浮世の有様/1/分冊3
文政十二丑十二月阿波国沖中へオロシヤ船が参りしとて、当町市物屋宇一方へ、同人母より申越候書状、余りをかしき文面故、此所に記し置きぬ。
正月十日 きぬゟ
宇一殿
文政十亥年召捕られ候切支丹の者共同十二壬丑年十二月五日御仕置の始末水野軍記【水野軍記】
閑院宮御内にて、此度切支丹の根本なり。生国は肥前島原〈又天草ともいへり。〉の者にして、京師へ出来り、宮へ仕へしといふ。其性良からぬ者にして、役に立たざる古証文等買取り、又は種々の巧み事為し、享保二三年の頃の事なりしが、九条殿御内佐々木丹後守と共に、備中庭瀬〈此筋高島雲溟漫遊して同所にあり、大層なる仕掛にて庭瀬にても困りしといふ。〉・同国松山・作州勝山・同国津山等へ到り、宮執柄の勢を振ひ、何れも大に困り果て、多くの金を費せしが、津山計りは留守居出て之と対応し、直に追返せしといふ。こは予が在京中の事にて、野口蔵人と共に、諸家共に震恐れ、多くの金費せし事の拙きを、笑ひし事なりし。其余にも斯かる事の猶多かるべし。四年前死去、寺は京都醒井雲仙寺〈文字はかく事を知らず。以下の寺々の寺号も同断なり。文字の相違を咎むる事なかれ雲仙寺は西本願寺末寺なり。〉にて、土葬なりしかば、法華寺〈寺号不知。〉の内へ葬りしといふ。此者邪法を豊田貢・大坂高見屋平蔵等へ伝へしと云ふ。
大坂白子裏町浄光寺といへる西派の門徒宗あり。是が檀家に大和屋十兵衛といへる者の別家に、大伊〈伊兵衛とか伊右衛門とか云ふなるべし。〉といへる者あり。【大伊詐欺にかゝる】河内国喜佐辺といへる所にて無量光寺〈浄光寺当住の兄なり。〉といへるは、浄光寺と親しき間の事なるに、別けて能弁にて、人を欺き金銀を取出す事を渡世として、本山にても自ら用ひられぬる姦悪の僧なりしが、此僧大伊をだまし込み、本山へ銀子十貫目を貸さしむ。人をだまし金銀を負り取るは、彼宗徒の常なれば、約定の期を過ぎて返さゞる故、無量光寺迄屢〻催催をなすと雖も、少しも埓明く事なくて、大に怒り困じぬる折節、水野軍記を知れる人の、【 NDLJP:92】「彼を頼まば心易く取返ぬべし」といへるにぞ、此人を以て軍記を頼みしかば、心易く之を諾ひ、夫よりして此家へ入込み、主を
【連座】雲仙寺、十二月五日退院仰付けられ、本山へ御渡にて、寺法通りに取計るべしとの御上意の由。本山よりも同様の
【 NDLJP:93】 豊田貢、
此女は元来越前の産れなり。【貢の素姓】親は代々禰宜なりしが、至つて貧窮なるが故に、親子連立ち京都へ引越し、親兄などは、祓読みて市中を廻り、又所々の神事等に雇はれて、愍れなる世を渡るといふ。同人事は容も相応に生れ付きしが、或る公家侍の妻となり、女子一人儲けしが、此男も兎角に良からぬ業もなして、身分不相応なる金を遣ひ、大坂北新地吉田屋といへる置屋へ妻を遊女に売りしとなり。〈貢此節の名はたかといふ。〉然るに同所一丁目・二丁目を兼帯して、町年寄を勤むる百文字屋五郎右衛門といへる者、金子二十両の立金して之を受出し妻とせしが、至つて気性高く、常に机に向ひ手習・学問をなし、其余の慰みには琴・三味線を弄び、又楊枝差・紙入等の小細工をなし、一寸隣家迄出るにも、首に帽子を著け、下男に看板を著せ、脇差を差させ、町人不相応のなりにて出歩行き、己れ遊女に売られ、身受けして貰ひしを悦べる様は少しもなく、我はかゝる町人の妻となるべき者にあらずとて、召使の者はいふに及ばず、主へも口を返しぬるにぞ、五郎右衛門も、何かと
福島真砂橋鳥羽屋義兵衛といふ者、元百文字に近き所に住居せし者故、右の始末委しく知りて予に語りぬ。又本町呉服屋中屋善兵衛妻は、元堂島の生れにて、十二三の頃、常に百文字屋へ遊びに行きしが、「たかといへるは色白く頬赤く鼻筋通り、至つて容姿はよかりしかども、すげなき風なりし」とて、何か行状を語りぬるが、鳥羽屋と同様の事なりし。
夫より京都にて屢〻流浪せしが、〈先斗町にて芸子をなし、受出されて人の妻となり、後軍記の妾となりしなど、種々の噂あり。〉後には人の妻となりしが、其男程なく馴染の女出来て、是に深く打込みぬる故、快らずとて暇を取りて出しかば、後には直に其女を引入れて、是を妻とせしにぞ、此事を深く憤り、其恨を晴さん事を常々思暮らしぬ。斯くて後は、独身にて明神下し〈何明神などぞ、狐を祭れるなり。此類京・摂の間に専多し。〉【 NDLJP:94】をなして渡世をなせしが、或る時軍記に出会ひ、彼が奇術ある事を聞いて、頻りに之を懇望せしに、【軍記に奇術を学ぶ】軍記云へるには、「是を習ふには至つて行法もむづかしく、其上其方の身の為にもなり難し」とて、断りぬるを、「仮令如何なる浅ましき死をなす共苦しからねば、教へ給はれ」とて、強て頼みぬる故、「然らば先づ其法を行ひて見すべし。此方より詞を掛る迄目を閉ぢて開く事なく、又如何なる怪しき事ありとも、別して驚くべからず」と約定をなし、「最早目を開きても苦しからず」といへるにぞ、目を明けぬれば、ねたし憎しと常々思詰めて憤りぬる男に見かへられし女の、眼前に笑ひつゝ立ちぬる故、飛懸つて之にむしやぶり付きしに、姿は消えて空を摑みぬ。約に違ひうろたへし事を恥づれども、斯かる奇妙の術なれば、弥〻執心に思ひ、夫より不動心とて種々の行ひをなして、其術を伝はりしといふ。本尊となして彼等が祭れるは、如何なる者とも聞かざりしが、外に女の髪をさばき、赤子を逆に引提げし像あり。之は宗門に入る時、手の指悉く竪に切裂き血を出し画像に注ぎかけ、他言する事なく、一命を失ふとも誓に背くまじとの、誓約に用ふる神なりといひしとぞ。【盲眼を開く】京都にて、富家の小児両眼潰れ、瞳子も白く陥入りしが、是迄富家の事なれば、黄金を惜まずして、種々に治療に手を尽せしか共、少しも其験なくして、盲人となりぬるを、或る人「貢を頼み祈祷せよ」とて、彼が不思議の術ある事を述ぶるにぞ、詮なき事とは思ひながらも。同人を頼み、祈祷の事言入れしに、「先づ神に伺ひて後返事すべし」とて、之を伺ひしに、其効ある由なれば、夫よりして、其小児の肌に付けし衣服一つ取寄せ、「是よりして一七日の祈祷を始むべし、六日目の七つ頃に至らば、其目明らかになるべし」といひしか共、人に勧められて祈祷をば頼みぬれども、斯かる不思議あらんとは更に思ふ事なかりしにぞ、
大坂米屋町難波橋筋西へ入る所にて、町の下役をなす市物屋喜八といへるは、京都宮川町の者にて、相応に暮し、借家等も持つてありしが、近年不仕合せにて、斯かる様になり果てぬ。二十年以前迄は、貢同人借家を借りて、明神を祭り、吉田家へ取入り、緋袴著用し、常の往来にも朱の長柄を差懸けさせ、至つて気高き女なりしが、其節迄は難渋にて、一年も家賃を断つてくれざる事あり。又或る時は金儲けある事ありと見えて、一時に滞りを払ふ上に、一箇年も先の家賃をも入れ置きぬ。其節よりも、怪しき事なりと人々噂せしが、其後盛に用ひられて、八坂へ移りしと云ふ。此の如く繁昌して、世間にては見通しと呼ばるゝ様になりぬるにぞ、愈〻高振りて、常に乗輿して往来し、人をなづけんが為めに、祈祷をなせども、【金銀を貧者に施す】謝物多くは受くる事なく、金銀を撒き散らして、貧困の者共を救ふ。其金何れより出るといふに、謝物表向は受けざれども、一度彼が祈祷受けし者は、頻に金銀やりたくなりて、持行き与ふとなり。又或る富家の隠居、大病にて治し難きを、彼が祈祷して助かりしかば、大に悦びぬ。夫よりして此人と至つて親しく交りて、之に妾を勧め、其女に疾と申含め、金銀入用の節は、妾より金をくり出させ、
以上、浄光寺梵妻・大和屋林蔵等に聞けるまゝを記す。又大和屋利兵衛が咄には、「先年中村屋方へ大勢客を為せしが、酒出せし上にて、何も格別の馳走とてもなけ【 NDLJP:96】れば、【天の川の鯉を取寄す】只今より天の川の鯉を取寄せ、
又京都にて、或る家の息子へ、斯かる姦悪無道の貢なれども、恋慕して、我とは年二十余も違ひぬれば、表向は養子にせんとて、色情を隠し心易き人に頼みて言込みしが、此者一人息子なる故、其親之を許さゞりしかば、此息子に難病を煩はせ、面部一面悪痕を生じ、あさましき姿となしぬ。斯かる事とは夢にも知らざる事なれば、両親も大に惑ひ患ひぬる折柄「祈祷してやらん」と言へるにぞ、医師も断る程の事にて途方にくれしかば、之を頼みぬるに、己が家へ取寄せ祈祷せしに、一両日にして少しく其験顕はれしかば、二親大に悦びぬるにぞ、再び養子の事いひ出でて、「此者難病にて助かり難き事なるを、祈祷して助けやる事なれば、平愈せし上は我に得させよ」といへるにぞ、「今は命の親なり、助かりさへする事ならば、御心に任せ申すべし」とて諾ひぬ。程なく悪痕治して元の如くなりしかば、約定なりとて之を養子に引取り、名を嘉門といひしが、之より僅三十日計り過ぎて、貢と共に召捕られ入牢す。此者貢が斯かる邪法なる事は露程も知らぬ由なれども、親子となりしに逃れ難く、御仕置の日討首となりしとも、又永牢となりしともいふ。其慥なるを聞かず。〈以上世間にても専ら風説あり、大和屋林蔵・加島屋勝助等に聞ける儘を記す。〉
貢母・兄は北野辺に哀れなる暮をなせども、己れ見通しといはれ、金銀を芥の如くに遣ひ捨てぬれども、之を救はんともせず、至つて不行跡の由。始めの程は母も往来せしが、彼が行状、如何にしても、其意を得ざる事のみ多ければ、斯かる者につながり居らば、如何なる事を仕出し、共に憂き目に逢はん事を恐れ、先年より義絶せしといふ。兄は斯かる事とも心付かざれば、折には母の諫をも聞かで行きぬるが、折節に二三日も彼が家に滞留せしに、何共心得ぬ事多きにぞ、年老ぬる母の只一人の娘を見限りぬるも、よく〳〵の事ならん、恐るべき事なりと、是よりしては兄も不通なり【 NDLJP:97】しといふ。されども血縁通れ難く、貢召捕るゝや否や、此兄も入牢せしが、間なく牢死せしといふ。母は八十に及び、極老の事なれば、京都にて其所へ御預となり、貢御仕置の節、其懸りの者一統に召出され、夫々の御仕置ありしが、此婆病気にて、代人下りしといふ。如何仰渡されし事や、之が落著をば知らず。〈以上大和屋林蔵に聞けるまゝを記す〉
川崎のさの召捕られ、貢と共に邪法行へる由、白状に及びし故、盗賊方永田察右衛門召捕に登られしが、貢は堂上の御用方ありとて、始終是に入込み、往来の供廻りも大勢にて、乗輿して往来なしぬる事にて、少しもあやしみを見する事なければ、官家を憚り捕へ得ずして引取るにぞ、之に代りて大塩平八郎直に上京し、其身町人にやつし、痛病ありとて、彼が方へ到り祈祷を頼まれしに、之を諾ひしかば、彼が家に滞留し、其出づるを窺ひ、神社の内を改められしに、総て社には異紋の絹を使ひ、表向は明神を祭れると号して、其様を為しぬれども、社の中には神体なくて、お多福の面一つありしかば、之を取つて懐中し、彼が帰り待受けて、其怪しみを申聞け、召捕来りしといふ。彼も曲者故、種々言抜けんせしかども、如何共なし難く、召捕られしといふ。〈天満玉谷杏庵が咄に聞けり。〉牢中にても、大罪人といひ、殊に頭人の事なれば、御仕置迄は大切に扱はれし事なりとぞ。さのを始め、きぬ・植蔵・顕蔵など牢死せし故、猶も気を付け候様とて、長町辺の賤しき女、二百文位の賃銭にて介添に入牢せしめ、彼が小用を聞き、飯の給仕・按摩等をなさしむるに、少しにても心に叶はざる事あれば、之を打擲蹴飛ばし、又給仕の節、飯汁の加減悪しきとて、是を其者に打懸けなどする事故、後には皆々断りて、介添せんといふ者も無きにぞ、一日八百文宛の賃銭を出して雇ひぬるに、一昼夜を勤め兼ぬる位に、酷き目に逢はさるゝ事なりしが、下賤の者共賃銭の多きにめでて、五六人代り合ひて、漸々と之を勤めしといふ。又
十二月五日、切支丹御仕置に極まり、三郷を引廻しの由、沙汰ありしかば、国初以来厳しき御法度の邪法行ひぬる程の悪徒なれば、人々之を見んとて、松屋町牢屋敷辺より、其道筋大いに群集をなす。貢、獄屋の門を引出され、大勢の見物人を眺めつゝ、
西東北も南も一やうに我を見に来て皆松屋町
斯かる事など口ずさみ、神色自若たる有様にて引かれぬるが、三年も入牢して同類多く
右、和田周助・玉谷杏庵、其外見物して来りし者共の噂を聞きて記す。
大乗院。浄土宗。貢頼み寺なり。退院仰付けらる。
高屋見平蔵。
上町松山町住居。此者元来播州にて、禅僧にて、一箇寺の住持なりしが、檀家の後家と姦婬し、不埒の事をなして、大坂に出で来り、北野寒山寺は親しき間なる故、是に頼り、同寺より出をなし貰ひて、北野に家を借り、夫より松山町へ変宅し、軍書の講釈師となりて世波りせしが、軍記弟子となり、邪法を伝受し、先年軍記長崎へ行きし留守中に、妻子を預り世話せし事などありと云ふ。或時新町とやらにて遊びしが、興に乗じ、「我れ面白き事なして見すべし」とて、種々の怪しき手妻をなして見せしかば、奇妙なりとて、之よりして奇妙と唱へらるゝにぞ、己が軍書講ぜる方にては、【 NDLJP:99】北山喜内と
塞山寺禅宗妙信寺派
御法度の切支丹檀家にあるを知らざる上、是が出を致しやりし事なれば、別して御咎も強く、外寺々と共に他参止めなりしが、御咎中病死せしにぞ、改めの御検使立ち、伋覆仰付けられ、御仕置の日、代人等召出され、存生に候はゞ退院仰付けらるゝ筈の処、死去せし事故、先づ其儘に致し置候様、別て葬式等相成らず、追て御沙汰有る可しとなり。右組合の寺々、御叱の上五十日の閉門、〈閉門は己より遠慮にてしめしともいふ。〉久昌寺・瑞光寺・妙中寺・玄徳寺・梅松院、以上塞山寺の組合なり。其余浄光寺・円照寺・蓮託寺・雲仙寺・一乗院、総べて檀家に切支丹ありし寺々、退院仰付けらる。是等の組合の寺々御谷を蒙りし者五十箇寺に余るといふ。〈寒山寺の始末は久昌寺にて聞けり。〉
伊良子屋植蔵〈是は町内表向名前なり。〉 此者医者を業として、実名を藤井右門といふ。|北新地裏町芝居裏より半町西にて、北側路次の内に住み、年六十に及べども、至つて貧窮に暮しぬ。十箇年計り以前京都より引越し来る。水野軍記弟子の由、又浄光寺にてはさのが弟子なりといふ。〈彼所の堅めにて、弟子多く取れば自ら顕れ易き故、唯受一人と定めある事ともいふ。〉貢等と共に召捕へられしが、牢死せし故、塩漬となし磔に掛けらる。死人の分は槍にて右左より一本づつ突通し、跡は突く真似せし事なりとぞ。
浄光寺西本願寺派
右伊良子屋植蔵頼み寺なり。是も始め召出され、檀家にかゝる御法度邪宗門あるを知らざる段不届至極とて、大に御叱りを蒙り、他参止なりしが、落著の日に召出し、「脱衣追放申すべき筈の処、御憐愍を以て退院仰付けられ候間、有り難く心得、早早退去致し候やう」仰付けられ、又御堂留守居も同日に召出され、大に叱を蒙り、後は【 NDLJP:100】本山へ御渡なれば、何か寺法通に取計らへとの事なる由。斯くて院主は其日八つ過ぎ頃一旦寺へ引取り、七つ過ぎに退院す。親類の事なればと、梶木町へ引取りぬ。家内は苦しかるまじとて、寺へ残し置きしに、本山より早々尊光寺へ引取申すべしとの事にて、大に狼狽す。〈先月以来此梵妻吐血の病に臥してあり。〉されども詮方なければ、一人の女子と共に寺を退きぬ。元来此女至つて淫婦にて、是迄縁付く事三度目にして、浄光寺先住の妻となる。〈播州赤穂永応寺の女なり。〉是も尊光寺は親類の事なれば、同寺へ来り滞留せし折から、浄光寺と密通し妻となりしといふ。然るに十二三箇年計り以前、後家となりしが、亡夫骨肉の弟と姦淫し、乱行甚しく、後には是が子を妊みぬ。年たけし娘ありて、是へ養子してよき場合なるに、己れ此の如き
阿波国の産にして、堂島浜大江橋少し西へ入る所藤田杏庵といへる医の門人なりしが、才器ある者なりとて、杏庵実子並に甥などあり乍ら、之を捨てゝ、顕蔵を養子とす。杏庵は相応に用ひられ余程積財せし者なるが、顕蔵が世となりては、親父の如く用ひられざる故、医者の業にて其町の年寄役を勤む。〈此浜の町人総べて相場を業とする事故、何れも商せはしき故なり。〉
堂島難波屋太兵衛とて相応の町人の忰、顕蔵が妻の妹の養子となりしが、此男両親の心に叶はずとて、間なく離縁せられし故、里へ引き出で外宅してありしに、藤田が娘之を恋ひ、家を抜け出でて夫婦となりしかば、藤田顕蔵大きに腹立ち、之を義絶すといふ。此の如くなれ共、娘の人別、やはり藤田が方に残りあるにぞ、其縁遁れ難く、両人共召捕へられ、永牢となりしとなり。人別の残り居りし計りにて、斯かる憂身になれる事、不便なる事なりなど、世間にて噂する者もあれ共、六年計り以前の事なりしが、此者堀江遊所にて、芸妓など大勢喚びて遊びしが、酒興に乗じ、我面白き手づまして見せんとて、何か少しく所作をなして後、一やうに三絃をひきて謡ひぬる芸子共に云へるは、「其方達のゆまきを今取りしが、之も知らで謡ひぬる事の可笑さよ」といへるにぞ、更に之を諾ふ者なかりしかば、「如何に言ふとも言へる計りにては知れ難し、銘々ゆぐを改め見よ」といへるにぞ、何れも之を改むるに、更に無ければ大に驚き、いつの間に取られし事とも知らず、「早く返し給はれ」といへるにぞ、「然らば出しやるべし」とて己が袖の内より引出し、夫々返しやりしかば、何れも大に驚きぬ。其節専ら此噂ありしが、道修町吉川屋吉兵衛といへる者、「先日堀江にて難太の息子の藤田の養子となりし者は、至つて妙なる手妻をなし、先日堀江にてか【 NDLJP:102】かる事有りし」とて、其事を予に咄しぬる事ありしが之を思へば、彼等も此邪法を学びたるなるべし。かほどに評判の高かりし事なれば、此事など御聞きに達せざる事あるべからず。然らば自業自得といふべき事なり。
円照寺〈西本願寺末寺新鞆油掛町〉
右藤田が頼み寺なり。往持退院、組合の寺々開門迫塞にて、後は本山よりの計らひに任すとの御渡されの由。他宗と違ひ、妻子これ有る事なれども、当人計りにて、妻子は苦しかるまじと心得しにや、其儘にて退院せしに、本山より妻子をも退かしむ。往持は折節大病に臥して手足叶はざりしかば、戸板に載せて舁出せしとぞ。此寺、藤田に付いて、此度にて両度の退院なりといふ。先年杏庵死去の節、其由寺へ申遣し、「明日八つ時葬式を勤むる事なれば、相立ちくれらるゝやうに」と頼みやりしに、此杏庵事至つて吝嗇にて、平日寺へ勤むる事なく、寺より無心申参れども、一つとして是を聞入るゝ事なかりしかば、こゝぞよきゆすり所なりと心得しにや、「明日は寺に差支の事あれば、葬式には伴僧を立たしむべし」と、答へぬるにぞ、顕蔵其由を聞き、大に腹を立て、「裏屋小家に住める貧之人の如く、伴僧を立たしめんなど云へる事、不埒の申分なり、何分にも相立ちぬるやう申来れ」とて、押返して人を遣せしに、寺の云へるには、「実は外の事にてもなし、役用の道具三十五両の質物に入れたり、其金を出して之を受戻しくれらるべし。今寺には聊かの金子もなき事なれば、其事なり難し」といひ募りて、諾ふ事なければ、使度々に及びるも其甲斐なくて、明日其刻限も近づきぬれば、拠なく右の金子持たせやりしかば、程なく出来りて葬礼をも勤めぬ。其仕形不法なりしを憤り、是に物をも言はずして、睨み付けて居たりしが、月忌を待兼ね、直に其金取戻さんと掛合ひしに、寺は素より是を取る積り故、返さゞる故、厳しく応対を詰めるにぞ、詮方なくて講中へ相談せしかば、講中より金子五両持参して、「寺の事なれば何卒是にて
さの
天満川崎に住す。〈川崎といへるは、北野大融寺の門前を東へ二三町計りの所なり。〉此者きぬ弟にして、京稲荷山、其外物凄き山中に、夜中籠り断食をなし、すべて不動心とて荒行をなし、【詐欺取財】其功を積みて邪法伝受を受けしといふ。表向は明神下しと号し、祈祷して人をたらし、金銀を貪りしが、後は甚しくなりて、家主憲法屋与兵衛を始め、其外堂島所々にて人をだまし、「我れ金銀を神力にて
円光寺仏光寺派。
右さの頼寺なり。是も同日退院仰付けられしに、住持は未だ十二三の子供なる故母親の計ひにて、「こよひ一夜は留めしとて苦しかるまじ」とて、人の諫めをも聴かで留めしが、此事上聞に達し、公儀を恐れざる段重々不埓に付き、住持は遠島、寺は欠所となる。
きぬ
さのと同じ様の事にして、邪法を以て人の心をとろかし、金銀・衣服其外何に寄らず掠め取り、又金をふやしやらんとて、多くの人を欺きぬる事限なしといふ。
蓮託寺東本願寺派。
住持退院、組合の寺々迫塞閉門上に同じ。
鳥目二千七百貫文 舛屋安兵衛天満木幡町造酒屋
同 二千貫文 憲法屋与兵衛
同 二百貫文 天満伊勢町
金七両 堂島下役
【 NDLJP:107】右の外金銀銭の吐出し、過料等、少きは銭三貫文、斯程の口数至つて多き由、当日死罪・流罪等も多かりしとて、巷説は大層なる事なりしかども、予が記せるは、すべて其出所を糺し、貢・軍記等の事は奉行所御用人の咄せるを雲溟に聞き、其余は浄光寺にて聞ける事多く、寒山寺の始末は、大和屋林蔵・久昌寺等にて委しく聞きぬ。すべて天満辺の事は、北野明石屋喜兵衛方にて聞き、其余の事も夫々出所を糺し、疑はしき事は之を省きて記す事なく置きぬ。
大融寺の借家に住める按摩あり。近きあたりなれば、さの方へ入込みしが、一度按摩すれば銭百文づつくれ、酒肴を振舞ひて大いに飽かしむるにぞ、此者頻に有難くなりて、奇特をいひ立て、無上に人をすゝめ歩行きしが、是も金ふやしもらはんとて銭十七貫を預けし故、他参留と成つて居たりしが、御仕置の日召出され、「急度叱り置く」との事なりしとぞ、明石屋利助此者に附添ひ出でしとて、予に語りぬ。
加島屋勝助が外方にて聞きしとて咄せるには、切支丹露顕せし始めといへるは、彼同類の内〈尋ねしかども、棋名物れず定めてきぬ・八重の内ならんか。〉金銀殖しやらんとて、人々多くたらし込み、始めにも云へる如くの事をなして取込みしが、酒屋と水汲と両人、身分不相応に銀銭かり入れてまで預けしが、口にて殖えしと聞ける計りにて、聊も手には取れる事なく、水汲などは賤しき働人故、借主より頻に催促せらるゝ故、利銀渡しくれぬるやう屢〻掛合ひぬれども、種々言抜けて渡さゞるに、酒屋もふと疑念生ぜし故、其銀取戻さんとて、頻に掛合ふやうになりぬるにぞ、皆打寄つて遣ひ捨てし銀子なれば、手先にとては聊もなければ断りの手段に尽き果て、詮方なき所より、出奔して行方しれず影を隠しぬるにぞ、酒屋いよ〳〵憤りて、「何国に行きて隠れ住むとも、尋ね出さで置くべきや」と、夫より商売をも打捨て、探し廻りしに、播州の所縁に隠れ居る事慥かに聞出しぬ。直ちに行かんと思ひしかども、先方に是を隠して渡さゞる時は、如何共為し難しと思ひ、種々心を労せしが、是が近き辺りにて、先年迄与力の若党せし男の、奉公をひき、小家を借りて、僅かなる暮しせるあり。何か筋合委しかるべければとて、此者へ相談せしに、「夫こそいと心易き事なり。我役人となりて役所に行き吟味なさば、先方にても隠し難し。斯くして捕へ来るべし」と云へるにぞ、酒【 NDLJP:108】屋大いに喜び、共に役人に化けて先方に到り、村役人に懸り、大坂よりの御上意の由云へるにぞ、村役人より厳しく其村を尋ねて、当人を探し出せしにぞ、御役人になり行きし事なれば、直に縄を懸けて連帰りしか共、素より偽りなれば如何ともし難く、種々嚇しぬれ共、「一銭も無し」といへる。
切支丹の御仕置は、国初以来珍しき事なりとて、見物大に群をなし、定て境筋を引かるべしとて、別けて島の内・日本橋の辺は人にて詰り、往来も絶えぬる程なりしに、中橋筋に京都中村屋の掛りありとやらん云へる事にて、此筋を引かれし故、数万の見物総崩に崩れて、我一に中橋筋へ走行かんずる事なれば、乳母の子を負ひしが、踏倒されて其子踏殺さる。其余二三人も死人あり、怪我人は其数を知らざりしといへり。
捨札の写
摂州西成郡川崎村死亡京屋新助 同家病死さの、
【さのゝ罪状】此者儀、京住の節、女の情に外れ人を驚かし候程之奇瑞を顕度しと初念の心得違より、きぬ申勧候、みつぎ修治の異術、最初は切支丹の邪法と申儀不㆑承候へ共、内実稲荷明神下しに無㆑之儀と既に承知乍能在、きぬ弟子に相成、不動心之修行迚、井水又は滝にて浴水致、夜中は山々恐敷場所へ罷越、心を凝らし、其後きぬ申合、当表へ引【 NDLJP:109】越、同人と相隔り致㆓借宅㆒、明神下しに託し人集候得共、其節邪法之伝授未㆑請以前之儀に付、病気之加持吉凶未然之事難㆑察、此者伜死亡新助を、きぬ方へ始終為㆑通、右加持判断致貰居候内、此者身心を苦め、艱難之修行詰、不動心に相成候に付、厳科に被㆑行候共白状致間敷之旨誓を結び、術本尊天帝の訳右〔諸名カ〕を念じ、陀羅尼の唱様、其余病気加持、金銀等集候、修治者不㆑及㆑申、未然之事も心中に浮可㆓相知㆒との儀の旨、きぬより密授受候後、追々何事も見通出来候に付、同志之者都て繁栄に暮し、邪法を可㆑弘と之巧を以、窃に当時之居宅借り受、与七女房八重は、既に弟子に致、勘蔵并女房とき等へも、不思議の事をみせ、為㆔篤致㆓帰伏㆒候に付、此者を京都貴人之隠居と申成、病気又は難儀の者を救候上、繁栄致候。修治之法を相弘め候趣を以て、右三人之者共を先に遣ひ、家主与兵衛始め、外諸人に色々と為㆓申動㆒置き、此者儀は天帝を念じ、伝法通致㆓修治㆒候に付、人々心を取失、過分之金銀銭・衣類差出、右を掠取り、洩㆑之候はゞ死罪に当り候、神罰可㆑蒙と之一札を、右之者共の内ゟ八重手前へ窃に取置、其上掠取候金子之内師匠恩報として、きぬへも配分、余は勘蔵・八重等へも倶に遣ひ捨て、剰此上可㆑為㆑致㆓帰依㆒手段の為、以後掠取候金子は、難渋之者共を可㆑救と巧み、名目取扱居候次第、不㆑恐㆓公儀㆒仕方、女の身分にては別て大胆の至、重々不届至極に付、塩漬の死骸、大坂三郷引廻の上、磔にかくる者也。
天満龍田町播磨屋勝蔵 同居病死きぬ、【きぬの罪状】
此者儀、京住の節、女の情に外れ奇妙成儀を行度くと、初念之心得違ゟ、通例稲荷明神下し之儀を厭ひ、貢に随身致、最初は切支丹の邪法とは不㆑存候得共、秘方伝授可㆑受と存、不動心之修行迚、井水又は滝にて浴水致、夜中物幽き山々へ登り、心を凝らし、終に不動心に相成候頃、みつぎ切支丹修治方を、軍記ゟ伝法受候儀申聞、厳科に被㆑行候共白状致間敷旨之誓を結び、神文之心持を以て、軍記所持之天帝画像拝し、指㆑之血を画像へ濺懸け、右を念じ陀羅尼之唱様・病気加持・金銀等集候修治者不㆑及㆑申、未然之事も心中に浮み相知等之儀迄も、みつぎゟ秘授候後、猶修行致、さのへ申勧弟子に致し、其節者登山・浴水之儀計を教置、未だ不㆑致㆓伝法㆒候得共申合せ、当表へ引越、さのと相隔借宅致し、此者儀も、明神下しと号し人集いたし、さの方へ頼参候病気加持・吉凶【 NDLJP:110】未然の儀、始終死亡新助を以頼越、此者蔭に成、邪法修治を以、加持判断致、儲銭の配当致し来候処、さの執心厚不動心之修行相詰候を見届け誓を致、此者貢る伝法通、さのへ猶又秘授致候。同人儀終に邪術に通、八重等を先に遣ひ、無㆓跡形も㆒儀申、加持等を為㆑勧、人々心取失過分之金銀・銭・衣類差出候様成行、右を掠取、師恩為㆑報と、新助を以て此者へ相贈、猶又此者ゟ貢へ配当致候始末にて、兼て貢等申合せ、弟子に邪法を為㆑弘掠取候金品は、先繰次第贈に師匠へ貢致候巧に相当り、其上当表へ引越候当座、藤蔵并嘉兵衛小児等之病気を加持致し遣候手続を以、藤蔵名前人に相成候儀、承知之趣嘉兵衛を申偽、同人下人之姿にて、当時借宅偽之家号・名前差出候に付、藤蔵他町に於て、両人別に相成候仕儀に至候段、不恐公儀仕方、女之身分にては別て大胆之至、重々不届至極に付、塩漬之死骸、大坂三郷引廻之上、磔にかくる者也。
此者儀、女之情に外れ、不思議之事を行ひ人を驚し、都鄙に名を揚げ度と、初念之心得違ゟ、稲荷明神下しは戯同様と相卑み候処、わさ方にて出会し、死亡軍記儀厳敷他言差留、妖術を以、此者妬敷存候者之姿を見せ候に付致㆓感心㆒、其節切支丹之邪法と未㆑承候得共、軍記軽卒に難㆑伝法を伝授可㆑受と、夜中滝へ浴水に罷越、心を固め候上、天帝之秘法と申儀承り、銀子差出し、軍記所持之天帝画像を拝し、神文之心得を以て、指の血画像へ濺かけ右を念候。陀羅尼之唱様、其余病気加持金銀等集候修治は不㆑及㆑申、妖術中之印文迄密授受候後、浴水・登山不動心之修行致、新に家宅を構明神下しに託し
摂州西成郡曽根崎村 病死伊良子屋植蔵〈藤井右門事〉
此者儀、【植蔵の罪状】非分に閥閱致し度心得違ゟ、真言宗咒文等学び、歓喜天を修治致候得共、現法無㆑之を迂遠に存、死亡軍記に及㆓相談㆒候処、抜群之事業を遂候も、金子無㆑之ては難㆑叶との邪論に被㆑惑、厳科に被㆑行候共、白状致間敷旨之神文血判を軍記へ相渡、天帝画像を拝、右を念候陀羅尼之唱様・浴水之修行等を秘授受、剰切支丹に付御制禁南蛮人著述書中之儀を、軍記ゟ講釈承、右宗門は邪ゟ正敷に入候抔、一己之了簡を付信仰罷在候次第、女房にも始終押包、軍記方へ折々罷越候節は、医用にて京都へ往来いたし候体に取繕、且軍記申合、同人之致師匠顔みつぎり、酒宴振舞を受、其後も遂に浴水不㆑致候共、歓喜天に託して天帝を念候上者、持病に困修行難㆓出来㆒、及㆓老年㆒致㆓後悔㆒と之儀は難㆓取用㆒。右始末不㆑恐㆓公儀㆒仕方、重々不届至極に付、塩漬之死骸大坂三郷引廻之上、磔に掛る者也。
松山町 高見屋平蔵丑四十八歳。
此者儀、【平蔵の罪状】法戒難㆑保還俗候共、素之禅学修行長老格迄致㆓登職㆒候身分にて、正邪之弁別難㆓出来㆒上、不敵之根性有㆑之ゟ心得違、死亡軍記講聞候。切支丹に付制禁南蛮人著述書之義理を尤と存、儒仏之可㆑及者に無㆑之抔と、一己之了簡を付、厳科に被㆑行候共不㆑申旨致㆓誓を㆒、軍記所持之天帝画像を拝し、指之血画像に濺かけ右を念じ、陀羅尼を唱様浴水之儀迄秘授請置、此者致㆓所望㆒候妖術を、軍記相行候に付、弥〻致㆓感心㆒、易道伝授受間可㆑敬旨、女房へ偽之儀申渡、始終切支丹之儀者押包、殊に軍記長崎へ罷越候留守中、妻子世話迄引受遣候上、此度吟味に付、軍記自筆之
堂島船大工町岡本屋民蔵代判平右衛門方 同家病死顕蔵
此者儀、【顕蔵の罪状】死亡軍記に交り天帝を祭、耶蘇之書藉等を同人ゟ譲受候儀無㆑之候共、此者不㆑致㆓欠落㆒已前、珍敷書藉を嗜、御制禁と乍㆓心得㆒耶蘇類を求置、医術修行之助にいたし度迚、今以所持罷在候次第、并此者乍㆓内々㆒題号を付、耶蘇之著述抔拵、其上居所不㆑知旅僧ゟ踏絵写等を貰置候次第、一体難㆓心得㆒心底、御制禁を不㆑用候段、不㆑恐㆓公儀㆒仕方不届至極に付、塩漬之死骸大坂三郷引廻之上、磔にかくる者也。
丑十二月
右天草此方の事なりとて、大勢右御拾札を写取り、種々に切支丹の噂をなせしかば、大勢召捕られ大いに叱られ、中には一両日入牢せし者などあり。予は大和屋林蔵より借りて、之を写し置きぬ。別けて公になり難き事なれば、必ず他見すべからず。こは後年に至る迄、予が家心得べき事なれば記し置く者なり。
十二月廿一日、切支丹親類の者十七人召捕られ入牢せしが、何れも永牢の由なり。切支丹行ふ者共、其罪三族に及ぶといふ。浄光寺梵妻退去後、尊光寺にて十七人召捕られし始末を語りしを聞けり。
御触
切支丹宗門之儀者、従㆓先前㆒雖㆑為㆓御制禁㆒、今度於㆓上方筋㆒右宗門之由にて、異法行ひ候者有㆑之、即被㆑処㆓厳科㆒候。就而は右宗門之儀、弥〻可㆑被㆑遂㆓御穿鑿㆒之条、銘々無㆓油断㆒相改、自然疑敷者有㆑之者、早々其筋へ可㆓申出㆒。品に寄御褒美被㆑下、其者ゟ仇をなさゞる様に可㆑被㆓仰付㆒候。若見聞に及びながら隠置、他処ゟ顕はるゝに於ては、其所之者迄も罪科に可㆑被㆑行候。
右之通、従㆓江戸㆒被㆓仰下㆒候条、此旨三郷町中可㆓触知㆒者也。
寅正月 伊賀
山城
北組総年寄 【 NDLJP:113】浮世の有様 巻之二御蔭耳目 第一序 抑〻【伊勢神宮】伊勢外宮豊受皇大神宮は、天御中主神と仰ぎ奉りて、則ち国常立尊を祭り奉るとぞ。尊は吾邦始祖の御神なれば、諸人の之を敬ひ奉りて、四つの海の浪たゝぬ世に生れ逢ふは是ぞ誠のおかげなるべし
凡てかゝる実事を記せるに、詞の花を思ひぬれば、却つて実を失ひ、又実に過ぐる事になりぬるに、こは家に留めて箱の中へ打入れ置きぬる迄の事にして、
本津草・日本紀・東慵子・癖物語を初に記しぬる事も、伊勢御蔭参り等の事に
御蔭参り見聞する処の眼目を記せるにぞ、思はず紙の数重なりて、一つの巻をなしぬるにぞ、耳目とは題しぬ。
本文の中へ、虚に吠え実を伝ふが如き奇怪の説、二つ三つ書入れぬるも、全くこれを【 NDLJP:115】信ぜる故にはあらず。当時の有様を知らしめんと思ふが故なり。
明和の御蔭参りには、浪速にては施行軒別にせし事なれども、人の門へ立つて米銭乞へる人一人もなく、まして檜杓などを持てる者は更になかりしと聞くに、此度の御蔭参りには、門々へ立てる者至つて多く、相応なる身のまはりせし人も、杓持たざるは一人もなし。人気の異なる、これにて思ひやるべし。背に負はれ、又手を引かれぬる子供等迄、手毎に杓を以て施行を受くる事なれば、能くも其味を覚え、成長の後に至りて、
善きうちに悪の萌すと知れよ人あしきは善きの裏と思ひて
祭神 天照皇大神。
相殿 在 天手力雄命。右 万旛豊秋津姫命。
神武天皇造㆓帝宅於橿原㆒時以来、天照大神鎮‐㆓座于内裏㆒。〈瓊々杵尊伝来三種神器奉㆑安。〉至㆓崇神天皇六年㆒、〈凡五百三十余年後。〉畏㆑同㆑殿、和州笠縫里立㆓神籬㆒、使㆘皇女豊鋤入姫命護上㆑之。 〈内裏則更作㆓三種神宝㆒安㆑之、為㆓永代宝祚守護㆒。〉其後倭姫命相代勤㆑之、任㆓神勅㆒遷‐㆓幸諸国処々㆒凡十余度。〈詳㆓日本書紀㆒。〉垂仁天皇廿六年冬十月甲子鎮座以来、為㆓不易宮所㆒。
天手力雄命、〈思楽尊之子。〉戸隠大明神是也。
大神籠㆓天磐窟㆒時、八百万神奏㆓神楽㆒、此神排㆓磐戸㆒。
左右相殿神也。旧相殿二神、〈天児屋根命天太玉命〉外宮鎮座以後、為㆓外宮相殿㆒
外宮 在㆓度会郡沼木郷山田原㆒。
祭神 豊受大神宮名天御中主神
【 NDLJP:116】 相殿 右 天児屋根命 興台産霊命之子天太玉命 高皇産霊尊之子。左 天津彦彦火瓊々杵尊、吾勝尊之子、即天照大神之孫。
天照神大自㆓帝宅㆒奉㆑遷㆓笠縫里㆒、〈崇神天皇三十九年〉遷㆓幸丹波
両皇大神宮御神領高不㆑詳。
祭主、一人、称㆓総官㆒。〈姓大中臣、氏藤波。在㆑京掌㆓両宮之大要㆒、又奉㆓禁薬内侍処㆒事。〉
宮司、三人、大宮司・少司・権大司、〈姓大中臣氏、河辺、司㆓両宮神事㆒。今唯一人。〉
禰宜、〈内外各十人、〉長官内各〻一人。〈十人中任㆓一ノ禰宜㆒者、是也。為㆓宮中万事長㆒。〉
権禰宜、〈外宮度会氏。内宮荒木田氏。〉 物忌、大内人、小内人、〈各数十人、姓氏彼此。〉
右出㆓于和漢三才図会㆒。
本津草に曰く、世に牛玉と書く事、生土といふ事にして、
【 NDLJP:117】 五瀬大神神武天皇猿田彦命 天鈿女神 三座也。
神楽とはかみくらの略なり。くらとは神の座し給ふ所なり。中臣祓に、「千くらの置座」とあり。馬乗に尻居うる所にあるを鞍といひ、資財入るゝ所をも蔵といふ。日本紀に曰く、「素盞嗚尊の悪しきにより、天照神巌戸に入り給へば、常闇となり、諸神集まつて歎き給ふ時、鈿女神玉串を持ち、神楽を奏し手をのし舞ひ給ふ」。此のてをのしのてと、たは音通ず。みは助字にて、たのしみといふ。其時天照神巌戸を少し開き給へば、人の面白々と見ゆる、おもてのてを略しておもしろといふ。世上に此楽を忘れず思ひ出せよとて、伊勢より御祓を諸国へ賦るぞ。御師とは吾国道を人々へ教ふる師といふ事なり。常々此楽を知り、万の事に足る事を知る時は、其分限相応の富めるといふものなり。世上御祓を
同書、日本媛命窟隠まします時に曰、
吾今雖㆑帰㆓神城㆒、非㆓外往㆒在㆓於茲㆒。従㆓武姫天皇㆒時〈神功皇后也〉異国人来。其人者中且有㆘ 称㆓人魂竭、神魄既帰亡㆒者㆖、是吾国怨㆑無㆓神威㆒者、伊瀬大神中㆓坐大殿㆒、是吾皇祖皇鼻磐余彦天皇也。〈神武帝也〉吾奉㆑見㆑之、常恒鎮座守㆓日祚㆒、永護㆓国民㆒、恭衛㆓吾国㆒強瞪他国負、余雖㆓婦人㆒守若㆓四守㆒、若有㆓国急㆒予見㆓婦形㆒見㆓国人等㆒時、諸神司知㆓国急㆒奏㆓猿女君神楽㆒、奉㆑問㆓五瀬大神㆒、是以知㆓人魂神魂共不_㆑尽。〈上下文略。〉
右伊勢名所図会・和漢三才図会等に出づる所と異なる故にこれを記す。
中古天子・親王の外は大神宮を祭るべからず、春日大明神は藤原氏に限るべしとの【 NDLJP:118】御触ありしといふ。余はこれにて知るべし。
東慵子に曰く、【抜参の意義の一説】「伊勢大神宮へ参宮に限り抜参といふべし、外宮は豊受皇大神宮にてましませば、参宮も苦しからず、内宮は宗廟たれば、猥に参宮する事を禁ぜらる。必竟外宮へ参宮の序に、抜けて参るゆゑなり」と、先師原田越斎子は申されき。是主人・父母の前をぬけ参るにあらず、全く官府を畏み奉り、ぬけて参るゆゑにぞ、斯くはいひ来ること久しとかや。
癖物語とて、種々の事を書ける文の中に、神にも御願参とて、遠き田舎の果て迄もゆすり動きて、昼とも夜とも、食ふとも食はぬとも、男も女も老も若きも、童らも田かへす牛、垣守る犬も、物の
右は宝永・明和の御抜参りを書ける事と思はる。今目のあたり御抜参りとて人々浮かれ行く有様を見るにぞ、昔の事をも思ひやられぬ。
明和の御抜参りを記せし書は、この書なりて後に見当りしかば、この巻の始めに綴ぢ入れぬ。故に予が聞書せしとは意味の少しく違へるが如き処あり。文面の相違せしとて、これを咎むる事なかるべし。
玉勝間とて、伊勢の本居宣長が著はせし書の中に云はく、「或る物に宝永二年、伊勢の大御神宮に、【宝永御蔭参りの人員】御抜参りとて国々の人共夥しく詣づる事のありし。其人の数をつぎつぎ記したるやう、四月上旬より京并に五畿内の人ぬけ参宮といふ事あり。閏四月上旬より記す所、初は一日に二千・三千の間なり。十三日より十六日まで十万人に超えたり。十七日より漸々減じて、又廿四日・廿五日は三四万人なり。夫より大坂へうつり、廿六日・七日には五六万人づつ、廿八・九日は十二三万人づつ、五月朔日より七八万人づつ、三日より十二三万人づつ八日頃よりいよ〳〵熾なり。十六日には二十三万人に及べり。これ前後の最上なり。其後漸く減じて、同月末には一万人計りなり。閏四月九日より五月廿九日迄五十日の間、凡べて三百六十二万人な【 NDLJP:119】り」と記せり。又同じ物に、享保三年春の頃、詣でし人の数を記したるやう、「正月元日より四月十五日迄、参宮人凡て四十二万七千五百人」と記せり。これは世の常の事なり。
〈[#図は省略]〉 【 NDLJP:120】 〈[#図は省略]〉
【 NDLJP:121】伊勢参宮ぬけ参り善悪教訓鑑 全神有りや、信徳ありや、正に今年諸国より伊勢大神宮へ抜参り多き事、天の岩戸開けそめしより此方の事なり。施行があれば貰ひ人もあり、鸚鵡石・二見の浦、表なき正直の操、田から行くも、磯辺から行くも、信心に二つなく、朝間の山より御恩徳の高天ケ原を謝し奉らんと、愚の筆に御神徳・御利生の数々を書綴り囀りたるは誰そ。宮雀。
作者 夏木隣
ぬけ参宮といふ事は、何れの頃より始まりしや、其来由は知らず。往古天正の末に、京都より大抜参ありたる由、古老の噂聞伝へたるのみなりしに、宝永二年酉春、抜参宮多くあり。然れども京都・大坂のみにて、しかも子供がちにて、老若男女参りたる事にもあらず。【明和八年の御蔭参】今年明和八年卯春、御神徳の事ありしとて、丹後国より夥しく参り始め、夫より丹波、又山城の南淀・八幡・伏見・京へ移り、四月下旬は三条・五条通布引にて、南北の往来心に任せず。京中の富家所々の太々神楽講中より、笠手・しま一、馬、三宝荒神、駕籠、 伊勢宮川より御神前迄、大津より京・伏見まで、其外大坂所々にあり。
一、牛車、上に日覆を拵へ、 大津より京迄、車一輛に廿七八人計り乗せ、
一、六銭・十銭・十二銅、或は銭二十銅・三十二銅なり。 京都太々講中、其外所々。大坂さる方より五百貫千貫出したる由。伊勢並に諸国にあり。
一、笠・草履・草鞋、 京三条・五条橋通へ持出で、大坂・闇り峠迄の内所々、伊勢亀山よりも持出施行、其外所々多し。
一、劒先御祓、数限なし、 御神前にて、
一、団扇、 大坂・堺・京所々、
一、握飯・餅・赤飯等、 京都所々・大坂所々・伊勢道中所々、
一、素麺、五千把、冷して、 山科・千本松にて京講中、
【 NDLJP:124】此外金銀借付頼む人もあり。はつたい・煎物・塩煮・空豆・扇・即功紙・竹の水呑・三尺手拭、大坂にて施行あり。是は子供背負ふ時の抱へ帯なり。提ぢやうちん・紙類、大坂通り筋には町一ぱいの紙細工にて、鳥居建置き、幾所ともなく大小の施行物、一向筆紙に記し難く、爰に止む。
京参宮人凡その積り書、一、四月十六日より 五千人計り 一、十七日 六千四五百人 一、十八日 五千七八百人 一、十九日 六千三百人余 一、二十日 九千六七百人 一、廿一日 二万二三百人 一、廿二日 一万九千人 一、廿三日 一万四五千人 一、廿四日 一万人計り 一、廿五日 九千人余
〆凡十万千四百人計り、右京計り。丹波・丹後・若狭は外なり。
大坂道より南都へ入込候人数覚、一、四月廿六日 千三十人計り 一、廿七日 四千二百廿人余 一、廿八日 一万三千七百五十余 一、廿九日 九万七千三百人計り 一、晦日 七万九千三百計り余 一、五月朔日 十一万二千六百人計り 一、二日 九万二千三百人余 一、三日 十二万五千人計り 一、四日 一万五千七百五十人計 一、五日 十八万三千七百五十人余
〆七十二万四千百五十一人
右は大坂・堺・河内・和泉・紀州・兵庫・明石・姫路・摂州播磨、総人数なり。
抜け参宮御蔭参といひて、大神宮御尊前へ向ひ奉るに、家来は主人に暇を乞はず、子は親に断りもなく、妻は夫に沙汰なくして、銭金路用の物も知者・近付の方へ頼めば、外の事とは違ひ、早速受合ひ差出し用達て遣す事は、さりとは不思議
明和八年卯六月吉日
抜け参り善悪教訓鑑大尾
明和八年御蔭耳目嗚呼大なる哉東照権現の徳、昇平二百余年万民其沢を蒙る。爰に天照皇大神宮は、吾国の宗廟にして、神徳日に新なるがゆゑに、天下の人伊勢へ参詣する事、常に絶ゆる間もなき事なりとぞ。然るに二百余年の間に、天下一統に
此時処々に大神宮の御祓ふりしといへり。【大神宮の御祓降る】されどもこれは人の作り物にて、天より降るべき物に非ず。伊勢より飛ぶべき事に非ず。かゝる事こそ神明の奇瑞を顕さんとて、却つて神徳を損ずるに似たり。其外犬・家猪の類ひ、伊勢参りして御祓を首に掛けて帰りぬるなど、不思議の様にいひぬれども、此等は其処々の人に従ひ行く事なれば怪しむに足らず。初の程は施行多かりしが、後には米銭につき、其事の成し難くて、【抜参の弊害】遠国より抜参りせし者、多くは飢に疲れ、病臥し死せる者多く、又は悪漢に
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