浮世の有様/1/分冊3

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文政十二丑十二月阿波国沖中へオロシヤ船が参りしとて、当町市物屋宇一方へ、同人母より申越候書状、余りをかしき文面故、此所に記し置きぬ。

宇一母の書状尚々当地格別めづらしき事も無御座候得共、旧冬師走しはす十五日むぎ沖へオロシヤ船参り候とて御家中二百頭計り揃へ、日和佐御陣屋迄御出張遊され、九十日計りの騒動、当地の者も七日・八日つぶり目も致し難く、扨々きづかはしく存申候。尤大まつやにて人歩百姓のまかなひ凡八百人計り、中々筆にも書尽し難く、尤諸方ゟ集り申候百姓こゝかしこにて宿を取申候。人夫大体五十人余と申候。尤山崎将監様御中老の御事なれば、御頭にて御出なされ候。御病気にては御座候得共、御上を大切に思召、御駕にて御出被遊候。尤一日之食わづか掛目百目の御食と御座候得共、御病気をおして御出被遊候得者、市中・郷市共に山崎様の御評判計にて、上々うへちがうた者とほめぬ者は御座なく候。其上に津田へは鯨参り候迚、津田沖は其鯨取らんとてオープンアクセス NDLJP:91騒動いたす。いづれ去年の冬は、をかしき年にて御座候。其鯨取り様知らぬによつて、上へ申上候処、北島藤右衛門様御出にて、五百目の大筒にて脊中と思しき所を打候得共、中々びくともいたし申さずとの噂に御座候。然れ共今春は最早かへり候や、其後評判御座なく候申上度き事山々なれど、あら申残し候。

  正月十日 きぬゟ

       宇一殿

 
  文政十亥年召捕られ候切支丹の者共同十二壬丑年十二月五日御仕置の始末

 水野軍記水野軍記

閑院宮御内にて、此度切支丹の根本なり。生国は肥前島原〈又天草ともいへり。〉の者にして、京師へ出来り、宮へ仕へしといふ。其性良からぬ者にして、役に立たざる古証文等買取り、又は種々の巧み事為し、享保二三年の頃の事なりしが、九条殿御内佐々木丹後守と共に、備中庭瀬〈此筋高島雲溟漫遊して同所にあり、大層なる仕掛にて庭瀬にても困りしといふ。〉・同国松山・作州勝山・同国津山等へ到り、宮執柄の勢を振ひ、何れも大に困り果て、多くの金を費せしが、津山計りは留守居出て之と対応し、直に追返せしといふ。こは予が在京中の事にて、野口蔵人と共に、諸家共に震恐れ、多くの金費せし事の拙きを、笑ひし事なりし。其余にも斯かる事の猶多かるべし。四年前死去、寺は京都醒井雲仙寺〈文字はかく事を知らず。以下の寺々の寺号も同断なり。文字の相違を咎むる事なかれ雲仙寺は西本願寺末寺なり。〉にて、土葬なりしかば、法華寺〈寺号不知。〉の内へ葬りしといふ。此者邪法を豊田貢・大坂高見屋平蔵等へ伝へしと云ふ。

大坂白子裏町浄光寺といへる西派の門徒宗あり。是が檀家に大和屋十兵衛といへる者の別家に、大伊〈伊兵衛とか伊右衛門とか云ふなるべし。〉といへる者あり。大伊詐欺にかゝる河内国喜佐辺といへる所にて無量光寺〈浄光寺当住の兄なり。〉といへるは、浄光寺と親しき間の事なるに、別けて能弁にて、人を欺き金銀を取出す事を渡世として、本山にても自ら用ひられぬる姦悪の僧なりしが、此僧大伊をだまし込み、本山へ銀子十貫目を貸さしむ。人をだまし金銀を負り取るは、彼宗徒の常なれば、約定の期を過ぎて返さゞる故、無量光寺迄屢〻催催をなすと雖も、少しも埓明く事なくて、大に怒り困じぬる折節、水野軍記を知れる人の、オープンアクセス NDLJP:92「彼を頼まば心易く取返ぬべし」といへるにぞ、此人を以て軍記を頼みしかば、心易く之を諾ひ、夫よりして此家へ入込み、主をたらしぬるに、主は本山無量光寺などの悪きと、金取戻しやらんと心易く諾ひぬるの嬉しきに、心も取乱し、大に是を饗応せしが、或時禁裏を拝せしめんとて、主を京都へ同伴し、是を参内せしめ、龍顔を拝し、天盃まで戴きしとて、大に是を悦び、数々金を出せしといふ。如何なる事をなして、斯く欺きし事にや、此等は全く切支丹の邪法なるべし。其後も頻りに金銀を取られぬる計りにて、西六条の銀は聊も手に入らずして、漸々と其山師にかけられしを悟りぬ。始めの心易き人々の、「こは良からぬ事にして欺かれなん。こは世間にていふ山師なるべし」とて、称々に此事を止めぬるを之を聞入る事なくして其事を為し、斯かる様なれば、大に之を後悔し、人々へも合はす面なしとて恥憤りしが、忽ち病を生じ、之が為に程なく命をも亡ひぬといふ。斯かる事にて、先年は大切なる檀家を失ひ、今切支丹の為めに斯く苦しめらるゝ事の情なき事よとて、彼寺の梵妻此事を予に語れる儘を記す。軍記妻子共召捕られ入牢せしが、牢死せし共又御仕置の日断罪となりし共いひて、其の委しき事を知らず。軍記の最後併し十二月五日御仕置百人余、其の内子供両人討首なりし由は、高島雲溟に御奉行所用人の語られしと聞けば、此の者討首なりしにや、其名を聞かざりしかば詳ならず。又町小使を渡世とする者、軍記へ頼まれ、唯だ一度同人の手紙持行きて人へ届けやりし事ありしとて、此者迄召出されて、鳥目三貫文の過料なりしといふ。其余親しくせし者などは、之れにて思ひやるべし。

連座雲仙寺、十二月五日退院仰付けられ、本山へ御渡にて、寺法通りに取計るべしとの御上意の由。本山よりも同様の言渡いひわたしにて、親類へ立寄り候事相ならず、家内は親里の事なれば、無量光寺へ返すべしとなり。此の如く公儀の科人なれば、京地にて差当り家貸す方もなく、親類へも立寄る事ならざれば、其日より大に困窮せしといふ。此寺も浄光寺の親類なれば、同寺にて聞けるまゝを記す。軍記屍を葬りし法華寺も、同日退院の由。其余種々の風聞あれども、事のくだしきと、詳ならざるとにて、之を記す事なし。

オープンアクセス NDLJP:93 豊田貢、

此女は元来越前の産れなり。貢の素姓親は代々禰宜なりしが、至つて貧窮なるが故に、親子連立ち京都へ引越し、親兄などは、祓読みて市中を廻り、又所々の神事等に雇はれて、愍れなる世を渡るといふ。同人事は容も相応に生れ付きしが、或る公家侍の妻となり、女子一人儲けしが、此男も兎角に良からぬ業もなして、身分不相応なる金を遣ひ、大坂北新地吉田屋といへる置屋へ妻を遊女に売りしとなり。〈貢此節の名はたかといふ。〉然るに同所一丁目・二丁目を兼帯して、町年寄を勤むる百文字屋五郎右衛門といへる者、金子二十両の立金して之を受出し妻とせしが、至つて気性高く、常に机に向ひ手習・学問をなし、其余の慰みには琴・三味線を弄び、又楊枝差・紙入等の小細工をなし、一寸隣家迄出るにも、首に帽子を著け、下男に看板を著せ、脇差を差させ、町人不相応のなりにて出歩行き、己れ遊女に売られ、身受けして貰ひしを悦べる様は少しもなく、我はかゝる町人の妻となるべき者にあらずとて、召使の者はいふに及ばず、主へも口を返しぬるにぞ、五郎右衛門も、何かと工事たくむこと等なして、後には入牢迄せし程の曲者なれども、一向に手に余りしといふ。折節蜆川に架れる縁橋の橋普請ありしかば、我に書かせてよとて是を書きしといふ。其後五郎右衛門も大いにもてあまし、不縁せしかば、新地裏町に家を借りて寺子屋を始めしかど、之も思はしからずとて、京都へ登りしとなり。

福島真砂橋鳥羽屋義兵衛といふ者、元百文字に近き所に住居せし者故、右の始末委しく知りて予に語りぬ。又本町呉服屋中屋善兵衛妻は、元堂島の生れにて、十二三の頃、常に百文字屋へ遊びに行きしが、「たかといへるは色白く頬赤く鼻筋通り、至つて容姿はよかりしかども、すげなき風なりし」とて、何か行状を語りぬるが、鳥羽屋と同様の事なりし。

夫より京都にて屢〻流浪せしが、〈先斗町にて芸子をなし、受出されて人の妻となり、後軍記の妾となりしなど、種々の噂あり。〉後には人の妻となりしが、其男程なく馴染の女出来て、是に深く打込みぬる故、快らずとて暇を取りて出しかば、後には直に其女を引入れて、是を妻とせしにぞ、此事を深く憤り、其恨を晴さん事を常々思暮らしぬ。斯くて後は、独身にて明神下し〈何明神などぞ、狐を祭れるなり。此類京・摂の間に専多し。〉オープンアクセス NDLJP:94をなして渡世をなせしが、或る時軍記に出会ひ、彼が奇術ある事を聞いて、頻りに之を懇望せしに、軍記に奇術を学ぶ軍記云へるには、「是を習ふには至つて行法もむづかしく、其上其方の身の為にもなり難し」とて、断りぬるを、「仮令如何なる浅ましき死をなす共苦しからねば、教へ給はれ」とて、強て頼みぬる故、「然らば先づ其法を行ひて見すべし。此方より詞を掛る迄目を閉ぢて開く事なく、又如何なる怪しき事ありとも、別して驚くべからず」と約定をなし、「最早目を開きても苦しからず」といへるにぞ、目を明けぬれば、ねたし憎しと常々思詰めて憤りぬる男に見かへられし女の、眼前に笑ひつゝ立ちぬる故、飛懸つて之にむしやぶり付きしに、姿は消えて空を摑みぬ。約に違ひうろたへし事を恥づれども、斯かる奇妙の術なれば、弥〻執心に思ひ、夫より不動心とて種々の行ひをなして、其術を伝はりしといふ。本尊となして彼等が祭れるは、如何なる者とも聞かざりしが、外に女の髪をさばき、赤子を逆に引提げし像あり。之は宗門に入る時、手の指悉く竪に切裂き血を出し画像に注ぎかけ、他言する事なく、一命を失ふとも誓に背くまじとの、誓約に用ふる神なりといひしとぞ。 盲眼を開く京都にて、富家の小児両眼潰れ、瞳子も白く陥入りしが、是迄富家の事なれば、黄金を惜まずして、種々に治療に手を尽せしか共、少しも其験なくして、盲人となりぬるを、或る人「貢を頼み祈祷せよ」とて、彼が不思議の術ある事を述ぶるにぞ、詮なき事とは思ひながらも。同人を頼み、祈祷の事言入れしに、「先づ神に伺ひて後返事すべし」とて、之を伺ひしに、其効ある由なれば、夫よりして、其小児の肌に付けし衣服一つ取寄せ、「是よりして一七日の祈祷を始むべし、六日目の七つ頃に至らば、其目明らかになるべし」といひしか共、人に勧められて祈祷をば頼みぬれども、斯かる不思議あらんとは更に思ふ事なかりしにぞ、とんと打忘れて暮しぬるに、言ひしに違はず、六日目の七つ頃に、両眼ぱちりといへる音して天井へ向つて火の飛出でし如く覚え、其音母親の耳へも入りしが、何事やらんとて、何の心も付かざりしに、其子「障子が見える。母親が分る」などいへるに、大に驚き、始めて貢に頼んで祈祷せし事を思ひ出で、信心胆を貫くが如く、直に其旨告来り、厚く礼を述べ、富家の事なれば、数千金の謝物を与へしに、之を辞して少しも受けざりしが、此者夫より我を大切にいオープンアクセス NDLJP:95たしてくれぬ。「斯く捕はれになりし事を聞きなば、嘸悲しむべし」と、いひしとて、東御奉行所御用人高島雲溟に語られしとなり。此者貢御仕置きの節、母子共永牢、家は欠所となり、番頭・手代両人、日本の内にて京都の岡崎、其外二箇所ならでは、居る事なり難く、其夜は悉く御構ひなされ、何れなりとも右三箇所の内落著きし所より、其由申出づべしとの仰渡されなりしといふ。

大坂米屋町難波橋筋西へ入る所にて、町の下役をなす市物屋喜八といへるは、京都宮川町の者にて、相応に暮し、借家等も持つてありしが、近年不仕合せにて、斯かる様になり果てぬ。二十年以前迄は、貢同人借家を借りて、明神を祭り、吉田家へ取入り、緋袴著用し、常の往来にも朱の長柄を差懸けさせ、至つて気高き女なりしが、其節迄は難渋にて、一年も家賃を断つてくれざる事あり。又或る時は金儲けある事ありと見えて、一時に滞りを払ふ上に、一箇年も先の家賃をも入れ置きぬ。其節よりも、怪しき事なりと人々噂せしが、其後盛に用ひられて、八坂へ移りしと云ふ。此の如く繁昌して、世間にては見通しと呼ばるゝ様になりぬるにぞ、愈〻高振りて、常に乗輿して往来し、人をなづけんが為めに、祈祷をなせども、金銀を貧者に施す謝物多くは受くる事なく、金銀を撒き散らして、貧困の者共を救ふ。其金何れより出るといふに、謝物表向は受けざれども、一度彼が祈祷受けし者は、頻に金銀やりたくなりて、持行き与ふとなり。又或る富家の隠居、大病にて治し難きを、彼が祈祷して助かりしかば、大に悦びぬ。夫よりして此人と至つて親しく交りて、之に妾を勧め、其女に疾と申含め、金銀入用の節は、妾より金をくり出させ、撒散まきちらしぬる事なりとぞ。〈其外金銀取込の手段あり、川崎さのが所に記す。〉 東洞院通に中村屋といへる醤油屋有り。これが分家に中村屋何某といふ者、松原通りにて呉服屋とやらんを〈質屋とやらんともきけり。〉家業とす。此者貢と心易きにぞ、貢此者の金を借りぬ。〈切支丹の伝書引当てに遣せしを、密にて学びしなど、種々の取沙汰なりし〉是も密に其邪法学びし由なれども、主は三四年前死去せし故、十四五なる忰召捕へられ入獄せしが、御仕置の日首斬られしとも、又永牢なりしともいふ。家は欠所、手代共迄夫々御仕置ありしといふ。

以上、浄光寺梵妻・大和屋林蔵等に聞けるまゝを記す。又大和屋利兵衛が咄には、「先年中村屋方へ大勢客を為せしが、酒出せし上にて、何も格別の馳走とてもなけオープンアクセス NDLJP:96れば、天の川の鯉を取寄す只今より天の川の鯉を取寄せ、汲物すひものになして奉らんと」いひて、手桶に水を入れ、灯灯をともし、之を桶に結付けて、屋根の上に上げしに、見る間に空へ登り雲隠くもがくれせしが、程なく下りて、元の屋根に止りぬるにぞ、桶を下して見るところ、大なる鯉二尾あり。是を汲物にして出し、饗応せしかば、何れも大に興に入りし事などありし由なり、とて語りぬ。

又京都にて、或る家の息子へ、斯かる姦悪無道の貢なれども、恋慕して、我とは年二十余も違ひぬれば、表向は養子にせんとて、色情を隠し心易き人に頼みて言込みしが、此者一人息子なる故、其親之を許さゞりしかば、此息子に難病を煩はせ、面部一面悪痕を生じ、あさましき姿となしぬ。斯かる事とは夢にも知らざる事なれば、両親も大に惑ひ患ひぬる折柄「祈祷してやらん」と言へるにぞ、医師も断る程の事にて途方にくれしかば、之を頼みぬるに、己が家へ取寄せ祈祷せしに、一両日にして少しく其験顕はれしかば、二親大に悦びぬるにぞ、再び養子の事いひ出でて、「此者難病にて助かり難き事なるを、祈祷して助けやる事なれば、平愈せし上は我に得させよ」といへるにぞ、「今は命の親なり、助かりさへする事ならば、御心に任せ申すべし」とて諾ひぬ。程なく悪痕治して元の如くなりしかば、約定なりとて之を養子に引取り、名を嘉門といひしが、之より僅三十日計り過ぎて、貢と共に召捕られ入牢す。此者貢が斯かる邪法なる事は露程も知らぬ由なれども、親子となりしに逃れ難く、御仕置の日討首となりしとも、又永牢となりしともいふ。其慥なるを聞かず。〈以上世間にても専ら風説あり、大和屋林蔵・加島屋勝助等に聞ける儘を記す。〉

貢母・兄は北野辺に哀れなる暮をなせども、己れ見通しといはれ、金銀を芥の如くに遣ひ捨てぬれども、之を救はんともせず、至つて不行跡の由。始めの程は母も往来せしが、彼が行状、如何にしても、其意を得ざる事のみ多ければ、斯かる者につながり居らば、如何なる事を仕出し、共に憂き目に逢はん事を恐れ、先年より義絶せしといふ。兄は斯かる事とも心付かざれば、折には母の諫をも聞かで行きぬるが、折節に二三日も彼が家に滞留せしに、何共心得ぬ事多きにぞ、年老ぬる母の只一人の娘を見限りぬるも、よくの事ならん、恐るべき事なりと、是よりしては兄も不通なりオープンアクセス NDLJP:97しといふ。されども血縁通れ難く、貢召捕るゝや否や、此兄も入牢せしが、間なく牢死せしといふ。母は八十に及び、極老の事なれば、京都にて其所へ御預となり、貢御仕置の節、其懸りの者一統に召出され、夫々の御仕置ありしが、此婆病気にて、代人下りしといふ。如何仰渡されし事や、之が落著をば知らず。〈以上大和屋林蔵に聞けるまゝを記す〉

川崎のさの召捕られ、貢と共に邪法行へる由、白状に及びし故、盗賊方永田察右衛門召捕に登られしが、貢は堂上の御用方ありとて、始終是に入込み、往来の供廻りも大勢にて、乗輿して往来なしぬる事にて、少しもあやしみを見する事なければ、官家を憚り捕へ得ずして引取るにぞ、之に代りて大塩平八郎直に上京し、其身町人にやつし、痛病ありとて、彼が方へ到り祈祷を頼まれしに、之を諾ひしかば、彼が家に滞留し、其出づるを窺ひ、神社の内を改められしに、総て社には異紋の絹を使ひ、表向は明神を祭れると号して、其様を為しぬれども、社の中には神体なくて、お多福の面一つありしかば、之を取つて懐中し、彼が帰り待受けて、其怪しみを申聞け、召捕来りしといふ。彼も曲者故、種々言抜けんせしかども、如何共なし難く、召捕られしといふ。〈天満玉谷杏庵が咄に聞けり。〉牢中にても、大罪人といひ、殊に頭人の事なれば、御仕置迄は大切に扱はれし事なりとぞ。さのを始め、きぬ・植蔵・顕蔵など牢死せし故、猶も気を付け候様とて、長町辺の賤しき女、二百文位の賃銭にて介添に入牢せしめ、彼が小用を聞き、飯の給仕・按摩等をなさしむるに、少しにても心に叶はざる事あれば、之を打擲蹴飛ばし、又給仕の節、飯汁の加減悪しきとて、是を其者に打懸けなどする事故、後には皆々断りて、介添せんといふ者も無きにぞ、一日八百文宛の賃銭を出して雇ひぬるに、一昼夜を勤め兼ぬる位に、酷き目に逢はさるゝ事なりしが、下賤の者共賃銭の多きにめでて、五六人代り合ひて、漸々と之を勤めしといふ。又可笑をかしかりしは、当所北野辺に、哀に暮しかぬる明神を祭る者ありしが、京都にて豊田貢忰嘉門とて、見通なりとて、世にもてはやされ、多くの金銀を儲けて、是を湯水の如く遣ひて、勢ひ盛んなる事を、羨ましく思ひて、母親の名を豊田貢、忰の名も嘉門とて、人をあやかし、己を利せんとせし者ありしが、同名の者故御不審懸り、一番に召捕へられ入牢せしが、母子共に牢中にて死したりとかや。之は聊も切支丹にかゝはりし者にてオープンアクセス NDLJP:98はなき由なれども、身にもたぐはぬ利欲心より、かゝる非命の死をなせしとて、〈船町の垣外、加島屋幸七店にて語りぬ。垣外は非人頭にて、捕者の手先に遣はれぬれば、牢中の事委し。〉加島屋勝助の予に咄せるを記す。

十二月五日、切支丹御仕置に極まり、三郷を引廻しの由、沙汰ありしかば、国初以来厳しき御法度の邪法行ひぬる程の悪徒なれば、人々之を見んとて、松屋町牢屋敷辺より、其道筋大いに群集をなす。貢、獄屋の門を引出され、大勢の見物人を眺めつゝ、

   西東北も南も一やうに我を見に来て皆松屋町

斯かる事など口ずさみ、神色自若たる有様にて引かれぬるが、三年も入牢して同類多く死去しにさりしに、聊の牢瘠らうやせもなく、色白く肥えたり。両眼銳く、鼻筋通り、年は五十六といふ事なれ共、五十にも至らざる様子に見え、意気揚々として、所々にて、「切支丹の大将の婆々といへるは我なり。よく我面を見て置け」とて、高声に呼ばはりつつ、引かれしが、仕置の場所に到り、馬より引下せしに、御役人へ夫々目礼し、大に笑を含み、何やらん言へるに、穢多共、「ごま言いはず念仏を申せ」と言ひしかば、「切支丹に念仏といへる事なし。是より高天原に御帰り有るなり」といひ、笑ひつゝ柱にくゝり付けられしが、始め左右の手を握り居しが、槍一本突かるゝと、笑ひつゝ其手を開け、又二本目に其手を握りしのみにて、精神少しも乱れず、槍十一本受けしといふ。捨札の側に、辞世の詩を書きて五枚計りありしとなり。

右、和田周助・玉谷杏庵、其外見物して来りし者共の噂を聞きて記す。

大乗院。浄土宗。貢頼み寺なり。退院仰付けらる。

高屋見平蔵。

上町松山町住居。此者元来播州にて、禅僧にて、一箇寺の住持なりしが、檀家の後家と姦婬し、不埒の事をなして、大坂に出で来り、北野寒山寺は親しき間なる故、是に頼り、同寺より出をなし貰ひて、北野に家を借り、夫より松山町へ変宅し、軍書の講釈師となりて世波りせしが、軍記弟子となり、邪法を伝受し、先年軍記長崎へ行きし留守中に、妻子を預り世話せし事などありと云ふ。或時新町とやらにて遊びしが、興に乗じ、「我れ面白き事なして見すべし」とて、種々の怪しき手妻をなして見せしかば、奇妙なりとて、之よりして奇妙と唱へらるゝにぞ、己が軍書講ぜる方にては、オープンアクセス NDLJP:99北山喜内と名告なのりしを、終に奇妙と改めしとなり。其手妻にて御不審を蒙りし折節、切支丹の事顕れ召捕へられしとなり。〈以上、絹屋七兵衛が咄せるを記す。〉十二月五日、貢と共に引廻しにて磔となりしが、道筋も大いにしをたれ、場所に於て馬より下されしに、少しも足腰立たず、面色土の如くなりしが、槍にて一本突かるゝや否や、面も腹も大に悩乱し、小便たれちらし、甚だ見苦しき有様にて、槍九本受けしといふ。〈是も和田・玉谷等の咄を記す。〉

 塞山寺禅宗妙信寺派

御法度の切支丹檀家にあるを知らざる上、是が出を致しやりし事なれば、別して御咎も強く、外寺々と共に他参止めなりしが、御咎中病死せしにぞ、改めの御検使立ち、伋覆仰付けられ、御仕置の日、代人等召出され、存生に候はゞ退院仰付けらるゝ筈の処、死去せし事故、先づ其儘に致し置候様、別て葬式等相成らず、追て御沙汰有る可しとなり。右組合の寺々、御叱の上五十日の閉門、〈閉門は己より遠慮にてしめしともいふ。〉久昌寺・瑞光寺・妙中寺・玄徳寺・梅松院、以上塞山寺の組合なり。其余浄光寺・円照寺・蓮託寺・雲仙寺・一乗院、総べて檀家に切支丹ありし寺々、退院仰付けらる。是等の組合の寺々御谷を蒙りし者五十箇寺に余るといふ。〈寒山寺の始末は久昌寺にて聞けり。〉

 伊良子屋植蔵〈是は町内表向名前なり。〉 此者医者を業として、実名を藤井右門といふ。|北新地裏町芝居裏より半町西にて、北側路次の内に住み、年六十に及べども、至つて貧窮に暮しぬ。十箇年計り以前京都より引越し来る。水野軍記弟子の由、又浄光寺にてはさのが弟子なりといふ。〈彼所の堅めにて、弟子多く取れば自ら顕れ易き故、唯受一人と定めある事ともいふ。〉貢等と共に召捕へられしが、牢死せし故、塩漬となし磔に掛けらる。死人の分は槍にて右左より一本づつ突通し、跡は突く真似せし事なりとぞ。

 浄光寺西本願寺派

右伊良子屋植蔵頼み寺なり。是も始め召出され、檀家にかゝる御法度邪宗門あるを知らざる段不届至極とて、大に御叱りを蒙り、他参止なりしが、落著の日に召出し、「脱衣追放申すべき筈の処、御憐愍を以て退院仰付けられ候間、有り難く心得、早早退去致し候やう」仰付けられ、又御堂留守居も同日に召出され、大に叱を蒙り、後はオープンアクセス NDLJP:100本山へ御渡なれば、何か寺法通に取計らへとの事なる由。斯くて院主は其日八つ過ぎ頃一旦寺へ引取り、七つ過ぎに退院す。親類の事なればと、梶木町へ引取りぬ。家内は苦しかるまじとて、寺へ残し置きしに、本山より早々尊光寺へ引取申すべしとの事にて、大に狼狽す。〈先月以来此梵妻吐血の病に臥してあり。〉されども詮方なければ、一人の女子と共に寺を退きぬ。元来此女至つて淫婦にて、是迄縁付く事三度目にして、浄光寺先住の妻となる。〈播州赤穂永応寺の女なり。〉是も尊光寺は親類の事なれば、同寺へ来り滞留せし折から、浄光寺と密通し妻となりしといふ。然るに十二三箇年計り以前、後家となりしが、亡夫骨肉の弟と姦淫し、乱行甚しく、後には是が子を妊みぬ。年たけし娘ありて、是へ養子してよき場合なるに、己れ此の如きいたづら者故、此度退院せし者を七八年以前より養子とす。是は六条にて宏山寺といひて、よまの格式なるが、浄光寺は内陣にて、寺格も檀家も宜しき故、己其寺の住職なるに、外より養子をなして、欲心よりして入壻となりしが、斯かる浅ましき日蔭者となりぬるを、笑はざる者とては無かりし。伊良子屋事、十箇年計り以前京都より下りて、此等の門徒となりしに付ては、京都よりの寺送り、又当所にての世話人、出所町送り等之ある筈の事なるに、僅十箇年計り以前の事なるに、何者が出をなし、誰の世話なりし事共、此等にてとんと分らず。何故門徒となりし事更に知る者もなく、帳にも記しなき事、不埒の至りと申すべし。こは先年住持死し、後家狂の時節故、何事も訳なく、すべて彼宗徒の風儀として、無上に銭をほしがる事なれば、聊の銀銭を得んとて、かゝる禍を引出せしなるべし。此寺此度切支丹掛りの事なれば、此度の件、多くは此寺にて聞きしを記し置きぬ。

 藤田顕蔵。〔原註〕杏庵顕蔵が姦智に惑はされ死後不明の恥をさらし先祖の祭をも断ちぬるに至る


阿波国の産にして、堂島浜大江橋少し西へ入る所藤田杏庵といへる医の門人なりしが、才器ある者なりとて、杏庵実子並に甥などあり乍ら、之を捨てゝ、顕蔵を養子とす。杏庵は相応に用ひられ余程積財せし者なるが、顕蔵が世となりては、親父の如く用ひられざる故、医者の業にて其町の年寄役を勤む。〈此浜の町人総べて相場を業とする事故、何れも商せはしき故なり。〉所柄ところがらの事故、終には米の相場をなし、翫物を好みて金銀を費し、米商ひにて大に損をなし、後には居宅をも質物に入れしに、其身年寄役を勤むる事故、又之を外にて二重オープンアクセス NDLJP:101家質に入れ、其余金銀を人に借りて、不埓の事をなす事など数多しといふ。始め入れし家質は町内の内なる故、二重に入れし事相顕れ、相手方より公訴に及びしかば、医業といひ、町年寄をも勤むる身にて、不埒の致方なりとて、三郷御払ひになりしかば、〈又内済になりしかども、不埒者故町内より追立しともいふ。〉夫より住吉へ引越しゝが、切支丹の書物所持にて、川崎の佐野へ売り与へしといふ。〈以上浄光寺並に世間にての噂を聞きて記す。又絹屋七兵衛が咄には、平岡の社人と心易きにぞ、是に切支丹の書物を借しめるに、此社人隣村の後家と姦通せしが、何かと不良の事ありて召捕へられ、其家付立となりしに、右書物ありし故、御糺ありて、藤田所持明白にて、召捕へられしといふ。〉其事顕れて召捕へられ、入牢の所牢死故、塩漬となし同日御仕置となる。八十になれる養母・妻子、〈男子にて八歳といふ。〉 これ迄は所預けなりしが、御仕置の日召出され、老母は宿下げにて、やはり其所へ御預けとなり、妻子は直に永牢となるといふ。〈又妻は打首、子は永牢ともいふ。〉阿州の顕蔵が兄といへるも、呼登せとなりて、是も永牢の由。切支丹信徒の三族を滅す総べて切支丹行ひし者共の三族、御たやしになる事なりとぞ。

堂島難波屋太兵衛とて相応の町人の忰、顕蔵が妻の妹の養子となりしが、此男両親の心に叶はずとて、間なく離縁せられし故、里へ引き出で外宅してありしに、藤田が娘之を恋ひ、家を抜け出でて夫婦となりしかば、藤田顕蔵大きに腹立ち、之を義絶すといふ。此の如くなれ共、娘の人別、やはり藤田が方に残りあるにぞ、其縁遁れ難く、両人共召捕へられ、永牢となりしとなり。人別の残り居りし計りにて、斯かる憂身になれる事、不便なる事なりなど、世間にて噂する者もあれ共、六年計り以前の事なりしが、此者堀江遊所にて、芸妓など大勢喚びて遊びしが、酒興に乗じ、我面白き手づまして見せんとて、何か少しく所作をなして後、一やうに三絃をひきて謡ひぬる芸子共に云へるは、「其方達のゆまきを今取りしが、之も知らで謡ひぬる事の可笑さよ」といへるにぞ、更に之を諾ふ者なかりしかば、「如何に言ふとも言へる計りにては知れ難し、銘々ゆぐを改め見よ」といへるにぞ、何れも之を改むるに、更に無ければ大に驚き、いつの間に取られし事とも知らず、「早く返し給はれ」といへるにぞ、「然らば出しやるべし」とて己が袖の内より引出し、夫々返しやりしかば、何れも大に驚きぬ。其節専ら此噂ありしが、道修町吉川屋吉兵衛といへる者、「先日堀江にて難太の息子の藤田の養子となりし者は、至つて妙なる手妻をなし、先日堀江にてかオープンアクセス NDLJP:102かる事有りし」とて、其事を予に咄しぬる事ありしが之を思へば、彼等も此邪法を学びたるなるべし。かほどに評判の高かりし事なれば、此事など御聞きに達せざる事あるべからず。然らば自業自得といふべき事なり。

 円照寺〈西本願寺末寺新鞆油掛町〉

右藤田が頼み寺なり。往持退院、組合の寺々開門迫塞にて、後は本山よりの計らひに任すとの御渡されの由。他宗と違ひ、妻子これ有る事なれども、当人計りにて、妻子は苦しかるまじと心得しにや、其儘にて退院せしに、本山より妻子をも退かしむ。往持は折節大病に臥して手足叶はざりしかば、戸板に載せて昇出せしとぞ。此寺、藤田に付いて、此度にて両度の退院なりといふ。先年杏庵死去の節、其由寺へ申遣し、「明日八つ時葬式を勤むる事なれば、相立ちくれらるゝやうに」と頼みやりしに、此杏庵事至つて吝嗇にて、平日寺へ勤むる事なく、寺より無心申参れども、一つとして是を聞入るゝ事なかりしかば、こゝぞよきゆすり所なりと心得しにや、「明日は寺に差支の事あれば、葬式には伴僧を立たしむべし」と、答へぬるにぞ、顕蔵其由を聞き、大に腹を立て、「裏屋小家に住める貧之人の如く、伴僧を立たしめんなど云へる事、不埒の申分なり、何分にも相立ちぬるやう申来れ」とて、押返して人を遣せしに、寺の云へるには、「実は外の事にてもなし、役用の道具三十五両の質物に入れたり、其金を出して之を受戻しくれらるべし。今寺には聊かの金子もなき事なれば、其事なり難し」といひ募りて、諾ふ事なければ、使度々に及びるも其甲斐なくて、明日其刻限も近づきぬれば、拠なく右の金子持たせやりしかば、程なく出来りて葬礼をも勤めぬ。其仕形不法なりしを憤り、是に物をも言はずして、睨み付けて居たりしが、月忌を待兼ね、直に其金取戻さんと掛合ひしに、寺は素より是を取る積り故、返さゞる故、厳しく応対を詰めるにぞ、詮方なくて講中へ相談せしかば、講中より金子五両持参して、「寺の事なれば何卒是にてこらへ給はれ」といひぬるを、聊も用捨なり難しとて、終に公訴に及びしに、死人を押へて檀家をゆすりし科重きにぞ、退院仰付けられしといへり。寺は素より不法なれども、藤田が仕方おとなしからずとて、専ら世間にても評せしといふ。此事は毛利孝庵が咄なり。同人事杏庵とは親友なりし故、其節オープンアクセス NDLJP:103も行合せて、是を詳かに知れり。寺の事は論なしと雖も、顕蔵が人物を見限り、夫よりしては是を遠ざけぬとて、予に語りきかせぬ。

 さの

天満川崎に住す。〈川崎といへるは、北野大融寺の門前を東へ二三町計りの所なり。〉此者きぬ弟にして、京稲荷山、其外物凄き山中に、夜中籠り断食をなし、すべて不動心とて荒行をなし、詐欺取財其功を積みて邪法伝受を受けしといふ。表向は明神下しと号し、祈祷して人をたらし、金銀を貪りしが、後は甚しくなりて、家主憲法屋与兵衛を始め、其外堂島所々にて人をだまし、「我れ金銀を神力にてふやしやるべし。先づ試に銭一貫にても十貫にても預けみよ」と云へるにぞ、欲心多き所より、何れも之にだまされ、皆々金銭を此者に預けしに、「銭十貫の預りしには、其月末に至りて、三貫匁の利足を附け、之を持行き其者に見せ、纔一箇月にして三貫文の徳付きたり、帳面に控へ利分の入をつけよ」とて、之を控へさせ、「十貫にてさへ一箇月に此の如し。先づ此三貫文も亦持帰りて、元と共に廻しなば、又是に利の付くぞ」とて、利息見せしのみにて持帰り、明くる月亦も此の如くに利を見せて、帳面に入を記させ、持帰りぬるが、其節さの云ふやうは、「纔銭十貫文にてさへ、かやうの利銀を得る事なり。過分の金儲けせんと思へば、元銀多き程よし」といへるにぞ、家主始め之を頼みぬる者共、有りたけの金引さらへ、憲法屋与兵衛〈家主なり。〉などは、外方よそにて「木綿一駄月末迄、暫し借せ」とて借受けなどして、さのに託しぬるに、只口先にて、「此月は何程ふえて此程になりぬ。利銀を控へ置け」とて、之を帳面に控ふるのみにて、三文も手に入る事なき事なれば、借りし方へは返しやらざればなり難く、手元大きに差支へぬる故、「何とぞ利銀の内を三貫目受取りくるゝやう」にと、さのへ頼みぬ。素より金を借付け、仰山にふえしといへるは偽にて、預りし銀は銘々悪徒等打寄りて遣捨てし事なれば、外に出る所とてはなし、数度の催促に逢ひ、始めの程は、「明神の御苦労を遊ばし折角ふやし給はるに、今頃さやうの事申上げては、神慮に叶ひ難し、神罰を蒙る事なれば、身の為め宜しからず」などいひて、之をおどしぬれ共何分にも与兵衛身上立ち難くて、又々催促に及べるに、外々の金預けし者共、是を疑はしく思ふ心出で、是等も頻りに催促をなし、「公訴に及ぶべし」などいへオープンアクセス NDLJP:104るにぞ、今は堪へ難く、憲法屋へ行いて言へるやうは、「兼ねて利銀下げの事願はるれども、明神には大きに御心配にてふやしやり給ふ折なれば、其銀今御下げを願うては、明神をなぶり奉るに当れば、忽ち神罰を蒙るべし。今暫し待ち給へ、備前国福渡り〈城下より六里奥。〉より頻りに我を招待し、法を弘めくるゝやう是迄毎度頼み越しぬれば、四五十日計り滞留して法を弘めば、余程の金を得べし、その金を以て間に合はすべし。かくすれば明神の御怒もなく、金銀沢山にふやし給ふ故、身の為め大きによし。今少しの所待れ申すべし」とて、之を欺しぬるに、素より彼を信じ、かゝる事に及べる程の愚人なれば、「さあらば先方へ暫く相断るべし、一時も早く金子手に入るやう計らひ給はれ」といへるにぞ、「我は此より内を片付け、明日より下る用意すべし」とて、引取りしが、其疑を散ぜんため、諸道具等与兵衛方へ預け、後の事何によらず同人へ頼み置きて、早々備前福渡りをさして逃げ下りぬ。斯くて廿日余も過ぎて、彼が同類の者召捕られ、切支丹なる事明白なるにぞ、当人宿にあらざれば、家主憲法屋を召出され、「其方借家に住めるさの事は、公儀御法度の切支丹なり。其方此者を知りて家を借しぬるや、知らずして差置けるや、何分にも不糺の至り、不埒至極なり」と御叱りを蒙りしに、与兵衛思ひ寄らざる事なれば、大きに胆を潰し驚きつゝ、「何しに私夫と知りながら家を借し申すべきや」と、申すにぞ、「左様あるべき事なり。此節さのは何れに行きたるぞ」と御尋ねあるにぞ、「同人事備前福渡りと申す所に参り居候」と申すにぞ、「実に相違なきや、偽にても申さば、其罪同罪たるべし」となり。与兵衛云へるは、「同人彼地へ参りてより両度迄便り御座候へば、訳けて違ふ事之なし」と申上げしかば、「然らば早々召捕に遣すべし」と、仰せられしに、与兵衛いへるやうは、「憎き婆めに候へば、私罷越し連れ帰り申すべし、御上の御苦労掛け奉るべき迄もなし、何とぞ此儀を御許し下し置かれ候へ」と申上ぐるに、「夫は神妙なり。併し如何して連帰らんと思へるや、大切の科人なるぞ」と仰せられしに、「外に仔細とてもなし、只欺して急度連参り申すべし」と申すにぞ、「然らば早々計るべし。何つ出立するや、陸を行かんと思へるや、又船路を行くの積りなるや」と御尋ねありしに、「大切の事なれば、船にては日数も計り難く候へば、明朝直に出立にて陸を参るべし」とオープンアクセス NDLJP:105申上ぐ。夫より御奉行所を下り、其仕度をなして、明くる日直に出立し、福渡りに到り、婆に逢うて云ふやうは、「我此所に来りしは余の事にあらず、当所へ参られし後にて、兼ねて我が金を明神の御蔭にてふやしもらふ事を、近在の心易き者へ噂せし事ありしを聞きて、或は金持てる人の銀子三十貫目程預け奉りて、之をふやしくれらるゝやうに頼みくれよとて、頼み来られしが、未だ帰り給はずやとて、度々尋ね来れるにぞ、兼ねて噂する如く、我も三貫目の銀に詰り、大きに困窮の事なれば、何卒帰り来りて、其金を預りやりて、其内にて右の三貫目振替へくれらるゝ様に致したしとの事、書状にて申越しても分り難ければ、直に迎へに来りたり。何卒我を救ひ給はれ」と、誠しやかに頼みぬるにぞ、さの当所へ来りて祈祷など為し、窃に法を弘めかけしかども、素より辺鄙の事なれば、格別思はしき事にもあらず、預りし銀子催促せられ、拠なく此所へ逃れ来れる程の事なれば、早速に之を諾ひ、「何か取片付けて、明朝同伴して帰るべし」とて、其用意をなす。与兵衛しすましたりとて、猶程よくたらし込み、明日同伴にて出立せしが、大坂へ僅か二里計りになりぬる所にて、役人体の者大勢立出でて、「其方は憲法屋与兵衛なるや。同道せし者はさのなるか」と尋ねられしかば、「しかなり」と答へしに、直にさのを引立て、「与兵衛には用なし、早々帰れ」と申さるゝにぞ、両人共大いに狼狽へしが、与兵衛は放されし事故、早々に逃帰りしが、直に御奉行所へ出でて、「備前よりさのを連帰りし処、途中にて何者ともしれず御役人体にまがへ、奪取り申し候。折角連帰りながら、右の仕合せ、何共致方なし。早々詮議願ひ奉る」と申上げしかば、「大いに大儀なりし。さのは此方より召捕に遣せしなり」と噂あるうち、はや同人を縄付にて引出すにぞ、与兵衛には下れとの事故、早々に帰りしが、今は何時迄待ちしとても、さのより金の返る事なければ、詮方なく家屋敷売払ひ、借銀を払ひ、其余りに又外にて銀子借り足して、北新地にて尾上湯の株を買ひて風呂屋となりぬ。〈後には切支丹へ掛り合ある者は皆町預け、他参留等になりて、別けて家の売買など出来ぬる事にあらざりしが、未だ発端の事故、其御沙汰なきうち故かゝる事なしといふ。〉然るに切支丹御仕置後、同人も召出され、「鳥目二千貫文差出すべし」と仰渡されしが、大いに驚き、種々歎出でしに、大いに御叱りを蒙り、「切支丹へ金をかし、かゝる不正の利銀取込候事故、死罪にも仰付けらるゝ筈の処、御憐愍オープンアクセス NDLJP:106を以て利銀の取込みしを持出し仰付けらるゝが、有難く思ふべし。命の代りなるぞ」との仰出されし由、大利といへるも名計りにて、三文も手に入りし事にてはなしと雖も、元来利足取らんとて、利慾の心より身代傾き、居宅をも売払ふ程に貸附けしにぞ、かゝる目に逢ひし事なりとぞ。右与兵衛事、福島鳥羽屋義兵衛と心易き男故、何かの始末同人鳥羽屋へ咄しぬるとて、予に語り聞かせぬるまゝを記す。備前屋新七とて、岡山西大寺町より来りて、当所に住する者あり。此者の伯母登坂せし故、此人々福渡りにての様子を尋ねしに、大勢随身の者共ありしかども、町家・在家は少く、多くは山の者とて、非人頭にて盗賊方の手先に使はるゝ者共一村百軒計りなるが、此村残らず帰依せし事故、切支丹といふ事あらはれて後、穢多を以て之を召捕らんとせしに、大いに手に余り、穢多十六人迄打殺され、非人は纔か一人少々の疵蒙りし迄にてありしか共、終に地頭の勢にてひしぎ付け、一々召捕り、重もたる者共悉く遠島になりしといふ。

 円光寺仏光寺派。

右さの頼寺なり。是も同日退院仰付けられしに、住持は未だ十二三の子供なる故母親の計ひにて、「こよひ一夜は留めしとて苦しかるまじ」とて、人の諫めをも聴かで留めしが、此事上聞に達し、公儀を恐れざる段重々不埓に付き、住持は遠島、寺は欠所となる。

 きぬ

さのと同じ様の事にして、邪法を以て人の心をとろかし、金銀・衣服其外何に寄らず掠め取り、又金をふやしやらんとて、多くの人を欺きぬる事限なしといふ。

 蓮託寺東本願寺派。

住持退院、組合の寺々迫塞閉門上に同じ。

鳥目二千七百貫文       舛屋安兵衛天満木幡町造酒屋

同 二千貫文         憲法屋与兵衛

同 二百貫文         天満伊勢町

金七両            堂島下役

オープンアクセス NDLJP:107右の外金銀銭の吐出し、過料等、少きは銭三貫文、斯程の口数至つて多き由、当日死罪・流罪等も多かりしとて、巷説は大層なる事なりしかども、予が記せるは、すべて其出所を糺し、貢・軍記等の事は奉行所御用人の咄せるを雲溟に聞き、其余は浄光寺にて聞ける事多く、寒山寺の始末は、大和屋林蔵・久昌寺等にて委しく聞きぬ。すべて天満辺の事は、北野明石屋喜兵衛方にて聞き、其余の事も夫々出所を糺し、疑はしき事は之を省きて記す事なく置きぬ。

大融寺の借家に住める按摩あり。近きあたりなれば、さの方へ入込みしが、一度按摩すれば銭百文づつくれ、酒肴を振舞ひて大いに飽かしむるにぞ、此者頻に有難くなりて、奇特をいひ立て、無上に人をすゝめ歩行きしが、是も金ふやしもらはんとて銭十七貫を預けし故、他参留と成つて居たりしが、御仕置の日召出され、「急度叱り置く」との事なりしとぞ、明石屋利助此者に附添ひ出でしとて、予に語りぬ。

加島屋勝助が外方にて聞きしとて咄せるには、切支丹露顕せし始めといへるは、彼同類の内〈尋ねしかども、棋名物れず定めてきぬ・八重の内ならんか。〉金銀殖しやらんとて、人々多くたらし込み、始めにも云へる如くの事をなして取込みしが、酒屋と水汲と両人、身分不相応に銀銭かり入れてまで預けしが、口にて殖えしと聞ける計りにて、聊も手には取れる事なく、水汲などは賤しき働人故、借主より頻に催促せらるゝ故、利銀渡しくれぬるやう屢〻掛合ひぬれども、種々言抜けて渡さゞるに、酒屋もふと疑念生ぜし故、其銀取戻さんとて、頻に掛合ふやうになりぬるにぞ、皆打寄つて遣ひ捨てし銀子なれば、手先にとては聊もなければ断りの手段に尽き果て、詮方なき所より、出奔して行方しれず影を隠しぬるにぞ、酒屋いよ憤りて、「何国に行きて隠れ住むとも、尋ね出さで置くべきや」と、夫より商売をも打捨て、探し廻りしに、播州の所縁に隠れ居る事慥かに聞出しぬ。直ちに行かんと思ひしかども、先方に是を隠して渡さゞる時は、如何共為し難しと思ひ、種々心を労せしが、是が近き辺りにて、先年迄与力の若党せし男の、奉公をひき、小家を借りて、僅かなる暮しせるあり。何か筋合委しかるべければとて、此者へ相談せしに、「夫こそいと心易き事なり。我役人となりて役所に行き吟味なさば、先方にても隠し難し。斯くして捕へ来るべし」と云へるにぞ、酒オープンアクセス NDLJP:108屋大いに喜び、共に役人に化けて先方に到り、村役人に懸り、大坂よりの御上意の由云へるにぞ、村役人より厳しく其村を尋ねて、当人を探し出せしにぞ、御役人になり行きし事なれば、直に縄を懸けて連帰りしか共、素より偽りなれば如何ともし難く、種々嚇しぬれ共、「一銭も無し」といへる。悪者わるものにはかなひ難く、さればとて証文取りし事にあらざれば、公訴する事もなり難く、是非なくもひたすら催促に日を送りぬる内、思掛けずも播州にて召捕られし事なれば、彼の明神と唱へぬる狐を其儘彼所に残し置きしに、此狐宿の娘につき、大いにあばれ出し、「我を残して大坂へ行きし事なれば、今は祀りびとなし。斯くしては我が立所なし」とて荒廻り、又こと人へもつきて、手に余れるにぞ、所の者共申合せ、村役人上坂し、「先達て御召取に相成りし何某と申す者、狐を残し置候に付、其狐荒れ廻り、村方難渋に候間、早々引取候やう仰付られ下さるべし」との願ひなるにぞ、御番所にては、其頃に斯かる事なしとて、夫より御吟味ありて、上をかたりし始末分明に分りしかば、何れも召捕られぬ。此女よりして何か白状に及び、思懸けなき切支丹の一件露顕せしとなり。捕手になりて下りぬる男は、間もなく牢死せしと云ふ。絹屋七兵衛も、外方にて聞きしとて、此通りを語りぬ。

切支丹の御仕置は、国初以来珍しき事なりとて、見物大に群をなし、定て境筋を引かるべしとて、別けて島の内・日本橋の辺は人にて詰り、往来も絶えぬる程なりしに、中橋筋に京都中村屋の掛りありとやらん云へる事にて、此筋を引かれし故、数万の見物総崩に崩れて、我一に中橋筋へ走行かんずる事なれば、乳母の子を負ひしが、踏倒されて其子踏殺さる。其余二三人も死人あり、怪我人は其数を知らざりしといへり。

捨札の写

 摂州西成郡川崎村死亡京屋新助 同家病死さの、

さのゝ罪状此者儀、京住の節、女の情に外れ人を驚かし候程之奇瑞を顕度しと初念の心得違より、きぬ申勧候、みつぎ修治の異術、最初は切支丹の邪法と申儀不承候へ共、内実稲荷明神下しに無之儀と既に承知乍能在、きぬ弟子に相成、不動心之修行迚、井水又は滝にて浴水致、夜中は山々恐敷場所へ罷越、心を凝らし、其後きぬ申合、当表へ引オープンアクセス NDLJP:109越、同人と相隔り致借宅、明神下しに託し人集候得共、其節邪法之伝授未請以前之儀に付、病気之加持吉凶未然之事難察、此者伜死亡新助を、きぬ方へ始終為通、右加持判断致貰居候内、此者身心を苦め、艱難之修行詰、不動心に相成候に付、厳科に被行候共白状致間敷之旨誓を結び、術本尊天帝の訳右〔諸名カ〕を念じ、陀羅尼の唱様、其余病気加持、金銀等集候、修治者不申、未然之事も心中に浮可相知との儀の旨、きぬより密授受候後、追々何事も見通出来候に付、同志之者都て繁栄に暮し、邪法を可弘と之巧を以、窃に当時之居宅借り受、与七女房八重は、既に弟子に致、勘蔵并女房とき等へも、不思議の事をみせ、為篤致帰伏候に付、此者を京都貴人之隠居と申成、病気又は難儀の者を救候上、繁栄致候。修治之法を相弘め候趣を以て、右三人之者共を先に遣ひ、家主与兵衛始め、外諸人に色々と為申動置き、此者儀は天帝を念じ、伝法通致修治候に付、人々心を取失、過分之金銀銭・衣類差出、右を掠取り、洩之候はゞ死罪に当り候、神罰可蒙と之一札を、右之者共の内ゟ八重手前へ窃に取置、其上掠取候金子之内師匠恩報として、きぬへも配分、余は勘蔵・八重等へも倶に遣ひ捨て、剰此上可帰依手段の為、以後掠取候金子は、難渋之者共を可救と巧み、名目取扱居候次第、不公儀仕方、女の身分にては別て大胆の至、重々不届至極に付、塩漬の死骸、大坂三郷引廻の上、磔にかくる者也。

 天満龍田町播磨屋勝蔵 同居病死きぬ、きぬの罪状


此者儀、京住の節、女の情に外れ奇妙成儀を行度くと、初念之心得違ゟ、通例稲荷明神下し之儀を厭ひ、貢に随身致、最初は切支丹の邪法とは不存候得共、秘方伝授可受と存、不動心之修行迚、井水又は滝にて浴水致、夜中物幽き山々へ登り、心を凝らし、終に不動心に相成候頃、みつぎ切支丹修治方を、軍記ゟ伝法受候儀申聞、厳科に被行候共白状致間敷旨之誓を結び、神文之心持を以て、軍記所持之天帝画像拝し、指之血を画像へ濺懸け、右を念じ陀羅尼之唱様・病気加持・金銀等集候修治者不申、未然之事も心中に浮み相知等之儀迄も、みつぎゟ秘授候後、猶修行致、さのへ申勧弟子に致し、其節者登山・浴水之儀計を教置、未だ不伝法候得共申合せ、当表へ引越、さのと相隔借宅致し、此者儀も、明神下しと号し人集いたし、さの方へ頼参候病気加持・吉凶オープンアクセス NDLJP:110未然の儀、始終死亡新助を以頼越、此者蔭に成、邪法修治を以、加持判断致、儲銭の配当致し来候処、さの執心厚不動心之修行相詰候を見届け誓を致、此者貢る伝法通、さのへ猶又秘授致候。同人儀終に邪術に通、八重等を先に遣ひ、無跡形も儀申、加持等を為勧、人々心取失過分之金銀・銭・衣類差出候様成行、右を掠取、師恩為報と、新助を以て此者へ相贈、猶又此者ゟ貢へ配当致候始末にて、兼て貢等申合せ、弟子に邪法を為弘掠取候金品は、先繰次第贈に師匠へ貢致候巧に相当り、其上当表へ引越候当座、藤蔵并嘉兵衛小児等之病気を加持致し遣候手続を以、藤蔵名前人に相成候儀、承知之趣嘉兵衛を申偽、同人下人之姿にて、当時借宅偽之家号・名前差出候に付、藤蔵他町に於て、両人別に相成候仕儀に至候段、不恐公儀仕方、女之身分にては別て大胆之至、重々不届至極に付、塩漬之死骸、大坂三郷引廻之上、磔にかくる者也。

 京都八坂町 陰陽師豊田貢丑五十六歳。貢の罪状


此者儀、女之情に外れ、不思議之事を行ひ人を驚し、都鄙に名を揚げ度と、初念之心得違ゟ、稲荷明神下しは戯同様と相卑み候処、わさ方にて出会し、死亡軍記儀厳敷他言差留、妖術を以、此者妬敷存候者之姿を見せ候に付致感心、其節切支丹之邪法と未承候得共、軍記軽卒に難伝法を伝授可受と、夜中滝へ浴水に罷越、心を固め候上、天帝之秘法と申儀承り、銀子差出し、軍記所持之天帝画像を拝し、神文之心得を以て、指の血画像へ濺かけ右を念候。陀羅尼之唱様、其余病気加持金銀等集候修治は不申、妖術中之印文迄密授受候後、浴水・登山不動心之修行致、新に家宅を構明神下しに託し渡世とせい、始軍記指図とて異成神諡を、此者取抜候。神体無之稲荷を致社号と其上染物にも異紋を付、天帝画像代りに仕組有之、三像之画を表具にいたし、追々此者病気加持吉凶之判断致的中候を、きぬ羨、秘術受度旨申候に付、登山・浴水之修行を教、不動心を見極め誓を致、軍記を頼み、きぬにも天帝画像に血を濺がせ懸候上にて、軍記ゟ伝法を通、猶きぬへ致密授、同人終に邪術通し、於当表弟子を祓先に遣ひ、無跡形儀・加持等を為勧、人々心を取失、差出候過分之金銀・銭・衣類を掠取、さのゟ右金子をきぬへ配当致候に付、同人儀も師恩報として、此者に右之内を相贈貰候上、さの掠取候金子之儀、不存との申分難取用、兼てきぬと申合、弟子に邪オープンアクセス NDLJP:111法を為弘掠取候金子は、先繰次第贈に、師匠へ貢為致候積に相当、其上最初わさ頼迚同人娘とき、此者に随身修行不致を憤り、人外之致折檻、又は喜之進を浴水場へ連行怪事行、其上母兄致難儀候得共見捨不救、自分却て年来天帝を念じ、邪法之修治を以、病気之致加持等、望之通見通しと被呼、不想応之栄耀に暮候始末、不公儀仕方、女之身分にては別て大胆之至、重々不届至極に付、大坂三郷引廻之上、磔に掛る者也。

 摂州西成郡曽根崎村 病死伊良子屋植蔵〈藤井右門事〉

此者儀、植蔵の罪状非分に閥閱致し度心得違ゟ、真言宗咒文等学び、歓喜天を修治致候得共、現法無之を迂遠に存、死亡軍記に及相談候処、抜群之事業を遂候も、金子無之ては難叶との邪論に被惑、厳科に被行候共、白状致間敷旨之神文血判を軍記へ相渡、天帝画像を拝、右を念候陀羅尼之唱様・浴水之修行等を秘授受、剰切支丹に付御制禁南蛮人著述書中之儀を、軍記ゟ講釈承、右宗門は邪ゟ正敷に入候抔、一己之了簡を付信仰罷在候次第、女房にも始終押包、軍記方へ折々罷越候節は、医用にて京都へ往来いたし候体に取繕、且軍記申合、同人之致師匠顔みつぎり、酒宴振舞を受、其後も遂に浴水不致候共、歓喜天に託して天帝を念候上者、持病に困修行難出来、及老年後悔と之儀は難取用。右始末不公儀仕方、重々不届至極に付、塩漬之死骸大坂三郷引廻之上、磔に掛る者也。

 松山町 高見屋平蔵丑四十八歳。

此者儀、平蔵の罪状法戒難保還俗候共、素之禅学修行長老格迄致登職候身分にて、正邪之弁別難出来上、不敵之根性有之ゟ心得違、死亡軍記講聞候。切支丹に付制禁南蛮人著述書之義理を尤と存、儒仏之可及者に無之抔と、一己之了簡を付、厳科に被行候共不申旨致誓を、軍記所持之天帝画像を拝し、指之血画像に濺かけ右を念じ、陀羅尼を唱様浴水之儀迄秘授請置、此者致所望候妖術を、軍記相行候に付、弥〻致感心、易道伝授受間可敬旨、女房へ偽之儀申渡、始終切支丹之儀者押包、殊に軍記長崎へ罷越候留守中、妻子世話迄引受遣候上、此度吟味に付、軍記自筆之宇姿うずめと申成候天帝画像を焼候上者、衣食之手当難出来に付、浴水修行不遂、其上色情深く天帝を念候オープンアクセス NDLJP:112実心散乱、致後悔候との儀者難取用。右始末不公儀仕方、不届仕極に付、大坂三郷引廻之上、磔に掛る者也。

 堂島船大工町岡本屋民蔵代判平右衛門方 同家病死顕蔵

此者儀、顕蔵の罪状死亡軍記に交り天帝を祭、耶蘇之書藉等を同人ゟ譲受候儀無之候共、此者不欠落已前、珍敷書藉を嗜、御制禁と乍心得耶蘇類を求置、医術修行之助にいたし度迚、今以所持罷在候次第、并此者乍内々題号を付、耶蘇之著述抔拵、其上居所不知旅僧ゟ踏絵写等を貰置候次第、一体難心得心底、御制禁を不用候段、不公儀仕方不届至極に付、塩漬之死骸大坂三郷引廻之上、磔にかくる者也。

 丑十二月

右天草此方の事なりとて、大勢右御拾札を写取り、種々に切支丹の噂をなせしかば、大勢召捕られ大いに叱られ、中には一両日入牢せし者などあり。予は大和屋林蔵より借りて、之を写し置きぬ。別けて公になり難き事なれば、必ず他見すべからず。こは後年に至る迄、予が家心得べき事なれば記し置く者なり。

十二月廿一日、切支丹親類の者十七人召捕られ入牢せしが、何れも永牢の由なり。切支丹行ふ者共、其罪三族に及ぶといふ。浄光寺梵妻退去後、尊光寺にて十七人召捕られし始末を語りしを聞けり。

     御触

切支丹宗門之儀者、従先前御制禁、今度於上方筋右宗門之由にて、異法行ひ候者有之、即被厳科候。就而は右宗門之儀、弥〻可御穿鑿之条、銘々無油断相改、自然疑敷者有之者、早々其筋へ可申出。品に寄御褒美被下、其者ゟ仇をなさゞる様に可仰付候。若見聞に及びながら隠置、他処ゟ顕はるゝに於ては、其所之者迄も罪科に可行候。

右之通、従江戸仰下候条、此旨三郷町中可触知者也。

  寅正月  伊賀

       山城

                北組総年寄

オープンアクセス NDLJP:113
 
浮世の有様 巻之二
 
 
御蔭耳目 第一
 
 
 
抑〻伊勢神宮伊勢外宮豊受皇大神宮は、天御中主神と仰ぎ奉りて、則ち国常立尊を祭り奉るとぞ。尊は吾邦始祖の御神なれば、諸人の之を敬ひ奉りて、参詣まゐりまうづるも理りにこそ。内宮は天子の宗廟なれば、庶人の参詣づべき処にあらず。そが故に中つ世迄には、之を禁ぜられし事の有りしかども、塵に交りぬるも万民を恵み給へる神の御心なればにや、神徳の日々に新なるにぞ、諸人も深く尊敬し奉りて、遠き国々よりもぬけぬけに詣でぬる事にありしが、後には今の如くあらはに詣づる様になりぬ。乱れたる世には、如何に思へるもせんすべなき事にありしにや、未だ御蔭てふ噂を聞ける事のあらざるに、御蔭参りの濫觴当御代になりて其事の始まりぬ。其様本文に出づるが如く、一天下一時に動き立ちて、伊勢に詣づる事にぞありぬ。「来る卯の年こそ、明和の御蔭参りより六十一年に当れる事なれば、又其事のありぬべし」と、近年専ら言囃いひはやせしに、今年に至り睦月むつきの末頃よりして、関の東より動き立ちて、大勢参詣をなし、近江なる水口みなくちの辺迄も群集甚しくして、外に往来する人も是にさへらるゝ○さへらるゝハ支ヘラルヽノ意程にありぬとて、其辺の人の予に語りしが、三月末つ方迄は、未だ御蔭てふ噂はなかりしに、阿波一国動き立ちてより、其事よとて世間騒々しくなりぬ。予思ふに、去る子の年には、筑紫に始まりて、越の国・関の東に至る迄、国々に種々の天変地妖ちえう並び起りぬるに、昨年も亦江府に囘禄の患ありて、其災毎に死せる人数十万、幸に死を逃るゝも、皆其難を蒙る事にあれば、何れも神に祈願せざる者なく、穏にして事なき国々も、かかる大変を聞くに就きては、身の安らけきを悦び、尚は長久に全からん事を思ひて、神明に祈りねぎぬる心を生ぜざる者のあらめや。然るに去年は年もゆたかにして、伊勢には御遷宮まししに、兼ねて指を折つて人々待ちわびぬる御蔭てふ年の近づきし故なるべし。されども其年といへるは、来れる卯の年なるに、それをも待たオープンアクセス NDLJP:114で、今かゝる事ありしは、ことし三月に閏月ありて、民の暇多き故なるべし。神の御国に生れぬる身の、神明を尊み奉りて、伊勢へ参り詣でぬる事、其理りにはあれども、かゝる時には、九重の都も天離あまざかひなも、一連に動き立ちぬるも、皆貧賤にして己が力にて詣で難き者共の、時得顔して駈出づる事なるに、富貴の身を以て何時にても心の儘に詣でられぬる身の、此等と共に浮かれ出づるは、をかしきわざにぞありぬる。家に在りぬればとて、病める時には病み、死する期には死し、又思はざる災難受くる事も常の習にはあれども、かゝる時に浮かれ出づる身の、途中にして病に臥し、又は浅ましき死をなして、親にも子にも憂目を見せて、其処をも騒がせ、世間よりしては神の納受なかりしにや、神罰蒙れるにやと、種々の浮名立ちぬるもあはれなる事に侍れば、此度途中にて変ありし事を参詣せし諸人に問ひ、有りの儘に書付けぬるも、幸にして予が家、後の世迄も続きぬる事あらば、子孫の心得にもならんかとて、是を記し置きぬ。

   四つの海の浪たゝぬ世に生れ逢ふは是ぞ誠のおかげなるべし

凡てかゝる実事を記せるに、詞の花を思ひぬれば、却つて実を失ひ、又実に過ぐる事になりぬるに、こは家に留めて箱の中へ打入れ置きぬる迄の事にして、異人ことひとに見せんとてにはあらず。殊に賤しき者共の、人の施しを目当に、杓ふりつゝも乞食参りする様を記しぬるに、詞に花せんとて心を煩はせるも、をこの業にあれば、只聞けるまゝを記して、書き損じぬるをも改めず、事の同じきも少し異なれる処あれば、後よりこれをかい付けて、事の重れるが如し。又滑稽・流行歌等を記せるも、浮きたる業にはあれども、能く当時の有様を記せるにぞ、後年に至りても御蔭参おかげまゐりの有様を知るに足れば、これを咎むる事なかれ。

本津草・日本紀・東慵子・癖物語を初に記しぬる事も、伊勢御蔭参り等の事によりどころあるを以てなり。後に当時寺々の不如法なるを記せるも、又趣意なきにしもあらず。

御蔭参り見聞する処の眼目を記せるにぞ、思はず紙の数重なりて、一つの巻をなしぬるにぞ、耳目とは題しぬ。

本文の中へ、虚に吠え実を伝ふが如き奇怪の説、二つ三つ書入れぬるも、全くこれをオープンアクセス NDLJP:115信ぜる故にはあらず。当時の有様を知らしめんと思ふが故なり。

明和の御蔭参りには、浪速にては施行軒別にせし事なれども、人の門へ立つて米銭乞へる人一人もなく、まして檜杓などを持てる者は更になかりしと聞くに、此度の御蔭参りには、門々へ立てる者至つて多く、相応なる身のまはりせし人も、杓持たざるは一人もなし。人気の異なる、これにて思ひやるべし。背に負はれ、又手を引かれぬる子供等迄、手毎に杓を以て施行を受くる事なれば、能くも其味を覚え、成長の後に至りて、天晴あつぱれの乞食となれるものも多く有るべし。御伊勢参り御報謝、抜参りに御報謝、今朝より食を喰はず、何にてもたべる物をなど言へるさま、真の乞食・非人も三舎を避けぬべく覚ゆ。此の如く一天下動き立ちて騒々しき折には、風水・地震其外種々の天変地妖あるものなり。兼ねて此等の事を能く心得て、心ある者共は其用心をなせること肝要の事なるべし。

   善きうちに悪の萌すと知れよ人あしきは善きの裏と思ひて

 
                                        
 
 
内宮外宮の事
 
内宮

内宮 度会郡宇治五十鈴河上

 祭神  天照皇大神。

 相殿 在 天手力雄命。右 万旛豊秋津姫命。

神武天皇造帝宅於橿原時以来、天照大神鎮‐座于内裏〈瓊々杵尊伝来三種神器奉安。〉崇神天皇六年〈凡五百三十余年後。〉殿、和州笠縫里立神籬、使皇女豊鋤入姫命護之。 〈内裏則更作三種神宝之、為永代宝祚守護。〉其後倭姫命相代勤之、任神勅遷‐幸諸国処々凡十余度。〈詳日本書紀。〉垂仁天皇廿六年冬十月甲子鎮座以来、為不易宮所

 天手力雄命、〈思楽尊之子。〉戸隠大明神是也。

  大神籠天磐窟時、八百万神奏神楽、此神排磐戸

 万旛姫命よろづはたひめ〈高皇産霊尊之女、〉一名栲旛千千姫たくはたちゞひめ。天忍穂耳尊之后、乃瓊々杵尊之母也。

左右相殿神也。旧相殿二神、〈天児屋根命天太玉命〉外宮鎮座以後、為外宮相殿

外宮 度会郡沼木郷山田原

 祭神 ​豊受大神宮​​名天御中主神​  国常立くにのとこたち尊是也。

オープンアクセス NDLJP:116 相殿 ​右 天児屋根命 興台産霊命之子天太玉命  高皇産霊尊之子。​左 天津彦彦火瓊々杵尊、吾勝尊之子、即天照大神之孫。​ ​

天照神大自帝宅笠縫里〈崇神天皇三十九年〉幸丹波吉佐宮よさのみや時、豊受大神宮降居一処、合明斉徳焉。歴四年而天照大神復遷和州伊津加志本宮。豊受大神亦復昇高天原。以神影宝鏡居吉佐宮焉。天照大神亦其後遷宮于諸国十有余度。〈垂仁天皇二十六年〉鎮‐座勢州宇治焉。〈雄略天皇二十一年十月朔日〉天皇蒙豊受大神於一処之神誨、勅大佐々命之、 〈二十二年秋九月十六日〉宮山田原。且託宣曰、先祭豊受大神後可仕我宮也。因茲于今諸祭事、以外宮先。〈自内宮鎮座四百八十二年後也、〉

 両皇大神宮御神領高不詳。

  祭主、一人、総官〈姓大中臣、氏藤波。在京掌両宮之大要、又奉禁薬内侍処事。〉

  宮司、三人、大宮司・少司・権大司、〈姓大中臣氏、河辺、司両宮神事。今唯一人。〉

  禰宜、〈内外各十人、〉長官内各〻一人。〈十人中任一ノ禰宜者、是也。為宮中万事長。〉

  権禰宜、〈外宮度会氏。内宮荒木田氏。〉 物忌、大内人、小内人、〈各数十人、姓氏彼此。〉

   右出于和漢三才図会

本津草に曰く、世に牛玉と書く事、生土といふ事にして、産土うぶすな神の事、神祇拾遺に見えたり。此神の地にて生れし故、身の安全を守り給ふ。一代の守本尊とは産土神の事なるを、人皇九十五代後醍醐天皇の御宇乱世の頃、武蔵国立川有信といふ陰陽師と、真言宗小野の文観と、高野の宥寛といふ僧と、三人寄合ひ、立川流と名付け、神と仏とを入交へ新法を編みけるを、或は伝教大師・弘法大師などといひなし覚えたるこそ、本意なき事なり。凡そ五六百年已前の名僧は、仏は仏と立て、神は神と別別に立て給ふ事明白なり。彼立川流偽作して、仏を一代の守本尊といひ、又其内へ神と仏と入交ぜ迷はす。釈尊は此世を捨てよと説き給ふに、此世を守り給ふとの道あるべきや。是を実と思ふぞ、余りくらき事なり。辱くも我国は、尺地も国神の地ならずといふ事なき験残り、産土祭うぶすなをせざる所なく、いとも畏き天照尊より、国国・郡県・村邑へ諸神達をすゑ置かれ、人民を夫々の受込にて守り給ふなり。一代に一度なりとも、宗廟天照神へ歩行をなし、拝礼奉る国憲なりと云々。

オープンアクセス NDLJP:117 五瀬大神神武天皇猿田彦命 天鈿女神 三座也。

神楽とはかみくらの略なり。くらとは神の座し給ふ所なり。中臣祓に、「千くらの置座」とあり。馬乗に尻居うる所にあるを鞍といひ、資財入るゝ所をも蔵といふ。日本紀に曰く、「素盞嗚尊の悪しきにより、天照神巌戸に入り給へば、常闇となり、諸神集まつて歎き給ふ時、鈿女神玉串を持ち、神楽を奏し手をのし舞ひ給ふ」。此のてをのしのてと、たは音通ず。みは助字にて、たのしみといふ。其時天照神巌戸を少し開き給へば、人の面白々と見ゆる、おもてのてを略しておもしろといふ。世上に此楽を忘れず思ひ出せよとて、伊勢より御祓を諸国へ賦るぞ。御師とは吾国道を人々へ教ふる師といふ事なり。常々此楽を知り、万の事に足る事を知る時は、其分限相応の富めるといふものなり。世上御祓をくばる人も受くる人も知らず。此足る事を知る時は、上を望まず飾りなく、夫々の業にて入を考へ出すを計り、驕なくせば神意に合ふべし。貧は貧ながら餓ゑず寒からず、意を常にゆたかに楽を知る時は、外に道を聞く事なく清かるべし。皆人六欲に引かれ、濁る気になるを神へ訴へ、此五行を清く成して給べと頼み奉れば、内外清浄とて、清には清集まりて、内に邪気の引入すべき濁なく、意ゆたかなれば、外も静かに、苦しむ事なく、寿命延年なり。万国共に夫々に頭ありて、其上に国王あり。吾国は天皇の上に別に日神ましまして、日神も外宮を先にと国常立神を戴き給ひ、上を残して充満たざるやうの御教とぞ。

同書、日本媛命窟隠まします時に曰、

吾今雖神城、非外往於茲。従武姫天皇〈神功皇后也〉異国人来。其人者中且有人魂竭、神魄既帰亡、是吾国怨神威者、伊瀬大神中坐大殿、是吾皇祖皇鼻磐余彦天皇也。〈神武帝也〉吾奉之、常恒鎮座守日祚、永護国民、恭衛吾国強瞪他国負、余雖婦人守若四守、若有国急予見婦形国人等時、諸神司知国急猿女君神楽、奉五瀬大神、是以知人魂神魂共不_尽。〈上下文略。〉

右伊勢名所図会・和漢三才図会等に出づる所と異なる故にこれを記す。

中古天子・親王の外は大神宮を祭るべからず、春日大明神は藤原氏に限るべしとのオープンアクセス NDLJP:118御触ありしといふ。余はこれにて知るべし。

東慵子に曰く、抜参の意義の一説「伊勢大神宮へ参宮に限り抜参といふべし、外宮は豊受皇大神宮にてましませば、参宮も苦しからず、内宮は宗廟たれば、猥に参宮する事を禁ぜらる。必竟外宮へ参宮の序に、抜けて参るゆゑなり」と、先師原田越斎子は申されき。是主人・父母の前をぬけ参るにあらず、全く官府を畏み奉り、ぬけて参るゆゑにぞ、斯くはいひ来ること久しとかや。

癖物語とて、種々の事を書ける文の中に、神にも御願参とて、遠き田舎の果て迄もゆすり動きて、昼とも夜とも、食ふとも食はぬとも、男も女も老も若きも、童らも田かへす牛、垣守る犬も、物のうつゝなく吾一と詣づるが、道に病倒れ果敢なく哀なる事を見聞き、又人の妻、かしづける娘など、はてはよからぬ風説ども出来て、やうやう物懲りして、さる事ありしとも思ひ出でぬ世とさめはてぬ。〈○頭書此物語の作者は建部綾足といへる国学者なり。〉

右は宝永・明和の御抜参りを書ける事と思はる。今目のあたり御抜参りとて人々浮かれ行く有様を見るにぞ、昔の事をも思ひやられぬ。

明和の御抜参りを記せし書は、この書なりて後に見当りしかば、この巻の始めに綴ぢ入れぬ。故に予が聞書せしとは意味の少しく違へるが如き処あり。文面の相違せしとて、これを咎むる事なかるべし。

玉勝間とて、伊勢の本居宣長が著はせし書の中に云はく、「或る物に宝永二年、伊勢の大御神宮に、宝永御蔭参りの人員御抜参りとて国々の人共夥しく詣づる事のありし。其人の数をつぎつぎ記したるやう、四月上旬より京并に五畿内の人ぬけ参宮といふ事あり。閏四月上旬より記す所、初は一日に二千・三千の間なり。十三日より十六日まで十万人に超えたり。十七日より漸々減じて、又廿四日・廿五日は三四万人なり。夫より大坂へうつり、廿六日・七日には五六万人づつ、廿八・九日は十二三万人づつ、五月朔日より七八万人づつ、三日より十二三万人づつ八日頃よりいよ熾なり。十六日には二十三万人に及べり。これ前後の最上なり。其後漸く減じて、同月末には一万人計りなり。閏四月九日より五月廿九日迄五十日の間、凡べて三百六十二万人なオープンアクセス NDLJP:119り」と記せり。又同じ物に、享保三年春の頃、詣でし人の数を記したるやう、「正月元日より四月十五日迄、参宮人凡て四十二万七千五百人」と記せり。これは世の常の事なり。

〈[#図は省略]〉 オープンアクセス NDLJP:120 〈[#図は省略]〉

オープンアクセス NDLJP:121
 
伊勢参宮ぬけ参り善悪教訓鑑 
 
 
神有りや、信徳ありや、正に今年諸国より伊勢大神宮へ抜参り多き事、天の岩戸開けそめしより此方の事なり。施行があれば貰ひ人もあり、鸚鵡石・二見の浦、表なき正直の操、田から行くも、磯辺から行くも、信心に二つなく、朝間の山より御恩徳の高天ケ原を謝し奉らんと、愚の筆に御神徳・御利生の数々を書綴り囀りたるは誰そ。宮雀。

 作者 夏木隣

 
ぬけ参宮といふ事は、何れの頃より始まりしや、其来由は知らず。往古天正の末に、京都より大抜参ありたる由、古老の噂聞伝へたるのみなりしに、宝永二年酉春、抜参宮多くあり。然れども京都・大坂のみにて、しかも子供がちにて、老若男女参りたる事にもあらず。明和八年の御蔭参今年明和八年卯春、御神徳の事ありしとて、丹後国より夥しく参り始め、夫より丹波、又山城の南淀・八幡・伏見・京へ移り、四月下旬は三条・五条通布引にて、南北の往来心に任せず。京中の富家所々の太々神楽講中より、笠手・しまござ・草鞋・草履・銭・紙・扇子・食べ物、思ひに持出し施行する。道中筋伊勢まで、思ひ思ひの進物、詞に述べ難し。裏屋住居の其日過しの衆中は、脊に子を負ひ、懐に抱き、七つ八つ位の子供を始め、男女限りなく手を引合うて、著の身著の儘にても、橋迄行けば早旅姿と変ずる事、雀が蛤、芋虫が蝶に成るよりも早し。素より一銭の貯へなき者も、御祓其外土産物随分滞りなく買調へ、めでたく無事に帰国なすに、牛は牛連れ、馬も犬も申合せて参りたりとの噂。さて四月下旬には大坂へ移り、和泉堺・河内・津の国・播州尼崎・兵庫・備前・紀州などの国々一向引きもきらず。大坂は勿論、南都・大和・伊賀の道筋、其外所々施行あり。くらがり峠も提灯にてあかければ、坊様もオープンアクセス NDLJP:122出て懸引の世話をし給へば、御祓が天降り給ふやら、餅売が犬と嚙み合うて御礼参ぢやのと、道中はどつさくさ、つかもない評判も、万人の口に戸が立てられぬ、向珍らしき事なり。五月上旬は大津・伏見・京都施行の駕籠・馬、食べ物の施行の具引きもきらずめざましき事、これ神国のいさほし有難き事なり。今年は取分けめでたき年なるに、かく参宮の多き事、和国の規模きぼともいはんか。殊に丹後国は皇大神宮旧地にて、今にあれます土地より参初めたるは、さりとは争はれぬ事なり。さて日の本は神の国にて、御裳みもすそ川の流れに育つ我々なれば、年に一度は歩を運びて、神恩を謝することなれども、家職暇なければ、せめて遥拝なりともして、神徳を仰ぎ奉るべき事なれど、夫も叶はぬ身の、かゝる治世の折生れ合せて、路銀もなく旅具並に世話する人もなけれども、定まりし日限には自然と帰る。参れば一家・一門・親・兄弟は逆向ひとやらにて、酒飯をおのが国の伊勢近き方へ持出で、旅中恙なきを悦ぶ、往来筋野山は立灯灯に昼を欺き、風呂して湯に入れば髪月代さかやきもする人あり。肩に棒置き其日すごしは手足の御奉公なり。もと駕籠も色々の道具にて拵へ印にのぼり、夜に入れば角灯灯ともしたて、其乗手の勝手々々の宿所まで送り届くるなど、殊勝さも詞に述べ難し。利生咄も数々あれども、噂のみにて眼前に見ねば慥ならず。俗説にて針が棒になる世の習なれど、それも則ち利生にて、諸人感ぜしむること神徳共いふべきか、弥〻心を神に打持たれ、只正直の頭に神も宿り給ふなれば、主親の心に背かぬやう公の掟を守り、家業大切に慈悲・正道に代を過さんこと、誠に神慮にも叶はんか。道中筋も参宮人は随分大切に世話する事なれば、此度の如き大参りには、宿家は手も届かず。殊に田丸あを・伊賀越などは、別して平日とも不自由の土地なれば、なほ難儀したる人もあるべし。野宿又は食事に飢ゑ、子は親にはぐれ、親は子を尋ねさまよふなどの類粗、多くありたる由、此節の群集なればある筈の事なり。足の達者の衆は、夜通しに行くもあれど、何の障りもなく、其人に一人悪者に路銀を取られ難儀する人もあれど、又施受けて是を補ふ。所々庄屋・名主などよりも、随分大切に世話あれば、かどはかしの噂のみにて、何国の子が未だ帰らずとの急度したる沙汰もなければこれも虚説多し。五月節句過より大坂・兵庫堺・紀州、其外諸オープンアクセス NDLJP:123国の下向大津へ出で、追分より伏見へ直様出で、夜船に乗らんと行く人押も分けられず。それ故大津には白粥施行今に絶えず。四の宮芝居又は近処の寺地などへ一宿させ、朝出立まで施して立たすれば、門には早施行駕籠・馬の類ありて乗せ行く。醍醐にて継ぐもあり、藤森にて代るもあり、京橋船場へ付くるもあり。又伏見には施行船何艘もありて、食事させて直様下る人数いくらとも知れず。大坂・伏見より施行船凡そ十二三艘もあり。又直に愛宕へ参る人も半分あり。是も同じく馬・駕籠に乗するなり。又東山見物の人は、白川橋筋・縄手筋にも馬・駕籠・喰物・湯風呂・味噌汁等の施行夥し。取分け十三日頃には、四条縄手辺の髪月代の施行、目を驚かす事なり。月代其外思ひの施し物持出で、吾劣らじと辻々・家々に充満せり。三芝居よりは三宝荒神の仕立馬何疋ともなく、駕籠は一向数知れず。大和橋には餅・団扇・恵比須の社内に握り飯、大仏正面には三日が間に米五十石余握飯にしてやるやら、其外処々諸国の施行、数も限りもなし。前代未聞の事どもなり。伊勢道中関より神前までは御地頭様より御下知下され、馬・駕籠の直段高直に取るまじき旨、松坂には馬・駕籠賃定めの制札もあり。只高直なるは草鞋・草履なれば、此砌京都より多く持出して施行あり。頂上草鞋一足廿四文も出せし人ある由、此外色々の珍説あれど、強ひて見聞せざれば爰に洩らしぬ。誠に有難き時なり、御代なり。仰ぐべく敬すべき事なり。      聞及びたる施行物品書

一、馬、三宝荒神、駕籠、 伊勢宮川より御神前迄、大津より京・伏見まで、其外大坂所々にあり。
一、牛車、上に日覆を拵へ 大津より京迄、車一輛に廿七八人計り乗せ、
一、六銭・十銭・十二銅、或は銭二十銅・三十二銅なり。 京都太々講中、其外所々。大坂さる方より五百貫千貫出したる由。伊勢並に諸国にあり。
一、笠・草履・草鞋、 京三条・五条橋通へ持出で、大坂・闇り峠迄の内所々、伊勢亀山よりも持出施行、其外所々多し。
一、劒先御祓、数限なし 御神前にて、
一、団扇、 大坂・堺・京所々、
一、握飯・餅・赤飯等、 京都所々・大坂所々・伊勢道中所々、
一、素麺、五千把、冷して 山科・千本松にて京講中、

オープンアクセス NDLJP:124此外金銀借付頼む人もあり。はつたい・煎物・塩煮・空豆・扇・即功紙・竹の水呑・三尺手拭、大坂にて施行あり。是は子供背負ふ時の抱へ帯なり。提ぢやうちん・紙類、大坂通り筋には町一ぱいの紙細工にて、鳥居建置き、幾所ともなく大小の施行物、一向筆紙に記し難く、爰に止む。

     京参宮人凡その積り書、

一、四月十六日より  五千人計り 一、十七日      六千四五百人 一、十八日      五千七八百人 一、十九日      六千三百人余 一、二十日      九千六七百人 一、廿一日      二万二三百人 一、廿二日      一万九千人 一、廿三日      一万四五千人 一、廿四日      一万人計り 一、廿五日      九千人余

  〆凡十万千四百人計り、右京計り。丹波・丹後・若狭は外なり。

     大坂道より南都へ入込候人数覚、

一、四月廿六日 千三十人計り 一、廿七日  四千二百廿人余 一、廿八日   一万三千七百五十余 一、廿九日  九万七千三百人計り 一、晦日    七万九千三百計り余 一、五月朔日 十一万二千六百人計り 一、二日    九万二千三百人余 一、三日   十二万五千人計り 一、四日    一万五千七百五十人計 一、五日   十八万三千七百五十人余

  〆七十二万四千百五十一人

   右は大坂・堺・河内・和泉・紀州・兵庫・明石・姫路・摂州播磨、総人数なり。

抜け参宮御蔭参といひて、大神宮御尊前へ向ひ奉るに、家来は主人に暇を乞はず、子は親に断りもなく、妻は夫に沙汰なくして、銭金路用の物も知者・近付の方へ頼めば、外の事とは違ひ、早速受合ひ差出し用達て遣す事は、さりとは不思議気疎けうとき次第なり。しかも留守中大事に宮巡の日は鰹鱠の祝儀など取繕ひ、逆迎ひ等にも其身分オープンアクセス NDLJP:125相応に酒肴を持出し祝ひ悦ぶ事ども、これ神国のしるしにて、神明の御知らせ何とも評し難し。さりながら篤と勘弁して見給へ、神は正直のかうべに宿り給ふなれば、家来が主人に暇も乞はず、家業の間を欠き、子は親に断りなくて帰るまで、いくせの案じをさせ、妻は独旅して夫に疑ひの念を起させ、貧なる者は借りたる金銀返納にさしあたり難儀などするの族多し。これにても御神慮に叶ふことや知らず。さりながら、参りもせずして其参詣しぬる人を難評打つ人よりは遥かましならんか、利をいへばいはるゝ物なれば、何であらうと参詣をせんと志したる人は、主・親・夫に暇を願ひ、道連れも慥かなる人と連立ち、心正しく行儀に道を立てゝ参詣せば、愈〻明神の感応も深かるべし。又主・親・夫たるべき人も参詣せんといはゞ、少しの隙は用捨ありて、心よく遣し、銭も乏しからぬやうに渡し、参宮致さすべし。然れば船と水との如く淀む事あらじ。とてまゐらさせんから、おこつての抜け参り、根が神路山の麓に茂る蒼人草なればなり。併し此度路銀もなく、うか旅立ち、食事・宿・草履・草鞋の類に手つかへ、難儀したるは不覚悟故なり。夫故此節は旅行く者段々道中筋へ持出して、不自由なき様に世話するは、滅多にかうべに宿る増血の多いせんさくのやうに聞ゆれど、ならう事なら血を多くしてなりとも施したきものなり。つゞまる所神仏の御教化も、善を勧め悪を懲らすの外他事なし。家業大事に正直・慈悲に主・親に忠孝をなし、兄弟一家睦まじく天命を伝へて、高天ケ原へ抜け参りなし給へとこそ願ふ事なり。

  明和八年卯六月吉日

抜け参り善悪教訓鑑大尾

 
明和八年御蔭耳目
 

嗚呼大なる哉東照権現の徳、昇平二百余年万民其沢を蒙る。爰に天照皇大神宮は、吾国の宗廟にして、神徳日に新なるがゆゑに、天下の人伊勢へ参詣する事、常に絶ゆる間もなき事なりとぞ。然るに二百余年の間に、天下一統にこぞり立て、伊勢へ詣でぬる事三度に及ぶ。宝永明和の抜参り其始めは宝永二年の事なりしが、其頃は只抜参りと唱へしオープンアクセス NDLJP:126に、六十七年を経て、明和八卯年四月頃より御蔭参りと称し、其家々を著の身著の儘にて抜出で、各〻杓を振り〈一説杓持ちたるは一人もなしといふ。〉参しが、四月中旬の頃より数万人に及び、五月に至り浪速玉造へ出で、奈良街道へ赴く者十一万に余りしとぞ。此の如くなれば、若きも老も差別なく、幼子を負ひ、手を引きつゝも、後には家々を閉ぢて、家内残る者なき家の多かりしとぞ。此の如くなれば、道々施行あり。浪華にて軒別にせし事なりといへり。其時の有様を南久太郎町どぶ池の南角なる、大和屋清助といへる者の妻の親なる者に聞きしに、此者十四歳の時に抜参りせしが、道々の施行至つて多く、草鞋一足三銭なりしが、此頃の銭相場銀一匁に付き八十三文のよし、伊勢より帰りて後、あちらこちら歩きぬるに、「何によらず施物与へん」といへるにぞ、恥かしき事に思ひてこれを断り、「我は伊勢参りにてはなし」とて逃歩きしに、追かけて懐袖等へ無理に押込みしとぞ。

此時処々に大神宮の御祓ふりしといへり。大神宮の御祓降るされどもこれは人の作り物にて、天より降るべき物に非ず。伊勢より飛ぶべき事に非ず。かゝる事こそ神明の奇瑞を顕さんとて、却つて神徳を損ずるに似たり。其外犬・家猪の類ひ、伊勢参りして御祓を首に掛けて帰りぬるなど、不思議の様にいひぬれども、此等は其処々の人に従ひ行く事なれば怪しむに足らず。初の程は施行多かりしが、後には米銭につき、其事の成し難くて、抜参の弊害遠国より抜参りせし者、多くは飢に疲れ、病臥し死せる者多く、又は悪漢にかどはかされ、見目よき娘などは遊女に売られ、或はなぶり物にせられ、或は夫ある女も己が儘に抜出で、道にして不義等の事多かりしとぞ。かゝる中にもあはれなるは、女の乳子を背ひ、六七歳なるを連れて抜参りせしが、病死せしか飢ゑて死せるにや、道路に倒れ死ぬるに、乳子はこれを知らず、乳に吸ひ付きて泣き、年かさなるは、母の死せるを悲しみぬる、目も当てられぬ事なりしとぞ。今年百日に近き旱りなりしが、民等之を患とひせず、野に出で働きぬるが、鋤・鍬を田畠へ投げ捨てゝ、其場より抜参りして人々夢中の如くなりしが、稲枯れて株より芽を出だし、米よく熟して十分に実入りありしとぞ。此等は全く神徳の然らしむるなるべし。此時御蔭参りと称し、一番に阿波国一統に浮かれ出で、天下に及びしといへり。〈〔頭書〕一には丹波より始まりくといふ。〉オープンアクセス NDLJP:127
 
文政十二年伊勢大神宮正遷宮行はる
 
正遷宮文政十二年己丑年、伊勢大神宮正遷宮にて、三日の間神事ありて、禁裏よりも御勅使立たせ給ふ。参詣夥しく群集して、百十八万余り、宿の泊るべきなくて、多くは野宿し、詮方なくて昼夜の分ちなく歩行きぬる者も多かりしが、神事の式をがまんとて竹垣に登り付きぬるに、中には弥が上に落重りける人多く之あり。死せる人三人といへり。
 
 
 

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