横浜市震災誌 第二冊/第1章

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第1章 本市第一方面[編集]

伊勢佐木町 - 賑町 - 末吉町 - 長島町 - 梅ケ枝町 - 久方町 - 羽衣町 - 浪花町 - 松ケ枝町 - 姿見町 - 若竹町 - 足曳町 - 吉岡町 - 駿河町 - 雲井町 - 蓬莱町 - 若葉町 - 長者町自五丁目至九丁目 - 福富町 - 柳町 - 吉田町 - 桜木町自一丁目至三丁目 - 内田町 - 桜木駅構内 - 東横浜駅構内 - 野毛町 - 宮川町 - 福島町 - 花咲町自一丁目至六丁目 - 日ノ出町 - 清水町 - 霞町 - 初音町 - 三春町 - 黄金町 - 英町 - 南太田町 - 井土ケ谷町 - 弘明寺町

第1節 一般概況[編集]

横浜の伊勢佐木町通りといえば、東京浅草の仲見世、大阪の千日前にも匹敵して、横浜での賑やかな明るい街である。この通り一帯を中心とする隣接各街は、大商舗を初めとして諸興業物・飲食店等、庇を並べ、四時の遊覧場所として横浜を代表していることは、遠い地方にまで知られている。明治三十二年八月十二日の大火災があって、この辺が焼き尽くされたことは忘れられないことである。その時の火元は雲井町一丁目で、丁度風が強かったので、十時間と経たぬ間に、足曳町・久方町・賑町・長者町・梅ケ枝町・若竹町を焼き、さらに火勢を加えて伊勢佐木町を襲い、同時に姿見町・吉田町・柳町・福富町に延焼し、羽衣町・蓬莱町をも焼きつくして、目抜きの場所三千七十三戸を灰にしてしまった。開港以来の大火に、一時は市街もさびれたが、次第に復旧するにおよんで、返って旧観に倍する壮麗華美の建物に改まって、建築構造等も新しく工夫され、再び前繁栄に帰って、観客顧客を喜ばしていたのである。しかし、九月一日の震災の前頃は、何処にも不況の声が叫ばれ、大小店舗・飲食店・興行物等は、苦策を施して、景気の挽回に余念もなかったのである。しかも九月四日・五日は、南太田町杉山神社の常例祭と、南吉田町日枝神社のお祭が続くので、各商店はお祭に景気づけて、不況を挽回しようと、それぞれ思い思いの新案の窓飾りを凝らし、祭日を楽しみに待っていたのである。が、たのもしい期待は外れて、九月一日あの恐ろしい大地震が襲って来たのであった。天地が裂けるような激震は、大小家屋の区別なく破壊した。まもなく四方八方から猛火が起こり、東南の烈風に誘われ、火神のように荒れ狂って、瞬く間に全市はことごとく火の海と化し、幾万の生霊を奪い去ったという暗黒界を現出したのである。

この日の惨状を物語ることは、今日でさえ戦慄を覚えずにいられない。ことに伊勢佐木町方面の如きは、賑やかな盛り場だけに、家屋が稠密していたので、逃げる余裕もなく、ために家屋の下敷にされ、あるいは戸外へ逃げ出そうとして、逃げ道を遮られ、生きながら焼死する傷ましい光景が各所で見られた。真っ先に久保山方面・公園方面等に逃れた者は、生命だけは助かったが、逃げ遅れた者は襲いかかって来る猛火に、哀れにも焼死した。逃げ遅れて辛うじて吉田橋ほか、その他の橋の附近の船に避難して助かった者、極めて少数であったといわれている。

以上は伊勢佐木町通りと、隣接町域を中心として見た惨状である。さらに眼を北部花咲町・桜木町方面に転ずれば、この方面には避難所がかなりあるので、横浜駅〔ママ〕構内や、桜木町駅構内や、伊勢町方面に逃げたものは助かったが、逃げ遅れた者は、途中猛烈な旋風に襲われて倒れ、焼死した者は多数であったということである。伊勢佐木町を中心として西部方面、すなわち野毛山・宮川町・日出町・初音町・三春町・黄金町の一帯にわたる地域を見ると、その災害は甚大なものであるが、これらは概して附近に高台があるので、安全に避難することができたのである。いちはやく水道貯水池の高台を中心に、南太田方面一帯に逃れたものは、安全に避難し得たが、逃げる時機を失った者は、空しく焼死し、その数は少なくなかったといわれている。この方面に於いて起った天神坂の惨状、省線敷地の空地、末吉橋・黄金橋附近の惨状および日出町の惨状は、実に見るに堪えないもので、焼死体が四辺に転がっている様は、傷ましい光景であった。

直後に於ける主なる圧死・焼死の場所は左の如し。

(イ)建築物中に於ける圧死・焼死者数
服部会社内 16名
長者町郵便局 50名
左右田銀行支店内 12名
劇場喜楽座 30名
角力常設館 10名
劇場朝日座 4名
野澤屋呉服店 26名
越前屋呉服店 7名
(ロ)空地および護岸船舶に於いて焼死した数
吉田橋一丁目大岡川岸船舶および護岸 約500名
黄金町末吉橋附近省線敷地空地 約400名
東耕地附近天神坂 約300名

第2節 各町誌[編集]

1 伊勢佐木町(吉田橋附近の惨状)[編集]

吉田橋に近い伊勢佐木町の町民は、吉田橋を渡って避難場所を探そうと思って、続々と集って来たので、橋上はたちまち身動きもできなくなって、人々は苦しい叫びを挙げながら押し合いへし合いしていた。その中に火は四方に起ったので、人々は一層狼狽した。蓬莱町方面にも火を発した。既に水道は断たれ、自動車ポンプは破壊されていたから、防火につとめることは全く不可能になっていた。もう猛火はますます強く四方から襲って来るので、このまま逃げる事のできない死地に落されたように悲嗚を挙げた。しかし、生きんとする心で、逃げ道を探そうと大騒をしたので、そのまま押し潰されて死んで行く子供や老人があった。

四辺は人間世界と思われぬ物凄い光景が演じられた間に、早く公園へ公園へと誰かが叫ぶ声に、人々は一斉に公園に向かった。公園内には幸い破壊した水道の鉄管から水が出ていたので、人々は水に浸って火を避けることができた。

2 賑町[編集]

賑町一・二丁目は伊勢佐木町通につづいた大通りで、各種の商家・飲食店軒を列ね、伊勢佐木町についで賑う市内屈指の町である。激震が起ると、町内の家屋約七分通りは倒潰し、その他ほとんど大破し、半潰れの建物は日本晝夜銀行(ニホンチュヤギンコウ)その他十数戸であった。火はたちまち町内数個所より発火し、駿河町方面からも延焼して、たちまちのうちに一戸も残らず焼つくした。死者の数は約七十人を算したが、このほか噂によれば、劇場や活動館に於いて、座員や観覧人を合せ二三十人の死者を出したという事である。住民の多くは新吉田川の橋や中村川の橋を渡って、中村町の高台に避難し、一部の者はこれと反対側の大岡川の橋を渡って、久保山・水道山に避難したのであるが、この辺の橋は早くから燃え出したので、逃げ遅れて来た者は、遠廻りをしてようやく逃げ延び、崩れた川岸に身を隠して、辛うじて命拾いをした者もある。川幅は比較的広く、中村川などに比べると、焼死した者は極めて少なかった。死者を出した家は、一丁目の西洋料理店太田音吉方で、老母・妻・娘・孫・庸人等計五人、二丁目の衣類商吉田甚蔵方では夫婦および若夫婦全滅、理髪業鈴木彦次郎方では夫婦および庸人二人全滅、荒物商井上染吉方では妻および子息二人・庸人一人等である。同町は土地柄だけに、震災後の復興は最も早く、一年半で九分通りの民家が建って、震災前の賑いを早くも取り返した。

3 末吉町一 - 七丁目[編集]

末吉町一丁目 最初の大震動が襲来した時、町民等は一時気を失ったようにぼんやりとしていたが、やがて気がついて安全な避難所を探し始めた。しかしこの町は街路が狭い上に、家屋が稠密しているので、どっちへ行っても逃げ場がないような所なのであった。人々は我勝ちに、旭橋通りに出て、伊勢佐木町・足曳町方面から雪崩れ来る数千の群集と押し合いながら、水道山方面へと向かったのである。しかるに第一震に旭橋は陥落せんばかりの大破損をしていたが、それにも気づかぬ避難民は、危険もさらに考える暇なく、橋を渡って向岸にある空地に避難した。この空地に来てからは、避難民中、日出町を差して逃げる者と、この空地を安全と思った者との二組があったが、日出町へ行った者は天神坂に差しかかると、行先はすでに猛火に遮られて、多くは焼死した。旭橋より天神坂までの焼死者中、末吉町一丁目の住民のみで百十八名に達し、町内で圧死したものは十四五名もあったとの事である。但し町民の中で水道山・野澤山・太神宮に避難したものは、辛くも死から逃出ることができたのである。町民中でも哀れな家を調べて見ると、同町の広瀬直吉氏一家六人天神坂に於いて抱き合ったまま焼死したのを始め、渡邊安五郎氏が商用で、留守中六人の家族が同じく天神坂で抱き合って焼け死んだ。ことに山下伊津氏の如きは最も気の毒なもので、出産見舞に田舎からはるばる訪れた母親までが、無残な焼死を遂げさせたとのことである。また圧死の主なるものは、同町の橋爪氏一家四人であった。なお、それ以外にも下敷となって悲惨な最後を遂げたものの中に、溝畑と云う小邸宅の玄関に訪ねた一人の客が、挨拶の言葉も終らぬ間に家屋倒壊し、その者はそのまま無惨な最後を遂げたと云う話もあった。なお、他に一つ特記しなければならないことは、同六番地の藍崎染物工場である。この地区は火の手が、やや遅かったためか、伊勢佐木町方面より旭橋を渡らんとする避難民は、同工場焼失前は安全にその前を通過するのを得て、天神坂および大岡川辺空地に逃れることができたのである。しかし第二次の避難民は、同地に差かかるや、工場は今を盛りと猛炎に包まれていたので、さらに取って返して、反対の方向すなわち足曳町方面より中村町へ逃れたので、安全を得たのである。ゆえに同工場の焼失は、取りも直さず避難民の生命を助けたようであるから、一寸興味ある記録として書いておく。

末吉町二丁目 二百三十名と云う屍を残した二丁目の傷ましい惨状は、到底語るも忍びないくらいだ。編者は数度現場に行って、当時遭難して生き残った町民の追憶を辿り、一方七十七の高齢に達した同町二丁目土屋衛生組合長が、市役所から依頼されて震災の状況と町民たちが体験した有りのままの遭難実話を集めたので、それらの集まった遭難記の二三と私の実見した惨状を追憶することにしよう。

末吉町二丁目は末吉橋筋と、北は黄金橋筋との間に挟まれていて、町家の中には主に古びた二階家が多く、戸数は四百二十軒もあった。第一震動で家屋はほとんど倒潰したが、第二震・第三震のために全く破壊されてしまった。梁に押し潰されて、出ようとしても出ることのできない苦しい人々の呻き声は、そこここに聞えた。その凄惨な様は言語に絶えない。おりからの旋風は、三丁目と二丁目の境から起った。三春町からは猛火を導いて、危険は刻々に迫って来た。骨肉たちが梁下に下敷となっているのを助けようとしていた者たちも、もはや自分の生命を思えば、その場に一時もいられなくなって、別れを告げ、涙乍らその場を逃れて行く様も哀れであった。しかし逃れた町民達は、安全地の目的もなく群集に交じって集まったが、やがて黄金橋を渡って省線の空地に避難して、ここが安全な場所と思っていた。すると意外にも、しばらくして猛火は盛んに襲って来て、四百名の町民は哀れにも黒焼になって惨死したのである。多くの惨死者の中にいて九死に一生を得たという不思議な話がある。談に依れば、当時空地の惨死者は多くは家財を身に纏っていたため、猛火を容易に導き、ついに大事に至ったのだと云う事である。ことに空地の片端に一材木商があったので、材木に火がついたためである。この時すでに八方は猛火に包まれて、逃げ道もなく、橋近くに関口歯科医師のセメント塗りの建物が有るのを見て、人々は安全な鉄筋コンクリート建物と見違え、建物際に身を寄せた者もあったが、すべて猛火に襲われて一人として助かったものはなかった。同町での全滅の災害を被った悲惨な家としては、十九番地の今井磯吉氏の一家二名、二十六番地の長森直重道氏一家五名、二十八番地磯部温泉の一家六名、同小林栄太郎氏の一家十名、同平野金作氏一家四名、三十七番地小田靴店一家六名、十八番地某時計店の一家五名である。このほか一家に二名、三名と云う犠牲者を出したのは数戸あった。全滅でなくとも、多数の家族を失った家は、平野栄太郎氏の四名、喜田仁三蔵氏の六名、二十八番地某家の四名、高田傳氏の四名、加藤庄太郎氏の五名等である。ことに無惨を極めたのは、按摩業福井正氏の家で五人の盲人が枕を並べて焼死していた。何という哀なことであったろう。その他地盤の亀裂当時、末吉橋も黄金橋も、初めは破れたばかりで、ようやく通ることだけ出来たが、間もなく焼け落ちてしまったので、逃げ後れた人は逃場を失って無惨な最後を遂げたのでる。この町の生存者は、他の町より一層苦心をして、急坂や野毛道を辿り、水道貯水池や久保山方面に逃げた者が多い。欲にかられず家財を捨て、生命大事と逃げた者は、助かったものであるといわれている。今ここに二町民の事実物語りを書き記すことにする。

「私は明治四十二年八月廿五日より、大正十二年九月一日迄横浜市末吉町二丁目十五番地および同廿七番地の二階家と平家建とに住んでいました。二階十五番地の家には長男と娘ほか子供五人が住んでいました。九月一日の大震で二階家はまる潰れとなり、三女はその下敷きとなって焼死いたしました。その時長男は町内の祭りの仕度で、磯子町の神輿の掃除に行って留守で、私は一人で三女を救い出そうとしましたが、何分にも手の付けようもなく、その内末吉町三丁目から火災が起り、続いて十五番地二階の裏の澤田パン製造店からも火災が起ったので、どうすることもできず、孫二人と嫁を連れ黄金橋を渡りましたが、もはや末吉橋は燃えている最中でしたから、日出町裏の神社へ逃げました。するとここにもまた火がやって来ましから、十全病院の横迄逃げました。そこで驚かされたことは、烈しい旋風が起ったことです。一人の方がトタン屋根の下敷となったのを助けてやりましたが、遂に死んでしまいました。私はまたそこを逃げ出し、水道山に来たのは午後六時頃でしたが、焼死した孫娘が、どうしても忘れられませんでした。」
「私は午前十時半頃、得意先に炭や薪を持って行った帰り道、丁度日出町と初音町との界に来ると大震にあって、荷車は引けないので、黄金町の省線の敷地にその荷車を捨て、大急ぎで家に帰って見ると、私の家は倒れていて、妻子が下敷となっていたので、大急ぎで妻子を救い出した。隣の某氏の母と嫁と子供、都合四人も下敷となって、助けてくれと悲鳴を上げているので、屋根に駈け上って瓦を剥ぎ、ようやくその四人を助けることができた。一安心と思っていると、某氏の娘六歳がこれも下敷となっているというので、私はこの時すでに四方が火になっているのも構わず、その子を助けてやりました。それから私達一家族は火の中を逃げて、ようやく野澤屋の別荘に避難所を得ました。私は沢山死人のあった中で、親子が助かったことを神様にお礼を申し上げました。」

末吉町の主なる圧死・焼死者を出した住民中、三丁目は四十一番地の高井文蔵一家六名、同番地安室海次郎氏一家四名、四十六番地荒井宇内方一家三名、その他に名の知られぬ一家全滅十数戸におよんだ。

4 長島町 梅ケ枝町 久方町 羽衣町[編集]

長島町 長島町辺も惨状を極めたのは、他の町と同様であったのはいうまでもない。同町の一丁目から六丁目までの地盤は、ことに甚だしい亀裂を生じ、三丁目四丁目にわたって水道鉄管が破裂したのには、町民も一層苦しめられた。しかして長島町の町民は何処へ避難したかというと、大抵は久保山方面、石川町の山上に向かったので、それぞれ安全な避難地を得たが、吉田橋方面へ向かった者はみんな焼死したそうである。この町の圧死者・焼死者は百十四名で、二丁目の五十嵐光五郎氏の一家族四人は枕を並べて圧死していた。北村梅吉氏家族四名も同様である。三丁目の渡邊氏一家は圧死六名におよんだ。なお竹口重太郎氏の家は五人も焼死していた。

梅ケ枝町 同町は伊勢佐木町に続いているので、一般に伊勢佐木町と呼ばれている。相当な店舗があって賑やかなだけに、多くの惨死者もあった。都屋呉服店で一家十一人圧死したのを初め、一家全滅の家が四五戸もあった。圧死者の多かった理由は、激震と共に両側の家並が申し合せたように街路に倒潰したので、真先に外に飛んで出た人々は、梁や庇などの下敷になったということである。町民圧死者はすべて八十八名であった。通行人で下敷となって焼死した者は約二百人もあったが、その原因としては店の前面に柱が少なかったことと、広告看板が殆んど道路の方へ倒れたためとであると云われている。

久方町 災前同町は戸数六十五戸、人口四百人で、建物としては二三倉庫があったばかりで大建物はなかった。多数家屋が倒潰したため圧死者多数あった。

羽衣町一丁目 同町の圧焼死者は百二十五名あった。一家全滅と判った家族は、三十三番地若柳亭一家十名、二十一番の吉岡哲三郎氏一家五名、杉山時計店の一家六名、二十一番地増田平八郎氏一家四名、歯科医太田薫氏一家四名、安村七郎氏一家六名、高堀義一氏一家二名、早川三作氏一家四家であった。助かった町民の大部分は公園・桜木駅等へ避難したのであった。

5 羽衣町 浪花町 松ケ枝町 姿見町 若竹町[編集]

羽衣町 浪花町・松ケ枝町これら町々は地震突発と共に家屋殆んど全潰した。残存した家屋は、電車通りに四五軒あるのみであったが、それがたちまち火炎に包れてしまった。猛火に取り巻かれながら、煉瓦建の太田倉庫だけが最後まで残ったのは不思談なくらいであった。東本願寺別院・弁天社も地震で倒潰してしまった。弁天社境内および東本願寺別院境内の空地へ逃れた町民たちは一人残らず死を遂げた。その他死地より免れて避難した町民は、一団は公園に、一団は野毛山方面に、一団は大岡川に、他の一団は桜木町に逃れた。これら各方面に逃れた者の中一部分は助かったが、途中河の中へ飛び込んで死んだ者もあれば、黒焦げになって死んだ者も少なくない。とにかく人口五百名しかない羽衣町二丁目だけで、九十人の死者を出したのは、惨害が他よりはげしかったといわれている。

姿見町 地震前同町の戸口は四百人の七十世帯で、目だった建物としては富士旅館・富貴楼・常盤亭・吉野屋汁粉店等で、その他常に客の入込む旅館・料理屋・その他飲食店等七十余軒もあった。これ等の飲食店・旅館・料理屋等の建物が、一時に重なり合って倒れたのであるから、圧死者が多数あったことはいうまでもないことだ。倒潰家屋のために、逃げ路を遮られてしまった町民達は下敷にされた我が子さえ助けている暇もなく、各自思うままに逃げ道を求めようとあせったのであった。しかして倒潰と殆んど同時に、猛火が四方に上ったので、そのままに焦死した者も多かった。避難民のうち、公園および桜木駅方面へ逃げたものは大抵は助かったが、本願寺境内に逃げたものはみんな焦死をした。ここに皆さんに知らして置きたい哀語があるから略記しておくことにする。

それは火災が暗黒の大空を物凄く照らしていた二日の夜の事であった。中村町辺青年団員の一人が、黒焦げ死体が山のように重っている東本願寺の前を通りかかると、『助けてください』という悲しい微かな声が聞えて来た。彼は気味悪く思ったが、それは確に人の声だということが判ったので、思い切って境内の中へ入って行った。声は屍の中から聞こえる。彼は勇気を出して、死骸二つを除けると、一人の少女が姿を現した。彼は一時喫驚したが、少女を労わりながら、哀しい話を聞かされた。この少女は横浜市姿見町二丁目七十二番地染物業友禅屋号こと須藤森太郎氏の一人娘で、当時市内吉田小学校尋常六年生の須藤喜恵子十三歳であった。喜恵子の父は同校奨励会の理事を勤め、夫人と共に世話好きの人で町内や学校の事に尽力していた。喜恵子は一人娘として幸福な日を送りながら、来春は女学校へ入学すると云うので、その準備中だった。ところが今度の震災に遭って、多くの人々と共にすんでに焼死するところであったのを、子を思う両親の愛の力に依って、東本願寺前の数百の死人の中から、只一人の生存者として救われたのであった。喜恵子は涙ながらに次のように語った。『お父さまとお母さまと一緒に火に追われながら、ようやく学校裏の東本願寺前迄逃げてきましたが、もう数百人の人達が逃げ場を失って慄えているところでした。その処へ火がまた襲って来ましたので、三人は伊勢佐木町通の方へ出ようとしたが、亀楽煎餅の店が燃えていました。そこで千秋橋の方へ逃げようとしましたが、橋も焼け落ちていました。両親は死を覚悟されたと見えて、「お前だけはどうしても生きていておくれ」といって、泣いている私を地割れした所へ入れて、その上から父母が覆い被さったのです』と、さめざめと泣いて語ったのである。

若竹町 当町も同じく羽衣町のように料理店や飲食店が多く、人家も稠密していたので、第一震で家々は殆んどことごとく倒潰し、同時に料理店・飲食店から火炎が続いて上った。烈風にあおられた火炎はたちまち町内中に広がった。町民は目的もなく逃げた。公園地・久保山その他安全地帯に避難した者は助かったが、中途焼死した者は少なくなかった。同町は三百人の町民中、圧死者・焼死者四十名を出した。なおこの町で悲惨な出来事は村田天ぷら屋主人を初め、家族庸人合せて七名が救いを求めつつ下敷になったまま焼死したことである。

6 足曳町[編集]

当町は各町の内でも災厄の激しかった町で、震動突発と同時に、全家屋百七十八戸中、殆んど全部倒潰し、僅かに二十三戸を残したのみであった。しかして猛火は四方からたちまち襲って来て、全町は火の海に化し、続いて旋風が各所に起り、瓦や焼トタンが、宙へ飛ぶという物凄い光景に、町民達半ば気を失いながら、思い思いの所を指して逃げたが、七百六十余人の町民中、四十一名の焼死者を出した。災後十月中同町に、私設十数戸の仮小屋が建てられ、その後六十七戸となり、十二月末から翌一月にかけて百十二戸を算するに至った。前記のほか町内の死亡者中に、三十年有余年間教育事業に従事された吉田幼稚園主持月直次郎氏があった。同氏、同園庭に於いて無惨にも殉職されたのは、如何にも惜しむべきことである。

7 吉岡町[編集]

当町は震災前に戸数四百五十、人口二千五百を有した。三十年前の埋立地で地盤の脆弱なことは、伊勢佐木町と同様で、道路は甚だしく亀裂し、濁水の深い所は三尺に達したといわれている。倒潰家屋は四百戸であった。死者百五十名、大部の者は下敷となり、後刻焼死したものである。火の手は午後一時に起り、二時前までに焼き尽くし、辛うじて一命を得たものは、多くは日本橋を渡り、あるいは横浜橋を渡り、中村町方面に避難したもので、逃げ遅れたものは、吉田川の中へ浸って、ようやく一命を取止めた者もある。

8 駿河町[編集]

駿河町一丁目および三丁目は、新吉田川に沿いたる街で、災前は戸数百、人口約五百を有して、材木店・運送店などの多い町である。激震が起るや、全町の家屋約八分通り倒潰し、護岸は道路と共に崩壊し、武蔵橋・横浜橋はいずれも大破した。ついで三個所より出火し、吉岡町方面に延焼して、全町残らず焼失した。住民の多くは大破した橋々を渡り、さらに中村川の橋々を渡って、中村町の丘地に逃げ上ぼったが、横浜・武蔵の二橋に火の掛った後は、ことごとく日本橋を渡り、もしくは川舟の助を得て、辛くも逃れた。河水中に浸って一命を取止めた者も少なからずあった。死者約五十人、その多くは第一震で圧せられた者である。町の有力者にして市会議員たりし和田宋作氏方では、夫妻子女合せて五名、ほかに庸人二名、枕を並べて惨死し、一家全滅の悲運を見た。そのほか全滅の家が両三軒あった。

町の釣舟業生方治三七という老人は、瀕死の四人を救った上、舟を操って火に追われた十数人を助け、大に町民に感謝された。

9 雲井町[編集]

災前当町は戸数二百四戸、人口六百四十人を算し、特記すべき程の建物なく、吉田川を隔てて永楽町と向い合って、山吹・長島・武蔵の三橋を通じている。災害は全潰全焼、隣町同様に惨状を呈し、震害後まもなく、吉岡町・真金町遊廓方面よりの猛火に包まれ、午後三時ことごとく全町は火の海と化した。町民の避難方面は、主として中村町・山手方面であるが、時を失したるものは、すでに山吹その他二橋の焼失のため、全く逃げ路を失って焼死者三十名を出した。

10 蓬莱町[編集]

大岡川と吉田川との交流一角を起点として、一丁目から四丁目まで連なっていた蓬莱町は、全戸二百七戸、千余人の町民があり、本市では繁栄の町区として数えられていた。今次の震災では、この地区一帯は恐らく惨害地の中心と云っても決して過言ではないであろう。大地震が襲来すると同時に、某家の土蔵が唯一つ残っただけで、町内の家屋は全部倒潰したために、多く圧死者を出した。当町は古ヘの埋立地なので、地盤が弱く、それがために各所に亀裂を生じ、河岸が崩懐して、川水が流出し、町民は逃げ場を失ったので、一層死者を出した訳である。地盤亀裂の主なる地帯は、大岡川辺一帯で、幅三尺深さ数尺も亀裂して。護岸は一間ないし二間ほども河中に墜潰した。家屋倒壊後、火は間もなく一丁目六番地方面より発した。瞬く間に豊国橋方面に向かってその他一帯を舐め尽くし、一方弁天裏の発火は烈風に誘われて、一旦は西北に向かって燃え狂うや、さらに迂廻して二・三・四丁目と舐め尽くした。蓬莱町全滅は三丁目すなわち鶴ノ橋附近で終結を告げたのである。町民達は第一震と同時に、横浜公園方面に逃れたものは、大部分は辛うじて助かった。しかして第二震で豊国橋は墜落してしまったので、遅ればせに逃げて来た二十余人の町民達は、橋の袂まで来た時、行く事も帰ることもできなくなって、無惨な焼死を遂げたのであった。その他の避難者は、町内附近の東本願寺別院・長者町郵便局・弁天社境内等に避難したが、これらは他の避難者と同様に、全部焼死した。町民の死体は溺死者七十六人、圧死者五十人と判明した。さらに同町内に一家全滅の悲運に陥った家は、次の如くである。

同町三丁目十一番地の青年会長佐藤貞次郎氏は一家七人焼死。本願寺附近で厄に罹った金剛米太郎氏は一家五人焼死。鶴巻貞次郎氏は一家五人圧死。船舶に避難した山田團次郎氏は一家五人溺死。元同町衛生組合長医師大橋武造氏も一家五人打揃って本願寺別院前に於いて焼死。震災後九月十日前後には町民続々と帰って来て、美しい相互扶助の心を抱き合って、町の復興に努めた。

11 若葉町[編集]

若葉町方面の災害は、隣接区と同様に建物地盤の破壊を初め、水道栓の破裂等甚だしく、したがって町民の遭難も凄惨を極めた。避難方向は概して山手すなわち水道貯水の高台を目掛けたものであるが、後刻になって日出町の発火に遮られて、反対の中村町方面に避難したものも多く、ことに最初はかの大多数の死体を爆らした省線敷地に大方集ったが、それは一時で、危険刻々に迫るのを知り、前記の方面に転ずるに至ったのである。町内建物等の下敷になり、圧死したもの約三十名で比較的僅少であった。この町も災後町民一致して相互に扶助して、町の復興をはかったのである。

12 長者町一 - 九丁目[編集]

丁目 震災前戸数 人口 行方不明 圧・焼死者
一丁目 220戸 100名 - 10名
二丁目 112戸 560名 - 8名
三丁目 200戸 800名 10名 6名
四丁目 140戸 530名 - 72名

右の表の如く同町一・二・三丁目の死者が少かったということは、道路の幅が広く、他町と比べて、避難するのに何の支障もなく、避難地の根岸方面に通ずる車橋・扇橋は土橋であったのと、四丁目を除いては、火災が比較的遅かったので、避難中背に負う荷物さへ断念した者は、何の苦もなく安全に避難することができたのである。四丁目は千秋橋が大破して通行を遮られ、ことに同町は火の手が早く、倒潰家屋が多かったため、七十二人の圧死があった。

当町附近一帯は大震のため全家一斉に倒潰し、地盤の亀裂も甚だしかったので、かなり多数の圧死を出した。猛火は足曳町方面から、早くも襲って来たので、町民は安全地である中村町に避難した。同郵便局は、あまり新しくない煉瓦造りの建物だったので、無惨にも細かに破壊して、局の前を歩いていた人が二十四名も煉瓦に打たれて惨死した。もちろん局内の事務員も殆んど全部下敷にされたが、ようやくのことで割れ目から逃れ出た十数人局員等は、必死となって救助に従したが、猛火はたちまち局の四辺を包んでしまったので、もう手の附けようもなくなってしまったのであった。今となっては、彼等は自分の身が危険に迫ったので、一団となって、互に助け合ながら避難地へ向かった。しかし吉田川に来ると、頼みにした千秋橋はすでに焼失していたので、ここは一大事と、山吹橋へ駆けつけ、ようやく橋を渡って、安全な唐沢山に避難した時は、午後二時近くであった。

長者町六丁目 六丁目一帯は震動も激しく、五十戸の家屋は全部倒潰したので、圧死者も沢山あった。また電車道の両側は大陥没をなし、数間の亀裂ができたため、町民の中では逃げ遅れて焼死を遂げた者もあった。同町芸妓屋吉倉氏の抱人などは、五人も一緒に黒焼けになって死んでいた。

長者町七丁目 横浜演劇場の中心を占めている賑やかな所で、附近に常設館・喜楽座・電気館・左右田銀行等、相当の建物があったが、たちまち焼野原に化した。町民は、一つは中村町方面・競馬場、一つは日出町に出で、水道山へと避難した。同町の三河屋酒店は四人、桜本の芸者屋は四人、その他数名惨死者を出した。

長者町八丁目 八丁目の一画の惨状も他と同様であった。すなわち第一震動と共に全家屋は倒潰して、町民十五名の圧死者と焼死十名を出した。町民は同じく長者橋を渡って日出町を通り、水道山に避難したが、町民中日出町三丁目で焼死した者は多数あった。

長者町九丁目 末吉町方面の惨害に次いで、同町の惨状も傷ましいものであった。町民達が避難地へ 行くのにただ一つの橋長者橋が墜落しかけた時、彼等は行くことも帰ることもできず、互に押し合っていた。疲れ切った老人や女子子供は、橋上に倒れてそのまま死んでしまった。百四番地では一丈余りの防火石垣が俄然倒潰して、十余人の町民が無惨に圧死した。八十四番地下駄商太田菊太郎氏一家は庸人共に六名惨死した。九十二番地小林一家は五名、また百四番地の洋食店新田氏の一家は五名、その他身元不明の者五名が圧死した。震災前の人口千二百余人中、百三十五名の圧焼死者を出したのである。

13 福富町[編集]

福富町の惨害は、死者六百名、行方不明者二百余名を出した。第一震と共に、七百戸の家屋は、八分通りは倒潰し、火災はたちまち二箇所から発し、全町まもなく火の海と化したので、骨肉さえ助ける余裕はなかった。一家全滅の家は三十世帯もあった。腕の鋸引悲惨事もこの町であった。こうした危急の中に、十六歳の少女と、十二歳の少年とが、四歳ぐらいと一歳ぐらいの女児二人を救ったという美談があるから、特に読者諸君の前に紹介する。

その可憐な少女は、福富町三丁目百九番地波多野吉三郎方の庸人、安田きみ〔ママ〕十六歳であった。きみ子は主人一家がどこへ避難したか分らなくなったので、彼女がたった一人避難地へ逃れて行く途中、道路に捨てられている二児を見出したのであった。情深い彼女には、自分の身がどうなっても、このまま二児を見捨てて行くことはできなかったので、一児を背負って一児を抱き、一生懸命になって、安心な避難地へ急いで行ったのである。丁度この時福富町三丁目百五番地保坂市太郎方の庸人城田三男十二歳も避難の途中であったが、二人の子供を連れて、不安げに雑踏の中を急いで行く少女の姿を見た時、三男はどうしてもそのままその場を去ることはできなかった。『大きい方の子をわたしに負わして下さい』と、三男は懇願するように言った。きみ子は突然同情者が現れたのをどんなにかうれしく思ったでしょう。可哀想な子供たちであることを、きみ子はいろいろと話して、二人は再び安全な避難地の方へと急いだ。その後二人は餓えと疲れに苦しめられながらも、二児の世話をして一夜を明かした。それから三日目二人はようやく藤棚の巡査の派出所に行って、事情を話し、可哀想な二児の保護を願い出た。巡査達は少年・少女の健気な尊い心に涙なしにはいられなかった。四人は森巡査の同情で、始めて食事を受け、安らかな夜を明かすことができた。餓のために衰弱していた赤児は、ミルクによってようやく恢復した。九月七日になって二児の父親は、日吉清次氏であることが判った。父親は涙にくれて我が子を引取ったが、きみ子の両親も行方が判らないというので、きみ子も一諸に引取って我が子の恩人として、一生養うことにした。きみ子と三男との美談は、震災を思い出すと共に、永遠に人々の心に忘れられないであろう。

14 柳町 吉田町[編集]

吉田町並びに柳町は、伊勢佐木町通りの繁栄に次ぐ大通、本市目抜の堤所である。繁栄な町だけに、二百余名の惨死者を出した。同町は吉田町の裏通りと伊勢佐木町方面との二箇所からの火と、野毛方面から追い火に取り巻かれたので、全く親子でさえ助ける暇がなかったと云われている。柳橋も都橋も遠に焼け落ちてしまったので、野毛方面に避難しようとした人も、公園の方へ逃げようとした人も、全く絶望であった。死に物狂いになった町民達は、吉田橋を公園への逃げ道として、それからそれと押しかけたので、橋上も川岸も群集で埋められた。かかる時猛火は容赦なく襲ってきた。焼死する者、川中に落ちて溺死するものは多数であった。主なる同町の建物は、清水組の三階建の大建物を初め共信・興信両銀行等であった。横浜で知られた義太夫師匠野澤督三氏も惨死した。

15 桜木町一 - 三丁目(桜木町駅を含む)[編集]

桜木町の災前戸数百三十戸、人口六百五十人あった。明治初年の埋立地の開係上、地盤も極めて軟弱であったため、亀裂箇所が非常に多かった。建物は横浜日々新聞社・西本願寺別院・海外渡航検査所・神奈川県農工銀行・横浜米殻倉庫・横浜市中央職業紹介所等あったが、海外渡航検査所と横浜市職業招介所とを残して、他は倒潰または焼失したのである。この辺は火が割合に遅かったので、大江橋・弁天橋方面から桜木町駅を指して避難する群集は、一時駅前の大空地に充満した。しかも夕刻となってこの辺も危険になったので、避難地を東横浜駅構内または山手方面に転じた。渡航検査所および職業紹介所だけは震火災ともに免れたので、後日検査所は本県庁に、紹介所は三日本市仮事務所に当てられ、震災救護事務の中心となった。災後横浜駅前から大江橋に至る個所、電車線路の交通は、全市の要路となった。

16 内田町[編集]

第二方面内田・橘・緑町および各駅被害の条を見よ。

17 東横浜駅[編集]

第二方面市内鉄道各駅被害の条を見よ。

18 野毛町 宮川町 福島町 花咲町一 - 五丁目[編集]

震災前四箇町は戸数千七百、人口七千六百五十を算した。同町の代表的大建物と目指されるものは、まず野毛町二丁目女子商業補習学校・共信・左右田・平沼銀行支店、野毛町三丁目子ノ神社・税関寄宿舎・洒井病院・小松病院・飯田病院、野毛町四丁目大聖院・横浜市水道瓦斯局等であった。道路は家屋倒潰と水道破裂とのために、避難民を苦しめた。火災は四方八方から襲って来たので、逃げ遅れた者は親子もろ共無残な焼死を遂げた。最も惨状を極めた家は、宮川町一丁目二十三番地堀内正宏、宮川町一丁目二十二番地小林喜一郎、同番地高塚菊太郎、二丁目二十八番地関喜二郎、一丁目十三番地粟飯原美太郎、三丁目四十七番地河原仲太朗、一丁目十二番地宮久太郎、一丁目四十七番地館林伊之助、一丁目十三番澁谷喜作、野毛町一丁目二番地鈴木斧次郎、一丁目二十四番地野呂石松、一丁目二十四番地岡鐘二、二丁目五十一番地増山龍蔵、二丁目五十二番地里見友二朗、二丁目五十一番地河合太平、三丁目九十五番地清田久治、三丁目百二十七番地田村新二郎、三丁目百二十七番地最上八祐、四丁目百五十九番地増田和三朗、花咲町一丁目十三番地宮内ヨシ、五丁目七十四番地斉藤佐吉、四丁目五十七番地平田照美等で、累計三百余名の焼死者・行方不明者を出した。避難方面は桜木町・省電停車場前・同構内・伊勢山太神宮境内・掃部山・水道貯水池附近・老松町平沼氏邸内・久保山・境谷等であった。当町の救護は応急の施設を行い、震災直後九月四日、野毛町一丁目青年会は同町省線敷地に事務所を設け、罹災居住者には、市から配給を受けた物資を分配した。花咲町三・四・五福島町青年会、野毛町三・四丁目青年会、野毛町二丁目有志会、宮川町宮川会、花咲町一・二丁目花咲会、各会とも救護事業に従事した。

19 日出町[編集]

日出町は震災前戸数四百三十、人口は約一千七百五十であったが、大地震が襲うと同時に、家屋は倒潰し、死者をおびただしく出した。黄金橋・朝日橋・長者橋の三つの橋が焼失したため、同町の避難者は全く逃げる道を失ってしまった。しかし同町方面の人々の中には、隣町と同様、水道貯水池高台へ逃げた者多く、途中天神坂・省線空地等で焼死したものと、その他の所で焼死した者とを合わせると、百四十三名の多数焼死者を出したわけである。町民中には避難地を誤って逃れ、逃れて焼死した者もある。一丁目二十六番地先別邸跡の五百坪空地には、三十数名重なり合って焼死した者もある。二十八番地鉄道省建築事務所跡には数十名の焼死者が取乱され、その他長者橋附近の焼死者数十名もあって、同方面はもっとも酸鼻の中心となったのである。死者の中には同町民のみに限らず、他町より押掛け、途中火炎に遮られて、空しくこの地に於いて遭難したものもあった。日出町民中、一家全滅したものは、一丁目二十番地田崎泉一郎氏一家七人、同二十六番地大森久壽猪氏一家五人、二丁目四十二番地大森洋服店一家五人、同岡安喜佐久氏一家四人、二丁目四十四番地高折新吾一家六人等で、その他判明せざるもの二三あった。

20 清水町 霞町 初音町 三春町 黄金町[編集]

惨害と遭難の経路は五町皆同様であるので、ここに一緒に述べることにしたい。当日各町とも永く猛火に襲われ、道路の亀裂、および埋没等に遭って、町民たちは避難を遮られたが、しばらくして皆水道貯水池・久保山等に避難した。しかし、その他は省線空地・護岸線あるいは途中猛火に襲われて、天神坂その他の空地で焼死を遂げたのである。左に各町に於ける死者数および一家全滅を記すことにする。三春町・黄金町の焼死者百名であった中で、一家全滅は黄金町四丁目十四地前田氏一家三人、二丁目九番地大谷清氏一家五人、三春町一丁目四番地大須賀鎌吉氏一家六名等数氏で、その他家族一二名の死者を出した家は沢山あった。次に初昔町では死者八十名で、大部は末吉橋附近で焼死したものと思われ、同町一家全滅の家は、二丁目二十五番地の藤政一郎氏一家二名である。多数の家族を失った者は、一丁目四番地の箕輪末吉氏で六十歳の老人一人を残して一家七名焼死した。二丁目の村田寅之助氏は、小児一人を残して一家三人の焼死、一丁目五番地松原辰次郎氏は二名の子供を残して一家五人焼死したなど、実に痛ましい。霞町・清水町では、死者最も少なく、清水町の四名、霞町の二名であった。

21 英町一 - 三丁目[編集]

震災前の同町の戸数百二十、人口六百人であったが、約三分の二は倒潰し、まもなく猛火に包まれ、町民はいち早く、東福寺境内に避難したが、やがて東福寺も猛火に包まれたので、水道貯水池に転じた。同町居住者の圧焼死者は僅に十一人であった。

22 南太田町[編集]

東耕地 同耕地一帯天神坂左右側の崩壊を初とし、八箇所に大なる土堤崩壊を見たが、人家の倒潰は僅かに二戸で、地盤は殆んど亀裂を生じなかった。町民は類焼の厄を免かれると油断していたが、初音町方面から北東に向けて煽られる猛火は、それからそれと延焼して、まもなく同耕地西部半僧坊中段に火を発し、午後一時頃には焼野原の姿となった。死者は三四名、負傷者はわずかに三四名であった。避難民の中、運よく坂路を昇ったものは、水道山貯水池・茂木別邸内等に一命を得たが、登り遅れた者約三十名は安部別邸五百坪の空地で焼死を遂げた。

霞・谷原両耕地附近 同方面は戸口の稠密をかいていたお蔭で、震火災の厄を免かれた。しかし震害は他町区よりも激しく、全潰家屋四十三戸、半潰は二百七十戸であった。地盤の破裂は、二千五十八番地先で、延長約二十五間の大溝のような亀裂を生じた。また二千八十三番地先東福寺墓地附近に、約四十間の亀裂と、千九百七十五番地先電車軌道上に、延長約三十七間の亀裂とを見たのである。かかる災害を被った上に、清水町方面から襲い来た猛火は、俗称赤門の真言宗東福寺を始め、附近一帯百四十有余戸を舐めつくし、赤門谷戸附近四百有余戸を焼き尽くしたのであった。しかし百余名の町民は必死となって、バケツや手桶で、下水の大桝から水を汲み出し、防火に努めた結果、二千十三番地先で火を止めたので、辛うじて延焼を免がれたということである。しかし死者はわずかに三四名しかなかった。なお救護に関する諸般の熱心なる活動は、同町青年会員と、衛生組合員とが一致して、水道山西端高地に避難していた約六千余人を親切に世話をした。

西中耕地西部 この地帯は家屋も一様に小規模で、住民は殆んど勤め人であったから、留守居は女ばかりで、どうすることもできない有様であったが、幸い死者は多く出さなかった。女子供は逃げ場に迷って、太田小学校・平沼小学校・佐藤氏別邸、その他庚耕地の奥の高台を目差して逃げたが、猛火に追われ、途中千六百三十三番地に添う道路が崩落して、危うく多数の死者を出そうとしたが、幸いに助かった。しかし崩壊と共に、千八百三十四番地一棟の家屋が高地絶頂から転倒して、親子三人埋没したが、母子二人だけは助かり、子供は惨死した。

23 井土ケ谷町[編集]

大震災が突発と同時に、家屋は倒潰し、火災はそこここに起ったが、大事に至らなかった。大建物は撚糸織物株式会社・東メリヤス株式会社・横浜屠場株式会社・戸田製革工場等であった。まもなく南方大岡町商工実習学校附近から火災を起して、おりしも強烈なる南風にたちまち大岡町を一舐めにし、蒔田町に延焼した。その間火粉は盛に落ちて来たが、必死となって防火に努めたので、幸い火災を逃れることができた。

24 弘明寺町[編集]

弘明寺町は前田と、山ノ下と北ノ前の三字から成って、震災前全戸数百八十戸で人口は九百名であった。倒潰した家屋は、全部の約三分の一で、その余りは僅に破損したぐらいのものである。弘明寺は本堂・観音堂等は災害を免れたが、同寺の横浜最古の建築物として尊称されている応永十八年建立した楓関門と、貞享元年相州逗子神武寺から受け伝わった鐘楼とが倒潰したことは惜しいことであった。同町は二三の発火はあったが、大事に至らず消しとめた。延焼も観音橋だけで済んだ。したがって焼死者と行方不明者一名とを出しただけである。震災直後、同町方面に集合した避難民の数は、観音境内の千数百名と、前田の約五千坪ばかりの空地に避難した二千数百名とであった。同町の根本醤油店では、醤油二十樽・諸味六十石・大豆十二石・食塩二千斤を避難民に配給し、成和商会では石鹸を配給した。震災後こうした美挙は喜ぶべきである。

第3節 惨状を極めし主なる地帯[編集]

吉田橋附近 この橋の附近に群がって来た者は、伊勢佐木町方面の者と関内一部の者であった。猛火に逃げ道を遮られた避難民たちは、最後の手段として河中に飛び込む者もあれば、船に乗り込む者もあったが、大抵は溺死し、あるいは船と諸共に焼死した者が多かった。助かったものは頭から絶えず水を浴びていた少数の者ばかりで、大多数は無残な焼死体を川岸に晒していたのである。吉田橋附近、地盤の亀裂・陥没の状は殆んど他に其比を見ることができない。なかんずく警察署附近より大岡川沿岸の電車軌道の亀裂・陥没はひどかった。軌道は釣針のように曲り、敷石は四散していた。全焼戸数は一万四千六百九十九戸、全壊が四百八十一戸、橋梁の墜落焼失が十九であった。

梅ケ枝町 本願寺別院の広庭に焼死者三百五十余名を出したことは、真に悲惨な極みであった。全身焼け爛れて男女の見分けのつかない者、あるいは半焼になって頭蓋骨が露出している者など、見るに忍びない悽惨な様であった。本願寺附近の町民は、同所に逃れたばかりに、生命を捨てたようなもので、血気な者だけ猛火の中を逃げて助ったが、婦女子・傷病者は皆焼死したのである。

末吉橋際の省線の敷地 幅二十間以上もある空地であったので、町民等は附近の街路が非常に狭いのにも顧みず、安全な避難地だと思って、続々と集ったのである。が、まもなく火炎は八方から起って、烈風に煽りつけられたので、もう逃げ場もなくなって、哀れ二百余名の焼死者を出だしたのである。なお最後に大岡川に飛び込んで溺死したものも十数名あった。末吉橋際も、本願寺別院同様に百有余名の焼死体が発見された。同所に避難したものは、猛火に包囲されて逃げ迷うおりから、水道鉄管破裂し、盛に噴水したので焦熱を避けようと、その下に集まった時、たちまち断水し、再び猛火に追われて焼死したものだといわれている。以上末吉橋際よりその附近にわたっては、災後に四百数十名の惨死体を発見されたということである。

天神坂 長さ四十間ほどで、石垣造りの狭い、すこぶる危険な坂であるのに、何故に避難民がかく集って来たかというのに、坂を上れば水道貯水池や、旧茂木別邸の樹木の茂った窪地などがあって、広々した安全な避難地であったからであった。まず長者橋方面から死に物狂いになった避難民が群がって、押し寄せて来た。これ等の避難民は、水道山や野澤山を志して坂を登って行ったのであるが、不幸にも坂の中途に倒潰家屋があって、道を塞いでいたので、もう一歩も進むことはできなくなった。それで先導者は登ることができないと叫んだが、その声を耳にもせず、日出町方面から逃れて来た町民の群が、後から続々上って来るので、帰ることも行くこともできず、死を待つよりほかに道はなかった。やがて猛火は四辺を取り巻いた。子を背に負って婦人がそのまま焼死するという、限りなき残虐な様は幾多演じられた。後に至って、ここの死体を検したところ、三百以上を算したと云う。中には義太夫名流司太夫の家族も、ここで災厄に遭ったと伝えられている。かく惨死の多かりしは、避難者が土地の状況を知らざるに依れるとの説は、けだし正鵠を得ているのである。故に地理を知った者は、茂木邸崖の右端雑草を分け上って、一命を得た者も多数あったとの事である。

第4節 震災直後に於ける主なる避難地[編集]

避難地 人数
吉田橋際より港橋に至る間および船舶内 約50名
久俣山横浜孤児院 約50名
同妙音寺 約850名
同東光寺内 約1500名
平沼小学校 約3500名
兵隊山上下地 約2500名
南太田久保山畑地 約35000名
太田小学校 約2500名
同地残存家屋内 約25000名
南吉田方面千歳橋変電所 約1000名
同和田製材所 約1500名
同共進橋附近 約200名
同御三の宮附近 約1300名
弘明寺町一帯 約1850名
同観音境内 約500名
井土ケ谷一帯 約4000名
桜木町東横浜駅構内 約1500名

関連項目[編集]