば「そのきはぎはをまだ思ひ知らぬ初事ぞや。なかなかおしなべたるつらに、思ひなし給へるなむうたてありける。おのづから聞き給ふやうもあらむ、あながちなるすき心は更にならはぬを、さるべきにや、實にかくあはめられ奉るも、ことわりなる心惑ひを自らも怪しきまでなむ」など、まめだちて萬にのたまへど、いとたぐひなき御有樣のいよいようち解け聞えむ事わびしければ、すくよかに心づきなしとは見え奉るとも、さるかたのいふかひなきにてすぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人がらのたをやぎたるに强き心を强ひて加へたれば、なよ竹の心ちしてさすがに折るべくもあらず。誠に心やましくて强ちなる御心ばへを言ふ方なしと思ひて泣くさまなどいと哀なり。心苦しくはあれど見ざらましかば口惜しからましとおぼす。慰め難く憂しと思へれば、「などかくうとましきものにしも覺すべき。覺えなきさまなるしも契ありとは思ひ給はめ。むげに世を思ひしらぬやうにおぼゝれ給ふなむいとつらき」と怨みられて、「いとかくうき身の程の定らぬありしながらの身にてかゝる御心ばへを見ましかば、あるまじき我が賴にて見直し給ふのちせもやと思ひ給へ慰めましを、いとかう假なる浮寢の程を思ひ侍るにたぐひなく思う給へ惑はるゝなり。よし今は見きとなかけそ」とて、思へるさま實にいとことわりなり。おろかならず契り慰め給ふこと多かるべし。とりも鳴きぬ。人々起き出でゝ「いといぎたなかりける夜かな。御車ひき出でよ」などいふなり。守も出できて、「女などの御方違こそ、夜深く急がせ給ふべきかは」などいふ。君は、又かやうのついであらむ事もいとかたし、さしはへてはいかでか御文なども通はむことのいとわりなきをおぼすにいと胸いたし。奧の中將も出でゝいと苦しがれば、ゆるし給ひても又引き留め給ひつゝ「いかでか聞ゆべき。世にしらぬ御心のつらさも哀も淺からぬ世の思出はさまざま珍らかなるべき例かな」とてうち泣き給ふ御氣色いとなまめきたり。鷄もしばしばなくに心あわたゞしくて、

 「つれなさを恨みもはてぬしのゝめにとりあへぬまで驚かすらむ」。女身の有樣を思ふにいとつきなくまばゆき心ちして、めでたき御もてなしも何とも覺えず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊豫の方のみ思ひやられて、夢にや見ゆらむとそら恐しくつゝまし。

 「身のうさを歎くにあかで明くる夜はとり重ねてぞねもなかれける」。殊とあかくなればさうじ口まで送り給ふ。內もとも人さわがしければ引きたてゝ別れ給ふほど心細く隔つる關と見えたり。御直衣など着給ひて南の高欄にしばしうちながめ給ふ。西おもての格子そゝきあげて人々覗くべかめり。簀子の中のほどにたてたるこさうじのかみより仄に見え給へる御有樣を身にしむばかり思へるすき心どもあめり。月は有明にて光をさまれるものから影さやかに見えてなかなかをかしき曙なり。何心なき空の氣色も唯見る人から艷にも凄くも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸痛く、こと傳やらむよすがだになきをとかへりみがちにて出で給ひぬ。殿にかへり給ひてもとみにもまどろまれ給はず、又あひ見るべき方なきをましてかの人の思ふらむ心のうちを、いかならむと心苦しく覺しやる。優れたることはなけれどめやすくもてつけてもありつる中のしなかな、隈なく見あつめたる人の言ひしことは實にとおぼしあはせられけり。このほどはおほい殿にのみおはします。猶いとかき絕えて思ふらむことのいとほしく、御心にかゝりて苦しくおぼしわびて紀の守を召したり。「かのありし中納言の子はえさせてむや。らうたげに見えしを、身近くつかふ人にせむ。うへにも我れ奉らむ」とのたまへば「いとかしこき仰事に侍る也。姉なる人にのたまひ見む」と申すも胸潰れておぼせど、「その姉君はあそんの弟やもたる」。「さも侍らず、この二年ばかりぞかくて物し侍れど親の掟に違へりと思ひなげきて、心ゆかぬやうになむ聞き給ふる」。「あはれのことや。よろしく聞えし人ぞかし。誠によしや」とのたまへば、「けしうは侍らざるべし。もてはなれてうとうとしう侍れば、世のたとひにてむつれ侍らず」と申す。さて五六日ありて、この子率て參れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさましてあて人と見えたり。召し入れていと懷かしく語らひ給ふ。童心地に、いとめでたく嬉しと思ふ。妹の君のことも委しく問ひ聞き給ふ。さるべきことはいらへ聞えなどして、耻しげにしづまりたればうち出でにくし。されどいとよく言ひしらせ給ふ。かゝることこそはとほの心うるも思ひの外なれど、をさな心地に深くしもたどらず御文をもてきたれば、女淺ましきに淚も出で來ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに御文をおもがくしにひろげたり。いとおほくて、

 「見し夢をあふ夜ありやと歎くまにめさへあはでぞころも經にける。ぬる夜なければ」など、目も及ばぬ御書きざまに、目もきりて、こゝろえぬ宿世うちそへりける身をおもひつゞけて臥し給へり。またの日小君召したれば參るとて御かへり乞ふ。「かゝる御文見るべき人もなしと聞えよ」とのたまへば、うちゑみて、「違ふべくものたまはざりしものをいかゞはさは申さむ」といふに心やましく、殘なくのたまひ知らせてけりと思ふにつらき事かぎりなし。「いでおよすげたる事は言はぬぞよき。よしさはな參り給ひそ」とむつがられて「召すにはいかでか」とて參りぬ。紀の守すき心にこの繼母の有樣をあたらしきものに思ひて追從し寄る心なれば、この子をももてかしづき率てありく。君召しよせて、「昨日待ち暮しゝを、猶あひ思ふまじきなめり」と怨じ給へば、顏うち赤めて居たり。「いづら」とのたまふに「しかじか」と申すに、「いふがひなのことや。あさまし」とてまたも給へり。「あごはしらじな。その伊豫のおきなよりは先に見し人ぞ。されど賴もしげなく頸細しとて、ふつゝかなる後見まうけてかくあなづり給ふなめり。さりともあごは我が子にてをあれよ。かの賴もし人は、行く先短かりなむ」とのたまへば、さもやありけむ、いみじかりけることかなと思へるををかしとおぼす。この子をまつはし給ひて、うちにも率て參りなどし給ふ。わが御櫛笥殿にのたまひて、さうぞくなどもせさせ給ふ。誠に親めきてあつかひ給ふ。御文はつねにあり。されどこの子もいとをさなし。心より外に散りもせば輕々しき名さへとりそへむ。身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたき事も我が身からこそと思ひてうちとけたる御いらへも聞えず、ほのかなりし御けはひありさまは實になべてにやはと思ひいで聞えぬにはあらねど、をかしきさまを見え奉りても覺し出づ。思へりし氣色などのいとほしさもはるけむ方なく覺し渡る。かるがるしくはひまぎれ立ち寄り給はむも人めしげからむ所にびんなきふるまひや顯れむ、人のためもいとほしくと覺しわづらふ。例のうちに日數經給ふ頃さるべき方の忌待ち出で給ひて俄にまかで給ふまねして道のほどよりおはしましたり。紀の守驚きて遣水のめいぼくとかしこまりよろこぶ。小きみには「ひるよりかくなむおもひよれる」とのたまひ契れり。明暮まつはしならし給ひければ今宵もまづ召し出でたり。女もさる御せうそこありけるに、覺したばかりつらむ程は淺くしも思ひなされねど、さりとてうちとけ人げなき有樣を見え奉りても味氣なく夢のやうにて過ぎにしなげきをまたや加へむと思ひ亂れて、猶さて待ちつけ聞えさせむことのまばゆければ、小君が出でゝいぬる程に、いとけ近ければ傍いたし。なやましければ忍びてうち叩かせなどもせむにほどはなれてをとて、渡殿に中將といひしがつぼねしたるかくれにうつろひぬ。さる心ちして人疾くしづめて御せうそこあれど小君え尋ねあはず。萬の所もとめありきて渡殿に分け入りて辛うじてたどり來たり。「いとあさましくつらしと思ひていかにかひなしと覺さむ」と泣きぬばかりいへば、「かくけしからぬ心ばへはつかふものか。幼き人のかゝる事言ひ傳ふるはいみじく忌むなるものを」と言ひおどして「心ちなやましければ人々避けず、抑へさせてなむと聞えさせよ。あやしと雖も誰も思ふらむ」と言ひ放ちて、心の中には、いとかく品定まりぬる身の覺えならで、過ぎにし親の御けはひとまれる故鄕ながら、たまさかにも待ちつけ奉らば、をかしうもやあらまし、强ひて思ひしらぬがほに見消つもいかにほどしらぬやうに覺すらむと、心ながらも胸痛くさすがに思ひみだる。とてもかくても今はいふがひなき宿世となりければ、むじんに心づきなくてやみなむと思ひはてたり。君はいかにたばかりなさむと、まだ幼きを後めたく待ちふし給へるに、不用なるよしを聞ゆればあさましく珍らかなりける心の程を〈よ歟〉身もいと耻しくこそなりぬれどいといとほしき御氣色なり。とばかり物ものたまはず、いたくうめきて憂しとおぼしたり。

 「はゝき木の心をしらでそのはらの道にあやなくまどひぬるかな。聞えむかたこそなけれ」とのたまへば、女もさすがにまどろまれざりけり。

 「數ならぬふせ屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる箒木」と聞えたり。小君いといとほしさにぬぶたくもあらで惑ひありくを、人あやしと見るらむと侘び給ふ。例の人々はいぎたなきに一所すゞろにすさまじくおぼし續けらるれど人に似ぬ心ざまの猶消えず立ちのぼりけるもねたく、かゝるにつけてこそ心もとまれとかつはおぼしながらめざましくつらければさばれとおぼせどもさもえおぼしはつまじく「隱れたらむ所にだに猶率ていけ」とのたまへど「いとむつかしげにさし籠められて人あまた侍るめれば、かしこげに」と聞ゆ。いとほしと思へり。「よし、あごだにな捨てそ」とのたまひて、御傍に臥せ給へり。若く懷しき御ありさまを嬉しくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりはなかなかあはれにおぼさるとぞ。


空蟬

寢られ給はぬまゝに「我はかく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ始めてうしと世を思ひ知りぬれば、はづかしうてながらふまじくこそ思ひなりぬれ」などのたまへば、淚をさへこぼして臥したり。いとらうたしとおぼす。手さぐりの細く小きほど髮のいと長からざりしけはひのさま似通ひたるも思ひなしにや哀なり。强ちにかゝづらひたどりよらむも人わろかるべくまめやかにめざましとおぼし明しつゝ例のやうにもの給ひまつはさず夜ふかう出で給へば、この子はいとほしくさうざうしと思ふ。女もなみなみならずかたはら痛しと思ふに御消そこも絕えてなし。おぼし懲りにけると思ふにも、やがてつれなくて止み給ひなましかばうからまし、强ひていとほしき御ふるまひの絕えざらむもうたてあるべし、よきほどに〈てイ有〉かくて閉ぢめてむと思ふものからたゞならずながめがちなり。君は心づきなしとはおぼしながら、かくてはえ止むまじう御心にかゝり人わろく思ほしわびて小君に「いとつらうもうれたくも覺ゆるに强ひて思ひ返せど心にしも隨はず苦しきを、さりぬべき折を見て對面すべくたばかれ」との給ひわたれば、煩はしけれど、かゝる方にてものたまひまつはすは嬉しうおぼえたり。幼き心地にいかならむ折にかと持ち渡るに、紀のかみ國に下りなどして女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなるまぎれに我が車にて率て奉る。この子も幼きをいかならむと覺せどさのみもえおぼしのどむまじかりければ、さりげなき姿にて門などさゝぬさきにと急ぎおはす。人見ぬ方より引き入れておろし奉る。童なればとのゐ人なども殊に見入れ、つゐそうせず心やすし。ひんがしの妻戶に立て奉りて我は南の隅のまより格子叩きのゝしりて入りぬ。御達「あらはなり」といふなり。「なぞかう暑きにこの格子はおろされたる」と問へば、「晝より西の御方の渡らせ給ひて碁打たせ給ふ」といふ。さてむかひ居たらむを見ばやと思ひてやをら步み出でゝ簾垂のはざまに入り給ひぬ。この入りつる格子はまださゝねばひま見ゆるによりて西ざまに見通し給へば、このきはに立てたる屛風も端の方おし疊まれたるに、まぎるべき几張なども暑ければにやうちかけていとよく見入れらる。火近うともしたり。もやの中柱にそばめる人や我が心かくるとまづ目とゞめ給へば、濃き綾のもひとへがさねなめり、何にかあらむ上に着て、頭つきほそやかに小き人の、ものげなき姿ぞしたる。かほなどはさしむかひたる人などにもわざと見ゆまじうもてなしたり。手つきやせやせとしていたうひきかくしためり。今一人はひんがしむきにて殘る所なく見ゆ。白きうすもののひとへがさねふたあゐのこうちきだつ物ないがしろに着なして、紅の腰ひきゆへるきはまて胸のあらはにばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげにつぶつぶと肥えてそゞろかなる人の頭つきひたひつきものあざやかにまみ口つきいと愛敬づき華やかなるかたちなり。髮はいとふさやかにて長くはあらねどさがりば肩の程いと淸げに、凡ていと拗けたる所なくをかしげなる人と見えたり。うべこそ親の世になく思ふらめとをかしく見給ふ。心地ぞ猶靜なるけをそへばやと、ふと見ゆるかどなきにはあるまじ、碁打ちはてゝけちさすわたり心とげに見えてきはきはとさうどけば、奧の人はいと靜にのどめて「待ち給へやそこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」などいへど、「いでこの度は負けにけり。隅の所々いでいで」と、およびを屈めてとをはたみそよそなど數ふるさま、伊豫のゆげたもたどたどしかるまじう見ゆ。少し品おくれたり。たとしへなく口おほひてさやかにも見せねど、目をしつとつけ給へればおのづからそばめに見ゆ。目少し腫れたる心地して、鼻などもあざやかなる所なうねびれて匂はしき所も見えず。言ひたつれば、わろきによれるかたちをいといたうもてつけて此の勝れる人よりは心あらむと目とゞめつべきさましたり。賑はゝしく愛敬づきをかしげなるをいよいよ誇りかにうち解けて笑ひなどそぼるれば匂ひ多く見えてさる方にいとをかしきひとざまなり。あはつけしとはおぼしながら、まめならぬ御心はこれもおぼし放つまじかりけり。見給ふかぎりの人はうち解けたる世なくひきつくろひそばめたるうはべをのみこそ見給へ。かくうち解けたる人の有樣かいまみなどはまだし給はざりつる事なれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら久しう見給へまほしきに、小君出で來る心地すればやをら出で給ひぬ。渡殿の戶口に寄り居給へり。いと辱しと思ひて「例ならぬ人侍りてえ近うも寄り侍らず」、「さて今宵もやかへしてむとする。いとあさましうからうこそあべけれ」とのたまへば「などてか、あなたに歸り侍りなばたばかり侍りなむ」と聞ゆ。さも靡かしつべき氣色にこそあらめ、童なれどものの心ばへ人の氣色見つべく靜まれるをとおぼすなりけり。碁打ちはてつるにやあらむ、うちそよめきひとびとあがるゝけはひなどすなり。「我が君はいづくにおはしますならむ、このみ格子はさしてむ」とて鳴らすなり。「靜まりぬなり。入りてさらばたばかれ」との給ふ。この子も妹うとの御心はたわむ所なくまめだちたれば言ひ合せむかたなくて人ずくなならむ折に入れ奉らむと思ふなりけり。「紀の守の妹うともこなたにあるか。我にかいまみせさせよ」との給へば「いかでかさは侍らむ。格子には几帳そへて侍り」ときこゆ。さかしされどもとをかしくおぼせど、見つとは知らせじいとほしとおぼして、夜更くることの心もとなさをのたまふ。この度は妻戶を叩きて入る。皆人々しづまり寢にけり。「このさう子口にまろは寢たらむ。風吹きとほせ」とてたゝみひろげて臥す。御達ひんがしの廂にいとあまたねたるべし。戶放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかりそらねして火あかき方に屛風をひろげて影ほのかなるにやをら入れ奉る。いかにぞをこがましきこともこそとおぼすにいとつゝましけれど、導くまゝにもやの几帳のかたびら引き上げていとやをら入りたまふとすれど、皆靜まれるよの御ぞのけはひやはらかなるしもいとしるかりけり。女はさこそ忘れ給ふを嬉しきに思ひなせど、怪しく夢のやうなる事を心に離るゝ折なきころにて心解けたるいだに寢られずなむ、晝はながめ夜はねざめがちなれば春ならぬこのめもいとなくなげかしきに、碁打ちつる君今宵はこなたにといまめかしくうち語らひて寢にけり。若き人は何心なくいとよくまどろみたるべし。かゝるけはひのいとかうばしくうち匂ふに顏をもたげたるに、ひとへうちかけたる几帳のすきまに暗けれどうちみじろきよるけはひいとしるし。あさましく覺えてともかくも思ひわかれずやをら起き出でゝすゞしなる單衣を着てすべり出でにけり。君は入り給ひて、唯一人臥したるを心安くおぼす。ゆかのしもに二人ばかりぞ臥したる。きぬを押し遺りて寄り給へるに、ありしけはひよりはものものしく覺ゆれどおもほしもよらずかし。いぎたなきさまなどぞあやしく變りて、やうやう見顯はし給ひてあさましく心やましけれど、人たがへとたどりて見えむもをこがましく怪しと思ふべし、ほ意の人を尋ねよらむも、かばかり遁るゝ心あめればかひなくをこにこそ思はめとおぼす。かのをかしかりつる火影ならばいかゞはせむと覺しなるも、わろき御心淺さなめりかし。やうやう目さめていと覺えずあさましきに、あきれたる氣色にて、何の心ふかくいとほしき用意もなし。世の中をまだ思ひしらぬ程よりはさればみたるかたにてあえかにも思ひ惑はず、我とも知らせじとおもほせど、いかにしてかゝる事ぞと後に思ひ廻らさむも我が爲にはことにもあらねど、あのつらき人のあながちに世をつゝむもさすがにいとほしければ、度々の御方たがへにことづけ給ひしさまをいとよう言ひなし給ふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地にさこそさしすぎたるやうなれど、えしも思ひわかず。憎しとはなけれど御心とまるべき故もなき心地して、猶かのうれたき人の心をいみじくおぼす。いづこにはひまぎれてかたくなしと思ひ居たらむ、かくしうねき人はありがたきものをとおぼすにしも、あやにくに紛れがたう思ひ出でられ給ふ。この人は何心なく若やかなるけはひもあはれなればさすがになさけなさけしく契りおかせ給ふ。「人知りたる事よりもかやうなるは哀も添ふこととなむ昔の人もいひける。あひ思ひ給へよ。つゝむ事なきにしもあらねば身ながら心にも得任すまじくなむありける。又さるべき人々も免されじかしとかねて胸痛くなむ。忘れで待ち給へよ」などなほなほしく語らひ給ふ。「人の思ひ侍らむ事の耻しきになむえ聞えさすまじき」と裏もなくいふ。「なべての人に知らせばこそあらめ。この小きうへ人などに傳へて聞えむ。氣色なくもてなし給へ」など言ひ置きて、かの脫ぎすべしたる薄ぎぬを取りて出で給ひぬ。小君近く臥したるを起し給へば、うしろめたうおもひつゝ寢ければふと驚きぬ。戶をやをら押し明くるに、老いたる御達の聲にて「あれはたぞ」とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて「まろぞ」といらふ。「夜中にこはなぞありかせまたふ」とさかしがりてとざまへく。にくゝて「あらずこゝもとへ出づるぞ」とて君をおし出で奉るに、曉近き月隈なくさし出でゝふと人のかげ見えければ、「たまおはするはたぞ」と問ふ。「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとのたけだちかな」といふ。丈高き人の常に笑はるゝをいふなりけり。老人これをつらねてありきけると思ひて、「いま只今立ち並び給ひなむ」といふいふ、我もこの戶より出でゝく。侘しけれどもえはたおしかへさで渡殿の口にかい添ひて隱れ立ち給へれば、このおもとさし寄りて「おもとは今宵はうへにや侍ひ給ひつる。をとゝひより腹を病みていとわりなければしもに侍りつるを、人ずくななりとて召しゝかばよべ參う上りしかど、猶え堪ふまじくなむ」と憂ふ。いらへも聞かで「あなはらはら、今聞えむ」とて過ぎぬるに、辛うじて出で給ふ。猶かゝるありきはかろがろしく危ふかりけりといよいよおぼし懲りぬべし。小君御車の尻にて二條院におはしましぬ。ありさまの給ひて、幼かりけりとあばめ給ひて、かの人の心を、爪はじきをしつゝ怨み給ふ。いとほしうてものも聞えず、「いと深う惡み給ふべかめれば身も憂く思ひはてぬ。などかよそにても懷かしきいらへばかりはし給ふまじき。伊豫の介に劣りける身こそ」など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつるこうちきを、さすがに御ぞの下に引き入れて大殿籠れり。小君をおまへに臥せてよろづに怨みかつは語らひ給ふ。「あごはらうたけれどつらきゆかりにこそえ思ひはつまじけれ」とまめやかにの給ふを、いとわびしと思ひたり。暫しうちやすみ給へど寢られ給はず。御硯急ぎ召してさしはへたる御文にはあらで、たゞ手習のやうに書きすさび給ふ。

 「空禪の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」と書き給へるを、懷にひき入れてもたり。かの人もいかに思ふらむといとほしけれど、かたがたおもほし返して御ことづけもなし。かの薄ぎぬはこうちきのいと懷しき人香にしめるを身近くならしつゝ見居給へり。小君かしこにいきたれば、姉君待ちつけていみじうの給ふ。「あさましかりしにとかくまぎらしても人の思はむ事さり所なきにいとなむわりなき。いとかう心幼き心ばへをかつはいかにおもほすらむ」とて耻かしめ給ふ。左みぎに苦しく思へどかの御手習とり出でたり。さすがにとりて見給ふ。かのもぬけをいかにいせをの海士のしほなれてやなど思ふもたゞならず、いとよろづに亂れたり。西の君も物恥しき心地して渡り給ひにけり。又知る人もなきことなれば人知れずうちながめて居たり。小君の渡りありくにつけても胸のみふたがれど御消そこもなし。あさましと思ひ得る方もなくてざれたる心にもの哀れなるべし。つれなき人もさこそしづむれど、いとあさはかにもあらぬ御氣色を、ありしながらの我が身ならばと、取り返すものならねど忍びがたければこの御たゝうがみの片つかたに、

 「うつせみのはにおく露のこがくれてしのびしのびにぬるゝ袖かな」


夕顏

六條わたりの御しのびありきの頃、うちよりまかで給ふ中やどりに、大貳のめのといたく煩ひて尼になりにけるとぶらはむとて、五條なる家尋ねておはしたり。御車入るべき門はさしたりければ、人して惟光召させて待たせ給ひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見渡し給へるに、この家の傍に檜垣といふもの新しうして、かみは半蔀四五間ばかりあげ渡してすだれなどもいと白う凉しげなるに、をかしき額つきのすきかげあまた見えてのぞく。立ちさまよふらむしもつかた思ひやるに、あながちにたけ高き心地ぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりておぼさる。御車もいたうやつし給へり。さきもおはせ給はず。誰れとか知らむ」とうち解け給ひて少しさし覗き給へれば、門は蔀のやうなるを押しあげたる見いれの程なく物はかなき住まひを、哀にいづこかさしてとおもほしなせば、玉のうてなも同じことなり。きりかけだつものにいと靑やかなるかづらの心地よげにはひかゝれるに白き花ぞおのれひとりゑみの眉ひらけたる。「をちかた人に物まうす」とひとりごち給ふを、みずゐじんつい居て「かの白くさけるをなむ夕顏と申し侍る。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲き侍りける」と申す。げにいと小家がちにむつかしげなるわたりのこのもかのも怪しう打ちよろぼひてむねむねしからぬ軒のつまなどにはひまつはれるを、「口をしの花のちぎりや、一房折りて參れ」との給へば、この押しあけたる門に入りて折る。さすがにざれたる遣戶口に黃なるすゞしの單袴長く着なしたる童のをかしげなる出で來てうちまねく。白き扇のいたうこがしたるを、「これに置きて參らせよ。枝もなさけなげなめるはなを」とて取らせたれば門あけて惟光の朝臣の出で來たるして奉らす。「かぎを置きまどはし侍りていとふびんなるわざなりや。物のあやめ見給へ分くべき人も侍らぬわたりなれど、らうがはしき大路に立ちおはしまして」とかしこまり申す。引き入れており給ふ。惟光が兄のあざり、婿の參河の守、むすめなど渡り集ひたる程にてかくおはしましたる喜をまたなき事にかしこまる。尼君も起き上りて「惜しげなき身なれど捨て難く思ひ給へることは唯かくおまへに侍ひ御覽ぜらるゝ事の變り侍りなむことを口惜しう思ひ給へたゆたひしかど忌む事のしるしによみがへりてなむ、かく渡りおはしますを見給へ侍りぬれば今なむ阿彌陀ほとけの御光も心淸く待たれ侍るべき」など聞えて弱げに泣く。「日頃をこたり難く物せらるゝを安からず歎き渡りつるに、かく世を離るゝさまに物し給へばいと哀に口惜しうなむ。命長くて猶位高くなども見なし給へ。さてこそこゝの品のかみにもさはりなく生れ給はめ。この世に少し恨殘るは、わろぎわざとなむ聞く」など淚ぐみての給ふ。かたほなるをだにめのとなどやうの思ふべき人は淺ましうまほに見なすものをましていと面だゝしうなづさひ仕うまつりけむ身も痛はしう辱くおもほゆべかめれば、すゞろに淚がちなり。子どもはいと見苦しと思ひてそむきぬる世の去り難きやうに、みづからひそみ御覽ぜられ給ふと、つきじろひめくはす。君はいと哀と覺して「いはけなかりける程に思ふべき人々のうち捨てゝ物し給ひにける名殘、はぐゝむ人あまたあるやうなりしかど親しく思ひむつぶるすぢは又なくなむおもほえし。人となりて後は限あれば朝夕にしもえ見奉らず。心のまゝにとぶらひ參うづることはなけれど、猶久しう對めんせぬ時は心細く覺ゆるを、さらぬ別はなくもがなとなむ」など細やかに語らひ給ひて押しのごひ給へる御袖の匂もいと所せきまで薰り滿ちたるに、げに世に思へばおしなべたらぬ人の御すくせぞかしと、尼君をもどかしと見つる子どもゝ皆うち鹽たれけり。ずほふなど又々始むべきことなどおきての給はせて、出で給ふとて惟光にしそく召して、ありつる扇御覽ずれば、もてならしたるうつりがいとしみ深うなつかしうて、をかしうすさび書きたり。

 「心あてにそれかとぞ見るしら露のひかりそへたる夕がほの花」。そこはかとなく書きまぎらはしたるもあではかに故づきたればいと思の外にをかしう覺え給ふ。惟光に「この西なる家には何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」とのたまへば、例のうるさき御心とは思へど、さはまうさで「この五六日こゝに侍れど、ばうざの事を思ひ給へあつかひ侍る程に隣の事はえ聞き侍らず」などはしたなげに聞ゆれば「憎しとこそ思ひたれな。されどこの扇の尋ぬべき故ありて見ゆるを、猶このあたりの心知れらむ者を召して問へ」との給へば、入りてこの宿守なるをのこを呼びて問ひ聞く。「やうめいの介なりける人の家になむ侍りける。男はゐなかにまかりて、女なむわかく事好みて、はらからなど宮仕へ人にて來通ふと申す。くはしき事はしも人のえ知り侍らぬにやあらむ」と聞ゆ。「さらばその宮仕へ人なゝり。したり顏に物なれていへるかな」と、めざましかるべきはにやあらむと覺せど、さして聞えかゝれる心の憎からずすぐしがたきぞ、例のこのかたには重からぬ御心なめり〈る歟〉かし。御たゝう紙にいたうあらぬまに書きかへ給ひて、

 「よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花のゆふがほ」ありつる御隨身してつかはす。「まだ見ぬおほんさまなりけれどいとしるく思ひあてられたまへる御そばめを見すぐさでさし驚かしけるを、御いらへもなく程經ければなまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまへていかに聞えむ」などいひしろふべかめれど、めざましと思ひて隨身は參りぬ。御さきのまつほのかにていと忍びて出で給ふ。はじとみはおろしてけり。ひまびまより見ゆる火の光螢よりけにほのかに哀なり。御志の所には木立前栽などなべての所に似ずいとのどかに心憎く住みなし給へり。うちとけぬ御有樣などの氣色異なるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。つとめて少し寢すぐし給ひて日さし出づる程に出で給ふ。朝げの御姿はげに人のめで聞えむもことわりなる御樣なりけり。今日もこの蔀の前わたりし給ふ。きし方も過ぎ給ひけむわたりなれど唯はかなき一節に御心とゞまりて、いかなる人のすみかならむとはゆきゝに御目とまり給ひけり。惟光日頃ありて參れり。「煩ひ侍る人猶よわげに侍ればとかく見給ひあつかひてなむ」など聞えて近く參り寄りて聞ゆ。「仰せられし後なむ隣の事知りて侍る者呼びて問はせ侍りしかど、はかばかしくも申し侍らず。いと忍びてさつきのころほひより物し給ふ人なむあるべけれど、その人とは更に家の中の人にだに知らせずとなむ申す。時々中垣のかいまみし侍るに、げに若き女どもの透影見え侍り。しびらだつ物かごとばかり引きかけてかしづく人侍るめり。昨日の夕日のこりなくさし入りて侍りしに文書くとて居て侍りし人の顏こそいとよく侍りしか。物思へるけはひして有る人々も忍びてうち泣く樣などなむしるく見え侍る」と聞ゆ。君うちゑみ給ひて知らばやとおもほしたり。覺えこそ重かるべき御身の程なれど、御齡の程人の靡きめて聞えたるさまなど思ふには、すき給はざらむも情なくさうざうしかるべしかし。人のうけひかぬ程にてだに、猶さりぬべきあたりのことは好ましう覺ゆる物をと思ひ居り。「若し見給へうる事もや侍ると、はかなきついで作り出でゝ消そこなど遣したりき。書き馴れたる手して口疾く返事などし侍りき。いと口惜しうはあらぬわか人どもなむ侍るめる」ときこゆれば、「猶いひよれ、尋ね知らではさうざうしかりなむ」との給ふ。「かの下が下と人の思ひ捨てしすまひなれど、そのなかにも思ひの外に口惜しからぬを見つけたらば」と珍しうおもほすなりけり。さてかの空蟬のあさましうつれなきをこの世の人には違ひて覺すに、老らかならましかば心苦しきあやまちにても止みぬべきをいと妬く負けてやみなむを、心にかゝらぬ折なし。かやうの並々まではおもほしかゝらざりつるを、ありし雨夜の品さだめの後、いぶかしくおもほしなる品々のあるに、いとゞ隈なくなりぬる御心なめりかし。うらもなく待ちきこえ顏なる片つ方の人を哀と覺さぬにしもあらねど、つれなくて聞き居たらむことの恥かしければまづこなたの心見はてゝと覺す程に、伊豫介のぼりぬ。まづ急ぎまゐれり。ふなみちのしわざとて少し黑みやつれたる旅姿いとふつゝかに心づきなし。されど人も賤しからぬすぢにかたちなどねびたれど淸げにて、たゞならず氣色よしづきてなどぞありける。國の物語など申すに「湯げたはいくつ」と問はまほしく覺せどあいなくまばゆくて御心の中に覺し出づる事もさまざまなり。物まめやかなるおとなをかく思ふもげにをこがましう後めたきわざなりや。げにこれぞなのめならむかたはなめると、うまのかみのいさめおぼし出でゝいとほしきに、つれなき心は妬けれど人の爲は哀と覺しなさる。「むすめをばさるべき人に預けて北の方をばゐて下りぬべし」と聞き給ふに、一方ならず心あわたゞしくて「今一度はえあるまじき事にや」と小君を語らひ給へど、人の心を合せたらむことにてだに輕らかにえしも紛れ給ふまじきを、まして似げなき事に思ひて今更に見苦しかるべしと思ひ離れたり。さすがに絕えておもほし忘れなむことも、いといふがひなく憂かるべきことに思ひて、さるべき折々の御いらへなど懷しく聞えつゝ、なげの筆づかひにつけたる言の葉怪しうらうたげに目止るべきふし加へなどして、哀とは覺しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものゝ忘れ難きに覺す。今ひとかたはぬしつよくなるとも變らずうち解けぬべく見えし樣なるを賴みてとかく聞き給へど御心も動かずぞありける。秋にもなりぬ。人やりならず心づくしに思ほし亂るゝ事どもありておほい殿にはたえま置きつゝ恨めしくのみ思ひ聞え給へり。六條わたりにも解け難かりし御氣色をおもむけ聞え給ひて後ひきかへしなのめならむはいとほしかし。されどよそなりし御心惑ひのやうにあながちなる事はなきもいかなる事にかと見えたり。女はいと物をあまりなるまで覺ししめたる御心ざまにて、齡の程も似げなく人の漏り聞かむに、いとゞかくつらき御よがれのねざめねざめ覺し萎るゝ事いとさまざまなり。霧のいと深きあしたいたくそゝのかされ給ひてねぶたげなる氣色にうち歎きつゝ出で給ふを、中將のおもと御格子一間上げて見奉り送り給へとおぼしく御几帳引きやりたれば、御ぐしもたげて見出し給へり。前栽のいろいろ亂れたるを過ぎがてにやすらひ給へる樣げにたぐひなし。廊の方へおはするに、中將の君御供に參る。しをん色の折にあひたるうすものゝ裳あざやかに引きゆひたる腰つきさはやかになまめきたり。見かへり給ひて隅の間の勾欄に暫し引きすゑ給へり。打ち解けたらぬもてなし、髮のさがりばめざましくもと見給ふ。

 「咲く花にうつるてふ名はつゝめども折らで過ぎうきけさの朝顏。いかゞすべき」とて手を捕へ給へればいと馴れて疾く、

 「朝霧のはれまもまたぬけしきにて花にこゝろをとめぬとぞ見る」とおほやけごとにぞきこえなす。をかしげなるさぶらひわらはの姿このましうことさらめきたる、さしぬきの裾露けゞに花の中にまじりて朝顏折りて參るほどなど繪に書かまほしげなり。大方にうち見奉る人だに心しめ奉らぬはなし。物の情知らぬやまがつも花の影には猶やすらはまほしきにや、この御光を見奉るあたりはほどほどにつけて我が悲しとおもふむすめを仕うまつらせばやと願ひ、若しはくち惜しからずと思ふいもうとなどもたる人は賤しきにても猶この御あたりに侍はせむと思ひよらぬはなかりけり。ましてさりぬべき序の御言の葉も懷かしき御氣色を見奉る人の少し物の心を思ひ知るはいかゞはおろかに思ひきこえむ。明暮うち解けてしもおはせぬを心もとなき事に思ふべかめり。まことやかの惟光があづかりのかいまみはいとよくあない見取りて申す。「その人とは更におもひより侍らす。人にいみじく隱れ忍ぶる氣色になむ見えはべるを、つれづれなるまゝに南のはじとみあるながやにわたり來つゝ車の音すれば若き者ども覗きなどすべかめるに、このしうとおぼしきもはひわたる時はべ〈る脫歟〉める。かたちなむほのかなれどいとらうたげに侍る。ひと日さきおひてわたる車の侍りしをのぞきてわらはべの急ぎ來て、右近の君こそまづ物見給へ、中將殿こそこれより渡り給ひぬれといへば、またよろしきおとな出で來て、あなかまと手かくものから、いかでさはしるぞ、いで見むとてはひわたる。打橋だつものを路にてなむ通ひ侍る。急ぎくるものはきぬの据を物に引きかけてよろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、いでこのかづらきの神こそさかしうし置きたれとむつがりて、もののぞきの心もさめぬめり。君は御なほし姿にて御隨身共もありし、なにがしくれがしと數へしは、頭中將の隨身その小舍人わらはをなむしるしにいひ侍りし」など聞ゆれば、「たしかにその車を見まし」とのたまひて、もしかの哀れに忘れざりし人にやと思ほしよるもいと知らまほしげなる御氣色を見て「私のけさうもいとよくしおきて、あないも殘る所なく見給へ置きながら、唯我れどちと知らせて物などいふ若きおもとの侍るをそらおぼれしてなむ謀られまかりありく。いとよく隱したりと思ひて小き子どもなどの侍るが、ことあやまちしつべきもいひ紛らはして、又人なきさまを强ひてつくり侍る」などかたりて笑ふ。「尼君のとぶらひにものせむ序にかいまみせさせよ」とのたまひけり。假にても宿れる住まひの程を思ふに、これこそかの人の定めあなづりし下のしなならめ、その中に思ひの外にをかしき事もあらばなど思ほすなりけり。惟光、いさゝかの事も御心に違はじと思ふに、おのれも隈なきすき心にて、いみじくたばかり惑ひ步きつゝ、忍びておはしまさせそめてけり。この程の事くだくだしければ、例のもらしつ。

女をさしてその人と尋ね出で給はねば我も名のりをし給はで、いとわりなうやつれ給ひつゝ、例ならずおり立ちありき給ふは、おろかにはおぼさぬなるべしと見れば、我が馬をば奉りて御ともに走りありく。懸想人のいと物げなき足もとを見つけられて侍らむ時、からくもあるべきかなとわぶれど、人に知らせ給はぬまゝに、かの夕顏のしるべせし隨身ばかり、さては顏むげにしるまじきわらは一人ばかりぞ率ておはしける。もし思ひよる氣色もやとて、となりに中やどりをだにし給はず。女もいと怪しく心得ぬ心地のみして、御使に人を添へ曉の道を窺はせ、御ありか見せむと尋ぬれど、そこはかとなく惑はしつゝ、さすがに哀に見てはえあるまじくこの人の御心にかゝりたればびんなくかるがるしき事ども思ほしかへしわびつゝいとしばしば坐します。かゝるすぢはまめ人の亂るゝ折もあるを、いとめやすくしづめ給ひて人の咎めきこゆべきふるまひはし給はざりつるを、怪しきまで今朝のほどひるまのへだても覺束なくなど思ひ煩はれ給へば、かつはいとものぐるほしく、さまで心とゞむべき事のさまにもあらずといみじく思ひさましたまふ。ひとのけはひいとあさましくやはらかにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから世をまだ知らぬにもあらず、いとやんごとなきにはあるまじ、いづくにいとかくしもとまる心ぞとかへすがへすおぼす。いとことさらめきて御さうぞくをもやつれたるかりの御ぞを奉り、さまをかへ顏をもほの見せ給はず、夜深きほどに人をしづめて出入などし給へば、昔ありけむ物の變化めきてうたて思ひ歎かるれど、人の御けはひはた手さぐりにもしるきわざなりければ、誰ればかりにかはあらむ猶このすきものゝし出でつるわざなめりと太夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず顏にて、かけて思ひよらぬさまに撓まずあざれありけば、いかなることにかと心得がたく、女がたも怪しうやう違ひたる物おもひをなんしける。君もかくうらなくたゆめてはひかくれなば、いづこをはかりとか我れも尋ねむ、かりそめのかくれがとはた見ゆめれば、いづかたにもうつろひ行かむ日を、いつとも知らじとおぼすに、追ひまどはしてなのめに思ひなしつべくは、唯かばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、更にさてすぐしてむと覺されず。人めをおぼして隔て置き給ふよなよななどは、いと忍びがたく苦しきまで思ほえ給へば、猶誰となくて二條院に迎へてむ、若しきこえありてびんなかるべき事なりともさるべきにこそは、我が心ながらいとかく人にしむことはなきを、いかなる契にかはありけむなどおもほしよる。「いざいと心やすき所にてのどかに聞えむ」など語らひ給へば、「猶怪しうかくの給へど、世づかぬ御もてなしなれば物恐ろしくこそあれ」と、いと若びていへば、げにとほゝゑまれ給ひて「げにいづれか狐ならむな、唯謀られ給へかし」と懷かしげにの給へば、女もいみじく靡きて、さもありぬべう思ひたり。世になくかたはならむ事なりともひたぶるに隨ふ心はいと哀げなる人と見給ふに猶かの頭中將のとこなつ疑はしく、語りし心ざままづ思ひ出でられ給へど「忍ぶるやうこそは」とあながちにも問ひはて給はず。けしきばみてふと背き隱るべき心ざまなどはなければ、かれがれにとだえ置かむ折こそはさやうに思ひかはることもあらめ、心ながらも少しはうつろふ事あらむこそ哀なるべけれとさへおぼしけり。八月十五夜隈なき月かげ、ひま多かる板屋のこりなく漏り來て、見習ひ給はぬ住まひのさまもめづらしきに、曉近くなりにけるなるべし、隣の家々あやしき賤のをの聲々目さまして「あはれいと寒しや。今年こそなりはひにも賴む所少く田舍の通ひも思ひかけねばいと心ぼそけれ。北殿こそ聞き給ふや」など言ひかはすも聞ゆ。いと哀なるおのがじゝのいとなみに、起き出でゝそゝめきさわぐも程なきを、女いと耻しく思ひたり。えんだち氣色ばまむ人は消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されどのどかにつらきも憂きも傍痛きことも思ひ入れたるさまならで、我がもてなしありさまはいとあではやにこめかしくて、まだなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか耻ぢかゝやかむよりは罪免されてぞ見えける。こほこほと鳴神よりもおどろおどろしく踏み轟かすからうすの音も枕がみとおぼゆ。あな耳かしがましと是にぞおぼさるゝ。何の響とも聞き入れたまはず。いと怪しう目ざましき音なひとのみ聞き給ふ。くだくだしき事のみ多かり。白妙の衣うつ砧の音もかすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の聲取り集めて忍びがたき事多かり。はし近きおましどころなりければ遣戶を引きあけ給ひて諸共に見出し給ふ。程なき庭にざれたる吳竹、前栽の露は猶かゝる所も同じごときらめきたり。蟲の聲々みだりがはしく、壁の中の蟋蟀だにまどほに聞きならひ給へる御耳にさしあてたるやうに鳴き亂るゝを、なかなかさまかへて覺さるゝも御志一つの淺からぬに萬の罪免さるゝなめりかし。しろきあはせうすいろのなよゝかなるを重ねて華やかならぬ姿いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立てゝ優れたる事もなけれど、ほそやかにたをたをとして物うち言ひたるけはひ、あな心苦しとたゞいとらうたく見ゆ。心ばみたる方を少し添へたらばと見給へながらなほうちとけて見まほしく覺さるれば、「いざたゞこのわたり近き所に心安くてあかさむ。かくてのみはいと苦しかりけり」との給へば、「いかでか俄ならむ」といと老らかにいひて居たり。この世のみならぬ契などまでたのめ給ふに、うち解くる心ばへなど怪しくやうかはりて世馴れたる人とも覺えねば、人の思はむ所もえ憚り給はで右近を召し出でゝ隨身を召させ給ひて御車引き入れさせ給ふ。このある人々もかゝる御志のおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら賴みをかけ聞えたり。あけがたも近うなりにけり。とりの聲などきこえて、みたけさうじにやあらむ、唯翁びたる聲にぬかづくぞ聞ゆる。たちゐのけはひ堪へがたげに行ふ。いとあはれに朝の露に異ならぬ世を何をむさぼる身のいのりにかと聞え給ふに、「なもたうらいの導師」とぞ拜むなる。「かれ聞き給へ。この世とのみは思はざりけり」とあはれがり給ひて、

 「うばそくが行ふみちをしるべにて來む世もふかきちぎりたがふな」。長生殿のふるきためしはゆゝしくて、はねをかはさむとは引きかへて彌勒の世をぞかね給ふ。行く先の御たのめいとこちたし。

 「さきの世のちぎり知らるゝ身のうさに行く末かねて賴みがたさよ」。かやうのすぢなどもさるは心もとなかめり。いざよふ月にゆくりなくあくがれむことを女も思ひやすらひ、とかくの給ふほど、俄かに雲がくれて明け行く空いとをかし。はしたなき程にならぬさきにと例の急ぎ出で給ひて輕らかにうち載せ給へれば、右近ぞ乘りける。そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、あづかり召し出づるほど荒れたる門のしのぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなくこぐらし。露も深く露けきに簾垂をさへ上げ給へれば御袖もいたう濡れにけり。まだかやうなることを習はざりつるを心づくしなる事にもありけるかな。

 「いにしへもかくやは人のまどひけむ我がまだ知らぬしのゝめの道。ならひ給へりや」との給ふ。女はぢらひて、

 「山の端のこゝろもしらで行く月はうはの空にてかげや絕えなむ。心ぼそく」とて物恐しうすごげに思ひたれば、かのさしつどひたる住まひの心ならひならむとをかしうおぼす。御車入れさせて、西の對におましなどよそふ程匂棚に御車ひきかけて立ち給へり。右近えんなる心地して、こし方の事なども人知れず思ひ出でけり。あづかりいみじくけいめいしてありく氣色にこの御ありさま知りはてぬ。ほのぼのと物見ゆるほどにおり給ひぬめり。かりそめなれど淸げにしつらひたり。御供に人も侍はざりけり。「ふびんなるわざかな」とて、睦しきしもけいしにて殿にも仕うまつるものなりければ參りよりて「さるべき人召すべきにや」など申さすれど「殊更に人くまじきかくれが、求めたるなり。更に心より外に漏すな」と口がためさせ給ふ。御かゆなど急ぎ參らせたれど取りつぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬ事なる御旅寢に、おきなか川と契り給ふより外のことなし。日たくる程に起き給ひて格子手づから上げ給ふ。いと痛く荒れて人目もなくはるばると見渡されでこだちいと疎ましく物ふりたり。け近き草木などは殊に見所なく、皆秋の野らにて池もみくさに埋れたればいとけうとげになりにける所かな。べちなふのかたにぞざうしなどして人住むべかめれど、こなたははなれたり。「け疎くもなりにける所かな。さりとも鬼なども、我をば見許してむ」との給ふ。顏は猶隱し給へれど、女の、いとつらしと思ふべければ、「げにかばかりにてへだてあらむも事のさま違ひたりとおぼして、

 「夕露にひもとく花はたまほこの便に見えしえにこそありけれ。露のひかりやいかに」との給へば、しり目に見おこせて、

 「ひかりありと見し夕顏のうは露はたそがれどきのそらめなりけり」とほのかにいふ。をかしとおぼしなす。げにうちとけ給へるさま世になく所がらまいてゆゝしきまで見えたまふ。「つきせずへだて給へるつらさに顯さじと思ひつるものを、いまだに名のりし給へ。いとむくつけし」との給へど「あまの子なれば」とてさすがにうちとけぬさまいとあいだれたり。「よしこれも我からなめり」と怨みかつは語らひ暮し給ふ。惟光尋ねきこえて御くだものなど參らす。右近がいはむとさすがにいとほしければ、近くもえ侍ひよらず。かくまでたどりありき給ふもをかしう、さもありぬべき有樣にこそはと推し量らるゝにも、我がいとよく思ひよりぬべかりしことを讓り聞えて心ひろさよなどめざましうぞおもひをる。たとしへなく靜なる夕の空を眺め給ひて「奧の方は闇う物むつかし」と女は思ひたればはしのすだれを上げて添ひ臥し給へり。夕ばえを見かはして女もかゝるありさまを思の外に怪しき心地はしながら萬のなげき忘れて少しうちとけ行く氣色いとらうたし。つと御傍に添ひ暮して物をいと恐しと思ひたるさま若う心苦し。格子疾くおろし給ひて、大となぶら參らせて名殘なくなりにたる御有樣にて、「猶心の中のへだて殘し給へるなむつらき」と怨み給ふ。うちに、いかに求めさせ給ふらむを、いづこに尋ぬらむと覺し遣りて、かつはあやしの心や。六條わたりにもいかに思ひ亂れたまふらむ。怨みられむも苦しうことわりなりと、いとほしきすぢはまづ思ひ聞え給ふ。何心もなきさしむかひを哀とおぼすまゝにあまり心深く見る人も苦しき御有樣を、少し取り捨てばやとぞ思ひくらべられ給ひける。宵過ぐるほどに少し寢入り給へるに、御枕がみにいとをかしげなる女居て、「おのがいとめでたしと見奉るをば尋ねもおもほさでかくことなる事なき人をゐておはして時めかし給ふこそいとめざましくつらけれとてこの御傍の人を搔き起さむとすと見給ふ。物におそはるゝ心地して驚き給へれば火も消えにけり。うたておぼさるれば太刀を引き拔きてうち置き給ひて右近を起し給ふ。これも恐しと思ひたるさまにて參りよれり。「渡殿なるとのゐびと起してしそくさして參れといへ」との給へば、「いかでかまからむ、闇うて」といへば、「あな若々し」とうち笑ひ給ひて手を叩き給へば、山響の答ふる聲いとうとまし。人はえ聞きつけで參らぬに、この女君いみじうわなゝき惑ひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとゝになりてわれかの氣色なり。「ものおぢをなむわりなくせさせ給ふ御本性にていかにおぼさるゝにか」と右近もきこゆ。いとかよわくて晝も空をのみ見つるものを、いとほしとおぼして、「われ人をおこさむ。手叩けば、山響答ふるいとうるさし。こゝにしばし近く」とて、右近を引き寄せ給ひて、西の妻戶に出でゝ戶を押しあけ給へれば渡殿の火も消えにけり。風少しうち吹きたるに人は少くて侍ふかぎり皆寢たり。この院の預の子のむつましくつかひ給ふ若きをのこまたうへわらは一人例の隨分ばかりぞありける。召せば御答して起きたれば、「紙燭さしてまゐれ。隨身もつるうちして絕えずこわづくれと仰せよ。人離れたる所に心とけていぬるものか。惟光の朝臣のきたりつらむは」と問はせ給へば、「侍らひつれど仰事もなし。曉に御迎に參るべきよし申してなむ罷で出て侍りぬる」ときこゆ。このかう申すものは瀧口なりければ、ゆづるいとつきづきしく打ち鳴して「火危し」といふいふ預が曹司のかたへにいぬるなり。內を覺しやりて、なだいめんは過ぎぬらむ、瀧口のとのゐまうし今こそと推し量り給ふは、まだいたう更けぬにこそは、歸り入りて探り給へば、女君はさながら臥して右近は傍にうつぶし臥したり。「こはなぞ。あなものぐるほしのものおぢや。荒れたる所は狐などやうの物の、人おびやかさむとてけおそろしう思はするならむ。まろあればさやうの物にはおどされじ」とて引き起し給ふ。「いとうたてみだり心地の惡しう侍ればうつぶし臥して侍るなり。おまへにこそわりなくおぼさるらめ」といへば、「そよ、などかうは」とてかい探り給ふに息もせず。引き動し給へどなよなよとして我にもあらぬさまなれば、いと痛くわかびたる人にて物に氣取られぬるなめりとせむかたなき心地し給ふ。しそくもて參れり。「右近も動くべきさまにもあらねば近き御几帳を引き寄せて「猶もて參れ」との給ふ。例ならぬことにて、おまへ近くもえ參らぬつゝましさに、なげしにもえのぼらず、「猶もてこや。所に從ひてこそ」とて召し寄せて見給へば、唯この枕がみに夢に見つる形したる女面影に見えてふと消え失せぬ。昔物語などにこそ斯る事はきけ」といと珍らかにむくつけゝれど、まづこの人はいかになりぬるぞとおもほす心騷に身の上も知られ給はず。添ひ臥して「やゝ」と驚かし給へど、たゞひえに冷え入りて息は疾く絕えはてにけり。いはむかたなし。たのもしくいかにと言ひふれ給ふべき人もなし。法師などをこそはかゝる方のたのもしきものには覺すべけれど、さこそ心强がり給へど若き御心地にていふがひなくなりぬるを見給ふに、遣る方なくてつと抱きて「あが君生き出で給へ。いみじきめな見せ給ひそ」との給へど、冷え入りたればけはひ物うくなり行く。右近は唯あなむづかしと思ひける心地皆醒めて泣き惑ふさまいといみじ。南殿の鬼のなにがしのおとゞを脅したるためしを覺し出でゝ、心づよく「さりともいたづらになりはて給はじ。よるの聲はおどろおどろし。あなかま」といさめ給ひて、いとあれだゝしきに呆れたる心地し給ふ。この男を召して、こゝにいと怪しき物におそはれたる人の惱ましげなるを、只今惟光の朝臣の宿れる所に罷りて急ぎ參るべきよしいへと仰せよ。なにがしのあざり、そこにものする程ならば、此所に來べきよし忍びていへ。かの尼君などの聞かむにおどろおどろしくいふな。かゝるありき許さぬ人なり」など、物の給ふやうなれど胸はふたがりて、この人を空しくなしてむことのいみじく覺さるゝに添へて、大方のむくむくしさ譬へむかたなし。夜中も過ぎにけむかし、風やゝ荒々しう吹きたるは。まして松のひゞき木ぶかくきこえて、氣色あるとりのからごゑになきたるも、梟はこれにやとおぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなたけどほくうとましきにひと聲せず、などてかくはかなきやどりは取りつるぞと悔しさもやらむかたなし。右近はものもおぼえず君につと添ひ奉りてわなゝき死ぬべし。又これもいかならむと心そらにてとらへ給へり。我れ一人さかしき人にて覺しやる方ぞなきや。火はほのかにまたゝきてもやのきはに立てたる屛風のかみ、こゝかしこのくまぐましく覺え給ふに、物の足音ひしひしと踏み鳴らしつゝうしろより寄り來る心地す。惟光疾く參らなむとおぼす。ありか定めぬものにてこゝかしこ尋ねける程に夜の明くる程の久しさ千夜をすぐさむ心ちし給ふ。辛うじてとりの聲遙に聞ゆるに、命をかけて何の契にかゝるめを見るらむ。我が心ながらかゝるすぢにおほけなくあるまじき心の報に、かくきし方行くさきのためしとなりぬべき事はあるなめり、忍ぶとも世にあること隱れなくて、うちにきこし召されむことを始めて人の思ひいはむ事、よからぬわらはべの口ずさびになりぬべきなめり、ありありてをこがましき名を取るべきかなと覺しめぐらす。辛うじて惟光の朝臣參れり。夜中曉といはず御心に隨へるものゝ今宵しも侍はで召しにさへ怠りつるを憎しと思ほすものから召し入れての給ひ出でむ事のあへなきにふと物もいはれ給はず。右近、大夫のけはひ聞くに始よりの事うち思ひ出でられてなくを、君もえ堪へ給はで我一人さかしがり抱き持ち給へりけるに、この人に息をのべ給ひてぞ悲しき事もおぼされける。とばかりいといたくえもとゞめず泣き給ふ。やゝためらひて「こゝにいと怪しき事のあるをあさましといふにも餘りてなむある。かゝるとみの事にはずきやうなどをこそはすなれとて、その事どもせさせむ願なども立てさせむとて、阿闍梨物せよと言ひ遣りつるは」との給ふに「昨日山へ罷り上りにけり。まづいと珍らかなる事にも侍るかな。かねて例ならず御心地の物せさせ給ふことや侍りつらむ」、「さる事もなかりつ」とて泣き給ふさまいとをかしげにらうたく、見奉る人もいと悲しくておのれもよゝと泣きぬ。「さいへど年うちねび世の中のとある事も鹽じみぬる人こそ物のをりふしは賴もしかりけれ。いづれもいづれも若きどちにて言はむ方もなけれど、この院もりなどに聞かせむことはいとびんなかるべし。この人一人こそむつまじうもあらめ。おのづから物言ひ漏しつべきくゑんぞくも立ち交りたらむ。まづこの院を出ておはしましね」といふ。「さてこれよりひとづくななる所はいかでかあらむ」との給ふ。「げにさぞ侍らむ。かの故鄕は女房などのかなしびに堪へず泣き惑ひ侍らむに、隣しげく咎むる里人多く侍らむに、おのづから聞えはべらむを、山寺こそ猶かやうの事おのづから行きまじり物紛るゝこと侍らめと思ひまはして、昔見給へし女房の尼にて侍るひんがし山のへんに移し奉らむ。惟光が父の朝臣の乳母に侍りし者のみづはぐみて住み侍るなり。あたりは人繁きやうに侍れどいとかごかに侍る」と聞えて明け離るゝ程のまぎれに御車寄す。この人をえ抱き給ふまじければうはむしろに押しくゝみて惟光載せ奉る。いとさゝやかにてうとましげもなくらうたげなり。したゝかにしもえせねば、髮はこぼれ出でたるも、日暮れ惑ひてあさましう悲しと覺せば、なりはてむさまを見むとおぼせど、「はや御馬にて二條の院へおはしまさなむ。人騷しくなり侍らぬ程に」とて右近を添へて乘すれば、君に馬は奉りて我はかちよりくゝり引き上げなどして出で立つ。かつはいと怪しく、覺えぬおくりなれど、御氣色のいみじきを見奉れば身を捨てゝ行くに、君は物もおぼえ給はず。われかのさまにておはし着きたり。人々「いづこよりおはしますにか、惱ましげに見えさせ給ふ」などいへど、御帳の內に入り給ひて、胸を抑へて思ふにいといみじければ、などて乘り添ひて行かざりつらむ、生き返りたらむ時いかなる心地せむ、見捨てゝいき別れにけりとつらくや思はむとこゝろ惑ひの中にもおぼすに、御胸せきあぐる心地し給ふ。御ぐしも痛く身も熱き心地していと苦しく惑はれ給へば、かくはかなくて我もいたづらになりぬるなめりとおぼす。日高くなれど起き上りたまはねば、人々あやしがりて御粥などそゝのかし聞ゆれど、苦しくていと心細く覺さるゝに、うちより御使あり。昨日もえ尋ね出で奉らざりしより覺束ながらせたまふ。おほとのゝ君だち參り給へど、頭中將ばかりを「立ちながら此方に入りたまへ」との給ひて、みすの內ながらの給ふ、「めのとにて侍るものゝこのさつきの比ほひより重く煩ひ侍りしが頭そり忌む事受けなどしてそのしるしにやよみがへりたりしを、このごろ又起りて弱くなむなりにたる。今一度とぶらひ見よと申したりしかば、いときなきよりなづさひしものゝ今はのきざみにつらしとや思はむと思ひ給へて罷りしに、その家なりける下びとの病ひしけるが俄にえいであへて亡くなりにけるをおぢ憚りて日をくらしてなむとり出で侍りけるを聞きつけ侍りしかば、かみわざなるころはいとふびんなる事と思う給へかしこまりて、え參らぬなり。この曉よりしはぶきやみにや侍らむ、頭いと痛くて苦しく侍れば、いとむらいにて聞ゆ」る事などの給ふ。中將、「さらばさるよしをこそ奏し侍らめ。よべも御遊びにかしこく求め奉らせ給ひて御氣色あしく侍りき」と聞え給ひて、立ちかへり「いかなるいきぶれにかゝらせ給ふぞや。陳べやらせ給ふことこそ誠とも思う給へら〈れイ有〉ね」といふに胸うち潰れ給ひて、かくこまかにはあらでたゞ覺えぬけがらひに觸れたる由を奏し給へ。いとこそたいだいしく侍れ」とつれなくの給へど、心の中にはいふがひなく悲しき事をおぼすに御心地もなやましければ人に目も見合せ給はず、藏人の辨を召し寄せてまめやかにかゝる由を奏せさせ給ふ。おほ殿などにもかゝる事ありてえ參らぬ御消そこなど聞え給ふ。日暮れて惟光參れり。かゝるけがらひありとの給ひて、參る人々も皆立ちながらまかづれば人しげからず召し寄せて「いかにぞ今はと見はてつや」との給ふまゝに、袖を御顏に押しあてゝ泣き給ふ。惟光もなくなく「今はかぎりにこそは物し給ふめれ。長々と籠り侍らむもびんなきを、明日なむ日よろしく侍れば、とかくの事いと尊き老僧のあひ知りて侍るに言ひ語らひつけ侍りぬる」ときこゆ。「添ひたりつる女はいかに」との給へば、「それなむまたえ生くまじう侍るめる。我も後れじと惑ひ侍りて今朝は谷にも落ち入りぬべくなむ見給へつる。かのふるさとびとに吿げ遣らむと申せど、しばし思ひしづめよ、ことのさま思ひめぐらしてとなむこしらへ置き侍りつる」と語り聞ゆるまゝに、いといみじと覺して、「我もいと心地なやましく、いかなるべきにかとなむ覺ゆる」との給ふ。「何か更におもほしものせさせ給ふ。さるべきにこそ萬の事侍らめ。人にも漏さじと思ひたまふれば惟光おり立ちて萬はものし侍る」など申す。「さかし、さみな思ひなせど浮びたる心のすさびに人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきがいとからきなり。少將の命婦などにも聞かすな。尼君ましてかやうの事などいさめらゝを心耻しくなむ覺ゆべぎ」と口がため給ふ。「さらぬ法師ばらなどにもみないひなすさま異に侍る」と聞ゆるにぞかゝり給へる。ほの聞く女房など、怪しく何事ならむ、けがらひのよしの給ひてうちにも參り給はず、又かくさゝめき歎き給ふとほのぼのあやしがる。「更に事なくしなせ」とそのほどのさほふのたまへど、「なにかことごとしくすべきにも侍らず」とて、立つがいと悲しく覺さるればびんなしと思ふべけれど、「今一度かのなきがらを見ざらむがいといぶせかるべきを、馬にてものせむ」との給ふを、いとたいだいしき事とは思へど「さ覺されむはいかゞせむ。はやおはしまして、夜更けぬさきに歸らせおはしませ」と申せば、この頃の御やつれに設け給へる狩の御そう束着かへなどして出で給ふ。御心地かきくらしいみじく堪へ難ければ、かく怪しき路に出で立ちても危かりしものごりに、いかにせむと覺しわづらへど、猶悲しさのやるかたなく、只今のからを見ではまたいつの世にかありしかたちをも見むとおぼし念じて例の大夫、隨身を具して出で給ふ。路遠くおぼゆ。十七日の月さし出でゝ河原のほどみさきの火もほのかになるに鳥部野のかたなど見やりたるほどなど物むつかしきも何とも覺え給はず。かきみだる心地し給ひておはしつきぬ。あたりさへすごきに、板屋の傍に堂建てゝ行へる尼のすまひいとあはれなり。みあかしの影ほのかに透きて見ゆ。その屋には女一人泣く聲のみして、との方に法師ばらの二三人物語しつゝわざとの聲立てぬ念佛ぞする。寺々のそやも皆行ひはてゝいとしめやかなり。淸水の方ぞ光多く見えて人のけはひもしげかりける。この尼君の子なるだいとこの聲たふとくて經うち讀みたるに、淚殘りなくおぼさる。入り給へれば、火取りそむけて右近は屛風へだてゝ臥したり。いかにわびしからむ。と見給ふ。恐ろしきけもおぼえずいとらうたげなるさましてまだ聊かはりたる所なし。手を捕へて「我に今一度聲をだに聞かせ給へ。いかなるむかしの契にかありけむ。暫しの程に心を盡して哀におぼえしを、うち捨て惑はし給ふがいみじき事」と聲も惜まず泣き給ふ事限なし。だいとこだちも誰とは知らぬに、怪しと思ひて皆淚おとしけり。右近を「いざ二條院へ」との給へど年比をさなく侍りしより片時立ち離れ奉らず馴れ聞えつる人に俄に別れ奉りて、いづこにかかへり侍らむ。いかになり給ひにきとか人にもいひ侍らむ。悲しき事をばさるものにて、人に言ひ騷がれ侍らむがいみじきこと」といひて泣き惑ひて「煙にたぐひて慕ひ參りなむ」といふ。「ことわりなれど、さなむ世の中はある。別れといふものゝ悲しからぬはなし。とあるもかゝるも同じ命の限あるものになむある。思ひ慰めてわれをたのめ」との給ひこしらへても、「かくいふ身こそは生きとまるまじき心地すれ」とのたまふもたのもしげなしや。惟光「夜は明方になり侍りぬらむ。はや歸らせ給ひなむ」と聞ゆれば、顧みのみせられて胸もつとふたがりて出で給ふ。路いと露けきにいとゞしき朝霧にいづこともなく惑ふ心地し給ふ。ありしながらうち臥したりつるさまうち交し給へりしが〈が恐衍〉、我が紅の御ぞの着られたりつるなどいかなりけむ契にかと道すがらおぼさる。御馬にもはかばかしく乘りたまふまじき御さまなれば又惟光添ひ扶けておはしまさするに、堤のほどにて馬よりすべりおりていみじく御心地惑ひければ、「かゝる路の空にてはふれぬべきにやあらむ。更にえいき着くまじき心地なむする」との給ふに、惟光も心地惑ひて、我がはかばかしくはさの給ふともかゝる道に率て出で奉るべきかはと思ふに、いと心あわだゝしければ、かはの水にて手を洗ひて、淸水の觀音を念じ奉りても、すべなく思ひ惑ふ。君も强ひて御心を起して、心の中に佛を念じ給ひて、又とかく助けられ給ひてなむ二條院へ歸り給ひける。怪しう夜深き御ありきを人々「見苦しきわざかな。このごろ例よりもしづ心なき御しのびありきのうちしきるなかにも、昨日の御氣色のいと惱ましう覺したりしにはいかでかくたどりありき給ふらむ」と歎きあへり。誠に臥し給ひぬるまゝにいといたく苦しがり給ひて、二三日になりぬるにむげに弱るやうにし給ふ。うちにも聞しめし歎く事かぎりなし。御いのりかたかたに隙なくのゝしる。まつりはらへずほふなど、言ひ盡すべくもあらず。世に類なくゆゝしき御有樣なれば「世に長くおはしますまじきにや」と、天の下の人のさわぎなり。苦しき御心地にもかの右近を召し寄せて局など近く給はりて侍はせ給ふ。惟光心地も騷ぎ惑へど、思ひのどめてこの人のたづきなしと思ひたるをもてなし助けつゝ侍はす。君は聊ひまありておぼさるゝ時は、召し出でゝ使ひなどし給へば程なく交らひつきたり。ぶくいと黑うしてかたちなどよからねど、かたはに見苦しからぬわかうどなり。「あやしう短かりける御契にひかされて我も世にえあるまじきなめり。年比のたのみ失ひて心ぼそく思ふらむ慰めにも、若しながらへば萬にはぐゝまむとこそ思ひしか。程もなく又立ちそひぬべきがくち惜しくもあるべきかな」としのびやかにの給ひてよわげに泣き給へば、いふがひなき事をばおきていみじう惜しと思ひきこゆ。殿の內の人、足を空にて思ひ惑ふ。うちより御使雨の脚よりもけにしげし。覺し歎きおはしますを聞き給ふにいとかたじけなくてせめて强く覺しなる。大殿もいみじくけいめいし給ひて日々にわたり給ひつゝさまざまの事をせさせたまふしるしにや、廿よ日いとおもくわづらひ給へれど異なる名殘のこらずをこたりざまに見え給ふ。けがらひ忌み給ひしもひとつに滿ちぬるよなれば覺束ながらせ給ふ。御心わりなくてうちの御とのゐどころに參り給ひなどす。大との我が御車にて迎へ奉り給ひて、御物忌なにやかやとむつかしう愼ませ奉り給ふ。我にもあらずあらぬ世に歸りたるやうにしばしは覺え給ふ。ながつき廿日のほどにぞをこたりはて給ひて、いと痛うおも瘦せ給へれどなかなかいみじうなまめかしうて、詠めがちにねをのみ泣き給ふ。見奉り咎むる人もありて「御ものゝけなめり」などいふもあり。右近を召し出でゝのどやかなる夕暮に物語などし給ひて、「猶いとなむあやしき。などてその人と知らせじとは隱い給へりしぞ。誠にあまの子なりともさばかりに思ふを知らで、隔て給ひしかばなむつらかりし」との給へば、「などてか深く隱しきこえ給ふ事は侍らむ。いつのほどにてかは何ならぬ御名のりを聞え給はむ。始よりあやしうおぼえぬさまなりし御事なればうつゝともおぼえずなむあるとの給ひて、御名がくしもさばかりにこそはと聞えたまひながら、等閑にこそ紛はし給ふらめとなむ憂き事におぼしたりし」と聞ゆれば、「あいなかりける心くらべどもかな。我はしか隔つる心もなかりき。唯かやうに人に免されぬふるまひをなむまだ習はぬことなる。うちに諫めの給はするを始め、つゝむ事多かる身にてはかなく人にたはぶれごとをいふも所せう取りなし、うるさき身の有樣になむあるを、はかなかりし夕より怪しう心にかゝりて、あながちに見奉りしも、かゝるべき契にこそは物し給ひけめと思ふもあはれになむ、又うちかへしつらうおぼゆる。かう長かるまじきにてはなどさしも心にしみて哀とおぼえ給ひけむ。猶委しうかたれ。今は何事をかくすべきぞ。七日七日のほとけかゝせても誰がためとか心のうちにも思はむ」との給へば、「何かは隔てきこえさせ侍らむ。自ら忍びすぐし給ひしことをなき御うしろに口さがなくやはと思ひ給ふるばかりになむ。親たちは早う亡せ給ひにき。三位中將となむきこえし。いとらうたきものに思ひ聞え給へりしかど我が身のほどの心もとなさを覺すめりしに、命さへ堪へ給はずなりにし後、はかなきものゝたよりにて、頭中將まだ少將にものし給ひし時見そめ奉らせ給ひて、三年ばかりは志あるさまに通ひ給ひしを、こぞの秋の頃かの右大臣殿よりいと恐ろしき事の聞えまうで來しに、ものおぢをわりなくし給ひし御心にせむ方なう覺しおぢて、西の京に御めのとの住み侍る所になむはひかくれ給へりし。それもいと見苦しきに住み侘び給ひて、山里にうつろひなむと覺したりしを、今年よりはふたがりたる方に侍りければ、違ふとて怪しき所に物し給ひしを、見顯はされ奉りぬる事と覺し歎くめりし。世の人に似ず物づゝみをし給ひて、人に物思ふ氣色を見えむは耻しきものにし給ひて、つれなくのみもてなして〈こそ脫歟〉御覽ぜられ奉り給ふめりしか」とかたり出づるに、さればよと覺し合せていよいよ哀もまさりぬ。「をさなき人惑はしたりと中將の憂へしはさる人や」と問ひ給ふ。「しか、をとゝしの春ぞ物し給へりし女にていとらうたげになむ」と聞ゆ。「さていづこにぞ。人にさとは知らせで我に得させよ。あとはかなくいみじと思ふ御かたみにいと嬉しかるべくなむ」との給ふ。「かの中將にも傳ふべけれど、いふがひなきかど負ひなむ。とざまかうざまにつけてはぐゝまむにとがあるまじきを、そのあらむめのとなどにも異ざまにいひなして物せよかし」など語らひ給ふ。「さらばいと嬉しくなむ侍るべき。かの西の京にて生ひ出で給はむは心苦しうなむ。はかばかしくあつかふ人なしとてかしこになむ」ときこゆ。夕暮のしづかなるに、空の氣色いとあはれに、おまへの前栽かれがれに蟲の音も泣きかれて紅葉やうやう色づくほど、繪に書きたるやうにおもしろきを見渡して、心より外にをかしき交らひかなと、かの夕顏のやどりを思ひ出づるもはづかし。竹の中に家鳩といふ鳥のふつゝかになくを聞き給ひて、かのありし院にこの鳥の泣きしをいと恐しと思ひたりしさまの面影にらうたく思ほし出でらるれば、「年は幾つにかものし給ひし。怪しう世の人に似ずあえかに見え給ひしもかく長かるまじきなりけり」との給ふ。「十九にやなり給ひけむ、右近は、なくなりにける御めのとの棄て置きて侍りければ、三位の君のらうたがり給ひてかの御あたり去らずおほしたて給ひしを思ひ給へ出づれば、いかでか世に侍らむとすらむ。いとしも人にと悔しくなむ。物はかなげに物し給ひし人の御心をたのもしき人にて年ごろならひ侍りける事」と聞ゆ。「はかなびたるこそ女はらうたけれ。かしこく人に靡かぬ、いと心づきなきわざなり。みづからはかばかしくすこよかならぬ心ならひに、女は唯やはらかにてとりはづしては人に欺かれぬべきがさすがに物づゝみし、見む人の心には從はむなむ哀れにて、我が心のまゝにとり直して見むに懷しう覺ゆべき」などの給へば、「この方の御このみにはもてはなれ給はざりけりと思ひ給ふるにも口惜しく侍るわざかな」とてなく。空のうち曇りて風冷やかなるにいといたううちながめたまひて、

 「見し人のけぶりを雲とながむればゆふべの空もむつまじきかな」とひとりごち給へどえさしいらへもきこえず。かやうにておはせましかばとおもふも胸のみふたがりておぼゆ。みゝかしがましかりし砧の音をおぼし出づるさへ戀しくて「まさに長き夜」とうちずして臥し給へり。かの伊豫の家の小君參る折あれど殊にありしやうなる言傳もし給はねば、憂しと覺しはてにけるをいとほしと思ふに、かく煩ひ給ふを聞きてさすがにうち歎きけり。遠く下りなむとするをさすがに心ぼそければ、覺し忘れぬるかと試に、「うけ給はりなやむをことにいでゝはえこそ。

  問はぬをもなどかと問はで程ふるにいかばかりかは思ひ亂るゝ。益田はまことになむ」ときこえたり。めづらしきにこれもあはれ忘れ給はず。「生けるかひなきや、誰がいはましごとにか。

 「うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかゝる命よ。はかなしや」と御手もうちわなゝかるゝに亂れがき給へるいとうつくしげなり。猶かのもぬけを忘れ給はぬをいとほしうもをかしうも思ひけり。かやうに憎からずは聞え交せどけぢかくとは思ひよらず、さすがにいふがひなからずは見え奉りて止みなむと思ふなりけり。かの片つ方は藏人の少將をなむ通はすと聞き給ふ。あやしや、いかに思ふらむと少將の心の中もいとほしう、又かの人の氣色もゆかしければ、小君して「しにかへり思ふ心は知りたまへりや」といひつかはす。

 「ほのかにも軒端の荻をむすばずは露のかごとをなにゝかけまし」。高やかなる荻につけて「忍びて」との給へれど、取りあやまちて少將も見つけて我なりけりと思ひ合せば、さりとも罪許してむと思ふ御心おごりぞあいなかりける。少將のなきをりに見すれば、こゝろうしとおもへど、かくおぼし出でたるもさすがにて御かへり、口ときばかりをかごとにて取らす。

 「ほのめかす風につけても下荻のなかばゝ霜にむすぼゝれつゝ」。手はあしげなるをまぎらはしざればみて書いたるさましな無し。ほかげに見し顏おぼし出でらる。うちとけてむかひ居たる人はえ疎みはつまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなくさうどきほこりたりしよとおぼし出づるににくからず。猶こりずまに又もあだ名は立ちぬべき御心のすさびなめり。かの人の四十九日忍びて比叡の法華堂にて事そがずさう束より始めてさるべきものどもこまかにずきやうなどせさせ給ふ。經佛のかぎりまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨いと尊き人にてになうしけり。御文の師にてむつまじくおぼすもんざうはかせ召して願文作らせ給ふ。その人となくてあはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿彌陀佛にゆづり奉るよし哀れげに書き出で給へれば、「唯かくながら加ふべきこと侍らざめり」と申す。忍びたまへど御淚もこぼれていみじくおぼしたれば、「何人ならむ。その人とは聞えもなくてかう覺し歎かすばかりなりけむ。すくせのたかさよ」といひけり。忍びててうぜさせ給へりけるさう束の袴を取り寄せ給ひて、

 「なくなくも今日は我がゆふ下紐をいづれの世にかとけて見るべき」。このほどまではたゞよふなるをいづれの道に定まりて赴くらむとおもほしやりつゝねんずをいと哀れにし給ふ。頭中將を見給ふにもあいなく胸騷ぎてかの瞿麥の生ひたつ有樣聞かせまほしけれど、かごとに懼ぢてうち出で給はず。かの夕顏のやどりにはいづかたにと思ひ惑へど、そのまゝにえ尋ね聞えず。右近だにおとづれねばあやしと思ひ歎きあへり。たしかならねど、けはひをさばかりにやとさゝめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけはなれけしきなくいひなして、猶同じごとすきありきければ、いとゞ夢の心地して、若しずりやうの子どものすきずきしきが頭の君に懼ぢ聞えてやがて率て下りけるにやとぞ思ひよりける。この家あるじぞ西の京のめのとのむすめなりける。三人その子はありて、右近はことびとなりければ、「思ひへだてゝ御有樣を聞かせぬなりけり」と泣き戀ひけり。右近はたかしがましく言い騷がれむを思ひて、君も今更に漏さじと忍び給へば、若君の上をだにえ聞かず、あさましくゆくへなくて過ぎ行く。君は夢にだに見ばやとおぼし渡るに、この法事し給ひて又の夜、ほのかにかのありし院ながら添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、荒れたりし所に住みけむものゝ我にみいれけむたよりにかくなりぬる事と覺し出づるにもゆゝしくなむ。伊豫の介神無月のついたちごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ心殊にせさせ給ふ。又うちうちにもわざとし給ひて、こまやかにをかしきさまなる櫛扇多くして、ぬさなどわざとがましくて、かの小袿もつかはす。

 「逢ふまでのかたみばかりと見し程にひたすら袖の朽ちにけるかな」。こまやかなる事どもあれど、うるさければ書かず。御使かへりにけれど小君してこうちきの御かへりばかりは聞えさせたり。

 「蟬の羽もたちかへてける夏ごろもかへすを見てもねはなかれけり」。思へど怪しう人に似ぬ心づよさにてもふり離れぬるかなと思ひつゞけ給ふ。今日ぞ冬立つ日なりけるもしるく、うちしぐれて空の景色いとあはれなり。ながめくらし給ひて、

 「過ぎにしも今日別るゝもふたみちに行くかた知らぬ秋の暮かな」。猶かく人知れぬ事は苦しかりけりと覺し知りぬらむかし。かやうのくだくだしき事はあながちにかくろへ忍び給ひしもいとほしくて皆漏しとゞめたるを、など帝の御子ならむからに見む人さへかたほならずものほめがちなると、つくりごとめきてとりなす人ものし給ひければなむ、あまりものいひさがなき罪さりどころなく。


若紫

わらはやみにわづらひ給ひてよろづにまじなひ加持などせさせ給へどしるしなくてあまたたび起り給うければ、或人「北山になむなにがし寺といふ所に賢きおこなひ人侍る。去年の夏も世におこりて人々まじなひ煩ひしを頓て留むる類あまた侍りき。しゝこらかしつる時はうたて侍るを疾くこそ試みさせ給はめ」など聞ゆれば召しに遣したるに「老いかゞまりてむろのとにもまかでず」と申したれば「いかゞはせむ。忍びて物せむ」との給ひて御供に睦まじき四五人ばかりしてまだ曉におはす。やゝ深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花盛は皆過ぎにけり。山の櫻はまだ盛にて入りもておはするまゝに霞のたゝずまひもをかしう見ゆれば、かゝる有樣もならひ給はず所せき御身にて珍しうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峯高く深き岩のなかにぞ聖入りゐたりける。登り給ひて誰とも知せ給はずいといたうやつれ給へれどしるき御さまなれば、「あなかしこや。一日召し侍りしにやおはしますらむ。今はこの世の事を思ひ給へねばげんがたの行ひも棄て忘れて侍るをいかでかかうおはしましつらむ」と驚きさわぎうちゑみつゝ見奉る。いと尊き大とこなりけり。さるべきもの作りてすかせ奉る。加持などまゐる程日高くさしあがりぬ。少し立ち出でつゝ見渡し給へば、高き所にてこゝかしこ僧坊どもあらはに見おろさる。「たゞこのつゞらをりのしもに、同じこ柴なれど麗しうし渡して淸げなる屋らうなど續けて、木立いとよしあるは何人の住むにか」と問ひ給へば、御供なる人「これなむなにがし僧都のこの二年籠り侍る坊に侍るなる」、「心恥かしき人住むなる所にこそあなれ。怪しうもあまりやつしけるかな。聞きもこそすれ」などの給ふ。淸げなるわらはなどあまた出で來て閼伽奉り花折りなどするもあらはに見ゆ。「かしこに女こそありけれ。僧都はよもさやうにはすゑ給はじを、いかなる人ならむ」と口々いふ。「おりてのぞくもあり。をかしげなる女子ども若き人わらはべなむ見ゆる」といふ。君は行ひし給ひつゝ、日たくるまゝに、いかならむとおぼしたるを、「とかう紛らはさせ給ひておもほし入れぬなむよく侍る」と聞ゆればうしろの山に立ち出でゝ京の方を見給ふ。遙にかすみわたりて四方の梢そこはかとなうけぶりわたれるほど繪にいとよくも似たるかな。かゝる所に住む人、心に思ひ殘す事はあらじかし」との給へば、「これはいとあさく侍り。人の國などに侍る海山のありさまなどを御覽ぜさせて侍らば、いかに御繪いみじうまさらせ給はむ。富士の山なにがしの嶽」など語り聞ゆるものあり。また西の國のおもしろき浦々磯のうへをいひ續くるもありてよろづに紛らはし聞ゆ。「近き所には播磨の明石の浦こそ尙ことに侍れ。何のいたり深き隈はなけれど唯海のおもてを見渡したる程なむ怪しくこと所に似ずゆほびかなる所に侍る。かの國の前の守しぼちの娘かしづきたる家いといたしかし。大臣の後にて出でたちもすべかりける人の、世のひがものにて交らひもせず、近衞の中將を捨てゝ申し給はれりけるつかさなれど、かの國の人にも少しあなづられて、何のめいぼくにてか又都にも歸らむと言ひて頭もおろし侍りにけるを、少し奧まりたる山ずみもせでさる海づらに出で居たるひがひがしきやうなれど、げにかの國の內にさも人の籠り居ぬべき所々もありながら、深き里は人はなれ心すごく若きさいしの思ひ侘びぬべきにより、かつは心をやれるすまひになむ侍る。さいつころ罷り下りて侍りし序に有樣見たまへによりて侍りしかば、京にてこそ所得ぬやうなりけれ、そこら遙にいかめしう占めて造れるさま、さはいへど國の司にてし置きける事なれば、殘の齡ゆたかに經べき心がまへもになくしたりけり。後の世の勤もいとよくしてなかなか法師まさりしたる人になむ侍りける」と申せば、「さてその娘は」と問ひ給ふ。「けしうはあらずかたち心ばせなど侍るなり。代々の國の司など用意殊にしてさる心ばへ見すなれど更にうけひかず。我が身のかくいたづらに沈めるだにあるをこの人一人にこそあれ、思ふさまことなり、若し我に後れてその志遂げずこの思ひ置きつる宿世違はゞ海に入りねと常に遺言し置きて侍る」などきこゆれば、君もをかしと聞き給ふ。人々「海龍王の后になるべきいつきむすめなゝり。心高さ苦しや」とて笑ふ。かくいふは播磨の守の子の藏人より今年かうぶり得たるなりけり。「いとすきたるものなればかの入道の遺言破りつべき心はあらむかし。さて佇みよるな〈二字なるイ〉らむ」といひあへり。「いでやさいふとも田舍びたらむ、をさなくよりさる所に生ひ出でゝふるめいたる親にのみ從ひたらむは、母こそゆゑあるべけれ。善きわかうどわらはなど都のやんごとなき所々よりるゐにふれて尋ねとりてまばゆくこそもてなすなれ。なさけなき人になりゆかばさて心安くてしもえおきたらじをや」などいふもあり。君は「何心ありて海の底まで深う思ひ入るらむ。底のみるめもものむつかしう」などの給ひてたゞならず思ほしたり。かやうにてもなべてならずもて僻みたる事好み給ふ御心なれば御耳とゞまらむやと見奉る。「暮れかゝりぬれどおこらせ給はずなりぬるにこそはあめれ。はや歸らせ給ひなむ」とあるを、大とこ「御ものゝけなど加はれるさまにおはしましけるを今宵はなほ靜に加持など參りて出でさせ給へ」と申す。「さもある事」と皆人まうす。君もかゝる旅寢もならひ給はねばさすがにをかしくて「さらば曉に」との給ふ。日もいと長きにつれづれなれば夕暮のいたう霞みたるに紛れてかの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々はかへし給ひて惟光ばかり御供にて覗き給へば唯この西おもてにしも持佛すゑ奉りて行ふ尼なりけり。簾垂少し上げて花奉るめり。中の柱に寄り居て脇息の上に經を置きていと惜しげに讀み居たる尼君たゞ人と見えず。四十ぢ餘にて、いと白くあでに瘦せたれどつらつきふくよかにまみのほど髮のうつくしげにそがれたる末もなかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなとあはれに見たまふ。淸げなるおとな二人ばかり、さてはわらはべぞ出でいり給ふ。なかに十ばかりにやあらむと見えて白ききぬ山吹などのなれたる着て走り來たる女ご數多見えつる、こどもに似るべくもあらずいみじうおひ先見えて美くしげなるかたちなり。髮は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして顏はいと赤くすりなして立てり。「何事ぞや。わらはべと腹だち給へるか」とて尼君の見上げたるに少し覺えたる所あれば、子なめりと見給ふ。「雀の子をいぬきがにがしつる。ふせごの中にこめたりつるものを」とていと口惜しと思へり。この居たるおとな「例の心なしのかゝるわざをしてさいなまるゝこそいと心づきなけれ。いづかたへか罷りぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを、烏などもこそ見つくれ」とて立ちて行く。髮ゆるらかにいとながくめやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人いふめるはこの子の後見なるべし。尼君「いであなをざなや。いふがひなうものし給ふかな。おのがかく今日明日になりぬる命をば何ともおぼしたらで雀慕ひ給ふほどよ。罪得ることぞと常に聞ゆるを心憂く」とて「こちや」といへばついゐたり。つらつきいとらうたげにて眉のわたりうちけぶりいはけなくかいやりたるひたひつきかんざしいみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまり給ふ。さるは限なく心を盡し聞ゆる人にいとよう似奉れるがまもらるゝなりけりと思ふにも淚ぞおつる。尼君髮をかきなでつゝ「けづることをもうるさがり給へどをかしの御ぐしや。いとはかなうものし給ふこそ哀にうしろめたけれ。かばかりになればいとかゝらぬ人もあるものを。故姬君は十二にて殿に後れ給ひしほどいみじう物は思ひ知り給へりしぞ〈しぞイ无〉かし。只今おのれ見捨て奉らばいかで世におはせむとすらむ」とていみじく泣くを見給ふもすゞろに悲し。をさな心地にもさすがにうちまもりてふしめになりてうつぶしたるに、こぼれかゝりたる髮つやつやとめでたう見ゆ。

 「おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむ空なき」。また居たるおとな、げにとうち泣きて、

 「はつ草の生ひゆく末も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ」と聞ゆる程に、僧都あなたより來て「こなたはあらはにや侍らむ。今日しもはしにおはしましけるかな。このかみの聖のかたに源氏の中將のわらはやみまじなひに物し給ひけるを只今なむ聞きつけ侍る。いみじう忍び給ひければ、え知り侍らで此所に侍りながら御とぶらひにも詣でざりける」との給へば、「あないみじや。いと怪しきさまを人や見つらむ」とて簾垂おろしつ。「この世にのゝしり給ふ光源氏かゝる序に見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心地にもいみじう世のうれへ忘れ齡のぶる人の御有樣なり。いで御消そこ聞えむ」とて立つ音すれば歸り給ひぬ。あはれなる人を見つるかな、かゝればこのすきものどもはかゝるありきをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり、たまさかに立ち出づるだにかく思の外なることを見るよとをかしうおぼす。さてもいと美くしかりつるちごかな、何人ならむ、かの人の御かはりに明暮の慰めにも見ばやと思ふ心深うつきぬ。うち臥し給へるに僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。程なき所なれば君もやがて聞き給ふ。「よぎりおはしましけるよし只今なむ人申すに驚きながらさぶらふべきを、なにがしこの寺に籠り侍るとはしろしめしながら忍びさせ給へるをうれはしく思ひ給へてなむ。草の御席もこの坊にこそ設け侍るべけれ。いとほいなき事」と申し給へり。「いぬる十よ日の程よりわらはやみに煩ひ侍るを度重りて堪へ難う侍れば人の敎の儘に俄に尋ね入り侍りつれど、かうやうなる人のしるし顯さぬ時ははしたなかるべきも、たゞなるよりはいとほしう思ひ給へつゝみてなむいたう忍び侍りつる。今そなたにも」との給へり。即ち僧都參り給へり。法師なれどいと心恥しく人がらもやんごとなく世に思はれ給へる人なれば、かるがるしき御有樣をはしたなう覺す。かく籠れる程の御物語など聞え給ひて「同じ柴のいほりなれど少し凉しき水の流れも御覽ぜさせむ」とせちに聞え給へば、かつまだ見ぬ人々にことことしう言ひ聞かせつるをつゝましう覺せど、哀なりつるありさまもいぶかしうておはしぬ。げにいと心ことによしありて同じ木草をも植ゑなし給へり。月もなき頃なれば遣水に篝火ともしとうろなどにも參りたり。南面いと淸げにしつらひ給へり。そらだきもの心にくゝかをり出でみやうかうのかなど匂ひ滿ちたるに君の御追風いと異なればうちの人々も心づかひすべかめり。僧都世のつねなき御物語後の世の事など聞え知らせ給ふ。我が御罪の程恐しうあぢきなきことに心をしめて生けるかぎりこれを思ひ惱むべきなめり。まして後の世のいみじかるべきをおぼし續けて、かやうなる住まひもせまほしう覺え給ふものから晝の俤心にかゝりて戀しければ「こゝにものし給ふは誰にか。尋ね聞えまほしき夢を見給へしかな。今日なむ思ひ合せつる」と聞え給へばうち笑ひて「うちつけなる御夢語にぞ侍るなる。尋ねさせ給ひても御心劣りせさせ給ひぬべし。故按察大納言は世になくて久しくなり侍りぬればえしろしめさじかし。その北の方なむなにがしが妹にはべる。かの按察隱れて後、世を背きて侍るが、このころ煩ふこと侍るによりかく京にもまかでねばたのもし所に籠りてものし侍るなり」と聞え給ふ。「かの大納言のみむすめ物し給ふと聞え給へしはすきずきしき方にはあらでまめやかに聞ゆるなり」とおしあてにの給へば「娘たゞ一人侍りし亡せてこの十よ年にやなり侍りぬらむ。故大納言は、うちに奉らむなどかしこういつき侍りしを、そのほ意の如くも物し侍らで過ぎ侍りにしかば、唯この尼君一人もてあつかひ侍りし程に、いかなる人のしわざにか、兵部卿の宮なむ忍びて語らひつき給へりけるを、もとの北の方やんごとなくなどして安からぬこと多くて、明暮物を思ひてなむなくなり侍りにし。物思ひに病ひづくものと目に近く見給へし」など申し給ふ。さらばその子なりけりと覺し合せつ。みこの御すぢにてかの人にも通ひ聞えたるにやといとゞ哀に見まほしく、人の程もあてにをかしうなかなかのさかしら心なくうち語らひて心のまゝに敎へおほし立てゝ見ばやと覺す。「いと哀に物し給ふことかな。それはとゞめ給ふかたみもなきか」とをさなかりつる行くへのなほ確に知らまほしくて問ひ給へば「なくなり侍りし程にこそ侍りしか。それも女にてぞ。それにつけてもの思ひの催しになむ齡の末に思ひ給へ歎き侍るめる」と聞え給ふ。さればよとおぼさる。「怪しき事なれどをさなき御後見におもほすべく聞え給ひてむや。思ふ心ありて行きかゝづらふ方も侍りながら、世に心のしまぬにやあらむ、ひとりずみにてのみなむ。まだ似げなき程と、常の人に覺しなずらへてはしたなくや」などの給へば「いと嬉しかるべき仰事なるをまだむげにいはけなき程に侍るめれば戯ぶれにても御覽じ難くや。そもそも女は人にもてなされておとなにもなり給ふものなれば、委しくはえとり申さず。かのおば北の方に語らひ侍りて聞えさせむ」とすくよかに言ひて物ごはきさまし給へれば、若き御心に恥しくてえよくも聞え給はず。「阿彌陀ぼとけものし給ふ堂にする事侍るころになむ。そやいまだ勤め侍らず。すぐしてさぶらはむ」とて昇り給ひぬ。君は心地もいとなやましきに、雨少しうちそゝぎ山風冷やかに吹きたるに瀧のよどみも增りて音高く聞ゆ。少しねぶたげなる讀經のたえだえすごく聞ゆるなどすゞろなる人も所からものあはれなり。ましておもほしめぐらす事多くてまどろまれ給はず。そやといひしかども夜もいたう更けにけり。內にも人の寢ぬけはひしるくて、いと忍びたれどずゞの脇息に引き鳴らさるゝ音ほの聞え、なつかしううちそよめく音なひあてはかなりと聞き給ひて、程もなく近ければとに立て渡したる屛風の中を少し引きあけて扇をならし給へば、「おぼえなき心地すべかめれど聞きしらぬやうにや」とてゐざり出づる人あなり。少ししぞきて「あやし。僻耳にや」とたどるを聞き給ひて「佛の御しるべは暗きに入りても更に違ふまじかなるものを」との給ふ。御聲のいと若うあてなるにうち出でむこわづかひも恥しければ「いかなる方の御しるべにかは。おぼつかなく」と聞ゆ。「實にうちつけなりとおぼめき給はむもことわりなれど、

  はつ草の若葉のうへを見つるより旅ねのそでも露ぞかわかぬと聞え給ひてむや」との給ふ。「更にかやうの御消そこうけたまはり分くべき人も物し給はぬさまはしろしめしたりげなるを誰にかは」と聞ゆ。「おのづからさるやうありて聞ゆるならむと思ひなし給へかし」との給へば、入りて聞ゆ。あないまめかし、この君や、世づいたる程におはするとぞおぼすらむ、さるにてはかの若草をいかで聞い給へることぞと、さまざまあやしきに心も亂れて久しうなればなさけなしとて、

 「まくらゆふ今宵ばかりの露けさをみ山の苔にくらべざらなむ、ひがたう侍るものを」と聞え給ふ。「かやうの人づてなる御消そこはまだ更に聞え知らず。ならはぬことになむ。かたじけなくともかゝるついでにまめまめしう聞えさすべき事なむ」と聞え給へれば、尼君、ひがごと聞き給へるならむと「いと恥かしき御けはひに何事をかはいらへ聞えむ」との給まへば、「はしたなうもこそ覺せ」と人々聞ゆ。「げに若やかなる人こそうたてもあらめまめやかにの給ふ忝し」とてゐざりより給へり。「うちつけにあさはかなりと御覽ぜられぬべき序なれど〈ばイ〉心にはさも覺え侍らねば、佛はおのづから」とて、おとなおとなしう恥しげなるにつゝまれてとみにもえうち出で給はず。「げに思ひ給へ寄り難き序にかくまでの給はせ聞えさするも淺くはいかゞ」との給ふ。「哀にうけ給はる御有樣をかの過ぎ給ひにけむ御かはりにおぼしないてむや。いふがひなき程の齡にて睦まじかるべき人にも立ち後れ侍りにければ、怪しううきたるやうにて年月をこそ重ね侍れ。同じさまに物し給ふなるをたぐひになさせ給へといと聞えまほしきを、かゝる折もありがたくてなむ、おぼされむ所をも憚らずうちいで侍りぬる」と聞え給へば、「いと嬉しう思ひ給へぬべき御事ながらも、聞し召しひがめたる事などや侍らむとつゝましうなむ。あやしき身ひとつをたのもし人にする人なむ侍れど、いとまだいふがひなき程にて御覽じゆるさるゝ方も侍り難ければえなむうけ給はり留められざりける」との給ふ。「皆おぼつかなからずうけ給はるものを、ところせうおぼし憚らで思ひ給へ寄るさま異なる心の程を御覽ぜよ」と聞え給へど、いと似げなき事をさも知らでの給ふとおぼして心解けたる御いらへもなし。僧都おはしぬれば「よしかう聞えそめ侍りぬればいとたのもしうなむ」とて押し立て給ひつ。曉方になりにければ法華三昧行ふ堂の懺法の聲山おろしにつきて聞えくる、いとたふとく瀧の音に響きあひたり。

 「吹きまよふみ山おろしに夢さめて淚もよほす瀧のおとかな」。

 「さしくみに袖ぬらしける山水にすめる心はさわぎやはする。耳馴れ侍りにけりや」と聞え給ふ。明け行く空はいといたう霞みて山の鳥どもゝそこはかとなく囀りあひたり。名も知らぬ木草の花どもいろいろに散りまじり錦をしけると見ゆるに鹿のたゝずみありくもめづらしく見給ふに、惱しさもまぎれはてぬ。聖うごきもえせねどとかくして護身參らせ給ふ。かれたる聲のいといたうすきひがめるも哀れにぐうつきて陀羅尼讀みたり。御迎の人々參りて怠り給へるよろこび聞え、內よりも御使あり。僧都世に見えぬさまの御くだもの何くれと谷のそこまで堀り出でいとなみ聞え給ふ。「今年ばかりの誓ひ深う侍りて御送にもえ參り侍るまじき事なかなかにも思ひ給へらるべきかな」など聞えて、おほみきまゐり給ふ。「山水に心とまり侍りぬれど內よりおぼつかながらせ給へるもかしこければなむ。今この花の折すぐさず參りこむ。

  宮人に行きてかたらむ山櫻風よりさきに來ても見るべく」との給ふ御もてなしこわづかひさへ目もあやなるに、

 「優曇華の花まち得たるこゝちして深山櫻にめこそ移らね」と聞え給へば、ほゝゑみて「時ありて一度開くなるは難かなるものを」との給ふ。ひじり御かはらけたまはりて、

 「奧山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花のかほを見るかな」とうち泣きて見奉る。聖御まもりにとこたてまつる。見給ひて僧都、さうとく太子の百濟より得給へりける金剛子のずゞの玉のさうぞくしたる、やがてその國より入れたる筥の唐めいたるを透きたる袋に入れて五葉の枝につけて、紺瑠璃の壺どもに御藥ども入れて藤櫻などにつけて、所につけたる御贈物どもさゝげ奉り給ふ。君は聖よりはじめ讀經しつる法師の布施まうけの物どもさまざまに取りに遣したりければ、そのわたりの山がつまでさるべき物ども賜ひ御ずきやうなどして出で給ふ。うちに僧都入り給ひてかの聞え給ひし事まねび聞え給へど「ともかうも只今は聞えむかたなし。若し御志あらば今四五年をすぐしてこそはともかうも」との給へばさなむと同じさまにのみあるをほいなしとおぼす。御せうそこ僧都のもとなるちひさきわらはして、

 「夕まぐれほのかに花の色を見てけさは霞の立ちぞわづらふ」。御かへし、

 「まことにや花のあたりは立ちうきとかすむる空のけしきをも見む」とよしある手のいとあてなるをうちすて書い給へり。御車に奉る程、大殿よりいづちともなくて坐しましにける事とて御迎の人々公達など數多參り給へり。頭中將左中將さらぬ君達もしたひ聞えて「かうやうの御供は仕うまつり侍らむと思ひ給ふるを、淺ましうおくらさせ給へる事」と恨み聞えて、「いといみじき花の蔭に暫しもやすらはず立ちかへり侍らむは飽かぬわざかな」とのたまふ。岩がくれの苔の上になみ居てかはらけまゐる。落ちくる水のさまなどゆゑある瀧のもとなり。頭中將ふところなりける笛取り出でゝ吹きすましたり。辨の君扇はかなううちならして「とよらの寺の西なるや」と歌ふ。人よりは異なる君だちなるを、源氏の君いたくうち惱みて岩に寄り居給へるは類なくゆゝしき御有樣にぞ何事にも目うつるまじかりける。例の篳篥吹く隨身、さうの笛もたせたるすきものなどあり。僧都きんを自らもて參りて「これ唯御手ひとつ遊ばして同じくは山の鳥も驚かし侍らむ」とせちに聞え給へば「みだり心ちいと堪へ難きものを」と聞え給へどげににくからず搔き鳴らして皆立ち給ひぬ。飽かず口惜しと、いふがひなき法師わらはべも淚を落しあへり。ましてうちには年老いたる尼君たちなど更にかゝる人の御有樣を見ざりつれば「この世の物とも覺え給はず」と聞えあへり。僧都も「あはれ何のちぎりにてかゝる御さまながらいとむつかしき日の本の末の世に生れ給ひつらむと見るにいとなむ悲しき」と目おしのごひ給ふ。この若君、をさな心地に、めでたき人かなと見給ひて「宮の御ありさまよりも勝り給へるかな」などのたまふ。「さらばかの人の御子になりておはしませよ」と聞ゆれば、うちうなづきていとようありなむと覺したり。ひゝな遊にも繪かい給ふにも源氏の君とつくり出でて淸らなるきぬ着せかしづき給ふ。

君はまづうちに參り給ひて日ごろの御物語などきこえ給ふ。いといたう衰へにけりとてゆゝしと覺しめしたり。聖の尊かりけることなど問はせ給ふ。委しく奏し給へば、「阿闍梨などにもなるべきものにこそあめれ。行ひのらうは積りて公にしろしめされざりけること」と尊がりの給はせけり。大殿參りあひ給ひて「御迎にもと思ひ給ひつれど忍びたる御ありきにいかゞと思ひ憚りてなむ。のどやかに一二日うち休み給へ」とて「やがて御送り仕うまつらむ」と申し給へば、さしも覺さねどひかされて罷で給ふ。我が御車にのせ奉り給ひて自らはひき入りて奉れり。もてかしづき聞え給へる御心ばへの哀なるをぞさすがに心苦しくおもほしける。殿にもおはしますらむと心づかひし給ひて、久しく見給はぬほどいとゞ玉のうてなに磨きしつらひ萬をとゝのへ給へり。女君れいのはひ隱れてとみにも出で給はぬを、おとゞせちに聞え給ひて辛うじてわたり給へり。たゞ繪に書きたる物の姬君のやうにしすゑられてうちみじろき給ふ事も難く麗しうてものし給へば「思ふ事もうちかすめ山みちの物語をも聞えむに、いふがひありてをかしううちいらへ給はゞこそ哀れならめ。世には心も解けず疎く耻かしきものにおもほして年のかさなるに添へて御心のへだてもまさるをいと苦しく思はずに、時々は世の常なる御けしきを見ばや。堪へ難うわづらひ侍りしをも、いかゞとだに問ひ給はぬこそ、珍しからぬことなれど猶うらめしう」と聞え給ふ。辛うじて「問はぬはつらきものにやあらむ」としりめに見おこせ給へるまみいとはづかしげにけだかううつくしげなる御かたちなり。「まれまれはあさましの物事や。とはぬなど言ふきははことにこそ侍るなれ。心憂くもの給ひなすかな。世と共にはしたなき御もてなしを、もしおぼし直る折もやととざまかうざまに試み聞ゆるをいとゞおもほし疎むなめりかし。よしや命だに」とてよるのおましに入り給ひぬ。女君ふとも入り給はず。聞え煩ひ給ひてうち歎きてふし給へるもなま心づきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなしてとかう世を覺しみだるゝ事多かり。

かの若草の生ひ出でむほどの猶ゆかしきを似げなき程と思へりしもことわりぞかし、いひより難き事にもあるかな、いかに構へて唯心やすく迎へ取りてあけくれのなぐさめにも見む、兵部卿の宮はいとあてになまめい給へれど匂ひやかになどもあらぬをいかでかのひとぞうに覺え給ひつらむ、ひとつきさいばらなればにやなどおもほす。ゆかりいとむつまじきに、いかでかと深うおもほす。又の日御文奉れ給へり。僧都にもほのめかし給ふべし。尼上には、「もてはなれたりし御氣色のつゝましさに思ひ給ふるさまをもえ顯しはて侍らずなりにしをなむかばかり聞ゆるにても、おしなべたらぬ志の程を御覽じしらばいかに嬉しう」などあり。なかにちひさく引き結びて、

 「面かげは身をもはなれず山櫻心のかぎりとめてこしかど。よのまの風も後めたくなむ」とあり。御手などはさるものにて、唯はかなうおし包み給へるさまも、さだすぎたる御めどもには目もあやにこのましう見ゆ。あなかたはらいたや、いかゞ聞えむとおぼしわづらふ。「ゆくての御事はなほざりにも思ひ給へなされしを、ふりはへさせ給へるに聞えさせむかたなくなむ。まだなにはづをだにはかばかしう續け侍らざめればかひなくなむ。さても

  あらしふく尾上の櫻散らぬまを心とめけるほどのはかなさ。いとゞうしろめたう」とあり。僧都の御かへりも同じさまなれば口惜しくて、二三日ありて惟光をぞ奉れ給ふ。「少納言のめのとといふ人あべし。尋ねて委しく語らへ」などのたまひしらす。さもかゝらぬ隈なき御心かな。さばかり、いはけなげなりしけはひをまほならねども見し程を思ひやるもをかし。わざとかう御文あるを僧都もかしこまり聞え給ふ。少納言にせうそこしてあひたり。委しくおもほしのたまふさま大方の御有樣など語る。詞多かる人にてつきづきしう言ひ續くれど、いとわりなき御ほどをいかにおぼすにかとゆゝしうなむ誰も誰もおぼしける。御文にもいと懇に書い給ひて、「かの御はなちがきなむ猶見給へまほしき」とて、例の中なるには、

 「あさか山あさくも人をおもはぬになど山の井のかけはなるらむ」。御かへし。

 「汲みそめてくやしと聞きし山の井の淺きながらやかげを見すべき」。惟光も同じ事をきこゆ。「この煩ひ給ふ事よろしくはこのごろすぐして京の殿に渡り給ひてなむ聞えさすべき」とあるを、心もとなうおもほす。

藤壺の宮惱み給ふ事ありてまかで給へり。うへのおぼつかながり歎き聞え給ふ御氣色もいといとほしう見奉りながら、斯る折だにと心もあくがれ惑ひていづくにもいづくにも詣で給はず。內にても里にても晝はつくづくと詠め暮して、暮るれば王命婦をせめありき給ふ。いかゞたばかりけむ、いとわりなくて見奉る程さへ現とは覺えぬぞわびしきや。宮もあさましかりしをおぼし出づるだによと共の御物思ひなるを、さてだにやみなむと深う覺したるに、いと心憂くていみじき御氣色なるものから懷しうらうたげに、さりとてうちとけず心深う耻かしげなる御もてなしなどの猶人に似させ給はぬを、などかなのめなることだにうち交り給はざりけむとつらうさへぞおぼさるゝ。何事をかは聞えつくし給はむ。くらぶの山にやどりも取らまほしげなれど、あやにくなるなる短夜にてあさましうなかなかなり。

 「見てもまた逢ふ夜まれなる夢の中にやがてまぎるゝ我が身ともがな」とむせかへらせ給ふさまもさすがにいみじければ、

 「世がたりに人や傳へむたぐひなくうき身をさめぬ夢になしても」。おもほし亂れたるさまもいとことわりにかたじけなし。命婦の君ぞ御なほしなどはかき集めもて來る。殿におはしてなきねに臥しくらし給ひつ。御文なども例の御覽じ入れぬよしのみあれば、常の事ながらもつらういみじうおもほしほれて、うちへも參らで二三日籠りおはすれば、またいかなるにかと御心動かせ給ふべかめるも恐ろしうのみおもほえ給ふ。宮も、猶いと心うき身なりけりとおぼし歎くに惱しさもまさり給ひて、とく參り給ふべき御使しきれどおもほしも立たず。誠に御心ち例のやうにもおはしまさぬはいかなるにかと人知れずおぼす事もありければ、心うく、いかならむとのみおぼし亂る。あつき程はいとゞ起きもあがり給はず、みつきになり給へばいとしるきほどにて人々見奉り咎むるに、あさましき御すくせの程心うし。人は思ひよらぬことなれば、この月まで奏せさせ給はざりける事と驚ききこゆ。我が御心一つにはしるうおぼし分くこともありけり。御湯殿などにも親しう仕うまつりて何事の御けしきをもしるく見奉り知れる御めのとごの辨命婦などぞ怪しと思へどかたみに言ひ合すべきにあらねば、猶遁れ難かりける御宿世をぞ命婦はあさましと思ふ。內には御ものゝけのまぎれにてとみにけしきなうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。皆人もさのみ思ひけり。いとゞ哀にかぎりなう覺されて御使などのひまなきもそら恐しう物をおもほす事ひまなし。中將の君もおどろおどろしうさま異なる夢を見給ひて、合するものを召して問はせ給へば、及びなう覺しもかけぬすぢの事を合せけり。「そのなかにたがひめありて愼ませ給ふべき事なむ侍る」といふに、煩しく覺えて「みづからの夢にはあらず人の御事を語るなり、この夢合ふまでまた人にまねぶな」との給ひて、心の中には、いかなることならむとおぼしわたるに、この宮の御事聞き給ひて、もしさるやうもやと覺し合せ給ふに、いとゞしくいみじき言の葉を盡し聞え給へど、命婦も思ふにいとむくつけう煩しさ增りて更にたばかるべきかたなし。はかなき一くだりの御返りのたまさかなりしも絕えはてにたり。七月になりてぞ參り給ひける。珍しう〈くイ〉あはれにていとゞしき御思ひの程かぎりなし。少しふくらかになり給ひてうち惱みおもやせ給へる、はたげに似るものなくめでたし。例のあけ暮こなたにのみおはしまして、お遊もやうやうをかしきころなれば、源氏の君もいとまなくめしまつはしつゝ御琴笛などさまざまに仕うまつらせ給ふ。いみじうつゝみ給へど忍び難きけしきの漏り出づる折々、宮もさすがなる事どもを多く覺しつゞけゝり。

かの山寺の人はよろしうなりて出で給ひにけり。京の御すみか尋ねて時々の御せうそこなどあり。同じさまにのみあるもことわりなるうちに、この月比はありしにまさる物思ひに異ことなくて過ぎ行く。秋の末つかたいともの心ぼそくて歎き給ふ。月をかしき夜忍びたる所に辛うじて思ひ立ち給へるを、時雨めいてうちそゝぐ。おはする所は六條京極わたりにて、內よりなれば少し程遠き心ちするに、荒れたる家の木立いとものふりてこぐらう見えたるあり。例の御供に離れぬ惟光なむ「故按察大納言の家に侍り。一日物のたよりにとぶらひて侍りしかば、かの尼上いたうよわり給ひにたれば何事も覺えずとなむ申して侍りし」と聞ゆれば、「あはれのことや。とぶらふべかりけるをなどかさなむとも物せざりし。入りて消そこせよ」との給へば、人入れてあないせさす。「わざとかく立ち寄り給へる事」と言はせたれば、入りて「かく御とぶらひになむおはしましたる」といふに、驚きて、「いとかたはらいたきことかな。この日ごろむげにいとたのもしげなくならせ給ひにたれば御對めんなどもあるまじ」といへども「返し奉らむはかしこし」とて南の廂ひきつくろひて入れ奉る。「いとむつかしげに侍れどかしこまりをだにとてなむ。ゆくりなう物深きおまし所になむ」と聞ゆ。げにかゝる所は例に違ひておぼさる。「常に思ひ給へ立ちながら、かひなきさまにのみもてなさせ給ふにつゝまれ侍りてなむ。惱ませ給ふことをもかくともうけ給はらざりけるおぼつかなさ」など聞え給ふ。「みだり心ちはいつともなくのみ侍る。限のさまになり侍りていとかたじけなく立ち寄らせ給へるに、みづから聞えさせぬ事、のたまはする事のすぢ、たまさかに覺しめしかはらぬやう侍らば、かくわりなき齡過ぎに侍りて必ずかずまへさせ給へ。いみじく心細げに見給へおくなむ願ひ侍る道のほだし思ひ給へられぬべき」など聞え給へり。いと近ければ心細げなる御聲絕え絕え聞えて「いと忝きわざにも待るかな。この君だにかしこまりも聞え給ひつべき程ならましかば」との給ふ。あはれに聞き給ひて、「何か淺く思ひ給へむことゆゑかうすきずきしきさまを見え奉らむ。いかなる契にか、見奉りそめしより哀に思ひ聞ゆるもあやしきまで、この世の事には覺え侍らぬ」などの給ひて、「かひなき心地のみし侍るを、かのいはけなうものし給ふ御一聲いかでか」との給へば、「いでやよろづおもほし知らぬさまにおほとのごもり入りて」など聞ゆる折しも、あなたよりくる音して「うへこそ、この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ。など見給はぬ」とのたまふを、人々いとかたはらいたしと思ひて「あなかま」ときこゆ。「いさ見しかば心地のあしさ慰めきとの給ひしかばぞかし」と、かしこきこと聞き得たりとおぼしての給ふ。いとをかしと聞きたまへど、人々の苦しと思ひたれば、聞かぬやうにてまめやかなる御とぶらひを聞え置き給ひてかへり給ひぬ。げにいふがひなのけはひや。さりともいとよう敎へてむとおぼす。またの日もいとまめやかにとぶらひ聞え給ふ。例のちひさくて、

 「いはけなきたづの一聲聞きしよりあしまになづむ舟ぞえならぬ。同じ人にや」と、殊更をさなく書きなし給へるもいみじうをかしげなれば、「やがて御手本に」と人々きこゆ。少納言ぞ聞えたる。「問はせ給へるは今日をもすぐし難げなるさまにて山寺に罷りわたる程にて、かう問はせ給へるかしこまりはこの世ならでも聞えさせむ」とあり。いとあはれとおぼす。秋の夕はまして心のいとまなくのみ覺し亂るゝ人の御あたりに心をかけて、あながちなるゆかりも尋ねまほしき心も增り給ふなるべし。「消えむ空なき」とありし夕べおぼし出でられて、戀しくもまた見劣りやせむとさすがにあやふし。

 「手につみていつしかも見む紫のねにかよひける野邊のわか草」。十月に朱雀院の行幸あるべし。まひ人などやんごとなき家の子ども上達部殿上人どもなどもその方につきづきしきは皆えらせたまへれば、みこたち大臣より初めてとりどりのざえども習ひ給ふいとなし。山里人にも久しう音づれ給はざりけるをおぼし出でゝ、ふりはへ遣したりければ、僧都のかへりごとのみあり。立ちぬる月の廿日のほどになむ遂に空しく見給へなして、せけんのだうりなれど悲び思ひ給ふる」などあるを見給ふに、世の中のはかなさも哀に後めたげに思へりし人もいかならむ、幼き程に戀ひやすらむ、故みやすどころに後れ奉りしなど、はかばかしからねど思ひ出でゝ淺からずとぶらひ給へり。少納言ゆゑなからず御返りなど聞えたり。いみなど過ぎて京の殿になむと聞き給へば程經てみづから長閑なる夜坐したり。いとすごげに荒れたる所の人少ななるにいかに幼き人恐しからむと見ゆ。例の所に入れ奉りて、少納言御有樣などうち泣きつゝ聞え續くるに、あいなう御袖もたゞならず。「宮に渡し奉らむと侍るを、こ姬君のいと情なく憂きものに思ひ聞へ給へりしに、いとむげにちごならぬ齡の、まだはかばかしう人のおもむけをも見知り給はず、なかぞらなる御程にてあまた物し給ふなる中の、あなづらはしき人にてやまじり給はむなど過ぎ給ひぬるも世と共におもほし歎きつるもしるき事多く侍るに、斯かたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどり聞えさせずいと嬉しう思ひ給へられぬべき折ふしに侍りながら、少しもなずらひなるさまにも物し給はず、御年よりも若びて習ひ給へれば、いと傍いたく侍り」と聞ゆ。「何かかうくり返し聞えしらする心の程をつゝみ給ふらむ。そのいふかひなき御有樣の哀にゆかしう覺え給ふも、ちぎり殊になむ心ながら思ひ知られける。猶人づてならで聞え知らせばや。

  あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは。めざましからむ」とのたまへば、「げにこそいとかしこけれ」とて、

 「寄る波の心もしらでわかの浦に玉藻なびかむほどぞうきたる。わりなき事と」聞ゆるさまのなれたるに少し罪許され給ふ。「なぞ越えざらむ」とうちずじ給へるを身にしみてわかき人々思へり。君は上を戀ひ聞え給ひて泣き臥し給へるに、御遊びがたきどものなほし着たる人のおはする、宮のおはしますなめり」と聞ゆれば起き出で給ひて「少納言よ、直衣着たりつらむはいづら、宮のおはするか」とて寄りおはしたる御聲いとらうたし。「宮にはあらねど又おもほし放つべうもあらず。こち」との給ふを、恥かしかりし人とさすがに聞きなしてあしう言ひてけりとおぼしてめのとにさし寄りて「いざかし、ねぶたきに」との給へば、「今さらなど忍び給ふらむ。この膝の上に御とのごもれよ。今少し寄り給へ」との給へば、乳母の「さればこそかう世づかぬ御程にてなむ」とて押し寄せ奉りたれば何心もなく居給へるに、手をさし入れて探り給へれば、なよゝかなる御ぞに髮はつやつやとかゝりて末の〈二字イ无〉ふさやかにさぐりつけられたるほどいと美しう思ひやらる。手を執へ給れば、うたて例ならぬ人のかく近づき給へるは恐しうて「寢なむといふものを」とて忍びて引き入り給ふにつきてすべり入りて「今はまろぞ思ふべき人。な疎み給ひそ」との給ふ。乳母「いであなうたてや。ゆゝしうも侍るかな。聞え知らせ給ふとも更に何のしるしも侍らじものを」とて苦しげに思ひたれば「さりともかゝる御程をいかゞはあらむ。猶唯世に知らぬ志の程を見はて給へ」とのたまふ。霰降り荒れてすごき夜のさまなり。「いかでかう人少なに心細くてすぐし給ふらむ」とうち泣い給ひていと見捨て難き程なれば、「御格子まゐりね。もの恐しき夜のさまなめるを、とのゐ人にて侍らむ。人々近う侍らはれよかし」とていと馴れがほにみ帳の內にかき抱きて入り給へば、怪しう思ひのほかにもとあきれて誰も誰も居たり。乳母は後めたうわりなしと思へど、あらましう聞え騷ぐべきならねばうち歎きつゝ居たり。若君はいと恐しう、いかならむとわなゝかれて、いとうつくしき御はだつきもそゞろ寒げにおぼしたるを、らうたくおぼえてひとへばかりを押しくゝみて我御〈御イ无〉心地もかつはうたて覺え給へど哀にうち語らひ給ひて「いざ給へよ。をかしき繪など多く、ひゝな遊などする所に」と心につくべき事をのたまふけはひのいと懷かしきを、をさなき心地にもいと痛うもおぢず、さすがにむつかしう寢も入らずみじろぎ臥し給へり。夜一夜風吹き荒るゝに「げにかうおはせざらましかばいかに心細からまじ。同じくはよろしき程におはしまさましかば」とさゝめきあへり。乳母は後めたさにいと近う侍ふ。風少し吹き止みたるに夜深う出で給ふも事ありがほなりや。「いと哀に見奉る御有樣を、今はまして片時のまもおぼつかなかるべし。明暮ながめ侍る所にわたし奉らむ。かくてのみはいかゞ物おぢし給はざりけり〈る歟〉」との給へば「宮も御迎になど聞え〈のイ有〉給ふめれどこの御四十九日すぐしてやなど思ひ給ふる」と聞ゆれば、「たのもしきすぢながらもよそよそにてならひ給へるは同じうこそ疎う覺え給はめ。今より見奉れど淺からぬ志はまさりぬべくなむ」とて搔い撫でつゝ顧みがちにて出で給ひぬ。いみじう霧渡れる空もたゞならぬに霜はいと白うおきて、誠のけさうもをかしかりぬべきにさうざうしき思ひおはす。いと忍びて通ひ給ふ所の道なりけるをおぼし出でゝ、門打ち敲かせ給へど聞きつくる人なし。かひなくて御供に聲ある人して謠はせ給ふ。

 「あさぼらけ霧立つ空のまよひにも行き過ぎがたき妹が門かな」とふたかへり謠ひたるに、よしばみたるしもづかひを出して、

 「たちとまり霧のまがきのすぎうくは草のとざしにさはりしもせじ」と言ひかけて入りぬ。また人も出で來ねば歸るも情なけれど明け行く空もはしたなくて殿へおはしぬ。をかしかりつる人の名殘戀しく獨ゑみしつゝ臥し給へり。日高う大とのごもりおきて、文やりたまふに書くべき言の葉も例ならねば筆うち置きつゝすさび居給へり。をかしき繪などをやり給ふ。かしこには今日しも宮わたり給へり。年比よりもこよなう荒れまさり廣う物ふりたる所のいとゞ人少なに寂しければ、見渡し給ひて「かゝる所にはいかでか暫しもをさなき人のすぐし給はむ。猶かしこに渡し奉りてむ。何の所せき程にもあらず。めのとはざうしなどしてさぶらひなむ。君は若き人々などあれば諸共に遊びていとよう物し給ひなむ」などの給ふ。近う呼び寄せ奉り給へるにかの御うつりかのいみじうえんにしみかへり給へれば、をかしの御にほひや、御ぞはいとなえてと、心ぐるしげにおぼいたり。「年比もあつしくさだすぎ給へる人にそひ給へるより時々かしこに渡りて見ならし給へなどものせしを怪しう疎みたまひて人も心おくめりしを、かゝる折にしも物し給はむも心苦しう」などの給へば「何かは心ぼそくとも暫しはかくておはしましなむ。少し物の心おもほし知りなむに渡らせ給はむこそよくは侍るべけれ」と聞ゆ。夜晝戀ひ聞え給ふにはかなき物も聞しめさずとてげにいといたう面やせ給へれど、いとあてに美くしくなかなか見え給ふ。「何かさしもおもほす。今は世になき人の御事はかひなし。おのれあれば」など語らひ聞え給ひて、暮るれば歸らせ給ふを、いと心細しと思ひて泣い給へば、宮もうちなきたまひて「いとかう思ひな入り給ひそ。今日明日わたし奉らむ」など返す返すこしらへおきて出で給ひぬ。名殘も慰め難う泣き居給へり。行くさきの身のあらむ事などまでもおぼし知らず。唯年ごろ立ち離るゝ折なうまつはしならひて、今はなき人となり給ひにけるとおぼすがいみじきに、をさなき御心地なれど胸つとふたがりて例のやうにも遊び給はず。晝はさても紛はし給ふを、夕暮となればいみじうくし給へば、かくてはいかでかすぐし給はむと慰めわびて乳母も泣きあへり。君の御許よりは惟光を奉れ給へり。「參り來べきを、內よりめしあればなむ心苦しう見奉りしもしづ心なく」とてとのゐ人奉れ給へり。「あぢきなうもあるかな。戯ぶれにても物の始にこの御ことよ。宮聞しめしつけば侍ふ人々の愚かなるにぞさいなまれむ。あなかしこ。物のついでにいはけなくうち出で聞えさせ給ふな」などいふも、それをば何とも覺したらぬぞあさましきや。少納言は惟光に哀なる物語どもして「あり經て後やさるべき御宿世のがれ聞え給はぬやうもあらむ。只今はかけてもいと似げなき御事と見奉るを、怪しうおぼしのたまはするもいかなる御心にか思ひよるかたなう亂れ侍る。今日も宮渡らせ給ひて後安く仕うまつれ。心をさなくもてなし聞ゆななどの給はせつるもいと煩はしう、たゞなるよりはかゝる御すきごとも思ひ出でられ侍りつる」などいひて「この人も事ありがほにや思はむ」などあいなければ、いたう歎かしげにもいひなさず。丈夫もいかなる事にかあらむと心えがたう思ふ。參りてありさまなど聞えければ哀におぼしやらるれど、さて通ひ給はむもさすがにすゞろなる心地して、かるがるしうもてひがめたる事と人もや漏り聞かむなどつゝましければ唯迎へてむとおもほす。御ふみは度々奉れ給ふ。暮るれば例の大夫をぞ奉れ給ふ。「さはる事どものありてえ參り來ぬをおろかにや」などあり。宮より「明日俄に御迎へにとのたまはせたりつれば、心あわたゞしくてなむ。年ごろの蓬生をかれなむもさすがに心ぼそう、侍ふ人々も思ひ亂れて」とことずくなに言ひてをさをさあへしらはず物縫ひ營むけはひなどしるければ參りぬ。

君は大殿に坐しけるに例の女君とみにも對めんし給はず。物むつかしく覺え給ひてあづまをすがゞきて「ひたちには田をこそ作れ」といふ歌を聲はいとなまめきてすさび居給へり。參りたれば召し寄せて有樣問ひ給ふ。「しかじかなむ」と聞ゆれば口惜しうおぼして、かの宮に渡りなばわざと迎へ出でむもすきずきしかるべし、をさなき人を盜み出でたりと、もどきおひなむ、その先に暫し人にも口がためて渡してむと覺して、「曉かしこにものせむ。車のさう束さながら、隨身一人二人仰せおきてたれ」とのたまふ。うけ給はりて立ちぬ。君は、いかにせまし、聞えありてすきがましきやうなるべき事、人のほどだに物を思ひ知り、女の心かはしける事と推し量られぬべくはよのつねなり、父宮の尋ね出で給へらむもはしたなうすゞろなべきをとおぼし亂るれど、さてはづしてむはいと口惜しかるべければまだ夜深う出で給ふ。女君例のしぶしぶに心も解けずものし給ふ。「かしこにいとせちに見るべきことの侍るを思ひ給へ出でゝなむ。立ち歸り參りきなむ」とて出で給へば、侍ふ人々も知らざりけり。我が御方にて御直衣などは奉る。惟光ばかりを馬に載せておはしぬ。門打ち敲かせ給へば心も知らぬ者のあけたるに御車をやをら引き入れさせて、大夫妻戶を鳴してしはぶけば、少納言聞き知りて出で來たり。「こゝに坐します」といへば、「をさなき人は御殿籠りてなむ。などかいと夜ふかう立ち出でさせ給へる」と、物のたよりと思ひていふ。「宮へ渡らせ給ふべかなるを、その先に物一言聞えさせ置かむとてなむ」との給へば、「何事にかは侍らむ。いかにはかばかしき御いらへ聞えさせ給はむ」とてうち笑ひて居たり。君入り給へばいとかたはらいたく「うちとけて怪しきふる人どもの侍るに」と聞えさす。「まだおどろい給はじな。いで御目さまし聞えむ。かゝる朝霧をば知らでいぬるものか」とて入り給へば「や」ともえ聞えず。君は何心もなく寢給ひつるを抱き驚かし給ふに驚きて、宮の御迎におはしたると寢おびれておぼしたり。御ぐし搔きつくろひなどし給ひて「いざ給へ。宮の御使にて參り來つるぞ」との給ふに、あらざりけりとあきれて、恐ろしと思ひたれば、「あなこゝろう。まろも同じ人ぞ」とてかき抱きて出で給へば大夫少納言など「こはいかに」と聞ゆ。「こゝには常にもえ參らぬが覺束なければ心やすき所にと聞えしを、心憂くわたり給ふべかなれば、まして聞え難かるべければ人ひとり參られよかし」との給へば、心あわたゞしくて「今日はいとびんなくなむ侍るべき。宮の渡らせ給はむにはいかさまにか聞えやらむ。おのづから程經てさるべきにおはしまさばともかうも侍りなむを、いと思ひやりなき程の事に侍れば侍ふ人々苦しう侍るべし」と聞ゆれば、「よし後にも人は參りなむかし」とて御車寄せさせ給へば、あさましういかさまにかと思ひあへり。若君もあやしと覺して泣い給ふ。少納言留め聞えむ方なければ、よべ縫ひし御ぞどもひきさげて自らもよろしききぬ着更へて乘りぬ。二條院は近ければまだ明うならぬ程に坐して西の對に御車寄せており給ふ。若君をばいとかるらかにかき抱きておろし給ふ。少納言「猶いと夢の心地し侍るをいかにし侍るべきことにか」とてやすらへば、「そは心なゝり。御みづからは渡し奉りつれば、還りなむとあらば送りせむかし」との給ふにわりなくておりぬ。俄にあさましう胸も靜ならず、宮のおぼしのたまはむ事いかになりはて給ふべき有樣にか。とてもかくても賴もしき人々に後れ給へるがいみじさと思ふに淚のとゞまらぬをさすがにゆゝしければ念じ居たり。此方は住み給はぬ對なれば御帳などもなかりけり。惟光めしてみ帳御屛風などあたりあたりしたてさせ給ふ。御几帳のかたびらひきおろしおましなどたゞ引きつくろふばかりにてあれば、ひんがしの對に御とのゐ者召しに遣して大殿籠りぬ。若君はいとむくつけう、いかにする事ならむとふるはれ給へどさすがに聲立てゝもえ泣き給はず、「少納言が許に寢む」とのたまふ聲いと若し。「今はさは大殿籠るまじきぞよ」と敎へ聞え給へばいと侘しくて泣き臥し給へり。乳母はうちも臥されず物も覺えず泣き居たり。明け行くまゝに見渡せば、おとゞのつくりざましつらひざま更にもいはず、庭のすなごも玉を重ねたらむやうに見えて輝く心地するにはしたなく思ひ居たれどこなたには女などもさぶらはざりけり。疎きまらうとなどの參るをりふしの方なりければ男どもぞみすのとにありける。」かく人迎へ給へりと聞く人は誰ならむ。おぼろけにはあらじ」とさゝめく。御てうづ御かゆなどこなたにまゐる。日高う起き給ひて、「人なくてあしかめるを、さるべき人々夕つけてこそは迎へさせ給はめ」とのたまひて、君にわらはべめしにつかはす。「小きかぎり殊更に參れ」とありければいとをかしげにて四人參りたり。君は御ぞに纏はれて臥し給へるをせめて起して、「かう心憂くなおはせそ。すゞろなる人はかうはありなむや。女は心やはらかなるなむよき」など今より敎へ聞え給ふ。御かたちは、さし離れて見しよりもいみじう淸らにて、なつかしううち語らひつゝをかしき繪あそび物ども取りに遣して見せ奉り、御心につくべきことどもをし給ふ。やうやう起き居て見給ふ。にび色のこまやかなるがうちなえたるどもを着給ひて何心なくうちゑみなどして居給へるがいとうつくしきに我もうち笑まれて見給ふ。ひんがしのたいに渡り給へるに、立ち出でゝ庭の木立池の方など覗き給へば、霜枯の前栽繪に書けるやうにおもしろくて、見も知りぬ四位五位こきまぜにひまなう出で入りつゝ、げにをかしき所かなとおぼす。御屛風どもなどいとをかしき繪を見つゝ慰めておはするもはかなしや。君は二三日內へもまゐり給はでこの人をなつけ語らひ聞え給ふ。やがて本にもとおぼすにや、手習繪などさまざまに書きつゝ見せ奉り給ふ。いみじうをかしげに書き集め給へり。「むさし野といへばかこたれぬ」と紫の紙に書い給へる墨つきのいとことなるを取りて見居たまへり。少しちひさくて、

 「根は見ねどあはれとぞ思ふ武藏野の露わけわぶる草のゆかりを」とあり。「いで君も書い給へ」とあれば、「まだようは書かず」とて見上げ給へるが何心なくうつくしげなれば、うちほゝゑみて「よからねどむげに書かぬこそわろけれ。敎へ聞えむかし」との給へばうちそばみて書い給ふ手つき、筆とり給へるさまのをさなげなるもらうたうのみ覺ゆれば、心ながらあやしとおもほす。「書き損ひつ」と恥ぢて隱し給ふを强ひて見給へば、

 「かこつべき故をしらねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ」といとわかけれどおひさき見えてふくよかに書い給へり。故尼君にぞ似たりける。いまめかしき手本ならはゞいとよう書い給ひてむと見給ふ。ひゝななどわざと屋ども作り續けて諸共に遊びつゝこよなき物思のまぎらはしなり。かのとまりにし人々、宮渡り給ひて尋ね聞え給ひけるに聞えやらむ方なくてぞわびあへりける。「暫し人に知らせじ」と君もの給ひ少納言も思ふ事なれば、せちに口がためやりつゝ唯「行くへも知らず少納言がゐて隱し聞えたる」とのみ聞えさするに、宮もいふかひなうおぼして、「故尼君もかしこに渡り給はむ事をいと物しとおぼしたりしことなれば、めのといとさしすぐしたる心ばせのあまり、おいらかにわたさむをびんなしなどはいはで、心にまかせてゐてはふらかしつるなめり」と泣く泣く歸り給ひぬ。「もし聞き出で奉らば吿げよ」とのたまふもわづらはしく、僧都の御許にも尋ね聞え給へどあとはかなくて、あたらしかりし御かたちなど戀しく悲しとおぼす。北の方も母君を憎しと思ひ聞え給ひける心も失せて我が心に任せつべうおもほしけるに、たがひぬるは口惜しうおぼしけり。やうやう人參り集りぬ。御あそびがたきのわらはべちごどもいとめづらかに今めかしき御有樣どもなれぼ、思ふ事なくて遊びあへり。君は男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮などばかりぞ尼君を戀ひ聞え給ひてうち泣きなどし給へど、宮をば殊に思ひ出で聞え給はず。もとより見ならひ聞え給はでならひ給へれば、今は唯この後の親をいみじうむつびまつはし聞え給ふ。物よりおはすればまづ出で向ひて哀にうち語らひ御ふところに入り居ていさゝか疎く恥しとも思ひたらず、さる方にはいみじうらうたきわざなりけり。さかしら心あり何くれとむつかしきすぢになりぬれば、我が心地も少したがふふしも出でくやと心おかれ、人もうらみがちに思の外の事もおのづから出で來るを、いとをかしきもてあそびなり。むすめなどはた、かばかりになりぬれば心安くうちふるまひ隔なきさまに、おきふしなどはえしもすさまじきを、これはいとさまかはりたるかしづきぐさなりとおぼいためり。


末摘花

思へども猶飽かざりし夕顏の露に後れし程の心ちを年月經れどおぼし忘れず、こゝもかしこもうちとけぬかぎりのけしきばみ心深き方の御いどましさに、けぢかくなつかしかりしあはれに似るものなう戀しく覺え給ふ。いかでことごとしきおぼえはなくいとらうたげならむ人のつゝましき事なからむ見つけてしがなとこりずまにおぼしわたれば、すこしゆゑづきて聞ゆるわたりは御耳とまり給はぬ隈なきに、さてもやと覺しよるばかりのけはひあるあたりにこそはひとくだりをもほのめかし給ふめるに、靡き聞えずもてはなれたるはをさをさあるまじきぞいと目馴れたるや。つれなう心づよきは、たとしへなう情後るゝまめやかさなど、あまり物のほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず名殘なくくづほれてなほなほしき方に定りなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりけり。かの空蟬を物の折々には妬う覺し出づ。荻の葉もさりぬべき風のたよりある時は驚かし給ふ折もあるべし。ほ影の亂れたりしさまは又さやうにても見まほしくおぼす。大方名殘なき物忘をぞえ給はざりける。左衞門の乳母とて大貳の尼君のさしつぎに、覺いたるがむすめ大輔の命婦とてうちに侍ふ。わかんどほりの兵部の大輔なるがむすめなりけり。いといたう色好める若人にてありけるを君も召し使ひなどし給ふ。母は筑前の守のめにてくだりにければ父君のもとを里にて行き通ふ。故常陸のみこの末にまうけていみじうかしづき給ひし御むすめ心細くて殘り居給ひたるを事の序に語り聞えければ、「哀のことや」とて問ひ聞き給ふ。「心ばへかたちなど深き方はえ知り侍らず。かいひそめ人疎うもてなし給へば、さべき宵など物ごしにてぞかたらひ侍る。きんをぞ懷かしき語らひ人と思ひ〈給へイ有〉る」と聞ゆれば、「三つの友にて今一くさやうたてあらむ」とて、「我に聞かせよ。父みこのさやうの方にいとよしづきて物し給ひければ、おしなべての手づかひにはあらじと思ふ」と語らひ給ふ。「さやうに聞しめすばかりには侍らずやあらむ」といへば、「いたうけしきばましや。この頃の朧月夜に忍びて物せむ。まかでよ」とのたまへば、煩はしと思へどうちわたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。父の大輔の君は外にぞ住みける。こゝには時々ぞ通ひける。命婦は繼母のあたりは住みもつかず、姬君の御あたりをむつびてこゝにはくるなりけり。のたまひしもしるくいざよひの月をかしきほどにおはしたり。「いとかたはらいたきわざかな。物のね澄むべき夜のさまにも侍らざめるに」と聞ゆれど、「猶あなたにわたりて唯一聲催し聞えよ。空しくかへらむが妬かるを」とのたまへば、うちとけたるすみかにすゑ奉りて後ろめたう忝しと思へど、寢殿に參りたればまだ格子もさながら梅のかをかしきを見いだして物し給ふ。よき折かなと思ひて、「御琴の音いかにまさり侍らむと思ひ給へらるゝよるのけはひにさそはれ侍りてなむ。心あわたゞしき出入にえうけたまはらぬこそ口をしけれ」といへば、「聞き知る人こそあなれ。もゝしき行きかふ人の聞くばかりやは」とて召し寄する者もあいなう、いかゞ聞きたまはむと胸つぶる。ほのかに搔きならし給ふ。をかしう聞ゆ。何ばかり深き手ならねど物のねがらのすぢ異なる物なれば聞きにくゝもおぼされず。いといたう荒れわたりてさびしき所に、さばかりの人のふるめかしう所せくかしづきすゑたりけむ名殘なく、いかにおもほし殘すことなからむ。かやうの所にこそは昔物語にも哀なる事どもありけれなど思ひ續けて、物やいひ寄らましとおぼせど、うちつけにやおぼさむと心耻しくてやすらひ給ふ。命婦かどあるものにて、いたう耳ならさせ奉らじと思ひければ、「曇りがちに侍るめり。まらうどの來むと侍りつる厭ひがほにもこそ。今心のどかにを。み格子まゐりなむ」とていたうもそゝのかさで歸りたれば「なかなかなる程にても止みぬるかな。物聞き分く程にもあらで妬う」とのたまふ。氣色をかしとおぼしたり。「おなじくばけぢかき程のけはひ立聞きせさせよ」とのたまへど、心にくゝてと思へば、「いでやいとかすかなる有樣に思ひ消えて心苦しげに物し給ふめるを、後ろめたきさまにや」といへば、「げにさもあること、俄かに我も人もうち解けて語らふべき人のきははきはとこそあれなど、哀に覺さるゝ人の御程なれば、猶さやうの氣色をほのめかせ」と語らひ給ふ。又契り給へる方やあらむ。いと忍びて歸り給ふ。「うへの、まめにおはしますともてなやみ聞えさせ給ふこそをかしう思う給へらるゝ折々侍れ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覽じつけむ」と聞ゆれば、立ち返りうち笑ひて、「ことびとのいはむやうにとがなあらはされそ。これをあだあだしきふるまひといはゞ女の有樣苦しからむ」との給へば、あまり色めいたりとおぼして折々かうのたまふを耻しと思ひて物もいはず。寢殿のかたに人のけはひ聞くやうもやとおぼしてやをら立ち出で給ふ。すいがいの唯少し折れ殘りたるかくれの方に立ち寄り給ふに、もとより立てる男ありけり。誰ならむ。心かけたるすきもののありけりと覺して、陰につきて立ち隱れ給へば、頭中將なりけり。この夕つ方內より諸共にまかで給ひける、やがて大殿にもよらず二條院にもあらで引き別れたまひけるを、いづちならむとたゞならで、我も行く方あれど跡につきて窺ひけり。あやしき馬に狩衣姿のないがしろにてきければえ見知り給はぬに、さすがにかうことかたに入り給ひぬれば心も得ず思ひけるほど、物のねに聞きついて立てるに、かへりや出で給ふとした待つなりけり。君は誰ともえ見わき給はで、我と知られじとぬき足に步みのき給ふにふとよりて振り捨てさせ給へるつらさに御送り仕うまつりつるは、

  もろともに大內山は出でつれど入るかた見せぬいざよひの月」とうらむるもねたけれど、この君と見給ふに少しをかしうなりぬ。「人の思ひよらぬことよ」とにくむにくむ、

 「里わかぬかげをば見れど行く月のいるさの山を誰か尋ぬる」。「かう慕ひありかばいかにせさせ給はむ」と聞え給ふ。「誠はかやうの御ありきにも隨身からこそはかばかしき事もあるべけれ。後らさせ給はでこそあらめ、やつれたる御ありきはかるがるしき事も出できなむ」と押し返し諫め奉る。かうのみ見つけらるゝをねたしとおぼせど、かのなでしこはえ尋ねしらぬを重きかうに御心のうちに覺し出づ。おのおの契れる方にもあまえて得行き別れ給はず、ひとつ車に乘りて月のをかしきほどに雲かくれたる道のほど笛吹きあはせて大殿におはしぬ。さきなどもおはせ給はず、忍びて入りて人見ぬらうに御直衣めして着更へ給ふ。つれなう今くるやうにて御笛ども吹きすさびておはすればおとゞ例の聞きすぐし給はで狛笛取り出で給へり。いと上手におはすればいとおもしろう吹き給ふ。御琴召してうちにもこの方に心得たる人々にひかせ給ふ。中務の君わざと琵琶はひけど、頭の君心かけたるをもて離れて唯このたまさかなる御けしきの懷かしきをばえ背き聞えぬに、おのづから隱れなくて大宮などもよろしからずおぼしなりたれば、物おもはしくはしたなき心地してすさまじげにて寄りふしたり。絕えて見奉らぬ所にかけはなれなむも、さすがに心細く思ひ亂れたり。君たちはありつるきんのねを覺し出でゝ、哀げなりつるすまひのさまなどもやうかへてをかしう思ひ續け、あらましごとにいとをかしうらうたき人のさて年月を重ね居たらむ時見そめていみじう心苦しくは人にももてさわがるばかりや我が心もさまあしからむなどさへ中將は思ひけり。この君のかう氣色ばみありき給ふを、まさにさてはすぐし給ひてむやとなまねたう危がりけり。その後此方かなたより文など遣り給ふべし。いづれもいづれも返事見えず覺束なく心やましきに、あまりうたてもあるかな、さやうなるすまひする人は、物思ひ知りたるけしき、はかなき木草空の氣色につけてもとりなしなどして心ばせ推し量らるゝ折々あらむこそ哀なるべけれ、重しとてもいとかうあまりうもれたらむは心づきなくわろびたりと中將はまいて心いられしけり。例のへだて聞え給はぬ心にて、「しかじかの返事は見給ふや。試にかすめたりしこそはしたなくて止みにしか」と憂ふれば、さればよ、いひよりにけるをやとほゝゑまれて「いさ、見むとしも思はねばにや見るとしもなし」といらへ給ふを、人わきしけると妬う思ふ。君は深うしも思はぬことのかう情なきをすさまじく思ひなり給ひにしかど、かうこの中將のいひありきけるを、こと多くいひなれたらむ方にぞ靡かむかし。したり顏にてもとのことを思ひ放ちたらむ氣色こそうれはしかるべけれとおぼして、命婦をまめやかに語らひ給ふ。「おぼつかなくもてはなれたる御氣色なむいと心憂き。すきずきしき方に疑ひよせ給ふにこそあらめ。さりとも短き心はえつかはぬものを、人の心ののどやかなることなくて思はずにのみあるになむおのづから我が過ちにもなりぬべき。心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるも無う心安からむ人はなかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、「いでや、さやうにをかしき方の御かさやどりにはえしもやと、つきなげにこそ見え侍れ。偏に物づゝみしひき入りたる方はしもありがたう物し給ふ人になむ」と見るありさまかたり聞ゆ。「らうらうしうかどめきたる心はなきなめり。いと子めかしうおほどかならむこそらうたくはあるべけれ」と覺し忘れずの給ふ。

わらはやみに煩ひ給ひ、人知れぬ物思の紛れも御心のいとまなきやうにて春夏過ぎぬ。秋の頃ほひ靜におぼし續けて、かのきぬたの音も耳につきて聞きにくかりしさへ戀しうおぼし出でらるゝまゝに、常陸の君にはしばしば聞え給へど、猶おぼつかなうのみあれば世づかず心やましう、まけては止まじの御心さへ添ひて命婦を責め給ふ。「いかなるやうぞ、いとかゝる事こそまだ知らね」と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて「もてはなれて似げなき御事ともおもむけ侍らず。唯大方の御物づゝみのわりなきに手をえさし出で給はぬとなむ見給ふる」と聞ゆれば、「それこそは世づかぬことなれ。物思ひ知るまじきほど獨身をえ心に任せぬほどこそさやうにかゞやかしきもことわりなれ。何事も思ひしづまり給へらむと思ふにこそ。そこはかとなくつれづれに心細うのみ覺ゆるを、同じ心にいらへ給はむは願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと世づけるすぢならで、その荒れたるすのこにたゞずまゝほしきなり。いとおぼつかなう心得ぬ心地するを、かの御ゆるしなくともたばかれかし。心いられしうたてあるもてなしにはよもあらじ」など語らひ給ふ。猶世に在る人の有樣を大方なるやうにて聞き集め耳とゞめ給ふ癖のつき給へるを、さうざうしき宵居などにはかなきついでに、「さる人こそ」とばかりきこえ出でたりしにかくわざとがましうのたまひわたればなま煩らはしく、姬君の御有樣も似つかはしくよしめきなどもあらぬを、なかなかなるみちびきにいとほしきことや見えなむと思ひけれど、君のかくまめやかにのたまふに聞き入れざらむもひがひがしかるべし。父みこのおはしける折にだにふりにたるあたりとておとなひ聞ゆる人もなかりけるを、まして今は淺茅わくる人も跡絕えたるに、かく世に珍しき御けはひのもり匂ひくるをばなま女ばらなどもゑみまけて、「猶聞え給へ」とそゝのかし奉れど、淺ましう物づゝみし給ふ心にてひたぶるに見も入れ給はぬなりけり。命婦は、さらばさりぬべからむ折に物ごしに聞え給はむほど御心につかずばさても止みねかし、又さるべきにて假にもおはし通はむを咎め給ふべきひとなしなど、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にもかゝる事などもいはざりけり。八月廿餘日、よひ過ぐるまで待たるゝ月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく松の梢吹く風のおと心細くて、古のこと語り出でゝ打ち泣きなどし給ふ。いとよき折かなと思ひて御せうそこや聞えつらむ、例のいと忍びておはしたり。月やうやう出でゝ荒れたる籬のほど疎ましく打ち眺め給ふに、きん、そゝのかされてほのかに搔き鳴し給ふ程けしうはあらず。少し今めきたるけをつけばやとぞ亂れたる心には心もとなく思ひ居たる。人めしなき所なれば心安く入り給ふ。命婦を呼ばせ給ふ。今しも驚き顏に、「いとかたはらいたきわざかな。しかじかこそおはしましたなれ。常にかう恨み聞え給ふを心にかなはぬよしをのみ聞えすまひ侍れば、みづからことわりもきこえ知らせむとのたまひわたるなり。いかゞ聞え返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば心苦しきを物ごしにて聞え給はむこと聞しめせ」といへば、いとはづかしと思ひて、「人に物聞えむやうもしらぬを」とて奧ざまへゐざり入り給ふさまいとうひうひしげなり。うち笑ひて、「いとわかわかしうおはしますこそ心苦しけれ。かぎりなき人も親のあつかひ後見聞え給ふほどこそ若び給ふもことわりなれ。かばかり心ぼそき御有樣になほ世をつきせず覺し憚るはつきなうこそ」と敎へ聞ゆ。さすがに人のいふことは强うもいなびぬ御心にて、「いらへ聞えで唯聞けとあらば格子などさしてはありなむ」とのたまふ。「簀子などはびんなう侍りなむ。おし立ちてあはあはしき御ふるまひなどはよも」などいとよくいひなして、二まのきはなるさうじ手づからいと强くさして御しとねうち置きひきつくろふ。いとつゝましげにおぼしたれど、かうやうの人に物言ふらむ心ばへなども夢にも知り給はざりけれぼ、命婦のかういふを、あるやうこそはと思ひて物し給ふ。めのとだつおい人などはざうしに入り臥して夕惑ひしたるほどなり。若き人二三人あるは世にめでられ給へる御有樣をゆかしきものに思ひ聞えて心げさうしあへり。宜しき御ぞ奉りかへつくろひ聞ゆれば、さうじみは何の心げさうもなくておはす。男はいとつきせぬ御さまをうち忍び用意し給へる御けはひいみじうなまめきて、見知らむ人にこそ見せめ。何のはえあるまじきわたりを、あないとほしと命婦は思へど、唯おほどかに物し給ふをぞうしろやすう、さし過ぎたる事は見え奉り給はじと思ひける。我が常に責められ奉るつみさりごとに、心苦しき人の御物思ひや出でこむなど安からず思ひ居たり。君は人の御程をおぼせばされくつがへる今やうのよしばみよりはこよなう奧ゆかしとおぼしわたるに、とかうそゝのかされてゐざり寄り給へるけはひ忍びやかにえびのかいとなつかしう薰り出でゝおほどかなるを、さればよとおぼさる。年ごろ思ひわたるさまなどいとよくのたまひ續くれど、まして近き御いらへは絕えてなし。わりなのわざやとうち歎き給ふ。

 「いくそたび君がしゝまにまけぬらむ物ないひそといはぬたのみに。のたまひも捨てゝよかし。玉だすきくるし」とのたまふ。女君の御めのとご侍從とていとはやりかなるわかうど、いと心もとなうかたはら痛しと思ひて、さし寄りて聞ゆ。

 「鐘つきてとぢめむことはさすがにてこたへまうきぞかつはあやなき」とわかびたる聲のことにおもりかならぬを人づてにはあらぬやうに聞えなせば、ほどよりはあまえてと聞き給へど、めづらしきになかなか口ぶたがるわざかな。

 「いはぬをもいふにまさると知りながらおしこめたるは苦しかりけり」。何やかやとはかなきことなれどをかしきさまにもまめやかにものたまへど、何のかひなし。いとかゝるもさまかへて思ふかたことに物し給ふ人にやと、妬くてやをら押しあけて入り給ひにけり。命婦、あなうたてたゆめ給へるといとほしければ、知らず顏にて我が方へいにけり。この若うどゞもはた、世に類なき御有樣の音ぎゝに罪許し聞えておどろおどろしうも嘆かれず、唯思ひもよらず俄にてさる御心もなきをぞ思ひける。さうじみは唯我にもあらず耻しくつゝましきより外の事又なければ、今はかゝるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人のうちかしづかれたると見許し給ふものから、心得ずなまいとほしと覺ゆる御さまなり。何事につけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて夜ふかう出で給ひぬ。命婦は、いかならむと目覺めて聞き臥せりけれど、知りがほならじとて御送にともこわづくらず、君もやをら忍びて出で給ひにけり。二條院におはしてうちふし給ひても、猶思ぶに適ひ難き世にこそとおぼし續けて、かるらかならぬ人の御ほどを心苦しとぞ覺しける。思ひ亂れておはするに頭中將おはして、「こよなき御朝いかな。故あらむかしとこそ思ひ給へらるれ」といへば、起きあがり給ひて、「心安き獨寢の床にてゆるびにけり。うちよりか」との給へば「しか、まかで侍るまゝなり。朱雀院の行幸今日なむがく人まひびとさためらるべきよし承りしをおとゞにもつたへ申さむとてなむまかで侍る。やがて歸り參りぬべう侍り」と忙しげなれば、「さらば諸共に」とて御粥こはいひめしてまらうどにも參り給ひて、引き續けたれど一つに奉りて「猶いとねぶたげなり」と咎め出でゝ「かくいたまふこと多かり」とぞ恨み聞え給ふ。事ども多く定めらるゝ日にて、うちに侍ひ暮し給ひつ。かしこには文をだにといとほしくおぼし出でゝ夕つ方ぞ有りける。雨降り出でゝ所せくもあるにかさやどりせむとはたおぼされずやありけむ。かしこには待つほど過ぎて、命婦もいといとほしき御さまかなと心憂く思ひけり。さうじみは御心のうちにはづかしう思ひ續け給ひて、今朝の御文の暮れぬるもとかうしもなかなか思ひわき給はざりけり。

 「夕霧の晴るゝけしきもまだ見ぬにいぶせさそふるよひの雨かな。雲間待ち見むほどいかに心もとなう」とあり。おはしますまじき御けしきを人々胸つぶれて思へど、「猶聞えさせ給へ」とそゝのかしあへれど、いとゞ思ひ亂れ給へるほどにて、えかたのやうにも續け給はねば、夜更けぬとて侍從ぞ例の敎へ聞ゆる。

 「晴れぬ夜の月待つ里をおもひやれ同じ心にながめせずとも」、くちぐちに責められて紫の紙の、年經にければはひおくれふるめいたるに、御手はさすがにもじつよう中さだのすぢにてかみしも等しく書い給へり。見るかひなううち置き給ふ。如何に思ふらむと思ひやるも安からず。かゝることを悔やしなどはいふにやあらむ、さりとていかゞはせむ、我さりとも心長う見はてゝむと、おぼしなす御心を知らねばかしこにはいみじうぞ嘆い給ひける。おとゞ夜に入りてまかで給ふにひかれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸の事を興ありとおもほしてきんだち集りてのたまひおのおの舞ども習ひ給ふを、そのころのことにて物のねども常よりも耳かしがましくてかたがたいどみつゝ、例の御あそびならず、おほひちりき、さくはちの笛などの大聲を吹き上げつゝ、たいこをさへ高欄のもとにまろばし寄せて手づから打ち鳴し遊びおはさうず。御暇なきやうにてせちにおぼす所ばかりにこそぬすまはれ給へ、かのわたりにはいと覺束なくて秋暮れはてぬ。なほ賴みこしかひなくて過ぎゆく。

行幸近くなりて試樂などのゝしるころぞ命婦は參れる。「いかにぞ」など問ひ給ひていとほしとはおぼしたり。有樣聞えて、「いとかうもて離れたる御心ばへは見給ふる人さへ心苦しく」など泣きぬばかりにおもへり。心にくゝもてなして止みなむと思へりしことをくたいてける、心もなく、この人の思ふらむをさへおぼす。さうじみの物もいはで覺しうづもれ給ふらむさま思ひやり給ふもいとほしければ「いとまなき程ぞや。わりなし」とうち歎い給ひて「物思ひ知らぬやうなる心ざまをこらさむと思ふぞかし」とほゝゑみ給へる、若ううつくしげなれば、我も打ち笑まるゝ心地して、わりなの、人に恨みられ給ふ御よはひや。思ひやり少なう御心のまゝならむもことわりと思ふ。この御いそぎの程過ぐしてぞ時々坐しける。かの紫のゆかり尋ねとり給ひてはそのうつくしみに心入り給ひて六條わたりにだにかれまさり給ふめれば、まして荒れたる宿は哀におぼし怠らずながら物憂きぞわりなかりける。所せき物はぢを見顯さむの御心も殊になくて過ぎ行くを、打ち返し見まさりするやうもありかし。手さぐりのたどたどしきに怪しう心得ぬ事もあるにや見てしがなとおもほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし。打ち解けたるよひゐの程やをら入り給ひて格子のはざまより見給ひけり。されどみづからは見え給ふべくもあらず。几帳などいたく損はれたるものから、年經にけるたちど變らず押しやりなど亂れねば心もとなくて御達四五人居たり。御だいひそくやうのもろこしのものなれど、人わろきに何のくさはひもなくあはれげなる、まかでゝ人々くふ。すみのまばかりにぞいと寒げなる女房白き衣のいひしらず煤けたるにきたなげなるしびらひきゆひつけたる腰つきかたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れてさしたる額つき、內敎坊內侍所のほどにかゝる者どものあるはやとをかし。かけても人のあたりに近うふるまふ者とも知り給はざりけり。「あはれさも寒き年かな。命長ければかゝる世にも逢ふものなりけり」とてうち泣くもあり。「故宮おはしましゝ世を、などて辛しと思ひけむ。かく賴みなくても過ぐるものなりけり」とて飛び立ちぬべくふるふもあり。さまざまに人わろき事どもを憂へあへるを聞き給ふもかたはらいたければ、立ちのきて只今おはするやうにてうち敲き給ふ。「そゝや」などいひて火とりなほし格子放ちて入れ奉る。待從は齋院に參り通ふわかうどにて、この頃はなかりけり。いよいよあやしう鄙びたるかぎりにて見ならはぬ心地ぞする。いとゞうれふなりつる雪かきたれいみじう降りけり。空の氣色烈しう風吹き荒れておほとなぶら消えにけるをともしつくる人もなし。かのものにおそはれし折おぼし出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを程のせばう人げの少しあるなどに慰めたれど、すごううたていざとき心地するよのさまなり。をかしうもあはれにもやうかへて心とまりぬべきありさまをいとうもれすくよかにて何のはえなきをぞ口惜しうおぼす。辛うじて明けぬる氣色なれば、格子手づからあげ給ひて前の前栽の雪を見給ふ。ふみあけたる跡もなくはるばると荒れわたりていみじうさびしげなるに、ふり出でゝ行かむことも哀にて「をかしきほどの空も見給へ。盡きせぬ御心の隔こそわりなけれ」と恨み聞え給ふ。まだほのぐらけれど雪の光にいとゞ淸らに若う見え給ふを、おい人どもゑみさかえて見奉る。「はや出でさせ給へ。あぢきなし。心うつくしきこそ」など敎へ聞ゆれば、さすがに人の聞ゆることをえいなび給はぬ御心にて、とかう引きつくろひてゐざり出で給へり。見ぬやうにてとの方を眺め給へれどしりめはたゞならず。いかにぞ、うちとけまさりの聊もあらば嬉しからむとおぼすもあながちなる御心なりや。まづゐだけのたかうをせながに見え給ふに、さればよと胸つぶれぬ。うちつぎてあなかたはと見ゆるものは御鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢ぼさちの衆物と覺ゆ。あさましう高うのびらかに先の方少し垂りて色づきたるほど殊の外にうたてあり。色は雪耻かしく白うてさをに額つきこよなうはれたるに、猶しもがちなるおもやうは大方おどろおどろしく長きなるべし。瘦せ給へることいとほしげにさらぼひて肩の程などは痛げなるまできぬの上まで見ゆ。なにゝのこりなう見顯はしつらむと思ふものから、珍らしきさまのしたればさすがにうち見やられ給ふ。頭つき髮のかゝりはしもうつくしげにてめでたしと思ひ聞ゆる人々にもをさをさ劣るまじううちぎの裾にたまりてひかれたるほど一尺ばかり餘りたらむと見ゆ。着給へる物どもをさへいひたつるも物いひさがなきやうなれど、昔物語にも人の御さうぞくをこそはまづいひためれ。ゆるし色のわりなううはじらみたる一かさね、なごりなう黑き袿重ねて、上着にはふるきのかはぎぬいと淸らにかうばしきを着給へり。こだいの故づきたる御さうぞくなれど、猶若やかなる女の御よそひには似げなうおどろおどろしきこといともてはやされたり。されどげにこの皮なうては寒からましと見ゆる御顏ざまなるを心苦しと見たまふ。何事もいはれ給はず、我さへ口閉ぢたる心地し給へど例のしゝまも試みむととかう聞え給ふに、いたうはぢらひて口おほひし給へるさへ鄙びふるめかしう、ことごとしくぎしき官のねり出てたるひぢもちおぼえて、さすがにうち笑み給へるけしきはしたなうすゞろびたり。いとほしく哀にていとゞ急き出で給ふ。「たのもしき人なき御有樣を見そめたる人には、疎からず思ひむつび給はむこそほいある心地すべけれ。ゆるしなき御けしきなればつらう」などことつけて、

 「朝日さす軒のたるひは解けながらなどかつらゝのむすほゝるらむ」とのたまへど、唯むゝとうち笑ひていと口重げなるもいとほしければ出で給ひぬ。御車寄せたる中門のいといたうゆがみよろぼひて夜目にこそしるきながらも萬かくろへたること多かりけれ。いと哀に寂しう荒れ惑へるに松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地して物あはれなるを、かの人々のいひし葎の門はかやうなる所なりけむかし。げに心苦しくらうたげならむ人をこゝにすゑて後めたう戀しと思はゞや、あるまじき物思はそれに紛れなむかしと、思ふやうなるすみかに合はぬ御有樣は取るべき方なしと思ひながら、我ならぬ人はまして見忍びてむや、わがかう見馴れけるは父みこの後めたしとたぐへ置き給ひけむたましひのしるべなめりとぞおぼさるゝ。橘の木のうづもれたる、御隨身召して拂はせ給ふ。うらみがほに松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるゝ雪も名にたつ末のと見ゆるなどを、いと深からずともなだらかなる程にあひしらはむ人もがなと見給ふ。御車出づべきかどはまだあけざりければ鍵のあづかり尋ね出でたれば翁のいといみじきぞ出て來たる。むすめにやうまごにや、はしたなる大きさの女の、きぬは雪にあひて煤け惑ひ寒しと思へる氣色深うて、怪しきものに火をたゞほのかに入れて袖ぐゝみにもたり。翁かどをえあけやらねば寄りてひき助くるいとかたくなゝり。御供の人寄りてぞあけつる。

 「ふりにける頭のゆきを見る人も劣らずぬらすあさのそでかな。若き者はかたちかくれず」とうちすじ給ひて、花の色に出でゝいとさむしと見えつる御面影ふと思ひ出でられてほほゑまれ給ふ。頭中將にこれを見せたらむ時如何なる事をよそへいはむ。常に窺ひくれば今見つけられなむとすべなうおぼす。よのつねなるほどのことなることなさならば思ひ捨てゝも止みぬべきを、さだかに見給ひてはなかなか哀にいみじくて、まめやかなるさまに常に音づれ給ふ。ふるきの皮ならぬ絹、あやわたなどおいびとどもの着るべき物の類ひ、かのおきなのためまでかみしもおぼしやりて奉り給ふ。かやうのまめやか事も耻しげならぬを心やすく、さるかたのうしろみにてはぐゝまむとおもほしとりて、さまことにさならぬうち解けわざもし給りけり。かの空蟬のうち解けたりし宵のそばめはいとわろかりしかたちざまなれど、もてなしにかくされて口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げにしなにもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに妬げなりしを負けて止みにしかなと物の折ごとにはおぼし出づ。歲も暮れぬ。內の御とのゐ所におはしますに大輔の命婦參れり。御けづり櫛などにはけさうだつすぢなう心やすき者の、さすがにの給ひ戯ぶれなどして使ひならし給へれば、召しなき時も聞ゆべき事ある折は參う上りけり。「怪しきことの侍るを聞えさせざらむもひがひがしう思ひ給へ煩ひて」と、ほゝゑみて聞えやらぬを「何ざまのことぞ。我には包む事あらじとなむ思ふ」とのたまへば、「いかゞは。みづがらの憂へはかしこくともまづこそは。これはいと聞えさせにくゝなむ」といたうことこめたれば「例のえんなり」と惡み給ふ。かの宮より侍る御文とて取り出でたり。「ましてこれは取り隱すべきことかは」とて取り給ふも胸つぶる。みちのくに紙のあつこえたるににほひばかりは深うしめ給へり。いとよう書きおほせたり。歌も、

 「からごろも君が心のつらければ袂はかくぞそぼちつゝのみ」。心得ずうち傾ぶき給へるに、つゝみにころも筥のおもりかに古代なるうちおきて推し出でたり。「これをいかでかはかたはらいたく思ひ給へざらむ。されどついたちの御よそひとてわざと侍るめるをはしたなうはえかへし侍らず。ひとり引き籠め侍らむも人の御心違ひ侍るべければ御覽ぜさせてこそは」と聞ゆれば、「引き籠められなむはからかりなまし。袖まきほさむ人もなき身にいと嬉しき志にこそは」とのたまひてことに物言はれ給はず。さてもあさましの口つきや、これこそは手づからの御事のかぎりなめれ、侍從こそはとりなほすべかめれ、また筆のしりとる博士ぞなかるべきといふかひなくおぼす。心を盡して詠み出で給へらむほどをおぼすに、いともかしこぎかたとはこれをもいふべかりけりとほゝゑみて見給ふを、命婦おもて赤みて見奉る。今やう色のえゆるすまじくつやなうふるめきたる直衣のうらうへひとしうこまやかなる、いとなほなほしうつまづまぞ見えたる。あさましとおぼすに、この文をひろげながらはしに手習ひすさび給ふをそばめに見れば、

 「なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖にふれけむ。色濃き花と見しかども」など書きけがし給ふ。はなのとがめを、猶あるやうあらむと思ひ合はする折々の月かげなどを、いとほしきものからをかしう思ひなりぬ。

 「紅のひとはな衣うすくともひたすらくたす名をしたてずは。心ぐるしの世や」といといたう馴れてひとりごつを、善ぎにはあらねどかうやうのかいなでにだにあらましかばと、かへすがへす口をし。人のほどの心苦しきに名の朽ちなむはさすがなり。人々參れば「取り隱さむや。かゝるわざは人のするものにやあらむ」とうちうめき給ふ。なにゝ御覽ぜさせつらむ、我さへ心なきやうにといと耻しくてやをらおりぬ。又の日うへに侍らば臺盤所にさしのぞき給ひて「くはや昨日のかへりごとあやしく心ばみ過ぐさるゝ」とて投げ給へり。女房たち何事ならむとゆかしがる。「たゞ梅の花の色のごと三笠の山のをとめをば棄てゝ」と歌ひすさびて出で給ひぬるを、猶命婦はいとをかしと思ふ。心しらぬ人々は「なぞ御ひとりゑみは」と咎めあへり。「あらず。寒きしもあさに、かいねり好める鼻の色あひや見えつらむ。御つゞしり歌のいとをかしき」といへば、「あながちなる御事かな。このなかには匂へる鼻もなかめり。左近の命婦肥後の來女や交らひつらむ」など心もえずいひしらふ。御かへり奉りたれば宮には女房つどひて見めでけり。

 「逢はぬ夜をへだつる中の衣手にかさねていとゞ見もし見よとや」。白き紙に捨て書い給へるしもぞなかなかをかしげなる。つごもりの日夕の方、かの御ころもばこに御料とて人の奉れる御ぞひとぐえびそめの織物の御ぞ又山吹か何ぞいろいろ見えて命婦ぞ奉りたる。ありし色あひをわろしとや見給ひけむと思ひ知らるれど、「かれはた紅の重々しかりしをや。さりとも消えじ」とねび人どもは定むる。「御歌もこれよりのはことわり聞えてしたゝかにこそあれ。御かへりは唯をかしき方にこそ」など口々にいふ。姬君もおぼろげならでしいで給へるわざなれば物に書きつけて置き給へりけり。ついたちのほど過ぎて、今年をとこ蹈歌あるべければ、例の所々遊びのゝしり給ふに、物さわがしけれどさびしき所のあはれにおぼしやらるれば、七日の日の節會はてゝ夜に入りて御前よりまかで給ひけるを、御とのゐ所にやがてとまり給ひぬるやうにて夜ふかして坐したり。例の有樣よりはけはひうちそよめき世づいたり。君も少したをやぎ給へる氣色もてつけ給へり。いかにぞ、改めてひきかへたらむ時とぞ覺し續けらるゝ。日さし出づる程にやすらひなして出で給ふ。ひんがしの妻戶押しあけたれば、向ひたる廊の上もなくあばれたれば、日のあしほどなくさし入りて雪少し降りたる光にいとけざやかに見入れらる。御直衣など奉るを見出して少しさし出でゝ、傍らふし給へる頭つきこぼれ出でるほどいとめでたし。生ひなほりを見出でたらむ時とおぼされて格子引きあげ給へり。いとほしかりしものごりに上げもはて給はで脇息をおしよせてうちかけて、御びんぐきのしどけなきをつくろひ給ふ。わりなうふるめきたるきやうだい、からくしげ、かゝげのはこなど取り出でたり。さすがに男の御具さへほのぼのあるをざれてをかしと見給ふ。女の御さう束今日はよづきたりと見ゆるは、ありし筥の心ばへをさながらなりけり。さもおぼしよらずけうある紋つきてしるき上着ばかりぞ怪しとは覺しける。「今年だに聲少し聞かせ給へかし。待たるゝものはさし置かれて御氣色の改まらむなむゆかしき」とのたまへば、「さへづる春は」と辛うじてわなゝかし出でたり。「さりや、年經ぬるしるしよ」とうち笑ひ給ひて、「夢かとぞ見る」とうちすじて出でたまふを見送りて添ひ臥し給へり。口おほひのそばめより猶かの末摘む花いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやとおぼさる。二條の院におはしたれば紫の君いとも美くしき片おひにて、紅はかう懷かしきもありけりと見ゆるに、無紋の櫻の細長なよゝかに着なして何心もなくて物し給ふさまいみじうらうたし。古代のおばぎみの御なごりにて齒ぐろめもまだしかりけるを引き繕はせ給へれば、眉のけざやかになりたるも美くしう淸らなり。心からなどかかう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものをも見てゐたらでとおぼしつゝ例の諸共にひゝな遊びし給ふ。繪など書きて色どり給ふ。萬にをかしうすさび散し給ひけり。我も書き添へ給ふ。髮いと長き女を書き給ひて、鼻にべにをつけて見給ふに、かたに書きても見まうきさましたり。我が御かげのきやうだいにうつれるがいと淸らなるを見給ひて、手づからこのあかはなをかきつけにほはして見給ふに、かくよき顏だにさて交れらむは見苦しかるべかりけり。姬君見ていみじく笑ひ給ふ。「まろがかくかたはになりなむ時いかならむ」とのたまへば、「うたてこそあらめ」とてさもやしみつかむと危く思ひ給へり。空のごひをして「更にことそしろまね。ようなきすさびなりや。內にいかにのたまはむとすらむ」といとまめやかにのたまふを、いといとほしとおぼして寄りてのごひ給へば、「へいちうがやうにいろどり添へたまふを、あかゝらむはあえなむ」とたはぶれ給ふさまいとをかしきいもせと見えたまへり。日のいとうらゝかなるにいつしかとかすみわたれるこずゑどもの心もとなき中にも、梅はけしきばみほゝゑみわたれる、とりわきて見ゆ。はしがくしのもとの紅梅いと疾く咲く花にて色づきにけり。

 「紅の花ぞあやなくうとまるゝ梅のたち枝はなつかしけれど。いでや」とあいなくうちうめかれ給ふ。かゝる人々の末々いかなりけむ。


紅葉賀

すざく院の行幸はかみなつきの十日あまりなり。よのつねならずおもしろかるべきたびの事なりければ、御方々物見給はぬことを口惜しがり給ふ。上も藤壺の見給はざらむを飽かずおぼさるれば、試がくを御まへにてせさせ給ふ。源氏の中將は靑海波をぞ舞ひ給ひける。片手にば大殿の頭中將かたち用意人には異なるを、立ち並びては花の傍の深山木なり。入方の日影さやかにさしたるに樂の聲まさり物のおもしろき程に同じ舞のあしぶみおももち世に見えぬさまなり。えいなどし給へるは、これや佛の御迦陵嚬伽の聲ならむと聞ゆ。おもしろくあはれなるに帝淚落し給ふ。上達部皇子だちも皆泣き給ひぬ。えいはてゝ袖うちなほし給へるに、待ちとりたる樂の賑はゝしきに顏の色あひまさりて常よりもひかると見え給ふ。春宮の女御、かくめでたきにつけてもたゞならずおぼして、「神など空にめでつべきかたちかな。うたてゆゝし」とのたまふを、若き女房などは心うしと耳留めけり。藤壺はおほけなき心なからましかばましてめでたく見えましと思すに、夢の心地なむし給ひける。宮はやがて御とのゐなりけり。「今日の試樂は靑海波に事皆つきぬ。いかゞ見給ひつる」と聞え給へばあいなう御いらへ聞えにくゝて、「殊に侍りつ」どばかり聞え給ふ。「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま手づかひなむ家の子はことなる。この世に名を得たる舞の師のをのこどもゝ實にいとかしこけれど、こゝしうなまめいたるすぢをえなむ見せぬ。試の日かく盡しつれば紅葉の影やさうざうしくと思へど見せ奉らむの心にて用意せさせつる」など聞え給ふ。つとめて中將の君「いかに御覽じけむ。世に知らぬみだり心地ながらこそ。

  物思ふに立ちまふべくもあらぬ身の袖うちふりしこゝろしりきや。あなかしこ」とある御かへり、目もあやなりし御さまかたちに見給ひ忍ばれずやありけむ、

 「から人の袖ふることは遠けれど立ゐにつけてあはれとは見き。大方には」とあるを、限なうめづらしうかやうの方さへたどたどしからずひとのみかどまでおもほしやれる御后言葉のかねてもとほゝゑまれて、持經のやうに廣げて見居給へり。

行幸にはみこたちなど世に殘る人なく仕うまつり給へり。春宮もおはします。例の樂の船ども漕ぎ廻りて唐土高麗とつくしたる舞どもくさおほかり。樂の聲つゞみの音世をひゞかす。一日の源氏の御夕影ゆゝしうおぼされて、みず經など所々にせさせ給ふをことわりとあはれがり聞ゆるに、春宮の女御はあながちなりと憎み聞え給ふ。かいしろなど、殿上人ぢげも心殊なりと世の人に思はれたるいうそくの限り整へさせ給へり。宰相二人、左衞門督、右衞門督、左右の樂の事を行ふ。舞の師どもなど世になべてならぬをとりつゝ、おのおの籠り居てなむ習ひける。こだかき紅葉のかげに四十人のかいしろ、いひしらず吹き立てたる物のねどもにあひたる松風まことのみ山おろしと聞えて、吹きまよひいろいろに散りかふ木の葉の中より、靑海波の輝き出でたるさま、いと恐しきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう散りすきて顏のにほひにけおされたる心地すれば、おまへなる菊を折りて左大將さしかへ給ふ。日暮れかゝるほどに氣色ばかりうちしぐれて空の氣色さへ見知みがほなるに、さるいみじき姿に菊のいろいろうつろひえならぬをかざして、今日はまたなき手を盡したる入綾のほどそゞろ寒くこの世の事とも覺えず。物見知るまじきしも人などのこのもと岩がくれ山の木の葉にうづもれたるさへ少し物の心知るは淚落しけり。じようきやう殿の御腹の四のみ子まだわらはにて秋風樂舞ひ給へるなむさしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの盡きにければ異事に目もうつらず、かへりてはことざましにやありけむ。その夜源氏の中將正三位し給ふ。頭中將じやうげの加階し給ふ。上達部は皆さるべき限のよろこびし給ふもこの君に引かれ給へるなれば、人の目をも驚かし心をも悅ばせ給ふ。昔の世ゆかしげなり。宮はその頃まかで給ひぬれば例のひまもやと窺ひありき給ふを事にておほい殿にはさわがれ給ふ。いとゞかの若草尋ね取り給ひてしを、「二條院には人迎へ給へり」と人の聞えければ、いと心づきなしとおぼいたり。「うちうちの有樣は知り給はずさもおぼさむはことわりなれど、心うつくしう例の人のやうに怨みのたまはゞ我もうらなくうち語りて慰め聞えてむものを、思はずにのみとりない給ふみ心づきなきに、さもあるまじきすさび事も出で來るぞかし、人の御有樣のかたほにその事の飽かぬとおぼゆる疵もなし、人よりさきに見そめてしかばあはれにやんごとなきかたに思ひ聞ゆる心をも知り給はぬ程こそあらめ、遂にはおぼし直されなむと、おだしくかるがるしからぬみ心の程もおのづからとたのまるゝ方は異なりけり。

幼き人は見つい給ふまゝにいとよき心ざまかたちにて何心もなくむつれまとはし聞え給ふ。暫し殿の內の人にも誰と知せじとおぼして、猶離れたる對に御しつらひになくして、我も明暮入りおはして萬の御事どもを敎へ聞え給ふ。手本書きて習はせなどしつゝ、唯ほかなりける御むすめを迎へ給へらむやうにぞおぼしたる。まん所けいしなどを初め、ことにわかちて心もとなからず仕うまつらせ給ふ。惟光より外の人は覺束なくのみ思ひ聞えたり。かの父宮もえ知り聞え給はざりけり。姬君は猶時々思ひ出で聞え給ふ時は、尼君を戀ひ聞え給ふをり多かり。君のおはするほどは紛はし給ふを、夜などは時々こそとまり給へ。此所彼所の御いとまなくて暮るれば出で給ふを慕ひ聞え給ふ祈などあるを、いとらうたく思ひ聞え給へり。二三日うちに侍らひ大殿にもおはするをりはいといたくくしなどし給へば、心苦しうて、母なき子もたらむ心地してありきもしづ心なくおぼえ給ふ。僧都はかくなむと聞き給ひてあやしきものから嬉しとなむおぼしける。かの御法事などし給ふにもいかめしうとぶらひ聞え給へり。

藤壺のまかで給へる三條の宮に御有樣もゆかしうて參り給へれば、命婦中納言の君中務などやうの人々たいめんしたり。けざやかにもてなし給ふかなと安からず思へど、しづめて大方の御物語聞え給ふ程に兵部卿の宮參り給へり。この君おはすと聞き給ひてたいめんし給へり。いとよしあるさまして色めかしうなよび給へるを、女にて見むはをかしかりぬべく人知れず見奉り給ふにも方々むつましうおぼえ給ひて、こまやかに御物語など聞え給ふ。宮もこの御さまの常より殊に懷しううちとけ給へるをいとめでたしと見奉り給ひて、婿よなどはおぼしよらで女にて見ばやと色めきたる御心にはおもほす。暮れぬれば御簾の內に入り給ふをうらやましく、昔は上の御もてなしにいとけ近く人づてならで物をも聞え給ひしを、こよなう疎み給へるもつらくおぼゆるぞわりなきや。「しばしばも侍ふべけれど事ぞとも侍らぬ程はおのづから怠り侍るを、さるべき事などは仰事も侍らむこそ嬉しく」などすぐすぐしうて出で給ひぬ。命婦もたばかり聞えむ方なく、宮のみ氣色もありしよりはいとゞうきふしにおぼしおきて心解けぬ御氣色も耻しういとほしければ、何のしるしもなくて過ぎ行く。はかなの契りやと思し亂るゝ事かたみに盡きせず。

少納言は、覺えずをかしき世をも見るかな、これも故尼上のこの御事をおぼして御行にも祈り聞え給ひし佛の御驗にやとおぼゆ。おほい殿いとやんごとなくておはし此所彼所あまたかゝづらひ給ふをぞ、誠におとなび給はむほどにはむつかしき事もやとおぼえける。されどかくとりわき思ひ給へる御おぼえの程はいとたのもしげなりかし。御ぶく母方は三月こそはとてつごもりには脫がせ奉り給ふを、又親もなくて生ひ出で給ひしかば、まばゆき色にはあらでくれなゐ紫山吹のぢのかぎり織れる御小袿などを着給へるさまいみじう今めかしうをかしげなり。男君は朝拜に參り給ふとてさしのぞき給へり。「今日よりはおとなしくなり給へりや」とてうちゑみ給へるいとめでたう愛敬づき給へり。いつしかひゝなおしすゑてそゝき居給へり。三尺のみづし一よろひに品々しつらひすゑて又小き屋ども作り集めて奉り給へるを、所せきまで遊び廣げ給へり。「なやらふとていぬきがこれをこぼち侍りにければ繕ひ侍るぞ」とていとだいじとおぼいたり。「げにいと心なき人のしわざにも侍るかな。今つくろはせ侍らむ。今日はこといみして、な泣い給ひそ」とて出で給ふ氣色いと所せきを、人々はしに出でゝ見奉れば、姬君も立ち出でゝ見奉り給ひて、ひゝなの中の源氏の君繕ひたてゝうちに參らせなどし給ふ。「今年だに少しおとなびさせ給へ。とをにあまりぬる人はひゝな遊は忌み侍るものを、かく御をとこなど儲け奉り給ひてはあるべかしうしめやかにこそ見え奉らせ給はめ。みぐしまゐる程をだに物うくせさせ給ふ」など少納言聞ゆ。御遊にのみ心入れ給へれば耻しと思はせ奉らむとていへば、心の中に我はさはをとこまうけてけり、この人々のをことてあるは醜くこそあれ、我はかくをかしげに若き人をももたりけるかなと今ぞおぼし知りける。さはいへど御年の數そふしるしなめりかし。かく幼き御けはひの事に觸れてしるければ殿の內の人々も怪しと思ひけれど、いとかう世づかぬ御そひぶしならむとは思はざりけり。うちより大とのにまかで給へり。例のうるはしうよそほしき御さまにて心美しき御氣色もなく苦しければ「今年よりだに少し世づきて改め給ふ御心見えばいかに嬉しからむ」など聞え給へど、わざと人すゑてかしづき給ふと聞き給ひしよりはやんごとなくおぼし定めたることにこそはと心のみ置かれていとゞ踈く耻しくおぼさるべし。强ひて見知らぬやうにもてなして、亂れたる御けはひにはえしも心强からず御いらへなどうち聞え給へるは猶人よりはことなり。四年ばかりがこのかみにおはすれば、うち過ぐしはづかしげに盛にとゝのほりて見え給ふ。何事かはこの人の飽かぬ所は物し給ふ、我心のあまりけしからぬすさびにかく怨みられ奉るぞかしとおぼし知らる。同じだいじんと聞ゆるにもおぼえやんごとなくおはするが宮腹に一人いつきかしづき給ふ御心おごりいとこよなくて、少しもおろかなるをばめざましと思ひ聞え給へるを、男君はなどかいとさしもとならばひ給ふ御心のへだてともなるべし。おとゞもかくたのもしげなき御心をつらしと思ひ聞え給ひながら、見奉り給ふ時は怨みも忘れてかしづきいとなみ聞え給ふ。つとめて出で給ふ所にさし覗き給ひて御裝束し給ふに、名高き御帶手づから持たせてわたり給ひて、御ぞの御うしろひきつくろひなど御くつを取らぬばかりにし給ふ。いとあはれなり。「これは內宴などいふ事も侍るなるをさやうの折にこそ」など聞え給へど、「それはまされるも侍り。これは唯目馴れぬさまなればなむ」とてしひてさゝせ奉り給ふ。げに萬にかしづき立てゝも見奉り給ふに生けるかひあり、たまさかにてもかゝらむ人を出し入れて見むにますことあらじと見え給ふ。

參座しにとてもあまた所もありき給はず、內、春宮、一院ばかり、さては藤壺の三條の宮にぞ參り給へる。「今日はまたことにも見え給ふかな。ねび給ふまゝにゆゝしきまでなりまさり給ふ御有樣かな」と人々めで聞ゆるを、宮は御几帳のひまよりほの見給ふにつけてもおもほす事繁かりけり。この御事のしはすも過ぎにしが心もとなきに、この月はさりともと宮人も待ち聞え內にもさる御心設けどもあるに、つれなくて立ちぬ。御ものゝけにやと世の人も聞えさわぐを、宮いと侘しうこの事により身の徒らになりぬべき事と覺し歎くに御心地もいと苦しくて惱み給ふ。中將の君はいとゞ思ひ合せてみずほふなど〈わ脫歟〉ざとはなくて所々にせさせ給ふ。世の中の定なきにつけてもかくはかなくてや止みなむと取り集めて歎き給ふに、二月の十日あまりの程に男みこ生れ給ひぬれば、名殘なく內にも宮人も喜び聞え給ふ。命長くもとおもほすは心憂けれど、弘徽殿などのうけはしげにの給ふと聞きしを、空しく聞きなし給はましかば人笑はれにやとおぼし强りてなむ、やうやう少しづゝさはやい給ひける。上のいつしかとゆかしげにおぼし召したる事かぎりなし。かの人知れぬ御心にもいみじう心もとなくて人まに參り給ひて、「上の覺束ながり聞えさせ給ふをまづ見奉りて奏し侍らむ」と聞え給へど、むつかしげなる程なればとて見せ奉り給はぬもことわりなり。さるはいとあさましう珍らかなるまで寫し取り給へるさまたがふべくもあらず。宮の御心の鬼にいと苦しう人の見奉るも怪しかりつる程のあやまちを、まさに人の思ひ咎めじや。さらぬはかなき事をだに疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべきにかとおぼし續くるに身のみぞいと心憂き。命婦の君にたまさかにあひ給ひていみじき事どもを盡し給へど何のかひあるべきにもあらず。若宮の御事をわりなく覺束ながり聞え給へば、「などかうしもあながちにの給はすらむ。今おのづから見奉らせ給ひてむ」と聞えながら思へる氣色かたみにたゞならず。かたはらいたき事なればまほにもえの給はで、「いかならむ世に人づてならで聞えさせむ」とて泣い給ふさまぞ心ぐるしき。

 「いかさまに昔むすべるちぎりにてこの世にかゝる中のへたてぞ。かゝる事こそ心得難けれ」とのたまふ。命婦も宮のおもほし亂れたるさまなどを見奉るにえはしたなうもさし放ち聞えず。

 「見ても思ふ見ぬはたいかになげくらむこや世の人の惑ふてふやみ。あはれに心ゆるびなき御事どもかな」と忍びて聞えけり。かくのみいひやる方なくてかへり給ふものから、人の物言ひもわづらはしきを、わりなき事にのたまはせおぼして命婦をも昔おぼいたりしやうにもうちとけむつび給はず人目立つまじくなだらかにもてなし給ふものから心づきなしとおぼす時もあるべきを、いとわびしく思の外なる心地すべし。四月にうちへ參り給ふ。程よりは大きにおよすげ給ひてやうやう起きかへりなどし給ふ。あさましきまでまぎれ所なき御顏つきを、おぼしよらぬ事にしあれば又ならびなきどちはげに通ひ給へるにこそはとおもほしけり。いみじうおもほしかしづく事かぎりなし。源氏の君を限なきものにおぼし召しながら、世の人の許し聞ゆまじかりしによりて坊にもえすゑ奉らずなりにしを、飽かず口惜しう、たゞ人にてかたじけなき御有樣かたちにねびもて坐するを御覽ずるまゝに、心苦しうおぼしめすを、かうやんごとなき御腹に同じ光にてさし出で給へれば、疵なき玉とおもほしかしづくに、宮はいかなるにつけても胸のひまなく易からず物をおぼす。例の中將の君此方にて御遊などし給ふに、抱き出で奉らせ給ひて「皇子たちあまたあれどそこをのみなむかゝるほどより明暮見し。されば思ひ渡さるゝにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。ちひさきほどは皆かくのみあるわざにやあらむ」とていみじく美しと思ひ聞えさせ給へり。中將の君、おもての色かはる心地して恐しうもかたじけなくも嬉しくもあはれにも方々うつろふ心地して淚落ちぬべし。物語などしてうちゑみ給へるがいとゆゝしう美しきに、我身ながらこれに似たらむはいみじういたはしう覺え給ふぞあながちなるや。宮はわりなく傍痛きに汗も流れてぞおはしける。中將はなかなかなる心地のかき亂るやうなればまかで給ひぬ。我御方に臥し給ひて胸のやるかたなきを程過ぐしておほい殿へとおぼす。おまへの前栽の何となく靑み渡れる中に床夏の華やかに咲き出でたるを折らせ給ひて、命婦の君の許に書き給ふ事多かるべし。

 「よそへつゝ見るに心はなぐさまで露けさまさるなでしこの花。花に咲かなむと思ひ給へしもかひなき世に侍りければ」とあり。さりぬべきひまにやありけむ、御覽ぜさせて「たゞ塵ばかりこの花びらに」と聞ゆるを、我御心にも物いと哀におぼし知らるゝほどにて、

 「袖ぬるゝ露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまとなでしこ」とばかりほのかに書きさしたるやうなるを喜びながら奉れる、例の事なればしるしあらじかしとくづほれて眺め臥し給へるに、胸うち騷ぎていみじう嬉しきにも淚落ちぬ。つくづくと臥したるにもやる方なき心ちすれば例のなぐさめには西の對にぞ渡り給ふ。しどけなくうちふくだみ給へるびんぐきあざれたる袿姿にて笛を懷しう吹きすさびつゝ覗き給へれば、女君、ありつる花の露にぬれたる心地して添ひ臥し給へるさま美しうらうたげなり。あいぎやうこぼるゝやうにておはしながら疾くもわたり給はぬ、なまうらめしかりければ、例ならず背き給へるなるべし。はしの方につい居て「こちや」との給へど驚かず。「入りぬるいその」と口ずさびて口おほひし給へるさま、いみじうざれてうつくし。「あなにく。かゝる事口なれ給ひにけりな。みるめにあくはまさなき事ぞよ」とて人召して御琴取りよせて彈かせ奉り給ふ。「筝の琴は中の細緖の堪へ難きこそ所せけれ」とてひやうでうに押しくだして調べ給ふ。搔き合せばかり彈きてさしやり給へれば、えゑじもはてずいと美くしう彈きたまふ。小き御程にさしやりてゆし給ふ御手つきいと美しければらうたしとおぼして笛吹き鳴しつゝ敎へ給ふ。いとさとくて難き調子どもを唯一わたりに習ひとり給ふ。大方らうらうしうをかしき御心ばへを思ひし事叶ふとおぼす。ほそろぐせりといふものは名はにくけれどおもしろう吹きすまし給へるに、かきあはせまだ若けれどはうし違はず上手めきたり。おほとなぶら參りて繪どもなど御覽ずるに「出で給ふべし」とありつれば、人々こわづくり聞えて「雨降り侍りぬべし」などいふに、姬君例の心ぼそくてくし給へり。繪も見さしてうつぶしておはすれば、いとらうたくて御ぐしのいとめでたくこぼれかゝりたるをかきなでゝ、「外なる程は戀しくやある」との給へば、うなづき給ふ。「我も一日も見奉らぬはいと苦しうこそ。されど幼くおはする程は心やすく思ひ聞えてまづくねぐねしう怨むる人の心破らじと思ひてむづかしければ暫しかくもありてぞ、おとなしく見なしては外へも更にいくまじ人のうらみ負はじなど思ふも世に長うありて思ふさまに見え奉らむと思ふぞ」などこまごまと語らひ聞え給へば、さすがに耻しくてともかくもいらへ聞え給はず。やがて御膝によりかゝりて寢入り給ひぬればいと心苦しうて、「今宵は出でずなりぬ」との給へば、皆立ちておものなどこなたに參らせたり。姬君起し奉り給ひて「出でずなりぬ」と聞え給へば慰みて起き給へり。諸共にものなどまゐる。いとはかなげにすさびて、「さらば寢給ひねかし」と危ふげにおもう給へれば、かゝるを見捨てゝは、いみじき道なりとも赴き難くおぼえ給ふ。かうやうに留められ給ふ折々なども多かるをおのづから漏り聞く人おほいとのに聞えければ、「誰ならむ、いとめざましき事にもあるかな。今までその人とも聞えずさやうにまつはし戯れなどすらむはあてやかに心にくき人にはあらじ。うちわたりなどにてはかなく見給ひけむ人をものめかし給ひて、人や咎めむと隱し給ふなゝり。心なげにいはけて聞ゆるは」など侍ふ人々も聞えあへり。內にもかゝる人ありと聞しめしていとほしく「おとゞの思ひ歎かるなることも、げに物げなかりしほどを、おふなおふなかく物したる心を、さばかりの事たどらぬ程にはあらじを、などか情なくはもてなすらむ」とのたまはすれど、畏まりたるさまにて御いらへも聞え給はねば、心ゆかぬなめりといとほしくおぼしめす。「さるはすきずきしう打ち亂れてこの見ゆる女房にまれ又こなたかなたの人々などなべてならずなども見え聞えざめるを、いかなる物の隈に隱れありきてかく人にも恨みらるらむ」とのたまはす。帝の御年ねびさせ給ひぬれどかやうの方はえ過ぐさせ給はず。うねべ、によくらうどなどをもかたち心あるをば殊にもてはやしおぼしめしたれば、よしある宮仕人多かるころなり。はかなき事をも言ひふれ給ふにはもてはなるゝ事もありがたきに、目馴るゝにやあらむ、げにぞ怪しうすい給はざめると試にたはふれごとを聞えかゝりなどする折あれど、情なからぬ程にうちいらへて誠には亂れ給はぬを、まめやかにさうざうしと思ひ聞こゆる人もあり。

年いたう老いたるないしのすけ、人もやんごとなく心ばせありてあてにおぼえ高くはありながら、いみじうあだめいたる心ざまにてそなたには重からぬあるを、かうさだ過ぐるまでなどさしも亂るらむといぶかしくおぼえ給ひければ、戯ぶれ言いひふれて試み給ふに似げなくも思はざりけり。あさましと覺しながら、さすがにかゝるもをかしうて物などのたまひてけれど、人の漏り聞かむもふるめかしき程なればつれなくもてなし給へるを、女はいとつらしと思へり。上のみけづりぐしに侍ひけるをはてにければ、上はみうちきの人召して出でさせ給ひぬる程に、また人もなくてこの內侍常よりも淸げにやうだいかしらつきなまめきてさうぞくありさまいと花やかにこのましげに見ゆるを、さもふりがたうもと心づきなく見給ふものから、いかゞ思ふらむとさすがに過ぐしがたくて裳の裾を引き驚かし給へれば、かはほりのえならず畫きたるをさし隱して見かへりたるまみいたう見延べたれど、まかははいたく黑み落ち入りていみじくはづれそゝけたり。似つかはしからぬ扇のさまかなと見給ひて、我がも給へるにさし代へて見給へば、赤き紙の映るばかり色深きに木高き森のかたを塗りかくしたり。片つ方に手はいとさだすぎたれどよしなからず、「森の下草生ひぬれば」など書きすさびたるを、事しもこそあれうたての心ばへやとゑまれながら「森こそ夏のと見ゆめる」とて何くれとのたまふも似げなく人や見つけむと苦しきを女はさも思ひたらず。

 「君しこば手なれの駒にかりかはむさかり過ぎたる下葉なりとも」といふさまこよなう色めきたり。

 「さゝわけば人やとがめむいつとなく駒なつくめる森のこがくれ。煩はしさに」とて立ち給ふをひかへて、「まだかゝるものをこそ思ひ侍らね。今更なる身の耻になむ」とて泣くさまいといみじ。「今聞えむ。思ひながらぞや」とて引き放ちて出で給ふを、せめておよびて「はしばしら」と恨みかくるを、上はみ袿はてゝ御さうじの內より覗かせ給ひけり。似つかはしからぬあはひかなといとをかしうおぼしめされて、「すき心なしと常にもて惱むめるを、さはいへど過ぐさゞりけるは」とて笑はせ給へば、內侍はなままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑはぬれぎぬをだに着まほしがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひ聞えさせず。人々も「思の外なることかな」とあつかふめるを、頭中將聞きつけて至らぬ隈なき心にてまだ思ひよらざりけるよと思ふに、盡せぬこのみ心も見まほしうなりにければ語らひつきにけり。この君も人よりはいと異なるをかのつれなき人の御なぐさめにと思ひつれど、見まほしきは限りありける世とや、うたてのこのみや。いたう忍ぶれば源氏の君はえ知り給はず、見つけ聞えてはまづ恨み聞ゆるをよはひの程いとほしければ慰めむと覺せどかなはぬ物憂さにいと久しうなりにけるを、ゆふだちして名殘凉しき宵のまぎれにうんめいでんのわたりをたゝずみありき給へばこの內侍琵琶をいとをかしう彈き居たり。御まへなどにても男方の御遊にまじりなどして殊にまさる人なき上手なれば、物のうらめしう覺えける折からいと哀に聞ゆ。「うりつくりになりやしなまし」と聲はいとをかしうて謠ふぞ少し心づきなき。鄂州にありけむ昔の人もかくやをかしかりけむと耳とまりて聞き給ふ。彈き止みていといたく思ひ亂れたるけはひなり。君「あづまや」を忍びやかに謠ひて寄り居給へるに「おしひらいてきませ」とうちそへたるも例に違ひたる心地ぞする。

 「立ちぬるゝ人しもあらじあづまやにうたてもかゝる雨ぞゝぎかな」とうち歎くを我一人しも聞きおふまじけれどうとましや、何事をかくまではとおぼゆ。

 「人づまはあなわづらはしあづまやのまやのあまりも馴れじとぞ思ふ」とうちすぎなまほしけれど、あまりはしたなくやと思ひかへして人に隨へば、少しはやりかなるたはぶれごとなど言ひかはして、これも珍しき心地ぞし給ふ。頭中將はこの君のいたくまめだち過ぐして常にもどき給ふがねたきを、つれなくてうちうちに忍び給ふ方々多かめるをいかで見顯さむとのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地いとうれし。かゝる折に少しおどし聞えて御心惑はして、「こりぬや」と言はむと思ひてたゆめ聞ゆ。風冷やかにうち吹きてやゝ更け行く程に、少しまどろむにやと見ゆる氣色なればやをら入りけるに、君は解けてしも寢給はぬこゝろなればふと聞きつけて、この中將とは思ひよらず、なほ忘れ難くすなるすりのかみにこそあらめとおぼすに、おとなおとなしき人にかく似げなきふるまひをして見つけられむことは耻しければ、「あなわづらはし出でなむよ。くものふるまひはしるかりつらむものを心憂くすかし給ひけるよ」とて直衣ばかりを取りて屛風の後に入り給ひぬ。中將をかしきを念じて引きたて給へる屛風のもとに寄りてごほごほと疊み寄せておどろおどろしう騷がすに、內侍はねびたれど痛くよしばみなよびたる人の、さきざきもかやうにて心動かす折々ありければ、ならひていみじく心あわたゞしきにも、この君をいかにしなし聞えぬるにかと侘しさに、ふるふふるふつとひかへたり。誰としられでいなばやとおぼせど、しどけなき姿にてかうぶりなどうちゆがめて走らむうしろで思ふにいとをこなるべしとおぼしやすらふ。中將いかで我としられ聞えじと思ひて、物もいはず唯いみじう怒れる氣色にもてなして太刀を引き拔けば、女「あが君あが君」と向ひて手を摺るに、ほとほと笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそさてもありけれ、五十七八の人のうちとけて物思ひ騷げるけはひ、えならぬはたちのわかうどだちの御中にてものおぢしたるいとつきなし。かうあらぬさまにもてひがめて恐しげなる氣色を見すれど、なかなかしるく見つけ給ひて、我としりて殊更にするなりけりとをこになりぬ。その人なめりと見給ふにいとをかしければ、太刀拔きたるかひなを捕へていといたう摘み給へれば妬きものからえ堪へで笑ひぬ。「まことにはうつしごゝろかとよ。戯ぶれにくしや。いでこの直衣着む」とのたまへど、つととらへて更にゆるし聞えず。「さらば諸共にもこそ」とて中將の帶を引き解きてぬがせ給へば、ぬがじとすまふをとかくひきしろふ程にほころびはほろほろと絕えぬ。中將、

 「つゝむめる名やもり出でむひきかはしかくほころぶる中の衣に。うえにとり着ばしるからむ」といふ。君、

 「かくれなきののとしるしる夏ごろもきたるをうすき心とぞ見る」といひかはしてうらやみなきしどけなき姿に引きなされて皆出で給ひぬ。君はいと口惜しく見つけられぬる事と思ひふし給へり。內侍はあさましうおぼえければ、落ちとまれる御指貫帶などつとめて奉れり。

 「恨みてもいふかひぞなきたちかさね引きてかへりし波のなごりに。そこもあらはに 」とあり。おもなのさまやと見給ふもにくけれど、わりなしと思へりしもさすがにて、

 「あらだちし波にこゝろはさわがねどよせけむ磯をいかゞ恨みぬ」とのみなむありける。帶は中將のなりけり。我が御なほしよりは色深しと見給ふにはた袖もなかりけり。怪しの事どもや、おり立ちて亂るゝ人はむべをこがましき事も多からむといとゞ御心をさめられ給ふ。中將、とのゐどころより「これまづとぢつけさせ給へ」とて押し包みておこせたるを、いかで取りつらむと心やまし。この帶をえざらましかばとおぼす。その色の紙に包みて、

 「中たえばかごとやおふとあやふさにはなだの帶はとりてだに見ず」とて遣り給ふ。立ちかへり、

 「君にかく引きとられぬる帶なればかくて絕えぬるなかとかこたむ。えのがれ給はじ」とあり。日たけておのおの殿上に參り給へり。いと靜に物遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれどおほやけごとおほく奏し下す日にていとうるはしくすこよかなるを見るもかたみにほゝゑまる。人まにさしよりて「物がくしは懲りぬらむかし」とていと妬げなる尻目なり。「などてかさしもあらむ。立ちながら歸りけむ人こそいとほしけれ。まことはうしや世の中よ」といひ合せて、「とこの山なる」とかたみに口かたむ。さてその後はともすれば事の序ごとに言ひ迎ふるくさはひなるを、いとゞ物むつかしき人ゆゑとおぼし知らるべし。女は猶いとえんに恨みかくるを侘しと思ひありき給ふ。中將は妹の君にも聞え出でず、唯さるべき折のおどしぐさにせむとぞ思ひける。やんごとなき御腹々のみこたちだに上の御もてなしのこよなきに煩はしがりていとことに去り聞え給へるを、この中將は、更に押しけたれ聞えじとはかなき事につけても思ひ挑み聞え給ふ。この君一人ぞ姬君の御ひとつはらなりける。みかどの御子といふばかりにこそあれ、我も同じだいじんと聞ゆれど御おぼえ殊なるが、みこばらにて又なくかしづかれたるは何ばかり劣るべき際と覺え給はぬなるべし。人がらもあるべきかぎり整ひて何事もあらまほしくたらひてぞ物し給ひける。この御中どものいどみこそ怪しかりしか。されどうるさくてなむ。

七月にぞきさき居給ふめりし。源氏の君宰相になり給ひぬ。みかどおり居させ給はむの御心づかひ近うなりて、このわかみやを坊にと思ひ聞えさせ給ふに御後見し給ふべき人おはせず、御母方皆みこたちにて源氏のおほやけごとしり給ふすぢならねば、母宮をだに動きなきさまにし置き奉りてつよりにとおぼすになむありける。弘徽殿いとゞ御心動き給ふ、ことなりなり。されど「春宮の御世いと近くなりぬれば疑ひなき御位なり。おもほしのどめよ」とぞ聞えさせ給ひける。「げに春宮の御母にて二十餘年になり給へる女御を置き奉りては引き越し奉り難き事なりかし」と例のやすからず世の人も聞えけり。參り給ふ夜の御供に宰相の君も仕うまつりたまふ。同じきさきと聞ゆる中にもきさいばらの皇子玉のひかりかがやきてたぐひなき御おぼえにさへ物し給へば、人もいと殊に思ひかしづき聞えたり。ましてわりなき御心にはみこしのうちも思ひやられていとゞ及びなき心地し給ふにそゞろはしきまでなむ。

 「盡きもせぬ心のやみにくるゝかな雲井に人を見るにつけても」とのみひとりごたれつゝものいとあはれなり。皇子はおよすげ給ふ月日に從ひていと見奉り分き難げなるを、宮いと苦しとおぼせど思ひよる人なきなめりかし。げにいかさまに作りかへてかは劣らぬ御有樣は世に出でものし給はまし。月日のひかりの空にかよひたるやうにぞ世の人もおもへる。


花宴

きさらぎの廿日あまり南殿の櫻の宴せさせ給ふ。きさき春宮の御局左右にして參う上り給ふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを折節ごとに安からずおぼせど、物見にはえ過ぐし給はで參り給ふ。日いと能く晴れて空の氣色鳥の聲も心地よげなるにみこたち上達部よりはじめてその道のは皆探韵給はりてふみつくり給ふ。宰相の中將春といふ文字給はれりとのたまふ聲さへ例の人に異なり。次に頭中將、人のめうつしもたゞならず覺ゆべかめれといとめやすくもて靜めてこわづかひなど物々しくすぐれたり。さての人々は皆隱しがちに鼻白ろめる多かり。地下のもんにんはまして帝春宮の御ざえかしこくすぐれておはします。かゝる方にやんごとなき人多くものし給ふ頃なるにはづかしくて遙々と曇なき庭に立ち出づる程はしたなくて易き事なれど苦しげなり。年老いたる博士どもの、なりあやしく窶れて例なれたるも哀れにさまざま御覽ずるなむをかしかりける。がくどもなどは更にもいはずとゝのへさせ給へり。やうやういり日になるほどに春の鶯囀るといふ舞いと面白く見ゆるに源氏の御紅葉の賀の折おぼし出でられて、春宮かざし給はせてせちに責めの給はするに遁れがたくて、立ちてのどかに袖かへす所をひとをれ氣色ばかり舞ひ給へるに似るべきものなく見ゆ。左のおとゞうらめしさも忘れて淚落し給ふ。「頭中將いづら、遲し」とあれば、柳花苑といふ舞を、これは今少しうち過ぐしてかゝる事もやと心づかひしけむ、いとおもしろければ、御ぞ賜はりていと珍しきことに人思へり。上達部皆亂れて舞ひ給へど夜に入りては殊にけじめも見えず、ふみなど講ずるにも源氏の君の御をば講師もえ讀みやらず、句ごとにずじのゝしる博士どもの心にもいみじう思へり。かうやうの折にも、まづこの君を光にし給へば帝もいかでかおろかにおぼされむ。中宮御目のとまるにつけて、春宮の女御のあながちに憎み給ふらむもあやしうわがかう思ふも心うしとみづからおぼしかへされける。

 「大かたに花のすがたを見ましかばつゆも心のおかれましやは」、御心の中なりけむ事いかで漏りにけむ。夜いたう更けてなむ事はてける。上達部おのおのあがれきさき春宮還らせ給ひぬればのどやになりぬるに月ひと明うさしいでゝをかしきを源氏の君ゑひ心地に見過ぐし難く覺え給ひければ、上の人々もうち休みてかやうに思ひかけぬ程に、もしさりぬべきひまもやあると藤壺わたりをわりなう忍びて窺ひありけど語らふべき戶口もさしてければうち歎きて猶あらじに弘徽殿の細殿に立ち寄り給へれば、三の口あきたり。女御は上の御局にやがて參う上り給ひにければ、人ずくななるけはひなり。奧のくるゝ戶もあきて人音もせず。かやうにて世の中のあやまちはするぞかしと思ひてやをら昇りて覗き給ふ。人は皆寢たるべし。いと若うをかしげなる聲のなべての人とは聞えぬ「朧月夜に似るものぞなき」とうちずじてこなたざまに來るものか。いと嬉しくてふと袖をとらへ給ふ。女恐ろしと思へる氣色にて「あなむくつけ、こはたぞ」との給へど、「何かうとましき」とて、

 「深き夜の哀をしるも入月のおぼろけならぬ契とぞ思ふ」とてやをら抱きおろして、戶は押したてつ。淺ましきにあきれたるさまいと懷しうをかしげなり。わなゝくわなゝく「こゝに人の」とのたまへど「まろは皆人にゆるされたれば、召し寄せたりともなでうことかあらむ。たゞ忍びてこそ」とのたまふ聲に、この君なりけりと聞き定めて聊か慰めけり。わびしと思へるものからなさけなくこはごはしうは見えじと思へり。ゑひ心地や例ならざりけむ、許さむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて强き心も知らぬなるべし。らうたしと見給ふに程なく明け行けば心あわたゞし。女はましてさまざまに思ひ亂れたる氣色なり。「猶名のりし給へ。いかでか聞ゆべき。かうで止みなむとはさりともおぼされじ」などのたまへば、

 「うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をばとはじとや思ふ」といふさま艷になまめきたり。「ことわりや聞えたがへたるもしかな」とて、

 「いづれぞと露のやどりをわかむまにこざゝが原に風もこそふけ。煩はしうおぼすことならずは何かつゝまむ。若しすかい給ふか」ともえいひあへず人々起きさわぎ上の御局に參りちがふけしきどもしげくまよへば、いとわりなくて、扇ばかりをしるしに取り替へて出で給ひぬ。桐壺には人々多くさぶらひて、驚きたるもあればかゝるをさもたゆみなき御しのびありきかなとつきじろひつゝそらねをぞしあへる。入り給ひて臥し給へれどねいられず。をかしかりつる人のさまかな、女御の御おとうとたちにこそはあらめ、まだ世に馴れぬは五六の君ならむかし、そちの宮の北の方、頭中將のすさめぬ四の君などこそよしと聞きしか、なかなかそれならましかば今少しをかしからまし、六は春宮に奉らむと志し給へるをいとほしうもあるべいかな、煩はしう尋ねむ程もまぎらはし、さて絕えなむとは思はぬ氣色なりつるを、いかなればこと通はすべきさまを敎へずなりぬらむなど萬に思ふも心のとまるなるべし。かやうなるにつけてもまづかのわたりの有樣のこよなう奧まりたるはやとあり難う思ひ比べられ給ふ。その日ば後宴の事ありて紛れ暮し給ひつ。箏の琴仕う奉り給ふ。昨日の事よりもなまめかしう面白し。藤壺は曉に參う上り給ひにけり。かの有明出でやしぬらむと心もそらにて、思ひ至らぬ隈なき良淸惟光をつけて窺はせ給ひければ、御まへよりまかで給ひけるほどに「只今北の陣より隱れ立ちて侍りつる車ども罷り出づる。御かたがたの里人侍りつる中に四位少將右中辨など急ぎ出でゝ送りし侍りつるや、弘徽殿の御あがれならむと見給へつる。けしうはあらぬけはひどもしるくてい車三つばかり侍りつ」と聞ゆるにも胸うちつぶれ給ふ。いかにしていづれと知らむ、ちゝおとゞなど聞きてことごとしうもてなされむもいかにぞや、まだ人のありさま能く見定めぬ程は煩はしかるべし、さりとて知らであらむはたいと口惜しかるべければ、如何にせましとおぼし煩ひてつくづくとながめふし給へり。姬君いかに徒然ならむ、日頃になればくしてやあらむとらうたく思しやる。かのしるしの扇は櫻の三重がさねにて濃きかたに霞める月をかきて水にうつしたる心ばへ目馴れたれどゆえなつしうもてならしたり。草の原をばといひしさまのみ心にかゝり給へば、

 「世に知らぬ心地こそすれありあけの月のゆくへを空にまがへて」と書きつけ給ひて置き給へり。

おほい殿にも久しうなりにけるとおぼせど若君も心苦しければこしらへむとおぼして、二條院へ坐しぬ。見るまゝにいと美しげに生ひなりてあいぎやうづきらうらうしき心ばへいと異なり。飽かぬ所なう我が御心のまゝに敎へなさむと覺すにかなひぬべし。男の御をしへなれば少し人馴れたる事やまじらむと思ふこそうしろめたけれ。日ごろの御物語御琴など敎へ暮して出で給ふを、例のと口惜しう覺せど、今はいとよう習はされてわりなくは慕ひまつはさず。おほい殿には例のふともたいめんし給はず徒然とよろづ思しめぐらされて箏の御琴まさぐりて「やはらかにぬる夜はなくて」と謠ひ給ふ。おとゞ渡り給ひて一日の興ありし事聞え給ふ。「こゝらの齡にてめいわうの御代四代をなむ見侍りぬれどこの度のうにふみどもきやうざくに、まひがくものゝねどもとゝのほりて齡延ぶることなむ侍らざりつる。道々の物の上手ども多かる頃ほひ委しうしろしめしとゝのへさせ給へるけなり。翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむし侍りし」と聞え給へば、「殊にとゝのへ行ふ事も侍らず。唯公事にそしうなる物の師どもをこゝかしこ尋ね侍りしなり。萬の事よりは柳花苑誠にこうたいの例ともなりぬべく見給へしに、ましてさかゆく春に立ち出でさせ給へらましかば、世のめいぼくにや侍らまし」と聞え給ふ。辨、中將など參りあひて高欄に背中おしつゝとりどりに物の音ども調べ合せて遊び給ふ、いとおもしろし。かの有明の君ははかなかりし夢を思し出でゝいと物なげかしうながめ給ふ。春宮には卯月ばかりとおぼし定めたればいとわりなう思し亂れたるを、をとこ君も尋ね給はむに跡はかなくはあらねど孰れとも知らで殊にゆるし給はぬあたりにかゝづらはむも人わろく思ひわづらひ給ふに、三月の二十餘日みぎのおとゞの弓のけちに上達部みこたち多くつどへ給ひてやがて藤の花の宴し給ふ。花盛は過ぎにたるを、外の散りなむとや敎へられたりけむ、後れて咲く櫻二木ぞいとおもしろき。新しう造り給へる殿を宮達の御裳着の日磨きしつらはれたり。華々とものし給ふ殿のやうにて何事も今めかしうもてなし給へり。源氏の君にも一日うちにて御たいめんのついでに聞え給ひしかどおはせねば口惜しう物のはえなしとおぼして御子の四位少將を奉りたまふ。

 「わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君をまたまし」內におはする程にて上に奏し給ふ。「したり顏なりや」と笑はせ給ひて「わざとあめるを、早うものせよかし。をんなみこたちなども生ひ出づる所なればなべてのさまには思ふまじきを」などの給はす。御よそひなど引きつくろひ給ひて痛う暮るゝ程にまたれてぞ渡り給ふ。櫻の唐のきの御直衣、葡萄染のしたがさね尻いと長く引きて、皆人はうへのきぬなるに、あざれたるおほぎみ姿のなまめきたるにていつかれ入り給へる御ざまげにいとことなり。花の匂もけおされてなかなかことざましになむ。遊などいとおもしろうし給ひて夜少し更け行くほどに源氏の君いたう醉ひなやめるさまにもてなし給ひまぎれ立ち給ひぬ。寢殿に女一の宮、女三の宮のおはしますひんがしの戶口におはして寄り居給へり。藤はこなたのつまに當りてあれば、御格子ども上げわたして人々出で居たり。袖口など蹈歌の折おぼえてことさらめきもて出でたるを、ふさはしからずまづ藤壺わたりをおぼし出でらる。「惱ましきにいと痛う强ひられてわびにて侍り。かしこけれどこの御まへにこそは蔭にも隱させ給はめ」とて妻戶の御簾を引き着給へば「あな煩はし。よからぬ人こそやんごとなきゆかりはかこち待るなれ」といふ氣色を見給ふに、おもおもしうはあらねどおしなべてのわかうどゞもにはあらず。あてにをかしきけはひしるし。そらだきものいとけぶたうくゆりてきぬのおとなひいと華やかにうちふるまひなして、心にくゝ奧まりたるけはひは立ち後れいまめかしき事を好みたるわたりにて、やんごとなき御かたがた物見給ふとてこの戶口はしめ給へるなるべし。さしもあるまじき事なれど、さすがにをかしうおぼされていづれならむと胸うち潰れて「扇を取られてからきめを見る」とうちおほどけたる聲にいひなして寄り居給へり。「怪しうもさまかへたるこまうどかな」といらふるは、心知らぬにやあらむ。いらへはせで、唯時々うち歎くけはひするかたに、よりかゝりて、几帳ごしに手をとらへて、

 「あづさ弓いるさの山にまどふかなほのみし月のかげや見ゆると。何故か」と推しあてにのたまふを、えしのばぬなるべし。

  心いるかたならませばゆみはりの月なき空にまよはましやは」といふ聲たゞそれなり。いとうれしきものから。


世の中かはりて後よろづ物うくおぼされ、御身のやんごとなさも添ふにや、かるがるしき御忍びありきもつゝましうて、こゝもかしこもおぼつかなさの嘆きを重ね給ふ程にや、猶我につれなき人の御心をつきせずのみおぼしなげく。今はましてひまなく、たゞ人のやうにて添ひ坐しますを、今きさきは心やましうおぼすにや、うちにのみ侍ひ給へば、立ちならぶ人なう心安げなり。折節に隨ひては御遊などをこのましう世の響くばかりせさせ給ひつゝ今の御有樣しもめでたし。唯春宮をぞいと戀しう思ひ聞え給ふ。御後見のなきを後めたう思ひ聞えて、大將の君によろづ聞えつけ給ふも、傍痛きものから嬉しとおぼす。誠や、かの六條の御やす所の御腹の前坊の姬宮齋宮に居給ひにしかば、大將の御心ばへもいと賴もしげなきを、かく幼き御有樣の後めたさにことづけて下りやしなましと、かねてよりおぼしけり。院にもかゝることなど聞しめして「故宮のいとやんごとなくおぼし時めかし給ひしものを、かるがるしうおしなべたるさまにもてなすなるがいとほしきこと、齋宮をもこの皇子達のつらになむ思へば、いづ方につけてもおろかならざらむこそよからめ。心のすさびに任せてかくすきわざするはいと世のもどき負ひぬべき事なり」など御氣色あしければ我が御心地にもげにと思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひ給ふ。「人のため耻ぢがましき事なく、孰れをもなだらかにもてなして、女の怨な負ひそ」とのたまはするに、けしからぬ心のおほけなさを聞しめしつけたらむ時と恐しければ畏まりてまかで給ひぬ。又かく院にも聞しめしのまはするに、人の御名も我が爲もすきがましういとほしきに、いとゞやんごとなく心苦しきすぢには思ひ聞え給へどまだ顯はれてはわざともてなし聞え給はず。をんなも似げなき御年の程を耻かしうおぼして心とけ給はぬ氣色なれば、それに隨ひたるさまにもてなして院に聞しめし入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心の程をいみじうおぼし歎きけり。かゝる事を聞き給ふにも、朝顏の姬君はいかで人に似じと深うおぼせば、はかなきさまなりし御返りなどもをさをさなし。さりとて人にくゝはしたなくはもてなし給はぬ御氣色を君も猶ことなりとおぼしわたる。大殿にはかくのみ定めなき御心を心づきなしとおぼせど、あまりつゝまぬ御氣色のいふかひなければにやあらむ、深うしも怨じ聞え給はず、心苦しきさまの御心地に惱み給ひて物心ぼそげにおぼいたり。珍しう哀と思ひ聞え給ひて、嬉しきものから誰も誰もゆゝしうおぼしてさまざまの御つゝしみせさせ奉り給ふ。かやうなる程はいとゞ御心の暇なくて、おぼし怠るとはなけれどとだえ多かるべし。その頃齋院もおり居給ひてきさい腹の女三の宮居給ひぬ。帝きさきいとことに思ひ聞え給へる宮なればすぢことになり給ふをいと苦しうおぼしたれど、こと宮たちのさるべきおはせず、儀式など常のかんわざなれどいかめしうのゝしる。祭のほど限ある公事にそふこと多く、見所こよなし。人がらと見えたり。ごけいの日、上達部など數定まりて仕うまつり給ふわざなれど、おぼえことにかたちあるかぎりしたがさねの色うへの袴の紋馬鞍まで皆整へたり。とりわきたる宣旨にて大將の君も仕うまつり給ふ。かねてより物見車心づかひしけり。一條の大路所なくむくつけきまで騷ぎたり。所々の御さじき心々にしつくしたるしつらひ人の袖口さへいみじき見ものなり。大とのには、かやうの御ありきもをさをさし給はぬに御心地さへなやましければおぼしかけざりけるを、若き人々「いでや己がどち引き忍びて見侍らむこそはえなかるべけれ。おほよそ人だに今日の物見には、大將殿をこそはあやしき山がつさへ見奉らむとすれば、遠き國々よりめこを引き具しつゝ參うで來なる御覽ぜぬはいとあまりも侍るかな」といふを大宮聞しめして、「御心地もよろしきひまなり。さぶらふ人々もさうざうしげなめり」とて俄にめぐらし仰せ給うて見給ふ。日たけ行きてけしきもわざとならぬさまにて出で給へり。ひまも無う立ち渡りたるによそほしう引き續きて立ち煩ふ。よき女房車多くて、ざふざふの人なきひまを思ひ定めて皆さしのけさする中に、網代の少しなれたる、したすだれのさまなどよしばめるにいたう引き入りてほのかなる袖口裳の据かざみなど物の色いと淸らにて、殊更に窶れたるけはひしるく見ゆる車二つあり。「これは更にさやうにさしのけなどすべき御車にもあらず」と口ごはくて手觸れさせず。いづ方にも若きものども醉ひ過ぎ立ち騷ぎたる程のことはえしたゝめあへず。おとなおとなしきごぜんの人々は、「かくな」といへどえとゞめあへず。齋宮の御母御やす所、物おぼし亂るゝ慰めにもやと忍びて出で給へるなりけり。つれなしづくれどおのづから見知りぬ。「さばかりにてはさないはせそ、大將殿をぞがうけには思ひ聞ゆらむ」などいふを、その御方の人々も交れゝばいとほしと見ながら用意せむも煩はしければ、しらず顏をつくる。遂に御車ども立て續けつれば、ひとだまひの奧におしやられてものも見えず。心やましきをばさるものにて、かゝるやつれをそれと知られぬるがいみじう妬きこと限なし。榻なども皆押し折られてすゞろなる車の胴にうちかけたれば又なう人わろく悔しう、何に來つらむと思ふにかひなし。物も見で歸らむとし給へど通り出でむひまもなきに、「ことなりぬ」といへば、さすがにつらき人の御まへわたりの待たるゝも心弱しや。さゝのくまにだにあらねばにや、つれなく過ぎ給ふにつけてもなかなか御心づくしなり。げに常よりも好み整へたる車どもの、我も我もと乘りこぼれたるしたすだれのすき間どもゝさらぬがほなれとほゝゑみつゝしり目にとゞめ給ふもあり。大とのゝはしるければまめだちて渡り給ふ。御供の人々うち畏まり心ばへありつゝ渡るを押しけたれたるありさまこよなうおぼさる。

 「かげをのみみたらし川のつれなきに身のうき程ぞいとゞ知らるゝ」と淚のこぼるゝを人の見るもはしたなけれど、めもあやなる御さまかたちのいとゞしう出でばえを見ざらましかばとおぼさる。ほどほどにつけて、さうぞく人の有樣、いみじう整へたりと見ゆるなかにも上達部はいと殊なるを、ひと所の御ひかりにはおしけたれためり。大將のかりの隨身に殿上のざうなどのすることは常の事にもあらず、珍しき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の藏人のざう仕うまつれり。さらぬ御隨身どもゝ、かたち姿まばゆく整へて世にもてかしづかれ給へるさま木草も靡かぬはあるまじげなり。壺さうぞくなどいふ姿にて女ばうの賤しからぬや又尼などの世を背きけるなども仆れまろびつゝ物見に出でたるもれいはあながちなりや。あなにくと見ゆるに今日はことわりに口うちすげみて髮きこめたるあやしの者どもの手をつくりてひたひにあてつゝ見奉りあげたるも、をこがましげなる賤の夫まで己が顏のならむさまをば知らでゑみさかえたり。何とも見入れ給ふまじきえせ受領のむすめなどさへ心のかぎり盡したる車どもに乘り、さまことさらび心げさうしたるなむをかしきやうやうの見ものなりける。ましてこゝかしこに立ち忍びて通ひ給ふ所々は人知れず數ならぬ歎きまさるも多かりけり。式部卿宮さじきにてぞ見給ひける。いとまばゆきまでねび行く人のかたちかな、神などは目もこそとめ給へとゆゝしくおぼしたり。姬君は、年頃聞え渡り給ふ御心ばへの世の人に似ぬをなのめならむにてだにあり。ましてかうしもいかでと御心とまりけり。いと近くて見えむまではおぼしよらず、若き人々は聞きにくきまでめで聞えあへり。まつりの日は大殿には物見給はず。大將の君、かの御車の所あらそひをまねび聞ゆる人ありければいといとほしう憂しとおぼして、猶あたらおもりかに坐する人の、ものになさけ後れてすくすくしき所つき給へるあまりに自らはさしもおぼさゞめれど、かゝるなからひは情かはすべきものともおぼいたらぬを御心おきてに從ひて、つきづきよからぬ人のせさせたるならむかし。御やす所は心ばせのいとはづかしくよしありておはするものを、いかにおぼしうんじにけむといとほしうて參うで給へりけれど、齋宮のまだもとの宮におはしませば、榊のはゞかりにことづけて、心安くもたいめんし給はず。ことわりとはおぼしながら「なぞやかくかたみにそばそばしからで坐せよかし」とうちつぶやかれ給ふ。今日は二條院に離れおはして祭見に出で給ふ。西の對にわたり給ひて惟光に車の事仰せたり。「女房出で立つや」とのたまひて、姬君のいと美しげにつくろひ立てゝおはするを、うちゑみて見奉り給ふ。「君はいざ給へ、諸共に見むよ」とて御ぐしの常よりも淸らに見ゆるを、かきなで給ひて「久しうそぎ給はざめるを今日はよき日ならむかし」とて、曆の博士召して時問はせなどし給ふ程に「まづ女房出でね」とて童の姿どものをかしげなるを御覽ず。いとらうたげなる髮どもの裾華やかにそぎわたして浮紋のうへの袴にかゝれる程けざやかに見ゆ。「君の御ぐしは我そがむ」とて「うたて所せうもあるかな。如何におひやらむとすらむ」とそぎわづらひ給ふ。「いと長き人もひたひ髮は少し短くぞあめるをむげに後れたるすぢのなきやあまりなさけなからむ」とてそぎはてゝ「ちひろ」と祝ひ聞え給ふを、少納言哀にかたじけなしと見奉る。

 「はかりなきちひろの底のみるぶさの生ひゆく末はわれのみぞ見む」と聞え給へば、

 「千尋ともいかでか知らむさだめなくみちひる潮ののどけからぬに」とものに書きつけて坐するさま、らうらうしきものから若うをかしきをめでたしとおぼす。今日も所もなく立ちこみにけり。うま塲のおとゞのほどに立て煩ひて、「上達部の車ども多くて物騷しげなるわたりかな」と休らひ給ふに、よろしきをんな車のいたう乘りこぼれたるより扇をさし出でゝ人を招き寄せて「こゝにやは立たせ給はぬ。所さり聞えむ」と聞えたり。いかなるすき者ならむとおぼされて、所もげによきわたりなれば引き寄せさせ給ひて「いかでか得給へる所ぞとねたさになむ」とのたまへば、よしある扇のつまを折りて、

 「はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のしるしのけふを待ちける。しめのうちには」とある手をおぼし出づれば、かの源內侍のすけなりけり。あさましうふり難くも今めくかなと憎さにはしたなう、

 「かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべてあふひを」。女はづかしと思ひ聞えたり。

 「くやしくもかざしけるかな名のみして人賴めなる草葉ばかりを」と聞ゆ。人とあひ乘りてすだれをだに上げ給はぬを心やましう思ふ人多かり。一日の御ありさまの麗はしかりしに、今日はうち亂れてありき給ふかし。誰ならむ、乘り並ぶ人けしうはあらじはやと推し量り聞ゆ。挑ましからぬかざし爭ひかなと、さうざうしくおぼせど、かやうにいとおもなからぬ人はた、人あひ乘り給へるにつゝまれて、はかなき御いらへも心安く聞えむもまばゆしかし。

御息所はものをおぼし亂るゝ事年比よりも多く添ひにけり。つらき方に思ひはて給へど、今はとてふりはなれくだり給ひなむはいと心細かりぬべく、世の人ぎゝも人笑へにならむ事とおぼす。さりとて立ちとまるべくおもほしなるには、かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるもやすからず、釣する海士のうけなれやと、おきふしおぼし煩ふけにや御心地もうきたるやうにおぼされてなやましうし給ふ。大將殿には「下り給はむことをもてはなれてあるまじき事」なども妨げ聞き給はず「數ならぬ身を見ま憂くおぼし捨てむもことわりなれど今は猶いふかひなきにても、御覽じはてむや淺からぬにはあらむ」と聞えかゝづらひ給へば定め兼ね給へる御心もや慰むと立ち出で給へりしみそぎ河の荒らかりし瀨に、いとゞ萬いとうくおぼしいられたり。大殿には御ものゝけめきて痛くわづらひ給へば誰も誰もおぼし歎くに御ありきなどびんなき頃なれば二條院にも時々ぞわたり給ふ。さはいへどやんごとなき方は殊に思ひ聞え給へる人の珍しきことさへ添ひ給へる御惱なれば心苦しう思し歎きて、御修法や何やなど、我が御方にて多く行はせ給ふ。ものゝけ、いきすだまなどいふもの多く出で來てさまざまの名のりする中に、人に更にうつらず唯自らの御身につと添ひたるさまにて殊におどろおどろしう煩はし聞ゆる事もなけれど、また片時離るゝ折もなきものひとつあり。いみじきげんざどもにも從はずしうねき氣色おぼろけの物にあらずと見えたり。大將の君の御かよひ所こゝかしことおぼしあつるに、「この御やす所二條の君などばかりこそはおしなべてのさまには思したらざめれば、恨の心も深からめ」とさゝめきて物など問はせ給へどさして聞えあつることもなし。ものゝけとてもわざと深き御かたきと聞ゆるもなし。すぎにける御めのとだつ人、もしは親の御方につけつゝ傅はりたるものゝ、よわめに出で來たるなどむねむねしからず亂れ顯はるゝ。唯つくづくとねをのみ泣き給ひて折々は胸をせきあげつゝいみじう堪へ難げに惑ふわざをし給へばいかに坐すべきにかとゆゝしう悲しうおぼしあわてけり。院よりも御とぶらひひまなく御祈のことまでおぼしよらせ給ふさまのかたじけなきにつけても、いとゞ惜しげなる人の御身なり。世の中普く惜み聞ゆるを聞き給ふにも御やす所はたゞならずおぼさる。年頃はいとかくしもあらざりし御挑み心を、はたなかりし所の車爭ひに人の御心の動きにけるを、かの殿にはさまでも思しよらざりけり。かゝる御物思ひの亂れに御心地猶例ならずのみおぼさるれば、ほかにわたり給ひて御修法などせさせ給ふ。大將殿聞き給ひていかなる御心ちにかといとほしうおぼし起してわたり給へり。例ならぬたび所なればいたう忍び給ふ。心より外なるをこたりなど、罪ゆるされぬべく聞え續け給ひて惱み給ふ人の御有樣もうれへ聞え給ふ。「自らはさしも思ひ入れ侍らねど親たちのいとことごとしう思ひ惑はるゝが心苦しさにかゝる程を見過ぐさむとてなむ。萬をおぼしのどめたる御心ならばいと嬉しうなむ」など語らひ聞え給ふ。常よりも心苦しげなる御氣色をことわりに哀と見奉り給ふ。うちとけぬ朝ぼらけに出で給ふ御さまのをかしきにも猶ふり離れなむことはおぼしかへさる。やんごとなき方にいとゞ志添ひ給ふべきことも出で來にたれば一つ方におぼし靜まり給ひなむを、かやうにまち聞えつゝあらむも、心のみ盡きぬべきことなかなか物思ひの驚かさるゝ心地し給ふに御文ばかりぞ暮つ方ある。「日比少し怠るさまなりつる心地の俄にいと苦しげに侍るをえ引きよがてなむ」とあるを例のことづけと見給ふものから、

 「袖ぬるゝこひぢとかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞうき。山の井の水もことわりに」とぞある。御手は猶こゝらの人の中に勝れたりかしとうち見給ひつゝ如何にぞやもある世かな。心もかたちもとりどりに捨つべきもなくまた思ひ定むべきもなきを、苦しうおぼさる。御返りいとくらうなりにたれど、袖のみぬるゝやいかに。深からぬ御ことになむ。

 「あさみにや人はおりたつ我がかたは身もそぼつまで深きこひぢを。おぼろけにてや。この御かへりを自ら聞えさせぬ」などあり。大殿には御物のけ痛く起りていみじうわづらひ給ふ。この御いきすだま故父おとゞの御靈などいふものありと聞え給ふにつけておぼしつゞくれば、身一つのうき嘆きより外に人をあしかれなど思ふ心もなけれど、物思ふにあくがるなるたましひはさもやあらむとおぼし知らるゝ事もあり。年頃よろづに思ひ殘すことなく過ぐしつれど、かうしも碎けぬをはかなき事の折に人の思ひけち、なきものにもてなすさまなりしみそぎの後、ひと節に憂しとおぼしうかれにし心靜まり難うおぼさるゝけにや、少しもうちまどろみ給ふ夢には、かの姬君とおぼしき人のいと淸らにてある所にいきてとかくひきまさぐり、現にも似ず武くいかきひたぶる心いできてうちかなぐるなど見え給ふ事たび重なりにけり。あな心うや。實に身を捨てゝやいにけむとうつし心ならず覺え給ふ折々もあれば、さならぬことだに人の御ためにはよざまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれはいとよく言ひなしつべきたよりなりとおぼすにいと名だゝしうひたすら世になくなりて後にうらみ殘すはよのつねの事なり、それだに人の上にては罪深うゆゝしきを、うつゝの我が身ながらさるうとましき事をいひつけらるゝ宿世のうき事、すべてつれなき人に爭で心もかけ聞えじとおぼし返せど思ふも物をなり。齋宮は去年うちに入り給ふべかりしを、さまざま障る事ありてこの秋入り給ふ。ながつきにはやがて野の宮に移ろひ給ふべければ、再の御はらへのいそぎ取り重ねてあるべきに唯怪しくぼけぼけしうてつくづくと臥し惱み給ふを、宮人いみじきだいじにて御祈などさまざま仕う奉る。おどろおどろしきさまにはあらずそこはかとなく煩ひて月日を過ぐし給ふ。大將殿も常にとぶらひ聞え給へど、まさる方の痛う煩ひ給へば御心のいとまなげなり。まださるべき程にもあらずと皆人もたゆみ給へるに、俄に御氣色ありて惱み給へばいとゞしき御祈の數を盡してせさせ給へれど、例のしうねき御ものゝけひとつ更に動かず、やんごとなきけんざども珍らかなりともて惱む。さすがにいみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、「少しゆるべ給へや。大將に聞ゆべき事あり」とのたまふ。「さればよ、あるやうあらむ」とて近き御几帳のもとに入れ奉りたり。むげに限のさまに物し給ふを、聞えおかまほしきことも坐するにやとておとゞも宮も少ししぞき給へり。加持の僧ども聲しづめて法華經を讀みたるいみじうたふとし。御几帳のかたびら引き上げて見奉り給へば、いとをかしげにて御腹はいみじう高うて臥し給へるさまよそ人だに見奉らむに心亂れぬべし。まして惜しう悲しうおぼす、ことわりなり。白き御ぞに色あひいと花やかにて御ぐしいと長うこちたきを引きゆひてうちそへたるも、かうてこそらうたげになまめきたる方添ひて、をかしかりけれと見ゆ。御手を執へて、「あないみじ。心憂きめを見せ給ふかな」とて物もえ聞え給はず泣き給へば、例はいと煩はしくはづかしげなる御まみをいとたゆげに見上げてうちまもり聞え給ふに、淚のこぼるゝさまを見給ふはいかゞ哀の淺からむ。あまりいたく泣き給へば心苦しき親たちの御事をおぼし、又かく見給ふにつけて口惜しう覺え給ふにやとおぼして「何事もいと斯うなおぼし入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも必ず逢ふ瀨あなればたいめんはありなむ。おとゞ宮なども深き契ある中はめぐりても絕えざなればあひ見るほどありなむとおぼせ」と慰め給ふに、「いであらずや。身の上のいと苦しきをしばし休め給へと聞えむとてなむ。かく參り來むとも更に思はぬを物思ふ人のたましひは實にあくがるゝものになむありける」となつかしげにいひて、

 「歎きわび空にみだるゝ我がたまを結びとゞめよしたかひのつま」とのたまふ聲けはひ、その人にもあらずかはり給へり。いと怪しとおぼしめぐらすに唯かの御やす所なりけり。淺ましう人のとかくいふを、よからぬものどもの言ひ出づる事と聞きにくゝおぼしてのたまひけつを、目にみすみす世にはかゝる事こそはありけれとうとましうなりぬ。あな心うとおぼされて「かくのたまへど誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」との給へば唯それなる御有樣にあさましとはよのつねなり。人々近う參るも傍痛うおぼさる。少し御聲も靜まり給へれば、ひま坐するにやとて、宮の御湯もて寄せ給へるにかきおこされ給ひて、程なく生れ給ひぬ。嬉しと思すことかぎりなきに、人にかりうつし給へる御ものゝけどもの妬がり惑ふけはひいと物さわがしうて後の事またいと心もとなし。言ふかぎりなきぐあんどもたてさせ給ふけにや、たひらかに事成りはてぬれば、山の座主何くれとやんごとなき僧どもしたり顏に汗おしのごひつゝ急ぎまかでぬ。多くの人の心を盡しつる日比の名殘少しうちやすみて今はさりともと覺す。御修法などは、又々始めそへさせ給へどまづはけうあり。珍しき御かしづきに皆人心ゆるべり。院をはじめ奉りてみこたち上達部殘なきうぶやしなひどものめづらかにいかめしきを夜ごとに見のゝしる。男にてさへおはすればそのほどの作法賑はゝしくめでたし。かの御やす所はかゝる御有樣を聞き給ひてもたゞならず、かねてはいと危く聞えしをたひらかにもはたとうちおぼしけり。あやしう我にもあらぬ御心地をおぼし續くるに御ぞなども唯芥子のかにしみかへりたり。怪しさに御ゆするまゐり、御ぞ着かへなどし給ひて試み給へば猶同じやうにのみあれば、我が身ながらだにうとましう覺さるゝに、まして人の言ひ思はむ事など人にのたまふべき事ならねば心ひとつに思し歎くに、いとゞ御心がはりもまさり行く。大將殿は心地少しのどめてあさましかりし程のとはずがたりも心憂く思し出でられつゝ、いと程經にけるも心苦しく、またけぢかくて見奉らむにはいかにぞやうたて覺ゆべきを、人の御ためいとほしうよろづにおぼして御文ばかりぞありける。痛う煩ひ給ひし人の御名殘ゆゝしう、心ゆるびなげに誰もおぼしたればことわりにて御ありきもなし。猶いと惱ましげにのみし給へば例のさまにてもまだたいめんし給はず。若君のいとゆゝしきまで見え給ふ御有樣をいまからいとさま殊にもてかしづき聞え給ふさまおろかならず。ことあひたる心地しておとゞも嬉しういみじと思ひ聞え給へるに、唯この御心地怠りはて給はぬを心もとなくおぼせど、さばかりいみじかりし名殘にこそはとおぼして、いかでかはさのみは心をも惑はし給はむ、若君の御まみの美しさなどの春宮にいみじう似奉り給へるを見奉り給ひてもまづ戀しう思ひ出でられさせ給ふに忍び難くて、參り給はむとて「內などにもあまり久しく參り侍らねば、いぶせさに今日なむうひだちし侍るを、少しけぢかき程にて聞えさせばや。餘りおぼつかなき御心の隔かな」と怨み聞え給へれば、「げに唯偏に艷にのみあるべき事かは」とて、臥し給へる所に、おまし近う參りたれば入りて物など聞え給ふ。御いらへ時々聞え給ふも、猶いと弱げなり。されどむげになき人と思ひ聞えし御有樣をおぼし出づれば、夢の心地して、ゆゝしかりしほどの事どもなど聞え給ふついでにもかのむげに息も絕えたるやうに坐せしが引きかへしつぶつぶとのたまひし事ども思し出づるに心憂ければ「いざや聞えまほしき事いと多かれどまだいとたゆげに思しためればこそ」とて「御湯參れ」などさへあつかひ聞え給ふを、いつ習ひ給ひけむと人々哀れがり聞ゆ。いとをかしげなる人の痛う弱り傷はれてあるかなきかの氣色にて臥し給へるさまいとらうたげに苦しげなり。みぐしの亂れたるすぢもなくはらはらとかゝれる枕の程ありがたきまでに見ゆれば、年頃何事を飽かぬ事ありて思ひつらむとあやしきまでうちまもられ給ふ「院などに參りていと疾くまかでなむ。かやうにて覺束なからず見奉らばうれしかるべきを、宮のつとおはするに心なくやとつゝみて過ぐしつるも苦しきを、猶やうやう心强くおぼしなして例のおまし所にこそ。あまり若くもてなし給へば、かたへはかくて物し給ふぞ」など聞えおき給ひていと淸げにうちさうぞきて出で給ふを、常よりは目とゞめて見いだして臥し給へり。秋の司召あるべき定めにて大とのも參り給へば、君だちもいたはり望み給ふことどもありて殿の御あたり離れ給はねば皆引きつゞき出で給ひぬ。殿のうち人ずくなにしめやかなるほどに、俄かに例の御胸をせきあげていといたう惑ひ給ふ。內に御せうそこ聞え給ふ程もなく絕え入り給ひぬ。足をそらにて誰も誰もまかで給ひぬれぼ、除目の夜なりけれどかくわりなき御さはりなれば皆事破れたるやうなり。のゝしり騷ぐ程によなかばかりなれば山のざす何くれの僧たちもえさうじあへ給はず。今はさりともと思ひたゆみたりつるにあさましければ殿の內の人、ものにぞあたり惑ふ。所々の御とぶらひの使など立ちこみたれどえ聞えつがずゆすりみちていみじぎ御心惑ひどもいと恐しきまで見え給ふ。御ものゝけのたびたびとりいれ奉りしをおぼして御枕などもさながら二三日見奉り給へどやうやうかはり給ふ事どものあれば限りとおぼしはつる程誰も誰もいといみじ。大將殿は悲しきことに事を添へて世の中をいとうきものに思ししみぬれば、たゞならぬ御あたりのとふらひどもゝ心うしとのみぞなべておぼさるゝ。院におぼしなげきとぶらひ聞えさせ給ふさま、かへりておもだゝしげなるを嬉しきせもまじりておとゞは御淚のいとまなし。人の申すに隨ひていかめしきことゞもを生きやかへり給ふとさまざま殘ることなくかつ損はれ給ふ事どものあるを見る見るもつきせずおぼし惑へど、かひなくて日頃になればいかゞはせむとて鳥野邊にゐて奉るほどいみじげなる事多かり。此方彼方の御送の人ども寺々のねんぶつの僧などそこら廣き野に所もなし。院をば更にも申さずきさいの宮春宮などの御使、さらぬ所々のも參りちがひて飽かずいみじき御吊ひを聞え給ふ。おとゞはえ立ちもあがり給はず、かゝる齡の末に若く盛の子に後れ奉りて、もこよう事と耻ぢ泣き給ふをこゝらの人悲しう見奉る。よもすがらいみじうのゝしりつる儀式なれど、いともはかなき御かばねばかりを御名殘にて曉深くかへり給ふ。常の事なれど人ひとりか、あまたしも見給はぬ事なればにやたぐひなくおぼしこがれたり。八月廿日餘の有明なれば空の氣色も哀すくなからぬにおとゞのやみに暮れ惑ひ給へるさまを見給ふもことわりにいみじければ空のみながめられ給ひて、

 「のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居の哀なるかな」。殿におはしつきても露まどろまれ給はず。年比の御有樣をおぼし出でつゝなどてつひにはおのづから見直し給ひてむとのどかに思ひて等閑のすさびにつけてもつらしと覺えられ奉りけむ。世を經て疎く耻しきものに思ひて過ぎはて給ひぬるなど悔しき事多くおぼし續けらるれどかひなし。にばめる御ぞ奉れるも夢の心地して我さきだゝましかば深くそめ給はましとおぼすさへ、

 「限りあればうすゞみ衣あさけれど淚ぞ袖をふちとなしける」とてねんずし給へるさまいとゞなまめかしさまさりて經忍びやかに讀み給ひつゝ法界三昧普賢大士とうちのたまへる行ひ馴れたる法師よりはけなり。若君を見奉り給ふにも、何にしのぶのといとゞ露けゝれどかゝるかたみさへなからましかばとおぼし慰む。宮はしづみ入りてそのまゝに起き上り給はず、危げに見え給ふを、またおぼし騷ぎて御祈などせさせ給ふ。はかなく過ぎ行けば、御わざの急ぎなどせさせ給ふも、おぼしかけざりしことなればつきせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに人の親はいかゞ思ふめる。ましてことわりなり。又たぐひ坐せぬだにさうざうしくおぼしつるに、袖の上の玉の碎けたりけむよりも淺ましげなり。大將の君は二條の院にだにもあからさまにも渡り給はず、あはれに心深く思ひ歎きて行ひをまめにし給ひつゝ明し暮し給ふ。所々には御文ばかりぞ奉り給ふ。かの御やす所は齋宮の左衞門の司に入り給ひにければいとゞいつくしき御きよまはりにことづけて聞えも通ひ給はず。憂しと思ひしみにし世もなべていとはしくなり給ひてかゝるほだしだに添はざらましかば願はしきさまにもなりなましとおぼすには、まづ對の姬君さうざうしくて物し給ふらむ有樣ぞふとおぼしやらるゝ。よるはみ帳の內に一人臥し給ふに、とのゐの人々は近うめぐりてさぶらへど、傍さびしくて時しもあれとねざめがちなるに、聲すぐれたるかぎり撰びさぶらはせ給ふ。念佛の曉がたなど忍びがたし。深き秋のあはれまさりゆく、風の音身にしみけるかなとならはぬ御獨寢に明しかね給へる朝ぼらけのきりわたれるに菊の氣色ばめる枝に濃き靑にびの紙なる文つけてさしおきていにけり。今めかしうもとて見給へば御やす所の御手なり。「聞えね程はおぼし知るらむや。

  人の世をあはれときくも露けきにおくるゝ袖を思ひこそやれ。唯今の空に思ひ給へあまりてなむ」とあり。常よりも優にも書い給へるかなとさすがに置き難う見給ふものからつれなの御とぶらひやと心うし。さりとてかき絕えおとなひ聞えざらむもいとほしく人の御名の朽ちぬべき事をおぼし亂る。過ぎにし人はとてもかくてもさるべきにこそは物し給ひけめ、何にさることをさださだとけざやかに見聞きけむと、悔しきは我が御心ながら、猶えおぼし直すまじきなめりかし。齋宮の御きよまはりも煩はしくやなど、久しう思ひ煩ひ給へど、わざとある御返りなくばなさけなくやとて、紫のにばめる紙に「こよなう程經侍りにけるを思ひ給へ怠らずながら、つゝましきほどは更におぼし知るらむやとてなむ。

  とまる身も消えしもおなじ露の世に心おくらむほどぞはかなき。かつは思しけちてよかし。御覽ぜずもやとてこれにも」と聞え給へり。里に坐する程なりければ忍びて見給ひてほのめかし給へる氣色を心の鬼にしるく見給ひてさればよとおぼすもいといみじ。猶いと限なき身のうさなりけり、かやうなる聞えありて院にもいかにおぼさむ、故前坊の同じき御はらからといふ中にもいみじう思ひかはし聞えさせ給ひて、この齋宮の御事をもねんごろに聞えつけさせ給ひしかばその御かはりにもやがて見奉りあつかはむなど常にのたまはせてやがてうちずみし給へとたびたび聞えさせ給ひしをだにいとあるまじき事と思ひ離れにしを、かく心より外に若々しき物思をして遂に浮名をさへ流しはつべき事とおぼし亂るゝに猶例のさまにも坐せず。さるは大方の世につけて、心にくゝよしある聞えありて、昔より名高く物し給へば野の宮の御うつろひの程にも、をかしう今めきたる事多くしなして殿上人どもの好ましきなどは朝夕の露分けありくをその頃の役になむするなど聞き給ひても大將の君はことわりぞかし。ゆゑは飽くまでつき給へる物を、もし世の中にあきはてゝくだり給ひなばさうざうしくもあるべきかなとさすがにおぼされけり。

御法事など過ぎぬれどしやうにちまで猶籠りおはす。ならはぬ御つれづれを心苦しがり給ひて三位の中將は常に參り給ひつゝ世の中の御物語などまめやかなるをも又例の亂りがはしき事をも聞え給ひつゝ慰め聞え給ふに、かの內侍ぞうち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大將の君は「あないとほしや。おばおとゞの上ないたうかろめ給ひそ」と諫め給ふものから常にをかしとおぼしたり。かの十六夜のさやかなりし秋の事など、さらぬもさまざまのすきごとゞもをかたみに隈なく言ひ顯し給ふ。はてはては哀なる世をいひいひてうち泣きなどもし給ひけり。時雨うちして物哀なる暮つかた中將の君にび色の直衣指貫薄らかに衣がへしてをゝしくあざやかに心耻しきさまして參り給へり。君は西の妻戶の高欄に押しかゝりて霜枯の前栽見給ふ程なりけり。風荒らかに吹き時雨さとしたる程、淚も爭ふこゝちして「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」とうちひとりごちてつら杖つき給へる御さま女にては見捨てなくならむたましひ必ずとまりなむかしと色めかしき心ちにうちまもられつゝ近うつい居給へれば、しどけなう打ち亂れ給へるさまながら紐ばかりをさし直し給ふ。これは今少しこまやかなる夏の御直衣に紅のつややかなる引き重ねてやつれ給へるしも見てもあかぬ心ちぞする。中將もいとあはれなるまみにながめ給へり。

 「雨となりしぐるゝ空のうき雲をいつれのかたとわきてながめむ。ゆくへなしや」とひとりごとのやうなるを、

 「見し人の雨となりにし雲ゐさへういとゞしぐれにかきくらすころ」との給ふ御氣色も淺からぬ程しるく見ゆれば怪しう、年頃いとしもあらぬ御志を院など居立ちてのたまはせ、おとどの御もてなしも心苦しう、大宮の御かたざまにもてはなるまじきなど、方々にさしあひたればえしもふり捨て給はで物うげなる御氣色ながら、ありへたまふなめりかしといとほしう見ゆる折々ありつるを、誠にやんごとなく重き方は殊に思ひ聞え給ひけるなめりと見しるにはいよいよ口惜しうおぼさる。萬につけて光り失せぬる心地してくしいたかりけり。枯れたる下草のなかに、りんどう瞿麥などの咲き出でたるを折らせ給ひて中將の立ち給ひぬる後に若君の御乳母宰相の君して、

 「草がれのまがきに殘るなでしこを秋の形見とぞ見る。にほひ劣りてや御覽ぜらるらむ」と聞え給へり。實に何心なき御ゑみがほぞいみじううつくしき。宮は吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御淚はましてとりあへ給はず、

 「今も見てなかなか袖をくたすかなかきほ荒れにしやまとなでしこ」。猶いみじうつれづれなれば朝顏の宮に今日のあはれはさりとも見知り給ふらむと推し量らるゝ御心ばへなれば暗きほどなれど聞えたまふ。絕間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、とがなくて御覽ぜさす。空の色したる唐の紙に

 「わきてこの暮こそ袖は露けゝれ物おもふ秋はあまたへぬれど。いつも時雨は」とあり。御手などの心とゞめてかき給へる「常よりも見所ありてすぐし難きほどなり」と人々も聞え自らもおぼされければ、大內山を思やり聞えながら「えやは」とて

 「秋ぎりに立ちおくれぬと聞きしよりしぐるゝ空もいかゞとぞ思ふ」とのみほのかなる墨つきにて思ひなし心にくし。何事につけても、みまさりは難き世なめるをつらき人しもこそは哀に覺え給ふ人の御心ざまなり。つれなながらさるべき折々の哀をすぐし給はぬ、これこそかたみになさけも見えつべきわざなれ。猶ゆゑよし過ぎて人目に見ゆばかりなるはあまりの難も出できけり。對の姬君をさはおほし立てじとおぼす。徒然にて戀しと思ふらむかしと忘るゝ折なけれどたゞめおやなき子を置きたらむ心地して見ぬ程うしろめたく、いかゞ思ふらむと覺えぬぞ心やすきわざなりける。暮れはてぬればおほとなぶら近くまゐらせ給ひてさるべきかぎりの人々おまへにて物語などせさせ給ふ。中納言の君といふは年頃忍びおぼしゝかど、この御思ひのほどはなかなかさやうなるすぢにもかけ給はず、哀なる御心かなと見奉るに大方には懷かしくうち語らひ給ひて「かうこの日比ありしよりけに誰も誰もまぎるゝかたなくみなれみなれてえしも常にかゝらずば戀しからじや。いみじき事をばさるものにて唯うち思ひ廻らすこそ堪へ難き事多かりけれ」との給へばいとゞ皆泣きて「いふかひなき御事は唯かきくらす心地し侍ればさるものにて名殘なきさまにあくがれはてさせ給はむ程思ひ給ふるこそ」と聞えもやらず。あはれと見渡し給ひて「名殘なくはいかにか。いと心淺くもとりなし給ふかな。心長き人だにあらば、見はて給ひなむものを、命こそはかなけれ」とて、火をうちながめ給へる、まみのうちぬれ給へる程ぞめでたき。とりわきてらうたくし給ひし小きわらはの親どもゝなくいと心ぼそげに思へることわりに見給ひて「あてきは、今は我をこそ思ふべき人なめれ」とのたまへばいみじくなく。ほどなき衵人よりは黑く染めて黑きかざみくはざういろの袴など着たるもをかしき姿なり。「昔を忘れざらむ人は徒然を忍びてもをさなき人を見捨てず物し給へ。見し世の名殘なく人々さへかれなばたづきなさも增りぬべくなむ」など皆心長かるべき事ともをのたまへど、いでやいとゞ待遠にぞなり給はむと思ふにいとゞ心ぼそし。おほい殿は人々にきはぎはほどほどを置きつゝはかなき翫び物ども又誠にかの御かたみなるべき物などわざとならぬさまに取りなしつゝ皆くばらせ給ひけり。君はかくてのみもいかでかはつくづくと過ぐし給はむとて院へ參り給ふ。御車さし出でゝ御ぜんなど參り集るほど折しり顏なる時雨うちそゝぎて木の葉さそふ風あわたゞしう吹き拂ひたるにおまへに侍ふ人々物いとゞ心細くて少しひまありつる袖ども濕ひわたりぬ。夜さりはやがて二條院に泊り給ふべしとて、さぶらひの人々もかしこにて待ち聞えむとなるべし。おのおの立ち出づるに今日にしもとぢむまじき事なれどまたなく物悲し。おとゞも宮も今日の氣色に又悲しさ改めておぼさる。宮の御前に御せうそこ聞え給へり。「院におぼつかながりの給はするにより今日なむ參り侍る。あからさまに立ち出で侍るにつけても今日までながらへ侍りにけるよとみだり心地のみ動きてなむ。聞えさせむもなかなかにはべるべければそなたにも參り侍らね」とあればいとゞしく宮は目も見え給はず沈み入りて御かへりもえ聞え給はず。おとゞぞやがて渡り給へる。いと堪へ難げにおぼして御袖もひき放ち給はず。見奉る人々もいとかなし。大將の君は世をおぼし續くる事いとさまざまにて泣き給ふさま哀に心深きものからいとさまよくなまめき給へり。おとゞ久しうためらひ給ひて「齡のつもりにはさしもあるまじき事につけてだに淚もろなるわざに侍るを、まして干る世無う思ひ給へ惑はれ侍る。心をえのどめ侍らねば人めもいと亂りがはしく心弱きさまに侍るべければ院などにもえ參り侍らぬなり。ことのついでには、さやうに赴け奏せさせ給へ。幾何侍るまじき老の末にうち捨てられたるがつらくも侍るかな」とせめて思ひ沈めてのたまふ氣色いとわりなし。君もたびたび鼻うちかみて「後れ先立つほどのさだめなさは世のさがと見給へ知りながら、さしあたりて覺え侍る心惑ひは類あるまじきわざになむ。院にも有樣奏し侍らむに推し量らせ給ひてむ」と聞え給ふ。「さらば時雨もひまなく侍るめるを、暮れぬほどに」とそゝのかし聞え給ふ。うち見まはし給ふに御几帳のうしろさうじのあなたなどの明け通りたるなどに女房三十人ばかりおしこりて濃き薄きにび色どもを着つゝ皆いみじう心細げにてうちしほたれつゝ居集りたるをいと哀と見給ふ。「思し捨つまじき人もとまり給へれば、さりとも物のついでには立ち寄らせ給はじやなど慰め侍るを、偏に思ひやりなき女房などは今日をかぎりに思し捨つる故鄕と思ひくつして長く別れぬるかなしびよりも唯時々馴れ仕うまつる年月の名殘なかるべきを歎き侍るめるなむことわりなる。うちとけ坐します事は侍らざりつれどさりとも遂にはとあいなだのみし侍りつるをげにこそ心ぼそき夕に侍れ」とてもまた泣き給ひぬ。「いと淺はかなる人々の嘆きにも侍るなるかな。誠にいかなりともと、長閑に思ひ給へつる程は、おのづから御目かるゝ折も侍りつらむを、なかなか今は何を賴みてか怠り侍らむ。今御覽じてむ」とて出で給ふをおとゞ見送り聞え給ひて入り給へるに、御しつらひよりはじめありしに變る事もなけれどうつせみの空しき心地ぞし給ふ。御帳の前に御硯などうちちらして手習ひすて給へるを取りて目をしぼりつゝ見給ふを、若き人々は悲しき中にもほゝゑむもあるべし。哀なることゞも、からのも倭のも書きけがしつゝ、さうにもまなにも、さまざま珍しきさまに書きまぜ給へり。かしこの御手やと空を仰ぎてながめ給ふ。よそ人に見奉りなさむが惜しきなるべし。「ふるき枕ふるきふすま誰と共にか」とある所に

 「なきたまぞいとゞ悲しき寢し床のあくがれがたき心ならひに」。又「霜の花しろし」とある所に、

 「君なくてちりつもりぬるとこなつの露うち拂ひいく夜寢ぬらむ」。ひとひの花なるべし枯れてまじれり。宮に御覺ぜさせ給ひて「いふかひなき事をばさるものにてかゝる悲しきたぐひ世になくやはと思ひなしつゝ契ながゝらでかく心を惑はすべくてこそはありけめとかへりてつらくさきの世を思ひやりつゝなむさまし侍るを、唯日頃に添へて戀しさの堪へがたきと、この大將の君の今はとよそになり給はむなむ飽かずいみじく思ひ給へらるゝ。ひとひ二日も見え給はずかれがれにおはせしをだに飽かず、胸痛く思ひ侍りしを、朝夕のひかり失ひてはいかでかながらふべからむ」と、御聲もえ忍びあへ給はず泣き給ふに、御前なるおとなおとなしき人などいと悲しくてさとうちなきたる、そゞろ寒き夕のけしきなり。若き人々は所々に群れ居つゝ己がどち哀なる事ども打ち語らひて「殿のおぼしのたまはするやうに、若君を見奉りてこそは慰むべかめれと思ふもいとはかなき程の御かたみにこそ」とて、「各あからさまにまかでゝ參らむ」といふもあればかたみにわかれをしむほど己がじゝ哀なる事ども多かり。院へ參り給へれば、「いといたくおもやせにけり。さうじにて日を經るけにや」と心苦しげに思しめしてお前にて物などまゐらせ給ひてとやかくやとおぼしあつかひ聞えさせ給へるさま哀にかたじけなし。中宮の御方に參り給へれば人々珍しがり見奉る。命婦の君して「思ひつきせぬ事どもを程經るにつけてもいかに」と御消そこ聞え給へり。「常なき世は大かたにも思ふ給へしりにしを、目に近く見侍りつるに厭はしき事多く思う給へ亂れしもたびたびの御せうそこに慰め侍りてなむ。今日までも」とてさらぬ折だにある御氣色取り添へていと心苦しげなり。無紋のうへの御ぞに、にび色の御したがさね纓卷き給へるやつれ姿華やかなる御よそひよりもなまめかしさ增り給へり。「春宮にも久しう參らぬおぼつかなさ」など聞え給ひて夜更けてぞまかで給ふ。

二條院にはかたがた拂ひ磨きてをとこをんな待ち聞えたり。上臈ども皆參うのぼりてわれもわれもとさうぞきけさうじたるを見るにつけてもかの居並みくんじたりつる氣色どもぞ哀に思ひ出でられたまふ。御さう束奉りかへて、西の對に渡り給へり。ころもがへの御しつらひ曇なくあざやかに見えてよきわかうどわらはべ、なり姿めやすくとゝのへて少納言がもてなし心もとなき所なく心にくしと見給ふ。姬君いと美くしうひきつくろひておはす。「久しかりつるほどにいとこよなうこそおとなび給ひにけれ」とてちいさき御几帳ひきあげて見奉り給へばうちそばみて恥ぢらひ給へる御さま飽かぬ所なし。ほかげの御かたはら目かしらつきなど、唯かの心づくし聞ゆる人の御さま、違ふ所なくも成り行くかなと見給ふにいとうれし。近く寄り給ひて、おぼつかなかりつるほどの事どもなど聞え給ひて「日頃の物語、のどかに聞えまほしけれどいまいましう覺え侍れば暫しはことかたにやすらひて參りこむ。今はとだえなく見奉るべければ厭はしうさへや思されむ」と語らひ聞え給ふを少納言は嬉しと聞くものから猶危く思ひ聞ゆ。やんごとなき御忍び所多うかゝづらひ給へれは又わづらはしきや立ち代り給はむと思ふぞにくき心なる。我が御方に渡り給ひて中將の君といふに御あしなど參りすさびて大殿ごもりぬ。あしたには若君の御許に御文奉りたまふ。哀なる御かへりを見給ふにもつきせぬ事どものみなむ。いとつれづれにながめがちなれど何となき御ありきも物うく覺しなりておぼしも立たれず。姬君の何事もあらまほしう整ひはてゝいとめでたうのみ見え給ふを似げなからぬ程にはた見なし給へれば氣色ばみたることなど折々聞え試み給へど見も知り給はぬけしきなり。つれづれなるまゝに、唯此方にて碁うち偏づきなどし給ひつゝ日をくらしたまふに、心ばへのらうらうしうあいぎやうづきはかなきたはぶれ事の中にもうつくしきすぢをしいで給へば、おぼし放ちたる年月こそたゞさる方のらうたさのみはありつれ。忍び難くなりて心苦しけれどいかゞありけむ。人のけぢめ見奉り分くべき御中にもあらぬに男君はとく起き給ひてをんな君は更に起き給はぬあしたなり。人々いかなればかくおはしますならむ、御心地の例ならずおぼさるゝにやと見奉り歎くに、君は渡り給ふとて、御硯の箱を、御帳の內にさし入れておはしにけり。人まに辛うじて頭もたげ給へるに、引き結びたる文御枕のもとにあり。何心もなく引きあけて見給へば、

 「あやなくも隔てけるかな夜をかさねさすがになれし中の衣を」と書きすさび給へるやうなり。かゝる御心坐すらむとはかけても思しよらざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく賴もしきものに思ひ聞えけむと淺ましうおぼさる。晝つかた渡り給ひて「惱しげにし給ふらむはいかなる御心ちぞ。今日は碁もうたでさうざうしや」とてのぞき給へばいよいよ御ぞ引きかづきて臥し給へり。人々退きつゝさぶらへば寄り給ひて「などかくいぶせき御もてなしぞ。思の外に心憂くこそおはしけれな。人もいかに怪しと思ふらむ」とて御衾を引きやり給へれば汗におしひたしてひたひ髮も痛うぬれ給へり。「あなうたて、これはいとゆゝしきわざよ」とて萬にこしらへ聞え給へど、誠にいとつらしと思ひ給ひて露の御いらへもしたまはず。「よしよし更にみえ奉らじ。いと耻し」などゑじ給ひて御硯あけて見給へど物もなければわかの御心ありさまやとらうたく見奉り給ひて日一日入り居て慰め聞え給へど解けがたき御氣色いとゞらうたげなり。その夜さりゐのこのもちひ參らせたり。かゝる思の程なればことごとしきさまにはあらでこなたばかりにをかしげなるひわりごなどばかりをいろいろにて參れるを見給ひて君、みなみの方に出で給ひて惟光を召して「このもちひかう數々に所せきさまにはあらであすの暮に參らせよ。今日はいまいましき日なりけり」とうちほゝゑみてのたまふ御氣色を心ときものにてふと思ひよりぬ。惟光確にもうけたまはらで「げにあいぎやうの始はひえりして聞しめすべきことにこそ。さてもねのこはいくつか仕う奉らすべう侍らむ」とまめ立ちて申せば、「三つか一つかにてもあらむかし」とのたまふに心得はてゝ立ちぬ。物なれのさまやと君はおぼす。人にもいはで手づからといふばかり里にてぞ作り居たりける。君はこしらへわび給ひて今はじめて盜みもて來たらむ人の心地するもいとをかしくて、年頃哀と思ひ聞えつるはかたはしにもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ、今は一夜も隔てむことのわりなかるべきことゝおぼさる。のたまひしもちひ忍びていたう夜ふかしてもて參れり。少納言はおとなしくて耻しうや思さむと思ひやり深く心しらひて、むすめの辨といふを呼び出でゝ「これ忍びてまゐらせ給へ」とてかうごの箱を一つさし入れたり。「確に御まくらがみに參らすべき祝のものにはべる。あなかしこあだにな」といへばあやしと思へど「あだなる事はまだ習はぬものを」とて取れば「誠に今はさるもじいませ給へ。よもまじり侍らじ」といふ。若き人にて氣色もえ深く思ひよらねばもて參りて御まくらがみの御几帳よりさし入れたるを君ぞ例の聞え知らせ給ふらむかし。人はえしらぬにつとめてこの箱をまかでさせ給へるにぞ親しきかぎりの人々思ひ合する事どもありける。御さらどもなどいつの間にかし出でけむけそくいと淸らにしてもちひのさまもことさらびいとをかしうとゝのへたり。少納言はいとかうしもやはとこそ思ひ聞えさせつれ、哀にかたじけなくおぼし至らぬ事なき御心ばへをまづうちなかれぬ。「さてもうちうちにのたまはせよかしな。かの人もいかに思ひつらむ」とさゝめきあへり。かくて後は、內にも院にもあからさまに參り給へる程だにしづ心なくおもかげに戀しければ、あやしの心やと我ながらおぼさる。通ひ給ひし所々よりは、うらめしげに驚かし聞え給ひなどすればいとほしとおぼすもあれどにひたまくらの心苦しくて夜をや隔てむとおぼしわづらはるればいとものうくて惱しげにのみもてなし給ひて「世の中のいと憂く覺ゆるほどすぐしてなむ人にもみえ奉るべき」とのみいらへ給ひつゝ過ぐし給ふ。今きさきは御櫛匣殿の猶この大將にのみ心つけ給へるを「げにはたかくやんごとなかりつる方も失せ給ひぬるをさてもあらむになどか口をしからむ」などおとゞのたまふにいと憎しと思ひ聞え給ひて、宮仕もをさをさしくだにしなし給へらばなどかあしからむと、參らせ奉らむ事をおぼし勵む。君もおしなべてのさまにはおぼえざりしを口惜しとおぼせど、只今はことさまに分くる御心もなくて何かはかばかり短かゝめる世にかくて思ひ定まりなむ、人の恨も負ふまじかりけりといとゞ危くおもほしこりにたり。かの御やす所はいといとほしけれど誠のよるべとたのみ聞えむには必ず心おかれぬべし、年頃のやうにて見過ぐし給はゞさるべきをりふしに物聞えあはする人にてはあらむなど、さすがに殊の外には思し放たず。この姬君を今まで世の人もその人とも知り聞えぬ、ものげなきやうなり。父宮に知らせ聞えてむと覺しなりて、御裳着のこと人に普くはのたまはせねどなべてならぬさまにおぼし設くる御用意などいとありがたけれどをんな君はこよなう疎み聞え給ひて年頃よろづに賴み聞えてまつはし聞えけるこそあさましき心なりけれと、悔しうのみおぼしてさやかにも見合せ奉り給はず。聞えたはぶれ給ふも苦しうわりなきものに思しむすぼゝれてありしにもあらずなり給へる御有樣を、をかしうもいとほしうもおぼされて年頃思ひ聞えしほいなく、なれはまさらぬ御氣色の心うき事と怨み聞え給ふ程に年もかへりぬ。ついたちの日は例の院に參り給ひてぞ內、春宮などにも參り給ふ。それよりおほひ殿にまかで給へり。おとゞ新しき年ともいはず昔の御事ども聞え出で給ひてさうざうしく悲しと思すにいとかうさへ渡り給へるにつけて念じかへし給へど堪へ難くおぼしたり。御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひ給ひて、ありしよりけに淸らに見え給ふ。立ち出でゝ御方に入り給へれば人々も珍しう見奉りて忍びあへず。若君見奉り給へばこよなくおよすげて笑ひがちにおはするも哀なり。まみ口つき唯春宮の同じさまなれば人もこそ見奉り咎むれと見給ふ。御しつらひなどもかはらずみそかけの御さう束など例のやうにしかけられたるに女のがならばぬこそなべてさうざうしくはえ無けれ。宮の御消そこにて「今日はいみじく思ひ給へ忍ぶるを斯渡らせ給へるになむなかなか」など聞え給ひて「昔にならひ侍りにける御よそひも月頃はいとゞ淚にきりふたがりて色あひなく御覽ぜられ侍るらむと思ひ給ふれど、今日ばかりは猶やつれさせ給へ」とていみじくしつくし給へるものどもまた重ねて奉れ給へり。必ず今日奉るべきと思しける御したがさねは色もおりざまもよのつねならず、心ことなるをかひなくやはとて着かへ給ふ。來ざらましかば口惜しうおぼされましと心苦し。御かへりには「春やきねるともまづ御覽ぜられになむ。參りはべりつれど思ひ給へ、出でらるゝ事ども多くて、えきこえさせ侍らず。

  あまたとし今日あらためし色ごろもきては淚ぞふるこゝちする。えこそ思ひ給へしづめね」と聞え給へり。御かへり、

 「新しき年ともいはずふるものはふりぬる人のなみだなりけり」。おろかなるべきことにぞあらぬや。


賢木

齋宮の御くだり近うなり行くまゝにみやす所物心細くおもほす。やんごとなく煩はしきものにおぼえ給へりしおほい殿の君も亡せ給ひて後、さりともと世の人も聞えあつかひ宮の內にも心時めきせしを、その後しもかき絕え淺ましき御もてなしを見給ふに、誠に憂しとおぼすことこそありけめと知りはて給ひぬれば、萬のあはれをおぼしすてゝひたみちに出で立ち給ふ。親添ひて下り給ふれいも殊になけれど、いと見放ち難き御有樣なるにことつけてうき世をゆきはなれなむとおぼすに、大將の君さすがに今はとかけ離れ給ひなむも口惜しうおぼされて御せうそこばかりはあはれなるさまにて度々通ふ。たいめんし給はむことをば今更にあるまじきことと女君もおぼす。人は心づきなしと思ひ置き給ふこともあらむに、我は今少し思ひ亂るゝことの增るべきを、あいなしと心强くおぼすなるべし。もとの殿にはあからさまに渡り給ふ折々あれどいたう忍び給へば大將殿えしり給はず。たはやすく御心に任せてまうで給ふべきおほんすみかにはたあらねば覺束なくて月日も隔たりぬるに、院の上おどろおどろしきおほん惱にはあらでれいならず時々惱ませ給へば、いとゞ御心のいとまなけれどつらきものに思ひはて給ひなむもいとほしく人ぎゝなさけなくやとおぼしおこして、野の宮にまうでたまふ。なが月七日ばかりなればむげに今日明日とおぼすに、女方も心あわたゞしけれど立ちながらと度々御せうそこありければ、いでやとはおほし煩ひながらいとあまりうもれいたきをものごしばかりのたいめんはと、人知れず待ち聞え給ひけり。遙けき野邊を分け入り給ふよりいと物あはれなり。秋の花皆衰へつゝ淺茅が原も枯々なる蟲の音に松風すごく吹き合せて、そのこととも聞き分れぬ程に物の音どもたえだえ聞えたる、いと艷なり。むつまじきごぜん十餘人ばかりみ隨身ことごとしき姿ならでいたう忍び給へれど殊に引き繕ひ給へる御用意いとめでたく見え給へば、御供なるすきものども所からさへ身にしみて思へり。御心にもなどて今まで立ちならさゞりつらむと過ぎぬる方悔しうおぼさる。物はかなげなる小柴を大垣にて板屋どもあたりあたりいとかりそめなめり。黑木のとりゐどもはさすがにかうがうしく見え渡されて煩はしき氣色なるに、かんづかさの者ども此處彼處にうちしはぶきて己がどち物言ひたるけはひなども外にはさま變りて見ゆ。火燒屋幽かに光りて人げ少くしめじめとして、此處に物思はしき人の月日を隔て給へらむ程をおぼしやるにいといみじうあはれに心苦し。北の對のさるべき所に立ち隱れ給ひて、御せうそこ聞え給ふに遊は皆やめて心にくきけはひあまた聞ゆ。何くれの人傳の御せうそこばかりにて自らはたいめんし給ふべきさまにもあらねばいとものしとおぼして、「かやうのありきも今はつきなきほどになりにて侍るをおぼし知らば、かうしめのほかにはもてなし給はでいぶせう侍ることをもあきらめ侍りにしがな」とまめやかに聞え給へば、人々げにいとかたはらいたう立ち煩はせたまふに、「いとほし」などあつかひ聞ゆればいざや此處の人目も見苦しうかのおぼさむこともわかわかしう出で居むが今更につゝましきことゝおぼすに、いと物憂けれどなさけなうもてなさむにもたけからねば、とかう打ち嘆き休らひてゐざり出で給へる御けはひいと心にくし。「こなたは簀子ばかりの許されは侍るや」とて、のぼり居給へり。花やかにさし出でたる夕づく夜にうちふるまひ給へるさまにほひ似る物なくめでたし。月頃のつもりをつきづきしう聞え給はむもまばゆきほどになりにければ、榊をいさゝか折りてもたまへりけるをさし入れて「變らぬ色をしるべにてこそいがきをも越え侍りにけれ。さも心憂く」と聞え給へば、

 「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れるさかきぞ」と聞えたまへば、

 「をとめこがあたりと思へば榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」大方のけはい煩はしけれど御簾ばかりはひききてなげしにおし懸りて居給へり。心に任せて見奉りつべく人も慕ひざまにおぼしたりつる年月は長閑なりつる御心おごりにさしもおぼされざりき。又心のうちにはいかにぞや、きずありて思ひ聞え給ひにし後はたあはれもさめつゝかくおほん中も隔たりぬるを、珍しきおほんたいめんのむかしおぼえたるにあはれとおぼし亂るゝことかぎりなし。きしかた行くさきおぼし續けられて心弱く泣き給ひぬ。女はさしも見えじとおぼしつゝむめれどえ忍び給はぬ御氣色をいよいよ心苦しう猶おぼしとまるべきさまをぞ聞え給ふめる。月も入りぬるにやあはれなる空をながめつゝ怨み聞え給ふに、こゝら思ひ集め給へるつらさも消えぬべし。やうやう今はと思ひ離れ給へるに、さればよとなかなか心動きておぼし亂る。殿上の若きん達などうち連れてとかく立ち煩ふなる庭のたゝずまひもげに艷なる方にうけばりたる有樣なり。思ほし殘すことなき御中らひに聞えかはし給ふことどもまねびやらむかたなし。やうやう明け行く空の氣色殊更につくり出でたらむやうなり。

 「あかつきの別はいつも露けきをこは世に知らぬ秋のそらかな」出でがてに御手を執へてやすらひ給へる、いみじうなつかし。風いとひやゝかに吹きて松蟲の鳴きからしたる聲も折知り顏なるを、さして思ふことなきだに聞きすぐし難げなるに、ましてわりなき御心惑ひどもになかなかこともゆかぬにや。

 「大かたの秋のわかれもかなしきに鳴くねなそへそ野邊の松蟲」。悔しきこと多かれどかひなければ明け行く空もはしたなくて出で給ふ道の程いと露けし。女もえ心强からず名殘あはれにて眺め給ふ。ほの見奉り給へる月影のおほんかたち猶とまれるにほひなど、若き人々は身にしめて過ちもしつべくめで聞ゆ。いかばかりの道にてか斯るおほん有樣を見棄てゝは別れ聞えむとあいなく淚ぐみあへり。御文常よりも細やかなるはおぼし靡くばかりなれど又うちかへし定めかね給ふべきことならねばいとかひなし。男はさしもおぼさぬことをだになさけのためには能くいひ續け給ふべかめれば、ましておしなべてのつらには思ひ聞え給はざりし御中のかくて背き給ひなむとするを、口惜しうもいとほしうもおぼし惱むべし。旅のおほんさう束よりはじめ人々のまで何くれの御調度など嚴めしう珍しきさまにてとぶらひ聞え給へど何ともおぼされず。あはあはしう心憂き名をのみ流して淺ましき身の有樣を今始めたらむやうに程近くなるまゝに起きふし嘆き給ふ。齋宮は若きおほん心にふぢやうなりつる御出立のかく定まり行くを嬉しとのみおぼしたり。世の人はれいなきことゝもどきもあはれにも樣々に聞ゆべし。何事も人にもどきあつかはれぬきはゝやすげなり、なかなか世にぬけ出でぬる人の御あたりは所せき事多くなむ。十六日桂川にておほんはらへし給ふ。常の儀式にまさりてちやうぶ送使などさらぬ上達部もやんごとなくおぼえあるをえらせ給へり。院の御心よせもあればなるべし。出で給ふほど大將殿よりれいの盡きせぬことども聞え給へり。「かけまくも畏きおまへに」とて木綿につけて「なる神だにこそ、

  八洲もる國つ御神もこゝろあらば飽かぬわかれの中をことわれ。思ひ給ふるに飽かぬ心地し侍るかな」とあり。いとさわがしきほどなれど御かへりあり。宮のおほんをばによ別當して書かせ紿へり。

 「國つ神そらにことわる中ならばなほざりごとをまづやたゞさむ」大將は御有樣ゆかしうて內裏にも參らまほしうおぼせど、うち棄てられて見送らむも人わろき心地し給へば、おぼしとまりて徙然にながめ居給へり。宮の御返りのおとなおとなしきをほゝゑみて見居給へり。御年のほどよりはをかしうもおはすべきかなとたゞならず、かやうにれいに違へる煩はしさに必ず心かゝる御癖にていと能う見奉りつべかりし、いはけなき御程を見ずなりぬるこそ妬けれ、世の中さだめなければたいめするやうもありなむかしなどおぼす。心にくゝよしある御けはひなれば物見車多かる日なり。申の時にうちに參り給ふ。御息所御輿に乘り給へるにつけても、父おとゞのかぎりなきすぢにおぼし心ざしていつき奉り給ひし有樣かはりて末の世に內を見給ふにも物のみつきせずあはれにおぼさる。十六にて故宮に參り給ひて、はたちにて後れ奉り給ふ。三十にてぞ今日また九重を見給ひける。

 「そのかみを今日はかけじと忍ぶれど心のうちにものぞかなしき」齋宮は十四にぞなり給ひける。いと美しうおはするさまをうるはしうしたて奉り給へるぞいとゆゝしきまで見え給ふを、帝御心動きて別れの御櫛奉り給ふ。いとあはれにてほたれさせ給ひぬ。出で給ふを待ち奉るとてはせうに立て續けたるいだし車どもの袖口色あひも目慣れぬさまに心憎き氣色なれば、殿上人どもゝ私のわかれ惜む多かり。闇う出で給ひて、二條よりとうゐの大路を折れ給ふほど二條院の前なれば大將の君いとあはれにおぼされて、榊にさして、

 「ふりすてゝ今日は行くとも鈴鹿川やそせのなみに袖はぬれじや」と聞え給へれど、いと闇う物騷がしき程なればまたの日關のあなたよりぞ御返しある、

 「鈴鹿川八十瀨の浪にぬれぬれずいせまでたれか思ひおこせむ」ことそぎて書き給へるしも御手いとよしよししくなまめきたるにあはれなるけを少し添へ給へらましかばとおぼす。霧いたう降りてたゞならぬ朝けにうちながめてひとりごちおはす。

 「行くかたをながめもやらむこの秋は逢坂山をきりなへだてそ」。西の對にも渡り給はで人やりならず物淋しげに眺め暮し給ふ。まして旅の空はいかに御心づくしなる事多かりけむ。

院の御惱み神無月になりてはいと重く坐します。世の中に惜み聞えぬ人なし。內にも覺し嘆きて行幸あり。弱き御心地にも春宮の御事をかへすかへす聞えさせ給ひて次には大將の御事「侍りつる世にかはらず大小の事を隔てず、何事も御うしろみとおぼせ。齡の程よりも代をまつりごたむにもをさをさはゞかりあるまじうなむ見給ふる。必ず世の中保つべき相ある人なり、さるによりて煩はしさにみこにもなさずたゞ人にておほやけの御後見をせさせむと思ひ給へしなり。その心違へさせ給ふな」とあはれなる御ゆゐごんども多かりけれど女のまねぶべき事にしあらねばこの片端だにかたはらいたし。帝もいと悲しとおぼして更に違へ聞えさすまじきよしをかへすがへす聞えさせ給ふ。御かたちもいと淸らにねびまさらせ給へるを嬉しく賴もしく見奉らせ給ふ。限あれば急ぎ還らせ給ふにもなかなかなる事多くなむ。春宮もひとたびにとおぼし召しけれど物さわがしきにより日を更へて渡らせ給へり。御年の程よりはおとなび美しき御さまにて戀しと思ひ聞えさせ給ひけるつもりに、何心もなく嬉しとおぼして見奉り給ふ御氣色いとあはれなり。中宮は淚に沈み給へるを、見奉らせ給ふにもさまざま御心亂れておぼし召さる。萬の事を聞え知らせ給へどいと物はかなき御ほどなればうしろめたく悲しう見奉らせ給ふ。大將にもおほやけに仕うまつり給ふべき御心づかひこの宮の御後見し給ふべきことを返す返すのまたはす。夜更けてぞ歸らせ給ふ。殘る人なく仕うまつりてのゝしるさま行幸に劣るけぢめなし。飽かぬ程にて還らせ給ふをいみじうおぼし召す。おほきさきも參り給はむとするを中宮のかく添ひおはするに御心置かれておぼしやすらふ程に、おどろおどろしきさまにもおはしまさでかくれさせ給ひぬ。足を空に思ひ惑ふ人多かり。御位を去らせ給ふといふばかりにこそあれ、世の政をしづめさせ給へることも我が御世の同じごとにておはしまいつるを、帝はいと若うおはします、おほぢおとゞいと急にさがなうおはしてその御まゝになりなむ世をいかならむと、上達部殿上人皆思ひなげく。中宮大將殿などはましてすぐれて物もおぼしわかれず。後々の御わざなどけうじ仕うまつり給ふさまもそこらの御子たちの御中にすぐれ給へるをことわりながらいとあはれに世の人も見奉る。藤の御ぞにやつれ給へるにつけても限なく淸らに心苦しげなり。こぞ今年とうちつゞきかゝることを見給ふに世もいとあぢきなうおぼさるれば、かゝる序にもまづおぼし立たるゝことはあれど又樣々の御ほだしおほかり。御なゝなぬかまでは女御みやす所たち皆院に集ひ給へりつるを、過ぎぬればちりぢりにまかでたまふ。十二月の二十日なれば大方の世の中とぢむる空の氣色につけてもまして晴るゝ世なき中宮の御心のうちなり。おほきさきの御心をも知り給へれば心に任せ給へらむ世のはしたなく住み憂からむをおぼすよりも、馴れ聞え給へる年比の御有樣を思ひ出で聞え給はぬ時のまなきに、かくてもおはしますまじう皆ほかほかへと出で給ふ程に、悲しき事かぎりなし。宮は三條の宮に渡り給ふ。御むかへに兵部卿の宮參り給へり。雪うち散り風烈しうて院の內やうやう人めかれゆきてしめやかなるに、大將殿こなたに參り給ひて舊き御物語きこえ給ふ。おまへの五葉の雪にしをれて下枝枯れたるを見給ひて、みこ、

 「かげひろみたのみし松や枯れにけむ下葉散りゆく年のくれかな」何ばかりのことにもあらぬに折から物あはれにて、大將の御袖いたうぬれぬ。池のひまなうこほれるに、

 「さえわたる池の鏡のさやけきに見なれしかげを見ぬぞかなしき」とおぼすまゝにあまり若々しうぞあるや。王命婦、

 「年暮れて岩井の水もこほりとぢ見し人かげのあせも行くかな」そのついでにいと多かれどさのみ書き續くべきことかは。渡らせ給ふ儀式變らねど、思ひなしにあはれにてふるき宮はかへりて旅の心地し給ふにも御里住絕えたる年月のほどおぼしめぐらさるべし。年かへりぬれど世の中今めかしきことなく靜なり。大將殿は物憂くて籠り居給へり。ぢもくの頃など院の御時をば更にもいはず、年比劣るけぢめなくて帝のわたり所なく立ち込みたりし馬車薄らぎて、とのゐ物の袋をさをさ見えず、親しきけいしばかり殊に急ぐことなげにてあるを見給ふにも、今よりはかくこそはと思ひやられてものすさまじくなむ。みくしげどのはきさらぎにないしのかみになり給ひぬ。院の御思ひにやがて尼になり給へるかはりなりけり。やんごとなくもてなして人抦もいと善くおはすればあまた參り集り給ふ中にも優れて時めき給ふ。后は里がちにおはしまいて參り給ふ時の御局には梅壺をしたれば、弘徽殿にはかんの君住み給ふ。登花殿のうもれたりつるに晴ればれしうなりて女房なども數知らず集ひ參りて今めかしう花やぎ給へど、御心のうちは思の外なりし事どもを忘れ難う嘆き給ふ。いと忍びて通はし給ふことは猶同じさまなるべし。物の聞えもあらばいかならむとおぼしながら例の御癖なれば今しも御志まさるべかめり。院のおはしましつる世こそ憚り給ひつれ、后の御心いちはやくてかたがたおぼしつめたることどもの報せむとおぼすべかめり。事に觸れてはしたなき事のみ出で來ればかゝるべき事とはおぼしゝかど、見知り給はぬ世のうさに立ちまふべくもおぼされず。左のおほいとのもすさまじき心地し給ひて殊にうちにも參り給はず。故姬君を引きよぎてこの大將の君に聞えつけ給ひし御心を、后はおぼしおきて宜しうも思ひ聞え給はず。おとゞの御中も素よりそばそばしうおはするに、故院の御世には我儘におはせしを時移りてしたり顏におはするを、あぢきなしとおぼしたるもことわりなり。大將はありしに變らず渡り通ひ給ひて侍ひし人々をもなかなかにこまかにおぼしおきて若君をかしづき思ひ聞え給へること限なければ、あはれにありがたき御心といとゞいたづき聞え給ふことども同じさまなり。限なき御覺のあまり物騷しきまで暇なげに見え給ひしを、通ひ給ひし所々も方々に絕え給ふ事どもあり。かるがるしき御忍びありきもあいなう覺しなりて殊にし給はねばいとのどやかに今しもあらまほしき御有樣なり。西の對の姬君の御幸を世の人もめで聞ゆ。少納言なども人知れず故尼上の御祈のしるしと見奉る。父みこも思ふさまに聞えかはし給ふ。むかひ腹の限なくとおぼすははかばかしうもえあらぬにねたげなること多くてまゝ母の北の方は安からずおぼすべし。物語に殊更に作り出でたるやうなる御有樣なり。齋院は御ぶくにており居給ひにしかば、朝顏の姬君はかはりに居給ひにき。加茂のいつきには、そわうの居給ふれい多くもあらざりけれどさるべき女みこやおはせざりけむ。大將の君年月經れど猶御心離れ給はざりつるを、かうすぢことになり給ひぬれば口惜しとおぼす。中將に音づれ給ふ事も同じごとにて御文などは絕えざるべし。昔に變る御有樣などをば殊に何ともおぼしたらず、かやうのはかなし事どもを、紛るゝことなきまゝに此方彼方とおぼし惱めり。帝は院の御ゆゐごん違へずあはれにおぼしたれど若うおはしますうちにも御心なよびたる方に過ぎて强き所おはしまさぬなるべし。母きさきおほきおとゞとりどりにし給ふことはえ背き給はず。代のまつりごと御心にかなはぬやうなり。煩はしさのみ增れどかんの君は人知れぬ御心ざし通へば、わりなくてもおぼつかなくはあらず。五壇のみず法のはじめにて愼みおはしますひまを伺ひて例の夢のやうに聞え給ふ。かの昔おぼえたる細殿の局に、中納言の君まぎらはして入れ奉りたり。人めも繁き頃なれば常よりも端近なるをそらおそろしうおぼゆ。朝夕に見奉る人だに飽かぬ御さまなればまして珍しき程にのみある御たいめのいかでかはおろかならむ。女の御さまもげにぞめでたき御盛なる。おもりかなるかたはいかゞあらむ、をかしうなまめきわかびたる心ちして見まほしき御けはひなり。程なく明けゆくにやと覺ゆるに「唯こゝにしもとのゐ申し侍ふ」とこわづくるなり。又このわたりにかくろへたる近衞司ぞあるべき。腹穢きかた人の敎へおこするぞかしと大將は聞き給ふ。をかしきものからわづらはし。此處彼處尋ねありきて「寅ひとつ」と申すなり。女君、

 「心からかたがた袖をぬらすかなあくとをしふる聲につけても」とのたまふさま、はかなだちていとをかし。

 「なげきつゝ我身はかくて過ぐせとやむねのあくべき時ぞともなく」しづ心なくて出で給ひぬ。夜深き曉づく夜のえもいはずきり渡れるにいといたう窶れてふるまひなし給へるしも似る物なき御有樣にて、じようきやう殿の御せうとの頭中將、藤壺より出でゝ月の少し隈ある立蔀のもとに立てりけるを知らで過ぎ給ひけむこそいとほしけれ。もどき聞ゆるやうもありなむかし。かやうのことにつけてももてはなれつれなき人の御心をかつはめでたしと思ひ聞え給ふものから我心のひく方にては猶つらう心憂しと覺え給ふ折多かり。內に參り給はむことはうひうひしく所せくおぼしなりて、春宮を見奉り給はぬを覺束なくおもほえ給ふ。又たのもしき人も物し給はねば、唯この大將の君をぞ萬に賴み聞え給へるに猶このにくき御心の止まぬにともすれば御胸を潰し給ひつゝ聊も氣色を御覽じ知らずなりにしを思ふだにいと恐しきに、今更に又さることの聞えありて我身はさるものにて春宮の御ために必ず善からぬ事出で來なむとおぼすに、いとおそろしければ御祈をさへせさせ給ひて、このこと思ひ止ませ奉らむとおぼし至らぬことなく遁れ給ふを、如何なる折にかありけむ、あさましうて近づき參り給へり。心深くたばかり給ひけむことを知る人なかりければ夢のやうにぞありける。まねぶべきやうもなく聞え續け給へど、宮いとこよなくもてはなれ聞え給ひてはてはては御胸をいたう惱み給へば、近う侍ひつる命婦辨などぞあさましう見奉りあつかふ。男はうしつらしと思ひ聞え給ふこと限なきにきしかた行くさきかきくらす心地してうつし心も失せければ明けはてにけれど出で給はずなりぬ。御惱に驚きて人々近う參りてしげうまがへばわれにもあらで塗ごめに押し入れられておはす。御ぞども隱しもたる人の心などもいとむつかし。宮は物をいと侘しとおぼしけるに御けあがりて猶惱しうせさせ給ふ。兵部卿宮大夫など參りて「僧召せ」などさわぐを、大將いと侘しう聞きおはす。辛うじて暮れゆくほどにぞ怠り給へる。かく籠り居給ひつらむとはおぼしもかけず、人々も又御心まどはさじとてかくなむとも申さぬなるべし。晝のおましにゐざり出でゝおはします。「よろしうおぼさるゝなめり」とて宮もまかで給ひなどしておまへ人ずくなになりぬ。例もけぢかくならさせ給ふ人少ければ此處彼處の物のうしろなどにぞ侍ふ。命婦の君などはいかにたばかりて出し奉らむ「今宵さへ御けあがらせ給はむいとほしう」などうちさゝめきあつかふ。君は塗ごめの戶の細目に開きたるをやをら押し開けて御屛風のはざまに傳ひ入り給ひぬ。珍しく嬉しきにも淚は墮ちて見奉り給ふ。「猶いと苦しうこそあれ、世やつきぬらむ」とてとの方を見出し給へるかたはらめ言ひしらずなまめかしう見ゆ。「御くだものをだに」とて參りすゑたり。箱の蓋などにも懷しきさまにてあれど見入れ給はず。世の中をいたうおぼし惱める氣色にて長閑に眺め入り給へる、いみじうらうたげなり。かんざし頭つきみぐしのかゝりたるさま限なきにほはしさなど、唯かの對の姬君に違ふ所なし。年比少し思ひ忘れ給へりつるをあさましきまでおぼえ給へるかなと見給ふまゝに少し物思ひのはるけ所ある心地し給ふ。け高う耻しげなるさまなども更にこと人と思ひわき難きを、なほ限なく昔より思ひしめ聞えてし心の思ひなしにや、さまことにいみじうねびまさり給ひにけるかなと類なくおぼえ給ふに心惑ひしてやをら御帳の內にかゝづらひよりて御ぞの褄を引きならし給ふ。けはひしるくさとにほひたるにあさましうむくつけうおぼされて、やがてひれふし給へり。「見だに向き給へかし」と心やましうつらくてひき寄せ給へるに、御ぞをすべし置きてゐざりのき給ふに、心にもあらずみぐしの取り添へられたりければ、いと心憂くすくせの程おぼし知られていみじとおぼしたり。男もこゝら世をもてしづめ給ふ御心皆亂れてうつしざまにもあらず萬の事をなくなく恨み聞え給へど、誠に心づきなしとおぼして御いらへも聞え給はず「唯心地のいと惱しきをかゝらぬ折もあらば聞えてむ」とのたまへど盡きせぬ御心の程を言ひ續け給ふ。さすがにいみじと聞き給ふふしもまじるらむ。あらざりしことにはあらねど改めていと口惜しうおぼさるれば懷しきものからいとようのたまひ遁れて今宵も明けゆく。せめて從ひ聞えざらむもかたじけなく心耻しき御けはひなれば「唯かばかりにても時々いみじき憂へをだに晴け侍りぬべくは、何のおほけなき心も侍らじ」などたゆめ聞え給ふべし。なのめなることだにかやうなるなからひはあはれなることも添ふなるをまして類ひなげなり。明けはつれば二人していみじき事どもを聞え、宮はなかばなきやうなる御氣色の心苦しければ、世の中にありと聞し召されむもいとはづかしければやがて亡せ侍りなむも又この世ならぬ罪となり侍りぬべきことなど聞え給ふも、むくつけきまでおぼし入れり。

 「逢ふことのかたきを今日にかぎらずば今幾世をかなげきつゝ經む。御ほだしにもこそ」と聞え給へばさすがにうち歎き給ひて、

 「長き世のうらみを人にのこしてもかつは心をあだとしらなむ」。はかなくいひなさせ給へるさまのいふよしなき心地すれど、人のおぼさむ所も我が御ためも苦しければわれにもあらで出で給ひぬ。いづこをおもてにかは又も見え奉らむ、いとほしとおぼし知るばかりとおぼして御文も聞え給はずうち絕えて內、春宮にも參り給はず、籠りおはして起き臥しいみじかりける人の御心かなと人わろく戀しう悲しきに心だましひも失せにけるにや惱しうさへおぼさる。物心細くなぞや世にふればうさこそまされとおぼし立つには、この女君のいとらうたげにてあはれにうち賴み聞え給へるを振り捨てむといとかたし。宮もその名殘例にもおはしまさず、かうことさらめきて籠り居音づれ給はぬを命婦などはいとほしがり聞ゆ。宮も春宮の御ためをおぼすには御心置き給はむこといとほしく世をあぢきなきものに思ひなり給はゞひたみちにおぼし立つこともやと、さすがに苦しうおぼさるべし。かゝること絕えずばいとゞしき世にうき名さへもり出でなむ、大きさきのあるまじきことにのたまふなる位をも去りなむと、やうやうおぼしなる。院のおぼしのたまはせしさまのなのめならざりしをおぼし出づるにも、萬の事ありしにもあらず變り行く世にこそあめれ、戚夫人の見けむめのやうにこそあらずとも、必人笑へなることはありぬべき身にこそあめれなど、疎ましう過ぐし難うおぼさるれば、背きなむ事をおぼし取るに、春宮見奉らでおもかはりせむことあはれにおぼさるれば忍びやかにて參り給へり。大將の君はさらぬ事だにおぼし寄らぬ事なく仕うまつり給ふを、御心地惱しきにことづけて御送にも參り給はず。大方の御とぶらひは同じやうなれど「むげにおぼしくしにける」と心しるどちはいとほしがり聞ゆ。宮はいみじう美しうおとなび給ひて珍しう嬉しとおぼして、むつれきこえ給ふを悲しと見奉り給ふにもおぼし立つすぢはいと難げなれどうちわたりを見給ふにつけても世の有樣あはれにはかなく移り變ることのみ多かり。大きさきの御心もいと煩はしくて出で入り給ふにもはしたなく事に觸れて苦しければ、宮の御ためにも危くゆゝしう萬につけておぼしみだれて、御覽ぜで久しからむほどにかたちのことざまにてうたてげに變りて侍らばいかゞおぼさるべき」と聞え給へば、御顏をうちまもり給ひて「式部がやうにやいかでかさはなり給はむ」と笑みてのたまふ。いふかひなくあはれにて「それは老いて侍れば醜きぞ、さはあらで髮はそれよりも短くて黑ききぬなどを着て夜居の僧のやうになり待らむとすれば見奉らむ事もいとゞ久しかるべきぞ」とて泣き給へば、まめだちて、「久しうおはせねば戀しきものを」とて淚のおつれば恥かしとおぼしてさすがに背き給へる、御ぐしはゆらゆらと淸らにてまみの懷しげに匂ひ給へるさま、おとなび給ふまゝに唯かの御顏をぬぎすべ給へり。御齒の少し朽ちて口の中黑みて笑み給へるかをり美しきは女にて見奉らまほしう淸らなり。いとかうしも覺え給へるこそ心憂けれと玉の瑕におぼさるゝも、世の煩はしさのそら恐しうおぼえ給ふなりけり。大將の君は宮をいと戀しう思ひ聞え給へどあさましき御心のほどを時々は思ひ知るさまにも見せ奉らむと念じつゝ過ぐし給ふに人わろくつれづれにおぼさるれば、秋の野も見給ひがてら、うりん院にまうで給へり。故母みやす所の御せうとの律師の籠り給へる坊にて法もんなど讀み、行ひせむとおぼして二三日おはするにあはれなる事多かり。紅葉のやうやう色づきわたりて秋の野のいとなまめきたるなど見給ひつゝ故鄕も忘れぬべくおぼさる。法師ばらのさえあるかぎり召し出でゝ論義せさせて聞し召させ給ふ。所がらにいとゞ世の中の常なきをおぼし明しても、猶うき人しもぞとおぼし出でらるゝ。おしあけ方の月影に法師ばらの閼伽奉るとてからからと鳴しつゝ菊の花、濃き薄き紅葉など折りちらしたるもはかなけれど、この方のいとなみはこの世もつれづれならず後の世はたたのもしげなり。さもあぢきなき身をもて惱むかななど、おぼし續け給ふ。律師のいと尊き聲にて念佛衆生接取不捨とうち述べて行ひ給へるがいとうらやましければ、なぞやとおぼしなるにまづ姬君の心にかゝりて思ひ出でられ給ふぞいとわろき御心なるや。例ならぬ日數もおぼつかなくのみおぼさるれば御文ばかりぞ繁う聞え給ふめる。「行き離れぬべしやと試み侍る道なれどつれづれも慰めがたう心ぼそさまさりてなむ。聞きさしたることありてやすらひ侍るほどをいかに」などみちのくに紙にうちとけ書き給へるさへぞめでたき。

 「あさぢふの露のやどりに君をおきてよものあらしぞしづ心なき」などこまやかなるに女君もうち泣き給ひぬ。御かへし白き色紙に、

 「風吹けばまづぞみだるゝ色かはる淺茅がつゆにかゝるさゝがに」とあり。「御手はいとをかしうのみなりまさるものかな」とひとりごちて美しとほゝゑみ給ふ。常に書きかはし給へば我が御手にいと能く似て今少しなまめかしう女しき所書き添へ給へり。何事につけてもけしうはあらずおほしたてたりかしとおもほす。吹きかふ風も近き程にて齋院にも聞え給ひけり。中將の君に「かく旅の空になむ物思ひにあくがれにけるをおぼし知るにもあらじかし」など恨み給ひて、おまへには、

 「かけまくはかしこけれどもそのかみの秋おもほゆる木綿欅かな。昔を今にと思ひ給ふるにもかひなくとり返されむものゝやうに」となれなれしげにからの淺綠の紙に、榊に木綿つけなどかうがうしうしなして參らせ給ふ。御かへり、中將「紛るゝことなくてきしかたの事を思ひ給へ出づるつれづれのまゝには思ひやり聞えさすること多く侍れどかひなくのみなむ」と少し心とゞめておほかり。おまへのは木綿のかたはしに、

 「そのかみやいかゞはありしゆふだすき心にかけて忍ぶらむゆゑ。近き世に」とぞある。御手こまやかにはあらねどらうらうしうさうなどをかしうなりにけり。まして朝顏もねびまさり給へらむかしと思ひ遣るもたゞならず。おそろしや。あはれこの頃ぞかし。野の宮のあはれなりしことおぼし出でゝ怪しうやうのものと、神うらめしうおぼさるゝ御癖のみ苦しきぞかし。わりなうおぼさばさもありぬべかりし、年比は長閑に過ぐし給ひて今は悔しうおぼさるべかめるもあやしき御心なりや。院もかくなべてならぬ御心ばへを見知り聞え給へれば、たまさかなる御返しなどはえしももてはなれ聞え給ふまじかめり。少しあいなき事なりかし。六十卷といふ文讀み給ひ覺束なき所々解かせなどしておはしますを山寺にはいみじき光行ひ出し奉れりと佛の御面目ありとあやしの法師ばらまで喜びあへり。しめやかにて世の中をおもほし續くるに歸らむと物憂かりぬべけれど、人ひとりの御事おぼしやるがほだしなれば久しうもえおはしまさで寺にもみず經いかめしうせさせ給ふ。あるべきかぎりかみしもの僧どもそのわたりの山がつまで物たび尊き事のかぎりを盡して出で給ふ。見奉り送るとてこのもかのもにあやしきしはふるひ人ども集り居て淚をおとしつゝ見奉る。黑き御車の內にて藤の御袂にやつれ給へれば殊に見え給はねどほのかなる御有樣をほを世になく思ひ聞ゆべかめり。

女君は日比の程にねびまさり給へる心地していといたうしづまり給ひて、世の中いかゞあらむと思へる氣色の心苦しうあはれにおぼえ給へば、あいなき心のさまざま亂るゝやしるからむ。色かはるとありしもらうたうおぼえて常より殊に語らひ聞え給ふ。山つどにもたせ給へりし紅葉、おまへのに御覽じくらぶれば殊にそめましける露の心も過ぐしがたう、覺束なさも人わろきまでおぼえ給へば唯大方にて宮に參らせ給ふ。命婦の許に「入らせ給ひにけるを珍しき事とうけ給はるに宮のあひだの事覺束なくなり侍りにければ、靜心なく思ひ給へながら行ひも勸めむと思ひ立ち侍りし日數を心ならずやとてなむ日比になり侍りける。紅葉は一人見侍るに錦くらう思ひ給ふればなむ。折よくて御覽ぜさせ給へ」などあり。げにいみじき枝どもなれば御目とまるに、例の聊なるものありけり。人々見奉るに御顏の色もうつろひて、猶かゝる心の絕え給はぬこそいとうとましけれ、あたら思遣り深うものし給ふ人のゆくりなくかやうなること折々まぜ給ふを人もあやしと見るらむかしと、心つきなうおぼされて、甁にさゝせて廂の柱のもとにおしやらせ給ひつ。大方の事ども宮の御事に觸れたる事などはうち賴めるさまにすくよかなる御返りばかり聞え給へるを、さも心かしこく盡きせずもとうらめしう見給へど、何事も後見聞えならひ給ひにたれば人怪しとみ咎めもこそすれとおぼして、まかで給ふべき日參り給へり。まづ內の御方に參り給へればのどやかにおはします程にて昔今の御物語聞え給ふ。御かたちも院にいとよう似奉り給ひて今少しなまめかしきけ添ひてなつかしうなごやかにぞおはします。かたみにあはれと見奉り給ふ。かんの君の御ことも猶絕えぬさまにきこしめし氣色御覽ずる折もあれど何かは今始めたる事ならばこそあらめ、ありそめにけることなればさも心かはさむに似げなかるまじき人のあはひなりかしとぞおぼしなして咎めさせ給はざりける。萬の御物語文の道の覺束なくおぼし召さるゝことどもなど問はせ給ひて、又すきずきしき歌がたりなどもかたみに聞えかはさせ給ふついでに、かの齋宮の下り給ひし日の事かたちのをかしうおはせしなど語らせ給ふに我もうち解けて野の宮のあはれなりしあけぼのも皆聞え出で給ひてけり。二十日の月やうやうさし出でゝをかしき程なるに「遊などもせまほしき程かな」とのたまはす。「中宮の今夜罷で給ふなるとぶらひにものし侍らむ。院ののたまはせおくこと侍りしかば又後見仕うまつる人も侍らざめるに春宮の御ゆかりいとほしう思ひ給へられ侍りて」と奏し給ふ。「春宮をば今のみこになしてなどのたまはせ置きしかば、取り分きて心ざしものすれど殊にさしわきたるさまにも何事をかはとてこそ。年のほどよりも御手などのわざとかしこうこそ物し給ふべけれ。何事にもはかばかしからぬ自らのおもて起しになむ」とのたまはすれば「大方し給ふわざなどいとさとくおとなびたるさまに物し給へど、まだいとかたなりになむ」とその御有樣など奏し給ひてまかで給ふに、大宮の御せうとの藤大納言の子の頭の辨といふが世にあひ花やかなるわかうどにて思ふ事なきなるべし。妹の麗景殿の御方に行くに大將のみさきを忍びやかにおへば、しばし立ちとまりて「白虹日を貫けり。太子おぢたり」といとゆるらかにうちずじたるを、大將いとまばゆしと聞き給へど咎むべきことかは。きさきの御氣色はいと恐ろしう煩はしげにのみ聞ゆるを、かう親しき人々も氣色だちいふべかめる事どもゝあるに煩はしうおぼされけれどつれなうのみもてなし給へり。「御まへに侍ひて今までふかし侍りにける」と聞え給ふ。月の華やかなるに昔かやうなる折は御遊せさせ給ひて今めかしうもてなさせ給ひしなどおぼし出づるに、同じみ垣の內ながら變れること多くかなし。

 「こゝのへにきりやへだつる雲の上の月をはるかに思ひやるかな」と命婦して聞え傅へ給ふ。御けはひもほのかなれど懷しう聞ゆるに、つらさも忘られてまづ淚ぞおつる。

 「月かげは見し世の秋にかはらぬを隔つる霧のつらくもあるかな。霞も人のとか、昔も侍りける事にや」などきこえ給ふ。宮は春宮を飽かず思ひ聞え給ひて萬の事を聞えさせ給へど、深うもおぼし入れたらぬをいとうしろめたく思ひきこえ給ふ。例はいととく大殿籠れるを出で給ふまでは起きたらむとおぼすなるべし。うらめしげにおぼしたれどさすがにえ慕ひ聞え給はぬをいとあはれと見奉り給ふ。大將は頭の辨のずしつることを思ふに御心のおにゝ世の中煩はしうおぼえ給ひて、かんの君にも音づれきこえ給はで久しうなりにけり。初時雨いつしかとけしきだつにいかゞおぼしけむ、かれより、

 「木枯の吹くにつけつゝ待ちしまにおぼつかなさのころも經にけり」と聞え給へり。折もあはれにあながちに忍び書き給へらむ御心ばへもにくからねば御使とゞめさせ給ひて、からのかみども入れさせ給へるみ厨子あけさせ給ひて、なべてならぬをえり出でつゝ筆なども心ことに引きつくろひ給へる氣色えんなるを、おまへなる人々誰ばかりならむとつきじろふ。「聞えさせても、かひなきものごりにこそ無下にくづほれにけれ、身のみものうきほどに、

  あひ見ずてしのぶるころの淚をもなべての秋のしぐれとや見る。心の通ふならばいかにながめの空も物忘れし侍らむ」などこまやかになりにけり。かやうに驚し聞ゆるたぐひ多かめれどなさけなからずうち返りごち給ひて御心には深うしまさるべし。

中宮は院の御はての事にうちつゞき御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせ給ひけり。しも月のついたちごろみこ忌なるに雪いたう降りたり。大將殿より宮に聞え給ふ。

 「別れにしけふはくれども見し人に行きあふほどをいつとたのまむ」。いづこにも今日は物悲しうおぼさるゝほどにて御かへりあり。

 「ながらふる程はうけれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心ちして」殊につくろひてもあらぬ御書きざまなれどあてにけ高きは思ひなしなるべし。すぢかはり今めかしうはあらねど人にはことに書かせ給へり。今日はこの御事も思ひけちてあはれなる雪の雫にぬれぬれ行ひ給ふ。しはす十餘日ばかり中宮の御はかうなり。いみじうたふとし。日々に供養せさせ給ふ。御經よりはじめ玉の軸羅の表紙ぢすのかぎりも世になきさまにとゝのへさせ給へり。さらぬことの淸らだによのつねならずおはしませばましてことわりなり。佛の御かざり花机のおほひなどまでまことの極樂思ひやらる。初の日は先帝の御れう、次の日は母きさきの御ため、又の日は院の御れう、五卷の日なれば上達部なども世のつゝましさをえしも憚かり給はでいとあまた參り給へり。今日のかうじは心ことにえらせ給へばたきゞこる程よりうち初め、同じういふ言の葉もいみじうたうとし。御子たちも、樣々のほうもち捧げてめぐり給ふに大將殿の御用意など猶似るものなし。常に同じことのやうなれども見奉る度ごとに珍しからむをばいかゞはせむ。はての日は我が御事をけち願にて世を背き給ふよし佛に申させ給ふに皆人々驚き給ひぬ。兵部卿の宮、大將の御心も動きてあさましとおぼす。みこはなかばの程に立ちて入り給ひぬ。心强う覺し立つさまをのたまひてはつる程に山の座主召して忌む事うけ給ふべきよしのたまはす。御をぢの橫川の僧都近う參り給ひてみぐしおろし給ふ程に、宮の內ゆすりてゆゝしう泣き滿ちたり。何となき老い袞へたる人だに今はと世を背く程は怪しうあはれなるわざを、ましてかねて御氣色にも出だし給はざりつる事なればみこもいみじう泣き給ふ。參り給へる人々も大方の事ざまもあはれに尊ければ皆袖ぬらしてぞ歸り給ひける。故院のみ子達は昔の御有樣をおぼし出づるにいとゞあはれに悲しうおぼされて皆とぶらひ聞え給ふを、大將は立ちとまり給ひて聞え出で給ふべき方もなくくれ惑ひておぼさるれど、などかさしもと人見奉るべければみ子など出で給ひぬる後にぞお前に參り給へる。やうやう人しづまりて女房どもなど鼻うちかみつゝ所々に群れ居たり。月はくまなぎに雪の光りあひたる庭の有樣も昔の事思ひやらるゝにいと堪へ難うおぼさるればいとようおぼししづめて、「いかやうにおぼしたゝせ給ひてかう俄には」と聞え給ふ。「今始めて思ひ給ふることにもあらぬを、物騷しきやうなりつれば心亂れぬべく」など例の命婦して聞え給ふ。みすの內のけはひそこら集ひ給ふ人のきぬの音なひしめやかにふるまひなしてうちみじろきつゝ悲しげさの慰め難げにもり聞ゆる氣色、ことわりにいみじと聞き給ふ。風烈しう吹きふゞきて、みすの中のにほひいと物深きくろほうにしみてみやう香の煙もほのかなり。大將の御にほひさへかをりあひめでたく極樂思ひやらるゝよのさまなり。春宮の御使も參れり。のたまひしさま思ひ出で聞えさせ給ふにぞ御心强さも堪へ難うて御返りも聞えさせやらせ給はねば、大將ぞ言加へ聞えさせ給ひける。誰も誰もあるかぎり心をさまらぬ程なればおぼすことどもゝうち出で給はず。

 「月のすむ雲井をかけてしたふともこの夜のやみに名をやまどはむ。と思ひ給へらるゝこそかひなくおぼし立たせ給へる美しさはかぎりなう」とばかり聞え給ひて、人々近う侍へばさまざま亂るゝ心のうちをだにえ聞えあらはし給はずいぶせし。

 「大かたのうきにつけては厭へどもいつかこの世をそむきはつべき。かつ濁りつゝ」など、かたへは御使の心しらひなるべし。あはれのみつきせねば胸苦しうてまかで給ひぬ。殿にても我が御方に一人うちふし給ひて、御目もあはず、世の中厭はしうおぼさるゝにも春宮の御事のみぞ心苦しき。母宮をだにおほやけざまにとおぼしおきてしを、世のうさに堪へずかくなり給ひにたればもとの御位にてもえおはせじ。我さへ見奉り捨てゝはなどおぼし明すことかぎりなし。今はかゝるかたざまの御調度どもをこそはとおぼせば、年の內にと急がせ給ふ。命婦の君も御供になりにければ、それも心深うとぶらひ給ふ。委しう言ひつゞけむにことごとしきさまなれば洩らしてけるなめり。さるはかうやうの折こそをかしき歌など出で來るやうもあれ、さうざうしや。まゐり給ふも今はつゝましさ薄らぎて御自ら聞え給ふ折もありけり。思ひしめてしことは更に御心に離れねどましてあるまじき事なりかし。年もかはりぬればうちわたり花やかに內宴蹈歌など聞き給ふにも物のみあはれにて、おほん行ひしめやかにし給ひつゝ後の世の事をのみおぼすにたのもしくむつかしかりし事離れておぼさる。常の御ねんず堂をばさるものにてことに建てられたる御堂の西の南にあたりて少し離れたるに渡らせ給ひて取りわきたる行せさせ給ふ。大將まゐり給へり。改まるしるしもなく宮の內のどかに人めまれにて宮づかさどもの親しきばかりうちうなだれて、見なしにやあらむくしいたげに思へり。あを馬ばかりぞ猶ひきかへぬものにて女房などの見ける。所せう參りつどひ給ひし上達部なども道をよきつゝひき過ぎてむかひのおほい殿に集ひ給ふを、かゝるべきことなればあはれにおぼさるゝに、千人にもかへつべき御さまにて深う尋ね參り給へるを見るにあいなく淚ぐまる。まらうどもいとものあはれなる氣色に、うち見まはし給ひてとみに物ものたまはず。さまかはれる御住まひにみすの端み几帳も靑にびにてひまひまよりほの見えたる薄にびくちなしの袖口など、なかなかなまめかしう奧ゆかしう思ひやられ給ふ。解け渡る池の薄氷岸の柳の氣色ばかりは、時を忘れぬなどさまざまながめられ給ひて「むべも心あると」忍びやかに打ちずじ給へるまたなうなまめかし。

 「ながめかる海士のすみかと見るからにまづしほたるゝ松が浦島」ときこえ給へば、奧深うもあらず皆佛に讓り聞え給へるおまし所なれば少し氣近き心ちして、

 「ありし世のなごりだになき浦島に立ちよる浪のめづらしきかな」とのたまふもほの聞ゆれば、忍ぶれど淚ほろほろとこぼれ給ひぬ。世を思ひすましたる尼君達の見るらむもはしたなければ言ずくなにて出で給ひぬ。「さも類なくねびまさり給ふかな。心もとなき所なく世に榮え時にあひ給ひし時はさるひとつものにて、何につけてか世をおぼし知らむと推し量られ給ひしを、今はいといたうおぼししづめてはかなき事につけてもものあはれなる氣色さへ添はせ給へるはあいなう心苦しうもあるかな」など老いしらへる人々うち泣きつゝめで聞ゆ。宮もおぼし出づる事多かり。司召の頃、この宮の人は賜はるべきつかさも得ず、大方のだうりにても宮の御たうばりにても必ずあるべき加階などをだにせずなどして歎くたぐひいと多かり。かくてもいつしかと御位を去りみふなどのとまるべきにもあらぬをことづけて變ること多かり。皆かねておぼし捨てゝし世なれど、宮人どもゝよりどころなげに悲しと思へる氣色どもにつけてぞ御心動く折々あれど、我身をなきになしても東宮の御代をたひらかにおはしまさばとのみおぼしつゝ御おこないたゆみなく勤めさせ給ふ。「人しれず危くゆゝしう思ひ聞え給ふ事しあればわれにその罪をかろめて免し給へ」と佛を念じ聞え給ふに萬を慰め給ふ。大將もしか見奉り給ひてことわりとおぼす。この殿の人どもゝ又同じさまに辛きことのみあれば、世の中はしたなくおぼされて籠りおはす。左のおとゞもおほやけわたくし引きかへたる世の有樣に物憂くおぼして致仕の表奉り給ふを帝は故院のやんごとなく重き御後見とおぼして長き世のかためと聞え置き給ひし御ゆゐごんをおぼし召すに、捨て難きものに思ひ聞え給へるにかひなき事と度々用ゐさせ給はねど、せめてかへさひ申し給ひて籠り居給ひぬ。今はいとゞひとぞうのみ返すがへす榮え給ふ事限なし。世のおもしと物し給へるおとゞのかく世を遁れ給へば、おほやけも心ぼそうおぼされ世の人も心あるかぎりは歎きけり。御子どもはいづれともなく人がらめやすく世に用ゐられて心地よげに物し給ひしを、こよなうしづまりて三位中將なども世を思ひしづめるさまこよなし。かの四の君をも猶かれがれに打ち通ひつゝめざましうもてなされたれば心解けたる御聟の中にも入れ給はず、思ひ知れとにやこの度の司召にも漏れぬれどいとしも思ひ入れず。大將殿かうしづかにておはするに世ははかなきものと見えぬるをましてことわりとおぼしなして常に參り通ひ給ひつゝ學問をし遊をも諸共にし給ふ。いにしへも物ぐるほしきまで挑み聞え給ひしをおぼし出でゝ、かたみに今もはかなき事につけつゝさすがに挑み給へり。春秋のみど經をばさるものにて臨時にもさまざま尊き事どもをせさせ給ひなどして、又徒に暇ありて宮仕をもをさをさし給はず、御心に任せてうち遊びておはするを、世の中には煩はしき事どもやうやう言ひ出づる人々あるべし。夏の雨のどかに降りてつれづれなるころ、中將さるべき集ども數多もたせて參り給へり。殿にも、ふ殿あけさせ給ひて、まだひらかぬみ厨子どもの珍しき古集のゆゑなからぬ少しえり出でさせ給ひて、その道の人々わざとはあらねどあまた召したり。殿上人も大學のもいと多う集ひてひだりみぎにこまどりにかたわかたせ給へり。掛物どもなどいと二なくて挑みあへり。ふたぎもて行くまゝに難き韻の文字どもいと多くておぼえある博士どもなどの惑ふ所々を、時々うちのたまふさまいとこよなき御才の程なり。いかでかうしも足らひ給ひけむ、猶さるべきにて萬の事人に勝れ給へるなりけり」とめで聞ゆ。遂に右まけにけり。二日ばかりありて中將まけわざし給へり。ことごとしうはあらでなまめきたるひわりごとも掛物などさまざまにて、今日も例の人々多く召して文など作らせ給ふ。はしのもとのさうび氣色ばかり咲きて春秋の花盛よりもしめやかにをかしき程なるにうち解け遊び給ふ。中將の御子の今年始めて殿上する八つ九つばかりにて聲いとおもしろくさうの笛吹きなどするをうつくしみもて遊び給ふ。四の君腹の二郞なりけり。世の人の思へるよせ重くておぼえ殊にかしづけり。心ばへもかどかどしうかたちもをかしくて、御遊の少しみだれゆく程に高砂を出だしてうたふ、いとうつくし。大將の君御ぞぬぎてかづけ給ふ。例よりはうちみだれ給へる御顏のにほひ似るものなく見ゆ。うすもののなほしひとへを着給へるに透き給へる肌つきましていみじう見ゆるを、年老いたる博士どもなど遠く見奉りて淚落しつゝ居たり。「あはましものをさゆりばの」とうたふとぢめに中將御かはらけまゐり給ふ。

 「それもかとけさひらけたるはつ花に劣らぬ君がにほひをぞ見る」。ほゝゑみて取り給ふ。

 「時ならで今朝さく花は夏の雨にしをれにけらし匂ふほどなく。おとろへにたる物を」とうちさうどきてらうがはしくきこし召しなすを咎め出でつゝ强ひ聞え給ふ。多かめりし事どもかやうなる折のまほならぬ事數々に書きつくる心なきわざとか、貫之が諫めたうるゝ方にてむつかしければとゞめつ。皆この御事を譽めたるすぢにのみ倭のもからのも作り續けたり。我が御心地にもいたうおぼし奢りて「文王の子武王の弟」とうちずじ給へる御名のりさへぞげにめでたき。成王の何とかのたまはむとすらむ、そればかりや又心もとなからむ。兵部卿宮も常に渡り給ひつゝ御遊などもをかしうおはする宮なれば、今めかしき御あはひどもなり。

その頃かんの君罷で給へり。わらはやみに久しう惱み給ひてまじなひなども心やすくせむとてなりけり。ず法など始めて、怠り給ひぬれば誰も誰も嬉しうおぼすに、例の珍しきひまなるをと聞えかはし給ひてわりなきさまにてよなよなたいめし給ふ。いと盛に賑はゝしきけはひし給へる人の少しうち惱みて瘦々になり給へる程いとをかしげなり。きさいの宮も一所におはする頃なればけはひいと恐ろしけれど、かゝる事しもまさる御癖なれば、いと忍びて度かさなり行けば氣色見る人々もあるべかめれど、煩はしうて宮にはさなむとは啓せず。おとゞはた思ひかけ給はぬに、雨俄におどろおどろしう降りて神いたう鳴りさわぐ曉に、殿のきんだちみやつかさなど立ちさわぎて此方彼方の人目しげく女房どもゝおぢ惑ひて近う集ひまゐるに、いとわりなく出で給はむ方なくて明けはてぬ。み帳のめぐりにも人々しげくなみ居たればいと胸つぶらはしくおぼさる。心しりの人二人ばかり心を惑はす。神なりやみ雨少しをやみぬるほどにおとゞ渡り給ひて、まづ宮の御方におはしけるを村雨のまぎれにてえしり給はぬに輕らかにふとはひ入り給ひてみす引き上げ給ふまゝに「いかにぞいとうたてありつる夜のさまに、思ひやり聞えながら參り來でなむ、中將宮の亮など侍ひつや」などのたまふけはひのしたどにあはつけきを、大將は物のまぎれにも左のおとゞの御有樣ふとおぼしくらべられてたとしへなうぞほゝゑまれ給ふ。げに入りはてゝものたまへかしな。かんの君いと侘しうおぼされてやをらゐざり出で給ふに、おもての赤みたるを猶惱ましうおぼさるゝにやと見給ひて「など御氣色の例ならぬものゝけなどのむつかしきをずほう延べさすべかりけり」とのたまふに、薄二藍なる帶の御ぞにまつはれて引き出でられたるを見つけ給ひて怪しとおぼすに、又たゝう紙の手習などしたる御几帳のもとに落ちたりけり。これは如何なるものどもぞと御心驚かれて、「かれはたれかぞ。氣色殊なるものゝさまかな。賜へ。それとりてたがぞと見侍らむ」とのたまふにぞ、うち見かへりてわれも見つけ給へる、紛はすべき方もなければいかゞはいらへ聞え給はむ。われにもあらでおはするを、子ながらも恥しとおぼすらむかしとさばかりの人はおぼし憚るべきぞかし。されどいと急にのどめたる所おはせぬおとゞのおぼしもまはさずなりて疊紙をとり給ふまゝに几帳より見入れ給へるに、いといたうなよびてつゝましからず添ひ臥したる男もあり。今ぞやをら顏引き隱してとかくまぎらはす。あさましう目ざましう心やましけれど、ひたおもてにはいかでか顯し給はむ。目もくるゝ心地すればその疊紙をとりて寢殿へ渡り給ひぬ。かんの君はわれかの心地して死ぬべくおぼさる。大將殿もいとほしう遂にようなきふるまひの積りて人のもどきを負はむとすることとおぼせど、女君の心苦しき御氣色をとかく慰め聞え給ふ。おとゞは思ひのまゝに龍めたる所おはせぬ本じやうにいとゞ老の御ひがみさへ添ひにたれば何事にかは滯り給はむ、ゆくゆくと宮にも憂へ聞え給ふ。「かうかうの事なむ侍るをこの疊紙は右大將の御手なり、昔も心免されてありそめにける事なれど、人柄に萬の罪を免してさても見むといひ侍りし折は心も留めずめざましげにもてなされにしかば安からず思ひ給へしかど、さるべきにこそはとて世に穢れたりともおぼし棄つまじきをたのみにてかくほいの如く奉りながら、猶そのはゞかりありてうけばりたる女御などもいはせ侍らぬをだに飽かず口惜しう思ひ給ふるに、又かゝることさへ侍りければ更にいと心うくなむ思ひなり侍りぬる。男の例とはいひながら大將もいとけしからぬ御心なりけり。齋院をも猶聞え犯しつゝ忍びに御文通はしなどして氣色あることなど人の語り侍りしをも、世のためのみにもあらず我がためにもよかるまじき事なれば、よもさる思ひやりなきわざし出でられじとなむ、時のいうそくと天の下を靡かし給へるさまことなめれば大將の御心を疑ひ侍らざりつる」などのたまふに、宮はいとゞしき御心なればいとものしき御氣色にて「帝と聞ゆれど昔より皆人思ひおとし聞えて致仕のおとゞもまたなくかしづくひとつむすめをこのかみの坊にておはするには奉らで、弟の源氏にて稚きが元服のそひぶしにとりわき、又この君をも宮仕にと志して侍りしに、をこがましかりし有樣なりしを誰も誰もあやしとやおぼしたりし、皆かのみかたにこそ御心よせ侍るめりしを、そのほい違ふさまにてこそはかくても侍ひ給ふめれど、いとほしさにいかでさる方にても人に劣らぬさまにもてなし聞えむ。さばかりねたげなりし人の見る所もありなどこそは思ひ侍りつれど、强ひて我心の入る方に靡き給ふにこそは侍らめ。齋院の御事はましてさもあらむ。何事につけてもおほやけの御方に後やすからず見ゆるは、春宮の御世心よせ異なる人なればことわりになむあめる」とすくずくしうのたまひ續くるにさすがにいとほしう、など聞えつる事ぞとおぼさるれば「さばれしばしこの事もらし侍らじ。內にも奏せさせ給ふな。かくのごと罪侍りともおぼしすつまじきをたのみにて、あまえて侍るなるべし。內々に制しのたまはむに聞き侍らずは。その罪にはみづからあたり侍らむ」など聞えなほし給へど殊に御氣色もなほらず。かく一所におはしてひまもなきにつゝむ所なうさて入り物せらるらむは、殊に輕めろうぜらるゝにこそはとおぼしなすにいとゞいみじうめざましく、この序にさるべき事どもかまへ出でむによきたよりなりとおぼしめぐらすべし。


花散里

人しれぬ御心づからの物思はしさはいつとなきことなめれど、かく大方の世につけてさへ煩はしうおぼし亂るゝことのみまされば、物心ぼそく世の中なべて厭はしうおぼしならるゝにさすがなる事多かり。麗景殿と聞えしは宮たちもおはせず、院隱れさせ給ひて後いよいよあはれなる御有樣を唯この大將殿の御心にもてかくされて過ぐし給ふなるべし。御弟の三の君、うちわたりにてはかなくほのめき給ひし名殘例の御心なればさすがに忘れもはて給はず、わざとももてなし給はぬに人の御心をのみ盡しはて給ふべかめるをも、このごろ殘ることなくおぼし亂るゝ世のあはれのくさはひには思ひ出で給ふに忍びがたくて、五月雨の空珍らしう晴れたる雲間にわたり給ふ。何ばかりの御よそひなくうちやつしてごぜんなども殊になく忍び給へり。中川の程おはするにさゝやかなる家の木立などよしばめるに、能くなる琴をあづまに調べて搔き合せ賑はゝしく彈き鳴すなり。御耳とまりて門近なる所なれば少しさし出でゝ見入れ給へば、大なる桂の木の追風に祭の頃おぼし出でられてそこはかとなくけはひをかしきを、唯一目見給ひしやどりなりと思ひ出で給ふにたゞならず程經にけるをおぼめかしくやとつゝましけれど過ぎがてにやすらひ給ふ。折しも郭公鳴きてわたる。もよほし聞えがほなれば御事推し返させ給ひて例の惟光を入れ給ふ。

 「をちかへりえぞ忍ばれぬほとゝぎすほのかたらひし宿のかきねに」。寢殿とおぼしき屋の西のつまに人々居たり。さきざきも聞き知る聲なりければこわづくり氣色とりて御せうそこ聞ゆ。若やかなる氣色どもあまたしておぼめくなるべし。

 「郭公ことゝふ聲はそれなれどあなおぼつかなさみだれのそら」。殊更にたどると見れば「よしよしうゑし垣根も」とて出づるを、人知れぬ心には妬うもあはれにも思ひけり。さもつゝむべきことぞかし。ことわりにもあればさすがなり。かやうのきはに筑紫の五節こそらうたげなりしはやとまづおぼし出づ。いかなるにつけても御心の暇なく年月を經ても苦しげなり。猶かうやうに見しあたりのなさけは過ぐし給はぬにしもなかなかあまたの人の物思ひぐさなり。さてかのほいの所はおぼしやりつるもしるく、人めなくしづかにておはする有樣を見給ふもいとあはれなり。まづ女御の御方にて昔の御物語など聞え給ふに夜更けにけり。二十日の月さし出づる程に、いとゞ木高きかげどもこぐらう見えわたりて、近き橘のかをりなつかしく匂ひて女御の御けはひねびにたれどあくまで用意ありあてにらうたげなり。すぐれて花やかなる御おぼえこそなかりしかどむつまじうなつかしきにはおぼしたりしものをなど思ひ出で聞え給ふにつけても、昔の事かきつらねおぼされてうちなき給ふ。郭公ありつる垣根のにや同じ聲にうちなく。慕ひきにけるよとおぼさるゝほども艷なりかし。「いかに知りてか」など忍びやかにうち誦じ給ふ。

 「橘の香をなつかしみほとゝぎすはなちる里をたづねてぞとふ。いにしへの忘れがたきなぐさめにはまづ參り侍りぬべかりけり。こよなうこそ紛るゝ事も數そふ事も侍りけれ。大方の世に隨ふものなれば昔語もかきくづすべき人少うなり行くを、ましていかにつれづれも紛るゝことなくおぼさるらむ」と聞え給ふに、いとさらなる世なれど物をいとあはれとおぼしつゞけたる御氣色の淺からぬも人の御さまからにや。多く哀ぞ添ひにける。

 「人めなく荒れたる宿はたちばなの花こそのきのつまとなりけれ」とばかりのたまへるも、さはいへど人にはいと異なりけりとおぼしくらべらる。西面にはわざとなく忍びやかにうちふるまひ給ひて覗き給へるも珍しきにそへて、よそにめなれぬ御さまなればつらさも忘れぬべし。何やかやと例のなつかしく語らひ給ふもおぼさぬ事にはあらざるべし。假にも見給ふかぎりは押しなべてのきはにはあらねばにや。さまざまにつけていふかひなしとおぼさるゝはなければにや。にくげなく我も人もなさけをかはしつゝ過ぐし給ふなりけり。それをあいなしと思ふ人はとかくにかはるもことわりの世のさがと思ひなし給ふ。ありつる垣根もさやうにてありさまかはりにたるあたりなりけり。


須磨

世の中いと煩はしくはしたなきことのみまされば、せめてしらず顏にありへてもこれより優る事もやとおぼしなりぬ。かの須磨は昔こそ人の住かなどもありけれ、今はいと里ばなれ心すごくて海士の家だに稀になど聞き給へど、人しげくひたゝけたらむ住ひはいとほいなかるべし、さりとて都をとほざからむも故里おぼつかなかるべきを、人わろくぞおぼしみだるゝ。萬の事きしかた行く末思ひ續け給ふに悲しき事いとさまざまなり。うきものと思ひ捨てつる世も今はと住み離れなむことをおぼすにはいと捨て難き事多かる中にも、姬君の明暮にそへても思ひ歎き給へるさまの心苦しさは何事にもすぐれてあはれなるを、行きめぐりてもまた逢ひ見むことを必ずとおぼさむにてだに、猶一二日のほどよをよそに明かし暮らす折々だに、覺束なきにものおぼえ、女君も心細うのみ思う給へるを、幾とせその程と限ある道にもあらず、逢ふをかぎりに隔たり行かむもさだめなき世にやがて別るべき門出にもやといみじう覺え給へば、忍びて諸共にもやとおぼしよるをりあれど、さる心細からむ海づらの波風より外に立ちまじる人もなからむに、斯らうたき御さまにて引き具し給へらむもいとつきなく、我心にもなかなか物思ひのつまなるべきをなどおぼし返すを、女君はいみじからむ道にも後れ聞えずだにあらばとおもむけてうらめしげにおぼいたり。かの花散里にもおはし通ふ事こそ稀なれ、心ぼそくあはれなる御有樣をこの御蔭に隱れて物し給へば、いみじう歎きおぼしたるさまいとことわりなり。なほざりにてもほのかに見奉り通ひ給ひし所々、人しれぬ心を碎き給ふ人ぞ多かりける。入道の宮よりも物の聞えや又いかゞとりなされむと我が御ためつゝましけれど、忍びつゝ御とぶらひ常にあり。昔かやうにあひおぼし哀れをも見せ給はましかばとうち思ひ出で給ふに、さもさまざまに心をのみ盡すべかりける人の御契かなとつらう思ひ聞え給ふ。やよひはつかあまりの程になむ都離れ給ひける。人に今としも知らせ給はず、唯いと近う仕うまつり馴れたるかぎり七八人ばかり御供にていとかすかにて出で立ち給ふ。さるべき所々に御丈ばかりうち忍び給ひしにも哀れと忍ばるばかり書き盡し給へるは見どころもありぬべかりしかど、その折の心地のまぎれにはかばかしくも聞き置かずなりにけり。二三日かねておほい殿に世に隱れて渡り給へり。網代車のうちやつれたるに女のやうにてかくろへ入り給ふもいとあはれに夢とのみおぼゆ。御方いと寂しげにうち荒れたる心地して、若君の御めのとゞもむかし侍ひし人の中に、まかで散らぬかぎり、かく渡り給へるを珍しがり聞えてまうのぼり集ひて見奉るにつけても、殊に物深からぬ若き人々さへ世の常なさ思ひ知られて淚にくれたり。若君はいと美しうてざれ走りおはしたり。「久しき程に忘れぬこそ哀なれ」とて、膝にすゑ給へる御氣色忍びがたげなり。おとゞこなたに渡り給ひてたいめし給へり。つれづれに籠らせ給へらむ程何と侍らぬ昔物語も參り來て聞えさせむと思ひ給ふれど、身の病おもきによりおほやけにも仕うまつらず、位をも返し奉りて侍るに、私ざまには腰のべてなど物の聞えひがひがしかるべきを、今は世の中憚るべき身にも侍らねどいちはやき世のいと恐しう侍るなり。かゝる御事を見給ふるにつけて命長きは心うく思う給へらるゝ世の末にも侍るかな。天の下をさかさまになしても思ひ給へよらざりし御有樣を見給ふれば、萬いとあぢきなくなむ」と聞え給ひていたうしほたれ給ふ。「とあることもかゝることもさきの世の報にこそ侍るなれば、いひもて行けば唯自らの怠になむ侍る。さしてかく官ざくを取られずあさはかなる事にかゝづらひてだにおほやけのかしこまりなる人のうつしざまにて世の中にありふるはとが重きわざにひとの國にもし侍るなるを、遠く放ち遣すべきさだめなども侍るなるはさま殊なる罪に當るべきにこそ侍るなれ。濁なき心に任せてつれなく過ぐし侍らむもいとはゞかり多く、これより大なる恥に臨まぬさきに世を遁れなむと思う給へ立ちぬる」など細やかに聞え給ふ。昔の御物語院の御事おぼしのたまはせし御心ばへなど聞え出で給ひて御直衣の袖もひき放ち給はぬに、君もえ心强くももてなし紿はず。若君の何心なく紛れありきてこれかれに馴れ聞え給ふをいみじとおぼしたり。「過ぎ侍りにし人を世に思う給へ忘るゝ世なくのみ今に悲しび侍るを、この御事になむ、もし侍る世ならましかばいかやうに思ひ歎き侍らまし。よくぞ短くてかゝる夢を見ずなりにけると思う給へ慰め侍る。幼くものし給ふがかく齡過ぎぬる中にとゞまり給ひてなづさひ聞えぬ月日や隔たり給はむと思ひ給ふるをなむ萬の事よりも悲しう侍る。いにしへの人も誠にをかしあるにてしもかゝる事に當らざりけり。猶さるべきにて人のみかどにもかゝる類多く侍りけり。されど言ひ出づるふしありてこそさる事も侍りけれ。とざまかうざまに思ひ給へよらむ方なくなむ」など多くの御物語聞え給ふ。三位中將も參り合ひ給ひておほみきなどまゐり給ふに夜更けぬればとまり給ひて人々御前に待はせ給ひて物語などせさせ給ふ。人よりはげにこよなう忍びおぼす。中納言の君いへばえに悲しう思へるさまを人知れず哀れとおぼす。人皆靜まりぬるに取りわきて語らひ給ふ。これによりとまり給へるなるべし。明けぬれば夜深う出で給ふに有明の月いとをかしう花の木どもやうやう盛過ぎて僅なる木蔭のいとおもしろき庭に薄くきり渡りたるそこはかとなく霞みあひて秋の夜のあはれに多くたちまされり。隅のまの高欄におしかゝりてとばかり眺め給ふ。中納言の君見奉り送らむとにや妻戶押しあけて居たり。「又たいめんあらむとこそ思へばいと難けれ。かゝりけむ世を知らで心安くもありぬべかりし月比をさしも急がで隔てけるよ」などへの給へば、物も聞えずなく。若君の御乳母、宰相の君して宮の御まへより御せうそこ聞え給へり。「自らも聞えまほしきをかきくらすみだり心地ためらひ侍る程に、いと夜深う出でさせ給ふなるも變りたる心地のみし侍るかな。心苦しき人のいぎたなき程は暫しもやすらはせ給はで」と聞え給へれば、うちなき給ひて、

 「鳥部山もえし煙もまがふやとあまの鹽やくうらみにぞゆく」。御かへしともなくうちずし給ひて「曉の別はかうのみやは心づくしなる。思ひしり給へる人もあらむかし」とのたまへば「いつとなく別といふ文字こそうたて侍るなる中にも、けさは猶たぐひあるまじう思ひ給へらるゝ程かな」と鼻聲にてげに淺からず思へり。「聞えさせまほしきことも返すがへす思う給へながら、唯むすぼゝれ侍る程推し量らせ給へ。いぎたなき人は見給へむにつけてもなかなか浮世遁れ難う思ひ給へられぬべければ、心强く思う給へなして急ぎまかで侍り」と聞え給ふ。出で給ふほどを人々覗きて見奉る。入方の月いと明きにいとゞなまめかしう淸らにて物をおぼいたるさま虎狠だにもなきぬべし。ましていはけなくおはせし程より見奉りそめてし人々なれば、たとしへなき御有樣をいみじと思ふ。まことや御かへし。

 「なき人のわかれやいとゞへだゝらむ煙となりし雲居ならでは」。取りそへてあはれのみつきせず出で給ひぬる名殘ゆゝしきまで泣きあへり。殿におはしたれば、我が御方の人々もまどろまざりける氣色にて所々に群れ居て、あさましとのみ世を思へる氣色なり。さぶらひには親しう仕うまつるかぎりは御供に參るべき心まうけして私のわかれ惜むほどにや、人めもなし。さらぬ人はとぶらひ參るも重きとがめあり。煩はしき事まされば所せく集ひし馬車のかたもなくさびしきに世は憂きものなりけりとおぼし知らる。臺はんなどもかたへはちりばみて疊所々ひきかへしたり。見るほどだにかゝり、まして如何に荒れゆかむとおぼす。西の對に渡り給へればみかうしも參らでながめ明かし給ひければ簀子などに若きわらはべ所々に臥して今ぞ起きさわぐ。とのゐ姿どもをかしうて出で入るを見給ふにも心ぼそう、年月へばかゝる人々もえしもありはてゞや行きちらむなど、さしもあるまじき事さへ御目のみとまりけり。「よべはしかじかして夜更けにしかばなむ。例の思はずなるさまにや覺しなしつる。かくて侍る程だに御めかれずと思ふをかく世を離るゝきはには心苦しきことのおのづから多かりけるを、ひたやごもりにてやは。常なき世に人にもなさけなきものと心おかれはてむもいとほしうてなむ」と聞え給へば「かゝる世を見るより外に思はずなることは、何事にか」とばかりの給ひて、いみじとおぼし入りたるさま人より異なるを、ことわりぞかし、父みこはいとおろかにてもとよりおぼしつきにけるに、まして世の聞えを煩はしがりて音づれ聞え給はず。御とらぶひにだに渡り給はぬを人の見るらむ事も耻しくなかなか知られ奉らでやみなましを、繼母の北の方などの世に俄なりしさいはひのあわたゞしさ、あなゆゝしや。思ふ人々かたがたにつけて別れ給ふ人かなとのたまひけるを、さる便ありて漏り聞き給ふにもいみじう心苦しければこれよりも絕えて音づれ聞え給はず、又たのもしき人もなくげにぞあはれなる御有樣なる。「猶世に免され難うて年月を經ばいはほの中にも迎へ奉らむ。只今は人ぎゝのいとつきなかるべきなり。おほやけにかしこまり聞ゆる人は明なる月日の影をだに見ず、安らかに身をふるまふこともいと罪おもかなり。あやまちなけれどさるべきにこそかゝる事もあめれと思ふに、まして思ふ人具するは例なきことなるを、ひたおもむきに物ぐるほしき世にて立ちまさる事もありなむ」など聞え知らせ給ふ。日たくるまで大殿籠れり。そちの宮三位中將などおはしたり。たいめし給はむとて御なほしなど奉る。位なき人はとて、無紋の御直衣なかなかいと懷しきを着給ひて打ちやつれ給へるいとめでたし。御鬢かき給ふとて鏡臺に寄り給へるに、而瘦せ給へる影の我ながらいとあてに淸らなれば、「こよなうこそ衰へにけれ。この影のやうにや瘦せて侍る、哀なるわざかな」とのたまへば、女君淚をひとめうけて見おこせ給へるいと忍びがたし。

 「身はかくてさすらへぬとも君があたりさらぬ鏡の影ははなれじ」ときこえ給へば、

 「別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし」。いふともなくて柱かくれに居隱れて淚をまぎらはし給へるさま、猶こゝら見る中にたぐひなかりけりとおぼし知らるゝ人の御有樣なり。みこはあはれなる御物語聞え給ひて暮るゝ程に還り給ひぬ。花散里の心細げにおぼして常に聞え給ふもことわりにて、かの人も今一度見ずばつらしとや思はむとおぼせば、その夜はまた出で給ふものからいと物うくていたうふかしておはしたれば、女御「かくかずまへ給ひて立ちよらせ給へること」と喜び聞え給ふさま、書きつゞけむもうるさし。いといみじう心細き御有樣、唯この御かげに隱れてすぐい給へる年月、いとゞ荒れまさらむ程おぼしやられて殿の內いとかすかなり。月おぼろにさし出でゝ池廣く山こぶかきわたり、心ぼそげに見ゆるにも住み離れたらむいはほの中おぼしやらる。西面にはかうしもわたり給はずやとうちくしておぼしけるに、あはれ添へたる月影のなまめかしうしめやかなるにうちふるまひ給へるにほひ似るものなくていと忍びやかに入り給へば、少しゐざり出でゝやがて月を見ておはす。又こゝに御物語のほどに明方近うなりにけり。「短夜のほどや。かばかりのたいめんも又はえしもやと思ふこそ事なしにて過ぐしつる年比もくやしう、來しかた行くさきの例になりぬべき身にて何となく心のとまる世なくこそありけれ」と過ぎにし方の事どものたまひて、鳥もしばしばなけばよにつゝみて急ぎ出で給ふ。例の月の入りはつる程よそへられてあはれなり。女君の濃き御ぞにうつりてげにぬるゝがほなれば、

 「月かげのやどれる袖はせばくともとめても見ばやあかぬひかりを」。いみじとおぼいたるが心苦しければかつは慰め聞え給ふ。

 「行きめぐりつひにすむべき月影のしばし曇らむ空なながめそ。思へばはかなしや。たゞ知らぬ淚のみこそ心をくらすものなれ」などの給ひて明暮のほどに出で給ひぬ。萬の事どもしたゝめさせ給ふ。親しう仕うまつり世になびかぬかぎりの人々、殿の事とり行ふべき上下定め置かせ給ふ。御供に隨ひ聞ゆるかぎりはまたえり出で給へり。かの山里の御すみかの具はえさらずとり使ひ給ふべきものども殊更によそひもなくことそぎて、又さるべきふみどもぶんじふなど入れたる箱、さてはきん一つぞもたせ給ふ。所せき御調度花やかなる御よそひなど更に具し給はず。あやしの山がつめきてもてなし給ふ。侍ふ人々よりはじめ萬の事皆西の對に聞えわたし給ふ。領じ給ふみ庄御牧より初めてさるべき所々の券など皆奉りおき給ふ。それより外のみくらまちをさめどのなどいふことまで、少納言をはかばかしきものに見置き給へれば、親しきけいしども具してしろしめすべきさまどものたまひあづく。我が御方の中務中將などやうの人々、つれなき御もてなしながら見奉る程こそ慰めつれ、何事につけてかと思へども「命ありてこの世に又歸るやうもあらむを待ちつけむと思はむ人はこなたに侍らへ」とのたまひて、上下皆まう上らせ給ひてさるべきものども品々くばらせ給ふ。若君の御乳母達花散里などにもをかしきさまのはさるものにてまめまめしきすぢにおぼしよらぬことなし。ないしのかみの御許にわりなくして聞え給ふ。「問はせ給はぬもことわりに思ひ給へながら、今はと世を思う給へ侍るほどの憂さもつらさも類なきことにてこそ侍りけれ。

  逢ふ瀨なきなみだの河にしづみしや流るゝみをのはじめなりけむと思ひ給へ出づるのみなむ罪遁れ難う侍りける」道のほどもあやうければこまかには聞え給はず。女いといみじうおぼえ給ひて忍び給へど御袖よりあまるも所せくなむ。

 「なみだ河うかぶみなわも消えぬべし流れて後の瀨をもまたずて」。なくなく亂れかき給へる御手いとをかしげなり。今一度たいめなくてやとおぼすは、猶口惜しけれどおぼし返して憂しとおぼしなすゆかり多くておぼろけならず忍び給へば、いとあながちにも聞え給はずなりぬ。明日とての暮には院の御墓拜み奉り給ふとて北山へまうで給ふ。曉かけて月出づる比なればまづ入道の宮に參うで給ふ。近き御簾の前におましまゐりて御みづから聞えさせ袷ふ。春宮の御事をいみじくうしろめたきものに思ひ聞え給ふ。かたみに心深きどちの御物語はた萬のあはれまさりけむかし。懷しうめでたき御けはひの昔にかはらぬに、つらかりし御心ばへもかすめ聞えさせまほしけれど今更にうたてとおぼさるべし。我御心にもなかなか今ひときは亂れまさりぬべければ念じかへして「唯かく思ひかけぬ罪に當り侍るも思う給へあはする事の一ふしになむそらおそろしう侍る。をしげなき身はなきになしても宮の御世だに事なくおはしまさば」とのみ聞え給ふぞことわりなるや。宮も皆おぼし知らるゝ事にしあれば御心のみ動きて聞えやり給はず。大將萬の事かき集めおぼしつゞけて泣き給へる氣色、いと盡きせずなまめきたり。「御山に參り侍るを御ことつてや」と聞え給ふにとみに物も聞え給はず、わりなくためらひ給ふ御氣色なり。

 「見しはなくあるは悲しき世のはてを背きしかひもなくなくぞふる」。いみじき御心惑ひどもにおぼし集むることゞもえぞつゞけさせ給はぬ。

 「別れしに悲しきことはつきにしをまたぞこの世のうさはまされる」。月まち出でゝ出で給ふ。御供に唯五六人ばかり、しも人もむつましき限して御馬にてぞおはする。さらなる事なれどありし世の御ありきに異なり。皆いと悲しう思ふ中にかの御禊の日假の御隨身にて仕うまつりし右近のぞうの藏人、うべきかうふりも程すぎつるをつひにみふだけづられてつかさも取られてはしたなければ、御供に參るうちなり。賀茂の下の御社をかれと見渡すほどふと思ひ出でられて、おりて御馬の口をとる。

  ひきつれて葵かざしゝそのかみを思へばつらし賀茂のみづかき」といふを、げにいかゞ思ふらむ、人よりけに花やかなりしものをとおぼすも心ぐるし。君も御馬よりおり給ひて御社の方を拜み給ふとて、神にまかり申しし給ふ。

 「うき世をば今ぞわかるゝとゞまゝらむ名をばたゞすの神にまかせて」との給ふさま物めでする若き人にて身にしみてあはれにめでたしと見奉る。御山にまうで給ひておはしましゝ御有樣唯目の前のやうにおぼし出でらる。かぎりなきにても世になくなりぬる人ぞ言はむ方なく口惜しきわざなりける。萬の事をなくなく申し給ひてもそのことわりをあらはにえ承り給はねば、さばかりおぼしのたまはせしさまざまの御ゆいごんはいづちへか消え失せにけむといふかひなし。御墓は道の草しげくなりて分け入り給ふほどいとゞ露けきに、月も雲がくれて森の木立こぶかく心すごし。歸り出でむ方もなき心地して拜み給ふに、ありし御面影さやかに見え給へる、そゞろ寒きほどなり。

 「なきかげやいかゞ見るらむよそへつゝながむる月も雲がくれぬる」。明けはつる程に歸り給ひて御せうそこ聞え給ふ。王命婦を御かはりとて侍はせ給へばその局にとて「今日なむ都はなれ侍る。又參り侍らずなりぬるなむ數多の憂にまさりて思う給へられ侍る。よろづ推し量りて啓し給へ。

いつかまた春のみやこの花を見む時うしなへる山がつにして」。櫻の散りすきたる枝につけ給へり。「かくなむと」御覽ぜさすれば、幼き御心地にもまめだちておはします。「御かへしいかゞ物し侍らむ」と啓すれは、「暫し見ぬだに戀しきものを、遠くはましていかにといへかし」とのたまはす。ものはかなの御かへりやとあはれに見奉る。あぢきなきことに御心を碎き給ひし昔の事折々の御有樣思ひ續けらるゝにも、物思ひなくて我も人も過ぐし給ひつべかりける世を、心とおぼし歎きけるを、くやしう我心ひとつにかゝらむことのやうにぞおぼゆる。「御返りは更に聞えさせやり侍らず、おまへには啓し侍りぬ。心細げにおぼし召したる御氣色もいみじうなむ」とそこはかとなく心の亂れけるなるべし。

 「咲きてとく散るはうけれど行く春は花の都を立ちかへりみよ。時しあらば」と聞えて名殘もあはれなる物語をしつゝ、ひと宮のうち忍びて泣きあへり。ひとめも見奉れる人は、かくおぼしくづほれぬる御有樣を歎き惜み聞えぬ人なし。まして常に參り馴れたりしは、知り及び給ふまじきをさめみかはやうどまでもありがたき御かへりみのしたなりつるを暫しにても見奉らぬ程や經むと思ひ歎きたり。大方の世の人も誰かはよろしく思ひ聞えむ。七つになり給ひしよりこのかた、帝の御前によるひる侍ひ給ひて奏し給ふ事のならぬはなかりしかば、この御いたはりにかゝらぬ人なく御德を喜ばぬやはありし。やんごとなき上達部辨官などの中にも多かり。それよりしもは數知らず。思ひ知らぬにはあらねどさしあたりてはいちはやき世を思ひ憚りて參り寄る人もなし。世ゆすりて惜み聞え、したにはおほやけをそしり恨み奉れど、身を捨てゝとぶらひ參らむにも何のかひかはと思ふにや。かゝる折は人わろくうらめしき人多く世の中はあぢきなきものかなとのみ萬につけておぼす。その日は女君に御物語のどやかに聞え暮し給ひて、例の夜深く出で給ふ。假の御ぞなど旅の御よそひいたくやつし給ひて「月出でにけりな、猶少し出でゝ見だに送り給へかし。いかに聞ゆべき事多くつもりにけりとのみおほえむとすらむ。一日二日たまさかに隔つる折だに怪しういぶせき心地するものを」とて御簾まき上げて端の方にいざなひ聞え給へば、女君泣きしづみ給へる、ためらひてゐざり出で給へる。月影〈にイ有〉いみじうをかしげにて居給へり。我が身かくてはかなき世を別れなばいかなるさまにさすらひ給はむと後めたく悲しけれど、おぼしいりたるがいとゞしかるべければ、

 「いける世のわかれを知らで契りつゝ命を人にかぎりけるかな。はかなしなどあさはかに聞えなし給へば、

 「をしからぬ命にかへて目の前の心かれをしばしとゞめてしがな」。げにさぞおぼさるらむといと見拾て難けれど、明けはてなばはしたなかるべきにより急ぎ出で給ひぬ。道すがら面影につとそひて胸もふたがりながら御船に乘り給ひぬ。日長き頃なれば、追風さへそひてまだ申の時ばかりにかの浦に着き給ひぬ。かりそめの道にてもかゝる旅をならひ給はぬ心地に、心ぼそさもをかしさもめづらかなり。おほえ殿と言ひける所は、いたく荒れて松ばかりぞしるしなりける。

 「から國に名をのこしける人よりもゆくへ知られぬ家居をやせむ」渚に寄る浪のかつ返るを見給ひて「うらやましくも」と打ちずんじ給へるさま、さる世のふるごとなれども珍しく聞きなされ、悲しとのみ御供の人々思へり。うち顧み給へるに、來し方の山は霞はるかにて誠に三千里の外の心地するにかいの雫も堪へがたし。

 「ふる里を峯のかすみはへだつれどながむる空はおなじ雲井か」つらからぬものなくなむ。おはすべき所は行平の中納言のもしほたれつゝわびける家居近きわたりなりけり。海づらはやゝ入りてあはれに心すごけなる山中なり。垣のさまより始めて珍らかに見給ふ。茅屋ども葦ふける廊めくやなどをかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひやう變りて、かゝる折ならずばをかしうもありなましと昔の御心のすさびおぼしいづ。近き所々のみさうの司召して、さるべき事どもなど良淸の朝臣など親しきけいしにて仰せ行ふもあはれなり。時のまにいと見所ありてしなさせ給ふ。水深う遣りなし植木どもなどして、今はとしづまり給ふ心ちうつゝならず。國の守も親しき殿人なれば忍びて心よせ仕うまつる。かゝる旅所ともなく人さわがしけれども、はかばかしく物をものたまひ合すべき人しなければ、知らぬ國の心地していとうもれいたく、いかで年月を過ぐさましとおぼしやらる。やうやう事しづまり行くに長雨の頃になりて京の事どもおぼしやらるゝに戀しき人多く女君のおぼしたりしさま春宮の御こと、若君の何心もなく紛れ給ひしなどをはじめ、此處彼處思ひやり聞え給ふ。京へ人出だしたて給ふ。二條院へ奉り給ふと、入道の宮とはかきもやり給はずくらされ給へり。宮には、

 「松島のあまのとまやもいかならむすまの浦人しほたるゝころ。いつと侍らぬ中にもきしかた行くさきかきくらし、みぎはまさりてなむ」。ないしのかみの御許に例の中納言の君の私事のやうにて中なるに「つれづれと過ぎにし方の思う給へ出でらるゝにつけても、

  こりずまの浦のみるめもゆかしきを鹽燒くあまやいかゞ思はむ」。さまざま書き盡し給ふ言の葉思ひやるべし。大殿にも宰相の乳母にも、仕う奉るべき事なども書きつかはす。京にはこの御文所々に見給ひつゝ御心亂れ給ふ人々のみおほかり。二條院の君はそのまゝに起きもあがり給はず盡きせぬさまに覺しこがるれば、侍ふ人々もこしらへわびつゝ心細う思ひあへり。もてならし給ひし御調度ども彈き鳴し給ひし御琴ぬぎ捨て給へる御ぞのにほひなどにつけても、今はと世になくなりたらむ人のやうにのみおぼしたれば、かつはゆゝしうて少納言は僧都に御いのりの事など聞ゆ。二かたにみず法などせさせ給ふ。かつはかくおぼし歎く御心を靜め給ひてなぐさめ又もとの如くに返り給ふべきさまになど、心苦しきまゝに祈り申し給ふ。旅の御殿居物など調じて奉り給ふ。かとりの御直衣指貫さま變りたる心地するもいみじきに、さらぬ鏡とのたまひし面影のげに身に添ひ給へるもかひなし。出で入り給ひしかた、寄り居給ひし眞木柱などを見給ふにも胸のみふたがりて、物をとかう思ひめぐらし世にしほじみぬる齡の人だにあり、まして馴れむつび聞え父母になりつゝあつかひ聞えおほし立てならはし給へれば、俄に引き別れて戀しう思ひ聞え給へることわりなり。ひたすら世になくなりなむは言はむ方なくていふかひなきにてもやうやう忘草も生ひやすらむ、聞く程は近けれどいつまでと限ある御別にもあらぬをおぼすにつきせずなむ。入道の宮にも、春宮の御事によりおぼし歎くさまはいとさらなり。御宿世の程をおぼすにはいかゞ淺くはおぼされむ。年比は唯物の聞えなどのつゝましさに少しなさけある氣色見せば、それにつけて人の咎め出づる琴もこそとのみ偏におぼし忍びつゝあはれをも多う御覽じすぐしすくすくしうもてなし給ひしを、かばかりに浮世の人言なれどかけてもこの方には言ひ出づる事なくて止みぬるばかりの人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方に任せず、かつはめやすくもて隱しつるぞかしとあはれに戀しうもいかゞおぼし出でざらむ。御返りも少しこまやかにて「このころはいとゞ、

  しほたるゝことをやくにて松島に年ふるあまもなげきをぞつむ」かんの君の御かへりには、

 「浦にたくあまだにつゝむ戀なればくゆるけぶりよ行くかたぞなき」さらなる事どもはえなむ」とばかり、いさゝかにて中納言の君の中にあり。おぼし歎くさまなどいみじくいひたり。あはれと思ひ聞え給ふふしぶしもあればうち歎かれ給ひぬ。姬君の御文は心殊に細やかなりし御返りなればあはれなる事多くて、

 「うら人のしほくむ袖にくらべ見よなみぢへだつる夜のころもを」物の色し給へるさまなどいと淸らなり。何事もらうらうしう物し給ふを思ふさまにて、今は殊に心あわたゞしうに行きかゝづらふ方もなくしめやかにてあるべきものをとおぼすに、いみじう口惜しうよるひる面影におぼえて堪へ難く思ひ出でられ給へば、猶忍びてや迎へましとおぼす。又うち返し、なぞやかく浮世に罪をだに失はむとおぼせば、やがて御さうじんにて明暮行ひておはす。大殿の若君の御事などあるにもいとゞ悲しけれど、おのづから逢ひ見てむ、たのもしき人々物し給へば後ろめたうはあらずとおぼしなさるゝは、なかなかこの道は惑はれ給はぬにやあらむ。まことや騷しかりし程のまぎれに洩らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりもふりはへ尋ね參れり。淺からぬ事ども書き給へり。言の葉筆づかひなどは人より殊になまめかしういたり深く見えたり。「猶うつゝとは思ひ給へられぬ御住まひをうけ給はるも明けぬ夜の心惑ひかとなむ。さりとも年月は隔て給はじと思ひやり聞えさするにも罪深き身のみこそ又聞えさせむこともはるかなるべけれ、

  うきめかるいせをの海士を思ひやれもしほたるてふ須磨の浦にて。萬に思う給へみだるゝ世の有樣も猶いかになりはつべきにか」とおほかり。

 「伊勢島やしほひのかたにあさりてもいふかひなきは我身なりけり」物をあはれとおぼしけるまゝにうちおきうちおき書き給へる、白きからの紙四五枚ばかりを書き續けて墨つきなど見どころあり。哀に思ひ聞えし人をひとふしうしと思ひ聞えさせし心あやまりにこのみやす所も思ひうんじて別れ給ひにしとおぼせば、今にいとほしう忝きものに思ひ聞え給ふ。折からの御文いとあはれなれば、御使さへむつましうて二三日すゑさせ給ひて彼處の物語などせさせて聞しめす。若かやかに氣色あるさぶらひの人なりけり。かくあはれなる御住まひなれば、かやうの人もおのづから物遠からでほの見奉る御さまかたちをいみじうめでたしと淚落しけり。御かへり書き給ふ言の葉思ひやるべし。「かく世を離るべき身と思ひ給へらましかばおなじうはしたひ聞えましものをなどなむ。つれづれに心ぼそきまゝに、

  伊勢人の浪のうへ漕ぐ小舟にもうきめはかれでのらましものを。

  あまがつむなげきの中にしほたれていつまで須磨の浦とながめむ。聞えさせむことのいつとも侍らぬこそ盡きせぬ心地し侍れ」などぞありける。かやうに何處にも覺束なからず聞えかはし給ふ。花散里も悲しとおぼしけるまゝにかき集め給ひける御心々見給ふに、をかしきもめなれぬ心地していづれもうち見つゝ慰め給ひ、かつは物思ひのもよほしぐさなめり。

 「荒れまさる軒のしのぶをながめつゝしげくも露のかゝる袖かな」とあるを、げに葎より外の後見もなきさまにておはすらむとおぼしやりて、長雨についぢ所々崩れてなど聞き給へば、京のけいしの許に仰せつかはして、近き國々の御莊の者などもよほさせて仕う奉るべきよしのたまはす。

かんの君は人わらへにいみじうおぼしくづほるゝをおとゞいと悲しうし給ふ君にてせちに宮にも申し內にも奏し給ひければ、限ある女御みやす所にもおはせずおほやけざまの宮仕とおぼしなせり。又かのにくかりし故こそいかめしきことも出でこしか。赦され給ひて參り給ふべきにつけても猶心にしみにしことのみぞあはれにおぼえ給ひける。七月になりて參り給ふ。いみじかりし御思ひの名殘なれば人のそしりもしろし召されず、例のうへにつとさぶらはせ給ひて、よろづにうらみかつはあはれに契らせ給ふ。御さまかたちもいとなまめかしう淸らなれど、思ひ出づる事のみ多かる心の內ぞかたじけなき。御遊のついでに「その人なきこそいとさうざうしけれ。如何にましてさ思ふ人多からむ。何事にも光なき心地するかな」とのたまはせて「院のおぼしのたまはせし御心を違へつるかな。罪うらむかし」とて淚ぐませ給ふに、え念じ給はず。「世の中こそあるにつけてもあぢきなきものなりけれと思ひ知るまゝに、久しく世にあらむものとなむ更に思はぬ。さもありなむにいかゞおぼさるべき。近き程の別に思ひおとされむこそねたけれ。生ける世にとは、げに善からぬ人の言ひ置きけむ」といと懷しき御さまにて、物をまことにあはれとおぼし入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば「さりや、いづれにおつるにか」とのたまはす。「今までみ子達のなきこそさうざうしけれ、春宮を院のの給はせしさまに思へど、よからぬ事も出でくめれば心苦しう」など世を御心の外にまつりごちなし給ふ人々のあるに、若き御心の强き所なき程にていとほしとおぼしたる事も多かり。

須磨にはいとゞ心づくしの秋風に、海は少し遠けれど行平の中納言の、關吹き越ゆるといひけむ浦波よるよるは、げにいと近く聞えて又なくあはれなるものはかゝる所の秋なりけり。御まへにいと人ずくなにてうち休みわたれるに、一人目をさまして枕をそばだてゝ四方の嵐を聞き給ふに、浪たゞこゝもとに立ちくる心地して淚落つともおぼえぬに枕うくばかりになりにけり。きんを少し搔き鳴し給へるが我ながらいとすごう聞ゆればひきさし給ひて、

 「戀ひわびてなく音にまがふうらなみは思ふかたより風や吹くらむ」と謠ひ給へるに、人々おどろきてめでたうおぼゆるに忍ばれてあいなう起き居つゝ鼻を忍びやかにかみわたす。げにいかに思ふらむ、我が身ひとつにより、親はらから片時立ち離れがたく程につけつゝ思ふらむ家を別れてかく惑ひあへるとおぼすにいみじくて、いとかく思ひ沈むさまを心細しと思ふらむとおぼせば、晝は何くれと戯事うちのたまひまぎらはし、徙然なるまゝにいろいろの紙をつぎつゝ手習をし給ふ。珍しきさまなるからの綾などに樣々の繪どもを書きすさび給へる、屛風のおもてどもなどいとめでたく見所あり。人々の語り聞えし海山の有樣を遙におぼしやりしを、御目に近くてはげに及ばぬ磯のたゝずまひ二なく書き集め給へり。この比の上手にすめる千えだつねのりなど召してつくり繪を仕うまつらせばやと心もとながりあへり。懷しうめでたき御有樣に世の物思忘れて近う馴れ仕うまつるを嬉しきことにて四五人ばかりぞつと侍ひける。前栽の花いろいろ咲き亂れおもしろき夕暮に、海見やらるゝ廊に出で給ひてたゝずみ給ふ御さまのゆゝしう淸らなること、所からはましてこの世のものとも見え給はず。白き綾のなよゝかなる紫苑色など奉りてこまやかなる御直衣帶しどけなくうち亂れ給へる御さまにて「釋迦牟尼佛弟子」と名のりてゆるゝかによみ給へる、又世に知らずきこゆ。沖より船どもの唄ひ詈りて漕ぎ行くなども聞ゆ。ほのかに唯小さき鳥の浮べると見やらるゝも心細げなるに、雁の連ねて鳴く聲梶の音にまがへるをうちながめ給ひて、御淚のこぼるゝをかきはらひ給へる御手つき黑木の御ずゞにはえ給へるは、故鄕の女戀しき人々のこゝろ皆慰みにけり。

 「はつかりは戀しき人のつらなれや旅の空とぶこゑのかなしき」との給へば、良淸

 「かきつらね昔のことぞおもほゆる雁はそのよの友ならねども」。民部太輔、

 「心からとこ世を捨てゝなくかりを雲のよそにも思ひけるかな」。前の右近の監

 「常世出でゝたびの空なるかりがねもつらにおくれぬ程ぞなぐさむ。友まどはしてはいかに侍らまし」といふ。親の常陸になりて下りしにもさそはれで參れるなりけり。したには思ひ碎くべかめれどほこりかにもてなしてつれなきさまにしありく。月のいと花やかにさし出でたるに今夜は十五夜なりけりとおぼし出でゝ殿上の御遊こひしく、所々眺めたまふらむかしと思ひやり給ふにつけても月の顏のみまもられ給ふ。「二千里外古人心」とずし給へる、例の淚もとゞめられず。入道の宮の「霧や隔つる」とのたまはせしほどいはむ方なく戀しく、折々の事おもひ出で給ふによゝと泣かれ給ふ。夜更け侍りぬと聞ゆれど猶入りたまはず。

 「見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはむ月の都ははるかなれども」。その夜うへのいとなつかしう昔物語などし給ひし御さまの院に似奉り給へりしも戀しく思ひ出で聞え給ひて、「恩賜の御衣は今こゝにあり」とずしつゝ入り給ひぬ。御ぞはまことに身放たすかたはらに置き給へり。

 「うしとのみひとへに物はおもほえでひだりみぎにもぬるゝ袖かな」その頃大貳は上りける。いかめしうるゐひろく、むすめがちにて所せかりければ北の方は船にてのぼる。浦づたひに逍遥しつゝくるに外よりおもしろきわたりなれば心とまるに、大將かくておはすと聞けば、あいなうすいたる若きむすめたちは、船の內さへ耻かしう心げさうせらる。まして五節の君は網手ひき過ぐるも口をしきにきんの聲風につきて遙に聞ゆるに、所のさま人の御ほど物のねの心ほぞさ取り集め心あるかぎり皆泣きにけり。そち、御せうそこきこえたり。「いと遙なるほどより罷り上りてはまづいつしか侍ひて都の御物語もとこそ思ひ給へ侍りつれ。思の外にかくておはしましける御やどりを罷り過ぎ侍る、かたじけなく悲しうも侍るかな。あひしりて侍る人々さるべきこれかれまで來迎ひてあまた侍れば所せきを思ひ給へ憚り侍る事ども侍りてえ侍らはぬこと、殊更に參り侍らむ」など聞えたり。子の筑前の守ぞ參れる。この殿の藏人になし顧み給ひし人なれば、いともかなしいみじと思へども又見る人々のあれば聞えをおもひて暫しも立ちとゞらず。「都離れて後昔親しかりし人々あひ見る事難うのみなりにたるにかくわざと立ちより物したること」とのたまふ。御返りもさやうになむ。守なくなくかへりておはする御有樣語るに、そちよりはじめ迎の人々まがまがしう泣きみちたり。五節はとかくして聞えたり。

 「琴の音にひきとめらるゝ綱手繩たゆたふこゝろ君しるらめや。すきずきしさも人なとがめそ」と聞えたり。ほゝえみて見給ふ。いとはづかしげなり。

 「心ありてひくての綱のたゆたはゞうち過ぎましや須磨のうらなみ。いさりせむとは思はざりしはや」とあり。うまやのをさに句詩とらする人もありけるをまして落ちとまりぬべくなむおぼえける。

都には月日過ぐるまゝに帝を始め奉りて戀ひ聞ゆる折ふし多かり。春宮はまして常におぼし出でつゝ忍びて泣き給ふを、見奉る御乳母まして命婦の君はいみじう哀に見奉る。入道の宮は春宮の御事をゆゝしうのみおぼしゝに大將もかくさすらへ給ひぬるをいみじうおぼし歎かる。御はらからのみ子たちむつましう聞え給ひし上達部など始つかたはとぶらひ聞え給ふなどありき。あはれなる文を作りかはし、それにつけても世の中にのみめでられ給へば、きさいの宮聞し召していみじくの給ひけり。「おほやけのかうじなる人は心にまかせてこの世のあぢはひをだに知る事難うこそあなれ。おもしろき家居して世の中を誹りもどきて、かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうにつゐせうする」などあしき事も聞えければ、わづらはしとて絕えてせうそこ聞え給ふ人なし。二條院の姬君は程經るまゝにおぼし慰むをりなし。東の對に侍ひし人ども皆渡り參りしはじめはなどかさしもあらむと思ひしかど、見奉り馴るゝまゝに懷しうをかしき御有樣まめやかなる御心ばへも思ひやり深うあはれなれば、まかでちるもなし。なべてならぬきはの人々にはほの見えなどし給ふ。そこらのなかにすぐれたる御心ざしもことわりなりけりと見奉る。かの御住ひには久しうなるまゝに、え念じ過ごすまじうおぼえ給へど、我が身だにあさましき宿世と覺ゆる住まひにいかでかは打ち具してはつきなからむさまを思ひ返し給ふ。所につけては萬の事さまかはり見給へ知らぬしもびとのうへをも、見給ひならはぬ御心ちにめざましうかたじけなうみづからおぼさる。煙のいと近く時々たちくるをこれや海士の鹽燒くならむとおぼしわたるは、おはしますうしろの山に柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、

 「山がつのいほりにたけるしばしばもことゝひこなむ戀ふるさと人」。冬になりて雪ふり荒れたる頃、空の氣色もことに凄く眺め給ひてきんを彈きすさび給ひて、良淸に歌うたはせ大輔橫笛吹きて遊び給ふ。心留めてあはれなる手など彈き給へるにことものゝ聲どもはやめて淚をのごひあへり。むかし胡の國に遣しけむ女をおぼしやりてましていかばかりなりけむ、この世に我が思ひ聞ゆる人などをさやうに放ちやりたらむことなど思ふも、あらむ事のやうにゆゝしくて「霜の後の夢」とずし給ふ。月いとあかうさし入りてはかなき旅のおまし所は奧までくまなし。ゆかの上に夜深き空も見ゆ。入方の月すごく見ゆるに「唯これ西に行くなり」とひとりごち給ひて、

 「いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはづかし」とひとりごち給ひて例のまどろまれぬあかつきの空に千鳥いとあはれになく。

 「とも千鳥もろごゑになくあかつきはひとりねざめのとこもたのもし」。また起きたる人もなければ返す返すひとりごちて臥し給へり。夜深く御てうづまゐりて御念誦などし給ふも珍しきことのやうにめでたくのみおぼえ給へばえ見奉り捨てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。明石の浦はたゞはひ渡る程なれば、良淸の朝臣かの入道のむすめを思ひ出でて文などやりけれど返事もせず。父の入道ぞ「聞ゆべきことなむ、あからさまにたい面もがな」と言ひけれど、うけひかざらむものゆゑ行きかゝりて空しくかへらむうしろでもをこなるべしと、くしいたうてゆかず。世に知らず心だかう思へるに國の內はかみのゆかりのみこそは畏きことにすめれど、僻める心は更にさも思はで年月を經けるに、この君かくておはすと聞きて母君に語らふやう「桐壷の更衣の御腹の源氏の光君こそおほやけの御かしこまりにて須磨の浦にものし給ふなれ。あこの御宿世にて覺えぬ事のあるなり。いかでかゝる序にこの君に奉らむ」といふ。母「あなかたはや。京の人の語るを聞けば、やんごとなきおほんめどもいと多く持ち給うてそのあまりに忍び忍び帝のみめをさへ過ち給ひてかくも騷がれ給ふなる人は、まさにかく怪しきやまがつを心とゞめ給ひてむや」といふ。腹立ちて、「えしり給はじ、思ふ心ことなり。さる心をし給へ。ついでして此處にもおはしまさせむ」と心をやりていふもかたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。母君「などてめでたくとも物のはじめに罪にあたりて流されおはしたらむ人をしも心かけむ、さても心をとゞめ給ふべくはこそあらめ、戯れにてもあるまじきことなり」といふをいといたくつぶやく。「罪にあたることは唐土にも我がみかどにも、かく世にすぐれ何事にも人にことになりぬる人の必ずあることなり。いかに物し給ふ君ぞ、故母みやす所はおのがをぢに物し給ひし按察大納言のみむすめなり。いとかうざくなる名をとりて宮仕に出だし給へりしに國王すぐれて時めかし給ふ事ならびなかりける程に人のそねみ多くてうせ給ひにしかど、この君のとまり給へるいとめでたし。かく女は心をたかくつかふべきものなり。おのれかゝるゐなかうどなりとておぼし捨てじ」など言ひ居たり。このむすめすぐれたるかたちならねどなつかしうあてはかに心ばせあるさまなどぞげにやんごとなき人に劣るまじかりける。身の有樣を口惜しきものに思ひ知りて、たかき人はわれを何の數にもおぼさじ、程につけたる世をば更に見じ、命長くて思ふ人々に後れなばあまにもなりなむ、海の底にも入りなむなどぞ思ひける。父君所せく思ひかしづきて年に二たび住吉にまうでさせけり。神の御しるしをぞ人知れずたのみ思ひける。須磨には年かへりて日長くつれづれなるに、植ゑし若木の櫻ほのかに咲きそめて空の氣色うらゝかなるに萬の事おぼし出でられてうち泣き給ふ折々おほかり。二月二十日あまり、いにし年京を別れし時心苦しかりし人々の御有樣などいとこひしく、南殿の櫻は盛になりぬらむ。一年の花の宴に院の御けしき內のうへのいと淸らになまめいてわがつくれる句をずし給ひしも思ひ出できこえ給ふ。

 「いつとなく大宮人の戀しきにさくらかざしゝけふも來にけり」。いとつれづれなるに、大殿の三位中將は今は宰相になりて人がらのいとよければ時世のおぼえ重くて物し給へど、世の中いとあはれにあぢきなく物の折ごとに戀しくおぼえ給へば、ことのきこえありて罪にあたるともいかゞはせむとおぼしなりて俄にまうで給ふ。うち見るより珍しくうれしきにもひとつ淚ぞこぼれける。すまひ給へるさま言はむ方なく唐めきたり。所のさま繪に書きたらむやうなるに竹あめる垣しわたして石のはし松の柱おろそかなるものからめづらかにをかし。やまがつめきてゆるし色の黃がちなるに靑鈍の狩衣指貫、うちやつれて殊更にゐなかびもてなし給へるしもいみじう見るにゑまれて淸らなり。取りつかひ給へる調度もかりそめにしておまし所もあらはに見入れらる。碁雙六のばん、調度、たぎの具など田舍わざにしなして、念珠の具行ひ勤め給ひけりと見えたり。物まゐれるなど、殊更所につけ興ありてしなしたり。海士どもあさりしてかいつ物もて參れるを召し出でゝ御覽ず。浦に年經るさまなど問はせ給ふにさまざま安げなき身のうれへを申す。そこはかとなくさへづるも、心の行くへは同じ事なるかなとあはれに見給ふ。御ぞどもかづけさせ給ふを生けるかひありと思へり。御馬ども近う立てゝ見やりなるくらか、何ぞなる、いねども取り出でゝかふなどめづらしう見給ふ。あすか井少し謠ひて、月比の御物語泣きみ笑ひみ若君の何とも世をおぼさで物し給ふ悲しさを、おとゞの明暮につけておぼし歎くなど語り給ふに堪へ難くおぼしたり。つきすべくもあらねばなかなか片端もえまねばず。よもすがらまどろまず文作り明し給ふ。さいひながらも物の聞えをつゝみて急ぎかへり給ふ。いとなかなかなり。御かはらけまゐりて「醉の悲みの淚そゝぐ春の盃のうち」ともろ聲にずし給ふ。御供の人ども皆淚をながす。おのがじゝはつかなる別惜むべかめり。朝ぼらけの空に雁つれてわたる。あるじの君、

 「ふる里をいづれの春か行きて見むうらやましきはかへるかりがね」。宰相更にに立ち出でむこゝちせで、

 「あかなくにかりのとこよを立ち別れ花のみやこに道やまどはむ」。さるべき都のつとなどよしあるさまにてあり。あるじの君かくかたじけなき御送にとて黑駒奉り給ふ。「ゆゝしうおぼされぬべけれど風にあたりては嘶えぬべければ」など申し給ふ。世にありがたげなる御馬のさまなり。「形見に忍び給へ」とていみじき笛の名ありけるなどばかり、人咎めつべきことはかたみにえし給はず。日やうやうさしあがりて心あわたゞしければかへりみのみしつゝ出で給ふを、見送り給ふけしきいとなかなかなり。「いつまたたいめん給はらむとすらむ」、「さりともかくてやは」と申し給ふに、あるじ、

 「雲近く飛びかふたづも空に見よ我は春日のくもりなき身ぞ。かつはたのまれながら、かくなりぬる人は昔のかしこき人だにはかばかしう世に又まじらふ事難く侍りければ、何か都のさかひをまた見むとなむ思ひ侍らぬ」などの給ふ。宰相、

 「たつかなき雲井にひとりねをぞなくつばさならべし友を戀ひつゝ。かたじけなく馴れ聞え侍りていとしもと悔しう思ひ給へらるゝ折多く」など、しめやかにもあらで歸り給ひぬる名殘いとゞ悲しうながめ暮し給ふ。やよひのついたちに出で來たる巳の日「今日なむかくおぼすことある人はみそぎし給ふべき」となまさかしき人の聞ゆれば、海づらもゆかしくて出で給ふ。いとおろそかにぜんじやうばかりを引き廻らしてこの國に通ひける陰陽師召してはらへせさせ給ふ。船にことごとしきひとがた載せて流すを見給ふにもよそへられて、

 「しらざりし大海のはらに流れきてひとかたにやはものは悲しき」とて居給へるさま、さるはれに出でゝ言ふよしなく見え給ふ。海のおもてはうらうらとなぎ渡りて行くへも知らぬにこしかた行くさきおぼしつゞけられて、

 「八百よろづ神もあはれと思ふらむをかせる罪のそれとなければ」とのたまふに俄に風吹き出でゝ空もかき暮れぬ。御はらへもしはてず立ちさわぎたり。ひぢがさ雨とか降りきていとあわたゞしければ皆歸り給はむとするに笠もとりあへずさる心もなきに萬吹きちらしまたなき風なり。波いといかめしう立ちきて人々の足をそらなり。海のおもてはふすまを張りたらむやうに光滿ちて神鳴りひらめく。落ちかゝる心地して辛うじてたどりきて「かゝるめは見ずもあるかな。風などは吹けど氣色づきてこそあれ、あさましう珍らかなり」と惑ふに、猶止まず鳴りみちて雨のあしあたる所通りぬべくはらめきおつ。かくて世は盡きぬるにやと心細く思ひ惑ふに、君はのどやかに經うちずじておはす。暮れぬれば神少しなり止みて風ぞよるもふく。多く立てつる願の力なるべし。「今しばしかくだにあらば浪に引かれて入りぬべかりけり。高潮といふものになむとりあへず人そこなはるゝとは聞けどいとかゝることはまだ知らず」といひあへり。曉がた皆うち休みたり。君も聊寢入り給へればそのさまとも見えぬ人きて「など宮より召しあるには參り給はぬ」とてたどりありくと見るにおどろきて、さは海の中のりう王のいといたう物めでするものにて見入れたるなりけりとおぼすに、いとものむづかしうこの住ひ堪へがたくおぼしなりぬ。

明石

猶雨風止まずかみなりしづまらで日頃になりぬ。いと物わびしきこと數知らず。きしかた行くさき悲しき御有樣に心强うしも得おぼしなさず。いかにせまし、かゝりとて都に歸らむこともまだ世に許されもなくては人わらはれなることこそまさらめ、猶これより深き山を覓めてや跡絕えなましとおぼすにも波風に騷がされてなど人の言ひ傳へむこと後の世までいとかろがろしき名をや流しはてむとおぼしみだる。御夢にも唯同じさまなる物のみきつゝまつはし聞ゆと見給ふ。雲間もなく明け暮るゝ日數にそへて京の方もいとゞ覺束なく、かくながら身をはふらかしつるにやと心ぼそうおぼせど、かしらさし出づべくもあらぬ空の亂れに出で立ちまゐる人もなし。二條院よりぞあながちにあやしき姿にてそぼち參れる。みちかひにてだに人か何ぞとだに御覽じわくべくもあらず。まづ追ひ拂ひつべき賤のをの哀にむつまじうおぼさるゝも我ながらかたじけなくくしにける心の程思ひ知らる。御文には「あさましくをやみなき頃の氣色にいとゞ空さへ閉づる心地してながめやるかたなくなむ。

  うら風やいかに吹くらむ思ひやる袖うちぬらしなみまなきころ」。哀に悲しきことゞも書き集め給へり。ひきあくるよりいとゞみぎはまさりぬべくかきくらす心ちし給ふ。「京にもこの雨風いと怪しき物のさとしなりとて、にんわうゑなど行はるべしとなむ聞え侍りし。うちに參り給ふ上達部などもすべて道とぢて政も絕えてなむ待る」などはかばかしうもあらずかたくなしう語りなせど、京の方のことゝ思せばいぶかしうて御まへに召し出でゝ問はせ給ふ。「唯例の雨のをやみなく降りて風は時々吹き出でつゝ日頃になり侍るを、例ならぬことに驚き侍るなり。いとかくちの底通るばかりのひふり、いかづちのしづまらぬことは侍らざりき」などいみじきさまに驚きおぢてをる顏のいとからきにも心細さまさりける。かくしつゝ世は盡きぬべきにやと思さるゝにその又の日の曉より風いみじう吹き潮高う滿ちて浪の音あらきこと巖ほも山も殘るまじぎ氣色なり。神の鳴り閃くさま更にいはむかたなくて落ちかゝりぬとおぼゆるに有るかぎりさかしき人なし。「我はいかなる罪を犯してかく悲しきめを見るらむ。父母にもあひ見ず悲しきめこの顏をも見て死ぬべきこと」となげく。君は御心をしづめて、何ばかりのあやまちにてかこの渚に命をば極めむと、强うおぼしなせどいと物さわがしければいろいろのみてぐら捧げさせ給ひて、「住吉の神近き境をしづめ守り給へ。まことに跡を垂れ給ふ神ならば助け給へ」と多くの大願を立て給ふ。おのおの自らの命をばさるものにてかゝる御身のまたなき例に沈み給ひぬべきことのいみじう悲しきに心を起して少し物覺ゆるかぎりは「身を代へてこの御身一つを救ひ奉らむ」ととよみて諸聲にほとけ神を念じ奉る。「帝王の深き宮に養はれ給ひていろいろのたのしみに驕り給ひしかど深き御うつくしみ大八洲に普く沈めるともがらをこそ多くうかべ給ひしか。今何のむくいにかこゝら橫さまなる波風にはおぼゝれ給はむ。天地ことわり給へ。罪なくて罪にあたり、つかさくらゐを取られ家を離れ境を去りて明暮安き空なく歎き給ふに、かく悲しきめをさへ見、命盡きなむとするは前の世のむくいか、この世のをかしか、神ほとけ明にましまさばこのうれへやめ給へ」とみ社の方に向きてさまざまの願を立て、又海の中のりうわう、萬の神たちに願たてさせ給ふにいよいよ鳴り轟きておはしますに續きたる廊に落ちかゝりぬ。ほのほ燃えあがりて廊は燒けぬ。こゝろたましひなくてあるかぎり惑ふ。うしろの方なる大炊でんとおぼしき屋に移し奉りて上下となく立ち込みていとらうがはしく泣きとよむ聲いかづちにも劣らず。空は墨をすりたるやうにて日も暮れにけり。やうやう風なほり雨のあししめり星の光も見ゆるにこのおましどころのいと珍らかなるもいとかたじけなくて、寢殿にかへし移し奉らむとするに燒け殘りたる方もうとましげにそこらの人の蹈み轟し惑へるにみすなども皆吹きちらしてけり。夜を明してこそはとたどりあへるに君は御ねんずし給ひておぼしめぐらすにいと心あわたゞし。月さし出で潮の近く滿ちけるあともあらはに名殘猶寄せかへる浪荒きを柴の戶押しあけて詠めおはします。近き世界に物の心を知り、きし方行くさきの事うちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。あやしき海士どもなどの、たかき人おはする所とて集り參りて聞きも知り給はぬ事どもを囀りあへるもいと珍らかなれどえ追ひも拂はず。「この風今暫しやまざらましかば潮のぼりて殘る所なからまし、神の助けおろかならざりけり」といふを聞き給ふもいと心細しといへばおろかなり。

 「海にます神のたすけにかゝらずは鹽のやほあひにさすらへなまし」。ひねもすにいりもみつる風の騷ぎに、さこそいへ、いたうこうじ給ひにければ心にもあらずうちまどろみ給ふ。かたじけなきおましどころなればたゞ寄り居給へるに故院唯おはしましゝさまながら立ち給ひて、「などかくあやしき所には物するぞ」とて御手を取りて引き立て給ふ。「住吉の神の導き給ふまゝにはや船出してこの浦を去りね」との給はす。いと嬉しくて、「畏き御影に別れ奉りにしこなた、さまざま悲しき事のみ多く侍れば今はこの渚に身をや捨て侍りなまし」と聞え給へば、「いとあるまじきこと。これは唯いさゝかなるものゝむくいなり。我は位にありし時、過つことなかりしかど、おのづからをかしありければその罪を終ふる程いとまなくて、この世をかへりみざりつれど、いみじき憂に沈むを見るに堪へ難くて海に入り渚にのぼり、いたくこうじにたれど、かゝる序にだいりに奏すべき事あるによりてなむ急ぎのぼりぬる」とて立ち去り給ひぬ。飽かず悲しくて、「御供に參りなむ」と泣き入り給ひて見上げ給へれば、人もなくて、月の顏のみきらきらとして夢の心地もせず。御けはひとまれる心ちして空の雲あばれにたなびけり。年頃夢の中にも見奉らで戀しう覺束なき御さまをほのかなれどさだかに見奉りつるのみ面影に覺え給ひて、我かく悲しみを極め命つきなむとしつるを助けにかけり給へると哀におぼすによくぞかゝるさわぎもありけると名殘たのもしう嬉しとおぼえ給ふ事限なし。胸つとふたがりてなかなかなる御心惑ひに、現の悲しきことも打ち忘れて夢にも御いらへを今少し聞えずなりぬる事といぶせさに、又や見え給ふと殊更に寢入り給へど更に御目もあはで曉方になりにけり。渚にちひさやかなる船寄せて人二三人ばかりこの度の御宿りをさしてく。何人ならむと問へば、明石の浦よりさきの守しほぢの御船よそひて參れるなり。源少納言侍ひ給はゞたいめして事の心とり申さむ」といふ。良淸驚きて、「入道はかの國の得意にて年比あひ語らひ侍りつれど私にいさゝかあひ怨むる事侍りてことなる消息をだに通はさで久しうなり侍りぬるを、浪のまぎれにいかなる事かあらむ」とおぼめく。君の御夢などもおぼし合する事もありて「はや逢へ」との給へば船にいきて逢ひたり。さばかり烈しかりつる浪風にいつの間にか船出しつらむと心えがたく思へり。「いぬるついたちの日の夢に、さま異なるものゝ吿げ知らする事侍りしかば信じ難き事と思ひ給へしかど十三日にあらたなるしるし見せむ船をよそひまうけて必ず雨風やまばこの浦に寄せよと、重ねて示すことの侍りしかば試に船のよそひをまうけて待ち侍りしに、いかめしき雨風いかづちの驚し侍りつれば、ひとのみかどにも夢を信じて國を助くる類多う侍りけるを用ゐさせ給はぬまでもこの戒めの日を過ぐさずこのよしを吿げ申し侍らむとて船いだし侍りつるに、怪しき風ほそう吹きてこの浦につき侍ること誠に神のしるべ違はずなむ。こゝにも若ししろしめす事や侍りつらむとてなむ。いとも憚り多く侍れどこのよし申し給へ」といふ。良淸忍びやかに傅へ申す。君おぼしまはすに、夢現さまざましづかならず、さとしのやうなる事どもをきし方行く末おぼし合せて、世の人の聞き傅へむ後のそしりも安からざるべきを憚りて、まことの神のたすけにもあらむを背くものならば又これよりまさりて人笑はれなるめをや見む、現の人の心だに猶苦し、はかなき事をもかつ見つゝわれより齡まさりもしは位高く時世のよせ今ひときはまさる人には靡き隨ひて、その心むけをたどるべきものなり、退きてとがなしとこそ昔のさかしき人も言ひ置きけれ、げにかく命を極め世に又なきめの限を見盡しつ、更に後のあとの名をはぶくとてもたけきこともあらじ、夢の中にも父帝の御敎ありつればまた何事をか疑はむと思して御かへりの給ふ。「知らぬ世界に珍しきうれへのかぎり見つれど都の方よりとて言問ひおこする人もなし。唯ゆくへなき空の月日の光ばかりを故鄕の友とながめ侍るに嬉しき釣船をなむ。かの浦にしづやかにかくろふべき隈侍りなむや」との給ふ。限なく喜びかしこまりまうす。「ともあれかくもあれ夜の明けはてぬさきに御船に奉れ」とて例の親しきかぎり四五人ばかりして奉りぬ。例の風出で來て飛ぶやうに明石につき給ひぬ。唯はひ渡る程は片時のまといへど猶怪しきまで見ゆる風のこゝろなり。濱のさまげにいと心異なり人しげう見ゆるのみなむ御願ひに背きける。入道のらうじしめたる所々海のつらにも山がくれにも時々につけて興をさかすべき渚の苫や、おこなひをして後の世のことを思ひすましつべき山水のつらにいかめしき堂を立てゝ、三昧行ひこの世のまうけに秋の田の實を刈り收め殘の齡積むべき稻の倉町どもなど折々所につけたる見所ありてしあつめたり。高潮におぢてこの頃むすめなどは岡邊のやどに移して住ませければこの濱のたちに心安くおはします。船より御車に奉り移るほど日やうやうさしあがりてほのかに見奉るより老も忘れ齡のぶる心地して笑みさかえてまづ住吉の神をかつがつ拜み奉る。月日の光を手に得奉りたる心地していとなみ仕うまつることことわりなり。所のさまをばさらにもいはず作りなしたる心ばへこだちたていし前栽などの有樣えもいはぬ入江の水など繪に書かば心のいたり少からむ繪師は書き及ぶまじと見ゆ。月頃の御住ひよりはこよなく明になつかし。御しつらひなどえならずして住ひけるさまなどげに都のやむごとなき所々に異ならず。えんにまばゆきさまはまさりざまにぞ見ゆる。少し御心しづまりては京の御文ども聞え給ふ。參れりし使は「今はいみじき道に出で立ちて悲しきめを見る」と泣き沈みて、あの須磨にとまりたるを召して身にあまれる物ども多く給ひてつかはす。むつましき御いのりの師どもさるべき所々にはこの程の御有樣委しく言ひつかはすべし。入道の宮ばかりにはめづらかにてよみがへれるさまなど聞え給ふ。二條院の哀なりし程の御かへりは書きもやり給はず、うちおきうちおき押しのごひつゝ聞え給ふ御氣色なほことなり。「かへすがへすいみじきめのかぎりを見盡しはてつるありさまなれば今はと世を思ひ離るゝ心のみまさり侍れど鏡を見てもとの給ひし面影の離るゝ世なきを、かくおぼつかなながらやと、こゝら悲しきさまざまのうれはしさはさし置かれて、

  はるかにも思ひやるかな知らざりし浦よりをちにうらづたひして。夢のうちなる心地のみして覺めはてぬほど、いかにひがごと多からむ」とそこはかとなくかき亂り給へるしもぞいと見まほしきそばめなるを、いとこよなき御志の程と人々見奉る。おのおの故鄕に心細げなることづてすべかめり。をやみなかりし空の氣色名殘なくすみわたりてあさりする海士どもほこらしげなり。須磨はいと心ぼそくて海士のいはやも稀なりしを人しげき厭ひはし給ひしかど、こゝは又さま異に哀なること多くて萬におぼしなぐさまる。あるじの入道行ひ勤めたるさまいみじう思ひすましたるを唯このむすめ一人をもてわづらひたる氣色、いと傍いたきまで時々漏し愁へ聞ゆ。御心ちにもをかしと聞きおき給ひし人なればかくおぼえなくてめぐりおはしたるもさるべき契あるにやと思しながら、猶かう身を沈めたる程はおこなひより外のことは思はじ、都の人もたゞなるよりはいひしに違ふと思さむも心恥しうおぼさるれば氣色だち給ふことなし。事に觸れて心ばせ有樣なべてならずもありけるかなとゆかしう思されぬにしもあらず。こゝにはかしこまりて身づからもをさをさ參らず物隔たりたるしもの屋にさぶらふ。さるは明暮見奉らまほしうあかず思ひ聞えていかで思ふ心をかなへむと、ほとけ神をいよいよ念じ奉る。年は六十ばかりになりたれどいと淸げにあらまほしう行ひさらぼひて、人の程のあてはかなればにやあらむ、うち僻みほれぼれしき事はあれど、いにしへの事をも見知りて物きたなからずよしづきたることもまじれゝば昔の物語などせさせて聞き給ふに少しつれづれのまぎれなり。年頃おほやけわたくし御いとまなくてさしも聞き置き給はぬ世のふることどもくづし出でゝ聞ゆ。かゝる所をも人をも見ざらましかばさうざうしくやとまでけふありと思す事もまじる。「かうは馴れ聞ゆれどいとけだかう心恥しき御有樣にさこそいひしがつゝましうなりてわがおもふことは心のまゝにもえうち出で聞えぬを、心もとなう口惜し」と母君といひ合せてなげく。さうじみもおしなべての人だにめやすきは見えぬ世界に、世にはかゝる人も坐しけりと見奉りしにつけて身のほど知られでいと遙にぞ思ひ聞えける。親たちのかく思ひあつかふを聞くにも似げなき事かなと思ふにたゞなるよりは物哀なり。四月になりぬ。衣更の御さうぞく、みちやうのかたびらなどよしあるさまにしいづ。よろづに仕うまつり營むをいとほしうすゞろなりとおぼせど、人ざまのあくまで思ひあがりたるさまのあてなるにおぼしゆるして見給ふ。京よりもうちしきりたる御とぶらひどもたゆみなくおほかり。のどやかなる夕月夜に海の上曇りなく見え渡れるも住み馴れ給ひし故里の池水に思ひまがへられ給ふに、いはむ方なく戀しきこといづかたともなく行くへなき心地し給ひて、唯目の前に見やらるゝは淡路島なりけり。「あはとはるかに」などの給ひて

 「あはと見る淡路の島の哀れさへ殘るくまなくすめる夜の月」。久しう手も觸れ給はぬきんを袋より取り出で給ひて、はかなく搔き鳴し給へる御さまを見奉る人もやすからず哀に悲しう思ひあへり。廣陵といふ手をあるかぎり彈きすまし給へるに、かの岡邊の家も松の響波の音にあひて心ばせある若き人は身にしみて思ふべかめり。何とも聞きわくまじきこのもかのものしはぶる人どもゝすゞろはしくて濱風をひきありく。入道もえ堪へで、くやうほふたゆみて急ぎ參れり。「更に背きにし世の中も取り返し思ひ出でぬべく侍る。後の世に願ひ侍る所のあり樣も思う給へやるゝ世の樣かな」となくなくめで聞ゆ。我が御心にも折々の御あそびその人かの人の琴笛、もしは聲の出しさま、時々につけて世にめでられ給ひしありさま、みかどよりはじめ奉りてもてかしづきあがめられ奉り給ひしを、人の上も我御身の有樣もおぼし出でられて夢の心地し給ふまゝに、搔き鳴し給へる聲も心すごく聞ゆ。ふる人は淚もとめあへず。岡邊に琵琶筝の琴取りにやりて入道琵琶の法師になりていとをかしうめづらしうて、一つ二つ彈き出でたり。箏の御琴まゐりたれば少し彈き給ふもさまざまいみじうのみ思ひ聞えたり。いとさしも聞えぬ物の音だに折からこそはまさるものなるを、はるばると物の滯りなきうみづらなるに、なかなか春秋の花紅葉の盛なるよりは唯そこはかとなうしげれる陰どもなまめかしきに、水雞のうちたゝきたるは誰が門さしてと哀におぼゆ。ねもいとになう出づることゞもをいと懷しう彈き鳴したるも御心とまりて「これは女の懷しきさまにてしどけなく彈きたるこそをかしけれ」と大かたにの給ふを、入道はあいなくうち笑みて「遊ばすより懷しきさまなるはいづこのか侍らむ。なにがし延喜の御手より彈き傳へたること三代になむなり侍りぬるを、かう拙き身にてこの世のことは捨て忘れ侍りぬるを、物のせちにいぶせきをりをりはかき鳴し侍りぬるを、あやしうまねぶものゝ侍るこそしねんにかのせんだいわうの御手に通ひて侍れ。山伏のひが耳に松風を聞きわたし侍るにやあらむ。いかでこれ忍びて聞し召させてしがな」と聞ゆるまゝにうちわなゝきて淚落すべかめり。君「ことをことゝも聞き給ふまじかりけるあたりにねたきわざかな」とておしやり給ふ。「怪しう昔より箏は女なむ彈きとるものなりける。嵯峨の御つたへにて、女五の宮、さるよの中の上手に物し給ひけるをその御すぢにて取り立てゝ傅ふる人なし。すべて只今世に名を取れる人々かきなでの心やりばかりにのみあるをこゝにかう彈き込め給へりけるいと興ありけることかな。いかでかは聞くべき」との給ふ。「聞し召さむには何のはゞかりかは侍らむ。御まへに召してもあきびとの中にてだにこそふること聞きはやす人は侍りけれ。琵琶なむまことの手を彈きしづむる人いにしへも難う侍りしを、をさをさ滯ることなうなつかしき手などすぢことになむ。いかでたどるにか侍らむ。荒き浪の聲にまじるは悲しうも思う給へられながらかきつむる物なげかしさ紛るゝ折々も侍る」などすきゐたればをかしとおぼして箏の琴とりかへて給はせたり。げにいとすぐして搔い彈きたり。今の世に聞えぬすぢひきつけて手づかひいといたうからめきゆのねふかうすましたり。伊勢の海ならねど「淸きなぎさに貝やひろはむ」など聲よき人に謠はせて、我も時々ひやうしとりて聲うちそへ給ふを、琴彈きさしつゝめで聞ゆ。御くだものなど珍しきさまにて參らせ、人々に酒强ひそしなどしておのづから物忘れもしぬべきよのさまなり。いたく更け行くまゝに、松風凉しうて、月も入方になるまゝに、すみまさりて靜なるほどに御物語のこりなく聞えて、この浦に住み始めし程の心づかひ後の世をつとむるさまかきくづし聞えてこのむすめのありさま問はずがたりに聞ゆ。をかしきものゝさすがに哀と聞き給ふふしぶしもあり。「いととり申し難き事なれどわが君かうおぼえなき世界に假にてもうつろひおはしましたるは若し年頃おいぼうしの祈り申し侍る神ほとけの憐びおはしまして、暫しの程御心をも惱し奉るにやとなむ思う給ふる。その故は住吉の神を賴み始め奉りてこの十八年になり侍りぬ。めのわらはのいときなう侍りしより思ふ心侍りて、年頃の春秋ごとにかのみやしろに參ることなむ侍る。ひるよるの六時のつとめにみづからのはちすの上の願ひをばさる物にて、唯この人を高きほいかなへ給へとなむ念じ侍る。さきの世の契つたなくてこそかく口惜しき山がつとなり侍りけめ。おやおとゞの位を保ち給へりき。自らかく田舍の民となりて侍り。次々さのみ劣りまからむは何の身にかなり侍らむと悲しく思ひ侍るを、これは生れし時より賴む所なむ侍る。いかにして都のたかき人に奉らむと思ふ心深きにより、ほどほどにつけてあまたの人のそねみを負ひ、身のためからきめを見る折々も多く侍れど更に苦みと思ひ給へず。命の限はせばき袖にもはぐゝみ侍りなむ。かくながら見棄て侍りなば海の中にもまじり失せねとなむおきて侍る」などすべてまねぶべくもあらぬ事どもをうち泣きうちなき聞ゆ。君も物をさまざまおぼし續くるをりからはうち淚ぐみつゝ聞しめす。「橫さまの罪にあたりて思ひがけぬ世界に漂ふも何の罪にかと覺束なく思ひつるを、こよひの御物語にこそはとあはれになむ。などかはかくさだかに思ひ知り給ひけることを今までは吿げ給はざりつらむ。都離れし時より世の常なきもあぢきなうおこなひより外のことなくて月日を經るに心も皆くづほれにけり。かゝる人ものし給ふとはほの聞きながらいたづら人をばゆゝしきものにこそ思ひ捨て給ふらめと思ひくしつるを、さらば導き給ふべきにこそあなれ。心ぼそき獨寢のなぐさめにも」などの給ふをかぎりなく嬉しと思へり。

 「ひとりねは君もしりぬやつれづれと思ひあかしの浦さびしさを。まして年月思ひ給へわたるいぶせさをおしはからせ給へ」と聞ゆるけはひうちわなゝきたれど、さすがにゆゑなからず。「されど浦なれたらむ人は」とて

 「旅衣うらかなしさにあかしかね草のまくらはゆめもむすばず」とうち亂れ給へる御さまはいとぞ愛敬づきいふよしなき御けはひなる。數知らぬ事ども聞え盡したれどうるさしや。ひがことどもにかきなしたればいとゞをこにかたくなしき入道の心ばへも顯れぬべかめり。思ふ事かつかつかなひぬる心地してすゞしう思ひ居たるに、又の日の晝つ方、岡邊に御文つかはす。心恥しきさまなめるもなかなかかゝるものゝくまにぞ思の外なる事もこもるべかめると心づかひし給ひて、こまのくるみ色の紙にえならず引きつくろて、

 「をちこちも知らぬ雲居にながめわびかすめし宿の梢をぞとふ。思ふには」とばかりやありけむ。入道も人知れずまち聞ゆとてかの家に來居たりけるもしるければ、御使いとまばゆきまで醉はす。御かへりいとひさし。內に入りてそゝのかせどむすめは更に聞かず。いと恥しげなる御文のさまにさし出でむ手つきもはづかしうつゝましう人の御ほど我身のほど思ふにこよなくて、心地あしとて寄り臥しぬ。言ひわびて入道ぞかく。「いともかしこきは田舍びて侍るたもとに、つゝみあまりぬるにや、更に見給ひも及び侍らぬかしこさになむ。さるは、

  ながむらむ同じ雲居をながむるは思ひもおなじおもひなるらむ。となむ見給ふる。いとすきずきしや」と聞えたり。みちのくにがみにいたうふるめきたれど書きざまよしばみたり。げにもすきたるかなと目ざましう見給ふ。御使に、なべてならぬ玉もなどかづけたり。又の日「せんじがきは見知らずなむ」とて、

 「いぶせくも心にものをなやむかなやよやいかにと問ふ人もなみ。いひがたみ」とこの度はいといたうなよびたる薄樣にいと美くしげに書き給へり。若き人のめでざらむもいと餘りうもれいたからむ。めでたしとは見れどなずらひならぬ身のほどのいみじうかひなけれは、なかなか世にあるものと尋ね知り給ふにつけて淚ぐまれて、更に例のどうなきをせめていはれて、淺からずしめたる紫の紙に墨つき濃く薄くまぎらはして、

 「思ふらむ心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きかなやまむ」。手のさま書きたるさまなどやんごとなき人にいたう劣るまじう上ずめきたり。京のことおぼえてをかしと見給へど、うちしきりて遣さむも人めつゝましければ、二三日へだてつゝ、つれづれなる夕暮、もしは物哀なる曙などやうに紛らはして折々人も同じ心に見知りぬべき程推し量りてかきかはし給ふに似げなからず。心深く思ひあがりたる氣色も見では止まじとおぼすものから、良淸が、らうじていひし氣色も目ざましう、年頃心づけてあらむを目の前に思ひ違へむもいとほしう思しめぐらされて、人すゝみ參らばさる方にても紛らはしてむと覺せど、女はたなかなかやんごとなき際の人よりも、いたう思ひあがりて妬げにもてなし聞えたれば心くらべにてぞ過ぎける。京の事をかくせき隔たりてはいよいよ覺束なく思ひ聞え給ひて、いかにせまし戯ぶれにくゝもあるかな、忍びてや迎へ奉りてましと思し弱る折々あれどさりともかくてやは年を重ねむ、今更に人わろき事をやはと思ししづめたり。

その年おほやけに物のさとししきりて物さわがしき事多かり。三月十三日神なりひらめき、雨風さわがしき夜、帝の御夢に院の帝おまへのみはしのもとに渡らせ給ひて御氣色いと惡しうて睨み聞えさせ給ふを、畏まりておはします。聞えさせ給ふ事ども多かり。源氏の御事どもなりけむかし。いとゞ恐しういとほしと思して、后に聞えさせ給ひければ「雨などふり空亂れたる夜は、思ひなしなる事はさぞ侍る。かろがろしきやうに覺し驚くまじき事」と聞え給ふ。睨み給ひしに見合せ給ふと見しけにや、御目煩ひ給ひて堪へ難う惱み給ふ。御つゝしみ內にも宮にも限りなくせさせ給ふ。おほきおとゞうせ給ひぬ。ことわりの御齡なれど次々におのづから騷しき事あるに大宮もそこはかとなう煩ひ給ひて程經れば弱り給ふやうなる、內に思し歎く事さまざまなり。猶この源氏の君誠に犯すことなきにて、かくしづむならば、必ずこのむくいありなむとなむ覺え給ふ。今は猶もとの位をも給ひてむと度々おぼしの給ふを「世のもどきあはあはしきやうなるべし。罪に落ちて都を去りし人をみとせをだにすぐさず許されむことは世の人もいかゞ言ひ傳へ侍らむ」など后固う諫め給ふにおぼしはゞかる程に月日かさなりて、御なやみどもさまざまに重り增らせ給ふ。

明石には例の秋は濱風の殊なるに、獨寢もまめやかに物侘しうて入道にも折々語らはせ給ふ。「とかうまぎらはして、こち參らせよ」との給ひて、渡り給はむことをばあるまじう思したるを、さうじみはた更に思び立つべくもあらず。いと口惜しき際の田舍人こそかりにくだりたる人のうちとけ事につきてさやうに輕らかに語らふわざをもすなれ、人數にもおぼされざらむものゆゑわれはいみじき物思をやそへむ、かく及びなき心を思へる親達も世ごもりてすぐす年月こそあいなだのみに行く末心にくゝ思ふらめ、なかなかなる心をや盡さむと思ひて、唯この浦におはさむ程斯る御文ばかりを聞えかはさむこそおろかならね、年頃音にのみ聞きていつかはさる人の御有樣をほのかにも見奉らむなど遙に思ひ聞えしを、かく思ひかけざりし御住ひにてまほならねどほのかにも見奉り、よになきものと聞き傅へし御琴の音をも風につけて聞き、明暮の御有樣覺束なからでかくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそかゝる海士の中に朽ちぬる身にあまる事なれなど思ふに、いよいよ耻しうて露もけぢかき事は思ひよらず。親達はこゝらの年頃のいのりかなふべきを思ひながら、ゆくりかに見せ奉りておぼしかずまへざらむ時いかなる歎をかせむと思ひやるにゆゝしくて、めでたき人と聞ゆともつらういみじうもあるべきを目に見えぬほとけ神を賴み奉りて人の御心をも宿世をも知らでなどうち返し思ひ亂れたり。君はこの頃の浪の音に「かの物の音を聞かばや。さらずばかひなくこそ」など常はの給ふ。忍びてよろしき日見せて母君のとかく思ひ煩ふを聞き入れず、弟子どもなどにだに知せず心一つにたちゐかゞやくばかりしつらひて、十三日の月の華やかにさし出でたるに、唯「あたら夜の」と聞えたり。君はすきのさまやと思せど御直衣奉り引きつくろひて夜ふかして出で給ふ。御車は二なく作りたれど所せしとて御馬にて出で給ふ。惟光などばかりをさぶらはせ給ふ。やゝ遠く入る所なりけり。道のほどもよもの浦々見渡し給ひて思ふどち見まほしき入江の月かげにもまづ戀しき人の御事を思ひ出で聞え給ふにやがて馬ひきすぎて赴きぬべくおぼす。

 「秋の夜のつきげの駒よわがこふる雲居にかけれ時のまも見む」とうちひとりごたれ給ふ。造れるさま木ぶかくいたき所まさりて見所ある住ひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心ぼそくすみたるさま、こゝに居て思ひ殘す事はあらじとすらむとおぼしやらるゝに物哀なり。三昧堂近くて鐘の聲松の風に響きあひてものがなしう岩に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽どもに蟲の聲をつくしたり。こゝかしこの有樣など御覽ず。むすめすませたる方は心ことにみがきて月入れたる槇の戶口、氣色ばかりおしあけたり。うちやすらひ何かとの給ふにもかうまでは見え奉らじと深う思ふに物歎しうて、うちとけぬ心ざまをこよなうも人めいたるかな、さしもあるまじききはの人だにかばかりいひよりぬれば心强うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるにあなづらはしきにやとねたう、さまざまにおぼし惱めり。情なうおし立たむも、ことのさまに違へり、心くらべに負けむこそ人わるけれなど亂れ怨み給ふさま、げに物思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。近き几帳のひもに筝の琴のひき鳴されたるもけはひしどけなくうちとけながら、搔きまさぐりける程見えてをかしければ「この聞きならしたることをさへや」などよろづにの給ふ。

 「むつごとをかたりあはせむ人もがなうき世の夢もなかばさむやと」。

 「明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきてかたらむ」。ほのかなるけはひ伊勢の御息所にいとよう覺えたり。何心もなくうちとけて居たりけるをかう物覺えぬにいとわりなくて近かゝりけるざうしの內に入りて、いかで堅めけるにかいとつよきを、强ひてもおし立ち給はぬさまなり。されどさのみもいかでかはあらむ、人ざまいとあてにそびえて心耻しきけはひぞしたる。かうあながちなりける契を思すにも淺からず哀なり。御志のちかまさりするなるべし。常はいとはしき夜の長さも疾く明けぬる心地すれば人に知られじとおぼすも、心あわたゞしうてこまかに語らひ置きて出で給ひぬ。御文いと忍びてぞけふはある。あいなき御心のおになりや。こゝにもかゝる事いかで漏さじとつゝみて御使ことごとしくももてなさぬを胸いたく思へり。かくて後は忍びつゝ時々おはす。程も少し離れたるにおのづから物いひさがなき海士のこもや立ちまじらむとおぼし憚る程を、さればよと思ひ歎きたるを、げにいかならむと入道も極樂の願ひをば忘れて唯この氣色を待つことにはす。今更に心を亂るもいといとほしげなり。二條の君の、風のつてにも漏り聞き給はむ事は、戯ぶれにても心の隔ありけると思ひ疎まれ奉らむは心苦しう耻しうおぼさるゝもあながちなる御志の程なりかし。かゝる方の事をばさすがに心留めて怨み給へりし折々、などてあやなきすさび事につけてもさ思はれ奉りけむなどとりかへさまほしう、人の有樣を見給ふにつけても戀しさの慰むかたなければ、例よりも御文こまやかに書き給ひて、奧に「まことや、われながら心より外なるなほざりごとにて疎まれ奉りしふしぶしを思ひ出づるさへ胸痛きに、又怪しう物はかなき夢をこそ見侍りしか。かう聞ゆる問はずがたりに隔なき心のほどは思し合せよ。誓ひしことも」など書きて「何事につけても、

  しほしほとまづぞ流るゝかりそめのみるめは蜑のすさびなれども」とある御かへり、何心なくらうたげに書きて、はてに「忍びかねたる御夢がたりにつけても思ひ合せらるゝこと多かるに、

  うらなくも思ひけるかな契りしをまつより浪は越えじものぞと」。老らかなるものからたゞならずかすめ給へるを、いと哀にうち置き難く見給ひて、名殘久しう忍びの旅寢もし給はず。女思ひしもしるきに、今ぞ誠に身も投げつべき心ちする。行くすゑみじかげなる親ばかりをたのもしきものにていつの世に人なみなみになるべき身とは思はざりしかど、唯そこはかとなくてすぐしつる年月は何事をか心をもなやましけむ、かういみじう物思はしき世にこそありけれと、かねて推し量り思ひしよりもよろづに悲しけれど、なだらかにもてなしてにくからぬさまに見え奉る。哀とは月日にそへておぼしませど、やんごとなき方の覺束なくて、年月をすぐし給ふがたゞならずうち思ひおこせ給ふらむがいと心苦しければ、一人臥しがちにて過し給ふ。繪をさまざまかき集めて思ふことゞもを書きつけ、かへりごと聞くべきさまにしなし給へり。見む人の心にしみぬべきものゝさまなり。いかでかそらに通ふ御心ならむ。二條の君も物哀に慰む方なく覺え給ふ。折々同じやうに繪をかき集め給ひつゝやがてわが御有樣をにきのやうに書き給へり。いかなるべき御有樣どもにかあらむ。年かはりぬ。

內に御藥のことありて世の中さまざまにのゝしる。當代の皇子は右大臣の御むすめ、承香殿の女御の御腹に、男御子生れ給へる、二つになり給へばいといはけなし。春宮にこそは讓り聞え給はめ、おほやけの御後見をし世をまつりごつべき人をおぼしめぐらすに、この源氏のかく沈み給ふ事いとあたらしう、あるまじきことなれば、遂に后の御いさめをも背きて許されぬべき定め出できぬ。去年よりきさきも御ものゝけに惱み給ひさまざまのものゝさとししきりさわがしきを、いみじき御つゝしみどもをし給ふしるしにや、よろしうおはしましける。御目のなやみさへ此頃重くならせ給ひて、物心細く思されければ、七月二十よ日の程に又重ねて京へ歸り給ふべき宣旨下る。つひの事と思ひしかど、世の常なきにつけてもいかになりはつべきにかと歎き給ふを、かうにはかなれば嬉しきにつけても、又この浦を今はと思ひ離れむ事をおぼし歎くに、入道さるべき事と思ひながらうち聞くより胸ふたがりて覺ゆれど、思ひのごと榮え給はゞこそは我が思のかなふにはあらめなど思ひなほす。その頃はよがれなく語らひ給ふ。みなつきばかりより心苦しき氣色ありて惱みけり。かく別れ給ふべき程なればあやにくなるにやありけむ、ありしよりも哀に思して怪しう物思ふべき身にもありけるかなと思し亂る。女は更にもいはず思ひしづみたり。いとことわりや。思の外に悲しき道に出で立ち給ひしかど遂には行きめぐりきなむとかつはおぼし慰めき。この度は嬉しき方の御出立の又やはかへり見るべきと思すに哀なり。侍ふ人々もほどほどにつけては喜び思ふ。京よりも御迎に人々參り心地よげなるを、あるじの入道淚にくれて月も立ちぬ。程さへ哀なる空の氣色に、なぞや心づから今も昔もすゞろなる事にて身をはふらかすらむとさまざまにおぼし亂る。心を知れる人々は、あなにく例の御癖ぞと見奉りむづかるめり。月比はつゆ人に氣色見せず時々かいまぎれなどし給へるつれなさを、この頃あやにくに、なかなかの人の心づくしにとつきじろふ。少納言しるべして聞え出でし始の事などさゝめきあへるをたゞならず思へり。あさてばかりになりて例のやうにいたうもふかさで渡り給へり。さやかにもまだ見給はぬかたちなどいとよしよしゝうけだかきさまして、目ざましうもありけるかなと見捨て難く口惜しう思さる。さるべきさまにて迎へむとおぼしなりぬ。さやうにぞ語らひ慰め給ふ。男の御かたち有樣はた更にもいはず、年比の御おこなひにいたくおもやせ給へるしも言ふかたなくめでたき御有樣にて心苦しげなるけしきにうち淚ぐみつゝ、哀に深く契り給へるはたゞかばかりをさいはひにてもなどかやまざらむとまでぞ見ゆめれど、めでたきにしも我が身のほどを思ふにもつきせず。浪の聲秋の風には猶ひゞきことなり。鹽燒く煙かすかにたなびきてとりあつめたる所のさまなり。

 「このたびは立ち別るとももしほやくけぶりは同じかたになびかむ」との給へば、

 「かきつめて海士のたくもの思ひにも今はかひなきうらみだにせじ」。哀にうち泣きてことずくなゝるものから、さるべきふしの御いらへなど淺からず聞ゆ。この常にゆかしがり給ふ物のねなど更に聞かせ奉らざりつるをいみじう恨み給ふ。「さらばかたみにも忍ぶばかりのひとことをだに」とのたまひて京よりもておはしたりしきんの御こと取りにつかはして、心ことなるしらべをほのかに搔き鳴らし給へる、深き夜のすめるは譬へむ方なし。入道もえ堪へで、自ら筝の琴取りてさし入れたり。自らもいとゞ淚さへそゝのかされて留むべき方なきにさそはるゝなるべし。忍びやかに調べたる程いと上手めきたり。入道の宮の御琴の音を只今の又なきものに思ひ聞えたるは今めかしう、あなめでたと、聞く人の心行きてかたちさへ思ひやらるゝことはげにいと限なき御琴の音なり。これは飽くまで彈きすまし心にくゝ妬きねぞまされる。この御心にだに始めて哀になつかしう、まだ耳なれ給はぬ手など心やましき程にひきさしつゝ飽かずおぼさるゝにも、月頃など强ひても聞きならさゞりつらむと悔しうおぼさる。心のかぎり行くさきの契をのみし給ふ。「きんは又かきあはするまでのかたみに」との給ふ。女、

 「なほざりにたのめおくめる一ことをつきせぬ音にやかけて忍ばむ」。いふともなき口ずさみを怨み給ひて、

 「逢ふまでのかたみに契る中の緖のしらべはことにかはらざらなむ。このね違はぬさきに必ずあひ見む」とたのめ給ふめり。されど唯別れむ程のわりなさを思ひむせたるもいとことわりなり。立ち給ふ曉は夜ふかう出で給ひて御迎の人々もさわがしければ心もそらなれど人まをはからひて、

 「うちすてゝ立つも悲しき浦なみのなごりいかにと思ひやるかな」。御かへり、

 「年經つる苫屋も荒れてうきなみのかへるかたにや身をたぐへまし」とうち思ひけるまゝなるを見給ふに忍び給へどほろほろとこぼれぬ。心知らぬ人々は、猶かゝる御住ひなれど年頃といふばかりなれ給へるを今はと思すはさもある事ぞかしなど見奉る。良淸などはおろかならずおぼすなめりかしとにくゝぞ思ふ。「嬉しきにもげに今日をかぎりにこの渚を別るゝこそ」など哀がりて口々しほたれ言ひあへる事どもあめり。されど何かはとてなむ。入道今日の御まうけいといかめしう仕うまつれり。人々下のしなまで旅のさうぞくめづらしきさまなり。いつのまにかしあへけむと見えたり。御よそひはいふべくもあらず。みぞびつあまたかけさぶらはす。まことの都のつとにしつべき御贈物どもゆゑづきて思ひよらぬくまなし。今日奉るべきかりの御さうぞくに、

 「よる浪にたちかさねたる旅ごろもしほどけしとや人のいとはむ」とあるを御覽じつけて、さわがしけれど

 「かたみにぞかふべかりける逢ふことの日數へだてむ中の衣を」とて志あるをとて奉りかふ。御身になれたるどもを遣す。げに今ひとへしのばれ給ふべき事をそふるかたみなめり。えならぬ御ぞに匂ひのうつりたるをいかゞ人の心にもしめざらむ。入道今はと世を離れ侍りにしことなれども今日の御おくりに仕うまつらぬ事など申してかいつくるもいとほしながら若き人は笑ひぬべし。

 「世を海にこゝらしほじむ身となりてなほこの岸をえこそはなれね。心のやみはいとゞ惑ひぬべく侍れば境までだに」と聞えて「すきずきしきやうなれど思し出でさせ給ふをり侍らば」など御氣色たまはる。いみじう物を哀とおぼして所々うち赤み給へる御まみのわたりなど言はむかたなく見え給ふ。「思ひ捨て難きすぢもあめれば今いと疾く見なほし給ひてむ。唯このすみかこそ見捨てがたけれ。いかゞすべき」とて、

 「都出でし春のなげきにおとらめや年ふる浦をわかれぬる秋」とておしのごひ給へるにいとゞ物おぼえずしほたれまさるたちゐもあさましうよろぼふ。さうじみの心ちは譬ふべきかたなくてかうしも人に見えじと思ひしづむれど、身のうきをもとにてわりなきことなれどうち棄て給へる恨のやる方なきに、面影そひて忘れがたきにたけきことゝは唯淚に沈めり。母君も慰めわびて「何にかく心づくしなる事を思ひそめけむ。すべてひがひがしき人に從ひける心のをこたりぞ」といふ。「あなかまやおぼしすつまじき事も物し給ふめればさりともおぼす所あらむ。思ひ慰めて御湯などをだにまゐれ。あなゆゝしや」とて片隅に寄り居たり。めのと母君などひがめる心を言ひ合せつゝ「いつしかいかで思ふさまにて見奉らむと年月をたのみ過し、今や思ひかなふとこそ賴み聞えつれ、心苦しきことをも物の始に見るかな」と歎くを見るにもいとほしければ、いとゞほけられて晝は日一日いをのみ寢くらし夜はすくよかに起き居て、「ずゞの行くへも知らずなりにけり」とて、手をおし摺りて仰ぎ居たり。弟子どもにあばめられて、月夜に出でゝぎやうだうするものはやりみづに倒れ入りにけり。よしある岩のかたそばに腰もつきそこなひて病み臥したる程になむ少し物まぎれける。

君は難波の方にわたりて御祓へし給ひて、住吉にも、たひらかにていろいろの願はたし申すべきよし御使して申させ給ふ。俄に所せうて自らはこの度え詣で給はず。殊なる御道遙などなくて急ぎ入り給ひぬ。二條院におはしましつきて都の人も御供の人も夢の心地して行きあひ、喜び泣きもゆゝしきまで立ち騷ぎたり。女君もかひなきものにおぼし捨てつる命嬉しうおぼさるらむかし。いと美しげにねびとゝのほりて御物思ひの程に所せかりし御ぐしの少しへがれたるしもいみじうめでたきを今はかくて見るべきぞかしと御心落ちゐるにつけては、又かの飽かず別れし人の思へりしさま心苦しうおぼしやらる。猶世と共にかゝる方にて御心のいとまぞなきや。その人の事どもなど聞え出で給へり。おぼし出でたる御氣色淺からず見ゆるを、たゞならずや見奉り給ふらむ。わざとならず「身をば思はず」などほのめかし給ふぞをかしうらうたく思ひ聞え給ふ。かつ見るにだに飽かぬ御さまをいかで隔てつる年月ぞとあさましきまでおもほすに、とりかへし世の中もいとうらめしうなむ。程もなくもとの御位あらたまりてかずより外の權大納言になり給ふ。つぎつぎの人もさるべき限はもとのつかさかへし給ふ。世に許さるゝほど、枯れたりし木の春にあへる心地していとめでたげなり。めしありてうちに參り給ふ。御前に侍ひ給ふにねびまさりていかでさる物むつかしき住ひに年經給ひつらむと見奉る。女房などの院の御時より侍ひて老いしらへるどもは悲しくて今更になき騷ぎめで聞ゆ。上もはづかしうさへおぼされて御よそひなど殊に引きつくろひて出でおはします。御心地例ならず日頃經させ給ひければいたう衰へさせ給へるを、昨日今日ぞ少しよろしう思されける。御物語しめやかにありて夜に入りぬ。十五夜の月おもしろう靜なるに昔の事かきくづしおぼし出でられてしほたれさせ給ふ。物心細く思さるゝなるべし。「遊などもせず、昔聞きし物の音なども聞かで、久しうなりにけるかな」との給はするに、

 「わたつ海にしなえうらぶれひるのこの足たゝざりし年は經にけり」と聞え給へば、いとあはれに心はづかしう思されて、

 「宮ばしらめぐりあひける時しあれば別れし春のうらみのこすな」。いとなまめかしき御有樣なり。院の御ために、御八講行はるべき事まづ急がせ給ふ。春宮を見奉り給ふにこよなくおよすげさせ給ひて珍しうおぼし悅び給へるを限なく哀と見奉り給ふ。御ざえもこよなくまさらせ給ひて世を保ち給はむにはゞかりあるまじくかしこう見えさせ給ふ。入道の宮にも御心少ししづめて御對面のほどにも哀なる事どもあらむかし。誠やかの明石にはかへる波につけて御文つかはす。引きかくしてこまやかに書き給ふめり。

波のよるよるいかに、

 「歎きつゝあかしの浦に朝ぎりのたつやと人をおもひやるかな」。かのそちのむすめの五節、あいなく人知れぬ物思ひさめぬる心地して、まくなぎつくらせてさし置かせけり。

 「須磨のうらに心をよせし船人のやがてくたせるそでを見せばや」。手などこよなくまさりにけりと見おほせ給ひてつかはす。

 「かへりてはかごとやせまし寄せたりし名殘に袖のひがたかりしを」。飽かずをかしと思しゝ名殘なれば驚かされ給ひていとゞ思し出づれど、この頃はさやうの御ふるまひ更につゝみ給ふめり。花散里などにも唯御せうそこばかりにて覺束なくなかなかうらめしげなりとなむ。


澪標

さやかに見え給ひし夢の後、院の帝の御事を心にかけ聞え給ひて、いかでかの沈み給ふらむ罪救ひ奉ることをせむとおぼし歎きけるを、かくかへり給ひてはその御いそぎし給ふ。神無月には御八講し給ふ。世の人靡き仕うまつること昔のやうなり。おほきさき猶御なやみ重くおはしますうちにも遂にこの人をえけたずなりぬることゝ心やみおぼしけれど、帝は院の御ゆゐごんを思ひ聞え給ふ。物のむくいありぬべくおぼしけるをなほし立て給ひて御心地すゞしくなむ覺しける。時々おこり惱ませ給ひし御目もさはやぎ給ひぬれど、大方世にえ長くあるまじう心細きことゝのみ久しからぬ事を思しつゝ常に召しありて源氏の君は參り給ふ。世のなかの事なども隔なくの給はせなどしつゝ御ほいのやうなれば大方の世の人もあいなく嬉しきことに喜び聞えける。おり居なむの御心づかひ近くなりぬるにもないしのかみの心細げに世を思ひ歎き給へるいとあはれにおぼされけり。「おとゞうせ給ひ大宮もたのもしげなくのみあつい給へるに我が世の殘り少き心地するになむ、いといとほしう名殘なきさまにてとまり給はむとすらむ。昔より人には思ひおとし給へれどみづからのこゝろざしの又なき習ひに唯御事のみなむあはれにおぼえける。立ちまさる人又御ほいありて見給ふともおろかならぬ志はしも、なずらはざらむと思ふさへこそ心苦しけれ」とてうちなき給ひぬ。女君顏はいと赤くにほひてこぼるばかりのあいぎやうにて淚もこぼれぬるを、萬の罪忘れてあはれにらうたしと御覽ぜらる。「などかみこをだにもたまへるまじき。口惜しうもあるかな。契深き人のためには今見出で給ひてむと思ふも口惜しや。かぎりあればたゞ人にてぞ見給はむかし」など行く末の事をさへのたまはするにいと恥しうも悲しうもおぼえ給ふ。御かたちなどなまめかしう淸らにて限なき御心ざしの年月にそふやうにもてなさせ給ふに、めでたき人なれどさしも思へらざりし氣色心ばへなど物思ひ知られ給ふまゝに、などて我が心の若くいはけなきに任せてさる騷ぎをさへ引き出でゝ我名をば更にもいはず、人の御ためさへなど思し出づるに、いとうき御身なり。明くる年のきさらぎに春宮の御元服のことあり。十一になり給へど程よりおほきにおとなしう淸らにて、唯源氏の大納言の御顏を二つにうつしたらむやうに見え給ふ。いとまばゆきまで光りあひ給へるを世の人めでたきものに聞ゆれど、母宮はいみじうかたはらいたきことにあいなく御心を盡し給ふ。內にもめでたしと見奉り給ひて世のなか讓り聞え給ふべきことなどなづかしう聞え知らせ給ふ。同じ月の廿餘日みくにゆづりのこと俄なればおほきさきおぼしあわてたり。「かひなきさまながらも心のどかに御覽ぜらるべき事を思ふなり」とぞ聞え慰め給ひける。坊にはしようきやう殿のみこ居給ひぬ。世の中改まりて引きかへ今めかしき事ども多かり。源氏の大納言內大臣になり給ひぬ。數定まりてくつろぐ所もなかりければ加はり給ふなりけり。やがて世の政をし給ふべきなれどさやうの事繁きそくには堪へずなむとてちじの大臣攝政し給ふべきよし讓り聞え給ふを、「病によりて位も返し奉りてしを、いよいよ老のつもりそひてさかしき事侍らじ」とうけひき申し給はず。ひとの國にも事移り世の定らぬ折は、深き山に跡を絕えたる人だにもをさまれる世にはしろかみをも恥ぢず出で仕へけるをこそまことのひじりにはしけれ。病に沈みて返し給ひける位を世の中かはりて又改め給はむにさらにとがあるまじうおほやけ私定めらる。さるためしもありければすまひはて給はで太政大臣になり給ふ。御年も六十三にぞなり給ふ。世の中すさまじきによりかつは籠り居給ひしを、とりかへし花やぎ給へば御子どもなど沈むやうに物し給へるを皆うかび給ふ。とりわきて宰相中將權中納言になり給ふ。かの四の君の御腹の姬君十二になり給ふを、うちに參らせむとかしづき給ふ。かのたかさご謠ひし君もかうぶりせさせていとおもふさまなり。腹々に御子どもいとあまたつぎつぎに生ひ出でつゝ賑はゝしげなるを、源氏のおとゞは羨み給ふ。大殿腹の若君は人より殊に美くしうて內春宮の殿上し給ふ。故姬君の亡せ給ひしなげきを宮おとゞまた更にあらためておぼし歎く。されどおはせぬ名殘も唯このおとゞの御光によろづもてなされ給ひて年比おぼし沈みつる名殘なきまで榮え給ふ。猶昔に御心ばへかはらず折ふしごとに渡り給ひなどしつゝ若君の御めのとだちさらぬ人々も年比の程罷り出で散らざりけるは、皆さるべき事にふれつゝよすがつけむ事をおぼし置きつるにさいはひ人多くなりぬべし。

二條院にも同じごとまち聞えける人をあはれなるものにおぼして年比の胸あくばかりと思せば、中將中務やうの人々にはほどほどにつけつゝ情を見え給ふに、御いとまなくて外ありきもし給はず、二條院の東なる宮、院の御そうぶんなりしを二なくあらため作らせ給ふ。花散里などやうの心苦しき人々住ませむなどおぼしあてゝつくろはせ給ふ。まことやかの明石に心苦しげなりしことはいかにとおぼし忘るゝ時なけれど、おほやけわたくしいそがしきまぎれにえおぼすまゝにもとぶらひ給はざりけり。やよひついたちのほど、この比やとおぼしやるに人知れずあはれにて御使あり。とく歸り參りて「十六日になむ女にてたひらかにものし給ふ」と吿げ聞ゆ。珍しきさまにてさへあなるをおぼすにおろかならず。などて京に迎へてかゝる事をもせさせざりけむと口惜しうおぼさる。すくえうにみこ三人、みかど、きさき必ず並びて生れ給べし、中のおとりは太政大臣にて位を極むべしと考へ申したりし。中のおとりばらに女は出でき給ふべしとありし事、さしてかなふなめり。大方かみなき位にのぼり世をまつりごち給ふべき事、さばかり賢かりしあまたの相人どもの聞え集めたるは、年比は世のわづらはしさに皆おぼし消ちつるを、當代のかく位にかなひ給ひぬる事を思ひのごと嬉しとおぼす。自らはもてはなれ給へるすぢは更にあるまじきことゝおぼす。あまたのみこ達のなかにすぐれてらうたきものにおぼしたりしかど、たゞ人におぼしおきてける御心を思ふにすくせとほかりけり。うちのかくておはしますをあらはに人の知ることならねど、相人のこと空しからずと心のうちに覺しけり。今行く末のあらましごとをおぼすに、住吉の神のしるべ、まことにかの人も世になべてならぬ宿世にてひがひがしき親も及びなき心をつかふにやありけむ。さるにてはかしこきすぢにもなるべき人のあやしき世界に生れたらむはいとほしう忝なくもあるべきかな。この程すぐして迎へてむとおぼして、ひんがしの院急ぎ造らすべきよし催し仰せ給ふ。さる所にはかばかしき人もありがたからむをおぼして、故院に侍ひし宣旨のむすめ、宮內卿の宰相にてなくなりにし人の子なりしを、母などもうせてかすかなる世に經けるがはかなきさまにて子產みたりと聞しめしつけたるを、知るたよりありて事のついでにまねび聞えける人召してさるべきさまにのたまひ契る。まだ若くて何心もなき人にて明暮れ人しれぬあばらやに眺むる心ぼそさなれば深うも思ひたどらず、この御あたりのことをひとへにめでたう思ひきこえて參るべきよし申させたり。いとあはれにかつはおぼしていだしたて給ふ。物のついでにいみじう忍びまぎれておはしまいたり。さは聞えながらいかにせましと思ひ亂れけるを、いとかたじけなきによろづ思ひ慰めて「たゞのたまはせむまゝに」と聞ゆ。よろしき日なりければ急がし立て給ひて「あやしう思ひやりなきやうなれど、思ふさまことなる事にてなむ、自らも覺えぬ住ひにむすぼゝれたりしためしを思ひよそへて暫しは念じ給へ」など事の有樣委しう語らひ給ふ。上の宮仕時々せしかば見給ふ折もありしをいたう袞へにけり。家のさまもいひしらずあれ惑ひてさすがに大なる所の木立などうとましげにいかですぐしつらむと見ゆ。人ざま若やかにをかしければ御覽じ放たれず。とかく戯ぶれのたまひて「取りかへしつべき心地こそすれ。いかに」とのたまふにつけても、げに同じうは御身近くも仕うまつりなればうき身も慰みなましと見奉る。

 「かねてよりへだてぬ中とならはねど別は惜しきものにぞありける。慕ひやせまし」とのまたへば、うはぢらひて、

 「うちつけの別を惜しむかごとにて思はぬかたに慕ひやはせぬ」。馴れて聞ゆるをいたしとおぼす。車にてぞ京のほどは行き離れける。いと親しき人さしそへて、ゆめもらすまじく口がため給ひてつかはす。御はかし、さるべきものなど、所せきまでおぼしやらぬくまなし。めのとにもありがたうこまやかなる御いたはりの程淺からず。入道思ひかしづき思ふらむ有樣思ひやるもほゝゑまれ給ふこと多く、又あはれに心苦しくも、唯このことの御心にかゝるも淺からぬにこそは。御文にも「おろかにもてなし給ふまじ」と返すがへすいましめ給へり。

 「いつしかも袖うちかけむをとめ子が世をへてなでむ岩のおいさき」津の國までは船にてそれよりあなたは馬にて急ぎつきぬ。入道待ちとり喜びかしこまり聞ゆる事かぎりなし。そなたに向きて拜み聞えてありがたき御心ばへを思ふにいよいよいたはしう恐しきまで思ふ。ちごのいとゆゝしきまでうつくしうおはする事たぐひなし。げにかしこき御心にかしづき聞えむとおぼしたるはうべなりけりと見奉るにあやしき道に出で立ちて夢の心地しつる歎もさめにけり。いとうつくしうらうたくおぼえてあつかひ聞ゆ。こもちの君も月比物をのみ思ひ沈みていとゞよわれる心地に生きたらむともおぼえざりつるを、この御心おきての少し物思ひ慰めらるゝにぞかしらもたげて御使にもになきさまの志をつくす。とく參りなむと急ぎ苦しがれば思ふ事ども少し聞え續けて、

 「ひとりしてなづるは袖の程なきにおほふばかりのかげをしぞまつ」と聞えたり。あやしきまで御心にかゝりゆかしうおぼさる。女君には殊にあらはしてをさをさ聞え給はぬを聞き合せ給ふ事もこそとおぼして、「さこそあなれ。あやしうねぢけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには心もとなくて思ひの外に口惜しくなむ。女にてさへあなればいとこそものしけれ。尋ね知らでもありぬべきことなれど、さはえ思ひすつまじきわざなりけり。よびにやりて見せ奉らむ。憎み給ふなよ」と聞え給へばおもてうち赤みて「あやしう常にかやうなるすぢのたまひつくる心の程こそ我ながらうとましけれ。ものにくみはいつ習ふべきにか」と怨じ給へば、いとよくうちゑみて、「そよ、誰がならはしにかあらむ。思はずにぞ見え給ふや。人の心よりほかなる思ひやりごとして物怨じなどし給ふよ。思へば悲し」とてはてはては淚ぐみ給ふ。年比飽かず戀しと思ひ聞え給ひし御心の中ども折々の御文の通ひなどおぼし出づるにはよろづの事すさびにこそあれと、思ひけたれ給ふ。「この人をかうまで思ひやりこととふは猶思ひやうの侍るぞ。まだきに聞えばまたひが心得給ふべければ」とのたまふ。「さして人がらのをかしかりしも所からにや、珍しうおぼえきかし」など語り聞え給ふ。あはれなりし夕の煙、いひしことなどまほならねど、その夜のかたちほの見し琴の音のなまめきたりしもすべて心とまれるさまにのたまひ出づるにも、われは又なくこそ悲しと思ひ歎きしか、すさびにても心を別け給ひけむよと、たゞならず思ひ績けられてわれはわれとうちそむきながめて、「あはれなりし世のありさまかな」とひとりごとのやうにうちなげきて、

 「思ふどち靡くかたにはあらずともわれぞけぶりにさきだちなまし」。「何とかやこゝろうや。

  誰により世をうみ山に行きめぐり絕えぬ淚にうきしづむ身ぞ。いでやいかでか見え奉らむ。命こそかなひ難かべい物なめれ。はかなきことにて人に心おかれじと思ふも、唯ひとつ故ぞや」とて、箏の御琴引き寄せてかき合せすさび給ひて、そゝのかし聞え給へど、かのすぐれたりけむもねたきにや、手も觸れたまはず、いとおほどかに美しうたをやぎ給へるものから、さすがにしうねき所つきて物怨じしたまへるがなかなかあいぎやうづきて腹だちなし給ふををかしう見所ありとおぼす。五月五日にぞいかには當るらむと人知れず數へ給ひて、ゆかしうあはれにおぼしやる。何事もいかにかひあるさまにもてなし嬉しからまし、口惜しのわざや、さる所にしも心苦しきさまにて出で來たるよとおぼす。男君ならましかばかうしも御心にかけ給ふまじきを、かたじけなういとほしう我が御宿世もこの御事につけてぞかたほなりけるとおぼさるゝ。御使出し立てらる。「必ずその日違へず罷りつけ」とのたまへば、五日にいきつきぬ。おぼしやることもありがたうめでたきさまにてまめまめしき御とぶらひもあり。

 「うみ松や時ぞともなきかげに居て何のあやめもいかにわくらむ。心のあくがるゝまでなむ。猶かくては得過ぐすまじきを思ひ立ち給ひね。さりとも後めたきことはよも」と書い給へり。入道例の喜びなきして居たり。かゝるをりは生けるかひも作り出でたることわりなりと見ゆ。こゝにもよろづ所せきまで思ひ設けたりければ、この御使なくば闇の夜にてこそ暮れぬべかりけれ。めのともこの女君のあはれに思ふやうなるをかたらひ人にて世のなぐさめにしけり。をさをさ劣らぬ人もるゐにふれてむかへ取りてあらすれど、こよなく袞へたる宮仕人などのいはほのなか尋ぬるが落ちとまれるなどこそあれ。これはこよなうこめき思ひあがれり。聞き所ある世の物語などして、おとゞの君の御有樣世にかしづかれ給へる御おぼえの程も女心地に任せて限なく語り盡せば、げにかくおぼしいづばかりの名殘とゞめたる身もいとたけくやうやう思ひなりけり。御文諸共に見て心のうちに、あはれかうこそ思の外にめでたき宿世はありけれ、うきものは我が身にこそありけれと思ひつゞけゝれど、「めのとの事はいかに」などこまやかにとぶらはせ給へるもかたじけなく何事も慰めけり。御返しには、

 「かずならぬみしまがくれに鳴くたづをけふもいかにと訪ふ人ぞなき。よろづに思ひ給へむすぼゝるゝありさまをかくたまさかの御なぐさめにかけ侍る。命のほどもはかなくなむ。げに後やすく思ひ給へ置くわざもがな」とまめやかに聞えたり。うちかへし見給ひつゝあはれと長やかにひとりごち給ふを、女君しりめに見おこせて、「浦よりをちにこぐ船の」と忍びやかにひとりごちながめ給ふを、「誠にかくまでとりなしたまふよ。こはたゞかばかりのあはれぞや。所のさまなどうち思ひやる時々きしかたのこと忘れ難きひとりごとを、ようこそ聞きすぐい給はね」など恨み聞え給ひて、うはつゝみばかりを見せ奉らせ給ふ。手などのいとゆゑづきてやんごとなき人苦しげなるを、かゝればなめりとおぼす。かくこの御心とり給ふ程に花散里をかれはて給ひぬるこそいとほしけれ。おほやけごとゞもしげく所せき御身に、おぼし憚るにそへても、珍しく御目驚くことのなき程思ひしづめ給ふなりけり。五月雨のつれづれなるころ、おほやけわたくし物しづかなるにおぼし起して渡り給へり。よそながらも明暮につけてよろづにおぼしやりとぶらひ給ふをたのみにてすぐい給ふ所なれば、今めかしう心にくきさまにそばみ恨み聞え給ふべきならねば心やすげなり。年比にいよいよ荒れまさりすごげにておはす。女御の君に御物語聞え給ひて西の妻戶に夜ふかして立ち寄り給へり。月おぼろにさし入りていとゞえんなる御ふるまひ盡きもせず見え給ふ。いとゞつゝましけれどはし近う眺め給うけるさまながらのどやかにて物し給ふけはひいとめやすし。水鷄のいと近う鳴きたるを、

 「くひなだに驚かさずはいかにして荒れたるやどに月をいれまし」。いとなつかしう言ひけち給へるぞとりどりに捨てがたき世かな、かゝるこそなかなか身も苦しけれとおぼす。

 「おしなべてたゝくくひなに驚かばうはの空なるつきもこそいれ。後めたう」とは猶ことに聞え給へど、あだあだしきすぢなど疑はしき御心ばへにはあらず。年比まち過ぐし聞え給へるも更におろかにはおぼえざりけり。空なながめ給ひそとたのめ聞え給ひしをりのことゞものたまひ出でゝ、「などてたぐひあらじといみじう物を思ひ沈みけむ。うきみからは同じなげかしさにこそ」との給へるもおいらかにらうたげなり。例のいづこの御言の葉にかあらむ、盡きせずぞ語らひ慰め聞え給ふ。かやうの序にもかの五節をおぼし忘れず、又見てしがなと心にかけ給へれど、いとかたき事にてえまぎれ給はず。女は物思ひ絕えぬを親はよろづに思ひいふこともあれど、世に經むことを思ひ絕えたり。心やすき殿づくりしてはかやうの人つどへても思ふさまにかしづき給ふべき人もいでものし給はゞさる人の後見にもとおぼす。かの院のつくりざまなかなか見所多く今めいたり。よしあるずりやうなどをえりてあてあてに催し給ふ。ないしのかんの君を猶え思ひ放ち聞え給はず。こりずまに立ちかへる御心ばへもあれど、女はうきにこり給ひて昔のやうにもあひしらへ聞え給はず。なかなか所せうさうざうしう世の中をおぼさる。院はのどやかにおぼしなりて、時々につけてをかしき御遊など好ましげにおはします。女御更衣皆例のごと侍ひ給へど、春宮の御母女御のみぞとり立てゝ時めき給ふこともなく、かんの君の御おぼえにおしけたれ給へりしを、かくひきたがへめでたき御さいはひにて離れ出でゝ宮にそひ奉り給へる。このおとゞの御とのゐどころは昔のしげいさなり。梨壺に春宮はおはしませば、ちかどなりの御心よせに何事をも聞え通ひて宮をもうしろみ奉り給ふ。入道きさいの宮御位を又改め給ふべきならねば太上天皇になずらへてみふ賜はり、ゑんじともなりて、さまことにいつくしう、御行ひくどくのことを常の御いとなみにておはします。年比世にはゞかりていでいりもかたく見奉り給はぬをいぶせくおぼしけるにおぼすさまに參りまかで給ふもいとめでたければ、大后はうきものは世なりけりとおぼしなげく。おとゞは事に觸れていと耻かしげに仕うまつり心よせきこえ給ふも、なかなかいとほしげなるを、人も安からずきこえけり。兵部卿のみこ年比の御心ばへのつらくおもはずにて唯世の聞えをのみおぼし憚り給ひし事を、おとゞはうきものにおぼしおきて、昔のやうにもむつび聞え給はず。なべての世には普くめでたき御心なれど、この御あたりはなかなかなさけなきふしもうちまぜ給ふを、入道の宮はいとほしうほいなき事に見奉り給ふ。世の中の事唯なかばを別けておほきおとゞこのおとゞの御まゝなり。權中納言の御むすめその年の八月にまゐらせ給ふ。おほぢおとゞゐたちて儀式などいとあらまほし。兵部卿の宮の中の君もさやうに心ざしてかしづき給ふ名高きを、大臣は人よりまさり給へとしもおぼさずなむありける。いかゞし給はむとすらむ。

その秋住吉に詣で給ふ。願ども果し給ふべければいかめしき御ありきにて世の中ゆすりて上達部殿上人われもわれもと仕う奉り給ふ。折しもかの明石の人年ごとの例の事にて仕うまつるを、こぞことしさはることありて怠りけるかしこまりとり重ねて思ひ立ちけり。船にてまうでたり。岸にさし着くるほど、見ればのゝしりて詣で給ふ人のけはひなぎさに滿ちていつくしきかんだからをもて續けたり。がく人とをつらさうぞくをとゝのへかたちを選びたり。「たがまうで給へるぞ」と問ふめれば「內大臣どのゝ御願はたしにまうで給ふを知らぬ人もありけり」とてはかなき程のげすだに心地よげにうち笑ふ。げにあさましう月日もこそあれ、なかなかこの有樣を遙に見奉るに身の程口惜しうおぼゆ。さすがにかけ離れ奉らぬ宿世ながら、かくくちをしききはのものだに物思ひなげにて仕うまつるを色ふしに思ひたるに、何の罪深き身にて心にかけておぼつかなう思ひ聞えつゝかゝりける御ひゞきをも知らで立ち出でつらむなど思ひ續くるに、いと悲しうて人知れずしほたれけり。松原の深綠なる中に花紅葉をこき散らしたると見ゆるうへのきぬの濃き薄き數知らず、六位の中にも藏人は靑色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣怨みし右近のしようもゆげひになりてことごとしげなる隨身ぐしたる藏人なり。良淸も同じすけにて人よりことに物思ひなき氣色にておどろおどろしきあかぎぬすがたいと淸げなり。すべて見し人々ひきかへ花やかに何事思ふらむと見えてうちちりたるに、若やかなる上達部殿上人のわれもわれもと思ひ挑み馬鞍などまでかざりをとゝのへみがき給へるは、いみじきものに田舍人も思へり。御車を遙に見やればなかなか心やましくてこひしき御かげをもえ見奉らず。河原のおとゞの御れいをまねびてわらは隨身をたまはり給ひける。いとをかしげにさうぞきみづらゆひて紫すそごのもとゆひなまめかしうたけすがたとゝのひうつくしげにて十人さまことに今めかしう見ゆ。大殿腹の若君限なくかしづきたてゝ馬ぞひわらはのほど皆作りあはせてやうかへてさうぞきわけたり。雲井遙にめでたく見ゆるにつけても若君の數ならぬさまにて物し給ふをいみじと思ふ。いよいよみやしろのかたを拜み聞ゆ。國の守參りて御まうけ例の大臣などの參り給ふよりは殊に世になく仕うまつれりけむかし。いとはしたなければ立ちまじり數ならぬ身の聊のことせむに神も見入れかずまへ給ふべきにもあらず。歸らむにもなかぞらなり。けふは難波に船さしとめてはらへをだにせむとて漕ぎ渡りぬ。君は夢にも知り給はず、夜一夜いろいろの事をせさせ給ふ。誠に神の喜び給ふべき事をしつくして、きしかたの御ぐわんにもうちそへありがたきまで遊びのゝしりあかし給ふ。惟光やうの人は心のうちに神の御德を哀にめでたしと思ふ。あからさまに立ち出で給へるに侍ひて聞え出でたり。

 「すみよしのまつこそものは悲しけれ神代のことをかけて思へば」。げにとおぼし出でゝ

 「荒かりし浪のまよひに住吉の神をばかけてわすれやはする。しるしあり」などのたまふもいとめでたし。かの明石の船、この響におされて過ぎぬる事も聞ゆれば知らざりけるよと哀れにおぼす。神の御しるべおぼし出づるも愚ならねば聊なる御消そこをだにして心慰めばや、なかなかに思ふらむかしとおぼす。みやしろたち給ひてところどころに逍遙をつくし給ふ。難波の御はらへなど殊になゝ瀨によそほしう仕うまつる。堀江のわたりを御覽じて「今はた同じ難波なる」と御心にもあらでうちずじ給へるを、御車のもと近き惟光うけたまはりやしつらむ、さる召しもやとれいにならひて懷に設けたるつか短き筆など御車とゞむる所にて奉れり。をかしとおぼしてたゝうがみに

 「みをつくし戀ふるしるしにこゝまでもめぐり逢ひけるえにはふかしな」とて賜へれば、かしこの心しれるしもびとしてやりけり。駒なべてうち過ぎ給ふにも心のみ動くに、露ばかりなれどいとあはれにかたじけなくおぼえてうちなきぬ。

 「數ならで難波のこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」。たみのゝ島にみそぎ仕うまつる御はらへのものにつけて奉る。日暮がたになりゆく。夕汐滿ち來て入江のたづも聲をしまぬほどのあはれなるをりからなればにや、人めもつゝまずあひ見まほしくさへおぼさる。

 「つゆけさのむかしに似たる旅衣たみのゝ島のなにはかくれず」。道のまゝにかひある逍遙遊びのゝしり給へど御心にはなほかゝりておぼしやる。あそびどもの集ひ參れるも上達部と聞ゆれど若やかに事好ましげなるは皆目とゞめ給ふべかめり。されどいでやをかしき事も物のあはれも人がらこそあべけれ。なのめなる事をだに少しあはきかたによりぬるは心とゞむるたよりもなきものをとおぼすに、おのが心をやりてよしめきあへるも疎ましうおぼしけり。かの人は過ぐし聞えて又の日ぞよろしかりければみてぐら奉る。ほどにつけたる願どもなどかつがつはたしける。又なかなか物思ひそはりてあけくれくちをしき身を思ひ歎く。今や京におはしつくらむと思ふ日數も經ず御使あり。このごろの程に迎へむことをぞのたまへる。いとたのもしげにかずまへのたまふめれど、いざや又島漕ぎ離れ中ぞらに心細きことやあらむと思ひわづらふ。入道もさて出し放たむはいと後めたう、さりとてかくうづもれて過ぐさむを思はむもなかなかきしかたの年比よりも心づくしなり。よろづにつゝましう思ひ立ち難きことを聞ゆ。

まことやかの齋宮もかはり給ひにしかばみやす所のぼり給ひてのちかはらぬさまに何事もとぶらひ聞え給ふことはありがたきまでなさけ盡し給へど、昔だにつれなかりし御心ばへのなかなかならむ名殘は見じと思ひ放ち給へれば、渡り給ひなどする事は殊になし。あながちにうごかし聞え給ひても我が心ながら知り難くとかくかゝづらはむ御ありきなども所せうおぼしなりにたれば强ひたるさまにもおはせず。齋宮をぞいかにねびなり給ひぬらむとゆかしう思ひきこえ給ふ。なほかの六條のふるみやをいとよくすりしつくろひたりければみやびかにて住み給うけり。よしづき給へることふりがたくてよき女房など多くすいたる人のつどひ所にて物寂しきやうなれど、心やれるさまにて經給ふ程に、俄におもく煩ひ給ひて物のいと心細くおぼされければ、罪深きところに年經つるもいみじうおぼして尼になり給ひぬ。おとゞ聞き給ひて、かけがけしきすぢにはあらねど猶さるかたの物をも聞え合せ人に思ひ聞えつるに、かくおぼしなりにけるがくちをしうおぼえ給へば、驚きながら渡り給へり。飽かずあはれなる御とぶらひ聞え給ふ。近き御枕上におましよそひて脇息におしかゝりて御返りなど聞え給ふ。いたうよわり給へるけはひなれば絕えぬ心ざしの程はえ見え奉らでやとくち惜しうていみじう泣い給ふ。かくまでおぼしとゞめたりけるを女もよろづにあはれにおぼえて齋宮の御事をぞ聞え給ふ。「心細くてとまり給はむを必ず事に觸れてかずまへ聞え給へ。またみゆづる人もなくたぐひなき御有樣になむ。かひなき身ながらも今暫し世の中を思ひのどむる程はとざまかうざまに物をおぼし知るまで見奉らむとこそ思ひ給へつれ」とても消え入りつゝ泣き給ふ。「かゝる御事なくてだに思ひ放ち聞えさすべきにもあらぬを、まして心の及ばむに從ひては何事もうしろみ聞えむとなむ思ひ給ふる。更に後めたくな思ひ聞え給ひそ」など聞え給へば、「いと難きこと誠にうち賴むべき親などにてみゆづる人だに女おやに離れぬるはいとあはれなることにこそ侍るめれ。まして思ほし人めかさむにつけてもあぢきなきかたやうちまじり人に心も置かれ給はむ。うたてある思ひやりごとなれどかけてさやうの世づいたるすぢにおぼしよるな。うき身をつみ侍るにも女は思のほかにて物思ひをそふるものになむ侍りければいかでさるかたをもてはなれて見奉らむと思ひ給ふる」など聞え給へば、あいなくものたまふかなとおぼせど、「年比よろづ思ひ給へしりにたるものを、昔のすき心の名殘あり顏にのたまひなすもほいなくなむ。よし、おのづから」とてとは暗うなり內は大となぶらほのかに物より通りて見ゆるを、もしもやとおぼえてやをら御几帳のほころびより見給へば、心もとなき程の火影に、御ぐしいとをかしげに花やかにそぎて寄り居給へる、繪に書きたらむさましていみじうあはれなり。ちやうの東おもてにそひ臥し給へるぞ宮ならむかし。御几帳のしどけなく引きやられたるより御目とゞめて見通し給へればつらづゑつきていと物悲しとおぼいたるさまなり。はつかなれどいと美しげならむと見ゆ。御ぐしのかゝりたる程かしらつきけはひあてにけだかきものからひぢゝかにあいぎやうづき給へるけはひしるく見え給へば、心もとなくゆかしきにもさばかりのたまふものをとおぼしかへす。「いと苦しさまさり侍る。かたじけなきを、はや渡らせ給ひね」とて人にかきふせられ給ふ。「近く參りたるしるしによろしうおぼされば嬉しかるべきを、心苦しきわざかな。いかにおぼさるゝぞ」とて覗き給ふけしきなれば、「いと恐しげに侍るや。みだり心地のいとかく限なる折しも渡らせ給へるはまことに淺からずなむ。思ひ侍ることを少しも聞えさせつればさりともとたのもしくなむ」など聞えさせ給ふ。「かゝる御ゆゐごんのつらにおぼしけるもいとゞあはれになむ。故院のみこ達あまたものし給へど親しくむつびおぼすもをさをさなきを、うへの同じみこ達のうちにかずまへ聞え給ひしかばさこそは賴み聞え侍らめ。少しおとなしき程になりぬる齡ながらあつかふ人もなければさうざうしきを」など聞えて歸り給ひぬ。御とぶらひ今少したちまさりてしばしば聞え給ふ。七八日ありてうせ給ひにけり。あへなうおぼさるゝに世もいとはかなくて物心ぼそう思されてうちへも參り給はず。とかくの御事などおきてさせ給ふ又たのもしき人もことにおはせざりけり。ふるき齋宮のみやづかさなど仕うまつり馴れたるぞ僅に事ども定めける。御みづからも渡り給へり。宮に御せうそこ聞え給ふ。「何事もおぼえ侍らでなむ」と女別當して聞え給へり。「聞えさせのたまひ置きしことども侍りしを、今は隔なきさまにおぼされば嬉しくなむ」と聞え給ひて、人々めし出でゝあるべき事ども仰せ給ふ。いとたのもしげに年比の御心ばへとりかへしつべう見ゆ。いといかめしう殿の人々數もなう仕うまつらせ給へり。あはれにうちながめつゝ御さうじにてみすおろし込めて行はせ給ふ。宮には常にとぶらひ聞え給ふ。やうやう御心しづまり給ひてはみづからも御返りなど聞え給ふ。つゝましうおぼしたれど御めのとなどかたじけなしとそゝのかし聞ゆるなりけり。雲みぞれかき亂れ荒るゝ日にいかに宮の御ありさまかすかに眺め給ふらむと思ひやり聞え給ひて、御使奉れ給へり。「只今の空をいかに御覽ずらむ。

  降りみだれひまなき空になき人のあまがけるらむ宿ぞかなしき」。空色の紙のくもらはしきに書い給へり。わかき人の御目にとゞまるばかりと心してつくろひ給へる、いと目もあやなり。宮はいと聞えにくゝし給へどこれかれ人づてにてびんなきことゝ責め聞ゆれば、にびいろの紙のいとかうばしうえんなるに墨つぎなどまぎらはして、

 「消えがてにふるぞ悲しきかきくらし我が身それともおもほえぬよに」。つゝましげなる書きざまにて、いとおほどかに御手すぐれてはあらねどらうたけにあてはかなる筋に見ゆ。くだり給ひし程よりなほあかずおぼしたりしを、今は心にかけてともかくも聞えよりぬべきぞかしとおぼすには例のひきかへしいとほしくこそ。故みやす所のいと後めたげに心おき給ひしを、ことわりなれど世の中の人もさやうに思ひよりぬべき事なるを、ひきたがへ心淸くてあつかひ聞えむ、うへの今少し物おぼし知る齡にならせ給ひなばうちずみせさせ奉りてさうざうしきにかしづきぐさにこそとおぼしなる。いとまめやかにねんごろに聞え給ひてさるべき折々は渡りなどし給ふ。「かたじけなくとも昔の御名殘におぼしなずらへてけどほからずもてなさせ給はゞなむ本意なる心地すべき」など聞え給へどわりなく物はぢをし給ふ。おくまりたる人ざまにてほのかにも御聲など聞かせ奉らむはいと世になくめづらかなることゝおぼしたれば、人々も聞えわづらひてかゝる御心ざまを憂ひ聞えあへり。女別當內侍などいふ人々、あるは離れ奉らぬわかんどほりなどにて心ばせある人々多かるべし。この人知れず思ふ方のまじらひをせさせ奉らむに、人に劣り給ふまじかめり。いかでさやかに御かたちを見てしがなとおぼすもうちとくべき御親心にはあらずやありけむ。我が御心も定め難ければかく思ふといふことも人にも漏し給はず。御わざなどの御事もとりわきてせさせ給へばありがたき御心を宮人も喜びあへり。はかなく過ぐる月日にそへていとゞさびしく心ぼそき事のみまさるに、侍ふ人々もやうやうあがれゆきなどしてしもつ方の京極わたりなれば人げ遠く山寺の入相の聲々にそへてもねなきがちにてぞ過ぐし給ふ。同じき御親と聞えし中にも片時のまも立ち離れ奉り給はでならはし奉り給ひて、齋宮にも親そひてくだり給ふことは例なきことなるを、あながちに誘ひ聞え給ひしみこゝろに、限ある道にてはたぐひ聞え給はずなりにしをひるまなうおぼし歎きたり。侍ふ人々につけて心かけ聞え給ふ人たかきいやしきもあまたあり。されどおとゞの御めのとたちに「心に任せたること引き出し仕うまつるな」など親がり申し給へば、いと耻しき御ありさまにびんなき事聞しめしつけられじと言ひ思ひつゝはかなきことのなさけも更に作らず。院にもかのくだり給ひし日大極殿のいつくしかりし儀式にゆゝしきまで見え給ひし御かたちを忘れ難うおぼし置きければ、參り給ひて、「齋院など御はらからの宮々おはしますたぐひにてさぶらひ給へ」と御息所にも聞え給ひにき。されどやんごとなき人々侍ひ給ふにかずかずなる御うしろみもなくてやと覺しつゝみ、うへはいとあつしうおはしますも恐しう、又物思ひやくはへむと憚りて過ぐし給ひしを、今はまして誰かは仕うまつらむと人々思ひたるをねんごろに院にはおぼしのたまはせけり。おとゞ聞き給ひて院よりみけしきあらむをひきたがへよこどり給はむをかたじけなき事とおぼすに、人の御有樣のいとらうたげに見放たむはまた口惜しうて入道の宮にぞ聞え給ひける。「かうかうのことをなむ思う給へわづらふに母みやす所いとおもおもしく心深きさまに物し侍りしを、あぢきなきすき心にまかせてさるまじき名をも流しうきものに思ひ置かれ侍りにしをなむ世にいとほしう思ひ給ふる。この世にてその恨の心とけず過ぎ侍りにしを、今はとなりてのきはにこの齋宮の御事をなむ物せられしかば、さも聞き置き心にも殘すまじうこそはさすがに見置き給ひけめと思ひ給ふるにも忍びがたう、大方の世につけてだに心苦しきことは見聞き過ぐされぬわざに侍るをいかでなきかげにてもかのうらみ忘るばかりと思ひ給ふるを內にもさこそおとなびさせ給ひたれどいときなき御齡におはしますを少し物の心知れる人は侍はれてもよくやと思ひ給ふるを御定になむ」と聞え給へば、「いとようおぼしよりけるを院にもおぼさむことはげにかたじけなういとほしかるべけれど、かの御ゆゐごんをかこちて知らず顏に參らせ奉り給へかし。今はたさやうの事わざどもおぼしとゞめず御行ひがちになり給ひてかう聞え給ふを深うしもおぼし咎めじと思ひ給ふる」、さらば御氣色ありてかずまへさせ給はゞ催しばかりのことをそふるになし侍らむ。とざまかうざまに思ひ給へ殘す事なきにかくまでさばかりの心がまへもまねび侍るに世の人やいかにとこそ憚り侍れ」など聞え給ひて、後にはげに知らぬやうにてこゝに渡り奉りてむとおぼす。女君にも「しかなむ思ふ。語らひ聞えてすぐい給はむにいとよき程なるあはひならむ」と聞え知らせ給へば、嬉しき事におぼして御わたりのことを急ぎ給ふ。入道の宮には兵部卿の宮の姬君をいつしかとかしづきさわぎ給ふめるをおとゞのひまある中にていかゞもてなし給はむと心苦しくおぼす。權中納言の御むすめは弘徽殿の女御と聞ゆ。おほい殿の御子にていとよそほしうもてかしづき給ふ。上もよき御遊びがたきにおぼいたり。宮の中の君も同じ程におはすれば、うたてひゝな遊の心ちすべきを、おとなしき御うしろみはいと嬉しかるべき事とおぼしのたまひてさる御氣色聞え給ひつゝ、おとゞのよろづにおぼし至らぬことなくおほやけがたの御うしろみは更にもいはず明暮につけてこまかなる御心ばへのいとあはれに見えたまふを、たのもしきものに思ひ聞え給ひて、いとあつしくのみおはしませば參りなどし給ひても心やすく侍ひ給ふこともかたきを、少しおとなびてそひさぶらはむ御うしろみはかならずあるべきことなりけり。


蓬生

もしほたれつゝ侘び給ひし頃ほひ都にもさまざまおぼし歎く人多かりしを、さても我が身のより所あるは一方の思こそ苦しげなりしか。二條の上などものどやかにて旅の御すみかをもおぼつかなからず聞え通ひ給ひつゝ位を去り給へるかりの御よそひをも竹の子の世のうきふしを時々につけてあつかひ聞え給ふに慰め給ひけむ。なかなかその數とも人にも知られず立ち別れ給ひし程の御有樣をもよその事に思ひやり給ふ人々のしたの心碎き給ふたぐひ多かり。常陸の宮の君は父みこのうせ給ひにし名殘に又思ひあつかふ人もなき御身にていみじう心ぼそげなりしを、思ひかけぬ御事の出で來てとぶらひ聞え給ふ事絕えざりしを、いかめしき御勢にこそことにもあらずはかなき程の御情ばかりと思したりしかど、まちうけ給ふ御袂のせばきには大空の星の光を盥の水に寫したる心地してすぐし給ひし程に、かゝる世の騷ぎ出で來てなべての世憂くおぼし亂れしまぎれに、わざと深からぬかたの志はうち忘れたるやうにて遠くおはしましにし後、ふりはへてしもえ尋ね聞え給はず。その名殘に暫しはなくなくもすぐし給ひしを、年月ふるまゝに哀に淋しき御有樣なり。ふるき女ばらなどは「いでやいと口惜しき御宿世なりけり。おぼえず神佛の顯れ給へらむやうなりし御心ばへに、かゝるよすがも人はいでおはするものなりけりとありがたう見奉りしを大方の世の事とはいひながら又賴むかたなき御有樣こそかなしけれ」とつぶやきなげく。さる方にありつきたりしあなたの年ごろはいふかひなき淋しさにめなれてすぐし給ひしを、なかなか少し世づきてならひにける年月にいと堪へがたく思ひ歎くべし。少しもさてありぬべき人々はおのづから參りつきてありしを皆つぎつぎに隨ひていき散りぬ。女ばらのいのち堪へぬもありて月日に隨ひてかみしもの人數少くなりゆく。もとより荒れたりし宮の中いとゞ狐のずみかになりて疎ましうけどほきこだちにふくろうの聲をあさゆふに耳ならしつゝ人げにこそ、さやうの物もせかれて影隱しけれ。こだまなどけしからぬものども所を得てやうやうかたちを顯し物侘しきことのみ數知らぬにまれまれ殘りて侍ふ人は「猶いとわりなし。この頃ずりやうどものおもしろき家づくり好むがこの宮のこだちを心につけて放ち給はせてむやとほとりにつきてあないし申さするをさやうにせさせ給ひていとかう物恐しからぬ御住ひにおぼしうつろはなむ、立ちとまり侍ふ人もいと堪へ難し」など聞ゆれど、「あないみじや、人の聞き思はむこともあり、生ける世にしか名殘なきわざはいかゞせむ。かく恐しげに荒れはてぬれど親の御影とまりたる心地するふるきすみかと思ふに慰みてこそあれ」とうち泣きつゝおほしもかけず、御調度どもゝいと古代になれたるが昔やうにてうるはしきをなまものゝ故知らむと思へる人、さるものえうじてわざとその人かの人にせさせ給へると尋ね聞きてあないするもおのづからかゝる貧しきあたりと思ひあなづりて言ひくるを、例の女ばら「いかゞはせむ、そこそは世の常の事」とて取りまぎらはしつゝ目に近きけふあすの見苦しさをつくろはむとする時もあるをいみじう諫め給ひて「見よと思ひ給ひてこそしおかせ給ひけめ、などてか輕々しき人の家の飾りとはなさむ。なき人の御ほい違はむが哀なること」とのたまひてさるわざはせさせ給はず。はかなきことにてもとぶらひ聞ゆる人はなき御身なり。唯御せうとのぜんじの君ばかりぞ稀にも京に出で給ふ時はさし覗き給へど、それも世になきふるめき人にて同じき法師といふ中にもたづきなくこの世を離れたるひじりにものし給ひて、しげき草よもぎをだにかきはらはむものとも思ひより給はず。かゝるまゝにあさぢは庭の面も見えずしげりよもぎは軒を爭ひて生ひのぼるむぐらはにしひんがしのみかどを閉ぢ籠めたるぞ賴もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬牛などの蹈みならしたる路にて、春夏になればはなちかふあげまきの心さへぞめざましき。はつき野分荒かりし年廊どもゝ倒れ伏ししもの屋どものはかなきいたぶきなりしなどは骨のみ僅に殘りて立ちとまるげすだになし。煙絕えてあはれにいみじき事多かり。ぬすびとなどいふひたぶる心あるものも思ひやりの寂しければにや、この宮をばふようのものにふみすぎて寄り來ざりければかくいみじきのらやぶなれどもさすがに寢殿の內ばかりはありし御しつらひ變らず、つやゝかにかいはきなどする人もなし。ちりは積れどもまぎるゝことなきうるはしき御すまひにてあかし暮し給ふ。はかなき古歌物語などやうのすさびごとにてこそつれづれをも紛らはし、かゝるすまひをも思ひ慰むるわざなめれ。さやうの事にも心遲く物し給ふ。わざとこのましからねどおのづから又急ぐことなき程は同じ心なる文通はしなどもうちしてこそ若き人は木草につけても心を慰め給ふべけれど、親のもてかしづき給ひし御心おきてのまゝに世の中をつゝましきものにおぼして稀にも事通ひ給ふべき御あたりをも更に馴れ給はず。ふるめきたるみづしあけて、からもり、はこやのとじ、かぐや姬の物語の繪に書きたるをぞ時々のまさぐりものにしたまふ。古歌とてもをかしきやうにえり出で題をもよみびとをもあらはし心得たるこそ見所もありけれ。うるはしきかんやがみ、みちのくにがみなどのふくだめるにふることゞもの目馴れたるなどはいとすさまじげなるを、せめてながめ給ふ折々はひきひろげ給ふ。今のよの人のすめる經うち讀み行ひなどいふことはいと耻しくし給ひて、見奉る人もなけれどずゞなど取り寄せ給はず、かやうにうるはしくぞ物し給ひける。侍從などいひし御めのとごのみこそ年ごろあくがれ出でぬものにてさぶらひつれど、通ひ參りし齋院うせ給ひなどしていと堪へ難く心ぼそきに、この姬君の母北の方のはらから世におちぶれてず領の北の方になり給へるありけり。むすめどもかしづきてよろしきわかうどゞもゝむげに知らぬ所よりは親どもゝまうで通ひしをと思ひてときどき通ふ。この姬君はかく人うとき御癖なれば睦しくもいひ通ひ給はず、「おのれをばおとしめ給ひておもてぶせにおぼしたりしかば姬君の御有樣の心苦しげなるも見とぶらひ聞えず」などなまにくげなる詞ども言ひ聞かせつゝ時々聞えけり。もとよりありつきたるさやうのなみなみの人は、なかなかよき人のまねに心をつくろひ思ひあがるも多かるを、やんごとなき筋ながらもかうまでおつべきすくせありければにや、心少しなほなほしき御をばにぞありける。わがかくおとりのさまにてあなづらはしく思はれたりしを、いかでかかゝる世の末にこの君を我がむすめどものつかひ人になしてしがな、心ばせなどのふるびたるかたこそあれ、いとうしろやすきうしろみならむと思ひて、「時々こゝに渡らせ給ひて御琴のねも承はらまほしがる人なむ侍る」と聞えけり。この侍從も常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで唯こちたき御物づゝみなれば、さもむつび給はぬをねたしとなむ思ひける。かゝるほどにかの家あるじ大貳になりぬ。むすめどもあるべきさまに見置きてくだりなむとす。この君を猶も誘はむの心深くて、「遙にかく罷りなむとするに心細き御ありさまの常にしもとぶらひ聞えねど近きたのみ侍りつる程こそあれ、いとあはれに後めたくなむ」などことよがるを、更にうけひき給はねば、「あなにくことごとしや、心一つにおぼしあがるともさるやぶはらに年經給ふ人を大將殿もやんごとなくしも思ひ聞え給はじ」などゑんじうけひけり。さる程にげに世の中に許され給ひて都にかへり給ふと、あめのしたの悅にて立ち騷ぐ。我もいかで人より先に深きこゝろざしを御覽ぜられむとのみ思ひきほふ。をとこ女につけてたかきをもくだれるをも人の心ばへを見給ふに、あはれにおぼし知る事さまざまなり。かやうにあわたゞしき程に更に思ひ出で給ふ氣色見えで月日經ぬ。今はかぎりなりけり、年比あらぬさまなる御さまを悲しういみじき事を思ひながらもえ出づる春にあひ給はなむと念じ渡りつれど、たびしかはらなどまで悅び思ふなる御位あらたまりなどするをよそにのみ聞くべきなりけり、悲しかりし折のうれはしさはたゞ我が身一つのためになれるとおぼえしかひなき世かなと、心碎けてつらく悲しければ、人知れずねをのみ泣き給ふ。大貳の北の方、さればよまさにかくたつきなく人わろき御ありさまをかずまへ給ふ人はありなむや、ほとけひじりも罪輕きをこそ導きよくし給ふなれ、かゝる御有樣にてたけく世をおぼし、宮うへなどのおはせし時のまゝにならひ給へる御心おごりのいとほしきことゝいとゞをこがましげに思ひて、「猶も思し立ちね。世のうき時は見えぬ山路をこそ尋ぬなれ。田舍などはむづかしきものとおぼしやるらめどひたぶるに人わろげにはよももてなし聞えじ」などいと事よくいへば、むげにくしにたる女ばら「さもなびき給はなむ。たけき事もあるまじき御身をいかにおぼしてかく立てたる御心ならむ」ともどきつぶやく。侍從もかの大貳のをひだつ人語らひつきて留むべくもあらざりければ、「心よりほかに出で立ちて見奉り置かむがいと心苦しきを」とてそゝのかし聞ゆれど猶かくかけ離れて久しうなり給ひぬる人に賴みをかけ給ふ御心の內に、さりともありへてもおぼし出づるついであらじやは、あはれに心深きちぎりをし給ひしに、我が身のうくてかく忘られたるにこそあれ、風のつてにても我がかくいみじきありさまを聞きつけ給はゞ必ずとぶらひ出で給ひてむと年比おぼしければ、おほかたの御家居もありしよりけにあさましけれど、我が心もてはかなき御調度どもなども取り失はせ給はず、心づよく同じさまにて念じすぐし給ふなりけり。ねなきがちにいとゞおぼし沈みたるはたゞ山人の赤きこのみひとつをかほに放たぬと見え給ふ御そばめなどはおぼろけの人の見奉り許すべきにもあらずかし。委しくは聞えじ、いとほしう物いひさがなきやうなり。冬になり行くまゝにいとゞかきつかむかたなく悲しげにながめすごし給ふ。かの殿には故院の御ために御八講世の中ゆすりてし給ふ。殊に僧などはなべてのは召さず、ざえすぐれおこなひにしみ尊きかぎりをえらせ給ひければこのぜんじの君も參り給へりけり。かへりざまに立ち寄り給ひて、「しかしか權大納言殿の御八講にまゐりて侍りつるなり。いとかしこう生ける淨土のかざりに劣らずいかめしうおもしろき事どものかぎりをなむし給ひつる。佛菩薩のへんぐゑの身にこそものし給ふめれ、いつゝのにごり深き世になどて生れ給ひけむ」といひてやがて出で給ひぬ。ことずくなに世の人に似ぬ御あはひにてかひなき世の物語をだにえ聞え合せ給はず。さてもかばかりつたなき身のありさまをあはれに覺束なくてすぐし給ふは心うの佛菩薩やとつらう覺ゆるを、げに限なめりとやうやう思ひなり給ふに、大貳の北の方俄に來たれり。例はさしもむつびぬを、さそひ立てむのこゝろにて奉るべき御さうぞくなどてうじてよき車に乘りておもゝち氣色ほこりかに物思ひなげなるさましてゆくりもなく走り來てかどあけさするより人わるくさびしき事かぎりなし。左右の戶もよろぼひ倒れにければをのこども助けてとかくあけさわぐ。いづれかこの淋しき宿にも必ずわけたる跡あなる三つのみちとたどる。僅にみなみおもての格子あけたるまに寄せたれば、いとゞはしたなしとおぼしたれどあさましうすゝけたる几帳さし出でゝ侍從出で來たり、かたちなど衰へにけり。年ごろいたうつひえたれどなほもの淸げによしあるさまして、かたじけなくともとりかへつべくみゆ。「出で立ちなむ事を思ひながら、心苦しき御ありさまの見すて奉りがたきを侍從の迎になむ參り來たる。心うく思し隔て給ひて御みづからこそあからさまにも渡らせ給はね、この人をだに許させ給へとてなむ、などかうあはれげなるさまには」とてうちも泣くべきぞかし。されど行く道に心をやりていとこゝちよげなり。「故宮おはせし時おのれをばおもてぶせなりとおぼし捨てたりしかばうとうとしきやうになりそめにしかど、年ごろも何かはやんごとなきさまにおぼしあがり、大將殿などおはしまし通ふ御宿世の程を、かたじけなく思ひ給へられしかばなむ、むつび聞えさせむも憚ること多くて過ぐし侍りつるを、世の中のかくさだめもなかりければかずならぬ身はなかなか心安く侍るものなりけり。およびなく見奉りし御ありさまのいと悲しく心苦しきを、近きほどはおのづから怠るをりものどかにたのもしくなむ侍りけるを、かく遙に罷りなむとすればうしろめたくあはれにおぼえ給ふ」など語らへど心とけてもいらへ給はず。「いとうれしきことなれど世に似ぬさまにて何かは、かうながらこそ朽ちもうせめとなむ思ひ侍る」とのみの給へば「げにしかなむおぼさるべけれど、生ける身を捨てゝかくむくつけきすまひするたぐひは侍らずやあらむ。大將殿のつくりみがき給はむにこそは引きかへ玉のうてなにもなりかへらめとはたのもしうは侍れど、只今は兵部卿の宮の御むすめよりほかに心わけ給ふかたもなかりけり。昔よりすきずきしき御心にてなほざりに通ひ給ひけるところどころ皆おぼし離れにたなり。ましてかう物はかなきさまにて藪原にすぐし給へる人をば、心淸く我を賴み給へるありさまと尋ねきこえ給ふこといと難くなむあるべき」など言ひ知らするをげにとおぼすもいと悲しくてつくづくと泣き給ふ。されど動くべうもあらねばよろづに言ひ煩ひくらして、さらば侍從をだにと日の暮るゝまゝに急げば、心あわたゞしくて泣くなく「さらばまづけふはかう貴め給ふおくりばかりにまうで侍らむ、かの聞え給ふもことわりなり。又おぼし煩ふもさることに侍れば中に見給ふるも心苦しくなむ」と忍びて聞ゆ。この人さへうち捨てゝむとするをうらめしうもあはれにもおぼせど言ひとゞむべきかたもなくていとゞねをのみたけきことにてものし給ふ。かたみにそへ給ふべきみなれごろもゝしほなれたれば、年經ぬるしるし見せ給ふべきものなくて、我みぐしの落ちたりけるを取り集めてかづらにし給へるが九尺よばかりにていときよらなるを、をかしげなる箱に入れてむかしのくのえかうのいとかうばしき一壺ぐしてたまふ。

 「たゆまじきすぢと賴みし玉かづらおもひの外にかけはなれぬる。こまゝののたまひ置きしこともありしかばかひなき身なりとも見はてゝむとこそ思ひつれ。うち捨てらるゝもことわりなれど、誰に見讓りてかとうらめしうなむ」とていみじう泣き給ふ。この人も物も聞えやらず「まゝのゆゐごんは更にも聞えさせず、年ごろの忍び難き世のうさをすぐし侍りつるにかくおぼえぬみちにいざなはれて遙にまかりあくがるゝこと」とて、

 「玉かづら絕えてもやまじ行く道のたむけの神もかけてちかはむ。いのちこそ知り侍らね」などいふに「いづら、暗うなりぬ」とつぶやかれて心もそらにて引き出づれば、かへりみのみせられけり。年ごろわびつゝも行き離れざりつる人のかく別れぬることをいと心ぼそうおぼすに、世に用ゐらるまじきおいびとさへ、いでやことわりぞ、いかでか立ちとまりたまはむ我等もえこそ念じはつまじけれと、おのが身々につけたるたよりども思ひ出でゝとまるまじう思へるを人わろく聞きおはす。霜月ばかりになりぬれば雪霰がちにてほかには消ゆるまもあるを、朝日夕日をふせぐよもぎむぐらのかげに深うつもりて越の白山思ひやらるゝ雪のうちに出で入るしもびとだになくてつれづれとながめ給ふ。はかなき事を聞えなぐさめ泣きみ笑ひみまぎらはしつる人さへなくて、夜も塵がましき御帳の內もかたはら寂しく物悲しくおぼさる。

かの殿にはめづらし人にいとゞ物さわがしき御ありさまにていとやんごとなくおぼされぬところどころにはわざともえ音づれ給はず。ましてその人はまだ世にやおはすらむとばかりおぼし出づる折もあれど、尋ね給ふべき御こゝろざしもいそがでありふるに、年かはりぬ。卯月ばかりに花散里を思ひ出で聞え給ひて忍びて對の上に御いとま聞えて出で給ふ。日ごろふりつる名殘の雨少しそゝぎてをかしきほどに月さし出でたり。昔の御ありきおぼし出でられて艷なる程の夕づく夜に、道のほどよろづの事おぼし出でゝおはするにかたもなく荒れたる家の木立しげく森のやうなるを過ぎ給ふ。大きなる松に藤の咲きかゝりて月かげに靡きたる、風につきてさと匂ふがなつかしくそこはかとなきかをりなり。橘にはかはりてをかしければさし出で給へるに、柳もいたうしだりて、ついひぢもさはらねば亂れふしたり。見し心地する木立かなとおぼすははやうこの宮なりけり。いとあはれにておしとゞめさせ給ふ。例の惟光はかゝる御しのびありきにおくれねば侍ひけり。召し寄せて、「こゝは故常陸の宮ぞかしな」。「しか侍り」と聞ゆ。「こゝにありし人はまだやながむらむ。とぶらふべきをわざと物せむもところせし。かゝるついでに入りてせうそこせよ、能く尋ねよりてをうち出でよ。人違へしてはをこならむ」とのたまふ。こゝにはいとゞながめまさるころにて、つくづくとおはしけるに、ひるねの夢に故宮の見え給ひければ覺めていと名殘悲しくおぼして、もりぬれたる廂の端つかたをおしのごはせて、こゝかしこのおまし引きつくろはせなどしつゝ例ならず世づき給ひて、

 「なき人を戀ふる袂のひまなきに荒れたる軒のしづくさへそふ」も心苦しき程になむあめりける。惟光入りてめぐるめぐる、人の音する方やと見るに、いさゝか人げもせず。さればこそゆきゝの道に見入るれど人住みげもなきものをと思ひてかへり參る程に、月あかくさし出でたるに見れば、格子ふたまばかりあげて簾垂動く氣色なり。僅に見つけたる心地恐しくさへおぼゆれど寄りてこわづくれば、いと物ふりたる聲にてまづしはぶきをさきに立てゝ、「かれはたれぞ何人ぞ」と問ふ。名のりして、「侍從の君と聞えし人にたいめん給らむ」といふ。「それは外になむ物し給ふ。されどおぼしわくまじき女なむ侍る」といふ聲いたうねび過ぎたれど、聞きしおいびとゝ聞き知りたり。內には思ひ寄らず狩衣姿なる男の忍びやかにもてなしてなごやかなれば、見ならはずなりにけるめにて、もし狐などのへんげにやと覺ゆれど、近うよりて「たしかになむ承らまほしき。變らぬ御有樣ならば尋ね聞えさせ給ふべき御心ざしも足らずなむおはしますめるかし。こよひも行き過ぎがてにとまらせ給へるをいかゞ聞えさせむ。後やすくを」といへば女どもうち笑ひて、「變らせ給ふ御有樣ならばかゝるあさぢが原をうつろひ給はでは侍りなむや、たゞ推し量りて聞えさせ給へかし。年經たる人の心にもたぐひあらじとのみ珍らかなる世をこそは見奉り過ぐし侍れ」とやゝくづし出でゝ問はず語りもしつべきがむつかしければ、「よしよしまづかくなむと聞えさせむ」とて參りぬ。「などかいと久しかりつる。いかにぞ。昔の跡も見えぬ蓬のしげさかな」とのたまへば、「しかじかなむたどりよりて侍りつる。侍從がをばの少將といひ侍ひしおい人なむ、變らぬ聲にて侍りつる」とありさま聞ゆ。いみじうあはれにかゝるしげき中に何心地してすぐし給ふらむ、今までとはざりけるよと我が御心のなさけなさもおぼし知らる。「いかゞすべき。かゝるしのびありきも難かるべきを、かゝる序ならではえ立ち寄らじ。變らぬありさまならばげにさこそあらめと推し量らるゝ人ざまになむ」とはのたまひながら、ふと入り給はむこと猶つゝましうおぼさる。故ある御消そこもいと聞えまほしけれど、見給ひし程の口おそさもまだかはらずば御使の立ちわづらはむもいとほしうおぼしとゞめつ。惟光も「更にえ分けさせ給ふまじき蓬の露けさになむ侍る。露少し拂はせてなむ入らせ給ふべき」と聞ゆれば、

 「尋ねても我こそとはめ道もなく深きよもぎのもとのこゝろを」とひとりごちて猶おり給へば御さきの露を馬の鞭して拂ひつゝ入れ奉る。あまぞゝぎも猶秋の時雨めきてうちそゝげばみかささぶらふ。「げにこの下露は雨にまさりて」と聞ゆ。御指貫の裾はいたうそぼちぬめり。昔だにあるかなきかなりし中門などましてかたもなくなりて、入り給ふにつけもいとむとくなるを立ちまじり見る人なきぞ心安かりける。姬君はさりともとまちすぐし給へる心もしるく嬉しけれど、いと耻しき御ありさまにてたいめんせむもいとつゝましくおぼしたり。大貳の北の方の奉り置きし御ぞどもをも心ゆかずと思されしゆかりに見入れ給はざりけるをこの人々のかうの御からびつに入れたりけるがいとなつかしきかしたるを奉りければ、いかゞはせむに着かへ給ひて、かの煤けたる御几帳ひきよせておはす。入り給ひて、「年比の隔ても心ばかりはかはらずなむ思ひやり聞えつるを、さしもおどろかい給はぬうらめしさに今までこゝろみ聞えつるを、杉ならぬ木立のしるさに、え過ぎでなむまけ聞えにける」とてかたびらを少しかきやり給へれば、例のいとつゝましげにとみにもいらへ聞え給はず。かくばかりわけ入り給へるが淺からぬに思ひおこしてぞほのかに聞え出で給ひける。「かゝる草がくれに過ぐし給ひける年月のあはれもおろかならず、また變らぬ心ならひに人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入り侍りつる露けさなどをいかゞおぼす。年比の怠はたなべての世におぼし許すらむ。今より後の御心にかなはざらむなむいひしにたがふ罪もおふべき」など、さしもおぼされぬ。事もなさけなさけしう聞えなし給ふことゞもあめり。立ちとゞまり給はむも所のさまより始めまばゆき御有樣なれば、つきづきしうのたまひ過ぐして出で給ひなむとす。ひき植ゑしならねど、松のこ高くなりにける年月のほどもあはれに夢のやうなる御身のありさまもおぼしつゞけらる。

 「ふぢなみのうち過ぎがたく見えつるは松こそ宿のしるしなりけれ。數ふればこよなう積りぬらむかし。都にかはりにける事の多かりけるもさまざまあはれになむ。今のどかにぞひなのわかれに衰へし世の物語も聞えつくすべき。また年經給ひつらむ春秋の暮しがたさなども誰にかは憂へ給はむとうらもなく覺ゆるもかつはあやしうなむ」など聞え給へば、

 「年を經てまつしるしなき我が宿を花のたよりにすぎぬばかりか」と忍びやかにうちみじろき給へるけはひも袖の香も昔よりはねびまさり給へるにやとおぼさる。月入り方になりて西の妻戶のあきたるよりさはるべき渡殿だつ屋もなく軒のつまも殘りなければいと花やかにさし入りたればあたりあたり見ゆるに、昔に變らぬ御しつらひのさまなど、しのぶ草にやつれたる上の見るめよりはみやびかに見ゆるを、昔物語にだうこぼちたる人もありけるをおぼしあはするに、同じさまにて年ふりにけるもあはれなり。ひたぶるに物づゝみしたるけはひのさすがにあてやかなるも心にくゝおぼされて、さるかたにて忘れじと心苦しく思ひしを、年比さまざまの物思ひにほれぼれしくて隔てつる程つらしと思はれつらむといとほしくおぼす。かの花散里もあざやかに今めかしうなどは花やぎ給はぬ所にて御目うつしこよなからぬにとが多う隱れにけり。祭ごけいなどのほど御いそぎどもにことつけて人の奉りたるものゝいろいろに多かるを、さるべきかぎり御心加へ給ふ。中にもこの宮にはこまやかにおぼしよりてむつましき人々におほせごと給ひ、しもべどもなど遣して蓬拂はせめぐりの見苦しきに板垣といふものうち堅めつくろはせ給ふ。かう尋ね出で給へりと聞き傅へむにつけても我が御ためめんぼくなければ渡り給ふことなし。御文いと細やかにかき給ひて「二條院いと近き所を造らせ給ふをそこになむ渡し奉るべき。よろしきわらはべなど求めて侍はせ給へ」など人々の上までおぼしやりつゝとぶらひ聞え給へば、かくあやしき蓬のもとには置き所なきまで女ばらも空を仰きてなむそなたに向きて喜び聞えける。なげの御すさびにてもおしなべたるよのつねの人をば目とゞめ見立て給はず。世に少しこれはとおもほえ、心にとまるふしあるあたりを尋ねより給ふものと人の知りたるに、かくひきたがへ何事もなのめにだにあらぬ御有樣を物めかし出で給ふはいかなりける御心にかありけむ、これも昔の契なめりかし。今はかぎりとあなづりはてゝさまざまにきほひ散りあがれしうへしもの人々、われもわれも參らむと爭ひ出づる人もあり。心ばへなどはたうもれいたきまでよくおはする御有樣に心やすくならひて殊なる事なきなま受領などやうの家にある人は、ならはずはしたなき心地するもありてうちつけの心みえに參り歸る。君はいにしへにもまさりたる御いきほひの程にて物の思ひやりもまして添ひ給ひにければ、こまやかにおぼしおきてたるににほひ出でゝ宮の內やうやう人め見え、木草の葉もたゞすごくあはれに見えなされしを、やりみづかき拂ひ前栽のもとだちも凉しうしなしなどして、殊なるおぼえなきしもげいしのことに仕へまほしきは、かくみこゝろとゞめておぼさるゝことなめりと見とりて御氣色給はりつゝ追しようし仕うまつる。二年ばかりこのふる宮に詠め給ひてひんがしの院といふ所になむ後には渡し奉り給ひける。たいめんし給ふことなどはいと難けれども、近きしめのほどにて大方にも渡り給ふにさし覗きなどし給ひつゝいとあなづらはしげにももてなし聞え給はず。かの大貳の北の方のぼりて驚き思へるさま、侍從が嬉しきものゝ今しばしまち聞えざりける心淺さを恥しう思へる程などを、今少し問はず語もせまほしけれど、いと頭痛ううるさくものうければ今又も序あらむ折に思ひ出でゝなむ聞ゆべきとぞ。


關屋

伊豫の介といひしは故院かくれさせ給ひてまたの年常陸になりて下りしかば、かの箒木も いざなはれにけり。須磨の御たびゐも遙に聞きて人しれず思ひやり聞えぬにしもあらざりしかど、傅へ聞ゆべきよすがだになくて筑波嶺の山を吹き越す風も浮きたる心地して聊のつたへだになくて年月かさなりにけり。限れる事もなかりし御たびゐなれど京に歸り住み給ひて又の年の秋ぞ常陸はのぼりける。關入る日しもこの殿石山に御ぐわんはたしにまうで給ひけり。京よりかの紀の守などいひし子ども迎に來たる人々「この殿かくまうで給ふべし」と吿げゝれば道のほどさわがしかりなむものぞとてまだ曉より急ぎけるを、をんな車多く所せうゆるぎくるに日たけぬ。うちいでの濱くるほどに殿は粟田山越え給ひぬとてごぜんの人々道もさりあへずきこみぬれば、せき山に皆おり居てこゝかしこの杉のしたに車どもかきおろしこがくれに居かしこまりて過ぐし奉る。軍などかたへはおくらかし先にたてなどしたれど猶るゐひろく見ゆ。車十ばかりぞ袖口物の色あひなども漏り出でゝ見えたる。田舍びずよしありて齋宮の御くだり何ぞやうの折の物見車おぼし出でらる。殿もかく世に榮へ出で給ふ珍しさに數もなきごぜんども皆目とゞめたり。ながつきつごもりなれば紅葉のいろいろこきまぜ霜がれの草むらむらをかしう見え渡るに、關屋よりさとはづれ出でたる旅姿どものいろいろのあをのつきづきしき縫物くゝりぞめのさまもさるかたにをかしう見ゆ。御車は簾垂おろし給ひてかの昔の小君今は右衞門の介なるを召し寄せて「今日の御關むかへはえ思ひすて給はじ」などの給ふ。御心の中いとあはれにおぼし出づること多かれど、おほざうにてかひなし。女、人知れず昔のこと忘れねばとり返して物あはれなり。

 「行くとくとせきとめがたき淚をや絕えぬ淸水と人は見るらむ」。えしり給はじかしとおもふにいとかひなし。石山より出で給ふ御むかへに右衞門の介參れり。ひとひまかり過ぎしかしこまりなど申す。むかしわらはにていとむつましうらうたきものにし給ひしかば、かうぶりなど得しまでこの御德に隱れたりしを、おぼえぬ世のさわぎありしころ物の聞えに憚りて常陸にくだりしをぞ少し御心おきて年比はおぼしけれど色にも出し給はず。昔のやうにこそあらねど猶親しき家人の內にはかぞへ給ひけり。紀の守といひしも今は河內の守にぞなりにける。その弟の右近のざう解けて御供にくだりしをぞとりわきてなし出で給ひければそれにぞ誰も思ひ知りて、などて少しも世に從ふ心をつかひけむなど思ひ出でける。介召し寄せて御せうそこあり。今はおぼし忘れぬべきことを心長くもおはするかなと思ひ居たり。一日はちぎり知られじをさはおぼし知りけむや。

  わくらばに行きあふ道をたのみしもなほかひなしやしほならぬ海。關守のさもうらやましく目ざましかりしかな」とあり。「年比のとだえもうひうひしくなりにけれど心にはいつとなく只今の心ちするならひになむ。すきずきしういとゞにくまれむや」とて賜へればかたじけなくてもていきて「なほ聞えたまへ。昔には少しおぼしのくことあらむと思ひ給ふるに、同じやうなる御心のなつかしさなむいとゞありがたき。すさびことぞようなきことゝ思へど、えこそすくよかに聞えかへさね。女にてはまけ聞え給へらむに罪許されぬべし」などいふ。今はましていと耻しうよろづのことうひうひしき心地すれど、めづらしきにや、え忍ばれざりけむ。

 「あふさかの關やいかなるせきなればしげきなげきの中をわくらむ。夢のやうになむ」と聞えたり。あはれもつらさも忘れぬふしとおぼし置かれたる人なれば折々はなほのたまひうごかしけり。かゝる程にこの常陸の守おひのつもりにや、惱しうのみして物心ぼそかりければ、子どもに唯この君の御事をのみ言ひ置きて「よろづのことたゞこの御心にのみ任せて我がありつる世にかはらで仕うまつれ」とのみあけくれいひけり。女君心うきすくせありてこの人にさへ後れていかなるさまにはふれ惑ふべきにかあらむと思ひ歎き給ふを見るに、いのちの限あるものなれば惜みとゞむべきかたなし。いかでかこの人の御ために殘し置くたましひもがな、我が子どもの心も知らぬをと、後めたう悲しきことにいひ思へど心えにとゞめぬものにてうせぬ、暫しこそさのたまひしものをなどなさけつくれど、うはべこそあれ、つらきこと多かり。とあるもかゝるも世のことわりなれば、身一つのうきことにてなげきあかしくらす。唯このかうちの守のみ昔よりすきごゝろありて少しなさけがりける。「あはれにのたまひおきしを數ならずともおぼし疎までのたまはせよ」などつゐそうしよりていとあさましき心の見えければ、うきすくせある身にてかく生きとまりてはてはては珍しき事どもを聞きそふるかなと、人しれず思ひ知りて人にさなむとも知らせで尼になりにけり。ある人々いふかひなしと思ひなげく。守もいとつらう「おのれを厭ひ給ふほどにのこりの御齡多くものし給ふらむいかですぐし給ふべき」などぞあいなのさかしらやなどぞ侍るめる。


繪合

前の齋宮の御まゐりのこと中宮の御心に入れて催し聞え給ふ。こまかなる御とぶらひまでとり立てたる御後見もなしとおぼしやれど、大殿は院にも聞しめさむことを憚り給ひて二條院に渡し奉らむことをもこのたびはおぼしとまりて唯しらず顏にもてなし給へれど、大方の事どもはとりもちて親めき聞え給ふ。院はいと口惜しくおぼしめせど、人わろければ御せうそこなど絕えにたるを、その日になりてえならぬ御よそひども御櫛の箱うちみだりの箱かうごの箱どもよのつねならずくさぐさの御たき物どもくぬえかうまたなきさまに百ぶのほかを多く過ぎ匂ふまで心ことにとゝのへさせ給へり。おとゞ見給ひもせむにとかねてよりやおぼし設けゝむ、いとわざとがましかめり。殿も渡り給へるほどにてかくなむと女別當御覽ぜさす。唯御櫛の箱の片つ方を見給ふに、つきせずこまかになまめきてめづらしきさまなり。さしぐしの箱のこゝろばに、

  わかれぢに添へしをぐしをかごとにてはるけき中と神やいさめし」。おとゞこれを御覽じつけておぼしめぐらすに、いとかたじけなくいとほしくて我が御心ならひのあやにくなる身をつみてかのくだり給ひしほど御心におもほしけむこと、かう年經て歸り給ひてその御志をも遂げ給ふべき程に、かゝるたがひめのあるをいかにおぼすらむ、御位を去り物しづかにて、世をうらめしとやおぼすらむ、われになりて心動くべきふしかなとおぼしつゞけ給ふにいとほしく、何にかくあながちなる事を思ひはじめて心苦しくおぼしなやますらむ、つらしとも思ひ聞えしかど又懷しくあはれなる御心ばへをなど思ひ亂れ給ひて、とばかりうち眺め給へり。「この御かへりはいかやうにか聞えさせ給ふらむ、又御せうそこもいかゞ」など聞え給へど、いとかたはらいたければ御文はえ引き出でず。宮は惱しげにおぼして御返りいと物うくし給へど「聞え給はざらむもいとなさけなくかたじけなかるべし」と人々そゝのかし煩ひ聞ゆるけはひを聞き給ひて「いとあるまじき御事なり。しるしばかり聞えさせ給へ」と聞え給ふもいとはづかしけれどいにしへおぼし出づるに、いとなまめき淸らにていみじう泣き給ひし御さまをそこはかとなくあはれと見奉り給ひし御をさな心も只今の事とおぼゆるに、故みやす所の御事などもかきつらねあはれにおぼされて、たゞかく、

 「わかるとて遙にいひしひとこともかへりてものは今ぞかなしき」とばかりやありけむ。御使の祿しなじなに賜はす。おとゞは御返りをいとゆかしうおぼせど聞えたまはず。院の御ありさまは女にて見奉らまほしきをこの御けはひも似げなからずいとよき御あはひなめるを、內はまだいといはけなくおはしますめるに、かく引き違へ聞ゆるを人知れずものしとやおぼすらむなど、にくき事をさへおぼしやりて胸つぶれ給へど、今日になりておぼしとゞむべきことにしあらねば、事どもあるべきさまにのたまひおきて睦しうおぼす。すりの宰相をくはしう仕うまつるべくのたまひてうちに參り給ひぬ。うけばりたる親ざまには聞しめされじと院を包み聞え給ひて御とぶらひばかりと見せ給へり。よき女房などはもとより多かる宮なれば里がちなりしも參り集ひていとになくけはひあらまほしく、あはれおはせましかばいかにかひありておぼしいたづかましと、昔の御心ざまおぼし出づるに、大方の世につけては惜しうあたらしかりし人の御有樣ぞや。さこそえあらぬものなりければよしありし方は猶すぐれて物の折ごとに思ひ出で聞え給ふ。中宮もうちにぞおはしましける。うへは珍しき人參り給ふと聞しめしければ、いとうつくしう御心づかひして坐します。程よりはいみじうざれおとなび給へり。宮には「かく耻しき人參り給ふを、御心づかひして見え奉らせ給へ」と聞え給ひけり。人しれずおとなは耻しうやあらむとおぼしけるをいたく夜更けて參うのぼり給へり。いとつゝましげにおほどかにてさゝやかにあえかなるけはひのしたまへれば、いとをかしとおぼしけり。弘徽殿には御覽じつけたれば睦ましうあはれに心安くおもほし、これは人ざまもいたうしめり耻しげにおとゞの御もてなしもやんごとなくよそほしければあなづりにくゝ思されて、御とのゐなどはひとしくし給へどうちとけたる御わらは遊に晝など渡らせ給ふことはあなたがちにおはします。權中納言は思ふ心ありて聞え給ひけるに、かく參り給ひて御むすめにきしろふさまにて侍ひ給ふをかたがたに安からずおぼすべし。院にはかの櫛の箱の御かへり御覽ぜしにつけても御心離れ難かりけり。その頃おとゞの參り給へるに御物語こまやかなり。事のついでに齋宮のくだり給ひしことさきざきものたまひ出づれば、聞え出で給ひてさ思ふ心なむありしなどはしあらはし給はず。おとゞもかゝる御氣色聞き顏にはあらで、只いかにおぼしたるとゆかしさに、とかうかの御事のたまひ出づるにあはれなる御氣色のあさはかならず見ゆればいといとほしくおぼす。めでたしとおぼししみにける御かたち、いかやうなるをかしさにかとゆかしう思ひ聞え給へど、更にえ見奉り給はぬをねたうおもほす。いとおもりかにて夢にもいはけたる御ふるまひあらばこそおのづからほの見え給ふついでもあらめ、心にくき御けはひのみ深さまされば、見奉り給ふまゝに、いとあらましと思ひ聞え給へり。かくすきまなくて二所さぶらひ給へば兵部卿の宮すがすがともえおもほしたらず。帝おとなび給ひなばさりともえおもほし捨てじとぞまち過ぐし給ふ。

二所の御おぼえどもとりどりにいどみ給へり。うへはよろづの事にすぐれて、繪を興あるものにおぼしたり。立てゝ好ませ給へばにや、になく書かせ給ふ。齋宮の女御いとをかしう書かせ給ひければ、これに御心うつりて渡らせ給ひつゝかき通はさせ給ふ。殿上の若き人々もこの事まねぶをば御心とゞめてをかしきものにおもほしたれば、ましてをかしげなる人の心ばへあるさまにまほならず書きすさびなまめかしうそひふしてとかく筆うちやすらひ給へるさま、らうたげさに御心しみて、いとしげう渡らせ給ひてありしよりけに御思ひまされるを、權中納言聞き給ひて飽くまでかどかどしく今めき給へる御心にて、われ人に劣りなむやとおぼし勵みて、すぐれたる上手どもを召し取りていみじういましめてまたなきさまなる繪どもをになぎ紙どもに書き集めさせ給ふ。物語繪こそ心ばへに見えて見所あるものなれとて、おもしろく心ばへある限をえりつゝ書かせ給ふ。例の月なみの繪も見馴れぬさまに言の葉を書き續けて御覽ぜさせ給ふ。わざとをかしうしたれば、又こなたにてもこれを御覽ずるに心やすくもとり出で給はず、いといたく祕めてこの御方にもて渡らせ給ふを惜みらうじ給へば、おとゞ聞き給ひて、「猶權中納言の御心の若々しさこそ改まりがたかめれ」など笑ひ給ふ。「あながちに隱して心安くも御覽ぜさせず惱まし聞ゆるいとめざましや。古代の御繪どもの侍る參らせむ」と奏し給ひて、殿に舊き新しき繪ども入りたる御厨子ども開かせ給ひて女君と諸共に今めかしきはそれぞれとえり整へさせ給ふ。長恨歌王昭君などやうの繪はおもしろくあはれなれど、事の忌あるはこたみは奉らじとえりとゞめ給ふ。かの旅の御日記のはこをも取り出でさせ給ひて、このついでにぞ女君にも見せ奉り給ひける。知らで今見む人だに少し物思ひ知らむ人は淚惜むまじくあはれなり。まいて忘れがたくその夜の夢をおぼしさます折なき御心どもには取り返し悲しうおぼし出でらる。今まで見せ給はざりけるうらみをぞ聞え給ひける。

 「一人居て眺めしよりはあまのすむかたを書きてぞ見るべかりける。おぼつかなさは慰みなましものを」とのたまふ。いとあはれとおぼして、

 「うきめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる淚か」。中宮ばかりには見せ奉るべきものなり。「かたはなるまじき一でふづゝさすがに浦々の有樣さやかに見えたるをえり給ふついでにもかのあるじの家居ぞまづいかにとおぼしやらぬ時の間もなき。かう繪ども集めらると聞き給ひて、權中納言いとゞ心をつくして軸表紙ひものかざりいよいよ整へ給ふ。やよひの十日の程なれば空もうらゝかにて人の心も延び、物おもしろき折なるにうちわたりもさるべき節會どものひまなれば唯かやうの事どもにて御かたがたくらし給ふを、おなじくは御覽じ所もまさりぬべくて、奉らむの御心つきていとわざと集め參らせ給へり。こなたかなたとさまざま多かり。物語繪はこまやかに懷しさまさるめるを、梅壺の御かたはいにしへの物語名高くゆゑあるかぎり弘徽殿はその頃世に珍しくをかしき限を選りて書かせ給へれば、うち見る目の今めかしき華やかさはいとこよなくまされり。うへの女房などもよしあるかぎり、これはかれはなど定めあへるをこの頃のことにすめり。中宮も參らせ給へる頃にてかたがた御覽じて捨て難くおもほすことなれば、御おこなひも怠りつゝ御覽ず。この人々とりどりに論ずるを聞しめして、ひだり右とかた分たせ給ふ。梅壺の御方には、へいないしのすけ、侍從の內侍、少將の命婦、右には大貳のないしのすけ、中將の命婦、兵衞の命婦を只今は心にくきさうそくどもにて心々にあらそふ。口つきどもをかしと聞しめしてまづ物語の出で來はじめの親なる竹取のおきなに、空穗の俊蔭を合せて爭ふ。「なよ竹の世々にふりにけることをかしきふしもなけれど、かぐや姬のこの世の濁にも穢れず、遙に思ひのぼれる契たかく、神世のことなめればあさはかなる女めおよばぬならむかし」といふ。右は「かぐや姬の昇りけむ雲ゐはげに及ばぬことなれば誰も知りがたし。この世の契は竹の中に結びければくだれる人のことゝこそ見ゆめれ。ひとつ家の內は照しけめど百敷のかしこき御光にはならはずなりにけり。安部のおほしが千々のこがねを棄てゝ火鼠のおもひ片時に消えたるもいとあへなし。くら持のみこのまことの蓬萊の深き心も知りながらいつはりて玉の枝に疵をつけたるをあやまちとなす」。繪は巨勢のあふみ、手は紀の貫之かけり。かんや紙に唐の綺をばいして赤紫の表紙紫檀の軸世の常のよそひなり。「俊蔭ははげしき波風におぼゝれ知らぬ國に放たれしかど猶さして行きけるかたの志もかなひて遂にひとの御門にも我が國にもありがたぎざえの程をひろめ名を殘しけるふるき心をいふに、繪のさまも唐土と日の本とを取りならべておもしろき事ども猶ならびなし」といふ。白き色紙靑き表紙黃なる玉の軸なり。繪はつねのり、手はみちかぜなれば、今めかしうをかしげに目も輝くまで見ゆ。左にはそのことわりなし。次に伊勢物語に正三位を合はせてまた定めやらず。これも右はおもしろく賑はゝしく、うちわたりより、はじめ近き世のありさまを書きたるはをかしう見所まさる。平內侍、

 「伊勢の海のふかきこゝろをたどらずてふりにし跡と波やけつべき。世の常のあだことのひきつくろひ飾れるにおされて業平が名をやくたすべき」と爭ひかねたり。右のすけ、

 「雲のうへに思ひのぼれるこゝろにば千ひろの底もはるかにぞ見る」。兵衞の大君の心高さはげに捨てたれど在五中將の名をばえくたさじとのたまはせて、宮、

 「見るめこそうらぶれぬらめ年經にしいせをのあまの名をや沈めむ」。かやうの女ごとにて亂りがはしく爭ふに、一卷に言の葉を盡してえもいひやらず。唯淺はかなる若人どもはしにかへりゆかしがれどうへのも宮のも片はしをだにえ見ず、いといたう祕めさせ給ふ。おとゞ參り給ひてかくとりどりに爭ひ騷ぐ心はへどもをかしくおぼして、同じくは御前にてかちまけ定めむとのたまひなりぬ。かゝることもやとかねておぼしければ、中にも殊なるはえりとゞめ給へるに、かの須磨明石のふたまきはおぼす所ありてとりまぜさせ給へりけり。中納言もその心劣らず、この比の世には唯かく面白き紙繪を整ふることを天の下いとなみたり。今改め書かむことはほいなきことなり。唯ありけむ限をこそとのたまへど、中納言は人にも見せで、わりなき窓をあけて書かせ給ふめるを、院にもかゝる事聞かせ給ひて梅壺に御繪ども奉らせ給へり。年の內の節會どもの面白く興あるを昔の上手どものとりどりに書けるに、延喜の手づから事の心書かせ給へるに又我が御世の事も書かせ給へる卷に、かの齋宮の下り給ひし日の大極殿の儀式御心にしみておぼしければ書くべきやう委しく仰せられて、公茂が仕う奉れるがいといみじきを奉らせ給へり。艷に透きたるぢんの箱に同じきこゝろばのさまなどいと今めかし。御せうそこはたゞ言葉にて、院の殿上にもさぶらふ左近中將を御使にてあり。かの大極殿の御輿寄せたる所のかうがうしきに、

 「身こそかくしめのほかなれそのかみの心のうちをわすれしもせず」とのみあり。聞え給はざらむもいとかたじけなければ、苦しくおぼしながら昔の御かんざしの端をいさゝか折りて、

 「しめのうちは昔にあらぬ心ちして神代のことも今ぞこひしき」とて、はなだの唐の紙に包みて參らせ給ふ。御使の祿などいとなまめかし。院の帝御覽ずるに限なくあはれとおぼすにぞ、ありし世をとりかへさまほしくおぼしける。おとゞをもつらしと思ひ聞えさせ給ひけむかし。過ぎにしかたの御報にやありけむ、院の御繪はきさいの宮より傳りてあの女御の御方にも多く參るべし。ないしのかんの君も、かやうの御このましさは人にすぐれて、をかしきさまにとりなしつゝ集め給ふ。

その日と定めて俄なるやうなれどをかしきさまにはかなうしなしてひだり右の御繪ども參らせ給ふ。女房のさぶらひにおましよそはせて北みなみかたがたに別れてさぶらふ。殿上人はこうらう殿の簀子に各心よせつゝさぶらふ。左は紫檀の箱に蘇芳のけそく、敷物には紫地の唐の錦、うちしきはえび染のからの綺なり。わらは六人、赤色に櫻がさねのかざみ、衵は紅に藤かさねの織物なり。すがた用意などなべてならず見ゆ。右はぢんの箱に淺香の下机、うちしきは靑地のこまの錦、あしゆひの組けそくのこゝろばへなどいといまめかし。わらは靑色に柳のかざみ、山吹がさねのあこめ着たり。皆おまへにかき立つ。上の女房まへしりへとさうぞき分けたり。召しありて內のおとゞ權中納言參り給ふ。その日そちの宮も參り給へり。いとよしありておはするなかに繪をなむたてゝ好み給へばおとゞのしたにすゝめ給へるやうやあらむ。ことごとしき召しにはあらで殿上にさぶらひ給ふを仰言ありておまへに參り給ふ。この判仕うまつり給ふ。いみじうげに書き盡したる繪どもあり。更にえ定めやり給はず。例の四季の繪も古の上手どもの面白き事どもを選びつゝ筆とゞこほらず書きながしたるさま譬へむかたなしと見るに紙繪はかぎりありて山水のゆたかなる心ばへをえ見せつくさぬものなれば、唯筆のかざり人の心に作り立てられて今のあさはかなるも昔の跡にはぢなく賑はゝしくあなおもしろと見ゆるすぢはまさりて、多くの爭ひども今日はかたがたに興ある事ども多かり。朝がれひの御さうじを開けて中宮もおはします。深くしろしめしたらむと思ふに、おとゞもいというにおぼえ給ひて所々の判ども心もとなき折々に時々さしいらへ給ひける程あらまほし。定めかねて夜に入りぬ。左猶數ひとつあるはてに須磨のまきいできたるに、中納言の御心さわぎにけり。あなたにも心して、はての卷は心ことにすぐれたるをえり置き給へるにかゝるいみじきものゝ上手の心のかぎり思ひすまして靜に書き給へるは譬ふべきかたなし。みこより始め奉りて淚とゞめ給はず。その世に心苦し悲しとおぼしゝ程よりも、おはしけむ有樣御心におぼしけむ事ども只今のやうに見ゆ。所のさまおぼつかなき浦々磯の隱れなく書きあらはし給へり。さうの手に、かんなの所々に書きまぜてまほの委しき日記にはあらず。あはれなる歌などもまじれるたぐひゆかしう誰もことごとおぼさず。さまざまの御繪の興これに皆うつりはてゝ、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて左かつになりぬ。夜明け方近くなる程に物いとあはれにおぼされて御かはらけなどまゐるついでに、昔の御物語ども出で來て、「いはけなき程より學問に心を入れて侍りしに少しもざえなどつきぬべくや御覽じけむ、院ののたまはせしやう、才學といふもの世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の命さいはひと並びぬるはいとかたきものになむ、しなたかく生れ、さらでも人に劣るまじき程にてあながちにこの道な深く習ひそと、諫めさせ給ひてほんざいのかたがたの物敎へさせ給ひしに、拙きこともなくまたとり立てゝこの事と心得ることも侍りざりき。繪書くことのみをなむあやしくはかなきものからいかにしてかは心行くばかり書きて見るべきと思ふをりをり恃りしを、おぼえぬ山がつになりてよもの海の深き心を見しに更に思ひよらぬ隈なくいたられにしかど、筆の行くかぎりありて心よりは事ゆかずなむ思う給へられしを、ついでなく御覽ぜさすべきならねばかうすきずきしきやうなる後の聞えやあらむ」とみこに申し給へば「何のざえも心よりはなちて並ぶべきわざならねど道々にものゝ師あり、學び所あらむは事の深さ淺さは知らねどおのづからうつさむにあとありぬべし。筆とる道と碁うつことゝぞあやしうたましひの程見ゆるを、深きらうなく見ゆるおれものもさるべきにて、書き打つたぐひも出で來れど、家の子の中には猶人にぬけぬる人の何事をも好み得けるとぞ見えたる。院の御まへにてみこたち內親王いづれかはさまざまとりどりのざえならはせ給はざりけむ。その中にもとり立てたる御心に入れて傳へうけとらせ給へるかひありて、もんざんをばさるものにいはず、さらぬ事の中にはきん彈かせ給ふことなむいちのざえにて、次には橫笛琵琶箏の琴をなむつぎつぎに習ひ給へると、うへもおぼしのたまはせき。世の人しか思ひ聞えさせたるを繪は猶筆のついでにすさびさせ給ふあだごとゝこそ思ひ給へしか。いとかうまさなきまで、古の墨かきの上手とも跡をくらうなしつべかめるはかへりてけしからぬわざなり」と、うち亂れ聞え給ひて、ゑひなきにや、院の御事聞え出でゞ打ちしほたれ給ひぬ。

廿餘日の月さし出でゝこなたはまださはやかならねど大方の空をかしきほどなるにふんの司の御琴めし出でゝ、權中納言和琴たまはり給ふ。さはいへど人にはまさりてかきたて給へり。みこさうの御琴、おとゞきん、琵琶は少將の命婦仕うまつる。うへ人の中にすぐれたるを召して、はうしたまはす。いみじう面白し。明けはつるまゝに花の色も人の御かたちどもゝほのかに見えて鳥の囀るほど心地ゆきめでたきあさぼらけなり。祿どもは、中宮の御方より賜はす。みこは御ぞ又重ねて賜はり給ふ。その頃の事にはこの繪の定めをし給ふ。「かの浦々の卷は中宮は侍はせ給へ」と聞えさせ給ひければ、これがはじめ又のこりの卷々ゆかしがらせ給へど、「今つぎつぎに」と聞えさせ給ふ。うへにも御心ゆかせ給ひておぼしめしたるを嬉しく見奉り給ふ。はかなき事につけてもかうもてなし聞え給へば、權中納言は猶おぼえをさるべきにやと心やましう思さるべかめり。上の御こゝろざしはもとよりおぼししみにければ猶こまやかにおぼしたるさまを、人知れず見奉り給ひてぞ賴もしくさりともとおぼされける。さるべき節會どもにもこの御時よりと末の人の言ひ傳ふべき例をそへむとおぼし、私ざまのかゝるはかなき御遊も珍しきすぢにせさせ給ひていみじき盛の御世なり。おとゞぞ猶常なきものに世をおぼして今少しおとなびおはしますと見奉りて猶世を背きなむと深くおもほすべかめる。昔のためしを見聞くにも、齡足らでつかさ位高くのぼり世にぬけぬる人の長くはえ保たぬわざなりけり。この御世には身のほどおぼえ過ぎにけり。中頃なきになりて沈みたりしうれへに變りて今までもながらふるなり。今より後のさかえは猶命うしろめたし。しづかに籠り居て後の世の事をつとめかつは齡をも延べむとおぼして、山里の長閑なるをしめてみ堂作らせ給ふ。佛經のいとなみ添へてせさせ給ふめるに、末の君たち思ふさまにかしづきいだして見むとおぼしめすにぞ、疾く捨て給はむことは難げなる。いかにおぼし置きつるにかといとしりがたし。


松風

ひんがしの院つくり立てゝ、花ちる里と聞えしうつろはし給ふ。西の對渡殿などかけてまどころけいしなどあるべきさまにしおかせ給ふ。東の對は明石の御方とおぼしおきてたり。北の對は殊に廣く造らせ給ひて、かりにても哀とおぼして行く末かけて契り賴め給ひし人々集ひ住むべきさまにへだてへだてしつらはせ給へるしも懷しう見所ありてこまかなり。寢殿はふたげ給はず時々渡り給ふ御すみどころにしてさる方なる御しつらひどもしおかせ給へり。明石には御せうそこ絕えず。今は猶上り給ひぬべきことをばのたまへど、女は猶我が身の程を思ひ知るに、こよなくやんごとなききはの人々だになかなかさてかけはなれぬ御有樣のつれなきを見つゝ物思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばかりの覺えなりとてかさし出でまじらはむ、この若君の御おもてぶせに數ならぬ身の程こそあらはれめ、たまさかにはひわたり給ふついでを待つことにて人わらへにはしたなき事いかにあらむと思ひ亂れてもまたさりとてかゝる所にて生ひ出でかずまへられ給はざらむもいと哀なればひたすらにもえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思ひ歎くになかなか心もつきはてぬ。昔母君の御おほぢ、中務の宮と聞えけるがらうじ給ひける所、大ゐ河のわたりにありけるをその御のちはかばかしうあひつぐ人もなくて年比荒れ惑ふを思ひ出でゝ、かの時より傳はりて留守のやうにてある人を呼び取りて語らふ。「世の中を今はと思ひはてゝかゝるすまひに沈みそめしかども末の世に思ひかけぬ事出できてなむ。更に都のすみか求むるを俄にまばゆき人中いとはしたなく、田舍びにける心地もしづかなるまじきをふるき所尋ねてとなむ思ひよる。さるべき物はあげ渡さむ。すりなどしてかたのごと人住みぬべくはつくろひなされなむや」といふ。あづかり「この年比らうずる人もものし給はず、怪しき藪になりて侍ればしもやにぞつくろひて宿り侍るを、この春の比より內のおほ殿の造らせ給ふ御堂近くて、かのわたりなむいと人げ騷しうなりにて侍る。いかめしき御堂ども建てゝ、多くの人なむ造りいとなみ侍るめる。靜なるほいならば其や違ひ侍らむ」。「何かそれもかの殿の御かげにかたかけてと思ふことありて、おのづからおひおひに內の事どもはしてむ。まづ急ぎて大方の事どもを物せよ」といふ。「自ららうする所に侍らねど又知り傳へ給ふ人もなければ、かごかなる習ひにて年頃かくろへ侍りつるなり。御さうの田はたけなどいふことの荒れ侍りしかば故民部の大輔の君に申し給はりて、さるべき物など奉りてなむらうじ作り侍るを」なんど、そのあたりのたくはへの事どもをあやふげに思ひて髭がちにつなしにくき顏を鼻などうち赤めつゝはちぶきいへば、「更にその田などやうの事はこゝに知るまじ。唯年頃のやうに思ひてものせよ券などはこゝになむあれどすべて世の中を拾てたる身にて年頃ともかくも尋ね知らぬをそのことも今委しくしたゝめむ」などいふにも、おほい殿のけはひをかくれば、煩はしくてその後物など多く受け取りてなむ急ぎつくりける。かやうに思ひよるらむとも知り給はでのぼらむ事を物うがるも心得ずおぼし、若君のさてつくづくと物し給ふを後の世に人の言ひ傅へむ、今ひときは人わろきにやとおもほすに、造りはてゝぞ然々の所をなむ思ひ出でたると聞えさせける。人にまじらはむ事を苦しげにのみものするは、かく思ふなりけりと心得給ふ。口惜しからぬ心の用意の程かなとおぼしなりぬ。惟光の朝臣、例のしのぶる道はいつとなくいろひ仕うまつる人なれば遣してさるべきさまに此處彼處の用意などせさせ給ひけり。「あたりをかしうて海づらに通ひたる所のさまになむ侍りける」と聞ゆれば、さやうのすまひによしなからずはありぬべしとおぼす。造らせ給ふ御堂は大覺寺の南にあたりて瀧殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり。これは川づらにえもいはぬ松かげに何のいたはりもなく建てたる寢殿のことそぎたるさまもおのづから山里の哀を見せたり。內のしつらひなどまでおぼしよる。親しき人々いみじう忍びてくだしつかはす。遁れ難くて今はと思ふに年經つる浦を離れなむこと哀に、入道の心ぼそくて一人とまらむことを思ひ亂れてよろづに悲し。すべてなどかく心づくしになり始めけむ身にかと露のかゝらぬ類ひうらやましく覺ゆ。親たちもかゝる御迎にて上るさいはひは年頃寢てもさめても願ひわたりし志のかなふといと嬉しけれどあひ見で過ぐさむいぶせさの堪へ難う悲しければ夜晝おぼゝれて同じ事をのみ「さらば若君をば見奉らでは侍るべきか」といふより外の事なく母君もいみじう哀なり。年頃だに同じいほりにも住まずかけ離れつればまして誰によりてかはかけとゞまらむ。唯あだにうち見る人の淺はかなる語らひにだにみなれそなれて別るゝ程はたゞならざめるをましてもて僻めたる頭つき心おきてこそたのもしげなけれど、又さる方にこれこそは世を限るべきすみかなめれと、ありはてぬ命を限に思ひて契りすぐし來つるを俄に行き離れなむも心細し。若き人々のいぶせう思ひ沈みぬるは嬉しきものから見捨て難き濱のさまを又はえしもかへらじかしと寄する波にそへて袖ぬれがちなり。秋のころほひなれば物の哀れ取り重ねたる心地してその日とある曉秋風凉しくて蟲の音もとりあへぬに海の方を見出して居たるに、入道例の後夜より深う起きて鼻すゝりうちして行ひゐましたり。いみじうこといみすれど誰も誰もいと忍びがたし。若君はいともいとも美くしげに、よる光りけむ玉の心地して袖より外に放ち聞えざりつるを見馴れてまつはし給へる心ざまなどゆゝしきまでかく人に違へる身をいまいましく思ひながら、片時見奉らではいかでかすぐさむとすらむとつゝみあへず。

 「行くさきをはるかに祈るわかれ路にたへぬは老の淚なりけり。いともゆゝしや」とておしのごひかくす。尼君、

 「もろともに都はいできこのたびやひとり野中の道にまどはむ」とて泣き給ふさまいとことわりなり。こゝら契りかはしてつもりぬる年月の程を思へばかう浮きたる事を賴みて捨てし世にかへるも思へばはかなしや。御かた、

 「生きて又あひ見むことをいつとてかかぎりも知らぬ世をば賴まむ。送にだに」とせちにのたまへど、かたかたにつけてえさるまじきよしをいひつゝさすがに道のほどもいと後めたき氣色なり。「世の中を捨て始めしにかゝる人の國に思ひ下り侍りしことも唯君の御ためと思ふやうに明暮の御かしづきも心にかなふやうもやと思ひ給へ立ちしかど、身の拙かりけるきはの思ひ知らるゝ事多かりしかば、更に都に歸りてふるずらうのしづめる類にて、貧しき家の蓬葎もとの有樣あらたむる事もなきものから公私にをこがましき名をひろめて、親の御なきかげをはづかしめむことのいみじさになむ。やがて世を捨てつるかどでなりけりと人にも知られにしをその方につけてはよう思ひ放ちてけりと思ひ侍るに、君のやうやうおとなび給ひ物おもほし知るべきにそへてなどかう口惜しき世界にて錦をかくし聞ゆらむと心の闇はれまなく歎きわたり侍りしまゝに、佛神を賴み聞えてさりともかう拙き身に引かれて山がつのいほりにはまじり給はじと思ふ心一つを賴み侍りしに、思ひより難くて嬉しき事どもを見奉りそめてもなかなか身の程をとざまかうざまに悲しう歎き侍りつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世のたのもしさにかゝる渚に月日をすぐし給はむもいとかたじけなう契ことに覺え給へば、見奉らざらむ心惑ひはしづめ難けれどこの身は長く世を捨てし心侍りき。君だちは世を照し給ふべき光しるければ暫しかゝる山賤の心を亂り給ふばかりの御契こそはありけめ。天に生るゝ人のあやしき三つの途に歸るらむ、一時に思ひなずらへて今日長く別れ奉りぬ。命つきぬと聞しめすとも、後の事おぼしいとなむな、さらぬ別れに御心動し給ふなゝど、言ひ放つものから煙ともならむ夕までは若君の御事をなむ六時のつとめにも猶心ぎたなくうちまぜ侍りぬべき」とてこれにぞうちひそみぬる。御車はあまたつゞけむも所せくかたへづゝ分けむも煩はしとて、御供の人々もあながちにかくろへ忍ぶれば船にて忍びやかにと定めたり。辰の時に船出し給ふ。昔の人も哀といひける浦の朝霧隔たり行くまゝにいと物悲しくて、入道は心すみはつまじくあくがれて眺め居たり。こゝら年を經て今更に歸るも猶思ひつきせず、尼君は泣き給ふ。

 「かのきしに心よりにし海士船のそむきしかたにこぎかへるかな」。御うた、

 「いくかへり行きかふ秋をすぐしつゝうき木にのりてわれかへるらむ」。思ふ方の風にて限りける日違へず入り給ひぬ。人に見咎められじの心もあれば道の程も輕らかにしなしたり。家のさまも面白うて年頃經つる海づらに覺えたれば所かへたる心地もせず、昔のこと思ひ出でられて哀なること多かり。作りそへたるらうなど故あるさまに水の流れもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあらねどすみつかばさてもありぬべし。親しきけいしに仰せ給ひて御まうけの事せさせ給ひけり。渡り給はむことはとかうおぼしたばかる程に日頃經ぬ。なかなか物思ひ續けられてすてし家居も戀しう徒然なればかの御形見のきんをかきならすをりのいみじう忍び難ければ、人離れたる方にうちとけて少し彈くに松風はしたなく響きあひたり。尼君物悲しげにてよりふし給へる、起きあがりて

 「身をかへてひとりかへれる山里にきゝしに似たる松風ぞふく」。御かた、

 「故里に見し世の友をこひわびて囀ることをたれかわくらむ」。かやうに物はかなくて明し暮すに、おとゞなかなかしづ心なく思さるれば人めをもえ憚りあへ給はでわたり給ふを、をんな君にはかくなむとたしかに知らせ奉り給はざりけるを、例の聞きもやあはせ給ふとてせうそこ聞え給ふ。「桂に見るべき事恃るをいざや心にもあらで程經にけり。とぶらはむと言ひし人さへ、かのわたり近く來居て待つなれば心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にもかざりなき佛の御とぶらひすべければ二三日は侍りなむ」と聞え給ふ。桂の院といふ所俄に作らせ給ふと聞くはそこにすゑ給へるにやとおぼすに、心づきなければ「斧の柄さへ改め給はむ程や。待遠に」と心ゆかぬ御氣色なり。「例の比べ苦しき御心かな。いにしへの有樣名殘なしと世の人もいふなるものを」と何やかやと御心とり給ふ程に日たけぬ。忍びやかにごぜんれうときはまぜで御心づかひして渡り給ひぬ。たそがれ時に坐しつきたり。かりの御ぞにやつ給へりしだに世に知らぬ心地せしを、ましてさる御心してひきつくろひ給へる御直衣姿世になくなまめかしうまばゆき心地すれば思ひむせびつる心のやみも晴るゝやうなり。珍しう哀にて若君を見給ふもいかゞ淺くはおぼされむ。今まで隔てける年月だに淺ましく悔しきまでおぼす。おほい殿ばらの君を、美しげなりと世人もて騷ぐは猶時代によれば人の見なすなりけり。かくこそはすぐれたる人の山口はしるかりけれとうち笑みたる顏の何心なきが愛敬づき匂ひたるをいみじうらうたしとおぼす。めのとの下りし程は衰へたりしかたちねびまさりて月頃の御物語など馴れ聞ゆるを哀にさるしほやの傍に過ぐしつらむことをおぼしのたまふ。「こゝにもいと里離れて渡らむことも難きを猶かのほいある所にうつろひ給へ」とのたまへど「いとうひうひしき程すぐして」と聞ゆるもことわりなり。夜一夜よろづに契り語らひ明し給ふ。繕ふべき所々のあづかり、今加へたるけいしなどに仰せらる。桂の院に渡り給ふべしとありければ近きみさうの人々參り集りたりけるも皆尋ね參りたり。前栽どもの折れふしたるなどつくろはせ給ふ。「こゝかしこのたて石どもゝ皆轉びうせたるをなさけありてしなさばをかしかりぬべき所かな。かゝる所をわざとつくろふもあいなきわざなり。さても過ぐしはてねば立つ時物うく心とまる苦しかりき」などきし方のことゞものたまひ出でゝ泣きみ笑ひみうちとけ給へるいとめでたし。尼君のぞきて見奉るに老も忘れ物思ひもはるゝ心地してうち笑みぬ。東の渡殿の下より出づる水の心ばへつくろはせ給ふとていとなまめかしき袿姿うちとけ給へるをいとめでたう嬉しと見奉るに、閼伽の具などのあるを見給ふにおぼし出でゝ「尼君はこなたにか。いとしどけなき姿なりけりや」とて御直衣召し出でゝ奉る。几帳のもとにより給ひて「罪輕くおほし立て給へる人の故は御おこなひのほど哀にこそ思ひなし聞ゆれ。いといたく思ひすまし給へりし御すみかを捨てゝうき世に歸り給へる志淺からず。又彼處にはいかにとまりて思ひおこせ給ふらむとさまざまになむ」といとなつかしうのたまふ。「捨て侍りし世を今さらに立ち歸り思ひ亂るゝを推しはからせ給ひければ命ながさのしるしも思ひ給へ知られぬる」とうち泣きて「あら磯かげに心苦しう思ひ聞えさせ侍りし二葉の松も今は賴もしき御おひさき」といはひ聞えさするを「淺き根ざしゆゑやいかゞとかたがた心盡され侍る」など聞ゆるけはひよしなからねば昔物語に御子の住み給ひける有樣など語らせ給ふにつくろはれたる水の音なひかごとがましう聞ゆ。

 「住み馴れし人はかへりてたどれども淸水ぞ宿のあるじがほなる」。わざとはなくていひけつさまみやびかによしと聞き給ふ。

 「いさらゐははやくのことも忘れじをもとのあるじや面がはりせる」。あはれとうち眺めて立ち給ふ。姿にほひ世に知らずとのみ思ひきこゆ。御寺に渡り給ひて月ごとの十四五日つごもりに行はるべき普賢講、阿彌陀、さかの念佛の三昧をばさるものにて又々加へ行はせ給ふべき事定め置かせ給ふ。堂のかざり佛の御具などめぐらし仰せらる。月の明きに歸り給ふ。ありし夜の事おぼし出でらるゝ折すぐさずかのきんの御ことさし出でたり。そこはかとなく物哀なるに、え忍び給はでかきならし給ふ。まだしらべも變らず彈きかへしそのをり今の心ちし給ふ。

 「契りしにかはらぬことのしらべにて絕えぬ心のほどを知りきや」。女、

 「かはらじと契りしことをたのみにて松のひゞきに音をそへしかな」と聞えかはしたるも似げなからぬこそは身に餘りたる有樣なめれ。こよなうねびまさりにけるかたちけはひえおもほしすつまじう若君はたつきもせずまもられ給ふ。いかにせまし。かくろへたるさまにておひ出でむが心苦しう口惜しきを、二條院に渡して心の行くかぎりもてなさば後の覺えも罪免れなむかしとおもほせど又思はむ事いとほしくてえうち出で給はで淚ぐみて見給ふ。幼き心地に少し耻らひたりしがやうやううち解けて物いひ笑ひなどしてむつれ給ふを見るまゝににほひまさりてうつくし。抱きておはするさま見るかひありて宿世こよなしと見えたり。又の日は京へ歸らせ給ふべければ、少し大殿籠り過ぐしてやがてこれより出で給ふべきを桂の院に人々多く參り集ひてこゝにも殿上人あまた參りたり。御さうぞくなどし給ひて「いとはしたなきわざかな。かく見顯はさるべき隈にもあらぬを」とてさわがしきに引かれて出で給ふ。心苦しければさりげなくまぎらはして立ちとまり給へる戶口にめのと若君抱きてさし出でたり。哀なる御氣色にかきなで給ひて「見ではいと苦しかりぬべきこそいとうちつけなれ。いかゞすべき。いと里遠しや」とのたまへば「遙に思ひ給へたりける年頃よりも今からの御もてなしの覺束なう侍らむは心づくしに」など聞ゆ。若君手をさし出でゝ立ち給へるを慕ひ給へばつい居給ひて「怪しう物思ひ絕えぬ身にこそありけれ。しばしにても苦しや。いづら。など諸共に出でゝはをしみ給はぬ、さらばこそ人心地もせめ」とのたまへばうち笑ひて、女君にかくなむと聞ゆ。なかなか物思ひ亂れて臥したればとみにしも動かれず、あまり上手めかしと思したり。人々も傍いたがれば、しぶしぶにゐざり出でゝ几帳にはた隱れたるかたはらめいみじうなまめいてよしあり。たをやぎたるけはひみこたちといはむにもたりぬべし。かたびら引きやりてこまやかに語らひ出で給ふとてとばかりかへり見給へるにさこそしづめつれ、見送り聞ゆ。いはむ方なき盛の御かたちなり。いたうそびやぎ給へりしが少しなりあふ程になり給ひにけり。御姿などかくてこそものものしかりけれと御指貫の裾までなまめかしう愛敬のこぼれ出づるぞあながちなる見なしなるべき。かの解けたりしくらうどもかへりなりにけり。靱負の尉にて今年かうぶり得てけり。昔にあらため心ちよげにてみはかし取りにより來たり。人影を見つけて「きし方の物忘れし侍らねどかしこければえこそ。浦風覺え侍る曉の寢覺にも驚し聞えさすべきよすがだになくて」とけしきばむを「やへたつ山は更に島がくれにも劣らざらけるを松も昔のとたどられつるに忘れぬ人もものし給ひけるにたのもし」などいふ。こよなしや、我も思ひなきにしもあらざりしをなどあさましう覺ゆれど「今殊更に」とうちけざやぎて參りぬ。いとよそほしくさし步み給ふ程、かしかましう追ひ拂ひて御車のしりに頭の中將兵衞督のせ給ふ。「いとかるがるしき隱れが見顯されぬるこそねたう」といたうからがり給ふ。「よべの月に口惜しう御供に後れ侍りにけると思ひ給へられしかば、今朝霧をわけて參り侍る山の錦はまだしう侍りけり。野邊の色こそ盛に侍りけれ。なにがしの朝臣の小鷹にかゝづらひて立ち後れ侍りぬる。いかゞなりぬらむ」などいふ。今日は猶桂殿にとてそなたざまにおはしましぬ。俄なる御あるじし騷ぎて鵜飼ども召したるに、海士のさへづりおぼし出でらる。野にとまりぬる君たち小鳥しるしばかりひきつけさせたる荻のえだなどつとにして參れり。おほみきあまたたびずんながれて、川のわたり危げなれど、醉に紛れておはしましくらしつ。おのおのぜくなど作りわたして月華やかにさし出づる程に大御遊はじまりていと今めかし。ひきもの琵琶和琴ばかり笛ども上手のかぎりして折にあひたる調子吹きたつる程、川風吹き合せておもしろきに月髙くさしあがり、萬の事すめる夜のやゝふくる程に殿上人四五人ばかりつれて參れり。上に侍ひけるを「御遊ありけるついでに今日は六日の御物忌あく日にて必ず參り給ふべきをいかなれば」と仰せられければこゝにかうとまらせ給ひにけるよし聞し召して御せうそこあるなりけり。御使は藏人の辨なりけり。

 「月のすむ河のをちなる里なればかつらのかげはのどけかるらむ。うらやましう」とあり。畏まり聞えさせ給ふ。上の御遊よりも、猶所からのすごさゝへ添へたる物の音をめでゝまた醉ひ加はりぬ。こゝにはまうけの物もさぶらはざりければ大井に「わざとならぬまうけのものや」と言ひ遣したり。とりあへたるに從ひて參らせたり。絹櫃ふたかけにてあるを御使の辨はとくかへり參れば女のさうぞくかづけ給ふ。

 「久かたのひかりに近き名のみしてあさゆふきりも晴れぬ山里」。行幸まち聞え給ふ御心ばへなるべし。「中に生ひたる」とうちずんじ給ふついでに、かの淡路島をおぼし出でゝ躬恒がところからかもとおぼめきけむことなどのたまひ出でたるに、物哀なるゑひなきどもあるべし。

 「めぐりきて手にとるばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月」。頭中將、

 「うき雲にしばしまがひし月影のすみはつるよぞのどけかるべき」。右大辨すこしおとなびて故院め御時にもむつましう仕うまつりなれし人なりけり。

 「雲の上のすみかをすてゝ夜はの月いづれの谷にかげかくしけむ」。心々にあまたあめれどうるさくてなむ。けぢかううちしづまりたる御物語少しうちみだれて、千年も見聞かまほしき御有樣なれば、斧の柄も朽ちぬべけれど今日さへはとて急ぎ歸り給ふ。物どもしなじなにかづきて霧の絕間に立ちまじりたるも前栽の花に見えまがひたる色あひなど殊にめでたし。近衞づかさの名高き舍人、物のふしどもなどさぶらふに、さうざうしければその駒など亂れ遊びてぬぎかけ給ふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。のゝしりて歸らせ給ふ響を大井には物隔てゝ聞きて名殘さびしう詠め給ふ。御せうそこをだにせでとおとゞも御心にかゝれり。殿におはしてとばかりうちやすみ給ふ。山里の御物語など聞え給ふ。「暇聞えし程過ぎつればいと苦しうこそ。このすきものどもの尋ね來ていと痛うしひとゞめしにひかされて今朝はいとなやまし」とて大殿ごもれり。例の心とけず見え給へど見知らぬやうにて、「なずらひならぬ程をおぼしくらぶるもわろきわざなめり。我はわれと思ひなし給へ」と敎へ聞え給ふ。暮れかゝる程にうちに參り給ふにひきそばめて急ぎ書き給ふはかしこへなめり。そばめこまやかに見ゆ。うちさゞめきてつかはすを御達などにくみ聞ゆ。その夜は內にも侍ひ給ふべけれどとけざりつる御氣色とりに夜更けぬれどまかで給ひぬ。ありつる御かへりもて參れり。えひき隱し給はで御覽ず。殊ににくかるべきふしも見えねば「これやりかくし給へ。むつかしやかゝるものゝちらむも、今はつきなき程になりにけり」とて御脇息により居給ひて、御心のうちにはいと哀に戀しうおぼしやらるれば火をうちながめて殊に物ものたまはず。文はひろごりながらあれどをんな君見給はぬやうなるを、せめて見隱し給ふ御まじりこそ煩はしけれ」とてうち笑み給へる御愛敬所せきまでこぼれぬべし。さしより給ひて「誠はらうたげなるものを見しかば契淺くも見えぬをさりとて物めかさむ程もはゞかり多かるに思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして御心に思ひ定め給へ。いかゞすべき。こゝにてはぐゝみ給ひてむや。ひるのこが齡にもなりにけるを罪なきさまなるも思ひすてがたうこそ。いはけなげなる下つかたも紛はさむなど思ふを、目ざましと思さずはひきゆひ給へかし」と聞え給ふ。「思はずにのみとりなし給ふ御心のへだてをせめて見知らずうらなくやはとてこそ、いはけなからむ御心にはいとようかなひぬべくなむいかに美しき程に」とて少しうち笑み給ひぬ。ちごをわりなうらうたきものにし給ふ御心なれば、えていだきかしづかばやとおぼす。いかにせまし、迎へやせましとおぼし亂る。渡り給ふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念佛など待ち出でゞ、月にこたびはかりの御契なめり。年のわたりには立ちまさりぬべかめるを、及びなきことゝ思へども猶いかゞものおもはしからぬ。


薄雲

冬になり行くまゝに、河づらのすまひいとゞ心ぼそさまさりて、うはの空なる心地のみしつゝ明し暮すを、君も「猶かくてはえすぐさじ。かの近き所に思ひ立ちね」と勸め給へど、つらき所多く試みはてむも殘りなき心ちすべきをいかにいひてかなどいふやうに思ひ亂れたり。「さらばこの若君をかくてのみはびんなきことなり。思ふ心あればかたじけなし。對に聞き置きて常にゆかしがるをしばし見ならはせて袴着のことなども人知れぬさまならずしなさむとなむ思ふ」とまめやかに語ひ給ふ。さおぼすらむと思ひ渡る事なればいとゞ胸つぶれぬ。「改めてやむごとなき方にもてなされ給ふとも人の漏り聞かむことはなかなかにやつくろひ難くおぼされむ」とて放ち難く思ひたり。「ことわりにもあれど、うしろ安からぬ方にやなどはな疑ひそ。かしこには年經ぬれどかゝる人もなきがさうざうしく覺ゆるまゝにさきの齋宮のおとなび物し給ふをだにこそあながちにあつかひ聞ゆめればましてかく惡み難げなめる程をおろかには思ひ放つまじき心ばへになむ」とをんな君の御有樣の思ふやうなる事も語り給ふ。げに古はいかばかりの事に定り給ふべきにかとつてにもほの聞えし御心の名殘なくしづまり給へるはおぼろけの御宿世にもあらず。人の御ありさまもこゝらの御中にすぐれ給へるにこそはと思ひやられて、數ならぬ人のならび聞ゆべき覺えにもあらぬを、さすがに立ち出でゝ人も目ざましとおぼすことやあらむ、我が身はとてもかくても同じ事、おひさき遠き人の御上も、遂にはかの御心にかゝるべきにこそあめれ。さりとならばげにかう何心なき程にや讓り聞えましと思ふ。又手を放ちてうしろめたからむと徒然も慰む方なくてはいかゞ明し暮すべからむ。何につけてかたまさかの御立ちよりもあらむなどさまざま思ひ亂るゝにも身の憂き事かぎりなし。尼君思ひやり深き人にて、「あじきなし。見奉らざらむことはいと胸いたかりぬべけれど遂にこの御ためによかるべからむ事をこそ思はめ。淺くおぼしてのたまふ事にはあらじ。たゞうち賴み聞えて渡し奉り給ひてよ。母方からこそ、帝の御子もきはきはにおはすめれ。このおとゞの君の世に二つなき御有樣ながら世に仕へ給へば故大納言の今ひときざみなり劣り給ひて更衣腹といはれ給ひしけぢめにこそおはすめれ。ましてたゞ人はなずらふべき事にもあらず。又みこだち大臣の御腹といへど猶さし向ひたるおとりの所には人も思ひおとし親の御もてなしもえひとしからぬものなり。ましてこれはやむごとなき御方々にかゝる人出でものし給はゞこよなくけたれ給ひなむ。ほどほどにつけて親にもひとふしもてかしづかれぬる人こそやがて貶しめられぬはじめとはなれ。御袴着のほども、いみじき心をつくすともかゝる深山隱にては何のはえかあらむ。唯任せ聞え給ひてもてなし給はむ有樣をも聞き給へ」と敎ふ。「さかしき人の心のうらどもにも物問はせなどするにも猶渡り給ひてはまさるべし」とのみいへば思ひよわりにたり。殿もしかおぼしながら思はむ所のいとほしさに强ひてえのたまはで「御袴着の事いかやうにか」とのたまへる、御返りに「萬のかひなき身にたぐへ聞えてはげにおひさきもいとほしかるべく覺え侍るを、たちまじりていかに人笑へにや」と聞えたるをいと哀におぼす。日など取らせ給ひて忍びやかにさるべき事などのたまひおきてさせ給ふ。放ち聞えさせむことは猶いと哀に覺ゆれど君の御ためによかるべき事をこそはと念ず。めのとをもひき別れなむこと明暮の物おもはしさつれづれをも打ち語らひて慰めならひつるにいとゞたつぎなき事をさへとりそへいみじう覺ゆべきこと」と君も泣く。めのとも「さるべきにや覺えぬさまにて見奉りそめて年比の御心ばへの忘れ難う戀しう覺え給ふべきをうちたえ聞ゆることはよも侍らじ。終にはと賴みながら暫しにてもよそよそに思の外のまじらひし侍らむが、安からずも侍るべきかな」など、うち泣きつゝすぐす程に十二月にもなりぬ。雪霰がちに心細さまさりて、怪しくさまざまに物思ふべかりける身かなとうち歎きて常よりもこの君を撫でつくろひつゝ居たり。雪かきくらし降り積るあしたきし方行くさきの事殘らず思ひつゞけて例はことにはしぢかなるいでゐなどもせぬを、みぎはの氷など見やりて白ききぬどものなよゝかなるあまた着てながめたるやうだい頭つきうしろでなど、かぎりなき人と聞ゆともかうこそおはすらめと見ゆ。落つる淚をかいはらひて「かやうならむ日ましていかにおぼつかなからむ」とらうたげにうちなげきて、

 「雲ふかき深山のみちははれずともなほふみかよへ跡たえずして」とのたまへばめのとうち泣きて、

 「ゆきまなきよしのゝ山を尋ねてもこゝろの通ふ跡たえめやは」といひ慰む。この雪少し解けて渡り給へり。例は待ち聞ゆるにさならむと思ふ事により胸うちつぶれてひとやりならず覺ゆ。我が心にこそあらめ、いなび聞えむを、しひてやは、あぢきなと覺ゆれどかろかろしきやうなりとせめて思ひかへす。いと美しげにて前に居給へるを見給ふにおろかには思ひ難かりける人の宿世かなとおもほす。この春よりおぼす御ぐし尼そぎの程にてゆらゆらとめでたくつらつきまみのかをれる程などいへばさらなり。よその物に思ひやらむ程の心の闇推しはかり給ふにいと心苦しければうちかへしのたまひ明す。「何かかく口惜しき身の程ならずだにもてなし給はゞ」と聞ゆるものから念じあへずうちなくけはひ哀なり。姬君は何心もなくて、御車に乘らむことを急ぎ給ふ。寄せたる所に、母君みづから抱き出で給へり。かたことの聲はいとうつくしうて、袖をとらへて乘り給へと引くもいみじうおぼえて、

 「末とほき二葉の松にひきわかれいつか木だかきかげを見るべき」。えもいひやらずいみじう泣けば、さりや、あなくるしとおぼして

 「おひそめし根も深ければたけぐまの松にこまつのちよをならべむ。長閑にを」と慰め給ふ。さることゝは思ひしづむれどえなむ堪へざりける。乳母少將とてあてやかなる人ばかりみはかし、あまがつやうの物取りてのる。人だまひによろしき若人わらはなど乘せて御送にまゐらす。道すがらとまりつる人の心苦しさをいかに罪やうらむとおぼす。暗うおはし着きて御車よするより花やかにけはひ殊なるを田舍びたる心地どもははしたなくてやまじらはむと思ひつれど、西おもてを殊にしつらはせ給ひて小き御調度ども美しげに整へさせ給へり。めのとの局には西の渡殿の北に當れるをせさせ給へり。若君は道にて寢給ひにけり。抱きおろされて泣きなどはし給はず。こなたにて御くだものまゐりなどし給へどやうやう見廻らして母君の見えぬを求めてらうたげにうちひそみ給へば乳母召し出でゝ慰めまぎらはし聞え給ふ。山里のつれづれましていかにとおぼしやるはいとほしけれど明暮おぼすさまにかしづきつゝ見給ふは物あひたる心地し給ふらむ、いかにぞや、人の思ふべききずなきことはこのわたりに出でおはせでと口をしくおぼさる。しばしは人々もとめて泣きなどし給ひしかど大方心安くをかしぎ心ざまなれば上にいとよくつきむつび聞え給へればいみじう美くしき物得たりと覺しけり。ことごとなく抱きあつかひ悅び聞え給ひて乳母もおのづから近う仕うまつりなれにけり。又やんごとなき人の、ちある添へて參り給ふ。御袴着は何ばかりわざとおぼし急ぐ事はなけれど氣色ことなり。御しつらひひゝな遊の心地してをかしう見ゆ。參り給へるまらうどゞも唯明暮のけぢめしなければあながちに目もたゝざりき。唯姬君のたすきひきゆひ給へる胸つきぞ美しげさそひて見え給へる。大井にはつきせず戀しきにも、身のをこたりを歎きそへたり。さこそいひしが、尼君もいとゞ淚もろなれどかくもてなしかしづかれ給ふを聞くは嬉しかりけり。何事をかなかなかとぶらひ聞え給はむ、唯御方の人々に、乳母より初めて世になき色あひを思ひ急ぎてぞ送り聞え給ひける。待遠ならむもいとゞさればよと思はむにいとほしければ年の內に忍びて渡り給へり。いとゞ淋しきすまひに明暮のかしづきぐさをさへ離れ聞えて思ふらむことの心苦しければ御文なども絕間なく遣す。女君も今は殊にゑじ聞え給はず美しき人に罪免し聞え給へり。年もかへりぬ。うらゝかなる空に思ふ事なき御有樣はいとゞめでたく磨き改めたる御よそひに參り集ひ給ふめる人のおとなしき程のは七日の御悅などし給ふ。ひきつれ給へり。若やかなるは何ともなく心地よげに見えたり。つぎつぎの人も心の中には思ふ事もやあらむ。うはべはほこりかに見ゆるころほひなりかし。ひんがしの院の臺の御方も有樣は好ましう、あらまほしきさまに侍ふ人々わらはべの姿などうちとけず心づかひしつゝ過ぐし給ふに、近きしるしはこよなくて長閑なる御暇のひまなどにはふとはひ渡りなどし給へどよる立ちとまりなどやうにわざとは見え給はず。唯御心ざまのおいらかにこめきて、かばかりの宿世なりける身にこそあらめと思ひなしつゝありがたきまでうしろやすく長閑に物し給へば、をりふしの御心おきてなども、こなたの御有樣に劣るけぢめこよなからずもてなし給うてあなづり聞ゆべうはあらねばおなじごと人も參り仕う奉りて、べたうけいしどもゝ事怠らず、なかなか亂れたる所なくめやすき御有樣なり。山里の徒然をも絕えずおぼしやれば公私物騷しき程過ぐして渡り給ふとて常より殊にうちけさうじ給ひて櫻の御直衣にえならぬ御ぞひき重ねてたきしめさうぞき給ひてまかり申しし給ふさまくまなき夕日にいとゞしく淸らに見え給ふを、をんな君たゞならず見奉り送り聞え給ふ。姬君はいはけなく御指貫の裾にかゝりて慕ひ聞え給ふほどにとにも出で給ひぬべければ立ちとまりていと哀とおぼしたり。こしらへ置きて「あすかへりこむ」と口ずさびて出で給ふに、渡殿の口に待ちかけて中將の君して聞え給ふ。

 「船とむるをち方人のなくばこそあすかへりこむせなとまち見め」。いたうなれて聞ゆればいとにほひやかにほゝゑみて、

 「行きて見てあすもさねこむなかなかにをちかた人は心おくとも」。何事とも聞きわかでざれありき給ふ人を上は美しと見給へば遠方人のめざましきもこよなくおぼしゆるされにたり。いかに思ひおこすらむと我にていみじう戀しかりぬべきさまをとうちまもりつゝ懷に入れて美しげなる御ちをくゝめ給ひつゝ戯ぶれ居給へる御さま見所多かり。お前なる人々は「などか同じくは、いでや」など語らひあへり。彼所にはいとのどやかに心ばせあるけはひに住みなして家の有樣もやうはなれて珍しきにみづからのけはひなどは見る度ごとにやんごとなき人々に劣るけぢめこよなからず。かたち用意あらまほしうねびまさり行く。唯よの常のおぼえにかきまぎれたらばさる類ひなくやはと思ふべきを世に似ぬひがものなる親の聞えなどこそ苦しけれ、人の程などはさてもあべきものをなどおぼす。はつかに飽かぬ程にのみあればにや心のどかならず、立ちかへり給ふも苦しくて夢のわたりの浮橋かとのみうち歎かれて箏の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて小夜ふけたりしねも例のおぼし出でらるれば、琵琶をわりなくせめ給へば、少しかき合せたる、いかでかうのみひきすぐしけむとおぼさる。若君の御ことなどこまやかに語り給ひつゝおはす。こゝはかゝる所なれどかやうに立ちとまり給ふ折々あればはかなきくだものこはいひばかりは聞しめす時もあり近き御寺桂殿などにおはしまぎらはしつゝいとまほには亂れ給はねど又いとけざやかにはしたなくおしなべてのさまにはもてなし給はぬなどこそはいと覺えことには見ゆめれ。女もかゝる御心の程を見知り聞えて過ぎたりと覺すばかりの事はしいでず。又いたくひげせずなどして御心おきてにもて違ふことなくいとめやすくぞありける。おぼろげにやんごとなき所にてだに、かばかりもうち解け給ふことなくけだかき御もてなしを聞き置きたれば近き程にまじらひてはなかなかいとめなれて人あなづられなる事どもぞあらまし、たまさかにてかやうにふりはへ給へるこそたけき心地すれと思ふべし。明石にもさこそいひしか。この御心おきてありさまをゆかしがりておぼつかなからず人は通はしつゝ胸つぶるゝこともあり又おもだゝしく嬉しと思ふことも多くなむありける。

その比おほきおとゞうせ給ひぬ。世のおもしとおはしつる人なればおほやけにもおぼし歎く。暫し籠り給へりしほどをだに天の下のさわぎなりしかばまして悲しと思ふ人多かり。源氏のおとゞもいと口惜しう萬の事おし讓りきこえてこそ暇もありつるを心細く事繁くもおぼされて歎きおはす。帝は御年よりはこよなうおとなおとなしうねびさせ給ひて世のまつりごとも後めたく思ひ聞え給ふべきにはあらねども又とりたてゝ御後見し給ふべき人もなきを誰に讓りてかは靜なる御ほいもかなはむとおぼすにいと飽かず口をし。後の御わざなどにも御子どもうまごに過ぎてなむこまやかにとぶらひ扱ひ聞え給ひける。その年大方世の中さわがしくておほやけざまに物のさとし繁く長閑ならで、天つ空にも例に違へる月日星の光見え、雲のたゝずまひありとのみ世の人驚く事多くて、みちみちのかんがへ文ども奉れるにも怪しう世になべてならぬ事どもまじりたり。うちのおとゞのみなむ、御心の中に煩はしく覺し知らるゝ事ありける。入道きさいの宮、春の始より惱み渡らせ給ひて三月にはいと重くならせ給ひぬれば行幸などあり。院に別れ奉らせ給ひし程はいといはけなくて物深くもおぼされざりしをいみじうおぼし歎きたる御氣色なれば宮もいと悲しく思しめさる。「今年は必ず遁るまじき年と思う給へつれどおどろおどろしき心地にも侍らざりつれば、命の限りしり顏に侍らむも人やうたてことごとしう思はむと憚りてなむ功德の事などもわざと例よりも取り別きてしも侍らずなりにける。參りて心のどかに昔の御物語もなど思ひ給へながら、うつしざまなる折少なく侍りて口惜しういぶせくて過ぎ侍りぬること」といと弱げに聞え給ふ。三十七にぞおはしましける。されどいと若く盛におはしますさまを惜しく悲しと見奉らせ給ふ。愼ませ給ふべき御年なるに、はればれしからで月頃過ぎさせ給ふことだに歎きわたり侍りつるに、御つゝしみなどをも、常よりも異にせさせ給はざりけることゝいみじうおぼしめしたり。たゞこの頃ぞおどろきてよろづの事せさせ給ふ。月頃は常の御惱とのみうちたゆみたりつるを、源氏のおとゞも深くおぼし入りたり。限あれば程なく還らせ給ふも悲しきことおほかり。宮いと苦しうてはかばかしう物も聞えさせ給はず。御心の中におぼしつゞくるに高き宿世世のさかえも並ぶ人なく心の中にあかず思ふことも人にまさりける身とおぼし知らる。上の夢の中にもかゝる事の心を知らせ給はぬをさすがに心苦しう見奉らせ給ひてこれのみぞ後めたくむすぼゝれたることにおぼし置かるべき心地し給ひける。大臣はおほやけがたざまにてもかくやんごとなき人のかぎりうち續き失せ給ひなむことを人知れずおぼし歎く。人知れぬ哀はた限りなくて御いのりなどおぼしよらぬことなし。年頃思し絕えたりつるすぢさへ今一度聞えずなりぬるがいみじくおぼさるれば近き御几帳のもとによりて御有樣などもさるべき人々に問ひ聞き給へば親しきかぎり侍ひてこまかに聞ゆ。月頃惱ませ給へる御心ちに御おこなひを時のまもたゆませ給はずせさせ給ふつもりのいとゞいたうくづほれさせ給へるにこの頃となりては柑子などをだに觸れさせ給はずなりにたれば賴み所なくならせ給ひにたる事と歎く人々おほかり。「院の御遺言にかなひて、內の御後見仕うまつり給ふ事年頃思ひ知り侍る事多かれど、何につけてかはその心よせ殊なるさまをも漏し聞えむとのみ、長閑に思ひ侍りけるを、今なむ哀に口惜しく」とほのかにのたまはするもほのぼの聞ゆるに御いらへも聞えやり給はず泣き給ふさまいといみじなどかうしも心弱きさまにと人めをおぼしかへせど古へよりの御有樣を大方の世につけてもあたらしく惜しき人のさまを心にかなふわざならねばかけとゞめ聞えむ方なくいふかひなくおぼさるゝ事限なし。「はかばかしからぬ身ながらも、昔より御後見仕うまつるべきことを心の至るかぎりはおろかならず思ひ給ふるにおほきおとゞのかくれ給ひぬるをだに世の中心あわたゞしく思ひ給へらるゝに又かくおはしませばよろづに心亂れ侍りて世に侍らむことも殘なき心地なむし侍る」と聞え給ふ程に燈火などの消え入るやうにてはて給ひぬればいふかひなく悲しき事をおぼしなげく。かしこき御身の程と聞ゆる中にも御心ばへなどの世のためにも普く哀におはしまして、がうけにことよせて人の愁とあることなどもおのづからうちまじるを聊もさやうなる事のみだれなく、人の仕うまつることをも世のくるしびとあるべき事をばとゞめ給ふ。功德の方とてもすゝむるにより給ひて、いかめしう珍しうし給ふ人など昔のさかしき世にも皆ありけるを、これはさやうなる事なく唯もとよりのたから物、え給ふべきつかさ、かうぶり、み封のものゝさるべきかぎりして、誠に心深き事どものかぎりをしおかせ給へれば何とわくまじき山伏などまで惜み聞ゆ。をさめ奉るにも世の中ひゞきて悲しと思はぬ人なし。殿上人などなべてひとつ色に黑みわたりて物のはえなき春の暮なり。二條院の御まへの櫻を御覽じても花の宴の折など思し出づ。「今年ばかりは」とひとりごち給ひて人の見咎めつべければ御念ず堂に籠り居給ひて日一日泣き暮し給ふ。夕日華やかにさして山際の木ずゑあらはなるに雲の薄く渡れるがにび色なるを何事も御目とゞまらぬ頃なれどいと物哀におぼさる。

 「入日さす峯にたなびくうす雲はものおもふ袖にいろやまがへる」。人聞かぬ所なればかひなし。御わざなども過ぎて事どもしづまりて、帝物心ぼそく思したり。この入道の宮の御母后の御世より傳りて、御祈の師にて侍ひける僧都、故宮にもいとやんごとなく親しきものにおぼしたりしをおほやけにも重き御おぼえにていかめしき御ぐわんども多くたてゝ世にかしこき聖なりける。年七十ばかりにて今は終のおこなひをせむとて籠りたるが、宮の御事によりて出でたるをうちより召しありて常にさぶらはせ給ふ。この比は猶もとの如く參りさぶらはるべきよし大臣も勸めのたまへば「今は夜居などいと堪へ難う覺え侍れど、仰言のかしこきによりふるき御志をそへて」とてさぶらふに、靜なる曉に人も近く侍はずあるはまかでなどしぬる程に古代にうちしはぶきつゝ世の中の事ども奏し給ふ序に「いと奏し難くてかへりては罪にもや罷りあたらむと思ひ給へ憚る事多かれど、しろしめされぬに罪重くて天のまなこ恐しく思う給へらるゝことを心にむせび侍りつゝ命終り侍りなば何のやくかは侍らむ。佛も心ぎたなしとや思しめさむ」とばかり奏しさしてえうち出でぬことあり。うへ何事ならむ、この世に怨殘るべく思ふことやあらむ、法師は聖といへどもあるまじき橫さまのそねみ深くうたてあなるものをとおぼして「いはけなかりし時より隔て思ふことなきを、そこにはかく忍び殘されたる事ありけるをなむつらく思ひぬる」とのたまはすれば「あなかしこ、更に佛のいさめ守り給ふ眞言の深き道をだに隱し留むることなく廣め仕うまつり侍り。まして心にくまあること何事にか侍らむ。これはきし方行くさきの大事と侍ることを、過ぎおはしましにし院きさいの宮、只今世をまつりごち給ふおとゞの御ためすべてかへりて善からぬ事にやもり出で侍らむ。かゝるおい法師の身にはたとひ憂へ侍りとも何の悔か侍らむ。佛天の吿げあるによりて奏し侍るなり。我が君はらまれおはしましたりし時より故宮の深く思し歎く事ありて御祈仕うまつらせ給ふ故なむ侍りし。委しく法師の心にえ悟り侍らず。事の違ひめありておとゞ橫さまの罪にあたり給ひし時、いよいよおぢ思しめして重ねて御祈ども承り侍りしをおとゞも聞しめしてなむ又更に事加へ仰せられて御位に即きおはしましゝまで仕うまつる事ども侍りし。その承りしさま」とて委しく奏するを聞し召すに、あさましう珍らかにて恐しうも悲しうもさまざまに御心亂れけり。とばかり御いらへもなければ僧都進み奏しつるをびんなく思しめすにやとわづらはしう思ひてやをら畏まりてまかづるを召しとゞめて「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎めあるべかりけることを今まで忍びこめられたりけるをなむ、却りて後めたき心なりと思ひぬる。又この事を知りて漏し傳ふる類ひやあらむ」とのたまはす。「更になにがしと王命婦とより外の人この事の氣色見たる侍らず、さるによりなむいと恐しう侍る、天變頻にさとし世の中靜ならぬはこのけなり。いときなく物の心しろしめすまじかりつる程こそ侍りつれ。やうやう御齡足りおはしまして何事も辨へさせ給ふべき時に至りてとがをもしめすなり。よろづの事親の御世より始まるにこそ侍るなれ。何の罪ともしろしめさぬが恐しきにより、思ひ給へ消ちてしことを更に心より出し侍りぬること」となくなく聞ゆるほどに明けはてぬればまかでぬ。上は夢のやうにいみじき事を聞し召していろいろにおぼし亂れさせ給ふ。故院の御ためもうしろめたく、おとゞのかくたゞ人にて世に仕へ給ふも哀にかたじけなかりける事、かたがた覺し惱みて日たくるまで出でさせ給はねばかくなむと聞き給ひておとゞも驚きて參り給へるを御覽ずるにつけてもいとゞ忍び難く思しめされて御淚のこぼれさせ給ひぬるを、大方故宮の御事をひるよなく思しめしたる頃なればなめりと見奉り給ふ。その日式部卿の御子うせ給ひぬるよし奏するに、いよいよ世の中の騷しきことを歎きおぼしたり。かゝる頃なればおとゞは里にもえまかで給はでつと侍ひ給ふ。しめやかなる御物語のついでに「世はつきぬるにやあらむ、物心ぼそく例ならぬ心地のみするを、天の下もかく長閑ならぬに萬あわたゞしくなむ。故宮のおぼさむ所によりてこそよのなかのことも思ひ憚りつれ。今は心安きさまにても過ぐさまほしくなむ」と語らひ聞え給ふ。「いとあるまじき御事なり。世の靜ならぬ事は必ず政の直くゆがめるにもより侍らず。さかしき世にしもなむ善からぬ事どもゝ侍りける。聖の帝の世にも橫ざまの亂れ出で來ること唐土にも侍りける。我が國にもさなむ侍る。ましてことわりの齡どもの、時至りぬるを思し歎くべき事にも侍らず」などすべて多くのことゞもを聞え給ふ。片端まねぶもいと傍いたしや。常よりも黑き御よそひにやつしたまへる御かたち違ふ所なし。上も年頃御鏡にもおぼしよる事なれど聞し召しゝことの後は又こまかに見奉り給ひつゝ殊にいとゞ哀に思しめさるれば、いかでこの事をかすめ聞えばやと思せどさすがにはしたなくも思しぬべき事なれば、若き御心地につゝましくふともえうち出で聞え給はぬ程は唯大方の事どもを常より殊に懷しう聞えさせ給ひ、うちかしこまり給へる樣にていと御氣色ことなるを、かしこき人の御目には怪しと見奉り給へど、いとかくさたさたと聞しめしたらむとはおぼさゞりけり。上は王命婦に委しき事問はまほしう思しめせど今更にしか忍び給ひけむ事知りにけりとかの人にも思はれじ。唯おとゞにいかでほのめかし問ひ聞えてさきざきかゝる事の例はありけむやと聞かむとぞおぼせど更に序もなければいよいよ御學問をせさせ給ひつゝさまざま文どもを御覽ずるに唐土には顯はれても忍びても亂りがはしき事いと多かりけり。日の本には更に御覽じ得る所なし。たとひあらむにてもかやうに忍びたらむ事をばいかでか傳へ知るやうのあらむとする。一世の源氏又納言大臣になりて後に更にみこにもなり位にもつき給へるもあまたの例ありけり。人がらのかしこきにことよせてさもや讓り聞えましなどよろづにぞおぼしける。秋の司召に太政大臣になり給ふべき事うちうちに定め申し給ふついでになむ帝おぼしよするすぢの事漏し聞え給ひけるをおとゞいとまばゆく恐しうおぼして更にあるまじきよしを申し返し給ふ。「故院の御志あまたの御子たちの御中に取りわきて思しめしながら位を讓らせ給はむ事をおぼしめしよらずなりにけり。何かその御心改めて及ばぬきはにはのぼり侍らむ、唯もとの御掟のまゝにおほやけに仕うまつりて今少しの齡かさなり侍りなば長閑なる行ひに籠り侍りなむと思ひ給ふる」と常の御言の葉にかはらず奏し給へば、いと口惜しうなむおぼしける。太政大臣になり給ふべき定めあれど暫しとおぼす所ありて唯御位そひてうしくるまゆるされて參りまかでし給ふを、帝飽かず辱きものに思ひ聞え給ひて猶みこになり給ふべきよしをおぼしのたまはすれど、世の中の御後見し給ふべき人なし。權中納言大納言になりて右大將かけ給へるを、今ひときはあがりなむに何事も讓りてむ。さて後にともかくも靜なるさまにとぞおぼしける。猶おぼし廻らすに故宮の御ためにもいとほしう又上のかく思し惱めるを見奉り給ふもかたじけなきにたれかゝる事を漏し奏しけむと怪しうおぼさる。命婦は御匣殿のかはりたる所にうつりて曹司賜はりて參りたり。おとゞたいめんし給ひて「この事をもし物のついでに露ばかりにても漏し奏し給ふ事やありし」とあないし給へど「更にかけても聞し召さむことをいみじき事におぼしめして、かつは罪うることにやとうへの御ためを猶おぼしめし歎きたりし」と聞ゆるにも、一方ならず心深くおはせし御有樣などつきせず戀ひ聞えさせ給ふ。

齋宮の女御はおぼしゝもしるき御後見にてやんごとなき御おぼえなり。御用意有樣なども思ふさまにあらまほしう見え給へれば辱なきものにもてかしづき聞え給へり。秋のころ二條院にまかで給へり。寢殿の御しつらひいとゞかゞやくばかりし給ひて、今はむげの親ざまにもてなしてあつかひ聞え給ふ。秋の雨いと靜に降りて、おまへの前栽のいろいろ亂れたる露のしげさに古への事どもかき續けおぼし出でられて御袖もぬれつゝ女御の御方にあたり給へり。こまやかなるにび色の御直衣姿にて世の中の騷しきなどことつけ給ひて、やがて御精進なればずゞひきかくして御さまよくもてなし給へる、つきせずなまめかしき御有樣にてみすの內に入り給ひぬ。御几帳ばかりを隔てゝみづから聞え給ふ。「前栽どもこそ殘りなくひもとき侍りにけれ。いと物すさまじき年なるを心やりて時知り顏なるも哀にこそ」とて柱により居給へる夕ばえいとめでたし。昔の御事どもかの野の宮にたち煩ひし曙などを聞え出で給ふ。いと物哀とおぼしたり。宮もかくればとにや少しなき給ふけはひいとらうたげにて、うちみじろき給ふ程もあさましくやはらかになまめきておはすべかめる。見奉らぬこそ口惜しけれと胸うちつぶるゝぞうたてあるや。「過ぎにし方殊に思ひ惱むべき事もなくて侍りぬべかりし世の中にも、猶心からすきずきしき事につけて物思ひの絕えずも侍りけるかな。さるまじき事どもの心苦しきがあまた侍りし中に、遂に心もとけずむすぼゝれて止みぬる事二つなむ侍る。まづ一つは、このすぎ給ひにし御事よ。あさましうのみ思ひつめてやみ給ひにしが、長き世の憂はしき節と思ひ給へられしをかうまでも仕う奉り御覽ぜらるゝをなむ慰めに思う給へなせど燃えし煙のむすぼゝれ給ひけむは猶いぶせうこそ思ひ給へらるれ」とて今一つはのたまひさしつ。「中頃身のなきに沈み侍りし程かたがたに思ひ給へしことかたはしづゝかなひにたり。ひんがしの院にものする人のそこはかとなくて心苦しう覺え渡り侍りしもおだしう思ひなりにて侍り。心ばへのにくからぬなど我も人も見給へあきらめていとこそさはやかなれ。かく立ちかへり公の御後見仕うまつる喜びなどはさしも心に深くしまず、かやうなるすきがましき方はしづめ難うのみ侍るをおぼろげに思ひ忍びたる御後見とはおぼし知らせ給ふらむや。哀とだにのたまはせずは、いかにかひなく侍らむ」とのたまふ。。むづがしうて御いらへもなければ「さりや、あな心う」とて異事に言ひ紛はし給ひつ。「今はいかでのどやかに生ける世のかぎり思ふこと殘さず後の世のつとめも心に任せて籠り居なむと思ひ侍るをこの世の思出にしつべきふしの侍らぬこそさすがに口惜しう侍りぬべけれ。數ならぬ幼き人の侍る、おひさきいと待遠なりや。辱くとも猶この門廣げさせ給ひて、侍らずなりなむ後にもかずまへさせ給へ」など聞え給ふ。御いらへはいとおほどかなるさまに辛うじてひとことばかりかすめ給へるけはひ、いとなつかしげなるに聞きつきてしめじめと暮るゝまでおはす。「はかばかしき方ののぞみはさるものにて年の內ゆき更る時々の花紅葉空の氣色につけても心の行く事もし侍りにしがな。春の花の林秋の野のさかりをとりどりに人あらそひ侍りけるその頃のげにと心よるばかりあらはなる定こそ侍らざなれ。唐土には戀の花の錦にしくものなしといひはべめり。やまと言の葉には秋の哀をとり立てゝ思へる、いづれも時々につけて見給ふに目うつりてえこそ花鳥の色をもねをも辨へ侍らね。せばき垣根の內なりともその折々の心見しるばかり春の花の木をも植ゑわたし秋の草をも堀りうつしていたづらなる野邊の蟲をもすませて人に御覽ぜさせむと思ひ給ふるをいづかたにか御心よせ侍るべからむ」と聞え給ふにいと聞えにくき事とおぼせどむげに絕えて御いらへ聞え給はざらむもうたてあれば、「ましていかゞ思ひわき侍らむ。げにいつとなきなかにあやしと聞きし夕こそはかなう消え給ひにし露のよすがにも思ひ給へられぬべけれ」としどけなげにのたまひけつも、いとらうたげなるにえ忍び給はで、

 「君もさはあはれをかはせ人知れず我身にしむる秋のゆふ風。しのび難き折々も侍りしが」と聞え給ふにいづこの御いらへかはあらむ。心得ずとおぼしたる御氣色なり。このついでに、え籠め給はで恨み聞え給ふ事どもあるべし。今少しひが事もし給ひつべけれどもいとうたてとおぼいたるもことわりに我が御心も若々しうけしからずとおぼしかへしてうち歎き給へるさまの物深うなまめかしきも心づきなうぞおぼしなりぬる。やはらづゝひき入り給ひぬる氣色なれば「あさましうも疎ませ給ひぬるかな。誠に心深き人は、かくこそあらざなれ。よし今よりにくませ給ふなよ。つらからむ」とて渡り給ひぬ。うちしめりたる御にほひとまりたるさへうとましくおぼさる。人々御格子など參りて「この御しとねのうつりがいひしらぬものかな。いかでかく取り集め柳の枝にさかせたる御有樣ならむ。ゆゝし」と聞えあへり。對にわたり給ひてとみにも入り給はずいたうながめて端近うふし給へり。とうろ遠くかけて近く人々さふらはせ給ひて物語などせさせ給ふ。かうあながちなる事に胸ふたがるすくせの猶ありけるよとわれながらおぼし知らる。これはいと似げなきことなり。恐しう罪深き方は多くまさりけめど、古のすきは思ひやりすくなき程のあやまちに、ほとけ神も免し給ひけむとおぼしさますも、猶この道はうしろやすく深き方のまさりけるかなとおぼし知らせ給ふ。女御は秋のあはれを知りがほにいらへ聞えけるも悔しうはづかしと御心ひとつに物むつかしう惱しげにさへし給ふを、いとすくよかにつれなくて常よりもおやがりありき給ふ。をんな君に「女御の秋に心をよせ給へりしもあはれに君の春の曙に心しめ給へるもことわりにこそあれ。時々につけたる木草の花によせても御心とまるばかりの遊びなどしてしがな。公私のいとなみしげきみこそふさはしからね。いかで思ふ事してしがなと唯御ためさうざうしくやと思ふこそ心苦しけれ」など語らひ聞え給ふ。山里の人も、いかになど絕えずおぼしやれど所せさのみまさる御身にて渡り給ふこといとかたし。世の中を味氣なく憂しと思ひ知る氣色などかさしも思ふべき。心やすく立ち出でゝおほざうの住ひはせじと思へるをおほけなしとはおぼすものからいとほしくて例の不斷の御念佛にことづけて渡り給へり。住み馴るゝまゝに、いと心すごげなる所のさまにいと深からざらむことにてだにあはれそひぬべし。まして見奉るにつけても、つらかりける御契のさすがに淺からぬを思ふに、なかなかにて慰め難き氣色なれば、こしらへかね給ふ。いと木しげき中より、篝火どものかげの、遣水の螢に見えまがふもをかし。「かゝるすまひにしほじまざらましかば、珍らかに覺えまし」との給ふに、

 「いさりせしかげ忘られぬかゞり火は身のうきふねや慕ひ來にけむ。思ひこそまがへられ侍れ」と聞ゆれば、

 「淺からぬしたの思ひを知らねばや猶かゞり火のかげはさわげる。たれうきもの」とおしかへしうらみ給ふ。大かたものしづかにおぼさるゝ頃なればたふとき事どもに御心とまりて、例よりは日ごろ經給ふにやすこし思ひまぎれけむとぞ。


槿

齋院は、御ぶくにており居給ひにきかし。おとゞ例のおぼしそめつること絕えぬ御くせにて、御とぶらひなどいとしげう聞え給ふ。宮煩はしかりしことをおぼせば御返りもうちとけて聞え給はず。いと口惜しとおぼしわたる。九月になりて桃園の宮に渡り給ひぬるを聞きて女五の宮のそこにおはすればそなたの御とぶらひにことつけてまうで給ふ。故院の子のみこたちをば心殊にやんごとなく思ひ聞え給へりしかば今も親しくつぎつぎに聞え交し給ふめり。同じ寢殿の西ひんがしにぞ住み給ひける。程もなく荒れにける心地して哀にけはひしめやかなり。宮たいめんし給ひて御物語聞え給ふ。いとふるめきたる御けはびしはぶきがちにおはす。このかみにおはすれど故おほ殿の宮はあらまほしくふりがたき御有樣なるをもてはなれ聲ふつゝかにこちごちしく覺え給へるもさるかたなり。「院のうへ崩れ給ひて後萬心ぼそく覺え侍りつるに年の積るまゝにいと淚がちにて過ぐしはべるをこの宮さへかくうちすて給へればいよいよあるかなきかにとまり侍るをかく立ち寄りとはせ給ふになむ物忘れしぬべく侍る」と聞え給ふ。かしこくもふり給へるかなと思へどうち畏まりて「院崩れ給ひて後はさまざまにつけて、同じ世のやうにも侍らず。覺えぬ罪にあたり侍りて知らぬよに惑ひ侍りしを、たまたまおほやけにかずまへられ奉りては又とりみだり暇なくなどして年頃も參りて、古の御物語をだに聞え承はらぬをいぶせく思ひ給へ渡りつゝなむ」など聞え給ふを「いともいともあさましく何方につけても定めなき世を同じさまにて見給へすぐす。命長さのうらめしき事多く侍れどかくて世に立ちかへり給へる御悅になむ、ありし年頃を見奉りさしてましかば、口惜しからましと覺え侍る」とうちわなゝき給ひて「いと淸らにねびまさり給ひにけるかな。わらはに物し給へりしを見奉りそめし時世にかゝる光の出でおはしたることゝ驚かれ侍りしを、時々見奉るだにゆゝしく覺え侍りてなむ。內のうへなむいとよく似奉らせ給へると人々聞ゆるをさりとも劣り給へらむとこそ推し量りはべれ」と長々と聞え給へば、殊にかくさし向ひて人の譽めぬわざかなとをかしくおぼす。「山がつになりていたう思ひくづほれ侍りし年頃の後こよなくおとろへにて侍るものを、內の御かたちは古の世にも並ぶ人なくやとこそあり難く見奉り侍れ。怪しき御おしはかりになむ」と聞え給ふ。「時々見奉らばいとゞしき命やのび侍らむ。今日は老も忘れうき世のなげき皆さめぬる心地なむ」とても又ない給ふ「三の宮うらやましくさるべき御ゆかりそひて親しく見奉り給ふを羨み侍る。このうせ給ひぬるも、さやうにこそ悔い給ふ折々ありしか」とのたまふにぞ、少し耳とまり給ふ。「さも侍ひなれなましかば今に思ふさまに侍らまし。指さし放たせ給ひて」とうらめしげに氣色ばみ聞え給ふ。あなたの御まへを見遣り給へればかれがれなる前栽の心ばへも殊に見渡されて、のどやかに眺め給ふらむ御有樣かたちもいとゆかしく哀にてえ念じ給はで「かくさぶらひたるついでを過ぐし侍らむは志なきやうなるをあなたの御とぶらひ聞ゆべかりけり」とてやがて簀子より渡り給ふ。暗うなりたる程なれど、にび色のみすに黑き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹きとほし、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ南の廂に入れ奉る。宣旨たいめんして御せうそこきこゆ。「今さらにわかわかしき心地する御簾の前かな。神さびにける年月のらう數へられ侍るに今は內外も許させ給ひてむとぞ賴み侍りける」とて飽かずおぼしたり。ありし世は皆夢になして今なむさめてはかなきにやと思ひ給へ定め難く侍るにらうなどはしづかにや定め聞えさすべう侍らむ」と聞え出し給へり。げにこそ定め難き世なれと、はかなき事につけてもおぼしつゞけらる。

 「人知れず神のゆるしを待ちしまにこゝらつれなき世をすぐすかな。人は何のいさめにかこたせ給はむとすらむ。なべて世に煩はしきことさへ侍りし後樣々に思ひ給へあつめしかな。いかで片端をだに」とあながちに聞え給ふ。御用意なども昔よりも今少しなまめかしきけさへそひ給ひにけり。さるはいといたう過ぐし給へど御位の程にはあはざめり。

 「なべて世のあはればかりをとふからに誓ひしことゝ神やいさめむ」とあれば「あなこゝろう、その世の罪は皆科戶の風にたぐへてき」との給ふ。あいぎやうもこよなし。「みそぎを神はいかゞ侍りけむ」などはかなき事を聞ゆるもまめやかにいと傍いたし。世づかぬ御有樣は年月にそへても物深くのみひき入り給ひてえ聞え給はぬを見奉りなやめり。「すきずきしきやうになりぬるを」など淺はかならずうち歎きて立ち給ふに「齡のつもりにはおもなくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを今ぞとだに聞えさすべくやはもてなし給ひける」とて出で給ふ名殘所せきまで例の聞えあへり。大方の空もをかしき程に木の葉の音なひにつけても過ぎにしものゝ哀とり返しつゝその折々をかしくもあはれにも深く見え給ひし御心ばへなども思ひ出で聞えさす。心やましくて立ち出で給ひぬるはまして寢覺がちにおぼし績けゝる。疾く御格子まゐらせ給ひて朝霧をながめ枯れたる花どもの中に朝顏のこれかれにはひまつはれてあるかなきかに咲きて匂も殊にかはれるを折らせ給ひて奉れ給ふ。「けざやかなりし御もてなしに人わろき心地し侍りて、うしろでもいとゞいかゞ御覽じけむとねたく。されど、

  見しをりの露忘られぬあさがほの花のさかりは過ぎやしぬらむ。年頃のつもりも哀とばかりはさりともおぼし知るらむとなむ。かつは」など聞え給へり。おとなび給へる御文の心ばへに、おほつかなからむも見知らぬやうにやとおぼし、人々も御硯とりまかなひて聞ゆれば、

 「秋はてゝ露のまがきにむすぼゝれあるかなきかにうつるあさがほ。似つかはしき卸よそへにつけても露けく」とのみあるは何のをかしきふしもなきをいかなるにかおき難く御覽ずめり。靑にびの紙のなよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど書きざまなどにつくろはれつゝ、その折は罪なきこともつきづきしうまねびなすにはほゝゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛はしつゝ覺束なき事も多かりけり。立ちかへも今さらにわかわかしき御ふみがきなども似げなき事とおぼせど猶かく昔よりもてはなれぬ御氣色ながら、口をしくて過ぎぬるを思ひつゝえやむまじく思さるればさらがへりてまめやかに聞え給ふ。ひんがしの對にはなれおはして宣旨を迎へつゝ語らひ給ふ。さぶらふ人々のさしもあらぬきはの事をだに靡きやすなるなどは過ちもしつべくめで聞ゆれど宮はそのかみだにこよなく覺し離れたりしを今はまして誰も思ひなかるべき御齡覺えにてはかなき木草につけたる御かへりなどの折過ぐさぬもかるがるしくやとりなさるらむなど人の物いひを憚り給ひつゝうちとけ給ふべき御氣色もなければ、ふりがたく同じさまなる御心ばへを世の人にかはり珍しくもねたくも思ひ聞え給ふ。世の中に漏り聞えて、前齋院にねんごろに聞え給へばなむ女五の宮などによろしく思したなり。「似げなからぬ御あはひならぬ」などいひけるを、對の上は傳へ聞き給ひてしばしはさりともさやうならむこともあらば隔てゝはおぼしたらじとおぼしけれどうちつけに目留め聞え給ふに、御氣色なども例ならずあくがれたるも心うくまめまめしくおぼしなるらむことを、つれなく戯れにいひなし給ひけむよと同じすぢには物し給へど、覺え殊に昔よりやんごとなく聞え給ふを御心などうつりなばはしたなくもあべいかなと、年頃の御もてなしなどは立ち並ぶ方なくさすがにならひて人におしけたれむことなど人知れずおぼし歎かる。かきたえ名殘なきさまにはもてなし給はずともいと物はかなきさまにて見馴れ給へる年頃のむつびあなづらはしき方にこそはあらめなど樣々に思ひ亂れ給ふに、よろしき事こそうちゑじなどにくからず聞え給へ、まめやかにつらしとおぼせば色にも出し給はず。端近うながめがちに、內ずみしげくなり、役とは御文を書き給へばげに人の事は空しかるまじきなめり。氣色をだにかすめ給へかしとうとましくのみ思ひ聞え給ふ。冬つ方かんわざなどもとまりてさうざうしきに徒然とおぼしあまりて五の宮に例の近づき參り給ふ。雪うち散りて艷なるたそがれ時に、なつかしき程になれたる御ぞどもをいよいよたきしめ給ひて心ことにけさうじ暮し給へれば、いとゞ心弱からむ人はいかゞと見えたり。さすがにまかり申しはた聞え給ふ。「女五の宮のなやましくし給ふなるをとぶらひ聞えになむ」とてつひ居給へれば見もやり給はず。若君ともてあそび紛はしおはするそばめのたゞならぬを「怪しく御氣色の變れる頃かな。罪もなしや。しほやき衣のあまりめなれみだてなくおぼさるゝにや」とてとだえおくを「又いかゞ」など聞え給へば「なれ行くこそげにうき事多かりけれ」とばかりにてうち背きて臥し給へるは見捨てゝ出で給ふ道物うけれど宮に御せうそこ聞え給ひてければ出で給ひぬ。かゝりける事もありける世をうらなくて過ぐしけるよと思ひ續けて臥し給へり。にびたる御ぞどもなれど色あひ重なり好ましく、なかなか見えて雪の光にいみじく艷なる御姿を見出して、誠にかれまさり給はゞと思ひあへずおぼさる。ごぜんなど忍びやかなるかぎりして「うちよりほかのありきは物うき程になりにけりや。桃園の宮の心細きさまにて物し給ふ式部卿の宮に年頃は讓り聞えつるを今は賴むなと思しのたまふもことわりにいとほしければ」など、人々にものたまひなせど「いでや御すき心のふり難きぞあたら御暇なめる。かるがるしきことも出で來なむ」などつぶやきあへり。宮には北おもての人繁き方なる御門は入り給はむもかろがろしければ、西なるがことごとしきを人入れさせ給ひて宮の御方に御せうそこあれば今日しも渡り給はじとおぼしけるを驚きてあけさせ給ふ。御門守寒げなるけはひうすゞき出で來てとみにもえあけやらず。これより外のをのこはたなきなるべし。ごほごほと引きて「錠のいといたくさびにければあかず」とうれふるを哀と聞しめす。昨日今日とおぼす程に、三十年のあなたにもなりにける世かな、かゝるを見つゝかりそめのやどりをえ思ひすてず、木草の色にも心をうつすよとおぼし知らる。くちすさびに、

 「いつのまに蓬がもとゝむすぼゝれ雪ふる里と荒れしかき根ぞ」。やゝ久しくひこしろひあけて入り給ふ。宮の御方に、例の御物語聞え給ふにふることゞものそこはかとなきうちはじめ聞え盡し給へど御耳も驚かずねぶたきに宮もあくびうちし給ひて「よひまどひをし侍れば、物もえ聞えやらず」とのたまふほどもなく鼾とか聞き知らぬ音すれば喜びながら立ち出で給はむとするに、又いと古めかしきしはぶきうちして參りたる人あり。「かしこけれど、聞しめしたらむと賴み聞えさするを世にあるものともかずまへさせ給はぬになむ。院の上をばおとゞと笑はせ給ひし」など名のり出づるにぞおぼし出づる。源內侍のすけといひし人は尼になりてこの宮の御弟子にて行ふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知り給はざりつるをあさましうなりぬ。「その世の事は皆昔がたりになり行くを遙に思ひ出づるも心細きにうれしき御聲かな。親なしにふせる旅人とはぐゝみ給へかし」とて寄り居給へる御けはひにいとゞ昔思ひ出でつゝ、ふりがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき思ひやらるゝこわづかひの流石にしたつきにてうちざれむとは猶思へり。云ひこし程になど聞えかゝるまばゆさよ。今しもきたる老のやうになどほゝゑまれ給ふものからひきかへこれも哀なり。このさかりにいどみし女御更衣、あるはひたすらなくなり給ひあるはかひなくてはかなき世にさすらへ給ふもあべかめり。入道の宮などの御齡ひよ、あさましとのみおぼさるゝ世に、年のほど身の殘少なげさに心ばへなども物はかなく見えし人のいきとまりてのどやかに行ひをもうちして過ぐしけるは猶すべて定めなき世なりとおぼすに、物哀なる御氣色を心ときめきに思ひてわかやぐ。

 「年經れどこのちぎりこそわすられぬ親のおやとかいひしひとこと」と聞ゆればうとましくて

 「身をかへて後も待ち見よこの世にて親を忘るゝ例ありやと。たのもしき契ぞや。今のどかにぞ聞えさすべき」とて立ち給ひぬ。西おもてには御格子參りたれど厭ひ聞えがほならむもいかゞとて一ま二まはおろさず、月さし出でゝ薄らかに積れる雪の光にあひてなかなかいと面白き夜のさまなり。ありつる老らくの心げさうもよからぬものゝ世のたとひとか聞きしとおぼし出でられてをかしくなむ。今宵はいとまめやかに聞え給ひて「ひとことにくしなども、人づてならでのたまはせむを思ひたゆるふしにもせむ」とおり立ちてせめ聞え給へど、昔われも人も若やかに罪免されたりし世にだに故宮などの心よせおぼしたりしを、猶あるまじくはづかしと思ひ聞えてやみにしを、世のすゑにさだすぎ、つきなきほどにて一聲もいとまばゆからむとおぼして、更に動きなき御心なれば、あさましうつらしと思ひ聞え給ふ。流石にはしたなくさし放ちてなどはあらぬ人づての御返りなとぞ心やましきや。夜もいたう更け行くに風のけはひ烈しくて誠にいと物心ほそく覺ゆればさまよき程におしのごひ給ひて、

 「つれなさを昔にこりぬ心こそ人のつらさにそへてつらけれ。心づから」との給ひすさぶるを、げに傍いたしと人々例の聞ゆ。

 「あらためて何かは見えむ人のうへにかゝりと聞きし心がはりを。昔に變る事は習はず」と聞え給へり。いふかひなくていとまめやかにゑじ聞えて出で給ふもいと若々しき心地し給へば、「いとかく世のためしになりぬべき有樣漏し給ふなよ。ゆめゆめいさら川などもなれなれしや」とて切にうちさゝめき語らひ給へど何事にかあらむ。人々も「あなかたじけな。あなかちになさけ後れてももてなし聞え給ふらむかるらかにおし立ちてなどは見え給はぬ御氣色を、心苦しう」といふ。げに人の程のをかしきにも哀にもおぼし知らぬにはあらねど、物思ひ知るさまに見え奉るとて、おしなべての世の人のめで聞ゆらむつらにや思ひなされむ。かつはかるがるしき心の程も見知り給ひぬべく、耻しげなめる御有樣をとおぼせば、懷しからむなさけもいとゞあいなし。よその御返りなどうち絕えて覺束なかるまじき程に聞え給ふ。人傳の御いらへはしたなからで過ぐしてむ、年頃しづみつる罪失ふばかり、御おこなひをとはおぼし立てど、俄にかゝる御事をしも、もてはなれ顏にあらむもなかなか今めかしきやうに見え聞えて人のとりなさじやはと世の人の口さがなさをおぼし知りにしかばかつはさぶらふ人にもうちとけ給はず。いたう御心づかひし給ひつゝやうやう御行ひをのみし給ふ。御はらからのきん達あまたものし給へど、ひとつ御腹ならねばいとうとうとしく宮の內いとかすかになりゆくまゝにさばかりめでたき人のねんごろに御心を盡し聞え給へば皆人心をよせ聞ゆるもひとつ心と見ゆ。おとゞはあながちにおぼしいらるゝにしもあらねど、つれなき御氣色のうれたきにまけて止みなむも口惜しくげにはた人の御有樣世のおぼえ殊にあらまほしく物を深くおぼし知り世の人のとあるかゝるけぢめも聞き集め給ひて昔よりもあまた經まさりておぼさるれば今さらの御あだげもかつは世のもどきをもおぼしながら、むなしからむはいよいよ人笑へなるべし、いかにせむと御心動きて二條院に夜がれ重ね給ふををんな君は、戯ぶれにくゝのみおぼす。忍び給へど、いかゞうちこぼるゝ折もなからむ。「怪しく例ならぬ御氣色こそ心得がたけれ」とてみぐしをかきやりつゝいとほしとおぼしたるさまも繪に書かまほしき御あはひなり。「宮うせ給ひて後上のいとさうざうしげにのみ世をおぼしたるも心苦しう見奉る。おほきおとゞも物し給はで、見ゆづる人なき事しげさになむ。この程の絕間などを見習はぬことにおぼすらむもことわりに哀なれど、今はさりとも心のどかにおぼせ。おとなび給ひためれどまだいと思ひやりもなく人の心も見知らぬさまに物し給ふこそらうたけれ」などまろかれたる御ひたひ髮ひきつくろひ給へどいよいよ背きて物もに聞え給はず。「いといたく若び給へるはたがならはし聞えたるぞ」とて常なき世にかくまで心おかるゞも味氣なのわざやとかつはうちながめ給ふ。「齋院にはかなしごと聞ゆるや。もし思し僻むるかたある、それはいともてはなれたることぞよ。おのづがら見給ひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるをさうざうしき折々たゞならで聞えなやますに、彼處も徒然に物し給ふ所なればたまさかの御いらへなどし給へどまめまめしきさまにもあらぬをかくなむあるとしもうれへ聞ゆべき事にやは。後めたうはあらじとを思ひなほし給へ」など日一日慰め聞え給ふ。雪の痛う降り積りたる上に今も散りつゝ松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に人の御かたちも光まさりて見ゆ。「時々につけても人の心をうつすめる花紅葉のさかりよりも冬の夜のすめる月に雪の光りあひたる空こそ怪しう色なきものゝ身にしみてこの世の外の事まで思ひ流され面白さも哀さも殘らぬをりなれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の心あさゝよ」とてみす卷きあげさせ給ふ。月は隈なくさし出でゝひとつ色に見え渡されたるにしをれたる前栽のかげ心苦しう遣水もいと痛うむせびて池の氷もえもいはずすごきに、わらはべおろして雪まろばしせさせ給ふ、をかしげなる姿かしらつきども月にはえて大きやかになれたるがさまざまの衵亂れ着、帶しどけなき宿直姿なまめいたるに、こよなう餘れる髮の末、白き庭にはましてもてはやしたるいとけざやかなり。小きはわらはげて喜びはしるに扇なども落してうちとけ顏をかしげなり。いと多うまろばさむてとふくつけがれどえも押し動かさでわぶめり。かたへは東のつまなどに出で居て心もとなげに笑ふ。一とせ中宮の御まへに雪の山造られたりし世にふりたることなれど猶珍しくもはかなき事をしなし給へりしかな。何の折々につけても口惜しう飽かずもあるかな。いとけどほくもてなし給ひてくはしき御有樣を見ならし奉りしことはなかりしかど御まじらひの程に後やすきものにはおぼしたりきかし。うち賴み聞えてとある事かゝる折につけて何事も聞え通ひしに、もて出でゝらうらうしき事も見え給はざりしかど、いふかひありて思ふさまにはかなき事わざをもしなし給ひしはや。世に又さはかりのたぐひありなむや。やはらかにおびれたるものから深う由づきたる所の並びなく物し給ひしを君こそはさいへど紫のゆゑこよなからず物し給ふめれど少し煩はしきけそひてかどかどしさのすゝみ給へるや苦しからむ。前齋院の御心ばへは又さまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とかはなくとも聞え合せわれも心づかひせらるべき御あたり唯このひとゝころや世に殘り給へらむ」とのたまふ。「ないしのかみこそはらうらうしくゆゑゆゑしき方は人にまさり給へれ。淺はかなるすぢなどもてはなれ給へりける人の御心を怪しくもありける事どもかな」とのたまへば「さかし。なまめかしうかたちよき女のためしには猶引き出づべき人ぞかし。さも思ふにいとほしく悔しきことの多かるかな。まいてうちあたけすぎたる人の年積り行くまゝにいかに悔しきこと多からむ。人よりはこよなきしづけさと思ひしだに」などのたまひ出でゝ、かんの君の御ことにも淚少しはおとし給ひつ。「この數にもあらずおとしめ給ふ山里の人こそは身のほどにはやゝうちすぎ物の心などえつべけれど人より異なるべきものなれば思ひあがれるさまをも見けちて侍るかな。いふかひなききはの人はまだ見ず。人は勝れたるは難き世なりや。東の院にながむる人の心ばへこそふりがたくらうたけれ。さはた更にえあらぬものをさる方につけての心ばせ人にとりつゝ見そめしより同じやうに世をつゝましげに思ひて過ぎぬるよ。今はたかたみに背くべくもあらず。深う哀と思ひ侍る」など昔今の御物語に夜ふけゆく。月いよいよすみて靜におもしろし。女君

 「氷とぢいしまの水はゆきなやみそらすむ月のがけぞながるゝ」。とを見出して少し傾き給へるほど似る物なく美しげなり。かんざしおもやうの戀ひ聞ゆる人の面かげにふとおぼえてめでたければいさゝかわくる御心もとりかへしつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、

 「かきつめてむかし戀しき雪もよに哀をそふるをしのうきねか」。入り給ひても宮の御車を思ひつゝ大殿籠れるに夢ともなくほのかに見奉るをいみじく恨み給へる御氣色にて、もらさじとのたまひしかどうき名のかくれなかりければ耻しう苦しきめを見るにつけてもつらくなむ」との給ふ。御いらへ聞ゆとおぼすにおそはるゝ心地してをんな君の「こはなどかくは」との給ふに、驚きていみじく口惜しく胸のおき所なくさわげば、おさへて淚も流れ出でにけり。今もいみじくぬらしそへ給ふ。をんな君、いかなることにかとおぼすに、うちもみじろかで臥し給へり。

「とけて寢ぬねざめさびしき冬の夜にむすぼゝれつる夢のみじかさ」なかなか飽かず悲しとおほすに、疾く起き給ひてさとはなくて所々に御ず經などせさせ給ふ。苦しきめ見せ給ふと恨み給へるもさぞおぼさるらむかし。おこなひをし給ひ萬に罪かろげなりし御有樣ながらこのひとつことにてこの世の濁をすゝぎ給はざらむと、物の心を深くおぼしたどるに、いみじく悲しければ何わざをしてしるべなき世界におはすらむをとぶらひ聞えにまうでゝ罪にもかはり聞えばやなどつくづくとおぼす。かの御ためにとり立てゝ何わざをもし給はむは人とがめ聞えつべし。內にも御心のおにゝ、思す所やあらむとおぼしつゝむほどに、阿彌陀ほとけを心にかけて念じ奉り給ふ。「おなじはちすにとこそは、

 なき人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬ水の瀨にやまどはむ」とおぼすぞうかりけるとや。


少女

年かはりて宮の御はても過ぎぬれば、世の中色あらたまりてころもがへのほどなども今めかしきを、まして祭の頃は大かたの空の景色心ちよげなるに前齋院はつれづれと眺め給ふ。おまへなる桂の下風懷しきにつけても若き人々は思ひ出づる事どもあるを、大殿より御禊の日はいかにのどかにおぼさるらむととぶらひ聞えさせ給へり。「今日は、

  かけきやは川瀨の波もたちかへり君がみそぎのふぢのやつれを」。紫の紙たてぶみすくよかに藤の花につけ給へり。折のあはれなれば御かへりあり。

 「ふぢ衣きしは昨日と思ふまに今日はみそぎの瀨にかはる世を。はかなく」とばかりあるを例の御目とゞめ給ひて見おはす。御ぶくなほしの程などにも、せんじのもとに所せきまでおぼしやれる事どもあるを院は見苦しきことにおもほしのたまへどをかしやかに氣色ばめる御文などのあらばこそとかくも聞えかへさめ、年比もおほやけざまの折々の御とぶらひなどは聞えならはし給ひていとまめやかなればいかゞは聞えも紛はすべからむともて煩ふべし。女五の宮の御方にもかやうに折過ぐさず聞え給へば「いと哀にこの君の昨日今日のちごと思ひしをかくおとなびてとぶらひ給ふこと、かたちのいとも淸らなるにそへて心さへこそ人にはことにおひ出で給へれ」と譽め聞え給ふを若き人々は笑ひ聞ゆ。こなたにもたいめし給ふ折は、「このおとゞのかくねんごろに聞え給ふめるをなにか、今始めたる御志にもあらず、故宮もすぢことになり給ひてえ見奉り給はぬ歎をし給ひては思ひ立ちしことをあながちにもてはなれ給ひし事などのたまひ出でつゝ、悔しげにこそおぼしたりし折々ありしか。されど故大殿の姬君物せらし限は三の宮の思ひ給はむことのいとほしさにとかくことそへ聞ゆる事もなかりしなり。今はそのやんごとなくえさらぬ筋にて物せられし人さへなくなられにしかばげになどてかはさやうにておはせましも惡しからましとうち覺え侍るにもさらがへりてかくねんごろに聞え給ふも、さるべきにもあらむとなむ思ひ侍る」など、いと古代に聞え給ふを心づきなしとおぼして「故宮にもしか心ごはきものに思はれ奉りて過ぎ侍りにしを今更に又世に靡き侍らむもいとつきなき事になむ」と聞え給ひて耻しげなる御氣色なれば强ひてもえ聞えおもむけ給はず。宮人もかみしも皆心かけ聞えたれば世の中いと後めたくのみおぼさるれど、かの御自らは我が心をつくし、哀を見え聞えて人の御氣色のうちもゆるがむ程をこそ待ちわたり給へ。さやうにあながちなるさまに御心破り聞えむなどはおぼさゞるべし。大殿ばらの若君の御元服のことおぼし急ぐを二條院にてとおぼせど大宮のいとゆかしげにおぼしたるもことわりに心苦しければ猶やがてかの殿にてせさせ奉り給ふ。右大將殿をはじめ聞えて御をぢの殿ばら皆上達部のやんごとなき御覺えことにてのみ物し給へばあるじ方にもわれもわれもとさるべき事ども、とりどりに仕うまつり給ふ。大かた世ゆすりて所せき御いそぎのいきほひなり。四位になしてむとおぼし、世の人もさぞあらむと思へるを、まだいときびはなる程を、我が心に任せたる世にて、しかゆくりかなからむも、なかなかめなれたる事なりとおぼし留めつ。淺黃にて殿上に還り給ふを、大宮は飽かずあさましきことゝおぼしたるぞことわりにいとほしかりける。御たいめんありてこの事聞え給ふに「只今かう强ちにしもまたきに追ひつかすまじう侍れど思ふやう侍りて、大學の道にしばしならはさむのほい侍るにより今二三年を徒らの年に思ひなしておのづからおほやけにも仕うまつりぬべき程にもならば今ひとゝなり侍りなむ。みづからは九重の內に生ひ出で侍りて世の中の有樣もしり侍らず、よるひる御まへにさぶらひて僅になむはかなき文なども習ひ侍りし。たゞ畏き御手より傅へ侍りしだに何事も廣き心を知らぬ程はもんざいまねぶにも琴笛のしらべにもねたらず及ばぬ所の多くなむ侍りける。はかなき親に賢き子の優るためしはいと難きことになむ侍れば、まして次々傳はりつゝ隔たりゆかむほどの行くさきいと後めたきによりなむおもう給へおきて侍る。たかき家の子として、つかさかうふり心にかなひ、世の中盛に驕りならひぬれば學問などに身を苦めむことはいと遠くなむ覺ゆべかめる。たはぶれ遊を好みて、心のまゝなる官じやくに上りぬれば時に隨ふ世の人のしたにははなまじろきをしつゝつゐせうし氣色とりつゝ隨ふほどは、おのづから人と覺えてやんごとなきやうなれど時移りさるべき人に立ち後れて世衰ふる末には人にかるめあなづらるゝにかゝり所なきことになむ侍る。猶ざえを本としてこそ大和魂の世に用ゐらるゝ方もつよう侍らめ。さしあたりては心もとなきやうに侍りともつひの世のおもしとなるべき心おきてをならひなば、侍らずなりなむ後も後安かるべきによりなむ、只今ははるばるしからずながらもかくてはぐゝみ侍らばせまりたる大學の衆とて笑ひあなづる人もよも侍らじと思う給ふる」など聞え知らせ給へば、うち歎き給ひて、「げにかくもおぼしよるべかりけるを、この大將などもあまりひき違へたる御事なりと傾き侍るめるを、この幼心地にもいと口惜しく大將左衞門督の子どもなどを我よりは下臈と思ひおとしたりしだに皆各加階しのぼりつゝおよすげあへるに淺黃をいとからしと思はれたるが心苦しう侍るなり」と聞え給へばうち笑ひ給ひて「いとおよすけても恨み侍るなりな。いとはかなしや。この人のほどよ」とて、いとうつくしとおぼしたり。「學問などして、少し物の心もえ侍らばその恨はおのづから解け侍りなむ」と聞え給ふ。あざなつくることはひんがしの院にてし給ふ。ひんがしの對をしつらはれたり。上達部殿上人珍しくいぶかしきことにしてわれもわれもと集ひ參り給へり。博士どもゝなかなか臆しぬべし。「憚る所なく例あらむに任せてなだむることなくきびしう行へ」と仰せ給へば、しひてつれなく思ひなして、家より外に求めたるさう束どものうちあはずかたくなしき姿などをもはぢなくおもゝちこわづかひうべうべしくもてなしつゝ座につき並びたる作法より初め、見も知らぬさまどもなり。若ききんだちはえ堪へずほゝゑまれぬ。さるは物笑ひなどすまじくすぐしつゝ靜まれる限をとえり出して、甁子なども取らせ給へれどすぢ異なりける交らひにて右大將民部卿などのおふなおふなかはらけとり給へるを淺ましう咎め出でつゝおろす。「おぼしかいもとあるじはなはだ非ざうに侍りたうぶ。かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてやおほやけには仕う奉り給ふ。はなはだをこなり」などいふに人々皆ほころびて笑ひぬれば「又なり高し、なり止まむ。はなはだ非ざうなり。座をひきて立ちたうびなむ」などおどしいふもいとをかし。見ならひ給はぬ人々は珍しく興ありと思ひ、この道より出で立ち給へる上達部などはしたり顏にうちほゝゑみなどしつゝかゝる方ざまをおぼし好みて心ざし給ふがめでたきことと限なく思ひ聞え給へり。聊か物いふをも制す。なめげなりとても咎む。かしかましう詈り居る顏どもゝ夜に入りてはなかなか今少しけちえんなる火影に猿がうがましく侘しげに人わろげなるなどさまざまにげにいとなべてならずさま異なるわざなりけり。おとゞは「いとあざれかたくなゝる身にてけうさうしまどはされなむ」との給ひてみすの內に隱れてぞ御覽じける。數定まれる座に着きあまりて歸りまかづる大學の衆どもあるを聞しめして釣殿の方に召し留めて殊に物など賜はせけり。事はてゝまかづる博士才人どもめして又々文作らせ給ふ。上達部殿上人もさるべき限をば皆とゞめさぶらはせ給ふ。博士の人々は四韻、たゞの人は大臣をはじめ奉りてぜく作り給ふ。興ある題のもじえりてもんさう傅士奉る。短きころの夜なれば明けはてゝぞ講ずる。左中辨講じ仕うまつる。かたちいと淸げなる人のこわづかひものものしくかんさびて讀みあげたる程いと面白し。おぼえ心ことなる博士なりけり。かゝるたかき家に生れ給ひて、世界の榮花にのみたはぶれ給ふべき御身をもちて窓の螢をむつび枝の雪をならし給ふ志のすぐれたるさまを萬の事によそへなずらへて心々に作り集めたる、何ごとに面白く、唐土にももて渡り傳へまほしげなる世の文どもなりとなむそのころ世にめでゆすりける。おとゞの御は更なり、親めき哀なる事さへすぐれたるを淚おとしてずじさわぎしかど女のえ知らぬ事まねぶはにくきことをとうたてあれば漏しつ。うちつゞき入學といふ事せさせ給ひてやがてこの院の內に御曹子作りてまめやかにざえ深き師にあづけ聞え給うてぞ學問せさせ奉り給ひける。大宮の御許にもをさをさ參うで給ばず、よるひるうつくしみて、猶ちごのやうにのみもてなし聞え給へれば彼處にてはえ物習ひ給はじとて靜なる所に籠め奉り給へるなりけり。月に三度ばかりを參り給へとぞ許し聞え給ひける。つと籠り居給ひていぶせきまゝに殿をつらくもおはしますかな、かく苦しからでも高き位にのぼり世に用ゐらるゝ人はなくやはあると思ひ聞え給へど大方の人がらまめやかにあだめきたる所なくおはすればいと能く念じていかでさるべき文ども疾く讀みはてゝまじらひもし世にも出でたらむと思ひて唯四五月の中に史記などいふふみは讀みはて給ひてけり。今は寮試うけさせむとてまづ我が御まへにて心みせさせ給ふ。例の大將左大辨式部の大輔左中辨などばかりして御師の大內記を召して史記のかたき卷々れうし受けむに博士のかへさうべき節々を引き出でゝひとわたり讀ませ奉り給ふに至らぬ隈なくかたがたに通はし讀み給へるさまつまじるし殘らずあさましきまでありがたければさるべきにこそおはしけれと誰も誰も淚落し給ふ。大將はまして、「故大臣おはせましかば」と聞え出でゝ泣き給ふ。殿もえ心强うもてなし給はず「人の上にてかたくなゝりと見聞き侍りしを子のおとなぶるに親の立ちかはりしれ行くことは幾何ならぬ齡ながらかゝる世にこそ侍りけれ」などの給ひておしのごひ給ふを見る御師の心ち嬉しくめいぼくありと思へり。大將盃さし給へば、いたう醉ひしれてをる顏つきいとやせやせなり。也のひがものにてざえの程よりは用ゐられず、すげなくて身貧しくなむありけるを御覽じうる所ありてかくとりわき召し寄せたるなりけり。身に餘るまで御かへりみを給はりてこの君の御德にたちまちに身をかへたると思へばまして行くさきは並ぶべき人なき御覺えぞあらむかし。大學に參り給ふ日は寮門に上達部の御車ども數しらず集ひたり。大方世に殘りたる人あらじと見えたるに又なくもてかしづかれて繕はれ入り給へるくわざの君の御樣げにかゝる交らひには堪へずあてに美しげなり。例の怪しき者共の立ちまじりつゝ來居たる座の末をからしと思すぞいとことわりなるや。こゝにても又おろしのゝしるものどもありてめざましけれど少しも臆せず讀みはて給ひつ。昔覺えて大學の榮ゆる頃なればかみなかしもの人我も我もとこの道に志し集まればいよいよ世の中にざえありはかばかしき人多くなむありける。もんにんぎさうなどいふなる事どもよりうちはじめ、すがすがしうしはて給へれば偏に心に入れて師も弟子もいとゞ勵まし給ふ。殿にも文作りしげく博士才人ども所えたり。すべて何事につけても道々のざえの程顯はるゝ世になむありける。

かくてきさき居給ふべきを齋宮の女御をこそは母君も御後見とゆづり聞え給ひしかばとおとゞもことづけ給ふ。源氏のうちしきり后に居給はむこと世の人免し聞えず。弘徽殿のまづ人より先に參り給ひにしもいかゞなどうちうちに此方彼方に心よせ聞ゆる人々覺束ながり聞ゆ。兵部卿の宮と聞えし今は式部卿にてこの御時にはましてやんごとなき御覺えにておはする御むすめほいありて參り給へり。同じごと王女御にてさぶらひ給ふを同じくは御母かたにて親しくおはすべきにこそ、母きさきのおはしまさぬ御かはりの後見にとことよせて似つかはしかるべくととりどりにおぼし爭ひたれど猶梅壺居給ひぬ。御さいはひのかく引きかへ勝れ給へりけるを世の人驚き聞ゆ。おとゞ太政大臣にあがり給ひて大將內大臣になり給ひぬ。世の中の事どもまつりごち給ふべく讓り聞え給ふ。人がらいとすくよかにきらきらしくて心もちゐなども畏く物し給ふ。學問を立てゝし給ひければ、韻ふたぎには負け給ひしかど、公事にかしこくなむ。腹々に御子ども十餘人おとなびつゝ物し給ふも次々になり出でつゝ、劣らず榮えたる御家のうちなり。むすめは女御と今一所となむおはしける。わかんどほり腹にてあてなるすぢは劣るまじけれどその母君あぜちの大納言の北の方になりてさし向ひたる子どもの數多くなりてそれに任せて後の親に讓らむ、いとあいなしとてとり放ち聞え給ひて大宮にぞ預け聞え給へりける。女御にはいとこよなく思ひおとし聞え給へれど人がらかたちなどいと美しうぞおはしたる。くわざの君一つにて生ひ出で給ひしかど各十に餘り給ひて後は、御方ことにて睦ましき人なれど、をのこ子にはうちとくまじきものなりと父おとゞ聞え給ひて、けどほくなりにたるを、幼心地に思ふ事なきにしあらねばはかなき花紅葉につけても、ひゝな遊のつゐせうをもねんごろにまつはれありきて、志を見え聞へ給へばいみじう思ひかはしてけざやかには今も耻ぢ聞え給はず。御後見どもゝ何かは若き御心どちなれば年頃見ならひ給へる御あはひを俄にもいかゞはもてはなれはしたなめ聞えむと見るに、をんな君こそ何心なくをさなくおはすれどをとこはさこそ物げなき程と見聞ゆれ。おほけなくいかなる御なからひにかありけむ、よそよそになりてはこれをぞ靜心なく思ふべき。まだ片おひなる手のおひさき美しきにて書きかはし給へる文どもの心をさなくておのづから落ち散る折あるを、御方の人はほのぼの知れるもありけれど何かはかくこそと誰にも聞えむ、見かくしつゝあるべし。所々のだいきやうどもゝはてゝ世の中の御いそぎもなくのどやかになりぬる頃時雨うちして荻のうは風もたゞならぬ夕暮に大宮の御方に內のおとゞ參り給ひて姬君わたし聞え給ひて御琴など彈かせ奉り給ふ。宮は萬の物の上手におはすればいづれも傅へ奉り給ふ。「琵琶こそをんなのしたるににくきやうなれどらうらうじきものに侍れ。今の世にまことしう傳へたる人をさをさ侍らずなりにたり」何のみこくれの源氏など數へ給ひて「をんなの中にはおほきおとゞの山里にこめ置き給へる人こそいと上手と聞き侍れ。物の上手の後には侍れど末になりて山賤にて年經たる人いかでさしも引き勝れけむ、かのおとゞいと心ことにこそ思ひてのたまふ折々はべれ、異事よりはあそびの方のさえは猶ひろうあはせ彼此に通はし侍るこそかしこけれ。ひとりごとにて上手となりけむこそ珍しきことなれ」などのたまひて宮にそゝのかし聞え給へば「ぢうさすことうひうひしくなりにけりや」とのたまへどおもしろう彈き給ふ。「幸にうち添へて猶怪しうめでたかりける人なりや。をひの世にもたまへらぬをんなごを設けさせ奉りて身に添へてもやつし居たらず。やんごとなきに讓れる心おきて事もなかるべき人なりとぞ聞き侍る」などかつ御物語聞え給ふ。「をんなは唯心ばせよりこそ、世に用ゐらるゝものに侍りけれ」など人の上のたまひ出でゝ「女御をけしうはあらず何事も人に劣りてはおひ出でずかしと思ひ給ひしかど、思はぬ人におされぬる宿世になむ世は思の外なるものと思ひ侍りぬる。この君をだにいかで思ふさまに見なし侍らむ。春宮の御元服只今のことになりぬるをと、人しれず思ひ給へ心ざしたるを、かういふさいはひ人の腹の后がねこそ又おひすがひぬれ。立ち出で給へらむに、ましてきしろふ人ありがたくや」とうち歎き給へば「などかさしもあらむ。この家にさるすぢの人いで物し給はで、止むやうあらじと故大臣のおもひ給ひて女御の御事をもゐたち急ぎ給ひしものをおはせましかば、かくもて僻むる事もなからまし」など、この御事にてぞおほきおとゞを怨めしげに思ひ聞え給へる。姬君の御さまのいときびはに美しうて箏の御琴彈き給ふを御ぐしのさがりば、かんざしなどのあてになまめかしきをうちまもり給へば耻ぢらひて少しそばめ給へる、傍めつらつき美しげにてとりゆの手つきいみじうつくりたるものゝ心ちするを宮も限なく悲しとおぼしたり。搔き合せなど彈きすさび給ひて押しやり給ひつ。おとゞ和琴ひき寄せ給ひてりちのしらべのなかなか今めきたるをさる上手のみだれてかい彈き給へるいとおもしろし。おまへの梢ほろほろと殘らぬに老御達などこゝかしこの御几帳の後に頭をつどへたり。「風の力蓋し寡し」とうちずじ給ひて「きんの手ならねど怪しく物あはれなる夕かな。猶あそばさむや」とて秋風樂にかき合せてさう歌し給へる聲いとおもしろければ、皆さまざまおとゞをもいとうつくしと思ひ聞え給ふに、いとゞそへむとにやあらむ、くわざの君參り給へり。「こなたに」とて御几帳隔てゝ入れ奉り給へり。「をさをさ對面もえ給はらぬかな、などかくこの御學問のあながちならむ。ざえの程々より餘りぬるもあぢきなきわざとおとゞもおぼし知れることなるを、かくおきて聞え給ふやうあらむとは思う給へながら、かう籠りおはすることなむ心苦しう侍る」と聞え給ひて「時々はことわざし給へ。笛の音にもふることは傳はるものなり」とて御笛奉り給ふ。いと若うをかしげなる音に吹きたてゝいみじうおもしろければ御琴どもをばしばしとゞめておとゞははうしおどろおどろしからずうち鳴らし給ひて萩が花ずりなどうたひたまふ。「大殿もかやうの御遊に心とゞめ給ひていそがしき御政どもをば遁れ給ふなりけり。げにあぢきなき世に心の行くわざをしてこそすぐし侍りなまほしけれ」などのたまひて、御かはらけ參り給ふに暗うなればおほとなぶらまゐり、御湯漬くだものなど誰も誰も聞しめす。姬君はあなたに渡し奉り給ひつ。强ひてけどほくもてなし給ひ御琴の音ばかりをも聞かせ奉らじと今はこよなくへだて聞え給ふを「いとほしき事ありぬべき世なるにこそ」と近う仕うまつる大宮の御方のねび人どもさゝめきけり。おとゞ出で給ひぬるやうにて忍びて人に物のたまふとて立ち給へりけるを、やをらかいほそりて出で給ふ道にかゝるさゝめきごとをするに怪しうなり給ひて御耳とゞめ給へばわが御上をぞいふ。「かしこがり給へど人の親よ、おのづからをれたることこそ出でくべかめれ。子を知るはといふは空言なめり」などぞつきじろふ。あさましくもあるかな。さればよ、思ひよらぬことにはあらねどいはけなきほどにうちたゆみて、世はうきものにもありけるかなと氣色をつぶつぶと心え給へど、音もせで出で給ひぬ。御さきおふ聲のいかめしきにぞ「殿は今こそ出でさせ給ひけれ。いづれの隈におはしましつらむ。今さへかゝるあだけこそ」といひあへり。さゝめきごとの人々は「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるはくわざの君のおはしましつるとこそ思ひつれ。あなむくつけや、しりうごとやほの聞し召しつらむ。煩はしき御心を」とわびあへり。殿は道すがらおぼすに、いとロをしく惡しきことにはあらねど、珍しげなきあはひに世の人も思ひいふべきこと、おとゞの强ひて女御をおししづめ給ふもつらきに、わくらはに人にまさることもやとこそ思ひつれ、妬くもあるかなとおぼす。殿の御中の大かたには昔も今もいとよくおはしながらかやうの方にては挑み聞え給ひし名殘もおぼし出でゝ心うければ寢覺がちにて明し給ふ。大宮もさやうの氣色は御覽ずらむものを世になく悲しうし給ふ御うまごにて任せて見給ふならむと、人々のいひし氣色をめざましう妬しと思すに御心動きて少しをゝしうあざやぎたる御心には鎭めがたし。二日ばかりありて參り給へり。しきりに參り給ふ時は大宮もいと御心ゆき嬉しきものにおばいたり。御尼びたひ引きつくろひうるはしき御小袿など奉りそへて、こながらも耻かしげにおはするひとざまなればまほならずぞ見え奉り給ふ。おとゞ御けしき惡しくて「こゝにさぶらふもはしたなく人々いかに見侍らむと心おかれにたり。はかばかしき身に侍らねど世に侍らむかぎり御めかれず御覽ぜられ覺束なきへだてなくとこそ思ひ給ふれ。善からぬものゝうへにて怨めしと思ひ聞えさせつべきことの出でまうで來たるをかうも思う給へじとかつは思う給ふれど猶しづめ難く覺え侍りてなむ」と淚おしのごひ給ふに宮けさうじ給へる御顏の色たがひて御目もおほきになりぬ。「いかやうなることにてか、今更のよはひの末に心おきてはおぼさるらむ」と聞え給ふもさすがにいとほしけれど「賴もしき御かげに幼きものを奉りおきて自らはなかなか幼くより見給へもつかず、まづめに近きまじらひなどはかばかしからぬを見給へ歎きいとなみつゝさりとも人となさせ給ひてむと賴みわたり侍りつるに思はずなることの侍りければいと口惜しうなむ。誠に天の下ならぶ人なき有職には物せらるめれどしたしきほどにかゝるは人の聞き思ふ所もあはつけきやうになむ。何ばかりの程にもあらぬなからひにだにし侍るをかの人の御ためにもいとかたはなることなり。さしはなれきらきらしう珍しげあるあたりに今めかしうもてなさるゝこそをかしけれ。ゆかりむつび拗けがましきさまにておとゞも聞きおぼす所侍りなむ。さるにてもかゝる事なむと知らせ給ひて殊更にもてなし少しゆかしげある事をまぜてこそ侍らめ。幼き人々の心に任せて御覽じ放ちけるを心うく思う給ふる」と聞え給ふも夢にも知り給はぬことなれば淺ましうおぼして「げにかうのたまふもことわりなれどかけてもこの人々の下の心なむ知り侍らざりける。げにいと口惜しきことは、こゝにこそまして歎くべく侍れ。諸共に罪をおほせ給ふは恨めしきことになむ。見奉りしより心殊に思ひ侍りてそこにおぼし至らむことをもすぐれたるさまにもてなさむとこそ人知れず思ひ侍れ。物げなき程を心の闇に惑ひて急ぎ物せむとは思ひよらぬことになむ。さても誰かはかゝる事は聞えけむ。善からぬ人の事につきてきはだけくおぼしのたまふもあぢきなく空しきことにて人の御名や穢れむ」とのたまへば「何のうきたることにか侍らむ。さぶらふめる人々もかつは皆もどき笑ふべかめるものをいと口惜しく安からず思ひ給へらるゝや」とて立ち給ひぬ。心知れる人はいみじういとほしく思ふ。一夜のしりうごとの人々はまして心地も違ひて何にかゝるむつ物語をしけむと思ひ嘆きあへり。姬君は何心もなくておはするにさし覗き給へればいとらうたげなる御さまを哀に見奉り給ふ。「若き人といひながら心幼く物し給ひけるを知らでいとかく人なみなみにと思ひける我こそまさりてはかなかりけれ」とて御めのとどもをさいなみ給ふに聞えむ方なし。「かやうの事は限なき帝の御いつきむすめもおのづからあやまつためし昔物語にもあめれど氣色をしり傳ふる人さるべきひまにてこそあらめ。これは明暮立ちまじり給ひて年頃おはしましつるを何かはいわけなき御程を宮の御もてなしよりもさしすぐしても隔て聞えさせむとうちとけて過ぐし聞えつるを、一昨年ばかりよりはけざやかなる御もてなしになりにて侍るめるに若き人とてもうちまぎればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはすべかめるを夢に亂れたる所おはしまさゞめれば更に思ひよらざりけること」とおのがどちなげく。「よししばしかゝる事漏さじ、隱れあるまじきことなれど心をやりてあらぬ事とだにいひなされよ。今かしこに渡し奉りてむ宮の御心のいとつらきなり。そこたちはさりとも、いとかゝれとしも思はれざりけむ」とのたまへばいとほしき中にも嬉しくのたまふと思ひて「あないみじや、大納言殿に聞え給はむことをさへ思ひ侍れば、めでたきにてもたゞ人のすぢは、何の珍しきにか思う給へかけむ」と聞ゆ。姬君はいと幼げなる御さまにて萬に申し給へどもかひあるべきにもあらねばうち泣き給ひて、「いかにしてかいたづらになり給ふまじきわざはすべからむ」と忍びてさるべさどちのたまひて大宮をのみ恨み聞え給ふ。宮はいといとほしとおぼす中にも、をとこ君の御かなしさはすぐれ給ふにやあらむ、かゝる心のありけるもうつくしう思さるゝに、なさけなくこよなき事のやうにおぼしのたまへるを、などかさしもあるべき、もとよりいたう思ひつき給ふことなくて、かくまでかしづかむともおぼしたゝざりしをわがかくもてなしそめたればこそ春宮の御事をもおぼしかけためれ、とりはづしてたゞ人の宿世あらば、この君より外に優るべき人やは、かたち有樣よりはじめて、等しき人あるべきかは、これよりおよびなからむきはにもとこそ思へと我志のまさればにや、おとゞをうらめしう思ひ聞え給ふ御心の中を見せ奉りたらばましていかに恨み聞え給はむ。かくさわがるらむとも知らでくわざの君參り給へり。一夜も人目しげうて思ふことをもえ聞えずなりにしかば常よりも哀に覺え給ひければ夕つ方おはしたるなるべし。宮例はいひ知らずうちゑみて待ち喜び給ふを、まめだちて物語など聞え給ふついでに「御ことにより內のおとゞのゑんじて物し給ひにしかばいとなむいとほしき。ゆかしげなきことをしも思ひそめ給ひて人に物思はせ給ひつべきが心苦しきことかうも聞えじと思へどさる心も知り給はでやと思へばなむ」と聞え給へば心にかゝれることのすぢなればふと思ひよりぬ。おもて赤みて「何事にか侍らむ。靜なる所に籠り侍りにし後ともかくも人にまじる折なければ怨み給ふべきこと侍らじとなむ思う給ふる」とていと耻かしと思へる氣色を哀に心ぐるしうて「よし今よりだに用意し給へ」とばかりにて異事にいひなし給ひつ。いとゞ文なども通はむことの難きなめりと思ふにいと嘆かし。物まゐりなどし給へど更にまゐらで寢給ひぬるやうなれど心もそらにて人しづまるほどになかさうじをひけど、例はことにさし固めなどもせぬをつとさして人の音もせず。いと心ぼそく覺えてさうじによりかゝりて居給へるにをんな君も目をさまして風の音の竹に待ちとられてうちそよめくに雁の鳴きわたる聲のほのかに聞ゆるに幼き心地にもとかくおぼし亂るゝにや、「雲井の雁もわがことや」とひとりごち給ふけはひ若うらうたげなり。いみじう心もとなければ「これあけさせ給へ。小侍從やさぶらふ」とのたまへど音もせず。御乳母ごなり、ひとりごとを聞き給ひけるもはづかしうてあいなく御顏引き入れ給へど哀は知らぬにしもあらぬぞにくきや。めのとたちなど近く臥してうちみじろくも苦しければかたみに音もせず。

 「さ夜中に友呼びわたるかりがねにうたて吹きそふ荻のうは風。身にもしみけるかな」と思ひ續けて宮の御前にかへりて歎きがちなるも御目覺めてや聞かせ給ふらむとつゝましくみじろき臥し給へり。あいなく物はづかしうて我が御方に疾く出でゝ御文かき給へれど、小侍從にもえ逢ひ給はず、かの御方ざまにもえいかず胸潰れて覺え給ふ。女はたさわがれ給ひし事のみはづかしうて、我が身やいかゞあらむ、人やいかゞ思はむとも深くおぼし入れず、をかしうらうたげにて打ち語らふさまなどを、疎ましとも思ひ離れ給はざりけり。又かくさわがるべき事ともおぼさゞりけるを御後見どもゝいみじうあばめ聞ゆればえことも通はし給はず、おとなびたる人やさるべきひまをも造り出づらむ。をとこ君も今少し物はかなき年の程にて唯いと口惜しうのみ思ふ。おとゞはそのまゝに參り給はず、宮をいとつらしと思ひ聞え給ふ。北の方には斯る事なむと氣色も見せ奉り給はず、唯大方いとむづかしき御氣色にて「中宮のよそほひことにて參り給へるに女御の世の中思ひしめりて物し給ふを心苦しう胸いたきに、まかでさせ奉りて心やすくうち休ませ奉らむ。さすがに上につとさぶらはせ給うてよるひるおはしますめればある人々も心ゆるびせず苦しうのみわぶめるに」とのたまひて俄にまかでさせ奉り給ふ。御暇も許されがたきを、うちむつかり給うて、上はしぶしぶにおぼしめしたるをしひて御むかへし給ふ。「つれづれにおぼされむを姬君わたして諸共にあそびなどし給へ。宮にあづけ奉りたる後やすけれど、いとさくじりおよすけたる人立ちまじりておのづからけぢかきもあいなき程になりにければなむ」と聞え給ひて俄に渡し聞え給ふ。宮いとあへなしとおぼして、「ひとり物せられし女ごなくなり給ひて後いとさうざうしく心ぼそかりしに嬉しうこの君をえて生ける限のかしづきものと思ひて明暮につけて老のむつかしさも慰めむとこそ思ひつれ。思の外にへだてありておぼしなすもつらくなむ」と聞え給へば、うち畏まりて「こゝろに飽かず思う給へらるゝことはしかなむ思う給へらるゝとばかり聞えさせしになむ。深くへだて思う給ふことはいかでか侍らむ。內にさぶらふが世の中うらめしげにてこの頃まかではべるにいと徒然に思ひてくつし侍れば心苦しう見給うるを諸共にあそびわざをもして慰めよと思ひ給へてなむ。あからさまに物し侍るとてはぐゝみ人となさせ給へるをおろかにはよも思ひ聞えさせじ」と申し給へば、かうおぼし立ちにたれば留めきこえ給ふともおぼしかへすべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しうおぼされて「人の心こそうきものはあれ。とかくをさなき心どもにもわれに隔てゝ疎ましかりけることよ、又さもこそはあらめ。おとゞの物の心を深う知り給ひながら我をゑんじてかくゐて渡し給ふ事、かしこにてこれより後安きこともあらじ」と打ち泣きつゝのたまふ。折しもくわざの君參り給へり。もしいさゝかのひまもやとこの頃はしげうほのめき給ふなりけり。內の大臣の御車のあれば、心のおにゝはしたなくてやをらかくれて我が御方に入り居給へり。內の大殿のきんだち、左の少將、少納言、兵衞佐、侍從、大夫などいふも皆こゝにはまゐりつどひたれど、みすの內はゆるし給はず。左衞門督權中納言なども異御腹なれど故殿の御もてなしのまゝに今も參り仕うまつり給ふ事ねんごろなれば、その御子どもさまざま參り給へどこの君に似るにほひなく見ゆ。大宮の御志もなずらひなくおぼしたるを、唯この姬君をぞけぢかうらうたきものにおぼしかしづきて御かたはら避けずうつくしきものにおぼしたりつるを、かくて渡り給ひなむがいとさうざうしきことを覺す。殿は「今の程にうちに參り侍りて夕つ方迎へに參り侍らむ」とて出で給ひぬ。いふかひなきことをなだらかにいひなして、さてもやあらましと覺せど猶いと心やましければ、人の御程の少しものものしくなりなむにかたはならず見なして、そのほど志の深さ淺さのおもむきをも見定めてゆるすとも殊更なるやうにもてなしてこそあらめ、制し諫むとも一所にてはをさなき心のまゝに見苦しうこそあらめ、宮もよもあながちに制しのたまふことあらじとおほせば、女御の御徒然にことつけてこゝにもかしこにもおいらかにいひなして渡し給ふなりけり。宮の御ふみにて、「おとゞこそ恨みもし給はめ。君はさりとも志のほどもしり給ふらむ。渡りて見え給へ」と聞え給へればいとをかしげに引き繕ひて渡り給へり。十四になむおはしける。かたなりに見え給へどいとこめかしうしめやかに美くしきさまし給へり。「傍避け奉らず明暮のもてあそび物に思ひ聞えつるを、さうざうしくもあくべきかな。殘りすくなき齡の程にて御有樣を見はつまじきことゝ命をこそ思ひつれ。今さらに見捨てゝ移ろひ給ふやいづちならむと思へばいとこそ哀なれ」とて泣き給ふ。姬君は耻しきことをおぼせば顏ももたげ給はで唯なきにのみ泣き給ふ。をとこ君の御めのと宰相の君出で來て「同じ君とこそ賴み聞えさせつれ。口をしく渡らせ給ふこと殿はことざまにおぼしなることおはしますともさやうにおぼし靡かせ給ふな」などさゝめき聞ゆれば、いよいよ耻しとおぼして物ものたまはず。「いでむつかしきことな聞えられそ。人の御すくせすくせのいと定め難く」とのたまふ。「いでやものげなしとあなづり聞えさせ給ふに侍るめりかし。さりともげにわが君や人に劣り聞えさせ給ふと聞しめしあはせよ」となま心やましきまゝにいふ。くわざの君物の後にいり居て見給ふに人の咎めむもよろしき時こそ苦しかりけれ。いと心細くて淚おしのごひつゝおはするけしきを御乳母いと心苦しう見て宮にとかく聞えたばかりて、夕まぐれの人のまよひにたいめんせさせ給へり。かたみに物耻かしく胸つぶれて物もいはで泣き給ふ。「大臣の御心のいとつらければ、さばれ思ひ止みなむと思へど戀しうおはせむこそわりなかるべけれ。などて少しひまありぬべかりつる日頃よそに隔てつらむ」とのたまふさまもいと若う哀げなれば、まろもさこそはあらめ」とのたまふ。「戀しとはおぼしなむや」とのたまへば、少しうなづき給ふさまもをさなげなり。おほとなぶらまゐり殿まかで給ふけはひこちたく、おひのゝしるみさきの聲に人々「そゝや」などおぢさわげばいと恐しとおぼしてわなゝき給ふ。男はさもさわがればとひたぶるに許し聞え給はず。御乳母參りて求め奉るに氣色を見てあな心づきなや、げに宮しらせ給はぬことにはあらざりけりと思ふにいとつらく、いでやうかりける世かな。殿のおぼしのたまふことは更にも聞えず、大納言殿にもいかに聞かせ給はむ。めでたくとも物の初の六位すくせよ」とつぶやくもほのきこゆ。唯この屛風のうしろに尋ねきて歎くなりけり。をとこ君、我をば位なしとてはしたなむるなりけりとおぼすに、世の中うらめしければ哀も少しさむる心ちしてめざまし。「かれ聞き給へ。

  くれなゐの淚に深き袖の色を淺緣とやいひしをるべき。はづかし」とのたまへば、

 「いろいろに身のうきほどの知らるゝはいかに染めける中の衣ぞ」とのたまひはてぬに、殿入り給へり。わりなくて渡り給ひぬ。をとこ君は立ちとまりたる心地もいと人わろく胸ふたがりて我が御かたにふし給ひぬ。御車三つばかりにて忍びやかに急ぎ出で給ふ。けはひを聞くもしづ心なければ宮の御まへより參り給へとあれど寢たるやうにて動きもし給はず。淚のみとゞまらねば嘆きあかして霜のいと白きに急ぎ出で給ふ。うちはれたるまみも人に見えむがはづかしきに宮はためしまつはすべかめれば心やすき所にとて急ぎ出で給ふなりけり。道のほど人やりならず心細く思ひ續くるに空の氣色もいたう曇りてまだくらかりけり。

 「霜氷うたてむすべる明くれの空かきくらし降るなみだかな」。

おほい殿には今年五節奉りたまふ。何ばかりの御いそぎならねどわらはべのさう束など近うなりぬとて急ぎせさせ給ふ。ひんがしの院には參りの夜の人々さう束せさせ給ふ。殿には大方のことゞも中宮よりもわらはしもづかへのれうまでえならで奉れ給へり。過ぎにし年五節などとまりしがさうざうしかりしつもりも取り添へ人の心地も常よりも花やかに思ふべかめる年なれば、所々いどみていといみじく萬を盡し給ふ聞えあり。あぜちの大納言、左衞門の督、うへの五節には良淸今は近江の守にて左中辨なるなむ奉りける。皆とゞめさせ給ひて宮づかへすべく仰言ことなる年なればむすめを各奉り給ふ。殿の舞姬は惟光の朝臣の津のかみにて左京の大夫かけたるむすめかたちなどいとをかしげなる聞えあるを召す。からいことに思ひたれど「大納言の外ばらのむすめを奉らるなるに、朝臣のいつき娘出したてたらむ、何のはぢかあるべき」とさいなめば侘びて同じくは宮づかへやがてせさすべく思ひおきてたり。舞ならはしなどは、さとにていとようしたてゝかしづきなどしたしう身にそふべきはいみじうえり整へて、その日の夕つけて參らせたり。殿にも御かたがたのわらはしもづかへのすぐれたるをと御覺じくらべえり出でらるゝ心地どもはほどほどにつけていとおもだゝしげなり。ごぜんに召して御覽ぜむうちならしにおまへを渡らせてと定め給ふ。捨つべうもあらずとりどりなるわらはべのやうだいかたちをおぼし煩ひて「今一所の料をこれより奉らばや」など笑ひ給ふ。たゞもてなし用意によりてぞえらびに入りける。大がくの君胸のみふたがりて物などもみいれられずくつしいたくて文も讀まで眺めふし給へるを、心もやなぐさむと立ち出でゝ紛れありき給ふ。さまかたちはめでたくをかしげにてしづやかになまめい給へれば若き女房などはいとをかしと見奉る。うへの御方にはみすの前にだに物近うももてなし給はず我が御心ならひ、いかにおぼすにかありけむ、うとうとしければ御達などもけどほきを今日は物のまぎれに入り立ち給へるなめり。舞姬かしづきおろして、妻戶のまに屛風など立てゝ、かりそめのしつらひなるにやをら寄りて覗き給へばなやましげにてそひ臥したり。唯かの人の御程と見えて今少しそびやかに、やうだいなどのことさらびをかしき所は優りてさへ見ゆ。暗ければこまやかには見えねど程のいとよく思ひ出でらるゝさまに心移るとはなけれどたゞにもあらできぬの裾を引きならし給ふ。何心もなくあやしと思ふに、

 「あめにますとよをかひめの宮人もわが心ざすしめをわするな。みづがきの」との給ふぞ、うちつけなりける。若うをかしき聲なれど誰ともえ思ひなされず、なまむつかしきにけさうじそふとて騷ぎつる後見ども近うよりて、人騷がしうなればいと口惜しうて立ち去り給ひぬ。あさぎの心やましければ內へ參り給ふこともせず、ものうがり給ふを五節にことづけて直衣などさま變れる色ゆるされて參り給ふ。きびはに淸らなるものからまだきにおよすけてざれありき給ふ。帝よりはじめ奉りておぼしたるさまなべてならず世に珍しき御おぼえなり。五節のまゐる儀式はいづれともなく心々に二なくし給へるを舞姬のかたち大殿のと大納言殿のとは勝れたりとめでのゝしる。げにいとをかしげなれどこゝしう美しげなることは猶大殿には及ぶまじかりけり。物淸げに今めきてそのものとも見ゆまじうしたてたるやうだいなどのありがたうをかしげなるをかう譽めらるゝなめり。例の舞姬どもよりは、皆少しおとなびつゝげに心ことなる年なり。殿參り給ひて御覽ずるに昔御目とまり給ひしをとめの姿をおぼしいづ。たつの日の暮つかたつかはす。御文のうち思ひやるべし。

 「をとめ子も神さびぬらし天津袖ふるき世の友よはひ經ぬれば」。年月のつもりを數へて、うちおぼしけるまゝのあはれを忍び給はぬことのをかしう覺ゆるもはかなしや。

 「かけていへば今日のことゝぞ思ほゆる日かげの霜の袖にとけしも」。淸摺の紙よくとりあへてまぎらはし書いたるこ墨、薄墨、草がちにうちまぜ亂れたるも人の程につけてはをかしと御覽ず。くわざの君も人の目とまるにつけても人知れず思ひありき給へどあたり近くだによせずいとけゝしうもてなしたれば物つゝましき程の心には歎しうて止みぬ。かたちはしもいと心につきてつらき人のなぐさめにも見るわざしてむやと思ふ。やがて皆留めさせ給ひて宮仕すべき御氣色ありけれどこの度はまかでさせて近江のは辛崎の祓津のかみはなにはといどみてまかでぬ。大納言も殊更に參らすべきよし奏せさせ給ふ。左衞門督その人ならぬを奉りてとがめありけれどそれもとゞめさせ給ふ。津のかみは、ないしのすけあきたるにと申させたれば、さもやいたはらましと大殿もおぼいたるを、かの人は聞きたまひていと口をしと思ふ。我が年のほど位などかく物げなからずば乞ひ見てましものを、思ふ心ありとだにしられでやみなむことゝわざとのことにはあらねどうちそへて淚ぐまるゝ折々あり。せうとの童殿上する常にこの君に參り仕うまつるを例よりも懷しう語らひ給うて「五節はいつかうちへは參る」と問ひ給ふ。「今年とこそは聞き侍れ」と聞ゆ。「顏のいとよかりしかばすゞろにこそ戀しけれ。ましが常に見るらむもうらやましきを又見せてむや」とのたまへば「いかでかさは侍らむ。心に任せても得見侍らず、 をのこはらからとて近くもよせ侍らねばましていかでか君達には御覽ぜさせむ」と聞ゆ。「さらば文をだに」とて賜へり。さきざきかやうのことはいふものをと苦しけれどせめて給へばいとほしうてもていぬ。年の程よりはざれてやありけむ、をかしと見けり。綠の薄樣のこのましきかさねなるに手はまだいと若けれど生ひさき見えていとをかしげに、

 「日かげにもしるかりけめやをとめ子があまのは袖にかけし心は」。ふたり見るほどに父ぬしふとより來たり、恐しうあきれてえ引き隱さず「なぞの文ぞ」とて取るにおもて赤みて居たり。よからぬわざしけりとにくめば、せうと逃げていくを呼びよせて「たがぞ」と問へば「殿のくわざの君のしかじかのたまひてたまへる」といへば名殘なくうち笑みて「いかにうつくしき君の御ざれ心なり。きんちらは同じ年なれどいふかひなくはかなかめり」など譽めて母君にも見す。この君達の少し人かずにおぼしぬべからましかばおほざうの宮仕よりは奉りてまし。殿の御心おきてを見るにみそめ給ひてむ人を御心とは忘れ給ふまじきにこそいと賴もしけれ。明石の入道のためしにやならまし」などいへど皆急ぎ立ちにけり。かの人は文をだにえやり給はず立ちまさる方のことし心にかゝりて程ふるまゝにわりなく戀しき面かげに又あひ見でやと思ふより外のことなし。宮の御もとへも、あいなく心うくて參り給はずおはせしかた年頃遊び馴れし所のみ思ひ出でらるゝことまされば里さへうく覺え給ひつゝまた籠り居給へり。殿はこの西の臺にぞ聞えあづけ奉り給ひける。「大宮の御世の殘り少げなるをおはさずなりなむ後もかく幼き程より見ならはして後見おぼせと」聞え給へば唯のたまふまゝの御心にて懷しう哀に思ひあつかひ奉り給ふ。ほのかになど見奉るにもかたちのまほならずもおはしけるかな、かゝる人をも人は思ひ捨て給はざりけりなどわがあながちにつらき人の御かたちを心にかけて戀しと思ふもあぢきなしや。心ばへのかやうにやはらかならむ人をこそあひ思はめと思ふ。又向ひて見るかひなからむもいとほしげなり。かくて年經給ひにけれど殿のさやうなる御かたち御心とみ給うてはまゆふばかりのへだてさしかくしつゝ何くれともてなし紛はし給ふめるもうべなりけりと思ふ心のうちぞ耻しかりける。大宮のかたちことにおはしませどまだいと淸らにおはしこゝにもかしこにも人はかたちよきものとのみめなれ給へるをもとより勝れざりける御かたちのやゝさだ過ぎたる心ちしてやせやせに御ぐしすくなゝるなどがかくそしらはしきなりけり。年の暮にはむつきの御さうぞくなど宮はたゞこの君一所の御ことをまじることなう急ぎ給ふ。あまたくだりいと淸らにしたて給へるを見るも物うくのみ覺ゆれば「朔日などには必ずしも內へ參るまじう思ひ給ふるに何にかく急がせ給ふらむ」と聞え給へば「などてかさもあらむ。老いくづほれたらむ人のやうにものたまふかな」とのたまへば「老いねどくづほれたる心地ぞするや」とひとりごちて打ち淚ぐみて居給へり。かの事を思ふならむといと心苦しうて宮もうち潛み給ひぬ。「男は口惜しききはの人だに心をたかうこそつかうなれ。あまりしめやかにかくな物し給ひそ。何かかう眺めがちに思ひ入れ給ふべき。ゆゝしう」とのたまふ。「何かは。六位など人のあなづり侍るめれば暫しの事とは思う給うれどうちへ參るも物憂くてなむ。故大臣おはしまさましかばたはふれにても人にはあなづられ侍らざらまし。物隔てぬ親におはすれどいとけゞしうさし放ちておぼいたればおはしますあたりにたやすくも參りなれ侍らず。ひんがしの院にてのみなむおまへ近く侍る。對の御方こそ哀に物し給へ。おや今一所おはしまさましかば何事を思ひ侍らまし」とて淚の落つるを紛はし給へる氣色いみじう哀なるに宮はいとゞほろほろと泣き給ひて「母に後るゝ人は程々につけてさのみこそ哀なれどおのづからすくせすくせに人と成りたちぬればおろかに思ふ人もなきわざなるを思ひ入れぬさまにて物し給へ。故おとゞの今しばしだに物し給へかし。限なきかげには同じことゝ賴み聞ゆれど思ふにかなはぬことの多かるかな。內のおとゞの心ばへもなべての人にはあらずと世の人もめでいふなれば昔に變ることのみまさりゆくに命長さもうらめしきに生ひさき遠き人さへかくいさゝかにても世を思ひしめり給へればいとなむよろづうらめしき世なる」とてなきおはします。ついたちにも大殿は御ありきしなければのどやかにておはします。良房のおとゞと聞えける古の例になずらへて白馬ひき節會の日はうちの儀式をうつして昔のためしよりもことそへていつかしき御有樣なり。二月の廿日餘朱雀院に行幸あり。花盛はまだしき程なればやよひは故宮の御いみづきなり。とくひらけたる櫻の色もいとおもしろければ院にも御用意ことにつくろひみがゝせ給ひ行幸に仕うまつり給ふ上達部みこたちよりはじめ心づかひし給へり。人々皆靑色に櫻がさねを着給ふ。帝は赤色の御ぞ奉れり。召しありておほきおとゞ參り給ふ。おなじ赤色を着給へればいよいよひとつものとかゞやきて見えまがはせ給ふ。人々のさう束用意常よりことなり。院もいと淸らにねびまさらせ給うて御さまよういなまめきたる方にすゝませ給へり。今日はわざとのもんにんも召さず、たゞそのざえかしこしと聞えたる學しやう十人をめす。式部の司のこゝろみの題をなずらへて御題たまふ。大殿の太郞君の心み給ふべき故なめり。おくだかきものどもはものもおぼえずつながぬ船に乘りて池にはなれ出でゝいとすべなげなり。日やうやうくだりてがくの船どもこぎまひて調子ども奏する程の山風の響おもしろく吹き合せたるにくわざの君はかう苦しき道ならでもまじらひ遊びぬべきものをと世の中うらめしう覺え給ひけり。春鶯囀まふほどに昔の花の宴の程おぼし出でゝ院の帝又さばかりのこと見てむやとの給はするにつけてその世の事哀におぼしつゞけらる。舞ひはつるほどにおとゞ院に御かはらけ參りたまふ。

 「鶯のさへづる春はむかしにてむつれし花のかげぞかはれる」。院の上、

 「九重をかすみへだつるすみかにも春とつげくるうぐひすの聲」。帥の宮ときこえし、今は兵部卿にて、今の上に御かはらけまゐり給ふ。

 「いにしへをふきつたへたる笛竹にさへづる鳥の音さへかはらぬ」。あざやかに奏しなし給へる用意ことにめでたし。取らせ給ひて、

 「うぐひすの昔をこひてさへづるは木傳ふ花の色やあせたる」とのたまはする御有樣こよなくゆゑゆゑしくおはします。これは御わたくしざまにうちうちのことなればあまたにも流れずやなりにけむ、又かき落してけるにやあらむ、樂所遠くて覺束なければお前に御琴どもめす。兵部卿宮琵琶、內のおとゞ和琴、箏の御琴院の御前にまゐりて、きんは例のおほきおとゞたまはり給ふ。さるいみじき上手の勝れたる御手づかひどもの盡し給へるねは譬へむかたなし。さう歌の殿上人あまたさぶらふ。あなたうとあそびて次にさくら人、月朧にさし出でゝをかしきほどに中島のわたりにこゝかしこ篝火ども燈しておほみあそびはやみぬ。夜更けぬれどかゝるついでに、おほきさいの宮おはします方をよぎてとぶらひ聞えさせ給はざらむもなさけなければかへさに渡らせ給ふ。大臣も諸共にさぶらひ給ふ。后待ちよろこび給ひて御たいめんあり。いといたうさだすぎ給ひにける御けはひにも故宮を思ひ出で聞え給ひてかく長くおはしますたぐひもおはしけるものをと口惜しうおもほす。「今はかくふりぬる齡に萬の事忘られ侍りにけるを、いと辱く渡りおはしまいたるになむ更に昔の御世の事思ひ出でられ侍る」とうち泣き給ふ。「さるべき御かげどもにおくれ侍りて後、春のけぢめも思う給へわかれぬを今日なむ慰め侍りぬる。又々も」と聞え給ふ。おとゞもさるべきさまに聞きて「殊更にさぶらひて」など聞え給ふ。のどやかならで歸らせ給ふひゞきにも后の猶胸うちさわぎていかにおぼし出づらむ。世をたもち給ふべき御宿世はけたれぬものにこそといにしへを悔いおぼす。ないしのかんの君ものどやかにおぼし出づるに哀なること多かり。今もさるべきをり風のつてにもほのめき給ふこと絕えざるべし。后はおほやけに奏せさせ給ふことある時々ぞ御たうばりのつかさかうふり何くれのことにふれつゝ御心にかなはぬ時ぞ命長くてかゝる世の末を見ることゝ取りかへさまほしう萬をおぼしむつかりける。老いもておはするまゝにさがなさもまさりて院もくらべ苦しう堪へがたくぞ思ひ聞え給ひける。かくて大學の君その日の文うつくしうつくり給ひて進士になり給ひぬ。年積れるかしこき者どもをえらせ給ひしかども及第の人僅に三人なむありける。秋の司召にかうふりえて侍從に成り給ひぬ。かの人の御こと忘るゝ世なけれどおとゞのせちにまもり聞え給ふもつらければわりなくてなどもたいめんし給はず、御せうそこばかりさりぬべき便に聞え給ひてかたみに心苦しき御中なり。

おほひ殿しづかなる御住ひを同じくは廣く見所ありてこゝかしこにて覺束なき山里人などをも集へすませむの御心にて六條京極わたりに中宮のふるき宮のほとりを四まちをしめて造らせ給ふ。式部卿宮明けむ年ぞ五十になり給ひけるを御賀のこと對の上おぼしまうくるにおとゞもげに過ぐし難きことゞもなりとおぼしてさやうの御いそぎも同じくは珍しからむ御家ゐにてといそがせ給ふ。年かへりてはましてこの御いそぎの事御としみのこと樂人舞人のさだめなどを御心に入れて營み給ふ。經佛法事の日のさうぞく祿どもなどをなむうへは急がせ給ひける。ひんがしの院にもわけてし給ふことゞもあり。御なからひましていとみやびかに聞えかはしてなむ過ぐし給ひける。世の中響きゆすれる御いそぎなるを式部卿の宮にも聞しめして年頃世の中にはあまねき御心なれどこのわたりをばあやにくになさけなく事にふれてはしたなめ宮人をも御用意なくうれはしきことのみ多かるにつらしと思ひ置き給ふことこそはありけめといとほしくもからくもおぼしけるをかくあまたかゝづらひ給へる人々多かる中に取りわきたる御思ひすぐれて世に心にくゝめでたきことに思ひかしづかれ給へる御宿世をぞ我家まではにほひこねどめいぼくにおぼすに、又かくこの世にあまるまでひゞかしいとなみ給ふは覺えぬ齡の末の盛にもあるべきかなとよろこび給ふを北の方は心ゆかずものしとのみおぼしたり。女御の御まじらひの程などにもおとゞの御用意なきやうなるをいよいようらめしと思ひしみ給へるなるべし。八月には六條の院造りはてゝわたり給ふ。未申の町は中宮の御ふるみやなればやがておはしますべし。辰巳には殿のおはすべき町なり。丑寅はひんがしの院に住み給ふ臺の御方、戌亥の町は明石の御方とおぼしおきてさせ給へり。もとありける池山をもびんなき所なるをばくづしかへて水のおもむき山のおきてをあらためて、さまざまに御方々の御ねがひの心ばへを造らせ給へり。南ひんがしは山高く春の花の木數をつくしてうゑ池のさまおもしろく勝れておまへ近き前栽に五葉、紅梅、櫻、藤、山吹、岩つゝじなどやうの春のもてあそびをわざとは植ゑて秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり。中宮の御町をばもとの山に紅葉の色こかるべき植木どもを植ゑ泉の水とほくすまし遣水の音優るべき岩をたて加へ瀧おとして秋の野を遙につくりたる、そのころにあひて盛にさき亂れたり。嵯峨の大井のわたりの野山むとくにけおされたる秋なり。北のひんがしは凉しげなる泉ありて夏のかげによれり。御まへ近き前栽吳竹下風すゞしかるべく木だかき森のやうなる木ども木ぶかくおもしろく山里めぎて、卯の花がきねことさらにしわたして昔おぼゆる花橘、瞿麥、さうび、くだになどやうの花のくさくさをうゑて、春秋の木草その中にうちまぜたり。ひんがしおもては分きてうま塲のおとゞつくり埒ゆひて五月の御遊所にて水のほとりにさうぶうゑしげらせて、むかひにみまやして世になきじやうめどもをとゝのへたてさせ給へり。西の町は、北おもてつきわけて、みくら町なり。へだての垣に松の木しげく雪をもてあそばむたよりによせたり。冬のはじめ朝霜のむすぶべき菊のまがきわれはがほなる柞原、をさをさ名もしらぬ深山木どもの木深きなどをうつし植ゑたり。彼岸のころほひ渡り給ふ。一度にと定めさせ給ひしかどさわがしきやうなりとて中宮は少しのべさせ給ふ。例のおひらかに氣色ばまぬ花ちる里ぞその夜そひてうつろひ給ふ。春の御しつらひはこの頃にあはねどいと心ことなり。御車十五御前四位五位がちにて六位の殿上人などはさるべき限をえらせ給へり。こちたき程にはあらず世のそしりもやと省き給へれば何事もおどろおどろしういかめしきことはなし。今一方の御氣色もをさをさおとし給はで侍從の君そひてそなたはもてかしづき給へばげにかうもあるべき事なりけりと見えたり。女房の曹司まちどもあてあてのこまげぞ大方のことよりもめでたかりける。五六日過ぎて中宮まかでさせ給ふ。この御儀式はたさはいへどいと所せし。御さいはひのすぐれ給へりけるをばさるものにて、御有樣の心にくゝおもりかにおはしませば世に重く思はれ給へる事すぐれてなむおはしましける。このまちまちの中のへだてには塀どもらうなどをとかくゆきかよはしてけぢかくをかしきあはひにしなし給へり。九月になれば紅葉むらむら色づきて宮の御まへえもいはずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に御箱の蓋にいろいろの花紅葉をこきまぜてこなたに奉らせ給へり。おほきやかなるわらはの、濃き衵、紫苑の織物かさねて赤朽葉のうすものゝかざみ、いといたうなれて、らう渡殿のそりはしを渡りてまゐる。うるはしき儀式なれどわらはのをかしきをなむえおぼし捨てざりける。さる所に侍ひなれたればもてなし有樣外には似ずこのましうをかし。御せうそこには、

 「こゝろから春まつそのはわがやどの紅葉を風のつてにだに見よ」。若き人々、御つかひもてはやすさまどもをかし。御かへりはこの御箱の蓋にこけ敷きいはほなどの心ばへして五葉の枝に、

 「風に散る紅葉はかろし春の色を岩ねの松にかけてこそ見め」。この岩根の松もこまかに見れば、えならぬつくりごとゞもなりけり。かくとりあへず思ひより給へるゆゑゆゑしさなどを、をかしく御らんず。御前なる人々もめであへり。おとゞ「この紅葉の御せうそこいとねたげなめり。春の花ざかりにこの御いらへは聞え給へ。この頃紅葉をいひくたさむは立田姬の思はむこともあるを、さししぞきて花の陰に立ち隱れてこそ强きことは出でこめ」と聞え給ふもいと若やかにつきせぬ御有樣の見所おほかるにいとゞ思ふやうなる御すまひにて聞えかよはし給ふ。大井の御方はかう方々の御うつろひ定りて數ならぬ人はいつとなく紛はさむとおぼして神無月になむ渡り給ひける。御しつらひことの有樣劣らずして渡し奉り給ふ。姬君の御ためをおぼせば、大方の作法もけぢめこよなからずいとものものしくもてなさせ給へり。


玉鬘

年月へだゝりぬれど飽かざりし夕顏をつゆ忘れ給はず、心々なる人の有樣どもを見給ひ重ぬるにつけてもあらましかばとあはれにくちをしくのみおぼし出づ。右近は何の人數ならねどなほそのかたみと見給ひてらうたきものにおぼしたれば、ふる人の數に仕うまつり馴れたり。須磨の御うつろひの程にたいの上の御方に皆人々聞えわたし給ひしほどよりそなたに侍ふ。心よくかいひそめたるものに女君もおぼしたれど、心のうちには故君ものし給はましかば明石の御方ばかりのおぼえには劣り給はざらまし、さしも深き御心ざしなかりけるをだにおとしあふさず取りしたゝめ給ふ御心ながさなりければ、まいてやんごとなきつらにこそあらざらめ、この御殿うつりの數の中にはまじらひ給ひなましと思ふに飽かず悲しくなむ思ひける。かの西の京にとまりし若君をだにゆくへも知らずひとへに物を思ひつゝみ「又今更にかひなきことによりてわがなもらすな」と口固め給ひしを憚り聞えて尋ねても音づれ聞えざりしほどに、その御めのとのをとこ少貳になりていきければくだりにけり。かの若君の四つになる年ぞ筑紫へはいきける。母君の御ゆくへを知らむとよろづの神佛に申してよるひる泣き戀ひてさるべきところどころを尋ね聞えけれど遂にえ聞き出でず。さらばいかゞはせむ。若君をだにこそは御かたみに見奉らめ、あやしき身に添へ奉りて遙なるほどにおはせむことの悲しきことなどを父君にほのめかさむと思ひけれど、「さるべきたよりもなきうちに母君のおはしけむかたもしらず尋ね問ひ給はゞいかゞきこえむ。又よくも見なれ給はぬに幼き人をとゞめ奉り給はむも後めたかるべし。知りながらはた、ゐてくだりねと許し給ふべきにもあらず」などおのがしゝ語らひあはせて、いとうつくしう只今からけ高く淸らなる御さまを、ことなるしつらひなき船に載せて漕ぎ出づるほどはいとあはれになむおぼえける。幼き心ちに母君を忘れずをりをりに「母の御許へいくか」と問ひ給ふにつけて淚絕ゆる時なくむすめどもゝ思ひこがるゝを、「ふなみちゆゝし」とかつは諫めけり。おもしろきところどころを見つゝ心わかうおはせしものを、かゝる道をも見せ奉るものにもがな、おはせましかば我等は下らざらましと京の方を思ひやらるゝに、かへる波も羡しく心ぼそきに、船子どもの荒々しき聲にて「うらがなしくも遠く來にけるかな」と謠ふを聞くまゝに、二人さし向ひて泣きけり。

 「船人も誰をこふとかおほ島のうらがなしげに聲の聞ゆる」。

 「來し方もゆくへも知らぬ沖に出でゝあはれいづくに君を戀ふらむ」。鄙の別におのがしゞ心をやりていひける。金のみ崎を過ぎて我はわすれずなど夜とゝものことぐさになりてかしこに至り着きては、まいて遙なる程を思ひやりて戀ひ泣きてこの君をかしづきものにて明し暮す。夢などにいとたまさかに見え給ふ時などもあり。同じさまなる女など添ひ給うて見え給へば名殘心地惡しく惱みなどしければ猶世になくなり給ひにけるなめりと思ひなるもいみじくのみなむ。少貳任はてゝのぼりなむとするに遙けきほどに殊なる勢なき人はたゆたひつゝすがすがしくも出で立たぬ程に重き病して死なむとする心地にもこの君のとをばかりにもなり給へるさまのゆゝしきまでをかしげなるを見奉りて「我さへうち捨て奉りていかなるさまにはふれ給はむとすらむ。あやしき所におひ出で給ふもかたじけなく思ひ聞ゆれど、いつしかも京にゐて奉りてさるべき人々にも知らせ奉らむにも、都は廣き所なればいと心安かるべしと思ひ急ぎつるを、こゝながら命堪へずなりぬること」と後めたがる。をのこゞ三人あるに「唯この姬君京にゐて奉るべき事を思へ。我が身のけうをばな思ひそ」となむ言ひ置きける。その人の御子とはたちの人にも知らせず、たゞ「うまごのかしづくべきゆゑある」とぞいひなしければ、人に見せず限なくかしづき聞ゆる程に俄にうせぬればあはれに心細くて唯京のいでたちをすれど、この少貳の中惡しかりける國の人多くなどしてとざまかうざまにおぢ憚りて我にもあらで年を過ぐすに、この君ねび整ひ給ふまゝに母君よりもまさりて淸らに父おとゞのすぢさへ加はればにや品高く美しげなり。心ばせおほどかにあらまほしう物し給ふ。聞きついつゝすいたる田舍人ども心がけせうそこがるいと多かり。ゆゝしくめざましく覺ゆれば誰も誰も聞き入れず。「かたちなどはさてもありぬべけれどいみじきかたはのあれば人にも見せで尼になして我が世の限はもたらむ」といひ散したれば「故少貳のうまごはかたはなむあなる、あたらものを」といふ。聞くもゆゝしく「いかさまにして都にゐて奉りて父おとゞに知らせ奉らむ。いときなき程をいとらうたしと思ひ聞え給へりしかばさりともおろかには思ひ捨て聞え給はじ」などいひなげく。佛神に願を立てゝなむ念じける。むすめどもゝをのこどもゝ所につけたるよすがども出で來てすみつきにけり。心のうちにこそ急ぎ思へど京の事はいや遠ざかるやうに隔たりゆく。物おぼし知るまゝに世をいと憂きものにおぼしてねさうなどし給ふ。はたちばかりになり給ふまゝにおひとゝのほりていとあたらしくめでたし。この住む所は肥前の國とぞいひける。そのわたりにもいさゝかよしある人はまづこの少貳のうまごのありさまを聞き傅へてなほ絕えず音づれくるもいといみじう耳かしがましきまでなむ。大夫のげんとて肥後の國にぞう廣くてかしこにつけては覺えあり勢いかめしきつはものありけり。むくつけき心のなかに聊すきたる心のまじりてかたちある女を集めて見むと思ひける。この姬君を聞きつけて「いみじきかたはありとも我は見かくしてもたらむ」といとねんごろにいひかくるをいとむくつけく思ひて、「いかでかゝることを聞かで尼になりなむとす」と言はせたりければいよいよあやふがりておしてこの國に越え來ぬ。このをのこどもを呼びとりて語らふことは「思ふさまになりなば同じ心に勢をかはすべき事」など語らふに二人は赴きにけり。「しばしこそ似げなくあはれと思ひ聞えけれ。おのおの我が身のよるべと賴まむにいとたのもしき人なり。これに惡しくせられては、この近き世界にはめぐらひなむや。よき人の御すぢといふとも親に數まへられ奉らず世に知られでは何のかひにかはあらむ。この人のかくねんごろに思ひ聞え給へるこそ今は御さいはひなれ。さるべきにてこそはかゝる世界にもおはしましけめ。逃げ隱れ給ふとも何のたけき事かはあらむ。まけじだましひに怒りなばせぬことゞもゝしてむ」といひおどせばいといみじと聞きて中のこのかみなるぶごの介なむ「猶いとたいたいしくあたらしきことなり。故少貳ののたまひし事もあり、とかくかまへて京にあげ奉りてむ」といふ。娘どもゝ泣き惑ひて母君のかひなくてさすらへ給ひてゆくへをだに知らぬかはりに人なみなみにて見奉らむとこそ思ふにさるものゝなかにまじり給ひなむことと思ひ歎くをも知らで、我はいとおぼえ高き身と思ひて文など書きておこす。手などきたなげなう書きてからのしきしかうばしきかうに入れしめつゝをかしく書きたりと思ひたることばぞいとだみたりける。みづからもこの家の次郞をかたらひとりてうちつれて來たり。年三十ばかりなるをのこのたけ高くものものしくふとりて穢げなけれど、思ひなし疎ましく荒らかなるふるまひ見るもゆゝしくおぼゆ。色あひ心ちよげに聲いたう枯れてさへづり居たり。けさう人は夜に隱れたるをこそよばひとはいひけれ。さまかへたる春の夕暮なり。秋ならねどもあやしかりけりと見ゆ。心を破らじとてをばおとゞ出であふ。「故少貳のいとなさけびきらきらしく物し給ひしをいかでかあひ語らひ申さむと思ひ給へしかどもさる心ざしをも見せ聞えず侍りしほどにいと悲しくて隱れ給ひにしを、そのかはりにゐくわうに仕うまつるべくなむ心ざしをはげまして今日はいとひたぶるにしひてさぶらひつる。このおはしますらむ女君すぢことにうけ給はればいとかたじけなし。唯なにがしらが私の君と思ひ申していたゞきになむ捧げ奉るべき。おとゞもしぶしぶにおはしげなることは善からぬ女などもあまたあひ知りて侍るを聞しめし疎むなゝり。さりともすやつばらをひとしなみにはし侍りなむや。わが君をばきさきの位におとし奉らじものをや」などいとよげにいひつゞく。「いかゞは、かくのたまふをいとさいはひありと思ひ給ふるを、すくせつたなき人にや侍らむ、思ひ憚ること侍りていかでか人に御覽ぜられむと人知れず歎き侍るめれば心苦しう見給へ煩ひぬる」といふ。「更になおぼし憚りそ。天下に目つぶれ足をれ給へりともなにがしは仕うまつりやめてむ。國のうちの佛神は、おのれになむ靡き給へる」などほこり居たり。「その日ばかり」といふに、「この月はきのはてなり」など田舍びたることをいひのがる。おりていくきはに歌よまゝほしかりければ、やゝ久しう思ひめぐらして、

 「君にもしこゝろたがはゞ松浦なるかゞみの神をかけて誓はむ。この和歌は仕うまつりたりとなむ思ひ給ふる」とうち笑みたるも世づかずうひうひしや。あれにもあらねば返しすべくも思はねど、むすめどもによますれど「まろはまして物もおもえず」とて居たればいと久しきに思ひ煩ひてうち思ひけるまゝに、

 「年を經ていのる心のたがひなばかゞみの神をつらしとや見む」とわなゝかし出でたるを、「いでやこはいかにおぼさるゝ」とゆくりかにより來たるけはひにおびえておとゞ色もなくなりぬ。むすめたちはさはいへど心强く笑ひて「この人のさまことに物し給ふをひきたがへ侍らばつらく思はれむを、なほぼけぼけしき人のかみかけて聞えひがめ給ふなめりや」ととき聞かす。「おい、さりさり」とうなづきて「をかしき御口つきかな。なにがしら田舍びたりといふ名こそ侍れ、口惜しき民には侍らず。都の人とても何ばかりかあらむ、皆知りて侍り。なおぼしあなづりそ」とて又よまむと思へれども堪へずやありけむいぬめり。次郞が語らひとられたるもいと恐しく心憂くてこの豐後の介をせむれば、「いかゞは仕うまつるべからむ。語らひ合すべき人もなし。まれまれのはらからはこのげんに同じ心ならずとて中たがひにたり。このげんにあたまれてはいさゝかの身じろきせむも所せくなむあるべき。なかなかなるめをや見む」と思ひ煩ひにたれど、姬君の人知れずおぼいたるさまのいと心苦しくていきたらじと思ひ沈み給へる、ことわりとおぼゆればいみじき事を思ひ構へて出で立つ。妹たちも年比經ぬるよるべを捨てゝこの御供に出で立つ。あてきといひしは今は兵部の君といふぞ添ひてよる逃げ出でゝ船に乘りける。大夫のげんは肥後にかへりいきてふ月の廿日のほどに、日どりて來むとするほどにかくて逃ぐるなりけり。姉おもとはるゐ廣くなりてえ出で立たず。かたみにわかれをしみてあひ見むことのかたきを思ふに年經つる故鄕とて殊に見捨てがたきこともなし。たゞ松浦の宮の前の渚と、かの姉おもとの別るゝをなむかへりみせられて悲しかりける。

 「浮島を漕ぎ離れても行く方やいづくとまりと知らずもあるかな」。

 「行くさきも見えぬ波路に船出して風にまかする身こそうきたれ」。いとあとはかなき心地してうつぶし給へり。かく逃げぬるよしおのづから言ひ出でつたへばまけじだましひにて追ひきなむと思ふに、心も惑ひて早船といひてさまことになむ構へたりければ思ふ方の風さへ進みて危きまで走りのぼりぬ。ひゞきの灘もなだらかに過ぎぬ。海賊の船にやあらむ、ちひさき船の飛ぶやうにてくるなどいふものあり。海賊のひたぶるならむよりもかの恐しき人の追ひ來るにやと思ふにせむかたなし。

 「憂きことに胸のみ騷ぐひゞきにはひゞきの灘もさはらざりけり」。川尻といふ所近づきぬといふにぞ少し息出づる心地する。例の船子ども「からどまりより川尻おすほどは」と謠ふ聲のなさけなきもあはれに聞ゆ。豐後の介あはれに懷しく謠ひすさびて「いと悲しきめこも忘れぬ」とて思へばげにぞ皆うち捨てゝける、いかゞなりぬらむ、はかばかしく身のたすけと思ふ郞等どもは皆ゐて來にけり、われをあしと思ひて追ひまどはしていかゞしなすらむと思ふに、心をさなくもかへりみせで出でにけるかなと、少し心のどまりてぞあさましきことを思ひつゞくるに心弱くうち泣かれぬ。「胡の地のせいじをば空しくすてすてつ」とずするを兵部の君聞きて、げに怪しのわざや、年比從ひ來つる人の心にも俄にたがひて逃げ出でにしをいかに思ふらむとさまざま思ひつゞけゝる。かへるかたとてもその所といきつくべき故鄕もなし、知れる人といひよるべきたのもしき人もおぼえず。たゞひと所の御ためによりこゝらの年月住みなれつる世界を放れて浮べる波風に漂ひて思ひめぐらすかたなし。この人をもいかにしなし奉らむとするぞとあきれておぼゆれどいかゞはせむとて急ぎ入りぬ。九條に昔知れりける人の殘りたりけるをとぶらひ出でゝそのやどりをしめおきて都のうちといへどもはかばかしき人の住みたるわたりにもあらず。あやしきいちめあきびとのなかにていぶせく世の中を思ひつゝ秋にもなり行くまゝにきし方行くさき悲しき事多かり。豐後の介といふたのもし人もたゞ水鳥のくがに惑へる心地してつれづれにならはぬあり樣のたつきなきを思ふに、歸らむにもはしたなく心をさなく出で立ちにけるを思ふに、從ひ來たりしものどもゝるゐにふれて逃げ去りもとの國に歸り散りぬ。住みつくべきやうもなきを母おとゞあけくれ歎きいとほしがれば、「何かこの身はいと安く侍り、人ひとりの御身にかへ奉りていづちもいづちも罷りうせなむにとがあるまじ。我等いみじき勢になりてもわが君をさるものゝなかにはふらかし奉りては何心ちかせまし」と語らひ慰めて「神佛こそはさるべき方にも導き奉り給はめ。近き程にやはたの宮と申すはかしこにても參り祈り申し給ひし松浦箱崎同じ社なり。かの國を離れ給ふとても多くの願立て申し給ひき。今都にかへりてかくなむ御しるしをえてまかり上りたると早く申し給へ」とてやはたにまうでさせ奉る。そのわたり知れる人にいひ尋ねてごしとて早く親の語らひしだいとこの殘れるを呼びとりてまうでさせ奉る。うちつぎては「佛の御なかには、はつせなむ日の本のうちには、あらたなるしるし顯はし給ふともろこしにだに聞えあなる、まして我國のうちにこそ遠き國のさかひとても年經給ひつればわが君をばまして惠み給ひてむ」とて出し奉る。殊更にかちよりと定めたり。ならはぬ心地にいと侘しく苦しけれど人のいふまゝに物もおぼえで步み給ふ。「いかなる罪深き身にてかゝる世にさすらふらむ。我が親世になくなり給へりとも我をあはれと覺さばおはすらむ所にさそひ給へ。もし世におはせば御顏見せ給へ」と佛を念じつゝありけむさまをだにおぼえねば唯親おはせましかばとばかりの悲しさを歎きわたり給へるに、かくさしあたりて身のわりなきまゝにとりかへしいみじくおぼえつゝ辛うじてつばいちといふ所に四日といふ巳の時ばかりに生ける心地もせでいきつき給へり。步むともなくとかくつくろひたれど足のうら動かれず侘しければせむ方なくて休み給ふ。このたのもし人なるすけ、弓矢持ちたる人二人、さてはしもなるものわらはなどみたりよたり、女ばらあるかぎり三人、つぼさうぞくしてひすましめくものふるきげす女ふたりばかりとぞある、いとかすかに忍びたり。おほみあかしのことなどこゝにてしくはへなどするほどに日暮れぬ。家あるじの法師「人やどし奉らむとする所に何人の物し給ふぞ。怪しき女どもの心に任せて」とむづかるをめざましく聞くほどにげに人々來ぬ。これもかちよりなめり。よろしき女二人しも人どもぞをとこ女かず多かめる。馬四つ五つひかせていみじく忍びやつしたれど淸げなる男どもなどもあり。法師はせめてこゝに宿さまほしくして、かしらかきありく。いとほしけれど又宿りかへむもあさましく煩はしければ人々は奧に入りとにかくしなどしてかたへは片つ方によりぬ。ぜじやうなどひき隔てゝおはします。このくる人も耻しげもなし。いたうかひひそめてかたみに心づかひしたり。さるはかの夜と共に戀ひなく右近なりけり。年月に添へてはしたなきまじらひのつきなくなり行く身を思ひ惱みて、この御寺になむ度々まうでける。れいならひにければかやすく構へたりけれどかちより步み堪へがたくてよりふしたるに、この豐後の介、隣のぜじやうのもとに寄り來て、參りものなるべし、をしき手づから取りて「これはおまへに參らせ給へ。御だいなどうちあはでいとかたはらいたしや」といふを聞くに、我がなみの人にはあらじと思ひて物のはざまより覗けばこの男の顏見し心ちす。誰とはえ覺えず、いと若かりしほどを見しに、ふとり黑みてやつれたれば多くの年經たるめにはふとしも見わかぬなりけり。「三條こゝに召す」と呼びよする女を見ればまた見し人なり。故御かたに、しも人なれど久しく仕うまつうなれてかの隱れ給へりし御すみかまでありしものなりけりと見なしていみじく夢のやうなり。しゆうと思しき人は、いとゆかしけれど見ゆべくもかまへず。思ひわびてこの女に問はむ、兵藤太といひし人も、これにこそあらめ、姬君のおはするにやと思ひよるに、いと心もとなくてこのなかへだてなる三條をよばすれどくひものに心入れてとみにもこぬ、いとにくしとおほゆるもうちつけなりや。辛うじてきて「おぼえずこそ侍れ。筑紫の國にはたとせばかり經にたるげすの身を知らせ給ふべき京人よ。人たがへにや侍らむ」とて寄り來たり。田舍びたるかいねりにきぬなどきていといたうふとりにけり。我がよはひもいとゞおぼえて恥しけれど「なほさしのぞけ、我をば見知りたりや」とて顏をさし出でたり。この女手を打ちて「あがおもとにこそおはしましけれ。あなうれしともうれし。いづくより參り給ひたるぞ。うへはおはしますや」といとおどろおどしくなく。わかものにて見なれし世を思ひ出づるに、隔てきにける年月數へられていとあはれなり。「まづおとゞはおはすや。若君はいかゞなり給ひにし。あてきと聞えしは」とて君の御ことははかなき世を思ふにあへなくもやいはむとてかけむもゆゝしくて言ひ出でず。「皆おはします。姬君もおとなに成りておはします。まづおとゞにかくなむと聞えむ」とて入りぬ。皆驚きて、「夢の心地もするかな。いとつらくいはむかたなく思ひ聞ゆる人にたいめんしぬべきことよ」とてこのへだてによりきたり。けどほくへだてつる屛風だつもの名殘なくおしあけてまづいひやるべきかたなく泣きかはす。おいびとはたゞ我が君はいかゞなり給ひにし。こゝらの年比夢にてもおはしまさむ所を見むと大願を立つれど遙なる世界にて風の音にてもえ聞き傅へ奉らぬをいみじく悲しと思ふに、老の身の殘りとゞまりたるもいと心憂けれどうち捨て奉り給へる若君のらうたくあはれにておはしますをよみぢのほだしにもて煩ひ聞えてなむまたゝき侍る」といひつゞくれば、昔そのをりいふかひなかりしことよりもいらへむかたなく煩はしと思へども「いでや聞えてもかひなし。御かたは早ううせ給ひにき」といふまゝに三人ながらむせかへりいとむつかしくせきかねたり。日暮れぬと急ぎたちてみあかしのことゞもしたゝめ出でゝ急がせば、なかなかいと心あわたゞしく立ちわかる。「もろともにや」といへどかたみにともの人のあやしと思ふべければこの介にも事のさまだにいひしらせあへず我も人もことに恥しくはあらで皆おりたちぬ。右近は人しれず目とゞめて見るに中に美しげなるうしろてのいといたうやつれてうづきのひとへめくものきこめ給へる髮のすきかげいとあたらしくめでたく見ゆ。心苦しう悲しと見奉る。少し足なれたる人はとくみ堂につきにけり。この君をもて煩ひ聞えつゝそや行ふほどにぞのぼり給へる。いとさわがしく人まうでこみてのゝしる。右近が局は佛の右の方に近きまにしたり。この御師はまだ深からねばにや西のまに遠かりけるを、「なほこゝにおはしませ」と尋ねかはしていひたれば男どもをばとゞめて介にかうかうといひ合せてこなたに移し奉る。「かくあやしき身なれど只今の大殿になむ侍ひ侍ればかくかすかなる道にてもらうがはしきことは侍らじと賴み侍る。田舍びたる人をばかやうの所には善からぬなまものどものあなづらはしうするもかたじけなきことなり」とて物語いとせまほしけれどおどろおどろしきおこなひのまぎれに騷しきにもよほされて佛を拜み奉る。右近は心のうちに「この人をいかで尋ね聞えむと申し渡りつるにかつがつかくて見奉れば今は思ひのごとおとゞの君の尋ね奉らむの御志深かめるに知らせ奉りてさいはひあらせ奉り給へ」など申しける。國々より田舍人多くまうでたりけり。この國の守の北の方もまうでたりけり。いかめしくいきほひたるをうらやみてこの三條がいふやう「大ひさにはことことも申さじ。あが姬君大貳の北の方ならずばたうごくのずりやうの北の方になし奉らむ。三條らも隨分に榮えてかへり申しは仕うまつらむ」と額に手をあてゝ念じ入りてをり。右近いとゆゝしくもいふかなと聞きて、「いといたくこそ田舍びにけれな。中將殿は昔の御おぼえだにいかゞおはしましゝ。まして今は天の下を御心にかけ給へる大臣にていかばかりいつかしき御なかに、御かたしもずりやうのめにて品定りておはしまさむよ」といへば、「あなかまたまへ。大臣たちも暫しまて、大貳のみたちのうへのし水の御寺の觀世音寺に參り給ひしいきほひは帝のみゆきにやは劣れる。あなむくつけや」とて猶更に手をひき放たず拜み入りて居り。筑紫人は三日籠らむと志し給へり。右近はさしも思はざりけれどかゝるついでにのどかに聞えむとて籠るべきよし大德呼びていふ。御あかし文など書きたる心ばへなどさやうの人はくだくだしう辨へければ常のことにて例の藤原の瑠璃君といふが御ために奉る「能く祈り申し給へ。その人この頃なむ見奉り出でたる。そのぐあんもはたし奉るべし」といふ、聞くもあはれなり。法師「いとかしこきことかな。たゆみなく祈り申し侍るしるしにこそ侍れ」といふ。いと騷しう夜一夜行ふなり。明けぬれば。知れる大德の坊におりぬ。物語心やすくとなるべし。姬君のいたくやつれ給へる、恥しげにおぼしたるさまいとめでたく見ゆ。「おぼえぬたかきまじらひをして多くの人をなむ見あつむれど、殿のうへの御かたちに似る人おはせじとなむ年比見奉るを、又おひ出で給ふ姬君の御さまいとことわりにめでたくおはします。かしづき奉り給ふさまもならびなかめるにかうやつれ給へるさまの劣り給ふまじく見え給ふはありがたうなむ。おとゞの君、父帝の御時よりそこらの女御后それよりしもはのこりなく見奉り集め給へる御めにも、たうだいの御母后と聞えしとこの姬君の御かたちとをなむよき人とはこれをいふにやあらむとおぼゆると聞え給ふ。見奉りならぶるにかの后の宮をばしりきこえず、姬君は淸らにおはしませどまだかたなりにておひさきぞ推しはかられ給ふ。うへの御かたちはなほ誰かならび給はむとなむ見給ふ。殿もすぐれたりとおぼしためるをことに出でゝは何かは數へのうちには聞え給はむ。われにならび給へるこそ君はおほけなけれとなむ戯れ聞え給ふ。見奉るに命のぶる御ありさまどもを又さるたぐひおはしましなむやとなむ思ひ侍るを「いづくか劣り給はむ。物は限あるものなればすぐれ給へりとていたゞきを離れたる光やはおはする。唯これをすぐれたりとは聞ゆべきなめりかし」とうち笑みて見奉ればおいびともうれしと思ふ。「かゝる御さまをほどほどあやしき所にしづめ奉りぬべかりしに、あたらしく悲しうていへかまどをも捨てをとこ女の賴むべき子どもにもひき別れてなむ、かへりて知らぬ世の心ちする京にまうでこし。あがおもと、はやよきさまに導き聞え給へ。高き宮仕し給ふ人はおのづからゆきまじりたるたよりものし給ふらむ。父おとゞ聞しめされかずまへられ給ふべきたばかりおぼし搆へよ」といふ。恥しうおぼいて後むき給へり。「いでや身こそ數ならねど殿もおまへ近く召しつかはせ給へば物のをりごとに、いかにならせ給ひにけむと聞え出づるを聞しめし置きて、我いかで尋ね聞えむと思ふを聞き出で奉りたらばとなむの給はする」といへばおとゞの君はめでたくおはしますとも、さるやんごとなき御めどもおはしますなり。まづまことの親とおはするおとゞにを知らせ奉り給へ」などいふに、ありしさまなど語り出でゝ、「世に忘れ難く悲しきことになむおぼして、かの御かはりに見奉らむ、子も少きがさうざうしきに我が子を尋ね出でたると人には知らせてと、そのかみよりのたまふなり。心の幼かりけることはよろづに物つゝましかりしほどにて尋ねも聞えで過ぐしゝほどに、少貳になり給へるよしは御名にて知りにき。まかり申しに殿に參り給ひし日ほの見奉りしかどもえ聞えで止みにき。さりとも姬君をばかのありし夕顏の五條にとゞめ給へらむとぞ思ひし。あないみじや。田舍人にておはしまさましよ」などうちかたらひつゝ日一日昔物語ねんずなどしつゝ、參りつどふ人のありさまども見くださるゝかたなり。前より行く水をば初瀨川といふなりけり。右近、

 「ふたもとの杉のたちどを尋ねずばふるかはのべにきみを見ましや。嬉しき瀨にも」ときこゆ。

 「初瀨川はやくのことは知らねどもけふの逢ふ瀨に身さへ流れぬ」とうち泣きておはするさまいとめやすし。かたちはいとかくめでたく淸げながら田舍びこちごちしうおはせましかばいかに玉のきずならまし、いであはれ、いかでかくおひ出で給ひけむとおとゞを嬉しく思ふ。母君はたゞいと若やかにおほどかにてやはやはとぞたをやぎ給へりし。これはけ高くもてなしなど恥しげによしめき給へり。筑紫を心にくゝ思ひなすに、みな見し人は里びにたるを心得がたくなむ。暮るれば御堂にのぼりてまたの日も行ひ暮し給ふ。秋風谷より遙に吹きのぼりていとはだ寒きに、ものいとあはれなる心どもにはよろづ思ひつゞけられて人なみなみならむこともありがたきことゝ思ひ沈みつるを、この人の物語のついでにおとゞの御ありさまはらばらの何ともあるまじき御子どもみなものめかしなしたて給ふを聞けば、かゝるした草たのもしくぞおぼしなりぬる。出づとてもかたみにやどる所も問ひかはしてもし又おひまどはしたらむ時と危く思ひけり。

右近が家は六條院近きわたりなりければ程遠からでいひかはすもたつき出で來ぬる心地しける。右近は大殿にまゐりぬ。この事をかすめ聞ゆるついでもやとて急ぐなりけり。御門ひき入るゝよりけはひことにひろびろとしてまかで參る車おほくまよふ。數ならで立ち出づるもまばゆき心地する玉のうてななり。その夜はおまへにも參らで思ひ臥したり。又の日よべ里より參れる上臈若人どものなかに取りわきて右近召し出づればおもだゝしくおぼゆ。おとゞも御覽じて、「などか里居は久しくしつる。例ならずやもめ人のひきたがへこまがへるやうもありかし。をかしき事などありつらむ」など、例のむつかしうたはぶれごとなどのたまふ。「まかでゝ七日に過ぎ侍りぬれどをかしき事は侍りがたくなむ。山ぶみし侍りてあはれなる人をなむ見奉りつけたりし」。「何人ぞ」と問ひ給ふ。ふと聞え出でむもまだうへに聞かせ奉らでとりわき申したらむをのちに聞き給ひては隔て聞えけるとや覺さむなど思ひ亂れて「今聞えさせ侍らむ」とて人々參れば聞えさしつ。おほとなぶらなどまゐりてうちとけならびおはします。御有樣どもいと見るかひ多かり。女君は廿七八になり給ひぬらむかし。盛に淸らにねびまさり給へり。少しほど經て見奉るは又このほどにこそにほひ加り給ひにけれと見え給ふ。かの人をいとめでたく劣らじと見奉りしかど、思ひなしにやなほこよなきにさいはひのあるとなきとへだてあるべきわざかなと見合せらる。大殿ごもるとて右近を御あしまゐりにめす。「若き人は苦しとてむつかるめり。なほ年經ぬるどちこそ心かはしてむつびよかりけれ」とのたまへば人々忍びて笑ふ。「さりや。たれかその使ひ馴ひ給はむをばむつからむ。うるさきたはぶれごといひかゝり給ふを煩はしきに」などいひあへり。うへも「年經ぬるどちうちとけ過ぎば、はたむつかり給はむとや」。「さるまじき心と見ねばあやふし」など右近に語らひて笑ひ給ふ。いとあいぎやうづきをかしきけさへ添ひ給へり。今はおほやけに仕へいそがしき御有樣にもあらぬ御身にて世の中のどやかにおぼさるゝまゝに唯はかなき御戯ふれごとをの給ひ、をかしく人の心を見給ふあまりにかゝるふる人をさへぞたはぶれ給ふ。「かの尋ね出でたりけむや、何ざまの人ぞ。たふときすぎやうざ語らひてゐて來たるか」と問ひ給へば、「あな見ぐるしや。はかなく消え給ひにし夕顏の露の御ゆかりをなむ見給へつけたりし」と聞ゆ。「げにあはれなりけることかな。年比はいづくにか」との給へば、ありのまゝには聞えにくゝて「あやしき山里になむ。昔人もかたへは變らで侍りければ、その世の物語し出で侍りて堪へ難く思う給へりし」など聞え居たり。「よし、心知り給はぬ御あたりに」とかくし聞え給へば、うへ「あなわづらはし。ねぶたきに聞き入るべくもあらぬものを」とて御袖して御耳ふたぎ給ひつ。「かたちなどはかの昔の夕顏と劣らじや」などのたまへば、「必ずさしもいかでか物し給はむと思ひ給へりしを、こよなうこそおひまさりて見え給ひしか」と聞ゆれば、「をかしのことや。たればかりとかおぼゆ。この君」とのたまへば、「いかでかさまでは」と聞ゆれば、「したり顏にこそ思ふべけれ。われに似たらばしもうしろやすしかし」と親めきてのたまふ。かく聞きそめて後はめしはなちつゝ、「さらばかの人このわたりに渡い奉らむ。年比物のついで殊にくち惜しう惑はしつることを思ひ出でつるに、いと嬉しく聞き出でながら今までおぼつかなきもかひなきことになむ。ちゝおとゞには何か知られむ。いとあまたもてさわがるめるにかずならでいまはじめ立ちまじりたらむがなかなかなることこそあらめ。われはさうざうしきにおぼえぬ所より尋ね出したるともいはむかし。すきものどもの心つくさするくさはひにていといたうもてなさむ」など語らひ給へば、かつがついと嬉しく思ひつゝ、「たゞ御心になむ。おとゞに知らせ奉らむとも誰かは傳へほのめかし給はむ。いたづらにすぎ物し給ひしかはりには、ともかくもひき助けさせ給はむことこそは罪かるませ給はめ」と聞ゆ。「いたうもかこちなすかな」とほゝゑみながら淚ぐみ給へり。「あはれにはかなかりける契となむ年比思ひわたる。かくてつどへたるかたがたのなかに、かのをりのこゝろざしばかり思ひとゞむる人なかりしを、命長くて我が心ながさをも見はつるたぐひ多かめるなかにいふかひなくてそこばかりをかたみに見るは口惜しくなむ。思ひ忘るゝ時なきにさてものし給はゞいとこそほいかなふ心地すべけれ」とて御せうそこ奉り給ふ。かの末摘花のいふかひなかりしをおぼし出づれば、さやうに沈みておひ出でたらむ人のありさまうしろめたくて、まづふみのけしきゆかしうおぼさるゝなりけり。ものまめやかにあるべかしく書き給ひてはしにかく聞ゆるを、

 「しらずとも尋ねてしらむみしまえに生ふるみくりのすぢは絕えじを」となむありける。御ふみみづからまかでゝのたまふさまなどきこゆ。御さうぞく人々のれうなどさまざまあり。うへにも語らひ聞え給へるなるべし。みくしげどのなどにもまうけの物召し集めて色あひしざまなど異なるをとえらせ給へれば、田舍びたるめどもにはまして珍しきまでなむ思ひける。さうじみはたゞかごとばかりにてもまことの親の御けはひならばこそ嬉しからめ、いかでか知らぬ人の御あたりにはまじらはむとおもむけて苦しげにおぼしたれど、あるべきさまを右近聞え知らせ、人々も、「おのづからさて人だち給ひなばおとゞの君も尋ね聞え給ひなむ。親子の御契は絕えて止まぬものなり。右近が數にも侍らずいかでか御覽じつけられむと思う給へしだに、佛神の御導き侍らざりけりや。まして誰も誰もたひらかにおはしまさば」と皆聞えなぐさむ。「まづ御返しを」とせめてかゝせ奉る。いとこよなく田舍びたらむものをと恥かしくおぼいたり。からの紙のいとかうばしき取り出でゝ書かせ奉る。

 「數ならぬみくりや何のすぢなればうきにしもかくねをとゞめけむ」とのみほのかなり。手ははかなだちてよろぼはしけれど、あてはかにてくち惜しからねば御心おちゐにけり。住み給ふべき御かた御覽ずるに、南の町にはいたづらなるたいどもなどもなし。いきほひことにすみみち給へればけせうに人しげくもあるべし、中宮のおはします町はかやうの人も住みぬべくのどやかなれど、さて侍ふ人のつらにや聞きなさむとおぼして、少しうもれたれど丑寅の町の西の對ふどのにてあるをことかたへ移してとおぼす。あひずみも忍びやかに心よくものし給ふ御方なればうち語らひてもありなむとおぼし置きつ。うへにも今ぞかのありし昔の世の物語聞え出で給うける。かく御心にこめ給ふことありけるをうらみ聞え給ふ。「わりなしや。世にある人のうへとてや問はずがたりは聞え出でむ。かゝるついでに隔てぬこそ人にはことに思ひ聞ゆれ」とていとあはれげにおぼし出でたり。「人のうへにてもあまた見しに、いと思はぬ中も女といふものゝ心深きをあまた見聞きしかば更にすきずきしき心はつかはじとなむ思ひしを、おのづからさるまじきをもあまた見しなかに、あはれとひたぶるにらうたきかたは又たぐひなくなむ思ひ出でらるゝ。世にあらましかば北の町にものする人のなみにはなどか見ざらまし。人の有樣とりどりになむありける。かどかどしうをかしきすぢなどは後れたりしかども、あてはかにらうたくもありしかな」などのたまふ。「さりとも明石の波にはたちならべ給はざらまし」とのたまふ。なお北のおとゞをばめざましと心おき給へり。姬君のいとうつくしげにて何心もなく聞き給ふがらうたければ又ことわりぞかしとおぼしかへさる。かくいふは九月のことなりけり。わたり給はむことすがすがしくもいかでかはあらむ。よろしきわらは若人などもとめさす。筑紫にてはくち惜しからぬ人々も京よりちりぼひ來たるなどをたよりにつけて呼び集めなどして侍はせしも、俄に惑ひ出で給ひしさわぎに、みなおくらかしてければまた人もなし。京はおのづから廣き所なればいちめなどやうのものいとよくもとめつゝゐてく。その人の御子などゝは知らせざりけり。右近が里の五條にまづ忍びて渡し奉りて人々えりとゝのへさうぞくとゝのへなどしてかみなづきにぞ渡り給ふ。おとゞひんがしの御かたに聞え奉り給ふ。あはれと思ひし人の物うんじしてはかなき山里に隱れ居にけるを、をさなき人のありしが年比も人知れず尋ね侍りしかどもえ聞き出でゞなむ女になるまで過ぎにけるを、おぼえぬかたよりなむ聞きつけたる時にだにとてうつろはし侍るなり。母もなくなりにけり。中將を聞えつけたるに惡しくやはある。同じごとうしろみ給へ。山がつめきておひ出でたればひなびたること多からむ。さるべくことに觸れて敎へ給へ」といとこまやかに聞え給ふ。「げにかゝる人のおはしけるを知り聞えざりけるよ。姬君の一所ものし給ふがさうざうしきに、善きことかな」とおいらかにのたまふ。「かの親なりし人は心なむありがたきまでよかりし。御心もうしろ安く思ひ聞ゆれば」などのたまふ。「つきづきしくうしろ見む人なども事おほからでつれづれに侍るを嬉しかるべきことになむ」とのたまふ。殿のうちの人は、御むすめとも知らで、「何人をまた尋ね出で給へるならむ。むつかしきふるものあつかひかな」といひけり。御車三つばかりして人のすがたどもなど右近あれば田舍びずしたり。殿よりぞ綾何くれと奉り給へる。その夜やがておとゞの君渡り給へり。昔光源氏などいふ名は聞き渡り奉りしかど年比のうひうひしさにさしも思ひ聞えざりけるを、ほのかなるおほとなぶらにみ几帳のほころびよりはつかに見奉る。いとゞ恐しくさへ覺ゆるや。渡り給ふかたの戶を右近かいはなてば、「この戶口に入るべき人は心ことにこそ」とうち笑ひ給ひてひさしなるおましにつゐ居給ひて、「火こそいとけさうびたる心地すれ。親の顏はゆかしきものとこそ聞け。さもおぼさぬか」とて几帳少し押し遣り給ふ。わりなく耻しければそばみておはするやうだいなど、いとめやすく見ゆれば、嬉しくて、「今少し光見せむや。あまり心にくし」とのたまへば、右近かゝげて少しよす。「おもなの人や」と少し笑ひ給ふ。げにとおぼゆる御まみの耻しげさなり。いさゝかもこと人とへだてあるさまにものたまひなさず。いみじく親めきて「年比御ゆくへも知らで心にかけぬひまなく歎き侍るを、かうて見奉るにつけても夢の心ちして過ぎにしかたの事ども取り添へ忍びがたきに、えなむ聞えられざりける」とて御目おしのごひ給ふ。誠に悲しうおぼし出でらる。御年のほどかぞへ給ひて「親子の中のかく年經たるたぐひあらじものを契つらくもありけるかな。今はものうひうひしく若び給ふべき御程にもあらじを年比の御物語なども聞えまほしきに、などか覺束なくは」と恨み給ふに聞えむこともなく耻しげれば、「足立たずしづみそめ侍りにける後何事もあるかなきかになむ」とほのかに聞え給ふ聲ぞ昔人にいとよくおぼえて若びたりける。ほゝゑみて、「しづみ給へりけるをあはれとも今はまた誰かは」とて心ばへいふかひなくはあらぬ御いらへとおぼす。右近にあるべき事のたまはせてわたり給ひぬ。めやすくものし給ふを嬉しくおぼしてうへにも語り聞え給ふ。「さる山がつのなかに年經たればいかにいとほしげならむとあなづりしを、かへりて心耻しきまでなむ見ゆる。かゝるものありといかで人に知らせて、兵部卿の宮などのこのまがきのうちこのましうし給ふ心みだりにしがな。すきものどものいとうるはしだちてのみこのわたりに見ゆるもかゝるものゝくさはひのなきほどなり。いたうもてなしてしがな。猶うちあらぬ人の氣色見集めむ」とのたまへば、「あやしの人の親や。まづ人の心勵さむことをおぼすよ。けしからず」とのたまふ。「誠に君をこそ今の心ならましかばさやうにもてなして見つべかりけれ。いとむしんにしなしてしわざぞかし」とて笑ひ給ふにおもて赤みておはする、いと若くをかしげなり。硯ひきよせ給ひて手ならひに。

 「戀ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなるすぢを尋ね來つらむ」。「あはれ」と軅てひとりごち給へばげに深くおぼしける人の名殘なめりと見給ふ。中將の君にも「かゝる人を尋ね出でたるを、用意してむつびとぶらへ」とのたまひければこなたにまうで給ひて、「人數ならずともかゝるものさぶらふと、まづ召し寄すべくなむ侍りける。御わたりのほどにも參り仕うまつらざりけること」といとまめまめしう聞え給へば、かたはらいたきまで心知れる人は思ふ。心のかぎり盡したりし御すまひなりしかどあさましう田舍びたりしもたとしへなくぞ思ひくらべらるゝや。御しつらひより始め今めかしうけだかくて親はらからとむつび聞え給ふ。御さまかたちよりはじめめもあやにおぼゆるに今ぞ三條も大貳をあなづらはしく思ひける。ましてげんがいきざしけはひ思ひ出づるもゆゝしきことかぎりなし。豐後の介の心ばへをありがたきものに君もおぼし知り、右近も思ひいふ。おほざうなるはことも怠りぬべしとてこなたの家司ども定めあるべき事どもおきてさせ給ふ。豐後の介もなりぬ。年比田舍び沈みたりし心地俄に名殘なく、いかでか假にても立ち出で見るべきよすがなくおぼえし大殿の內を朝夕にいで入ならし、人をしたがへ事行ふ身となれるは、いみじきめいぼくと思ひけり。おとゞの君の御心おきてのこまかにありがたうおはしますこといとかたじけなし。年の暮に御しつらひのこと人々のそうぞくなどやんごとなき御つらにおぼしおきてたり。かゝりとも田舍びたることやと山がつのかたにあなづり推しはかり聞え給ひて、てうじたる裳奉り給ふついでに、織物どものわれもわれもと手を盡しておりつゝもて參れる、細長小袿のいろいろさまざまなるを御覽ずるに、「いと多かりけるものどもかな。かたがたに恨みなくこそものすべかりけれ」とうへに聞え給へば、御匣殿に仕う奉れるもこなたにせさせ給へるも皆とうでさせ給へり。かゝるすぢはたいとすぐれて世になき色あひにほひを染めつけ給へば、ありがたしと思ひ聞え給ふ。こゝかしこのうちどのより參れる物ども御覽じくらべて濃き赤きなどさまざまをえらせ給ひつゝみそびつころもばこどもに入れさせ給ひておとなびたる上臈ども侍ひてこれは彼はと取りぐしつゝ入る。うへも見給ひて、「いづれおとりまさるけぢめも見えぬものどもなめるを、着給はむ人の御かたちに思ひよそへつゝ奉れ給へかし。着たるものゝ人のさまに似ぬはひがひがしくもありかし」とのたまへば、おとゞうち笑ひて、「つれなくて人のかたちおしはからむの御心なめりな。さていづれをとかおぼす」と聞え給へば、「それも鏡にてはいかでか」とさすがに耻らひておはす。紅梅のいと紋浮きたるえび染の御こうちき、今やう色のいとすぐれたるとはこの御料。櫻のほそながにつやゝかなるかい練とり添へては姬君の御料なり。あさはなだのかいふの織物織りざまなまめきたれど匂ひやかならぬにいと濃きかい練具して夏の御かたに、曇りなく赤きに山吹の花のほそながはかの西の對に奉れ給ふを、うへは見ぬやうにておぼしあはす。內のおとゞのはなやかにあな淸げとは見えながらなまめかしう見えたるかたのまじらぬに似たるなめりとげに推し量らるゝを、色には出し給はねど、殿見やり給へるにたゞならず。「いでこのかたちのよそへは人はらだちぬべきことなり。よしとても物の色はかぎりあり、人のかたちはおくれたるも又猶そこひあるものを」とてかの末摘花の御料に柳の織物のよしあるからくさをみだれ織れるもいとなまめきたれば人知れずほゝゑまれ給ふ。梅の折枝蝶鳥飛びちがひからめいたる白き小袿に濃きがつやゝかなる重ねて明石の御方に。思ひやりけだかきをうへは目ざましと見給ふ。うつせみの尼君にあをにびの織物いと心ばせあるを見つけ給ひて御料にあるくちなしの御ぞゆるし色なる添へ給ひて同じ日着給ふべき御せうそこ聞えめぐらし給ふ。げに似げついたるども見むの御心なりけり。皆御かへりどもたゞならず、御使の祿こゝろごゝろなるに末摘花東の院におはすれば今少しさしはなれえんなるべきを麗しくものし給ふ人にて、あるべきことはたがへ給はず。山吹の袿の袖口いたくすゝけたるをうつほにてうちかけ給へり。御文にはいとかうばしきみちのくにがみの少しとしへ厚きが黃ばみたるに「いでやのたまへるはなかなかにこそ。

  きて見ればうらみられけりから衣かへしやりてむ袖をぬらして」。御手のすぢことにあふよりにたり。いといたくほゝゑみ給ひてとみにもうちおき給はねば、うへ何事ならむと見おこせ給へり。御使にかづけたるものをいとわびしく傍いたしとおぼしてみけしきあしければすべてまかでぬ。いみじくおのおのはさゝめき笑ひけり。かやうにわりなうふるめかしう傍いたき所のつき給へるさかしらにもて煩ひぬべくおぼす。恥かしきまみなり。「古代の歌よみは、から衣、袂ぬるゝかごとこそはなれねな。まろもそのつらぞかし。更にひとすぢにまつはれて今めきたることの葉にゆるぎ給はぬこそねたきことはあれ。人のなかなることををりふしおまへなどのわざとある歌よみのなかにてはまとゐはなれぬみもじぞかし。昔のけさうのをかしきいどみにはあだ人といふいつもじをやすめどころにうちおきて言の葉のつゞきたよりある心地すべかめり」など笑ひ給ふ。「よろづの草子歌まくらよくあないしり見つくしてそのうちの詞を取り出づるに、よみつぎたるすぢこそはつようは變らざるべけれ。常陸のみこの書き置き給へりけるかうや紙の草子をこそ見よとておこせ給へりしが、和歌の髓腦いと所せう病さるべき所おほかりしかば、もとよりおくれたる方のいとゞなかなか動きすべくも見えざりしかば、むづかしくてかへしてき。能くあないしり給へる人の口つきにてはめなれてこそあれ」とてをかしくおぼいたるさまぞいとほしきや。うへいとまめやかにて、「などてかへし給ひけむ。書きとゞめて姬君にも見せ奉り給ふべかりけるものを。こゝにも物のなかなりしも蟲皆そこなひてければ見ぬ人はた心ことにこそはとほかりけれ」とのたまふ。「姬君の御學問にいとようなからむ。すべて女はたてゝ好めること設けてしみぬるはさまよからぬことなり。何事もいとつきなからむはくち惜しからむ。たゞ心のすぢをたゞよはしからずもてしづめおきてなだらかならむのみなむめやすかるべかりける」などのたまひて御返事はおぼしもかけねば「返しやりて」むとあめるに「これより押し返し給はざらむはひがひがしからむ」とそゝのかし聞え給ふ。なさけ捨てぬ御心にて書き給ふ。いと心やすげなり。

 「かへさむといふにつけてもかたしきの夜の衣を思ひこそやれ。ことわりや」とぞあめる。


初音

年立ちかへるあしたの空の氣色名殘なく曇らぬうらゝかげさには、數ならぬ垣根の內だに雪間の草若やかに色づきそめ、いつしかと氣色だつ霞に木のめもうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。ましていとゞ玉を敷けるおまへは庭より始め見所おほく、みがきまし給へる御かたがたの有樣、まねびたてむも言の葉たるまじくなむ。春のおとゞのおまへ取り分きて梅の香も御簾の內のにほひに吹きまがひて生ける佛の御國とおぼゆ。さすがに打ち解けてやすらかに住みなし給へり。侍ふ人々も若やかにすぐれたるを姬君の御方にとえらせ給ひて、少しおとなびたるかぎりなかなかよしよしゝくさう束有樣よりはじめてめやすくもてつけて、此處彼處にむれ居つゝはがためのいはひして、もちひ鏡をさへ取りよせて千年のかげにしるき年の內の祝事どもしてそぼれあへるに、おとゞの君さしのぞき給へればふところでひきなほしつゝ、「いとはしたなきわざかな」とわびあへり。「いとしたゝかなるみづからの祝事どもかな。皆各々思ふことの道々あらむかし。少し聞かせよや。われことぶきせむ」とうち笑ひ給へる御有樣を年のはじめのさかえに見奉る。われはと思ひあがれる中將の君ぞ「かねてぞ見ゆるなどこそ鏡の影にも語らひ侍りつれ。私のいのりは何ばかりのことをか」など聞ゆる。あしたのほどは人々參りこみて物騷がしかりけるを、夕つ方御かたがたの參座し給はむとて心ことに引きつくろひけさうじ給ふ御蔭こそげに見るかひあめれ。「今朝この人々の戯ぶれかはしつるいと羨ましう見えつるを、うへにはわれ見せ奉らむ」とて亂れたる事ども少しうちまぜつゝ祝ひ聞えたまふ。

 「うす氷とけぬる池のかゞみには世にたぐひなきかげぞならべる」。げにめでたき御あはひどもなり。

 「くもりなき池の鏡によろづ代をすむべきかげぞしるく見えける」。何事につけても末遠き御契をあらまほしく聞えかはし給ふ。今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はむにことわりなる日なり。姬君の御方に渡り給へれば、わらはしもづかへなどおまへの山の小松ひき遊ぶ。若き人々の心地ども置き所なく見ゆ。北のおとゞより、わざとがましくし集めたるひげこどもひわりごなど奉れ給へり。えならぬ五葉の枝にうつれる鶯も思ふ心あらむかし。

 「年月を松にひかれてふる人にけふうぐひすの初音きかせよ。音せぬさとの」と聞え給へるを、げにあはれとおぼし知る。こといみもえし給はぬ氣色なり。「この御かへりはみづから聞えたまへ。初音惜み給ふべき方にもあらずかし」とて御硯取りまかなひ書かせ奉らせたまふ。いとうつくしげにて明暮見奉る人だに飽かず思ひ聞ゆる御有樣を、今まで覺束なき年月のへだゝりけるも罪えがましく心苦しとおぼす。

 「ひきわかれ年はふれども鶯のすだちしまつのねをわすれめや」。幼き御心にまかせてくだくだしくぞあめる。夏の御すまひを見給へば、時ならぬけにやいとしづかに見えてわざと好ましきこともなく、あてやかに住みなし給へるけはひ見えわたる。年月に添へて御心のへだてもなく、あはれなる御なからひなり。今はあながちに近やかなる御有樣ももてなし聞え給はざりけり。いと睦しくありがたからむいもせの契ばかり聞えかはし給ふ。御几帳隔てたれど少し押し遣り給へばまたさておはす。はなはだげににほひ多からぬあはひにて、御ぐしなどもいたく盛過ぎにけり。やさしき方にあらねどえびかづらしてぞつくろひ給ふべき、われならざらむ人はみざねしぬべき御有樣をかくて見るこそ嬉しくほいあれ、かろき人のつらにて我にそむき給ひなましかばなど、御對面の折々にはまづ我が御心のながさも人の御心の重きをも嬉しく思ふやうなりとおぼしけり。こまやかにふる年の御物語などなつかしく聞え給ひて西の對へ渡り給ふ。まだいたくも住み馴れ給はぬ程よりはけはひをかしくしなして、をかしげなるわらはべの姿なまめかしく、人かげのあまたして御しつらひあるべき限なれども、こまやかなる御調度はいとしも整へ給はぬをさる方に物淸げに住みなし給へる。さうじみもあなをかしげとふと見えて、山吹にもてはやし給へる御かたちなどいと花やかにこゝに曇れると見ゆる所なく、隈なくにほひきらきらしく見まほしきさまぞし給へる。物思ひに沈み給へる程のしわざにや、髮の裾少しほそりてさばらかにかゝれるしもいともの淸げに、出處彼處いとけざやかなるさまし給へるを、かくて見ざらましかばとおもほすにつけてはえしも見すぐし給ふまじくや。かくいと隔なく見奉りなれ給へど、なほおもふにへだゝり多く怪しきがうつゝの心地もし給はねば、まほならずもてなし給へるもいとをかし。「年頃になりぬる心地して見奉るも心安くほいかなひぬるをつゝみなくもてなし給ひて、あなたなどにも渡り給へかし。いはけなきうひ琴ならふ人もあめるを諸共に聞きならし給へ。後めたくあはつけき心もたる人なき所なり」と聞え給へば、「のたまはむまゝにこそは」と聞え給ふ。さもあることぞかし。暮方になる程に明石の御方に渡り給ふ。近き渡殿の戶押しあくるより御簾の內の追風なまめかしく吹き匂はして、物より殊にけだかくおぼさる。さうじみは見えず。いづらと見まはし給ふに、硯のあたり賑はゝしく草子ども取り散らしたるを取りつゝ見給ふ。唐のとうぎやうきのことごとしきはしさしたるしとねにをかしげなるきんうちおき、わざとめきよしある火桶に侍從をくゆらかして物ごとにしめたるに、えびかうのかのまがへるいとえんなり。手習どもの亂れうち解けたるもすぢかはりゆゑある書きざまなり。ことごとしくさうがちなどにもざえがらずめやすく書きすさびたり。小松の御返しをめづらしと見けるまゝに、あはれなるふることゞも書きまぜて、

 「めづらしや花のねぐらに木づたひてたにのふる巢をとへる鶯。聲待ち出でたる」などもあり。「咲けるをかべに家しあれば」などひき返し慰めたるすぢなどかきまぜつゝあるを、取りて見給ひつゝほゝゑみ給へる、恥しげなり。筆さしぬらして書きすさみ給ふ程にゐざり出でゝ、さすがにみづからのもてなしはかしこまりおきてめやすき用意なるを、猶人よりは殊なりとおぼす。白きにけざやかな髮のかゝりの少しさばらかなる程に薄らぎにけるもいとゞなまめかしさ添ひてなつかしければ、新しき年の御さわがれもやとつゝましけれどこなたにとまり給ひぬ。猶おぼえことなりかしと、かたがたに心おきておぼす。南のおとゞにはましてめざましがる人々あり。まだ曙の程に渡り給ひぬ。かうしもあるまじき夜深さぞかしと思ふに、名殘もたゞならずあはれに思ふ。待ちとり給へるはたなまけやけしとおぼすべかめる心の中はかられ給ひて、「怪しきうたゝねをして若々しかりけるいぎたなさをさしも驚かし給はで」と御氣色とり給ふもをかしう見ゆ。殊なる御いらへもなければ、わづらはしくてそらねをしつゝ日高く大殿ごもりおきたり。今日は臨時客の事にまぎらはしてぞおもがくし給ふ。上達部みこ達など、例の殘りなく參り給へり。御遊ありて、引出物祿などになし。そこら集ひ給へるが我も劣らじともてなし給へる中にも、少しなづらひなるだに見え給はぬものかな。とりはなちてはいうそく多く物し給ふころなれど、御前にてはけおされ給ふわろしかし。何の數ならぬ下部どもなどだに、この院に參るには心づかひことなりけり。まして若やかなる上達部などは思ふ心など物し給ひて、すゞろに心げさうし給ひつゝ常の年よりも殊なり。花のか誘ふ夕風長閑に打ち吹きたるに、お前の梅やうやうひもときてあれは誰ときなるに、物のしらべどもおもしろくこのとのうち出でたる拍子いと華やかなり。おとゞも時々聲うち添へ給へるさきくさの末つかた、いと懷しうめでたく聞ゆ。何事もさしいらへし給ふ御光にはやされて、色ども香をもますけぢめことになむわかれける。かくのゝしる馬車の音をも物隔てゝ聞き給ふ御方々は、はちすの中の世界にまだ開けざらむ心地もかくやと心やましげなり。ましてひんがしの院に離れ給へる御方々は年月に添へてつれづれの數のみまされど、世のうきめ見えぬ山路に思ひなずらへて、つれなき人の御心をば何とかは見奉り咎めむ。その外の心もとなく寂しきことはたなければ、おこなひの方の人はそのまぎれなくつとめ、かなの萬の草紙の學問心に入れ給はむ人はまたその願ひに從ひ、物まめやかにはかばかしきおきてにも唯心の願ひに從ひにたる住ひなり。騷しき日ごろ過して渡り給へり。常陸の宮の御方は人のほどあれば心苦しくおぼして人目のかざりばかりはいとよくもてなし聞え給ふ。いにしへ盛と見えし御若髮も、年ごろに衰へゆき、まして瀧のよどみ恥しげなる御かたはらめなどをいとほしとおぼせば、まほにも向ひ給はず。柳はげにこそすさまじかりけれと見ゆるもきなし給へる人がらなるべし。光もなく黑きかいねりのさいざいしくはりたるひとかさね、さる織物の袿を着給へるいと寒げに心苦し。かさねの袿などはいかにしなしたるにかあらむ。御鼻の色ばかり、霞にもまぎるまじく花やかなるに御心にもあらず打ち歎かれ給ひて、殊更に御几帳引きつくろひ隔て給ふ。なかなか女はさしもおぼしたらず、今はかくあはれに長き御心のほどをおだしきものにうちとけ賴み聞え給へる御さまあはれなり。かゝる方にもおしなべての人ならずいとほしく悲しき人の御さまとおぼせば、あはれにわれだにこそはと御心とゞめ給へるもありがたきぞかし。御聲などもいと寒げに打ちわなゝきつゝ語らひ聞え給ふ。見煩ひ給ひて「御ぞどものこと後見聞ゆる人は侍るや。かく心やすき御住ひは唯いと打ち解けたるさまにふくみなえたるこそよけれ。うはべばかりつくろひたる御よそひはあいなくなむ」と聞え給へば、こちごちしくさすがに笑ひ給ひて、「醍醐の阿闍梨の君の御あつかひし侍るとて、きぬどもゝえ縫ひ侍らでなむ、かはぎぬをさへとられにし後寒く侍る」と聞え給ふはいと鼻赤き御せうとなりけり。心うつくしといひながらあまり打ち解け過ぎたりとおぼせど、此處にてはいとまめにきすく人にておはす。「かはぎぬはいとよし。山伏のみのしろごろもに讓り給ひてあえなむ。さてこのいたはりなき白妙の衣は、なゝへにもなどか重ね給はざらむ。さるべき折々は打ち忘れたらむことも驚し給へかし。もとよりをれをれしくたゆき心のをこたりに、まして方々のまぎらはしききほひにもおのづからなむ」とのたまひて、向ひの院のみくらあけさせて絹綾など奉らせ給ふ。荒れたる所もなけれど、住み給はぬ所のけはひはしづかにて御まへの木立ばかりぞいとおもしろく、紅梅の咲き出でたるにほひなど見はやす人もなきを、見わたし給ひて、

 「ふるさとの春の木末にたづねきて世のつねならぬ花を見るかな」。ひとりごち給へど聞き知り給はざりけむかし。空蟬のあま衣にもさしのぞき給へり。うけばりたるさまにはあらずかごやかにつぼね住みにしなして、佛ばかりに所えさせ奉りて行ひ勸めけるさまあはれに見えて、經佛のかざりはかなくしなしたるあかの具などもをかしげになまめかしく、猶心ばせありと見ゆる人のけはひなり。あをにびの几帳、心ばへをかしきにいたく居隱れて袖口ばかりぞ色異なるしも懷しければ、淚ぐみ給ひて松が浦島を遙に思ひてぞ止みぬべかりける。「昔より心憂かりける御契かな。さすがにかばかりのむつびはたゆまじかりけるよ」などのたまふ。尼君も物あはれなるけはひにて、「かゝる方に賴み聞えさするしもなむ淺くはあらず思ひ給へ知られ待りける」と聞ゆ。「常にをりをり重ねて心惑はし給へし世の報などを佛にかしこまり聞ゆるこそ苦しけれ、おぼし知るや、かくいとすなほにしもあらぬものをと、思ひあはせ給ふ事もあらじやはとなむ思ふ」とのたまふ。かのあさましかりし世のふることを聞き置き給へるなめりとはづかしく、「かゝる有樣を御覽じはてらるゝより外の報はいづこにか侍らむ」とて誠にうち位きぬ。いにしへよりも物深く恥しげさまさりて、かくもて離れたる如くおぼすしも見放ち難くおぼさるれどはかなき事をのたまひかくべくもあらず。大方の昔今の物語をし給ひて、かばかりのいふかひだにあれかしとあなたを見遣り給ふ。かやうにても御蔭に隱れたる人々多かり。皆さし覗き渡し給ひて「覺束なき日數積る折々あれど心の中は怠らずなむ。唯限ある道の別のみこそ後めたけれ、命ぞ知らぬ」などなつかしくのたまふ。いづれをも程々につけてあはれとおぼしたり。われはとおぼしあがりぬべき御身の程なれど。さしもことごとしくもてなし給はず、所につけ人の程につけつゝあまねく懷しくおはしませば、唯かばかりの御心にかゝりてなむ多くの人々年月を經ける。

今年は男踏歌あり、うちより朱雀院に參りて次にこの院にまゐる。道の程遠くて夜の明方になりにけり。月の曇りなくすみまさりて薄雪少し降れる庭のえならぬに、殿上人などもものゝ上手多かるころほひにて、笛の音もいとおもしろく吹き立てゝ、このおまへは殊に心づかひしたり。御方々物見に渡り給ふべくかねて御せうそこどもありければ、左右の對、渡殿などに御つぼねしつゝおはす。西の對の姬君は寢殿の南の御方に渡り給ひて、こなたの姬君に御たいめんありけり。上もひとゝころにおはしませば御几帳ばかり隔てゝ聞え合ふ。朱雀院、きさいの宮の御方などめぐりける程に夜もやうやう明け行けば、みづうまやにてことそがせ給ふべきを、例あることより外にさまことにこと加へていみじくもてはやさせ給ふ。影すさまじき曉月夜に雪はやうやう降り積む。松風木高く吹きおろし物すさまじくもありぬべき程に、靑色のなえばめるにしらがさねの色あひ何のかざりかは見ゆる。かざしの綿は匂もなきものなれど、所からにやおもしろく心ゆき命のぶるほどなり。殿の中將の君內の大殿のきんだちそこらにすぐれてめやすく華やかなり。ほのぼのと明け行くに雪やゝ散りてそゞろ寒きに、竹川謠ひてかよれるすがたなつかしき聲々の、繪にも書きとめ難からむこそ口惜しけれ。御方々いづれもいづれも劣らぬ袖口どもこぼれ出でたるこちたさ、物の色あひなども曙の空に春の錦立ち出でにける霞のうちかと見渡さる。怪しく心ゆく見物にぞありける。さるはかうごしのよばなれたるさま、ことぶきのみだりがはしき、をこめきたることもことごとしくとりなしたる、なかなか何ばかりのおもしろかるべき拍子も聞えぬものを、例の綿かづき渡りてまかでぬ。夜明けはてぬれば御方々歸り渡り給ひぬ。おとゞの君少し大殿ごもりて日たかく起き給へり。「中將の聲は辨の少將にをさをさ劣らざめるは。怪しくいうそくどもおひ出づるころほひにこそあれ。いにしへの人は誠に賢き方やすぐれたる事も多かりけむ。なさけだつすぢはこの頃の人にえしもまさらざりけむかし。中將などをば、すくすくしきおほやけ人にしなしてむとなむ思ひ置きてし。自らのあざればみたるかたくなしさはもてはなれよと思ひしかど、猶したにはほのすきたるすぢの心をこそとゞむべかめれ。もてしづめ、すくよかなるうはべばかりは、うるさかめり」などいとうつくしとおぼしたり。ばんすらく御口ずさびにのたまひて、「人々のこなたにつどひ給へる序にいかでものゝ音試みてしがな、私のごえんあるべし」との給ひて、御琴どものうるはしき袋どもして、ひめ置かせ給へる、皆引き出でゝ押しのごひてゆるべるをとゝのへさせ給ひなどす。御かたがた心づかひいたくしつゝ心げさうを盡し給ふらむかし。


胡蝶

やよひの二十日あまりのころほひ春のおまへの有樣、常より殊につくして匂ふ。花の色鳥の聲ほかの里にはまだふりぬにやと珍しう見え聞ゆ。山のこだち、中島のわたり色まさる苔の氣色など若き人々のはつかに心もとなく思ふべかめるに、唐めいたる船造らせ給ひける、急ぎさうぞかせ給ひて、おろし始めさせ給ふ日はうたづかさの人召して船のがくせらる。みこたち上達部などあまた參り給へり。中宮この頃里におはします。かの春まつそのはとはげまし聞え給へりし御かへりもこの頃やとおぼし、おとゞの君もいかでこの花のをり御覽ぜさせむとおぼしのたまへど、ついでなくてかるらかにはひわたり花をもてあそび給ふべきならねば、若き女房達の物めでしぬべきを船に乘せ給うて、南の池はこなたにとほし通はしなさせ給へるを、小さき山をへだての關に見せたれど、その山のさきよりこぎまひてひんがしの釣殿にこなたの若き人々集めさせ給ふ。龍頭鷁首をからのよそひにことごとしうしつらひて、舵とり棹さすわらはべ皆みつらゆひて唐土だゝせてさる大きなる池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ國に來たらむ心ちしてあはれにおもしろく見ならはぬ女房などは思ふ。中島の入江の岩かげにさし寄せて見れば、はかなき石のたゝずまひも唯繪に書いたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども錦を引きわたせるに、おまへの方は遙々と見やられて、色をましたる柳、枝を垂れたる花もえもいはぬにほひをちらしたり。ほかは盛過ぎたる櫻も今さかりにほゝゑみ、廊をめぐれる藤の色もこまやかに開けゆきけり。まして池の水に影をうつしたる山吹峯よりこぼれていみじき盛なり。水鳥どものつがひを離れず遊びつゝ、細き枝どもをくひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾にもんを交へたるなど物の繪やうにも書きとらまほしき、誠に斧の柄もくたいつべう思ひつゝ日をくらす。

 「風吹けば浪の花さへいろ見えてこや名にたてる山ぶきのさき」、

 「春の池や井手のかはせにかよふらむ岸の山吹そこもにほへる」、

 「龜の上の山もたづねじ船のうちに老いせぬ名をばこゝにのこさむ」、

 「春の日のうらゝにさして行く船は棹のしづくも花ぞちりける」などやうのはかなき事どもを我が心々に言ひかはしつゝ、行くかたも歸らむ里も忘れぬべう若き人々の心を移すにことわりなる水の面になむ。暮れかゝるほどにわうじやうといふがくおもしろく聞ゆるに、心にもあらず釣殿にさし寄せられておりぬ。こゝのしつらひいとことそぎたるさまになまめかしきに、御かたの若き人ども我も劣らじと盡したるさうぞくかたち、花をこきまぜたる錦に劣らず見えわたる。世にめなれず珍らかなるがくども仕うまつる。まひ人など心ことに選ばせ給ひて人の御心ゆくべき手の限を盡させ給ふ。夜に入りぬればいと飽かぬ心地して御前の庭に篝火ともして、みはしのもとの苔のうへにがく人召して上達部みこたちも皆おのおの彈物吹物とりどりにし給ふ。ものゝ師ども殊に勝れたるかぎりそうでう吹きたてゝ、うへに待ちとる御琴どものしらべいと華やかに搔き立てゝ、あなたうと遊び給ふ程生けるかひありと、何のあやめもしらぬしづのをもみかどのわたりひまなき馬車のたちとにまじりてゑみさかえ聞きけり。空の色ものゝ音も春のしらべひゞきはいと殊にまさりけるけぢめを人々おぼしわくらむかし。よもすがら遊び明し給ふ。かへり聲に喜春樂たちそひて、兵部卿宮あをやぎをりかへしおもしろく謠ひ給ふ。あるじのおとゞもこと加へ給ふ。夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを中宮は物隔てゝねたう聞しめしけり。いつも春の光をこめ給へるおほ殿なれど、心をつくるよすがのまたなきを飽かぬことにおぼす人々もありけるに、西の對の姬君こともなき御有樣、おとゞの君もわざとおぼしあがめ聞え給ふ御氣色など皆世に聞え出でゝおぼしゝもしるく、心なびかし給ふ人多かるべし。我が身さばかりと思ひあがり給ふきはの人こそたよりにつけつゝけしきばみ言に出で聞え給ふもありけれ。えしもうち出でぬ中の思ひにもえぬべきわかきんだちなどもあるべし。そのうちにことのこゝろを知らで內のおほいとのゝ中將などはすぎぬべかめり。兵部卿の宮はた年頃おはしける北の方もうせ給ひてこのみとせばかり獨住みにてわび給へば、うけばりて今は氣色ばみ給ふ。今朝もいといたうそらみだれして藤の花をかざしてなよびさうどき給へる御さまいとをかし。おとゞもおぼしゝさまかなふとしたにはおぼせど、せめてしらず顏をつくり給ふ。御かはらけのついでにいみじうもて惱み給うて、「思ふ心侍らずは罷り逃げなまし。いと堪へがたしや」とすまひ給ふ。

 「むらさきのゆゑに心をしめたれば淵に身なげむ名やはをしけき」とておとゞの君に「おなじかざしを」とて奉れ給ふ。いといたうほゝゑみたまひて、

 「淵に身を投げつべしやとこの春は花のあたりを立ちさらで見よ」とせちにとゞめ給へば、え立ちあがれ給はで今朝の御あそびましていとおもしろし。今日は中宮のみど經のはじめなりけり。やがてまかで給はでやすみ所とりつゝ日の御よそひにかへ給ふ人々も多かり。さはりあるはまかでなどもし給ふ。午の時ばかりに皆あなたに參り給ふ。おとゞの君を初め奉りて皆着きわたり給ふ。殿上人なども殘なく參る。多くはおとゞの御いきほひにもてなされ給ひてやんごとなくいつくしき御有樣なり。春のうへの御心ざしに、佛に花奉らせ給ふ。鳥蝶にさうぞきわけたるわらはべ八人かたちなど殊に整へさせ給ひて、鳥にはしろかねの花甁に櫻をさし、蝶はこがねの甁に山吹を同じき花の房もいかめしう、世になきにほひを盡させ給へり。南のおまへの山ぎはより漕ぎ出でゝおまへに出づるほど風吹きて甁の櫻少しうち散りまがふ。いとうらゝかに晴れて、霞の間より立ち出でたるはいとあはれになまめきて見ゆ。わざとひらばりなどもうつされず、おまへに渡れる廊をがく屋のさまにしてかりにあぐらどもをめしたり。わらはべども御階のもとに寄りて花ども奉る。ぎやうがうの人々とりつぎてあかに加へさせ給ふ。御せうそこ殿の中將の君して聞え給へり。

 「花ぞのゝこてふをさへやした草に秋まつむしはうとく見るらむ」。宮、かの紅葉の御かへりなりけりとほゝゑみて御覽ず。昨日の女房達も「げに春の色はえおとさせ給ふまじかりけり」と花にをれつゝ聞えあへり。鶯のうらゝかなる音に鳥のがくはなやかに聞きわたされて池の水鳥もそこはかとなく囀りわたるに、急になりはつるほど飽かずおもしろし。蝶はましてはかなきさまに飛び立ちて、山吹のませのもとに咲きこぼれたる花の影に舞ひ出づる。宮のすけをはじめてさるべきうへ人ども祿とりつゞきてわらはべにたぶ。鳥には櫻の細長、蝶には山吹襲たまはる。かねてしも取りあへたるやうなり。ものゝ師どもには白きひとかさね腰差などつぎつぎに賜ふ。中將の君には藤のほそなが添へて、女のさうぞくかづけ給ふ。御かへり、「昨日はねになきぬべくこそは、

  こてふにもさそはれなまし心ありて八重山ぶきをへだてざりせば」とぞありける。すぐれたる御らうどもにかやうの事は堪へぬにやありけむ。思ふやうにこそ見えぬ御くちつきどもなめれ。まことやかのみものゝ女房達宮のには皆けしきある贈物どもせさせ給うけり。さやうの事くはしければむつかし。明暮につけてもかやうのはかなき御遊しげく、心を遣りて過ぐし給へば、侍ふ人もおのづから物思ひなき心ちしてなむ、こなたかなたにも聞えかはし給ふ。

西の對の御方はかの踏歌の折の御對面の後はこなたにも聞えかはし給ふ。深き御心もちゐや、淺くもいかにもあらむ。氣色いとらうあり、懷しき心ばへと見えて、人の心へだつべくも物し給はぬ人のさまなれば、いづかたにも皆心よせ聞え給へり。聞え給ふ人いとあまたものし給ふ。されどおとゞおぼろけにおぼし定むべくもあらず。我が御心にもすくよかにおやがりはつまじき御心やそふらむ。父おとゞにも知らせやしてましなどおぼしよる折々もあり。殿の中將は少しけぢかくみすのもとなどにもよりて御いらへみづから聞え給ひなどするも、女はつゝましうおぼせど、さるべき程と人々も知り聞えたれば中將はすぐすぐしくて思ひもよらず。內のおほいどのゝ君達はこの君に引かれてよろづに氣色ばみわびありくを、そのかたのあはれにはあらでしたに心苦しうなむ。まことの親にさもしられ奉りにしがなと人しれず心にかけ給へれど、さやうにも漏らし聞え給はず。ひとへにうちとけたのみ聞え給ふ心むけなどらうたげに若やかなり。似るとはなけれど猶母君のけはひにいとゞ能くおぼえて、これはかどめいたる所添ひたる。ころもがへの今めかしう改れる頃ほひ、空の氣色などさへあやしうそこはかとなくをかしきをのどやかにおはしませば萬の御遊にて過ぐし給ふに、對の御方に人々の御文しげくなり行くを、おぼしゝことゝをかしうおぼいてともすれば渡り給ひつゝ御覺じ、さるべきには御かへりそゝのかし聞え給ひなどするを、うち解けず苦しいことにおぼひたり。兵部卿の宮の程なくいられがましきわびごとゞもを書き集め給へる御ふみを御覽じつけてこまやかに笑ひ給ふ。「早うより隔つることなうあまたのみこ達の御中に、この君をなむかたみにとり別きて思ひしに、唯かやうのすぢのことなむいみじう隔て思ひ給ひてやみにしを、世の末にかくすき給へる心ばへを見るがをかしうあはれにもおぼゆるかな。猶御かへりなど聞え給へ。少しもゆゑあらむ女のかのみこよりほかに又言の葉をかはすべき人こそ世におぼえね。いと氣色ある人の御さまぞや」と若き人はめで給ひぬべく聞え知らせ給へど、つゝましくのみおぼいたり。「右大將のいとまめやかにことごとしきさましたる人の、こひの山にはくじのたふれまねびつべき氣色に憂へたるもさる方にをかし」と皆見くらべ給ふ中に、唐のはなだの紙のいとなつかしうしみ深うにほへるを、いとほそくちひさく結びたるあり。「これはいかなればかくむすぼゝれたるにか」とて引きあけ給へり。手いとをかしうて、

 「思ふとも君はしらじなわきかへり岩もる水に色し見えねば」。書きざま今めかしうそぼれたり。「これはいかなるぞ」と問ひ聞え給へど、はかばかしう物も聞え給はず。右近召し出でゝ、「かやうに音づれ聞えむ人をば人えりいらへなどはせさせよ。すきずきしうあざれがましき今やうのことのびんないことしいでなどする、をのこのとがにしもあらぬことなり。われにて思ひしに、あななさけな、うらめしうもと、その折にこそむじんなるにや。もしはめざましかるべききはゝけやけうなどもおぼえけれ。わざと深からで花蝶につけたるたよりごとは心ねたうもてないたる、なかなか心だつやうにもあり。又さて忘れぬるは何のとがかはあらむ。物のたよりばかりのなほざりごとに口とう心えたるもさらでありぬべかりける後のなんとありぬべきわざなり。すべて女の物つゝみせず、心のまゝに物の哀も知り顏つくりをかしき事をも見知らむなむそのつもりあぢきなかるべきを、宮、大將はおほなおほななほざりごとをうち出で給ふべきにもあらず、又あまり物の程知らぬやうならむも御有樣に違へり。そのきはよりしもは心ざしのおもむきに隨ひてあはれをもわき給へ。らうをも數へ給へ」など聞え給へば、君はうち背きておはするそばめいとをかしげなり。なでしこの細長にこの頃の花の色なる御こうちきあはひけぢかう今めきて、もてなしなどもさはいへど田舍び給へりし名殘こそ唯ありにおほどかなるかたにのみは見え給ひけれ。人の有樣を見しり給ふまゝにいとさまようなよびかにけさうなども心してもてつけ給へれば、いとゞ飽かぬ所なく華やかに美しげなり。ことひとゝ見なさむはいとくち惜しかるべうおぼさる。右近もうちゑみつゝ見奉りて、親と聞えむには似げなう若くおはしますめり、さしならび給へらむはしもあはひめでたしかしと思ひ居たり。「更に人の御せうそこなどは聞え傅ふる事侍らず。さきざきもしろしめし御覽じたる三つ四つは引きかへしはしたなめ聞えむもいかゞとて御ふみばかり取り入れなどし侍るめれど、御かへりは更に聞えさせ給ふ折ばかりなむ。それをだに苦しいことにおぼいたる」と聞ゆ。「さてこの若やかにむすぼゝれたるはたがぞ。いといたうかいたる氣色かな」とほゝゑみて御覽ずれば、「かれはしふねくとゞめて罷りにけるにこそ。內のおほいどのゝ中將の、この侍ふみる子をもとより見知り給へりける傳へにて侍りける。又見いるゝ人も侍らざりしにこそ」と聞ゆれば、「いとらうたきことかな。下臈なりともかのぬしたちをばいかゞいとさははしたなめむ。公卿といへどこの人のおぼえに必ずしも並ぶまじきこそ多かれ。さる中にもいとしづまりたる人なり。おのづから思ひ合する世もこそあれ。けちえんにはあらでこそ言ひまぎらはさめ。見所あるふみかきかな」などとみにもうち置き給はず。「かう何やかやと聞ゆるをもおぼす所やあらむとやゝましきを、かのおとゞに知られ奉り給はむこともまだかう若々しう何となきほどにこゝら年經給へる御中に、さし出で給はむことはいかゞと思ひめぐらし侍る。猶世の人のあめるかたに定りてこそは人々しうさるべきついでもものし給はめと思ふを、宮はひとり物し給ふやうなれど人がらいといたうあだめいて通ひ給ふ所あまた聞え、めしうどゝかにくげなる名のりする人どもなむ數あまた聞ゆる。さやうならむことはにくげなうて見なほい給はむ人はいとようなだらかにもてけちてむ。小し心にくせありては、人にあかれぬべき事なむおのづから出で來ぬべきを、その御心づかひなむあるべき。大將は年經たる人のいたうねびすぎたるを厭ひがてらに求むなれど、それも人々煩はしがるなり。さもあべいことなればさまざまになむ人しれず思ひ定めかね侍る。かうざまのことは親などにもさわやかに我が思ふさまとて語り出で難きことなれど、さばかりの御齡にもあらず。今はなどか何事をも御心にはわい給はざらむ。まろを昔ざまになずらへて母君と思ひない給へ。御心に飽かざらむことは心苦しく」などいとまめやかにて聞え給へば、苦しうて御いらへ聞えむともおぼえ給はず。いと若々しきもうたて覺えて「何事も思ひしり侍らざりける程より親などは見ぬものに習ひ侍りて、ともかくも思う給へられずなむ」と聞え給ふさまのいとおいらかなれば、げにとおぼいて、「さらば世のたとひののちの親をそれとおぼいて、おろかならぬ心ざしのほども見顯しはて給ひてむや」などうち語らひ給ふ。おぼすさまのことはまばゆければえうち出で給はず。氣色あることばゝ時々まぜ給へど見しらぬさまなれば、すゞろにうち歎かれて渡り給ふ。おまへ近き吳竹のいと若やかに生ひたちて打ち靡くさま懷しきに、立ちとまり給ひて、

 「ませのうちに根深くうゑし竹のこのおのが世々にや生ひわかるべき。思へばうらめしかべいことぞかし」とみすを引き上げて聞え給へば、ゐざりいでゝ、

 「今さらにいかならむ世かわか竹のおひはじめけむ根をば尋ねむ。なかなかにこそ侍るらめ」と聞え給ふを、いとあはれとおぼしけり。さるは心のうちにはさも思はずかし、いかならむ折聞え出でむとすらむと心もとなくあはれなれど、このおとゞの御心ばへのいとありがたきを、親と聞ゆとももとより見馴れ給はぬはえかうしも細やかならずやと、昔物語を見給ふにもやうやう人の有樣世の中のあるやうを見しり給へば、いとつゝましう心としられ奉らむことはかたかるべうおぼす。殿はいとゞらうたしと思ひ聞え給ふ。うへにも語り申し給ふ。「あやしう懷しき人の有樣にもあるかな。かのいにしへのはあまりはるけ所なくぞありし。この君は物の有樣も見知りぬべく、けぢかき心ざまそひてうしろめたからずこそ見ゆれ」など譽め給ふ。たゞにしもおぼすまじき御心ざまを見知り給へればおぼしよりて、「物の心えつべくは物し給ふめるをうらなくしもうちとけ賴み聞え給ふらむこそ心苦しけれ」とのたまへば、「などたのもしげなくやはあるべき」と聞え給へば、「いでやわれにても又忍びがたう、物思はしき折々ありし御心ざまの思ひ出でらるゝふしぶしなくやは」とほゝゑみて聞え給へば、あな心どとおぼいて、「うたてもおぼしよるかな。いと見知らずしもあらじ」とて煩はしければのたまひさして、心のうちに人のかう推しはかり給ふにもいかゞはあるべからむとおほし亂れ、かつはひがひがしうけしからぬ我が心の程も思ひしられ給ひけり。心にかゝれるまゝにしばしば渡り給ひつゝ見奉り給ふ。雨のうち降りたる名殘のいと物しめやかなる夕つかた、御まへのわかゝへで、柏木などの靑やかに繁りあひたるが何となく心ちよげなる空を見いだし給ひて、「和して又淸し」とずじ給ひて、まづこの姬君の御さまのにほひやかげさをおぼし出でられて、例の忍びやかに渡り給へり。手習などしてうちとけ給へりけるを、起きあがり給ひて耻らひ給へる顏の色あひいとをかし。なごやかなるけはひのふと昔おぼし出でらるゝにも忍びがたくて、見そめ奉りしはいとかうしもおぼえ給はずと思ひしを、あやしう唯それかと思ひまがへらるゝ折々こそあれ。あはれなるわざなりけり。中將のさらに昔ざまのにほひにも見えぬならひにさしも似ぬものと思ふにかゝる人も物し給うけるよ」とて淚ぐみ給へり。箱の蓋なる御くだものゝなかに橘のあるをまさぐりて、

 「橘のかをりし袖によそふればかはれる身ともおもほえぬかな。世とともの心にかけて忘れ難きに慰むことなくて過ぎつる年頃を、かくて見奉るは夢にやとのみ思ひなすを、猶えこそ忍ぶまじけれ。おぼし疎むなよ」とて御手を執へ給へれば、女かやうにもならひ給はざりつるをいとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものし給ふ。

 「袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりもこそすれ」。むつかしと思ひてうつぶし給へるさまいみじう懷しう手つきのつぶつぶと肥え給へる身なり。肌つきのこまやかに美しげなるになかなかなる物思ひそふ心ちし給ひて、今日は少し思ふ事聞えしらせ給ひける。女は心うくいかにせむとおぼえてわなゝかるゝ氣色もしるけれど、「何かかくうとましとはおぼいたる。いとよくもてかくして人に咎めらるべくもあらぬ心のほどぞよ。さりげなくてあひ思ひ給へ。淺くも思ひ聞えさせぬ心ざしに又そふべければ世にたぐひあるまじき心地なむするを、この音づれ聞ゆる人々には思しおとすべくやはある。いとかう深き心ある人は世にありがたかるべきわざなれば後めたくのみこそ」とのたまふ。いとさかしらなる御親心なりかし。雨はやみて風の竹になるほど華やかにさし出でたる月影をかしき夜のさまもしめやかなるに、人々はこまやかなる御物語に畏まりおきてけ近くも侍はず。常に見奉り給ふ御中なれど、かくよき折しもあり難ければ、ことに出で給へるついでの御ひたぶる心にや、懷しきほどなる御ぞどものけはひはいとようまぎらはしすべし給ひて近やかに臥し給へば、いと心うく人の思はむ事も珍らかにいみじうおぼゆ。まことの親の御あたりならましかば、おろかには見放ち給ふともかくざまの憂き事はあらましやと悲しきに、つゝむとすれどこぼれ出でつゝいと心苦しき御氣色なれば、「かうおぼすこそつらけれ。もてはなれ知らぬ人だに世のことわりにて皆ゆるすわざなめるを、かく年經ぬるむつましさにかばかり見え奉るや何のうとましかるべきぞ。これよりあながちなる心はよも見せ奉らじ。おぼろけに忍ぶるにあまる程を慰むるぞや」とてあはれげに懷しう聞え給ふ事多かり。ましてかやうなるけはひは唯昔の心ちしていみじうあはれなり。我が御心ながらもゆくりかにあはつけきこととおぼし知らるれば、いと能くおぼしかへしつゝ人もあやしと思ふべければいたう夜もふかさで出で給ひぬ。「思ひ疎み給はゞいと心うくこそあるべけれ。よその人はかうほれぼれしくはあらぬものぞよ。かぎなり底ひしらぬ心ざしなれば人の咎むべきさまにはよもあらじ。唯昔戀しきなぐさめにはかなき事も聞えむ。同じ心にいらへなどし給へ」といとこまやかに聞え給へど、我にもあらぬさましていとゞ憂しとおぼいたれば、「いとさばかりには見奉らぬ御心ばへをいとこよなくも憎み給ふべかめるかな」と歎き給ひて、「ゆめ氣色なくを」とて出で給ひぬ。女君も御年こそすぐし給ひにたる程なれ。世の中を知り給はぬ中にも少しうち世なれたる人の有樣をだに見知り給はねば、これよりけ近きさまにもおぼしよらず。思の外にもありける世かなと歎かしきにいと氣色もあしければ、人々「御心ち惱しげに見え給ふ」とてもてさわぎ聞ゆ。「殿の御氣色のこまやかにかたじけなくもおはしますかな。まことの御親と聞ゆとも更にかばかりおぼしよらぬことなくはもてなし聞え給はじ」など兵部なども忍びて聞ゆるにつけて、いとゞ思はずに心づきなき御心の有樣をうとましう思ひはて給ふにも身ぞ心うかりける。またのあした御文とくあり。嬉しがりて臥し給へれど人々御硯などまゐりて、「御返り疾く」と聞ゆればしぶしぶに見給ふ。しろき紙のうはべはおいらかにすくすくしきにいとめでたう書い給へり。「たぐひなかりし御氣色こそつらきしも忘れがたう、いかに人見奉りけむ。

  うちとけてねも見ぬものをわか草のことあり顏にむすぼゝるらむ。をさなくこそ物し給ひけれ」とさすがに親がりたる御ことばもいとにくしと見給ひて、御かへりごと聞えざらむも人めあやしければ、ふくよかなるみちのくに紙に、たゞ「うけ給はりぬ。みだり心地のあしうはべれば、聞えさせぬ」とのみあるに、かやうのけしきはさすがにすくよかなりとほゝゑみてうらみ所ある心地し給ふもうたてある御心かな。色に出だし給ひて後は、おほたの松のと思はせたることなく、むつかしく聞え給ふこと多かれば、いとゞ所せき心ちしておき所なき物思ひつきていとなやましうさへし給ふ。かくて事の心しる人はすくなうて、疎きも親しきもむげのおやざまに思ひ聞えたるを、かうやうの氣色の漏りいでばいみじう人わらはれにうき名にもあるべきかな、父おとゞなどの尋ねしり給ふにても、まめまめしき御心ばへにもあらざらむものから、ましていとあはつけう待ちきゝおぼさむことゝ萬にやすげなうおぼしみだる。宮、大將などは殿の御氣色もてはなれぬさまに傳へ聞き給ひていとねんごろに聞え給ふ。このいはもる中將もおとゞの御ゆるしを見てこそ、かたよりにほの聞きて誠のすぢをばしらず、唯ひとへに嬉しくておりたち恨み聞え惑ひありくめり。


今はかく公もおもおもしきほどによろづのどやかにおぼし靜めたる御有樣なれば、賴み聞えさせ給へる人さまざまにつけて皆思ふまゝに定まりたゞよはしからであらまほしくて過ぐし給ふ。對の姬君こそいとほしく思の外なるおもひそひていかにせむとおぼし亂るめれ。かのげんが憂かりしさまにはなずらふべきけはひならねど、かゝるすぢにかけても人の思ひより聞ゆべき事ならねば心一つにおぼしつゝさまことに疎ましと思ひきこえ給ふ。何事をもおぼし知りたる御齡なればとざまかうざまにおぼし集めつゝ、母君のおはせずなりにける口惜しさも又とりかへし惜しく悲しくおぼゆ。おとゞもうち出でそめ給ひてはなかなか苦しくおぼせど人めを憚り給ひつゝはかなき事をもえ聞え給はず。苦しくもおぼさるゝまゝに繁く渡り給ひつゝおまへの人遠くのどやかなる折はたゞならずけしきばみ聞え給ふごとに、胸潰れつゝけざやかにはしたなく聞ゆべきにはあらねば、唯見知らぬさまにもてなし聞え給ふ。人ざまのわらゝかにけ近く物し給へばいたくまめだちたる心ちし給へど、猶をかしくあいぎやうづきたるけはひのみ見え給へば兵部卿の宮などはまめやかにせめ聞え給ふ。御らうの程はいくばくならぬに、五月雨になりぬるうれへをし給ひて、「少しけ近きほどをだに許し給はゞ思ふことをも片はしはるけてしがな」と聞え給へるを殿御覽じて、「なにかはこのきんだちのすき給はむは見どころありなむかし。もてはなれてな聞え給ひそ」と敎へて、「御かえり時々聞え給へ」とて御かへり敎へて書かせ奉り給へど、いとうたておぼえ給へば、「みだり心ちあし」とて聞え給はず。人々も殊にやんごとなくよせおもきなどもをさをさなし。唯母君の御伯父なりける宰相ばかりの人のむすめにて心ばせなど口惜しからぬが世に衰へ殘りたるを尋ねとり給へるぞ宰相の君とて、手などもよろしく書き、大方もおとなびたる人なればさるべき折々の御返りなど書かせ給へば、召し出でゝことばなどのたまひて書かせ給ふ。物などのたまふさまをゆかしとおぼすなるべし。さうじみはかくうたてある物なげかしさの後はこの宮などは哀げに聞え給ふ時は少し見いれ給ふ時もありけり。何かと思ふにはあらず。かく心憂き御氣色見ぬわざもがなとさすがにざれたる所つきておぼしけり。殿はあいなくおのれ心げさうして宮を待ち聞え給ふも知り給はで、よろしき御返りなるを珍しがりていと忍びやかにておはしましたり。妻戶のまに御褥參らせてみ几帳ばかりを隔にて近きほどなり。いといたう心してそらだきもの心にくき程ににほはしてつくろひおはするさま、親にはあらでむつかしき御さかしら人のさすがにあはれに見え給ふ。宰相の君なども人のいらへ聞えむこともおぼえず、耻かしくて居たるを「うもれたり」とひきつみ給へばいとわりなし。夕闇過ぎておぼつかなき空の氣色の曇らはしきに、打ちしめりたる宮の御けはひもいとえんなり。內よりほのめく追風もいとゞしき御匂の立ち添ひたればいと深くかをり滿ちて、かねておぼしゝよりもをかしき御けはひを心とゞめ給ひけり。うち出でゝ思ふ心の程をのたまひ續けたる言の葉おとなおとなしく、ひたぶるにすきずきしくはあらでいとけはひ殊なり。おとゞいとをかしとほの聞きおはす。姬君は東おもてにひき入りて大殿籠りにけるを、宰相の君の御せうそこ傳へにゐざり入りたるにつけて「いとあまりあつかはしき御もてなしなり。萬の事ざまに隨ひてこそめやすけれ。ひたぶるに若び給ふべきさまにもあらず。この宮達をさへさし放ちたる人づてに聞え給ふまじきことなりかし。御聲こそ惜み給ふとも少しけ近くだにこそ」など諫め聞え給へど、いとわりなくて、ことつけてもはひ入り給ひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまに侘しければすべり出でゝ、もやのきはなる御几帳のもとにかたはらふし給へり。何くれと事長き御いらへ聞え給ふ事もなく思しやすらふに、寄り給ひて御几帳のかたびらをひとへうちかけ給ふにあはせて、さと光るもの、しそくをさし出でたるかとあきれたり。螢をうすきかたにこの夕つ方いと多く包みおきて光をつゝみ隱し給へりけるを、さりげなくとかくひきつくろふやうにて俄にかくけちえんに光れるに、あさましくて扇をさし隱し給へるかたはらめいとをかしげなり。おどろおどろしき光見えば宮も覗き給ひなむ。我がむすめとおぼすばかりのおぼえにかくまでのたまふなめり。人ざまかたちなどいとかくしもぐしたらむとはえ推しはかり給はじ。いとよくすき給ひぬべき心惑はさむと構へありき給ふなりけり。まことの我が姬君をばかくしももて騷ぎ給はじ。うたてある御心なりけり。ことかたよりやをらすべり出でゝ渡り給ひぬ。宮は人のおはする程さばかりと推しはかり給ふが、少しけぢかき御けはひするに、御心時めきせられ給ひてえならぬうすものゝかたびらのひまより見入れ給へるに、ひとまばかり隔てたる見渡しにかくおぼえなき光のうちほのめくををかしと見給ふ。程もなくまぎらはしてかくしつ。されどほのかなる光えんなることのつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれどそびやかに臥し給へりつるやうだいのをかしかりつるを飽かずおぼして、げにあのごと御心にしみにけり。

 「なく聲も聞えぬ蟲のおもひだに人のけつにはきゆるものかは。思ひ知り給ひぬや」と聞え給ふ。かやうの御返しを思ひまはさむもねぢけたれば、ときばかりをぞ、

 「聲はせで身をのみこがす螢こそいふよりまさる思ひなるらめ」などはかなく聞えなして、御みづからはひきいり給ひにければ、いと遙にもてなし給ふうれはしさをいみじく恨み聞え給ふ。すきずきしきやうなれば居給ひもあかさで、軒の雫も苦しさにぬれぬれ夜深く出で給ひぬ。時鳥など必ず打ち鳴きけむかし。うるさければえこそ聞きもとゞめね。「御けはひなどのなまめかしさはいとよくおとゞの君に似奉り給へり」と人々もめで聞えけり。よべいとめおやだちて繕ひ給ひし御けはひを、うちうちは知らで「あはれにかたじけなし」と皆いふ。姬君はかくさすがなる御けしきを、我がみづからのうさぞかし、親などに知られ奉り、世の人めきたるさまにてかやうなる心ばへならましかば、などいと似げもなくもあらまし、人に似ぬ有樣こそ遂に世がたりにやならむとおきふしおぼしなやむ。さるは誠にゆかしげなきさまにはもてなしはてじとおとゞはおぼしけり。猶さる御心ぐせなれば、中宮などもいとうるはしくやは思ひ聞え給へる。ことに觸れつゝたゞならず聞え動しなどし給へど、やんごとなき方の及びなさに煩はしくており立ちあらはし聞え給はぬを、この君は人の御さまもけ近く今めきたるに、おのづから思ひ忍び難きに、をりをり人見奉りつけば疑ひおひぬべき御もてなしなどうちまじるわざなれど、ありがたくおぼし返しつゝさすがなる御中なりけり。五日にはうま塲のおとゞに出で給ひけるついでに渡り給へり。「いかにぞや、宮は夜やふかし給ひし。いたくもならし聞えじ。煩はしきけそひ給へる人ぞや。人の心やぶり物のあやまちすまじき人はかたくこそありけれ」など、いけみ殺しみ誡めおはする御さまつきせず若く淸げに見え給ふ。つやも色もこぼるばかりなる御ぞに薄き御直衣はかなく重れるあはひもいづこに加はれる淸らにかあらむ。この世の人の染め出したると見えず。常の色もかへぬあやめも今日は珍らかにをかしうおぼゆる。かをりなども思ふことなくはをかしかりぬべき御有樣かなと姬君はおぼす。宮より御文あり。白き薄樣にて御手はいとよしありて書きなし給へり。見る程こそをかしかりけれ、まねび出づればことなることなしや。

 「今日さへやひく人もなきみがくれに生ふるあやめのねのみながれむ」。ためしにもひき出でつべき根に結びつけ給へれば、今日の御返りなどそゝのかし置きて出で給ひぬ。これかれも「なほ」と聞ゆれば御心にもいかゞおぼしけむ。

 「あらはれていとゞ淺くも見ゆるかなあやめもわかず流れけるねの。わかわかしく」とばかりほのかにぞあめる。手を今少しゆゑづけたらばと、宮は好ましき御心に聊飽かぬことゝ見給ひけむかし。くす玉などえならぬさまにて所々より多かり。おぼし沈みつる年ごろの名殘なき御有樣にて心ゆるび給ふことも多かるに、同じくは人の傷つくばかりのことなくても止みにしがなといかゞおぼさゞらむ。殿は東の御かたにもさし覗き給ひて、「中將の今日のつかさの手つがひのついでにをのこども引きつれて物すべきさまにいひしを、さる心し給へ。まだあかき程にきなむものぞ。あやしくこゝにはわざとならず忍ぶることをも、このみこたちの聞きつけてとぶらひものし給へば、おのづからことごとしくなむあるを、用意し給へ」など聞え給ふ。うま塲のおとゞはこなたの廊より見とほすほど遠からず。「若き人々、わたどのゝ戶あけて物見よや。左のつかさにいとよしある官人多かる頃なり。せうせうの殿上人に劣るまじ」とのたまへば、物見むことをいとをかしと思へり。たいの御方よりもわらはべなど物見に渡り來て、廊の戶口にみす靑やかに懸け渡して今めきたるすそごの御几帳ども立てわたし、わらはしもづかへなどさまよふ。さうぶがさねのあこめふたあゐのうすものゝ汗衫着たるわらはべぞ西の對のなめる。このましくなれたるかぎり四人、しもづかへはあふちのすそごの裳、なでしこの若葉の色したるからぎぬ今日のよそひどもなり。こなたのは濃き單がさねになでしこがさねの汗衫などおほどかにておのおのいどみ顏なるもてなし見所あり。若やかなる殿上人などはめをたてつゝけしきばむ。ひつじの時ばかりに、馬塲のおとゞに出で給ひて、げにみこたちおはしつどひたり。てつがひのおほやけごとにはさま變りてすけたちかきつれ參りて、さまことに今めかしく遊び暮し給ふ。女は何のあやめも知らぬことなれど、舍人どもさへえんなるさうぞくをつくして、身をなげたる手惑はしなどを見るぞをかしかりける。南の町もとほしてはるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。たぎうらく、らくそんなど遊びてかちまけのらんざうどものゝしるも、夜に入りはてゝ何事も見えずなりはてぬ。舍人どもの祿品々たまはる。いたく更けて人々皆あがれ給ひぬ。おとゞはこなたに御殿籠りぬ。物語など聞え給ひて、「兵部卿の宮の、人よりはこよなく物し給ふかな。かたちなどはすぐれねど用意けしきなどいとよしあり、あいぎやうづきたる君なり。忍びて見給ひつや。よしといへどなほこそあれ」とのたまふ。「御弟にこそものし給へどねびまさりてぞ見え給ひける。年ごろかくをり過ぐさず渡りむつび聞え給ふと聞き侍れど、昔のうちわたりにてほのみ奉りし後おぼつかなしかし。いとよくこそかたちなどねびまさり給ひにけれ。そちのみこよく物し給ふめれどけはひ劣りて大君の氣色にぞものし給ひける」とのたまへば、ふと見知り給ひにけりとおぼせどほゝゑみて、なほあるをば善しとも惡しともかけ給はず、人の上をなむつけおとしめざまのこといふ人をばいとほしきものにし給へば、右大將などをだに心にくき人にすめるを何ばかりかはある。近きよすがにて見むは飽かぬ事にやあらむと見給へど、ことにあらはしてものたまはず。今は唯大かたの御むつびにておましなどもことことにて大殿ごもる。「などてかくはなれそめしぞ」と殿は苦しがり給ふ。大かたなにやかやともそばみ聞え給はで、年頃かく折ふしにつけたる御遊どもを人づてにのみ聞き給ひけるに、今日珍しかりつることばかりをぞ、この町のおぼえきらきらしとおぼしたる。

 「そのこまもすさめぬ草と名にたてる汀のあやめ今日やひきつる」とおほどかに聞え給ふ。なにばかりのことにもあらねどあばれとおぼしたり。

 「にほどりにかげをならぶる若駒はいつかあやめにひき別るべき」。あいたちなき御事どもなりや。「朝夕の隔あるやうなれど、かくて見奉るは心安くこそあれ」とたはぶれごとなれどのどやかにおはする人ざまなれば靜まりて聞えなし給ふ。ゆかをば讓り聞え給ひて御几帳引き隔てゝ大殿ごもる。けぢかくなどあらむすぢをばいと似げなかるべきことに思ひ離れ聞え給ふべければあながちにも聞え給はず。

長雨例の年よりもいたくして晴るゝ方なくつれづれなれば、御かたがた繪物語などのすさびにて明し暮し給ふ。明石の御方はさやうのことをもよしありてしなし給ひて、姬君の御方に奉り給ふ。西の對にはまして珍しくおぼえ給ふことのすぢなれば明暮書き讀みいとなみおはす。つきなからぬわかうどあまたあり。さまざまに珍らかなる人のうへなどを、まことにやいつはりにや言ひ集めたる中にも、我が有樣のやうなるはなかりけりと見給ふ。住吉の姬君のさしあたりけむ折はさるものにて、今の世のおぼえも猶心ことなめるに、かぞへのかみはほとほとしかりけむなどぞかのげんがゆゝしさをおぼしなぞらへ給ふ。殿はこなたかなたにかゝる物どもの散りつゝ御目に離れぬは、あなむつかし。女こそ物うるさがりせず人に欺かれむとうまれたるものなれ。こゝらの中に誠はいと少からむを、かつしるしるかゝるすゞろごとに心を移しはかられ給ひて、あつかはしきさみだれ髮の亂るも知らでかき給ふよ」とて笑ひ給ふものから、又「かゝる世のふることならではげに何をかまぎるゝことなきつれづれを慰めまし。さてもこのいつはりどもの中にげにさもあらむとあはれを見せ。つきづきしうつゞけたるはた、はかなしごとゝ知りながら徒らに心動き、らうたげなる姬君の物思へる見るにかた心つくかし。又いとあるまじきことかなと見るみるおどろおどろしくとりなしけるが、目驚きて靜に又聞くたびぞにくけれど、ふとをかしきふしあらはなるなどもあるべし。この頃幼き人の女房などに時々讀まするをたち聞けば、物よくいふものゝ世にあべきかな。そらごとをよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出すらむとおぼゆれどさしもあらじや」とのたまへば、「げに僞りなれたる人やさまざまにさもくみ侍らむ。唯いと誠の事とこそ思ひ給へられけれ」とて硯をおしやり給へば、「こちなくも聞えおとしてけるかな。神代より世にあることを記し置きけるななり。日本紀などは唯かたそばぞかし。これらにこそみちみちしくくはしきことはあらめ」とて笑ひ給ふ。「その人の上とてありのまゝに言ひ出づることこそなけれ、善きも惡しきも世にふる人の有樣の見るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも言ひ傅へさせまほしきふしぶしを心に籠め難くて言ひ置き始めたるなり。よきさまに言ふとてはよきことの限をえり出で、人にしたがはむとては又惡しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたるこの世の外のことならずかし。人のみかどのざえつくりやうかはれる、同じやまとの國のことなれば昔今のに變るべし。深き事淺き事のけぢめこそあらめ、ひたぶるにそらごとゝ言ひはてむもことの心違ひてなむありける。佛のいとうるはしき心にて說き置き給へる御法も方便といふことありて、さとりなきものはこゝかしこたがふ疑ひを置きつべくなむ方等經の中に多かれど、いひもて行けば一つ胸に當りて、菩提と煩惱との隔たりなむこの人の善き惡しきばかりのことは變りける。よくいへばすべて何事も空しからずなりぬや」と物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。「さてかゝるふる事のなかに、まろ、かやうにじほうなるしれものゝ物語はありや。いみじうけどほきものゝ姬君も、御心のやうにつれなくそらおぼめきしたるは世にあらじな。いざたぐひなき物語にして世に傳へさせむ」とさしよりて聞え給へば、顏をひき入れて、「さらずとも、かく珍らかなることは世語にこそはなり侍りぬべかめれ」とのたまへば、「珍らかにやおぼえ給ふ。げにこそまたなき心地すれ」とてより居給へるさまいとあざれたり。

 「思ひあまり昔のあとを尋ぬれど親にそむける子ぞたぐひなき。ふけうなるは佛の道にもいみじくこそいひたれ」とのたまへど、顏ももたげ給はねば、みぐしをかきやりつゝいみじう恨み給へば、からうじて、

 「ふるき跡をたづぬれどげになかりけりこの世にかゝる親の心は」と聞え給ふも心はづかしければいといたくも亂れ給はず。かくしていかなるべき御有樣ならむ。

紫の上も姬君の御あつらへにことつけて物語は捨て難く覺したり。こまのゝ物語の繪にてあるを、「いとよく書きたる繪かな」とて御覽ず。ちひさき女君の何心もなくて晝ねし給へる所を、昔の有樣おぼし出でゝ女君は見給ふ。「かゝるわらはどちだにいかにざれたりけり。まろこそ猶ためしにしつべく心のどけさは人に似ざりけれ」と聞え出で給へり。げにたぐひ多からぬ事どもは好み集め給へりけむかし。「姬君の御前にてこの世馴れたる物語などな讀み聞かせ給ひそ。みそか心つきたるものゝむすめなどは、をかしとにはあらねどかゝる事世にはありけりと見馴れ給はむぞゆゝしきや」とのたまふもこよなしと、對の御かた聞き給はゞ心置き給ひつべくなむ。うへ「心淺げなる人まねどもは見るにもかたはらいたくこそ。空穗の藤原の君の娘こそ、いとおもりかにはかばかしき人にてあやまちなかめれど、すくよかに言ひ出でたるしわざも女しき所なかめるぞひとやうなめる」とのたまへば、「うつゝの人もさぞあるべかめる。ひとびとしくたてたるおもむきことにて善き程に搆へぬや。よしなからぬ親の心とゞめておふしたてたる人の、こめかしきを生けるしるしにて後れたる事多かるは、何わざをしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるゝこそいとほしけれ。げにさいへど、その人のけはひよと見えたるはかひあり。おもたゞしかし。詞の限りまばゆく譽め置きたるに、しいでたるわざ言ひ出でたることの中にげにと見え聞ゆることなき、いと見劣りするわざなり。すべてよからぬ人にいかで人ほめさせじ」など、唯この姬君の點つかれ給ふまじくとよろづにおぼしのたまふ。まゝはゝの腹ぎたなき昔物語も多かるを、心見えに心づきなしとおぼせば、いみじくえりつゝなむ書き整へさせ繪などにも書かせ給ひける。中將の君をこなたにはけどほくもてなし聞え給へれど、姬君の御かたにはさし放ち聞え給はずならはし給ふ。「我が世のほどはとてもかくても同じごとなれど、なからむ世を思ひやるに猶みつき思ひしみぬる事どもこそ取りわきてはおぼゆべけれ」とて、南おもての御簾の內は許し給へり。だいばん所の女房の中は許し給はず。あまたおはせぬ御なからひにて、いとやむごとなくかしづき聞え給へり。大方の心もちゐなどもいとものものしく、まめやかに物し給ふ君なれば、うしろ安くおぼしゆづれり。まだいはけたるひゝな遊などのけはひの見ゆれば、かの人の諸共に遊びて過ぐしつゝ年月のまづ思ひ出でらるれば、ひゝなの殿の宮づかへいとよくし給ひて折々にうちしほたれ給ひけり。さもありぬべきあたりにははかなしごとものたまひふるゝはあまたあれど、賴みかくべくもしなさず。さる方になどかは見ざらむと、心とまりぬべきをもしひてなほざりごとにしなして、猶かの綠の袖を見えなほしてしがなと、思ふ心のみぞやんごとなきふしにはとまりける。あながちになどかゝづらひ惑はゞ倒るゝ方に許し給ひもしつべかめれど、つらしと思ひし折々いかで人にもことわらせ奉らむと思ひ置きし事忘れがたくて、さうじみばかりにはおろかならぬあはれをつくし見せて、大かたにはいられ思へらず。せうとの君達などもなまねたしなどのみ思ふこと多かり。對の姬君の御有樣を、右の中將はいと深く思ひしみていひよるたよりもいとはかなければ、この君をぞかこちよりけれど、「人の上にてはもどかしきわざなりけり」とつれなくいらへてぞ物し給ひける。昔の父おとゞたちの御なからひに似たり。內のおとゞは御子ども腹々いと多かるに、その生ひ出でたる覺え人がらに從ひつゝ心に任せたるやうなるおぼえいきほひにて又なくしたて給ふ。女はあまたもおはせぬを、女御もかくおぼしゝことのとゞこほり給ひ、姬君もかく事たがふさまにてものし給へば、いと口惜しとおぼす。かのなでしこを忘れ給はず物の折にも語り出で給ひしことなれば、「いかになりにけむ。物はかなかりける親の心にひかれて、らうたげなりし人をゆくへ知らずになりにたること、すべて女子といはむものなむ、いかにもいかにも目放つまじかりける。さかしらに我が子といひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。とてもかくても聞え出でこばとあはれにおぼしわたる。君達にも、「若しさやうなる名のりする人あらば耳とゞめよ。心のすさびに任せてさるまじき事も多かりし中に、これは、いとしかおしなべてのきはには思はざりし人の、はかなき物うんじをして、かく少かりけるものゝくさはひ一つを失ひたる事の口惜しきこと」と常にのたまひ出づ。中ごろなどはさしもあらず打ち忘れ給ひけるを、人のさまざまにつけて女子かしづき給へるたぐひどもに、我がおもほすにしもかなはぬがいと心憂くほいなくおぼすなりけり。夢見たまひていと能くあはするもの召して合せ給ひけるに、「もし年ごろ御心にも知られ給はぬ御子を人のものになして聞しめし出づることや」と聞えたりければ、「女子の人の子になることはをさをさなし。いかなることにかあらむ」などこの頃ぞおぼしのたまふべかめる。


常夏

いとあつき日、ひんがしの釣殿に出で給ひて凉み給ふ。中將の君も侍ひ給ふ。親しき殿上人あまた侍ひて、西川より奉れる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、おまへにて調じてまゐらす。例の大殿の君達、中將の御あたり尋ねて參り給へり。「さうざうしくねぶたかりつるをり能くものし給へるかな」とておほみきまゐり、ひみづめして、すゐはんなどとりどりにさうどきつゝくふ。風はいとよく吹けども日のどかに曇りなき空の西日になるほど、蟬の聲などもいと苦しげに聞ゆれば、「水の上むとくなる今日のあつかはしさかな。むらひの罪は許されなむや」とて寄り臥し給へり。「いとかゝるころは遊びなどもすさまじく、さすがに暮し難きこそ苦しけれ。宮仕する若き人々堪へがたからむな。おびひもゝ解かぬほどよ、こゝにてだにうち亂れ、この頃世にあらむことの少しめづらしくねぶたさ醒めぬべからむこと語りて聞かせ給へ。何となくおきなびにたる心地して、せけんの事も覺束なしや」などの給へど、珍しきことゝて、うち出で聞えむ物語も覺えねば、かしこまりたるやうにて、皆いと凉しき高欄にせなか押しつゝ侍ひ給ふ。「いかで聞きしことぞや。おとゞのほかばらのむすめ尋ね出でゝかしづき給ふとまねぶ人なむありし。誠にや」と辨の少將に問ひ給へば「ことごとしうさまでいひなすべき事にも侍らざりけり。この春の頃ほひ夢がたりし給ひけるをほの聞き傅へける女の、我なむかこつべきことあると名のり出ではべりけるを、中將の朝臣なむ聞きつけて、誠にさやうにもふればひぬべきしるしやあると尋ねとぶらひ侍りける。くはしきさまはえ知り侍らず。げにこの頃珍しき世語になむ人々もし侍るなる。かやうのことこそ人のためおのづからけそんなるわざに待りけれ」と聞ゆ。誠なりけりと思して「いとおほかめる。つらに離れて後るゝ鴈をしひて尋ね給ふらむがふくつけきぞかし。いとともしきに、さやうならむものゝくさはひ見出でまほしけれど、名のりも物憂ききはとや思ふらむ。更にこそきこえね。さてももてはなれたる事にはあらじ。らうがはしくとかく紛れ給ふめりし程に、底淸くすまぬ水に宿れる月は曇りなきやうのいかでかあらむ」とほゝゑみての給ふ。中將の君も委しく聞き給へることなればえしもまめだゝず。少將と藤侍從とはいとからしと思ひたり。「朝臣や、さやうの落葉をだにひろへ。人わろき名の後の世に殘らむよりは同じかざしにて慰めむに、なでうことかあらむ」とろうじ給ふやうなり。かやうのことにてぞ、うはべはいとよき御中の昔よりさすがにひまありけるに、まいて中將をいたくはしたなめてわびさせ給ふつらさをおぼしあまりて、なまねたしとも漏り聞き給へかしと覺すなりけり。かう聞き給ふにつけても、對の姬君を見せたらむ時、又あなづらはしからぬ方にてももてなされむはや、いと物きらきらしくかひある所つき給へる人にて、善き惡しきけぢめもけざやかにもてはやし、又もてけち輕むることも人に異なるおとゞなれば、いかにものしとおぼすとも覺えぬさまにて、この君をさし出でたらむにえ輕くはおぼさじかし、いときびしうはもてなしてむとおぼす。夕つけゆく風いとすゞしくて、かへりうく若き人々は思ひたり。「心安くうち解け休み凉まむや。やうやうかやうの中にも厭はれぬべきよはひにもなりにけりや」とて、西の對に渡り給へば、君達皆御送に參り給ふ。たそがれ時のおぼおぼしきに、同じなほしどもなれば何とも辨へられぬに、おとゞ、「姬君を少しといで給へ」とて忍びて「少將侍從などゐてまうで來たり。いとかけりこまほしげに思へるを中將のいとじはうの人にてゐてこぬ、むじんなめりかし。この人々は皆思ふ心なきならじ。なほなほしききはをだに窓の內なるほどはほどに從ひてゆかしく覺ゆべかめることなれば、この家のおぼえうちうちのくだくだしき程よりはいと世に過ぎてことごとしうなむいひ思ひなすべかめる。かたがたものすめれどさすがに人のすきごといひよらむにつきなしかし。かくて物し給へばいかでかさやうならむ人の氣色の深さ淺さをも見むなど、さうざうしきまゝに願ひ思ひしを、ほいなむかなふ心地しける」などさゝめき聞え給ふ。おまへに亂りがはしき前栽なども植ゑさせ給はず。なでしこの色をとゝのへたる、唐の倭の、ませいとなづかしくゆひなして、咲き亂れたるゆふばへいといみじう見ゆ。皆立ちよりて心のまゝにも折り取らぬを飽かず思ひつゝやすらふ。「有職どもなりな。心用ゐなどもとりどりにつけてこそめやすけれ。右の中將はまして少ししづまりて、心恥しげさまさりて、いかにぞ音づれ聞ゆや。はしたなくもなさし放ち給ひそ」などのたまふ。中將の君はかくよき中にも勝れてをかしげになまめき給へり。「中將を厭ひ給ふこそおとゞはほいなけれ。まじりものなくきらきらしかめる中に、大君だつすぢにてかたくななりとにや」との給へば、「きまさばといふ人も侍りけるを」と聞え給ふ。「いでその御さかなもてはやされむさまは願はしからず。唯をさなきどち結び置きけむ心も解けず、知らず顏にてこゝに任せ給へらむに、後めたうはありなましや」などうめき給ふ。さはかゝる御心の隔ある御中なりけりと聞き給ふにも、親に知られ奉らむことのいつとなきを哀にもいぶせくもおぼす。月もなき頃なればとうろにおほとなぶらまゐれる、「猶けぢかくてあつかはしや。篝火こそよけれ」とて人召して「篝火の臺ひとつこなたに」と召す。をかしげなるわごんのあるをひきよせ給ひて、「かやうの事は御心にいらぬすぢにやと、月頃思ひおとし聞えけるかな。秋の夜の月影凉しき程、いと奧深くはあらで、蟲の聲にかき鳴し合せたるほど、け近う今めかしきものゝ音なり。ことごとしきしらべもなしや。しどけなしや。このものよ。さながら多くの遊びものゝね、拍子を整へとりたるなむいとかしこき。やまと琴とはかなう見せてきはもなくしおきたることなり。廣くことくにの事を知らぬ女のためとなむ覺ゆる。同じくは心とゞめてものなどに搔き合せてならひ給へ。深き心とて何ばかりもあらずながら、又誠にひきうる事はかたきにやあらむ。只今はこの內のおとゞになずらふ人なしかし。唯はかなき同じすがゞきのねに萬のものゝ音こもり通ひて、いふ方もなくこそ響きのぼれ」と語り給へば、ほのぼの心えて、爭でと覺すことなればいとゞ訝かしうて「このわたりにさりぬべき御遊の折などに聞き侍りなむや。怪しき山賤などの中にもまねぶものあまた侍ることなればおしなべて心安くやとこそ思ひ給へつれ。さは勝れたるは、さまことにや侍らむ」とゆかしげにせちに心入れて思ひ給へれば、「さかし、あづまとこそ名も立ちくだりたるやうなれど、おまへの御あそびにもまづふんのつかさを召すは、人の國は知らず。こゝにはこれを物の親としたるにこそあめれ。その中にも、親としつべき御手よりひきとり給へらむは心殊なりなむかし。こゝになどもさるべからむ折には物し給ひなむを、このことに手をしまずなど、あきらかに搔き鳴し給はむことやかたからむ。物の上手はいづれの道も心安からずのみぞあめる。さりとも遂には聞き給ひてむかし」とてしらべ少しひき給ふ。ことつびきびう今めかしうをかし。これにもまさる音や出づらむと、親の御ゆかしさの立ち添ひてこの事にてさへいかならむ世にさて打ち解けひき給はむを聞かむなど思ひ居たまへり。「ぬきがはのせゞのやはらた」などいとなつかしう謠ひ給ふ。親さくるつまは、少しうち笑ひつゝ、わざともなく搔き鳴し給へるすがゞきの程、いひ知らずおもしろう聞ゆ。「いでひき給へ、ざえは人になむ耻ぢぬわざなり。さうふれんばかりこそ心の中に思ひて紛はす人もありけめ。おもなくて、彼此にひき合せたるなむよき」とせちに聞え給へど、さる田舍のくまにてほのかに京人と名のりけるふる大君女の敎へ聞えければ、ひがことにもやとつゝましくて手觸れ給はず。暫しもひき給はなむ聞き取ることもやと心もとなきに、この御事によりてぞ、近うゐざりよりて、「いかなる風の吹き添ひてかうは響き侍るぞ」とて打ち傾き給へるさま、ほかげにいと美しげなり。笑ひ給ひて「耳がたからぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」とておしやり給ふいと心やまし。人々ちかう侍へば例のたはぶれごともえ聞え給はで「なでしこをあかでもこの人々のたち去りぬるかな。いかでおとゞにもこの花園見せ奉らむ。世もいと常なきをと思ふに、いにしへも物の序に語り出で給へりしも只今のことゝぞ覺ゆる」とて、少しのたまひ出でたるにもいと哀れなり。

 「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人やたづねむ。この事の煩はしさにこそ、まゆごもりも心苦しう思ひ聞ゆれ」とのたまふ。君うちなきて、

 「山がつの垣根におひしなでしこのもとの根ざしをたれか尋ねむ」。はかなげに聞えない給へるさまげにいと懷しう若やかなり。「こざらましかば」と打ちずんじ給ひていとゞしき御心は苦しきまで猶え忍びはつまじうおぼさる。渡り給ふこともあまりうちしきり人の見奉り咎めつべき程は心のおにゝおぼしとゞめて、さるべきことをし出でつゝ御文の通はぬをりなし。唯この御ことのみ明暮御心にかゝりたり。なぞかくあいなきわざをして安からぬ物思ひをすらむ、さ思はじとて心のまゝにもあらば、世の人の謗りいはむことのかろがろしさを我がためはさるものにて人の御ためいとほしかるべし、限なき御志といふとも春の上の御おぼえにならぶばかりは我が心ながらえあるまじく覺し知りたり。さてそのおとりのつらにては何ばかりかはあらむ、我が身一つこそ人よりはことなれ、見む人のあまたが中にかゝづらはむすゑにては何の覺えかはたけからむ。異なることなきなうごんのきはの二心なくて思はむには、劣りぬべきことぞと、自らおぼししるにいといとほしうて宮大將などにや許してまし、さてもてはなれいざなひ取りては思ひ絕えなむや、いふかひなきにてもさもしてむとおぼす折もあり。されど渡り給ひて御かたちを見給ひ、今は御琴敎へ給ふにさへことつけて近やかに馴れより給ふ。姬君も初こそむくつけくうたてくも覺え給ひしか、かくてもなだらかに後めたき御心はなかりけりと、やうやうめなれていとしも疎み聞え給はず、さるべき御いらへもなれなれしからぬ程に聞えかはしなどし給ひて、見るまゝにいとあいぎやうづきかをりまさり給へればなおさてもえ過ぐすまじくおぼしかへさる。さばまたさて、こゝながらかしづきすゑてさるべき折々にはかなくうち忍び物をも聞えて慰みなむや、かく又世馴れぬ程の煩はしさこそ心苦しうはありけれ、おのづから關守强くとも物の心を知りそめいとほしき思ひなくて我が心も思ひいりなば繁くともさはらじかし、と覺しよるもいとけしからぬ御心なりや。いよいよ心安からず思ひ渡らむも苦しからむ、なのめに思ひ過ぐさむことの、とざまかうざまにかたきぞ世づかずむつかしき御かたらひなりける。內のおほいとのは、この今の御むすめのことを、殿の人も許さず輕めいひ世にもほきたることゝそしりいふと聞き給ふに、少將のことのついでにおほきおとゞのさることやと問ひ給ひし事語り聞えければ、笑ひ給ひて「さかし。そこにこそ年頃音にも聞えぬ山賤の子迎へ取りて物めかしたつれ。をさをさ人の上もどき給はぬおとゞのこのわたりのことは耳とゞめてぞおとしめ給ふや、これにぞ覺えある心地しける」とのたまふ。少將「かの西の對にすゑ給へる人は、いとこともなきけはひ見ゆるあたりになむ侍る。兵部卿の宮などいたう心とゞめてのたまひ煩ふとか、おぼろげにはあらじとなむ人々推し量り侍るめる」と申し給へば「いでそれはかのおとゞの御娘と思ふばかりの覺えのいといみじきぞ、人の心皆さのみこそある世なめれ。必ずさしも勝れ給はじ、人々しき程ならば年頃聞えなまし。あたらおとゞの塵もつかずこの世に過ぎ給へる御身の覺えありさまにおもだゝしきはらに娘かしづきて、げにきずなからむと思ひやりめでたきが物し給はぬは、大方の子のすくなくて心もとなきなめりかし。おとり腹なめれど明石のおもとの產み出でたるはしもさる世になさすくせにてあるやうあらむと覺ゆかし。その今姬君はようせずはじちの御子にもあらじかし。さすがにいと氣色ある所つい給へる人にてもてない給ふならむ」といひおとし給ふ。「さていかゞ定めらるなる、みここそまつはしえ給はむ。もとより取りわきて御中もよし人がらもきやうさくなる御あはひならむかし」との給ひては、猶姬君の御こと飽かず口惜しくかやうに心にくゝもてなして、いかにしなさむと安からずいぶかしがらせましものをとねたければ、位さばかりと見ざらむかぎりは許し難くおぼすなりけり。おとゞもねんごろに口入れかへさい給はゞこそはまくるやうにても靡かめとおぼすを、をとこがたはた更にいられ給はず心やましくなむ。とかくおぼしめぐらすまゝにゆくりもなくかろらかにはひ渡り給へり。少將も御供に參り給ふ。姬君は晝寢し給へる程なり。うすものゝひとへを着給ひて臥し給へるさまあつかはしくは見えずいとらうたげにさゝやかなり。すき給へる肌つきもいと美くし。をかしげなる手つきして扇をも給へりけるながらかひなを枕にてうちやられたるみぐしのいと長くこちたくはあらねど、いとをかしきすゑつきなり。人々も物の後によりふしつゝ打ち休みたればふともおどろい給はず。扇をならし給へれば何心もなく見上げ給へるまみらうたげにて、つらつきの赤めるも親の御目にはいと美しう見ゆ。「うたゝねは諫め聞ゆるものを、などかいと物はかなきさまにては大殿籠りける。人々も近く侍らはであやしや。女は身を常に心づかひして守りたらむなむよかるべき、心安く打ち捨てたるさまにもてなしたる、しななきわざなり。さりとていとさかしく身かためて不動の陀羅尼よみ印つくりて居たらむもにくし。うつゝの人にもあまりけ遠く物隔てがましきなど氣高きやうとても人にくゝ心美しうはあらぬわざなり。おほきおとゞの后がねの姬君ならはし給ふなる敎は、萬の事に通はしなだらめてかどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらせじと、ゆるゝかにこそおきて給ふなれ。げにさもあることなれど、人として心にもするわざにも、立てゝ靡く方はかたとあるものなればおひ出で給ふさまあらむかし。この君の人となり宮仕に出したて給はむ世の氣色こそいとゆかしけれ」などのたまひて「思ふやうに見奉らむと思ひしすぢは違ふやうになりにたる御身なれどいかで人笑はれならずしなし奉らむとなむ、人の上のさまざまなるを聞くごとに思ひ亂れ侍る。心みことにねんごろがらむ人のねぎごとに、なしばし靡き給ひそ。思ふさま侍る」などいとらうたしと思ひつゝ聞え給ふ。昔は何事をも深う思ひ知らでなかなかさしあたりていとほしかりし事のさわぎにもおもなくて見え奉りけるよと今ぞ思ひ出づるも胸ふたがりていみじう恥しき。大宮よりも常に覺束なき事を恨み聞え給へど、かくのたまふるがつゝましうてえ渡り見奉り給はず。おとゞこの北の對の今君をいかにせむ、さかしらに迎へゐてきて人かうそしるとて返し送らむもいとかるがるしく物ぐるほしきやうなり。かくて籠め置きたれば誠にかしづくべき心あるかと人のいひなすなるもねたし。女御の御方などにまじらはせてさるをこのものにしないてむ、人のいとかたはなるものにいひおとすなるかたちはたいとさいふばかりにやはあるなどおぼして、女御の君に「かの人參らせむ、見苦しからむことなどはおいしらへる女房などしてつゝまず敎へさせ給ひて御覽ぜよ。若き人々のことぐさにはな笑はせ給ひそ。うたてあはつけきやうなり」と笑ひつゝ聞え給ふ。「などかいとさ殊の外には侍らむ。中將などのいと二なく思ひ侍りけむかねごとに堪へずといふばかりにこそ侍らめ、かくの給ひ騷ぐをはしたなく思はるゝにもかたへはかゞやかしきにや」といと恥しげにて聞え給ふ。この御さまはこまかにをかしげさはなくていとあてにすみたるものゝ懷しきさまそひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけ覺えてのこりおほかり。げにほゝゑみ給へるぞ人に異なりけると見奉り給ふ。「中將のさはいへど心若きたどりのすくなさなり」など申し給ふもいとほしげなる人の御おぼえかな。やがてこの御方のたよりに佇みおはして覗き給へればすだれ高くおしはりて五節の君とてざれたる若人のあるとすぐろくうちたまふ。手をいとせちにおしもみて、「せうさいせうさい」といふ聲ぞいとしたどきや。あなうたてとおぼして御供の人のさきおふをも、手かき制し給ひて猶妻戶のほそめなるよりさうじのあきあひたるを見いれ給ふ。この人もはた氣色はやれる、「御返しや御返しや」とどうをひねりつゝとみにも打ち出でず。中に思ひはありやすらむいとあさえたるさまどもしたり。かたちはひぢゞかにさすがに愛敬づきたる方にて、かみ麗しうつみかろげなるを、ひたひのいと近やかなると聲のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたてゝよしとはなけれどこと人とあらがふべくもあらず。鏡に思ひ合せられ給ふにいとすくせ心づきなし。「かくてものし給ふはつきなくうひうひしくなどやある。事繁くのみありてえとぶらひまうでずや」とのたまへば、例のいとしたどにて、「かくて侍へば何の物思ひか侍らむ。年頃おぼつかなくゆかしう思ひ聞えさせし御顏、常にえ見奉らぬばかりこそ手うたぬ心地し侍れ」と聞え給ふ。「げに身に近うつかふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならし奉らむとかねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかゝるもおのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも必ずしもとめぬものなれば心安かべかめれ。それだにその人のむすめかの人の子など知らるゝきはになれば、親はらからのおもてぶせなる類ひ多かめり。まして」との給へさしつる御氣色の恥しきも知らず「何かそはことごとしく思ひ給へてまじらひ侍らばこそ所せからめ。おほみおほつぼとりにも仕うまつりなむ」と聞え給へば、え念じ給はでうち笑ひ給ひて、「似つかはしからぬ役なゝり。かくたまさかにあへる親にけうぜむの心あらば、この物のたまふ聲を少しのどめて聞かせ給へ。さらば命も延びなむかし」と、をごめい給へるおとゞにてほゝゑみての給ふ。「したの本性にこそは侍らめ。をさなく侍りし時だに故母の常に苦しかり敎へ侍りし。妙法寺のべたうだいとこのうぶやに侍りけるあえものとなむ歎き侍りたうびし。げにいかでこのしたどさやめ侍らむ」と思ひさわぎたるもいとけうやうの心深く哀なりと見給ふ。「その氣近く入りたちたりけむ大とここそあぢきなかりけれ。唯その罪の報なゝり。おし、ことゞもりとぞだいぞう謗りたる罪にも數へためるかし」との給ひて、子ながら恥しげにおはする御さまに、見え奉らむこそ恥しけれ。いかに定めてかく怪しきけはひも尋ねず迎へよせけむとおぼし、人々もあまた見つぎいひちらさむことゝ思ひ返し給ふものから、「女御の里にものし給ふ頃時々わたり參りて、人の有樣なども見なれ給へかし。ことなることなき人もおのづから人にまじらひさる方になればさてもありぬかし。さる心して見え奉り給ひなむや」との給へば、「いと嬉しきことにこそ侍るなれ。唯いかでもいかでも御方々にかずまへられ奉らむことをなむ。寐ても覺めても年頃何事を思ひ給へつるにもあらず。御ゆるしだに侍らば水を汲みいたゞきても仕うまつりなむ」といとよげに今少しさへづれば、いふかひなしとおぼして、「いとしかおりたちて薪拾ひ給はずとも參り給ひなむ。唯かのあえものにしけむのりの師だにとほくば」とをこごとにのたまひなすをも知らず。同じき大臣と聞ゆる中にもいと淸げにものものしく華やかなるさまして、おぼろけの人見えにくき御氣色をも見知らず。「さていつか女御殿へは參り侍らむ」と聞ゆれば、「よろしき日などやいふべからむ。よしことごとしくは何かは、さもと思はれば今日にても」との給ひ棄てゝ渡り給ひぬ。よき四位五位たちのいつき聞えてうちみじろぎ給ふにもいといかめしき御いきほひなるを見送り聞えて、「いであなめでたの我が御おやゝ。かゝりける種ながら怪しきこ家におひ出でけること」とのたまへば、五節「あまりことごとしう恥しげにぞおはする。よろしき親の思ひかしづかむにぞ尋ね出でられ給はまし」といふもわりなしや。「例の君の、人のいふ事破り給ひてめざまし。今はひとつくちに詞なまぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ」と腹立ち給ふかほやう、け近う愛敬づきてうち解けそぼれたるは、さる方にをかしう罪許されたり。唯いとひなびあやしきしも人の中におひ出で給へれば物いふさまも知らず、殊なる故なき詞をものどやかにおししづめていひ出したるは打ち開く耳異に覺え、をかしからぬ歌がたりをするもこわづかひつきづきしくて、殘りおもはせもとすゑ惜みたるさまに打ちずじたるは、深きすぢ覺えぬ程の打ち開きにはをかしかなりと耳にとまるかし。心深くよしある事をいひ居たりともよろしき心あらむとも聞ゆべくもあらず。あはつけきこわざまにのたまひ出づることはこはごはしく詞だみて我がまゝに誇りならひたるめのとのふところに習ひたるさまに、もてなしいと怪しきにやつるゝなりけり。いといふかひなくはあらず三十文字あまり、本末あはぬ歌口疾くうち續けなどし給ふ。「さて女御殿に參れとのたまへるをしぶしぶなるさまならばものしうもこそ思せ。よさりまうでむ。おとゞの君天下に覺すともこの御方々のすげなうもてなし給はむには、殿の中にはたてりなむや」との給ふ。御おぼえの程輕らかなりや。まづ御文奉れ給ふ。「葦垣のま近き程には侍ひながら今まで影ふむばかりのしるしも侍らぬは勿來の關をやすゑさせ給ひつらむとなむ。知らねども武藏野といへば、かしこけれども、あなかしこやあなかしこや」と點がちにて、うらには「誠にや暮にも參りこむと思ひ給へたつはいとふにはゆるにや。いでやいでや怪しきはみなせ川にを」とて、又はしにかくぞ

 「草わかみひたちの海のいかゞさきいかであひ見むたごの浦浪。大川水の」と靑き色紙ひとかさねに、いとさうがちにいかれる手のそのすぢとも見えずたゞよひたる書きざまも、しもじながにわりなくよしばめり。くだりの程はしざまにすぢかひてたふれぬべく見ゆるを、打ちゑみつゝ見て、さすがにいと細く小く卷き結びて瞿麥の花につけたり。ひすましわらはゝしもいと馴れてきよげなる今まゐりなりけり。女御の御方の臺盤所によりて、「これ參らせ給へ」といふ。しもづかへ見知りて北の對に侍らふわらはなりけりとて御文取りいる。たいふの君といふ人もて參りてひきときて御覽ぜさす。女御ほゝゑみて打ち置かせ給へるを、中納言の君といふいと近う侍ひてそばそば見けり。「いと今めかしき御文の氣色にも侍るかな」とゆかしげに思ひたれば、「さうの文字はえ見知らねばにやあらむ。本末なくも見ゆるかな」とて給へり。「返事、かくゆゑゆゑしからずば輕しとや思ひおとされなむや」とて、「書き給へ」と讓り給ふ。もて出でゝこそあらね、若き人々はものをかしうて皆うち笑ひぬ。御返り乞へば、「をかしきことのすぢにのみまつはれて侍るめれば聞えさせにくゝこそ。せんじがきめきては、いとほしからむ」とて、唯御文めきてかく。「近きしるしなきおぼつかなさはうらめしく、

  ひたちなるするがの海のすまの浦になみ立ちいでよ箱崎の松」と書きて讀み聞ゆれば、「あなうたて、誠に自らのにもこそいひなせ」とかたはらいたげにおぼいたれど、「それは聞かむ人辨へ侍りなむ」とて、押し包みて出しつ。御方みて、「をかしの御口つきや。まつとの給へるを」とて、いとあまえたるたきものゝ香をかへすがへすたきしめ居給へり。べにといふものいと赤らかにかいつけて髮けづりつくろひ給へる、さる方ににぎはゝしう愛敬づきたり。御對面のほどさしすぐいたることゞもあらむかし。


篝火

このごろ世の人のことぐさに、「內のおほいとのゝ今姬君」と事に觸れつゝいひちらすを、源氏のおとゞ聞し召して、「ともあれかくもあれ、人見るまじくて籠り居たらむをんなごを、なほざりのかごとにてもさばかりに物めかし出でゝ、かく人に見せ言ひ傳へらるゝこそ心えぬことなれ。いときはきはしう物し給ふあまりに、深き心をも尋ねずもて出でゝ心にもかなはねばかくはしたなきなるべし。萬の事もてなしからにこそなだらかなるものなめれ」といとほしがり給ふ。かゝるにつけてもげによくこそと、親と聞えながらも年頃の御心を知り聞えず馴れ奉らましかばはぢがましきことやあらましと、對の姬君おぼし知るを、右近もいとよく聞き知らせけり。にくき御心こそそひたれどさりとて御心のまゝにおしたちてなどももてなし給はず、いとゞ深き御心のみまさり給へば、やうやう懷しう打ち解け聞え給ふ。秋にもなりぬ。初風凉しく吹き出でゝせこが衣もうらさびしき心地し給ふに、忍びかねつゝいとしばしば渡り給ひておはしましくらし、御琴などもならはし聞え給ふ。五日六日の夕月夜はとく入りて、凉しく曇れる氣色、荻の音もやうやうあはれなる程になりにけり。御琴を枕にて諸共に添ひ臥し給へり。かゝるたぐひあらむやとうち歎きがちにて夜ふかし給ふも、人のとがめ奉らむことをおぼせば、渡り給ひなむとておまへの篝火少し消えがたなるを御供なる右近の大夫を召してともしつけさせ給ふ。いと凉しげなる遣水のほとりに氣色ことにひろごりたるまゆみの木の下に、うちまつおどろおどろしからぬ程におきてさししぞきてともしたれば、御前の方はいと凉しくをかしき程なる光に、女の御さま見るもかひありてみぐしの手あたりなどいとひやゝかにあてはかなる心地して、うちとけぬさまに物をつゝましとおぼしたる氣色いとらうたげなり。かへりうくおぼしやすらふ。「絕えず人さぶらひてともしつけよ。夏の月なきほどは庭の光なきいとものむかしくおぼつかなしや」との給ふ。

 「かゞりびにたちそふ戀のけぶりこそ世には絕えせぬほのほなりけれ。いつまでとかやふすぶるならでも苦しきしたもえなりけり」と聞え給ふ。女君、怪しのありさまやと覺すに、

 「行くへなき空にけちてよかゞり火のたよりにたぐふ烟とならば。人のあやしと思ひ侍らむこと」とわび給へば、「くはや」とて出で給ふに、ひんがしの對の方におもしろき笛の音箏に吹き合せたり。中將の例のあたり離れぬどち遊ぶにぞありける。「頭中將にこそあなれ。いとわざとも吹きなる音かな」とて立ちとまり給ふ。御せうそこ「こなたになむ。いと蔭凉しき篝火にとゞめられて物する」との給へれば、うちつれて三人參り給へり。「風の音秋になりけりと聞えつる笛の音に忍ばれてなむ」とて、御琴ひき出でゝなつかしき程にひき給ふ。源中將は盤涉調にいとおもしろく吹きたり。頭の中將心遣ひして、いだしたてがたうす。「遲し」とあれば辨の少將拍子打ち出でゝ忍びやかにうたふ。聲、すゞむしにまがひたり。ふたかへりばかり謠はせ給ひて御琴は中將に讓らせ給ひつ。げにかの父おとゞの御つまおとにをさをさ劣らず華やかにおもしろし。みすのうちに物の音聞き分く人ものし給ふらむかし。「今宵は盃など心してを、さかり過ぎたる人はゑひなきのついでに忍ばれぬこともこそ」との給へば、姬君もげに哀と聞き給ふ。絕えせぬ中の御ちぎりおろかなるまじきものなればにや、この君達を人知れず目にも耳にもとゞめ給へどかけてさだに思ひよらず。この中將は心のかぎり盡して、思ふすぢにぞかゝるついでにも忍びはつまじき心地すれど、さまよくもてなしてをさをさ心解けてもかきわたさず。


野分

中宮の御前に秋の花を植ゑさせ給へること、常の年よりも見所多く色草をつくして、よしある黑木赤木のませをゆひまぜつゝ、同じき花の枝ざし、すがた、朝露の光も世の常ならず、玉かと輝きて、造り渡せる野邊の色を見るにはた春の山も忘られて、凉しうおもしろく心のあくがるゝやうなり。春秋のあらそひに昔より秋に心よする人は數增りけるを、名だゝる春のお前の花園に心よせし人々又ひきかへしうつろふ氣色、世の有樣に似たり。これを御覽じつきて里居し給ふほど御遊などもあらまほしけれど、八月は故前坊の御き月なれば心もとなくおぼしつゝ明け暮るゝに、この花の色まさる氣色どもを御覽ずるに、のわき例の年よりもおどろおどろしく空の色變りて吹き出づ。花どものしをるゝをいとさしも思ひしまぬ人だにあなわりなと思ひさわがるゝを、まして叢の露の玉の緖亂るゝまゝに、御心惑ひもしぬべくおぼしたり。おほふばかりの袖は秋の空にしもこそほしげなりけれ。暮れ行くまゝに物も見えず吹き迷はしていとむくつけゝれば、御格子などまゐりぬるに、後めたくいみじと花のうへをおぼし歎く。南のおとゞにも前栽つくろはせ給ひける折にしも、かく吹き出でゝもとあらの小萩はしたなく待ちえたる風の氣色なり。をれかへり露もとまるまじう吹き散すを少しはし近うて見給ふ。おとゞは姬君の御方におはします程に、中將の君參り給ひて東の渡殿の小さうじのかみより妻戶のあきたるひまを、何心もなく見入れ給へるに、女房數多見ゆれば立ちとまりて音もせで見る。御屛風も風のいたう吹きければ押し疊みよせたるに、みとほしあらはなる廂のおましに居給へる人、物に紛るべくもあらず。氣高く淸らにさとうち匂ふ心ちして、春の曙の霞のまよりおもしろきかば櫻の咲き亂れたるを見る心ちす。あぢきなく見奉る。我が顏にも移りくるやうに愛敬は匂ひたり。又なくめづらしき人の御樣なり。みすの吹き上げらるゝを人々おさへて、いかにしたるにかあらむ打ち笑ひ給へる、いといみじう見ゆ。花どもを心苦しがりてえ見捨てゝ入り給はず。おまへなる人々もさまざまに物淸げなる姿どもは見渡さるれど目うつるべくもあらず。おとゞのいとけ遠く遙にもてなし給へるはかく見る人たゞにはえ思ふまじき御有樣を、いたり深き御心にて、若しかゝることもやとおぼすなりけりと思ふに、けはひ恐しくて立ちさるにぞ、西の御方よりうちの御障子ひき開けて渡り給ふ。「いとうたてあわたゞしき風なめり。御格子おろしてよ。をのこどもあるらむを、あらはにもこそあれ」と聞え給ふを、又よりて見れば、物聞えておとゞもほゝゑみてぞ見奉り給ふ。親とも覺えず若く淸らになまめきていみじき御かたちのさかりなり。女もねびとゝのひ、飽かぬ事なき御さまどもなるを見るに身にしむばかり覺ゆれど、この渡殿の東の格子も吹き放ちて、立てる所のあらはになれば恐しくて立ちのきぬ。今參るやうにうちこわづくりてすのこの方に步み出で給へれば、「さればよ、あらはなりつらむ」とて「かの妻戶のあきたりけるよ」と今ぞ見咎め給ふ。年頃かゝることの露なかりつるを、風こそげに巌も吹き上げつべきものなりけれ、さばかりの御心どもをさわがして珍しく嬉しきめを見つるかなと覺ゆ。人々まゐりて、「いといかめしう吹きぬべき風には侍り。うしとらの方より吹き侍ればこのおまへはのどけきなり。うま塲のおとゞ、南の釣殿などは危げになむ」とてとかく事行ひのゝしる。「中將は何處よりものしつるぞ」、「三條の宮に侍りつるを、風いたく吹きぬべしと人々の申しつれば、覺束なさになむ參りて侍りつる。かしこにはまして心ぼそく風の音をも今はかへりて若き子のやうにおぢ給ふめれば、心苦しきにまかで侍りなむ」と申し給へば、「げに、はやまうで給ひね。老いもていきて又わかうなること世にあるまじきことなれど、げにさのみこそあれ」など哀がり聞え給ひて、「かう騷しげにはべめるを、この朝臣侍へばと思ひ給へ讓りて」など御せうそこ聞え給ふ。道すがらいりもみする風なれど、麗しく物し給ふ君にて、三條の宮と六條院とに參りて御覽ぜられ給はぬ日なし。うちの御物忌などに得去らず籠り給ふべき日より外は、いそがしき公事節會などのいとまいるべく事繁きにあはせても、まづこの院に參り宮よりぞ出で給ひければ、まして今日かゝる空の氣色により風のさきにあくがれありき給ふも哀に見ゆ。宮いと嬉しくたのもしと待ち受け給ひて、「こゝらの齡にまだかく騷しき野分にこそあはざりつれ」と唯わなゝき給ふ。大きなる木の枝などの折るゝ音もいとうたてあり。おとゞの瓦さへ殘るまじう吹き散らすに、「かくてものし給へること」とかつはの給ふ。そこら所せかりし御勢ひのしづまりて、この君を賴もし人におぼしたる、常なき世なり。今も大方のおぼえの薄らぎ給ふことはなけれど內のおほひとのゝ御けはひはなかなか少し疎くぞありける。中將よもすがら荒き風の音にもすゞろに物あはれなり。心にかけて戀しと思ふ人の御事はさしおかれて、ありつる御面影の忘られぬを、こはいかに覺ゆる心ぞあるまじき思ひもこそ添へ、いと恐ろしきこととみづから思ひまぎらはし、こと事に思ひ移れど猶ふと覺えつゝきしかた行くすゑありがたうも物し給ひけるかな。かゝる御なからひに、いかでひんがしの御方さるものゝかずにて立ち並び給ひつらむ、たとしへなかりけりや、あないとほしと覺ゆ。おとゞの御心ばへをありがたしと思ひ知り給ふ。人がらのいとまめやかなればにげなさを思ひよらねど、さやうならむ人をこそ同じうは見て明し暮さめ、限あらむ命の程も今少しは必ず延びなむかしと思ひ續けらる。曉がたに風少ししめりて村雨のやうに降り出づ。六條院には離れたる屋ども倒れたりなど人々申す。風の吹きまふほど廣くそこら高き心地する院に人々はたおはします。おとゞのあたりにこそ繁けれ、ひんがしの町などは人ずくなにおぼされつらむと驚き給ひてまたほのぼのとするに參り給ふ。道の程橫ざま雨いと冷やかに吹き入る。空の氣色もすごきに怪しくあくがれたる心地して、何事ぞや又我心に思ひ加はれるよと思ひ出づれど、いとにげなき事なりけり。あなものぐるほしと、とざまかうざまに思ひつゝひんがしの御方にまづまうで給へれば、おぢこうじておはしけるにとかく聞え慰めて、人召して所々繕はすべきよしなどいひおきて南のおとゞに參り給へれば、まだみ格子も參らず。おはしますにあたれる高欄におしかゝりて見渡せば、山の木どもゝ吹き靡かして枝ども多く折れ伏したり。草むらは更にもいはず、ひはだ、瓦、所々の立蔀、すいがいなどやうのもの亂りがはし。日の僅にさし出でたるに、うれへがほなる庭の露きらきらとして空はいとすごうきり渡れるに、そこはかとなく淚の落つるをおしのごひ隱して打ちしはぶき給へれば「中將のこわづくるにぞあなる。夜はまだ深からむは」とて起き給ふなり。何事にかあらむ聞え給ふ聲はせで、おとゞ打ち笑ひ給ひて「古だに知らせ奉らずなりにし曉のわかれよ、今ならひ給はむに心苦しからむ」とて、とばかり語らひ聞え給ふけはひどもいとをかし。女の御いらへは聞えねどほのぼのかやうに聞え戯れ給ふ言の葉の趣にゆるびなき御なからひかなと聞き居給へり。み格子を御手づからひきあけ給へばけぢかき傍いたさに立ちのきて侍ひ給ふ。「いかにぞ。よべ、宮はまち喜び給ひきや」、「しか、はかなきことにつけても淚もろにものし給へばいとふびんにこそ侍れ」と申し給へば、笑ひ給ひて「今いくばくもおはせじ。まめやかに仕うまつり見え奉れ。內のおとゞは、こまかにしもあるまじうとこそ憂へ給ひしか。人がらあやしう華やかに雄々しき方によりて、親などの御けうをもいかめしきかたざまをばたてゝ人にも見驚かさむの心あり。誠にしみて深き所はなき人になむものせられける。さるは心のくま多くいと賢き人の末の世にあまるまでざえたぐひなくうるさながら、人としてかく難なきことは難かりける」などの給ふ。「いとおどろおどろしかりつる風に、中宮にはかばかしきみやづかさなど侍ひつらむや」とてこの君して御せうそこ聞え給ふ。「よるの風の音はいかゞ聞し召しつらむ。吹きみだり侍りしにおこりあひ侍ひていと堪へがたきにためらひ侍る程になむ」と聞え給ふ。中將おりてなかの廊の戶より通りて參りたまふ。朝ぼらけのかたちいとめでたくをかしげなり。ひんがしの對の南のそばに立ちて御前の方を見遣り給へばみ格子ふたまばかりあげてほのかなる朝ぼらけの程に御簾卷きあげて人々居たり。高欄にもおしかゝりて若やかなるかぎりあまた見ゆ。打ち解けたるはいかゞあらむ、さやかならぬ明けぐれのほどいろいろなる姿はいづれとなくをかし。わらはべおろさせ給ひて蟲のこどもに露かはせ給ふなりけり。紫苑瞿麥の濃き薄き衵どもに女郞花のかざみなどやうの時に逢ひたるさまにて四五人ばかりつれてこゝかしこの草むらによりていろいろのこどもをもてさまよひ、瞿麥などのいと哀げなる枝ども取りもて參る霧のまよひはいと艷にぞ見えける。吹きくる追風はしをにことごとに匂ふ空も、香のかをりもふればひ給へる御けはひにやといと思ひやりめでたく、心げさうせられて立ち出でにくけれど、忍びやかにうちおとなひて步み出で給へるに、人々けざやかに驚き顏にはあらねど皆すべり入りぬ。御まゐりのほどなどわらはにて入り立ち馴れ聞え給へれば、女房などもいとけうとくはあらず。御せうそこ啓せさせ給ひて、宰相の君內侍などのけはひすれば私事も忍びやかに語らひ給ふ。これはたさいへど氣髙く住みたるけはひありさまを見るにもさまざま物思ひ出でらる。南のおとゞにはみ格子まゐり渡してよべ見捨て難かりし花どもの、行くへも知らぬやうにて萎れ伏したるを見給ひけり。中將みはしに居給ひて御かへり聞え給ふ。「荒き風をもふせがせ給ふべくやと若々しく心ぼそく覺え侍るを、今なむ慰み侍りぬる」と聞え給へれば、「怪しくあえかにおはする宮なり。女どちは物恐しくおぼしぬべかりつる夜のさまなれば、げにおろかなりともおぼいつらむ」とてやがて參り給ふ。御直衣など奉るとて御簾ひきあげて入り給ふに、短き御几帳ひきよせてはつかに見ゆる御袖口は、さにこそあらめと思ふに胸つぶつぶとなる心地するもうたてあればほかざまに見やりつ。殿御鏡など見給ひて、忍びて「中將の朝けの姿はきよげなりな。唯今はきびはなるべき程をかたくなしからずと見ゆるも心のやみにやあらむ」とて我が御顏はふりがたくよしと見給ふべかめり。いといたく心げさうし給ひて、「宮に見え奉るは恥しうこそあれ。何ばかりあらはなるゆゑゆゑしさも見え給はぬ人のおくゆかしく心づかひせられ給ふぞかし。いとおほどかに女しきものから氣色づきてぞおはするや」とて出で給ふに、中將ながめ入りてとみにも驚くまじき氣色にて居給へるを、心とき人の御目にはいかゞ見給ひけむ、立ちかへり女君に「昨日の風のまぎれに中將は見奉りやしけむ。かの戶のあきたりしによ」とのたまへば、おもてうち赤めて「いかでさはあらむ。渡殿の方には人の音もせざりしものを」と聞え給ふ。猶「怪し」とひとりごちて渡り給ひぬ。御簾の內に入り給ひぬれば中將渡殿の戶口に人々のけはひするによりて物などいひたはぶるれど、思ふ事のすぢすぢなげかしくて例よりもしめりて居給へり。こなたよりやがて北に通りて明石の御方を見遣り給へば、はかばかしきけいしだつ人なども見えず、馴れたる下仕どもぞ草の中にまじりてありく。わらはべなどのをかしきあこめ姿うちとけて心とゞめ取り分きうゑ給ふ龍膽朝顏のはひまじれるませも皆散り亂れたるを、とかうひき出で尋ぬるなるべし。物の哀に覺えけるまゝに箏の琴をかきまさぐりつゝはし近く居給へるに、御さきおふ聲のしければ打ち解けなえばめる姿に小袿ひきおとしてけぢめ見せたるいといたし。はしの方につい居給ひて風のさわぎばかりをとぶらひ給ひてつれなく立ち歸り給ふも心やましげなり。

 「おほかたに荻の葉すぐる風の音もうき身ひとつにしむ心ちして」とひとりごちけり。西の對には恐しと思ひ明し給ひける名殘に寢すぐして、今ぞ鏡など見給ひける。「ことごとしくさきなおひそ」との給へば、殊に音もせで入り給ふ。屛風なども皆疊みよせて物しどけなくしなしたるに日の華やかにさし出でたる程、けざけざと物淸げなるさまして居給へり。近く居給ひて例の風につけても同じすぢにむづかしう聞え戯れ給へば、堪へずうたてと思ひて「かう心憂ければこそ今宵の風にもあくがれなまほしく侍りつれ」とむづかり給へば、いとよくうち笑ひ給ひて「風につきてあくがれ給はむやかろがろしからむ。さりともとまる方ありなむかし。やうやうかゝる御心むけこそ添ひにたれ。ことわりや」との給へば、げにうち思ふまゝに聞えてけるかなとおぼして自らもうちゑみ給へる、いとをかしき色あひつらつきなり。ほゝづきとかいふめるやうにふくらかにて髮のかゝれるひまひま美しう覺ゆ。まみのいとあまりわらゝかなるぞいとしも品高く見えざりける。その外はつゆ難つくべくもあらず。中將、いと細やかに聞え給ふをいかでこの御かたち見てしがなと思ひ渡る心地にて、隅のまの御簾の几帳は添ひながらしどけなきをやをらひきあげて見るに紛るゝものどもゝ取りやりたればいとよく見ゆ。かく戯れ給ふ氣色のしるきを、あやしのわざや、親と聞えながらかくふところはなれず物近かるべき程かはと目とまりぬ。見やつけ給はむと恐しけれど怪しきに心も驚きてなほ見れば、柱がくれに少しそばみ給へりつるを引きよせ給へるにみぐしのなみよりてはらはらとこぼれかゝりたる程女いとむつかしく苦しと思ひ給へる氣色ながら、さすがにいとなごやかなるさましてよりかゝり給へるはことゝなれなれしきにこそあめれ、いであなうたて、いかなるにかあらむ、思ひよらぬ隈なくおはしける御心にてもとより見馴れおふしたて給はぬはかゝる御思ひも添ひ給へるなめり、うべなりけりや。あなうとましと思ふ心もはづかし。女の御さまげにはらからといふとも少し立ちのきてことはらぞかしなど思はむは、などか心あやまちもせざらむと覺ゆ。昨日見し御けはひにはけおとりたれど見るにゑまるゝさまは立ちもならびぬべく見ゆ。八重山吹の咲き亂れたるさかりに露かゝれる夕ばえぞふと思ひ出でらるゝ。折にあはぬよそへなれど猶うち覺ゆるやうよ。花は限りこそあれ、そゝけたるしべなどもうちまじるかし。人の御かたちのよきは譬へむ方なきものなりけり。おまへに人も出で來ずいとこまやかに打ちさゝめき語らひ聞え給ふに、いかゞあらむ、まめだちてぞ立ち給ふ。女君、

 「吹き亂る風のけしきにをみなへししをれしぬべき心ちこそすれ」。委しくも聞えぬに、うちずじ給ふをほの聞くに、にくきものゝをかしければ、猶見はてまほしけれど、近かりけりと見え奉らじと思ひて、立ち去りぬ。御かへし、

 「したつゆに靡かましかば女郞花あらき風にはしをれざらまし。なよ竹を見給へかし」などひがみゝにやありけむ聞きよくもあらずぞ。ひんがしの御方へこれよりぞ渡り給ふ。けさの朝寒なるうち解けわざにや、物たちなどするねびごたち、御前にあまたして細櫃めくものに綿ひきかけてまさぐる若人どもゝあり。いと淸らなる朽葉のうすものいまやう色のになく打ちたるなどひきちらし給へり。「中將の下襲か、御前の壺前栽の宴もとまりぬらむかし。かく吹き散らしてむには何事かせられむ。すさまじかるべき秋なめり」などのたまひて、何にかあらむ樣々なるものゝ色どものいと淸らなれば、かやうなる方は南の上にも劣らずかしとおぼす。御直衣けもんれうをこの頃摘み出したる花してはかなう染め出で給へるいとあらまほしき色したり。「中將にこそかやうにては着せ給はめ。若き人のにてめやすかめり」などやうの事を聞え給ひて渡り給ひぬ。むづかしき方々めぐり給ふ御供にありきて中將はなま心やましく書かまほしき文など日たけぬるを思ひつゝ姬君の御方に參り給へり。「まだあなたになむおはします。風におぢさせ給ひて今朝はえ起きあがり給はざりつる」と御めのとぞ聞ゆる。「もの騷しげなりしかば宿直も仕うまつらむと思ひ給へしを、宮のいと心苦しうおぼいたりしかばなむ。ひゝなの殿はいかゞおはすらむ」と問ひ給へば、人々笑ひて「扇の風だにまゐればいみじきことにおぼいたるを、ほとほとしくこそ吹き亂り侍りにしか。この御殿あつかひに、わびにて侍り」などかたる。「ことごとしからぬ紙や侍る。御つぼねの硯」と乞ひ給へば、み厨子によりて紙ひとまき御硯の蓋に取りおとして奉れば「いな、これはかたはらいたし」とのたまへど、北のおとゞのおぼえを思ふに少しなのめなる心地して書きたまふ。紫の薄やうなりけり。墨、心とゞめておしすり筆のさきうちみつゝこまやかに書きやすらひ給へるさまいとよし。されどあやしく定りてにくき御口つきこそものし給へ。

 「風さわぎむら雲まよふ夕にもわするゝまなくわすられぬきみ」吹き亂りたる苅萱につけ給へれば、人々「交野の少將は、紙の色にこそとゝのへ侍りけれ」と聞ゆ。「さばかりの色も思ひわかざりけりや。いづくの野邊のほとりの花よ」などかやうの人々にもことずくなに見えて心とくべくももてなさず、いとすくすくしくけだかし。またもかい給へて右馬助に賜へれば、をかしきわらは又いと馴れたる御隨身などにうちさゝめきて取らするを、若き人々たゞならずゆかしがる。渡らせ給ふとて人々うちそよめき、御几帳ひき直しなどす。見つる花のかほどもゝ思ひくらべまほしくて、例は物ゆかしからぬ心地にあながちに妻戶の御簾をひきゝて几帳のほころびより見れば、物のそばより唯はひ渡り給ふほどぞふとうち見えたる。人の繁くまがへば何のあやめも見えぬほどにいと心もとなし。薄色の御ぞに髮のまだたけにははづれたる末の、ひき廣げたるやうにていと細くちひさきやうだいらうたげに心ぐるし。おとゝしばかりはたまさかにもほのみ奉りしに、又こよなく生ひまさり給へるなめりかし、まして盛いかならむかしと思ふ。かの見つるさきざきの、櫻山吹といはゞ、これは藤の花とやいふべからむ。こだかき木より咲きかゝりて風に靡きたるにほひはかくぞあるかしと思ひよそへらる。かゝる人々を心に任せて明暮見奉らばや、さもありぬべき程ながらへだてへだてのけざやかなるこそつらけれなど思ふに、まめ心もあくがるゝ心地す。をば宮の御許に參り給へれば、のどやかに御おこなひし給ふ。よろしき若人などはこゝにも侍へど、もてなしけはひさうぞくどもゝ盛なるあたりには似るべくもあらず。かたちよき尼君だちの墨染にやつれたるぞなかなかかゝる所につけてはさるかたにて哀なり。內のおとゞも參り給へるにおほとなぶらなどまゐりてのどやかに御物語聞え給ふ。「姬君を久しく見奉らぬがあさましきこと」とてたゞ泣きに泣き給ふ。「今このごろの程に參らせむ。心づから物思はしげにて口惜しく衰へてなむ侍るめる。をんなごこそよくいはゞもち侍るまじきものなりけれ。とあるにつけても心のみなむ盡され侍りける」など猶心解けず思ひおきたる氣色にてのたまへば、心憂くてせちにも聞え給はず。そのついでにも「いとふでうなるむすめまうけ侍りて、もて煩ひ侍りぬ」とうれへ聞え給ひて笑ひ給ふ。宮「いであなあやし、むすめといふ名はして、さがなかるやうやある」とのたまへば「それなむ見苦しきことになむ侍る。いかで御覽ぜさせむ」と聞え給ふとや。


行幸

かく覺し至らぬ事なくいかで善からむことはと覺し扱ひ給へど、この音無の瀧こそうたていとほしく南の上の御おしはかりごとに適ひてかるがるしかるべき御名なれ、かのおとゞ何事に付けてもきはきはしく、少しも片はなるさまの事を覺し忍ばずなど物し給ふ御心ざまを、さて思ひぐまなくけざやかなる御もてなしなどの有らむにつけてはをこがましうもやなど覺しかへさふ。そのしはすに大原野の行幸とて世に殘る人なく見騷ぐを六條院よりも御方々引き出でつゝ見給ふ。卯の時に出で給ひて、すざくより五條の大路を西ざまに折れ給ふ。桂川のもとまで物見車ひまなし。行幸といへど必ず斯うしもあらぬを今日はみこ達上達部も皆心ことに御馬鞍を整へ隨身うまぞひのかたちたけだちさうぞくを飾り給ひつゝ珍らかにをかし。左右の大臣、內大臣、納言よりしもはた况して殘らず仕うまつり給へり。靑色の上のきぬ、えび染の下襲を殿上人五位六位まで着たり。雪唯聊か打ち散りて道の空さへ艷なるに、みこ達上達部など鷹にかゝづらひ給へるは珍しきかりの御よそひどもを設け給ふ。そゑの鷹飼どもは况して世に目なれぬ摺ごろもを亂れ着つゝ氣色ことなり。珍しうをかしきことにきほひ出でつゝその人ともなく幽かなるあし弱き車など輪を押しひしがれ哀げなるもあり。浮橋のもとなどにも好ましう立ちさまよふ善き車多かり。西の對の姬君も立ち出で給へり。そこばくいどみ盡し給へる人の御かたちありさまを見給ふに、帝の赤色の御ぞ奉りて麗しう動きなき御かたはら目になずらひ聞ゆべき人なし。我が父おとゞを人知れず目をつけ奉り給へれど、きらきらしう物淸げに、盛には物し給へれど限ありかし。いと人にすぐれたるたゞ人と見えて御輿の內より外に目移るべくもあらず。况してかたちありや、をかしやなど若きご達の消え返り心移す。中少將何くれの殿上人やうの人は何にもあらず消え渡れるは更にたぐひなうおはしますなりけり。源氏のおとゞの御顏ざまはことものとも見え給はぬを思ひなしの今少しいつくしう辱くめでたきなり。さば斯かるたぐひはおはし難かりけり。あてなる人は皆もの淸げにけはひ殊なべい物とのみ、おとゞ中將などの御匂に目馴れ給へるを、出でぎえどものかたはなるにやあらむ、同じ目鼻とも見えず、口惜しくぞおされたるや。兵部卿の宮もおはす。右大將のさばかりおもりかに由めくも今日のよそひいとなまめきてやなぐひなど負ひて仕うまつり給へり。色黑く髭がちに見えていと心づきなし。いかでかは女の繕ひ立てたる顏の色あひには似たらむ。いとわりなきことを若き御心地には見おとし給ひてけり。おとゞの君の覺しよりての給ふ事をいかゞはあらむ、宮仕は心にもあらで見苦しき有樣にやと思ひ包み給ふを、馴々しき筋などをばもて離れて大方に仕うまつり御覽ぜられむはをかしうも有りなむかしとぞ思ひ寄り給ひける。斯くて野におはしまし着きて御輿とゞめ上達部のひらばりにもの參り御さうぞくどもなほし、狩の御よそひなどに改め給ふ程に、六條院より御みき御くだものなど奉らせ給へり。今日は仕うまつらせ給ふべくかねては御氣色ありけれど、御物忌の由を奏せさせ給へるなりけり。藏人の左衞門の尉を御使にて雉子一枝奉らせ給ふ。仰言には何とかや。さやうの折の事まねぶに煩はしくなむ。

 「雪深き小鹽の山に立つ雉の古き跡をも今日は尋ねよ」。太政大臣の、かゝる野の行幸に仕うまつり給へるためしなどやありけむ。大臣御使を畏まりもてなさせ給ふ。

 「をしほ山みゆき積れる松原に今日ばかりなる跡やなからむ」とその頃ほひ聞きしことのそばそば思ひ出でらるゝは僻事にやあらむ。またの日おとゞ西の對に「昨日うへは見奉らせ給ひきや。かのことは覺し靡きぬらむや」と聞え給へり。白き色紙にいと打ちとけたる文こまやかに氣色ばみてもあらぬがをかしきを見給ひて、「あいなのことや」と笑ひ給ふものから、よくも推し量らせ給ふものかなとおぼす。御返りに「昨日は

  打ちきらし朝曇りせしみゆきにはさやかに空の光やは見し。覺束なき御事どもになむ」とあるを上も見給ふ。「しかしかの事をそゝのかしゝかど、中宮かくておはすればこゝながらの覺えにはびんなかるべし。かのおとゞに知られても女御かくて又侍ひ給へばなど思ひ亂るめりし筋なり。若人のさも馴れ仕うまつらむに憚る思なからむは、上をほの見奉りて、え懸け離れて思ふはあらじ」とのたまへば、「あなうたて。めでたしと見奉るとも心もて宮づかへ思ひたゝむこそいとさし過ぎたる心ならめ」とて笑ひ給ふ。「いで、そこにしもぞめで聞え給はむ」などのたまひて、又御返り、

 「あかねさす光は空に曇らぬをなどてみゆきに目をきらしけむ。猶覺したて」など絕えず進め給ふ。とてもかうてもまづ御裳着の事こそはと覺して、その御設けの御調度のこまかなる淸らども加へさせ給ふ。何くれの儀式を御心にはいとも思ほさぬ事をだにおのづから世だけくいかめしくなるを、ましてうちのおとゞにもやがてこの序にや知らせ奉りてましと覺し寄れば、いとめでたう所せきまでなむ。年かへりて二月にとおぼす。女は聞え高く名隱し給ふべき程ならぬも、人の御むすめとて籠りおはする程は、必ずしも氏神の御勤めなどあらはならぬ程なればこそ年月は紛れすぐし給へ、このもし覺し寄る事もあらむには春日の神の御心たがひぬべきも、終には隱れて止むまじきものから、あぢきなくわざとがましき後の名までうたゝあるべし、なほなほしき人のきはこそ今やうとては打ち改むる事のたはやすきもあれなど覺し廻らすに、親子の御契絕ゆべきやうなし。同じくは我が心許してを知らせ奉らむなど覺し定めて、この御腰ゆひにはかのおとゞをなむ御せうそこ聞え給ひければ、大宮去年の冬つかたより惱み給ふ事更におこたり給はねばかゝるに合せてびんなかるべき由聞え給へり。中將の君もよるひる三條に添ひ侍ひ給ひて心の空なく物し給ひて折惡しきをいかにせましと覺す。世もいと定めなく宮もうせさせ給はゞ御ぶくあるべきを知らず顏にてものし給はむ、罪深きこと多からむ、おはする世に、この事顯はしてむと覺し取りて、三條の宮に御とぶらひがてら渡り給ふ。今は况して忍びやかに振舞ひ給へどみゆきに劣らずよそほしくいよいよ光をのみ添へ給ふ。御かたちなどのこの世に見えぬ心地して珍しう見奉り給ふには、いと御心地の惱しさも取り捨てらるゝ心ちして起き居給へり。御けう息にかゝりて弱げなれど物などいと能く聞え給ふ。「けしうはおはしまさゞりけるをなにがしの朝臣の心惑はしておどろおどろしう歎き聞えさすめれば、いかやうに物させ給ふにかとなむ覺束ながり聞えさせつる。內などにもことなる序なき限は參らず、おほやけに仕ふる人ともなくて籠り侍れば萬うひうひしう世だけくなりにて侍る。齡などこれより增る人、腰堪へぬまでかゞまりありくためし昔も今も侍るめれど、あやしくおれおれしき本性に添ふ物憂さになむ侍るべき」など聞え給ふ。「年の積りの惱みと思う給へつゝ月頃になりぬるを今年となりては賴み少きやうに覺え侍れば、今一度だにかく見奉り聞えさすることもなくてやと心細く思う給へつるを、今日こそ又少し延びぬる心地し侍れ。今は惜みとむべき程にも侍らず、さべき人々にも立ち後れ世の末に殘りとまれる類ひを、人の上にていと心づきなしと見侍りしかば、出で立ち急ぎをなむ思ひ催され侍るに、この中將のいと哀にあやしきまで思ひ扱ひ心を騷がひ給ふを見侍るになむさまざまにかけとゞめられて今まで長びき侍り」と唯泣きに泣きて御聲のわなゝくもをこがましけれどさる事どもなればいと哀なり。御物語ども昔今の取り集め聞え給ふ序に「內のおとゞは日隔てず參り給ふこと繁からむを、かゝる序に對面のあらばいかに嬉しからむ。いかで聞え知らせむと思ふことの侍るを、さるべき序でなくては對面もありがたければ覺束なくてなむ」と聞え給ふ。「おほやけごとの繁きにや、私の志の深からぬにや、さしもとぶらひものし侍らず、のたまはすべからむことは何さまの事にかは。中將の恨めしげに思はれたる事も侍るを、始の事は知らねど今はけにくゝもてなすにつけて立ち初めにし名の取り返さるゝものにもあらず、をこがましきやうに却りては世の人も言ひ漏すなるをなど物し侍れど、立てたる所昔よりいと解け難き人の本性にて心得ずなむ見給ふる」とこの中將の御事と覺しての給へば、打ち笑ひ給ひて「言ふかひなきに許して捨て給ふ事もやと聞き侍りて、こゝにさへなむかすめ申すやうありしかどいと嚴しく諫め給ふ由を見侍りし後、何にさまでことをもまぜ侍りけむと、人わろう悔い思う給へてなむ。萬の事につけて淸めといふ事侍れば、いかゞはさも取り返しすゝい給はざらむとは思ひ給へながら、かう口をしき濁の末に待ち取り、深く澄むべき水こそ出でき難かべい世なれ。何事につけても末になれば落ち行くけぢめこそ易く侍るめれ。いとほしく聞き給ふる」など申し給ひて「さるはかの知り給ふべき人をなむ思ひまがふる事侍りて不意に尋ね取りて侍るを、その折はさるひが業とも明し侍らずありしかば、あながちに事の心を尋ねかへさふ事も侍らで、唯さるものゝくさの少きをかごとにても何かはと思ひ給へ許して、をさをさむつびも見侍らずして年月侍りつるをいかでか聞し召しけむ。內に仰せらるゝやうなむある。內侍のかみ宮仕する人なくてはかの所の政しどけなく、女官などもおほやけごとを仕うまつるにたづきなく、事亂るゝやうになむありけるを、只今うへに侍ふ故老のすけ二人又さるべき人々さまざまに申さするをはかばかしう選ばせ給はむ、尋ねにたぐふ人なむなき。猶家高う人の覺え輕からで家の營み立てたらむ人なむ古よりなり來にける。したゝかに賢き方の撰びにてはその人ならでも年月の勞になり昇る類ひあれど、しか類ふべきも無しとならば大方の覺えだにえらせ給はむとなむ內々に仰せられたりしを、似げなき事としも何かは思ひ給はむ。宮仕はさるべき筋にてかみもしもゝ思ひ及び出で立つこそ心高きことなれ。おほやけざまにてさる所の事を掌り政の趣をしたゝめ知らむことは、はかばかしからずあはつけきやうに覺えたれど、などか又さしもあらむ。唯我が身の有樣からこそ萬の事侍るめれと思ひ寄り侍りし序になむ齡の程など問ひ聞き侍れば、かの御尋ねあべい事になむありけるをいかなべい事ぞとも申しあきらめまほしう侍る。序なくては對面侍るべきにも侍らず。やがて斯かる事なむと顯はし申すべきやうを思ひ廻らしてせうそこ申しゝを、御惱みにことつけて物憂げにすまひ給へりし、げに折しもびんなう思ひとまり侍るに、宜しう物せさせ給ひければ猶かう思ひおこせる序にとなむ思ひ給ふる。さやうに傳へ物せさせ給へ」と聞え給ふ。宮「いかにいかに侍りける事にか。かしこには樣々に斯かる名のりする人を厭ふ事なく拾ひ集めらるゝに、いかなる心にて斯く引きたがへ喞ち聞えらるらむ。この年頃承りてなりぬるにや」と聞え給へば、「さるやう侍る事なり。委しきさまはかのおとゞもおのづから尋ね聞き給ひてむ。くだくだしきなほ人の中らひに似たる事に侍れば明さむにつけてもらうがはしう人言ひ傳へ侍らむを、中將の朝臣にだにまだ辨へ知らせ侍らず、人にも漏させ給ふまじ」と御口かため聞え給ふ。內のおほい殿にも斯く三條の宮におほきおとゞ渡りおはしましたる由聞き給ひて、「いかに寂しげにていつくしき御さまを、待ち受け聞え給ふらむ。ごぜんなどももてはやし、おまし引き繕ふ人もはかばかしうあらじかし。中將は御供にこそ物せられつらめ」など驚き給ひて、「御子どもの君達睦しうさるべきまうちぎみ達奉れ給ふ。御菓もの御みきなどさりぬべくまゐらせよ。自らも參るべきを、却りて物騷しきやうならむ」などの給ふ程に大宮の御文あり。「六條のおとゞの訪らひに渡り給へるを物寂しげに侍れば人目いとほしうも辱うもあるを、ことごとしう斯う聞えたるやうにはあらで渡り給ひなむや。對面に聞えま欲しげなる事もあなり」と聞え給へり。何事にかはあらむ、この姬君の御事中將の愁にやと覺しまはすに、宮もかう御世殘り少なげにてこの事とせちにの給ひ、おとゞも憎からぬ樣に一言うち出で恨み給はむに、とかく申し返さふ事もえあらじかし、つれなくて思はれぬを見るには安からず、さるべき序であらば人の御言に靡き顏にて許してむと覺す。御心をさし合せての給はむ事と思ひ寄り給ふにいとゞいなび所なからむが又などかさしもあらむと休らはるゝ、いとけしからぬ御あやにく心なりかし。されど宮斯くの給ひおとゞも對面すべく待ち坐するにや、方々に恭けなし。參りてこそは御氣色に隨はめなど覺しなりて御さうぞく心殊に引き繕ひてごぜんなどもことごとしきさまにはあらで渡り給ふ。君達いと夥多引き連れて參り給ふさまものものしう賴もしげなり。たけだちそゞろかにものし給ふに太さも合ひていとしう德に面もち步まひなど、大臣と言はむに足らひ給へり。えび染の御指貫櫻の下襲いと長う尻引きて、ゆるゆると殊更びたる御もてなしあなきらきらしと見え給へるに、六條殿は櫻の唐のきの御直衣今樣色の御ぞ引き重ねてしどけなきおほきみ姿いよいよ譬へむものなし。光こそ優り給へ。斯うしたゝかに引き繕ひ給へる御有樣になずらひても見え給はざりけり。君達次々に、いともの淸げなる御中らひにてつどひ給へり。藤大納言春宮大夫など今は聞ゆる御子どもゝ皆なり出でつゝものし給ふ。おのづからわざともなきに覺え高くやんごとなき殿上人藏人頭五位の藏人近衞の中少將辨官など、人がら華やかに有るべかしき十餘人集ひ給へれば、いかめしう、次々のたゞびとも多くてかはらけあまた度流れ皆ゑひになりて、おのおの斯うさいはひびとに勝れ給へる御有樣を、物語にしたり。おとゞは珍しき御對面に昔の事覺し出でられて、よそよそにてこそはかなき事につけていどましき御心も添ふべかめれ。さし向ひ聞え給ひてはかたみにいと哀なる事の數々覺し出でつゝ、例のへだてなく昔今の事ども年頃の御物語に日暮れ行く。御かはらけなど進め參り給ふ。「侍はでは惡しかりぬべかりけるを召しなきに憚りて、承り過ぐしてましかば御かうじや添はまし」と申し給ふに「勘當はこなたざまになむかうしと思ふ事多く侍る」など氣色ばみ給ふに、この事にやと覺せば煩はしうて畏まりたるさまにて物し給ふ。「昔よりおほやけ私の事につけて心の隔てなく大小の事聞え承はり羽根を雙ぶるやうにて、おほやけの御後見をも仕うまつらむとなむ思う給へしを、末の世となりてそのかみ思ひ給へしほいなきやうなる事うちまじり侍れど內々の私ごとにこそは大方の志は更に移ろふ事なくなむ何ともなくて積り侍る。年よはひに添へていにしへの事なむ戀しかりけるを、對面給はる事もいと稀にのみ侍れば、事限ありて世だけき御振舞とは思ひ給へながら、親しき程にはその御いきほひをも引き靜め給ひてこそはとぶらひ物し給はめとなむ恨めしき折々侍る」と聞え給へば「いにしへはげに面馴れてあやしくたいだいしきまで馴れ侍ひ心に隔つる事なく御覽ぜられしを、おほやけに仕うまつりしきはは羽根を雙べたる數に嬉しき御顧みをこそ。はかばかしからぬ身にてかゝる位に及び侍りておほやけに仕うまつり侍る事に添へても思ひ給へ知らぬには侍らぬを、齡の積りには、げにおのづからうちゆるぶ事のみなむ多く侍りける」など畏まり申し給ふ。その序にほのめかし出で給ひにけり。おとゞ「いと哀に珍らかなる事にも侍りけるかな」とまづうち泣き給ひて、「そのかみよりいかになりにけむと尋ね思ひ給へしさまは何の序にか侍りけむ、愁に堪へず漏し聞し召させし心地なむし侍る。今少し人數にもなり侍るに付けては、はかばかしからぬものどもの方々につけてさまよひ侍るをかたくなしく見苦しと見侍るにつけても、又さるさまにて數々に連ねては哀に思ひ給へらるゝ折に添へても、まづなむと思ひ給へ出でらるゝ」とのたまふ序に、かのいにしへの雨夜の物語に色々なりし御睦言の定めを覺し出でゝ泣きみ笑ひみ皆うち亂れ給ひぬ。夜いたう更けて、おのおのあがれ給ふ。「斯く參り來合ひて更に久しくなりぬる世のふる事思ひ給へ出でられて戀しき事の忍び難きに立ち出でむ心地もし侍らず」とて、をさをさ心弱くおはしまさぬ六條殿もゑひなきにや打ちしほたれ給ふ。宮はた况いて姬君の御事を覺し出づるに、在りしに優る御有樣いきほひを見奉り給ふに飽かず悲しくとゞめ難くしほしほと泣き給ふ。あまごろもはげに心ことなりけり。斯かる序なれど中將の御事をばうち出で給はずなりぬ。一ふし用意なしと覺しおきてければ口入れむ事も人わろく覺しとゞめ、かのおとゞはた人の御氣色なきにさし過ぐし難くてさすがに結ぼゝれたる心地し給ひけり。「今夜も御供に侍ふべきをうちつけに騷がしくもやとてなむ。今日の畏まりは殊更になむ參るべく侍る」と申し給へば、「さらばこの御惱みも宜しう見え給ふを、必ず聞えし日違へさせ給はず渡り給ふべき」よし聞え契り給ふ。御氣色どもようておのおの出で給ふ。響いといかめし。きみ達の御供の人々も何事ありつるならむ、珍しき御對面にいと御氣色よげなりつるは、又いかなる御讓りあるべきにかなどひが心得をしつゝ、斯かる筋とは思ひ寄らざりけり。おとゞうちつけにいと訝かしう心もと無う覺え給へど、ふとしかうけとり親がらむもびんなからむ、尋ね得給へらむ始を思ふに、定めて心淸う見放ち給はじ、やんごとなき方々を憚りてうけばりてそのきはにはもてなさず、さすがに煩はしう物の聞えを思ひて斯く明し給ふなめりと覺すは口惜しけれど、それを疵とすべき事かは、殊更にもかの御あたりにふればゝせむになどか覺えの劣らむ、宮仕へざまにも赴き給へらば女御などの覺さむこともあぢきなしとおぼせど、ともかくも思ひ寄りのたまはむ掟を違ふべき事かはと萬に覺しけり。斯くのたまふは、二月ついたち頃なりけり。十六日彼岸の始にていとよき日なりけり。近う又よき日なしとかうがへ申しける內に、宜しうおはしませば急ぎ立ち給ひて、例の渡り給ひておとゞに申しあらはしゝさまなどいと細かにあべき事ども敎へ聞え給へば、哀なる御心は親と聞えながらも有りがたからむをと覺すものから、いとなむ嬉しかりける。斯くて後は中將の君にも忍びて斯かる事の心をのたまひ知らせてけり。あやしの事どもや、うべなりけりと思ひ合する事どもゝあるに、かのつれなき人の御有樣よりも猶もあらず思ひ出でられて、思ひ寄らざりける事よとしれじれしき心地す。されど有るまじうねぢけたるべき程なりけりと思ひ返す事こそは有りがたきまめまめしさなめれ。斯くてその日になりて三條の宮より忍びやかに御使あり。御ぐしの箱など俄なれど、事どもいと淸らにし給ひて「聞えむにもいまいましき有樣を、今日は忍び籠め侍れど、さる方にても長きためしばかりを覺し許すべうやとてなむ。哀に承りあきらめたるすぢをかけ聞えざらむもいかゞ御氣色に隨ひてなむ。

  二方に言ひもて行けば玉匣我が身離れぬ懸子なりけり」といとふるめかしうわなゝき書い給へるを、殿もこなたにおはしまして事ども御覽じ定むる程なれば、見給うて「古代なる御文がきなれど、いたしやこの御手よ。昔は上手に物し給ひけるを、年に添へてあやしく老い行く物にこそありけれ。いとかく御手ふるひにけり」などうち返し見給ひて、「能くも玉くしげにまつはれたるかな。三十一字のなかにこともじは少なく、添へたる事の難きなり」と忍びて笑ひ給ふ。中宮より白き御裳唐ぎぬ御さうぞく御ぐし上げの具などいとになくて、例の壺どもに唐のたき物心ことに薰深く奉り給へり。御方々皆心々に御さうぞく人々の料に櫛扇までとりどりにし出で給へる有樣、劣り優らず樣々につけてさばかりの御心ばせどもに挑み盡し給へればをかしう見ゆるを、東の院の人々もかゝる御急ぎは聞き給ひけれどもとぶらひ聞え給ふべき數ならねば唯聞き過ぐしたるに、常陸の宮の御方あやしう物麗はしうさるべき事の折過ぐさぬ古代の御心にて、いかでかこの御急ぎをよその事とは聞き過ぐさむと覺して、かたのごとなむし出で給ひける。哀なる御志なりかし。靑にびの細長一襲、おちぐりとかや何とかや昔の人のめでたうしける袷の袴一具、紫のしらきり見ゆるあられ地の御小袿とよきころもばこに入れて包みいと麗はしうて奉れ給へり。御文には「知らせ給ふべき數にも侍らねばつゝましけれど、かゝる折は思ひ給へ忍び難くなむ。これはいとあやしけれど人にも賜はせよ」とおいらかなり。殿御覽じつけていとあさましう例のと覺すに、御顏赤みぬ。「あやしきふる人にこそあれ。かく物つゝみしたる人は引き入り沈み入りたるこそ善けれ。さすがに耻ぢがましや」とて「返り事はつかはせ。はしたなく思ひなむ。父みこのいと悲しうし給ひける思ひ出づれば、人におとさむはいと心苦しき人なり」と聞え給ふ。御小袿の袂に例の同じ筋の歌ありけり。

 「我が身こそ恨みられけれ唐衣君が袂に馴れずと思へば」。御手は昔だにありしを、いとわりなうしゞかみゑり深う强う固う書き給へり。おとゞにくきものゝをかしさをばえ念じ給はで「この歌詠みつらむ程こそ。况して今は力なくて所せかりつらむ」といとほしがり給ふ。「いでこの返事は騷がしくとも我れせむ」とのたまひて、「あやしう人の思ひ寄るまじき御心ばへこそさらでも有りぬべき事なれ」とにくさに書き給ひて、

 「唐衣また唐衣唐衣返す返すも唐衣なる」とていとまめやかに「かの人の立てゝ好むすぢなれば、物して侍るなり」とて見せ奉り給へば、君いと匂ひやかに笑ひ給ひて「あないとほし。哢じたるやうにも侍るかな」と苦しがり給ふ。由無しごといと多かりや。內のおとゞはさしも急がれ給ふまじき御心なれど、珍らかに聞き給ひし後はいつしかと御心に懸かりたれば疾く參り給へり。儀式などあべい限に又過ぎて珍しきさまにしなさせ給へり。げにわざと御心とゞめ給ひける事と見給ふも辱きものからやう變りて覺さる。亥の時にぞ內に入れ奉り給ふ。例の御設けをばさるものにて、內のおましいとになくしつらはせ給ひて御肴參らせ給ふ。御となぶら例のかゝる所よりは少し光見せてをかしき程にもてなし聞え給へり。いみじうゆかしう思ひ聞え給へど今夜はいとゆくりかなるべければ、引き結び給ふ程え忍び給はぬ氣色なり。あるじのおとゞ「今夜は古へざまのことはかけ侍らねば、何のあやめも分かせ給ふまじくなむ。心知らぬ人目を飾りて猶世の常の作法に」と聞え給ふ。「げに更に聞えさせ遣るべき方侍らずなむ」。御かはらけ參る程に「限り畏まりをば、世にためし無き事と聞えさせながら、今まで斯く忍び籠めさせ給ひける恨もいかゞ添へ侍らざらむ」と聞え給ふ。

 「恨めしや沖つ玉藻をかづくまで磯隱れける蜑の心よ」とて猶包みあへずしほたれ給ふ。姬君はいと耻かしき御有樣どものさしつどひつゝましさにえ聞え給はねば、殿

 「寄る邊なみかゝる渚に打ち寄せて海士も尋ねぬ藻屑とぞ見し。いとわりなき御うちつけごとになむ」と聞え給へば、「いとことわりになむ」と聞えやる方なくて出で給ひぬ。み子達次々、人々殘なく集ひ給へり。御けさう人も夥多まじり給へればこのおとゞ斯く入りおはして程經るをいかなる事にかと疑ひ給へり。かの殿の君達、中將、辨の君ばかりぞほの知り給へりける。人知れず思ひし事をからうも嬉しうも思ひなり給ふ。辨は「能くぞうち出でざりける」とさゝめきて「さま異なるおとゞの御好みどもなめり。中宮の御類ひに仕立て給はむとや覺すらむ」などおのおの言ふ由を聞き給へど「猶暫しは御心遣ひし給ひて世に誹りなきさまにもてなさせ給へ。何事も心安き程の人こそ亂りがはしうともかくも侍るべかめれ。こなたをもそなたをも樣々の人の聞え惱さむ。啻ならむよりはあぢきなきをなだらかにやうやう人目をも馴らすなむよき事に侍るべき」と申し給へば「唯御もてなしになむ隨ひ侍るべき。斯うまで御覽ぜられ有りがたき御はぐゝみに隱ろへ侍りけるもさきの世の契おろかならじ」と申し給ふ。御贈物など更にも言はず、凡べて引出物祿ども品々につけて例ある事限あれど又こと加へ二なくせさせ給へり。大宮の御惱にことつけ給ひし名殘もあればことごとしき御遊などはなし。兵部卿宮「今はことつけやり給ふべき滯りもなきを」とおり立ち聞え給へど「內より御氣色ある事をかへさひ奏し又々仰に隨ひてなむ異ざまの事はとも斯くも思ひ定むべき」とぞ聞えさせ給ひける、父おとゞはほのかなりしさまを、いかでさやに又見む、なまかたほなる事見え給はゞ斯うまでことごとしうもてなし覺さじなど中々心もとなう戀しう思ひ聞え給ふ。今ぞかの御夢も誠に覺し合せける。女御ばかりにはさだかなる事のさま聞え給ひけり。世の人ぎゝに暫しこの事出さじとせちにこめ給へど、口さがなきものは世の人なりけり。じねんに言ひ漏しつゝやうやう聞え出でくるをこのさがな者の君聞きて、女御の御前に中將少將侍ひ給ふに出で來て「殿は御むすめ設け給へるなり。あなめでたや。いかなる人ふたかたにもてなさるらむ。聞けばかれも劣りばらなり」とあうなげにの給へば女御傍痛しと覺して物ものたまはず。中將「しかかしづかるべき故こそ物し給ふらめ。さても誰が言ひし事を斯くゆくりなくうち出で給ふぞ。物言ひ啻ならぬ女房などもこそ耳とゞむれ」とのたまへば「あなかま、皆聞きて侍り。ないしのかみになるべかなり。宮仕にと急ぎ出で立ち侍りし事は、さやうの御顧みもやとてこそなべての女房達だに仕うまつらぬ事までおり立ち仕うまつれ。御前のつらくおはしますなり」と恨みかくれば、皆ほゝ笑みて「ないしのかみあかばなにがし等こそ望まむと思ふを、非道にも覺しかけゝるかな」とのたまふに、腹立ちて「めでたき御中に數ならぬ人は交るまじかりける。中將の君ぞつらくおはする。さかしらに迎へ給ひて輕め嘲り給ふ。少々の人はえたてるまじき殿の內かな。あな畏こあな畏こ」としりへざまにゐざりしぞきて見おこせ給ふ。にくげもなけれどいと腹惡しげにまじり引き上げたり。中將は斯く言ふにつけてもげにし誤りたる事と思へばまめやかにて物し給ふ。少將は「斯かる方にても、類ひなき御有樣をおろかにはよも覺さじ。御心を靜め給うてこそは堅き巖ほも沫雪になし給ふべき御氣色なれば、今よう思ひかなひ給ふ時もありなむ」とほゝゑみて言ひ居給へり。中將も「天の岩門さし籠り給ひなむや。目安く」とて立ち給ひぬれば、ほろほろと泣きて「この君達さへ皆すげ無うし給ふに唯御前の御心の哀におはしませばさぶらふなり」とていとかやすくいそしく、下臈わらはべなどの仕うまつりたへぬざふ役をも立ち走りやすく惑ひありきつゝ志を盡して宮仕しありきて「ないしのかみに己れを申しなし給へ」と責め聞ゆれば、あさましういかに思ひていふ事ならむとおぼすに物も言はれ給はず。おとゞこの望を聞き給ひていと華やかにうち笑ひ給ひて、女御の御方に參り給へる序に、「いづら、このあふみの君。こなたに」と召せば「を」といとけざやかに聞えて出で來たり。「いと仕へたる御けはひおほやけ人にてげにいかにあひたらむ。ないしのかみのことはなどかおのれに疾くは物せざりし」といとまめやかにてのたまへば、いと嬉しと思ひて「さも御氣色給はらま欲しう侍りしかどこの女御殿などおのづから傳へ聞えさせ給ひてむと賴みふくれてなむ侍ひつるを、なるべき人ものし給ふやうに聞き給ふれば夢にとみしたる心地し侍りてなむ胸に手を置きたるやうに侍る」と申し給ふ舌ぶりいと物爽かなり。笑み給ひぬべきを念じて「いとあやしう覺束なき御癖なりや。さも覺しの給はましかばまづ人のさきに奏してまし。おほきおとゞの御娘やんごとなくとも、こゝにせちに申さむ事は聞し召さぬやうあらざらまし。今にても申文を取り綴りて、びゞしう書き出だされよ。長歌などの心ばへあらむを御覽ぜむには捨てさせ給はじ。上はその內に情捨てずおはしませば」などいと善うすかし給ふ。人のおやげなくかたはなりや。「大和歌はあやしくも續け侍りなむ。むねむねしき方の事はた殿より申させ給はゞ、つまごゑのやうにて御德をも蒙り侍らむ」とて、手をおし摺りて聞え居給へり。御几帳の後などにて聞く女房死ぬべく覺ゆ。物笑ひに堪へぬはすべり出でゝなむ慰めける。女御も御おもて赤みてわりなう見苦しと覺したり。殿も「物むづかしき折はあふみの君見るこそ萬紛るれ」とて唯笑ひぐさにつくり給へど世の人は「耻ぢがてらはしたなめ給ふ」などさまざま言ひけり。


藤袴

內のかみの御宮仕の事を、誰も誰もそゝのかし給ふもいかならむ、親と思ひ聞ゆる人の御心だにうちとくまじき世なりければ、况してさやうの交らひにつけて心より外にびんなき事もあらば、中宮も女御も方々につけて心おき給はゞ、はしたなからむに、わが身は斯くはかなきさまにていづ方にも深く思ひ留められ奉る程もなく、淺き覺えにて啻ならず思ひ言ひ、いかで人笑へなるさまに見聞きなさむとうけび給ふ人々も多く、とかくにつけて安からぬ事のみありぬべきを、物覺し知るまじき程にしあらねばさまざまに思ほし亂れ、人知れず物なげかし。さりとてかゝる有樣も惡しき事はなけれど、このおとゞの御心ばへのむづかしく心つきなきも、いかなる序にかはもて離れて人の推し量るべかめるすぢを心淸くもあり果つべき。誠の父おとゞもこの殿の覺さむ所を憚り給ひて、うけばりて取り放ちけざやぎ給ふべき事にもあらねば、猶とてもかくても見苦しうかけがけしき有樣にて心を惱まし人にもて騷がるべき身なめりと、中々この親尋ね聞え給ひて後は殊に憚り給ふ氣色もなきおとゞの君の御もてなしを取り加へつゝ人知れずなむ歎かしかりける。思ふ事をまほならずとも片はしにてもうちかすめつべき女親もおはせず、いづ方もいづ方もいと耻しげにいと麗はしき御さまどもには何事をかは、さなむ斯くなむとも聞え分き給はむ。世の人に似ぬ身の有樣をうちながめつゝ夕暮の空の哀げなる氣色をはし近くて見出し給へるさまいとをかし。薄きにび色の御ぞ懷かしき程にやつれて例に變りたる色合にしも形はいと華やかにもてはやされておはするを、御前なる人々は打ち笑みて見奉るに、宰相の中將同じ色の今少しこまやかなる直衣姿にて纓卷き給へるしも、又いとなまめかしく淸らにておはしたり。始より物まめやかに心寄せ聞え給へばもて離れてうとうとしきさまにはもてなし給はざりし習ひに、今あらざりけりとてこよなく變らむもうたてあれば猶みすに几帳添へたる御對面は人づてならでありけり。殿の御せうそこにて內より仰言あるさまやがてこの君の承り給へるなりけり。御返りおほどかなる物からいと目やすく聞えなし給ふけはひのらうらうしく懷かしきにつけてもかの野分のあしたの御朝顏は、心にかゝりて戀しきをうたてあるすぢに思ひしを、聞き明らめて後には猶もあらぬ心地添ひて、この宮仕を大方にしも覺し放たじかし、さばかり見處ある御あはひどもにてをかしきさまなる事の煩はしきはた必ず出で來なむかしと思ふに、啻ならず胸ふたがる心地すれど、つれなくすくよかにて「人に聞かすまじと侍ることを聞えさせむにいかゞ侍るべき」と氣色立てば、近く侍ふ人も少し退きつゝ御几帳のうしろなどにそばみあへり。そらせうそこをつきづきしう取り續けてこまやかに聞え給ふ。上の御氣色の啻ならぬすぢをさる御心し給へなどやうのすぢなり。いらへ給はむ事もなくうち歎き給へる程忍びやかに美くしういと懷かしきに、猶え忍ぶまじく「御服もこの月には脫がせ給ふべきを日序でなむ宜しからざりける。十三日に河原へ出でさせ給ふべき由の給はせつ。なにがしも御供に侍ふべくなむ思ひ給ふる」と聞え給へば「たぐひ給はむもことごとしきやうにや侍らむ。忍びやかにてこそよく侍らめ」との給ふ。この御ぶくなどの委しきさまを人に普ねく知らせじとおもむけ給へる氣色いとらうあり。中將「洩らさじと包ませ給ふらむこそ心憂けれ。忍び難く思ひ給へらるゝ形見なれば、脫ぎ捨て侍らむ事もいと物憂く侍るものを、さてもあやしうもて離れぬ事の又心得難きにこそ侍れ。この御あらはしごろもの色なくばえこそ思ひ給へ分くまじかりけれ」との給へば「何事も思ひ分かぬ心には况してともかくも思う給へたどられ侍らねど、斯かる色こそ怪しく物哀なる業に侍りけれ」とて例よりもしめりたる御氣色いとらうたげにをかし。かゝる序でにとや思ひ寄りけむ、らにの花のいとおもしろきをも給へりけるをみすのつまよりさし入れて、「これも御覽すべき故は有りけり」とて、とみにもゆるさで、もたまへればうつたへに思ひも寄らで取り給ふ御袖を引き動かしたり。

 「同じ野の露にやつるゝ藤袴哀れはかけよかごとばかりも。みちのはてなるとかや」。いと心づき無くうたてなりぬれど、見知らぬさまにやをら引き入りて、

 「尋ぬるに遙けき野邊の露ならば薄紫やかごとならまし。かやうに聞ゆるより深き故はいかゞ」との給へば、少しうち笑ひて「淺きも深きも覺し分く方は侍りなむと思ひ給ふる。まめやかにはいと辱きすぢを思ひ知りながら、え靜め侍らぬ心の中をいかでしろしめさるべき。中々覺し疎まむが侘しさにいみじくこめ侍るを、今はた同じと思ひ給へ侘びてなむ。頭中將の氣色は御覽じ知りきや。人の上になど思ひ侍りけむ。身にてこそいとをこがましくかつは思ひ給へ知られけれ。中々かの君は思ひさまして終に御あたり離るまじき賴みに思ひ慰めたる氣色など見侍るもいと羡ましく妬きに、哀とだに覺し置けよ」などこまやかに聞え知らせ給ふ事多かれど、傍ら痛ければ書かぬなり。かんの君やうやう引き入りつゝむつかしと覺したれぼ「心憂き御氣色かな。過ちすまじき心の程はおのづから御覽じ知らるゝやうも侍らむものを」とてかゝる序でに今少しも漏さまほしけれど「あやしく惱ましくなむ」とて入り果て給ひぬればいと痛くうち歎きて立ち給ひぬ。中々にもうち出でゝけるかなと口惜しきにつけても、かの今少し身にしみて覺えし御けはひをかばかりの物越しにても、仄かに御聲をだに、いかならむ序でにか開かむと安からず思ひつゝお前に參り給へれば、出で給ひて御返りなど聞え給ふ。「この宮仕を澁々にこそ思ひ給へれ。宮などのれんじ給へる人にていと心深き哀を盡し言ひ惱まし給ふに、心やしみ給ふらむと思ふになむ心苦しき。されど大原野の行幸に上を見奉り給ひてはいとめでたくおはしけりと思う給へり。若き人は仄かにも見奉りてえしも宮仕のすぢ、もて離れじと思ひてなむこの事も斯くものせし」などの給へば「さても人ざまは孰方につけてかは類ひて物し給ふらむ。中宮斯く雙びなきすぢにておはしまし、又弘徽殿やんごとなく覺え殊にてものし給へば、いみじき御思ひありとも立ち雙び給ふ事難くこそ侍らめ。宮はいとねんごろにおぼしたなるをわざとさるすぢの御宮仕にもあらぬものから、引きたがへたらむさまに御心置き給はむもさる御中らひにてはいといとほしくなむ聞き給ふる」とおとなおとなしく申し給ふ。「難しや。我が心一つなる人のうへにもあらぬを、大將さへ我れをこそ恨むなれ。凡べてかゝる事の心苦しさを見過ぐさで、あやなき人の恨み負ふ、却りてはかるがるしき業なりけり。かの母君の哀に言ひ置きし事の忘れざりしかば心細き山里になむと聞きしを、かのおとゞはた聞き入れ給ふべくもあらずと愁へしにいとほしくて斯く渡し始めたるなり。こゝに斯く物めかすとてかのおとゞも人めかい給ふなめり」とつきづきしくの給ひなす。「人がらは宮の御人にていと善かるべし。今めかしういとなまめきたるさましてさすがに賢く過ちすまじくなどして、あはひは目安からむ。さて又宮仕にもいとよく足らひたらむかし。かたちよくらうらうしき物のおほやけごとなどにもおぼめかしからず、はかばかしくて上の常に願はせ給ふ御心には違ふまじき」などの給ふ氣色の見ま欲しければ「年頃かくてはぐゝみ聞え給ひける御志をひがざまにこそ人は申すなれ。かのおとゞもさやうになむおもむけて大將のあなたざまの便りに氣色ばみたりけるにもいらへ給ひける」と聞え給へば、うち笑ひて「かたがたいと似げなき事かな。猶宮仕をも何事をも御心許して斯くなむと思されむさまにぞ從ふべき。女は三に從ふものにこそあなれど、序でをたがへておのが心に任せむことは有るまじき事なり」との給ふ。「內々にやんごとなき此れ彼れ年頃經てものし給へば、え其のすぢの人數には物し給はで、すてがてらに斯く讓りつけおほざうの宮仕のすぢにらうろうせむと覺し置きつる、いとかしこくかどある事なりとなむ喜び申されけると、たしかに人の語り申し侍りしなり」といとうるはしきさまに語り申し給へば、げにさは思ひ給ふらむかしとおぼすに、いとほしくて「いとまがまがしきすぢにも思ひより給ひけるかな。いたり深き御心ならひならむかし。今おのづからいづかたにつけてもあらはならむことありなむ。思ひくまなしや」と笑ひ給ふ。御氣色はけざやかなれど猶疑ひは多かる、おとゞも、さりや、かく人の推し量るあんにおつるともあらましかばいと口をしくねぢけたらまし、かのおとゞにいかでかく心淸きさまをしらせ奉らむとおぼすにぞ。げに宮仕のすぢにてけざやかなるまじくまぎれたるおぼえを、かしこくも思ひより給ひけるかなとむくつけくおぼさる。かくて御ぶくなど脫ぎ給ひて、月立たば猶參り給はむこといみあるべし、十月ばかりにとおぼしのたまふを、內にも心もとなく聞しめし聞え給ふ人々は、誰も誰もいと口惜しくてこの御まゐりのさきにと、心よせのよすがにせめ侘び給へど「吉野の瀧をせかむよりも難きことなればいとわりなし」と各いらふ。中將もなかなかなる事をうち出でゝ、いかにおぼすらむと苦しきまゝにかけりありきて、いとねんごろに大方の御後見を思ひあつかひたるさまにてつゐしようしありき給ふ。たはやすくかるらかにうち出でゝは聞えかゝり給はず、めやすくもてしづめ給へり。誠の御はらからの君達はえよりこず宮づかへの程の御後見をとおのおの心もとなくぞ思ひける。頭中將心を盡しわびしことはかきたえにたるを、うちつけなる御心かなと人々はをかしがるに、殿の御つかひにておはしたり。猶もていでず忍びやかに御せうそこなども聞えかはし給ひければ、月のあかき夜桂のかげに隱れてものし給へり。見聞き入るべくもあらざりしを名殘なく南のみすの前にすゑ奉る。みづから聞え給はむ事はしも猶つゝましければ宰相の君していらへ聞え給ふ。「なにがしを選びて奉り給へるは人づてならぬ御せうそこにこそ侍らめ。かく物遠くてはいかゞ聞えさすべからむ。みづからこそ數にも侍らねど絕えぬたとひも侍るなるを、いかにぞや、こだいのことなれどたのもしくぞ思ひ給へける」とて、ものしと思ひ給へり。「げに年頃のつもりも取り添へて聞えまほしけれど、日頃あやしく惱ましう侍れば起き上りなどもえし侍らでなむ。かくまで咎め給ふもなかなかうとうとしき心地なむし侍りける」といとまめだちて聞え出し給へり。「なやましくおぼさるらむ御几帳のもとをば許させ給ふまじくや。よしよしげに聞えさするも心地なかりけり」とておとゞの御せうそこども忍びやかに聞え給ふ。用意など人には劣り給はずいとめやすし。「參り給はむ程のあない委しきさまもえ聞かぬを、うちうちにのたまはむなむよからむ。何事も人めに憚りてえ參りこず聞えぬ事をなむなかなかいぶせくおぼしたる」など語り聞え給ふついでに、「いでや、をこがましきこともえぞ聞えさせぬや。いづかたにつけても哀をば御覽じ過ぐすべくやはありけると、いよいようらめしさもそひ侍るかな。まづは今夜などの御もてなしよ。北おもてだつかたに召し入れて君達こそめざましくもおぼしめさめ、下仕などやうの人々とだにうち語らはゞや。又かゝるやうはあらじかし。さまざまに珍しき世なりかし」とうち傾きつゝ恨み續けたるもをかしければ、かくなむときこゆ。「げに人ぎゝをうちつけなるやうにやと憚り侍るほどに、年頃のうもれいたさをもあきらめ侍らぬはいとなかなかなる事多くなむ」と唯すくよかに聞えなし給ふにまばゆくてよろづおしこめたり。

 「いもせ山深き道をば尋ねずてをだえの橋にふみまどひける、よ」とうらむるも人やりならず。

 「まどひける道をばしらで妹背山たどたどしくぞ誰もふみ見し。いづかたの故となむえおぼしわかざめりし。何事もわりなきまで大方の世を憚らせ給ふめれば、え聞えさせ給はぬになむ。おのづからかくのみも侍らじ」と聞ゆるもさることなれば「よし、長居し侍らむもすさまじき程なり。やうやうらうつもりてこそはかくごんをも」とて立ち給ふ。月隈なくさしあがりて空の氣色も艷なるに、いとあてやかに淸げなるかたちして御直衣のすがた好ましう華やかにていとをかし。「宰相の中將のけはひありさまにはえならび給はねど、これもをかしかめるは、いかでかゝる御なからひなりけむ」と若き人々は例のさるまじきことをもとりたてゝめであへり。大將はこの中將は同じ右のすけなれば常によびとりつゝねんごろにかたらひ、おとゞにも申させ給ひけり。人がらもいとよくおほやけの御後見となるべかめるしたかたなるを、などかはあらむとおぼしながら、かのおとゞのかくし給へることをいかゞは聞えかへすべからむ、さるやうあることにこそと、心得給へるすぢさへあればまかせ聞え給へり。この大將は春宮の女御の御はらからにぞおはしける。おとゞたちを置き奉りてさしつぎの御おぼえ、いとやんごとなき君なり。年卅二三の程にものし給ふ。北の方は紫の上の御姉ぞかし。式部卿の宮の御おほいきみよ。年のほど三つ四つかこのかみは、ことなるかたはにもあらぬを、人柄やいかゞおはしましけむ、おうなとつけて心にも入れずいかで背きなむと思へり。そのすぢにより、六條のおとゞは大將の御事は、似げなくいとほしからむとおぼしたるなめり。色めかしくうち亂れたる所なきさまながら、いみじくぞ心をつくしありき給ひける。かのおとゞも、もてはなれてもおぼしたらざなり。女は宮仕をものうげにおぼいたなりと、うちうちのけしきもさる委しきたよりしあれば洩り聞きて、唯大殿の御おもむけのことなるにこそはあなれ、まことの親の御心だに違はずばと、この辨の御もとにもせめ給ふ。九月にもなりぬ。初霜むすぼゝれ艷なるあしたに、例のとりどりなる御後見どもの引きそばみつゝもてまゐる御文どもを、見給ふ事もなくて讀み聞ゆるばかりを聞き給ふ。大將殿のには「猶賴みこしも過ぎゆく空のけしきこそ心づくしに、

  數ならばいとひもせまし長月に命をかくる程ぞはかなき。月たゝば」とあるさだめをいと能く聞き給ふなめり。兵部卿の宮は「いふかひなき世は聞えむかたなきを、

  朝日さす光を見ても玉笹の葉分の霜をけたずもあらなむ。覺しだにしらば慰む方もありぬべくなむ」とていとかしけたる下をれの、霜もおとさずもて參れる御使さへぞうちあひたるや。式部卿の宮の左兵衞督は殿の上の御はらからぞかし。親しく參りなどし給ふ君なれば、おのづからいとよく物のあないも聞きていみじくぞ思ひ侘びける。いと多く恨み續けて

 「忘れなむと思ふも物の悲しきをいかさまにしていかさまにせむ」。紙の色墨つきしめたるにほひもさまざまなるを、人々も皆「おぼし絕えぬべかめるこそさうざうしけれ」などいふ。宮の御かへりをぞいかゞおぼすらむ。たゞいさゝかにて、

 「心もて日かげにむかふあふひだに朝おく霜をおのれやはけつ」とほのかなるをいとめづらしと見給ふに、みづからは哀を知りぬべき御けしきにかけ給へれば、露ばかりなれどいとうれしかりけり。かやうに何となけれどさまざまなる人々の御わびこともおほかり。女の御心ばへに、この君をなむほんにすべきとおとゞたち定め聞え給ひけり。


眞木柱

「內に聞しめさむこともかしこし。暫し人にあまねく漏さじ」と諫め聞え給へどさしもえつゝみあへ給はず。程ふれどいさゝかうちとけたる御氣色もなく、思はずにうき宿世なりけりと思ひ入り給へるさまのたゆみなきをいみじうつらしと思へど、おぼろげならぬ契の程哀にうれしく思ひ見るまゝに、めでたく思ふさまなる御かたちありさまをよそのものに見はてゝ止みなましよと思ふだに胸つぶれて、石山の佛をも辨のおもとをもならべていたゞかまほしく思へど、女君の深くものしとおぼし疎みにければえ交らはで籠りゐにけり。げにそこら心苦しげなる事どもをとりどりに見しかど心淺き人のためにぞ寺のげんも顯れけむ。おとゞも心ゆかず口惜しうおぼせど、いふかひなきことにて誰も誰もかく許しそめ給へることなれば、引き返し許さぬ氣色を見せむも人のためいとほしうあいなしとおぼして、儀式いとになくもてかしづき給ふ。いつしかとわが殿に渡し奉らむことを思ひ急ぎ給へど、かるがるしくふとうちとけ渡り給はむにかしこにまちとりてよくしも思ふまじき人のものし給ふなるがいとほしさにことつけ給ひて「猶心のどかになだらかなるさまにておとなく、いづ方にも人のそしり恨なかるべくをもてなし給へ」とぞ聞え給ふ。父おとゞはなかなかめやすかめり。「殊にこまかなる後見なき人のなまほのすいたる宮仕に出で立ちて苦しげにやあらむとぞ後めたかりし。志はありながら女御かくて物し給ふをおきて、いかゞもてなさまし」など忍びての給ひけり。げにみかどゝ聞ゆとも人におぼしおとしはかなき程に見え奉り給ひて、ものものしくももてなし給はずはあはつけきやうにもあべかりけり。三日の夜の御せうそこども聞えかはし給ひける氣色を傳へ聞き給ひてなむ、このおとゞの君の御心を哀に辱くありがたしとは思ひ聞え給ひける。かう忍び給ふ御なからひのことなれど、おのづから人のをかしきことに語り傅へつゝつぎつぎに聞き洩しつゝありがたき世がたりにぞさゝめきける。うちにも聞しめしてけり。「口惜しう宿世殊なりける人なれど、さおぼしゝほいもあるを宮仕などかけかけしきすぢならばこそ思ひ絕え給はめ」などのたまはせけり。霜月になりぬ。神わざなどしげく內待所にも事多かる頃にて女官ども內侍ども參りつゝ今めかしう人騷がしきに、大將殿晝もいとかくろへたるさまにもてなして籠り坐するをいと心づきなくかんの君はおぼしけり。宮などはまいていみじう口惜しとおぼす。兵衞の督は妹の北の方の御事をさへ人わらへに思ひ歎きてとりかさね物おもほしけれど、をこがましう恨みよりても今はかひなしと思ひかへす。大將は名に立てるまめ人の、年頃いさゝか亂れたるふるまひなくて過ぐし給へる名殘なく、心ゆきてあらざりしさまに好ましう宵あかつきのうち忍び給へる出入も艷にしなし給へるををかしと人々見奉る。女はわらゝかににぎはゝしくもてなし給ふ本性ももてかくしていといたう思ひむすぼゝれ、心もてあらぬさまはしるきことなれど、おとゞのおぼすらむ事宮の御心ざまの心深うなさけなさけしうおはせしなどを思ひ出で給ふに、耻しう口惜しうのみおもほすに物心つきなき御氣色絕えず。殿もいとほしう、人々も思ひ疑ひけるすぢを心淸くあらはし給ひて、我が心ながらうちつけにねぢけたる事は好まずかしと、昔よりの事もおぼし出でゝ紫の上にも「おぼし疑ひたりしよ」などきこえ給ふ。今更に人の心ぐせもこそとおぼしながら物の苦しうおぼされし時、さてもやとおぼしより給ひしことなれば猶おぼしも絕えず、大將のおはせぬ晝つかた渡り給へり。女君あやしう惱ましげにのみもてない給ひてすくよかなる折もなくしをれ給へるを、かく渡り給へれば少し起きあがり給ひて御几帳にはた隱れておはす。殿も用意ことに少しけゝしきさまにもてない給ひて大方の事どもなど聞え給ふ。すくよかなる世の常の人にならひてはましていふかたなき御けはひありさまを見しり給ふにも、思の外なる身の置き所なくはづかしきにも淚ぞこぼれける。やうやうこまやかなる御物語になりて近き御協息によりかゝりて少しのぞきつゝ聞え給ふ。いとをかしげにおもやせ給へるさまの見まほしうらうたいことの添ひ給へるにつけても、よそに見放つもあまりなる心のすさびぞかしと、くちをし。

 「おりたちてくみは見ねどもわたり川人のせとはた契らざりしを。思の外なりや」とて鼻うちかみ給ふけはひなつかしう哀なり。女は顏かくして、

 「みつせ川渡らぬさきにいかでなほ淚のみをの泡と消えなむ」。「心幼なの御きえ所や。さてもかの瀨はよきみち無かなるを、御手のさきばかりはひきたすけ聞えてむや」とほゝゑみ給ひて「まめやかにはおぼし知ることもあらむかし。世になきしれじれしさも又うしろやすさもこの世にたぐひなき程を、さりともとなむ賴もしき」と聞え給ふを、いとわりなう聞き苦しと覺いたればいとほしうての給ひ紛はしつゝ「內にの給はする事なむいとほしきを猶あからさまに參らせ奉らむ。おのがものとりやうじはてゝはさやうの御まじらひもかたげなめるよなめり。思ひそめ聞えし心は違ふさまなめれど、二條のおとゞは心ゆき給ふなれば、心やすくなむ」などこまかに聞え給ふ。哀にもはづかしくも聞き給ふ事多かれど唯淚にまつはれておはす。いとかうおぼしたるさまの心苦しければおぼすさまにも亂れ給はず、唯あるべきやう御心づかひを敎へ聞え給ふ。かしこに渡り給はむことをとみにもゆるし聞え給ふまじき御氣色なり。內へ參り給はむことを安からぬ事に大將おぼせど、そのついでにやがてまかでさせ奉らむの御心つき給ひて、唯あからさまの程を免し聞え給ふ。かく忍びかくろひ給ふ御ふるまひもならひ給はぬ心に苦しければ、わが殿の內すりしつらひて、年頃はあらしうづもれ、打ち捨て給へりつる御しつらひ萬の儀式を改め急ぎ給ふ。北の方のおぼし嘆くらむ御心もしり給はず、悲しうし給ふ君達をも目にもとめ給はず、なよびかになさけなさけしき心打ちまじりたる人こそとざまかうざまにつけても人のためはぢがましからむ事をば推し量り思ふ所もありけれ。ひたおもむきに進み給へる御心にて人の御心動きぬべき事多かり。女君人に劣り給ふべき事なし。人の御ほども、さるやんごとなき父みこのいみじうかしづき奉り給へるおぼえ世に輕からず、御かたちなどもいとようおはしけるを怪しうしうねき御ものゝけに煩ひ給ひて、この年頃人にも似給はずうつし心なき折々多く物し給ひて御中もあくがれて程經にけれど、やんごとなきものとは又並ぶ人なく思ひ聞え給へるを、珍しう御心移るかたのなのめにだにあらず、人にすぐれ給へる御有樣よりもかの疑ひおきて、皆人のおしはかりしことさへ心淸くてすぐい給ひけるなどを、ありがたう哀と思ひまし聞え給ふもことわりになむ。式部卿の宮聞しめして「今はしか今めかしき人をわたしてもてかしづかむかたすみに、人わろくてそひ物し給はむも人ぎゝやさしかるべし。おのがあらむこなたはいと人笑へなるさまに隨ひ靡かでも物し給ひなむ」とのたまひて、宮のひんがしの對をはらひしつらひて渡し奉らむとおぼしの給ふ。親の御あたりといひながら今は限りの身にて立ちかへり見え奉らむことゝ思ひ亂れ給ふに、いとゞ御心もあやまりてうちはへ伏し煩ひ給ふ。本性いとしづかに心よくこめき給へる人の、時々心あやまりして人に疎まれぬべきことなむ打ちまじり給ひける。すまひなどの怪しうしどけなく物のきよらもなくやつしていとうもれいたくもてなし給へるを、玉を磨ける目うつしに心もとまらねど、年頃の志ひきかふるものならねば心にはいと哀と思ひ聞え給ふ。「昨日今日のいとあさはかなる人の御なからひだに、よろしききはになれば皆思ひのどむる方ありてこそ見はつなれ。いと身も苦しげにもてなし給へれば聞ゆべき事もうち出で聞えにくゝなむ。年頃契り聞ゆることにはあらずや。世の人にも似ね御有樣を見奉りはてむとこそはこゝら思ひしづめつゝ過ぐしくるに、えさしもありはつまじき御心おきてにおぼしうとむな。をさなき人々も侍れば、とざまかうざまにつけておろかにはあらじ」と聞えわたるを、女の御心のみだりがはしきまゝにかく恨みわたり給ふ。「一わたり見定め給はぬ程さもありぬべき事なれど任せてこそ今しばし御覽じはてめ。宮の聞しめしうとみてさわやかにふと渡し奉りてむとおぼしの給ふなむかへりていとかるがるしき。誠におぼし置きつる事にやあらむ、暫しかうじし給ふべきにやあらむ」と打ち笑ひての給へるいとねたげに心やまし。御めしうどだちて仕うまつりなれたるもくの君、中將のおもとなどいふ人々だに程につけつゝ安からずつらしと思ひ聞えたるを、北の方はうつし心ものし給ふ程にていと懷しう打ち泣きて居給へり。「みづからをぼけたりひがひがしとの給ひはぢしむるはことわりなることになむ。宮の御事をさへとりまぜのたまふぞ、漏り聞き給はむはいとほしう、憂き身のゆかりかるがるしきやうなる耳なれにて侍れば今始めていかにも物を思ひ侍らず」とてうち背き給へるらうたげなり。いとさゝやかなる人の常の御なやみに瘠せ衰へ、ひわづにて髮いとけうらにて長かりけるが、分けとりたるやうにおちほそりてけづることもをさをさし給はず、淚にまろかれたるはいと哀なり。こまかに匂へる所はなくて父宮に似奉りてなまめいたるかたちし給へるを、もてやつし給へれば、いづこの華やかなるけはひかあらむ。「宮の御事をかろくはいかゞ聞ゆる。おそろしう人きゝかたはになのたまひなしそ」とこしらへて「かの通ひ侍る所のいとまばゆき玉の臺にうひうひしうきすくなるさまにて出で入る程も、かたかたに人めだつらむとかたはらいたければ心やすくうつろはしてむと思ひ侍るなり。おほきおとゞのさる世にたぐひなき御おぼえをば更にも聞えず、心はづかしういたり深うおはすめる御あたりににくげなる事漏り聞えばいとなむいとほしうかたじけなかるべき。なだらかにて御中よくてものし給へ。宮に渡り給へりとも忘るゝことは侍らじ。とてもかうても今さらに志の隔たることはあるまじけれど、世のきこえ人笑へに、まろがためにもかるがるしうなむ侍るべきを年頃の契たがへずかたみにうしろ見むとおぼせ」とこしらへ聞え給へば「人の御つらさはともかくも知り聞えず、世の人にも似ぬ身のうきをなむ宮にもおぼし歎きて今さらに人笑へなることと御心を亂り給ふなれば、いとほしういかでか見え奉らむとなむ思ふ。大殿の北の方と聞ゆるもこと人にやは物し給ふ。かれはしらぬさまにておひ出で給へる人の、末の世にかく人の親だちもてない給ふつらさをなむおもほしのたまふなれど、こゝにはともかくも思はずや。もてない給はむさまを見るばかり」とのたまへば、いとようの給ふを、例の御心たがひにや苦しきことも出でこむ。「大殿の北の方のしり給ふ事にも侍らず。いつきむすめのやうにて物し給へばかく思ひおとされたる人の上まではしり給ひなむや。人の御おやげなくこそ物し給ふべかめれ。かゝる事の聞えあらばいと苦しかべき」など、日一日入り居て語らひ申し給ふ。暮れぬれば心も空にうきたちて、いかで出でなむとおぼすに雪かきたれてふる。かゝる空に降り出でむも人目いとほしう、この御氣色もにくげにふすべ恨みなどし給はゞ、なかなかことつけて我もむかひ火つくりてあるべきを、いとおいらかにつれなうもてなし給へるさまのいと心苦しければ、いかにせむと思ひ亂れつゝ格子などもさながらはし近う打ちながめて居給へり。北の方氣色を見て「あやにくなめる雪をいかで分け給はむとすらむ。夜も更けぬめりや」とそゝのかし給ふ。今は限りととゞむともと思ひめぐらし給へる氣色いと哀なり。「かゝるにはいかでか」との給ふものから猶「このごろばかり心の程をしらで、とかく人のいひなし、おとゞたちもひだり右に聞きおぼさむ事を憚りてなむ、とだえあらむはいとほしき。思ひしづめて猶見はて給へ。こゝになど渡しては心安く侍りなむ。かく世の常なる御氣色見え給ふ時は、ほかざまにわくる心もうせてなむ哀に思ひ聞ゆる」など語らひ給へば「立ちとまり給ひても御心のほかならむはなかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても思ひだにおこせ給はゞ袖の氷も解けなむかし」などなごやかにいひ居給へり。御火とりめしていよいよたきしめさせ奉り給ふ。みづからはなえたる御ぞどもにうちとけたる御姿いとゞ細うかよわげなり。しめりておはするいと心ぐるし。御目のいたう泣き腫れたるぞ少しものしけれど、いと哀と見るときは、罪なうおぼして、いかで過ぐしつる年月ぞと名殘なう移ろふ心の輕きぞやとはおもふおもふ猶心げさうはすゝみてそらなげきをうちしつゝ猶さう束し給ひて、ちひさき火とり取りよせて袖に引き入れてしめゐ給へり。なつかしき程になえたる御さう束にかたちもかのならびなき御光にこそおさるれど、いとあざやかにをゝしきさましてたゞ人と見えず心恥しげなり。さぶらひに人々聲して「雪すこしひまあり。夜は更けぬらむかし」などさすがにまほにはあらでそゝのかし聞えて、こわづくりあへり。中將もくなど「あはれの世や」などうち歎きつゝ語らひて臥したるに、さうじみはいみじう思ひしづめてらうたげに寄り臥し給へりと見る程に、俄に起きあがりておほきなるこの下なりつる火取を取り寄せて殿の後によりてざといかけ給ふほど、人のやゝ見あふる程もなうあさましきにあきれてものし給ふ。さるこまかなる灰の目鼻にも入りておぼゝれて物も覺えず「拂ひすて給へ」と立ちみちたれば、御ぞどもぬぎ給ひつ。うつし心にてかくし給ふぞと思はゞ又かへりみすべくもあらず。あさましけれど例の御ものゝけの人に疎ませむとするわざとおまへなる人々もいとほしう見奉る。立ち騷ぎて御ぞども奉りかへなどすれどそこらの灰の御びんのわたりにも立ちのぼり萬の所に滿ちたる心地すれば、淸らを盡し給ふわたりにさながらまうで給ふべきにもあらず。心たがひとはいひながら猶珍しう見しらぬ人の御有樣なりやとつまはじきせられ疎ましうなりて哀と思ひつる心も殘らねど、この頃あらだてゝはいみじき事出て來なむとおぼししづめて、夜中になりぬれどそうなど召して加持まゐりさわぐ。よばひのゝしり給ふ聲など思ひうとみ給はむにことわりなり。夜一夜うたれひかれ泣き惑ひ明し給ひて少しうち休み給へる程に、かしこへ御文奉れ給ふ。「よべにはかに消えいる人の侍りしにより、雪のけしきもふり出でがたくやすらひ侍りしに、身さへひえてなむ。御心をばさるものにて、人いかにとりなし侍りけむ」ときすくに書き給へり。

 「心さへそらにみだれし雪もよにひとりさえつるかたしきの袖。堪へがたくこそ」としろきうすえふにづしやかに書い給へれど殊にをかしき所もなし。手はいと淸げなり。ざえかしこくなどぞ物し給ひける。かんの君よがれを何ともおぼされぬに、かく心時めきし給へるを見も入れ給はねば御かへりなし。をとこ胸つぶれて思ひくらし給ふ。北の方は猶いと苦しげにし給へば御ず法など始めさせ給ふ。心のうちにも「この頃ばかりだにことなくうつし心にあらせ給へ」と念じ給ふ。まことの心ばへの哀なるを見しらずは、かうまで思ひ過ぐすべうもなきけうとさかなと思ひゐ給へり。暮るれば例の急ぎ出で給ひて御さう束の事などもめやすくもしなし給はず、世に怪しううちあはぬさまにのみむつかり給ふを、鮮かなる御直衣などもえとりあへ給はでいと見ぐるし。よべのは燒けとほりて疎ましげに焦れたる匂ひなどもことやうなり。御ぞどもに移り香もしみたり。ふすべられける程あらはに、人もうんじ給ひぬべければぬぎかへて、御湯殿などいとうつくろひ給ふ。木工の君御たきものしつゝきこゆ。

 「ひとり居てこがるゝ胸の苦しさに思ひあまれるほのほとぞ見し。名殘なき御もてなしは、見奉る人だにたゞにやは」と口おほひて居たる、まみいといたし。されどいかなる心にてかやうの人に物をいひけむなどのみぞ覺え給ひける。なさけなきことよ。

 「うきことを思ひさわげばさまざまにくゆる煙ぞいとゞ立ちそふ。いとことの外なる事どもの、もし聞えあらばちうげんになりぬべき身なめり」とうち歎きて出で給ひぬ。一夜ばかりの隔てだに又珍しうをかしさまさりて覺え給ふ有樣にいとゞ心をわくべくもあらず覺えて、心うければ久しう籠り居給へり。修法などし騷げど御ものゝけこちたくおこりてのゝしるを聞き給へば、あるまじききずもつきはぢがましき事必ずありなむと恐しうてよりつき給はず。殿に渡り給ふ時もこと方に離れ居給ひて、君達ばかりをぞ呼びはなちて見奉り給ふ。女ひと所十二三ばかりにてまたつぎつぎ男二人なむおはしける。近き年頃となりては御中もへだゝりがちにて習はし給へれどやんごとなう立ちならぶ方なくてならひ給へれば、今は限りと見給ふに侍ふ人々もいみじう悲しと思ふ。父宮聞き給ひて「今はしかかけはなれてもて出で給ふらむに、さて心强くものし給ふいとおもなう人笑へなることなり。おのがあらむ世の限りはひたぶるにしもなどか隨ひくづほれ給はむ」と聞え給ひて俄に御むかへあり。北の方御心地少し例になりて世の中をあさましう思ひ歎き給ふに、かくと聞え給へればしひて立ちとまりて、人の絕えはてむさまを見はてゝ思ひとぢめむも今少し人笑へにこそあらめなどおぼしたつ。御せうとの君達、兵衞督は上達部におはすれば、ことごとしとて、中將、侍從、民部大輔など、御車三つばかりしておはしたり。さこそはあべかめれとかねて思ひつる事なれど、さしあたりて今日を限と思へば侍ふ人もほろほろと泣きあへり。「年頃ならひ給はぬ旅住みにせばくはしたなくてはいかでかあまたはさぶらはむ、かたへはおのおの里にまかでゝしづまらせ給ひなむに」などさゝめく。人々おのがじゝはかなきものどもなど里に運びやりつゝ亂れ散るべし。御調度どもさるべきは皆したゝめ置きなどするまゝにかみしも泣き騷ぎたるはいとゆゝしく見ゆ。君達は何心もなくてありき給ふを母君皆呼びすゑ給ひて「みづからはかく心うき宿世今は見はてつればこの世に跡とむべきにもあらず。ともかくもさすらへなむ。生ひ先とほうてさすがにちりぼひ給はむ有樣どもの悲しうもあべいかな。姬君はとなるともかうなるともおのれに添ひ給へ。なかなかをとこ君達はえさらずまうで通ひ見え奉らむに人の心とゞめ給ふべくもあらず、はしたなうてこそたゞよはめ。宮のおはせむ程かたのやうにまじらひをすとも、かのおとゞたちの御心にかゝれる世にてかく心おくべきわたりぞとさすがにしられて、人にもなり立たむこと難し。さりとて山はやしにひき入りつゝまじらむこと後の世までいみじきこと」と泣き給ふに、皆深き心は思ひわかねど、うちひそみて泣きおはさうず。「昔物語などを見るにもよの常の志ふかき親だに時にうつろひ人にしたがへばおろかにのみこそなりけれ。ましてかたのやうにて見る前にだに名殘なき御心はかゝり所ありてももてない給はじ」と御めのとどもさし集ひてのたまひなげく。日も暮れ雪降りぬべき空の氣色も心ぼそう見ゆる夕なり。「いたうあれ侍りなむ。はやう」と御迎の君達そゝのかし聞えて御目おしのごひつゝながめおはす。姬君は殿いと悲しうし奉り給ふならひに見奉らではいかでかあらむ。今なども聞えでまたあひ見ぬやうもこそあれとおぼすにうつぶしふしてえ渡るまじとおぼしたるを、「かくおぼしたるなむいと心うき」などこしらへ聞え給ふ。只今も渡り給はなむと待ち聞え給へど、かくくれなむに、まさに動き給ひなむや。常により居給ふひんがしおもての柱を人に讓る心地し給ふも哀にて、姬君ひはだ色の紙のかさね唯いさゝかにかきて柱のひわれたるはざまに笄のさきしておし入れ給ふ。

 「今はとてやどかれぬともなれ來つるまきの柱は我れを忘るな」。えも書きやらでなき給ふ。母君いでやとて、

 「なれきとは思ひいづとも何により立ちとまるべきまきの柱ぞ」。御前なる人々もさまざまに悲しく、さしも思はぬ木草のもとさへ戀しからむことゝ目とゞめて鼻すゝりあへり。もくの君は殿の御方の人にてとゞまるに、中將のおもと、

 「あさけれどいし間の水はすみはてゝやどもる君やかけはなるべき。思ひかけざりしことなり。かくて別れ奉らむ事よ」といへば、もく、

 「ともかくもいは間の水のむすぼゝれかげとむべくもおもほえぬ世を。いでや」とてうちなく。御事ひき出でゝ打ちかへりみるもまたはいかでかは見むとはかなき心地す。梢をも目とゞめて隱るゝまでぞ顧み給ひける。君がすむゆゑにはあらでこゝら年經給へる御すみかのいかでか忍び所なくはあらむ。宮には待ちとりいみじう覺したり。母北の方泣き騷ぎ給ひて「おほきおとゞをめでたきよすがと思ひ聞え給へれど、いかばかりの昔の仇かたきにかおはしけむとこそは思ほゆれ。女御をも事にふれはしたなくもてなし給ひしかどそれは御中の恨解けざりし程思ひしれとにこそはありけめとおぼしのたまひ世の人もいひなしゝだに猶さやはあるべき。人ひとりを思ひかしづき給はむゆゑはほとりまでもにほふためしこそあれと心得ざりしを、ましてかくすゑにすゞろなるまゝこかしづきをして、おのれふるし給へるいとほしみにしはふなる人のゆるぎ所あるまじきをとて取りよせもてかしづき給ふはいかゞつらからぬ」と言ひ續けのゝしり給へば宮は「あな聞きにくや、世に難つけられ給はぬおとゞを口に任せてな貶しめ給ひそ。賢き人は思ひおきかゝる報もがなと思ふことこそは物せられけめ。さ思はるゝ我が身の不幸なるにこそはあらめ。つれなうて皆かのしづみ給ひし世のむくいはうかべしづめいと賢くこそは思ひ渡い給ふめれ。おのれ一人をばさるべきゆかりと思ひてこそは、一年もさる世のひゞきに家より餘る事どもゝありしか、それをこの世のめいぼくにて止みぬべきなめり」とのたまふに、いよいよ腹立ちてまがまがしきことなどを言ひちらし給ふ。この大北の方ぞさがなものなりける。大將の君、かく渡り給ひにけるを聞きて、怪しう若々しきなからひのやうにふすべ顏にてものし給ひけるかな、さうじみはしかひきゝりにきはきはしき心もなきものを宮のかくかるがるしうおはすると思ひて、君だちもあり人めもいとほしきに思ひ亂れて、かんの君に、「かく怪しきことなむ侍るなる。なかなか心やすくは思ひ給へなせと、さて片すみにかくろへてもありぬべき人の心安さを、おだしう思ひ給へつるに、俄にかの宮の物し給ふならむ人の聞き見る事もなさけなきを打ちほのめきて參りきなむ」とて出で給ふ。よきうへの御ぞ、柳の下襲、靑にびの綺の指貫着給ひて引きつくろひ給へるいとものものし。などかは似げなからむと人々は見奉るを、かんの君はかゝる事どもを聞き給ふにつけても、身の心づきなうおぼし知らるれば見もやり給はず。宮にうらみ聞えむとてまうで給ふまゝに、まづ殿におはしたればもくの君など出できてありしさま語りきこゆ。姬君の御有樣聞き給ひて、をゝしく念じ給へどほろほろとこぼるゝ御氣色いと哀なり。「さても世の人に似ず怪しき事どもを見すぐすこゝら年頃の志を見しり給はずもありけるかな。いと思ひの儘ならむ人は今までも立ちとまるべくやある。よしかのさうじみはとてもかくてもいたづら人と見え給へば同じことなり。をさなき人々もいかやうにもてなし給はむとすらむ」と打ち歎きつゝかのまき柱を見給ふに、御手もをさなけれど心ばへの哀に戀しきまゝに、道すがら淚おしのごひつゝまうで給へれば對面し給ふべくもあらず。「何かたゞ時にうつる心の今始めて變り給ふにもあらず、年頃思ひうかれ給ふさま聞き渡りても久しくなりぬるを、いづくを又思ひ直るべき折とかまたむ。いとゞひがひがしきさまをのみこそ見えはて給はめ」と諫め申し給ふことわりなり。「いと若々しき心地もし侍るかな。思ほし捨つまじき人々も侍ればと、のどかに思ひ侍りける心の怠をかへすがへす聞えてもやる方なし。今は唯なだらかに御覽じ許して罪さり所なう世人にもことわらせてこそ、かやうにももてない給はめ」など聞え煩ひておはす。姬君をだに見奉らむと聞え給へれど出し奉るべくもあらず。男君達十なるは殿上し給ふいとうつくし。人にほめられて、かたちなど用意あらねどいとらうらうしう物の心やうやうしり給へり。次の君は八つばかりにていとらうたげに姬君にも覺えたればかきなでつゝ、「あごをこそは戀しき御かたみにも見るべかめれ」などうち泣きて語らひ給ふ。宮にも御氣色給はらせ給へど、「風おこりてためらひ侍る程にて」とあればはしたなくて出で給ひぬ。この君達をば車に乘せてかたらひおはす。六條殿にはえゐておはせねば、殿にとゞめて「猶こゝにあれ、來て見むにも心安かるべく」との給ふ。うちながめていと心細げに見送りたるさまなどもいと哀なるに、物思ひ加はりぬる心地すれど、女君の御さまの見るかひありてめでたきに、ひがひがしき御樣を思ひ比ぶるにもこよなくて萬を慰め給ふ。打ち絕えて音づれもせず、はしたなかりしにことつけがほなるを宮にはいみじうめざましがり歎き給ふ。春のうへも聞き給ひて「こゝにさへ恨みらるゝゆゑになるが苦しきこと」と歎き給ふを、おとゞの君いとほしとおぼして「かたきことなり、おのが心ひとつにもあらぬ人のゆかりに內にも心おきたるさまにおぼしたなり、兵部卿の宮などもゑじ給ふと聞きしを、さいへど思ひやり深うおはする人にて、聞きあきらめ恨みとけ給ひにたなり。おのづから人のなからひは忍ぶることゝ思へど隱れなきものなれば、しか思ふべき罪もなしとなむ思ひ侍る」とのたまふ。かゝる事どもの騷ぎにかんの君の御氣色いよいよはれまなきを、大將はいとほしと思ひあつかひ聞えて、この參り給はむとありし事も絕えきれてさまたげ聞えつるを、うちにもなめく心あるさまに聞しめし、人々もおぼす所あらむおほやけ人を賴みたる人はなくやはあると思ひかへして年かへりて參らせ奉り給ふ。男踏歌ありければやがてその程に儀式いといかめしう二なくて參り給ふ。かたがたのおとゞたちこの大將の御勢ひさへさしあひ、宰相中將ねんごろに心しらひ聞え給ふ。せうとの君達もかゝる折にと集ひ、つゐしようしよりてかしづき給ふさまいとめでたし。承香殿のひんがし面に御局したり。西に宮の女御はおはしければ、めだうばかりの隔てなるに御心の中は遙に隔たりけむかし。御方々いづれとなくいどみかはし給ひて內わたり心にくゝをかしきころほひなり。殊にみだりがはしき更衣たちあまたも侍ひ給はず中宮弘徽殿の女御、この宮の女御、左の大殿の女御など侍ひ給ふ。さては中納言、宰相の娘二人ばかりぞ侍ひ給ひける。踏歌は方々に里人參り、さま殊に賑はゝしき見物なれば誰も誰もきよらをつくし、袖口の重なりこちたく整へ給ふ。春宮の女御もいと華やかにもてなし給ひて、宮はまだ若くおはしませどすべていと今めかし。御前、中宮の御方、朱雀院とに參りて、夜いたう更けにければ六條院にはこの度は所せしとはぶき給ふ。朱雀院より歸り參りて、春宮の御方々にめぐる程に夜明けぬ。ほのぼのとをかしき朝ぼらけにいたくゑひ亂れたるさまして、竹河謠ひける程を見れば內の大殿の君達は四五人ばかり、殿上人の中に聲すぐれかたちきよげにて打ち續き給へるいとめでたし。わらはなる八郞君はむかひばらにていみじうかしづき給ふが、いと美くしうて大將殿の太郞君と立ちならびたるを、かんの君もよそ人と見給はねば御目とまりけり。やんごとなく交らひ馴れ給へる御方々よりも、この御局の袖ぐち大方のけはひ今めかしう、同じものゝ色あひかさなりなれど物よりことに華やかなり。さうじみも女房たちもかやうに御心をやりて暫しはすぐい給はましと思ひあへり。皆同じごとかづけわたすなかに、綿のさまも匂ひ殊にらうらうしうしない給ひて、こなたはみづうまやなりけれどけはひにぎはゝしく人々心げさうして、限あるみあるじなどのことゞもゝしたるさま殊に用意ありてなむ大將殿せさせ給へりける。殿居所に居給ひて日一日聞え暮し給ふことは、「夜さりまかでさせ奉りてむ。かゝるついでにと覺しうつるらむ。御宮仕なむやすからぬ」とのみ同じ事をせめ聞え給へど御かへりなし。さぶらふ人々ぞ「おとゞの心、あわたゞしきほどならで稀々の御まゐりなれば御心ゆかせ給ふばかりゆるされありてをまかでさせ給へと聞えさせ給ひしかば、今宵はあまりすがすがしうや」と聞えたるをいとつらしと思ひて、さばかり聞えしものを、さも心にかなはぬ世かなと、うち歎き居給へり。兵部卿の宮御前の遊に侍ひ給ひてしづ心なくこの局のあたり思ひやられ給へば、ねんじあまりて聞え給へり。大將はつかさの御曹子にぞおはしける。それよりとて取り入れたれば、しぶしぶに見給ふ。

 「深山木にはねうちかはしゐる鳥のまたなくねたき春にもあるかな。囀る聲も耳とゞめられてなむ」とあり。いとほしうおもて赤みて聞えむ方なく思ひ居給へるに、上わたらせ給ふ。月のあかきに御かたちはいふよしなく淸らにて、唯かのおとゞの御けはひに違ふ所なくおはします。かゝる人は又もおはしましけりと見奉り給ふ。かの御心ばへはあさからぬもうたて物思ひ加はりしを、これはなどかはさしも覺えさせ給はむ、いとなつかしげに思ひし事の違ひたる恨をの給はするにおもておかむ方なくぞ覺え給ふや。顏をもてかくして御いらへも聞え給はねば、「あやしうおぼつかなきわざかな。よろこびなども思ひしり給ふらむと思ふ事あるを、聞き入れ給はぬさまにのみあるはかゝる御くせなりけり」との給はせて、

 「などてかくはひあひがたき紫を心に深く思ひそめけむ。こくなりはつまじきにや」と仰せらるゝさまいと若く淸らにはづかしきを、違ひ給へる所やはあると思ひ慰めて聞え給ふ。宮仕のらうもなくて今年加階したまへる心にや、

 「いかならむ色ともしらぬ紫を心してこそ人はそめけれ。今よりなむ思うたまへしるべき」と聞え給へば、うちゑみて「その今よりそめ給はむこそかひなかべいことなれ、憂ふべき人あらばことわり聞かまほしくなむ」といたう恨みさせ給ふ。御氣色のまめやかに煩はしければいとうたてもあるかなと覺えて、をかしきさまをも見え奉らじ、むつかしき世の癖なりけりと思ふにまめだちて侍ひ給へばえ思すさまなる亂れごともうち出でさせ給はでやうやうこそはめなれめとおぼしけり。大將はかく渡らせ給へるを聞き給ひていとゞしづ心なければ急ぎ惑はしたまふ。みづからも似げなきことも出で來ぬべき身なりけりと心うきに、えのどめ給はずまかでさせ給ふべきさま、つきづきしきことつけども作り出でゝ、父おとゞなど賢くたばかり給ひてなむ御暇許されたまひける。「さらばものごりしてまたいだしたてぬ人もぞある。いとこそからけれ。人より先に進みにし志の、人に後れて氣色とりしたがふよ。昔のなにがしがためしも、引き出でつべき心地なむする」とて誠にいと口惜しとおぼしめしたり。聞しめしゝにもこよなきちかまさりを、始よりさる御心なからむにてだにも御覽じ過ぐすまじきを、まいていとねたう飽かずおぼさる。されどひたぶるに淺き方に思ひ疎まれしとていみじう心深きさまにのたまひ契りてなつけ給ふもかたじけなう、われはわれと思ふものをとおぼす。御手車よせてこなた彼方のかしづき人ども心もとながり、大將もいと物むつかしう立ちそひ騷ぎ給ふまでえおはしまし離れず、かういときびしき近きまもりこそむつかしけれとにくませ給ふ。

 「九重にかすみへだてば梅の花たゞかばかりも匂ひこじとや」。異なる事なきことなれども御ありさまけはひを見奉る程はをかしくもやありけむ。「野をなつかしみあかいつべき夜を惜むべかめる人も、身をつみて心苦しうなむ。いかでか聞ゆべき」とおぼしなやむも、いとかたじけなしと見奉る。

 「かばかりは風にもつてよ花のえに立ちならぶべき匂ひなくとも」。さすがにかけはなれぬけはひを哀とおぼしつゝ顧みがちにて渡らせ給ひぬ。やがて今夜かの殿にとおぼしまうけたるを、かねては許されあるまじきにより漏し聞え給はで、「俄にいとみだり風の惱ましきを心安き所にうち休み侍らむほど、よそよそにてはいと覺束なく侍らむを」とおいらかに申しない給ひてやがて渡し奉り給ふ。父おとゞ俄なるを儀式なきやうにやとおぼせど、强ちにさばかりの事をいひ妨げむも人の心おくべしとおぼせば、「ともかくももとよりしだいならぬ人の御事なれば」とぞ聞え給ひける。六條殿ぞいとゆくりなくほ意なしとおぼせどなどかさはあらむ。女も鹽やく煙の靡きける方をあさましとおぼせど、盜みもていきたらましとおぼしなずらへて、いとうれしく心ちおちいぬ。かの入りゐさせ給へりしことをいみじうゑんじ聞えさせ給ふも心づきなく、なほなほしき心地して世には心とけぬ御もてなしいよいよ氣色あし。かの宮にもさこそたけうのたまひしか、いみじうおぼし侘ぶれど絕えておとづれず、思ふ事かなひぬる御かしづきに明暮いとなみて過ぐし給ふ。

二月にもなりぬ。大殿はさてもつれなきわざなりやいとかうきはきはしうとしも思はでたゆめられたるねたさを、人わろく、すべて御心にかゝらぬ折なく、戀しう思ひ出でられ給ふ。宿世などいふものおろかならぬことなれどわがあまりなる心にてかく人やりならむ物は思ふぞかしと、おきふし面影にぞ見え給ふ。大將のをかしやかにわらゝかなるけもなき人にそひ居たらむに、はかなきたはぶれ事もつゝましうあいなくおぼされてねんじ給ふを、雨いたう降りていとのどやかなる頃かやうのつれづれも紛はし所に渡り給ひて語らひ給ひしさまなどの、いみじう戀しければ御文奉りたまふ。右近がもとに忍びて遣すもかつは思はむ事をおぼすに、何事もえつゞけ給はで唯思はせたる事どもぞありける。

 「かきたれてのどけき頃の春雨にふるさと人をいかにしのぶや。つれづれにそへても恨めしう思ひ出でらるゝこと多う侍るをいかでか聞ゆべからむ」などあり。ひまに忍びて見せ奉ればうち泣きてわが心にも程經るまゝに思ひ出でられ給ふ御さまを、まほにこひしやいかで見奉らむなどはえの給はぬ親にてげにいかでかは對面もあらむと哀なり。時々むつかしかりし御氣色を心づきなう思ひ聞えしなどはこの人にもしらせ給はぬことなれば、心ひとつにおぼし續くれど右近はほのけしき見けり。いかなりける事ならむと今に心得難く思ひける。御かへり聞ゆるも耻しけれど、おぼつかなくやはとて書き給ふ。

 「ながめする軒のしづくに袖ぬれてうたかた人を忍ばざらめや。ほどふるころは、げにことなるつれづれもまさり侍りけり。あなかしこ」とゐやゐやしく書きなし給へり。引きひろげて玉水のこぼるゝやうにおぼさるゝを、人も見ばうたてあるべしと、つれなくもてなし給へど胸にみつ心地して、かの昔のかんの君を朱雀院の后のせちに取りこめ給ひし折などおぼし出づれど、さしあたりたることなればにやこれは世づかずぞ哀なりける。すいたる人は心から安かるまじきわざなりけり。今は何につけてか心をも亂らまし、似げなき戀のつまなりやとさまし侘び給ひて、御琴かきならして懷かしう彈きならし給ひしつま音思ひ出でられ給ふ。あづまの調べをすがゞきて、「玉藻はなかりそ」と謠ひすさび給ふも戀しき人に見せたらば哀すぐすまじき御さまなり。うちにもほのかに御覽ぜし御かたち有樣を御心にかけたまひて、赤裳たれ引きいにしすがたをと、にくげなるふることなれど御ことくさになりてなむながめさせ給ひける。御文は忍びしのびにありけり。身を憂きものに思ひしみ給ひてかやうのすさびごとをもあいなくおぼしければ、心とけたる御いらへも聞え給はず、猶かのありがたかりし御心おきてをかたがたにつけて思ひしみ給へる御事ぞ忘られざりける。三月になりて、六條殿の御前の藤山吹のおもしろき夕ばへを見給ふにつけても、まづ見るかひありて居給へりし御さまのみおぼし出でらるれば、春のおまへをうちすてゝこなたに渡りて御覽ず。吳竹のませにわざとなう咲きかゝりたるにほひ、いと面白し。「色に衣を」などのたまひて、

 「思はずにゐでのなか道へだつともいはでぞこふる山吹の花。かほに見えつゝ」などのたまふも聞く人なし。かくさすがにもてはなれたる事はこの度ぞおぼしける。げにあやしき御心のすさびなりや。かりの子のいと多かなるを御覽じてかんじ橘などやうに紛らはしてわざとならず奉り給ふ。御文はあまり人もぞめだつるなどおぼしてすくよかにて、「覺束なき月日も重りぬるを、思はずなる御もてなしなりと恨み聞ゆるも御心ひとつにのみはあるまじう聞き侍れば、ことなる序ならでは對面の難からむを口惜しく思ひ給ふる」など親めきかき給ひて、

 「おなじ巢にかへりしかひの見えぬかないかなる人か手ににぎるらむ。などかさしもなど心やましうなむ」などあるを、大將も見給ひて、うち笑ひて、「女はまことの親の御あたりにもたはやすくうち渡り見え奉り給はむこと、序なくてあるべきことにあらず。ましてなぞこのおとゞの折々思ひはなたず恨み事はし給ふ」とつぶやくもにくしと聞き給ふ。御返りこゝにはえ聞えじと書きにくゝおぼいたれば、「まろ聞えむ」とかはるも、かたはらいたしや。

 「すがくれて數にもあらぬかりの子をいづ方にかはとりかくすべき。よろしからぬ御氣色に驚きてすきずきしや」と聞え給へり。「この大將のかゝるはかなしごといひたるもまだこそ聞かざりつれ。珍しう」とて笑ひ給ふ。心のうちにはかくらうじたるをいとにくしとおぼす。

かのもとの北の方は月日隔たるまゝにあさましと物を思ひ沈みいよいよほけしれて物し給ふ。大將殿は大方のとぶらひ何事をも委しうおぼしおきて、君達をばかはらず思ひかしづき給へばえしもかけ離れ給はず、まめやかなる方のたのみは同じごとにてなむ物し給ひける。姬君をぞ堪へがたくこひ聞え給へど絕えて見せ奉り給はず。わかい御心のうちに、この父君を誰も誰もゆるしなう恨み聞えていよいよ隔て給ふことのみまされば心ぼそく悲しきに、をとこ君達は常に參りなれつゝ、かんの君の御有樣などをもおのづから事にふれて打ち語りて、「まろらをもらうたく懷しうなむし給ふ。明暮をかしき事を好みて物し給ふ」などいふに羨ましう、かやうにても安らかにふるまふ身ならざりけむを歎き給ふ。あやしうをとこ女につけつゝ人に物を思はするかんの君にぞおはしける。その年の十一月にいとをかしきちごをさへ抱き出で給へれば、大將も思ふやうにめでたしともてかしづき給ふ事限りなし。その程のありさまはいはずとも思ひやりつべき事ぞかし。父おとゞもおのづから思ふやうなる御宿世とおぼしたり。わざとかしづき給ふ君達にも御かたちなどは劣り給はず、頭中將もこのかんの君をいとなつかしきはらからにてむつび聞え給ふものから、さすがなる御氣色うちまぜつゝ、宮仕にかひありて物し給はましものをと、この若君の美くしさにつけても今まで御子たちのおはせぬ嘆きを見奉るにいかにめいぼくあらましとあまりことをぞ思ひての給ふ。公ごとはあるべきさまにしり給ひなどしつゝ參り給ふ事ぞやがてかくてやみぬべかめり。さてもありぬべきことなりかし。まことやかのうちのおほい殿の御娘のないしのかみのぞみし君も、さるものゝ僻なれば色めかしうさまよふ心さへそひてもてわづらひ給ふ。女御もつひにあはあはしき事この君ぞひき出でむと、ともすれば御胸つぶし給へどおとゞの「今はな交らひそ」と、制しの給ふをだに聞き入れず交らひ出でゝ物し給ふ。いかなる折にかありけむ、殿上人あまたおぼえ殊なるかぎりこの女御の御方に參りて物のねなどしらべ懷かしきほどの拍子うち加へて遊ぶ。秋の夕のたゞならぬに、宰相中將もよりおはして例ならず亂れて物などのたまふを、人々めづらしがりて「猶人よりことにも」とめづるに、このあふみの君人々の中をおし分けて出で居給ふ。「あなうたてや。こはなぞ」とひきいるれどいとさがなげににらみてはりゐたればわづらはしくて、あぶなきことやのたまひ出でむとつきかはすに、この世にめなれぬまめ人をしも、「これぞなこれぞな」とめでゝさゝめきさわぐ聲いとしるし。人々いと苦しと思ふに聲いとさわやかにて、

 「おきつ船よるべ浪路にたゞよはゞ棹さしよらむとまりをしへよ。たなゝし小船漕ぎかへりおなじ人をや。あなわるや」といふを、いとあやしうこの御方にはかう用意なきこと聞えぬものをと思ひまはすに、この聞く人なりけりとて、をかしうて、

 「よるべなみ風のさわがすふな人もおもはぬかたに磯づたひせず」とてはしたなかめりとや。


梅枝

御もぎのことおぼし急ぐ御心おきて世のつねならず。春宮もおなじ二月に御かうぶりの事あるべければやがて御まゐりもうち續くべきにや。正月のつごもりなれば公私のどやかなるころほひにたきもの合せ給ふ。大貳の奉れる香ども御覽ずるに、猶いにしへのには劣りてやあらむとおぼして、二條院の御倉あけさせ給ひて唐の物ども取り渡させ給うて御覽じくらぶるに「錦綾なども猶ふるきものこそ懷しうこまやかにはありけれ」とて、近き御しつらひのものゝおほひ敷物褥などのはしどもに故院の御世の始つかた、こまうどの奉れりけるあや緋ごんきどもなど今の世のものに似ず、猶さまざま御覽じあてつゝぞさせ給ひて、この度の綾うすものなどは人々に賜はす。香どもは昔今の取りならべさせ給ひて、御方々に配り奉らせ給ふ。「二くさづゝ合せさせ給へ」と聞えさせ給へり。贈り物上達部の祿など世になきさまに內にもとにも繁くいとなみ給ふにそへて、かたがたにえり整へて、かなうすの音耳かしがましき頃なり。おとゞは寢殿に離れおはしまして、そうわの御いましめの二つのはうをいかでか御耳には傅へ給ひけむ、心にしめて合せ給ふ。うへはひんがしの中のはなちいでに御しつらひ殊に深うしなさせ給うて、八條の式部卿の御はうを傳へてかたみにいどみあはせ給ふ程、いみじう祕し給へば「にほひの深さ淺さもかちまけのさだめあるべし」とおとゞの給ふ。人の御親げなき御あらそひ心なり。いづ方にもお前に侍ふ人あまたならず、御調度どもゝそこらの淸らを盡し給へる中にも、かうこの御箱どものやう、壺のすがた火取の心ばへもめなれぬさまに今めかしうやうかへさせ給へるに、所々の心を盡し給へらむ匂ひどもの勝れたらむどもを、かきあはせて入れむとおぼすなりけり。二月の十日雨少しふりてお前近き紅梅さかりに色も香も似るものなき程に、兵部卿の宮わたり給へり。御いそぎの今日明日になりにけることとぶらひ聞え給ふ。昔より取りわきたる御中なれば、へだてなくその事かの事となく聞え合せ給ひて、花をめでつゝおはするほどに、前齋院よりとて散りすぎたる梅の枝につけたる御文もて參れり。宮聞しめす事もあれば「いかなる御せうそこのすゝみ參れるにか」とて、をかしと覺したれば、ほゝゑみて「いとなれなれしき事聞えつげたりしを、まめやかに急ぎ物し給へるなめり」とて御文は引きかくし給ひつ。ぢんの箱に瑠璃のつき二つすゑておほきにまろかしつゝ入れ給へり。こゝろば、こんるりには五葉の枝、白きには梅をえりて同じくひき結びたる絲のさまもなよびかになまめかしうぞし給へる。「艷なるものゝさまかな」とて御目とめ給へるに、

 「花の香はちりにし枝にとまらねどうつらむ袖にあさくしまめや」。ほのかなるを御覽じつけて、宮はことごとしうずじ給ふ。宰相の中將、御使尋ねとゞめさせ給ひていたうゑはし給ふ。紅梅襲の唐の細長そへたる女のさうぞくかづけ給ふ。御返りもその色の紙にておまへの花を折らせてつけさせ給ふ。宮「うちの事思ひやらるゝ御文かな。何事のかくろへあるにか深くかくし給ふ」と恨みていとゆかしとおぼしたり。「何事かは侍らむ。くまぐましくおぼしたるこそ苦しけれ」とて、御硯のついでに、

 「花のえにいとゞ心をしむるかな人のとがめむ香をばつゝめど」とやありつらむ。「まめやかにはすきずきしきさまなれど又もなかめる人のうへにて、これこそはことわりのいとなみなめれと思う給へなしてなむ、いとみにくければ疎き人は傍らいたさに中宮まかでさせ奉りてと思ひ給ふる。親しき程になれ聞え通へど耻しき所の深うおはする宮なれば何事もよのつねにて見せ奉らむ、辱くてなむ」など聞え給ふ。「あえものもげに必ずおぼしよるべき事なりけり」とことわり申したまふ。この序に御方々のあはせ給ふともおのおの御使して「この夕暮のしめりに試みむ」と聞え給へれば、さまざまをかしうしなして奉れ給へり。「これわかせ給へ。誰にか見せむ」と聞え給ひて、御ひとりども召して試させ給ふ。「知る人にもあらずや」とひげし給へど、いひしらぬ匂ひどもの進み後れたるがひとくさなどか聊のとがをわき給うてあながちにおとりまさりのけじめをおき給ふ。かのわが御二くさのは今ぞとうでさせ給ふ。右近の陣のみかは水の邊になずらへて西の渡殿のしたより出づる汀近う埋ませ給へるを、惟光の宰相の子の兵衞の尉ほりて參れり。宰相中將取りて傳へ參らせ給ふ。宮「いと苦しきはんざにもあたりて侍るかな。いとけぶたしや」となやみ給ふ。おなじほふこそはいづくにも散りつゝひろごるべかめるを、人々の心々に合せ給ひつる深さ淺さをかぎあはせ給へるにいとけうある事多かり。更にいづれともなき中に齋院の御くろばう、さいへども心にくゝしづやかなる匂ひ殊なり。侍從はおとゞの御は勝れてなまめかしうなつかしきかなりと定め給ふ。對の上の御はみくさある中に、梅花はなやかに今めかしう少しはやき心しらひをそへて珍らしきかをり加はれり。この頃の風にたぐへむには更にこれにまさる匂ひあらじとめで給ふ。夏の御方には、人々のかう心々にいどみ給ふなる中に、かずかずにも立ち出すやと、煙をさへ思ひ消え給へる御心にて唯荷葉を一くさ合せ給へり。さまかはりしめやかなるかして哀になつかし。冬の御方にも、時々によれるにほひの定まれるにけたれむもあいなしと覺してくのえかうのはう勝れたるは、さきの朱雀院のをうつさせ給ひて公忠の朝臣のことに撰び仕うまつれりし百ぶの方など思ひえて世に似ずなまめかしさを取り集めたる心おきてすぐれたりと、孰れをもむとくならず定め給ふを「心ぎたなき判者なめり」ときらひ給ふ。月さし出でぬれば大みきなど參り給ひて昔の物語などし給ふ。かすめる月のかげ心にくきを、雨の名殘の風少し吹きて花の香なつかしきに、おとゞのあたりいひしらず匂ひ滿ちて人の御心地いとえんなり。藏人所の方にも明日の御あそびのうちならしに御琴どものさうぞくなどして殿上人などあまた參りてをかしき笛の音ども聞ゆ。內のおほいとのゝ頭中將辨少將などもけざんばかりにてまかづるをとゞめさせ給ひて御ことゞもめす。宮の御前に琵琶、おとゞに筆の御琴參りて、頭中將和琴たまはりて華やかに搔きたてたる程いとおもしろく聞ゆ。宰相の中將橫笛ふき給ふ、折にあひたる調子雲井とほるばかり咲きたてたり。辨少將拍子とりて梅がえいだしたる程いとをかし。わらはにて韻ふたぎの折高砂うたひし君なり。宮もおとゞもさしいらへし給ひて、ことごとしからぬものからをかしき夜の御あそびなり。御かはらけまゐるに、宮、

 「鶯のこゑにやいとゞあくがれむ心しめつる花のあたりに。千代も經ぬべし」ときこえ給へば、

 「色も香もうつるばかりにこの春は花さく宿をかれずもあらなむ」。頭中將にたまへば、とりて宰相中將にさす。

 「鶯のねぐらの枝もなびくまでなほふきとほせよはの笛たけ」。宰相中將、

 「心ありて風のよくめる花の木にとりあへぬまで吹きやよるべき」。「なさけなく」と皆うち笑ひ給ふ。辨少將、

 「霞だに月と花とをへたてずばねぐらの鳥もほころびなまし」。まことに明けがたになりてぞ宮かへり給ふ。御贈物にみづからの御料の御直衣の御よそひ一くだり、手ふれ給はぬたきもの二壺そへて御車に奉らせたまふ。宮、

 「花の香をえならぬ袖に移しもてことあやまりといもやとがめむ」とあれば、「いとくしたりや」と笑ひ給ふ。御車かくるほどに追ひて、

 「めづらしと故鄕人も待ちぞ見む花のにしきを着てかへるきみ。又なきことゝおぼさるらむ」とあればいといとうからがり給ふ。次々の君だちにもことごとしからぬさまに細長小袿などかづけさせたまふ。かくて西のおとゞに戌の時にわたり給ふ。宮のおはします西のはなちいでをしつらひて、みぐしあげの內侍などもやがてこなたに參れり。うへもこの序に中宮に御對面あり。御方々の女房おしあはせたる數しらず見えたり。子の時に御裳奉る。おほとなぶらほのかなれど御けはひいとめでたしと宮は見奉れ給ふ。おとゞ「覺しすつまじきをたのみにてなめげなる姿を進み御覽ぜられ侍るなり。後の世のためしにやと心せばく忍び思ひ給ふる」など聞え給ふ。宮「いかなるべき事とも思う給へわき侍らざりつるを、かうことごとしくとりなさせ給ふになむなかなか心おかれぬべく」とのたまひけつ程の御けはひ、いと若く愛ぎやうづきたるに、おとゞもおぼすさまにをかしき御けはひどものさしつどひ給へるをあはひめでたくおぼさる。母君のかゝる折だにえ見奉らぬをいみじと思へりし心苦しうてまうのぼらせやせましとおぼせど、人の物いひをつゝみて過ぐし給ひつ。かゝる所の儀式はよろしきにだにいと事多くうるさきを、片はしばかり例のしどけなくまねばむもなかなかにやとてこまかに書かず。

春宮の御元服は廿餘日の程になむありける。いとおとなしくおはしませば人のむすめどもきほひ參らすべきことを心ざしおぼすなれど、この殿のおぼしきざすさまのいと殊なれば、なかなかにてやまじらはむと、左のおとゞ左大將などもおぼしとゞまるなるを聞しめして「いとたいだいしきことなり。宮仕のすぢはあまたある中に少しのけぢめをいどまむこそほいならめ。そこらのきやうさくの姬君達のひきこめられなば世に、はえあらじ」とのたまひて御參りのびぬ。つぎつぎにもとしづめ給ひけるを、かゝるよし所々に聞き給ひて左大臣殿の三の君參り給ひぬ。麗景殿と聞ゆ。この御かたは昔の御とのゐ所しげいさを改めしつらひて御參りのびぬるを、宮にも心もとながらせ給へば、四月にと定めさせ給ふ。御調度どもゝもとあるよりも整へて、御みづからも物のしたかたゑやうなどをも御覽じ入れつゝすぐれたる道々の上手ども召し集めてこまかに磨き整へさせ給ふ。さうしの箱どもに入るべきさうしどものやがて本にもし給ふべきをえらせ給ふ。いにしへのかみなききはの御手どもの世に名を殘し給へるたぐひのもいと多くさぶらふ。「萬の事昔には劣りざまに淺くなり行く世のすゑなれど、かんなのみなむ今の世はいときはなくなりたる。ふるき跡は定まれるやうにあれどひろき心ゆたかならず、一すぢに通ひてなむありける。たへにをかしきことはとよりてこそ書き出づる人々ありけれど、女でを心に入れて習ひしさかりにこともなき手本おほく集へたりし中に、中宮の母御息所の心に入れず走り書い給へりし一くだりばかりわざとならぬをえてきはことに覺えしはや。さてあるまじき御名もたて聞えてしぞかし。悔しき事に思ひしみ給へりしかどさしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかばなき御影にも見なほし給ふらむ。宮の御手はこまかにをかしげなれどかどや後れたらむ」とうちさゝめきて聞え給ふ。「故入道の宮の御手はいとけしき深うなまめきたるすぢはありしかど、弱き所ありて匂ひぞすくなかりし。院のないしのかみこそ今の世の上手におはすれどあまりそぼれてくせぞそひためる。さはありともかの君と前齋院とこゝにとこそは書き給はめ」と許し聞え給へば「この數にはまばゆくや」と聞え給へば「いたうなすぐし給ひそ。にごやかなる方の懷かしさはことなる物を、まんなのすゝみたるほどにかんなはしどけなき文字こそまじるめれ」とてまだ書かぬ草子どもつくりくはへ、表紙紐などいみじうせさせ給ふ。「兵部卿の宮左衞門督などにものせむ。みづからひとよろひはかくべし。氣色ばみいますかりともえ書きならべじや」とわれぼめをし給ふ。墨筆ならびなくえり出でゝ例のところどころにたゞならぬ御せうそこあれば、人々難きことにおぼして、あるはかへさひ申し給ふもあればまめやかに聞え給ふ。高麗の紙の薄葉だちたるがせめてなまめかしきを、この物好みする若き人々試みむとて宰相中將、式部卿の宮の兵衞督うちの大殿の頭中將などに「あしでうたゑを思ひ思ひに書け」とのたまへば皆心々にいどむべかめり。例の寢殿に離れおはしまして書き給ふ。花盛過ぎて淺綠なる空うらゝかなるに、ふるき事どもなど思ひすまし給ひて御心の行く限りさうのもたゞのも女でをいみじう書きつくし給ふ。おまへに人しげからず女房二三人ばかり墨などすらせ給ひて、ゆゑある古き集の歌など「いかにぞや」などえり出で給ふに、口をしからぬ限りさぶらふ。みす上げわたして脇息の上に草子うちおき、はし近くうち亂れて筆のしりくはへて思ひめぐらし給へるさまあく世なくめでたし。白き赤きなどけちえんなるひらは、筆とりなほし用意し給へるさまさへ見しらむ人はげにめでぬべき御有樣なり。兵部卿宮渡り給ふと聞ゆれば、おどろきて御直衣奉り御しとねまゐり添へさせ給ひて、やがて待ちとり入れ奉り給ふ。この宮もいと淸げにてみはしさまよく步みのぼり給ふほど、うちにも人々のぞきて見奉る。うちかしこまりて、かたみに麗はしだち給へるもいと淸らなり。「つれづれに籠り侍るも苦しきまで思う給へらるゝ頃ののどけきに折よく渡らせ給へる」と喜び聞え給ふ。かの御草子もたせて渡り給へるなりけり。やがて御覽ずればすぐれてしもあらぬ御手をたゞかたかどにいといたう筆すみたる氣色ありて書きなし給へり。歌もことさらめきそばみたるふる事どもをえりて唯三ぐたりばかりに文字ずくなに好ましくぞかき給へる。おとゞ御覽じおどろきぬ。「かうまでは思ひ給へずこそありつれ。更に筆なげ捨つべしや」とねたがり給ふ。「かゝる御中におもなくくだす筆の程、さりともとなむ思う給ふる」など戯ぶれ給ふ。書き給へる草子どもゝ隱し給ふべきならねばとうで給ひてかたみに御覽ず。唐の紙のいとすくみたるにさうにかき給へるすぐれてめでたしと見給ふに、こまの紙の肌こまかになごうなつかしきが、色などは華やかならでなまめきたるにおほどかなる女手の麗はしう心留めて書き給へる、譬ふべきかたなし。見給ふ人の淚さへ水莖に流れそふ心ちして飽く世あるまじきに、又こゝのかんやのしきしの色あひ華やかなるに亂れたるさうの歌を筆に任せて亂れかき給へるさま見所かぎりなし。しどろもどろに愛ぎやうづき見まほしければ更にのこりどもに目も見やり給はず。左衞門督のはことごとしうかしこげなるすぢをのみ好みて書きたれど筆のおきてすまぬ心地していたはり加へたる氣色なり。歌なども殊さらめきてえり書きたり。女のはまほにもとり出で給はず、齋院のなどはましてとうで給はざりけり。「あしての草子どもぞ心々にはかなうをかしき。宰相中將のは水のいきほひゆたかにかきなしそゝけたる芦の生ひざまなど、難波の浦にかよひてこなたかなたゆきまじりていたうすみたる所あり。又いといかめしうひきかへて、文字やう、石などのたゝずまひこのみかき給へるひらもあめり。目も及ばず、これはいとまいりぬべき物かな」とけうじめで給ふ。何事も物ごのみしえんがりおはする御子にていといみじうめで聞え給ふ。今日は又、手の事どもをのたまひくらしてさまざまのつぎ紙の本どもえり出ださせ給へる序に御子の侍從して宮に侍ふ本どもとりに遣はす。嵯峨のみかどの古萬葉集を撰び書かせ給へる四卷、延喜の帝の古今和歌集を唐の淺はなだの紙をつぎておなじ色の濃きもんの唐のきの表紙おなじき玉の軸だんのからくみの紐など、なまめかしうて卷ごとに御手のすぢをかへつゝいみじう書き盡させ給へる、おもとなぶらみじかく參りて御覽ずるに「つきせぬものかな。この頃の人は唯片そばを氣色ばむにこそありけれ」などめで給ふ。やがてこれはとゞめ奉り給ふ。「女ごなどをもて侍らましにだに、をさをさ見はやすまじきには傳ふまじきを、まして朽ちぬべきを」など聞えて奉れ給ふ。侍從に唐の本などのいとわざとがましきぢんの箱に入れていみじき高麗笛そへて奉れ給ふ。又この頃は唯かんなのさだめをし給ひて世の中にてかくと覺えたるかみなかしもの人々にもさるべきものどもおぼしはからひて尋ねて書かせ給ふ。この御箱には立ちくだれるをばまぜ給はず。わざと人の程しなわかせ給ひつゝ草子卷物皆かゝせ奉り、萬に珍らかなる御寶ものども、ひとのみかどまでありがたげなる中に、この本どもなむゆかしと心動き給ふ若人世に多かりける。御繪どもとゝのへさせ給ふ中にかの須磨の日記は末にも傳へ知らせむとおぼせど今少し世をも思ししりなむにとおぼしかへして又とり出で給はず。內のおとゞはこの御いそぎを人の上にて聞き給ふもいみじう心もとなくさうざうしとおぼす。

姬君の御有樣盛にとゝのひてあたらしう美くしげなり。つれづれとうちしめり給へる程いみじき御歎きぐさなるに、かの人の御氣色はた同じやうになだらかなれば、心弱く進みよらむも人笑はれに人のねんごろなりしきざみに靡きなましかばなど人しれずおぼし歎きて、一方に罪をもえおほせ給はず。かく少したはみ給へる御氣色を宰相の君は聞き給へど、暫しつらかりし御心を憂しと思へばつれなくもてなししづめて、さすがに外ざまの心はつかふべくもおぼえず。心づから戯ぶれにくき折多かれどあさみどり聞えごちし御めのとどもに、なうごんにのぼりて見えむの御心深かるべし。おとゞはあやしく浮きたるさまかなと覺し惱みて「かのわたりの事思ひ絕えにたらば、右のおとゞ、中務の宮などの氣色ばみいはせ給ふめるをいづくも思ひ定められよ」とのたまへど物も聞え給はず、畏まりたるさまにて侍ひ給ふ。「かやうの事はかしこき御敎にだに隨ふべくも覺えざりしかばことまぜまうけれども、今思ひあはするにはかの御敎こそ長きためしにはありけれ。つれづれとものすれば思ふ心あるにやと世の人も推し量るらむを、宿世のひく方にてなほなほしき事にありありてなびく、いとしりびに人わろきことぞや。いみじう思ひのぼれど心にしもかなはず、限あるものからすきずきしき心つかはるな。いはけなくより宮の內より生ひ出でゝ身を心にも任せず所せく、聊の事のあやまりもあらばかろがろしきそしりをや負はむとつゝみしだに、猶すきずきしきとがを負ひて世にはしたなめられき。位あさく何となき身の程、うちとけ心のまゝなるふるまひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時女のことにてなむ、賢き人むかしも亂るゝためしありける。さるまじき事に心をつけて人の名をもたてみづからも恨をおふなむつひのほだしとなりける。とりあやまりつゝ見む人のわが心にかなはず忍ばむ事難きふしありとも猶思ひかへさむ心をならひて、もしは親の心に讓り、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人がら心苦しくなどあらむ人をば、それを片かどによせても見給へ。わがため人のため遂によかるべき心ぞ深うあるべき」などのどやかにつれづれなる折はかゝる心づかひをのみ敎へ給ふ。かやうなる御いさめにつきて、たはぶれにてもほかざまの心を思ひかゝるは哀に人やりならず覺え給ふ。女も常より殊におとゞの思ひ歎き給へる御氣色にはづかしううき身とおぼししづめど、うへはつれなくおほどかにてながめすぐし給ふ。御文は思ひあまり給ふ折々哀に心深きさまに聞え給ふ。たがまことをかと思ひながち世なれたる人こそあながちに人の心をも疑ふなれ。哀と見給ふふし多かり。「中務の宮なむ大殿にも御けしき給はりてさもやとおぼしかはしたなる」と人の聞えければ、おとゞはひき返し御胸ふたがるべし。「忍びてさることをこそ聞きしか。なさけなき人の御心にもありけるかな。おとゞの口入れ給ひしにしふねかりき」とて引きたがへ給ふなるべし。心弱くなびきても人笑へならましことなど淚をうけての給へば、姬君いとはづかしきにもそこはかとなく淚のこぼるればはしたなくて背きたまへる、らうたげさかぎりなし。いかにせまし、猶や進み出でゝ氣色をとらましなどおぼし亂れて立ち給ひぬる名殘も、やがてはし近うながめ給ふ。あやしく心おくれても進み出づる淚かな、いかにおぼしつらむなど萬に思ひ居給へる程に御文あり。さすがにぞ見給ふ。こまやかにて、

 「つれなさはうき世の常になり行くを忘れぬ人やひとにことなる」とあり。氣色ばかりもかすめぬつれなさよと、思ひ續け給ふはうけれど、

 「かぎりとて忘れがたきを忘るゝもこや世になびく心なるらむ」とあるを、あやしとうちおかれず傾ぶきつゝ見居給へるとぞ。


藤裏葉

御いそぎの程にも宰相の中將はながめがちにてほれぼれしき心地するを、かつはあやしくわが心ながらしうねきぞかし、あながちにかう思ふことならば關守のうちもねぬべき氣色に思ひよわりたなるを聞きながら、同じくば人わろからぬさまに見はてむと念ずるも苦しく思ひ亂れ給ふ。女君もおとゞのかすめ給ひしことのすぢを、若しさもあらば何の名殘かはと歎かしうて、怪しくそむきそむきにさすがなる御もろ戀ひなり。おとゞもさこそ心づよがり給ひしかどたけからぬにおぼし煩ひて、かの宮にもさやうに思ひたちはて給ひなば又とかく改め思ひかゝづらはむ程、人のためも苦しく、我が御方ざまにも人笑はれにおのづからかろがろしき事やまじらむ、忍ぶとすれどうちうちのことあやまりも、世に漏りにたるべし、とかくまぎらはして猶まけぬべきなめりとおぼしなりぬ。うへはつれなくて恨み解けぬ御中なればゆくりなくいひよらむもいかゞとおぼし憚りて、ことごとしくもてなさむも人の思はむ所をこなり、いかなるついでしてかはほのめかすべきなどおぼすに、三月二十日おほい殿の大宮の御忌日にて極樂寺にまうで給へり。君達皆ひきつれ勢ひあらまほしく上達部などもあまた參り集ひ給へるに、宰相の中將をさをさけはひ劣らずよそほしくて、かたちなど只今いみじき盛りにねび行きて、取り集めめでたき人の御有樣なり。このおとゞをばつらしと思ひ聞え給へしより見え奉るも心づかひせられて、いといとう用意しもて靜めてものし給ふをおとゞも常よりは目とゞめ給ふ。御ず經などは六條院よりもせさせ給へり。宰相の君はましてよろづをとりもちて哀に營み仕うまつり給ふ。夕かけて皆歸り給ふほど花は皆散りみだれ霞たどたどしきに、おとゞむかしおぼし出でゝなまめかしううそぶきながめ給ふ。宰相も哀なる夕の氣色にいとゞうちしめりて、「あまげなり」と人々の騷ぐに猶ながめ入りて居給へり。心ときめきに見給ふことやありけむ、袖をひきよせて「などいとこよなくはかうじし給へる。今日の御のりのゑをも尋ねおぼさば罪を許し給へてよや。のこり少くなり行く末の世に思ひ捨て給へるもうらみ聞ゆべく」などのたまへば、うちかしこまりて「過ぎにし御おもむけも、賴み聞えさすべきさまにうけ給はりおくこと侍りしかど、許しなき御氣色に憚りつゝ」など聞え給ふ。心あわたゞしきあま風に皆ちりぢりにきほひかへり給ひぬ。君いかに思ひて例ならず氣色ばみ給ひつらむなど、世と共に心をかけたる御あたりなればはかなきことなれど耳とまりてとやかうやと思ひ明し給ふ。こゝらのとし頃の思のしるしにや、かのおとゞも名殘なくおぼしよわりつゝ、はかなき序のわざとはなくさすがにつきづきしからむをおぼすに、四月のついたちごろおまへの藤の花いとおもしろう咲き亂れて世の常の色ならず、たゞに見過ぐさむこと惜しき盛りなるにあそびなどし給ひて、暮れ行くほどのいとゞ色まされるに頭中將して御せうそこあり。「一日の花のかげの對面、飽かず覺え侍りしを、御いとまあらば立ちより給ひなむや」とあり。御文には、

 「わが宿の藤の色こきたそがれに尋ねやはこぬ春のなごりを」。げにいとおもしろき枝につけ給へり。待ちつけ給へるも心時めきせられて、かしこまり聞え給ふ。

 「なかなかにをりやまどはむ藤の花たそがれ時のたどたどしくば」と聞えて「口惜しくこそ臆しにけれ。取りなほし給へよ」と聞え給ふ。「御供にこそ」とのたまへば「煩しき隨身はいな」とてかへし給ふ。おとゞのおまへにて「かくなむ」とて御覽ぜさせ給ふ。「思ふやうありて物し給へるにやあらむ。さも進み物し給はゞこそは過ぎにし方のけうなかりし恨も解けめ」とのたまふ。御心おごりこよなうねたげなり。「さしも侍らじ。對の前の藤常よりもおもしろく咲きて侍るなるを、靜なるころほひなれば遊せむなどにや侍らむ」と申し給ふ。「わざと使さゝれたりけるを早う物し給へ」と許し給ふ。いかならむとしたには苦しくたゞならず。「直衣こそあまり濃くてかろびためれ。非參議のほど何となき若人こそふた藍はよけれ。ひきつくろはむや」とてわが御れうの心ことなるにえならぬ御ぞども具して御供にもたせて奉れ給ふ。我が御方にて心遣ひいみじくけさうしてたそがれも過ぎ心やましき程にまうで給へり。あるじの君達中將をはじめて七八人うちつれて迎へ入れ奉る。いづれともなくをかしきかたちどもなれど、なほ人にすぐれてあざやかに淸らなるものから、懷しうよしづき恥しげなり。おとゞおましひき繕はせなどし給ふ御用意おろかならず。御かうぶりなどし給ひて出で給ふとて北の方の若き女房などに「のぞきて見給へ。いとかうざくにねびまさる人なり。用意などいと靜かにものものしや。あざやかにぬけ出でおよすげたる方は父おとゞにも優りざまにこそあめれ。かれは唯いとせちになまめかしう愛ぎやうづきて、見るにゑましく世の中忘るゝ心地ぞし給ふ。おほやけざまは少したはれてあざれたる方なりし、ことわりぞかし。これはざえのきはもまさり、心用ゐをゝしくすくよかにたらひたりと、世に覺えためり」などのたまひてひきつくろひてぞ對面し給ふ。物まめやかにうべうべしき御物語は少しばかりにて花のけうに移り給ひぬ。「春の花いづれとなく皆開け出づる色ごとに目驚かぬはなきを、心短くうち捨てゝ散りぬるが恨めしうおぼゆるころほひ、この花のひとりたちたくれて夏に咲きかゝる程なむ怪しく心にくゝ哀におぼえ侍る。色もはた懷かしきゆかりにもしつべし」とてうちほゝゑみ給へる、けしきありて匂ひきよげなり。月はさし出でぬれど花の色さだかにも見えぬ程なるをもてあそぶに、心をよせて大みきまゐり御あそびし給ふ。おとゞは程なくそらゑひをし給ひてみだりがはしくしひゑはし給ふをさる心していたうすまひ惱めり。「君は末の世にはあまるまで天の下のいうそくにものし給ふめるを、よはひふりぬる人思ひ捨て給ふなむつらかりける。文籍にも家禮といふことあるべくや。なにがしのをしへもよく思し知るらむと思ひ給ふるをいたう心なやまし給ふと恨み聞ゆべくなむ」などのたまひてゑひなきにやをかしき程に氣色ばみ給ふ。「いかで昔を思ひ給へ出づる御かはりどもには身を捨つるさまにもとこそ思ひ給へ知り侍るを、いかに御覽じなすことにかは侍らむ。もとよりおろかなる心のをこたりにこそ」と畏まり聞え給ふ。御ときよくさうどきて「藤のうら葉の」とうちずんじ給へる御氣色をたまはりて、頭中將花の色濃く殊に房長きを折りてまらうどの御盃にくはふ。とりてもてなやむに、おとゞ、

 「紫にかごとはかけむ藤の花まつよりすぎてうれたけれども」。宰相盃を持ちながら氣色ばかり拜し奉り給ふさま、いとよしあり。

 「いくかへり露けき春をすぐしきて花のひもとくをりにあふらむ」。頭中將にたまへば、

 「たをやめの袖にまがへる藤の花見るひとからや色もまさらむ」。つぎつぎに皆ずんながるめれど、ゑひのまぎれにはかばかしからでこれよりまさらず。七日の夕月夜かげほのかなるに池の鏡のどかにかすみ渡れり。げにまだほのかなる木ずゑどものさうざうしき頃なるに、いといたう氣色ばみ橫たはれたる松の木高き程にはあらぬにかゝれる花のさま、世の常ならずおもしろし。例の辨の少將聲いと懷かしくてあしがきをうたふ。おとゞ「いとけやけうも仕うまつるかな」とうち亂れ給ひて「年經にけるこの家の」とうちくはへ給へる御聲いとおもしろし。をかしき程に亂りがはしき御遊にて物思ひ殘らずなりぬめり。やうやう夜更け行く程にいたうそらなやみをして「みだり心地いと堪へがたうてまかでむ空もほどほどしくこそ侍りぬべけれ。とのゐ所讓り給ひてむや」と中將に憂へ給ふ。おとゞ「あそんや、御休所もとめよ。おきないたくゑひ進みてむらいなればまかり入りぬ」といひ捨てゝ入り給ひぬ。中將「花のかげの旅寢よ。いかにぞや苦しきしるべにぞ侍るや」といへば「松に契れるはあだなる花かは。ゆゝしや」と責め給ふ。中將は心のうちにねたのわざやと思ふ所あれど、人ざまの思ふさまにめでたきに、かうもありはてなむと心かけわたることなれば、うしろやすく導きつ。男君は夢かと覺え給ふにも我が身いとゞいつかしうぞ覺え給ひけむかし。女はいと恥かしと思ひしみて物し給ふも、ねびまされる御有樣いとゞあかぬ所なくめやすし。「世のためしにもなりぬべかりつる身を心もてこそかくまでもおぼし許さるめれ。哀を知り給はぬもさまことなるわざかな」と恨み聞え給ふ。「少將の進み出しつるあしがきのおもむきは耳とゞめ給ひつや。いたきぬしかなゝ〈如原〉。河口のとこそさしいらへまほしかりつれ」とのたまへば、女いと聞きにくしとおぼして、

 「あさき名をいひながしける河ぐちはいかゞもらしゝ關のあらがき。あさまし」とのたまふさまいとこめきたり。少しうち笑ひて、

 「もりにけるくきだの關を河口のあさきにのみはおほせざらなむ。年月のつもりもいとわりなく惱ましきに物おぼえず」とゑひにかこちて苦しげにもてなして明くるも知らずがほなり。人々聞えわづらふを、おとゞ「したり顏なるあさいかな」と咎め給ふ。されど明しはてゝぞ出で給ふ。ねくたれの朝顏見るかひありかし。御文はなほ忍びたりつるさまの心づかひにてあるを、なかなか今日はえ聞え給はぬを物いひさがなき御達つきじろふに、おとゞ渡りて見給ふぞいとわりなきや。「盡せざりつる御氣色になかなかいとゞ思ひ知らるゝ身の程を、たへぬ心に又聞えぬべきも、

 「咎むなよ忍びにしぼるてもたゆみけふあらはるゝ袖のしづくを」などいとなれがほなり。うちゑみて「手をいみじくも書きなられにけるかな」などのたまふも昔のなごりなし。御返しいといできがたげなれば、見苦しやとてさも思し憚りぬべきことなればわたり給ひぬ。御使の祿なべてならぬさまに賜へり。中將をかしきさまにもてなし給ふ。常にひきかくしつゝ隱ろへありきし御使、今日はおもゝちなど人々しくふるまふめり。右近のしようなる人の睦ましくおぼしつかひ給ふなりけり。六條のおとゞもかくと聞し召してけり。宰相常よりも光そひて參り給へれば、うちまもり給ひて「今朝はいかに文などものしつや。さかしき人も女のすぢには亂るゝためしあるを、人わろうかゝづらひ心いられせで過ぐされたるなむ少し人にぬけたりける御心と覺えける。おとゞの御おきてのあまりすゝみて名殘なくくづほれ給ひぬるを世の人もいひ出づることあらむや。さりとてもわが方たけう思ひがほに心おごりしてすきずきしき心ばへなど漏し給ふな。さこそおいらかに大きなる心おきてと見ゆれど、したの心ばへ雄々しからずくせありて人見えにくき所つき給へる人なり」など例の敎へ聞え給ふ。ことうちあひめやすき御あはひとおぼさる。御子とも見えずすこしがこのかみばかりと見え給ふ。ほかほかにては同じ顏を寫しとりたると見ゆるを、お前にてはさまざまあなめでたと見え給へり。おとゞは薄き御直衣白き御ぞの唐めきたるが紋けざやかにつやつやとすきたるを奉りて、猶つきせずあてになまめかしうおはします。宰相殿は少し色深き御直衣に丁子染のこがるゝまでしめる白き綾の懷かしきを着給へる、殊さらめきて艷に見ゆ。灌佛ゐて奉りて御導師遲く參りければ、日暮れて方々よりわらはべいだし布施などおほやけざまにかはらず心々にし給へり。御まへの作法をうつして君達なども參りつどひてなかなか麗はしき御前よりも怪しう心づかひせられておくしがちなり。宰相はしづ心なくいよいよけさうじひきつくろひて出で給ふ。わざとならねどなさけだち給ふ若人はうらめしと思ふもありけり。年頃のつもり取り添へて思ふやうなる御なからひなめれば、水ももらむやは。あるじのおとゞもいとゞしきちかまさりを美くしきものに思して、いみじうもてかしづき聞え給ふ。まけぬる方の口惜しさは猶おぼせど罪も殘るまじうぞ、まめやかなる御心ざまなどの年頃こと心なくて、念じ過ぐし給へるなどをありがたうおぼしゆるす。女御の御有樣などよりも華やかにめでたくあらまほしければ、北の方さぶらふ人々などは心よからず思ひいふもあれど、何の苦しきことかあらむ。あぜちの北の方などもかゝる方にて嬉しと思ひ聞え給ひけり。

かくて六條院の御いそぎは廿餘日の程なりけり。對の上みあれにまうで給ふとて例の御方々いざなひ聞え給へど、中々さしもひきつゞきて心やましきを覺して、誰も誰もとまり給ひてことごとしき程にもあらず。御車二十ばかりにて御ぜんなどもくだくだしき人數多くもあらず事そぎたるしもけはひことなり。祭の日曉にまうで給ひてかへさには物御覽ずべき御さじきにおはします御方々の女房おのおの車ひきつゞきて御まへ所々しめたる程いかめしう、かれはそれととほめよりおどろおどろしき御勢ひなり。おとゞは中宮の御母御息所の車押し避けられ給へりし折の事おぼし出でゝ「時による心おごりして、さやうなることなむなさけなきことなりける。こよなく思ひけちたりし人も歎き負ふやうにてなくなりにき」とその程はのたまひけちて「殘りとまれる人々も中將はかくたゞ人にて僅になりのぼるめり。宮は並びなきすぢにておはするも、思へばいとこそ哀なれ。すべて定なき世なればこそ何事も思ふまゝにて生ける限りの世を過ぐさまほしけれど、殘り給はむ末の世などのたとしへなきおとろへなどをさへ思ひはゞからるれば」と打ち語らひ給ひて、上達部なども御さじきに參り集ひ給へればそなたに出で給ひぬ。近衞づかさの使は頭中將なりけり。かの大殿にて出で立つ所よりぞ人々は參り給ひける。とうないしのすけも使なりけり。おぼえことにて內春宮より始め奉りて六條院などよりも御とぶらひども所せきまで御心よせいとめでたし。宰相の中將いでたちの所にさへとぶらひ給へり。うち解けずあはれをかはし給ふ御中なれば、かくやんごとなきかたにさだまり給ひぬるをたゞならずうちおもひけり。

 「何とかや今日のかざしよかつ見つゝおぼめく迄もなりにけるかな。あさまし」とあるを、をり過ぐし給はぬばかりを、いかゞ思ひけむ。いとものさわがしく、くるまに乘るほどなれど、

 「かざしてもかつたどらるゝ草の名はかつらを折りし人や知るらむ。博士ならでは」と聞えたり。はかなけれどねたきいらへとおぼす。なおこの內侍にぞ思ひはなれずはひ紛れ給ふべき。

かくて御參りには北の方そひ給ふべきを常に長々しくはえ添ひ侍ひ給はじ。かゝるついでにかの御後見をや添へましとおぼす。上もつひにあるべきことのかく隔りて過ぐし給ふをかの人もものしと思ひ歎かるらむ、この御心にも今はやうやう覺束なく哀におぼし知るらむ、かたがた心おかれ奉らむもあいなしと思ひなり給ひて「このをりに添へ奉り給へ。またいとあえかなる程もうしろめたきに、侍ふ人とても若々しきのみこそ多かれ。御めのとたちなども見及ぶことの心いたる限りあるを、みづからはえいとしもさぶらはざらむ程うしろやすかるべう」と聞え給へば、いとよくおぼしよるかなと覺して、さなむとあなたにも語らひのたまひければ、いみじく嬉しく思ふ事かなひ侍る心地して、人のさうぞくなにはのことも、やんごとなき御有樣に劣るまじくいそぎたつ。尼君なむ猶この御おひさき見奉らむの心深かりける。今一度見奉る世もやと命をさへしうねうなして念じけるをいかにしてかはと思ふも悲し。その夜は上そひて參り給へり。御てぐるまにも立ちくだりうち步みなど人わろかるべきをわがためは思ひ憚らず、唯かく磨き奉り給ふ玉のきずにて、わがかくながらふるをかつはいみじう心苦しう思ふ。御まゐりの儀式人の目驚くばかりのことはせじとおぼしつゝめど、おのづから世の常のさまにぞあらぬや。限もなくかしづきすゑ奉り給ひて、上は誠に哀にうつくしと思ひ聞え給ふにつけても、人に讓るまじう誠にかゝる事もあらましかばとおぼす。おとゞも宰相の君も唯この事一つをなむ飽かぬことかなとなむおぼしける。三日すぐしてぞうへはまかでさせ給ふ。たちかはりて參り給ふ夜御對面あり。「かくおとなび給ふけぢめになむ年月の程も知られ侍れば、うとうとしきへだては殘るまじうや」となつかしうのたまひて物語などし給ふ。これもうち解けぬるはじめなめり。ものなどうち言ひたるけはひなど、うべこそはとめざましう見給ふ。又いと氣高うさかりなる御氣色をかたみにめでたしと見て、そこらの中にもすぐれたる御志にて並びなきさまに定まり給ひけるもいとことわりと思ひ知らるゝに、かうまで立ちならび聞ゆる契おろかなりやはと思ふものから、出で給ふ儀式のいとことによそほしく御てぐるまなど許され給ひて女御の御有樣にことならぬを思ひくらぶるに、さすがなる身の程なり。いと美しげにひゝなのやうなる御有樣を夢の心地して見奉るも、淚のみとゞまらぬはひとつものとぞ見えざりける。年頃よろづに歎きし罪さまざまうき身と思ひくしつる命も延べまほしうはればれしきにつけてまことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。思ふさまにかしづき聞えて心およばぬ事はたをさをさなき人のらうらうしさなれば、大かたのよせおぼえより始め、なべてならぬ御有樣かたちなるを、宮も若き御心地にいと心ことに思ひ聞え給へり。いどみ給へる御かたがたの人などは、この母君のかくてさぶらひ給ふを疵にいひなしなどすれどそれにけたるべくもあらず。今めかしくならびなきことをば更にもいはず、心にくゝよしある御けはひをはかなきことにつけてもあらまほしくもてなし聞え給へれば、殿上人なども珍しきいどみ所にてとりどりにさぶらふ人々も心をかけたるに、女房の用意有樣さへいみじくとゝのへなし給へり。うへもさるべきをりふしには參り給ふ。御なからひあらまほしくうち解け行くにさりとてさしすきものなれず、あなづらはしかるべきもてなしはたつゆなく、怪しうあらまほしき人の御有樣心ばへなり。おとゞも長からずのみおぼさるゝ御世のこなたにとおぼしつる御まゐりのかひあるさまに見奉りなし給ひて、心からなれど世に浮きたるやうにて見苦しかりつる宰相の君も、思ひなくめやすきさまに靜まり給ひぬれば御心おちゐはて給ひて今はほ意も遂げなむとおぼしなる。對の上の御有樣のみ捨て難きにも中宮おはしませばおろかならぬ御心よせなり。この御方にも世に知られたる親ざまにはまづ思ひ聞え給ふべければ、さりともおぼしゆづりけり。夏の御方の時々にはなやぎ給ふまじきも、宰相のものし給へばと皆とりどりにうしろめたからず覺しなり行く。

明けむ年よそぢになり給ふべければ御賀のことをおほやけよりはじめ奉りておほきなる世のいそぎなり。その秋太上天皇になずらふる御位得給ひてみふくはゝりつかさかうぶりなど皆添ひ給ふ。かゝらでも世の御心にかなはぬことなけれど、猶珍しかりつる昔の例を改めて院つかさどもなどなり。さまいつくしくなり添ひ給へば、內に參り給ふべきこと難かるべきをぞかつはおぼしける。かくても猶飽かず帝はおぼして世の中を憚りて位を讓り聞え給はぬことをなむ朝夕の御なげきぐさなりける。內大臣あがり給ひて宰相中將、中納言になり給ひぬ。御喜に出で給ふ。ひかりいとゞまさり給へるさま、かたちより始めて飽かぬことなきを、あるじのおとゞもなかなか人におされすさまじき宮仕へよりはとおぼしなほる。女君の大夫のめのと六位すぐせとつぶやきしゐのことものの折々におぼし出でければ、菊のいとおもしろくてうつろひたるをたまはせて、

 「あさみどりわか葉の菊をつゆにてもこき紫の色とかけきや。からかりしをりのひとことばこそ忘られね」といと匂ひやかにほゝゑみて賜へり。恥かしういとほしきものからうつくしう見奉る。

 「ふた葉よりなだゝるそのゝ菊なればあさき色わく露もなかりき。いかに心おかせ給へりけるにか」といと馴れて苦しがる。御勢まさりてかゝる御すまひも所せければ三條殿に渡り給ひぬ。少し荒れにたるをいとめでたくすりしなして、宮のおはしましゝ方を改めしつらひて住み給ふ。昔おぼえて哀に思ふさまなる御住まひなり。前栽どもなどちひさき木どもなりしもいと繁き蔭となり、ひとむら薄も心にまかせて亂れたりける。つくろはせ給ふ遣水のみ草も搔き改めていと心ゆきたる氣色なり。をかしき夕暮の程をふた所ながめ給ひてあさましかりし世の御をさなさの物語などし給ふに、戀しきことも多く人の思ひけむこともはづかしう女君はおぼし出づ。ふる人どものまかでちらずざうしざうしにさぶらひけるなどまうのぼり集まりていと嬉しと思ひあへり。男君、

 「なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくへは知るや宿のましみず」。女君、

 「なき人はかげだに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水」などのたまふほどに、おとゞ內よりまかで給ひけるを、紅葉の色に驚されて渡り給へり。昔おはしまいし御有樣にもをさをさ變ることなく、あたりあたりいとおとなしくすまひ給へるさま、華やかなるを見給ふにつけてもいと物哀におぼさる。中納言も氣色ことに顏少し赤みていとゞしづまりてものし給ふ。あらまほしく美くしげなる御あはひなれど、女は又かゝるかたちのたぐひもなどかなからむと見え給へり。男はきはもなく淸らにおはす。ふる人どもゝ御まへに所えて神さびたる事ども聞え出づ。ありつる御手習どもの散りたるを御覽じつけてうちしをれ給ふ。「この水の心尋ねまほしけれどおきなはこといみして」とのたまふ。

 「そのかみのおい木はうべも朽ちぬらむうゑし小松も苔生ひにけり」。男君の宰相のめのと、つらかりし御心も忘れねばしたりがほに、

 「いづれをもかげとぞたのむ二葉よりねざしかはせる松のすゑずゑ」。おい人どもゝかやうのすぢに聞えあつめたるを中納言はをかしとおぼす。女君はあいなくおもて赤みて苦しと聞き給ふ。

神無月の二十日あまりの程に六條院に行幸あり。紅葉の盛りにてけうあるべきたびのみゆきなるに、すざく院にも御せうそこありて、院さへ渡りおはしますべければ、世に珍しくありがたきことにて世の人も心をおどろかす。あるじの院がたも御心をつくしめもあやなる御心まうけをせさせ給ふ。巳の時に行幸ありてまづうま塲の殿に左右のつかさの御馬ひきならべて、左右の近衞立ち添ひたる作法、五月のせちにあやめわかれず通ひたり。未くだるほどに南の寢殿に移りおはします。道の程そりはし渡殿には錦を敷きあらはなるべき所にはせじやうをひき、いつくしうしなさせ給へり。東の池に船ども浮けて御厨子所の鵜飼のをさ、院の鵜飼を召しならべて鵜をおろさせ給へり。ちひさき鮒どもくひたり。わざとの御覽とはなけれど、過ぎさせ給ふ道の興ばかりになむ。山の紅葉はいづ方も劣らねど西の御まへは心ことなるを、中の廊の壁をくづし中門を開きて、きりの隔てなくて御覽ぜさせ給ふ。御座ふたつよそひてあるじの御座はくだれるを宣旨ありてなほさせ給ふ程めでたく見えたれど、みかどはなほ限あるゐやゐやしさをつくして見せ奉り給はぬことをなむおぼしける。池の魚を左の少將とり、藏人所の鷹飼の北野にかり仕うまつれる鳥ひとつがひを右のすけ捧げて寢殿のひんがしよりおまへに出でゝみはしのひだり右に膝をつきて奏す。おほきおとゞ仰言給ひて調べて御ものにまゐる。みこ達上達部などの御まうけも珍しきさまに常のことゞもをかへて仕うまつらせ給へり。皆御ゑひになりて暮れかゝる程にがくその人召す。わざとのおほがくにはあらず。なまめかしきほどに殿上のわらはべ舞ひ仕うまつる。朱雀院の紅葉の賀の例のふる事おぼし出でらる。賀王恩といふを奏するほどにおほきおとゞの御をとこのとをばかりなるせちにおもしろう舞ふ。うちのみかど御ぞぬぎてたまふ。おほきおとゞおりて舞蹈したまふ。あるじのゐんきくを折らせたまひて靑海波のをりおぼしいづ。

 「色まさるまがきの菊も折々に袖うちかけし秋を戀ふらし」。おとゞそのをりは同じ舞に立ちならび聞え給ひしを、われも人にはすぐれ給へる身ながら、猶このきはゝこよなかりける程おぼし知らる。時雨をり知りがほなり。

 「紫の雲にまがへるきくの花にごりなき世のほしかとぞ見る。時こそありけれ」と聞え給ふ。夕風吹きしく紅葉のいろいろ濃き薄き錦を敷きたる渡殿の上見えまがふ。庭の面にかたちをかしきわらはべのやんごとなき家の小供などにて、靑き赤きしらつるばみ蘇芳えび染など常のづと例のみづらにひたひばかりの氣色を見せて、短きものどもをほのかに舞ひつゝ紅葉の影に歸り入るほど、日の暮るゝもいとほしげなり。がくそなどおどろおどろしくはせず。うへの御遊はじまりてふんのつかさの御ことども召す。物の興せちなるほどに御前に皆御ことどもまゐれり。宇陀の法師のかはらぬ聲も、朱雀院はいとめづらしくあはれに聞し召す。

 「秋をへて時雨ふりぬる里人もかゝるもみじの折をこそ見ね」。うらめしげにぞおぼしたるや。みかど、

 「世のつねの紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭の錦を」と聞え知らせ給ふ。御かたちいよいよねびとゝのほり給ひて唯ひとつものと見えさせ給ふを、中納言のさぶらひ給ふがことごとならぬこそめざましかめれ。あてにめでたきけはひや思ひなしに劣りまさらむ。あざやかに匂はしき所は添ひてさへ見ゆ。笛仕うまつりたまふいとおもしろし。さうがの殿上人みはしにさぶらふ中に辨の少將の聲すぐれたり。猶さるべきにこそと見えたる御なからひなめり。