明東北疆域弁誤附奴児干永寧寺碑記

 
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明東北疆域弁誤 附奴児干永寧寺碑記
 
 明の東北疆域を説く者大抵其の晩出して且つ考証細密なるを以て、清朝官撰の諸書、大清一統志、盛京通志、満洲源流考等に拠らざることなし、而して満洲源流考が論断最も精確の観あるを以て、其の記述亦最も信憑せらる。其言ふ所に拠れば、明初の疆圉、東は開原、鉄嶺遼、藩、海、葢に尽き、其東北の境は全く清朝及び国初の烏拉、哈達、葉赫、輝発諸国、并に長白山の納般、東海の窩集等の諸部に属す、明人未だ曽て其境上に渉らず、永楽二年、唐覊縻州の制に傚ひ、尼噂罕衛を設く、七年改めて尼嚕罕都司となす、後又続て衛所の空名を設く、其疆域の遠近、原より知るに及ばず称する所の山川城站も、亦多く伝聞疑似の間に在り、而して又訳対訛舛し、名目重複す、一地にして三四名、一名にして三四見する者甚だ多し、又黒龍江、屯河、瑚爾哈河等の地の如きは、明の辺界と相去る絶遠にして、亦衛所の中に列せり、蓋し諸部常に市易を以て、明と往来せるにより、其居る所に即き、強て名けて衛と為し、之を実録に書し、授くるに官称を以てし、或は間々部長ありて自ら来り、或は僅かに部人の来て貿易する者、前オープンアクセスNDLJP:55 後蕪複し、展転伝訛す、明人固より由りて悉すことなきなりといへり。

 然るに此の記述疑ふべき者、一二にして止まらず、盖し愛新覚羅氏の始祖布庫里雍順が俄采里に住せし時代は、魏源以て遼金の末造に在るべしと為せども、此れ乾隆帝が愛新の義金たるを以て、金源同一の説を建てしに違ふを敢てせざりしのみ、遼史に愛新覚羅氏の源流、徴すべき者なし、金史には愛新氏あれども、其の果して清の始祖と関係あるや否やは詳かならず、然らば則ち愛新覚羅氏は、遼金元の時代に於て、著姓たりしにあらざること知るべし。清の所謂肇祖の時は、魏源以て明の正統景泰の際に在るべしと為せり、而して此は永楽の尼嚕罕都司を建てしより、数世の後に在り、烏拉、哈達、葉赫、輝発諸部、長白の納殷、東海の窩集、皆金代部洛の遺と称するも、其の詳なるは得て知るべからず、清の国初、即ち明の衰世に於て、各相雄長せる形勢を以て永楽の時も亦同じく然りと為すことを得ず、明人が未だ曽て其境に渉らずと云ふが如きは、太だ武断に過ぎたりと謂ふべし。但だ清一統志が寧古塔の条下に明初建州毛憐等の衛に属すといひ黒黒江の条下にも明初都司を設けて之を統領すといひ、重修の際には吉林の条下に都司を設け、衛一百八十四所二十を設くといふを見れども固より語て詳らかならず、明史地理志の若きも、一語の尼嚕罕都司に及ぶことなし。

 顧みて明代の諸書に及べば、則ち女直の境に関して記せる所、決して此の如く草々ならず、明一統志は女直の条下に於て、元は其地曠濶にして、人民散居するを以て、軍民万戸府五を設けて北辺を鎮撫す、曰く、桃温、曰く胡里改、曰く斡朶憐、曰く脱斡憐、曰く孛苦江、分ちて混同江南北水達達、及び女直の人を領し、合蘭府、水達達等の路あり、以て之を総摂す、〈清一統志には此を以て寧古塔条下に引き、重修一統志には、更に吉林の修下に引て、而して桃温以下の訳字を改めたり〉 本朝に入るに及び、境を悉して帰附し、開原より運北、其部族の居る所に因て、都司一、衛一百八十四、千戸所二十を建置し、其の酋長を官して都督、都指揮、指揮、千百戸、鎮撫等の職と為し、印信を給与し、旧俗に仍りて、各々其属を統べ、時を以て朝貢せしことを記せり、都司とは奴児干都司にして、奴児干は即ち尼噂罕の原字なり。若し清の外藩蒙古、西蔵、及び未だ省を建てざりし以前の新疆を以て、之を其の疆域の外に斥くるを得ず明清二代、四川雲南の土司等を以て之を其の版図より去るを得ざらしめば、奴児干都司の地、之を明の疆域以外といふべからざるに似たり。

オープンアクセスNDLJP:56  殊域周咨録には則ち亦女直の条下に記して、本朝永楽元年、行人那枢をして知県張斌と偕に往て奴児干を諭さしめ、吉烈迷諸部落に至り、之を招撫す、是に於て海西女直、建州女直、野人女直の諸会長、境を悉して来附す、乃ち詔して開原の東北より、松花江以西に至るまで、衛一百八十四、所二十を置き、站たり地面たる者各七、其酋及び族目を選び、授くるに指揮、千百戸鎮撫等の職を以てし、旧俗に仍りて、各々其属を統べ、時を以て朝貢せしめ尋て復た奴児干都司を黒龍江の地に建て、都督都指揮等の官を設け、各衛所と相轄属せず、其の中国に居るを願ふ者あれば、安楽州を開原に、自在州を遼陽に設けて以て之を処き、量授するに官を以てし、其の耕猟に任す、故に各衛酋入貢する毎に、賞賜甚だ厚し、征調する所あれば、命を聞て即ち従ひ敢て期に違ふことなしといへり。那枢、張斌の足跡、果して何地に及びしかを詳かに記せざるも、亦以て明人が未だ曽て其境に渉らずといふの妄を明かにするには足れり。但だ此書には、互市通商、勢は覊縻と雖も、形は藩蔽を成すの語あり、明人も亦必ずしも此を以て其の版図と認めざる者の若し、然れども此の所論は、実際声教足跡の及ぶ所に存して、其の名の如何を問ふに在らず。且つ周咨録の撰は、亦遥かに永楽の盛時に後れたる者、明時の書と雖も、其の季世の出る所、読史方輿紀要、天下郡国利病書の若きは、皆奴児干都司に於て、全然之を略せるを見れば、亦時運の盛衰を以て、疆域の伸縮あるを思はざるべからず。永楽の時、一時交阯布政使司を置き、安南を郡県とせしことあり、後の之を放棄せるを以て、其の盛時の版図たりし跡を没すべからず、此れ以て例すべき也。

 大明一統志及び武備志には奴児干都司、及びかの数百の衛所の名を具さに挙げたれども、煩はしければ今之を録せず。開原新志〈大明一統志に引く所〉に記して云く、建州は稍や開原の旧俗に類す、其の脳温江、上は海西より、下は黒龍江に至る、之を生女直と謂ふ、略ぼ耕種を事とす、可木以下は樺皮を以て屋と為す、其の阿迷江より散魯江に至るまでは、頗る可木に類し、五枚船に乗じて、江中に疾行すと。又云ふ乞列迷は奴児干を去ること三千余里、一種を女直野人と曰ひ性剛にして貪、文面椎髻、帽に紅纓を綴り、衣には綵組を縁にす、惟だ袴して裙せず、婦人は帽に珠珞を埀れ、衣に銅鈴を綴り、山に射て食と為し、暑ければ則ち野居し、寒ければ、則ち室処す、一種を北山野人と曰ひ、鹿に乗じて出入す、又一種平土屋に住す、屋脊に孔を開き、梯を以て出入し、臥すオープンアクセスNDLJP:57 に草を以て舗き、狗窩に類すと、又云ふ、苦兀は奴児干海の東に在り、人身毛多く、熊皮を戴き、花布を衣る、親死すれば膓胃を刳き、曝乾して之を負ひ、飲食必ず祭り、三年の後之を棄つ、其隣に吉里迷あり、男少く女多しと。可木は喀穆尼窩集に類し、阿迷はアムールの対音たらんと推測せられ、乞列迷は亦克呼穆などに似たり、其の使鹿部の俗等に於て、記述略ぼ備はり、又樺太の俗たる死者の臓腑を刳出して、之を曝乾する事等を記して、苦兀即ち庫葉、〈何秋淪等の致証による〉即ち樺太〈下に更に述ぶべし〉たるより推せば、明人を以て全く東北辺疆の事に通ぜずとするの誣ひたることも亦知るべし。近年即ち光緒十一年に及び、東海諸部、已に露国の有と為りし後、曹廷𤇍〈湖北枝江の人〉官命を帯びて、西伯利の東偏を偵察し、而して記呈せる書、即ち西伯利東偏紀要の中に云ふあり、廟爾〈黒龍江附近の一市〉の上、二百五十余里、混同江の東岸なる特林地方に石磁あり、江辺に壁立す、形城闕の若し高さ十余丈、上に明碑二あり、一は勅建永寧寺記と刻し、一は宣徳六年重建永寧寺記と刻す、皆太監亦失哈が奴児干、及び海中の苦夷を征服せる事を述ぶ、論者威な謂ふ明の東北辺塞鉄嶺開原に尽くと、今二碑を以て之を証するに、其説殊に拠るに足らずと、苦夷は即ち苦兀にして、庫葉の転音なり。此の記事は実に二百年来の蒙蔽を破るに足る者と謂ふべく、其の述ぶる所、一々明時の諸書に合し、明の盛時、即ち永楽宣徳の際の若きは、唯だ東北諸夷に対して、招諭撫養を務めしのみならずして、而して又能く其の威力を及ぼすこと、樺太にまで至りしことを証するに足るべき者と謂ふべし。

此の二碑は極めて珍奇なる者にして、近日予も亦其写真を得、方さに研究中に在れば、其の結果は次号の紙上に記述すべく、されば此の問題に更に精確なる徴証を与ふるを得べし。

 曹廷𤇍は又云く、勅建永寧寺の碑陰に二体の字あり、其の碑の両旁に四体字の碑文あり、惟だ唵嘛呢叭弥吽の六字のみは漢字にて識るべし、余の五体は、倶に弁ずる能はず、考ふるに楊賓の柳辺記略に、威伊克阿林界碑を載す、其略に曰く威伊克阿林は極東北の大山なり、上樹木なく、惟だ青苔を生ず、厚さ常に三四尺、康熙庚午、阿羅斯 〈即ち露国なり〉と界を分つ、天子鑲藍旗の固山額真巴海等に命じ、三道に分て往て視しむ、一は享鳥喇より入り、一は格林必拉より入り、一は北海より遠り入る見る所皆同じ〈時方に六月なるに、大東海尚凍る〉遂に碑を山上に立て、碑には満洲、​アロス​​阿羅斯​​カルカ​​喀爾喀​文を刻すと、按ずるに紀略オープンアクセスNDLJP:58 に言ふ、碑に三体文を刻ると、未だ紀する所の何事なるを詳かにせず、今此碑共六体の文、廷𤇍が浅見の能く測る所に非ずと。意ふに紀略の言ふ所は、清露分界碑を指すなるべし、而して廷𤇍は之を此二碑と同一物と推測せる若きは、全く誤れりと謂ふべし。但だ解すべからざるは、二碑今に儼存すれば、則ち清初豈に之なきの理あらんや、而して官撰地理の諸書、及び其後史学掌故に通ぜし学者の著述亦一語の此に及ぶなかりしは、怪事の極なり。意ふに清初上下、皆其の国の起原を以て明と敵国の地位に置かんとし明の服属にして、乱臣の志を得たる者と同一視せらるゝを欲せず、故に満洲地方を以て明の声教訖らざる所たるを証せんことに力を尽したるの跡、頗る知り難からざる者あり、故に明代諸書の拠るべき者すら、曽て之を採取せず、明史地理志を撰ぶも亦一語奴児干都司に及ばず、然らば則ち此の二碑の全く注意の外に置かれたるも、亦其故推して知るべきに非ずや。(明治三十三年六月地理と歴史第一巻第四号)

 特林の明碑は磨滅多くして、尽く読むことを得ざるも、其の旧碑を摩撃して得る所は、左の如し。

勅修奴児干永寧寺碑記(不明了の字は○を填す)

○天之徳高明故能覆転地之徳博厚故能持載聖人之徳神聖故能悦近而服遠博施而済衆洪惟我

朝統一以来○○○○○十年矣九夷八蛮○山航海駢肩接踵稽類於

闕廷之下者○莫枚挙惟東北奴児干国道在三訳之表其民曰吉列迷及諸種野人雑居焉皆○○○化未能自至况其地不生五穀不産布帛蓄養惟狗或野○○○○ ○○○○○○○○捕魚為業食肉而衣皮如弓矢諸○衣食之艱不勝為言是以

○○○其国○○○○○矣

○○而未善永楽九年春特○内官亦失哈等率官軍一千余人巨船二十五艘復至其国開設奴児干都司 ○遼○時○○故業○○○○○○今日復○○○矣○○○ 朝○○○者○○余人

○○○印信妨○衣○○○布鈔○而○依上立○○○暇集○○人民使之自相統属十年冬

○命内官亦失哈等載至其国○海西抵奴児干及海外苦夷諸民賜○婦以衣服器オープンアクセスNDLJP:59 用給以穀○宴以酒食○○○懽忻無一人梗化不率者

○○○○○○○地而建○柔化斯民使知敬順

○○○相○之○十一年秋卜奴児干○有○満淫站之左山高而秀麗先是已建観音堂於其上今造寺塑仏形勢○雅○○○○国之老幼遠近済々争趨○○○日○ ○○○威○永無属疫而安○矣既而曰亘古以来未聞若斯

朝(此以下数字不明)

民之○○○○所不至○子々孫々世々臣服永無○意矣以斯観之万方之外率土之民不飢不寒観○○戴難矣尭舜之治大○○○不過九州之内今我

(九字不明)蛮夷或狄不仮兵威莫不朝貢内属中庸曰天之所覆地之所載日月所照霜露所墜凡有血気者莫不尊親故曰配天正謂我

○○○○至誠無息与天同体○無尚也○盛○故為文以記庶万年不朽云爾

永楽十一年九○○○日

以下人名中読むべき者は、鎮国将軍都指揮同知康旺、○総正千戸王迷失帖、王木哈里、○○衛○○○禿魯苦、弟禿○哈、妻叺麻、○○衛指揮僉事禿称哈、母○○○男弗提衛千戸納蘭○○千戸呉者因帖木児、兀良哈、朱誠、五十六、黄武百戸高中、劉官 ○奴孫、劉賽因不花、張甫、金○、高遷等あり、而して注意すべきは、監造千戸金双頂、撰碑記行人銅台那枢安楽州千戸王児卜、自在州千戸等の官名人名なり。

此を以て大明一統志、殊域周咨録、武備志、開原新志等の記する所に参照するに尽く符合せざることなし、建碑の地、満淫衛、及び建碑者の人名中に見ゆる弗提衛は、大明一統志に拠るに、並びに永楽十年の置く所に係る、而して碑記を撰せる行人那枢は、殊域周咨録に記せる所其人なり、但だ碑中に張姓の人数名を見るも、張斌其人ならんや否やは詳かならず。碑中に云ふ所仏像等残毀せりと雖も、亦皆遺存して、五百年外の古色蒼然たる者ありといふ。(日本新聞前月の紙上、其模写図を載せたり)

宣徳再建の碑、其の磨湖更に甚しきも、其の永楽中の事を記せるは、前碑の文を薬括せる者にして、而して以下に

宣徳初復遣太監亦失哈部衆○至  其民悦服且整○○仏寺  上命太監亦失哈同都指揮康○○軍三千巨紅五十○至民皆如○○永寧寺○○○存焉、

 皆悚懼戦慄○之以戮而太監亦失哈等体○○好生○遠之意○○○○斯民謁オープンアクセスNDLJP:60 者○宴以酒食○○○○○○於是人無老少踴躍懽忻成嘖々曰天朝有○○之君云々  大明宣徳六年八月

等の語あるを見れば、宣徳中、再び永楽の緒業を継で、亦失哈を遣はし、招撫と示威と兼ね施し、而して更に仏を塑して記念と為せし者の若し。且両朝皆太監を遣りしは、猶ほ西洋に於ける鄭和の例の若く、亦失哈の名蒙古人たるが若きより推せば、元代の旧内官にして、奴児干の事情に通ぜる者たらんも知るべからず、碑後の人名に、帖木児等の字あるより攷ふるも、当時蒙古の遣摩、猶ほ此の地方に存する者ありて、此の一招撫示威の挙を要せしこと明らかなり。又此地方衛所の新設は、正統間まで継続し、〈建州右、益実左、阿塔赤河、塔山左、城討温等は正統問置く所〉正統以後は絶えて此等の挙なきを観れば、豈に英宗土木の変以後、有明の恩威、東北に行はれざるに至り、此地方の覊縻を棄てしにあらざるか。

 案ずるに、間宮林蔵が東韃紀行に所謂テレンは即ち特林の対音なり、然らば此の二碑を目観せざることはあらじと、之を検せしに左の如き記事あり。

此日経し処にサンタンコヱと名くる地あり其むかし魯斉亜賊ホンコー河〈其国中より流れ来て此川に入る〉を乗下し此処に至て居家を営み傍夷を撫して其財産をかすめ此辺の地方を蚕食せんと欲せしに満洲夷の為に討伐せられ敗走して其国に去りしと云〈年代不知〉其時賊夷の建し物なりとて此処の河岸高き処に黄土色の石碑二頭を立つ林蔵船中よりの遠眺なれば文字は彫せるや否をしらず衆夷此処に来りぬる時はもたらす所の米粟艸実抔川中に散じ此碑を遥拝す其意如何をしらず

曹廷𤇍云く、查するに永寧寺基、今俄人に改めて喇嘛廟と為さる、二碑尚ほ巍然として、廟の西南百歩許りに立てり、廟後正東二十余歩、山凹める処、連三礮台基一座ありて南向し、混同江の険に拠り、壕塹倶に在り、廟の西北約百歩、土囲一道、土壕二条あり、周数百歩、中に土台あり、亦破台基に似たり、西北向す、海口及び恒滾河口の水道来路を賭るべし、恒滾口は特林の下十余里の西岸に在り、其江長さ二千余里、西の方黒龍江の精奇里江、牛満河に入り、東の方混同江の格林江、庫魯河に入り、共に源を外興安嶺の南枝に発す、俄人索倫江の海口より、南行八九百里此江の上游に入るべし、碑を揚する時、喇嘛舗拉果皮ありて、土着の済勒弥種六七人と、旁に在りて観望す、均しオープンアクセスNDLJP:61 く謂ふ此碑は数百年前大国が羅刹を平げて立つる所に係る、土人以て素より霊異を著はすと為す、喇嘛は之を斥けたりと。此文の尾数語は、林蔵が衆夷遥拝すといへるに符合し、而して恒滾河は蓋し林蔵が所謂ホンコー河の対音なるべく、此記には大国、羅刹即ち露西亜を平げし時建てたりとし、林蔵が記には魯斉亜人の建つる所と為すの異なるあれど、要するに当時荆榛の間に没せし碑の再び建てられしことは、由て徴するを得べく、碑陰の文は即ち露文にはあらざるべきかと想像せらるゝなり。其の霊異ありとして礼拝せらるゝは、豈に有明の余徳、久しきを経て索きざるに非ずや、廷燕の記する所済勒弥種は、断じて明時の所謂吉列迷種なるべきにても、疑を容るべからざるなり。林蔵の時より延𤇍の時に至る、七十五六年を隔てたるに、此等の符合あれば、二人が暗し所の二碑の同一なること知るべし。

 庫葉島即ち碑中に所謂苦夷、我が所謂樺太に関しては、近藤守重が攷証精確なるを以てするも、猶ほ樺太とサガリンを以て、同一にあらずとし、薩哈連江即ち黒龍江の海に横はれる大洲あることは、清人の書によりて之を知れども、別に是れ一島にして、樺太の北部は満洲に連なる者と為せしが、林蔵が黒龍江の海口を目睹して、これより樺太に帰るに及で、始めて樺太の大陸に連らざることを知るを得たり。然るに大清一統志に所謂吉林寧古塔所属の大洲大清会典図説に所謂三姓城所属の海以外、混同江口の東に大洲ある者、水道提綱に所謂大長島は黒龍江口海中の大護沙たりといふ者、皆樺太たるに疑なく、地理全志に庫頁海峡は庫頁島吉林の間に在り、北路西峡は日本庫頁の間に在りといひたるにて、最も確徴すべければ、大陸の方面よりは、樺太の地理の詳悉せられしこと我邦に先てるは明らかに、近藤間宮諸人が、島夷が満人と交易せしことを記せるにても其の交通の情態は推知せられ、溯て明の初世已に苦夷、苦兀の記述あるを観ば、林蔵が此の海峡の発見者たる光輝は、頓に減ぜざるを得ず、然れども此れ已むを得ざるの事也。

 薩哈連即ちサガリンは、土語黒の義にして土人は黒龍江をサガリン江といひ、其の河口の島なるを以て、露人は之をサガリン島と命じたることは、近藤の説く所なり、庫葉、即ち庫頁の義に至りては今稍や髣、号すべき者を得たり。何秋濤云く唐書に記す、流鬼は南、莫曳部に隣すと、明には苦兀と称し、今庫葉と称す、皆莫曳の音転、吉里迷は元史に又帖烈滅に作る、故に此島今又額里野と名く又野所也に作ると、然らオープンアクセスNDLJP:62 ば吉利迷、庫葉も亦同音の転ぜる者なるに似たり。近藤は云く、魯西亜人アダム云くサバリン島周廻凡七百里ヤ里法支那の夷ケレヤスと云ふ者居るとは加藤某が紀聞に見えたりと、ケレヤスは盖し額里野の対者か、ケレヤス又転じて庫葉、庫頁と為るべし、是れ豈に島名の由て来る所なる歟。

(明治三十三年七月地理と歴史第一編第五号)

附記

此の論文は余が史学考証に関する最初の著作ともいふべきものにして、殆んど三十年前に成りしを以て、其の疎漏杜撰なること、今日に於て一読すれば、慚汗背に浹きを覚ゆ。特に当時単に碑文の写真を得て之を釈読せしのみにして、拓本を獲るに由なかりしを以て、碑文中にも更に読み得べき文字を遺漏せしものあり、故に今回の改版に当り、別に本書の末尾に覆考せる釈文を載することとしたり。但だ本論中碑文に関係なくして、而かも訂正せざるべからざる者は、左に其の数条を追記し、以て読者の教を請ふこととせり。

一、金史に愛新氏あることは、満洲源流考、金史国語解等、乾隆勅撰の書に拠りて説を成したるを以て、極めて不確実なり。

二、読史方興紀要に奴児干都司の事を略して記せざりしやういひしは、当時四川刻本を見たるのみにして、未だ原本を見ざりしが為なり。原本紀要には奴児干都司其他衛所の設置に関し、大明一統志等によりて詳細の記事あり。

三、重建永寧寺記を宣徳六年とせるは、碑文漫濾せるが為主として曹廷𤇍の西伯利東偏紀要に拠りたれども、其後精拓本を見れば宣徳八年癸丑とあり、此れ宜しく改むべき者なり。

四、碑文中の人名に帖木児等の字あるより、当時蒙古の遺摩、猶ほ満洲地方に存せしと考へしは全く誤りにして、当時元代の余威満洲地方に及べる結果、其の名族に蒙古名を称する者多きことを知らざりしなり。

五、碑陰の文を露文にあらずやと想像せしも、誤りなりき。拓本を検すれば、女真文、蒙古文なり。碑側の四体の文は漢、女真、西蔵、蒙古の各体文なり。

六、魯西亜人アダムがいへるケレヤスを庫葉、庫頁の対音とせるも確かならず、其のギリヤク種族なることは疑なきのみ。

七、奴児干の記録に見えたるは元経世大典序録を始とす。今元文類巻第四十一、招捕の条に遼陽鬼骨の子目あつて、至元十年征東招討使塔匣剌が呈せる文に、前以海勢風浪難渡、オープンアクセスNDLJP:63 征伐不到䚟因吉烈迷嵬骨等地、去年征行至弩児哥地、問得兀得哥人厭薛、称欲征嵬骨、必聚兵候冬月賽哥小海渡口結凍、氷上方可前去、先征䚟因、吉烈迷、方到嵬骨界云云とあり。弩児哥は奴児干にして、吉烈迷は殊域周咨録と同じく、明一統志の乞列迷、永寧寺碑の吉列迷なり。嵬骨は盖し苦兀の対音なるべく、䚟因はテレンに音近し。賽哥小海渡口とは、満洲と樺太間の海峡を指せる者なることを推定すべし。

(昭和三年十二月記)

 
 

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