医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くするために、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
津田の顔には苦笑の裡に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言を吐く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
津田は無言のまま帯を締め直して、椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒りっこないんですか」
「そんな事はありません」
医者は活溌にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経っても肉の上りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
津田は黙って点頭いた。彼の傍には南側の窓下に据えられた洋卓の上に一台の顕微鏡が載っていた。医者と懇意な彼は先刻診察所へ這入った時、物珍らしさに、それを覗かせて貰ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。
津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず眉を寄せた。
「私のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察た様子で分ります」
その時看護婦が津田の後に廻った患者の名前を室の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛がありありと記憶の舞台に上った。白いベッドの上に横えられた無残な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸り声が判然聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾り出すような恐ろしい力の圧迫と、圧された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇しい苦痛とが彼の記憶を襲った。
彼は不愉快になった。急に気を換えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
荒川堤へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛について、彼は全くの盲目漢であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
彼は思わず唇を固く結んで、あたかも自尊心を傷けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣に対して少しの注意も払わなかった。
彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て篏めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他から牽制を受けた覚がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
彼は電車を降りて考えながら宅の方へ歩いて行った。
角を曲って細い小路へ這入った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊い手を額の所へ翳すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚した。――御帰り遊ばせ」
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎかけた。それから心持腰を曲めて軽い会釈をした。
半ば細君の嬌態に応じようとした津田は半ば逡巡して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅の二階の庇に巣を食ってるんでしょう」
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖」
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後に跟いて沓脱から上った。
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢の前に坐るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入を手拭に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫になるから」
津田は仕方なしに手を出して手拭を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
津田は仕方なしにまた立ち上った。室を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
津田はこう云ったなり、後を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。
「厭ね、切るなんて、怖くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
細君は濃い恰好の好い眉を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭?」
津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。
細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉が一際引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌のない一重瞼であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常によく働らいた。或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中に端書を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
津田は自分の受けべき手術についてなお詳しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口へガーゼを詰めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰り上げて明日にしたところで、明後日にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁に右の肘を靠たせて、その中に掛けてある鉄瓶の葢を眺めた。朱銅の葢の下では湯の沸る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生からあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない」
入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空いてるもんだから、そこへ入いる事もできるようになってるんだ」
「綺麗?」
津田は苦笑した。
「自宅よりは少しあ綺麗かも知れない」
今度は細君が苦笑した。
寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊った自覚がぼんやり働らいていた。
彼が黙って間の襖を開けて次の室へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上った。
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標にそこから読みにかかった。けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠という気が自から起った。
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日までにもう二カ月以上も経っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物のように細君の前で罵っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽った。
しかし今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようと力めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多に実際の役に立った例のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯えておきたかった。他の注意を惹く粧飾としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気ながら見えて来た時、彼は彼の己惚に訊いて見た。
「そう旨くは行かないものかな」
彼は黙って煙草を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。
「おいお延」
彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
お延は檜扇模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」
「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」
津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心を唆かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側へ出て厠の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞ぐようにして訊いた。
「何か御用なの」
彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函の中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
御延は玄関の障子を開けて沓脱へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻飯を食う時に坐った座蒲団が、まだ火鉢の前に元の通り据えてある上に胡坐をかいた。そうしてそこに燦爛と取り乱された濃い友染模様の色を見守った。
すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着の荒い御召の縞柄を眺めながら独りごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
見栄の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要る間際になって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕いだので、だいぶ臨時費が嵩んだから今月は送れないって云うんだ」
彼は開いた手紙を、そのまま火鉢の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦の塀を一丁も拵えやしまいし」
津田の言葉に偽はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月息子夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達が要らない贅沢をして、むやみに御金をぱっぱっと遣うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯に変りはないかも知れないが、周囲はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
津田は平生からお延が自分の父を軽蔑する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
夫の手前老人に対する批評を憚かった細君の話頭は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒は開かないよ」
「でもほかに当がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は真ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
「厭よ、あたし」
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀みもなかった。遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のような衝撃を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし……」
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事がようやく津田の腑に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。買い被られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
津田は追窮もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳した。津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑た真似をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時が知ってるのよ。あの婢は宅にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜りを傷けるという意味において彼は躊躇した。
「まあよく考えて見よう」
彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上って行った。
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。しかし彼は下りがけ、向は上りがけだったので、擦れ違に叮嚀な御辞儀をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の室の戸を敲いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
津田は固より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった。跋の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後にしてくれたまえ。今少し差支えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
音のしないように戸を締めた津田はまた自分の机の前に帰った。
午後になってから彼は二返ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使に訊いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
毎日人の出入の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執った。
時間になった時、彼はほかの人よりも一足後れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
彼は時々こういう事実を背中に背負って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
厳めしい表玄関の戸はいつもの通り締まっていた。津田はその上半部に透し彫のように篏め込まれた厚い格子の中を何気なく覗いた。中には大きな花崗石の沓脱が静かに横たわっていた。それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電灯笠が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
津田の挨拶に軽い会釈をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅へいらっしゃらなくなったようね」
細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下の男であった。
「まだ嬉しいんでしょう」
津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳と少しになります」
「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」
吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯った。機嫌の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談とも真面目とも片のつかない或物が閃めく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥った。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘じって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間にかそこへ引き摺り込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなた方の御年歯を伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊き方をしておいて、わざとその後をおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好のする好い男になれるんだけれども」
津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下していた。細君は微笑した。
「嘘だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
津田の顔が急に堅くなった。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
細君は彼の顔を覗き込むようにして訊いた。彼は固よりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障ったら堪忍してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
細君はすぐ元の軽い調子を恢復した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成よ。本当に怜悧な方ね、あんな怜悧な方は滅多に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
その時二人の頭の上に下っている電灯がぱっと点いた。先刻取次に出た書生がそっと室の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉の色のだんだん濃くなって来るのを、最前から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬の一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。そうしてそれを相図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固より単簡であった。けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合せさえつけば」
彼女はさも無雑作な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかった。自分の態度なり所作なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打やされた刹那に受ける快感に近い或物であった。
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕にもっていた。彼はその自己をわざと押し蔵して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚りかかっていた。
彼が用事を済まして椅子を離れようとした時、細君は突然口を開いた。
「また子供のように泣いたり唸ったりしちゃいけませんよ。大きな体をして」
津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙の開閉が局部に応えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
細君の様子は本気なのか調戯うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠って躊躇した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
冷たそうに燦つく肌合の七宝製の花瓶、その花瓶の滑らかな表面に流れる華麗な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒い地の中に茶の唐草模様を浮かした重そうな窓掛、三隅に金箔を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟が、すでに明るい電灯の下を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
彼は無論この渦まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆を口に入れた人のように、咀嚼しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯うため?」
それは何とも云えなかった。彼女は元来他に調戯う事の好な女であった。そうして二人の間柄はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒を平気で跨ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負にし過ぎるため?」
それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった。
車内の片隅に席を取った彼は、窓を透してこのさむざむしい秋の夜の景色にちょっと眼を注いだ後、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕はそのままにしておいた金の工面をどうかしなければならない位地にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
そう思うと、自分が気を利かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞まる乞食を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉の温かい燄をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中にはほとんど入る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。
津田は同じ気分で自分の宅の門前まで歩いた。彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子の方がすうと開いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚したように、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた。
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた。日常瑣末の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀の光のように眺める事があった。小さいながら冴えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
咄嗟の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢の前には黒塗の足のついた膳の上に布巾を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据えてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
津田が一定の時刻に宅へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢い津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子で解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、妾あてるわ」
「そうか。偉いね」
津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面をしなければならないという屈託があった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方の胸に浮ばない彼を、なお焦つかせた。
彼は神田にいる妹の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹という名義の下に、毎月の不足を、京都にいる父から填補して貰う事になった一面には、盆暮の賞与で、その何分かを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重に書くのが得策だろうとも考えた。父母に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上って机の前に坐った。
西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆や万年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙などを、自分の伜から受け取る事は平生からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯を生やした細面の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
やがて彼は決心して立ち上った。襖を開けて、二階の上り口の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽に聞こえた。
「女のならあるわ」
津田はまた自分の前に粋な模様入の半切を拡げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
津田は真面目な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差した。
「時をちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
津田は生返事をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
お延はすぐ下へ降りた。やがて潜り戸が開いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草を吹かした。
彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方の悪口を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手に引き受けたような自信に充ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
彼が父の機嫌を損ないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認め出したのは、それから約十分後であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙い事につくづく愛想を尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちで要る期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函させた後、彼は黙って床の中へ潜り込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」
翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「昨日宅へ来たってね」
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子を口から吐き出した。それから内隠袋を探って莨入を取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸を擦った。あまり気を利かそうとして急いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章てて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
津田は礼を云って室を出ようとした。吉川は煙りの間から訊いた。
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰り合せをして貰う事にしてあります」
佐々木は彼の上役であった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だ」
吉川の言葉はよく彼の気性を現わしていた。
「都合がよければ明日からにしたまえ」
「へえ」
こう云われた津田は否応なしに明日から入院しなければならないような心持がした。
彼の身体が半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後から呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香が急に冒した。
「へえ、ありがとう、お蔭さまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂をしたがね。岡本も羨ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
津田は挨拶に窮した。向うの口の重宝なのに比べて、自分の口の不重宝さが荷になった。彼は手持無沙汰の気味で、緩く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
津田はこの子供に対するような、笑談とも訓戒とも見分のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃れ出た。
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭のいそうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路の中ほどにある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないその室は狭いばかりでなく実際暗かった。外部から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢の周囲を取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁に片手を翳したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体を横にして洋袴の膝頭を重ねたまま。
電鈴の鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥の後また申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
この陰気な一群の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦むようにして閉じ籠っているのである。
津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額にあてた。彼は黙祷を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。
他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性と愛という問題についてむずかしい議論をした。
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。
その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
すると診察所から紺セルの洋服を着た三十恰好の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋から紙入を出して金を払おうとする途端に、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知り越の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊いて下さい。明日か明後日手術を受けに来て好いかって」
奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い室の戸口に現わした。
「今ちょうど二階が空いておりますから、いつでも御都合の宜しい時にどうぞ」
津田は逃れるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿いて、擦硝子張の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点いた。
津田の宅へ帰ったのは、昨日よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚は疾くに傾いて、先刻まで往来にだけ残っていた肌寒の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今角の車屋の軒灯を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳け出して来た。
「何をしているんだ」
津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡に自分を牽きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭を例の通り彼女の手から受け取って火鉢の傍を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後ろ向になって、重ね箪笥の一番下の抽斗から、ネルを重ねた銘仙の褞袍を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧が好く利いていないかも知れないけども」
津田は煙に巻かれたような顔をして、黒八丈の襟のかかった荒い竪縞の褞袍を見守もった。それは自分の買った品でもなければ、拵えてくれと誂えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装をしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
彼が手術のため一週間ばかり家を空けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前の事であった。その上彼はその日から今日に至るまで、ついぞ針を持って裁物板の前に坐った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古よ。この冬着ようと思って、洗張をしたまま仕立てずにしまっといたの」
なるほど若い女の着る柄だけに、縞がただ荒いばかりでなく、色合もどっちかというとむしろ派出過ぎた。津田は袖を通したわが姿を、奴凧のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日か明後日やって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに随いて行っちゃいけないの。病院へ」
お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。
津田の明る朝眼を覚ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内はもう一片付かたづいた後のようにひっそり閑としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子を開けた彼は、そこの火鉢の傍にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
彼は云い訳らしい事をいって、暦の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指していた。
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾を除ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊いてくる」
「今すぐ?」
お延は吃驚して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁ほど右へ行った所にある自動電話へ馳けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口でも好い」
「何になさるの」
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を懐中へ放り込んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分後で、もう午に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら腋に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を遣わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床かと思ったけれども」
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持番の小さい彼の帽子が、被るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
彼は蟇口の悪口ばかり云えた義理でもなかった。
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶と、麺麭と牛酪を取り出した。
「おやおやこれ召しゃがるの。そんなら時を取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
やがて好い香のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
朝飯とも午飯とも片のつかない、極めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞に、ちょっと朝の内藤井の叔父の所まで行って来ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。
藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経めぐる不便と不利益とに痛く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父甥の域を通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄を説明するものであった。
津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間始終動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢なる人世の旅行者」
叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日までその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面の腮の下に、売卜者見たような疎髯を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路に倦み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費やした後、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らない間に、この閑静な古い都が、彼の父にとって隠栖の場所と定められると共に、終焉の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金が溜ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
しかし金の重みのいつまで経ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚のない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑されるだけで、いっこう得にはならないという事をよく承知しているからでもあった。
実際の世の中に立って、端的な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉を換えていうと、彼は迂濶の御蔭で奇警な事を云ったり為たりした。
彼の知識は豊富な代りに雑駁であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。
二十一[編集]
こういう人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆を走らす手を止めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵えて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
津田の宅からこの叔父の所へ行くには、半分道ほど川沿の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関の援に依らない方が、彼の勝手であった。
一時少し前に宅を出た津田は、ぶらぶら河縁を伝って終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所に充ちていた。向うの高みを蔽っている深い木立の色が、浮き出したように、くっきり見えた。
彼は道々今朝買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻き挘って、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊まっている一群の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
小肥りにふとったその男は双子木綿の羽織着物に角帯を締めて俎下駄を穿いていたが、頭には笠も帽子も被っていなかった。彼の後に取り残された一本の柳を盾に、彼は綿フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この空っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」
彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風な言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙さないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間に挟んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
津田は軽蔑に嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然後から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽い衝撃を受けた彼はほとんど反射作用のように後をふり向いた。そうしてそこにさも悪戯小僧らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章の着いた制帽と、半洋袴と、背中にしょった背嚢とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。
「今学校の帰りか」
「うん」
子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。
二十二[編集]
「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
自分が十ぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣いの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
彼は例の袋を片手でぐっと締扱いて、再び何か投げ込む真似を小器用にした後、麗々と第二の玉子を袋の底から取り出した。それでも飽き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない棉フラネルの縞柄を遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧に地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個でも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鶏を出そう」
津田は叔父の子供をふり返った。
「おい真事もう行こう。小父さんはこれからお前の宅へ行くんだよ」
真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃ嘘だよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を吐いていつまでも人を散らさないようにするんだよ」
「そうしてどうするの」
そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の袂を捉えた。
「小父さん何か買ってさ」
宅で強請られるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父さんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐きじゃないか」
「あいつは玉子は出すが鶏なんか出せやしないんだよ」
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事の足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。
「赤かったのを宅でお父さんが染めたんだよ」
津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄が、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないで拵らえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策を滑稽的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際を擽ぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。
二十三[編集]
「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多に穿けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」
「だってみんなが尨犬の皮だ尨犬の皮だって揶揄うんだもの」
藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみは微かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
津田はもし懐中が許すならば、真事のために、望み通りキッドの編上を買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算で自分の懐にある紙入の中を勘定して見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都から為替が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心も起った。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度宅へ来た時、小母さんに買ってお貰い。小父さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」
彼は賺すようにまた宥めるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方町並が生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概に場末ものとして馬鹿にできないような品が綺麗に飾り立てられていた。真事はその間を向う側へ馳け抜けて、朝鮮人の飴屋の前へ立つかと思うと、また此方側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立んだ。彼の馳け出す時には、隠袋の中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
彼は隠袋の中へ手をぐっと挿し込んで掌いっぱいにそのビー玉を載せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子玉が迸ばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章ててそれを追いかけた。そうして後を振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」
最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋へ引き摺り込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。
「雀ならいいが、むやみに人を狙っちゃいけないよ」
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅へ行って」
好い加減をいうとすぐ後から実行を逼られそうな様子なので、津田は生返事をしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端から批評し始めた。
「あの岡本って奴、そりゃ狡猾いんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」
話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中で比較した。
二十四[編集]
「御前近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
「ううん、行かない」
「また喧嘩したな」
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
真事の言葉には後がありそうだった。津田はそれが知りたかった。
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ御馳走するだろう」
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛かったよ」
ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが厭になった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
津田は小首を傾けた。叔父が子供を岡本へやりたがらない理由は何だろうと考えた。肌合の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終机に向って沈黙の間に活字的の気燄を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼は暗にその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少頑固にした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、他から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんに訊いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」
「僕訊いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
真事は少し羞恥んでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切を置くような重い口調で答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でも一さんの持ってるものをね、宅へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」
津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向は、彼らの子供が持つ玩具の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請んだな。みんな一さんの持ってるのを見て来たんだろう」
津田は揶揄い半分手を挙げて真事の背中を打とうとした。真事は跋の悪い真相を曝露された大人に近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
「嘘だよ。嘘だよ」
彼は先刻津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃を担いだままどんどん自分の宅の方へ逃げ出した。彼の隠袋の中にあるビー玉が数珠を劇しく揉むように鳴った。背嚢の中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
彼は曲り角の黒板塀の所でちょっと立ちどまって鼬のように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路のうちに隠した。津田がその小路を行き尽して突きあたりにある藤井の門を潜った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣の間から大事そうに彼を狙撃している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。
二十五[編集]
座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子の間から一足の客靴を覗いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側の方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻まで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿の樹の下を潜った津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出した。障子の篏入硝子に映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部から声を掛けた。
「叔母さん」
叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想というものがなかった。その代り時と場合によると世間並の遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんど性の感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他に与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ気狂だわ」
津田は縁側へ腰をかけた。叔母は上れとも云わないで、膝の上に載せた紅絹の片へ軽い火熨斗を当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たお金さんという女が津田にお辞儀をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団を縁側へ持って来ようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
気のなさそうな生返事をした叔母は、お金さんが生温るい番茶を形式的に津田の前へ注いで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘を吐かない人だから」
お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞じゃありません、本当の事です」
叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳を立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ丸を入れて打つと危険いから」
叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏を打つに違ないから。構わないから丸だけ取り上げて来て下さい」
お金さんはそれを好い機に茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢に挿し込んだ鏝をまた取り上げた。皺だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗に平たく延びて行くのを何気なく眺めていた津田の耳に、客間の話し声が途切れ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」
二十六[編集]
津田は客間にいる声の主を、坐ったまま突き留めようと力めて見た。やがて彼は軽く膝を拍った。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
叔母は嫣然ともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んで厭にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」
想像の眼で見るにはあまりに陳腐過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の異な服装もおのずと思い出された。白縮緬の襟のかかった襦袢の上へ薩摩絣を着て、茶の千筋の袴に透綾の羽織をはおったその拵えは、まるで傘屋の主人が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯の折でも懐に入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
津田は微笑しながら叔母に訊いた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い悪い事なんでね」
「へえ、小林にもそんな真面目な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後を引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「お金さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」
いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあ旨く行きそうなのさ」
叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯た空虚うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡で貰ったの」
叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当がつかなかった。
「そんな料簡って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける方の身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」
藤井は四年前長女を片づける時、仕度をしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談が纏まるとすれば、それは正に三人目の出費に違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向に多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。
二十七[編集]
こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事の穿きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼は懐都合で見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通を仰いで、彼らの経済に幾分の潤沢をつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替が届いてくれればいいという期待に縛られて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄さん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰ったの、お前さんは」
「まさか冗談に貰やしません。いくら僕だってそう浮ついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相だ」
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等があるもんだからね」
相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも退避ぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目なところもありますからね」
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあ止しましょう。今さら云ったって始まらない事だから」
叔母は先刻火熨斗をかけた紅絹の片を鄭寧に重ねて、濃い渋を引いた畳紙の中へしまい出した。それから何となく拍子抜けのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。
「由雄さんはいったい贅沢過ぎるよ」
学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終こう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」
「服装や食物ばかりじゃないのよ。心が派出で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走はないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」
「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」
「乞食じゃないけれども、自然真面目さが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」
この時津田の胸を掠めて、自分の従妹に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、その後夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
この二人の従妹のどっちも、貰おうとすれば容易く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云って疾ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄の葢を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。
二十八[編集]
奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語の読本を浚い始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切を置いて読み上げる小学二年生の頓狂な声を、例ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐ袂に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促がされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居を直して叔父に挨拶をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵えたじゃないか」
小林はホームスパンみたようなざらざらした地合の背広を着ていた。いつもと違ってその洋袴の折目がまだ少しも崩れていないので、誰の眼にも仕立卸しとしか見えなかった。彼は変り色の靴下を後へ隠すようにして、津田の前に坐り込んだ。
「へへ、冗談云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子の中に飾ってある三つ揃に括りつけてあった正札を見つけて、その価段通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
津田は叔母の手前重ねて悪口を云う勇気もなかった。黙って茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
今日まで病気という病気をした例のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩だらけの髯を撫でた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々むさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病は同源だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶い出すと、それが病気に罹らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽に感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います」
津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
この不論理な断案は、云い手が真面目なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
薄暗くなった室の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩った。
二十九[編集]
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
津田は明日の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻を据えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅へ行って詳しい話をするがね」
「しかし僕は明日から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通ったのを小林はよく知っていたのである。
彼の詳しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵えてくれた肉にも肴にも、日頃大好な茸飯にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟まるここいらの麺麭に内心辟易しながら、また贅沢だと云われるのが少し怖いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿を見送った。
お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子も今度の縁が纏まるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
叔父は苦のなさそうな返事をした。
「至極よさそうに思います」
小林の挨拶も気軽かった。黙っているのは津田と真事だけであった。
相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は利いた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
津田はこういって然るべき理窟が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
叔父は少し機嫌を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」
それでも座は白けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰き止められたように、誰も津田の言葉を受け継いで、順々に後へ送ってくれるものがなくなった。
小林は自分の前にある麦酒の洋盃を指して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊いた。
「真事さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
「苦いから僕厭だよ」
真事はすぐ跳ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機にははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
すぐ立って奥の四畳半へ馳け込んだ彼が、そこから新らしい玩具を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母も嬉しがっているわが子のために、一言の愛嬌を義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦らめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入ります」
「見て来たような事を云うな」
空気銃の御蔭で、みんながまた満遍なく口を利くようになった。結婚が再び彼らの話頭に上った。それは途切れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異った気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」
叔母の見て来た世の中を正直に纏めるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢な事を、我々風情が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目という疑念を塗り潰すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首を捻って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来ようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選り好みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
先刻から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。
三十一[編集]
「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母甥の対話とは思えないよ」
二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心をもって云い合ってるようだが、喧嘩でもしたのかい」
彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事を相手にビー珠を転がしていた小林が偸むようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来悪いかも知れないがね、叔母さんは嘘を吐いてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後と同じように真面目だったのさ」
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
そろそろ酔の廻った叔父は、火熱った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃を取り上げて麦酒をぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意があったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男に意なんぞあるもんですか」
津田も小林も吹き出した。独りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真中を大事そうに撫で廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって皆な笑うじゃないか」
この問答の途中へお金さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間の方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃ昔しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝が怖い顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
叔母は真事の立った後へ坐って、さっさと松茸飯を手盛にして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女を愛した覚がない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味い食麺麭をにちゃにちゃ噛んだ。
三十二[編集]
食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏めようと努力するもののないのに気が付いた。
餉台の上に両肱を突いた叔父が酔後の欠を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物を勝手へ運ばした。先刻から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
半日以上の暇を潰したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌な吉川夫人とその綺麗な応接間とを記憶の舞台に躍らした。つづいて近頃ようやく丸髷に結い出したお延の顔が眼の前に動いた。
彼は座を立とうとして小林を顧みた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇しよう」
小林はすぐ吸い残した敷島の袋を洋袴の隠袋へねじ込んだ。すると彼らの立ち際に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしている。宜しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑で困るだろうね、彼の女も。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後からつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
「芝居はどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
芝居場などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
叔父は笑うだけであった。
「兄貴は怒ってるんだろう」
「いったいお秀がまた余計な事を云ってやるからいけない」
津田は少し忌々しそうに妹の名前を口にした。
「お秀に咎はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺から送って貰った金を、きちんきちん返す奴があるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
津田はとても敵わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。
三十三[編集]
戸外には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬に冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套の肩を撫でた。その外套の裏側に滲み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧みた。
「日中は暖かだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
小林は新調の三つ揃の上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先を厚く四角に拵えたいかつい亜米利加型の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋まで新らしくしている男が、他の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横わる、不規則な物質的の凸凹を証拠立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊いた。
「なぜその背広といっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君と同なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
津田はすぐ口を閉じた。
二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝した竹藪が一面に生い被さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢は、季節相応な蕭索の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
津田はこういって当面の挨拶をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止めないと身体に障るからね」
自分に都合の好い理窟を勝手に拵らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶であった。彼は冷かし半分に訊いた。
「君が奢るのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
二人は黙って坂の下まで降りた。
三十四[編集]
順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直に行かなければならなかった。しかし体よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗き込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場めいた店の硝子戸が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の宅はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「冗談云うな。厭だよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調で追究した。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部へ現わした。
「じゃ飲もう」
二人はすぐ明るい硝子戸を引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅を択んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲へ向けた。
服装から見た彼らの相客中に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞の半纏の肩へ濡れ手拭を掛けたのだの、木綿物に角帯を締めて、わざとらしく平打の羽織の紐の真中へ擬物の翡翠を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛股引も一人交っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
小林は津田の猪口へ酒を注ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出な彼の背広が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
挨拶をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
津田は昂然として両者の差違を訊かなかった。それでも小林は少しも悄気ずに、ぐいぐい杯を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑しているね。同情に価しないものとして、始めから見くびっているんだ」
こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
出し抜けに呼びかけられた若者は倔強な頸筋を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」
三十五[編集]
インヴァネスを着た小作りな男が、半纏の角刈と入れ違に這入って来て、二人から少し隔った所に席を取った。廂を深くおろした鳥打を被ったまま、彼は一応ぐるりと四方を見廻した後で、懐へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他の客を、見ないようにして見始めた。その相間相間には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。
先刻から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
津田は元の通りの姿勢を崩さなかった。ほとんど返事に価しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵だぜ」
津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口を干した。小林はすぐそれへなみなみと注いだ。
「あの眼つきを見ろ」
薄笑いをした津田はようやく口を開いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然るべきだかよく考えて見ろ」
鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃で汚れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢ないんだ。馬鹿にするな」
小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追かけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜の小説を読んだろう」
露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に訊くと、先生はありゃ嘘だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って、感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
小林の言葉はだんだん逼って来た。しまいに彼は感慨に堪えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布の上に落した。
三十六[編集]
不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。
探偵として物色された男は、懐からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装をすると、汚ないと云って軽蔑するだろう。またたまに綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
そんな特別の理由を津田は固より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上訊いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々都落をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻から苦になっていた襟飾の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
長い間叔父の雑誌の編輯をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際厭だよ」
その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利いた。
「要するに僕なんぞは、生涯漂浪して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者になるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢だからさ。僕のは死ぬまで麺麭を追かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
小林は津田の言葉から何らの慰藉を受ける気色もなかった。
三十七[編集]
先刻から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓の上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口を一本出してそれに火を点けた。行きがけの駄賃らしいこの所作が、煙草の箱を受け取って袂へ入れる津田の眼を、皮肉に擽ぐったくした。
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜の往来は意外に更けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
彼の返事は少し曖昧であった。津田がそれを追究もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止したらいいじゃないか」
津田の言葉は誰にでも解り切った理窟なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。数歩の後、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋しいよ」
津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る相間相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
彼の語気は癇走っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯さえ若くって身体さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金さんの結婚する時困るだろう」
小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴をもったのが不仕合せだと思って、諦らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独り言のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套は君から貰う、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」
これがその晩小林の口から出た最後の台詞であった。二人はついに分れた。津田は後をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。
三十八[編集]
彼の門は例の通り締まっていた。彼は潜り戸へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開かなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい鐉の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立んだ。新らしい世帯を持ってから今日に至るまで、一度も外泊した覚のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
今日の彼は灯点し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろお延の面影を心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火を慕って、それを目標に足を運んだのと一般であった。彼の身体が土塀に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
彼は手を挙げて開かない潜り戸をとんとんと二つ敲いた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締めた」といって詰問するような音が、更け渡りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩る音が明らかに聞こえた。格子がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉ててない事はたしかであった。
「どなた?」
潜りのすぐ向う側まで来た足音が止まると、お延はまずこう云って誰何した。彼はなおの事急き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊ばせ」
ごとごと云わして鐉を外した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶が約束通り鳴っていた。長火鉢の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿の葢は傍へ取り除けられて、梨地の中に篏め込んだ小さな硯がつやつやと濡れていた。持主が急いで座を立った証拠に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚していた。
戸締りをして夫の後から入ってきたお延は寝巻の上へ平生着の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」
津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋しくってたまらなくなったから、とうとう宅へ手紙を書き出したの」
お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得ができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒だからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって現に締まっていたじゃないか」
「時が昨夕締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉を動かして見せた。日中用のない潜り戸の鐉を、朝外し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻寝かしてやったわ」
下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜り戸の事をそのままにして寝た。
三十九[編集]
あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜寝るまで全く予想していなかった不意の観物によって驚ろかされた。
彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟に盛粧したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩らした。
「今御眼覚?」
津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡をかけた大丸髷と、派出な刺繍をした半襟の模様と、それからその真中にある化粧後の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃えて、渋紙の上へ載せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
津田はまた改めて細君の服装を吟味するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟だからね」
彼はすぐ心の中でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾……」
津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装をして、あのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは、少し――」
「辟易?」
お延の漢語が突然津田を擽った。彼は笑い出した。ちょっと眉を動かしたお延はすぐ甘垂れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍してちょうだいよ、ね」
津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急き立てられでもするように世話しなく聞いた。
普通の食事を取らない彼の朝飯はほとんど五分とかからなかった。楊枝も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏めなくっちゃ」
津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後にある戸棚を開けた。
「ここに拵えてあるからちょっと見てちょうだい」
よそ行着を着た細君を労らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄と小さな風呂敷包を、自分の手で戸棚から引き摺り出した。包の中には試しに袖を通したばかりの例の褞袍と平絎の寝巻紐が這入っているだけであったが、鞄の中からは、楊枝だの歯磨粉だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折が挟んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの大部の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択ってちょうだい」
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰め込んだ。
天気が好いので幌を畳ました二人は、鞄と風呂敷包を、各自の俥の上に一つずつ乗せて家を出た。小路の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入に身仕舞をした若い女の口から出る刺戟性に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒を握ったまま、等しくお延の方へ好奇の視線を向けた。傍を通る往来の人さえ一瞥の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
彼女は自分の俥だけを元へ返した。中ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇しい速力でまた彼の待っている所まで馳けて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端には環があって、環の中には大小五六個の鍵が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥の上に置きっ放しにしたまま」
夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人揃って外出する時の用心に、大事なものに錠を卸しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手でぽんとその上を敲きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
俥は再び走け出した。
彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後れていた。しかし午までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作もなく笑いながら津田にお辞儀をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先を越して、「御厄介になります」とこっちから挨拶をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
津田は車夫から受取った鞄を看護婦に渡して、二階の上り口の方へ廻った。
「お延こっちだ」
控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗き込んでいたお延は、すぐ津田の後に随いて階子段を上った。
「大変陰気な室ね、あすこは」
南東の開いた二階は幸に明るかった。障子を開けて縁側へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干を見ながら、津田を顧みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚れているけれども」
もと請負師か何かの妾宅に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋な昔の面影が残っていた。
「古いけれども宅の二階よりましかも知れないね」
日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少燻ぶった天井だの床柱だのを見廻した。
四十一[編集]
そこへ先刻の看護婦が急須へ茶を淹れて持って来た。
「今仕度をしておりますから、少しの間どうぞ」
二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたし怖いわ、そんなものを見るのは」
お延は実際怖そうに眉を動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍まで来て、穢ないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
津田は真面目なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね」
津田は女に穢ないものを見せるのが嫌な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「お午までに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同なじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
お延は後を云わなかった。津田も訊かなかった。
看護婦がまた階子段の上へ顔を出した。
「支度ができましたからどうぞ」
津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手であった。
お延は中腰のまま答えた。
「でも後でまた何か云われると、あたしが困るわ」
強いてとめる理由も見出し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
お延は微かな声で階下を憚かるような笑い方をした。しかし彼女の露わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止すから」
こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。午までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
前後して階子段を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。
四十二[編集]
「リチネはお飲みでしたろうね」
医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。
「飲みましたが思ったほど効目がないようでした」
昨日の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的に零であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度浣腸しましょう」
浣腸の結果も充分でなかった。
津田はそれなり手術台に上って仰向に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷りとした。堅い括り枕に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸み見たのだという心持がなおのこと募った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
局部魔睡は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍い抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直です」
こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際が閃めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
切物の皿に当って鳴る音が時々した。鋏で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒い虫のようなものが、彼の身体を不安にするために、気味悪く血管の中を這い廻った。
彼は大きな眼を開いて天井を見た。その天井の上には綺麗に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後で、医者はまた云った。
「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下ろされた。
四十三[編集]
診察室を出るとき、後から随いて来た看護婦が彼に訊いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――蒼い顔でもしているかね」
自分自身に多少懸念のあった津田はこう云って訊き返さなければならなかった。
創口にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段を上る時には、割かれた肉とガーゼとが擦れ合ってざらざらするような心持がした。
お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
津田ははっきりした返事も与えずに室の中に這入った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹まれた蒲団が、彼の安臥を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍を後から着せるつもりで、両手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子抜けのした苦笑と共に、またそれを袖畳みにして床の裾の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
彼女は傍にいる看護婦の方を向いて訊いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支えないのでございます。お食事の方はただいま拵えてこちらから持って参ります」
看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
お延は躊躇した。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
時計の葢を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井の上で、時計と睨めっ競でもするように、手術の時間を計っていたのである。
津田は再び訊いた。
「今から宅へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
お延の返事はいつまで経っても捗々しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
念を押したお延はすぐ後を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上りますからって」
「そうか」
津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。病院へ随いて来るにしては派出過ぎる彼女の衣裳といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床の間の上に取り揃えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻鞄へ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
四十四[編集]
津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
不審よりも不平な顔をした彼が、向を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢ね」
津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究していいか見当がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが明暸に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。いったん閉て切った障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイ襯衣だのシーツだのが、先刻見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で独りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍に縛りつけておくのが少し可哀相になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂のないのに困った。お延も欄干に身を倚せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。
「どうもお待遠さま」
津田の膳には二個の鶏卵と一合のソップと麺麭がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
津田は床の上に腹這になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ肉匙の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に午飯を済ました。
四十五[編集]
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口劇場の名を云ったなり、すぐ俥に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
小路を出た護謨輪は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体が浮つきながら早く揺くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
車上の彼女は宅の事を考える暇がなかった。機嫌よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好を始めからもっていない彼女は、時間が後れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
俥は茶屋の前でとまった。挨拶をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯だの暖簾だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇を通り抜けて、急に明海へ出た人のように眼を覚ました。そうしてこの氛囲気の片隅に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣うように、後を向いて筋違に身体を延ばしながらお延に訊いた。
「見えて? 少しここと換ってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子は左利なので、左の手に軽い小さな象牙製の双眼鏡を持ったまま、その肱を、赤い布で裹んだ手摺の上に載せながら、後をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶かたがたお延に何か云うほどの智慧をもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻から姉妹の母親が傍目もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木の鳴るまでついに一言も口を利かなかった。
四十六[編集]
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻継と話してたの」
幕が引かれてから、始めてうち寛ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後を云い足した。
「あたしお母さまと賭をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤を引いて」
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙を平たく削った精巧の番号札が数通り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入を取り扱うような手つきで、短冊形の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入の折手本を繰りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重の裏をつけた更紗の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙入のままそれを机の上から取って帯の間に挟んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
お延は調戯半分彼女に訊いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤じゃないのよ。お神籤よりもっと偉い予言なの」
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、母子を見比べた。
「継はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被せるようにとめた。
「止してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」
今まで黙って三人の会話を聴いていた妹娘の百合子が、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを浚って上げないから」
母は隣りにいる人の注意を惹かないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳が訊きたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
百合子はわざと腮を前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
こう云いながら立つと、継子は後の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
年歯の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨く利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩していたので、お延の慫慂は何の効目もなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負わなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母しく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
お延は弱い感投詞をむしろ淋しそうに投げた。
四十七[編集]
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」
これがお延のとうから叔母にぶつかって、質して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届からでも出たように、傍から解釈されてはならないと日頃から掛念していた。すべての噂のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なして行けないのは、畢竟知恵がないからだ」
知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外せた。
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目の少し切れた間から誰かが見物の方を覗いた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦のように見えた。彼らの或者の派出な扮装が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
土間から眼を放したお延は、ついに谷を隔てた向う側を吟味し始めた。するとちょうどその時後をふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当へつけて、そこに容易く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻から知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ皆な知ってるのよ」
知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭だわ。あんなにして見られちゃ」
お延は隠れるように身を縮めた。それでも向側の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
お延はすぐ継子の後を追かけて廊下へ出た。
四十八[編集]
そこから見渡した外部の光景も場所柄だけに賑わっていた。裏へ貫を打って取り除しのできるように拵らえた透しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下の端に立って、半ば柱に身を靠たせたお延が、継子の姿を見出すまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指す人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」
後から覗き込むようにして訊いたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんど擦れ擦れになって、微笑み合った。
「今困ってるところなのよ。一さんが何かお土産を買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにく何にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」
疳違いをして、男の子の玩具を買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、止すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のある紋などを着けた花簪だの、紙入だの、手拭だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利いてやった。
「駄目よ、あの子は、拳銃とか木剣とか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんな粋な所にあろうはずがないわ」
売店の男は笑い出した。お延はそれを機に年下の女の手を取った。
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた後ほど」
こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端まで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱を盾に立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件であった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、圧されてへしゃげちまうわ」
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊かなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。
「こうやって真ともに向けるんだから、敵わないわね」
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそうおっしゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」
二人が声を出して笑い合っている傍に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫の紋を付けて、セルの行灯袴を穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶でもして通り過ぎるように、鄭重な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子は赧くなった。
「もう這入りましょうよ」
彼女はすぐお延を促がして内へ入った。
四十九[編集]
場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。
比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。
不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。彼らは穏和かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
席に戻った二人は愉快らしく四辺を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探してあげましょうか」
百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ぐらい肥ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗な友染模様の背中が隠れるほど、帯を高く背負った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘なめた。
「百合子さん」
妹は少しも応えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍に、お延が年相応の分別を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。澄ましていちゃ悪いわね」
実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。先刻双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗に願っていた。
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙ってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上がるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体の位置を変るのさえ臆劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後を向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」
一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄を穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
小声でさえ話をするものが周囲に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
お延は煩さそうに眉を動かした。面白半分調戯って見た岡本は少し真面目になった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」
お延の眼は急に舞台を離れた。
「理由っていったい何」
「今ここじゃ話し悪いがね。いずれ後で話すよ」
お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」
先刻まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部から」
二人の会話はそこで途切れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分経つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」
叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
男はまた戸をそっと閉てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。
五十一[編集]
彼女が叔父叔母の後に随いて、継子といっしょに、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹に小声で訊いて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
訊こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
鋭い一瞥の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。姿恰好は継子に立ち優っていても、服装や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑の意が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我の地位を易えて立って見たいぐらいな羨望の念が、著るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質のものであった。そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下を離れると共に、すぐ天真の姿を傷けられます。あなたは私よりも可哀相です」
二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。
五十二[編集]
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食み出している大々した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲らしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。しかし咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、ついに互を認め合わなかった。
夫人に投げかけた一瞥についで、お延はまたその傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻廊下で継子といっしょになって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人であるかを知らずにしまった。
席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。
「どうですかけたら」
吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先を越すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙い感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心らしい様子を、食卓越に眺めた時、ますます強固にされた。
継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、ほとんど苦痛に近い或物が見透された。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
ちょうど叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸を逃げ出した話でもするがいい」
吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他よりも自分の方が陳腐になってしまいました」
「あなたのような落ちついた方でも、少しは周章たでしょうね」
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三[編集]
三好を中心にした洋行談がひとしきり弾んだ。相間相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段取を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
お延は不意を打たれて退避ろいだ。津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気がついていた。またやり損なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。今日こそ夫人の機嫌を取り返してやろうという気込が一度に萎えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前の事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦……」
自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「普仏戦争時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様を案内して倫敦を連れて歩いて上げた覚があるんだから」
「じゃ巴理で籠城した組じゃないのね」
「冗談じゃない」
三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭いバスがまだ幅を利かしていた時代だよ」
その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹き起すらしく見えた。継子と三好を見較べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう」
叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊いた。叔母がそんな呑気な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前に逼って来たんだ。油断はできません」
継子が顔を赧くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
みんなが声を出して笑った。
五十四[編集]
彼らほど多人数でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布を放り出す訳に行かなかった。またそんな世話しない真似をする気もないらしかった。芝居を観に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧に答えた。
「ただ今開きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
叔父はすぐ皮付の鶏の股を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着しないらしかった。彼はすぐ叔父の後へついて、劇とは全く無関係な食物の挨拶をした。
「君は相変らず旨そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車へ乗った話をお聞きですか」
叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦の群衆の中で、大男の肩の上へ噛りついていたんだ。行列を見るためにね」
叔父はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造する事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈が高過ぎるもんだから、苦し紛れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
叔父の弁解はむしろ真面目であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人が大きいたって、どうも君じゃ辻褄が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小だからな」
知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑に落ちたらしい言葉遣いをして、なおその当人の猿という渾名を、一座を賑わせる滑稽の余音のごとく繰り返した。夫人は半ば好奇的で、半ば戒飭的な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同なじ事です」
こんな他愛もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前を取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹さえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望の漣漪が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後から暗に人馴れない継子を憐れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮の念が例もの通り起った。
五十五[編集]
彼らの席を立ったのは、男達の燻らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜った頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時だろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間を捉えた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後を自分で云い足した。
「先刻から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
この云訳をお延は腹の中で嘘らしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠のある推定であった。彼女は食堂へ這入って夫人に挨拶をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、恭しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然他に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞えていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘らしいという疑を抱くだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。お蔭さまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日」
「今日? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入りになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空いておるので、五六日そこへおいていただく事にしております」
夫人は医者の名前と住所とを訊いた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒るまでよく養生するように、そう云って下さい」
お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
五十六[編集]
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾も来なかった。ただ褞袍を着て横臥した寝巻姿の津田の面影が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那に、「いや疳違いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打をしたくなった。
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓で晩餐を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦い酒を醸す醗酵分子となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとても判然した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念を抱かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
芝居が了ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑した間際に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭から、ちょいちょい首を出した。
茶屋は幸にして異っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟に毛皮の付いた重そうな二重廻しを引掛けながら岡本がコートに袖を通しているお延を顧みた。
「今日は宅へ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要らないから」
「泊っていけったって、あなた、宅にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら止すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃で、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極」
先刻聞いた役者の言葉を、小さな声で後へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口の方へ歩いて行った。みんなもその後に随いて表へ出た。
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前宅へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にね。少し訊きたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日にでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
四人の車はこの英語を相図に走け出した。
五十七[編集]
津田の宅とほぼ同じ方角に当る岡本の住居は、少し道程が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪は、小路へ曲る例の角までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知らず調子を踏み外して、一人圏外にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅の玄関を上った。
下女は格子の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶さえいつものように快い音を立てなかった。今朝見たと何の変りもない室の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体を、長火鉢の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽させた。
お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母しかった。
「早く玄関を締めてお寝。潜りの鐉はあたしがかけて来たから」
下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継ぎ足した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸かした。しかし夜更に鳴る鉄瓶の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼ってくる孤独の感が、先刻帰った時よりもなお劇しく募って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋しみに比べると、遥かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食ついていなかった。二人の間に何だか挟まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱かずにすんだろうにという気ばかり強くした。
しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜書きかけた里へやる手紙の続を書こうと思って、筆を執りかけた彼女は、いつまで経っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟するので、彼女は焦らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。
五十八[編集]
彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時だか分らない朝の光で眼を覚ました。雨戸の隙間から差し込んで来るその光は、明らかに例もより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕の衣裳を見た。上着と下着と長襦袢と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩れているので、そこには上下裏表の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊りがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端を出した金糸入りの檜扇模様の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆れた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面を女徳の一つと心がけて来た自分の所作かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田に嫁いで以後、かつてこんな不体裁を夫に見せた覚のない彼女は、その夫が今自分と同じ室の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、例もの通り宅にいたならば、たといどんなに夜更しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑しない訳に行かなかった。
それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕の不首尾を償うためか、自分の知らない間に起きてくれたお時の足音が、先刻から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん弛んで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支えなかろうと考え直すようになった。彼女の関節が楽々しだした。彼女はいつにない暢びりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これも畢竟夫が留守のお蔭だと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫と寝起を共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒は無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕の自分を嘲けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。
彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗に片づけた。津田がいないので、だいぶ省ける手数を利用して、下女も煩わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に択ばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外れなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ易えて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口報告的に通じただけで、また宅へ帰った。
五十九[編集]
お時の御給仕で朝食兼帯の午の膳に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚えた。身体のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様がいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋しゅうございます」
お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜しゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応えた。彼女はすぐ黙ってしまった。
三十分ほど経って、お時の沓脱に揃えたよそゆきの下駄を穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧みた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
岡本の住居は藤井の家とほぼ同じ見当にあるので、途中までは例の川沿の電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日前の晩、酒場を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺れ合った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父の宅へ行くには是非共上らなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日は」
「どこへ行くの」
「お稽古」
去年女学校を卒業したこの従妹は、余暇に任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
彼らはこんな楽屋落の笑談をいうほど親しい間柄であった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心の当人には、いっこう諷刺としての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
彼女はただこう云って機嫌よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭よ」
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播したこの悪口は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを搗き交ぜたその人に対するいつもの感じが起った。
岡本の邸宅へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出した。羽織も着ずに、兵児帯をだらりと下げて、その結び目の所に、後へ廻した両手を重ねた彼は、傍で鍬を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
植木屋の横には、大きな通草の蔓が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。ちょっと好いだろう」
お延は網代組の竹垣の中程にあるその茅門を支えている釿なぐりの柱と丸太の桁を見較べた。
「へえ。あの袖垣の所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁をつけた目関垣を拵えたよ」
近頃身体に暇ができて、自分の意匠通り住居を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答っているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹が空いて」
「笑談じゃない、叔父さんはまだ午飯前なんだ」
お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻みんなといっしょに召上がれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一物に区切のあるという事をあなたは御承知ですか」
自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経たない、云わば新生活の門出にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据えられた膳に向って胡坐を掻きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
飯櫃があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭だからできないよ」
下女が皿の上に狐色に焦げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」
糖尿病の叔父は既定の分量以外に澱粉質を摂取する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生のままで供えられた。
むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
叔父は叔母を顧みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
六十一[編集]
小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
肥った身体に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利かずにいる癖がある代りに、他の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時もいられないといった気作な風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上極めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟けた諧謔趣味のために、一層派出な光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌のいい時に、彼を向うへ廻して軽口の吐き競をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要らない第二の天性のようなものであった。しかし津田に嫁いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初慎みのために控えた悪口は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺むいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔しの自由を憶い出させる或物があった。彼女は生豆腐を前に、胡坐を掻いている剽軽な彼の顔を、過去の記念のように懐かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込じゃないの。津田に教わった覚なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌み嫌う叔母の方を見た。傍から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標が外れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目くさってお訊きになるの」
「少しこっちにも料簡があるんだ、返答次第では」
「おお怖い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶いのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂らえ向かも知れないがね」
淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分の叔父の笑談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙があり過ぎた。と云って、その隙を飽くまで取り繕ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜まろうとしたところを、彼女は瞬きでごまかした。
「いくらお誂らえ向でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。
六十二[編集]
親身の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛がられているという信念を常にもっていた。洒落でありながら神経質に生れついた彼の気合をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分違わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注がれた。こんな時に、叔父なら嬉しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一叔父に話してしまえと命令した。その命令に背くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
こうして叔父夫婦を欺むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念もなく彼女のために騙されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体に見透した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密な、無頓着のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味い関を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要らないから」と親切に云ってくれた。
お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌を打ってくれた。……
叔父の前に坐ったお延は自分の後にあるこんな過去を憶い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談のうちに、何か真面目な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
六十三[編集]
感傷的の気分を笑に紛らした彼女は、その苦痛から逃れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日の事は全体どういう意味なの」
彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣いをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。藪から棒にそんな事訊いたって。ねえ叔母さん」
叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利いてるからっておっしゃるんだよ」
お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論朧気ながらある臆測があった。けれども強いられないのに、悧巧ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当はつくだろう」
どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
お延の推測を首肯う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住より悧巧だね」
こんな事で、二人の間に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評した。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞にあずかったって、あんまり嬉しくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋ぶりがまた描き出された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終継子さんと、それからあの三好さんて方を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事夥しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋を被った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得だよ。少くとも当世向だ」
「厭にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効に終った、昨夕の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉じゃないか」
ただ親類だからというのが唯一の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
叔父の目的中には、昨夕の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性がそこに現われているように思って、暗に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしその後から、吉川夫人と自分との間に横わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕の念も起って来た。
六十四[編集]
お延はその問題をそこへ放り出したまま、まだ自分の腑に落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味合だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値は充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物を胸に蔵い込んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利をして貰おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目な相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承わったのね。光栄の至りだ事」
こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑えた。
「あたしのようなものが眼利をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆なが訊きたがるんだよ」
「冷評しちゃ厭よ」
お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚びる一種の快感を味わった。それは自分が実際他にそう思われているらしいという把捉から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違の痕迹で、すでにそこここ汚れていた。畢竟夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の云い草だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
叔母はいつものようにお延に加勢しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強いる気色を見せない代りに、叔父の悪強いもとめなかった。始めて嫁にやる可愛い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打は充分あるといった風も見えた。お延は当り障りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
その後を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊いた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあの方の一軒置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言で、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦り減らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚だけよ」
六十五[編集]
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦しそうな津田と自分とを、彼は始終不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳するために、彼の心に下層にいつも沈澱しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃く聴こうとするのだろう」
お延は解しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗に叔父から目指されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様の感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまり苛めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
叔母の態度は、叔父を窘めるよりもむしろお延を庇護う方に傾いていた。しかしそれを嬉しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
お延は自分で自分の夫を択んだ当時の事を憶い起さない訳に行かなかった。津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚はいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
「肝心の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理がすぐ彼女の頭に閃めいた。「自分の結婚だって畢竟は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかく継が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれは厭だというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮った。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
お延は初めて叔父に強いられる意味を理解した。
六十六[編集]
お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基く牽引性以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真に受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇の心から、柔軟性に富んだこの従妹を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり終せるだけの活きた眼力を自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、羨みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の燄のごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食み出している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫も変らなかった。彼女は飽くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜していた。
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛いよりもむしろ快よくなかった。それは皆んなが寄ってたかって、今まで糊塗して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩きつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾して、自分に当擦りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
膳を引かせて、叔母の新らしく淹れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交み入った蟠まりが蜿蜒っていようと思うはずがなかった。造りたての平庭を見渡しながら、晴々した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹や石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開いてるようでおかしいからね」
お延は何の気なしに叔父の指している見当を見た。隣家と地続きになっている塀際の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪をこんもり繁らした根の辺が、叔父のいう通り疎らに隙いていた。先刻から問題を変えよう変えようと思って、暗に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利かした。
「本当ね。あすこを塞がないと、さもさも藪を拵えましたって云うようで変ね」
談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。
六十七[編集]
それは叔父が先刻玄関先で鍬を動かしていた出入の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外した後、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
まだ学校から帰らない百合子や一の噂に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑り込みつつあった。
「慾張屋さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
叔母はわざわざ百合子の命けた渾名で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽くまで放恣なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠の中で、さも愉快らしく囀る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古に行ったの」
叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝らしい顔をしてなるほどと首肯かなければならなかった。
夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦するには相違なかった。しかし怜悧に研ぎ澄すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭でそれを今日に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
従妹のどこにも不平らしい素振さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。強いて解釈しようとすれば、彼らは姪と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然口惜しくなった。そういう考えがまた時々発作のようにお延の胸を掴んだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎のように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性でないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と継とは……」
中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
お延の頭に石火のようなこの暗示が閃めいた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女はついに自分を抑えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも……」
叔父が縁側へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。
六十八[編集]
すると今まで抑えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。飽くまで機嫌の好い、飽くまで元気に充ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟した。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
彼女は藪から棒にこう云わなければならなかった。今日まで二人の間に何百遍となく取り換わされたこの常套な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻からお延の腹の中にどんな潮の満干があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草を雁首へ詰めた。
「おれの留守にまた叔母さんから何か聴いたな」
お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌のミツへ挟んでいるか、または胴巻へ入れて臍の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」
叔父の笑談はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉と睫毛をいっしょに動かした。その睫毛の先には知らない間に涙がいっぱい溜った。勝手を違えた叔父の悪口もぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」
こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管で灰吹を叩いた。叔母も何とかその場を取り繕ろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
叔母の小言は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶とばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女の唇が顫えた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰きとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしを苛めなくったって……」
叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。賞めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆な蔭で感心しているんだ。だから……」
「そんな事承わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯い方が悪かったのかい」
「いいえ。皆んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊くんだ」
「だから皆なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
お延はなお泣き出した。叔母は苦々しい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
お延は唇を噛んで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」
ようやく発作の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。
六十九[編集]
ところへ何にも知らない継子が、語学の稽古から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶を返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻から待ってたのよ」
「いや大変なお待兼だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
しかし下女が襖越に手を突いて、風呂の沸いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
叔母は婉曲に自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧みない叔母の態度は、お延にとって羨ましいものであった。また忌わしいものであった。女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯した。
立って行く叔母の後姿を彼女がぼんやり目送していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。
継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。硝子戸を篏めた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇の花を刺繍にした籃入のピンクッションもそのままであった。二人してお対に三越から買って来た唐草模様の染付の一輪挿もそのままであった。
四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかな燄に変化した自己の感情の前に抃舞したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧みるとその時からもう半年以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極めて現実化され悪いものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて貰いたい様子がありありと見えた。お延は従妹を喜こばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭であった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
神籤に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶い起させる良い媒介であった。弱いものの虚を衝くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌にした。抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚りなく出して、遊技的な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱の前に飾ってある大事な一輪挿を引っ繰り返した。紫檀の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所嫌わず打ち空けながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放り出された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。
七十一[編集]
偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾を取っていらっしゃい」
「厭よ。あなたが零したんだから、あなた取っていらっしゃい」
二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン拳よ」と云い出したお延は、繊い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
「狡猾いわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
しまいにお延が負けた時には零れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗に吸い込まれていた。彼女は落ちつき払って袂から出した手巾で、濡れた所を上から抑えつけた。
「雑巾なんか要りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
彼女は転がった花瓶を元の位置に直して、摧けかかった花を鄭寧にその中へ挿し込んだ。そうして今までの頓興をまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
発作が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入の神籤を取り出して、傍にある本箱の抽斗へしまい易えた。しかもその上からぴちんと錠を下して、わざとお延の方を見た。
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹より早く醒めてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
彼女はこう云って継子を見返した。当り障りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼ての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
二人は年齢が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様を亡くなして、未亡人になるとか」
継子は少し怪訝な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
お延は口籠った。継子は彼女に返答を拵える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵わないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」
七十二[編集]
だんだん勾配の急になって来た会話は、いつの間にか継子の結婚問題に滑り込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女関係に一日の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差し障りのない際どい筋の上を婉曲に渡って歩いた。
「そりゃ駄目よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
お延は答える前にしばらく間をおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目って云うじゃありませんか。傍にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改った態度で口を利き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
お延はそこで句切をおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継ぎ足した。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆れたようにお延の顔を見た。「昨夕お目にかかったあの方の事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
平生包み蔵しているお延の利かない気性が、しだいに鋒鋩を露わして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつ後へ退った。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微かな溜息さえ吐いた。するとお延が忽然また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘なんか吐いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
こう云って絶対に継子を首肯わせた彼女は、後からまた独り言のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。
七十三[編集]
その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主ががらりと室の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶した。
彼女の机を据えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後へ入る事のできた彼女は、従姉のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開きそうになった黒い靴足袋の親指の先を、手で撫でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃えて笑った。そうして袴も脱がずに、火鉢の傍へ来てその間に坐りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子を食べ出した。
「今頃お八ツ? このお皿を見ると思い出すのね」
お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。旨そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫だし、そうかって宅に何かあっても、昔しのように旨しくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
二人が話しているうちに、百合子は綺麗に木皿を空にした。そうして木に竹を接いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
薄赤くなった継子は急に妹の方へかかって行った。百合子は頓興な声を出してすぐそこを飛び退いた。
「おお大変大変」
入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で室を逃げ出して行った。
七十四[編集]
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間もなくであった。
一家のものは明るい室に晴々した顔を揃えた。先刻何かに拗ねて縁の下へ這入ったなり容易に出て来なかったという一さえ、機嫌よく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食いついたという話を聞いたのであった。
お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星が出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
一はそれで納得して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落こちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨であった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍のものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう旨くは行かないよ」
女連が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕この宅が軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら潰れるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻藤井を晩餐に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊いて見たくなった。
「一さん藤井の真事さんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑わった。
みんなを笑わせた真事の逸話の中に、下のようなのがあった。
ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗き込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢を背負って、尨犬の皮で拵えたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖くなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置き去りにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧のようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
七十五[編集]
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味に適う模細工で毎日埋めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
これらの原因が困絡がって、叔父は時々藤井の宅へ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭がる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。底まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他をごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟を弄んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊いた。
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あら厭だ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
お延と叔母はこもごも呆れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
親身の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目になった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ」
お延の興味は急に退きかけた。叔父の云う事は、自分の疾うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合っていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟よ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟よ」
お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭であった。
七十六[編集]
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪くなる。今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
叔父の言葉のどこまでが藤井の受売で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目で、どこからが笑談なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵いっこないからお止しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね」
お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切れるのを待って、徐ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜しい。敗けたものを追窮はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐れむという美点があるんだからな、こう見えても」
彼はさも勝利者らしい顔を粧って立ち上がった。障子を開けて室の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾い読にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽なもんだ。洒落だとか、謎だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝らなくってね」
「なるほど叔父さん向のものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
お延が礼を云って書物を膝の上に置くと、叔父はまた片々の手に持った小さい紙片を彼女の前に出した。
「これは先刻お前を泣かした賠償金だ。約束だからついでに持っておいで」
お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒する妙薬だ」
お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜った。
七十七[編集]
お延は叔父の送らせるという俥を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
肥っていて呼息が短いので、坂を上るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
二人は途々夜の更けた昨夕の話をした。仮寝をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今度は繰り返させたくないという主意からであった。
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩しい影像を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切した態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来やしなかったろうね」
するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套を取りにいらっしゃいました」
夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作のように込み上げてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。
七十八[編集]
お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛てて手紙を書いた。一昨日も昨日も書きかけて止めにしたその音信を、今日は是非とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
彼女は落ちつけなかった。不安から逃れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻からの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏めて見る事ができそうに思えたのである。
筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶から始めて、無沙汰の申し訳までを器械的に書き了った後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的におかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家の父母に知らせなくってはすまない事項であった。それを差し措いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母に報知する必要に逼られてはいなかった。けれどもある男に嫁いだ一個の妻として、それを見極めておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、確としたところは手に掴めなかった。
手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根に辿りついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日解決ができなければ、明日解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
これが彼女の論法であった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
彼女の気分は少し軽くなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母の喜こびそうな津田と自分の現況を憚りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣が、それからそれへと描出された。感激に充ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
しまいに筆を擱いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕っただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘や、気休や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾を吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方を欺むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目です。その人こそ嘘吐です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」
お延は封書を枕元へ置いて寝た。
七十九[編集]
始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙の唐本を持って、彼女は五六町隔った津田の宅まで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然を慰めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立が立ててあった。白い紙の上に躍っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家へ来ていた由雄であった。
二人は固よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
由雄はその時お延から帙入の唐本を受取って、なぜだか、明詩別裁という厳めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作に違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父宛の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹いた。彼の遣口は不作法であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用の書物を探しに奥へ這入った。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空しく引きとめておいた詫を述べた。指定の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日にでも取りに来るからと約束して宅へ帰った。
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には堪えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩という四文字を的に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方に牽きつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はその疑を拭い去るために、その事実を引ッ繰り返さなければならなかった。
強い意志がお延の身体全体に充ち渡った。朝になって眼を覚ました時の彼女には、怯懦ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳ね退けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒の刺戟と共に、締まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
彼女は自分の手で雨戸を手繰った。戸外の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉しかった。怠けて寝過した昨日の償い、それも満足の一つであった。
彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。そうして結ってから四日目になる髪を解いた。油で汚れた所へ二三度櫛を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂に束ね上げた。それが済んでから始めて下女を起した。
食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
お延の言葉遣は平生より鄭寧で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷を外して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚のあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物にされたような変な結果に陥るからであった。ふとした拍子からそんな気下味い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨を言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好しだしね」
お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後をつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」
「そんな事はございません」
お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
お時は呆れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。
八十一[編集]
袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさを噛み殺そうとして、お延の前で悶え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見の前に立ち竦んだ彼女は当惑の眉を寄せた。仕方がないので、今出がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引を取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間が逼っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支えないものと独りで合点しているらしかった。
彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に跟けられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指されているのだろうという説明までして聴かせた。
彼の談話には気の弱い女に衝撃を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途がなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕お延とお時をさんざ笑わせた外套の件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
お延はすぐ入用の品を箪笥の底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性をよく知っていた。着古した外套一つが本で、他日細君の手落呼わりなどをされた日には耐らないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違ないんだから。嘘なんか吐きやしませんよ」
出してやらないと小林を嘘吐としてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気は確なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ駈けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。ところがその談話は突然な閃めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。
八十二[編集]
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当らず障らずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
小林の云い方があまり大袈裟なので、お延はかえって相手を冷評し返してやりたくなった。しかし彼女の気位がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛にここかしこを駈け回る代りに、時としては不作法なくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力には敵いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
お延は細い眼のうちに、賢こそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番捷径じゃありませんか」
小林は頭を掻く真似をした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人の道行をお延に想い起させた。そうした濃厚な恋愛を象どる艶めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
「駈落をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴れていらっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
小林はこう云ったなり畏まった。その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目であった。しばらく間をおいてから独り言のような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥った。
八十三[編集]
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
お延は巧みに相手を岐路に誘い込んだ。
「あなた先刻おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯われる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚ける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩さい顔もしなかった。愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
お延はさも軽蔑した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥めるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯って行った。
八十四[編集]
自分のまだ知らない夫の領分に這入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心のところはわざと略してしまった。例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深しをしていたかの点になると、彼は故意に暈しさって、全く語らないという風を示した。それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥しているのではなかろうかという気さえ起した。
お延は平生から小林を軽く見ていた。半ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑の裏には、まだ他に向って公言しない大きな因子があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴を零して、厭がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物であった。ことにそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本の宅へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分を弁えていた。身分には段等があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体を吐くものにはけっして会った事がなかった。
お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか」
軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持上げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠にか、またはそれに全くの無頓着でか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉ませて、歇斯的里でも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」
お延は後を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児になる気遣はないから大丈夫です」
小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹れ代えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮ぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。しゃべって潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰しにゃ、同なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」
お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても宜しいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」
八十五[編集]
小林の顔には皮肉の渦が漲った。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。
「何という陋劣な男だろう」
お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっ競をしていた。すると小林の方からまた口を利き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫も変らないのです。これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
小林の眼は据わっていた。お延は何という事もできなかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な讐討ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当て篏って、毫も悖らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
「吃驚りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」
小林は多少溜飲の下りたような顔をした。
「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
小林はまた大きな声を出して笑った。
八十六[編集]
お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目さが疑がわれた。反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯したいろいろなものはけっして一点に纏まる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊いた。
「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望かも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から憎悪の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳子の裏に宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡から敵打をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
小林の筋の運び方は、少し困絡かり過ぎていた。お延は彼の論理の間隙を突くだけに頭が錬れていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴むだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負わないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括ったように落ちついている小林の態度がまた癪に障った。そこへ先刻から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠まりは、一定した様式の下に表現される機会の来な