↑前年 桓公十四年(紀元前698年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有四年、春正月、公、鄭伯と曹に會す。氷無し。夏五[1]。鄭伯、其弟語をして來り盟はしむ。秋八月壬申、御廩・災[2]あり。乙亥、嘗す。冬、十有二月丁巳、齊侯祿父・卒す。宋人、齊人・蔡人・衞人・陳人を以て鄭を伐つ。
【傳】 十四年(周ノ桓王二十二年)春、曹に會す。曹人、餼を致す。禮なり[3]。(桓公十二年→)夏、鄭の子人[4]來りて盟を尋め、且つ曹の會を脩む。
秋八月壬申、御廩[5]災あり。乙亥嘗すとは、(災ノ)害あらざるを書するなり。
(桓公十二年→)冬、宋人、諸侯を以て鄭を伐つは、宋の戰に報ゆるなり。渠門[6]を焚き、入りて大逵[7]に及び、東郊[8]を伐ち、牛首[9]を取り、大宮[10]の椽[11]を以て歸りて盧門の椽と爲す[12]。
- ↑ 夏五のみにて月なきは、闕文なり。唯だ月の字を闕けるのみなるか、或は他に文ありしなるか、今に至りては知る可からず。
- ↑ 火災。
- ↑ 夫れ諸侯の會に、事既に畢り、侯伯、禮を致し、地主、餼を歸り、以て相辭する也。餼は芻米なり。禮なりとは、地主の禮を得たる也
- ↑ 鄭伯の弟語。
- ↑ 祭祀の供物に用ふる黍稷等を藏せる倉。
- ↑ 渠門は鄭の城門。
- ↑ 大逵は廣小路。
- ↑ 鄭の郊。
- ↑ 牛首は鄭の邑。
- ↑ 大宮は鄭の祖廟。
- ↑ 椽はたるき。
- ↑ 盧門は宋の城門。宮椽を取り來りて門椽と爲すは、敵を辱め、我が功を表はす也。宋公の禮なきを言ふ也