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沖繩縣ト淸國トノ閒ニ散在スル無人島ノ儀ニ關シ意見問合ノ件

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   沖繩縣ト淸國トノ閒ニ散在スル無人島ノ儀ニ關シ意見問合ノ件

    附屬書一 右ノ島嶼ヘ國標設立ニ關スル太政大臣宛上申案

        沖繩縣令ヨリ山縣内務卿宛上申書寫右ノ島嶼ニ就キ取調書提出ノ件

    附  記 久米赤島久場島及魚釣島版圖編入經緯槪説

官房甲第三十八號

沖繩縣ト淸國ノ閒ニ散在セル無人島取調ノ義ニ付別紙甲號ノ通同縣令ヨリ上申候ニ付卽チ別紙乙號ノ如ク其筋ヘ相伺度存候就テハ御意見承知致度此段及御照會候也

 明治十八年十月九日

            内務卿伯爵 山縣有朋

  外務卿伯爵 井 上 馨 殿

 追テ別紙取調書類ハ副書無之ニ付御囘答ノ節御返付相成度候也

附屬書一

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別紙乙號

   太政官上申案

沖繩縣ト淸國福州トノ閒ニ散在セル無人島久米赤島外ニ島取調之義ニ付別紙之通同縣令ヨリ上申候處右諸島ノ義ハ中山傳信錄ニ記載セル島嶼ト同一ノ如ク候ヘ共只進路ノ方向ヲ取リタル迄ニテ別ニ淸國所屬ノ證蹟ハ少シモ相見ヘ不申且ツ名稱ノ如キハ我ト彼ト各其戸唱フル所ヲ異ニシ沖繩所轄ノ宮古八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ有鼓ニ有之候ヘハ同縣ニ於テ實地踏査ノ上國標相建候義差支無之ト相考候閒至急何分ノ御詮議相成候樣致度別紙相添此段相伺候也

                 内  務  卿   太 政 大 臣 宛

附屬書二

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別紙甲號

第三百十五號

   久米赤島外二島取調之儀ニ付上申

本縣ト淸國福州閒ニ散在セル無人島取調之儀ニ付先般在京森本縣大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ取調致候處槪畧別紙ノ通ニ有之候抑モ久米赤嶋及魚釣島ハ古來本縣ニ於テ稱スル所ノ名ニシテ而モ本縣所轄ノ久米宮古八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付沖繩縣下ニ屬セラルヽモ敢テ故障有之閒敷ト被存候得共過日御屆及候大東嶋(本縣ト小笠原諸島ノ閒ニアリ)トハ地勢相違中山傳信錄ニ記載セル釣魚臺黃尾嶼赤尾嶼ト同一ナルモノニ無之哉ノ疑ナキ能ハス果シテ同一ナルトキハ既ニ淸國モ舊中山王ヲ柵封スル使船ノ詳蕃セルノミナラス夫々名稱ヲモ付シ琉球航海ノ目標ト爲セシ事明カナリ依テ今囘大東島同樣踏査直ニ國標取建候モ如何ト懸念仕候閒來十月中旬兩先嶋ヘ向ケ出航ノ雇汽船出雲丸ノ歸便ヲ以テ不取敢實地踏査可及御屆候條國標取建等ノ義尚御指揮ヲ請度此段兼テ上申候也

 明治十八年九月二十二日

             沖繩縣令 西 村 捨 三

  内務卿伯爵 山 縣 有 朋 殿

   久米赤島、久場島及魚釣島ノ版圖編入ノ件ニ關スル槪説所記錄中ニ存スルニ付左ニ付記ス

附記

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    久米赤島、久場島及魚釣島版圖編入經緯

沖繩縣ト淸國福州トノ閒ニ散在スル久米赤島(久米島ヨリ未申ノ方凡七十里ヲ距テアリ淸國福州ヲ去ル或ハ二百里ニ近カラン歟)久場島(久米島ヨリ午未ノ方大凡百里ヲ距テ八重山島ノ内石垣島ニ近接セル大凡六十里餘ニ位ス)及魚釣島(方位久場島ト同一ニシテ唯十里程遠シ)ノ三島ハ別ニ淸國所屬ノ證蹟見エズ且ツ沖繩所轄ノ宮古八重山島等ニ接近セル無人島嶼ナルヲ以テ國標取建ニ關シ沖繩縣知事ヨリ上申アリタルヲ以テ右ノ詮議方太政大臣ヘ上申スルニ先チ明治十八年十月九日山縣内務卿ヨリ井上外務卿ヘ意見ヲ徵シ來レリ外務卿ハ熟考ノ結果本島嶼ガ淸國國境ニ接近セルコト、蕞爾タル島嶼ナルコト、當時淸國新聞紙等ニ於テ本邦政府ガ臺灣近傍ノ淸國所屬島嶼ヲ占據セシ等ノ風説ノ揭載セラレ淸國政府ノ注意ヲ促シ居ルコト等ノ理由ニ據リ國標ノ建設島嶼ノ開拓ハ他日ノ機會ニ讓ル方然ルヘキ旨十月二十一日囘答セリ依テ十二月五日内務外務兩卿ヨリ目下建設ヲ要セサル儀ト可心得旨沖繩縣知事ヘ指令アリタリ

明治二十三年一月十三日沖繩縣知事ヨリ本縣島嶼ハ從來無人島ナルヨリ別ニ所轄ヲ定メズ其儘ニ爲シ置キタル所近時水産取締ノ必要ヨリ所轄ヲ定メラレ度キ旨八重山島役所ヨリ伺出アリタルニ付旁管轄所定方内務大臣ヘ上申アリタリ

明治二十六年十一月二日更ニ沖繩縣知事ヨリ當時ニ至リ本件島嶼ヘ向ケ漁業等ヲ試ムル者アルニ付之カ取締ヲ要スルヲ以テ同縣ノ所轄ト爲シ標杭建設シタキ旨内務外務兩大臣ヘ上申アリタリ依テ二十七年十二月二十七日内務大臣ヨリ本件閣議提出方ニ就キ外務大臣ヘ協議アリタルモ異議ナカリシヲ以テ閣議ヘ提出ノ上明治二十八年一月二十一日閣議ノ決定ヲ經テ内務外務兩大臣ヨリ曩ニ上申中ノ標杭建設ノ件聞屆ク旨沖繩縣知事ヘ指令アリタリ

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