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浮世の有様/1/分冊2

目次
 
 
文政十一年の変異佐賀城下の混雑稲荷明神の霊験同神記遠藤某危難を免る有田皿山の惨状大野島の被害佐賀城附近の作物被害下の関の惨害従来伝説の迷信佐賀の被害状況
 
佐賀城下の惨害武富と強欲と仁慈の池田両家手代の論争武富の家破壊せらる小倉城下の被害福岡の被害柳川久留米の被害大村城下の被害平戸城下の被害長府家中の才智島原天草の被害伊万里の被害鍋島の三家鍋島の三家老多久殿の政道天変の兆諸国の洪水長崎の大風九州の大風下関の大火筑前の大風中国の農作被害蘭船破損并に船中御改筑前の大風両越後の大地震下関大風の書状長岡城下地震の被害江戸の大火焼失の町名並に大名の邸宅植田原八の書状江戸大火の図大火の御救小屋場所附救助寄附の人名織物売出の広告角力組合
 
オープンアクセス NDLJP:49
 
前代未聞実録記 
 
夫人間は、一生の内に歓楽苦痛ありと雖も、唯虚々と暮しける、其中にも、至つて嬉しきと苦しきとは、いつ迄も思ひ出すとあり。爰に大坂今津氏〈○頭書に、今津は白子町、加島屋万兵衛なりとあり。〉

何某といふ家に、肥州御国産陶器御蔵元を年来勤めけるに、国元より御用ありて、名代に岡氏〈○頭書に岡といふは、万兵衛手代にて此書はこれが記せるなりとあり。〉何某は、米田氏〈○頭書に、米田これも万兵衛手代なりとあり。〉何某を召連れ、文政十年亥八月より下りける。既に御城下佐賀本庄町御役宅に御留仰付けられて滞留す。鍋島の永詮議とや、翌年子九月迄、退屈と雖も詮方なく逗留しける。其訳は略すなり。滞在の内に未だ曽て見ざるの事あり。文政十一子年八月子日夜子の刻に、九州の国々より防州迄、大悪風の大変あり。是前代未聞なり。世上にすべて実記録ありと雖も、夫は面白くも亦をかしくも、書伝へりと雖も、其元を知らず。此書は我が六十余になり、現仕身の難に逢へりたる儘〔〈の脱カ〉〕事に候。文盲なれば面白からずと雖も、知りたる事のみ書記し、若き人も世界の因果を見て、心オープンアクセス NDLJP:50得にもなるべきやと思ひ、末世の人に書残し置く者なり。我又此難に逢ふと雖も、神仏の恵を給はりてや、危き命を助りける。其後はすゝきの穂の動くにも恐れあり。神仏を常に願ふより外はなし。地獄を此世にもありと思へば、恐しき者とやいはむ。只何事を慎むのみと願ふ者なり。恐るべしと云々。

  文政十一子仲秋下旬 ​浪花​​  無学舎一瓶書之​​ ​

 
前代未聞実録記 巻之上
 
 
文政十一年変異
 
 

抑文政十一戊子八月九日夜九つ時より、九州国々北東の風吹出し、段々と厳しく吹きあらし、文政十一年の変異雨は霰の如く、天は一面に電光火いなびかりの降る如く、地震は世界を覆す如くなり、夫より段々と風は辰巳へ廻り、強く吹きける。民家の瓦まくりたて、藁葺のくづやのたちけは悉く倒れ、或は潰るゝ事数知れず、隣家の人々家の建物に打たれ、死ぬ人もあり、怪我して逃去るもあり、老若男女童迄歎き泣く声哀なり。何にか譬へ難し。猶も風厳しくなり、未申へ廻りて吹立て、大海よりは津波つなみ出でけるにや、川川大洪水となりて、川辺大道へ二尺計りも水上り、逃行く方もなかりける。岡氏滞留しける役宅亭主永淵何某、御目附役西目筋へ御用之ある由にて留守中、今一人の米田氏は、有田皿山に用向ありて他出す。家内は女三人に二歳になる女子、男たる者なき故、岡氏は途方にくれ、迚ても家の内に居ては命危く思ひ、大切なる物取出して風呂敷に包み、雨合羽に書物を包み、蒲団二帖以て〔マヽ〕家内の女子・幼子つれて、裏にありける畑の中に野宿一夜して、やう命助りけると、なげきの中の悦限なく、野宿の内にも所々出火ありて、夜の明くる迄其苦しき事、何にか譬ふべき方なし。翌十日朝五つ時分に風も静まり。旅宿の近辺一町計りの所、漸々五軒家根はまくれながら家は残りあり。其内のいつけ〔〈ん脱カ〉〕は御役宅にて旅宿なり。不思議に家の残る事、是全く日頃祈念し奉る神仏の御利益ありけると、猶も神仏の御恩の程、有難しといふも愚なりける。扨又御城内・其外御家中の屋敷、凡そ七分通は建家倒れ、御城下町屋凡そ千軒計り倒れ、残りたる家も残らず家根まくれ、土蔵造の家は瓦悉く吹散らオープンアクセス NDLJP:51し、往来する事相成難く、諸人難渋するなり。同十日にはや御上より、先づ第一諸人の飯米御手当ありて、佐賀城下の混雑御城下町々、其外在方百姓、米囲ひ置き候か、又は買持ち居候者是ありや、御目附衆所々御吟味出張ありて、少々たりとも自分の儘に売買致すべからずと御手当ありて、悉く員数御改め御封印御附け置かれ、困窮の者へ売渡し候節其升数何程、名前等書記し置き候様、急度御渡され候事国中なり。既に御城下町町倒れ家或は死人家の者共中へ、都合三百石御救米早速下され候。其外在々へも夫々御救米下され、其後御蔵囲米を以て、御売米直段、一俵三斗入代銀二十四匁二分の定 〈筑前・久留米・柳川右三箇所平均直段なり。〉御売渡し之ある旨仰出され、大守様にも諸人大変に付きては難渋致し、至つて死人又は倒家の困窮人之あり候事、不便に思召され、近年御勝手はむづかしき御なかなれば、先以て御手元より金三千両、国中ごく難渋の者共へ御合力金として下置かれ、尚外向よりも追々吟味を遂げ、御沙汰あるべくこの趣、御国中御触流し之ある事、深き御憐愍有難き事なり。爰に御家老多久美作殿、当年十八歳なりけるが、至つて才智にして賢君なり。十六歳の時より御頭職となり、御政務方御政道正しくして厳重なり。当節迄老いたる者も恐れたる事限りなし。其趣意略す。今度九日大変ありしより、翌朝より御自身は朝夕は食事粥にして、一人にても我が身を慎み、諸人の助にもなるべしとの事、御仁心恐るべし。国中酒造方其外糀屋迄、当時造り方仕入御停止の趣仰出され御触あり。右の外にありと雖も、書記し候事略するなり〈○頭書に文政十亥年の事なりしが、家老初め勝手方の役人大勢、上の金を取込み、年来不埒せし事共相顕れ、家老・用人・元締等七八人切腹申付けられ、夫々其科に行はれしといふ此時家老の内にも、切腹を恐れ逃出でし者などありしかども、之を追ひかけ取巻きて、詰腹を切らせしもありといふ。此時蓮池侯の計らひにて程よく納まりしといふ。其上にてかゝる天変に及びぬるに、多久美作政権を執つて之を取鎮め、諸人を屈伏せしむる事、未だ蜀冠にも至らざるに、器量ある人と思はるとあり。〉多久氏御若年の御智恵にあらず。唯人にてはあるまじ。是は扨置き同十二日朝、誰ともなく「大海より津波出でたり、早く退けよ」と言触らしけるにや、此事御城内へ聞えけん、諸家中大に驚き、大守様始め其外出馬の用意ありける。御城下町々の人々、御先へと退行く人数限なし。中にも老いたる親を背に負ひ、或は子をだき抱へ、或は著類を風呂敷に包み、又は食物を持出す人もあり。北山指して終には金毘羅山或は金龍山迄逃げたる人多かりけり。 〈此金毘羅山迄御城下より二里あり。金龍山は金毘羅川より五十町北の山なり。〉或人のいはく、中佐嘉といふ所に正一位稲荷大明神の社あるなオープンアクセス NDLJP:52り。是は近年諸人信心して願懸くる時は、何事によらず。成就せずといふ事なし。夫故御社造り、稲荷明神の霊験其外神主家なども結構になり、別けて社は高き所にありけるに、今度の大悪風大変たりとも其難なく、諸人羨みて平日信仰の者、神力守護なきを歎き、神主に神託を願ふ、神主明神に祈念す。其時神託あり。「今度大悪風大変ある事時節なり。日本〔〈は脱カ〉〕神国なり。此大変前に知り神々諸人を憐み給ひ、悪風を鎮め給ふ事、言語に述べ難し。神々御苦労ありし証拠は、諸神社の御神体にあり。之を拝み上れば悉く御神儀血汐に染まりあるなり。疑ふべからず。神々の中にも正八幡宮別けて御苦労ありけるなり」と神託ありけるとかや。同神記又豊前国宇佐八幡宮神馬、五十日以前より行方知れず、不思議にありし時、三十日計りして神社へ戻りける。諸人之を見るに、総身所々に疵あり。不思議に思ひ神主へ神託を乞ふ。神託の告あり。「世界おぼ〔マヽ〕る時節来〔るカ〕是末世に至り、人気悪しき故なり。之を前に知るにより、龍宮界〈○頭書に、龍宮乙姫の説は、全く浮妄の説なり。番頭殿の浮説を信じて書かれしとあり。〉に至りて乙姫に談ずと雖も、時節到来なり。神力を以て覆る事を鎮めたり。乙姫の曰く、諸人驚〔くカ〕大変三度ありといふ。此事鎮まる迄慎むべしとありけるとかや。必ず疑あるべからずと」いふなり。国中大小の神社を見るに、今度の大悪風に社の倒れたるもなし。家根の損じたるもなし。是不思議なり。恐るべきなり。又爰に不思議あり。遠藤某危難を免る御城下より東に高尾といふ所に、遠藤何某といふ人あり。所々へ買積の商人なりけるが、其頃酒・塩を仕込みて、百二十石の船に積入れ、八月七日夜、諫早を指して船を浮めけるに、其夜石塚といふ所迄行きけるに、汐は引汐となる故、此所にて船懸り居たりて、船頭二人は寝入り、我も暫くまどろむ。空中より誰ともなく、「船を浮めよ船を浮めよ」と、いふ声して起しける。不思議ながら船頭を起し、船を浮むと雖も、干汐にて浮むる事叶はず。斯かる所へ時ならぬ満潮となり、又もや潮に逆らひ出づる事ならず、如何せむと思ひしに、不思議に北風吹出〔すカ〕、是幸と帆を上げて船をば出しにける。潮に逆らひながら、帆に風の含みし力にで沖へ出でけるが、浪は高き故に、船を亀ケ浦といふ所へ付けよと言へども著くる事叶はず、風に任せて竹崎といふ所へ著けたりしが、此所も高潮にて危き事もあらむと、翌八日に諫早へと又船を出しけれ共、浪高くオープンアクセス NDLJP:53行く事叶はず、茶山といふ所にあり。〈此所茶を作る。〉之を目当にやうと船を著けたり。此所山手にて船附悪しけれ共、人々を頼み、積みたる荷物悉く水揚して、船に船頭二人残置き、知辺の方へ荷物を預け、此所に逗留したりける内、九日夜大悪風なれども其難を遁れ、浜にありし船は如何あらむと、風鎮まりて彼方へ行き見れども、津波出で其あたりに船見えず。南無三宝船も人も行方知れず、うろ尋ねる内、岩と岩との間より呼ぶ声聞えける。見れば尋ぬる船見えたり。嬉しやと辿り寄り声を懸くれば、彼方よりも声を懸けけるに、不思議や船も無難にして、人も無事なり。大に悦び限なし。此人信者にて常に神仏を信仰しける御利生とぞ思はる。又此後に不思議なる事あり。是は下の巻に委しく記す。是も扨置き、此先に米田何某は、八月八日より有田皿山に用向ありて、袈裟次郎といふ男一人連れて、又佐嘉の城下を出立す。此道筋に志田山といふ所にて用事ありて、武雄の宿に一夜泊り、明くれば九日、此日至つて暑き日なり。有田皿山の惨状漸々昼八つ時分に皿山青木氏の宿に著きにけり。其後四つ時頃より辰巳の方より大悪風吹出し、家毎々々に戸を吹散らし、家も崩るゝ如くにてさも恐ろしき次第なり。子の刻頃岩谷河内といふ所より出火ありけるが、風は強く吹立ち、雨は頻に降り、火は風に任せて飛廻り、天より火の降りし如くなり。地震は天地をも覆さん計りなり。川は大洪水となり、退行方のきゆくかたもなかりけり。此皿山といふ所は、山中にして谷底の如き地面なり。〈南北一筋道なり。東西山なり、川あり。〉さても米田氏は、今日来りし夜から、斯かる大変あり、大きに驚き、持来りし荷物を袈娑次郎に持たせ、我も遁ぐる用心をして、青木氏〈此人も大坂にありけるが、用向ありて爰に逗留しける。〉の荷物肩に乗せ、北の口へ遁出で武雄道へと行きけるに、道々に家倒れ、はや火は家に燃上り行く事叶はず、後へ戻るなり。伊万里道筋ありし故、行きける所へ、青木氏家内の蒲団・蚊帳・其外帳面・書物持来り、「何故後へ戻るや」と尋ねける。「最早彼の道へ行き難し。伊万里道へ」といひ、共に行きけれ共、遁ぐる人々押合ひ圧合へしあひこけつまろびつ人の上へ人重り、行く事叶はず、右手に烟あり。漸々其所迄退行きて持ちたる物を下し置き、青木氏は袈裟次郎連れて後へ引返して、戻りける道にて亭主に出合ひしが、亭主は女房と簞笥を荷ひける故、夫を青木氏と袈裟次郎として荷ひ取り、畑中迄持来る。亭主もオープンアクセス NDLJP:54女房も又引返し、手に当る物取出しける。青木氏〈○頭書に「青木は弁右衛門といひて、今里和歌山の支配人なり。当所布屋町に住して陶器登りぬれば、立会ひて問屋加島屋万兵衛方へ引渡す目附役なり、予此人と心易さにぞ、大変に逢ひし様を委しく聞けり。外にも云々の咄あれども、事煩しければ之を略す」とあり。〉は其儘後へ引返し行きけれども、はや家に火移り、詮方なく皆々畑中へ来りしが、此所も風下にて、火の子霰の如く降りければ、此所にも居られず、あなたを見れば山手に拝殿あり。八幡宮の下の宮なり。先此方へといひ、此所にて漸々息をつぎにける。されども風下にて山手なれば、火の粉と煙り雨風吹込み、拝殿はゆらとなり、生きたる心地もなかりける。皿山を見れば一面火の煙となり、人々歎き叫ぶ声山も崩るゝ如くにて、是ぞ八難地獄の責なりけるや。我も漸々此所迄は退きたれど、此の拝殿も亦倒るゝか火も移りけるやと思ひ、此所にて死するも因縁なれども、二百里隔て鎮西にて死ぬるも残念と、身も声も震ひながら、南無阿弥陀仏々々々々々々と計りにて、恐しかりける有様は、何にか譬へん方もなし。あたりの人の面見れば、人間の色はなかりけり。夜の明くるを待兼ね、漸々と夜も明くれども、煙と雨風にて行くべき方もなし。詮方なくも此所に居たりしが、漸々と風も少しは鎮まりにける。此嬉しさの余り、心に浮むに任せて一首を爰に記す。

   弥陀たのむ心の底にさだむれば袈裟も命も有田山なり

と、此時生帰りたる心になりぬれど、二人は昨日黄昏に食せし儘なりければ、腹もへりたり、足も立たずといへども、此所にいつ迄居ても詮なし。是非なく青木氏に別を結び、帰る道も武雄道は未だ火も所々に飛火にて燃えあり。先づ伊万里道宮野といふ所迄行きて食すべし。夫より武雄道あり。之を便りに行く道すがら、在所々々は家倒れあり。見ながら漸々宮野に来りしが、此所に川あり。是も洪水にて太股ふともゝ迄水ありけれども、近在より皿山へ見舞に行く人多ければ、人々此川を渡るを見て、我も渡りける。此所にて食をせむと家々を尋ぬれど、此辺も風にて家根めくりあり。或は皿山よりげ来る人々家々に居ければ、一飯を乞ふと雖も、答ふる人もなし。斯かる所へ老女一人来り、「旅の人なれば嘸や難儀にありつらむ」とて、其老女の宿へ連れ帰り、食事をふるまひくれられしは、有難かりけり。夫より武雄道へと行きけるが川あり。〈此川もゝの川の上にて、幅十五間計りなれど深きなり是も洪水なり。〉水高き故渡り兼ねたる所オープンアクセス NDLJP:55へ、百姓一人来りていふ、「此川渡る事あるべからず」と止めける故、又元の道へ戻り、伊万里へさして行きける。道筋川々高水なれども、伊万里より皿山へ見舞に行く人、数珠を繋ぎし如くなれば、人の渡るを力にて我も渡り、七つ時分に、伊万里藤野氏といふ所に著きて一夜泊りける。此家にも皿山に縁家ありて、見舞に行き、帰りて咄しけるは、「皿山焼失の家数凡そ八百五十軒あまり〈皿山千軒の所なり。焼失残百五十軒なり。〉死人も百人計り」といふ。泉山といふ所に十軒余、岩谷河内といふ所に四十軒余、白川といふ所に百軒程焼残あり。土蔵なども焼失して、漸く十箇所計り残り居候噂なり。死人の内、井戸へ遁込たるもあり。土蔵へ入りて出兼ねたるもあり。親子兄弟とも死したるもあり。或は遁道なき故、煙に巻かれたるもあり。因縁とはいひながら哀れなること言語に述べ難し。扨翌日十一日に、伊万里を出でて佐嘉に帰りて、此事咄さんと思ひ、又伊万里は東西南北山ありければ、漸々五軒計り、端々はしに家倒れある計りなりければ、有田皿山辺の事にて、佐嘉御城下などは何事もあらむと思ひ帰る道筋、川々大洪水なり。常に水なき山川も、水出で、北方といふ宿迄〈伊万里より五里半なり。〉十三の川あり。太股迄水あり。もゝの川といふ所へ来り、漸々此所にて噂を聞けば、佐嘉も御家中屋敷・御城下町々家倒れ、往来もなり難きといふ。之を聞きて又びつくり、岡氏は如何あらむと、道を急ぎ帰る道筋、行逢ふ人に尋ぬれば、「佐嘉の町は家なかりける」といふ。猶も心ははやれども、往来筋は大木倒れ家も倒れて道あしく、川は水高し。足は血汐に染みたる如くにて、痛みながらも北方の宿迄来りしが、此宿 〈家数百軒計りありといふ。内九十軒計り倒る。〉建家大道へ倒れ、屋根の上を漸々通りける。夫より往来筋宿々・在々家倒れある事、其家数知れず、又死人見る事、或は牛馬死したるも数を数へ難し、憐なりける事限なし。爰に又伊万里より大黒屋の何某といふ人、佐嘉迄用向ありて行きける故同道す。此人も、有田皿山辺計り悪風吹きけると思ひしに、道々噂を聞けば、佐嘉より南海辺は、津波の出でたる由を申すを聞きて案じけるは、此人娘眼病にて、此春より諸富といふ所の下に大野島といふ所あり。〈離島で柳川領なり。〉此島に眼医師ありける故、療治養生に遣しけるが、其辺も危く思ひ、道々も案じ行きける処に、北方の宿外しゆくはづれにて大野島の人に面見合せ、〈此人、娘を預け置く宿の亭主なりけるなり。〉大野島の被害之はと計り後の言葉もなオープンアクセス NDLJP:56かりける。大黒屋は「娘は無事か」と尋ぬるに、彼人、「御娘子は御無事なれど、老女様は死骸が知れず、御娘子様が泣いて計り御座る故、医者殿がマア駕に乗せて送りませといはしやる故、其手当しても人がござりませぬ。金銀づくで人雇が出来ぬ訳は、九日夜大風吹き、夫から大高汐で津波が出ました。所の堤より上へ八尺計りも汐が上りました。家の流れた数は知れず。医者殿は少し高い所故、家は残りましたが、皆々命から漸々と助かりましたが、又其夜私が家も危き故、〈医者の所より一町計り隔て、此家に娘十八歳にて眼病故、大黒屋の出入老女ー人・下男一人附けて介抱人にして逗留す。〉医者殿方へ逃げて行かしやれといひても、達て老女と男衆が気遣きづかひないと、片意地にいはれますれど、おまへ様から預りました故、若もの事がありてはどうもいひわけがならぬ故、家内の者を連れて、御娘子を私が脊に負うて、医者殿方迄退きました。其後は間もなく家も流れましたが、男衆はをのこ丈で、表の柿の木の大木に登り付いて居られたを、人々朝見付けて助けましたが、気の毒〈[#「毒」は底本では「毎」]〉なは老女様、アヽ不便な事でござります」といふ。大黒屋はびつくりしながら、「娘無事にてマア嬉しや無事で」と計り、後は出兼ねたる有様なり。「何にもせよ伊万里に帰り、駕の用意もして迎に参りませう」といひて、二人連立ち帰りける。扨も米田は、始終の様子を聞いて、共に涙を流しける。漸々黄昏過に佐嘉本庄町旅宿に著して、何は扨置き、岡氏の無事、殊に家も家根もめくれ、塀も倒れたれども無難なり。互に面と顔とを見合して、「先づ無事々々で」といふより外に、暫く言葉もなかりける。岡氏は「昨日皿山焼失の噂を聞きて、如何と案じ居れども、今日も帰らず、明日は人でもやらうと今も其事咄した所、マア怪我もなし」と悦びける。米田も此家に別条もなく、互に無事を悦び、二百里も古郷を隔て、二人其日に限り十一里も離れて、此大変に逢ふ事、殊に火・水・雨・風・地震・津波の難恐しき事いひ尽し難く、夫より日々に物語せぬ日はなかりける。又風吹く度毎、胸はどき餌づき、戸障子の音にも驚き出づるも理なり。扨又御国中在々所々、津々浦々山手迄も、悪風吹かざる所はなかりける。御城下南にあたり大託間といふ所あり。此所の土居筋、津渡・高汐たかしほにて切込きれこみ、其辺の新田に汐流れ入り、田作は勿論、家々迄大に損じたる多し。又諸富といふ所は、大船の入りある津なり。此所も土居より上へ汐上りオープンアクセス NDLJP:57て家流れたるもあり。都て家の床より三尺計り汐上りける。船々破船の数・死人数も多かりけるが、千石積の舟土居より外へ吹上げ、汐引きたる後にて畑中にありて、此舟海へ入る事なり難く、難渋するなり。其外津々破船あるは略す。都て遠在の事は噂のみ聞く計りなれば、是も略するなり。御城下近辺の田作を試し見るに、早稲は取入れたる所もあり。佐賀城附近の作物被害中稲は四五分作なり。晩稲は二三分作なり。平均四分作位になるべし。国中に古米又は麦・かこひ米ありけれ〔〈は脱カ〉〕来年の作迄は、国中の人渇命に及ぶ事もあるまじと雖も、百年の昔に大飢饉ありける時よりも、優るべしといふ。又長崎も同じく大悪風津波の大変なり。此年は肥州の御番なり。所々御番所・御屋敷・町屋倒れたる事数多し。〔堀〕御手当役船数百艘破船す。其外所々よりの繋船かゝりぶね悉く破船す。船に乗り居る人々死ぬる者多し。又は船に取付き命から上りたるもあり、大きに騒動す。扨又唐船三艘の内、一艘は無事なれども、畑中に打上げければ、地面掘り海へおろすなり、二艘は打割れける。又阿蘭陀船は稲佐いなさといふ岩山に吹上げられ帆柱折れたり。船は無事なれども山にある故、海に下す事なり難く、紅毛人工夫していひけるは、「船の〈幅九間半長サ廿九間。〉外廻に土俵を積み〈高サ二丈、廻九十間。〉中に汐を汲込みて船をうかし、土俵を切つて海へ下す」といふ。此人足賃諸入用銀五十貫目に請負ひけるといふ。阿蘭陀屋鋪ねぢれける。砂糖蔵は海へ地面とも砕け流れたり。斯かる大船を山に吹上ぐる事、未だ曽て見ざるなりけるに、泉州堺の船一艘、無事に残りある事不思議なるべし。下の関の惨害又下の関町家倒れたる事多し。浜辺土蔵も潰れたる数多し。湊に船懸り居る大小の船四百艘、悉く破船す。其中に紀州塗物商人、船に荷物を積み九州筋へ下りけるに、此所に此夜懸りけると雖も、若や風も吹出すべき雲も見えけるにや、「危き事もあるまじきや」と船頭に尋ねけるに、「格別の事もなし」といへる故、船を出でて知る人の宿に泊りけるに、既に其夜大悪風となり、夜明けて船のつなぎ居たる所へ行き、見れどもなき故、方々尋ぬるに、似たる船少し見えける。其所へ立寄り見れば、大船の打割れたる中へ、入子いれことなりて船のとも少し出でて、其跡へ又大船打割れながらもたれあるに、船は無事なり。荷物も其儘無事にあり。四百艘の中に此船一艘残りたるも不思議、又此人の運の強き事稀なり。爰に又志田西オープンアクセス NDLJP:58山といふ所に、松尾正左衛門といふ人あり。焼物師なり。松寿丸といふ二百石積の手船に、陶器荷物千五百俵計り積みて、大坂へ登せり。是に為替金、訳ありて岡氏、米田氏と熟談して取組みけるにより、七月中汐より塩田津を出帆して、下の関迄来り、此所にて順風を待つべしと繋り居けるに、此夜の大悪風に破船す。紀州の塗物商人の運とは、誠に天地の違なり。又人の説あり。下の関米商人仲買、今年土用冷気にして天気悪しくありけるにや、九州筋は米凶作もせると思ひてや、米を数万俵買持ち居たるに、土用過ぎて暑も強くなり、九州筋は豊作す。殊に二百十日も廿日も風も吹かず、米相場段々と下落す。大きに損金となりける時、昔より言伝へけるに従来伝説の迷信「大蛇の形を造り、蠟燭に蛙の油をかけて灯し海に流す時は、龍神之を嫌ひたゝりあり。其時大風吹出づるなり」といふ事聞伝へり。八月八日夜、下の関辺の海に流れあるを見たる人ありといふ風説なりといふ。是は只悪説か。実説なれば大なる罪なり。己の利慾に迷ひ、数万人の渇命する事を知らずや。儘に〔マヽ〕は天罪を蒙むるべし。慎むべき事なり。爰に肥州佐嘉鍋島御領内にある事のみ記すと雖も、遠き所は今に見聞行届かずといふ。八月晦日迄佐嘉御役所へ訴へ出でたる事を書写し置くなり。

     肥州御国主佐嘉領の部左の通佐賀の被害状況

、死人   八千五百五十八人    怪我人  八千六百六十五人

倒家   三万三千四百九十軒   半倒家  一万四千五百六十五軒

家根捲  三万軒余といふ     焼失家  千百七十三軒

破船   百五艘破損修理に懸る船は除きあり。    橋落   二百五十八箇所

土居切れ 二百九十四箇所此門数合一万二千二百七十五門といふ

山崩れ  二千八百二十八箇所   石垣崩  七百間余といふ

倒木   廻り一丈以上、以下は除きあり 三十二万二百九十五本小木到れ数多く数へ難く数知れず

水下田畑荒地 四千四百十一町一反

砂下田畑荒地 千六百十町八反

牛馬死    七百五十三疋

右の外に、小城領・蓮池領・鹿島領は、分地故除きあり。又深堀領は遠在なる故、今にオープンアクセス NDLJP:59知れず除きあり。肥前の国たりとも、他領は除きあるなり。

     佐嘉御領分、但し三家・三家老の領分は除きあるなり。並に神社・仏閣・諸家中・人別除きあるなり。

、家数合八万軒余ありといふ。人別四十万人余といふ。

御城下家数九千九百九十五軒といふ。〈但町屋計り〉

町数十八町に枝町あり。合せて九十町といふ。

町人別当十五人にて兼帯あるなり。

御家中屋敷御城内にて、其外小路といふ所々にあり。其外御親族方・御家老方・御家中御知行所・御領分中所々之ありといふ故、爰に書記す事略す。


 
前代未聞実録記 下之巻
 
 
文政十一年変災
 
 

既に大悪風大変ありて、夫より御家老中を始め、日々・夜々国中の民百姓、渇命せざる様御手配おてばりありて、其御苦労限なし。はや諸国より大変を幸に、盗賊数人入来り、徘徊する事知れり。御上より厳重に御役人の手配ありて、追々捕へけるなり。是は扨置き、九州国々便ありて聞えける。何国も大変は同じ事なり。日向国は今年七月二日三日、大風・津波の大変あり。又豊前中津御城下は、同時二丈余の洪水あり。薩摩・肥後・豊後は、難なきと聞えたり。肥前の国より筑前・豊前・周防・安芸の国まで、八月九日の大悪風の大変なり。其中にも、筑州御城下福岡に同夜出火あり。又久留米御城下にも、家数百軒余焼失。其外津々・浦々の難船ありて、人死ぬること数知れす。何れも御城下・在々家倒れたる事多かりけるとなり。佐賀城下の惨害扨も佐嘉の御城下・在々迄、国中家の倒れたる事一統に斯くなりければ、行くべき方もなく野宿する如くなり。日を経てやうと古柱を取集め、仮家を建てけれども、家毎々々なればわらもなし。加勢の人もなく、女童迄打寄りて建てぬれば、又風吹かば危き事あらむかと案じ暮しける所に、又同廿三日の丑の刻過より〈八つ半なり。〉北東風吹出し、次第に厳しくなりにける。諸人大に驚き騒動する内にも、倒れ残りたる家又は仮屋に住みける人々、有合ふ材木にて、家毎につゝぱりしけるにや、倒家は少しと雖も、男たる者なき家、又オープンアクセス NDLJP:60其用心せざる所は、悉く家倒れたり。家根吹捲りたる事、国中一同にあらしける。僅に十五箇日目に、又斯く悪風吹きける故、九日の大変よりも、猶心散乱するも理なりける。其夜は家の内に居る人もなく、皆々外へ逃出で、雨風に揉れて一夜は明しけるが、翌廿四日の朝辰の刻過に〈五つ半時なり。〉風も段々と南へ廻りて、悪風になりてやうやう鎮まりける。夫より同廿七日の夜迄、毎日々々風あらふきせぬ日はなし。同廿九日に大雨降りて風も収りて、暫くは心もゆるみたる人もありけるが、倒れたる人々又困窮なる者に、御城下の町人の内分限者、或は仁心カ信ある人々より身分相応の施行・介抱米・金銀銭、不同ありと雖も夫々施しけるに、慶長町に至つて、富家に武富八郎治といふ者あり。〈御用達して米仲買なり。〉此人強慾人なり。武富と強欲と仁慈の池田当時も米一万石程も買持ちあり。今度大変あるより、諸方の大豆或は塩に至る迄、夫々手附銀を渡し置き、買取り置ける身代柄にて、米一粒も施す事なき故、諸人気立ちけるなり。爰に又御城下今宿といふ所に、池田儀平といふ町人、是も富家なり。同じ商売仲間なり。〈御用達なり。〉此家の手代と武富の手代と論あり。〈上の巻にある御米直段三箇所米相場平均して、仲間より定むる。〉池田の手代いひけるは、「今度大変迄は米一俵三斗入代銀十八匁三分に、売直段定め申合あり。今又九州大変ありて、両家手代の論争他国相場上りたるとも、諸人渇命に及ぶ時節に、代銀廿四匁二分に売る事、諸人気悪しかるべし。我が主人も買持米ありと雖も、諸人の助にもなる事なれば、其利欲は望あるまじく」といへば、武富の手代は聞入れなく、御売直段も定りけるが、主が主なれば家来も家来なり。儘に〔まゝ〕は主家の難儀となりける事は、此続に知れり。扨池田の手代は、主家へ帰り始末語りけるに、主人も仁心ある人にて、大に手代を誉めけるとなり。〈此人の近辺穢多村あり。此村家悉く倒るゝに、家毎金二歩宛施し、又町内隣町倒家に米半俵宛。〉施行介抱米二百石、困窮人に施すといふ。同廿五日大託間堤・土居御普請ありて、〈大変に付土居切込公役に町に出づるなり。〉此日六座町に公役当りて出づるに、〈此町倒家多し。困窮人も多しといふ。〉此日に武富八郎次〈町の別当役なる故出勤。〉普請の場所に居る役人足の者、働き往来毎に八郎次の身体に泥を塗りてける度毎に、「一俵三十匁の米買ひてはくらへん」といふ。〈武富八郎次家にては、米一俵三十匁に売る故。〉〈[#「富」は底本では「当」]〉同廿六日夜数百人思案橋といふ所にて勢揃あり、諸人気立ちてや、近辺の家々に米搗の杵或は斧の類などを門口に出しあり。又近所の家々よりも、倒れ家の古柱など持出して、数百人八郎次が家の前オープンアクセス NDLJP:61に詰懸くる。又今宿〔のカ〕池田方へも数十人行きて、「米を売りくれよ」といふ。手代聞きて、「何程なりとも売渡すべし」といふ。「皆々困窮すれば今夜米出しくるゝや」といふ。「大変にて各〻は御難儀気の毒に存ずれば、只今にも米は渡すべし」といふ。「直段は何程なり」と尋ねければ、「御上の定の通にして、一俵に付き廿三匁と」いふ。 〈御売米高直の風説ありて、此日より廿三匁になる。〉「今夜は代銀持参せざる者もありければ、四五日の内代銀揃参るべし。若し夫迄売切れては、貧窮の者は渇命すれば、参る迄はのけて置きくれ候や」といふ。「囲米置きたる米沢山にありければ、其御気遣あらず。何時にても売渡すべし。斯様の時の為なりと」いふ。皆〻悦び一礼述べて立帰る。扨又八郎治が家に、一人内に入りて「米を売りくれよ。直段は何程と」いふ。手代出でて、「一俵に付代銀三十匁と」いふ。「夫は大に高直なり。御上の売直段は廿三匁なり。夫でも我等は貧窮人故、買得んからどうぞ廿匁に負けてくれい」と雖も手代聞入れず、互に理屈をいひ合ひ、廿三匁に直切りて代銀相渡す。手代は代銀を請取り米預を書認め、「明日渡すべし」といひければ大に腹立ち、「大切なる金を取置き明日渡す程なら、今夜は来らん。食ふ米がなき故」と、大声揚げていひければ、表の方より二三人内に入り「我等も売つて貰ひたきが、直は何程」と尋ぬるに「手代が廿三匁」といふ。皆々口を揃へて「風前は十八匁位、其直に売つてくれい、貧乏人故金は持たぬ。何程なりとも此著物を質に取つて、足らぬ丈は貸にして、今夜は米一俵づつくれい」といひて、裸になり大声にてわめきける。此声を聞いて、八郎次は障子を開けてのぞきける。之を見て表口より大勢の人々見付け、「あの親父殺してしまへ」といひ、内に入り用意したる柱・棒などにて打懸くれば、八郎次は〈六十余、質物も取るなり。〉驚きながら怒りけるを、娘走り出でて抱込みて、奥の間へ逃行きける。大勢一同になりて、手に懸る物を打倒し打割り、石瓦を打懸け奥へ奥へと入りける所に、八郎次が一類居合ひ、狼藉者なりと〈此人侍なりける故大小あり。〉刀を抜いて打つて出でければ、大勢の人々、戸或は襖にて打押へもぎ取つて、刀は縄の如くねぢ折りける。其身は半死半生にて、命から退きたり。又手代共其外家内の者共、手槍或は突棒さす又持出で向ひけるに、大勢の勢に恐れて、裏道より残らず退き出でたり。武富の家破壊せらる大勢の人々は、思ひに手に懸り次第に打砕き、帳面引出して引きさきオープンアクセス NDLJP:62ける。金銀入れある箱も打砕き、撒き散らしけるは、山吹の花の散る如くなり。家も風に倒れたる如くに見えける処へ、何方より聞えてや、盗賊方御役人大勢引連れて出張あり、「鎮まれ」と下知ありければ、大勢は引退きける。初手に来りて米買の手段の者は残り居る。其者共を呼出して御糺ありければ、「我々は米を買に参りし者、余り高直なる故掛合ひ居る内、外より大勢入来り、斯くなる訳は存じ申さず」と返答したれば、御役所へ召出されけるが、何の御答もなかりける。夫より八郎次方の囲米は、御土より廿三匁にて御売渡に相成なり。扨も八郎次は、情の心は少しもなく強慾なる故、諸人之を憎み、誰となく人気立ち騒動する事、自然の道理なり。金を儲けるにも、人の難儀にならぬ様に勘弁をすべし。無理非道なれば必ず其報ある者なり。之を思へば情あると情なきとは、池田と武富との始終を見れば知れり。返すも慎むべき事なり。八郎次は御役所へ訴へけるは、金三百両〈百両包三ツなり。〉二朱判七十両〈十両包七ツなり。〉質方金七両、外に正銀〈是は高知れず員数無にして、〉米筥裏書なし。八百石其夜紛失したる趣、願出づるなり。其後評定所に召されて御糺しありけるに、米筥は簞笥の二つめ引出に入れあると断りけるより、御疑もあるにや。全体強慾なる事も、兼ねて聞えけるにや、評定所に留置となりて、土蔵は御封印付置きたり。御城下諸人是を聞きて悦び限なし。穢多・非人に至る迄、「気味よき事なり」といへり。浅ましき事なるべし。小倉城下の被害扨又豊前小倉御城下も、九日の夜大悪風同じ事なりしが、又同廿三日の夜、大悪風段々強くなり、明日朝卯の刻〈六ツ時なり。〉は時分より西風厳しく吹立ち、沖よりは大津波の如く高潮となりて、御城下東の入口大橋御門近辺は、家の床の上に上りける。諸人大に騒動す。老いたる者女童ははや遁出で、大里といふ所の後に、安達山といふ大山あり。是へ皆々登りけるといふ。又御城下の西町御城内に遁入るといふ。家々の男たる者は諸道具を片付け、追々遁出でたるなり。福岡の被害又筑州御城下福岡も同じ大高汐となり、川と海と一同になりける。九日の大変よりも勝りたるといふ。若殿様、翌朝より御領分を歩立かちだちなされ、僅の御供廻召連れ御見分あり。御城下其外遠在迄、困窮の者へ御救米を下され、御囲米を一俵代金一歩宛に御売渡あり。又御自分は、是迄小鳥類を好み給うて名鳥飼ひある〈金千両程の価なりといふ。〉を、此時節には慰にあらオープンアクセス NDLJP:63ずと、御出入の鳥屋を召されて仰せけるは、「価僅たりとも、是を飼置く事奢なり。何れともよきに計らふべし」と、鳥類を残らず御預けありけるなり。御若年なれども誠に恐入りたる賢君なりと、人々有難く思ふなり。柳川久留米の被害又柳川御城下始め在々家倒れ、浦々に破船数多し。大守様直に御歩行ありて、御救米の御憐愍あり。御囲米を一俵二十目に御売米となり。都て御憐愍も深き事限なし。久留米御城下も家倒れ、又焼失もあり。御領分に家の倒れ多し 若津といふ所に、先年鉄屋庄助大なる御米蔵を建置きけるが、今度の風に倒れ、高潮にて地面も半分計り潰れ海へ流れたり。少しの御救米はありと雖も、御憐愍もなかりけるや。御城下に米売直段は、一俵代銀三十三匁より三十五匁位に、商人売り居ると雖も、御政道もなきといへり。大村城下の被害又大村御城下、去る亥の年十二月廿五日四分通焼失す。其時大守様、直に御見分ありて、家別に御救米、其外身分相応に夫々御拝借下され、御憐愍も深かりける故、早速仮屋建揃ひしに、今度の大悪風に悉く倒れたり。又も太守様、自ら歩行立かちだちにて御見分あり。倒家の人、雨露に打たれけるを歎き給ひ、御手船の笘或は筵などを取つて、船は濡るゝとも人の難儀を救ひける。夫より御領分残らず御見分あり、格別の御救米其外御憐愍あり。町人・百姓に至る迄、御仁心の程を悦びけるとなり。平戸城下の被害平戸御城下始め在々迄、是も家倒れたるも多し。早岐といふ所にて懸り居る船四十艘あり。其内七艘は無難なり。後は残らず破船す。〈神宝丸船油清船なり。無難の七艘の内なりといふ。〉爰に又長府の御家中に何某といふ人、大坂より下の関渡海の早船を借り切つて下りける。此船に下積に木綿入荷物九荷あり。〈大坂和泉屋佐兵衛荷物。〉防州室津といふ所迄、八月九日に来り、此湊に懸り居るに、天気悪しくと思ひけむ。見合せたるに、既に其夜大風となり、船も危く見えたれば、彼の家中船より上りけるに、忽ち難船すれども、長府家中の才智荷物やうと上げて人も怪我なかりける。此時家中、上げたる荷物に町人の絵符あるを悉く取退け、我等荷物にして、陸路を長府迄帰りける。此荷物難船の手数も請けず、其儘荷主へ御渡しけるは、誠に才智ありて人の難儀を助く、恐れたる人なり。〈此室津は徳山の領なり。〉御領分御家門中なれば、後難もなし。荷主は勿論船頭も大に悦び限なし。此荷物の内百端は無事なり。残り汐濡なりける故、悉く下の関にて汐出し大坂へ登す。是染地となるとオープンアクセス NDLJP:64いふ。安芸の国は格別の事もあらずと雖も、海辺湊々風あら吹きしたりけるなり。又豊前の国高良山〈杉の大木山、大山なり。〉御社は無難なり。大木倒れ、数凡そ一万三千本あり。此価銀千貫目位直打ありといふ。〈先年一本代銀三十貫目に望む人ありと雖も、此山の木伐出す事御停止なり。都て帆柱になるなり。〉島原天草の被害又島原・天草も、両度の大風にて倒家・死人多しといふなり。唐津は九日の夜の大変は、格別の事もなかりしが、伊万里の被害廿三日の夜に吹きける風にて、高汐となりて騒動するなり。又伊万里は、九日の大悪風には町家の家根は捲られたれども、端々の草屋五軒倒れたる計りなりしが、廿三日の夜の大風にて、高汐洋浪の如く、町家床の上に汐上り、大に騒動す。死人はなけれども怪我人あり。又爰に上の巻に、不思議なる利生を請けたる事を書き現はしたる高尾といふ所の遠藤何某といふ人、諫早領茶山といふ所に危き命を助かり、暫く爰に逗留して、請方の噂を聞きけるに、国中大変と雖も、我れ神仏の助ありて、船も荷物も無難なり。一先づ高尾に帰るべしと思ひけるに、此所に柳川領の人、茶を仕入れ来りて逗留す。〈此人も旅商人故遠藤氏とは知る人なり。〉我が家に帰りたく思へども、此大変にて渡海の船もなかりける所に、遠藤氏手船は無難にてあるを見て、柳川迄船を貸しくれよといふ。遠藤氏も我も戻るべし其用意すればと、断りけれども、是非にと頼みけるにより、詮方なく貸しけるが、彼の人は仕入れたる茶の荷物を船に積みて、柳川指して八月廿三日の昼汐に、茶山の浜より船を出しけるが、其夜の風に難儀すれども、命から漸々と柳川に著にける。夫より船は茶山に戻りて、此所に預けたる荷物を積みて、同廿五日我が家に難なく帰りける。此人廿三日に船に乗りぬれば、其夜の悪風に又危き事もあるべきに、其難遁れたるは誠に不思議となり。是も神仏の助なるべし。下の関より長崎迄、両度の大悪風・高汐にて、九州国々の湊々に破船したる其数・都合四千余艘ありといふ。〈百石以七なりといへり。小船は数知れすといふ。〉夫肥州鍋島家には、鍋島の三家三家御家門ありて、蓮池殿は賢君なり。至つて御憐愍深き事書尽し難く、常々御下の民百姓町人に至る迄も悦びける。今年は江戸に御詰ありて、御在国はなかりしが、御家中にて御政道行届きけるにや、御領分の者共に御救米は勿論、都て御憐愍深しといふ。又小城殿は御在国にて、大悪風の大変あるより、御領分を自ら歩行にて御見分ありて、「悪風にあたり、凶作の田畑ありと雖も検見に及ばオープンアクセス NDLJP:65ず、早く稲を刈りて渇命せざる事を計るべし」と仰ありて、猶も御憐愍ありて御救米下されける。又鹿島殿は御幼年にて江戸にありて、此領分は海辺にて、浜といふ所は高汐に流れたる家もあり。鍋島の三家老又三家老は諫早・多久・武雄なり。〈○頭書に、武雄は鍋島十右衛門といふ。此人幼にして父を失ひしに、其母家老何某と邪婬をなし政道を専らにし、功あるも是が心に叶はざるは忽ち罪せられ、罪あるも此等に媚びへつらへる者は頻に立身をなす。斯くの如くなれば、郡代其余勝手掛の者共、何れも私欲を恣にし、公事訴訟にも金ある者は、上へ取入り賄賂なす事なれば、何つにても金ある者は非を以て利とし、金なき者は利にして非に陥る。忠義の志ありて之を諫むる輩は忽ち押籠められ、又は暇を出さるゝにぞ、志あるも口を閉ぢて諫むる者なかりしかば、弥〻甚しきに至れり。十右衛門登城せられし折を見合せ、家中にて二十以下の者共十七人申合せ、各〻白衣・白上下著用致し、役所へ出で主人十右衛門へ直訴せむとて願書を出し、此願叶ひなば何れも尋常に切腹すべし。斯かる事願ひ出でし事なれば、定めて御憤にて御手討になさむと思召さるべきなれども、此願叶はざる迄は、如何なる事ありとも一命は奉らずと、各〻必死の勢をあらはす。其願数箇条あれども、「第一に後室を十七人の者共に給はり、これを十七に切つて、何れも其肉一切づつ喰ふべし。又家老をも給はりて之をも嬲殺にすべし」となり。役所には折節蓮池候にも御出にて、多久・諫早等も詰めらる。其中にて十右衛門殿、何心なく、願書を開き見て、大に仰天し、面色土の如くなりて、一言の詞も出でざりしに、蓮池殿側より之を見給ひて、「武雄殿にはよき家来を多く持たれたり。これ家長久の基なり」と申されしにぞ、少しく面色も直りぬ。「斯くて願の筋に於ては、急度聞届け有様に相計るべし。先づ一旦寺(何よやらんいひしか忘れたり)へ引取り差控へ申すべし」と一統より申さるゝ事なれば、十七人の者共是に従ひて寺に至りて差控へしといふ。斯くて評定の上にて、母をば親里へ差戻しになり、家老は切腹申付けられ、其余死罪・追放等多く之あり。十七人の者共、悉く未だ部屋住の者なりしが、何れも召出されて之を賞せられしといふ。全く十右衛門殿愚なるに、親の事故詮方なくて斯かる有様故、拠なく役所へ出で、衆人列席にて斯くの如く計らひしなるべけれども、其主人を人中にて辱しめし事、臣として其罪軽からずと雖も、未だ弱冠にも至らざる者共の主家の大事を思ひ詰めて、斯く計らひし事、天晴大丈夫の魂といふべし。表へ持出でし故斯くは落著ありしなるべし。是等は漸く鍋島家の陪臣にして、家来に忠義の志ある者斯くの如し。諸侯にして其人なきは恥づべき事にあらずや。〉何れも皆大身なり。諫早殿は大守様の御病中にて、御名代に長崎御番詰なり。今度の大変ありて御心労限なし。長崎は廿三日の大悪風・大高潮猶も厳しく、九日に残りたる御番所も、此時に倒れたり。又武雄殿も御城内詰なれば、御城下近在迄早御速見分之あり。多久殿は上之巻にも書きたる〔如くカ〕、御歳十八歳なれども、歴々の御家老中数多ありと雖も、肩を並ぶる人もなかりける。鍋島家は近年は至つて御勝手向むづかしく、下々迄も困窮になりし元は、文化元子年オロシヤ人来りて、長崎表騒動す。此年も御番なり。此時莫大の金銀を費したり。其後又辰の年盗船来り騒動す。其外臨時に金銀の費えたる事、黄金の山ありと雖も行届き難し。又今年も大変あり。多久殿の政道とても此儘にては行く道もあらずとて、多久殿は御年十八歳なれども、御国大守様はじめ、諸家中末々迄も倹約を第一にして、御役料渡り方格別に減少ありて、仕組立てられて、江戸御屋敷若殿様御登城迄も木綿服、御供廻半減にして、御姫様御附役人・御女中方迄も人数を減じ、朝夕の御膳部だけの御賄にて、其外は御断となり、夫に準じて諸家中御取締あり、御公儀始め御老中方迄のオープンアクセス NDLJP:66御献上物も御断なされ、又昔大飢饉の時の例ある故、御公儀へ御拝借の願あり。 〈金七万両と云ふ。〉京都姫君方の御賄も、御膳部廻りだけにて御断となり、京都御屋敷諸役人も減しける。大坂御蔵敷諸事倹約第一に取締して、諸役人も人数半減となるなり。斯かる御仕組の大役を、若年の身として一人引請け、八月廿四日国許を出立に定りけるに、同廿三日の大悪風吹きて騒動すれ共、夫も厭ひなく早朝より出立ありけるこそ、大丈夫なる名将なり。既に出立の前日に、我が屋敷も一統に朝は粥、夜食は茶漬昼飯は一菜となして禁酒なり。魚鳥は御門留、都て奢りたる事停止の旨、厳重に申渡しけるなり。又我が身も木綿服を著し、道中は徒立、御供廻り副臣の家来五人〈此内〔側カ〕頭に古賀弥助殿門人草場佐助といふ人、学者なりといふ。〉召連れ、具足櫃・槍一筋・両懸の挟箱・切棒駕にて都合十三人なり。其外荷物は駅々の本馬一疋宛取つて、中国路を大坂迄、此所に五日計り逗留ありて仕法たてられ、夫より江戸表へ出立あるなり。又珍しき事なり。又珍しき事あり。天変の兆九月中旬に諸木若葉の茅出で梅・桜・桃・梨其外総て花一時に開き、誠に春の如くなる風景にて見事に咲き、草花も咲きける。又四季の花も一時に盛となり、是全く世界天変する故、諸木草共に転倒すると見えたり。又今年七月に、東国筋にも所々大洪水の大変ある事を聞き伝へたり。此開書を奥に書写し置くなり。恐ろしき物語を書記し、女童迄も読み給ふ事を思ひ、文盲に仮名をつけて書述べたり。智者・学者の人々、笑ひ給ふ事を許し給ふべしと云々。

 
                                        
 
     時に文政十一戊子十月諸国大洪水を記す諸国の洪水

一、武州六郷川 六日留 一、馬入川 七日留
一、駿州藤川 八日留 一、蒲原駅 人四十四人死す。馬四十疋死す。
一、同 阿倍川 同断 一、駿府 九十九町残らず水入。
一、大井川 十二日川支 一、金谷宿 川原町二百軒余、家残らず流るゝなり。

、天龍川川堤切れ込み、凡そ八百石荒地となる。人家多く流るゝなり。但し定水より三丈余洪水。 、三州岡崎・矢矧の橋流るゝ、上手にて四五万石荒地となる。家多く流るゝ。千余オープンアクセス NDLJP:67人死す。

、追つて六月廿八日より七月三日迄、諸国一統殊の外大洪水。

、信州諏訪大洪水、諏訪伊勢守様御城、当七月五日頃迄天守計り見ゆる。一面海となる。人死数知れずといふ。

、下総国刀根川下にて二万石の所大洪水。

、六郷矢口渡の切所多し。水入。

、富士川五里計り人流るゝ。吉原へ死人揚る分、凡そ百八十二人といふ。

、興津川潮水落入り、稲の葉赤くなるなり。

、阿倍川前後府中の川水入り、百余町の所二町計り残る。村一軒も残らず流るゝ。

、天〔龍カ〕川同断大洪水。

、岡崎・橋宿残らず流るゝ。矢矧の村堤切込み、五万石の所三万石流るゝ。此辺は米一升に付き百六十文余にて、三升高より売らずといふ。

、上州都て水入なり。

、信州に洞抜けて、山三つに割れ人多く死す。荒地となる。

、東海道大洪水、古今珍しき事どもなり。

、日向国内藤備後守様御領分、七月二日・三日大風・津波なり。

、豊前中津御城下は、二丈余の大洪水なり。新開き・塩浜・横山・国谷、同断の事、大洪水なり。

右は豊後国日田御陣屋へ書出てしを写すなり。

  文政十二已丑年十二月中弦写焉

 
                                        
 
     子八月九日長崎大風長崎の大風

、去る九日夜子の上刻ゟ大風強く、其夜稲光りの様なる光りにて、天火度々落つ。尤も南烈風しく暁六つ時頃ゟ小々風和らぎ、十日四つ時西風に相成、同申の刻北風に立直り、風相鎮り申候。凡そ六十年以来之大風にて御座候。

、紅毛船一艘、稲佐石与申所へ吹付、船損じ申候。オープンアクセス NDLJP:68右かびたん部屋、出島浜手に有之候処大破損、出島砂糖入土蔵崩れ、砂糖六分通海へ流れ、四分通りは残り有之。

、唐船三艘之内、二艘稲佐石近辺へ打揚げ、船居置有之に破損いたし申候。残り一艘は別条無之候。

、長崎御奉行所ゟ唐船・紅毛船御見分之節、例年肥前御屋敷ゟ御座船大小都合三艘被差越候御手当船不残破船、無□之人数七八十人程有之候処、三十人程助命、跡は不残水死仕候由。

、肥前御屋敷御手船七八艘、長崎川へ御番所前へ有之候処、不残破損、死人多し。

、長崎港之内滞数百艘有之候処、大方破船、船数・死人不残不相知。尤も新田土手打越え、又は田畑の中へ船打揚げ候も有之候。

、風雨中長崎近在出火三ケ所有之、其前在家大破損、怪我人数多御座候。

、長崎市中建家・土蔵大層たいそう大破損仕候。尤も浜辺石垣大層崩れ込み申候。其外諸大木吹折申候。

、御用棹銅九万七千斤積予州三輪丸、昨八日長崎入津、港之内にて汐人舟に〔衍カ〕相成候得共、荷物追々掛け上げ出来候。乗組別条無御座候。

、御用棹銅四万五千斤積伊勢丸、舟長崎ゟ上り沖深堀与申処迄入津難船、帆柱近辺に有之元船行方不相知候。

右之通不取敢荒増申上候。尚委細之儀者跡ゟ可申上候。以上。

  八月十一日

  右同十九日午の刻大坂著状。

 
                                        
 

     下関八月十四日出火早飛脚、三日限にて到著、右之写

、九州筋之様子、豊後日田辺ゟ当地へ昼夜通し飛脚罷越、豊前在宿筑前辺者、中々申に不及、段々米買に参り、越後米元升七十八匁ゟ商ひ仕候。此元ゟ熊本へ差出候飛脚、熊本九日立にて十一里手前南の関に泊り居候処、九州の大風昼後ゟ急にもやう悪敷相成、夜に入り烈しく、八つ時ゟ大荒吹き、七つ時南風に変り、誠に言語道断之大オープンアクセス NDLJP:69変、柳川領道あひ杉馬場之場所、此三四年跡大風には、都合十三四本こげ、此度は本数不知、誠に白箸を並べ候ごとく、其外道中筋大松吹折れ候事、中々以数不知。筑後御城下久留米は家之分、三町目ゟ三本松迄、凡そ四百軒焼候由に御座候。追〔而カ〕筑前内は只数不知、大変死人、家之破損は数不知事。

、田面之儀に早稲わせ実入り分不残吹切れ、中稲遅もの・晩稲は皆無に相見え申候。右飛脚之者、南之関十日昼ゟ追々日和にて道中日数に相成候程、田面白穂に相成、早稲実入之所も、穂ゟ上は白く元は青く相見え申候。過ぐる天気中田面与は、誠に恐し〔きカ〕田面之趣に御座候。右之飛脚、今日漸く罷帰り申候。既に防・長は、下地余国ゟ虫気剛く、凶作之上大変に付、御〔〈年脱カ〉〕貢の納り方も如何と案じ候事に御座候。

下関の大火下関市中は、今以大火之跡さらへ候様なる事に御座候。浜手土蔵流失仕候に付ては、大層之紛失仕候間船留め、殊に飛船も大方打破申候間、恐敷相成り、漁船にて指登見合せ居候処、大変にて譬へ御地・北国・東国此辺之通りに御座候而も、八十匁升は安直に哉〔とカ〕察候。既に今日筑後柳川今引米千二百俵入船、旅客買取申り候。七十九匁附に御座候共、当分見合之由、売放し不申候。大豆萩は皆無に相見え申候。一昨肥後日入船五十六匁にて商ひ有之候。

、小倉八月十三日出状写、大風之儀、一円大変に御座候。早稲わせ・中田は半作庭はんさくばも有之、三四分之所も有之、晩田は先づ皆無に御座候。下の関にて越後米計り七十八匁。

、筑前植木ゟ来状、筑前の大風百年此方〔〈の脱カ〉〕大風にて御座候。此辺早稲・中稲四分作は有之模様、晩稲は一向無御座候。右に付下の関正米買入に両三人参候。若宮郷之内ゟ此辺に掛け、凡そ千八百軒計りも倒れ、、その内人死又は牛馬とも同様に有之候哉相分り不申候。当地計り家二百八十軒もたふれ、死人三人、百年已来之大変に御座候

〆右状は、大坂へ先日著仕候得共、乍延引写し御目に掛申候へば御覧被遊可下候。

 八月廿八日

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     萩八月廿二日仕立状之写

十七日昼仕出之御状、今廿二日場所にて今廻相渡し受取申上候は、廿一日著にて御座候。先以て、其地御壮健被御座之由珍重奉存候。当方御留守皆々不相変御安心可下候。

、大風以後当表相庭さうば一石八升迄引立ち申候。其後石一斗四五升迄小戻り仕候へ共、所詮下兼ね申候。

、御国中痛み何程与申儀不相分。西沖目皆無の場所も多く有之候様申来御座候処、未だ現場げんば見請不申候事、如何可之哉と奉存候。萩廻り稲大体は打付居り、当節追々うれ口に相成、立穂之分見苦敷相成候へ共、左程に人気は驚不申。然共相場は至て強く、余り高直故人々売のみ心掛け、追々面著貸添にて、此節は六貫匁貸に相成申候。然共百石にて上銀三貫匁余も、中々にふい問屋、手に合不申候。夫にてもいづれ引候哉、面著納申候。

、萩ゟ出海迄通、中国の農作被害須佐近辺・石州津和野・同浜田・合津久手、右石州之儀は、風吹不申候とても、虫痛にて一向下地同様にも取不申程之儀にて、折節祭時分行合候処、何分にも祭り所にては無之ききん年柄いかゞ相成儀やらと申候由、併石見之儀は山国取不足候。

、出雲へ出候処諸所見廻申候。別して海辺へ虫痛つよく、勿論土用中萩同様降続候故、虫痛に余分有之、此度風も中国路程には無之候へ共、随分家も倒れ人も死候由に御座候。尤同国広瀬領別て不宜候。稲穂一同延び無之不宜候由、申事に御座候。

、伯耆稲穂、右同様作方之由。

、因幡、是も中位の由、いづれも虫痛有之由、此両三年は彼地不作打続候へ共、諸国へ廻米御差出し被成候ゆゑ、斯様なる年柄は手元に米無之、皆々難儀之由、殿様を怨み咄しいたし候由に御座候。是も風は十日朝吹候由に御座候。

、美作は風も穏にて稲元も宜候。見事之由、夫ゟ芸州三好へ出候処、此処御城下オープンアクセス NDLJP:71近辺迄、至極見事に御座候。則ち芸州上稲、尚又下之分一包に〆帰り申候。風は歩行之内にては、芸州ゟ剛く痛場所有之、柿木に柿一つも無之、竹木共葉迄こぎ候由、立木いづれも痛候由に御座候。此は当国風之根抔と申候。然共追々風聞は四国も吹候由に噂御座候。

、夫ゟ岩国辺其外現米店売、一匁に七八合、別紙之通に御座候。

、広島も差紙さしがみにて九十匁之由に御座候。其外歩行之国之直段取、別紙申上候通に御座候。御国中三田尻辺其外二口不宜候。所々穂相添申候。大体沖目右之通に御座候。

 今廿二萩日相場 一石一斗一升二合ゟ追々引立石ち一斗。

 御貸米     一石九升五合買入。

、九州別て不宜候内、筑前・肥前立木竹木共無之、目もあてられ〔ず〕悪敷候由、既に場見候人の噺に御座候。中西国大変に而御座候。東国筋之儀皆々危踏、手出し不仕候やに御座候。

 御地十七中日国米、 七十一匁一分

 同 十八日出、   七十四匁八分

右之通今日金槌噂仕候。

、三隅同端〔本ノマヽ〕御領分庄屋罷出、例之通被参、前相場何分、当年は半所務之外無之、数数御上へ御取納仕候へば、当日喰物たべもの之候事、春受は得不仕候由申候。扨々当惑之年柄に、同端ども噂仕候事。

、萩廻り市中米屋一匁に付、黒米八合売に相成申候由篤入候儀、御事〔マヽ〕に御座候。其外相変儀無御座候。追々跡ゟ申上候。態々仕立を以申上候。

 八月廿二日昼七つ時出

 出雲城下   一石に付   銀八十六匁

 米子城下   同      同九十匁

 因幡鳥取   同      同七十八匁

 伯州     同      同七十六匁

オープンアクセス NDLJP:72 湯木     同      同七十五匁

 芸州     同      ​同九十匁  ​​九十五文銭​

 
                                        
 

阿蘭陀船稲佐石へ吹上げ破損せしに付、御奉行所ゟ船中御改め有之処、長持の中に甲冑・槍・太刀の類多有之、蘭船破損并に船中御改又箱の中へ公儀殿中・御城等の絵図有之候に付、直に御吟味に及び候処、御天文方高橋作左衛門ゟ蘭医好みに付、之を渡しぬと云ふ。高橋直に入牢手枷・足枷を入れ、歯上下とも悉く引抜かれ、其余絵を画し者、其外これに掛り合し者悉く入牢し、蘭人通詞等は長崎にて同断なりしが、蘭医は昨丑年引出され、急度御仕置被仰付候筈之処、外国の者故御憐愍を以御差戻しに相成り、已後渡海の儀被差止、高橋其外画人等も牢死す。高橋の忰被引出親存生に候はゞ、急度御仕置被仰付候筈之処、死去致し候に付御れんみんを以て、其方事遠慮被仰付候との仰渡之由、通詞馬場為八・吉雄・稲辺の三人者欠所に相成り、〈三月廿五日、〉四月六日網乗物にて江戸へ引れしが、三人の者一人宛、東国の大名衆へ御預けに成りしと云。〈遠島にすべき事なれども、かれらはよく外国の事に通ぜし者共なれば、外国の者に計り、又いかなる事巧みなんも知れざるが故とぞ。〉其外彼等が下役の者五人役被召放、文使などせし者共、鳥目てうもく三貫父の過料の由右は心斎橋筋加賀屋独助、長崎に行合せて此事を咄しぬると、大和屋林蔵銅店にて聞きしとて語れるを記す。総て甲冑・槍・刀は云ふに及ばず、武者絵・堂上方の形をかける絵さへも、御法度の事なるに、恐れ多くも其臣として、公儀殿中・御城等の図面・武器の類を渡しぬる事、利欲の為にせし事のみにも当り難く、外国に合体し、我国を計るに当りて、古今未曽有の大罪なりと、一統の沙汰也き。

先月十七日の手紙に委しく申上候。御わかり被成候哉。又々廿四日の朝七つ時ゟ大風・大雨にて、廿五日四つ時迄吹き申候。筑前の大風両是は昼に御座候へば人死も無御座候。辰巳ゟ吹出し後西に廻り、大潮充上り地行下町ゟ段々人逃来る。浜の口ゟ津波打来ると申、各〻大やすみに逃行き、簗橋の者は唐物屋に皆参りをり候者角に出で、「私簗橋の上に参り川下見れば、浪みちあぐるは二尺程も上りて汐来る。また跡ゟ迫上る汐二三尺と見え申候。時の間に簗橋打越し、唐戸も潮越し、川下ゟ家流来る」とオープンアクセス NDLJP:73申しければ、家根吹捲りし茅家の如く固まりて、川上にさつとの上申候。扨も恐ろしき事に御座候。はや逃げねばにげそこなふと申し、我もと大土手指して逃行き、簗橋にも一人も残りなく逃行き、私は母様を負ひ、おたは平四郎負ひ、おはる・伊勢吉つんなひ〔本ノマヽ〕、大雨・大風の中に汐に恐れ、大土手迄の田の中膝の上に立ち、大土手行く時、雨あたるは誠にはゞら礫を打つ如し。風はひどし。大土手より吹落さるるやうにあり。三人・五人手を引合ひ、大やすみさして逃行く。大土手中程ばかりの時、四方八方大くれの闇に成り、六本松に参り、段々唐人町・新大工町の者逃来る人数多なり。人々申けるは、「是迄汐充来る時大やすみに上り申候と申候。私共も六本松に止り、田島土手を打見れば鳥飼辺の人々皆六本松さして続き渡りて来り、岩田屋酒やに粥出き、皆々御出被成れし」と申す。岩田屋に参りて粥などのみ、夫にて息をつぎ、段々汐引ばなし御座候。風も少はなぎ、そろと内に帰りみれば、家根は破れ雨はざつと降り、家内の者居る所もなし。表口板引き其夜明しける。九日の大風にころび、ほり立を段々立てたる人、又此度の風にころび、地行下町は野原の様に相成候。下町に残りし家六七〔軒〕御座候。簗橋はしに潮つかへ、橋本屋の前に潮上り、みな戸町ばなは、川の様に御座候。のしやの浦は潮ごしに立ち、みな戸町・すのこ町あたりは御城内に逃込み、御殿二の丸迄あき、みな逃込申候。博多・岡浜の者、かすや郡迄逃行き候。中津は大海になり、中津に大船みち上げ、いわし町にも四五百石船町に上り、箱崎宮町の鳥居迄汐上り、津浪のやうに御座候。御上ゟ町々御触出しにて、津浪と甲事相成不申候。左様の者御座候はゞ、早速捕るとの御触廻り町中に廻り、其後津浪と申者無御座候。沖島様・志賀宮其外大社々々に御祈祷御座候て、大風も大汐も無御座候と、各〻安心いたし候。

右は筑前屋敷中間甚兵衛と申者へ、岡本ゟ来り候書状の写なり。子八月廿四日の事なり。

子十一月十二日辰上刻越後国大地震、古志郡・蒲原郡之内、大損じの場所あらまし左之通、

 

、妙見宿是ゟ牧野備前守様御領分長岡ゟ三里之間、田畑大に損じ大地裂け土砂吹オープンアクセス NDLJP:74出し、村々人家数多崩れ候得共、死人は無之候。

越後の大地震、長岡城下四の町にて一軒、〔大カ〕手にて三軒崩れ、神田八軒荒町三百軒余の処二十軒計相残り、跡皆崩れ、長岡ゟ今町迄三里の間に、村数あまた有之候得共、通り筋村々にて家数二十軒計り相残、其余総崩。

、今町八町程之在処一丁計り残り、二町半焼失、其余は崩れ、死人五十人、焼死は不数、けが人同断。

、見附宿家数六百余軒之処、漸く三間相残り三町計り焼失、残は皆崩れ死人六十人焼死不数、けが人同断。

、元町にて寺一箇寺相残、其余は皆崩れ、此辺堀丹後守様御領分大茂宿ゟ善峯、其外本成寺村迄三十箇村総崩れ。

、三条町家数二千軒計りの処、二丁にて十八軒、大手下にて二軒、鍛冶屋町にて表通十軒残、寺は極楽寺・西願寺二箇寺のみ残り余は焼失、尤も蔵・土蔵共、死人四百四十人、焼死人幾百人共数相分不申候、けが人同断。

東本願寺掛所御堂は勿論、御門・台所・座敷廻り不残焼失、此辺之村々大損申候。

、一の木戸松平右京大夫様御領分町家総崩れ、死人百六十人、けが人、焼死未だ相分不申候。

、貝はけ・新田少しの村に候処に御座候得共、家数三十軒程地中へ三尺計り埋り、怪我人十八人、其余死人多く有之由。

、黒津村にて寺一箇寺残、跡は皆崩れ、近辺・近在ゟ此寺へ死人持参り如山との由。

、与板井伊兵部少輔様御領分町家千軒計りの処、三つ一分残、其余は総崩れ、死人五十人計りと申事に候。

、脇之町半崩れ、其外近在村々莫大に損じ候得共、未だ相分不申候。

、下越後千の原・柴田・五泉、此辺は如何相成候哉相分不申候。只筋計り荒増申来候。

右者南久宝寺町中橋筋西へ入る南側金屋平兵衛といへる金商売致し候者の方へ、越後得意の者より申来候書附の写なり。

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     文政十一子年十一月十二日辰の刻、越後国古志郡・蒲原郡大地震の事

、妙見宿是ゟ牧野備前守様御領分長岡ゟ一里之間、田畑大に損じ大地裂け士砂吹出し、村々人家数多崩候へども、死人は無之候。

、長岡城下四の町にて一軒崩れ、〔大カ〕手にて三軒崩れ、神田にて八軒崩れ、新町あらまち通三百軒之処、十軒計り相残り、跡不残崩れ。

、長岡ゟ見附宿今町辺迄三里之間、七八箇村有之。其内家数二十軒計り残り、其余村々総崩。

、下今町八町程之所、西一町残り二町程焼失、其余不残崩れ、死人五十人怪我人数不知。

、見附宿家数六百軒余之所、三軒残り三町計り焼失、残り総崩、死人六十人、焼死・怪我人数不知。

、元村寺一箇寺残り、其余者皆崩れ、此辺は堀丹後守様御領分。

、大西村にて八軒崩れ、是ゟ山通りにて所々家崩れ、本城寺村総崩れ。

、三条東本願寺掛所御堂残らず焼失、町家二千軒計りの処、二町にて十八軒、大手下にて一軒、鍛冶屋町表通り一軒残り、寺は外宗旨也。極楽寺・西願寺二箇寺残り申候。其余は家・土蔵共不残焼失、死人四百六十人、焼死・怪我人は幾百人共数不知、近き村々大破損。

、一の木戸宿松平右京大夫様御領分、町家総崩死人百十六人、焼死怪我人未相知

、中野村大竹屋出口門崩れ、小竹屋家崩る。

、貝はけ・新田村々御座候処、家数三十軒程地中へ三四尺落入、怪我人・無事人十八人残り、跡は皆死人。

、黒津村寺一箇寺残り、跡は皆崩れ、死人六十人。

、与板井伊民部少輔様御領分町家千軒計りの処、三つ一分残り、跡総崩れ死人五十人余。

、脇町代官所家数三百軒計りの処、下町者不残崩れ、上町は大に損じ、其近在村オープンアクセス NDLJP:76々莫大に損じ、未だ不相知

〈[#図は省略]〉

、地震十二日辰之刻ゟ同十八日迄ゆり通し、十八日仕立飛脚便り、右の通荒増申参り候書状、十二月九日写。

右外方へ申参り候書付にて、前文と少々相違の所之あり候に付写置く。

 
下之関大変之旨、崎嶴も津浪抔にて大変之沙汰に候。国方も八月十日並に廿四日には我等など覚不申大風に御座候。屋根を捲り大木を吹倒し、舟を陸地へ吹上げ人多死申候。下関大風の書状死人は多く木の下になり候て死申候。城下町・郡方にて都合潰〔れカ〕候家五百軒計り、死人も都合二百人計りに候由、就中岡田太郎右衛門と申者、〈番頭役にて禄千石。〉此家来海辺へ殺生に行居り申候内大風に成る。依而網を収め路へ出候処、一風吹来候に巻上られ、空中へ十間計上り、夫ゟ吹落し沙上へ打付即死致し申候。我等方は仕合にて、屋根を少々吹捲り申候。間之内戸・襖大半吹倒し申候。大風中誠に車軸を流し候様なる大雨にて、屋根を吹取られ候処者、間之内雨にて誠に散々さんなる仕合、中々大変にて御座候。田地米穀をも悉く損じ、百姓難儀高価、軽き者此節苦み申儀に御座候。貴境も米高き由、諸国損毛に依つてと被存候。扨々天変と申すは大なる者故、可恐に御座候。其後四月廿六日夜地震、是も中々強く、大夫百官城へ伺に出申候族も御座候。当年春来気候不宜、何分豊年程心地よきものは無之候。

  十二月十五日 郭斎拝

       雲浜先生

 
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  十一月十二日朝大地震、公儀へ

  御届之写

〈[#図は省略]〉

越後長岡御城下

五十三軒潰家長岡城下地震の被害

二千四百七軒   在方潰家

四百六人     死人

千五百余     半潰家

千五百余     怪我人

七十箇寺     潰寺

十五人      坊主

牛馬数不知    大地震後大火

三箇所御米蔵

御城下蔵三百七十の内、用立蔵ようだつくら三つ

三条・加茂・与板等、末だ評判取々にて、実説不相分候事。

 

    江戸出火江戸の大火

一、文政十二年丑三月廿一日朝五つ時少し地震、夫より北風烈しく、四つ半時外神田佐久間町より出火風、弥〻増し、夫より大川通人形町へ飛火、直に堺町芝居へ移り、段々所々へはびこり、築地西本願寺御堂焼火、八つ半時迄同じ風、七つ頃より暮頃迄西へ廻り、又変り東北風に相成り、総じて追々ぎ申候。翌朝五つ頃漸々火鎮まり申候事。

    大名方御類焼御上屋敷の分

江州仁正寺一万八千石余​神田本誓願寺前​​   市橋主殿頭様  ​​ ​ 常陸八田郡一万六千石余​内神田本誓願寺前​​   細川長門守様  ​​ ​ 丹後宮津七万石 ​浜町​​   松平伯耆守様  ​​ ​ 播州山崎一万石 ​浜町​​   本多肥後守様  ​​ ​ 同田辺三万五千石 ​江戸橋向​​  牧野内匠頭様  ​​ ​ 丹波綾部一万九千五百石​北八丁堀​​  九鬼大隅守様  ​​ ​ 勢州桑名十一万石 ​北八丁堀​​   松平越中守様  ​​ ​ 江州膳所六万石 ​北八丁堀​​   本多下総守様  ​​ ​

オープンアクセス NDLJP:78伊予吉田三万石 ​八丁堀​​   伊達紀伊守様  ​​ ​ 摂州尼ケ崎四万石​鉄炮洲​​   松平遠江守様  ​​ ​ 肥後新田三万五千石​鉄炮洲​​   細川采女正様  ​​ ​ 因州新田二万石 ​同​​   松平長門守様  ​​ ​ 越前福井三十二万石​霊岸島​​   松平伊予守様中屋敷当時浅姫君様御住居  ​​ ​ 安房館山一万石 ​築地​​   稲葉隠岐守様  ​​ ​ 越後与板二万石 ​築地​​   井伊宮内少輔様  ​​ ​ 上総一ノ宮一万三千石​同​​   加納遠江守様  ​​ ​ 小倉新田一万石 ​同​​   小笠原備後守様  ​​ ​ 和州柳生一万石 ​同​​   柳生但馬守様  ​​ ​ 紀州家臣一万五千石​同​​   三浦長門守様  ​​ ​ 信州高島三万石 ​木挽町​​   諏訪伊勢守様  ​​ ​ 豊前中津十万石 ​御浜御てん前​​   奥平大膳大夫様  ​​ ​ 豊後岡七万四百石余​芝口​​  中川修理大夫様  ​​ ​ 播州龍野五万千石余​芝口​​   脇坂中務大輔様  ​​ ​

        〆

    御中屋敷之分

        紀伊殿蔵屋敷 駿州沼津三万石     水野出羽守様       ㊁ 奥平大膳大夫様       ㊁ 小笠原備後守様       ㊁ 松平越中守様       ㊁ 細川采女正様 奥州磐城平五万石    安藤対馬守様 石川浜田六万石余     松平周防守様       ㊁ 脇坂中務大輔様 阿波徳島廿五万七千九百石  松平阿波守様 肥後熊本五十四万石    細川越中守様 雲州母里一万石     松平駿河守様 下総関宿五万八千石    久世長門守様 下総佐倉十一万石     堀田相模守様 播州姫路十五万石     酒井雅楽頭様 上州館林六万千石     松平右近将監様 山城淀十万二千石    稲葉丹後守様 信州飯山二万石     本多豊後守様 摂州高槻三万六千石    永井飛騨守様

        〆

    御下屋敷之分

     ​築地​​ ㊂ 松平越中守様​​ ​ 薩摩鹿児島七十七万八千石   松平豊後守様       ㊁ 松平阿波守様 江州彦根三十五万石    井伊掃部頭様         松平右近様       ㊁ 中川修理大夫様 遠州横須賀三万五千石    西尾隠岐守様      ​蠣殻町​​ ㊃ 松平安芸守様​​ ​ 安芸広島四十二万六千石   松平越中守様

オープンアクセス NDLJP:79        〆

        尾州殿御蔵屋敷         一橋様鉄炮洲屋敷 相州小田原十一万三千石    大久保加賀守様 備中松山五万石     板倉阿波守様 三河吉田七万石     松平伊豆守様 下総古河八万石     土井大炊頭様 美濃大垣十万石     戸田采女正様

        〆

       外に

        大丸呉服店         三井両店         白木屋両店         戎屋両店         島屋両店         志摩屋両店         水口屋両店         伊勢屋両店


       此外、上方出店之向諸荷物間屋不残焼失。

        堺町芝居         葺屋町芝居         木挽町芝居

        〆    不残焼失。

      ​小伝馬町​​  牢屋敷​​ ​

        〆

        米川岸関人方         大庭不         永代筋先佃島         石川島         無宿島

       右一円類焼


右島之辺へ繋居候遠方所々、其外諸国海船大小五十七艘不残焼失。但し此辺にて死人数十人有之よし。

    橋焼落候分

オープンアクセス NDLJP:80        日本橋         今川橋         京橋         豊後橋         江戸橋         稲荷様         荒目橋         中橋         しめ橋         親父橋         霊岸橋

        〆

市中にては、小橋等は不残焼落ち申候様に風聞之事。

 
                                        
 

頃は文政十二丑年三月廿一日昼四つ時過より、江戸外神田佐久間町辺より出火して、焼失の町名並に大名の邸宅夫より柳原・小柳町・平永町・九軒町・松本町代地元誓願寺前・お玉ケ池・龍閑町・豊島町・小和泉町・松枝町、御屋敷は佐野肥前守様・富田宮内様・市橋主殿頭様・細川長門守様、夫より屋敷数々。富松町・久右衛門町・江川町・元岩井町・佐柄木町・代地御蔵地・きじ町・富山町・白壁町・上下黒門町・としま町・須田町東側・通新石町片側・鍋町片側・鍛冶町・紺屋町・弁慶橋。一口は鎌倉河岸・永富町・本白くみ町・革屋町・ぬし町・川合新石町・大伝馬上町・材木河岸がし・橋本町・馬喰町・通塩町・横山町残らず、両国広小路迄。一口は本町・石町河岸・大伝馬町・小伝馬町・通旅籠町・油町・立花町・富沢町・久松町・村松町・田所町。堀留堀江町・元乗物町・長谷川町・浪花町・高砂町・住吉町・新和泉町・人形町・堺町芝居ども・ふきや町芝居共・人形芝居二箇所・大坂町・へつゝひ河岸・松島町・葭町・てりふり町・小船町残らず。一口は両替町・駿河町・室町瀬戸物町・伊勢町・本船町・長浜町・安しん町・小田原町・北鞘町・品川町・御くら河岸釘店・日本橋焼落つる。江戸橋同断。西河岸四日市・本材木町・万町・青物町・呉服町・音羽町・佐内町・千物町・松川町・くれ正町・鈴木町・稲葉町・常磐町・具足町・柳町。一口は上下槙町・おが町・中橋通四丁目・南伝馬町残らず。御屋敷は九鬼大隅守様・松平越中守様・牧野内匠頭様小浜様・新川新堀表裏・茅場町・箱崎霊岸島・亀島・佃島。御屋敷は松平越前様御中屋敷。又一口は、京橋紺屋町・銀座町四丁目・尾張町・竹川町・出雲町・金六町・白魚屋敷三十間堀残らず、新萑町・弓町・弥左衛門町・鎗屋町・数寄屋町・南鍋屋町・佐柄町・加賀町・八官町・丸屋町・滝山町・宗オープンアクセス NDLJP:81十郎町・山王町・守一町・内山町・土橋焼留り、芝口一丁目片側・南八丁堀残らず。御屋敷は本多下総守様・伊達紀伊守様・新庄勝三郎様留、よし町・大富町・松村町・木挽町芝居・板倉阿波守様・加納遠江守様・曲淵甲斐守様・大久保様諏訪伊勢守様・松平周防守様・柳生但馬守様・仙石山城守様・本多豊後守様・田沼玄蕃頭様・亀井大隅守様・宮原弾正大弼様・溝口伯耆守様・奥平大膳大夫様・塩留橋焼くる。脇坂中務大輔様御長屋少々。鉄炮洲は稲荷始め町々残らず。屋敷は松平阿波守様・中川修理大夫様・細川采女正様・松平長門守様。築地は井伊掃部頭様・松平左近将監様・小笠原備後守様・石川大隅守様・戸田相模守様・榊原遠江守様・西尾隠岐守様・松平遠江守様・松平宮内少輔様・松平土佐守様・松平上総分様松下嘉兵衛様・青山牛太夫様・木下縫殿助様・大島様・畠山飛騨守様・津田修理様・朽木伊東・戸川隠岐守様・稲葉対馬守様・松平越中様・庄田五六郎様・村垣淡路守様・西本願寺御堂・増山河内守様南部大膳大夫様・稲葉播磨守様下屋敷・一橋様・堀田摂津守様松平安芸守様御蔵屋敷・尾張様御蔵屋敷にて留る。此外御旗本屋敷数々焼くる。一口は浜町松平伯耆守様・水野出羽守様・小笠原様・佐竹左京大夫様・牧野内匠頭様銀座安藤出雲守様・安藤対馬守様・永井肥前守様中屋敷。とうかん堀は酒井雅楽頭様・松平越中守様・本多肥後守様・室賀主馬・戸田土佐守様・吉良左京大夫様、其外屋敷々々多く焼くる。〈[#図は省略]〉同廿二日五つ時に焼収り申候事。橋々は神田和泉橋・新橋・今川橋・弁慶橋。一口は親父橋・荒目橋・江戸橋・日本橋・京橋。又一口はかいそく橋・地蔵橋・霊岸橋・亀島橋・松屋橋・湊橋・永久橋、其外小橋四十箇所余焼落つる。佃島沖へ飛火して、大船二十艘計り、其外川々の小船百四十余、町の数は六百五十町余、怪我人数多し。さる文化寅年の出火より類焼の町五六町多し。

文政十二年丑三月廿一日、昼四つ半時より、神田佐久間町一丁目辺より出火にて、折オープンアクセス NDLJP:82節戌亥の風強く、〈[#図は省略]〉和泉橋焼落ち土手を越し、小柳町・お玉ケ池辺、佐野様・細川様・市橋様横瀬様、此辺都合三口に相成り、としま町・馬喰町通・横山町通、此間町々残らず、柳橋川岸通両国橋にて留る。一口は、米沢町通・八軒堀・浜町、小笠原様・津軽様少し船越様・細川様・佐野様・能登様・伯耆様・御旗本様方牧様にて止り、一口は伝馬町通り弁慶橋・人形町通り堺町・葺屋町両芝居人形とも松島町へ移り、銀座常是水野様・永井様御旗下様方・酒井様越中様・安藤様・本多様・戸田様・永久橋落ち、向箱崎戸田様・土井様・伊豆様・久世様・新堀湊橋落ち、永代御船番所・鍛冶橋・乙女橋落ち、大川橋・新川通霊岸島残らず、越前様向井様・御番所高橋・稲荷橋落ち・阿波様此辺町残らず。佃島・石川島、此川にて大船焼け、薬船九十・小船八十計り川中にて焼止り、一口は須田町・新石町・鍋町・鍛冶町二丁目、是より両側下新道・新石町のしま屋敷・松下町・鎌倉河岸としまや焼け、たば山店にて止り、龍〔閑カ〕橋落ち、銀町・小島町牢屋敷。一口は堀止め小船町・小網町かやば町薬師・北八丁堀御組屋敷・海そく橋落ち、牧様・九鬼様・小浜様・越中様、此川すぢ橋々落ち、南八丁堀へ飛火、右近様・本多様・伊達様御旗下様方残らず、彦根様・中川様・遠江様・かるこ橋落ち、小笠原様・西尾様・奥平様・脇坂様・細川様・長門守様・さむさ橋落ち、築地へ飛び、町々・橋々残らず落ち、肴河岸通・京橋三十間堀・木挽町芝居・柳生様・仙石様本多様・加納様・田沼様・周防様・諏訪様・絵師狩野様・此辺医師方残らず、大久保様・曲淵様・板倉様・西尾様・周防橋落ち、西本願寺・南部様・備前様・土佐様・宮内様、此辺御旗下様方数多。一口は数寄屋町・尾張町・塩留奥平様・脇坂様半オープンアクセス NDLJP:83焼、溝口様・宮原様・稲葉様・阿部様・越中様・増山様・安芸様御蔵屋敷波よけにて留る。尤も翌朝にて消え静まり、此外縦横とも町名数多御座候へども、其荒増を記す。遠国に親・兄弟・親類之ある御方は、御安堵のため爰に記す。

 
                                        
 

三月廿一日江戸出火有り。植田原八の書状朝四つ時ゟ相始まり、先づ西北の大風一体に出で吹立ち、神田佐久間町ゟ致出火、所々へ飛火致し、其早き事一面に広がり物凄き事、是に不越覚え申候。師家は風筋宜しく、少も御別条不在、御同慶之御儀に奉存候。愚宅之辺も先づ風脇にて安心致居、風筋悪き方仲間内へ見舞等致し居候内、町々ゟ火もえ出し恐敷事共故、早々愚宅へ帰り見候処、最早所々ゟ類焼致候。懇意之者又は縁者等数多荷物運入れ、家内之女子共皆逃来り、誠に宅は大取込、其内築地へ焼来り、最早小十郎殿も類焼被致。乍去無御別条立退かれ候へ共、誠に丸焼にて、扨々気之毒千万之儀御察可下候。樋畑も類焼致し、是は私宅へ先に逃来候処、西本願寺類焼にて近辺尚々火勢強く、其内道筋は銀座三丁目辺へ焼来り、愚宅も程近く相成候へ共、風宜しく安心致し居候処、俄に東風に吹変り一時に愚宅へ吹付。夫ゟ宅へ逃来候人数又々風脇へ立退き、宅も俄に衣類等片付候仕合、誠に不行届候。右の大火故人々労れ、唯家内シ者漸く逃出候件合、一体道具類は不申、唯胴と書物謡本うたひぼん取出し候のみにて、不残焼失為致候。尤其出火之節、御子息様師家へ前日ゟ泊りにて御尋も無之候へ共、漸く取急ぎ御子息様謡本類計りは取出し、無別条御座候。御子息様は漸く類焼一日置、廿三日焼跡へ御尋被下候儀に御座候。大類焼故、夫ゟ師家へ相願、御子息様其儘御台所へ相願置申候。当時拙者儀は、幸橋御門内にて鍋島紀伊守殿屋敷物見致借用罷在候。其上去る七日又々麻布永坂町ゟ出火。是者南風強く赤坂辺迄やけ、其内少々雨降来り焼留り申候。右出火之節、永坂町之上太田原飛騨守屋敷、直に火元のきはにて類焼有之候。此屋敷奥へ拙者娘奉公為致候処、大出火にて誠に丸焼に相成、奥方供にて出火と申候と直に立退候のみにて、衣類・小道具等不残焼捨、誠に致当惑候仕合、御遠察可下候。樋畑も先月廿一日類焼後、麻布□町へ仮宅候処、又々出火にて致類焼先づ昨日拙者借候物見へ同宿致候仕合、其後も日々所々オープンアクセス NDLJP:84に出火有之、安心不致候事に御座候。〈[#図は省略]〉

先月廿一日の出火里数に直し、火事の幅を一町に積り、長さに延し候へば、廿六里の火事の由申候。裏家をのけ表立家之間数に致候へば、凡そ十万三千間程之類焼之由申候。去る七日永坂ゟ出火も先づ半里四方の焼けに御座候。誠に大変之事共御遠察可下候。

 四月十日    植田源八滋晴花押

   山本九郎様

夫れ人として孝なきは人にあらず。江戸大火の図江戸大火と聞きては、国々親・兄弟の歎き如何計りぞや。是一時も早く安否を告げ知らせ、安堵さすべき事第一なり。扨も文政十二丑の年三月廿一日の朝、四つ半時頃より西北の風烈しく、空一面に物凄き折柄、外神田の河岸辺より出火して和泉橋焼落ち、川向土手下通佐野様・九軒町代地富田様、夫より細川様、大和町・豊島町・久衛門町・江川町・亀井町・鉄炮町・橋本町・岩井町・松枝町・馬喰町・塩町・横山町・吉川町・米沢町・同朋町・柳橋・両国辺残らず、橘町・久松町・村松町辺・矢の倉・山伏・井戸・浜町、松平伯耆守様・佐竹様・水野様・水谷様・細川様・野田様・荒井様・松平大隅様・村越様・細井様・立野様・大岡様・木村玄長様・長坂様・芳野様・金牧様・又お玉ケ池小柳町・平永町・紺屋町代地共、岩本町・富山町・市橋様・川口様・横瀬様・高橋様、其外御旗本様町、家残らず、小伝馬町牢御屋敷・大伝馬町・通旅籠町・大丸焼くる。油町・大門通・人形町通・長谷川町此辺残らず焼け堀止め・伊勢町・堀江町・小船町・小網町通・新材木町・杉森稲荷・乗物町・富沢町・高砂町・難波町・住吉町・堺町・中村座・葺町・市村座人形芝居共・甚左衛門町・元大坂町・銀座・水野壱岐様・永井様・石川様・深見様・安藤様・永井様にて留る。蠣殻町は、大津様・吉良様・青山様・千本様・近藤様にて留る。又戸田様・小野様・金田様・由良様・松平越前様・室賀様・横瀬様・戸田様・本多肥後様・酒井オープンアクセス NDLJP:85伊賀様・奥山様、とらか堀・松平越中守様・酒井雅楽頭様・安藤様、行徳河岸永久橋焼落つる。戸田様・土井様・松平伊豆様・久世様・箱崎町・北新堀御船手御組屋敷、此時永代橋危し。長崎町・東湊町此時風弥〻強く、霊岸島一面火熾になる。同刻越前様御中屋敷・御船手組御屋敷焼くる。稲荷橋焼落ち、鉄炮洲稲荷の社より川岸辺本湊町・船松町・十軒町・明石町・寒さ橋焼落つる。佃島残らず焼け、大船凡四五十艘小船数多、築地飯田町・本郷町・小田原町堀田相模様迄、同刻松平阿波様・細川様・松平長門様御御会所迄、同刻火の元の方より東北風強く、西神田須田町・田町・鍛冶町二丁目迄、西側片側は残る。新石町・鍋町・鍛冶町・松田町・白壁町・鎌倉河岸豊島屋迄焼くる。龍閑橋・松下町・永富町・門徒河岸今川橋より、白銀町通信州諏訪目医師樋口氏焼くる。十軒店・石町・本町・瀬戸物町・福徳稲荷富興行場焼け・浮世小路・本町裏河岸伊勢町・本船町・あんしん町・長浜町・小田原町・駿河町越後屋残らず焼くる。室町・かね吹町・草屋町・両替町金座・鞘町・品川町・日本橋・江戸橋・荒目橋焼落ち、四日市大手ぐら西河岸青物町・万町・呉服町・平松町・音羽町・通町白木屋焼くる。本材木町・佐内町・式部小路・油町・小松町・新右衛門町・川瀬石町・はくや町・くれまさ町・岩倉町・下槙町・おが町・まさき町・鞘町辺、又新場残らず焼くる。〔そカ〕くつ橋残る。中橋・南伝馬町・大工町・五郎兵衛町・加治町・鈴木町・常磐町・柳町・具足町・金六町・竹町・此辺残らず、京橋与作屋敷・水谷町白魚屋敷・三十間堀太刀売弓町観世様・西紺屋町・看町・弥左衛門町・数寄屋河岸、京橋より南は銀座町・尾張町布袋屋・夷屋残らず焼け、竹川町・出雲町、夫より金春屋数新橋にて止る。鍋町・滝山町・鎗屋町・森山町・宗十郎町・内山町・山王町・南大坂町・佐柄木町・加賀町・八官町・丸屋町、此町家山下町より西片側残り土橋にて止る。海賊橋焼落ち、牧野様・九鬼様・小浜様・坂本町・茅場町薬師堂・天神社・八丁堀・松平越中様並御組屋敷残らず、小島町・亀島町・水谷町・竹島町・日比谷町・同河岸古著店・幸町・岡崎町・長沢町・松屋町・同橋・長崎町・家根屋町・弾正橋・八堀丁残らず、南八丁堀・本多下総様・伊達紀伊様・新庄様・松平右近将監様・井伊掃部頭様・大富町・松村町・紀国橋紀州様・御蔵屋敷・板倉様・京極様・曲淵様・大久保様・木挽町七丁焼け、河原崎芝居焼け、五丁目の橋残る。御旗本様、御医師方数多焼け、御絵師狩野様・諏訪様・松平周防様・柳生様・仙石様・オープンアクセス NDLJP:86太田様・加納様・田沼様・宮原様・溝口様・亀井様・奥平様迄、塩止橋残る。向は脇坂様御屋敷にて止る。八丁堀中の橋・中川様・松平縫殿様・松平遠江様・堀田様・御両家・石川様・小笠原備後様・西尾様・榊原様・奥平様・渡辺様・脇坂様・松平周防様御屋敷・多賀様・神尾様・石川大隅様〈間の橋残る。〉天野様・小笠原様・松平頼母様・蘆屋様・堀本様・今春様其外御屋敷数多焼くる。中築地、松平宮内様・小浜様・梶野様・能瀬様・永井様・阿部様・大熊様・松下様・三浦様・小倉様・松平上総様・南部様・松平飛騨様土佐様・松平与次右衛問様・青山様・桂川様・庄田様・秋田様・稲葉様・本多様・藤掛様・板倉様・伊東様・本多様・横田様・加加爪様・戸川様・山本様・朽木様・三枝様・花房様・西尾様・西御門跡御地中残らず焼け、木下様・岩瀬様・竹田様・上杉様・津田様・亀井様・畠山様、橋向は・増山様・阿部様・村恒様・松平越中様・稲葉様・御両家一橋様・安芸様・尾州様御蔵屋敷にて止まる。誠に前代未聞の大火にて、人毎に老人幼き子を助けんと、我が身も厭はず、財宝をも惜まず散乱したれば、諸式の焼失したること莫大なり。是によつて有難くも、御公儀様より御救の小米を御建下され、飢渇にも及ばず、雨路にも打たれず、其上に銘々に御鳥目おてうもくを下されし事、誠に尊く、有難き御仁政の程、申すも中々に恐れ多き事ながら、国々・津々浦々迄も聞伝へ、諸人安堵の思をなしぬ。

猶又四月六日朝より大南風吹出し、昼午の時後より麻布ながさか辺より出火して、東側少々焼け坂上大長寺・光照寺・太田原様・池田様・坂上町家並角有馬様・飯倉片町通りおかめだんご・牧野甚三郎様・上杉様囲少々、内藤様・野沢千太郎様御屋敷にて留まる。又一口は天野左近様・長田百助様・織田大蔵大輔様・諏訪様・がぜんばう御組屋敷少々焼け、市兵衛町中角山口様・田賀大助様・日根野権十郎様にて留り、中立町残らず中の町辺、畠山様並に御旗本様方・石川様・六軒町木戸際にて留まる。又なだれ坂善照寺・円林寺・真上寺・大仙寺にて留まり、谷町御組屋敷並に町家とも相馬様少々、永照寺・西光寺・真田様・黒田様少々、松下日向様・山口様、南側横田様・土岐様御屋敷にて留まり、夕方鎮まる。

 
                                        
 
オープンアクセス NDLJP:87    文政十二丑三月廿一日大火に付御救小屋場所附

御公儀様より数万の人々へ御救小屋御建下され、飢渇にも及ばず、雨露にも打たれず、其上銘々御鳥目下され候事、実に尊く有難き御仁政の程、申上ぐるも恐多き事ながら、万民悦び万歳をぞ謡ひける。毎日御炊出おたきだしの御用深川辺茶屋々々より持運び申候。

大火の御救小屋場所附筋違御門外、一箇所、 両国広小路、二箇所、 常磐橋外、 江戸橋、一箇所、 数寄屋橋外、一箇所、 八丁堀、二箇所、 幸橋外、一箇所、 築地、一箇所、 神田橋外、一箇所、

都合十箇所

右御小屋へ江戸中町々より施行の品左之通、救助寄附の人名一、米一升・銭二百文宛、五人衆の面々より 一、白粥・たくあん 十人衆の面々より、 一、干物五枚宛   ​駿河町​​ 越後屋本店より、​​ ​ 一、金六十三両一歩一朱但し一人に付一朱宛浅草片町辺より 一、実母散百袋、ふり出し百袋、   ​本町三丁目​​ 伊勢屋平八​​ ​ 一、銭二百文宛   ​御蔵前​​ 伊勢屋四郎左衛門​​ ​ 一、銭二百文、手拭一筋宛、   ​同​​ 伊勢屋嘉兵衛​​ ​ 一、米一升宛    ​同​​ 坂倉屋次兵衛​​ ​ 一、銭二百文宛   ​同​​ 同七郎兵衛​​ ​ 一、金一朱宛    ​ ​​ 御蔵前より​​ ​ 一、銭二百文    ​ ​​ 御蔵前より​​ ​ 一、金一朱宛    ​麴町​​ 岩城枡屋より​​ ​ 一、御はち一宛   ​同​​ 伊勢屋八兵衛​​ ​ 一、銭百文、紙一帖宛、   麴町より 一、銭百文、手拭一筋宛、   ​麴町​​ □より​​ ​ 一、半紙五帖ちり紙五帖宛   ​浅草諏訪町​​ 和泉屋甚左衛門​​ ​ 一、きおうさん百五十包   ​下谷金杉大塚村​​ 中村ようてい​​ ​ 一、銭百文宛    ​和泉橋​​ かうの屋より​​ ​ 一、沢庵四樽、なめ物樽入二つ、  ​浅草堂前​​ 龍光寺御門前より​​ ​ 一、銭百文、米一升宛     ​市ケ谷​​ まつうら屋より​​ ​ 一、茶漬茶碗汁椀一人に付一宛  ​ ​​ 浅草辺より​​ ​ 一、銭三百文宛   ​丸の内​​ 御屋敷様より​​ ​ 一、丸薬一包宛   ​根岸大塚村​​ 中山哥明​​ ​ 一、餅菓子五宛  ​丸の内御屋敷​​ 御奥御女中様方より​​ ​ 一、めざし一把宛  ​ ​​ 本船町辺より​​ ​ 一、銭二百文、米一升宛     ​佐久間町​​ ふし見屋より​​ ​ 一、銭十二貫五百文下谷同朋町、上の町同代地共、同長者町、神田山本町代地、下谷大工屋敷、谷中 一、銭二百文宛   ​谷中​​ 三河屋より​​ ​ 一、手拭一筋、すきがへし五帖宛  ​本郷​​ 万屋より​​ ​ 一、銭十三貫二百文 ​武州都筑郡浅尾村​​ 百姓鉄五郎より​​ ​ 一、銭二百文紙一帖宛     ​外神田​​ 玉川本店より​​ ​

オープンアクセス NDLJP:88一、銭百文宛    ​ ​​ 麴町辺より​​ ​ 一、定中散二千五十袋​本所石原町​​ 古田より​​ ​ 一、銭百文手拭二筋宛   ​明神下​​ 沢の井より​​ ​ 一、銭三百文宛   ​芝口​​ 小西より​​ ​ 一、手拭二筋紙二帖宛、    ​下谷広小路​​松坂屋より​​ ​ 一、銭二百文・茶一斤宛​すぢかひ外​​ 内田本店より​​ ​ 一、一朱判千五十二 ​浅草​​ 旅籠町代地辺より​​ ​ 一、銭二百十貫六百文​浅草​​ 旅籠町代地辺​​ ​ 一、毎朝ぞうすいめい   ​鎌倉河岸​​ としま屋より​​ ​ 一、干肴二千三百五十枚    御小屋炊出し世話人深川常磐町上総屋庄八武蔵屋五郎兵衛 一、銭九十七貫六百文もち九百七十六  ​吉原町​​ えびや吉助​​ ​ 一、金一朱宛    ​同​​ 玉屋山三郎より​​ ​ 一、銭二百文宛   ​同​​ 中まんぢ屋より​​ ​ 一、銭二百文宛   ​吉原町​​ 扇屋より​​ ​ 一、紙一帖まんぢう五つ宛  ​同​​ 丸えび屋より​​ ​ 一、銭二百文手拭一宛     ​同中の町​​ 森田屋庄吉より​​ ​ 一、銭二百文下帯一筋宛    ​同けんばん​​ 大黒屋正右衛門より​​ ​


右の次第を見るに付け聞くに付けても、火の元を大切に守るべき事肝要なり。

 
                                        
 

諸国名産織物類大安売織物売出の広告  向暑之砌益〻御機嫌能く被御座、恐悦至極に奉存候随て私儀、数年来商売仕候処、以御蔭日増に繁昌仕、難有仕合奉存候。猶又当反物類沢山に仕入仕候。然る処去る三月廿一日四つ時過ゟ、外神田佐久間町ゟ出火致し候に付、店開しばらく差控候得共、折角仕入候品々一寸奉御覧度、以別札御披露申上候。乍併斯様之品々御用向無之様幾久敷差上申間敷候。尚又御懇意様方へも店借御普請等被遊候様宜敷被仰合、追々御本宅へ被御引移御繁昌に御暮らし遊され候様奉希候。以上。

一、おほ西風おりちりめん 一、土手の柳こげ茶がへし新形染 一、火の見櫓ではんしよう摺柿染 一、西北の風にて忽ち猛火地単物 一、町中一めんに火ちりめん 一、八方に飛火、かのこちりめん 一、横堅十文字に吹付縞御仕著せ物地 一、屋根に火のこがふるてがへし類 一、火のこがばらふるあられ小紋御羽織地 一、家にどつともへぎこきんらん女帯地 一、人足骨折地役場羽織大丈夫向 一、人込にて迷子となる身しぼり御ゆかた地

オープンアクセス NDLJP:89一、踏みたをされて平織御はかま地 一、ふりよなめにあふめ縞御単物 一、人々難渋しなのもめん御単物地 一、此身はなんとならざらし御かたびら地 一、とんだめにあひみる茶新形染 一、火事ときくと金玉が越後ちやみ御かたびら地 一、むしろおり小家難儀男女帯地 一、松・杉板〆高うりちりめん 一、つくだ島へ飛八丈新おりだし 一、自身番では昼夜引くかな棒島御単物地


〈[#図は省略]〉月日 焼栗原 広八

     三月廿一日・廿二日江戸角力組合角力組合

神田川 新橋 火を出し 焼留り 佃島 下飛 飛火野 那馬 所々の浦 引汐 焼船 薄雲 大風 霊岸島 江戸ケ原 人野山 焼原 松板 縄張 高根山 飛んだ目 小家掛 逢の松 住田川 頭取行司  地車邪魔之助

火札類焼候。先以其御地御火内ごかな御揃、弥〻御半鐘ごはんじよう之段大変に参損候。次に火内可れも無夜著よぎ辻々に罷在候。乍店借御心細思召可下候。ひか火の子一袋不浄之至に候得共、時節任到来身上痛候参事期灰面はひめん之時候。向後貧言ひんげん

  三月廿一日 ​佐久間元之進​​    焼広丸​​ ​

       芝口留太郎様​ ​​ ​​人々逃口​

右植田源八が書状の外は、残らず板行になして、江戸より追々に贈り来りしを写せオープンアクセス NDLJP:90るなり。死人、公儀へ書上げの数十万六百人といへり。 〈焼けて灰となりて形知れざる、又海川へ押落され流れ失せぬるなど猶多かるべし。〉越前福井侯と松平越中侯とは、立退たちのきの節往来の人を多く斬捨てられし故、至つて評判悪しく、公儀の思召も宜しからざる由、又辛うじて命を助かり、家 悉く焼失ひし者共、御救小屋にて公儀より御まかなひ下し置かれ、施行など受けぬる身の、施行のもらひ溜出来できしとて、銘々に少々づつの裁出し合い、初鰹〈いつも金一両もする初鰹も、当年の大変にて三貫文位なりしといふ。〉を調へ酒を飲み、三味線などを引き、浄瑠璃・端歌はうたなど歌ひ、役者の物真似などせしとて、大勢召捕られ入牢の由、又大勢人込の事故、男女不義の行あるも多かりしといふ。是等は論ずるに足らざるたはけ者なり。又斯かる大変にて、父母・夫・妻子を失ひ、たよるべき家なく、大勢の人々路頭に迷ひ、うれひに沈みぬる事なれば、患難相救ひ、吉凶相助くるの力なくとも、其患を見ては自分憐みの心を出せるは、人の情なるべきに、人の患を楽みて呉服物・角力などに見立て、紙一枚ずりの板行にして、売歩行うりあるき銭を貪れる者共は、如何なる人非人ぞや。予が見しは右の二図なれども、定めて斯かる事猶多かるべし。是等は大罪人にして、如何なれば斯かる大変に焼失はざりし事やと歎息に堪へざりし。

 
 
 

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