歎異抄 (意訳聖典)

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歎異鈔

ひそかにおろかなるかんがへをめぐらしてしんらんしやうにんざいむかしと、めついまとをかんがへてみるに、たうこんしやうにんぢきけうまことしんじんちがつたせつてるものゝあるがなげかはしく、またしよしんひとをしへさうぞくするうへうたがひをいだくかもれぬとあんじられます。

さいはひによくみちびいてくださるしきをしへらなければ、やすとおすくひにあづかるりきもんることができませう。しんどくだんまかせてりきをしへみだしてはなりませぬ。

よつしんらんしやうにんおんものがたりちやうもんして、いまなほみみそこにのこつてゐることをすこしばかりかきしるします。そのもくてきひとへおなみちをたどるぎやうじやしんのかどをあかしたいばかりであります。


ふしぎふよりひやうのない、みだによらいちかひにたすけられてじやううまれさせていたゞくのだとしんじてねんぶつまうさうとこゝろもちになつたときおさとつてないとめ〔ぐ〕みにあづからしてくださるのであります。

みだによらいのおちかひはらうじんせうねんぜんにんあくにんしやべつたまはず、ありのまゝにすくうてくだされるから、そのぜんあくをかけず、たゞすくうてくださるぐわんりきにまかせたてまつるしんじん一つがかんえうなのであります。そのゆゑはざいあくふかおもい、なやみつよものたすけるためのちかひであらせられるからであります。

してみれば、そのちかひをしんずるじやうは、ぜんごんをほしいとはおもはぬ。おちかひのできあがりであるねんぶつにまさるぜんがないからであります。またわがあくあればとてあんじはしませぬ。ちかひのちからへぎるほどのあくぬからであるとあふせられました。


みなさまは十こくやまかはえていのちがけになつてゑんぱうから、わざたづくださいましたおこゝろもちは、つまりごくらくわうじやうするみちきたいためでございませう。

それなれば、たゞほとけのおちかひをしんじてねんぶつするばかりであります。それにねんぶつぐわいなにわうじやうみちでもつてり、またはがくもんろんしようしてりながらかくしだてをしてらさないのであらふとなにとなくこゝろおきせられてらるゝならばたいへんけんたうちがひであります。もしがくもんさたでもりたいならば、どうかなん〈奈良〉ほくれい〈叡山〉あたりにすぐれたがくしゃたちおほくおでなされるから、そのかたがたおあひなされてわうじやうするにかんえうだとおもはれることをいてください。

このしんらんは、「たゞねんぶつしてみだにたすけられなさいと」しやうほふねんしやうにんあふせをかふむりてにょらいほんぐわんを、そのまゝしんじてるだけのことで、べつさいはありませぬ。

ねんぶつはまことにじやうにむまるゝたねやら、またごくにおつるわざであるやら、そのへんのことは一さいぞんじませぬたとひほふねんしやうにんにだまされ、ねんぶつしたによつてごくにおちたからとて、さらこうくわいはいたしませぬ。そのゆゑは、ねんぶつよりほかのぎやうをはげみてほとけにならるゝが、ねんぶつまをしてたゝめにごくにおちたのなら、すかされた、だまされたとこうくわいもしようが、いかなるぎやうもたもちえぬなれば、どうしてもごくはきまりきつてわたくしすみであります。

みだにょらいのおちかひが、まことであらせられるから、それをかれたしやくそんせつぽふうそであらせらるゝはずがない。しやくそんせつけうまことであらせられるから、ぜんだうおんしやくうそであらせられるはずがない。ぜんだうおんしやくまことであらせらるれば、ほふねんのおほせが、どうしてうそでありませう。ほふねんのおほせがまことであらせらるれば、しんらんのまをすことも、いつはりではありますまい。

しよせんこのおろかわたくししんじんはこれだけであります。このうへねんぶつしてわうじやうするとしんじなさらうと、またしんじなさるまいと、みなさまのおこゝろまかせでありますとあふせられました。


ぜんにんでさへじやうわうじやうするのだもの、ほんぐわんあてあくにんなほさらわうじやうさせていたゞける。それにひとはつねに「あくにんでさへわうじやうするのであるから、それよりすぐれたぜんにんなほさらわうじやうするにちがひない」とおもうてるやうです。それは一わういかにもだうのあるやうではあるが、りきほんぐわんこゝろもちとは、まるでちがつてます。

なぜかとふに、りきぜんごんをしてわうじやうしようとするひとは、ひとすぢにほんぐわんのおはからひにまかせるこゝろけてるからみだによらいほんぐわんこゝろもちにかなはない。けれどもりきこゝろひるがへしてりきほんぐわんに、まかせたてまつるこゝろになればまことはうわうじやうさせていたゞかれるのであります。

ぼんなうづくめのわたくしたちは、どんなしゆぎやうはげんでもまよひはなれられないのをびんおぼしされてほんぐわんおたてなされたのであります。してればほんぐわんおこされたほんあくにんすくうてほとけにしたいとおぼしめしでありますからほんぐわんりきのおはからひにすがたてまつあくにんわうじやうかくしやであります。

よつてりきこゝろでは〔「〕ぜんにんでさへじやうわうじやうできるのですからほんぐわんあてあくにんは、なほさらわうじやうさせていたゞかれます」とあふせられました。


じひしやうだうもんじひ〈自力〉じやうもんじひ〈他力〉とのべつがあります。しやうだうもんじひは、このおいぶんちからひとびとあはれどうじやうし、そだてゝくことであります。けれどもおもどほりたすけとげることはめつにありません。

じやうもんじひといふは、まづねんぶつするとなつてはやくじやうまゐり、ほとけとならせていたゞいてだいだいしんをあらはしてのぞみのまゝにまよへるひとびとやくするのであります。

こんむやうぼんぜいで、どれほど、いとしびんおもうてもおもひのまゝにたすけることができないから、そのじひてつていであります。

してれば、ほとけのおちかひをしんじてねんぶつまをすことだけがしんてつていしただいだいしんであるとあふせられました。


しんらんちゝはゝつゐぜんためおもうて、まだいつぺんでもねんぶつまをしたことはありませぬ。なぜかとふに、わたくしたちおやは、こんじやうこのからだんでくだされたちゝはゝばかりでは〔な〕く、をんごふらいうまれかはりママかはりしてあひだには、すべてのいきものは、いづれ一みなわたくしふぼきやうだいであつたでせう。すれば、どれもこれも、このつぎには、わたくしほとけになつてたすけさせていたゞくのであります。

ねんぶつわたくしちからはげぜんごんでゞもあるならば、それをふりけてちゝはゝたすけもしやうが、さうではありませんからたゞりきをすてゝ、いそぎおじやううまれて、さとりをひらかせていたゞいたなら、そのときこそじんつうざいはうべんりきをもていづくのきやうかいに、いかなるくるしみにしづんでをらうとも、えんるものからさいさせてもらひますとあふせられました。


もはねんぶつをさめるとなかうちで、わがでしひとでしつてあらそふなどはもつてのほかのことであります。

しんらんにはでしふものはひともありませぬ。なぜなれば、しんらんがはからひでひとねんぶつまをさせるのならばでしともはれやうが、みだによらいもよほしによつてねんぶつまをすひとを、でしなどゝまをすことはたいへんえんりよなことであります。

くもはなるゝも、それはみなさうなるいんえんによるのであるから、「しやうにそむきべつじんいてねんぶつしてはわうじやうできない」などゝいはれが、どこにありませう。そのやうなことをふのは、ほとけかたからあたたまうたしんじんを、ものがほにとりかへさうといふのであるが、かへすもけしからぬことであります。

ほんぐわんりきおぼしめしにかなふやうになれば、おのづからぶつおんをもしり、またおんをもよろこばずにはられぬやうになるのでありますとあふせられました。


なもあみだぶつしんじてとなへるひとは、なにものもさはりとならぬたゞひとつのみちであります。なぜなれば、しんじんぎやうじやは、てんちのかみもおうやまひなされ、あくたんじやけうもそのしんじんしやうすることはできません。またざいあくがあつてもむくゐをうけず、いかなるぜんもおよばないのであるからですとあふせられました。


ねんぶつほとけしんじてみなとなへるぎやうじやのためには、それがぎやうといはるべきものでも、またぜんといはるべきものでもありませぬ。

なぜならば、わがはからひで、つとめてとなへるのでないから、わがぎやうとはいはれませぬ。またわがはからひでとなへるのでないから、わがぜんともいはれませぬ。ねんぶつするのは、まつたりきにもよほされてすることで、りきをはなれたわざであるから、ぎやうじやのためには、わがぎやうでも、ぜんでもないものであるとあふせられました。


 わたくしくちにおねんぶつまをしてますものゝこゝろうちではびたつやうなよろこびのおもひが、かんじられませぬ。またいそぎおじやうへまゐりたいこゝろも、一かうにおこりませぬ。これはいかな〔る〕ことでございませう。」と、おもあまつてゆゐゑんぼうまうしげたれば、


 しんらんもそれをしんおもつてゐたのであつたが、さては、ゆゐゑんぼうおなこゝろもちでなやんでるのだな。よくかんがへればまことにてんにおどり、におどるほどによろこばねばならぬことを、よろこばうともせぬので、いよわうじやうは一ぢやうおもひなさい。よろこぶべきこゝろおさへてよろこばせぬのはぼんなうわざであります。しかるにほとけまへから、それをおぬきなされてぼんなうづくめのぼんとおびかけくだされたのでありますから、ほとけおじひほんぐわんは、かゝるわたくしたちまさしくおあてであるとなほさらこゝろづよおもはれます。

またいそいでじやうまゐりたいとこゝろもなくて、いさゝかなやまひにでもかゝれば、にはすまいかとこゝろぼそおもふも、ぼんなうわざであります。をんごふらいうまれかはりにかはりみなれたくるしみふるさとはすてがたく、まだみぬあんやうじやうがこひしうないのは、よくぼんなうつよくさかんなことがられます。ごりはつきねど、しやにとゞまるえんがつきて、たよりなくいのちをはるとき、かのじやうへまゐらせていたゞくのであります。いそぎまゐりたいこゝろのないものを、ことにあはれたまふのであります。かくしふぢやくふかきにつけても、いよだいだいぐわんがたよりになり、わうじやうけつぢやうおもはれます。

よろこびのこゝろもあり、いそぎじやうへまゐりたいこゝろもあらば、かへつわたくしにはぼんなうがなくておじひにはづるゝかとあんぜらるゝことだらうに」としやうにんあふせられました。


りきねんぶつは「なきをとした」ものでまつたぎやうじやのはからひをはなれたものであります。そはことばはからひおよばぬくわうだいおじひであるからだとしやうにんあふせられました。

しやうにんざいのころには、どうしんぎやうじやたちははるかにくわんとうよりみやこのぼつておなしんかうつてはうわうじやうをねがふかたは、したしくしやうにんけうかうむられたのであつたが、そのひといてねんぶつまをすやうになられたらうじんわかひとおほなかに、しやうにんあふせられぬせつしゆちやうするものがきんらいわうあるやうにうけたまはります。そのいはれなくあやまれるでうげてみませう。


十一

もじがくもんもないながら、すなほにねんぶつまをしてよろこんでゐるひとに、なんぢねんぶつするのは、せいぐわんふしぎしんじてまをしてるのか、またみやうがうふしぎしんじてまをしてるのかと、むつかしうひかけて、せいぐわんみやうがうふしぎといふわけもいはずに、あいをうろたえさすものがあります。このせいぐわんみやうがうといふことは、よくこゝろてをかなければならぬことであります。

ほとけが、おちかひのふしぎによつてわれがたもちやすくとなへやすいやうに、みやうがうかんがくだされて、このみなをとなふるものを、むかへとらんとやくそくなされたことであるから、かゝるみだによらいだいじひせいぐわんふしぎにたすけられて、まよひをはなるゝよとしんじて、ねんぶつせずにはをられぬやうになつたのも、によらいはからひでありますとおもへば、すこしもわがはからひをまじへぬゆゑに、ほんぐわんさうおうしてまことはうわうじやうさせていたゞくのであります。

このせいぐわんふしぎしんじさせてもらへばみやうがうふしぎしんじたことになるので、せいぐわんみやうがうとはひとつのふしぎべつのことではありません。

このはんたいに、みづからのはからひをさしはさみて、ぜんあればわうじやうのたすけとなり、あくあればわうじやうのさはりとなるとおもふは、せいぐわんふしぎをたのまずして、おのがとなへるねんぶつを、わがぜんとし、わうじやうごふとしてはげむのであります。このひとせいぐわんふしぎしんぜぬとともみやうがうふしぎしんぜぬのであります。

しんぜずしてねんぶつすれば、へんまんじやうたいぐうといふはうべんじやうわうじやうさせていたゞき、くわすゐぐわんりきによつて、つひにまことはうわうじやうすることのできるのは、やはりみやうがうふしぎちからでありますから、この二つのふしぎはたゞ一つのいはれでありませう。


十二

きやうもんや、そのかいしやくしよもつまなばないものは、わうじやうができぬとひふらすさうなが、これはがふせんばんであります。

りきしんじつのいはれをせつめいせるもろもろをしへは、ほんぐわんしんじ、ねんぶつをまふさばほとけになるといてあるので、それをこゝろほかなにがくもんわうじやうのためにひつえうであらうぞ。ほんたうに、このだうのわからぬひとは、いかにもがくもんしてほんぐわんのわけをるがよいが、きやうもんかいしやくまなびてもしやうけうほんこゝろぬことはまことびんなことであります。

もじらず、きやうもんやそのかいしやくものゝすぢみちらぬひとでもとなやすいやうにしたみやうがうでありますから、これをぎやうまをします。がくもんしゆとするのは、しやうだうもんであります。これはしやうにんでなければできませんからなんぎやうまをします。「もしがくもんして、それをめいとしよくをおこすやうなあやまつたこゝろつものは、つぎわうじやうすることはできまい」とふおことばもありますぞ。

ちかごろもはねんぶつしゆするひとと、りきしやうだうもんひとろんたゝかはせ、ぶんしうすぐれ、ひとしうおとつてると、いうれつあらそふやうになつたから、ぶつぽふかたきできまたけうほふあやまることにもなるのであります。ひつきやうそのけつくわは、わがほふやぶりそしることになるのではなからうか。

たとひしうひとが、くちをそろへて、「ねんぶつはつまらぬひとのためのをしへであつて、そのほふはあさはかなくだらないしうぢや」とはうとも、さらにあらそはずに「われらがごとき、こんあさましき、むちなものでも、しんずればたすかるといて、しんじてゐるのでありますから、じやうこんひとからは、いやしうえても、われがためにはさいじやうほふであります。たとひけうほふはすぐれてあるにしても、ぶんめにはちからおよばぬから、つとめがたくあります。われもひともまよひをはなれるこそもろもろぶつほんにかなふのでございますから、さまたげはようであります」とにくこゝをしなければ、たれびとでもろんさうをおこすはずはありませぬ」「およそあらそひところには、いろぼんなうがおこるから、しやこれけよ」といふことばもあるくらゐであります。

しんらんしやうにんのおほせには「しやによらいは〔『〕りきほふをばしんずるものもあれば、そしるものもある』とおきなされてあることであるから、われはすでにしんじてゐるが、またはんたいにそしるひともあるので、ぶつせつのまことであることがられます。ぶつせつにあやまりなければ、わうじやうは一ぢやうおもはねばなりませぬ。いかにしんずるひとがあつても、もしもそしるひとかつたら、なぜぶつせつとちがふだらうとにならぬでもない。かくへばとて、ぜひひとそしられたいとふのではないが、ほとけがかねてしんずるものもそしるものも、ともにあることをりたまうて、そしりによつうたがひをいだかせぬやうにときをかせられたことをまをすのであります」とのおことばもありました。

それにたうせいは、がくもんちからそしひとくちをおさへやう、ひとへにろんもんだふをしようとかまへてゐるのであらうか。がくもんをすれば、いよによらいのおこゝろをだいじひおちかひくわうだいなことをあじはひ、もし「かゝるいやしきではとてもわうじやうのぞまれない」とあやぶむひとがあつたら、「なにのいやしいことがさわりにならう、ほんぐわんにはわれらのぜんあくや、きよけがらはしいは、さらにかゝはることはない。わうじやうはたゞぶつぐわんりきのひとりばたらきであります」とかすが、がくしやかひでありませう。

たまなにごゝろもなく、ほんぐわんにかなうて、ねんぶつしてる人に、「がくもんもせずに………」などゝおどかすなら、それはけうほふをかきみだすあくまであり、ぶつかたきであります。そんながくしやしんにはりきしんじんがないばかりか、のものまでもまよはします。しやうにんこゝろにそむくことをつゝしみおそれねばなりません。またみだほんぐわんにかなはぬことあはれまねばなりませぬ。


十三

みだほんぐわんふしぎにあらせられるからとて、わがあくなにともおもはぬのは、ほんぐわんにあまへて、つけあがるので、そんなこんじやうではわうじやうはかなはぬ」といふひとがあるさうであるが、これはほんぐわんをうたがひ、ぜんあくしゆくごふといふことをこゝろぬからのあやまりである。

われらがこんじやうこゝろおこるのは、すぎいたたねがはえたのであります。またあくおもうたり、おこなうたりするのは、それはしきたねがあらはれたのであります。しんらんしやうにんあふせには「うさぎひつじさきにつく、ちりほどのわづかな、わがつくるつみでも、すぎたねからあらはれたものでないものは、一つもない」と申されました。

またあるときゆゐゑんぼうむかひ、「そなたは、しんらんがいふことをしんずるか」とたづねられましたら、ゆゐゑんぼうは「はい、しんじます」とおこたへしました。しやうにんたゝみかけて、「そんなら、わしのいふことにはいせぬか」と、だめをおされました。ゆゐゑんぼうは「はい、けつしておことばはいいたしませぬ」としようまをされましたで、しやうにんは「たとへばひとを千にんころしますか、しからばわうじやうはきまります」とあふせられましたとき、ゆゐゑんぼうは「せつかくあふせなれどそのはとてもわたくしにはかなひませぬ。千にんはおろか一でもわたくしりやうではころせさうにはござりませぬ」とまをされたので、しやうにんは「それではなぜわしがいふことにはいせぬといふたぞ。これでさつするがよい、なにごとでもわがこゝろまかせてできるのであるなら、わうじやうのために千にんころせといはれるれば、ころしもするだらう。けれども、一ころせぬといふのは、すぎひところごふえんがなかつたからころさぬのであつて、わがこゝろいためにころさぬのではない。またせつがいすまいとおもつても百にんにんころすやうになることもあらう」とあふせられたのは、とかくしゆくごふらずに、われこゝろきときは、わがよしおもひ、しきときは、わがしとおもひ、わがぜんあくにとらはれて、ほんぐわんふしぎでおたすけといふことにづかぬのを、ちうしたまうたのであります。

かつこゝろちがひのひとありて「あくにんをたすけたまふほんぐわんだから、あくつくつてわうじやうごふとすべきである」とひだして、わざとあくをこのむものがぜんぜんできたとふうひやうかせられたときのしやうにんてがみに、「くすりあればとて、どくをこのんではならぬ」とさとされたのは、そのこゝろちがひをやめさすためであります。けつしてあくわうじやうさはりであるといふいみではありません。かいりつたもぜんにんになつてはじめてほんぐわんしんぜらるゝといふなら、われはどうしてまよひはなれられませうか。かゝるあさましきも、ほんぐわんにあへばこそ、へいになつてらるゝのであります。といつてしゆくごふなければ、われだとてあくはつくられはせぬのですもの。またうみかはにすなどり、やまとりけものかりしてせいかつするものや、あきなひをし、のうげふをしてせいするのも、みなしゆくごふによるのであります。

しかるべきごふえんもよほせば、いかなるふるまひでもせずにはれぬのであります」としんらんしやうにんあふせられましたのに、このごろはむやみにごせしやめかして、よきひとばかりがねんぶつまうすべきものだとおもひ、あるひてらけいして「なになにおこなひあるものほんだうるべからず」といふがごときは、ないしんしんじつだらけでゐながら、ぐわいけいにはもつともらしいやうをするつもりか。ほんぐわんあんしんしたあまりにつみをつくるのも、しゆくごふのもよほすからであります、さればきことも、しきことも、ごふはうにまかせて、それにはとんぢやくせず、たゞもつぱほんぐわん一つをたのむがりきであります。『ゆゐしんせう』にも「みだにどれだけのおちからがあるとつて、ざいぎふなればすくはれがたいとおもふか」というてあります。ほんぐわんにもたれるこゝろがあるにつけても、あゝかゝるものをたすけぞと、いよりきしんじんけつぢやうさせていたゞけるのであります。

およあくごふぼんなうをなくしてからほんぐわんしんずるなら、ぐわんにあまえるおもひもなからうが、しかしぼんなうがなくなつたら、それほとけであります。ほとけになつたものゝためにはせつかくの五こふゆゐぐわんやくになるではありませんか。

ほんぐわんぼこりになつてはならぬと、いましむるひとびともやはりぼんなうじやうそなへてらるゝやうであるから、そのひとしんほんぐわんにほこつてゐるのではありますまいか。いかなるあくほんぐわんにあまえ、いかなるあくほんぐわんにあまえぬといはれやうか。そんなことをこゝろにかけてゐるのは、あまりにほんぐわんむちすぎるではありませんか。


十四

こゑしようみやうで、八十おくこふながあひだまよふべきおもつみほろびるとしんぜよとしゆちやうするものがあるさうであります。これは『くわんりやうじゆきやう』には「十あくぎやくをかしたぢゆうざいにん、もとよりごろねんぶつなどまをさぬものが、りんじゆうにせまつてから、はじめてぜんしきをしへによりて、一こゑねんぶつしたならば、八十おくこふくるしみをうくべきつみえ、十こゑねんぶつしたなれば、その十ばいおもつみめつしてわうじやうする」といてあります。このきやうもんこゝろは、十あくぎやくつみおもかろいをらせんために、十あくあくにんは一こゑしようみやうによりて八十おくこふだいざいえてじやうわうじやうしまた五ぎやくあくにんは十こゑしようみやうによりて八百おくこふしづまねばならぬぢゆうざいねんぶつによつてめつするとめつざいやくしめされたのであります。けれどもめつざいやくがあるからねんぶつするといふのは、われしんじてところとはちがつてゐます。

そのわけみだくわうみやうてらしにあづかりまして、一ねんしんじんほつしたとき、こんがうふえぶつしんがわれらのこゝろちてしんじんとなつてくださる。そのしんじんいたゞいたときすでにまさしくじやうわうじやうしてぶつになるべきさだめられたくらゐにしてくだされて、そのまよひいのちこゝにきて、すべてのなやみしきさはりみなてんじて、「はんのさとりにいることをけつぢやうしたるくらゐ」にらしめたまふのであります。このおじひちかひがなかつたならば、われらのやうなかゝるあさしいざいにんが、どうしてかまよひはなれられやうぞとおもひ、一しやうのあひだまをねんぶつはたゞによらいだいじひおんはうしやするとおもふばかりであります。

ねんぶつまをすたびごとに、つみしませうとしんずるならば、それはしんつみしてわうじやうしようとはげんでゐるのであります。しさうしなければならぬものなら、一しやうがいおもひとおもふこと、みなまよひきづなとならぬものはないから、いのちきるまでねんぶつやさぬやうにしなければわうじやうはできぬわけであります。されどごふはうによつてじゆみやうかぎりがあるゆゑおもはぬことにであうてをはることもあらう、やまひになやみくるしんでしやうとりうしなうてはてることもあらう。そんなときにねんぶつまをすことはできませぬ。そのねんぶつまうさなんだあひだつみはどうしてえるてせう。それがえずば、わうじやうはかなはぬのでせうか。

おさつててないとほんぐわんをたのむじやうは、どんなおもはぬことによつてつみをつくらうとも、またねんぶつまをさずにをはらうとも、すみやかにわうじやうさせていたゞけるのであります。りんじゆうねんぶつがまうされても、それは、いまにさとりをひらかせていたゞくことがちかづくにしたがひ、いよみだをたのみ、おんはうずるおもひからであります。つみめつしてとおもふのは、りきのこゝろで、しやうねんりんじゆうしたいといのるひとこゝろであつて、それはりきしんじんがないのであります。


十五

しんじんればぼんなうづくめののまゝで、すでにさとりひらいたのであるとふこと。これはもつてのほかのあやまつたしゆちやうであります。

げんしんまゝほとけになるとふことはしんごんみゆけうこゝろで、三みつぎやうしんみつみつみつじやうじゆしてしようくわであります。また六こんみゝはなしたこゝろしやうじやうむくになるほふは『ほけきやう』におときなされてある四あんらくぎやうくちこゝろしゆぎやうせいぐわんしゆぎやうとくさとるのであります。これみなじやうこんひとのみが、つとめらるゝむつかしいしゆぎやうで、くわんねんらし、ちゑみがくことがじやうじゆしてのさとりであります。

らいしやうさとりをひらくのは、りきじやうもんしうで、これはしんじんけつぢやうすることのみによつていたるみちであります。これはいかなるこんでもぎやうやすほふであります。

およそこのよにおいて、なやみさはりぜつめつすることは、ほとんできないことでありますから、たとひこんじやうでさとりをひらかんとするしんごんほふをしへじつかうじやでも、なほらいわうじやうしてさとることをいのるのであります。いはんや、たゞしいかいぎやうたゞしいちゑもないものでも、みだせいぐわんふねつて、まよひかいをわたり、はうのきしにくならば、ぼんなうくろぐもそくれ、ほふしやうさとりのつきがすみやかにあらはれて、十ぱうかいどこまでもさはりなきくわうみやうと一つになり、一さいしゆじやうおもひのまゝにやくするときにさとりをたといふべきであります。

このさとりひらくとはるゝひとは、しやくそんのごとくしゆじやうおうずるすがたあらはし、三十二さう、八十ずゐぎやうかうそなへて、ほふき、ひとやくすることができるのでせうか。さうあつてこそこんじやうにさとりをひらくといはるゝのであります。『さん』に「こんがうけんしんじんのさだまるときをまちえてぞ、みだしんくわうせふして、ながくしやうをへだてける」とあれば、しんじんのさだまるとき、そのとき一たびおさられたなら、二てられぬから、もはや六だうごくがきちくしやうしゆにんげんてんじやうめぐることもありません。すればえいきうまよひをへだてられたのであります。かくよろこばせていたゞくことを「さとる」とひまぎらしても、いゝものでせうか。そのおろかさをざんねんおもひます。じやうしんしうこんじやうほんぐわんしんじて、さとりはうまれてからひらくものとこゝろます」としんらんしやうにんあふせられたことでありました。


十六

じひしんずるものが、ぜんはらてたり、あくぎやうをなしたり、をしへのともこうろんなどすることがあれば、かならこゝろをいれかへてざんしなければならぬとふものがあるさうですが、これはあくをやめ、ぜんをはげまねばならぬといふつもりなのでせうか。

りきしんずるものが、こゝろをいれかへるのは、たゞ一よりないことであります。そのこゝろれかへるとふのは、いままでほとけのおちかひによつてたすけらるゝことをらなんだひとが、みだちゑをたまはりて、わがはからひにてはわうじやうできないとおもうて、りきこゝろをうちすてゝおちかひをたのみたてまつるときが、それであります。

あさにもゆふにも、すべてのことにこゝろをいれかへて、ざんしなければわうじやうができぬならば、ひといのちづるいきはるをまたずして、おはることであるから、あくしんひるがへしもせずにうにんにくのおもひにもならぬまにいのちきたときは、おさつててぬとちかひは、まにあはぬことになるのでありませうか。

くちでおちかひをたのみたてまつるばかりとうてながら、それでもこゝろそこでは「あくにんたすたまふおちかひはふしぎちからではあれど、さりとて、どちらかとへば、わるいものより、きものゝのはうがおたすけにあづかれる」とおもんでるので、じやううまれながら、へんうまれて、くわんぜんさとりのひらけぬのは、まことなげかはしいことであります。

しんじんさだまれば、わうじやうみだはからひでせしめたまふことでありますから、わがはからひによるのではありません。しきにつけても、いよぐわんりきをたよりにいたしますれば、おのづとにうにんにくこゝろおこるのでありませう。すべてよろづのことにつけて、わうじやうのためには、こうぶらず、たゞほれみだおんじんぢゆうなることをつねよろこんでるがよろしい。さすればねんぶつまをさるゝやうになります。それがねんであります。「ねん」といふは、わがはからばぬことで、すなはちりきのことであります。しかるにそのほかべつに「ねん」といふことがあるやうに、ものしりがほにいふ人があるさうですが、なさけないことであります。


十七

りきねんぶつとなへるひとごくらくへんわうじやうしてもつひにはまたごくちるとひふらすものがあるさうであります。かゝるせついづれのもんしようとしてふのであらうか。しかもがくもんをしたといはるゝひとが、そんなせつしゆちやうするとはなさけないことであります。きやうろんたゞしきをしへをばどんなふうかいしやくせられたのでせう。

まことしんじんぎやうじやはおほからぬゆゑに、けどうまれさせてまで、うたがひのはるゝやうにしたまふおじひであるとかれてあるのに、つひごくするといふがごときはしやによらいいつはりまをされたとすることになります。


十八

ぶつぽふのことにふせしんするせうによつて、ほとけになつたときだいせうできるとふものがあるさうですが、これはあまりのことに、ひやうもないつまらぬたはごとであります。

まづほとけだいせうぶんりやうさだめるとふのは、できないことです。『くわんりやうじゆきやう』に、かのあんやうじやうけうしゆのおからだおほきさをかれてはあるが、それはわれたすくるめにかたちあらはしてくだされたはうべんほふしんのおすがたであります。ほふしやうほふしんのさとりをひらけば、ながみぢかいとか、かどだちまるいとかのかたちでもなく、あをあかしろくろいろでもないから、そのさとりに、どうしてだいせうぶんりやうさだめられませう。ねんぶつまうせばぶつたてまつることができるとふことから、おほごゑねんぶつにはおほいなるほとけごゑねんぶつにはちひさなほとけるとふたのでせう。それはりきぎやうじやくわんねんによつて、ぶんこゝろぶつのことでありまして、わたくしたちほとけにならせていたゞくのと、まるではなしちがつてるのに、それをこじつけてふのでせうか。

またふせしんほとけになるといふならば、りきしゆぎやうふせぎやうのことであります。それならば、いかにたからものほとけそなへ、しやうさゝげたとて、りきしんじんがなければ、りきぎやうではほとけにはなれませぬ。一はんせんぶつぽふかたれずとも、りきほんぐわんにわがこゝろをなげかけて、しんじんがふかけれれば、それこそおちかひのほんにかなふのであります。そうたいぶつぽふかんばんにしてけんよくしんをはたらかすから、かゝることもいひてゝどうぼうをおどかすのではないでせうか。

みぎげたいぎでうでうは、しんじんちがつてゐるところからおこつたことでありませう。しんらんしやうにんおんものがたりしやうほふねんしやうにんざいのとき。すうもんていがあらせられたなかで、おなしんじんひとすくなかつたゝめに、しんらんしやうにんおんどうぼうとのなかさうろんがもちあがつたことがありました。

ことのおこりは、〈親鸞聖人が〉ぜんしんしんじんほふねんしやうにんしんじんひとつである」とあふせられたれば、せいくわんぼうねんぶつぼうなどいふおんどうぼうたちは、もつてのほかあらそはれて、「それはけしからぬことです。しやうにんしんじんと、ぜんしんぼうしんじんとが、どうして一つでありませう」となんせられましたので、しんらんしやうにんは、「しやうにんの、あのくわうだいおちゑさいかくとわたしのそれとどう一だといふなら、それこそひがごとでありませうが、じやうわうじやうしんじんおいてはまつたかははずございませぬ、たゞ一つでございます」とへんだふなされましたが、それでも「どうして、そんなことがあるものか」とうたがなんぜられましたから、つまりほふねんしやうにんぜんりやうはうぜひはんしていたゞくことゝなりまして、このさいまうしあげますると、ほふねんしやうにんあふせには「げんくうしんじんは、わがはからひでできたものでない、によらいよりたまはりたるしんじんである。ぜんしんぼうしんじんも、によらいよりいたゞかれたしんじんであるから、二しんじんはたゞ一つである。めいかくべつしんじんであらせられるかたは、げんくうがまゐるじやうへはよもおうまれなさることはできまい」とあふせられました。そのだいねんぶつぎやうじやなかにも、しんらんしやうにんしんじんとちがつたひとつたとおもはれます。

しんらんしやうにんにふめついろいろいぎおこるやうになつたことをかみげましたが、それもくりごとながら、かきつけておいたのであります。かれぐさうへにおくつゆのやうなわたくしのいのちのあるあひだには、だうしやしんをもうけたまはつて、しやうにんあふせおかれたおもむきをおつたへすることもできますが、へいがんのちはみだれがちにもならうかとなげかはしうおもはれて、もしかみつらねたやうなせつをたてゝまどはされでもするあひには、しんらんしやうにんこのんでもちあそばしたしやうけうなどを、じゆくどくしてなんとせらるゝがよろしい。

およしやうげうにはしんじつせつと、はうべんせつとがずゐぶんまじつてゐます。それをはんだんして、はうべんせつをすて、しんじつをとるのが、しやうにんほんでございます。しやうげうはいどくしてもけつしてじつをみださぬやうにせねばなりませぬ。けうじやうたいせつなるしようもんせうせうぬきいだしてしんじつめやすとして、このしよにかきそへました。

しやうにんへいぜいことばに「みだが五こふながあひだふかあんふけらせられ、さうしておさだめなされたおちかひは、なにためぞとよくあんずれば、ひとへにしんらんひとりをたすくるとてのかずでありました。さてはこのあくごふばかりをもてるを、たすけずばとおぼしされたほんぐわんのかたじけなさよ」とじゆつくわいせられてゐたことを、いままたあんずれば、たうぜんだうだいが「しんげんざいあくをもちまよひにさまよへるぼんであつて、しかもはじめもわか〔ら〕ぬむかしから、つねににしづみ、まよひにてんして、それをしゆつするてかゝりさらになきであるとれ」とのたまひしきんげんすこしもたがはぬおかんがへであります。これはかたじけなくも、しやうにんしんにひきよせて、わたくしたちざいあくふかきほどをもらず、によらいおんたかきことをもらずして、あさましうまよへることをおもらせんがためあふせごとでありませう。

まことにおちかひをくださるまで、わたくしたちあんじてくださるゝによらいのおじひふことには、ちつともかずに、われひとぶんいのわるいのとふことばかりにこゝろをとられてます。しやうにんあふせには「ぶんよしあしの二つはそうじてぞんじません。それとふは、によらいこゝろしとおぼしほどりとほしたらばきをつたともはれよう。またによらいしとおぼしほどりとほしたならばしきをつたともはれもしようが、ぼんなうづくめのぼんくわたくのやうなかいじやうかいは、よろづのこと、みなそらごと、たはごとでまことなことがないに、たゞねんぶつだけはまことであらせられます」とあふせられました。

まことにわれひとともに、そらごとばかりいつてゐるが、そのなかに一つなげかはしきことがあります。それはねんぶつまうすについて、しんじんのおもむきをたがひもんだふし、またひとかすとき、ひとくちふさぎ、しひろんにかたんがために、まつたしやうにんあふせでないことを、あふせなりといつはることは、あさましくなげか〔は〕しくおもはれます。このおもむきをくのみこんであやまられぬやうにしなければなりませぬ。

じやうきつらねましたことは、さらにぶんかつことではありませぬが、なにぶんにもきやうしやくすぢみちもらず、ほふもんこゝろあさふかいさへこゝろわけないわたくしでありますから、さだめてくわんぜんではありませうが、しんらんしやうにんあふせおかれましたおもむきを、百ぶんの一、かたはしだけでも、おもでましてきつけたのであります。

さいはひねんぶつするとなりながら、りきのはからひをすてかねて、たゞちにはううまれずして、へんにかりのやどをとるやうなことがあつては、いかにもかなしいことであります。さればおなじ一しつにすむぎやうじやなかしんじんことなることのないやうにとて、ふでをそめて、これをしるしました。『たんせう』となづけておきませう。もとよりひろひとせるやうなものではありませぬ。


歎異鈔

出典[編集]

  • 意訳聖典 (p.205)国立国会図書館 デジタルコレクション

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