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浪漫趣味者として


 H――氏と云って、青年の間に評判の高いロマンティストと懇意を得たことがあった。

 H――氏は、散歩に出る時の外は、何もしないで、下宿の好ましい調度で品よく飾った部屋に寝ころんでいることが多かった。少からぬ親の遺産が預金してあるという噂であった。

 初対面の時、私は自分も予々かねがね優美なロマンティストの生活を望んでいた旨を告げた。

『これは生え抜きのものです――』とH――氏は、私のギャラントリイを咎めるように云った。『ダーインにしても、マルクスにしても、アインシュタインにしても、偉いロマンティスト程、択ばれた素質を具えていました。あなたの身体組織フィジカル・エコノミイの中にロマンティストとしての生まれ付きが含まれていると思いますか?』

 私は赧くなった。

『いいえ、僕の頭は、足と少しも変りがない程俗物です。僕は、それだから、ただ表面うわべだけのことで、他人からロマンティストとして見て貰えるような、或る種の作法とでも云ったようなものを学びたいのですが……』

『ははあ! なる程。併し、何をお教えしたらいいのでしょう。名刺をこしらえて、名前の肩にロマンティストとゴジックで刷り込む案は如何です?』

『他に、お心づきのことはないでしょうか?』

『一向に! 思うに、ロマンティストは速成教師として最も不向きなのでしょう。』

 僕は断念することが出来なかった。

『万事あなたの真似をすることを許して頂けないでしょうか?』

『やって御覧なさい。僕もそうしている中に、何か心づく点があるでしょうし、出来るだけ相談に乗って差し上げます。――兎に角、ロマンティストの精神から、信義と友愛とを失うわけには行きませんからね。』

 それから、H――氏が私の生活の主人となった。

 H――氏は、書架も書籍も持っていなかったが、私はロマンティストの思想について概念的な知識を得たいと考えたので、何か適当な参考書はないものかとH――氏に質ねると、H――氏は皮肉な調子で答えた。

『テイークの「蒼海万里の夢」だのユイスマンスの「さかさ物語」だのアイヒベルクの「学生ロマンティスト」だのゲーテの「ウェルテルの悲嘆」だのを読みたいのですか? お止しなさい。文学青年じみているのは、ロマンティストとしてこの上なく恥しいことです。……そんな風な本なら、僕は二万冊位名を挙げることが出来ますが、読書のために、読書するには、ポドレイアン図書館の蔵書の数程読まなければ甲斐がありません。併し、一冊も本を読まずにいることだって、可なりロマンティストらしいと云えるのです。』

 そうして、H――氏は、私にハンス・アンデルセンの「王様の話」の類と、小学生用の自然科学の全集と、何処かの巫女が書いた「手相判断キロマンシイ」の本などをすすめてくれた。

 H――氏はボヘミヤの侯爵のような工合に鳥の羽根をさした青羅紗の帽子をかぶって、散歩に出た。

 服装に依る方法は最も効果的である。カーキ色の軍服を着て、軍歌を高唱して歩けば、リイプクネヒトだって、忠勇な兵隊と見えたに違いない。私も早速青羅紗の帽子を買って来て、羽根を飾って、散歩をこころみた。すると、果して、行き交う人の殆んど全部が、私の帽子に目をひかれて、私を振り返って見てくれた。私はほくほく者で、幾度も同じ通りを胸をそらして闊歩した。

 ところが、或る晩私は一人で散歩している時にその帽子のお蔭で不良少年につかまった。薄暗い煉瓦の建物のある街角に立っていた肩のいかつい蒼白い顔をした青年が、私の腕を素早くとらえた。そして『ちょっと顔を借してくれ』と云って、私を無理矢理に建物の蔭へ連れ込むと、そこの暗がりに待っていた二三人の仲間と共に私を囲んで、金銭を強請した。私は拒絶した。すると、『生意気な野郎だ。へんてこれんなシャッポなんか被りやがって、大きな面するねい!』と云うが早いか、メリケンサックを嵌めた手が、したたか私の顔面を殴った。私は忽ち、石道の上に昏倒し、青い帽子と共に彼等の土足に踏みにじられてしまったのである。

『君は、屹度お洒落の若い衆のように身綺麗にし過ぎていたので、青い帽子迄が、女を誑すための嗜みのように思われたのですね。』とH――氏が云った。そして、ロマンティストは、何時もすべっこく髭を剃り立ての頤を光らせていたり、伊達色の当世風に身についた新調の衣服を着たり、香水の匂いをさせたりしないことや、また道を歩きながら余り明けっぴろげに娘たちばかりを眺めたりしてはならないことを教えてくれた。

『爪垢を少しためて。――だが、汚穢むさくるしくなってはいけない。隔日位に、お湯に入って皮膚を清潔な健康色に磨くのがよろしいでしょう。』そんな注意もした。

 私は段々ロマンティストの様子に慣れて来た。適度の無精髭を蓄えて、ゆったりとした厚地の服に、洗濯の行き届いた縞シャツを着て、始終ネクタイをゆるく横っちょにらかし加減にして、百姓持ちの様な大きな煙管を銜えることにした。そして、外出の時には、ステッキの代りに、どんなお天気の日でも木綿の雨傘を携帯する位の技巧を会得した。勿論、もう不良少年たちから付けねらわれる憂はなくなった。

 さて、私はH――氏に誘われて、時々バンフィリヤ酒場バアへ行った。其処には、「星の花」とH――氏が讃えた美しい女給がいたが、彼女は次第にH――氏よりも新しい私の方に心を惹かれるらしい素振りを見せた。勿論、H――氏のロマンティスト的厚意から、私自身の真価に分をつけるために、私がその都度勘定を支払ったせいもあったのであろう。私が七度目にそこで酔っぱらった機会に、「星の花」は私を物蔭へ招いてこう云った。

『明日、お休みなの。遊びに連れてって下さらない?――』

『僕がですか? しめしめ!』

『え、あんた一人。夕方の六時に、表停車場でお待ちしているわ。その代り、その時、指輪を一つ買って来て下さらなくては厭。』

『それだけ、埋め合わせがあると云う寸法ですね、値段に応じて。』

『だけど、高くないので結構。』彼女は指輪の形や石について好みを述べた。

『僕、約束します。』

『約束のしるし!……』

 ロマンティストに栄えあれ! 私は、この果報に感激した。そして、三鞭酒シャンペンを矢鱈に抜かせた。

 私の有頂天になりようが、あまり激しかったせいか、H――は少からず機嫌を害ねたらしかった。戻り途で、私が唄を歌いはじめると、H――氏は苦々しい顔をして、『どんなに楽しいことがあったにせよ、あまり泥酔して時花唄はやりうたなどを歌って歩くのは、我々に全く似合わしくないこととは考えませんか?――』とたしなめた。

 それで私は、折角打ち明けて聞いて貰おうと思っていたところだったが、「星の花」について何も云い出せずにしまった。

 翌日、私は早くからH――氏の部屋を訪れて、ロマンティストは、一体どんな指環を恋人のために択ぶべきかを質いた。

『君に恋人があるんですか?――』

『指環が万事物を云うのです。』

『せいぜい立派なのを買ってお上げなさい。』

『蛋白石と云うのですが、僕には宝石の鑑定などは少しも出来ないのでしてね。』

『造作もない話です。一緒に行こうではありませんか。そんな贈物はロマンティストとして是非とも細心を要することです。』

 H――氏は非常に乗り気になって、直ぐ宝石屋迄一緒に行ってくれた。そうして、殆ど自分独り決めに、恰もH――氏の贈物ででもあるかの如き熱心さで、いろいろと吟味した末、一番値の張った奴を択び出した。

『これを買ってお上げなさい。値段は――持っていますか?』

 H――氏は正札と見比べるように、私の財布の中味を覗き込んだ。

『恰度。すっかりハタかなければなりません――もう少し廉いのではいけないでしょうか?』

『困るなあ。――』H――氏は横を向いて眉をひそめた。

『金銭に淡白になれないロマンティストなんて、鼻もちになったものではない…』そこで、私は到頭この高価な買物を余儀なくさせられた。宝石屋の店を出ると、うなだれがちな私を引き立てるように、晴々とした調子で彼は云った。

『何にしても、これなら先方だって充分嬉しがるに違いない。幸福な婦人だ。ところで、その淑女は、僕などの無論知らない人でしょうな。』

『いや……』私は口ごもった。『いや、実はあの「星の花」と今晩一緒に遊びに行く約束をしたのです。』

 するとH――氏は、ひどく吃驚した様子で立ち止まった。

『これはしたり! いやはや、そんなことと知っていたなら、僕は何もこんなお人好しの役目を仰せつかるのではなかった。あの女は実に怪しからぬ奴です……』

 H――氏は激昂のあまり息を切らせながら云うのであった。『正直なことを白状すれば、あの女は僕と夙に夫婦約束がしてあるのです。そして、しかも、僕にも指輪を一つ買わせました。これとすっかり同じ指輪なのです。あの女は十月生まれですから、蛋白石を欲しがるのですよ。ああ、何と云う咀われたことでしょう。』

『大丈夫です。』と僕は云い切った。『僕にとって、女よりもロマンティストの信義と友愛の方が遙かに値打のあるものです……この指輪は、溝へたたき込んでしまいましょうか? それとも、店へ返して、その金で思い切り飲みましょうか?』

 H――氏は煙管の煙にむせ返りながら泪ぐんて頷いた。

『有難う。――だが、ちょっと待って下さい。僕は、これから行って、その指輪を彼奴の顔へ敲きつけてやりたいのです。』

『併し、ロマンティストとして、それはあまり……』

『いやいや、僕は生え抜きのロマンティストですから。』

『ごもっとも、では、そう云うことになさるのもよろしいでしょう。』

 H――氏は、私から指輪を受け取ると、「星の花」を詰問に出かけたが、どうしたものか、それっきり翌日迄戻らなかった。

 次の日、私がH――氏の部屋を訪れた時、H――氏は机の上で手提金庫を開いて、幾十枚かの手の切れそうな紙幣を数えていたが、私の顔を見ると急いで蓋を閉めた。そして、非常に機嫌のいい声でこう云うのであった。

『――昨日は、どうも飛んだ思い違いだったのですよ。「星の花」に事情を質してみたところが、彼女は僕から先に買って貰った命よりも大切な指環を烏渡した不注意から失してしまって、可哀相に自殺しようとまで思いつめたんだそうです。併し、恰度、そこに君と云うロマンティストが近寄って来たので――彼女は女に似合わず、非常に良くロマンティストを理解しているのです――つまり、君の厭味のない親切を信じて、つい頼る気になったのですね。それで……』

『ロマンティストの友情にかけて――』と私は、おそるおそる切り出した。『私は、ロマンティストの生活を長く暮しすぎたために破産してしまいました。もう今日のお米がありません。夜逃げの旅費をほんの少し貸して下さい。』

『お金!?』H――氏は金庫の蓋に手を置いたまま愁しげに首を振った。『一文もないのですよ。この金庫に入っているのは、みんな贋造紙幣です。いいえ、全く偽せ物に違いないのです。ロマンティストは、金の工面に奔走したり、友情を強要したりすることよりも、自分一人で牢屋に入った方が、ずっとロマンティックだと思いますからね。そうではありませんか。……』

 そこで、私は、身体組織に変化を生じない限り、ロマンティストとしてあらゆる努力が空しいことを知った。

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